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<title>佐藤安弘のブログ</title>
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<description>佐藤安弘のブログ</description>
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<title>続ナイスガイ・グッドハート</title>
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<![CDATA[ <p>北大の名物監督・今宮明男さんが、お亡くなりになったのは、今から８年前の秋だった。その時の追悼特集に書いた文なのだが、話の筋として、どうしても外せない。<br>━━━札幌郊外の里塚斎場には、静かな雨が落ちていた。今宮さんの葬儀の大詰め、ポツンとたたずむ俊子夫人は全身で泣いていた。２００３年（平成１５年）９月２５日初秋、昼というのに、冷たく、寒かった。<br>　僕が在学当時、俊子夫人は、いつも２人の子供を連れて、中島公園や円山球場に、今宮さんが指揮する僕達の試合の応援に駆けつけてくれていた。そうした情景から「なんて仲の良い夫婦なんだろう」と受け止めていた思いが、今でも鮮明に浮かんでくる。青年期に差し掛かっていた僕は、夫婦が互いに尊重・尊敬合い、助け合って生きていくという大切なことを今宮さんご夫妻をみながら学んでいたのだろう。<br>　今宮さんは富良野近郊の山部村（現・富良野市山部）の村長を務める平瀬家の４男１女の次男として生まれ、やがて一家は小樽へ移る。６歳の時、「是非に」と請われて、親戚の家の養子になり、旭川中（現旭川東高）を卒業して、北大予科に入った。その予科生の下宿時代に、北星の女学生・俊子さんと知り合うことになる。戦後の１９４７年（昭和２２年）９月、北大理学部を卒業。山下生化学研究室で、研究生活を続けながら、理学部副手→助手と進むうち、愛を育んできた俊子さんとの結婚を決意した。しかし、教員をしていた養父が猛反対した。俊子さんが５歳の時、７つ上の兄（後に中国で戦死）と遊んでいて、ガラスの破片が突き刺さったため、左目が義眼になっていた。養父はそれにこだわった。が、それで怯むような今宮さんではなかった。<br>　「俺が俊子を守らないでどうする。絶対に嫁にする」<br>頑固者・今宮さんの面目躍如だった。１９５０年（昭和２５年）４月２９日、結婚式にこぎつけた。ただ結婚まで時間がかかった事情は、他人に明かすことではない。２人だけの秘め事とした。葬儀に際し、僕のしつこい取材に対して、ようやく教えてくれたエピソードだ。<br>　慈しみ合いながら金婚式を経たご夫妻の生活だが、後半生は病との壮絶な戦いだった。今宮さんは５０代になってバージャー病（突発性脱疸）で片脚を失い、６５歳の時に脳梗塞に襲われた。強烈な克己心で懸命のリハビリに取り組んだが、今度は俊子夫人の方も子宮がんと、それに続く動脈瘤による開頭手術を乗り越える試練が待っていた。それでも二人の絆が揺らぐことはなく、手を取り合い、歩み続けた。<br>　「私は明男さんのお陰で、素晴らしい人生を送ることが出来ました。あんないい人はいません。私も早く明男さんの元へ行きたいのです」<br>　僕は、学生時代もそれ以後も、今宮さんと人生について語り合った事はない。でも僕の心の中では、いつも言葉を交わしてきたし、これからも語り合っていくことだろう。今宮さんは永遠に生きている。２００１年（平成１３年）７月２１日、中島パークホテルで催された北大野球部創部１００周年行事で、僕は記念講演をさせてもらったが、演題は「ナイスガイ・グッドハート」。今宮さんをイメージして考えたものであることは言うまでもない。わが野球部に連なる諸君、いつまでもナイスガイ・グッドハートでいようぜ！━━━</p><p>１０年前には、今宮さんも車椅子とはいえ元気いっぱいだった。あれから月日が流れ、平成２３年７月２日午後６時、、札幌サンプラザで１１０周年が行われた。やや遅れて会場に到着、指定の長老組のテーブルに付いて驚いた。ひょいと隣を見ると、なんと今宮ご夫妻がいるではないか。夢か幻か？――。俊子さんは確かに本人であったが、隣にいるのは長男の廉君（５１年卒）だった。確か６０歳近くになるのだが、今宮さんと見間違えるほど瓜二つになっていた。特徴だった真っ白の頭も全く同じだった。<br>　最後の方で、予定外だが、特別に壇上に立たせてもらった。「いやあ、とにかく驚きました。甚だ失礼な話ですが、今宮夫人は、とっくにお亡くなりになったとばかり勝手に思い込んでいたのですが、元気なお姿を見て、こんなうれしい１１０周年はありません。しかも、“アンコウさんの学生時代、お母さんが、よく旭川から出ていらして、円山公園で、一緒に応援したのを思い出しますよ”と思い出を語ってくれました。これを泣かずにおれますか」――マザコンの僕にとっては、亡き母を思い出させてくれ、これ以上ない最高の１１０周年行事、東京からわざわ出て行って甲斐があった<br>　俊子夫人は、８０歳前後と思うが、現在は札幌・発寒で、同じ敷地内別棟に、二人の息子さん家族も住まわれているそうだから、安定した未亡人生活を送っておられる。でも「いつも明男さんが早く迎えに来てくれないかと、首を長くして待っているのですが、なかなか現れないんですよ」と真剣な顔で話されていた。仲の良い夫婦とは、こういうものなのだろう。なにかすがすがしい気持ちにさせられた。<br>　翌３日は、朝７時に、柴田君（昭和５５年卒）が、ホテル前まで迎えに来てくれ小樽商大グラウンドまで連れて行ってくれた。９時からのＯＢ軟式の部で、お情けで１番を打たせてもらったが、３球三振。捕逸で１塁まで全力疾走（自分ではそのつもりだが、実際は早足程度なのだろう）してセーフ。黙ってじっとしておればいいのに、若き時代に戻った気になり、初球に２盗を敢行。１０メートルもいかないところで、右足脹脛に激痛が走りダウン。７５歳の恥をかくために、小樽までいったようなものだった。帰路は加藤君（平成３年卒）に送られたが歩くのがやっと。一晩中ホテルの女性に足を冷やしてもらい、帰途空路は車椅子に乗せられての帰京となってしまった。皆さんにご迷惑をおかけしてしまったが、なんと楽しい１１０周年行事であったことか。もう来年からは野球を出来ないかもしれない。だが北大野球部で過ごせたことが、僕の人生を豊かなものにしてくれた。<br>２０１２年の年賀状には、「陽はまた昇る。われら闘志は健在なり！　大震災・原発事故乗り越えて新生日本の船出だ！」そして「７６歳へ。後期ではなく、光輝高齢者を目指します」と書いた。この場を借りて、改めて全員にお礼を言いたい。</p>
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<pubDate>Wed, 28 Dec 2011 18:41:38 +0900</pubDate>
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<title>毎月１１日になると、いろいろ考えさせられる</title>
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<![CDATA[ <p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century"><font size="3">出所進退。進は他人なり、退くは己なり。１が６つ並ぶ、２０１１年１１月１１日は、何かが起きるのでないか？―――　なんと読売巨人軍に、大嵐が吹き荒れた。</font></span></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><font size="3"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">午後２時過ぎ、清武英利代表兼ＧＭが、文部科学省記者クラブで会見。あのナベツネこと超ワンマンの渡辺恒雄氏（８５）を、コーチ編成などについて「不当な人事介入</span><span lang="EN-US">(</span><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">あの江川卓さんの助監督就任、岡崎郁ヘッドコーチの降格</span><span lang="EN-US">)</span><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">。プロ野球を私物化している」と憤然と立ち上がった。翌１２日夜、今度は、ナベツネさんが「悪質なデマゴギー、会社法違反に該当だ」と反論。清武</span><span lang="EN-US">GM</span><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">も深夜に「いやしくも我が国のリーディングペーパーのトップがマスコミに対し、意図的に虚偽の事実を述べた。遺憾である」と応戦しましたが、１１月１８日、清武氏は解任させられた。これですべて終われば、何とか鎮静化したかもしれないが、読売新聞社と巨人軍は、取締役として忠実義務に違反したなどとして清武氏を提訴した。損害賠償金１億円だ。これに対し、清武氏も解任は不当として巨人側を訴えた。両者の争いは法廷に持ち込まれた。言ってみれば単なる内輪もめではないのか。あのかっての大巨人軍の威厳ある栄光はどこへ行ったのだろう。</span></font></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century"><font size="3">未曾有の東北大震災が起き、２週間後の３月２５日セパ同時開幕の予定だったが、選手会を始め大方が様子見の延期を主張したのだが、ナベツネさんと清武ＧＭが反対してセだけでも開始すると強情を張り大混乱。１０００万部を誇る読売新聞のすることではないと笑われたものだ。巨人は世論にも負けて、結局４月１２日のセパ同時開幕に押しやられた。</font></span></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century"><font size="3">清武代表のワンマン渡辺会長への反旗に、物知り顔の人達が批判的だが、僕は痛快、大傑作と拍手を送っている。要は、８５歳にもなって、得意満面と老害を撒き散らす渡辺氏は、みっともないこと、この上ない。あらゆる努力をして、読売新聞社のトップに立ったことは賞賛に値するが、そういう立場の人が、最も注意しなければならないのは、年老いてから、いつ自らが、身を退くか、ということだと思う。本物の人物かどうかが、初めて分かる時が来るのだ。権力の座にしがみつき、晩節を汚す老人リーダー達が、いかに多いことか。大新聞社の腰抜け幹部達で、鈴を付けられる怪物なんて、いるわけがない。新聞記者は本来は弱者の味方でないといけないのだが、実際は権力者には、からっきし弱いものと思っていたら間違いない。清武氏の反旗は、とにもかくにも巨人軍だけではなく、プロ野球界全体にとっても強烈なパンチだった。</font></span></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century"><font size="3">僕は、俗にいうエリートが大嫌いだ。政官財の上の人達は、多かれ少なかれ、狡猾で、ずるいように見えるがどうだろう。同じ日の野田首相のＴＰＰ参加への態度も、米国追随が政権維持に繋がると考えているのではないかと、疑われるほど、腰が引け、明確ではない。国益とは何か、という毅然たるリーダーの匂いが少しも感じられない。</font></span></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century"><font size="3">２０１１年３月１１日の東北大震災、福島原発事故は、意味合いは違うが、６６年前の３月１０日の東京大空襲とともに、日本国が伸るか反るかの大局面です。我々の生き方、考え方、要するに人生観をがらりと変えなくてはいけないような気がするが、動だろう。　　</font></span></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century"><font size="3">今の日本のエリート達は、“効率”ばかりに目を奪われ、地に足がついていない。日本は、本当に終戦以来の大ピンチなのではないのか。毎月１１日になると、僕でさえ、いろいろと考えさせられているが、皆さんはいかがだろうか。</font></span></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century"><font size="3">２年連続優勝を逸した原巨人軍は、日本一のソフトバンクから杉内、ホールトンを奪い、４年連続最下位の横浜・４番村田、そして新外人ら２，３０億円ほど補強した。巨人の現有戦力を冷静に見てみれば、原采配さえしっかりしておれば、十分に優勝できる。だから今冬は補強せず、その分を東北で大苦戦の人達へ義捐金を送ってあげれなかったものだろうか。ワンマン老害ナベツネなら、いとも簡単に実現可能なのではないのか。効率至上主義の経営者なんて、いくらでもいる。窮状の日本を冷静に見極めるリーダーが今求められている。どんなに優秀であった渡邊恒雄さんでも、８５歳になった今では無理である。</font></span></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><span lang="EN-US"></span></p><p><font size="3"> </font></p><p></p><p style="TEXT-INDENT: 10.5pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century"><font size="3">２０１２年、僕は「　“陽はまた昇る”　われらが闘志健在なり！　大震災・原発事故乗り越えて　新生日本の船出だ！　」と希望と決意を持っている。７６歳になるのだが、後期ではなく“光輝高齢者”でありたいと強く思っている。</font></span></p><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 10.5pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century; mso-bidi-font-size: 12.0pt; mso-bidi-font-family: &quot;Times New Roman&quot;; mso-font-kerning: 1.0pt; mso-ansi-language: EN-US; mso-fareast-language: JA; mso-bidi-language: AR-SA">　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　佐藤安弘　　　</span>
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<link>https://ameblo.jp/satoanko3105/entry-11298464741.html</link>
<pubDate>Wed, 28 Dec 2011 18:40:46 +0900</pubDate>
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<title>北に一星あり</title>
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<![CDATA[ <p style="TEXT-INDENT: 12pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 12pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">トイレを第二の書斎のように使っている。壁には小樽商科大学　創立百周年記念　２０１１年のカレンダーが掲げられている。</span><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="TEXT-INDENT: 12pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 12pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">表紙は、中村善策さん描く「緑丘回想」。学長室蔵とあるがさすがに力強く素晴らしい秀作だ。</span><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="TEXT-INDENT: 12pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 12pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">１月は雪の旧校舎。２月小樽雪灯りの路商大会場。三月卒業式風景と美しい写真が続く。</span><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="TEXT-INDENT: 12pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 12pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">だが、この後、３月１１日、未曾有の東北大地震、大津波そして福島原発事故、爆発メルトダウンが起きた。</span><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="TEXT-INDENT: 24pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 2.0; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 12pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">平成２３年は、今後の日本の運命を決める絶対に忘れてならない年だろう。明治維新、太平洋戦争敗北に次ぐ、３度目の大ピンチである。</span><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="TEXT-INDENT: 12pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 12pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">このような年に百周年を迎えられた小樽商大を結びつけて考えないわけにはいかない。小樽商大は１９０５年、全国五番目の官立高等商業学校として誕生した。</span><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="TEXT-INDENT: 12pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 12pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">　</span><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="TEXT-INDENT: 12pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 12pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">「北に一星あり　小なれど　その輝　光強し」</span><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="TEXT-INDENT: 12pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 12pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">―――感激みてる若人の　血潮に清き教えを秘めて　春永遠の緑ケ丘よ</span><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="TEXT-INDENT: 12pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"></span><br></p><p style="TEXT-INDENT: 12pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 12pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">カレンダーの４月は桜の構内。女子学生３人が満開の桜の木を歩いている。何か再起するであろう日本を想起させる。５月は絵画・回想の学舎。６月、平成２２年の応援団対面式だ。</span><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="TEXT-INDENT: 12pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"></span><br></p><p style="TEXT-INDENT: 12pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 12pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">かくて快晴の７月３日、百周年試合を迎えた。札幌駅前のホテルから後輩の車で８時少し前に、小樽商大グラウンドに到着した。車で行ったために残念ながら名物の地獄坂を足で登ることは出来なかったが、駐車場から球場までの狭い通路の角度はかなり急だった。</span><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="TEXT-INDENT: 12pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 12pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">私は昭和３１年から４年間北大に在籍したが、当時の小樽商大との定期戦は、札幌では円山球場、小樽では桜ヶ丘球場だった。</span><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="TEXT-INDENT: 12pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"></span><br></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 12pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">　北山を切り拓いて作られた大自然の中の大らかな商大グラウンドは、７５歳にして初めて見るものだった。左翼後方のコンクリートに引かれた白い線は何だ！　ホームランゾーンだって？　凄い！　これこそ日本人の心。なんと素晴らしい球場だろうか。日本一の大学グラウンドだと感動した。</span><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 12pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">　そしてまた、目に入ったのは、美人揃いの１０人ほどの女子マネージャー達。全員がトンボを持ち、鮮やかな手さばきで地均しをしている。男では絶対に出来ない水面のような滑らかさだ。我々の頃は大体、女子マネジャーなんて考えもしなかった。５０数年の年月の流れをつくづく感じた。</span><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 12pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">　そんな綺麗なグラウンドに北大のユニホームを着て立てるとは、この上ない幸せだ。昔から小樽商大との定期戦は北の早慶戦とも言われた。僕は二年生からレギュラーで二番を打っていたが、相手は一つ年上の今は亡き吉川投手だった。アンダースローには全く手も足も出なかった。吉川さんが４年生の春、僕は３年生。円山球場で珍しく右へ左へと３安打した。それをいつまでも憶えていてくれ、亡くなるまで大変お世話になった。未亡人からは今でも年賀状を頂いている。</span><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"></span><br></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 12pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">　さて、百周年ＯＢ戦。軟式の部、お情けで、１番二塁手として出させてもらった。小樽の澄みきった青空の下、　相手は神宮経験者の横浜投手。スライダーに手もなく捻られて３球三振。だが捕手が後逸したから走らないわけにはいかない。脱兎の如く（言葉だけ）一塁に駆け込んだ。止せばいいのに、学生時代の気分になって、初球二盗を試みた。１０メートルも行かないうちに、左足脹脛辺りに激痛が走った。何とか二塁ベースまで達したが、もう歩くことさえやっとでダウン。退場となってしまった。足を付くのがやっとの状態で、試合後のいろいろなイベントや構内をじっくり見る事が出来なかったことは誠に残念であった。</span><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="TEXT-INDENT: 12pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 12pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">今、我家の冷凍庫の中には“ドレイパー”が大切に保存されている。負傷の直後、小樽商大の美人マネージャーが、すぐ北大ベンチに飛んで持ってきて応急手当をしてくれた。その時の貴重な記念品である。</span><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="TEXT-INDENT: 12pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"></span><br></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 12pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">　その後、懇意の整形外科医に診てもらったのだが、「安弘さん、心配することはないよ。年齢よりはずっと若い筋肉をしている。大丈夫です。後期高齢者なんて思わずに”光輝高齢者”になるんだと思って好きな野球を続けてくださいよ」と激励とお墨付きを貰ってしまった。無趣味な私の光り輝く小樽商大とのベースボールはやはり死ぬまで辞められそうもない。</span><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 12pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">　</span><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="TEXT-INDENT: 12pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 12pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">私は毎年、年賀状にはかなりのエネルギーを使う。</span><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="TEXT-INDENT: 12pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: 1.0; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 12pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">「陽はまた昇る。２０１２年。われらが闘志健在なり！　大震災・原発事故乗り越えて、新生日本の船出だ！」</span><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 12pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">　懇意の皆さんの手元にも元旦には届くはずだ。</span><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"></span><br></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-line-break-override: restrictions" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 12pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">　今、私は人生のホームストレッチを最後の力を振り絞って全力で走っている。東京の十一月、商大とのＯＢ戦</span><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US">(</span><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 12pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">もはや硬式は無理だが</span><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US">)</span><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; FONT-SIZE: 12pt; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century">。そして池袋の緑丘会館での合同新年会は最高の楽しい一刻である。ナイスガイ小樽商大の仲間に入れてもらい、いつもこの上ない幸せを感じている。皆さんには、いくら感謝してもしきれない。ありがとう！</span><span style="FONT-SIZE: 12pt" lang="EN-US"><br></span></p><p></p><br><p></p><br><p></p><br><p></p><br><p></p><br><p></p><br>
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<link>https://ameblo.jp/satoanko3105/entry-11298463049.html</link>
<pubDate>Wed, 28 Dec 2011 18:38:36 +0900</pubDate>
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<title>みだれ髪・津波の傷跡が残る塩谷の岬に立って</title>
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<![CDATA[ １２月２日付け朝刊、読売新聞３面トップに、アメリカの原発が３４年ぶりに新規建設されるというニュースが半ページわたり大きく出ていた。「原発の安全　世界で競う。日本勢　輸出に出力　新興国が技術に信頼｣―――。読売にとっては、これ幸いのニュースだ。<br>　同じ日、日経の福島経済面では、福島佐藤雄平知事が、県内１０基の原発をすべて廃炉にするよう、国と東電に申し入れるという記事が載っていた。<br>　その日の秋田銀行いわき支店講演時間は４０分。かなり絞り込んで臨まなくてはいけないのだが、原発と巨人軍を結びつけて話をした。　その日の会場には、いわき渡辺市長、蛭田議長、福島民報支社長など地元の名士が顔を揃えていたが、何の遠慮もなく話した。<br>日本はこれ以上、原発を広げてはいけない。核廃棄物が満杯で処理能力が限界にきている。読売巨人軍も今や巨大ごみである。ナベツネこと渡邊恒雄ワンマン８５歳会長は老害以外の何ものでもない。謀反した清武元ＧＭに１億円の損害賠償の訴訟を起すなど読売の内乱を世に問うて、何の得があるのか。清武解任で終わらせてしまえばいいだけのこと。　　<br>日本の原発は、１９５４年、読売新聞正力松太郎社主が、自分の政界進出のために、アメリカＣＩＡに利用されながら誕生した。正力さんのＣＩＡ暗号名は“ポダム”。そして第１号の東海発電所が１９６６年に運転を開始した。その後、ＭＯＸ燃料、プルサーマル、もんじゅ、５４基の原発が活動したが、正力さんは総理への野望果たせず、１９６９年１０月９日、国立熱海療養所にて８４歳で、“原子力の父”の生涯を終えた。　僕は現役記者の頃、巨人軍の川上哲治監督のお伴で、５度ほどお会いしたことがある。当時は恥ずかしながら勉強不足で、原子力の話は１度もしたことが無く、今思えば本当に残念である。<br>　アメリカは１０４基、フランスは５８基、原子力発電は７５％。日本は５４基で世界３位の原発大国である。だが日本は広島のウラン原爆、長崎のプルトニューム原爆そして第５福竜丸の水爆と３つの世界唯一の被爆国だ。決してこれらの事実を忘れてはいけない。“経済効率”だけを平気で口にする人達が多くいるが恥ずかしくないのだろうか。原発に代わるエネルギー開発は日本の技術力からすれば、いかようにもできる。人口密度が高い上に、阪神淡路大震災以来、地震の活動期に入っている。極く近い将来、大地震が起きる確率はかなり高いといわれている。原発にはふさわしくない国ということを知るべきだ。<br>　正力松太郎さんは、１９２４年に発行部数５万部の弱小紙を買収し、現在の１０００万部の基礎を作った。「巨人軍は常に、強くあれ！紳士たれ！米国野球に追いつけ！」と口を酸っぱくして言っていた。その強く誇り高い９連覇の読売巨人軍も今や面影すらない。<br>　今冬も、ソフトバンク杉内、ホールトン、横浜村田、新外人など３０億補強を敢行しようとしているが、渡邊、清武の内輪喧嘩をする暇があったら、フアンに詫びる気持ちを込めて、補強はゼロ。その３０億円をポンと東北の被災者に寄付する善意はないのだろうか。<br>曲がり角に来ている原発、巨人。混迷日本の政・官・財も同じようなもので恥ずかしい。<br>　　　　　　　　　２０１１年１２月８日　　　　　真珠湾攻撃の日
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<link>https://ameblo.jp/satoanko3105/entry-11298458658.html</link>
<pubDate>Wed, 28 Dec 2011 18:35:12 +0900</pubDate>
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<title>30ヶ国430基原発のすべて</title>
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<![CDATA[ ★３１カ国４４０基。７５建設中。９０基新設計画。安全技術を高める日本の役割。アメリカ104基、フランス59基<br>★福島第一原子力発電所の1号機は、運転40年目。今後10年で国内の原発の3割は「40年超」。廃炉に３０年かかる。<br>★日本原子力発電（日本原電）の敦賀1号機（福井県）１９７０年――次は関西電力美浜1号機。全国17ある商業用原発のうち、10原発は70年代の運転開始（福島1－6号機）<br>30年を超えているのは１９基。<br>★１０年未満は５基。平均は２５年。福井県は最多の１３基（３０年以上８基）<br>★1度放出された放射能は「人間の手では消せない」―――無人地帯にするほかない。<br>★核燃料サイクル施設・六ケ所再処理工場(日本原燃)。下北半島丘陵地７４０万平方メートル。２兆２０００億円。１９９３年からプルトニュームとウラン２３５を取り出す施設。容量は３０００トン。すでに２８２７トン。残り１７３トンしかない。１年間で、９００～１０００トンだ出る。１９９８年から２０１０年まで１３年間。使用済み核燃料２８２７トン<br>★高速増殖炉(もんじゅ＝福井県)・核燃料サイクル計画の代価案<br>★２０１４年、山口県上関町に中国電力、海面１４万平方メートル埋め立て。２号機、ウラン・プルトニューム混合酸化物(mox)燃料を使うプルサーマルを計画。①２０１８年②２０２２年計画。<br>★福島第一原発４号機。原子炉は運転中止中だった。３月１５日、使用済み核燃料プールが冷却不能に陥って水素爆発を起こした。<br>★核分裂性ウラン２３５は０・７％しかない。残り９９・３％の燃えないウラン２３８を、核分裂性のプルトニューム２３９(７０％しか含まれない)に変えて再利用する。優秀な核兵器を作るためには９０％以上。高速増殖炉(水の代わりにナトリューム使用．９８％生む)燃料はＭＯＸ。ウランよりも２０万倍毒性が強い。核分裂しやすい。停止させることが難しい。「人類が生み出した最悪の物質」<br>★生成された大量のプルトニュームは約４５トン。長崎原爆４０００発分。核拡散防止条約。そのために大間原発<br>★大間原発(電源開発)。炉心全体にＭＯＸ燃料を使う世界初のＭＯＸ原発。２００８年着工、２０１４年運転開始。「プルサーマルよりはましかな」<br>★ウラン４６億年前から自然界にある放射性物質。その代表格はウラン２３８．半減まで４５億年かかる。地底にある鉱物。引きずり出して人類を滅ぼしかねない「核」の原料にした。<br>①１７８９年　元素としてのウランを発見したのはドイツ人化学者マルティン・Ｈ・クラプロード<br>②１８９６年　放射性能力があることを発見。フランス人物理学者アンリ・ベクレル<br>③天然にあるもので核分裂を起こせるのはウランだけ。１９３８年ドイツ人化学者オットー・ハーン。第二次大戦中で、人類の不幸の始まりだった。<br>★先住民は「ウランには手をつけるな」―――「ウランを捨てる知恵藻の勝っているのか問われている<br>★ウラン。質量数２３８(核分裂しない)が全体の９９・３％。残り０・７％質量数２３５が核分裂を起こす。濃縮には膨大なエネルギーを必要とする。そこで２３８を、人工的にプルトニューム２３９に変換すれば、原爆の材料になることに、米国の研究者がきずいた。ウランに、中性子をぶつけるとプルトニュームが自然にできるという物理法則がある。<br>★核分裂性ウラン２３５資源量は、石油の数分の一。石炭の数十分の１。そこで非核分裂性ウラン２３８を、プルトニューム２３９に変換して利用しようとする夢が生まれた。<br>★プルトニュームすでに４５トンある。ウラン専用の原子炉でプルトニューム使う「プルサマール計画」<br>★ウランは核分裂すると同時に、中性子を食べてしまうという性質がある。食べると初めはプルトニュームになる。それがまた中性子を食べるとアメリシウムという元素になり、これがまた中性子を食べるとキュリウム（毒性で上回る）次から次にへと新しい原子核が出来ていく性質を持っている。<br>★原発を即刻止めたとしても、どのようにすれば安全に原子炉を廃炉に出来るか！要研究<br>★撤退の傾向。米は１９７４年、欧州は１９７７年がピーク。仏は８０％だ<br>★日本は４６年間にわたり原発を運転してきたが、放射性物質は、広島原爆の１２０万発
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<link>https://ameblo.jp/satoanko3105/entry-11298457921.html</link>
<pubDate>Wed, 28 Dec 2011 18:32:36 +0900</pubDate>
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<title>一瞬の夏　　一生の記憶</title>
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<![CDATA[ <p>僕は７月３日午前９時、小樽商大創立１００周年と北大１１０周年記念・野球ＯＢ戦軟式の部で、１番打者として登場。３球三振。振り逃げで出塁。すかさず二盗を試みた。だが、ここで左足全体に痛みが走り早々にダウン。７５歳にして小樽商大グラウンドで大恥をかき、帰途空路では車椅子の厄介になった。もう激しい動きは絶対に無理という年になったという証明だろうか。<br>　　<br>その２週間後１７日、母校旭川西高が４２年ぶりに北北海道大会出場とあって、足を引きずりながら旭川に飛んだ。昭和３０年に卒業以来、初めて見る後輩たちの野球だった。スタルヒン球場(以前は市営球場)の空は、青く、高く、広かった。見上げていると５８年前、２年生の時、北海道大会で二塁手として初陣を飾った事が昨日のことのように甦ってきた。球場入口には　“一瞬の夏　一生の追憶”　の垂幕があった。僕の気持そのものだった。<br>昭和２８年、旭川地区予選の決勝戦で、３年生の安井二塁手が、三塁に滑り込んで右足を骨折してしまった。当時ベンチ入りは１４人。誰が抜擢されるのか。選手はまずはベンチ、あわよくば先発メンバーに出れることが最大の目標だ。だが僕は実力２０番目以下の選手。本番で選ばれるなんて大それたことは考えていなかった。ところが北海道大会開会式の前日、宮嶋監督の口から、本大会の１４人が発表された時、「１４番目佐藤安を入れる｣――。わが耳を疑った。さあ大変なことになった。ユニホームは支給されていたが、帽子は各自が用意しなければならない。僕は部室に捨てられていたボロボロを被っていた。正式には濃紺の帽子だが、日焼けして薄い紫色に変色した哀れな野球帽だった。次姉が「これから帽子屋に行こう」と言い、二人で夜９時過ぎに出向いた。「明日９時開会式ですが、何とか作っていただけませんか？」美人の姉が強引に拝み倒し、翌朝８時、二人で行くと本当に出来あがっていた。開会式は小雨の中で決行された。新品の野球帽が濡れるのが勿体なく、ユニフォームの懐にしまいこんでいると「安、ちゃんとかぶれ！」と命令され、仕方なく出して被ったが、行進中、雨に濡れて滴がぽとりと垂れた。</p><p>試合は、小雨降る第３試合。函館東との対決。４０分ほど前に、先発メンバーが発表されるが、ベンチ入りしたとはいえ、所詮１４番目の選手、まさか自分が先発で出るなどとは夢にも思ってもいない。「８番、セカンド佐藤安！」の発表。夢か幻かの世界だった。が、その時の驚き、嬉しさ、感激は今でもはっきりと全身で覚えている。　<br>さあ試合開始だ。われら西高では、監督が左手に白いタオルを巻いている時は、いかなるサインが出ていようとも、ウエイティングだ。２死走者なし。バッター８番佐藤安。ベンチを見ると“白”だった。要は黙って低く構え、出来ることなら四球で出塁せよ！<br>という命令だ。第２、３打席でも状況は同じ。白いタオルだけが目に焼きついている。僕は哀れにも３打席とも全部三振に終わってしまった。試合は２対２のまま、８回まで進んだ。２死ながら走者二塁。８番３三振の佐藤安の打順だ。今のように厚かましくなかった僕は、当然代打だろうとベンチの隅っこに身を隠すように小さくなって戦況を見守っていた。その時だ。「おう、安はどうした？」　宮嶋監督はベンチの中を振り返った。僕を目で探し、「お前だろう！行け！」と野太い声を発するではないか。ばね仕掛けのように、僕は打席に吹っ飛んでいった。頭は真っ白だった。<br>実は帽子だけではなくバットも自分持ち。それぞれが買って、みんないいのを持っていたが、僕は部室に捨てられてあった半分折れかかり、汚れた人の使い古しを使っていた。それを手に掴み、急いで打席に向かおうとすると、ウェイティングング・サークルにいた１番打者３年加藤が「安、これ使え！」と沢山持っている中でも一番大切にしているバットを手渡してくれた。そのバランスの良さ。驚いた。打てるな！？<br>さあ、打席に入り、ちらりとベンチを見ると、なんと宮嶋監督の左手に白いハンカチがないではないか。　相手の天明投手は、３三振の僕を明らかになめていた。初球ど真ん中に、無警戒にスッと投げてきた。｢なめちゃいけないよ！｣　今だからこそ冗談を言えるが、本当は無我夢中。借りた良質のバットを思い切り振った。白球は快音を残しレフト前へライナーで飛んで行った。残念なことにあまりにもいい当たり？　だったため、走者は三塁ストップ、勝ち越しはならなかった。試合は延長１３回まで進みサヨナラ負けしたが、僕は第５打席目は四球で歩き、二盗も成功させた。朝日新聞道内版では「代役の佐藤の３三振が痛かった」と敗因を僕のせいのように書いていたが、ゲームの流れ，勝負どころは得てして、前半より後半に来ることが多い。強いチームは終盤にしつこい。僕は連続３三振より、最後に安打を打てたことを誇りとして今まで生きてきた。</p><p>その後の人生でも逆境の方がどれほど多かったことか。でも僕は何とか生き長らえて７５歳まで達することができた。どんなことがあっても俺は負けないんだという人生の自信のようなものが、高校２年生の時の初陣の出来事が起因していることは間違いない。　　<br>まさに　〝一瞬の夏　一生の記憶“　で、本当にいいスローガンだ。プロ野球や大学野球で活躍するような人達は、もっと違う凄い物語を持っているのだろうが、僕のような三流高校球児でも、それなりにそれぞれの思い出深い話を持っているに違いない。８月１日、４９代表が出揃い、６日から試合が始まる。僕は勝ち負けよりは、思い出を作り上げ、その後の人生を楽しく過ごせたらいいのになあと思っている。被災地から出場の球児を見ると　”原発“　だけは絶対にいけないとの思いを深くする。研究すれば、代替エネルギーはいくらでもある。「”効率“だけを考える生き方は本当に人間を幸せにするのか」――。東北の大震災で苦闘中の人達を心から応援しながら、猛暑の８月戦線に臨んでいる。<br>２０１１年８月　　　　　　　　　　　　佐藤安弘</p>
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<link>https://ameblo.jp/satoanko3105/entry-11298456577.html</link>
<pubDate>Wed, 28 Dec 2011 18:32:07 +0900</pubDate>
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<title>闇の美しさ・受容するたくましさ</title>
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<![CDATA[ 「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから」―広島にある原爆死没者慰霊碑に書かれている言葉です。どのようなことがあっても２度と武力を行使することはしない。経済的に豊かになり、平和を希求しよう。みんなが分かっているはずでした。<br>日本人は歴史上、核爆弾を投下された経験を持つ唯一の国民です。広島にはウラン原爆、長崎はプルトニウム原爆を落とされ２０万人を超す人命が失われました。生き残った人達も長年、放射能被曝に苦しみながら、命を落としています。<br>　あれから６６年、今、福島第一発電所は放射能を撒き散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。核という圧倒的な力に翻弄されています。核に対する拒絶感は一体どこに消えてしまったのでしょうか。平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょうか。理由は簡単です。「効率」です。<br>原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。日本政府も安定供給から原子力発電を国策として推し進めるようになりました。メディアも原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けました。そして気がついた時は、日本の発電量の３０％、２０２０年には５０％、３０年には７０％を原子力発電によって賄おうとしていました。世界で３番目の原発大国です。効率的であったはずの原子炉は、今やパンドラの蓋をあけてしまったのです。<br>我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきでした。日本人の技術力、持てる叡知を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。<br>６月９日、スペインのカタルーニャ国際賞授賞式で、村上春樹さんが以上のようなことをスピーチしました。全く同感です。６月１０日大阪で（株）きんでんの講演があったのですが、その前日「原発の話には一切触れないでください」と注文が入りました。小生としては珍しく３カ月ほど猛勉していたので拍子抜け。やけくそで金銭まみれ阪神タイガースの話をしてきました。その６日後、東京・明治記念館での間組安全大会。最近では珍しく８００人ほどの大講演会でした。福島第一原発の建屋も建設したそうで、すぐ１００人の大部隊を現地派遣したそうです。震災特需の一端を見せられましたが、原爆被爆国・地震活動期に住む我々はもうどんなことがあっても核に頼ってはいけません。再生可能エネルギー、バイオマス発電、トリウム液体燃料、地下熱活用など、技術大国日本の生きる道はいくらでもあります。最近はそのことで頭がいっぱいです。反原発の雄・広瀬隆さんの本は目から鱗でした。第３の敗戦ともいえる東日本大震災から立ち直るために、倫理と規範など、もう一度人間の原点に立ち返らなければならないと老いの身に鞭打っております。節電の暗さを思考に当ててもいいじゃないですか。電気代アップも受けて立とうじゃないですか。どう撤退するかは熟慮すればいいだけのこと。原発は絶対にだめです。日本は再生できます。　　　２０１１年６月２２日　夏至　猛暑日　　　　　　佐藤安弘
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<link>https://ameblo.jp/satoanko3105/entry-11298455718.html</link>
<pubDate>Wed, 28 Dec 2011 18:31:05 +0900</pubDate>
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<title>球談徒然</title>
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<![CDATA[ １２球団の戦力外通告を受けた選手達が、最後の力を振り絞り、<br>一筋の希望の光を求めて集まるトライアウト。<br><br>２００９年は、十一月十一日甲子園に４２人、二十五日の神宮球場には１６人が挑戦した。<br>４２―１６＝２６．数字上は２６人がどこかの球団に拾われたことになるのだが、そうではない。<br>集まったスカウト達の心の入らない観戦姿勢。戦力外通告選手という惨めさに、<br>もう神宮球場には気力が萎えて、参加する意欲さえ失ってしまうのが実情だ。<br>　”トライアウト、全員がアウト！”という見出しが、無情にもスポーツ紙に躍っていた。<br>そんな中で、落胆の底に沈んでいたある選手が、<br>数日後、思いがけなく育成選手としてではあるが拾われた。<br>背番号も百番台だ。ケガのため４年間も苦しいシーズンを送っていたが、<br>昨年８月頃から俄然開眼。ファームとはいえ、最後には３割５分以上の打率を残した。<br><br>　ヨシ！来季こそと意欲満々に秋季練習をこなしていた矢先の十一月二日朝、<br>球団から呼び出され、突然の戦力外通告を受けた。<br>わずか５分間の出来事だった。実力のプロの世界。<br>いつか来る道と覚悟はしていたものの、あまりの無念さに、涙が止まらなかった。<br>　しかし人生悪いことばかりではない。<br>優しく、美しく、クレバーな女性と好調だった８月末にめぐり合い、<br>わずか４か月後の十二月十一日、彼女の誕生日に婚約指輪を渡した。<br>プロ野球人生の再スタートでもある。<br>勿論、現在はキャンプ地で、明日を目指し猛練習中だ。<br>そして、二月一四日、在京中の彼女が婚姻届を出した。<br>ちょうど本日の紙面にジャストなので、実名、二人の写真入の特ダネ風に<br>仕上げるつもりだったが、寸前になり、球団、他の選手達への配慮からか<br>「書くのは止めてくれませんか」ということになってしまった。<br>そのため、このようなあいまいな記事にならざるを得なかったことをお許し願いたい。<br><br>　新聞記者は、特ダネを捜そうとしなくなったら、もうお終いだ。<br>いくらインターネットのスピード時代であっても、<br>特ダネこそは新聞社の血の流れた命であるといっても過言ではない。<br><br>今年の年賀状の中に「まだ報知新聞におられのでしょうか？」という文面の葉書があった。<br>後に作家となった故瀬古正春氏の未亡人からのものであった。<br>今でこそ、やや勢いのないスポーツ報知だが、当時は優秀な記者がずらり顔を揃えていた。<br>特に巨人軍担当の林、増田、瀬古、山口さんらは俊英であった。<br>彼らを相手の壮烈な戦いは、２８歳・長嶋茂雄の婚約問題であった。<br>東京・上北沢の長嶋邸に一番入り込んでいた私を遠ざけるために、<br>報知勢はホテルニューオータニに長嶋を閉じ込めていた。<br>そんな経緯を瀬古未亡人は聞いていたのだろう。<br>４０年以上も前の話だから、私もその一団と錯覚しているのだと思う。<br>　天下の長嶋茂雄の結婚話と冒頭の育成選手とは、ネームバリューからして比較にならないが、<br>記者魂としては少しも変わらない。<br><br>婚約スクープといえば、横綱北の湖。<br>日刊スポーツが見事に抜いたのだが、その夜、北の湖がやくざ風な男二人を携え、社にやって来た。<br>しかるべき人達にまだ伝えていないから「記事を止めてくれ。でないと輪転機に砂を撒くぞ！」と吼えた。<br>当夜の最高責任者だった局次長の私は、小さな体を精一杯伸ばして<br>「どうぞやって下さい。横綱が輪転機に砂を撒いたとなれば、大変なニュースになります」といきがったところ、<br>スゴスゴと引き上げて行ったのを昨日のように思い出させる。<br>今話題の暴れん坊・朝青龍など足元にも及ばない。<br><br>　特ダネの話になると何行紙面があっても語りきれないが、<br>三原脩の近鉄監督入りをスクープしたことは、鮮明に脳裏にある。<br>その名監督が大洋ホエールス時代、１４連敗した時の光景だ。記者達が怖がって近付けない時、<br>私は三原監督の腕にすがり、一人だけ監督室に突入し、ドアーをピタリと閉めた。<br>「佐藤君、そんなことしたら、みんなに嫌われるぞ。開けてあげなさい」といわれ、ふくっれ面でドアを開けた。<br>「みんな揃ったか？休養するかどうか聞きたいのだろう。<br>一言だけ言う。“わが闘志は健在なり”」<br>このコラムを書く私も、来年は後期高齢者の仲間入りをする。<br>だが、いつも心の中で”わが闘志は健在なり“とつぶやきながら，<br>老いいく人生への闘志を燃やしている。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/satoanko3105/entry-11298473878.html</link>
<pubDate>Wed, 28 Dec 2011 18:27:58 +0900</pubDate>
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