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<title>Damn My Education</title>
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<description>(I can't find the words to say about the things caught in my mind)</description>
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<title>大人になるということ</title>
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<![CDATA[ <span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><span style="text-decoration: -webkit-letterpress;">最近、自分も大人になったなと思う。責任をもって行動するようになったとか、他人の気持ちを考えて行動できるようになったということではない(ないのかよ)。単に、自分も周りも、僕のことを子どもだと見なさなくなった、ということに端を発する何かだと思う。</span></span><div><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><span style="text-decoration: -webkit-letterpress;"><br></span></span></div><div><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><span style="text-decoration: -webkit-letterpress;">そりゃ30にもなって当然だろと言われそうだが、身近な同僚に年配の方がいれば、</span><span style="text-decoration: -webkit-letterpress;">子ども扱いはされないまでも、</span><span style="text-decoration: -webkit-letterpress;">30でもまだそれなりの若造として、へへぇーッてな感じでいられる。それがどうだ。考えてみれば、一緒に組んで仕事をしいてる同僚だと目上の人の方が少なく、その目上も10歳差未満がほとんどなのだ。なんてこった！若すぎじゃないか！…ということは一年も半年以上が過ぎた先日の会のときに気付いたことだった。</span></span><div style="text-decoration: -webkit-letterpress;"><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><br></span></div><div style="text-decoration: -webkit-letterpress;"><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">そもそも職業柄、普段接する人からは大人としか見られないのでここ数年大人のフリして生きてきたのだが、そのフリがいつのまにか板についてしまったというか、それでも以前はみんなに近づいて若いフリをしていたのが、ここのところは実際の年齢差による隔世の感を前提に親近感を出した方がラクだということに気づき、そしてみんなともそういうパッケージのコミュニケーションだとわかれば若いフリをしているときと大差なく歩み寄れることに気づき、何かにつけて「これだから昭和は」と言われることに甘んじる日々を過ごしている。</span></div><div style="text-decoration: -webkit-letterpress;"><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><br></span></div><div style="text-decoration: -webkit-letterpress;"><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">大人の階段を登ったつもりはないのだが、いつのまにか乗ってしまった大人のエスカレーターはみなとみらい線からクイーンズスクエアに伸びるそれ級に長く、そろそろ踊り場を見つけたいところではある。</span></div><div style="text-decoration: -webkit-letterpress;"><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><br></span></div><div style="text-decoration: -webkit-letterpress;"><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">とかなんとか言ってお茶を濁そうとしてみたものの、最初この話を書こうとしたのはそんな話ではなく、コミュニケーションの結果として新たな感性を得るというようなところはあるよなというものだったのでそっちをちゃんと書こう。</span></div><div style="text-decoration: -webkit-letterpress;"><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><br></span></div><div style="text-decoration: -webkit-letterpress;"><span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">このところ、子どもの死のニュースを見るにつけ、心が締め付けられる。悲惨な話を自分の話にひきつけて言うつもりはないのだが、大人として他者と話をすることで、今までそれほど痛切に感じられなかったことが我が事のように感じられるようになっているのだとは思う。大人になると悲しいことが増えることを知った。</span></div></div>
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<link>https://ameblo.jp/salmon-meuniere/entry-12217027046.html</link>
<pubDate>Sun, 06 Nov 2016 22:27:27 +0900</pubDate>
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<title>転職コミュニケーション</title>
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<![CDATA[ <div>　転職活動をしていて思うことがある。（凡庸な組織の凡庸な）採用に求められているのは、じつは、応募者自身の所属するコミュニティの成功体験や経験から得られた独自の見解などではなく、むしろ、その業界において成功例として理想化されていることに似せた応募者の「経験」であり、それは成功例であるが故に本当はほとんど起こり得ない、とても稀な事例に近しい何かを語ることに等しいのではないか、と。<br><br></div><div>　完璧な組織など存在しない。多かれ少なかれ、どの組織も課題を抱えている。非常にうまくいかない組織もあるし、ある程度うまくいかない組織もある。うまくいかないことを解決するために、組織は他組織の成功事例に学び、それに倣っていろいろなことをやってみる。「いろいろ」は必ずしもうまくいかないというか、殆どはやっぱりうまくいかない。そう簡単にはうまくいかないからこそ、成功事例は成功事例たり得ている。そうしたうまくいかないことの連続の中にいる組織が、一連の課題に対する一つのソリューションとして考えるのが採用だ、というのは自然な理路である。</div><div><br>　非常にうまくいかない組織にいて、このままではダメだと思って転職活動をするときに、今までの組織で頑張ったことを馬鹿正直に語っても、ある程度うまくいかない組織にいる人にとっては、そういう人はウチに既にいる、と思われるだけかもしれない。むしろ、研修や本で学んだような成功事例は、「うまくいかない組織」にいる人にとっては、共通で魅力的に映る。なんか聞いたことがある成功事例の輝きをまとった人がそこにいると思ってもらったほうが、採用の動機づけは満たす。</div><div><br>　応募者としての問題は、そこにどうリアリティを付与するかという点にあるが、今日はそこまで考えられないのでやめる。とりあえず、（凡庸な）採用においては、直属のコミュニティを参照して「逆の立場で」相手の正解を探すのではなく、ひとつ階層が上の中間的なコミュニティを参照することで、「同じ立場で」互いの正解を探すつもりで、諸々の志望理由や職務経験などのお話を考えるといいのではないか、という見解を述べて筆をおく。</div>
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<link>https://ameblo.jp/salmon-meuniere/entry-12202981919.html</link>
<pubDate>Sat, 24 Sep 2016 01:10:21 +0900</pubDate>
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<title>おもしろく</title>
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<![CDATA[ <span style="color: rgb(69, 69, 69); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; text-decoration: -webkit-letterpress;">帰省すると何かしら書こうという気持ちになるのは、何かしら書くことによって自らに区切りをつけられそうな気がするからだと思うが、あまり文章を書かなくなって久しいので、中身のあることが書けそうな気がしない。それでも書いているうちに思考の欠片のようなものが生まれてくるのではないかという期待からiPhoneのガラスをするする撫で始める。するする。</span><div style="color: rgb(69, 69, 69); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; text-decoration: -webkit-letterpress;"><br></div><div style="color: rgb(69, 69, 69); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; text-decoration: -webkit-letterpress;">……などと書きながら、僕はなぜいつもこのような前置きを始めるのだろうと思う。そもそもこのような話の枕は必要ないのだし、なにしろ機能的に言って枕にもなっていないというか、これから書こうとしている本題からはほど遠いのだから、書かなくてよいのだ。とはいえ、この「書く前から僕には本題が見えているのだ」的な前提を醸す説明も正確ではなく、たとえ見えていたとしてそれを見る自分の目を信じていいのか疑ってしまう程度に、僕には本題とやらが朧げにしか見えていない。ただ、それはどこかにあり、一目散にそこに辿り着けないということは、僕が前置きをし、それを引き継いでこの段落まで書いてしまう理由の一つでもある。</div><div style="color: rgb(69, 69, 69); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; text-decoration: -webkit-letterpress;"><br></div><div style="color: rgb(69, 69, 69); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; text-decoration: -webkit-letterpress;">＊＊＊</div><div style="color: rgb(69, 69, 69); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; text-decoration: -webkit-letterpress;"><br></div><div style="color: rgb(69, 69, 69); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; text-decoration: -webkit-letterpress;">僕はいま有楽町にいる。故郷から東北新幹線に乗って東京に降り、夕方からの飲み会までの暇つぶしに映画を観ようと有楽町にきた。その映画までの暇つぶしに入った喫茶店でこの文章を書き始め、最初の二段落を書いたところで映画の時間となり、映画鑑賞後の暇つぶしの続編としてこの段落を書いている。映画の感想はむずかしくて書けないが、少なくとも気分は変化し、遠く朧げに見えていた本題はより遠ざかった。なかなか手が届きそうにないが、とりあえず伸ばした手を引っ込めるつもりはない。</div><div style="color: rgb(69, 69, 69); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; text-decoration: -webkit-letterpress;"><br></div><div style="color: rgb(69, 69, 69); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; text-decoration: -webkit-letterpress;">続けよう。東北新幹線に乗る前、僕はとうぜん実家にいた。実家にいるときも映画を観た。映画館でフランスのと、家で日本のを。いずれの映画も観るものの気分を変えたが、それは各々のコードに7度の音が加わった程度の変化でしかなく、長期の休みに期待するコードチェンジは起きなかった。それに相当すると思われる気分の変化があったのは、帰省中最後の夜、つまり昨夜ひょんなことから高校の卒業アルバムを引っ張り出してきたときだった。</div><div style="color: rgb(69, 69, 69); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; text-decoration: -webkit-letterpress;"><br></div><div style="color: rgb(69, 69, 69); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; text-decoration: -webkit-letterpress;">パラパラと卒アルをめくっていると、高校のときの先生たち、同級生、部活、それぞれに対する自分の態度や立ち位置、それについて自分の抱いていた印象、感情のような諸々が、ぽつぽつと思い出された。思い出されたものを検証するほどには熱心にならなかったのだが、それでも総合的な感想を抱くほどの引き金となった。</div><div style="color: rgb(69, 69, 69); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; text-decoration: -webkit-letterpress;"><br></div><div style="color: rgb(69, 69, 69); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; text-decoration: -webkit-letterpress;">高校生の僕は、おもしろかったりカッコよかったりする同級生や先輩や先生と仲良くなりたいと思っていて、そのわりにはカッコよくなくておもしろくない自分が嫌いだった。いま考えると、カッコよくなる<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">努力をしていなかったり、人付き合いの仕方がわからなかったことが原因なのだが、当時のぼくはその全てが、自分のつまらなさに起因していると思っていた。そしてそれこそが様々な動機付けに繋がっていた。</span></div><div style="color: rgb(69, 69, 69); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; text-decoration: -webkit-letterpress;"><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><br></span></div><div style="color: rgb(69, 69, 69); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; text-decoration: -webkit-letterpress;"><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">この動機付けは、つまるところ、結びつけ方は誤っていたのだが、機能的には正しかった。つまらない人間にはなりたくない、おもしろい人間になりたいという両命題は等しくないかも知れないが、コインの裏表ではある。そのコインを投げて、最近でも人生を決めていることを僕は否定できない。</span></div><div style="color: rgb(69, 69, 69); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; text-decoration: -webkit-letterpress;"><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><br></span></div><div style="color: rgb(69, 69, 69); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; text-decoration: -webkit-letterpress;"><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">そのコインの一面について考えてみたい。つまらない人間にはなりたくない、だ。そう思うことは、自分がつまらない人間として見ている他人がいるということを意味する。実際につまらない人間という種類の人間がいるかどうかはともかく、人と接していてつまらないと感じるときがあることは事実だ。高校生のときは適応機制的なものもあるのだろうし、アンチのロールモデル的にもそう思っていたのだろう。同時に、そうなりたくないという気持ちは、人からつまらないと思われたくないということだったとも思われ、この気持ち自体は自分がそう思われてしまうのではないかという不安に由来するか転化するかしているものだったといえよう。</span></div><div style="color: rgb(69, 69, 69); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; text-decoration: -webkit-letterpress;"><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><br></span></div><div style="color: rgb(69, 69, 69); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; text-decoration: -webkit-letterpress;"><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">このように考えると、(唐突な概念化ではあるが)ここには退屈と不安がある。とりあえず自分がつまらなく感じるという退屈と、相手に退屈されるのではないかという不安。しかしおそらく不安という気分自体は退屈とは無関係に存在し得る。不安が自分以外という意味における他者との関係性に出来する気分であると考えると、他人から退屈と思われても、退屈な父が娘から愛されるように、他者から好意を寄せられることがあることを知り、好意を集めるための手立てを講じ、それが実際に好意が寄せられるという結果と幸運にも結びつき、主観的にでも因果が意識されるようになれば、不安は退屈させてしまう自分とは無関係に対処可能な気分となるだろう。つまり少なくとも、この人において不安が退屈と結びつく必然性はない。</span></div><div style="color: rgb(69, 69, 69); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; text-decoration: -webkit-letterpress;"><br></div><div style="color: rgb(69, 69, 69); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; text-decoration: -webkit-letterpress;">だから、自分にとって、つまらない人間になりたくない、という命題が大切だったのは、「つまらない」の方においてこそだったのではないかと思うのだ。もう少しそれらしく言えば、つまらない人間になりたくない、と思った僕が投げるべきだったのは「つまらない/おもしろい」のコインであり、「思われたくない/思われたい」のコインではなかったのだ。まあ、こうして言ってみると、「人からどう思われるかを気にするな」みたいな、ものすごく普通のことだ。</div><div style="color: rgb(69, 69, 69); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; text-decoration: -webkit-letterpress;"><br></div><div style="color: rgb(69, 69, 69); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; text-decoration: -webkit-letterpress;">話が雑になって終わる気がするのは、もうすぐ飲み会の時間が近づいてきているからでもあるし、だいたい本題と思っていたことに手が届いたからもういいやと思っているからでもある。とりあえず、今年はおもしろいことをしたい。つまらないことをつまらないと思いたい。新年の抱負。</div>
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<pubDate>Mon, 04 Jan 2016 18:03:06 +0900</pubDate>
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<title>帰京</title>
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<![CDATA[ <span style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;">今週後半は帰省していた。帰省をすると、いつも何もしないでゴロゴロ過ごすのだが、果たして今回も何もせずに過ごした。そして殆どの時間を家族と共に過ごした。実家に帰ると、よく一人でいる時間を過ごしたいと思うのだが、今回はそれがあまりなかった。別に家族との時間を大切にするというのでもない。ただ、敢えて一人の時間を作ろうとも思わなかっただけだ。</span><div style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;"><br></div><div style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;">夏休み自体は約一週間だったが、実家に帰る前から、その殆どの時間を誰かとともに過ごした。人と一緒にいることに、その微妙で複雑なストレスを抱えながら時間を過ごすことに、耐えられないということがなくなった。いいことなのか、悪いことなのかはわからない。自分に向き合ってはいないのかもしれない。</div><div style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;"><br></div><div style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;">しかし好んでそうしていたところもあった。二日間は好きな人と会っていた。それは自分にとってあまりにいいことであったため、とても強い感情が引き起こされた。残りの休みはその感情に寄り添って過ごしたとも言える。少しだけ距離を置いて事態が見える今では、この幸福感にのぼせてしまった自分の客観性のなさが生じせしめた醜悪さも見えるが、また同様の事態に直面してしまえば、すぐにでもそれは覆い隠されてしまうだろうし、醜い自分自身を見つめることにそのときの自分が意義を感じないだろうこともわかる。のぼせてしまうことには今の自分も十分に同意を与えている。</div><div style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;"><br></div><div style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;">それはそうと、好きな人や家族と共に過ごすと、将来のことを考えてしまう。しかしその将来は関係性のそれではなく、関係性の変化を見越した自分自身の将来である。自分の将来は、自分だけのものとして考えれば、やりたいことをやるだけのものだ。人生が関数のようなものだとすれば、僕は関数そのものには大して興味がない。入れてみたい数字を入れてみて、出てくる数字を受け入れるだけだと思ってしまう。しかし、この「やりたいこと」の中に他者との関係性が入ってくると、少し違ってくる。他者との関係性はそれ自体が関数のようなものだから、その関数がいかなる値を出しても自分の関数が解を持つように、場合分けし、ある一定の範囲内で関数を見る必要が出てくる。つまり、人生を場合分けし、どの将来が解を持つのかを考えるようになる。</div><div style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;"><br></div><div style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;">自分のやりたいことは何なのか、という内なる声を聞き続けることは簡単ではない。やりたいことから出来したはずの思考が、本当にやりたいことを疎外する、というか抑圧するのは、根源的に「やりたいこと」というのは一つではなく、一つであったとしてもその内に矛盾を孕むものだからしょうがない部分もある。しかし、人はそんなふうに色々と言い訳をして本当にやりたいことを無視して生きていくことができてしまう。</div><div style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;"><br></div><div style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;">とはいいつつ、それは僕がこの夏休みに感じたことでもない。感じたのはむしろ、将来というのは限りなく具体的なものだというような、雑駁とした感想だ。</div><div style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;"><br></div><div style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;"><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">将来は具体的な現実であり、それが未だ実現していないだけのものだ。しかし、</span>やりたいことというのは具体的なものへと向かう何かであり、具体的なものそのものではない。それは思いつきのその手前にある何かであり、思いついたことそのものではない。もちろん、自分が何をしたいのかということは、その具体性を実現する過程に見えることで、対象とそれに向けた行動があるからこそ、「～したい」という選択可能性が生まれる。そんなことはわかっている。でも、その無数の選択可能性のパターンとして傾向のようなものは見える。そして具体的な将来は、その傾向自体とは無関係に実現されうる。</div><div style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;"><br></div><div style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;">この一週間で、僕は具体的な将来に不安を持った。きっと僕は、本当は、ただもう一度何もないところからやりたいと、無防備な状態に戻りたいと思っていたのだろう、と、帰りの新幹線でこれを書いていて思った。</div><div style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;"><br></div><div style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;">やりたいことをやらないといけないとは思う。そのためにやりたいことの、具体と抽象のあいだを行き来しないといけないとも思う。とりあえず、横着をして、人を言い訳にしてはいけないと、新幹線から降りたばかりの今、言えるのは、そのくらい。</div>
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<link>https://ameblo.jp/salmon-meuniere/entry-12062341760.html</link>
<pubDate>Sun, 16 Aug 2015 12:39:09 +0900</pubDate>
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<title>予約キャンセルの倫理学</title>
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<![CDATA[ <div style="text-align: left;"><span style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;">何か行動を起こそうと思い立つと、忙しい世の中では予約が必要だと言われて萎える。しかし予約によってのみ得られる満足がある以上、われわれは予約をする。予約は億劫だが、それは予約もまた行動を起こすことそのものだからだ。予約とは行動を起こすために起こす行動である。</span></div><div style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;"><br></div><div style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;">予約をしてあとで良い思いをすることを想像してわれわれは、よし、予約したぞ、と思う。こうして、思い立ったうちに予約だけしておこう型の行動様式が形成される。たしかに予約に基づいた行動プランに従ってみたあとでは、やはり予約しておいてよかったなあとしみじみ満足するかもしれず、予約の重要性は明白である。しかしその陰で、ひとり忘れ去られてしまう人間がいる。行動プランに従う自分である。</div><div style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;"><br></div><div style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;">行動プランに従うとは、過去の自分の命令に従うということである。仮にそのプランの結果に満足を得た(たとえば、髪をきれいに切ってもらった)として、その満足がプランの最終的な目的(髪を切ってもらう)に対してのみ結びつけられるとすれば、ふたたびその目的を再現しようとして予約なる行動がとられるとき、プランの実行を強要される自分(家を出てから美容室のドアを開けるまでの自分; めんどくさいのでできればまた今度にしたいと思う)は忘れられていることになる。</div><div style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;"><br></div><div style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;">われわれは自分のうちにプランの奴隷を住まわせている。奴隷は解放しなければならない。では、彼らを解放するためにはどうすればいいか。簡単だ。予約をキャンセルすればいい。無意識のうちに押しやられていたプランの奴隷は、<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">キャンセルという行動を起こすことで</span>、意識という白日の下に自らの存在を主張するのだ。</div><div style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;"><br></div><div style="color: rgba(0, 0, 0, 0.701961); font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px; -webkit-composition-fill-color: rgba(130, 98, 83, 0.0980392); text-decoration: -webkit-letterpress;">予約をキャンセルしよう。美容室に迷惑をかけ、髪を伸ばそう。空いた時間で明日の準備をするつもりでドトールコーヒーに入り、何も手につかないままにブログを更新しよう。そうすればきっと、素晴らしい月曜日が待っている。</div>
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<link>https://ameblo.jp/salmon-meuniere/entry-11993267497.html</link>
<pubDate>Sun, 22 Feb 2015 20:35:05 +0900</pubDate>
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<title>抱負・湯煙・飽和</title>
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<![CDATA[ いま、旅館にいる。年末から実家に帰省して過ごしていたのだが、たまの休みということで、今日明日と実家からそう遠くない温泉宿に泊まりに来ている。ブログを書くつもりはなかったのだが、なかなか眠れないし温泉も閉まるしということで、一発バシッとブログでキメようと思った。<div><br></div><div>正月だからなのだろう、SNSを開くと新年の挨拶に添えて、人々が今年の抱負やら何やらを書き連ねているのを見る。この正月が明けたら新たな一年が始まるんだという感覚を持って、人々は一年の抱負を述べているのかもしれない。わかるといえばわかる。</div><div><br></div><div>あるいは環境の変化もあるだろう。多くの人が、せめて正月は、と考えているかのように実家に帰っている。帰省とは、非日常的なイベントであり、さらに自分の原点でもあるような環境に身を置くことでもある。何かしらの発見とか、インスピレーションが生まれやすい環境・状況ではあるのだろう。それもよくわかる。</div><div><br></div><div>わかるわかると言いながら、しかしぼくが完全に同意できかねているのは何故かと考えてみると、思いつくのは、単に自分にとっての今回の帰省が、上記の意味を持たないからではないか。つまり、この数日間は、ぼくの一年の始まりでも非日常的な原点回帰でもなんでもない、ということではいか。</div><div><br></div><div>まあ確かに、ぼくは4月に始まり3月に終わる感の強さで言えば結構レベルの高い職場にいる気がするし、帰省に伴う自分探し的な発想にもいい加減飽きたというのがここ一年の帰省で感じているところだ。</div><div><br></div><div>ーー飽きた。</div><div><br></div><div>確かにそうだ、飽きた。まだ終わらない一年にも、その終わらない一年に自ら区切りをつけようとする虚しさにも。終わらない仕事の連続の日常にも、そこに自ら区切りをつけようとする虚しさにも。ぼくは飽き飽きしている。飽きた、と言ってしまうと台無しになることが多い世の中なので、自分にもいい加減に誤魔化してきたけれど、ここではハッキリと何回でも言う、ぼくは飽きた。飽きました。</div><div><br></div><div>飽きた、と連呼してみたが、仕事をやめちゃったり何かを始めちゃったりするつもりは、今のところない。そもそも飽きた対象だって漠としている。飽きるということ自体、対象を必要とするのかどうか哲学的にはわからないけど、ともあれそれを突き詰めたところでどうにもならないんじゃないか、という気もする。それもまた何らかの自分に対する誤魔化しの変奏なのかもしれないが、だとしたらどうだというのだ。</div><div><br></div><div>そんなわけで、全くとりとめのない話になってしまった。本当のことを言うと、ぼくはSNSに見る人々が今年の抱負を語ることに対する嫌悪感を抱いており、その気持ちについて語ろうと思っていたのだ。しかしよく考えてみると(よく考えなくても)、人が今年の抱負を語るのに対して、ぼくは一体何の筋合いがあって文句をつけようというのか。というわけで、ぼくをして他人の今年の抱負に嫌悪感を抱かしめるものについてもう少しよく考えたところ、そこには苛立ちのようなものがあり、その苛立ちを表現したのが前段までの流れになっております。</div><div><br></div><div>というわけで、バシッとは決まらなかったが、そろそろ寝なければならない時間にはなった。お付き合いいただきありがとうございました。本年もよろしくお願いいたします。</div>
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<link>https://ameblo.jp/salmon-meuniere/entry-11972475123.html</link>
<pubDate>Sat, 03 Jan 2015 00:38:08 +0900</pubDate>
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<title>思考、下心、理想</title>
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<![CDATA[ 久々にブログを更新しようと思ったのは、ここのところ、殆ど何も考えていないからである。考えたことが文章になるほど溜まったら書く、ということは僕にはできない。考えるということができていないから、文章でも書いて、何かを生み出そうと思った。<div><br><div>思考ができていない理由はいくつかある。一つは、忙しい、ということ。仕事は毎日やってきて、それを消化しようとする日々の繰り返しの中で、一旦自分の趣味的な関心に忠実になってしまうと、仕事のモードに戻るときに戻り切れずに苦労する。</div><br><div>……というと、仕事一徹でストレス発散もできないのはよくないぞ、という声が聞こえてきそうだが、そういうことではない。<span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">自分の趣味的な関心に没頭することは、ストレスを発散するどころかむしろそれを生む。</span>快とは緊張が解消されたときに生じるものなのだから、仕事のストレスを発散するためには仕事を終わらせるか、終わらないときには何か他の手軽なことをするのが一番いい。カラオケに行くとかお酒を飲むとか買い物をするとか、そういうことで、仕事によって緊張させられた精神を、仕事以外のゆるい場所へと誘導する。しかし、趣味的な関心に身を寄せるということは、何かを打ち立てたり、それを更新していくような作業になるから、ある程度の緊張を自分に強いる。つまり趣味は趣味で、勉強や練習を必要とするのだから、それがストレスを生む。だが僕が言いたいのは、そのストレスがあるから趣味もめんどくさいという話ではなくて、むしろめんどくさい方が趣味としては面白いからこそ、その面白さが仕事に戻ることを困難にするということだ。まあ、趣味を充実させたあとで頑張って仕事に戻るのが倫理的にはいいのだろうが、なかなかそれも大変だと予防線を張ってしまい仕事ばかりになってしまう。そういうわけで、僕の思考は、今日、仕事にその広がりを限定されつつある。</div><br><div>別の角度から言うと、その仕事モードが自分にとって居心地の良さを獲得してしまったということだ。働きはじめの頃の自分にとって<span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">趣味的な思考とは</span>、現実の仕事(というか恐らくそこで生じる人間関係)のストレスからの逃避やその気晴らしとして行うものであったのだが、職場で安穏とした精神生活を送ることができるようになってきた今、そうした思考の実用的価値がなくなりつつあるのだろう。</div><br><div>とはいえ、僕が「考えることは大切だ」と思っているのも事実であり、その意味には自分の欲求を満たす上での実用的価値があることも含まれる。話を簡単にするために図式的に言うと、仕事をするようになって、承認欲求のようなものは黙っていても満たされるようになったが、自己実現欲求のようなものはなかなか満たされないということで、後者を満たすために僕は「考えることは大切だ」と思っている。自己実現欲求といっても、僕にとってのそれは他者との関わりの中で見出されるもののように思われ、だから本当はよく知りもしないマズローの用語を用いる必要もなかったのだけど、とにかく僕は「考えることは大切だ」と思いながらもそこには下心もあるんですよ、ということを言いたかった。</div><br><div>下心という表現にすると疚しさがあるようで適切でないのかも知れないが、人間の思考や行動には目的意識が付きまとうものだと最近よく思うようになった。人はものを役立てるようにしか認識しない、と言ったら例外もあるかわからないが、木の棒を見て、それを杖と見るか薪と見るかはその人が置かれた状況に依存するし、基本的な認識とはそういう機能的な色眼鏡を掛けてなされたものだ。それを思考にまで敷衍するのは飛躍もあるだろうけれど、少なくとも何らかの行動を前提としていて、その行動のパフォーマンスを上げることが自身に快をもたらす状況において、そのために思考したいと思うこと自体は、いたって普通のことだと思う。そういうわけで、いたって普通の僕は、いたって普通のクソつまらない人間になろうとしているのだ。</div><br><div>だが、ここから抜け出すのは難しい。何しろ仕事というのは実用性を問い続ける嵐のようなものだし、そして何より、それ自体は別に悪いことでもないのだからタチが悪い。悪いのは実用性を問うことではない。</div><br><div>例えば困った事態があったとして、それを乗り切るためにその場しのぎの策を講じる。その場しのぎの策は一つの雛形となり、同類の困った事態が生じる度にマイナーチェンジを繰り返して、ある程度の事態に対処できる型が出来上がる。……と、この抽象的な例を書きながら、僕は東北の奥羽山脈に沿いにある田舎の家屋を思い出した。なぜなのか知らないが、東北の家屋には、少し小汚い生活感と若干のハリボテ感があふれていて、家屋としての統一感のなさが目立つものが多い。<span style="-webkit-text-size-adjust: auto; background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">必要に応じたリフォームの結果なのかわからないが、とにかく</span>そこには実用性はあっても、一つの家屋としての理想形はない。理想のない実用性の積み重ねは、それがどんなに心地よいものだったとしても、美しくはない。11年前、東北の一地方で生まれ育った高校生は、こんなクソつまらない場所で終わってはいけないと思った。ポリシーを持たなければいけないと思った。</div><br><div>今の自分にポリシーと呼べるものがあるのかわからない。というか、そんなに確固としたものはない。でも、ポリシーを持たないことが悪いことだという考えもまた、実用性のときと同様に間違っている気もする。理想がなければ、ポリシーも実用性と同じように形式的になってしまうだろうから。では僕に必要なのは理想なのだろうか。あればいいんだろうなとは思う。探してしまう。しかしそれもまた下心であり、つまらないなとも思う。</div></div>
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<link>https://ameblo.jp/salmon-meuniere/entry-11956174757.html</link>
<pubDate>Sun, 23 Nov 2014 01:25:49 +0900</pubDate>
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<title>人まかせ</title>
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<![CDATA[ 帰省をしていた。東京へと向かう電車を途中下車して地方都市の駅ビルにあるプロントで一服をしていると、騒がしくわちゃわちゃとした実家での生活の余韻に包まれているように感じる。<br><br>けれども、こうした余韻は昔はもっと強かった筈だ、と思う。数年前、あるいは一年前ですら、実家とアパートの最寄り駅同士を繋ぐ一続きの線路をガタゴトやっていると、まるで異郷を結ぶファンタジーをくぐり抜けていくかのような感覚が得られた。そんな気がする。<br><br>ファンタジーは、どちらかといえば、実家の側にある。ファンタジーの世界から現実の世界へ、電車が東京に近づくにつれて、都会の生活感をまとった人間と無機質なビルの明かりに、あぁこれから現実の生活に戻っていくんだなという落差を感じるのだった。<br><br>けれども、今日はその落差をあまり感じない。実家にいるときも、それは同じだった。<br><br>正月の昼間らしく、居間でゴロゴロとテレビを見ている家族から離れ、台所の換気扇に向かって一人煙草を吸っていたときだった。これまでだったら、ふと我に返り、「自分が自分じゃなくなってるみたいだ」などとつまらないことを思い、つまらないことを思う自分を愛おしく確認し、自分が還ってくるというか、自分に還っていくものだったが、その日はどうもそんな気持ちにはなれずにいた。いいことのような、悪いことのような、よくわからない気持ちだった。少なくとも今、こうした文章を書く自分としては、自分の輪郭がとろけたままそれを良しとする態度として、憂うふりはできるのかも知れない。<br><br>どうしてこのような変化が起きているのか、実は自分でもよくわかっている。それは、ぼくが人まかせに生きるようになったからだ。<br><br>ぼくは去年の4月から仕事をしている。それまでとは違って、フルタイムで働いている。それ自体が及ぼす影響というのは自分のほぼ全域にわたっていると思うのだけど、この話に関して自覚的であるところを直感的に言えば、やはりこういうことになる。ぼくは人まかせに生きるようになった。<br><br>フルタイムで働くということには、一つの共同体に深くコミットするという側面がある。そうなれば、人は自分一人ではどうにもならないことに直面する。いや、それはもちろん、どんな規模や濃度の共同体に生きていても感じることだ。それは事実なのだけど、他人と長い時間を共に過ごすことには、人間の本性的な何かがあると仮定したくなるほどの質的な感覚の違いがある。<br><br>たとえば、自分に振られた仕事以外に自分がやってもいい仕事があったとする。ものすごく卑近な例で言えば、会議資料のコピーでもいい。<br><br>これで午前中は終わりだーと思ってコピー室に行ったぼくの同僚は、資料をコピーしている同じ部署のぼくを見つけたとする。彼が手伝えばぼくはちょっと楽になるし、彼がそのまま昼ごはんを買いに行ったら、ぼくはちょっと大変になる。でもそれは別に彼が振られた仕事でもないし、ぼく一人でもできる仕事だから、手伝うことに対する強制力は彼自身にも感じられてないしぼくからも生じていない。そういうときに、理由はどうあれ、彼が手伝いを申し出てくれることがあったりもする。<br><br>これを、ぼくの側から考えてみよう。ぼくが資料をコピーしている。早く済ませてご飯を食べたい。誰かが入ってきた。同僚だ。彼はこの前同じ状況で手伝ってくれた。でも今日そう申し出てくれるかどうかは知らない。手伝ってくれたら嬉しいけど、手伝ってくれなくても当然だ。期待はしない。……と思っていたら手伝ってくれた。やったー。いぇい。<br><br>という感じで、ぼくはこういう状況で期待はしてないけれど、実際には「あり得るけど実際どうなるかはよくわからない他人の行動」に何らかの期待を差し挟むことから逃れられない。<br><br>期待と言っても、自分の仕事なんだから、甘えた期待をしているわけではないのはわかると思う。期待という言葉が悪ければ予期と言ってもいいだろう。意思的な期待ではなく、条件反射的な心の傾向とでもいえるかも知れない。挨拶をすればそれが返ってくることを予期するのと同じように、そしてその予期は挨拶の返答がなくともよしとする態度と両立するように、時間を長く過ごし、数多くのやりとりをする人が何かをしてくれるかも知れないという、甘えた期待とまではいかない様々な予期を心中に巡らすのは、人間としては結構自然なことだと思う。<br><br>そういうわけで、半年以上フルタイムライフを続けてきたぼくにおいては、人に対して諸々の予期が心中を巡ることが常態化している。ところで、それが、「人まかせ」という言葉でぼくが表現しようとしたことだっただろうか。<br><br>ここまで書いてなんなのだが、少し冷静になって、なぜ「人まかせ」なのかという自分のネーミングセンスの直感を掘り下げてみると、「自分が自分じゃなくなる」という感覚と地続きなのだと思う。つまり、自分が自分でいるために他人を必要とするという程度の意味だろう。とすると、この話は承認とかそういう方面の例から考えた方が筋がよかったかも知れない。というか、ぼくがしたかったのは明らかにそういう話だ。だけど、承認の話はぼくは苦手だから、書き直すくらいなら、いずれきちんと考えながら自分が納得する形で書いてみたい気もする。ここまで書いてしまったのだからもったいないということもある。だからといってこのままupしちゃうのも、なんだそりゃ、という感じだが、そうこうしているうちにアパートのある最寄り駅に着いてしまった。これが現実なのだと、見慣れた駅のホームも告げている。その実、ホームに降り立つ人々はまだ正月気分だ。ぼくもまだ、繋げようと思った文章を繋げないまま読む人任せで切り上げてしまう程には正月気分だ。外は寒い。早く帰ろう。どろん。
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<link>https://ameblo.jp/salmon-meuniere/entry-11743209850.html</link>
<pubDate>Sat, 04 Jan 2014 18:41:20 +0900</pubDate>
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<title>続・話すことについて</title>
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<![CDATA[ 会話が楽しいという話だ。<br><br>前回は会話が楽しいという話を書こうとして、嘘としての言葉と、その言葉を発する欲望の虚偽性のようなものの同時性というか同一性のようなことを考えていたら、会話が楽しいと感じる自分のことばかりを考えてしまって、結局何の話をしているのかわからなくなってしまった。<br><br>前回そのようなことを書こうと思った直接のきっかけとしては二つあって、一つは職場の同僚と久しぶりに会話らしい会話をして楽しかったということ。もう一つは先日の台風の折り、駅構内から電車内までが、排水口が詰まって溜まった洗面台のように出勤できない人々で溢れ返っていたとき、もはや空間的に逃げることが適わず瀕死の精神を救うための次善の策としてその場で買ったのが、Kindle版の保坂和志「小説の自由」だったことだ。その思考の息づいた流れのある文章に酔った勢いで何かを書いておきたい気持ちがあった。<br><br>今日また続きを書こうとしているのも同じことで、同僚と会話らしい会話をした帰りに寄った喫茶店で「小説の自由」を一通り読み終えたから、またしても安易な文章を書いてみようとしている。<br><br>本来であれば「小説の自由」に触発された部分があるのだから、それをもう少し読み込んで、それなりに自分自身の思考をその本文にまとわりつかせるくらいのことはすべきなのかも知れない。ところがiPhone版のKindleアプリにおいて、読み返すという行為には非常な困難が伴う。いつも洋書を読むのに使っているときは、手持ちの端末でマウスオーバー的に(マウスを使わないのだから、本当は何と言うのだろう)辞書が使える手軽さに圧倒的な利便性を感じていたのだけど、日本語だと英語に比べてパラパラ読めてしまうから、あとでちゃんと読もうとすると困ってしまう。だって、紙の本であれば「だいたいこの辺に……」といって捲る作業ができるのに、スクロールやら目次やらを使ってあちこちに戻っていると、すべて一足飛びに該当箇所に行き当たったり、進行中の議論に戻るのも一気にパッとくるので、結局それがどういう流れで今の議論に結びついているのかをパラパラめくって確認するという、紙の本では何気無くやっていたことすらできなくて、なんだかよくわからなくなってしまうからだ。という具合に不便で面倒なので、ついつい読み返すのもやめてしまった。「小説の自由」という本は、とりわけ読み返すことを一つの重要な行為として論じる本だから、これは致命的とも言える問題である。そのような読書行為で本書を読んだとは義理にも言える筈もなく、だからこそこんな言い訳を助長にも重ねている。<br><br>それでもまあこれから書こうと思うことは、前回書けなかったと感じていたことを「小説の自由」の思考に触れながら考えることでもあるので、前回は書名を上げずにいたこともあって、罪滅ぼし(という気持ちとして表現するのもまた失礼であるほど読んでないのだが)として、とにかくそれをパブロフの犬のベル程度には「刺激」として、自分が勝手に考えたことであることを示しておきたいと思う。<br><br>ところで前回と今回に会話をした同僚とはそれぞれ別人である。前回は先輩で、会話と言ってもそれはおれの相談のようでもあった。その人は配慮に富んだ人であるから、おれは自分の言葉が聞かれているという意識で話をしていて、その人の言葉を聞いて、咀嚼し、半ば消化し切れないまま飲み込んだりもしながら、それでもその言葉が自分の言葉と有機的に結合するように努めながら話をした。今回の会話の相手はほとんど同輩で、しかもその人の話を聞いていたという方が正しい。その人はよく喋る人で、それでも押し付けるようなところはなく普段は社交性を念頭に置いた気づかいも抜けることがない人なのだが、本当はそんなことを気にせずに喋ってくれる方が全然おもしろい。今日は、幸いにもそういう喋り方だった。幸いにも、とは変な話だが、それはおれがそういう喋り方をして欲しいと思って聞いていたからそれに合わせてくれた部分が少なからずあるからで、そもそも会話とは相手に合わせて喋ることなのだから、おれがどう思っていようとその人にとっては目の前の人に合わせるという意味で同じことなのかもしれない。とにかくここで言いたいのは合わせてもらった言葉をおれがおもしろいと思っているということだけで、その言葉こそその人本来の言葉だなどという不遜なことを言いたいわけではない。<br><br>それでも他人の言葉に合わせることで会話がつまらなくなることは多いから、合わせた結果つまらなくなった言葉よりは、おもしろくなった言葉の方がその人本来の言葉なのだと言いたくなる気持ちはある。前回の先輩との会話がそうだったように、自分の言葉と相手の言葉をお互いに噛み砕きながら吐き出すような会話というのは、大学生がファミレスや部室でする以外にはかなり稀なものだ。大抵は、相手に合わせようとしながらも要らぬ配慮に塗れて内容が見えなくなって、毛づくろいのような会話に陥る(というか落ち着く)。なぜ場合によって会話はそんなことになってしまうのかと考えると、相手の意を汲もうとお互いの言葉を溜め込むような会話には、溜め込まれた不確定性とそれを関連づけて新たな言葉を生み出す運動が必要とされるからだ。それは筋道が見えない会話に伴うストレスを反復して運動を続けることによろこぶ技術でもあるし、特性でもあるからだ。<br><br>当然のことだが、そういう特性を持ってることが優れているとかいうことでは断じてなくて、ある特性を持った人と別の特性を持った人との会話がそのあり方を規定するというだけのことだと思う。そしてその特性に応じた会話の運動がある。今回のようによく喋る人と会話をするときは、おれにとってはその人の話を聞くことでその人の一番おもしろい運動を感じることができるのだと思う。「運動」と言っても、別に表情の動きとか身振りのことを指してそう言っているのではない。身振りのような運動も情報としては会話に重要な役割を果たしているのだと思うが、ここで言う運動とは、会話の相手が言葉を生み出すときのその生み出し方みたいなもので、その人独特の思考や言葉の選び方、ひょっとすると表情が表す情報によっても推測されるような、その人の(精神の？)運動のことである。<br><br>自分とは全く異なる原動力で言葉を生み出す人との話を聞くと、その人に合わせて身体を動かしているような気持ちになる。というと、こちらの態度がだいぶ受動的なようにも聞こえるが、そうではなくて、そういう人の話はむしろ能動的に聞くからおもしろい。上でも書いた通り、同僚はおれに合わせながら会話をしてくれる。だから同僚が生み出した言葉は「同僚が思うおれ」に最適化された言葉であって、同僚がその最適化された言葉を生み出す運動がおもしろい。その運動はおれにとって、生み出された言葉以上にその同僚の本質として映る。運動をしてもらうためには、こちらも相手の最適化が働くように聞かなければならないのだから、聞く態度が受動的とか能動的とかいう区別にあまり意味はないようにも思えるが、しかし自分もその運動を積極的にするかしないかということには断然とした違いもある。<br><br>前回の先輩との会話では話を聞くだけでなく自分もよく話をしたが、そのときの自分は運動をしているようにその先輩に映ったのかもしれない。それは先輩に聞かなければよくわからないが、もう一人おれがいてその会話を見て聞いていたとしたら、間違いなく話をする自分に「おれ」の本質を感じたに違いない。しかし同時にそれは、日ごろ自分で内心感じているような自分の本質とは一致しないだろう。前回のエントリで言いたかった「嘘」というのはまさにこのことで、その「嘘(=外から見える自分の本質)」が会話の場面において、なんとなくうっすらと自分にも見えてくるときがある。このとき見える「『おれ』の本質」は、内面的には自分を良く見せようと偽った姿として映り、そこには居心地の悪さを感じる。けれどもそうした感性はナイーブでもある。ナイーブだからと切って捨ててしまうことも乱暴だが、そこには嫌悪感以上に、発見や確認に似た感覚を覚え、少し興奮もする。他者と会話することで自分を発見する、というと何だかつまらないことを言っている気持ちになるが、別に自分を発見するために会話をするなどという話ではない。会話というのは相互に虚構的なプロセスでありながら、当事者においては、相手の言葉を生み出す運動に本質を見出すことがあり、その感性が、会話をする自分をも捉えるとき、その捉えた自分とは「自分で考えているような自分」ではないということに驚く、ということだ。そしてその驚きとは、「自分で考えているような自分」の虚構性が暴かれたことに対するものだ、といったら言い過ぎだろうか。もっと穏当に言えば、「自分で考えているような自分」が相対化されるということだ。会話にしても自己イメージにしても結局のところ対象とするものは虚構であって、本質はその対象を生み出すときの動き方の方にある。会話はその動きを生む最も手近な手段の一つなのではないか。<br><br>会話とはそういうものだと割り切ってどんどん会話をすればするほど会話が楽しくなる、というようなことを前回に言ったと思うのだが、それはこうした意味であったのかと、我ながら感心することで、今回も終わりにしたい。ちなみに、他人の言葉を生み出す運動に同期することの楽しさということに関しては、今回考えようと思ったのはそのことだったのに、前回の話に考えが結びついたら忘れてしまった。しかし今日は随分と書いたので終わる。どろん。
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<link>https://ameblo.jp/salmon-meuniere/entry-11652459098.html</link>
<pubDate>Fri, 25 Oct 2013 22:27:04 +0900</pubDate>
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<title>話すことについて</title>
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<![CDATA[ 話すということは、本質的に背伸びをするというか汚いところを隠すというか良い自分を見せようとするようなものを孕んでいる(ように思われる)。本質的に、とか簡単に言ってしまうことにもそれは現れていて、無根拠にも「本質的」という言葉をぶち上げておきながらその意味については触れずにおくこの状況が、話すことの背伸び感を体現している。<br><br>もちろん、自分を卑下するように話すときもあるだろうし、いつも注意深く偽らざる言葉を話そうと努める態度をとる人もそれなりにいるとは思う。とはいえそうしたとき(人)にも、話している自分を良く見せようとする欲求を持っていると仮定することは可能で、単にその欲求の実現のレベルや様相が異なるだけだと見ることもできる。というのは、あまりにも穿った見方だと言われればそれまでだけど、ぼくが言いたいのは、だから人間はくだらないとか所詮こんなもんだということよりもむしろその逆に近くて、そういう風に自分を良く見せようとしながら話してしまうということを事実として当然だと思えば思うほど、話をすることが楽しくなるということだ(と思う)。<br><br>言葉を喋ることは嘘がつけるということだ、と誰かの本で他の誰かを引用しているのを読んだことがある。出典不明の孫引きということになるが、それがどういう意味で使われていたのかもよく覚えてないからこの場で考えてみる。おそらく嘘というのは現実に反することという意味だと思うが、嘘には意識的につく嘘のように日常の語義でのものから、「自分に嘘をついていた(と気づく)」と言うように無意識的な嘘というのもある。前段までの話に引きつけて言えば、人は話をするときに嘘をつくものだというのは、意識的とも無意識的ともどちらの意味とも取れる。しかしこの誰かの引用した他の誰かの言葉は、そういう意味だろうか。<br><br>予想から言うと、言葉の主要な機能の一つに比喩があり、前段の孫引きが表すのはこうした働きを持つ言葉の性質なのではないか。比喩が現実に反することで現実を表すことだと考えると、比喩も嘘の一種と言えなくもない。もちろん比喩において喩える対象と喩えられる対象は違う。けれども似てもいる。似ていることを差し引いてよく考えれば、それらはやっぱり違う。たとえば死んだように眠る人は恐らく死んだ人と似ている。けれどもその人はやはり死んでいない。人生の岐路に立つことは地図のない一本道でY字路に出くわした状況と似ている。けれども現実にはY字路を歩く訳ではない。さらに。高い音は、自分が舌や声帯の筋肉の位置を高くしたときに出る音と似ている。けれども別に音自体が高い訳ではない。これらが比喩なのかどうかもパッと見はわからないほどに、言葉は比喩的だ。言葉が本来違うものを似ているもので置き換える機能を持っているのだとすれば、それは嘘に嘘を重ねていることになるが、同時にそれは現実を描写する方法なのだから、現実近づく方法でもあるということになる。<br><br>意識的にも無意識的にも嘘をついてしまうとか、そもそも言葉を使う人の意識以前に言葉自体が嘘を含んでいるとか、話すことにはいろいろな水準で嘘をつくことが伴っている。そういうことはよく考えてみるとそうかもしれないが、嘘が嘘だと思われずに使われているのだから結局のところは実感がわかない。そこでなんとなく逆に、話をしなければ嘘をつかないで済むかということを考えてみると、確かに動物のようにただ生きるに任せて生きていたら嘘をつくことはないのかもしれない。けれども、やはりそういうことは人間にはできない。やはり、というのは人間は言葉を話す存在だ、という考え方に則るからだが、この考え方は古いのかもしれないし間違っているのかもしれない。しかし人間は言葉を話す存在だという前提を取れば、その前提で物事を見たときの風景がある。その風景が十分に見られていないままに古いとか間違っているとか言ってる本人もよくわからない理由で打ち捨てられてしまうことは忌々しい事態だと思う。とにかく、人間は言葉を話す存在だという前提で物事を見るのは、実りの多い視点であることは間違いないと思っている。<br><br>だから人は嘘をつき続けるということにしよう。その言葉の嘘の構造が先なのか、人間が嘘つきだから言葉の構造が生まれたのかはわからないが、とにかく人は嘘をつきまくることで外の世界を表すことが可能になる。それなら内なる世界はどうかというと、精神が言葉でできていると仮定すればなおのこと、嘘でできているものを嘘で表現することになるのだから話はややこしい。「ありのままの自分」などというのは対象としては全くあり得ないということになるだろうが、実感としては素直さや正直さというのはある。どういうことかというと、あの人は自分の内なる声に素直だとか自分の欲望に正直だとかいうことが実際にあるという程度の意味だ。内なる声が言葉なのは当然として、欲望とはなんだろうか。それは言葉に先立つものとして最初の段落では述べていたけど、言葉の本来的な非現実性とでも言うべきものを見たあとでは、言葉の持つ世界を無視してはこの話もできないような気もする。少なくとも欲望を生み出すものと言葉を生み出すものは同じであると見なすことはできないか。あるいは両者が出てくるところが同じというような。というのも、それらは両者とも今ある対象とは異なるものを以てそれに近づく方法だからだ。つまるところ、今ある対象=現実に、それとは異なるもの＝嘘で近づこうとする自分に対する態度として、素直さや正直さがあるということになる。<br><br>話はようやく冒頭に戻ろうとしているのだが、あまり結論めいたことは言えそうにない。自分の口から出てくる嘘や嘘をつきたくなる気持ちに素直に正直になって、そういうものだと思って作り上げていく話がゆくゆくは自分の物語になる、というような話でまとめようと思ったが、あまり考えたことと結びつかないし何より話が図式的過ぎる。あーはいそうですかでもそれは私のことではありませんというように響く。おそらくそうした話をするにはここで書いたことでは不十分で、もっと他の補助線がないと理解できないはずのことをぼくは言おうとしているのだと思うけれど、そもそもぼくは補助線を引いて理解を導くようなことが苦手だ。それは一つのぼくの態度がさせていることなのだとも思うが、その態度は前段で書いた素直さや正直さといった態度と対立し得るものであって、その態度のもとにぼくは怠惰に説明を怠り、それに伴う不足をショートカットするべく一念発起し、唐突な一文を繰り出すというのはぼくには本当によくあることだ。<br><br>ところでその態度とは、隠すということではないか。逃げも隠れもしない、ということは公明正大であることとも少し違っていて、何が違うかと言えば、公明正大は世間や社会に対して逃げも隠れもしないだけであるのに対して、自分の言葉やそれに似たものからは逃げも隠れもできることだ。正直さや素直さは、言い換えればわがままでもあって、わがままに世間から逃げることだってあるいは正直さとも言える。そういう意味では「逃げる」という動詞が輝いて見えてくるけれども、「隠れる」「隠す」ということの目的は否認であることが多い。否認がいいとか悪いとかいう話ではないし、便宜上隠したり隠れたりすることもあるだろう。そうではなくて、ここで言っているのは、隠れたり隠したりすることによって、嘘はその性質を変えるのではないかということだったのだが、そもそもここでぼくは一体何の話をしているのかぼくですらわからなくなりつつあるし、落とし所を探しても話が拡散するばかりなのでこのくらいにしよう。<br><br>いささか長くなったし結論に辿り着いたとは到底言い難いけれども(そもそも話すことが楽しいことだという話だったはずだ)、しかしそれほどの時間をかけずに思考が生きているような文章を書こうとしたのが実は本来の目的であったのだから、その目的は達成できたように思える。そしてその目的を隠したまま書き続けた結果として、隠すことの話まで到達したのだから、なかなかちゃんと考えたものだと自己満足も甚だしくひとり自分に感心して、この文章を終えることにする。
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<link>https://ameblo.jp/salmon-meuniere/entry-11644867326.html</link>
<pubDate>Sun, 20 Oct 2013 18:28:02 +0900</pubDate>
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