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<title>メモ</title>
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<title>給食</title>
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<![CDATA[ <p>学校給食について語ることがブームのようだ。 学校給食に関する本が相次いで出版された。</p><p>まった仲間で、給食について語り出すと異様に盛り上がる。話題にのぼるのは好きなおかず、嫌 いなおかず、牛乳の早飲みや給食を時間内に食べることができずにいつまでも食べさせられてい たことなどであろうか。時代や地域を反映させたようなことも話題にのぼる。 脱脂粉乳や鯨肉、 米飯給食、あるいは郷土料理や牛乳に混ぜて飲んだ「ミルメーク」など。 この盛り上がりは何だ ろうか。集まった仲間のほとんどが学校で給食を食べた経験があるからではないか。多くの人々 が共通に体験を語ることができることこそ、学校給食の特徴かもしれない。現在でも小学生の九 九・四%、中学生の八二・一% (一九九七年現在) 学校給食を食べている。</p><p>われわれはこの給食からさまざまな影響を受けた。 私自身は、食事の前後に「いただきます」「ごちそ うさま」を言うことや、同じものばかり食べないで 食卓に並んでいるものを順番に食べること(いわゆ 三角食べ)をこの給食の習慣のなかで学び、給食 を食べなくなった今でも実践している。</p><p>われわれの食生活に少なからず影響を与えている 学校給食の歴史をたどりながら、学校給食の意味す るものについて考えてみたい。</p><p>給食のはじまりと救済者アメリカ</p><p>学校での給食は、一八八九年に山形県鶴岡市の私立忠愛小学 校で提供されたのが最初とされている。 弁当を持参できない子 どものために給食が提供されたという。その後、給食は、貧困 児童の救済を目的として広がっていく。一九四〇年には、貧困 児童だけでなく、栄養不良、身体虚弱児童をも対象とするよう 文部省から通達が出された。しかしその後、戦局の悪化と学童 疎開などにより、学校での給食はなくなってしまった。</p><p>第二次世界大戦が終わっても、国民の生活は窮乏をきわめたままであって、 学校給食の復活 を期待するどころか、家庭でさえも十分な食事をすることができなかった。 一九四五年には大 阪のある学校の場合、全児童の六分の一が栄養失調であったという。また大阪の別の学校では、 そのような健康状態により、児童の学習態度も「著しく根気を欠き、記憶力、判断力を失って、</p><p>漢字の書き取り能力まで低下した」という。</p><p>(a)</p><p>戦後の給食は、このような当時の子どもたちのようすを見かねた元アメリカ大統領フーバー やGHQのハウ大佐が強く主張したことにより実現したのである。</p><p>(3)</p><p>(-)</p><p>一九四六年にララから物資の提供を受け、一九四七年にはユニセフ (国際連合児童救済緊急基 金)から六〇〇万トンの脱脂粉乳が寄贈され、全国の都市部の児童約三〇〇万人に対して給食 再開された。その際の給食は、「補食給食」と呼ばれるもので、脱脂粉乳の「ミルク」とみ そ汁というのが一般的であったようだ。そのほかにも、砂糖やアップルバター、うどんなども</p><p>提供された。</p><p>前記の給食を実施するにあたって、「学校給食実施の普及奨励について」という文部・厚 生・農林三省次官通達が、 一九四六年一二月に各地方長官宛に出された。 その通達には「今般 政府は、連合軍総司令部の好意に基き、学校給食用として食品等漸次国民学校に対し特別配給 して、全国的に学校給食実施の強化拡充を企画することになった」と連合軍の好意によるもの であることが記されている。</p><p>このアメリカからの「贈り物」は、子どもたちに「親米意識を培養す をするという、占領政策としての機能も果たしていた。</p><p>に多大な貢献」</p><p>からだに栄養</p><p>(∞)</p><p>み込んだ」と</p><p>(t)</p><p>その「贈り物」である脱脂粉乳の缶には「日米両国の国旗を描いたラベルを張ってて、そこ から手がニョキッ。しっかりと握手して」いたそうである。</p><p>しかし、この「贈り物」を贈られた子どもたちは、必ずしも感謝していなかったようだ。 あ 週刊誌は以下のように当時の給食を振り返っている。 「アメリカから贈られた脱脂粉乳の給 とくれば(中略) アルミの椀とぬるくなった味を思い出す。 食器の感触がイヤで大急ぎで飲</p><p>脱脂粉乳とは、牛乳からバターなどの原料となる脂肪分を絞り出した後のいわば、絞りかす である。牛乳の味は脂肪分と関係しているので、おいしくないというわけである。</p><p>(9)</p><p>当初、GHQは脱脂粉乳か小麦粉のどちらかを日本に援助しようとして、東北大学教授の近 藤正二に相談した。脱脂粉乳と小麦粉のどちらを援助すればよいか尋ねられた近藤は、「小麦 粉では、空腹は満たされても子どもたちの身長は伸びません」と答え、脱脂粉乳が援助される ことになったという。</p><p>この「体位の向上」というのが学校給食の方針であった。前出の三次官通達の中でも、「学 童の体位向上並に栄養教育の見地からひろく学校において適切な栄養給食を行うことは、まこ とに望ましいことである」とも記されていた。 ここでいう「体位の向上と栄養」で目指された ものは、アメリカ人並みの「体位の向上と栄養」であった。</p><p>(2)</p><p>感謝するべき、目指されるべき対象としてアメリカがあった。そのアメリカを目指して、 子 どもたちは「まずい」 脱脂粉乳を今の「栄養ドリンク」さながら、飲み干していたのであろう。 脱脂粉乳の時代に給食で育った大人たちが疲れたときにドリンクを飲むのは、子どもの時に形 成されたこの習慣の名残りかもしれない。</p><p>一九五〇年には、アメリカから寄贈された小麦粉を使って、八大都市の小学校でパン・おか ずミルクの完全給食が開始された。連合軍総司令部、ララおよびユニセフに対する学校給食 感謝大会が開催され、大会では「学校給食感謝の歌」が歌われたという。</p><p>(1)</p><p>一九五一年には完全給食が全国の市制地でも実施されたが、サンフランシスコ平和条約締結 後、給食用物資の財源であったガリオア資金 (米国の占領地域救済政府資金)が打ち切られ、学 校給食は存亡の危機に直面する。</p><p>このとき日本政府は、小麦に対する半額国庫補助を行い、学校給食は存続する。 そして、 翌 一九五二年に全国の小学校を対象として完全給食が始められた。 しかし、当初は予算も十分で はないため、設備、労力、食器などが足りず苦労したようである。たとえば、東京都荒川区の ある小学校には見本としてのバケツが数個届いただけだった。 食器などは子どもたちが持参し たという。また、人手不足から父母が食事の準備(給食の運搬、盛りつけなど)を手伝うことも 少なくなかったという。</p><p>完全給食になったからといって、給食費を値上げするわけにもいかなかったらしい。東京都 江戸川区の小学校の校長は、「十分なものをたべさせてやりたいのはヤマヤマ、 毎週五日完全 に給食したいのはヤマヤマながら、出来ないものはどうすることもできない」と嘆いている。 この学校では、 週三日はパンつき、あと一日は副食だけの四日間給食を行っており、くだんの 校長は「完全給食? 不完全給食のことでしょう?」と述べているのである。</p><p>(1)</p><p>この当時、江戸川区の学校給食の標準は蛋白質二五グラム以上、熱量六○○カロリーだった そうである。 一九五〇年九月一日から一五日の一週間のメニューは次のとおりで、カロリー に関しては一日も標準に達していない。</p><p>三日 記載なし</p><p>一一日 豆腐のみそ汁 (蛋白質五グラム、八三カロリー)</p><p>二日 パン、煮豆 (蛋白質三七グラム、五三八カロリー)</p><p>一四日 パン、ジャム、カレー汁 (蛋白質二九グラム、五〇四カロリー)</p><p>一五日 パン、ミルク(蛋白質八二グラム、五〇三カロリー)</p><p>完全給食が始まったものの、どこの学校でも多かれ少なかれこのような状態にあったと思わ れる。しかし、その後の学校給食の充実などにより、子どもたちの体位はめざましく向上した のである。</p><p>おいしい給食</p><p>「学校給食と食生活改善展覧会」より</p><p>一九五三年一月二〇日から二五日まで、大阪難波の高島屋百貨店で大阪市学校給食協会の創</p><p>立二〇周年、完全給食実施二周年を記念して 「学校給食と食生活改善」 展覧会が開かれた。 主 催は大阪市教育委員会、 大阪市学校給食協会などである。 その展覧会の主旨の中で学校給食の 意義は以下のように説かれている。</p><p>日本人従来の食生活欠陥の為に知らず知らずの間に健康、体力、寿命のうえで非常な損を しておったのである。近い例は昨年のオリンピックである。この国民的損失を少くするのは どうしても食生活の改善が必要である。 しかし、長い間の食習慣を改める事は容易なことで はない。(中略)我々は後進に対して一日も早く子どもの時代に正しい食生活を指導すると共 日常実践させることによって良い食習慣を身につけてやりたいと思う。</p><p>展覧会では、展示物などで学校給食の現状について示すばかりでなく、家庭での食事での注 意事項や子どもたちによる音楽会や劇が催された。</p><p>大阪市の全児童にお楽しみ抽選券を配布し、 来場者にもれなく景品を進呈したこともあって、 六日間で一三万人、最終日にはおよそ四万四〇〇〇人がつめかけ、入場できなかった人もいた という。</p><p>そこでの展示物は、さかんに「栄養」について説いている。図1はビタミンに関する展示物 であるが、そこでは、現在あまり耳にすることのないビタミンやビタミンMについても記さ れているのである。</p><p>また、パンについての解説にも力を入れている。パンのはじまりから、日本で最初に作られ たパン、日本で最初にパンを作った人物、現在のパン界の現状、パンの見分け方、他の食物と のカロリーの比較などが解説されていた。 そして、 米食から粉食(パン)への転換を勧めてい るのである。特に「生活の合理化とパン食」というタイトルの展示では、「パン食」の効用が 以下の五点にわたって説かれている。</p><p>1. 労力時間、燃料の節約 (パン食は用意する時間がかからないため、時間の余裕ができ、それ 文化的教養に振り向けられる。 燃料の節約にもなる)</p><p>2. パン食は栄養価が高く消化吸収も良い(粉食なので消化によい。 水分が少なく唾液にふれ る面積が広いから消化吸収がよい)</p><p>3.簡単に各自の好みにしたがって完全食としやすい(バター、ジャムなど好みのもので栄養 の不足を補える)</p><p>4. 携行保存に都合が良い</p><p>5.台所を清潔に保つことができる(調理による残りかすもでない。 カマド等が煙らぬため台 所が清潔である)</p><p>このような「栄養」と「食生活の合理化」に関する啓蒙は全国各地で行われていたのではな いだろうか。</p><p>アメリカ農業と学校給食</p><p>なぜ日本で従来食べられていた米ではなく、パンが給食に出さ れたのか。もちろん、当初はアメリカから小麦粉が援助されたか ということもあったであろうが、ガリオア資金が打ち切られた 後は、小麦粉も脱脂粉乳ともに有償になり、政府はその代金とし 四億九〇〇〇万ドルをアメリカに支払っているのである。 ここまでして、粉食を推進する理由はどこにあったのだろうか。 第一の理由としては、主食である米を給食用として確保すること が難しかったことがあげられる。</p><p>第二の理由は、「展覧会」にあったように「食生活の合理化」</p><p>のためである。その「食生活の合理化」推進のスローガンは「米を食べるとバカになる」とい う今から考えれば極端なものであった。 「展覧会」でも米の偏食・大食を戒める掲示があった (図2)。</p><p>第三の理由にあげられるのが、アメリカの都合である。「学校給食が制度化された背景には、 対日戦略を突破口とする遠大なアメリカの小麦世界戦略があったことは周知のこと」という意 見や「パンとミルクの学校給食(中略)「急がばまわれ」のことわざどおり、学校給食によって 育った世代が成人した今日、私たちの食生活はアメリカの余剰生産物を抜きにしては存立しえ 「ないのです」といった意見に粉食を推進する理由がみてとれる。</p><p>脱脂粉乳についても同じことがいえるという。当時のアメリカは牛乳が大量にだぶついてお り、余った牛乳が脱脂粉乳として倉庫に積まれていたそうだ。 そこで日本の給食に脱脂粉乳を 取り入れたという。ちなみに、給食に脱脂粉乳を導入することを決定したのは、文部省ではな 自民党の幹事長であったとも言われている。結局、脱脂粉乳は、「さんざんの悪評とアメリ カ自身の需給調整で日本の学校給食から姿を消した。アメリカに感謝するにせよアメリカを 非難するにせよ、アメリカの農業と日本の学校給食とのつながりの深さを感じざるをえない。</p><p>食品業者・農政と学校給食</p><p>パンを食べることが国家的に推進されて、同じ小麦粉から作られる麺の業者は危機感を持ち はじめたようである。 子どもたちが麺を食べる機会が減れば、将来の麺の需要にも問題が出て くるかもしれない。 しかし、子どもたちに食べてもらうために給食に出すとしても、麺には汁 がつきものだ。給食には牛乳が出されるので汁がかかせない麺はメニューに加えづらい。</p><p>そこで、汁を必要としない麺である「ソフト麺」が開発された。 この「ソフト麺」は汁では なく、ソースをからめて食べるように作られたものである。一九六五年に東京都に初めて導入</p><p>された後、全国に広がっていった。</p><p>このソフト麺づくり、学校の給食に合わせるため、業者は午前三時ごろから作業を始めると いう。大変な作業だが、麺業者は「子どもの頃に食べ始めた味は決して忘れません。 おいしい めんを食べて育った子どもは、大人になってめん好きになってくれる。 そしてわれわれが作る</p><p>めんを買ってくれるお得意様になってくださる」と述べている。</p><p>また、給食に目を付けたのは製麺業者だけではない。カレー業者もまた同じである。カレー 学校給食に登場するのは、一九四八年のカレーシチューが最初である。当時、カレー粉の香 辛料の確保が困難だったそうだが、「カレー業界は、学校給食ルートの開拓とそして将来必ず お得意さまとなってくれる子どもたちのために、手持ち原料による試験的なカレー配布供給に 「協力した」のである。 そして、 カレーは給食の好きなおかずの上位に必ずといっていいほどラ</p><p>ンキングされるようになった。</p><p>業者にとってその食品が学校給食に 出され、子どもたちになじんでもらう ことがいかに大切なことであるかが、 「将来のお得意さま」という言葉に集 約されている。ただ、よく給食に出た からといって子どもたちが好きになる とは限らないところがおもしろい (表 2)。しかし、業者が、消費者にストレ ートに訴えかけるのではなく、「将来 お得意さま」たる子どもたちに学校 給食を通して、消費を働きかけたことが、われわれの食文化の形成に影響を与えたという側面は否定できないであろう。</p><p>また、学校給食は一度に何十万人という子どもたちが一斉に食べる。 そうすれば、当然、そ の食材は大量に必要になるわけである。 そこに食材として提供されることになったのが、さま ざまな「余剰生産物」であった。アメリカの脱脂粉乳に始まり、日本の小麦・米などが給食に 登場する。それらは、その「余剰」が問題になると学校給食の食材に顔を出してくるのである。 その意味において学校給食は「農政の調節弁」と言えるであろう。「『パン、ミルク」であろう と 『米飯』 であろうと、栄養とか体位向上はあとでつけた理屈だ」ともいわれている。そうな れば、われわれの食文化は農政からも影響を受けていることになるのである。</p><p>学校給食法第二条に学校給食の目標の一つに、「食糧の生産、配分および消費について、正 しい理解に導くこと」がある。</p><p>3</p><p>新しい給食</p><p>新しいメニュー国籍不明のメニューとメニューの広がり</p><p>戦後の日本の新しい食品には、最初に学校給食で導入されたものが少なくない。そのため、 マカロニが 「穴あきうどん」と呼ばれていたり、チーズがメニューに出ると「学校で石鹸を食</p><p>「べさせた」と言われたことがあったという。</p><p>学校給食のメニューにはいろいろなものがあった。そのメニューも当初は、「家庭でもつく らないようなメニュー」とか「国籍不明と称される煮込み料理が多い」などと言われた時期が あった。</p><p>また、そのメニューにつけられた名前もさまざまで、中には料理の内容がよくわからない名 前も多くあった。たとえば、コーヒーチャウダー、フィンガーフライ、スラッピージョー、く</p><p>じらかりん揚げ、くじらのこはく揚げ、くじらのオーロラソース、 だいずシャリシャリ揚げ、</p><p>酪農煮、ット、マフラ・・・・・・などである。</p><p>どうも、学校給食にはこういったよくわからない名前が氾濫したようで、文部省学校給食課 が「風流な名前も必要だが、名前を見て内容がわかる献立が必要」というコメントを出すほど であった。</p><p>ちなみに、「オーロラソース」とは、ウスターソースとケチャップを混ぜたものである。 こ のオーロラソースについて、 ある栄養士は以下のように回想している。</p><p>ケチャップを使い始めた当初は、子どもたちに全然受けつけてもらえませんでした。それ でとんかつソースを入れたり、甘めの味噌を混ぜたりといろんな試行錯誤をしました。 それ でだんだん子どもたちも食べるようになってきて、ようやくなれてきてくれたのが昭和四〇 年代に入ってからのことでした。</p><p>ケチャップが日本で広まったのも、この「オーロラソース」のおかげかもしれない。もちろ ケチャップだけではない。料理研究家の江原恵は「最近の食生活の一般状況は、学校給食の 影響が、子どもたちを通して広く家庭にも広まった結果である」と述べている。</p><p>戦後の新しい食品は、いろいろな工夫が施され、さまざまなメニューとして学校給食に導入 された。そして、給食を食べた子どもたちを通してその食品・メニューが家庭に根付いていっ たのである。</p><p>新しいマナー――三角食べと平等</p><p>学校給食は、食事のメニューにだけ影響を与えたのではない。私が現在食事をしていても思 わずやってしまう 「三角食べ」も学校給食からの影響だろう。 河内紀は、この「三角食べ」は</p><p>先生が子どもたちに脱脂粉乳を飲ませるために「発明」されたと述べている。</p><p>(三角食べは)ミルクを飲まない生徒が多かったことから、給食の先生が考え出した方法だ った。もちろん先生はそんなふうには言わずに 「栄養のバランスをとるため」や「食事のマ ナーを覚えるため」だとか説明していたが、眼目が脱脂ミルクを飲ませることにあることは 生徒はみんな知っていた。</p><p>もちろん、学校給食で学んだことは「三角食べ」だけではない。「みんなが同じ量のものを 「食べる」「みんなが同じものを食べる」といった「平等」も学校給食で学んだと言えるのでは ないか。この「平等」は、戦後の民主主義のキーワードでもある。</p><p>ある学校では「給食だより」に「あべ川のみたらし団子は一人四つづけです」「肉だんごの 甘酢あんかけは、肉だんご一人一つずつです」と載せて 「量」の平等を訴えかけていたという。 また、「質」の平等は学校給食の見直しが取りざたされるたびに主張される。 学校給食を廃 止して弁当にすると、おかずに違いが出る、 いじめの対象になるといった声が出るという。そ こで「同じものを食べる」給食の意義が説かれることになる。このような意見について佐藤健 二は「弁当では貧富の差が明確になってしまうという給食擁護論の一主張は、日本の大衆社会</p><p>の平等主義を垣間みさせる」と指摘している。</p><p>しかし、この平等主義が現在、 揺らぎ始めている。一九九六年におきた腸管出血性大腸菌感 染症(0一五七)による食中毒がその原因の一つである。 学校給食が原因と見られる全国的 な集団感染で患者約七〇〇〇人、死者五人を数えた。 特に大阪府堺市でおきたものは患者六〇 ○○名、うち死者三名という大規模なものであった。そのうえ原因を特定することができなか った。このため学校給食が再開された後も、給食を拒否する児童が弁当を持参し、昼食時には 給食を食べる子どもと持参の弁当を食べる子どもが共存している。</p><p>また、この食中毒は給食のメニューにも影響を与えている。衛生面に配慮して、 調理方法が 変化したのだ。 多くの学校給食で、食材に必ず火を通すメニューが採用されるようになったの である。ハンバーグは中まで火が通りにくいことを理由にメニューからはずされた。 野菜にも 必ず火を通すようになった。 レタスは炒められ、キュウリは熱湯につけられることになった。 サラダに出される野菜にも火を通すという徹底ぶりである。 あえものや果物もあまり出されな くなった。 果物がメニューにのぼることがあっても缶詰の果物であった。</p><p>新しい食事文化国際化と多様化</p><p>現在では、給食のメニューも様変わりして、世界各国の料理が献立に取り入れられるように なった。 以前のように「国籍不明の料理」などとはほど遠い「給食の国際化」である。メキシ コタコスやタイのトムヤムクン、オーストラリアから輸入された牛肉のステーキやインドネ シアのルンダン、 ガドガドサラダなどがメニューに出されることもあるという。</p><p>世界各国の料理を食べながら、その国の経済事情や風土について勉強することもある。全国 栄養士協会の田中信名誉会長は「食べ物から、その国の自然、歴史、政治経済といったさまざ まな情報を学ぶことができるのです」と述べている。こういったことを「食育」という。</p><p>(28)</p><p>もちろん、世界各国の料理だけではない。 各地の郷土料理もメニューにのぼる。 愛知県では 「給食紀行」と題して各県の郷土料理を給食に出している。「いきなりだご汁」(熊本県)、「がめ 煮」(鹿児島県)などが出された。ほかにも栃木県では「しもつかれ」、埼玉県では「かてめし」、 新潟県では「のっぺ」、北九州市では「鰯のぬかみそ煮」などが自県・市の郷土料理として給 食に出されている。 また、 名古屋市では、市制の施行を始めた一〇月一日に、「きしめん」に 「ういろう」といったいかにも名古屋らしいメニューが出されるという。そういう状況をふま えてか「手抜きママに代わって、 ニッポンの味を伝えてくれるのが学校給食なんて声もある」</p><p>というし、ある小学校の校長先生は「給食は日本文化の砦だ」 と発言している。</p><p>給食を食べる場所も教室だけではない。「ランチルーム」や テラス、あるいは学校の近くの公園などで食べるということも ある。また給食のスタイルも以前のように同じ食べ物を同じ量 を食べるだけではなくなっている。自分の食べたいものを食べ たい分だけ選ぶことができる「カフェテリア」方式や「バイキ ング」などのスタイルの給食が広がっている。給食はみんなが 同じメニューを同じ分量食べるという「平等」から「多様化」 の方向に進んでいると言えるであろう。</p><p>しかし、このように多様な変化を続けている学校給食にあっ</p><p>て、「みんなで食べる」という「平等」は変化していないのである。</p><p>子どもたちは昼食を学校でみんなでとる。 ではほかの二食はどうか。朝食をとらず、夕食は 家族バラバラでとることが多いという。一人でとる食事を「孤食」というが、この孤食が子ど もたちの食事のスタイルとして浸透しつつある。 家族がそれぞれの事情で動くためだ。「みん 「なで食べる」ということはもはや学校外では成り立ちにくくなっている。</p><p>これからの学校給食は、食べるものや量だけでなく食べる時間もあるいは食べないという選 択も家での食事のように多様化されるのであろうか。個々の事情に合わせた時間に個々で食べ ればよい。そうなれば「みんなで食べる」という経験はなくなってしまうかもしれない。そう すると、もう学校給食を話題にして盛り上がることはできなくなるかもしれない。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/sebasaturn/entry-12830138190.html</link>
<pubDate>Sun, 26 Nov 2023 09:56:46 +0900</pubDate>
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<title>Memo</title>
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<![CDATA[ <p>大衆文化への視角</p><p>「大衆文化」について考えるにあたっては、まず、二つの文脈を区別しておく必要がある。 第一は、文化の担い手に着目する文脈である。 この文脈においては、大衆文化は「大衆が生 み出した文化」「大衆が担う文化」として理解される。</p><p>第二は、文化の普及性や媒体に着目する文脈である。この文脈においては、大衆文化は「社 会の広範囲に普及した文化」「マス・メディアを媒介にして大量に伝達される文化」として理 解される。</p><p>まず、第一の文脈について、検討してみよう。</p><p>ここでいう、文化の担い手としての大衆とは、権力や地位、知識をもつ少数者であるエリー トに対して、権力や地位から遠く、学歴も低い多数者のことをさしている。そして、このよう 大衆は、しばしば、「受動的」で「従属的」な存在とされた。真の文化(高級文化)の創造 者になりうるのはエリートだけで、無教養な大衆の文化など、しょせん低俗・俗悪な、価値の ないものにすぎない。このような論旨で、しばしば大衆文化ということばは、批判的に使われ ることも多い。</p><p>しかし今日、上にみたような文化の担い手としての大衆が、はたして存在しているといえる のだろうか。</p><p>たとえば、教育をとっても、現在の日本では、高校進学率は一〇〇パーセント近く、大学進学率も過去最高を更新して五〇パーセントに近づいている。ある程度の高等教育を受けた人の ほうが、多数派なのである。逆に、大衆食堂と呼ばれる(自称する) 施設があるが、ここに国 民の大半が毎日のように足を運んでいるとはいえない。今日では、ファミリーレストランと呼 ばれる施設に足を運ぶ人のほうがはるかに多いであろう。</p><p>つまり、今日、大衆は必ずしも多数派ではないし、大衆と名のつくものを多数派が支持して いるわけでもないのである。</p><p>さらにいえば、大衆は消滅したという説さえある。 これは、一九八〇年代半ば、マーケティ ング業界から生まれた見解である。一九八〇年代に入り、万人向けの大流行・大ヒット商品が 減少する一方で、特定のニーズにこたえる商品は好調な売り上げを記録した。 ここから、画一 的に商品を消費する大衆は、他人と同じ生活に不満をいだき、自分なりの価値観を軸に動いて、 多様なライフスタイルを示す人びとに分化したという考え方が導かれた。 このような人びとを さすのに、分衆(分割された大衆の意)、 少衆といったことばも用いられている。</p><p>してみれば、受動的で従属的という大衆像も、今日では通用しない。</p><p>こういった点から、文化の担い手としての大衆を、たしかな輪郭のある実体ないしは集団と して想定することは、今日ではむずかしくなったといえるだろう。</p><p>それでは、第二の文脈についてはどうか。</p><p>この文脈では、大量生産され、大量消費されるモノが注目されることになる。文化の担い手 として特定の層を実体的に想定するのではなく、マスメディアを媒介として、エリートから 労働者まで、上層から下層まで、老人から子どもまで、広く浸透した文化を大衆文化とみなす のである。したがって、この文脈からは、先に見た〈エリート〉対〈大衆〉という図式が消滅 したことを、むしろ、大衆文化がエリート層まで浸透した状態として、あるいはエリート文化 大衆化した状態として考えることができる。</p><p>ここで重視されるのは、大衆文化の画一性や平準性である。大量に生産された、規格のまっ たく等しい商品が、社会のあらゆる階層にいきわたる。 逆に、社会のあらゆる階層にいきわた るためには、だれもが受け入れられるように、平易で、娯楽的でなければならない。</p><p>一九七〇年代までにかぎっていえば、 この文脈で大衆文化をとらえることは有効である。し かし、かつてのように日本人のほとんどを巻き込んで熱狂的に消費されるモノというのがなく なっている今日、この文脈は有効であろうか。</p><p>たとえば、ある時代まで、美空ひばりという歌手を知らない日本人はほとんどいなかったと いってよいだろう。そして、多くの人びとが、彼女の歌の一節ぐらいは口ずさむ ことができた。けれども、一九九八年度のヒットチャート (表1)に登場する歌手 (アーティスト)を知らない人は相当いるだろうし(ローマ字で書かれたアーティスト 名を読めない人さえ多いと思われる)、 その歌の一節を口ずさむことのできない人は さらに多いはずである。にもかかわらず、それらの歌のCD(レコード) 売り上げ 枚数は、美空ひばりのヒット曲をはるかに上回っているのである。</p><p>(2)</p><p>別の例をあげてみよう。 マニア系の雑誌というものがある。 SM スワッピン グ、フェティシズム、スカトロなどなど、ごく普通の性的嗜好をもつ人なら引い てしまうような内容の雑誌が、今日ではコンビニエンス・ストアの雑誌コーナー にも並んでいる。このことは、一部の人にしか受け入れられないような特殊な性 的嗜好をもつ読者が、雑誌を継続して発行できる程度には存在していることを示 している。その一方で、これらとまったく無縁に生きている人たちが圧倒的に多 いことも忘れてはならないが。</p><p>もちろん、CDにしろ、雑誌にしろ、複製技術にもとづく商品であり、そのか ぎりではたしかに画一的である。 しかし、一つの商品が日本人のほとんどに普及</p><p>しているわけではない。さまざまな文化が、独自のメディアをもち、独自のマーケットを形成</p><p>(</p><p>しうる程度には普及しているのである。今日では、社会の広範囲に普及するということの意味 合いも変質してしまっているのである。</p><p>では、もはやこの日本には「大衆文化」はないのか。 「大衆文化」を論じることには意味が ないのか。</p><p>ここで、考えを転換してみたい。</p><p>「大衆」は存在するのか、 消滅したのか。「大衆文化」はあるのかないのか。 このような問 いをひとまずおいておこう。</p><p>エリートと大衆という区分が消滅し高等教育をうけた人びとが増加した今日、あるいは受動 的で従属的という大衆像が通用しなくなった今日、あるいは一つの商品が社会のあらゆる階層 に画一的に普及しなくなった今日こそ、大衆文化は以前にまして濃縮化・高度化したといえ るのではないか。均質な、一色で塗りつぶされた平面から、そのすみずみにいたるまで染料が 浸透した立体へと、大衆文化は姿を変えたのではないか。画一性から多様性へなどといったこ といわれるようになったのは、二次元から三次元へとその構造が重層化したからではないか。 これを「大衆文化」と呼ぶべきか、そうでないかは、意見が分かれるところであろう。しか し、このような文化を戦後という時間の流れのなかに位置づけ、読み解く作業は必要である。</p><p>3 高度経済成長</p><p>戦後の大衆文化を読み解くために、まず、三本の補助線を引いておこう。高度経済成長と、</p><p>アメリカナイゼーションと、メディア環境の変化である。</p><p>なかでも、大衆文化の展開を基礎づけるものとして重要なのは高度経済成長である。</p><p>高度経済成長とは、一九五〇年代半ばから一九七〇年代初めにかけての、二〇年ちかくにわ</p><p>日本経済の持続的高成長のことである。</p><p>(2)</p><p>「廃虚からの出発」というのは、敗戦直後を語るときの常套句といってもよい。じっさい、 一九四五年八月当時の日本は、原子爆弾の被害を受けた広島・長崎をはじめとして、 全国で一 一九にのぼる都市が戦災をこうむって焼け野原と化しており、国土も、国民生活も、経済も、 見る影もなく荒廃しきっていた。やがて、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による、農 地改革、労働民主化、財閥解体および独占禁止を三大柱とした、経済民主化がすすめられる。 しかし、経済再建への道は遠く、国民生活は窮乏をきわめた。</p><p>ところが、一九五〇年六月の朝鮮戦争の勃発がまきお こした特需景気をきっかけに、一九五〇年代初めには、 鉱工業生産と実質国民総生産が戦前の水準に回復する。 そして、一九五四年~五七年には、日本経済は神武景気 と呼ばれる大型景気をむかえる。その後、短期間の不況 はあったものの、日本経済は一九七〇年代初めまで高度 成長を続け、ついに、国民総生産(GNP)はアメリカ に次ぐ規模となる。 高度経済成長は一九七三年の第一次 オイルショックによって終焉をむかえるが、この間、と りわけ一九六〇年代は年率一〇パーセント以上の成長が 持続した。 この時期が高度経済成長のピークといえる。 高度経済成長が文化にあたえた影響は、非常に大きく、 かつ広範囲にわたっており、しかも相互関係は錯綜して いる。それだけを切りとって示すことは容易ではないが、</p><p>さしあたって、以下の五点を指摘しておきた い。</p><p>第一に、耐久消費財をはじめとする「新し 「モノ」が普及したこと。 一九六〇年代前半、 「三種の神器」と呼ばれたテレビ、電気洗濯 機、電気冷蔵庫が急速に普及する。さらに、 一九六〇年代後半からは、「3C」とも、「新 「三種の神器」とも呼ばれた、クーラー、カラ テレビ、自家用車(カー)の普及がそれに 続く。耐久消費財ばかりではない。ナイロン やプラスチックを使った商品、 スーパーマー ケットなどの流通・販売機構、衣食住の洋風 化などのライフスタイルも、同じようにして 普及する。こうした新しいモノやその製造手 段、流通機構、ライフスタイルじたいが文化 文化人類学や民俗学でいう物質文化)であるこ と。 まず、このことをおさえておきたい。</p><p>第二に、モノの普及にともなって、情報も</p><p>浸透したこと。たとえば、テレビで放送されるドラマやニュース、人気タレントの顔、新商品</p><p>の名前や広告やシンボルマーク、ファッションのはやりすたり、自動車の運転法・・・・・・。 これら が、かつてないほどの規模とスピードで浸透していく。学校などの教育機関による伝達の速度 とは比べものにならない。メディアの影響については後述するが、戦後の大衆文化ということ</p><p>で取り上げられるのは、このあたりのことであることが多い。</p><p>第三に、月給というかたちで賃金をもらって企業に雇用されるサラリーマン層が増大し、国 民の所得そのものも増えたこと。新中間層といわれる、サラリーマン層やその家族たちは、 モ ノの生産現場にたちあう労働者ではなく、モノを購入し、使用する消費者である。しかも、か れらは、モノの有用性・機能性を消費するだけではない。他者とのちがいや、自己が所属する 集団を表示するための記号として消費するのである。 流行に沿いつつ、なおかつ、人に差をつ ける。このようなライフスタイルが定着した。</p><p>(12)</p><p>第四に、経済成長とそれを支えた大量生産大量消費というシステムそのものが生む価値 観。経済成長は、成長率××パーセント、GNP××億ドル、世界×位といった、数字、量で 把握される。そして、それが常に拡大・上昇していくことがのぞましい、というより当然のこ とだとされる。そこでは、縮小とか衰退といったことは、忌み嫌われ、排除される。このよう 成長=拡大志向は、高度経済成長期の文化の基調をなすものである。人びとは右肩上がりで 走りつづけるしかなく、立ち止まることはむずかしいことだった。</p><p>第五に、旧来の文化も相当な変化をこうむったこと。たとえば、自宅でいながらにしてさま ざまな芸能を楽しむことができるテレビの普及は、見るためにはわざわざそれが上演(上映) されている現場に行かなければならない演芸・演劇・映画の全般的な斜陽化を招いた。なるほ ど、テレビに積極的に進出することで新たな観客層の獲得に成功した、漫才などの芸能もあっ た。だが、その漫才にしても、寄席とテレビとでは、ネタや演じ方にも、観客 (視聴者)の反 応にも、かなりの変化があるはずである。</p><p>(1)</p><p>さて、日本経済は、高度成長後の低成長時代、一九八〇年代半ばのバブル経済期を経て、目 下は不況のまっただ中にある。それぞれの時期の文化を、経済の動きと関連づけて説明するこ とは可能であるし、必要でもあろう。しかし、以上にみたようなことは現在も指摘できるので</p><p>あり、そういう点で、現在もなお、日本の文化は高度経済成長を引きずっているといえるだろ</p><p>う。</p><p>アメリカナイゼーション</p><p>高度経済成長の時代を「モノの時代」だととらえるならば、それらのモノ(たとえば「3C」) は、多くがアメリカ合州国の消費生活の基盤となっているような財であった。戦後、日本人は アメリカの生活に憧れ、アメリカなみの暮らしを望んだ。敗戦後の文化を考える第二の補助線 は、ライフスタイルのアメリカ化、すなわちアメリカナイゼーションである。</p><p>日本社会の大きな変化は、外国とのつきあいによって起こされることが少なくない。古代の 米づくりの伝来や、 漢字文化との接触、 中世・近世における南蛮貿易などがそうだ。 近・現代 という視点からは、鎖国を解いた時期 幕末の開国から明治の文明開化の時期)と、敗戦後の連 合国による占領時代とのふたつが重要な転機となった。</p><p>国際的な視野にたつとき、日本の近代化の歴史は、暮らしぶりが西洋化していく経験であっ とみることができる。この段階では、西洋にアメリカも含まれてはいたものの、日本が教え を乞うべき師匠としては、ヨーロッパの国ぐにも重要だった。政治のしくみはイギリス、医学 はドイツ、芸術はフランスといった個別の手本があって、総体としての西洋が目標とされるべ 先進文化だったのである。</p><p>これに対して、第二次世界大戦が終結した後の世界では、アメリカというひとつの国の文化 が相対的に強い影響力をもった。 アメリカナイゼーションという現象は、日本だけではなく、 世界の広い地域に暮らす人びとが経験した特殊な文化変容である。 中南米はいうまでもなく、 イスラム圏や、アフリカの部族社会、ソ連や中国などの社会主義諸国もアメリカ文化の洗礼を</p><p>受けた。かつての先進地域であるヨーロッパさえもが、 なんらかのかたちでアメリカナイズさ れたのである。</p><p>アメリカナイゼーションのシンボルとして、コカコーラ・マクドナルド・ディズニーランド の三つをあげることが多い。これらのモノは、ヨーロッパをふくむ世界を席巻した。 アメリカ ナイゼーションは世界が体験したできごとであったから、日本文化のアメリカナイゼーション も世界的な潮流のなかにおいて考えることを忘れてはならない。</p><p>(</p><p>いっぽう、敗戦後の日本を占領したのが、実質的にはアメリカであったという特殊事情も軽 んじることはできない。日本の現代社会の骨格は、 アメリカの強い影響のもとで再構築された ものである。法律や経済のしくみ、 思想や価値観、娯楽や流行を、アメリカの存在抜きに語る ことはできない。戦前の西洋化のなかでは、さまざまな国や文化のありようが選択肢として並 んでいた。これと対照的に、戦後の日本では、生活の向上は「アメリカン・ウェイ・オブ・ラ イフ」に習うことと等価であったのだ。そういったアメリカ至上主義的な傾向に疑いのまなざ しが向けられたのはベトナム戦争の時期であり、ようやく最近になってアメリカを除く世界の さまざまな文化に関心が集まるようになった。</p><p>(</p><p>戦後日本の市民運動も、アメリカの文化や政治のあり方を軸に展開してきたとみてよいだろ う。そのなかには、アメリカで発達した価値観(多文化主義や環境保護、 フェミニズムなど)や 運動の手法(ネットワーキングやNGOなど) を手本としたケースもあれば、アメリカの経済侵 略や文化支配に対して抵抗する訴えもある。アメリカに対する抵抗という意味では、戦後も長 アメリカの統治下におかれた沖縄が、日本のなかでももっとも抵抗力のある文化を育ててき たことは興味深い。</p><p>以上で概観したように、日本の戦後文化は「アメリカナイゼーション」という、ひとつの方 向性をはらんだ変化を遂げてきた。 そして、 アメリカに対する疑いが存在する現在でも、その</p><p>力の作用はつづいている。たとえばインターネットという道具立ては、一見だれにも支配され ない自由なメディアであるように映るけれども、中枢の部品や機械をつくっているメーカーや、 インターネットをみるために必須のソフトを供給している企業がほとんどアメリカ資本である という事実に注意したい。</p><p>メディア環境</p><p>高度経済成長が室町・江戸時代からのがむしゃらな日本人の内発力発現の軌跡であったとす れば、アメリカナイゼーションは政治・経済・文化までをおおう、 「父の背中」 的なお手本と してのアメリカへの同化(あるいは勝手な自己投影)の軌跡であった。</p><p>そして、三つ目の補助線であるメディアは、内外の均衡する諸力がさまざまなルートでぶつ かりあう土俵の役割を果たしてきたといえる。たとえば、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」 的な自負と、「占領国憲法」的なアメリカ・コンプレックスとが、メディアの環境という複雑 システムを迂回しつつフィードバックするかたちで、日本人の重層的な自己像が映し出され てきたのである。メディアは、遠くアメリカから新奇で刺激的な情報を家庭へ運んでくる来訪 者(ときに侵入者)であると同時に、日々の粧い装いをモニターする姿見・鏡台のごとく、 自分と家族、社会を映し出す環境の一部であった。あえてメディアではなく、ここでメディア 環境と呼ぶゆえんである。</p><p>(8)</p><p>とくに戦後の文化を語るうえで欠かすことのできないのが、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌と いったマスメディアの役割であろう。編著者である私たちの世代にとって、マスメディアは日 常風景の視野の一部としてすでに当たり前で、所与の存在になっていた。 すなわち、わが家に 「電話が来た日」「水洗トイレ (下水道)が来た日」は鮮烈に覚えてはいても、「テレビが来た日」</p><p>は「カルキ (上水道)が来た日」と同じくらい遠い昔の事跡であり、 いうならば父母・祖父母 の仮想記憶の領域に属している。</p><p>結果として本書では、図と地の関係でいえば、マスメディアは地(=環境)の側に位置づけ られている。そのため、マスメディアについての記述は本書の章節に遍在しているが、とくに 一章を割くかたちで独立した図 (=文化事象)としては描かれていない。</p><p>戦後日本人は、学校や教師以上に、むしろマスメディアを通じて直接的な文化的影響を受け た。また、ちょうど大正末期の「円本ブーム」に乗って文人・小説家の地位が急速に向上した ごとく、マスメディアの隆盛とともに新しいタイプの文化人・評論家 (たとえば大宅文庫の創設 大宅壮一)の発言力が増大し、多大な影響を私たちに与えた。 これは、マンハイムが「甲 羅のない蟹」と呼んだように、マスメディア側から一般大衆への一方通行的な「入力」と見る こともできよう。</p><p>しかし、本書ではこうした「入力」 側よりむしろ、「出力」側に注目した。 当初、大衆側の 「出力」は伏流水のごとく民俗・風俗と呼ばれ、一個の独立した文化事象としては認めない風 潮もあったが、戦後五〇年の歳月は庶民の自己表現力を飛躍的に向上させた。今日の自分史ブ ームやインターネット・ホームページの奔流をもちだすまでもなく、「出力」側の水勢を助長 した手段や道具こそ、すべてマスメディアならぬ、パーソナルメディアであった。</p><p>今日、五七〇〇万台(二〇〇〇年三月現在) 普及した携帯電話は、格好のパーソナルメディ アとして若者たちに熱狂的に歓迎されながら、ともすると必要以上に公序良俗を乱す悪者とし てバッシングの対象とされる傾向がある。古来、新しい文物が異界から到来すればかならずた どる運命のとおり、カメラや車だけでなく、ペットや冷蔵庫も、当初は「舶来の異物」として バッシング(その無意識にある憧憬)の対象であったが、しだいに人びとの身近な暮らしになじ み、毎日の生活環境のなかへ溶けこんでいった。</p><p>その意味で、戦後の大衆文化にとって、これらパーソナルメディアは、マスメディア以上に 媒体価値の高い、もうひとつのメディア環境といえよう。 こうした「出力」側における大衆の 自己表現欲求の拡大と、それにともなうメディア環境の変容は、「モノ」 「機械」の「ブーム」 「流行」というかたちで、各章において言及されている。</p><p>6 同時代としての戦後</p><p>以上にみた、高度成長・アメリカナイゼーション・メディア環境、この三本の補助線で、 戦 後日本の大衆文化の位相はほぼおさえることができる。 それで足りなければ、戦後民主主義と 都市化とか、まだまだ補助線をつけくわえていくこともできるだろう。</p><p>しかし、戦後の大衆文化へのアプローチは、このような、私の外にあるものごとを客観的に 分析するだけでは充分とはいえない。なぜなら、最初にのべたように、私たち自身も戦後とい う時代の中に生きている人間の一人なのであり、戦後はすでに終わった時代として歴史の教科 書の中で記述されるだけのものではないからである。</p><p>この視点から見れば、それぞれの人にとって、それぞれの戦後という時代があり、戦後の大 衆文化があるということになる。</p><p>たとえば、昭和の初めに生まれた人は、戦争終結時に二〇歳前後、現在は七〇代前半である。 とすれば、この人の人生そのものが昭和史と重なる。この人は、現在までの人生の中で、どの ように戦後を生きてきたのだろうか。</p><p>もう少し具体的に問うてみよう。</p><p>この人は、昭和天皇の終戦の詔勅をどこでどのようにして知ったのか。それをどのように受 けとめたのか。この人が、電気冷蔵庫を初めて購入したのはいつか。それをどのように利用し</p><p>る。</p><p>たのか。それ以後、 現在使用している電気冷蔵庫まで、何台を買い換え、古い冷蔵庫はどのよ うに処分してきたのか。この人は、自動車とはどのようにつきあってきたのか。いつ免許をと り、自動車に乗ることでどんな経験をしてきたのか。この人は、携帯電話をもっているのかど うか。それに対してどのような感情をいだいているのか。</p><p>このようにして、一人の個人の人生のなかにも、戦後という時代、大衆文化との出会いがあ</p><p>もしも読者にちょうどこのぐらいの年齢の人がいたら、 ここで自分の人生をふりかえっても らいたい。読者がはるかに若くても、親戚や知人にこのぐらいの年齢の人がいたら、その人か 話を聞いてみればよい。それによって、「生きられた戦後大衆文化史」ともいえる記録を作 成することができるだろう。もちろん、まだ一〇代の人でも、その十何年かの人生のなかでそ の人なりに大衆文化との出会いがあるわけだから、自分の人生をふりかえってもかまわないの だが。</p><p>いずれにしろ、戦後の大衆文化にたいしては、自分を軸にして記述するというアプローチも ありうるのである。</p>
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<pubDate>Thu, 23 Nov 2023 21:36:10 +0900</pubDate>
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