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<title>POOH  sanのブログ</title>
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<title>市内の小学校</title>
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<![CDATA[ 隣近所と違う小学校に通学していた頃、どうも集団登校していなかったような気がする。幼稚園時代の友達と通っていたような気がする。その友達は裕福で、HOゲージの電車のオモチャを持っていて、一緒によく遊んだ記憶がある。彼は一人っ子で兄弟のいる私とよく遊んだ。ただ、いつも一緒だった記憶がない。もう一人の友達は酒屋の子供で、彼の家も裕福だった。上にお姉さんが二人いて、可愛がってもらった。よく遊んだ記憶がある。彼は男一人だったからよく家に誘われた。実に断片的な記憶で、他にも友達がいた記憶がある。ちょっと遠くに住んでいた。私の交友関係は幼稚園時代の友達と小学校周辺に住んでいる友達と家の近くに住んでいる友達がいた。記憶の中から今思い出した友達がいた。私の友達のお母さんは、必ず私の母の友達となっている。よく遊びに行くので、交流が出来るのだろうと、今はそう思う。幼稚園時代の友達で、女の子は幼稚園と同じ小学校に入学していた。そこは女子校だった。大人になってから同じ幼稚園時代の友達にカトリック教会で出会うのである。その時は本当に驚いた。学校でよく遊んでいましたが、家に帰る途中もよく遊んだ記憶がある。でも家に戻ると勉強もしていたと思うのだが、さっぱり記憶がないのはどういうわけだろう。<br><br><br><br>Android携帯からの投稿
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<link>https://ameblo.jp/sanbosco/entry-11143383357.html</link>
<pubDate>Sun, 22 Jan 2012 23:36:00 +0900</pubDate>
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<title>小学校の頃</title>
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<![CDATA[ 幼稚園を終えて、幼稚園の近くの小学校に入学しました。ここで不思議なことが一つあります。隣近所の同年の子と全く違う小学校に入学しました。よく考えれば、おかしい。母の友達の子供たちが通っている小学校に入学しているのです。どちらが正解かは分かりません。小学校１年の集団下校の時に、住所を示す「○○北」と書かれた札の人と帰ると、全く違う場所に連れて行かれ迷子になりました。その時上級生から「あなたは○○南だよ」と言われました。確かに学校の南に位置する場所に自宅がありましたが、大阪城の北にあるので住所は「○○北」と表記されるそうです。当時の小学校の上級生にも分からないことです。先生が特別に指示して問題は解決しました。それ以降、私は「○○南地区」に入れられて帰りました。理不尽だと感じながら下校しました。<br><br><br><br>Android携帯からの投稿
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<link>https://ameblo.jp/sanbosco/entry-11142872959.html</link>
<pubDate>Sun, 22 Jan 2012 16:11:00 +0900</pubDate>
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<title>幼き頃の思い出2</title>
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<![CDATA[ 幼き頃の思い出に、父の大切な仕事を妨げたらしく、思い切り張り倒されたことが何度かあります。その中の最大のものは、隣の部屋まで体が飛んでいったことです。何をして、そうなったのかは今も不明ですが、私は空を飛びました。父に尋ねても分かりません。あと一回はほっぺたに父の手形をつけて幼稚園に行ったことです。先生が心配して家に来ました。やはり相当いけないことをしたらしい。ただ、父は気が短い人でした。今はその片鱗すらありません。とても良い人で通っています。<br>あっ！もう一度ありました。父は最新の情報を入手しては試すことがあり、その被害は家族に向けられました。特に欧米のファッションを実験するのです。今は靴に飾りが付いた男物の靴は普通です。赤色やピンク何てどうってことないですが、今から45年前は女ものでした。泣く泣く、叩かれ学校に履いて行きました。白いヒラヒラの付いた靴とピンクの靴下。当然苛められましたが、父の方が何十倍も恐ろしかったので我慢できました。父は全く覚えていませんが、試作品を試したことは覚えているようです。なぜなら欠陥が見つかったからです。誰かを犠牲にするより、家族が率先して引き受けたと思っているふしがある。<br><br><br><br>Android携帯からの投稿
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<link>https://ameblo.jp/sanbosco/entry-11142405756.html</link>
<pubDate>Sun, 22 Jan 2012 00:05:00 +0900</pubDate>
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<title>幼き頃の思い出</title>
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<![CDATA[ 幼い頃、思い出すのは小学校入学前のことだと思います。ただかなり断片的なのです。天満橋駅からかなり歩いて行くと、大きなお屋敷があり、母と弟と出かけた記憶があります。「お餅のおばあちゃんの家」と呼んでいました。なぜ記憶に残っているかというと、そこで強烈なことがあったからです。一つはそこへ行くと必ずつきたての餅を食べさせてくれたこと。二つ目は、あまりにも廊下が長くて、途中おしっこを漏らしてしまったことです。何よりも廊下が長かった。誰の家なのか覚えていないのです。最近、父に幼き頃の思い出話をした時、おそるおそる聞いてみたのです。すると、「お前は覚えていないのか？お母さんから聞いていないのか？」「うん。覚えていないし、聞いたことがない。誰の家？」と尋ねたら、「あれはお前たちのおじいさんの家だよ。そして私の父の家だよ」という。一瞬「？」となりました。実は父の実父は父が幼い頃に亡くなっていました。さらにそれほど裕福ではなかった記憶があり、「誰かのお妾さんの家」だと思い、父に「えっ！それじゃおじいさんの別宅？」と聞くと、父は「話したことがあるだろう。私が養子に出ていたことを。その時の父の自宅で、あれは母だ。後に実家に戻ったのだ。あのまま残っていたら、そこで結婚していただろうね。でも実家に戻り、お前のお母さんに出会って結婚したんだ。今も思い返してもそれが正解だと思う。ただ結婚後も出入りが許されていて、正月には一緒に挨拶をしに行っていた。お前のお母さんは、私の養父母に可愛がられ、私が行けなくても孫であるお前たちを連れてくるように頼んでいたんだろうね」と言い、懐かしがっていました。私はこのことばを聞いて安心しました。幼い頃の思い出で疑問に思っていることを母が亡き今、父の存命中にちゃんと聞いておかないといけないと思いました。まだまだ私にはあやふやな記憶が残っているので。<br><br><br><br>Android携帯からの投稿
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<link>https://ameblo.jp/sanbosco/entry-11141533567.html</link>
<pubDate>Sat, 21 Jan 2012 02:32:00 +0900</pubDate>
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<title>幼稚園の思い出</title>
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<![CDATA[ 幼稚園の思い出はいくつかあります。一つは学園が火事でグランドに避難したことです。２つめは好きな女の子ができたことです。でも、そのために年長組の子と喧嘩をしたような記憶があるのです。３つめは幼稚園の門を入るとマリア様の御像があって、毎朝挨拶をして幼稚園に通っていました。給食やおやつを食べたり、お遊戯をしたり、お勉強をしたりしました。そういえば、劇もしたような記憶があります。友達はバレーを習っていましたね。シスターや外人の神父さんにも会ったことがあります。外人の神父さんがいる部屋に探検して出会いました。でっかい手をした人でした。幼稚園の先生は、小学校に行っても時々会いに行きました。担任の先生は母の友達になりました。副担任の先生は後にシスターになり、私の家庭教師になりました。この幼稚園から近隣の小学校に通うことになります。弟も同じ幼稚園でしたが、一緒に通った記憶がありません。なぜだろう？<br><br><br><br>Android携帯からの投稿
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<link>https://ameblo.jp/sanbosco/entry-11132458682.html</link>
<pubDate>Tue, 10 Jan 2012 22:53:00 +0900</pubDate>
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<title>幼稚園の頃</title>
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<![CDATA[ 最初は保育園に通っていたと思いますが、その記憶がありません。記憶にあるのは、「青い鳥幼稚園」という巡回幼稚園です。浪速短大が主催していたと思います。母は子供を幼稚園か保育園に入れて社会性を身に付けさせようと考えたようです。結局、一番安かったミッションスクールの幼稚園に入れました。それが大阪信愛女学院短大附属幼稚園でした。家から遠く、スクールバスに乗って通いました。<br>幼稚園ではお祈りや歌などを教えてもらったと思います。我が家の習慣が母の好きな方向に変化していきました。以前は朝起きると、太陽に向かって拝礼し柏手をたたき、次に位牌に飯を盛り、祖父たちに挨拶をして鐘を鳴らしていました。これにカトリックの食前のお祈りが加わり洋風化してきました。実に近代的な日本へ変化しようとするところでした。<br><br><br><br>Android携帯からの投稿
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<link>https://ameblo.jp/sanbosco/entry-11131583943.html</link>
<pubDate>Mon, 09 Jan 2012 23:30:00 +0900</pubDate>
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<title>幼き頃</title>
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<![CDATA[ 家は貧しかったが、色々な工夫がされていて、それを両親は感じさせなかった。着る物は着物が多かったが、買ったものではなく、母が仕立てたものでした。蒲団も作っていた記憶があります。母の母は和装仕立てを教えていました。母は新しい物にはまることがあり、洋服は作ってくれたり、洋画の影響を受けて紅茶を飲む習慣ができたり、おやつの時間ができたりしました。一番嫌な習慣は、眠る前にキスをすることでした。そういう習慣が見られない時代に、その習慣が生まれましたが、さすがに嫌がる子供たちを見て、その習慣は廃れました。家の中はいつも清潔でした。特に気をつけていたことは食事だったと思います。私が急性胃腸炎で生死をさ迷ったことがあり、相当気を配って吟味して作っていました。最初の子供ということもあったのでしょう。魚は骨を取って身だけにして食卓に出していました。割合豊かな食事でした。ジンギスカン鍋、秋田の切りたんぽ、当時の関西にはなかった納豆、すき焼き、湯豆腐、カレー、鍋物、煮付けなどが出ていました。父の食事だけ特別でした。母は父が家庭を維持していることを話し、なぜ特別なのかを父の仕事先を見学させました。感謝することを学ばせたのです。父はこのようにして教育されたのでしょう。<br><br><br><br>Android携帯からの投稿
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<link>https://ameblo.jp/sanbosco/entry-11064045145.html</link>
<pubDate>Mon, 09 Jan 2012 10:05:00 +0900</pubDate>
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<title>始まりの話</title>
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<![CDATA[ 始まりの話。<br>幼い頃の思い出の一つは、家族と一緒に様々な場所に出かけたことだ。両親は色々な体験を通して、成長してくれることを願ったのだろうか!?<br>夏は海水浴や登山、飯盒炊飯などのキャンプ。秋は紅葉狩り。冬はスキー。当時としては斬新な家庭だったと思う。好きな事もあれば、苦手なものもある。でも大人になった時、ほとんど困らなかったのはこういう体験の賜物があったからだ。<br>両親は幼い頃、そういう体験が少なく、家庭を持ったら、こうしようと考えていたと言う。私達兄弟はこのような両親と共に生活していた。ただ父は仕事で出張することが多く、しばらく家に帰って来ない生活をしていた時、わが子から「知らないおじさん」と言われたのがショックで、出張先から子供宛に手紙をせっせと書いたと言う。<br>たまたま家の掃除の時に見つけて、母はそれが証拠だと言った。年子を産んだ為に、相当苦労したと言う母あり。私が眠っている間に風呂屋に行っても、途中私が目をさまして大声で泣くので、大騒ぎになったことがあったと言う。わんぱく過ぎて、あの子と遊ばせると大変なことになると言われたことがあると言う。そう言えば、父が家で仕事をしていた時、大切な物に触れたかして、隣の部屋まで投げ飛ばされたことがあった。またある時は近所の子が遊んでくれなかったこともあったな。<br>そういう子供であった半面、親が心配することが２つあったと言う。一つは独りでお使いができるか？試したらしい。後ろからつけながら見守ったと言う。もう一つは大人しく何もしゃべらないので、心配した両親はいつも話しかけたと言う。今日は何があったのかというようなことを。そのおかげで、しゃべるようになったらしい？<br>両親は子育てを参考書を読んだり、近所の人に聞いたりしながら、試行錯誤で体験を積み、弟を育てる時にはベテランになっていた。私を育てるのは試し運転のようなもので、失敗も数多くしたが、私のような子供だったので、実害は少なかったようだ。<br>大変な子育てで、まだ終わったわけではない。どんな人間として社会に貢献しているのかを見届ける迄、親の気苦労は終わらない。<br><br><br>Android携帯からの投稿
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<link>https://ameblo.jp/sanbosco/entry-11064202093.html</link>
<pubDate>Mon, 09 Jan 2012 10:04:00 +0900</pubDate>
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<title>母とのこと</title>
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<![CDATA[ 幼かった頃の思い出は、あまり思い出さないが、時折鮮やかに頭に浮かぶことがある。そんな時、母に聞いていた。今は、その母はいない。宮崎に転勤になってから亡くなった。それまで何回か入退院を繰り返していた。入院中は何回もお見舞いの催促があり、行くと喜んでくれた。あまり行かなかったのは、愚痴を聞かされるからだ。元気だった時は、両親揃って食事によく行ったなぁ。1ｹ月に1回の約束で、出かけた。大阪にいた時だ。他の方たちを帰省させるために、私は地元という理由で実家に戻れなかった。短いながらも、お互いの安否やとりとめのない世間話をしていた。とても楽しい時間だった。<br>今は、父だけだが、弟家族と住み、元気だ。その父に昔の幼かった頃の話を聞くと、母とは視点が違うので、驚くことが多い。同じ出来事にも違った側面があることに気づく。そのことは母の死によって、さらに深く気づかされた。<br><br><br><br><br><br>Android携帯からの投稿
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<link>https://ameblo.jp/sanbosco/entry-11065368029.html</link>
<pubDate>Thu, 17 Nov 2011 13:38:00 +0900</pubDate>
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<title>母の偉大な力</title>
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<![CDATA[ 小さい時の思い出には、歌舞伎や文楽や三味線などがある。誰に連れてもらったのかさだかではない。その事を先日、おやじに聞いてみると、あれは恐らく、お母さんのお母さんだろう。かなりハイカラな人だった。父は母と出合い、その影響で今があると言う。母と出会った時、父には婚約者がいたらし。もし、その婚約者と結婚していたら、自分はダメになっていたかもしれない。金持ちで裕福な、世間を知らないままダメな人生を送ることになっていたかもしれない。母はハイカラで、趣味が豊富だった。自分はチャンバラの映画や小説が好きだった。しかし、母は洋画や文学が好きだった。デートで映画館に行くと、チャンバラと洋画に分かれて互いに好きなものを見ていた。ある時期から一緒に洋画を見るようになり、次第に母の好きなジャンルに付き合うようになった。今の自分は、お前の母の教育の賜物なのだ。親戚一族は、母との結婚を最終的には認めた。そして一族の長老からは、「一族の要になる人物」と占いに出たと賞賛されたらしい。<br>女性は結婚となると、スゴい力を発揮するものなのだ!!<br><br><br><br><br>Android携帯からの投稿
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<link>https://ameblo.jp/sanbosco/entry-11065243494.html</link>
<pubDate>Fri, 11 Nov 2011 23:57:00 +0900</pubDate>
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