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<title>どっかの誰かのブログ</title>
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<title>『なぜ俺たちは女が怖いのか？【山田玲司-510】』で思ったこと</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p>　『なぜ俺たちは女が怖いのか？〜恋愛全肯定番組「バグラビ」が暴いた“恋愛の果て”【山田玲司-510】』</p><p>&nbsp;</p><p>　というYouTubeで男女論が語られていて、詳細は動画を見てもらえればいいが、その中でメインパーソナリティーのひとり、奥野さんが「男は総論、女は各論」と話していた。</p><p>　男は身体を通した男というものがなく、概念としての男を作り上げ、それを『男らしさ』と想定し総論を目指していく。一方、女は身体そのものに女が存在し、またその身体に個体差があるため各論になる。というものである。</p><p>&nbsp;</p><p>　なるほど、と思うと同時に、それはあくまで現代にのみ当てはめたものではないかと思った。</p><p>&nbsp;</p><p>　女らしさ、というものに総論を見出そうとした時代はあったハズだ。江戸時代、封建社会を強化するための家を制度化し、当時の女の在り方が明文化されていったように、女らしさが家と結びついて総論化したものは世界中の社会で見ることができる。</p><p>&nbsp;</p><p>　そんな中、現代において上記した「男は総論、女は各論」になったのは、フェミニズム運動の結果ではないだろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>　フェミニズム運動はジェンダーの平等を確立しようというものであるが、一体なにを平等にしようとしていたのかと考えると、男らしさという概念が持っていた決定権と職業自由への不平等ではないかと思う。男が男らしさを得る目的、端的に言えば「強くなれ」という社会の要請は、所属する社会で評価を得て、そこでの意思決定権を持ち、近代以降は何らかの職を自分で選んで自立するためのものである。他方、女らしさの目的は家を守ることが目的であったと考えると、これを達成してもその二つは得られない。</p><p>&nbsp;</p><p>　女らしさという概念が家と結びつき、職の不自由(家を選ばなければならないという不自由)と結びついていたならば、フェミニズム運動が女らしさを破壊しようとしたのは想像に難くない。このフェミニズム運動の一連の流れが、自己実現としての職業といった社会の中で個の注目度が上がるに従い噴出するのは当然であろう。それと同時に、現在のフェミニズム運動が遅々として進まない(現状で言えばキャリア形成において)理由についても考えが及ぶ。これまでのフェミニズム運動が、女は家を守るのが本分、といった価値観からの解放を目指しながら、その後に作るべき自由を獲得するための『女らしさの総論』を見いだせていないのが原因ではないだろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>「強い女」という言葉を時折見かけるが、これは男と同じ『男らしさ』の総論に女を寄せようというものであると思う。しかし平均的に身体の強さ、体力や筋力において男女差があるのは明白で、男の身体から生まれてきた『男らしさ』の総論と、その自由を獲得しようとするのは、女の中でも筋力、体力、そして生理の影響において上振れた人にしか成しえない。</p><p>&nbsp;</p><p>　そう思うと、フェミニズム運動が女らしさを破壊し、各論へと至った今、改めて女らしさをキャリア形成の根幹になるように作り上げることが肝要ではないだろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>　だがそれは容易なことではないだろう。</p><p>　現代において、社会における自由度は、身体的強さとつよく結びついている。</p><p>　頭脳労働の分野であっても、身体の頑強さは評価につながる。体が強ければそれだけ長く働けるし、集中力が持つ。</p><p>&nbsp;</p><p>　資本主義の評価基準がこの集中力や男的な身体にあるのは、たまにSNSで見かける「男が社会を作り上げたから」、というものではなく、単なる合理によるものだろう。貨幣を通じた社会は、物の交換、つまり人が行うサービスにしても何にしても、あらゆる物の移動がその本体である。最後には何かを交換することが貨幣のシステムであり、体力があればあるだけ有利に働く。</p><p>　貨幣制度を誰が作ったか、は元々を辿れば物々交換なので、それを始めたのがどちらの性であったかは知ることができない。世界中に貨幣制度があることを考えれば、人間ならいずれ誰しも思いつく、としか言いようがない。</p><p>&nbsp;</p><p>　少し戻り、「強い女」という総論について考えるが、果たしてそれがフェミニズム運動が目指した解放と自由になるのだろうか。結局は強さと自由と貨幣とが結びついているために、女にとって不利であることに違いはないように思う。</p><p>&nbsp;</p><p>　一方で日本に関しては、男もまた自由になるしかない、という不自由を抱えている。(専業主夫ないしは結婚後の被扶養家族を大抵の場合選べず、現実として男から見た上昇婚は2012年の調査で5％しかなく、１位のインド52％から十倍は離れている)</p><p>「弱者男性」という言葉がネットを中心に見聞きされるのは、日本の男の価値が資本主義に寄っており、それがつまるところ強さと弱さの差にあるからだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>　それをして男性の解放(労働時間の削減等)がフェミニズム運動を推し進める、と論じられる場面もあるが、それも言葉を変えれば苛烈化する自由競争からの解放であり、資本主義はこれを否定する。</p><p>&nbsp;</p><p>　強制された自由(何らかの職業、という選択肢)と、強制された不自由(家に入る、という一つだけの選択肢)の中で、それぞれに男らしさと女らしさがあったとすれば、不自由を破壊し自由を得ることも難しいが、自由を破壊して不自由を得るのは一層に困難である。</p><p>&nbsp;</p><p>　ここまで書いて、だから男は男らしく仕事をし、女は女らしく家に居ればいいと思っていると誤解しないでもらいたい。</p><p>&nbsp;</p><p>　自らの選択で生き方を選べることは、現代人であれば誰しも願うものであり、価値のあることだろう。</p><p>　フェミニズム運動もそれを端に発し、選挙権、参政権の獲得から、職業選択の自由へと至ってきた。先達の苦労を水の泡にしてはいけない。</p><p>&nbsp;</p><p>　女の身体性の解放よりも早く資本主義自体が役割を終えて、次の社会形態へ移り変われば、自然的にこの問題もステージを変えるだろうが、それには人類が有限な土地の所有という欲望から解放されなければならないから、当面の間は訪れることはない。</p><p>&nbsp;</p><div>&nbsp;</div><div>　ここまで考えて、やはり女の各論を総論にするのは難しいと思う。何がそれに相応しいのかも分からない。</div><div>　同じように、こと資本主義の中での女のキャリア形成の難しさは課題として残る。</div><div>&nbsp;</div><div>　そもそもを言ってしまえば、男女関わらず望んだ選択をできることが困難なものだが、そんな中で、「男らしさ」はまだ利点を残し、これを目指す男は存在している。資本主義社会が残る限り、これは無くならないものだと思う。だからこそ同じように、各論に留まらず一丸とした利点のある「女らしさ」が生まれるのが良いのではないかと思った。</div><div>&nbsp;</div><div>　とは言え、ここへきて全部ひっくり返すようで申し訳ないが、現在日本の男女問わず大体数が、働きたくない、と思っているのかも知れない。それはもはや男女論以前に不景気の問題だ。</div><div>&nbsp;</div><div>　いつかそれについて思うところがあればまた書こうと思う。</div><div>&nbsp;</div><div>　おやすみ</div>
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<link>https://ameblo.jp/sawadatt/entry-12929987868.html</link>
<pubDate>Sun, 14 Sep 2025 03:46:52 +0900</pubDate>
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