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<title>魔術師ルタナクシュの手記</title>
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<description>魔術師ルタナクシュの手記は不定期に更新される魔術的考証の記録である。</description>
<language>ja</language>
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<title>生と死と</title>
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<![CDATA[ 友人に紹介されてサウンドホライズンという音楽集団のCDを聴いているのだが、なかなかに興味深いものだな。<br><br>借りたのは最近出たばかりの「Moira」というアルバムだが、ギリシャ神話世界をモチーフにしたオペラ仕立てになっている。<br><br>作品中に出てくるキーワードは「運命」「白い糸」「タナトス」<br>他にもあるが、この３つは繰り返し出てくる。<br><br>音楽的にも多重フーガ的に主題がいくつも提示され、それぞれの主題が転調を繰り返し、融合し、結合しつつ、繰り返される。<br><br><br>さて、キーワードだが、”運命の3女神”がひとまとめで「Moira」と呼ばれることから、このアルバムはこの女神を題材に扱ったものだと推測される。<br><br>1曲目「冥王」だが、女性の２声と男性の１声によって構成される。<br>男性１声がタナトスを匂わせる歌詞回しだが、よく見るとこの３声ひとまとめで”タナトス”であることが分かる。<br>アルバム全体を通して３つのキーワードは繰り返し語られるのだが、ギリシャ神話の”運命の３女神”と絡めて考えると、３つのキーワードがすべてイコールで結ばれることになる。<br><br>Moira＝運命＝白い糸＝タナトス<br><br>この考察はなかなかに興味深い。<br>タナトスとはいわゆる「死」である。<br>そしてタナトスと対になるのが「エロス（生）」となる。<br><br>そしてアルバムの中盤で「生とは失うもの」との歌詞がある。<br>言葉の意味のままと解釈するのもいいが、深読みすればエロス＝タナトスの宣言であるとも捉えることが出来る。<br>魔術的見地からも生と死は不可分にして同一のものであり、合わせ鏡の表と裏であり、それは同一の存在ととらえることが多い。<br>生は死の始まりであり、死は生へ続く過程であるのだ。<br><br>他にもなかなか興味深い言及があるので、しばらくこのアルバムを聞き込んでみよう。<br>作詞者は同類かもしれぬからな。<br><br><br><a href="http://www.soundhorizon.com/" target="_blank">サウンドホライズン公式</a><br>
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<link>https://ameblo.jp/rutanakusyu/entry-10143751656.html</link>
<pubDate>Thu, 25 Sep 2008 21:09:01 +0900</pubDate>
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<title>夢</title>
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<![CDATA[ 夢は扉<br><br>夢は井戸<br><br>夢は鏡<br><br><br><br>夢を見るというのは何も特別なことではない。<br>我々は日々眠るときに夢を見るし、起きている時は別な意味で夢を見る。<br><br>眠るときの夢は記憶の整理の意味としての他に、本来必要な活力をくみ上げるという役割を持つ。<br>寝ている間に見る夢は無意識の海へと直結した状態だ。<br>この無意識の海は生命の本質へと繋がっている。<br>つまり「生と死」そのものへ繋がっていると言える。<br>DNAに記録された生命発生から死までのプロセスが展開された場への通路とも言える。<br><br>魔術的に大事なのはこの夢で見た記憶ではなく、断片的に出てくるある種の「シンボル」だ。<br>このシンボルに気付くのはなかなか難しいが、気付き、記憶し、夢から持ち帰ることが出来れば我々が無意識のうちに利用しているある種の「ちから」を意識的に用いることが出来る。<br>魔術的シンボルである「五紡星形」「六紡星系」「陰陽印」などは基本的、根本的なシンボルである。<br>簡単な印であるだけに、印を用いた場合の効果もそれこそ無意識に働きかけ傾向となる確率を増幅するといった効果しかないが、それでだけに長期的、持続的に有用である。<br>より複雑な印となると、持ち帰るのも困難になるが、効果はより強力に限定的になる。<br>たとえるなら、水の入ったタンクの底に繋いだホースの関係である。<br>無意識がタンク、印がホースである。<br>印が単純であればホースの口は大きくなる。<br>印が複雑になるほどホースの口は小さく細くなる。<br>ただし、タンクとホースの間には制水弁が付いているので一度にホースに流れ込む水は一定になる。<br>ホースの口が広ければ弁を通して出てくる水の勢いは弱くなる。<br>逆に細ければ水の勢いは増す。<br>印が複雑に強力になるほど、その使用方法は限定されるし、パワーは強くなる。<br>では、弁を開けるにはどうするか？<br>これこそが魔術師の修行に他ならない。<br>魔術師としての力量が上がれば無意識の貯水池からホースに流し込むための弁を開けることが出来る。<br>同じ印というホースを使った場合でも効果に差が出てくるのは当たり前といえば当たり前だろう。<br>
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<link>https://ameblo.jp/rutanakusyu/entry-10140300070.html</link>
<pubDate>Wed, 17 Sep 2008 10:13:26 +0900</pubDate>
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<title>悪魔とは</title>
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<![CDATA[ それを理解しようとしてはいけない<br><br>その行為自体があなたにとって致命傷となりえるのだから<br><br>いわゆる「悪魔」をどのように捉えているだろうか？<br><br>聖書に出てくる悪者？<br><br>悪意の塊？<br><br>異界の住人？<br><br><br>どれもが正解ではあるが、間違いでもある。<br><br>「悪魔」とは人間が理解できない人間に害意を持つ現象の総称だ。<br><br>古来、人間は理解できないことがあると名前を付けて姿を想像し、自分の理解できる範囲に囲い込もうと努力してきた。<br><br>神も悪魔も妖怪も、そういった説明装置として機能してきた。<br>ただ、悪魔という語句は人間に害をもたらす現象につけられた”名前”であり”概念”だ。<br>そういった概念に対して対立してきた宗教の神や妖精や英雄の名前を意図的に付けて迫害してきたのがキリスト教拡大期の手法である。<br>「名前」というものは大事でる。<br>「名前」によって認識し、想像し、肯定する。<br>「名前」を持つことでそれまで現象だったものはその存在を確立させる。<br>”観測者が居ることで存在する”という事態が成立するのである。<br>やがて確立した存在は与えられた名前とイメージによって本来の事象から変質してゆく。<br>人間と悪魔にはそういった相互干渉的な関係がある。これは神や妖怪にもいえることだが。<br><br>はたして名前と形を得た悪魔は再定義されるまで、その姿のままで暴れ狂い人間に害をなす。<br><br>時代は科学全盛期に移り、悪魔はそれぞれ新たな名を獲得した。<br>科学によって事象が解明されればその名とイメージによってさらに変質するのだ。<br><br>かくして、病原菌となり、自然現象になった悪魔たちは現在も生きている。<br><br>ただし、現在でも悪魔たちは生き残っている。<br>「癌」が何かを知らずにイメージだけで捉えているもの。<br>情報が多様になっただけ、その本質は変質し歪み、新たな形を獲得する。<br><br>都市伝説などはこうした悪魔たちの新しい姿なのかもしれない。<br>
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<link>https://ameblo.jp/rutanakusyu/entry-10138337106.html</link>
<pubDate>Fri, 12 Sep 2008 12:31:46 +0900</pubDate>
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<title>悪いことのススメ</title>
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<![CDATA[ <font size="5">世間は不善で満ちている<br><br>不善に対抗しようとするなら<br><br>自らを”悪”とするほかない</font><br><br><br><br>善の反語は悪ではない。”不善”であるということに気付いている人はどれだけ居るのだろう？<br><br>”悪”とはそれだけで独立した意味を持つ言葉である。<br><br>古来では「力の強いもの」の意味を持つこと言葉は世の中とのかかわりを持つ上で非常に重要である。<br><br><br>この世界は大多数の「意見無き民衆」によって構成されているが、その意思は世界に反映されている。<br>その意思は時代によって変わっているが、現状では利己主義が根を張っていることは明らかだ。<br>民主主義という言葉は利己主義の隠れ蓑である。<br>利己主義から資本主義は発し、民主主義を唱えることであたかもそれが自然で普遍的な事柄であるように思わされているが、それは教育という名の洗脳とメディアの洗脳の両輪によって行われている。<br><br>古来より、教育をないがしろにする国は滅ぶ。<br>産業としての側面もそうだが、国民を基本的なコントロールに置くために教育は存在するのだ。<br>メディアも同じこと、教育段階を終えた国民を洗脳するためにメディアは存在する。<br><br>インターネットの普及によって、この構造は崩壊しつつあるが、現在記事を書いている人間も洗脳を受けているという事実は無視できないことだろう。<br><br>これらに対抗するには自分を”悪”と認識する必要がある。<br>認識とは結局のところ”心構え”であり”自己分析”でもある。<br><br>権力が世界を作り、操作しているなら、それに対抗するには悪を行う必要がある。<br><br>間違わないで欲しいのはいわゆる”悪事”を行う話ではないことだ。<br>万引きしたところで、他人の生活を脅かすだけだろう。自分自身の品性を落とすことでもある。<br>殺人などは他者を害し、自分も害するだけである。意味は無い。<br><br><br>まずは全てを疑う目を育て、真実を見る目を育てるのが先だ。<br><br>そのうえで自らを”悪”とし、世間の不義と戦うのなら、自然と義となることだろう。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/rutanakusyu/entry-10136946350.html</link>
<pubDate>Mon, 08 Sep 2008 20:55:53 +0900</pubDate>
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<title>愛は地球を救わない</title>
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<![CDATA[ ”愛”を語るものは自らの”愛”を証明する必要がある<br>なぜならその”愛”がどこを向いているかが問題だからだ<br><br><br>「地球を救わなくては」などという言葉が世間に氾濫している。<br><br>ひとつ問おう「それはなぜ？」と。<br><br><br>地球温暖化、飢餓、生態系の破壊、オゾン層の破壊<br><br>さまざまな理由が挙げられるだろうが、それは地球にとって必要かははなはだ疑問だ。<br><br>地球という天体にとって、気温の乱高下、生命の絶滅などは日常茶飯事だ。<br>たかだかここ２０００年の変化など、たいした変化でもないであろうことはある程度勉強した人間なら分かりきったことだろう。<br><br><br>現状の正確な認識なくしては解決法の策定など出来ないのだ。<br><br>ではなぜ、これほどヒステリックに叫ぶ必要があるのだろう？<br><br><br>この思考法を進めることは、魔術を実践するに当たっても必要である。<br><br><br>なぜなら、大概の魔術に関する記述は個人の思想と誤解と歪曲したイメージが氾濫した錯乱状態になっていることが多いからだ。<br>魔術師はその錯乱した状態からその裏にある真実を探り出し、手法を見つけ、実践しなければならない。<br><br>ひとつ考えてみればいい。<br><br>「愛は地球を救う」と唱える人々を。<br>その裏側にどんな意図があるのかを。<br><br>人間は個人では良い人など、それこそ掃いて捨てるほど居るのだが、こと、集団になった場合、悪意を悪意と意識せずに行う動物である。<br>集団にまぎれた場合、個人の良識などは無視され、集団としての善悪が優先される。<br><br>さて、誰が得をするのか？<br><br>魔術師として、人間として、考えてみるのもいい訓練になるだろう。<br>
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<link>https://ameblo.jp/rutanakusyu/entry-10135313935.html</link>
<pubDate>Thu, 04 Sep 2008 13:05:39 +0900</pubDate>
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<title>体内物質によって人の行動は左右されるか？</title>
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<![CDATA[ パターン化という作業はあるが、生物はパターンからしばしば外れるものである。<br><br><br>血液型占いというのがあるが、実は書いてあることは全ての人に当てはまる事柄であったりする。<br><br>そもそも血液型という４パターンだけで人間の行動をパターン化出来るなら、人間とはなんとつまらない生き物だろう。<br><br><br>たしかに、行動パターンというのはある程度決まっているものではあるが、それは”環境”によることがほとんどで、そこに個人差というのはあまり無い。<br><br><br>血液型ごとの傾向が当たっているように感じるのは、毎回毎回そのパターンを反復されて、知らず知らずのうちにそのパターンの思考を刷り込まれているからに他ならない。<br><br>また、人は”自分”というもっとも身近にいる存在を他人異常に理解していない生き物である。<br>そこに「あなたはこんな人なんですよ。」といわれれば、なるほど～。と思ったり、「そんなことは無いけど、似たところはあるね。」とかなるわけだ。<br>誰でも”自分”が分からないから外から情報を与えられるとそこに集中してしまう。<br>与えられる情報はそれこそ万人に当てはまることだが、簡単な”回答”に飛びついてしまうのは時代を通してみてもなんら変わっていないようである。<br><br><br>この手の占いには特に害はないので、ふふ～～ん。と斜めに読み飛ばすのがよいと思われる。<br>間違っても鵜呑みにして「今日の運勢ランキング」なぞに足元をすくわれないようにご注意を。<br>
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<link>https://ameblo.jp/rutanakusyu/entry-10134866694.html</link>
<pubDate>Wed, 03 Sep 2008 12:42:19 +0900</pubDate>
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<title>デジタル</title>
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<![CDATA[ ０と１の境界はあいまいである<br><br>コンピューターが開発され、プログラム言語が発明された頃、その手法に関して”魔術的”と言われたことがある。<br><br>言語の宣言、範囲の指定、手順、出力方法、出力先の指定<br><br>いわゆる呪文祭文と驚くほど似通った仕組みを持っている。<br><br>加えて、より複雑化したプログラムは外部ルーチンを定義し、コマンドで参照するようになるが、これも基礎魔術の範疇である。<br>ある一定化した手順を本文とは別に定義し、同時並列的に作動させることはよくある作法のひとつである。<br><br>そもそもひとつの事柄を細分化し、再構成するのは魔術の基礎にして奥義であるとも言える。<br><br>全ての事象を０と１の羅列として細分化し、プロセッサーによる演算を経て再度人間に意味ある事柄に取りまとめ、変換出力しているのだから、コンピューターは魔術そのものであるとも言える。<br><br>人間の思考パターンには一定の決まりがあるということだろうか？<br><br>それとも、この手法そのものがこの世界の普遍的真実のひとつということだろうか？<br><br><br>魔術的観点から言えば上の二つは同義だ。<br><br><br>普遍的真実だからこそ、人間はそのパターンにのっとり、思考し、選択する。<br><br>そう考えたときに、この先、電脳世界内において異界が展開するという考え方は突飛ではないのではないかとも思う。<br><br>いや、もしかするとすでに・・・・・<br>
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<link>https://ameblo.jp/rutanakusyu/entry-10134030322.html</link>
<pubDate>Mon, 01 Sep 2008 07:44:45 +0900</pubDate>
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<title>黒いもの</title>
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<![CDATA[ 自らを悪と認識するものは、自らを正義とするものよりも髪の毛ほどまともである<br><br><br>黒いものは悪だろうか？<br><br>黒いろうそく<br>黒いカーテン<br>黒曜石<br>黒い血<br>黒い肌<br>黒い影<br><br>いずれも不吉なイメージがある。<br><br>いわゆる”悪魔”はたいてい黒く描かれることが多いし、悪魔崇拝の儀式は黒い森で行われる。<br><br><br>だが、”黒”そのものは別に悪でもなんでもない。ただの現象だ。<br>光を反射しない面が人間の目には黒く写るだけである。<br><br>色というのは非常に強烈な印象を残すことが多い。<br>色が何かの事柄と結びついた場合、連想的に他の事柄すらイメージを変えてしまうことがある。<br>この変換の様子は非常に魔術的である。<br><br>呪文によって変換された事象は連鎖反応をもってその周囲を変質させてゆく。<br>それは魔術師の認識が変換され、それが魔術師を通して世界へと投影されていく。<br>投影されたイメージは人間の共通認識を歪め、集合無意識の海に波紋を起こし、世界の”現実”として立ち上がる。<br><br><br>誰かが　黒＝悪　というイメージを大昔に投げ込んだのであろうか？<br>今となっては知るすべは無いが、そうとしか思えないほどに不自然な事柄というのは確かに存在する。<br><br><br><br><br>歴史編纂は国家事業である。<br>そこには”悪”を国家が認定し、のちの世に認識させ、自国家の正当性を誇示する目的がある。<br>歴史編纂の事業の影には必ずといっていいほどなんらかの術者が関わっている。<br>つまりはなんらかの”魔術”を施す必要があったのだ。<br><br>そして、わたしたちは教育という名の”魔術”によって基礎的な知識を歪められたまま成長している。<br>小さい頃に教わった事柄はそのまま本人の”現実”に直結して、それを修正するのはなかなかに難しいものだ。<br><br><br>本来、勉強とは疑うことから始めなくてはいけない。<br>教える方が間違っている可能性を否定できないからだ。<br>それを否定したときに教育は洗脳となんら変わらないものとなる。<br><br>本当の悪を語るとき、それはこのように密やかに忍び寄る知識の鎖を考えなくてはいけないのではなかろうか？<br><br><br>黒いもの<br><br>夜<br><br>それはひと時の安らぎをもたらす<br><br>黒いもの<br><br>死<br><br>それは永遠の鎖<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/rutanakusyu/entry-10133633986.html</link>
<pubDate>Sun, 31 Aug 2008 08:30:24 +0900</pubDate>
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<title>秘薬</title>
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<![CDATA[ <font size="4">死を超えることはたやすい。<br><br>しかし、それは同時に無残な結果を伴うことを、それを行う者は覚悟しなければならない。</font><br><br><br>魔術による秘薬というものは、実は内容はたいしたものではない。<br><br>バジリスクの涙、マンドラゴラの根、百年百合の種、タランチュラの牙、人の肩甲骨の粉末<br><br>これらの物品は暗喩でしかない。<br><br>ある事柄を述べるのに何か別の単語をもってするやり方は、よく知られる”赤毛のアン”でもよく使われる手法であるが、それと同じことである。<br><br>問題は、魔術師は他人にその対照表を明かさないということだ。<br><br>過去の魔道書を手にした者はまず、その暗喩に満ちた表現の森を抜ける努力をしなくてはならない。<br><br>バジリスクの涙はある洞窟の奥にある青水晶のことかもしれないし、石灰岩の崖から滴り落ちる湧き水かもしれない。<br><br><br>そうして混乱した語句の暗喩の森を抜けて初めて秘薬の調合に取り掛かれるようになるのだが、調合した秘薬にはたいして意味が無い場合が多い。<br><br>魔術の基礎に立ち戻れば分かりやすいと思われるが、魔術とはイメージを現実に投射する技術とその体系であると言える。<br>日本の諺でいうところの「鰯の頭も信心」<br>すなわちそういうことである。<br><br>古の魔術師は自らの常識をだまし、心を飛躍させるために不可解な秘薬を調合し、それを服用したのである。<br>現在では毒とされる物質ですら（当時から毒とされたものさえ）使って自分をだまし、「この秘薬の効果で精神をはるか彼方へと飛ばすことが出来る」と信じ込むことが必要だったのだ。<br><br>現在ではもっと有用な手法が開発され、より安全にイメージの世界に入り込むことができる。<br>だが、それは古よりもより心の危険が増したということである。<br>
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<link>https://ameblo.jp/rutanakusyu/entry-10133236987.html</link>
<pubDate>Sat, 30 Aug 2008 07:37:00 +0900</pubDate>
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<title>神性</title>
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<![CDATA[ 神を語るものはすべて偽者である<br><br>世の中に自らを”神の使者”もしくは”神”と語るものが多いが、本物など居ない。<br><br>彼らの神は”権力”と”金”という、非常に物質的な物であり、その精神の貧困さは目を覆うばかりである。<br><br>そもそも、”神”という概念は人間の脳内にしか存在しない。<br><br>それを信じるのは各人の自由であり、それがたとえ現世利益優先の”俗物”であっても、個人の中の問題である限りは有害ではない。<br>”信仰”が有害たりえるのは他人へ信仰を強要する段階に初めて顔を見せる。<br><br>過去に”神”の名の下にどれだけの虐殺が行われたか。<br>改宗と称して、従わない民衆をどれだけ殺してきたことか。<br><br>”神”とは”正義”である。<br>自らの上に”正義”を置いた人間という生き物はこの世の中で一番醜悪で奇怪な生き物と言える。<br>彼らの中で信仰は捻じ曲がり、最初の理念（それは尊いものであったはずだ）は腐れ落ち、他者を辱め、自らの醜悪さを省みない。<br><br><br>真に”神”と呼ばれるものが存在すると断言は出来ないが、そういった現象は存在する。<br>ただし、それは意識的なものというよりもむしろ、無意識的なものであり、作為的ではなく、人為的ではなく、人格的なものですらない。<br>意識があるかどうかも不明だが、なんらかの方向性を見出すことは可能かもしれない。<br><br>重ねて言う。”神”を信じるなら自分だけにしておくがいい。<br>それを他者に強いるなら、それは心の強姦であり、侵略であり、支配である。<br>有名無名を問わず信仰を促すものには注意するがいい。<br>本物の信仰は自らの内からくるものであり、人から勧められるものではない。<br>一度は同じ道を歩むように見えても、道はたがえるのだ。<br>友人は背を向け、親族は目をそらし、隣人には投石される。<br><br>”神”は各人の心の中にしかおらず、それは自分自身だけのものであって、他人と共有することは根本的に出来ないのだ。<br><br>宗教とは魔術に似て非なるもの<br>歴史の積み重ねは知識の積み重ねであるとともに、罪の積み重ねである。<br><br>魔術師は自らの内の神性のみに仕えよ<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/rutanakusyu/entry-10132851582.html</link>
<pubDate>Fri, 29 Aug 2008 08:02:44 +0900</pubDate>
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