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<title>蒼氓文学　〜儚き星霜の下で〜</title>
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<description>狂気と涙珠の裏垢。日々を蒼氓に暮れている。 漱石とボードレールを長外套に潜ませ、蒼穹の下、夜街燈が悲しく搖れ燦めく街を遠峰にて見詰める。</description>
<language>ja</language>
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<title>心奥の追憶</title>
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<![CDATA[ こんな夢を見た。<br><br>　瞳を開くと、蒼い月光がひび割れた硝子窓より射し込んでいる。<br>浜辺に独建する小屋の扉は開かず、部屋にはすでに鳴らなくなったピアノが置いてある。少年は起き上がり、鍵盤を優しく撫でた。<br>すると硝子窓に幽かに映る灯台の光が消え、晩鐘が響いた。<br><br>少年は何故かここで死ぬのだろうと悟った。それは激情でなく、ただそう思ったのだ。蒼い、それはそれは蒼い海が夜を鎮めている。夕闇はすでに堕ちゆき、綺麗な蒼い海こそが月光を揺らす。<br>いつかどこかで見た光景ではないかと思った。数日、数年では語れぬ、世俗を超えた悠遠な日々の中に確かに見た気がした。絶対的な何かに呑まれる人間が此れ程までに浩歎であるとここに来て理解した。迂遠とした直感が妙に気に触り、焦燥感のみを遺す。気分が優れない、悪心がする。人間の淺ましさが極度を迎えるとどうなるのだろうか、失神しそのまま倒れるのか。気を失い夢幻境でも迎えるのか。そうなると待ち伏せる倒懸からも苦艱からも逃れられる筈だ。少年はそう思い下唇を噛み締め瞼を強く抓った。<br>普通であることに厭気が刺す。普通の日々を演じながらも心奥にて普通から抜け出そうと悶々と足掻いた…<br>
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<link>https://ameblo.jp/sekai-no-rooo/entry-12147559867.html</link>
<pubDate>Thu, 07 Apr 2016 01:29:02 +0900</pubDate>
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<title>ノスタルジィ世界の側面的要素とメランコリーの関連性</title>
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<![CDATA[ 本質的には異なるが、ノスタルジアとメランンコリーはとても密接関係にある。メランコリーは人々の認識や偉大なる芸術家によって刺激され覚醒を続け、今の形に止めた。<br>しかしノスタルジアは、時の始まりから終わりまで真理を変えることなく、碧く静かに或るのだ。ここに我々は焦点を合わせなければならない。タルコフスキー自身が手がけたロシアとイタリアの合同作品「ノスタルジア」に見られる世界観は、その真理をついている。霧の世界、水の世界、炎や田舎の風景といった巨匠タルコフスキーが描く独特の情景は、まるで美しい碧い心の海を泳いでいるような、言葉にならぬ静かな哀愁がある。祖国への郷愁を抒情的に描いている。主人公の夢に出現するなだらかな丘の家や、犬や村人は強く真理をついている。しかしこれはノスタルジアの持つ部分的な側面描写でしかない。あくまでもノスタルジー概念を形成するパーツでしかないのだ。<br><br>要は人々によって様々な解釈がされたメランコリーとは違い、ノスタルジィは人間の持つ本能的な真理なのであることだ。　<br>　　<br>　　<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　「ノスタルジア世界」より抜粋
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<link>https://ameblo.jp/sekai-no-rooo/entry-12138480605.html</link>
<pubDate>Sat, 12 Mar 2016 20:48:57 +0900</pubDate>
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<title>「ノスタルジア世界」というものを執筆しています。</title>
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<![CDATA[ 幼き日の追憶の中、夕陽に包まれる公園で親が帰りの時間を告げる時、子供達がいなくなった公園に残るすべり台や遊具、スコップを思い出すと、どこか物悲しさに包まれてはいなかったか。子供達はそれまでの愉しさを忘れ、卓に晩飯の並ぶ家に帰る。その時あなたが見た夕陽と公園の顔を思い出して欲しい。そこにはノスタルジアにつながる何かがある。そして、これが果たして午後の日差の眩しい、活発な世界には通じるのだろうか。たとえ同じ状況になったとしても、ここにはノスタルジアは欠けている。そのように考えると、やはりノスタルジア概念を論ずる上で、夕陽との関係性を考えていかなければならない。私の人格形成や性格、感性ですらも夕陽に多大な影響を受けている。<br>私は、我々にごく身近にある夕暮れのなかには、全ての真理が存在すると考えているからだ。<br><br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　「ノスタルジア世界」より抜粋
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<link>https://ameblo.jp/sekai-no-rooo/entry-12138479131.html</link>
<pubDate>Sat, 12 Mar 2016 20:43:09 +0900</pubDate>
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