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<title>現代版　「つれづれぐさ」　by ケイコ</title>
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<description>現代人の日常から非日常を描くケイコのブログ</description>
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<title>誰の人生も過酷</title>
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<![CDATA[ <p>「誰の人生も過酷であるという点において共通している。人は生まれた瞬間から、死に向かって生きているという意味において、哀しい存在なのだ。思惑通りに転がる人生など、どこにも存在しない。そのことを一日も早く知ることだ。そして九割方の苦しみの中に時折存在する、一割程度の喜びを、大切に思うことだ。」（大石静　『妹たちへ　日経ウーマン編』）</p><br><p>本当に力強い言葉。</p><p>人間の生きる意味たる点の本意を理解している人にしか綴れない言葉。</p><p>私のサプリたる言葉でもある。</p><br><p>最近、しみじみと感じることの１つに、人間って２０も３０も４０、５０、６０、７０も…それこそ祖母の年齢でもある８０才になっても、悩みってつきものなんだってこと。それは人生という空間と表裏一体なのだ。今日は何食べよう、何買おうっていう日常の迷いから、本当にこのままでいいのか、どんなとこに就職しようか、っていう人生の進路のことに至るまで人間は選択に悩み、選択した方向に突き進むことで人生の一ページを創造していく。</p><br><p>あたり前だけど、それが人間の輪廻。</p><p>あたり前だからこそ、こんな風にふと振り返ってみることって大事。</p><br><p>誰の人生も過酷。<img height="16" alt="波" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fblog.ameba.jp%2Fucs%2Fimg%2Fchar%2Fchar2%2F025.gif" width="16"></p><p>でもさ、その過酷さを乗り越えていきながら、人間って社会性を身につけて人生の新たな一ページを刻んでいくんだな。<img height="16" alt="音譜" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fblog.ameba.jp%2Fucs%2Fimg%2Fchar%2Fchar2%2F038.gif" width="16"></p><br><br>
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<pubDate>Wed, 25 Oct 2006 17:18:43 +0900</pubDate>
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<title>高校生の文化祭</title>
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<![CDATA[ <p>妹の文化祭に行き、心の底から楽しんでいた妹の姿をみることができた。率直にいうと、姉として実に嬉しかった。「嬉しかった」というこの私の感情は、妹だからということ以上に、きっと妹を含む全校生徒達が「文化祭を心から楽しもう！」という積極的な気持ちで文化祭を創り上げている姿勢によるものではないかと感じた。</p><br><p>高校の文化祭って、本人達が存分にハシャギ、楽しむことができれば文化祭としての意味合いは十分に果たすことができたと改めて思う。大学のように来校する「お客さん」に対して日頃の研究成果たるものか何かを発表・披露するという場というよりも、高校生の本人達が本人達自身で文化祭を創り上げることが、総じて高校生の文化祭なのだ。文化祭を形にしていくその過程から、本人達の文化祭は始まり、文化祭が終了した時に彼らの心の中に大きな充実感と達成感が湧き上がってきたのなら、文化祭の意義は大いに果たせたと思う。</p><br><p>それ以上何を望もうか。</p><br><p>高校時代はいかにして自分達で創り上げるか試行錯誤することを初めて試みる場でもある。</p><br><p>それは決して文化祭に限らず、部活動、委員会、自治会、授業内のグループワーク、友人との遠出の企画に至るまですべてに通じる。そうやって、徐々にではあるが、自ら考え、行動に移すことのできる知情意を円満に発達させることができるのだ。</p><br><p>これからの社会を担っている「若者」という括りでは、私自身もその一員であることには間違いないが、久々に私よりも若い世代のこういった情熱や、必死になって頑張っている姿を間近にみたことで、これからの社会を一緒に創っていく者として大きな責任さえ感じた。<img height="16" alt="チューリップ赤" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fblog.ameba.jp%2Fucs%2Fimg%2Fchar%2Fchar2%2F061.gif" width="16">収穫の多い一日だった。</p>
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<pubDate>Sun, 24 Sep 2006 20:57:09 +0900</pubDate>
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<title>「金木犀の香りがしていましたね。」</title>
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<![CDATA[ <p>先日、矯正歯科に行った時、こんな言葉を掛けられた。</p><br><p>「今日はこんなに天気もいいし、金木犀の香りがしていましたね。」、と。</p><br><p>私はそのような言葉を言われた時、そうだったっけ、そんな香りはしてないはずだったが、あっでも自分の気のせいなのか…いや、どうせ仕込まれた「営業トーク」か「マニュアルトーク」でしょ、、と下種の勘ぐりとまでは言いたくないが、勘ぐり深く思ってしまった。大人社会はそんなもの。そう、お世辞、世間体、世間への顔向け、本音と建前な社会なのだと。</p><p>でも、最寄り駅を下車した時の帰り道、仄かにではあるが金木犀の香りがしてきたのだ。この、私のちっこい鼻に。<img height="16" alt="ブタ" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fblog.ameba.jp%2Fucs%2Fimg%2Fchar%2Fchar2%2F012.gif" width="16"></p><br><p>彼女の言葉は、決して「営業トーク」でも「マニュアルトーク」でもなく、彼女自身の内面からの喜び、日々のちょっとした季節の変化の喜びを端的な言葉で表現したものだったのだ。</p><br><p>翻って、大人は大抵そんなものだという勘ぐり精神を抱いてしまった私。そう、先入観ないしは貼り付けレッテルが私の勘ぐりを助長していたのだ。でも、そんな自分の顔を背けたくなる「嫌な側面」を発見できたと同時に、彼女から季節の変化と純粋な心を持ち続けることを学ぶことができた。彼女のあの「金木犀の香りがしていましたね。」という言葉を聞いてなかったら、こんな些細だがとても趣き深い季節の到来を肌で感じることはなかったことだろう。</p><br><p>日常の生活こそ、人生。日常の喜びこそ、人生の喜び。<img height="16" alt="キラキラ" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fblog.ameba.jp%2Fucs%2Fimg%2Fchar%2Fchar2%2F123.gif" width="16"></p><p>そんな単純だが、人生を豊潤にする薬をその方からいただけた気がした。ありがとう。</p>
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<link>https://ameblo.jp/sango35/entry-10017408138.html</link>
<pubDate>Sat, 23 Sep 2006 20:36:22 +0900</pubDate>
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<title>富とは、まじめな努力の副産物</title>
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<![CDATA[ <p>金銭で図られる経済的な「富」はともすると、それを得た人間の天賦の才能だけによるものだと語られることが多い。</p><br><p>その人だけが持ちうる運。たまたま好運だったから、と。</p><p>それこそそういった人達は、金銭では計り知れない価値を世の中に生み出したことによる「富」を手にした人間を見る度に、あるいは、そういった類の話を聞く度に、</p><p> </p><p>「自分には、そんな天才的なことできっこない。」「自分とは別世界の話だ。」と思う人はどれほどいるのだろうか。</p><p>確かに、先祖代々受け継がれてきた「富」はあるし、それにあぐらをかいてあたかも自らが成し遂げた結果だと夜郎自大に跋扈する人間もいる。だが、ここではそういった境遇の人は除外して考えてみたい。</p><br><br><p>富とは、たまたま手にした天からその人のもとに舞い降りてきた好運でも、たまたまその人が優れてるからといって天が与えたモノでもない。</p><br><p><br></p><p>集約してみると、<font color="#ff0000">富とは、その人のまじめな努力の副産物なのである。</font></p><p><font color="#ff0000"><br></font></p><br><p>歪曲でも何でもなく、日夜努力してきたことがある時点を堺に、それが認められ、世の中にアウトプットしてくるのだ。ただし、ここが重要。ある時認められるまでは、紛れもなく、血と汗と涙の塊のような努力の結晶のようなものがピタッと添うようにへばりついているのだ。</p><br><p>世のスーパーモデルも、歌手も、俳優も、脚本家も、作家も、野球選手も、格闘家も、お笑い芸人も、起業家も、漫画家も、どんな職種に就いている人も満遍なく。もちろんもっと身近なことを言うならば、何かの資格取得にせよ、就職・転職活動、趣味の腕の向上や研究成果、運動によるシャイプアップ、食事への気配りのよる内面の美の追求にせよ、何にせよ、</p><br><p>富とは、その人のまじめな努力の副産物なのである。</p><p>この言葉なくては、おそらく彼女らや彼らは存在していないといっても過言ではないだろう。</p><p><font color="#ff0000">キーワードは「まじめな努力」。</font></p><br><p>まずは、まじめに生きること。<img height="16" alt="アップ" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fblog.ameba.jp%2Fucs%2Fimg%2Fchar%2Fchar2%2F173.gif" width="16"></p><p>以下の、某モデルを第三者が非常に高く評価していた文章を読んでもらうと、私が言うところの「まじめな努力」がより鮮明にわかるだろう。その論者は、あの妖艶な美貌―細い足に、美曲線、ストレートな髪を維持するには相当な心がけとそれを裏付ける努力がなくちゃ、絶対にできない、と。続けて、世の中の流行を形作る最先端にいる女性としての意識とその自覚が、彼女自身の美貌維持の大きな支えであり基盤にある、といった内容だったと思う。今を輝くスーパーモデルは、モデルとしてこの世に生まれたのではなく、自らを磨けば光るダイヤモンドのように、日々精進してきた結果として「スーパーモデル」という職業で、今を輝いているのだ。</p><p>これは、万人に知られる職種に就かぬ人だって、同じこと。万国共通であり、万人共通。<br></p><p>自分の中にある強い思いや価値が、結果的には自分の内面の輝きを増し、それが世の中に開花した時、自分にしか生み出せない富を手にできる。自分にしか生み出せない価値を生み出す才能。これを生み出すには、一朝一夕にはできない涙ぐましい努力あってこそのことなのだ。もし、どんなに努力してもシェイプアップしないし、語学も身に付かない、それに周囲からの評価も上がらないっていう人がいるなら、一言言いたい。成し遂げるまで努力しな、と。そうでなきゃ、自分の努力が足りないんだよ、と。自分の限界まで挑戦して初めて達成感というものの裏にある、自分の内面での確かなる変化が見えてくるんだから。</p><br><p>檜の大舞台の頂上へ辿り着くことができるのは、ただただただ、その本人の「まじめな努力」によるものなのだ。</p>
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<link>https://ameblo.jp/sango35/entry-10017287538.html</link>
<pubDate>Wed, 20 Sep 2006 21:50:47 +0900</pubDate>
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<title>「人生は一度しかない。だが、生き方は一つではない。」</title>
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<![CDATA[ <p>「人生は一度しかない。だが、生き方は一つではない。」</p><br><p>私が好きな物書き人の一人である、柳沢有紀夫さんの著書『会社を辞めて海外で暮らそう』より得た言葉である。</p><br><p>「人生は一度しかない。だが、生き方は一つではない。」</p><br><p>私が、これまでの人生の経験の中で心得ているようで、実は虚構のごとく自己の中で風化させてしまっていた言葉だったかもしれない。昨日、前出の書籍を読んで、ハタと気付かされた自分がいた。</p><br><p>当たり前のことを、当たり前のように明言化している。でも、その言葉の容易さ平坦さがかえって私にとって、新鮮であったりする。</p><br><p>私は別に「お利口さん」を演じているわけでも、自分の本心に背いているわけでもないが、やはり見ず知らずのうちに、自分の中でブレーキをかけてしまっているのだ。世間体、社会通念、慣習、不安感、時期、年齢、、、理由はわからないのだけど。</p><br><p>高速走行してこそ本来の力が発揮されるフェラリーが、低速走行したら一気に、本来備わっている価値が下落するように、自己の発揮する最大の力と才能、そしてその機会を逸することなく生きている人ほど素敵なものはない。</p><br><p>だからこそ、自分に屈することなく、心のブレーキよりもアクセルを思う存分使うこと。そして思いっきり前進していく。</p><p>それが結果的に、比類なき「自分だけの生き方」という宝を手にできる手段だという気がしてならない。<img height="16" alt="流れ星" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fblog.ameba.jp%2Fucs%2Fimg%2Fchar%2Fchar2%2F114.gif" width="16"></p><br>
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<pubDate>Thu, 07 Sep 2006 22:37:47 +0900</pubDate>
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<title>「自分探し難民」たちへ</title>
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<![CDATA[ <p>「仕事とは、夢と生きがい以前に、数字の積み上げや、記録のチェックという地道な作業の積み重ねなのである。」</p><p>（篠田節子　『妹たちへ』日経ウーマン編より）</p><br><p>さもありなん。</p><br><p>夢を仕事に、夢を仕事に、その前に自分探しを、自分探しを、と時代を象徴するキーワードかのように独り歩きしている言葉たち。だからこそ、「自分探し難民」に含められるニート、フリーター、就活浪人、、、という自らを労働という場に投じることをおそれてしまい二の足を踏んでいる若者達が溢れている。もちろん、「自分がしたいことがわからない」ことを理由にそういった境遇に陥っている者とは限らない。</p><p>が、私は思う。「夢をもっと追いかけたい」「自分探しのために留学を」「勉強したくないけど何がしたいかわからないから大学院に」と、さも自ら道を切り開いているかのように見せている若者たちは、夢や自分探しといった幻想物語を現実社会から「逃避の手段」として理由付けしていることに他ならないのだ。過大表現ではなく、今まさに底無し沼にはまりつつある彼ら。</p><p>彼らは、現実の仕事の大変さ、骨折り、ストレス、といった負の側面ばかりに目を向け、本来の仕事がどういうものか経験することなく、躊躇してしまっているのだと思う。メディアあるいはネットからの情報だけを頼りにして、自らを温かなマユの中に閉じ込めているように。</p><br><p><font color="#ff0000">現実社会から逃げているのだ。</font></p><br><p>だが、彼らばかりを責めるつもりは毛頭ない。</p><p>１億中流階級に達し、親の金銭的な授受できるほどほどの満足な生活を享受できる社会構造、受験戦争に必死になる親による自立心の芽生えが極端に遅くさせる生育過程・環境、お「イエ」意識が未だに根強い社会通念・認識、未成熟な文化意識。こういった諸々の事情が網目状に絡まりあい、「自分探し難民」人口の温床が形成されているのだ。</p><br><p>仕方なしでは済まされない現状。</p><br><p>ただ、今を生きる同世代として、唯一私ができることは、この現状を発信して周りに伝えていくこと。その地道な言動がまずは私の身近な友人知人に作用させ、それが私の友人の友人に何らかの影響を与え、友人の友人の友人へといった具合に、連鎖的に広められるのだ。</p><br><p><font color="#ff0000">夢や生きがいを追い求めることだけでは、何も生まれない。</font></p><p><font color="#ff0000"><br></font></p><p>けれども、目の前にある―仕事というツールを使って自らを生かすことで、生まれるものはあるのだ。そこから見えてくるものもあるのだ。</p><br><p>まずは、あなたのはじめの一歩を踏み出すこと。</p><p>はじめの一歩を踏み出さなきゃ、自分の部屋すら出れないように。<img height="16" alt="足あと" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fblog.ameba.jp%2Fucs%2Fimg%2Fchar%2Fchar2%2F005.gif" width="16"></p><br>
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<pubDate>Wed, 06 Sep 2006 17:30:01 +0900</pubDate>
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<title>失敗したのは、歩みだした証拠</title>
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<![CDATA[ <p>「日本の官僚社会では東大（すべての科目が<font color="#ff0000">平均的によくできる</font>、失点があると入学できない大学）出身の男女が出世をめざすとき、いかに何かをするかではなくいかに失敗をしないかをテーマに鎬を削ります。この傾向は政治にも会社組織にも強く、出世をして地位を得るためには、いかに失敗しないかが大切なポイントとなります。いかに自分の責任にならないかについて考える生き方は減点主義であり、親は子供に安全な生き方とは失敗をしないことだと教えこみます。　失敗しない生き方とは何もしない生き方です。」（『Be Yourself 「私」を主語にして生きる』（海原純子著　ＫＫベストセラーズ） 　　</p><p>　</p><p>     失敗を恐れて、前進できない人。　　　</p><p>     失敗する何で自分の性じゃない、あるいは人に顔向けできないと思ってしまう人。</p><p>     あるいは、失敗をするなら、何もしない方がいいと、妥協して温かなマユの中に居続ける人。</p><br><p>こう思う人が、　日本にはどれほど溢れているだろうか。</p><br><p>残念ながら日本の教育過程、生育過程、環境すべてが、なるべく“マイナス”を出さないように、という理念が前提ないしは基盤にあるのではなかろうか。これらの傾向は、潜在意識下にあるものだけあって、日本という閉鎖的社会を客観的に直視できた人間だけが、理解できる領域なのかもしれない。 </p><br><p>書店に一歩足を踏み入れても、『こうやったら成功する１０の法則』『○○の成功術』『ＯＯ株式会社の成功秘伝』『あなたも○○ヒルズ族に』　（仮題）と、こういった内容を示す題名がこぞって顔を見せている一方、『失敗の克服方法』『失敗に直面した私』というような書籍を見たことがあるか。もちろん皆無とは言えないが、あったとしてもどれほど肩身を狭く陳列されていることか。あるいは、売れ行きがさほど芳しくないと見切りをつけた出版社が取り扱わなくなったからか、事情はよくわからない。 </p><p>しかし、これらの根本にあるのは、すべからく<u><font color="#ff0000">「失敗を許さない」日本の社会通念</font></u>のように痛感する。</p><br><p> なるべく親の期待に応えられるように、親の恥じにならないように、親戚・近所に顔向けできるように、と自分を抑制してきた人ほど「失敗は許すべからず精神」を持っているものなのだ。</p><p>そういう人間に対して声を大にして言いたい、</p><p>石橋を叩いて渡ることはなにも咎めはしないが、石橋が無くなってしまわないうちに「早く」叩くべきだ、と。 </p><br><p>ゆえに、チャンスは失敗を前提にする。 もっというなら、新たな挑戦もまた失敗を前提にするのだ。</p><p>そうやって先人は、世界に向け新たなダイナミズムを、そして新たな豊かさを社会にもたらしてきのだ。 </p><br><p>失敗を恐れずそれを受け入れ、さらに前進し続ける自分でありたい。 <img height="16" alt="虹" src="https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fblog.ameba.jp%2Fucs%2Fimg%2Fchar%2Fchar2%2F026.gif" width="16"></p><br>
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<link>https://ameblo.jp/sango35/entry-10016481209.html</link>
<pubDate>Thu, 31 Aug 2006 22:28:07 +0900</pubDate>
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<title>ある一つの生き方を選ばなかったからといって、それを捨てたことにはならない。</title>
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<![CDATA[ <p>「或る一つの生き方を選ばなかったからといって、それは捨ててしまったことにはならない。<br>何かを選んでいくことの繰り返しこそが、その人の人生を物語り、その人自身を物語るのである。</p><p>そして、選ばなかった生き方の中にもまた、その人自身がいるのである。」</p><p>（小池真理子　『妹たちへ』日経ウーマン編より）</p><br><br><p>この一節を読んだ時、なんだか私の背後にあった重荷が一気にドサッと落ちていく感覚を覚えた。</p><p>この新鮮で珠玉たる言葉。</p><br><p>過去のことをグジグジ悩み悔やむのは私の性ではないが、時として、フッと感慨にふけってしまうとき、</p><br><p>　　　　今アメリカに住んでたらどうしてただろう、</p><p>　　　　ドイツに行ってたらどうしてたのだろう、</p><p>　　　　あのままああしてたら、私は今ここにいないのだろうか、　　と思いを馳せたこと、一再ならず。</p><br><p>だけど、上記した前後の文章の中で、小池真理子さんご自身が「もし、ああしてたらどうなってたのだろう・違う道を歩んでたのだろうか」と不思議さを込めて文章として綴っていたことに、ある種の共感を得たとともに、どんなに強靭なパワーを持つ人間がいたとしても、その人が人間である限り、数多くの選択肢の中から、<font color="#ff0000">「１つの人生」</font>を選択せざるを得ない運命にあるのだな、と感じた。</p><p>これは、万人に通じる「運命」なのだ。変えられる運命だが、どんなに欲張っても１つしか選択できない「運命」。</p><br><p>でも、選ばなかったからといって、確かにそれを捨てたことにはならない。</p><p>これは過去を惜しむ後悔といった安易な感情ではなく、捨てた人生も、脈々とその個人の中に生きつづけているものなのだ。</p><br><p>人間は生まれた瞬間から死に向かって人生という名の<font color="#ff0000">「時計の針」</font>を進めている。当然、電池が止まらぬ限り、人間は常に歩き続けているし、過去を遡る逆戻りなんぞはできない。</p><p>が、どんな状況にあったとしても、個々の力量次第で、その時計の瞬間瞬間の質や価値を高めることはできるのだ。</p><br><p><font color="#ff0000">選択の繰り返しこそが人間の人生。</font></p><p><font color="#ff0000"><br></font></p><p>だからこそ、どんな選択をしたにせよ、私は私自身の時計を常に価値あるものにしていくことが、私を大きく飛躍させるのだ。</p><br><br><br>
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<pubDate>Sun, 20 Aug 2006 14:12:44 +0900</pubDate>
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<title>女性が一人でパーソナルスペースを回復できる場</title>
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<![CDATA[ <p>「女性が<u>一人で</u>パーソナルスペースを回復できる場」が日本にはあまりにも少ない。</p><p>いや、あっても大半の日本女性はその場所には疎遠か、はたまた知っていても遠ざける傾向にあるような気がする。</p><br><p>『どうして「まじめな男」「頑張る女」が満たされないのか』（海原純子著・大和出版Ｐ１６３）</p><p>この著書の中では、「女性１人はお断り」という暗黙の了解　が日本では成されていることをトピックの１つとして言及していた。</p><br><p>この傾向は女性自身の中にある①羞恥心と②社会（外）からのジェンダー的見られ方の２点が強すぎるほどお互いに作用しあっているゆえんがあると思う。</p><p>ヨーロッパのように、芝生に横になって、街中のベンチに座って、木に登ってあるいは静かなカフェでゆっくりと読書をしてパーソナルタイム・スペースを確保するという空間が日本には皆無である。</p><p>カフェにせよ、アベックがラブラブ話で盛り上がってたり、女性同士が旅行計画を立ててたり、おじさま方が会議の延長線上の談話をこなしていたり…etcと一人の個人が、一人で自分のための時間を費やすためにカフェに寄るという認識や選択肢がないのだ。もし、ヨーロッパの慣習を私個人が日本に持ち込むのなら、その慣習を知らぬ多勢の日本人に大きな拒否反応が生じる。</p><p>見えぬ壁が私の周囲に立てられるならまだしも、私１人でカフェに行くと、プレッシャーともいえる目に見えぬ圧力・視線が自分に注がれるだろう。それが私のパーソナルタイムを窮屈なものにするのなら、私にとっての憩いの場にはならないことは確かだ。</p><br><p>いや、ゆっくりした時間は自宅でも過ごせる、だからカフェは友達とワイワイする場所として使うのだ、という意見もあろう。</p><p>だが、自宅でもパーソナルスペースを確保できない人間はどうしたらいいのだろうか。自分で外に向かってパーソナルスペースを請いているのに、それが供給さ得ない国、日本。</p><p>私のプラーベートな時間を社会に求められない国に私は住んでいるのだ。</p><br><p>これを受け入れるだけの度量や精神的な余裕は、私にはない。</p><br><p>ゆえに最終的には、自分で、自分自身に最もフィットする道を探さなければならないのだ。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/sango35/entry-10015851596.html</link>
<pubDate>Tue, 15 Aug 2006 14:33:16 +0900</pubDate>
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<title>「みんなと同じことができない人は、みんなと違うことができる」</title>
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<![CDATA[ <p>「みんなと同じことができない人は、みんなと違うことができる」</p><br><br><p>私が好きな医学博士兼エッセイストの海原純子さんが書かれた著書『こころの格差社会』（角川書店）の中での一節である。</p><br><p>正体不明の大多数である、「みんな」と同じことができないからといって、自分を卑下する必要なんて毛頭ない。そんなメッセージがじんじんと胸に伝わってくる。</p><p>「みんな」と一緒じゃなくちゃ<font color="#ff0000">不安</font>、「みんな」があれ持ってるんだから自分も持たなくちゃ<font color="#ff0000">いけない</font><font color="#000000">。</font></p><br><p>こんな心理は特に幼少の頃まで、私には強くあった。けれど、日本を出て広い世界を知るうちに、一過性の「流行」たる現象は日本だけと言っても過言じゃないし、「みんな」神話も日本特有のモノだと知った。</p><p>確かに日本は「集団性」をものすごく重視する社会だ。例えば受けてきた教育現場の中だけでも、修学旅行、受験、クラブ活動にまた受験、そして極めつけは集団就職活動という慣習…と十指に余るだろう。</p><br><p>集団で行動することで、協調性が養われることは確かだ。<br></p><p>けれど、自己を主張する能力、他人と違う自分に重きを置ける価値観や他人色に染まらないで自分の尺度で生活する力を含め、この社会に生きる日本人が失ってきたモノ、個々から削がれるモノも多いことも確かなのだ。</p><br><p>自分はあれができない、これができない、こんなの自分には無理難解、最低だ、と様様にして嘆く人間が多いが、そういう人にこそ、この一節を自身の、価値観の血や肉としてほしい。</p><br><p>「みんなと同じことができない人は、みんなと違うことができる」</p><br><p>これが当然だという社会になるには、およそ１００年先かもしれないし、それ以前に、私たち個々が「みんな」現象の危機さに気付かぬ限り、「みんなと同じことができない人は、みんなと違うことができる」を肯定できる社会は、到底訪れるものではないという気がしてならない。</p><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/sango35/entry-10015755301.html</link>
<pubDate>Sat, 12 Aug 2006 20:44:20 +0900</pubDate>
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