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<title>GELDのブログ</title>
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<title>「一九八八年の想出三つ」</title>
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<![CDATA[ <p>１９８８年の暮れ、消えない想出が三つ私の心の中に生きている。その一つは「ペレストロイカ」のモスクワである。そのことにはすでに触れた。</p><p>もう一つは、野坂昭如原作（1967）、高畑勲監督のアニメーション映画『火垂るの墓』（1988）のなかに出てくる４歳の女の子である。１９４５年６月、神戸の空襲で焼けだされて、母を失った１４歳の兄と４歳の妹が、西宮の親類の家に身を寄せるが、冷たく扱われ、近郊の山の横穴で二人だけの生活を始める。七輪に火をおこして粥をたいたり、ほたるを集めたり、死んだほたるの墓をつくったり、海辺の砂浜を走ったり――そのほとんど牧歌的な二人だけの生活のなかで、女の子が飛んだり跳ねたりしながら全身でよろこびをあらわし、食べ物を探しにいった兄が帰ってくると駈けよって抱きつく。</p><p>遂に食べ物がなくなって、敗戦直後に、まず妹が栄養失調で死に、次いで兄が倒れるのだが、女の子は死ぬ前に、兄がもってきてくれた西瓜を食べ、「おいしい」と呟き、「兄ちゃん、おおきに」といって眼を閉じる。私には４歳の少女の姿が、どうしても忘れられない。この世の中でいちばん確かなものは、少女が笑ったり、駈けだしたりするときの「生きるよろこび」であり、いちばん不確かなものは、彼女を殺したいくさを正当化するようなすべての理屈だろう、と私は思う。</p><p><br>かつて「聖戦」を正当化するためには、さまざまの理屈があった。「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」、「悠久の大儀」や「近代の超克」、「神ながらの道」やその他１ダースばかりの壮大で漠然とした観念。そういうものがあったし、これからもあるだろう。それは時代と共に流行し、忘れられ、またあらためて流行する。しかしそういうもののすべては、４歳の女の子の一瞬の笑顔の１００分の１にも値しない。映画を見ながら私はそう思い、溢れてくる涙に閉口したが、それは私が涙もろいということだけではなかったろう、と今にして私は考える。</p><br><p>『火垂るの墓』の少女の「生きるよろこび」は、単に動物的なものではなかった。そうではなくて、環境の変化を予測する能力の限界、またそれに適応する能力の限界を十分に意識し、兄との間につくりだした信頼と愛情の関係を通して、またその関係を通してのみ、いっぱいに感じることのできるよろこびであった。しかしそのほかにわれわれが人生を肯定するより根源的な理由があり得るだろうか。生きているのはよいことだ、ともしいうことができるとすれば、つまるところ、そういうよろこびの可能性が人間にあるからではなかろうか。この少女の生命の破壊は、われわれ自身の人生の意味の破壊にほかならない。だからいくさは、決定的によくないのである。</p><p><br>さらにもう一つ私にとって忘れ難い１９８８年の出来事は、７０人の著名な米国人――元国務長官や元国防長官や元大統領顧問、有名な大学の学長、ケナンKennanやガルブレイスGalbraithというような人々――が『ニューヨーク・タイムズ』紙（1988年10月26日）に出した意見広告「原則の再確認A　Reaffirmation of Principle」である。その短い本文は、「われわれが語るのは、アメリカ市民としてであり、自由主義的伝統liberal traditionの再確認を望む市民としてである」という一行を以て始る。自由主義liberalismの精神は、アメリカ革命、独立宣言、憲法およびその修正七か条に浸透していたといい、「そこに具体化された原則は、世界の多くの人々の尊敬をよびさました」という。すなわちその文章の冒頭の一節は、アメリカの「伝統」と「世界の多くの人々の尊敬」とを、正当にも結びつけていた。現に世界の自由主義者のなかで、アメリカの独立宣言と憲法を尊敬を以て、意識したことのない人は少ないだろうし、たとえば、フランスの大革命もアメリカ革命と無縁ではなかった。</p><p><br>その文章を読んだときに、私はあらためて太平洋の両岸での政治的伝統を考えた。米国での用語法に従えば、「リベラル」という語は、日本や欧州での「自由主義的」という意味に加えて「進歩的」という意味を伴う。その「自由主義的進歩主義」の原則は、米国の「伝統」であり、同時に米国以外の国民にも尊敬をよびさますような普遍性をもっていた。その「自由主義的進歩主義」という言葉が、レーガンReagan政権の下で悪い意味を帯びるように変質したとき、米国には伝統の名の下にそのことに抗議する７０人の人々がいたのである。</p><p><br>日本の政治的伝統は、どこまで遡ることができるか。日本の伝統的原則が同時に普遍的原則であったということができるか。徳川時代の政治思想と体制が、日本以外のどの国民の尊敬をよびさましたわけでもないだろう。明治憲法に体現されていた原則もまた、日本の外での妥当性を、その起草者自身さえおそらく考えていなかったものだろう。現行の日本国憲法は、普遍的原則に基づく。いくさと軍備を放棄した第九条は、他にほとんど例がなく、多くの外国人によって非現実的とされ、一部の人々に支持されているにすぎない。しかしそれが‘原則として’他国に通用しえない、というわけではない。その意味で明治憲法と異る。</p><p><br>しかし日本国憲法の歴史は、まだ半世紀に及ばない。これが「伝統」になるかどうかは、今後の問題である。もしならなければ、日本の政治的伝統は地方的特殊的であり、普遍的な原則とは結びつかないだろう。いずれにしても、さしあたり憲法の精神は伝統になり切っていないから、それをふみにじるような傾向が、次第に強まってきても、日本の元外務大臣、元防衛庁長官、多くの大学の学長、多くの新聞人と作家と学者が、連名で伝統の名の下に、それに抗議することができないのであり、それが米国と日本との大きなちがいの一つである。両国のちがいは、債務国か債権国か、ということだけではない。</p><p><br>私はときどき米国の新聞を読む。たまさかの意見広告に出会って、以上のような感想を抱き、その感想を長く忘れることができないだろう、と考えている。</p><p>1988年12月19日</p>
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<link>https://ameblo.jp/satutaba500000/entry-10620844847.html</link>
<pubDate>Mon, 16 Aug 2010 03:02:57 +0900</pubDate>
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<title>「木六駄」</title>
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<![CDATA[ 「私はですね、少なくとも芸術に関しては、あのー、それぞれの芸術が一種の問題をもってると思いますね。で、それは普遍的な問題ってのを持ってると思うんですよ。<br><br>絵画の場合には、二次元平面を組織することですよね。結局、線と面で。それから色で。だけど組織の仕方に色々あるわけなんで、そこに世界を捉えようって見方もあるし、造形的な世界の本質的な物をそこに捉えようという考え方もあるんですよね。<br><br>で、世界を捉えようって考え方の中で一番簡単なのは、縮図を作ることだと思うんですよ。地図みたいにね。だから山の絵を何故描くかっていうと、ほんとの山はなかなか見えないからね、だから小さな所に描けば、全体の姿が見えるわけでしょう。それは一番単純な例だけども、それだけじゃ勿論なくて、多様な世界を二次元平面の中に取り込むっていうね、描写を通して取り込むって考え方と、抽象を通して取り込むって考え方があるかもしれないけれど、どっちにしても、そーいうために二次元平面を組織する行為だとすると、選択の問題が出てくると思うんですね。<br><br>それをね、本家はどうやってるから、こっちもこうしたいとかじゃなくてね。日本的なものを作って対抗したいと思わないで、そーいうことよりも、絵というものはどーいうものだとかね、芝居なら芝居の、劇ならば、どーいう劇が一番我々のみるところでは人間を良く表してるだとか、とにかく芸術それぞれのジャンルが持ってる基本的な問題を自分流に解こうと。自由に。そういうことが大事だと思うんですよ。<br><br>そーいう時にほんとに良いものが出てくる。そーすっと結果としてはね、日本人がやると、結果としていいものが出来れば、いくつかの特徴が出てくる。。だから日本的になるわけ。日本的なのは結果であってね、芸術家の意図としては、日本的なものを作ろうってんじゃなくて絵を作ろうって思ってたと。<br><br>たとえば広重は、そーいうことを考えてなかったと思いますよ。日本的だという事を思わない。中国に対抗するためだとか、いわんや長崎でオランダ人に対抗するために作ったんじゃないんだから、広重は。<br><br>広重は浮世絵版画を、彼が一番ぴったりくるような、一番いいやつを作りたいと思っただけでしょ。<br><br>で、そーいうことなんじゃないかと思うわけですねえ。<br><br>で、ある時期には自由になるんじゃないかな。<br><br>で、ある時期にはナショナリズムに傾くし、ある時期には本家崇拝に傾くと思うんですよ。<br><br>で、どっちもダメだと思うんですよ。いくら中国人の真似したって中国人には敵わないというところが出てくるわけなんですよ。だからそれを忘れるといいと思うんですね。<br><br>中国人がどういう水墨画を描くかじゃなくて、水墨画ってもので、墨と水でどれだけ、自然の中で自分が感じた詩を表現出来るかってことを蕪村は考えたと思うんですよ。春の風や柳が。。。柳は中国にもありますが、問題は中国人に対抗することじゃなくて、春の風に吹き流される柳をね、どういう風に捉えるか、その中の一種の詩みたいなものを捉えることが彼の目的だったろうと思うんですね。<br>で、その時に、彼は成功したわけなんで。<br><br><br>だから蕪村は中国人にも通じるってんだけど、そうじゃなくて、つまり、どーいう人間にも通じるわけ。<br><br>だからそれは、ドイツ人にもフランス人にも分るわけです。外国人にも分るだろうかって、どうしてそんな心配するの。そんな心配しないでいいと思うんです。<br><br>外国人にも分るかなんて。。輸出産業じゃねえんだから。商社じゃねえんだ（笑）。<br><br>周りの人「ハハハ」<br><br><br>そんなことは考える必要はないので、そうじゃなくて本当の絵画をつくればね、そうすれば誰にでも絵の分る人には分るわけですよ。日本人でも絵の分らない人には分らないわけ。絶対に。必ずしもみんなが分るとは限らない、そーいうもんだと思う。芝居でさえそうだと思う。<br><br>それに関して、僕の好きな話っていうか経験はね、えーー。。。日本文化振興会とかなんとか。。。まーそーいうふうなとこで、そこの人と話していて、<br><br>「今度、お能はアメリカ公演に行きますとかフランス公演にいきます」って言って、<br><br>で、自分でそう言いながら「フランス人にも分るでしょうか？」ってんだね（笑）<br><br>で、だから僕は、そういう人には、<br><br>「じゃ、あなたには分るんですか」<br><br>（笑）<br><br><br><br>ところがね、ドイツ人がね、あのー、ドイツ人とオーストリア人も入ってましたがね、一流の俳優からなってるんですが、旅をする臨時で作った劇団みたいなのがあるんですよ。で、Die Brückeっていってね、橋って意味だけど、日本に来たことがあってね。んで、クライストの「ホンブルクの公子」っていう芝居があってね。Heinrich KleistのPrinz von Homburgって芝居があって、それを彼らはやった。うまい、良い劇団でしたけどね。<br><br>で、なんかの時に私は偶然彼らに会って、それで「日本の古典劇を知ってるか」ってつったんですよ。観た事あるかって。<br>前にも来たけど、ないんだ。忙しくて一遍もみたことないってんだ。<br><br>それで「日本の演劇ってのをみなさい」っつったんですよ。なんなら紹介するっつったんだけどね、やってないんですよ、何処も。能か狂言か歌舞伎のことを考えたんだけど。<br><br>それで私の知ってるのは、万蔵さんの生きていた頃ですが、先代のね。野村家の狂言の人たちをちょっと知っていたものですから、こうこーこーいう次第でドイツ人に一遍日本の芝居をみせたいと。下手な芝居はみせたくない、どーせひとつしか観ないんだからね、時間がなくて。だから、どーせひとつ観るんだったら、ちゃんとしたものを観せたいんでって言って相談したわけ。<br><br>で、うちの舞台でやってあげましょうってことになったんですよ。<br><br>で、ドイツ人の演出家と主要な俳優で５，６人だったかな、グループを連れてそこに行ったわけ。んで野村家でね、「木六駄」を万蔵さんがやってくれたわけですよ。で、万作と万之丞の兄弟が助けてね、「木六駄」をやった。小さな舞台ですが、ドイツ人と一緒にみたわけ。<br><br>とにかく日本の芝居はみたことない、いっぺんも。それから日本語は一言も知らない。こんにちは、とも言わないわけですよね。で、まったく知らないわけです。<br>「木六駄」の話は簡単だから、あらかじめ、こーいう話だと言っただけなんだ、私がね。<br>上演中は一切言葉なし。<br><br><br>それでね、済んでから、演出家だった人とね話をちょっとして、「どういう印象ですか」って言ったらね、こう言ったんですよね、<br><br>万蔵の、つまり親父だな、万蔵はみんなこれ上手だということ。それと息子達は型を完全にマスターしていてね、非常に高度に様式化された芝居だけども、様式を非常によくマスターしていて、完璧なものだろうと思うと言ったんですよ。<br><br>しかし、親父はそれをはみだしてるって言ったんですね。<br><br>型を。<br><br>んで息子は、まー型を非常に上手に演じている。親父は型を上手に演じてんじゃなくて、それからはみ出た個性がある、という意味のことを言ったんですよ。<br><br>それでね、日本語は全然知らないですから。予備知識はゼロだから。<br><br>だから結局ね、ドイツの芝居がね、クライストを本当によく分るんだったら、狂言も分る。言葉がなくてさえ！<br><br>それで日本人でそれだけの比喩を表現できる人ってのは何人いるかみたいな感じでしょ？<br><br>そりゃ狂言を我々は何十回とみているわけだから。だけど、にへんやさんべん狂言観たんじゃ、それだけのセリフ言えないですよ。だから日本人かドイツ人かっていう問題はね、区別は重要じゃなくて、芸術に関する限りは、芝居が分る人と、人類の何パーセントかは、人類の大きな部分は全然分らない。決して狂言が分らないってことはない。そうじゃなくて、クライストが分らなければ、狂言も分んないんだ。要するに芝居が分んないんだ。<br><br>んで芝居が分る人なら両方分る。という感じを非常にもったんだけどね。作る方からいってもそうだと思うんですよね。でナショナリズムってのはダメなんだね。だから日本式のものを作ろうっつっても面白くないですよね。
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<pubDate>Sun, 20 Jun 2010 21:59:04 +0900</pubDate>
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<title>私の道楽ではない</title>
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<![CDATA[ <p>私のいた大学でもティーチ・インをやった。ティーチ・インというのは、学生主体だけれども、教師も出てきた。私も教師だからそこのティーチ・インに出た。そうしたら、実に面白いことが起こった。あとで調べてみると、米国でも同じようなことが起こっているのですが、そのティーチ・インに参加して、いちばん最初にヴェトナム戦争の批判をするのは、物理学者とか数学者とか自然科学の理論的なことをやっている人たちと、英文学科の教授とか、文学部の教授でした。それから、若干の社会学者。高度に抽象的な研究にふけっている数学者とか、英文学者は、その専門は戦争に全然関係がない。もっと専門が戦争に近い国際関係論とか歴史学、ことに米国史の専門家、政治学者たちはいちばん最後でした。とにかく先頭に立たなかった。<br><br>　なぜだろうか。私がカナダの大学のティーチ・インに出席したとき、学生が反対演説をする。私も何か言ったかもしれません。とにかく反対演説がたくさんあったところへ、政治学の専門の教授が出てきて演壇に立って、「今、みんなの話を聞いていると、学生は反対し、それからあと同僚教授の中にも反対している人がいるけれど、数学者だったり英文学者だったりして、みんな専門が違う。はっきりいえば、詳しいことは全然知らない。ヴェトナム戦争というのは、米国の政治問題だ。米日の政治については皆さん何もご存じない。ご存じない方だけが集まって反対しているような気がします」といったのです。「政治学専門の学生もいるけれども、まだ大して知識がない。皆さんに忠告するが、米国の政治というのはかなり複雑なものだから、何も知らないで、一冊の本も読まないで反対されても困る。なぜヴェトナム戦争が起こったかということをもう少し詳しく、せめて二、三冊の専門書ぐらいは読んだあとで反対なさったほうがいい。私は、今この段階では戦争に反対できない」という演説をしたのです。<br><br>　その演説に対して私は反論をした。たぶんこういうことをいったと思うのです。ヴェトナム戦争は、あなたのおっしゃるように、どうしてああいう決定になって、こういうふうに発展してきたかということを理解するのは難しい複雑な過程でしょう。それはいわれるとおりです。その意味では私に知識がないということも確かにおっしゃるとおりだと思う。しかし、全然罪もなければ悪いこともしていない子どもまでたくさん殺されている。殺される事実をわれわれは知っている。たとえ、戦争を指導しているところで、どういう経過を通じてそれが決定されたかということを知らなくても、それは反対する充分な条件、理由になる。それは必要なだけではなくて、充分な条件である。子どもが皆殺しにされていることを知っていれば、それだけで反対理由になる。どういう経過でそういうことになったかということを調べて知ることは、それはあなたの道楽かもしれないけれど、私の道楽ではない。こういうふうにいったのです。<br><br>　その時は大勢の集会だからわりに筒単なことで反論をしたのだけれども、あとでよく考えてみたらこの議論はなかなかおもしろかった。モノを理解するということは、まず混沌としているモノを秩序に還元することです。歴史的事件を秩序立てるためには、理想的には、原因・結果の連鎖の中にそれを組み込むことが必要です。だから、ヴェトナム戦争の理解が進めば進むほど、その現象は偶然に起こったことではなくて、ジョンソン大統領が悪いとかではなくて、もっと原因・結果の連鎖の中にそれを組み込むことが必要になる。<br><br>　したがって、専門家の知識が進めば進むほど歴史的事件は必然的に見えてくる。もし完全に必然的ならば、過去の条件の中から現在の状況が出てくる。したがって、過去の条件を変えることはできないわけだから、現在の状況に反対するということは無理なわけです。反対しようと反対しまいと、とにかくそれが必然的に起こっているのだから、政治学というものは、それを理解すればするほど現状肯定になる、現状の必然性の説明だから。現状の偶然性の説明では学問にならない。<br><br>　政治学、あるいは歴史学の場合には、学問が進めば進むほど歴史的な現象が現在起こっていることの必然性を理解することになるので、進めば進むほど批判力が低下する。つまり、批判しても無理だからということになる。そう考えると、なぜヴェトナム反戦運動が数学者と英文学者から出て政治学者から出なかったかが説明できる。その論理はもちろん、ヴェトナム戦争に限らず米国に限らず、どこの国でもいつの場合でも貫徹する普遍的な問題だと思います。<br><br>　同時に、戦争というのは果たして「必然性」として捉えることができるか、という問題がある。必然的だということになると戦争反対がいえなくなる、できなくなる。にもかかわらず、私は戦争反対です。もちろん反対するためには、自由があるという考え方をとらなければならない。完全に必然的なものではなくて、いま決定すればそれを変えることができる、「やめる」という決定は可能なのだという立場に立たなけれぱならない。<br><br>　しかし、戦争に反対する動機は、客観的な理解過程ではなくて、一種の倫理的正義感です。つまり「子どもを殺すのは悪い」ということがある。それで、ためらうことはない。そういう問題の時にこそ、その目的を達成するために科学的知識を、客観的知識を利用すべきであって、科学的知識のために倫理的判断を犠牲にすべきではない。<br><br>　だから私は、戦争反対のほうが先にある。「初めに戦争反対ありき」です。反対を貫徹できるかということで学問の助けを借りる必要はある。どこに状況を変える要素があるかということを知るために。しかし、客観的な知識を磨いていることから戦争反対が出てくるのではない。むしろ、それをやめさせるように、戦争反対をできないようにする傾向が科学的知識の中には含まれている。ですから、「科学から倫理」ではなくて、「倫理から科学」でなければいけないと思う。</p><!-- /entryBody --><!-- __entry_body_end__ -->
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<pubDate>Sun, 13 Jun 2010 09:57:50 +0900</pubDate>
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<title>戦後世代の戦争責任</title>
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<![CDATA[ <p>戦前・戦中の１９４５年以前の日本と１９４５年以後の日本が、制度上おおいに変わった。</p><br><p>しかし、頭の中では、連続面が非常に強い。別の言葉でいうと、戦前の心理的なものの考え方感じ方、それを仮にメンタリティという言葉を使えば、メンタリティに持続性が非常に強い。だから前と同じことが、また出てくるんだと思う。ほとんどみんなでてくると思いますよ。<br></p><p>総理大臣から、警察署長まで、あるいは刑事までですね、戦争中に活躍した有能な人達をそのまま保存することになった。</p><br><p>ということはつまり戦争責任を一切問わないということですね。戦争責任を問わなければ、結局は問わないということになってしまったんですが、問わなければ戦争中に行った人の、どんな酷いことがあってもね、それが十分に批判されてないわけだから、また復活するよ。<br><br></p><br><br><p>戦後世代の戦争に至る責任ってのは、直接にはないと思いますね。</p><br><p><br>しかし戦争をかつて生み出したような考え方、あるいは文化がこんにち持続してればね、それの持続か断絶かということは、戦後世代に責任があると思いますね。</p><br><p>過去の事実としての戦争に責任はない。</p><br><p>戦争犯罪にも責任はない。</p><br><p>しかし戦争を生み出した、あるいは戦争犯罪の背景にある文化は持続してるから、で、その中で育ってるわけですから、戦後の人も。その文化に対してどういう態度をとるのかっていうことですね。</p><br><p>それには勿論責任がありますよ。で、ことに戦後は比較的自由なわけで、言論の弾圧があるわけじゃなし情報が管理されてるわけじゃないだから。建前としては。もし望めば、十分な情報を収集することはできるし、自分で考えることはできるんでね。<br></p><br><p>で、戦争を生み出した文化を承認すれば、それは間接に戦争に対する責任がある。将来の可能な戦争に対する責任があるということになりますね。過去に対して責任はないけど、未来に対して責任があるわけよ。</p><br><br><p>２０００年３月「歴史としての２０世紀を語る」戦中と戦後のあいだ </p>
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<pubDate>Sat, 05 Jun 2010 12:10:53 +0900</pubDate>
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<title>歴史の見方</title>
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<![CDATA[ みずから成功を称え、失敗を隠す。善事を誇張し、悪事をごまかす。これは自慢話である。自慢話の用途は多く、世に広く行われて久しい。たとえば商品の売りこみであり、政治家の、殊に選挙前の、演説である。しかし一国の歴史の叙述を自慢話に還元しようとするのは、その国の文化の未熟さを示す。<br><br><br>不幸にして文部省による学校教科書の検閲には、その傾向が著しい。軍国日本の大きな政治的失敗は、中国侵略であったが、それを「進出」といいつくろって、中国政府から抗議された。悪事の際立ったものは、日本軍の残虐行為であったが、それをあいまいにしようとして、再び中国側から警告された。<br><br>日本軍の残虐行為の集中的表現は、いわゆる「南京虐殺」である。１９３７年、激戦の後、上海を抜いた日本軍は、はじめの「不拡大方針」を変更して、そのまま南京へ向かい、南京を占領した。それと同時に、多数の捕虜と中国人の非戦闘員、女や子供を含めての市民を、南京市の内外で虐殺したのである。<br><br><br>この事件は、戦時中の日本では報道されず、大部分の日本人は知らなかったが、被害者の中国人はもとより世界中の多くの人々は知っていた。<br><br><br>虐殺が行われたか、行われなかったかは、問題とするに足らない（それが行われたとする当事者の証言は、十分に多い）。被害者の数については異説がある。南京市文史資料研究会編の『証言　南京大虐殺』（日本語訳）によれば、「三十余万」、それよりも早く大戦後の戦争裁判法廷によれば、「二十万以上」である。<br><br><br>最近私は三人の著名なジャーナリストの回想録を読んだ。すなわちエドガー・スノウ『抗日解放の中国』（サイマル出版会、1986。原題Edgar Snow's China , ed. by Lois Wheeler Snow）、松本重治（聞き手・国弘正雄）『昭和史への一証言』（毎日新聞社、1986）、ロベール・ギラン『極東』（Robert Guillain , Orient Extreme , Une Vie en Asie , Le Seuil ,1986）である。<br><br><br>いずれも「南京虐殺」に触れる。『中国の赤い星』の著者スノウは、中国側からみて、「日本軍は南京だけで４２０００人以上の中国人を殺害したが、そのかなりが女子供であった」といい、１９３７年当時同盟通信社の上海支局長で、占領の五日後に南京に入った松本重治氏は、日本側からみて、捕虜と一般市民を併せた犠牲者の数を、「三万人ぐらい」と推定している。ギラン氏は、数の推定はしていない。しかし残虐行為の存在については、三人のうちの誰も疑っていない。<br><br><br>犠牲者の正確な数を知ることは、おそらく不可能であり、それを議論することには、あまり意味がないだろう。しかしその規模について、虐殺が数百人程度のことか、万あるいは十万単位のことか、およその推定には意味がある。エドガー・スノウが故意に犠牲者の数を低く見積もる理由は考えられず、松本重治氏が故意に高く見積もる可能性も考えられない。両者が万を以って数えているとすれば、虐殺の規模を「少なくとも数万」として大過あるまい。これは戦闘の目的を離れた「大量殺人」である。<br><br><br>かくして日本人が、過去において、大した悪事を働かなかったという話は、中国人はもとより、どういう外国人に対しても全く説得的でないだろう。そればかりでなく、その話を聞く側の関心は、過去の誤りに対して現在の日本人がどういう態度をとるか、ということである。誤りを隠し、ごまかし、いいつくろう態度から、彼らがどういう結論を抽きだすかは、政府の公式抗議があろうとなかろうと、あまりにもあきらかである。立場を換えて、たとえばヴィエトナム戦争当時、われわれ外国人が米国に対する敬意を失わなかったのは、ヴィエトナム戦争を弁護する米国人の議論に説得されたからではなく、自国の戦争を批判する米国人の存在に、米国の文化の成熟をみたからである。<br><br>逆に米国人が日本の文化に敬意をもつとすれば、日本国では何もかもめでたい、という話に説得されるからではなく、自国の侵略戦争をそういうものとして直視し、弾劾し、そこから教訓を抽きだそうとする日本人の存在によってのみであろう。<br><br><br>日本国内で、中学生や高校生に、日本国の過去には何も悪いことがなかったという話を聞かせたら、「愛国心」の涵養に役立つだろうか。彼らに対してもそういう話が説得的であるかどうかは、大いに疑わしい。もし彼らがそう簡単にだまされぬとすれば、必ずや学校に対する不信感を強める効果しかないだろう。もし彼らがその話を真に受けるとすれば、「愛国心」の涵養に役立つかもしれない。しかしその「愛国心」は、事実をふまえず、批判精神を媒介としない盲目的な感情にすぎないだろう。盲目的「愛国心」が、国をどこへ導いてゆくかは、軍国日本の近い歴史が教える通りではなかろうか。<br><br><br><br>私は昔フランスに住んでいた頃、同じ事件を、政治的傾向を異にする新聞が、いかに異なって報道するか、例を示して高校生に教えている教師に出会ったことがある。その教師は、どれが正しいかを教えず、どれが正しいかを生徒自ら『考える』ことを、教えていた。けだし盲目的「愛国心」の涵養は、考えるための教育の反対物であり、つまるところ愚民政策の一つの形式にすぎない。<br><br><br>ギラン氏は、その回想録のなかで、中国における日本兵の残虐さに触れ、「日本の外で、敵に対しては、すべてが許されていたのだ」と書き、１６世紀のキリスト教宣教師が日本人を定義した「家の外では虎、家のなかでは羊」という言葉を引いている。「２０世紀のまっただ中でも、その定義は正しかった」と。<br><br>ヨーロッパのジャーナリストのなかで、ギラン氏ほどの親日家はおそらく少ない。そのギラン氏にして、この言あり。<br><br><br>日本国の将来にとっての大きな問題は、家の外でも抑制があり、家のなかでも単に従順ではない個人を、いかにして育てるか、ということに係っている。その「いかにして」は、まさに、自国の歴史をつき離して客観的に評価し且つ批判する知的誠実さから、始めるほかはないだろう。<br><br><br>文化的成熟とは、みずからを批判し、みずからを笑うことのできる能力である。徳川時代の狂歌師にはそれがあった。いつの世の中でも、大真面目の自慢話ほど、幼稚で、愚劣で、しかも危険なものはない。<br><br><br><br><br>加藤周一さん著１９８６年８月１５日
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<pubDate>Sun, 30 May 2010 17:01:51 +0900</pubDate>
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<title>夢一夜</title>
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<![CDATA[ <p>蒸し暑い東京の夜。居ねむりしても眠りは浅く、夢を見た。場所は、はっきりしないが、どこかの小学校の校庭らしい。そこで私は昔自分が小学生であった頃の「校長先生」と話していた。<br><br><br><br>その頃子供が校長と話す機会は全くなかったが、彼の方は講堂の高い演壇の上から私たちに「教育勅語」を読んで聞かせたり、いわゆる「しつけ」のための教訓を垂れたりしていた。私が－というよりも私たち小学生が「校長先生」について知っていたことのすべては、彼が私たちに向かって喋るときには妙におごそかな声を出すということと、誰がどこで聞きかじったのか、彼が土地の有力者の一人だったということぐらいであった。そのおかげで、冬の教室のストーブはよく燃えて暖かかった！<br><br><br><br>教育方針はどういうものだったか。遠い音のことで、ほとんど何も覚えていない。今でも覚えているのは、学校の全体が上級の学校－ここでは中学校へなるべく多くの卒業生を送り込むことを、あたかも唯一の目標としているかのように組織されていたことである。<br><br><br><br>中学校には暗黙の了解の下に差別があり、有名中学校の入学試験競争は厳しかった。そこへの進学を目標とすれば、子供には特別の試験準備訓練を行わなければならない。しかるにそのための予備校はまだ発達していなかった。したがって試験準備教育は、学校教育の中心を占めるようになったのである。地域で有力な小学校長、すなわち進学率の高い学校の校長は、小学校の上級生を、進学組と非進学組とに分け、前者には特訓を行って「成功」した。<br><br><br><br>しかしそれは「成功」だったのだろうか。「格差」は小学校から明らかで、さらには「試験地獄」、そのための徹底的な「つめこみ主義」。これでは「成功」どころか、その後教育制度の欠陥としてさかんに議論されたことが小学校段階から早くも見事にそろって見えていた、ということになる。<br><br><br><br>「いや、その後は戦争だった」と元校長は言った、「知識のつめこみではなくて、愛国心のつめこみ…。」<br><br><br><br>「しかし戦後には『試験地獄』と『つめこみ教育』が復活する。そこでついには、ゆとり教育論まで生みだしたのではないですか」と私は言った。<br><br><br><br>「いや、あれはダメだ」<br><br><br><br>「なぜダメですか」<br><br><br><br>「学力低下だ」<br><br><br><br>「たしかに子供の学力の国際比較で順位が下がったようですね。しかし、その主要な原因は（ゆとり教育）ではないでしょう」<br><br><br><br>「では何だ？」<br><br><br><br>「しらばくれないで下さいよ」と私は応じた。<br><br><br><br>ゆとり教育と称して、教科書を薄くしたり、授業時間を短くしたりすれば、－小・中・高のどの水準でも、教科書の文章は濃縮され、同じ内容の記述が短くなる、子供たちにとってそれを理解するのはより困難になるだろう。授業についても同じ。授業時間が少なくなれば、同じ内容の説明はよりむずかしくなるのが、当然の結果である。<br><br>内容の省略は、多かれ少なかれ体系的な知識については容易ではない。教科書の記述も、教壇での指導もよりむずかしくなるし、学習する側のゆとりが生じるというのは、不思議な空想であろう。<br><br>それにもかかわらず、何かの手品のように多くの生徒たちの生活にゆとりが生じたとしよう。彼らはそのゆとりの時間にどこへ行くのだろうか。すでに進学競争から脱落した生徒たちは、ゲームセンターに行くかもしれないが、まだ脱落していない生徒はより長く予備校に滞在するだけの話であろう。「ゆとり教育」が有益であるとすれば、それは試験地獄に苦しむ生徒たちを助けるのではなく、試験地獄を見聞きした教育行政担当者を、いくらかでも慰めるからにすぎない。<br><br>私は恐らくそういう話をした。そして一般に募集の人数を志願者の数が上回れば、志願者の中から必要な人数を選ばねばならない、ということにも及んだ。いかなる基準によって選ぶかは、時と場所によって異なる。純粋の偶然に委ねることもある（例えば、くじ引き）、またカネ（買収）により、また身分・私的個人的関係・政略などによることもある。<br><br>また、志願者の能力を試験によって知ろうとする場合もある。（入学・入社試験、中国の科挙や日本の近代の高等文官試験など）。試験による選択は組織内の能力主義（meritocracy）にも係わり、多くの学校や大学が採用している。しかしこれは優勝劣敗を原則とする。<br><br>試験そのものは、少なくとも日本国で多くの場合に公平だが、試験の準備段階では、全く公平でない場合が多い。生徒、または学生の入学試験は、受験者の試験当日の能力を比較するが、例えばそれ以前の両親の支援の有無は考慮されない。その意味で試験は不平等な条件の下に行われている。それを是正するためには、何らかの公権力の介入が必要であるかもしれない……。<br><br><br><br>そういう考えに必ずしも反対しない、と元校長は言った。<br></p><br><p><br>「しかし言うは易く、行うは難しだ。すでに固定された利益が大きく、自分たちに有利な制度を政治家たちは変えようとしないだろう。そうさせるために必要なのは何か。子供の教育ではなく、政治家の再教育、入ガク試験ではなく、入カク試験かもしれないね」<br><br><br><br><br><br><br>2007.7.21</p>
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<link>https://ameblo.jp/satutaba500000/entry-10549129042.html</link>
<pubDate>Sun, 30 May 2010 16:50:44 +0900</pubDate>
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<title>「オリンコーラ万歳 」</title>
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<![CDATA[ <p>今を去る百年前１８９６年に、現代史上記念すべき二つの事件がおこった。アテネでは近代オリンピック競技が、古代ギリシャのそれに倣って、はじめて行われた。米国南部の町アトランタでは、コカコーラの会社が創立された。国際オリンピック委員会（ＩＯＣ）は、その二つの百年祭を調和させようと望んだらしい。そこで史上最大の人とカネを集め、アトランタ大会、俗にいわゆるオリンコーラ大会となった。<br><br>時あたかもスポーツ興行の全盛時代、ＩＯＣもすでに早くアマチュア主義の原則を廃している。しかも場所柄が聖なる自由市場と「民活」の本山、大企業の投資と広告宣伝活動がそこに集中するのはあたりまえだろう。四年に一度の国際的見世物には、次第にカネがかかるようになってきた。１９８４年ロス・アンジェレスでは、二億ドル以上、１９８８年ソウルでは四億以上、１９９２年バルセロナでは、六億、１９９６年アトランタでは八億を超えるという。<br><br><br><br>それほどカネのかかった見世物は、さすがにＴＶで見てもおもしろい、――というよりも、はじめからＴＶ向きに仕掛けられている。若い人間の身体とその動きの大写し、英雄または「スター」が生まれる劇的な瞬間、常人の身体的能力を超えてほとんど超現実的な軽業・・・・すべては画面効果が素晴らしく、出演者には身体的および心理的な可能性の限界だろう。<br><br><br><br>しかしそれだけではなく、選手たちには「お国のため」という圧力も加わる。そもそも１９世紀末のヨーロッパで国民国家の概念の新鮮であった頃、クーベルタン男爵が近代オリンピックを発案したときに考えたのは、諸国民が戦場で殺し合う代わりに、競技場に集まってスポーツの勝敗を争うことであった。その祭典は制度化されて一種の「身体的宗教」となり、聖職者（＝ＩＯＣ）に運営され、高度に儀式化され、英雄または聖者（＝金メダリスト）を生みだし、もはや世界の平和を保障しない伝統的宗教の代わりに、諸国民の融和へ向かう市民宗教となるだろう、――と彼は空想していたらしい。しかし競技に参加するのは、個人ではなくて国民＝国家の代表である。オリンピックは、古代にそうであったように、近代でも「政治化」しないはずはなかった。<br><br><br><br>国家間のメダル獲得競争は、オリンピックを「成功」させると同時に、競技場を国力誇示の場とする。さらには政治的ボイコットやテロリズムにまで到らざるを得ないだろう。代表選手に対しては、「ナショナリズム」の圧力が途方もない個人的犠牲を強いる。<br><br>私はＴＶの画面を見ながら日本選手の勝敗に一喜一憂し、かねていくつかの新聞の記事を拾い読みした。そして商業主義とナショナリズム、自由市場と国家権力がつくりだす大がかりな見世物に感心しながら、その人権侵害との関係を考えた。たとえば未成年者の訓練と、「ドーピング」である。<br><br>私は空中に舞う少女の優美な動きに感心しながら、子供の頃見たもの悲しいサーカス小屋の曲技を想い出した。メダル獲得のためには、子供の生活の、ほとんどあらゆる面が犠牲にされてきたにちがいない。あの少女たちの将来はどうなるのか。ＩＯＣは参加者の年齢を制限し、――現に古代ギリシャでは成人の競技と少年の競技を別建てにしていたらしい――、未成年者の強制労働を排すべきではないだろうか。<br><br><br><br>「ドーピング」は、発見されれば失格を意味する。しかし筋力を増し、耐久力を強め、その他競技において選手を有利にする。勝敗はわずかな体力の差によって決まることが多いから、選手の側では適当な薬剤やホルモンを適当な時期に用い、検査をごまかすためにあらゆる工夫をこらす。検査をする側も、検査方法や装置を改良して発見に努める。「いたちごっこ」の結果や如何。<br><br>一説によれば、アトランタでは参加選手のおそらく７５パーセント以上がドーピングをかくし了（おお）せたらしい（英国代表団付医者の一人のＢＢＣでの証言）。あるドイツ人記者はそのような状況を、見事な対句に要約していた。曰く「ドーピングなければ、成果なし。ドーピングあれば、倫理なし」（Die Zeit , 21 Juli ,1996)。<br><br>自ら獲得したメダルを叩き売ったチェコの選手（小児科医でもある由）の感想はこうである。「最近の五輪はスポーツマンのためではなく、政治家やスポンサーのための大会になってしまった。カネだけが問題になっている」（『朝日新聞』1996年8月7日）<br><br><br></p><p>そのあとには、何が残るのだろうか。<br><br></p><br><p>アトランタの貧しい地区にある教会の牧師は、「大会はいちばん富んだ人々だけをさらに富ませるだろう」と言った（Le Monde , 19 juillet , 1996)。オリンピック施設の地区から消えたといわれるあの「ホームレス」の人々は、どこへ行ったのだろうか。<br><br></p><br><p>オリンピックは現代の鏡になった。世界には世界自身の鮮やかなイメージが残るだろう。政治家やスポンサー、カネだけが問題なのは、何もスポーツ興行にかぎったことではない。爆弾が、あるいは毒ガスが、罪のない多数の市民を無差別に殺傷するのはアトランタの公園においてだけではない。操作された「ナショナリズム」が集団ヒステリーに近づく過程、事件をＴＶが報道するのではなくＴＶが事件のリズムを決定する状況、また殊にもっと早く走りもっと高く飛びたいという単純で激しい情熱、そこから生じる競争、競争のための効率主義、――そういうことの全ては競技場だけにあるのではない。<br><br><br><br>たしかにクーベルタン男爵の夢は消えた。スポーツと世界平和の関係は、サラエヴォのオリンピックと旧ユーゴスラヴィア紛争との関係に似ている。すなわち限りなくゼロに近い。今日Prague（ぷらーは）の小児科医がスポーツをあそびと健康のための活動と考えたとすれば、その考えはオリンピックのスポーツ興行とは何の関係もない。たとえ彼自身の身体的能力が例外的に優れ、メダルを獲得したとしても。<br><br>今やオリンピックは、あそびではなく戦いであり、健康破壊の洗練された制度である。しかし失うものなくして得るものはないだろう。平和の夢と健康とあそびの精神を失うことによって、オリンピック競技は遂に現代世界の縮図を得た。縮図または模型。模型の効用は、対象の理解である。<br><br>かくしてオリンコーラの大会は、現代世界の理解に貢献した。それこそは、世界記録の更新にも増して、素晴らしいことではないでしょうか。<br><br><br>１９９６年８月２２日加藤周一さん著<br></p>
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<link>https://ameblo.jp/satutaba500000/entry-10545530283.html</link>
<pubDate>Wed, 26 May 2010 18:01:02 +0900</pubDate>
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<title>歴史的文化的ナショナリズム</title>
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<![CDATA[ ２０世紀の歴史がわれわれにはっきり示したことは、ことにユーゴスラヴィアの戦争がその例だと思うのですが、ナショナリズムはなくならないということです。ナショナリズムがでてくる根源はいろいろあります。個人は社会の中で、それぞれ自分自身の個性とかアイデンティティを求めます。ところが個人が集まってある集団、たとえば民族的集団をつくると、個人のアイデンティティ、個性、顔つきではなくて、その集団がアイデンティティを求めるようになる。その集団の個性、顔つきを保ちたいという欲求が強くなってくる。その背景はやはり歴史と文化でしょう。<br><br>それぞれの地域の歴史が違い文化が違う以上、ナショナリズムの感情というのはなくならないと思うのです。それをなくすような形で問題を解決しようとするできない。ですから、戦争にならない、悲劇的な形にならないように、それぞれの歴史的文化的なアイデンティティを失わないで、ナショナリズムを大きな国際的組織の中へ組み込んでいくことが必要になるわけです。２０世紀はそれに失敗した。だから戦争が起こった。今でもあとからあとから暴力的なナショナリズムは起こっている。<br><br>問題は、ナショナリズムと、広い視野からの国際的な協力関係を作り上げていく動きとはどういうふうに融和できるかということです。それはおそらく２１世紀の課題になるでしょう。<br><br>この問題を解決するための原理・規範とは何か。それはわれわれの経験の中にあると思います。一国の中で、一民族の中で、それぞれの人が個性を失わないで一つの国が平和的に成り立ち得るのは平等があるからです。それぞれの人が別の顔かたちをして別の能力を備えてるわけですから、もちろん競争も生じます。要は、基本的に平等を認め、相手との違いの存在を容認するか否かです。それを全部消し去って同じ形にしようという力が強く出てくれば出てくるほど、個人と社会あるいは国家との緊張関係は強まります。同じように、民族的な集団がどの集団にも存在の権利を認めて平等な関係が基本的にあれば、多くの集団が激しい衝突にならないで協調することができると思うのです。<br><br>しかし、そうでなくて、小さな集団、弱い集団の個性を消し去って、みんな同じようにする、別な言葉でいえば、優越している一つの大きな民族的集団あるいは国家が、自らの標準を世界中に強制するようになると、その反発が起こって、しばしば強い衝突になる。衝突はいきなり暴力の行使ではなく、経済的、技術的、文化的とさまざまな手段でおきますが、力が拮抗していれば抵抗は暴力的にならないと思います。ところが道がふさがれて、一方が非常に強くて他方がたいへん弱い場合は、弱い側が文化的にも政治的にも軍事的にもすべての点で押し潰される傾向がある。<br><br>押し潰されそうになって、それでもアイデンティティを強調するから、最後の手段はテロリズムになる。テロリズムは、歴史的文化的なアイデンティティの表現の道がふさがれたときの最後の絶望的な反応です。誰もテロリズムを望んでいるわけではない。なぜならば、テロリズム二つの集団の間のある関係を作り出すための手段というよりも、自分の存在を証明するための絶望的な反応だからです。これを武力であるいは警察力でコントロールするといっても程度問題です。テロリズムというのは、ナショナリズムがなくならない限りなくならないでしょう。<br><br>この対立を解決するには、相手のアイデンティティを認める、根本的にはどの集団にも平等な権利認めるような国際社会を作ること以外にないと思います。２０世紀はそのことに失敗し、その目的に達していない。だからテロリズムがだんだん強くなってきたのです。<br><br>日本のことを言えば、法の前の個人の平等がある程度実現しているから社会が成り立っているわけで、もし不平等があまり激しくなれば、絶望的な表現はテロリズムになります。昔の農民一揆がそうです。合法的な手段で自分を主張できない、あるいは経済的な状況があまりに悪くてどうしようもないときは、非合法的暴力を使うしかないわけです。そういう平等を認めることが大事なのです。何について平等を認めるかというとナショナリズムの根拠になるものの一つは人種です。それから、場所によっては宗教がある。もちろん歴史があって文化がある。その中でも著しいのは言葉です。その民族の言葉です。<br><br>２０世紀に比較的平等の方向へ動いてきたのは、まず人種です。どの人種にも同じ権利があるというのは、問題の解決に進んでいく考え方です。ヒトラーのユダヤ人虐殺は徹底的な人種差別です。ユダヤ人に平等の権利を与えて、人種によって差別しないということをすれば虐殺する必要はなかったわけです。現に平等の方針を取って、ユダヤ人がほかの人種の人と同じように、社会に貢献している例は米国です。もちろん米国にも人種的偏見と差別はありました。しかしそれはだんだん少なくなる方向に進んでいます。そういう努力を米国はしてきたわけです。黒人と白人の間でも、ユダヤ人に対しても差別を減らしてきたから、彼らは同じ社会に統合される傾向が強くなったのです。その意味ではヒトラーの虐殺は、２０世紀を特徴づける犯罪だったのです。もう一つは宗教です。１６世紀にはヨーロッパで宗教戦争がありましたが、その後だんだん減ってきて、今ではほとんどなくなっています。現在ではもっと進んで、お互いに協力して宗教的な文化を追求していこうというエキュウメニスム運動になっている。エキュウメニスム運動というのは２０世紀の特徴です。それはいま発展過程にあって、たとえばイスラムとキリスト教の間でも試みられています。唯一の解決方法は、相手を否定する事でなくて、平等の権利を相手に認めることです。<br><br>次に文化と歴史です。それは変えることはできない。だからナショナリズムはなくならないわけです。しかし、一方は優れた歴史があって、、他方は歴史的停滞があり劣った発展をしたという上下関係の見方をすると、それは各民族間の対立を強めることになってきます。<br><br>言葉もそうです。ある言葉が便利だということだけで測れば上下関係が出てくるのです。ある用法において、それぞれの言葉に便不便はたしかにあるとしても、もっと人間の感情と結びついたそれぞれの言葉がそれぞれ平等に価値があるという方向に行けば、つまり多言語主義を取れば、それは民族対立を弱めるように作用します。<br><br>ですから民族主義、ナショナリズムをなくすことが目的ではなくて、まず第一に、それぞれのナショナリズムを平等に扱うことで、その間の対立を少なくしていくことが必要です。<br><br>第二の問題は、その平等を今度はどういう手段で表現するかということです。話し合いとか交渉とかあるいは相互の妥協とかの手段に訴えて解決するのが第一です。民族間の争いが起こったときに、暴力による軍事力による解決をはからないことがなにより大事です。<br>ユーゴスラヴィアはその意味でも誤りをおかしています。というのは、それぞれの指導者が民族的な対立を、武力による暴力的な対立で表現したのです。そうすることで彼らの地位を強めるようにさえした。それがユーゴスラヴィア内戦の基本的な問題です。<br><br>それはしかし、日本の場合でも同じで、排他的民族主義が悲惨な犠牲を生んでいます。日本の場合は典型的民族国家で、大体において一民族一国家であるということで、民族と国家がいわば一体化している。分裂の可能性は少ないわけです。民族的な分裂はあまりないけれども、外に対して日本の民族主義を煽るときには、日本人がほかの人種よりも優れていると主張する。これは最もよくない表現です。<br><br>日本が宗教を別の人種、別の民族に押し付けようとすると衝突が起こって、当然それは激しい形になる。第二次世界大戦前の日本の植民地では、日本の宗教を押し付けようとする傾向があった。最も酷かったのは、朝鮮半島で神社を造って押し付けようとしたことです。しかし、神道の神を祀る神社は日本の地域的宗教であって、キリスト教とか仏教とは違うのです。多くの国がすでにキリスト教化したり仏教化したりしていて、その一つとして、朝鮮半島も日本も仏教化されたわけです。神道はそれと違って、初めから日本という一地域に限られた宗教ですから、日本人がそれを信仰するのは自由だけれども、外国人に押し付けようとすれば、どうしても圧力を伴う。<br><br>言葉についてもそうです。何語に対しても日本語が劣っているわけではない。しかし、優れているわけでもないのです。
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<link>https://ameblo.jp/satutaba500000/entry-10545127033.html</link>
<pubDate>Wed, 26 May 2010 05:30:13 +0900</pubDate>
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<title>「温故知新」</title>
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<![CDATA[ 「日本は変わるだろうか」とその老人はいった。<br><br><br>「去年は自民党の一党支配が終って細川内閣ができ、今年は参議院で否決された政治改革法案が党首談合の結果成立し・・・・」と私は呟いた。<br><br><br>「細川内閣は第二自民党内閣だろう」と老人はいう。「政治改革は&lt;国際化&gt;と同じかけ声でないかね」<br><br><br>「いや手きびしいな。しかし政治改革は小選挙区の導入です。制度が変われば、政治力学も変わるのではないですか」<br><br><br>「私は昔のことを想い出している」と老人は話題を変えた。<br><br><br>「お国はどちらで？」<br><br><br>「フィレンツェ」<br><br><br>「あ、花の都・・・」<br><br><br>「いや、想い出すのはそのことではない。この日本国の、頃は１９２９年、春３月の第五六議会。その会期も終りに近く、床次竹二郎（とこなみたけじろう）らが小選挙区制の導入を提案したときの理由は、&lt;カネのかからぬ選挙&gt;と&lt;政情の安定&gt;・・・」<br><br><br>「なるほどそっくり・・・」<br><br><br>「今も変わらぬ申し分だ。そこで咢堂尾崎行雄が、たち上がって何といったか。選挙区は小さいほどカネがかかる。小党を排し議席の多数が大政党に集中すれば、政情が安定するのではなくて、多数が無理を通すのである。選挙費用の節約と政情の安定を理由とする小選挙区制の提案は、あまりのバカバカしさに&lt;抱腹絶倒の外はない&gt;ものだ・・・」<br><br><br>「第一次大戦後、咢堂は、たしかに、軍縮を支持し、治安維持法に反対し、小選挙区制を批判していた。それにしてもよく御存知ですな。この国の議会の歴史を」<br><br><br>「なに、『赤旗』（1994年2/10）の紙面を読んだのさ。大使をしていたから独仏語は自由だが、日本語も、どうにかね」<br><br><br>「２０年代のことは、子供だったので、私に想出せるのは夜店の綿アメぐらいですよ」<br><br><br>「新春初笑い、小選挙区制というのは、今も昔も変わらない日本国のめでたさだね」<br><br><br>「星霜移り、その後１０年、１９２９年の尾崎行雄に呼応するのは、１９４０年２月、第七五議会での斉藤隆夫の演説でしょう。この方は私も覚えています」<br><br><br>「&lt;大東亜共栄圏&gt;と汪兆銘傀儡政権、政府の対中国政策を批判した斉藤演説の内容は、日本の外では常識、内では議会が彼を除名する理由になった」と老人は続けた。<br><br>「除名に反対したのは、社会大衆党の８人。今日参議院の社会党議員で政治改革法案に反対票を投じたいわゆる&lt;造反議員&gt;先達だろう。社会大衆党はその８人を党から除名し、その後間もなく、みずから解党して翼賛議会に吸収される。何がなんでも聖戦完遂、昨日いった原則を今日翻しても連立与党の内閣をまもる、原則に固執する議員は排除する、――かつての社会大衆党から今日の、日本語で社会党、英語で社会民主党、イタリア語で・・・まあ、これは追って問い合わせるとして、一体どこがどう変わった、あまりに微妙なちがいで、われわれ外国人にはわからないね」 <br><br><br><br>「しかし翼賛体制が整って、さてその次に何が来るかは、昔と今でちがうでしょう。植民地戦争の時代はとっくに終っています。この次の日程は、国連安保理事会の常任理事国、そのための前提として、あるいはその後の責任として、憲法改め、海外派兵、国際平和に協力ということじゃないですか」<br><br><br>「いや、昔の大日本帝国のいい分も植民地獲得戦争をしたのではなくて、大東亜永遠の平和のために大軍を送ったのだ。海外派兵は昔も今も、日本でもどこの国でも、みんな国際平和のためなんだね」と、フィレンツェからの老人はいった。<br><br><br>私は話題を変えて、「日本でもイタリアでも事の起こりは政治家の腐敗ですね」といった。「腐敗の構造はよく似ています」 <br><br><br>「その通り。しかし検察の反応も、国民の反応もちがう。イタリアの検察の追及は徹底している。何万の市民も街頭に出て、組織労働者は罷業で抗議の意思を明示してきた。選挙では腐敗の中心キリスト教民主党が惨敗したのだ」<br><br><br>「日本ではそうはゆかない・・・」<br><br><br>「どころではなくて、腐敗の中心自民党が二つに分かれ併せて前より議席を増したのだ。その大勝利を制度化し、固定して、咢堂流にいえば、何でも無理を通せるようにしたのが、小選挙区制の導入だ」<br><br><br>「しかし政治改革法にはいくらか腐敗防止の工夫があるという人もいますよ」<br><br><br>「世論調査の結果によれば、日本国民の大多数は、そう思っていないようだね」<br><br><br>「何とかイタリアの半分でも・・・」<br><br><br>「厳しくすることは、&lt;和&gt;の精神にもとるだろう。その国にはその国の流儀がある。私が日本人なら、別の手を考えるね」<br><br><br>「たとえば？」<br><br><br>「たとえばワイロを抑えるより奨励し、公認して、ワイロ税を新設する。消費税の名前を変えて税率を引き上げるより、簡単に所得減税の財源にもなるね。ワイロ拡大すなわち内需拡大だ」<br><br><br>老人はそういって呵々（かか）大笑した。その顔を見ているうちに、私の脳裏にはふとある疑いがひらめいた。「もしや、あなたは・・・」<br><br><br>「マキアヴェッリMachiavelliだよ」と老人がいったと思った瞬間に、私の夢はさめた。<br><br><br><br><br>加藤周一さん著1994年2月<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>NHKスペシャル　証言ドキュメント　永田町・権力の興亡　第2回 <br>90年代末グローバル化や金融危機が進む中、漂流した日本政治。数の攻防に終始した自民党VS小沢の闘い。政治家達の証言で綴る同時代史・第二回は1996～2000。 <br>第2回は、1996～2000年。戦後システムの制度疲労、押し寄せるグローバル化の波…。日本社会が激震に見舞われる中、過半数の安定政権は生まれず、自民党と小沢一郎の対決は“数をめぐる攻防”になっていった。自民党で先陣に立ったのは、かつて小沢がいた「経世会」の新たな実力者・野中広務。混迷する政局の果て、自民党で起こったのは「5人組の密室劇」そして「加藤の乱」。証言で初めて明かされるその内実と秘話とは？ <br>NHKスペシャル　証言ドキュメント　永田町・権力の興亡　第3回 <br>90年代の閉塞を破り登場した小泉純一郎。民主党と合流し小泉改革の歪みを睨みながら政権交代を実現した小沢一郎。二人の深層に迫る。日本政治・証言ドキュメント最終回。 <br>90年代の閉そく感を打ち破るように登場した自民党の異端・小泉純一郎。国民の熱狂的支持を背に“古い自民党”を次々と壊した。一方、30人に満たない自由党を率いていた小沢一郎。“小泉旋風”を前に3度目の大勝負、民主党との合併に出る。そこには政権交代を目指す小沢のしたたかな戦略があった。今回の政権交代とは何なのか？
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<link>https://ameblo.jp/satutaba500000/entry-10541615870.html</link>
<pubDate>Sat, 22 May 2010 12:02:44 +0900</pubDate>
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<title>「鷗外・茂吉・杢太郎」</title>
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<![CDATA[ 最上川逆白波（さかしらなみ）のたつまでに<br><br>ふぶくゆふべとなりにけるかも<br>（「白き山」斉藤茂吉）<br><br>「これ叙景ですね。吹雪の最上川です。」<br><br>最上川にごりみなぎるいきほひを<br><br>まぼろしに見て冬ごもりけり<br>（「白き山」斉藤茂吉）<br><br>「あのー、彼はちょっと体悪くてね、最上川に行けない時は寝ていても川のイメージが頭に浮かんでくる。そうして作った歌ですね。で、それは大変痛切な非常に美しい歌だと思う。私は彼の傑作だと思います。日本の近代の歌の歴史の中でも、最も優れたものだというふうに感じます。<br>ということはですね、戦争の関係で言えば、戦争は、日清戦争・日露戦争にしても鷗外の生活・精神をそんなに強制しなかったですね。無理強いしなかった。それから杢太郎も十五年戦争によってそれほど強制されたわけじゃない。しかるに茂吉の場合、戦争は茂吉を徹底的に破壊したんですね。しかし破壊することで彼を大歌人にしたんだと思うんです。で、全てが壊れ去ったあとに、茂吉は素晴らしい歌をつくるということになるんですね。<br><br>で、どうして・・・、殊に茂吉の場合ですが、文学の領域、自然科学の領域で大変優れた思考力や分析力を発揮した人が、どうしてその思考力や分析力が戦争に対しては鋭くなくなったのか、鈍ったのか。日本社会全体の傾向の中にそのまま吸収されてしまったのかということですね。これが一番大きな問題だと思います。勿論茂吉は例外です。殊に強く戦争を支持したんですし、また才能が一般の人とは違って、ある意味で天才的な能力を持っていたわけですから。<br><br>だから誰でもそうだったとは言えないけれども、そういう戦争に対する態度は、その当時の日本の知識人、非常に広範な人達を代表していたと言えると思うんですね。自分の専門とする学問の領域、技術の領域、あるいは文学の領域では非常に優れた考えを持ってる人が、その同じ考えを戦争の評価には適用することができない、それで共同体の圧力に屈服するというか、日本共同体の中に吸い込まれてしまう、そういうことです。その限りでは茂吉は典型的なんだと思いますね。<br><br>で、彼はその後で、またこれも例外ですけども、何もかも失ったあとで、戦後になると唯一人自然にたいして素晴らしい歌を書くようになるんですね。しかし、素晴らしい歌を書くということは日本の帝国主義戦争の本質を見破る力にはならなかった。それはそこからは出てこなかったということです。ですから、彼が戦争をどういうものかを理解することが出来なかったということは、彼が大歌人でなかったということにはならない。歌人としては優れた歌を作ったんですね。しかし歌人として圧倒的に優れていたということは、戦争評価において優れているということでは全くなかったですね。そういうことを痛烈に茂吉の人生と仕事は示していると思います。<br><br><br>三人を比較して言えば、社会的に言えば、鷗外は指導層ですよ。明らかに。そして権力の中枢にいる人です。で、杢太郎は帝国大学ですから周辺部ですね。で、大学は中心じゃない。しかし一般大衆とも違う所だと思います。で、茂吉は一番大衆に近かった、まあエリートではあるけれど、しかし権力中枢ではないということですね。で、個人的には三人とも資質が違うところがあって、鷗外はやや戦闘的な人でした。<br><br>杢太郎はもっと静かで距離をもってましたね。日本の周囲の社会、戦争からも、ある距離をもってみていた。だからそれは状況によって批判にも転じるところだったと思います。<br><br>茂吉は個人としては、冷静な距離っていうんでもない、それから戦闘的っていうか、ある意味戦闘的かもしれませんが、上昇志向があったと思いますね。負けず嫌いですから、頑張ってっていうか、まあ頑張り主義みたいなもんでしょうねえ。<br><br><br>で、歴史にたいする態度は、鷗外は江戸時代を中心とした武士階級のですが、伝統的な価値を再確認することが.歴史的関心の中心にあったと思うんです。<br><br>で、杢太郎の場合には、そういうことよりも、むしろですね、歴史的にそのー、どういう価値が本当に究極的に大事なものであるのか、キリスト教なども含めて開いていたと思います。問いを発していたんですね。絶えざる問いですね、価値に対する。<br><br>で、茂吉はある意味では大変確信があったわけですけども、しかしそれは歴史的な価値と絡んでるっていうよりは、歴史を飛び越えての、価値に行ったと思うんですね、万葉集に。彼は万葉集人麻呂といったときは、それは過去であると同時に現在だったと思うんです。だからそういう意味で超歴史的な方角へ進むように歴史に対したというかな、そういうことだと思いますね。<br><br><br><br>で、もっと直接に戦争に対しては三人を比較してみますと、鷗外はですね、戦争そのものは勿論日露戦争にしても意味を問うとか、それから批判するとかっていうことは全くなかったわけで、受け入れたと思うんです。ある意味で、あの時代の彼のような立場にいる人間としては当然なことだと思います。で、その中で、その枠組みの中で、できるだけ自由主義的な立場をとったということが、鷗外の個人的な特徴でしょう。<br><br>で、杢太郎の場合には、もう鷗外と違って十五年戦争がでてきますね。彼は戦争の終る最中に亡くなるわけですが、十五年戦争の全体を経験するわけです。ある距離をおいて、それを受け入れながら観察しながら、そして自由主義的な態度を失わずに、で、最後の方ではだんだんに批判的になっていきました。まあその枠組みを壊さない、しかし批判を容れる余地のある枠組み、つまり緩い枠組みだったということになると思います。<br><br>で、茂吉の場合はですね、鷗外に比べても、杢太郎に比べても、十五年戦争は一体何なのかっていうことを全く理解していなかったと思います。それは戦争の始まるまえにドイツに留学した時に、ヒットラーの蜂起にあうわけですが、ミュンヘンですね、その時の彼の態度、日中戦争に対する態度、それから日本の軍国主義っていうものが、現代の世界史の中でどういう位置をしめているのかということに対する理解は、甚だなかったと思いますね。<br>で、そういう風に戦争に対する態度もちがってくる、三人がそれぞれの対応の仕方をしたと思います。<br><br><br>で、三人に共通なのはなんであるかというと、抜群に聡明な人達ですね。そして非常に広い知識を持っていた。だから知識が豊富で聡明な人であり、それから文学的才能は、抜群な文学的才能、彼らが日本近代文学を作ったといってもいいほど素晴らしい才能を持っていたんですね。そしてそれは、ある時は自然に対してある時は私的な、例えば恋愛とかあるいは友人間の関係とか、あるいは人間相互の一般の関係についてですね、彼らの深い理解と文学的表現の正確さっていうのは発揮されたと思うんですね。で、それのみならず自然科学の知識も持ってました。<br><br>で、自然科学の経験があったんですか、しかし自然科学の物の見方の客観性が、歴史の見方、殊に同時代の社会の見方、殊に戦争の見方に延長されるっていうことは極度に困難だ、それだけではおそらくなかなか出来ないことなんだと思います。<br><br><br>ですから、自然科学的な経験と、芸術的文学的才能と、広範な知識と、それから聡明なある精神の働きと、それを皆共通に持っていたと思う。それぞれの仕方で。しかし戦争に対する態度は鋭い批判という形では表れてこなかったと思いますね。<br><br><br><br>で、何があると戦争に対する鋭い批判がでてくるのか。で、戦争に対する批判というのは大事なことだと私は思います。なぜならば何百万の人が日本人の責任で死んだんですから。そしてそれは地震ではないですね。戦争っていうのは政治的現象で人間のするものですから。だからある自分の国家が、ある決断のもとにハッキリ計画的にある行動をとって、そして犠牲者の数が何百万となると、これはどうでもいいということにはならないですね。<br><br>で、何がそういうことを起こすのかとか、どうしてそうなるのかとかは、そういうことはどうしても日本国民としては責任もあれば考えるべき問題でもある。で、それを考えるには、今申し上げたような素晴らしい条件っていうのも必ずしも十分であるとは限らないのです。<br>で、どういうことが彼らには欠けていたか、鷗外から茂吉、杢太郎まで。<br><br><br><br><br>というのは第一はですね、絶対的な、状況によって変わらない絶対的な価値に対する確信っていうのは無かったと思います。で、鷗外は一種の相対主義で「かのように」の哲学ですから、だから「かのように」であって動かすことのできない、揺さぶることのできない確信というのではないわけなんですね。<br><br>で、杢太郎自身もそういうことを言ってまして、色々の価値を比較して、これが大事だということは段々に分ってくるんだけれども、「最後のところで選択することはできない」ということを言って、鷗外の立場に非常に近い、ヒューマニスティックっていうかな人間的で自由な立場なんですけども、絶対に動かない価値を選択するっていう最後の土壇場では選択してないということなんだと思います。<br><br>で、茂吉の場合にもそういうことは言えると思いますね。それは仏教をあるていど信じていたということはありますけれど、まあ天皇陛下は崇拝してたんですが、しかし、それだけで直接ある動かすことのできない、状況に関係なく常に妥当するような価値を引き出すということはできないので、そういうものはなかったと思いますね。<br><br>で、それは内村鑑三とか、お弟子さんですが、戦後まで生きた方では矢内原忠雄先生とか、プロテスタントの人たちと違いますね。あの内村鑑三の場合にも矢内原忠雄の場合にも南原繁の場合にもプロテスタントの信仰は状況次第で変わるもんじゃないですから。で、「かのように」ではない。「かのように」ではなくて、これが価値だということです。<br><br>で、それから二番目には、これも時代と彼らの教養という点から言って、戦争を理解するのに適当な概念的枠組みと言いますかね、ある理論的枠組みというものを持っていなかったと思います。広い意味でいえば社会科学的な理論的枠組みといってもいいでしょう。そういうものが一部の、少なくとも一部のマルクス主義者はもってたんですね。それを使って戦争を理解していた。そういう戦争を理解することのできる概念的道具、枠組み、あるいは理論体系、そういうものからは、わりに遠かった。知らなかったのではないけれども、わりに遠かったと思います。<br><br>それから三番目、これは思想上の問題というよりも、もっと生き方に関連すると思うんですが、三人ともですね、茂吉が一番一般庶民に近かったといえるかもしれませんけども、一般の日本の大衆、日本の庶民日本の人民の立場には立ってなかったと思いますね。あまりにもエリートであったために、庶民の立場・人民の立場に立ってないわけですね。そして庶民は一方で戦争を支持し一方では戦争に苦しむわけですね。どうして戦争を支持するかっていうのは権力によって操作されたからでしょ。だから人民の立場に立つということは、権力による操作から、人民を解放するってことでもあるわけね、思想上。で、そういう意味で一般庶民の立場に立ってなかったということが影響すると思いますね。もし立てば、戦争で苦しんだのはやはり一般の人ですよ。力のない一般庶民です。そして殺されたのもそうなんですね。<br><br>そして最後に四番目は多分、なんていうかな精神的及び身体的に日本との結びつきが強くて、cosmopolite（国際人）じゃない。だから人間の立場に直接に行くのではなくて、日本人ということが絶えずついてまわったということでしょうね。で、これも非常に難しい問題だと思いますが、その四つの点ですね、欠けていたというか無かったものだと思います。」<br><br>1995年
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<pubDate>Sat, 15 May 2010 21:01:39 +0900</pubDate>
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