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<title>静かなる風</title>
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<description>阿呆が書いた渾身の一筆を不定期で載せていきます。今後の執筆の糧にしたいので、率直な感想をお待ちしてます！</description>
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<title>幸せの砂時計　９</title>
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<![CDATA[ <font size="4">　　　　　　　　　　　　　　　　　<strong><font size="5">10</font><br></strong><br>　<br>「この坂って家具屋さんいっぱいあるよね？」<br>　７台の太鼓台が、家具屋が立ち並ぶ竹田坂をゆっくりと登っていく。<br>　坂の下から見上げると、赤い提灯が綺麗な一直線を描き、とても幻想的な光景だった。<br>「まぁ家具はこの町の特産の1つだからな」<br>　太鼓台の進むスピードに合わせ、俊介とユウも竹田坂を登っていく。<br>「ちなみに和也の実家も家具屋なんだぜ」<br>「本当に？」<br>「あそこに三橋家具店って看板が見えるだろ？　あそこが和也の実家だ」<br>　俊介は坂の上の方にある『三橋家具店』、と書かれた大きな看板を掲げている家具屋に向かって、人差し指を向けた。<br>「何か他の家具屋よりも存在感があるっていうか、立派な店構えだね」<br>「そりゃあそうだろ。創業100年を超える老舗だからな」<br>「100年！？」<br>　ユウの口から裏返った声が飛び出した。<br>「この辺一帯の家具屋の中では多分、一番古いんじゃないかな」<br>「へぇ～そうなんだ」<br>　好奇心に満ちた目で立ち並ぶ家具屋を見渡すユウ。<br>　俊介の表情にも柔らかな笑が浮かぶ。<br>「ってことはさ、和君も家具職人ってことだよね？」<br>「え……」<br>　何気ないユウの問いかけが、俊介の表情から笑みをかき消した。<br>「しかし100年以上も続く家具屋の跡取り息子っていうのはちょっとびっくりだったなぁ……まぁ確かに言われてみれば、何となく職人気質な面影があったかもね」<br>　そう言いながら無邪気に微笑むユウ。<br>　このまま何も言わずに話を合わせれば、和也は家具屋の跡取り息子として、ユウの頭の中に認識されるだろう。<br>　それならそれでいい。むしろ好都合だ。<br>　事情を話せば、和也もきっと家具屋の跡取り息子を『演じて』くれるだろう。<br>　わざわざ混乱を招くような事実を言う必要もない。<br>　それが最善の選択。<br>　そう思った。だが……<br>「いや……アイツは今は違うことをやってるよ」<br>　やっぱり嘘は付けなかった。<br>「違うこと？　家具作りとは関係ない仕事ってこと？」<br>「まぁ……そうだな」<br>　目を伏せ、歯切れの悪い口調で語尾を濁らせる。<br>　俊介は考えた。今のことではなく先のことを。<br>　その先のことを考えた上で、今どういう返答をするのが得策だろうか、ということを。<br>「俊君……？」<br>　貝のように口を閉ざしてしまった俊介の顔を、ユウが憂いた眼で見つめる。<br>　10数秒の沈黙を挟み、俊介は徐(おもむろ)に口を開いた。<br>「アイツの職業は……ヤクザだ」<br>「え……？」<br>　穏やかな笑みを浮かべたまま、ユウの顔が凍りついた。<br>「色々事情があってな、アイツは15の時に家族から絶縁されて家を出たんだ。それ以降アイツは１度も家には戻っていないし、家族とも連絡は取っていない。だから厳密に言うと、あそこの家は和也の元実家、と言ったほうが正しいかもしれない」<br>「そ、そうなんだ……」<br>　ショックを受けた眼を隠すように、ユウは顔を背けて俯いた。<br>　沈黙が重い空気となってのしかかる。<br>　やはり今はまだ言うべきではなかった。<br>　今でこそ人間らしい感情を取り戻し、泣いたり笑ったり怒ったりという感情を、惜しみなく見せてはいるが、ユウの心には今もなお、抉(えぐ)られたような深い傷が残っている。そしてその傷を負わせた人種に対しての深い憎しみも。<br>　先走って言ってしまったことを俊介は後悔した。<br>　「和君とは、もう長いの？」<br>　長い沈黙を破り、ユウが徐に訊いてきた。<br>「そうだなぁ……小学校に入る前からの付き合いだから、もう20年以上になるかな」<br>「20年以上……か」<br>　呟くようにそう言いうと、ユウは再び口を閉ざして天を仰いだ。<br><br>　　　　　　　　　　　　　　　<font size="5">　　◆　　　　　　　　◆</font><br><br>　淡い光を放つ満月が、夜空に浮かんでいる。<br>　こんなにも綺麗な月が出ていることに、今の今まで気付かなかった。<br>　和也の顔がふと脳裏に蘇る。<br>　屈託のない笑顔を作り、人懐っこく話す男の正体が実はヤクザだった。<br>　ショックじゃなかったといえば嘘になる。でも……<br>　不思議と嫌悪感が沸かなかった。<br>　殺したいほど憎しみ、蛇蝎(だかつ)のごとく嫌っていた人種と同類だという、衝撃の事実を聞かされたのに、自分でも驚くほどに感情が揺れなかった。<br>　むしろ、そんなことはどうでもいいとさえ思えた。<br>「私ね、中学、高校ってずっと苛められてたの」<br>「え……？」<br>　夜空を見上げながら、ユウは言葉を続けた。<br>「私の通っていた学校ってのが、これまた笑えるくらいに場違いな学校でね……俗に言うブルジョア系ってヤツで、もう本当にこれ以上にないだろってくらいに場違いだったんだよね……」<br>　そう言うとユウは目を伏せ、力なく笑った。<br>　唐突な告白に混乱しているのか、俊介はただ呆然と立ち尽くしている。<br>「まぁ苛めって言うよりは、誰も私の存在に気付いていないって感じ。そう、例えるならまさに空気。本当に空気そのものだった」<br>　楽しい思い出が１つも存在しない黒い青春時代。<br>　別世界の住民に迫害され、疎外感に打ちのめされた惨めな自分を描写した記憶が、朧(おぼろ)げに蘇る。<br>「私がどんな学生時代を過ごしてきたか、聞きたい？」<br>「いや、別に無理に話さなくても……」<br>「聞いて欲しいの。俊君に」<br>　俊介の言葉を遮り、ユウは更に言葉を続けた。<br>「私は今まで過去から逃げていた。逃げて逃げて、人との関わりを極力避けていた。でもそれじゃダメなんだって、最近になって思い始めたの」<br>「……」<br>「過去はどんなに否定しても変えられないし、消すこともできない。だから向き合わなきゃならない。そうしないと多分、私はいつまでたっても前には進めないと思う。だから聞いて欲しいの。私の過去を」<br>　一拍の間を挟み、俊介がゆっくりと口を開いた。<br>「分かった……だったら聞いてやろう。思う存分に話すがいい」<br>「ありがとう」　<br>　俊介に向かってにこっと微笑むと、ユウは胸の奥深くに封印していた思い出を語り始めた。<br><br><br>――11年前――<br>「忘れ物はない？」<br>「大丈夫」<br>　真新しい制服に身を包んだユウが、快活に応える。<br>「しっかりと頑張るのよ」<br>「うん、頑張ってくる」<br>　園長に見送られ、ユウは弾むような足取りで『旅立ちの家』の門を出た。<br>　今日から中学生として新たな一歩を踏み出す。<br>　期待、不安、緊張、様々な感情が入り混じり、いつも以上に心臓が高鳴る。<br>　これから通う鳳坂(おおとりざか)学園は、中高一貫の名門私立。<br>　通う生徒の殆どは、社会的地位を確立した親を持ち、世間では『お坊ちゃん』『お嬢様』と称されている。<br>　本来ならば、孤児である自分がそのような敷居の高い学校に入ること自体、有り得ないことなのだが、自分にとっての第2の母である児童養護施設『旅立ちの家』の時子園長と、鳳坂学園の理事長が、昔からの旧友ということで、時子園長が頼み込んで特別に、鳳坂学園に入れてくれたのだ。<br>　もちろん入学試験を受け、それに合格をした上での入学だ。<br>　手続きの都合上、入学式から1ヶ月遅れの登校なので、多少の緊張はある。<br>　周りは皆、ブルジョアなオーラをまとった生徒ばかり。そんな中に自分なんかが溶け込めるのだろうか、という不安もある。<br>　でも未知の世界に対する期待も大きかった。<br>　ユウは足を止めて、大きく2回深呼吸をした。<br>――よし！<br>　何事も始めが肝心。<br>　自分に気合を入れると、再び歩を踏み出した。<br><br><br>「今日から新しくウチのクラスに入ることになりました、二宮ユウさんです」<br>　年の頃20代後半の、少し影のある女性教諭が、淡々と事務的にユウを紹介する。<br>「二宮さんは手続きの都合もあって、1ヶ月遅れの入学になります。従って転校生ではありません」<br>　転校生と、1ヶ月遅れで入学した生徒と何か違いがあるのだろうか？　とユウは何気なしに思った。<br>「それでは二宮さん、みんなに挨拶して」<br>「あ、ハイ」<br>　ユウは弾かれたように顔を上げると、1歩前に出た。<br>　30余りの生徒の眼が一斉にユウに向く。<br>　笑っている者はいない。睨んでいる者もいない。<br>　ただ能面のような無機的な顔が、30余りこっちを向いている。<br>「あ、あの……二宮ユウです。宜しくお願いします」<br>　目の前の無機的な視線から逃げるように、ユウは深く頭を下げた。<br>「では二宮さんの席は、窓際の後ろから三番目なので、そのまま席に着いて下さい」<br>「ハ、ハイ」<br>　ユウは鞄を手に持ち、指定された席に向かった。<br>　幸いなことに、足を出して引っ掛けてくる者はいなかったので、少しほっとした。<br>　席に座ると同時にチャイムが鳴り、すぐに1時間目の授業が始まった。<br><br><br>「お前さ、何で1ヶ月遅れで入学してきたんだ？　病気でもしてたのか？」<br>　1時間目の終了チャイムが鳴り終わるのと同時に、真後ろの席のニキビ顔の男子が、声をかけてきた。<br>　ユウはぎこちない笑みを浮かべながら「ちょっと事情があって……」と曖昧に答えた。<br>「だからその事情を訊いてんだよ」<br>「それは……」<br>　ユウは口をつぐんで俯いた。<br>「もしかして人に言えないような事情なのか？」<br>　ニキビ顔が訝(いぶか)しげに片眉を上げる。<br>「別にそういう訳じゃないけど……」<br>「じゃあ何だよ」<br>　後ろで固まってお喋りをしていた数人の女子も、興味深げにユウに視線を向ける。<br>「あの、私……施設から通ってるから、そういう関係もあって……」<br>「施設って……まさか孤児院か？」<br>「……」<br>「おいおいおいおい、ウソだろ？　施設の孤児が何でウチの学校に入れるんだよ!?」<br>　ニキビ顔の大音量の声がクラス中に響き渡った。<br>　と同時に、生徒達の視線が一斉にユウに集まった。<br>「お前さ、どうやってココに入ったの？　当然何か裏があるんだろ？」<br>「別に裏なんて……ちゃんと試験も受けて合格したし……」<br>「試験なんてどうでもいいんだよ。重要なのは家柄だよ家柄。どんなに頭が良くても家柄が粗末な奴はココには入れないの。そういう仕組みなの。分かる？」<br>「……」<br>「っていうかさ、粗末な家柄どころか、そもそも家自体がないじゃんお前？　マジでどんなインチキ使って入って来たんだよ？」<br>「インチキとかそんなんじゃないし……」<br>「じゃあ何だよ？　もしかして超お金持ちの足長おじさんでもバックについてるのか？」<br>　ニキビ顔が小馬鹿にしたように笑う。<br>「そんなんじゃない。ただ、私がお世話になってる施設の園長とこの学校の理事長が友達だから、それで……」<br>　そう言いながらユウはチラッとニキビ顔に視線を向けた。そして息を飲んだ。<br>　さっきまで横柄だったニキビ顔の眼が、恐ろしいほどに冷めた眼に変わっていた。<br>　ユウは更にクラス中に視線を走らせた。<br>　誰も口を開いていなかった。ただ黙ってユウを見ている。<br>　ユウは全ての視線から逃げるように深く俯いた。<br>「なるほどそういうことね。理事長先生のお友達の『つて』を利用したって訳か」<br>　ニキビ顔の言葉が見えない槍となって胸に突き刺さった。<br>「でもさ、仮にそういう口利きがあって入れたとしてもさ、孤児の身分でよくココに入ってこれたよね。凄い神経をしてるよマジで」<br>「……」<br>「ちなみに俺がお前の立場だったら、そんな口利きがあっても絶対に入らないけどね。自分が惨めになるのが目に見えるし」<br>　ユウは唇を噛み締め、スカートの端をキツく握った。<br>「貧乏人が名門学校に入学して孤軍奮闘するストーリーのドラマとか小説ってあるじゃん。最後はみんなと打ち解けて笑顔で卒業する的な？　もしかしてそういう展開とか期待してる？」<br>「そんなこと……考えたこともないし期待なんて……」<br>「だったら今のうちに辞めちゃえよ。ここは社会的に地位のある家柄の人間が通う学校であって、親なしの孤児が来る所じゃないんだからさ」<br>「……」<br>「そもそも居るべき世界が違うんだよ。お前と俺達とではな」<br>　ニキビ顔が吐き捨てるように言った。<br>「っていうかさ、時季外れに入学してきて蓋を開けてみたら孤児って、何か笑えるよね？」<br>　後ろで固まっていた女子の一人が鼻で笑った。<br>　教室のドアが勢いよく開いた。<br>「はいはいみんな席に着いて。授業を始めるわよ」<br>　冷たい視線を送っっていた生徒達が、一斉に自分の席に戻っていき、やっと針のむしろから解放された。<br>　ユウは唇を噛み締めたまま動けなかった。<br>　こういう展開を全く予想していなかった訳ではない。<br>　でもまさか、ここまで風当たりが強くなるとは思ってはいなかった。<br><br><br>――翌日――<br>　目覚まし時計に促され、ユウは半身を起こした。<br>　重い体を引きずるようにベッドから立ち上がると、窓辺に立ってカーテンを開けた。<br>　視界に広がる澄み切った青空。<br>　眠気も覚める気持ちのいい朝。いつもなら窓を開けて大きく深呼吸をしているところだ。<br>　でも今日は深い溜息しか出てこない。<br>　正直、部屋から出たくなかった。<br>　このまま1日中、窓辺で空を見ていたかった。<br>　大きな溜息がまた漏れる。<br>　昨日は初日。まだ1日目だ。<br>　これから少しずつ状況が変わっていくかも知れない。<br>　だから昨日のことは取り敢えず忘れよう。<br>　そして今日に期待して頑張ろう。<br>　頑張って自分から心を開いていこう。<br>　そうすればきっと思いが通じるハズ。絶対に通じるハズ。<br>　そう自分に何度も言い聞かせた。<br><br><br>「おはよう」<br>　斜め後ろの席に座る女子生徒に、ユウは笑顔で挨拶した。<br>「……」<br>　何も聞こえていなかったように、女子生徒は本を読み続けている。<br>　ユウは小さくため息を吐くと、自分の席に着いた。<br>　真後ろのニキビ顔は、今日は何も言ってこなかった。いや、ニキビ顔に限らず、誰もユウに話しかけてこなかった。逆にユウから話しかけても反応はない。　<br>　誰に声をかけても、反応どころか眼も合わせてくれない。<br>　結局この日は誰とも会話を交わすことなく帰途についた。<br><br>　<br>――1週間後――<br>「それでは来週の遠足で行動するグループを、4～5人くらいで作って下さい」<br>　先生の言葉で、クラス中がガヤガヤと動き出し、仲のいい者同士が自然な流れで固まっていく。<br>　そんな中でユウは、1人自分の席に坐り、無機質な机を見つめていた。<br>　誰かが声をかけてくれたら、とびっきりの喜びの笑顔を作ろうと準備していたが、誰も声をかけてきてはくれなかった。<br>　暫くすると、バラバラに動いた生徒が、7つのグループにまとまった。<br>「あれ、どうしたの二宮さん？」<br>　1人でポツン、と席に坐っているユウに気付いた先生が、ユウに声をかけた。<br>「何であなた1人で坐っているの？　誰かのグループに入れて貰いなさい」<br>「……」<br>　ユウはギュッと唇を噛み締めながら、無機質な机を見つめ続けた。<br>　待っているだけでは何も解決しない。<br>　自分から動かなければ……。<br>　ユウは意を決して立ち上がると、斜め前の席で固まっているグループに歩み寄った。<br>「あの……私も入れてくれないかな？」<br>「……」<br>　反応なし。<br>　誰もユウに眼を合わせようとしない。<br>　まるでそこにユウがいることに気付いていないかのように、自分達の話で盛り上がっている。<br>　ユウは小さくため息を吐くと、今度はその隣で固まっているグループに歩み寄った。<br>「ちょっといいかな？　私も仲間に入れてほしいんだけど……」<br>「……」<br>　ユウはギュッと唇を噛み締め、次のグループに歩み寄った。<br>「話し中ごめんね……あの、私も仲間に入れて貰えないかな？」<br>「……」<br>　ユウは眼に溜まった涙を拭いながら次のグループに歩み寄った。<br>「みんなの邪魔しないから……私を仲間に入れて下さい」<br>　ユウは深々と頭を下げた。<br>「……」<br>　聞こえているハズなのに誰も答えてくれない。<br>　見えている筈なのに誰も目を合わせてくれない。<br>　いくら物理的にその場に存在していても、その存在を認めて貰えなければ、存在している意味がない。<br>　ユウは小さく項垂(うなだ)れながら、静かに教室を出た。<br>　そして誰もいないトイレにこもると、声を押し殺して啜(すす)り泣いた。<br>　自分の落ち度が全く見出せない。<br>　何が悪いのか全然分らなかった。<br>　<br><strong>親なしの孤児が来る所じゃないんだよ<br></strong><br>　ニキビ顔の言葉が頭の中でリフレーンする。<br>「好きで孤児になった訳じゃないもん……」<br>　ユウは自分の境遇を初めて呪った。<br>　今まではそれでいいと思っていた。<br>　親がいないのは確かに寂しいし、親がいる人が羨ましいと思う時もある。でもいないものはいない。<br>　ないもの強請(ねだ)りをしても何も変わらない。　　<br>　だから素直に孤児としての境遇を受け入れた。<br>　その中で人並みの幸せを掴めれば、それでいいと思っていた。<br>　でもここでは孤児の存在は認めて貰えない。<br>　理由は分らないが、とにかく認めて貰えない。<br>　理不尽だけど自分ではどうすることもできない。<br>　そんな自分が死ぬほど情けなかった。<br><br><br>――2週間後――<br>　ユウの周りの環境は何も変わっていなかった。<br>　叩かれることもなければ、嫌がらせをされることもない。<br>　無関心。周りは皆ユウに無関心だった。<br>　教室の隅に置いてあるゴミ箱と同等の存在。<br>　いや、ゴミ箱はゴミ箱としての役目を果たす時に、その存在を認めて貰えるので、正確に言えばゴミ箱以下かもしれない。<br>　結局遠足はお腹が痛くなって欠席した。<br>　今の環境の中で遠足に行っても、自分がみじめになるだけ。だったら最初から行かない方がいい。<br>　そうすれば無駄なお金も使わずに済む。<br>　根本的な原因が解決されない限り、この環境は多分変わらないだろう。<br><br><br>――2ヵ月後――<br>　終業式。<br>　長かった1学期が漸(ようや)く終わり、明日から待ちに待った夏休みが始まる。<br>　本当に長かった。<br>　多分、この学校の誰よりも強く、この日を待ち詫びていただろう。<br>　夏休みが終われば、また透明人間の生活が始まる。そう考えると気が滅入るが、それを今考えても仕方がない。だから考えない。<br>　考えたところで何も変わらないのだから。<br><br><br>――10ヵ月後――<br>　ユウは屋上で空を見ていた。<br>　昼になると、ここに弁当を持ってきて独りで食べる。<br>雨の降っていない日は、時間まで空を眺める。<br>それが今のユウの日課となっていた。<br>　柔らかな初夏の風が、心地よく頬を撫でる。<br>空には大きな入道雲が浮いていた。<br>　ユウは気持ちよさそうに眼を閉じた。<br>　早いもので、この学校に来て1年が過ぎた。<br>　1年前と何か変わったことがあるか？　と言えば何も変わっていない。<br>　ユウの躰は相変わらず透明人間のままだし、その躰に色彩が加わる気配は今のところ全くない。<br>　ただ、気持ちに余裕が出てきた。<br>　人間というのは、どんな苦境の中にいても、長くその中に入れば、否応なしに順応していくのかもしれない。<br>　モノは考えようで、これが当たり前と思えば、それが当たり前になる。<br>　当たり前になればそれが普通になり、普通になれば、それが本来なら苦痛に思えることも、苦痛に思えなくなる。そういうことなのかもしれない。<br>　以前は、この環境に対して馬鹿正直に向き合おうと思って、精神を無駄に酷使していたが、最近は少し手法を変えた。<br>　相手が無関心でくるなら、コッチも無関心で対抗すればいい。<br>　相手を意識するからあれこれ考えるのであって、意識しなければ、別にどうってことはない。と、自分に暗示をかける。<br>　これが意外と効果的面で、以前よりは心の負担が減ったような気がする。<br>　ユウはゆっくりと眼を開け、上に向けていた首を下に戻した。<br>　校庭ではみんな楽しそうにはしゃぎ回っている。<br>　羨ましい、と素直に思う。どんなに痩せ我慢をしても、本心を誤魔化すことはできない。<br>――あの輪の中に入ってはしゃげたら……<br><br><strong>ガチャン</strong><br><br>　背後からドアの閉まる音が聞こえ、ユウは弾かれたように後ろを振り返った。<br>　ほっそりとした躰に整った顔。<br>　同じ学年では見たことがない顔だった<br>「何やってんのこんなとこで？」<br>「え……？」<br>　約1年振りにこの学校の生徒に声をかけられた。<br>　自分から声をかけてもシカトされ続けていたのに、向こうから声をかけてきた。<br>　想定外の不意打ちに、ユウは言語障害のように言葉が詰まった。<br>「もしかしてここでゴハン食べてたの？」<br>「あ、そ……」<br>　その先の言葉が続かず、ユウは言葉の代わりに首を縦に振った。<br>「面白いコだなぁ、名前なんて言うの？」<br>「……ユウです」<br>「俺は夏樹、宜しくね」<br>　そう言いながら夏樹はユウの隣に立って校庭を見下ろした。<br>「ユウは1年、2年？」<br>「2年です。あの……夏樹さんはもしかして3年生ですか？」<br>「そうだよ。もしかして1年に見えた？」<br>「いえ、そういう訳じゃ……」<br>　ユウは夏樹から顔を背けて俯いた。<br>　折角声をかけてくれたのだから、もっと自分からも積極的に話さないといけない。と、思えば思うほど喉元で言葉が詰まる。<br>　ユウは夏樹に気付かれないように、小さく深呼吸をした。<br>「いつもここでゴハン食べてるの？」<br>「……ハイ」<br>　ユウは消え入りそうな声で答えた。<br>「まぁ、ガヤガヤした教室で食べるよりはこっちの方が落ち着いて食べれるかもな」<br>　そう言うと夏樹は小さな笑顔をユウに向けた。<br><br><strong>キーンコーンカーンコーン</strong><br><br>「あ、もう授業始まるな」<br>　このままでは何の実りもないまま終わってしまう。<br>　何かを言わなければ……そう思えば思うほど焦りが空回りして言葉が出てこない。<br>「じゃあな、午後の授業も頑張れよ」<br>　そう言うと夏樹はユウに背を向けて歩き出した。<br>「あ……」<br>　ユウは夏樹の背中に向かって、何か言葉をかけようとした。でも……<br><br>　<strong>ガチャン</strong><br><br>　扉の閉まる音がユウの耳に空しく届いた。<br>「意気地なし……」<br>　夏樹の出て行った扉に向かって、ユウは小さくため息を吐いた。<br><br><br>――1週間後――<br>　ユウはいつものように屋上で独り、弁当を食べていた。<br>　今日も空は気持ちよく晴れている。<br>　でもユウの心はどんよりと曇っていた。<br>　あれから夏樹の姿は一度も見ていない。この学校で初めて自分の存在を認めてくれた人に、もう1度会いたいという気持ちはある。<br>でも自分からは会いに行けない……。<br>　仮に会いに行ったとしても、前と同じ反応が返ってくるとは限らないし、もしかしたらもう忘れているかもしれない……そういうことを考えてしまう。<br>　結局は臆病な自分には何もできないという事。<br>　ユウは箸を置いて空を見上げた。<br>一筋の雲を残しながら飛行機が南下していく。<br>――誰もいない無人島に行きたいな……<br><br><strong>　ガチャン</strong><br><br>　扉が閉まる音が耳に届き、ユウは弾かれたように首を左に向けた。<br>「やっぱりいたか」<br>　夏樹がニコッと笑いながらユウの隣に腰を下ろした。<br>「俺も一緒にここでメシ食っていいかな？」<br>「あ、ハイ……」<br>　ユウは電池の切れかけた玩具(おもちゃ)のロボットのように、ぎこちなく首を縦に振った。<br>　まさか向こうからやってくるとは思って……いたかもしれない。<br>　そういう期待がなかったと言えば、それは嘘になる。でもそれはあくまでも期待であって、その期待が具現化するとは夢にも思っていなかった。<br>「やっぱり青空の下で食べるパンはうまいな」<br>　アンパンを頬張り、至福の笑みを作る夏樹。<br>「ん、その卵焼きうまそうだな？　一個貰っていいか？」<br>「あ……どうぞ」<br>　夏樹が卵焼きを1つ摘まんで口に運んだ。<br>「あ、うまい……」<br>「本当ですか？」<br>「あぁ、これユウが作ったのか？」<br>「ハイ」<br>「へぇ～ユウって意外に料理うまいんだな……もう1個食べていい？」<br>「全部食べていいですよ」<br>　ユウは弁当箱を夏樹に差し出した。<br>「いや、でもそれじゃユウの食べる分がなくなっちゃうじゃん」<br>「いいんです、私そんなにお腹空いてないから」<br>「そっか、じゃあ有り難く戴くよ」<br>　そう言うと夏樹は弁当箱を受け取り、代わりにパンの入った袋をユウに渡した。<br>「俺そんなに食えないからさ、パンやるよ」<br>「あ、ありがとうございます」<br>　ユウはパンの袋を受け取ると、中からクリームパンを1つ取り出した。<br>　脇に眼をやると、夏樹が無心で弁当を食べている。<br>「ん、どうした？」<br>「え、いや……どうかな？って思ったから」<br>「うまいに決まってんじゃん。こんなにうまい弁当なら毎日食っても飽きないよ」<br>　そう言って再び箸を動かす。<br>「だ、だったらこれから毎日作ってきてあげても……いいですよ」<br>　今まで思うように口が動かなかったのに、突然とんでもない言葉を口走ってしまった。<br>　唖然とした眼で見る夏樹の視線から逃げるように、ユウは深く顔を伏せた。<br>「本当に作ってきてくれるの？」<br>「えっ？」<br>「いや、マジで作ってきてくれるならスゲー嬉しいんだけど」<br>　予想外の反応にユウの言葉がまた詰まった。<br>「いいんですか？　作ってきて……」<br>　ユウは上目遣いでおずおず訊いた。<br>「勿論、っていうか本当に作ってきてくれるの？」<br>「先輩が食べたいなら……」<br>「うん、食べたい！　じゃあ明日から頼んでいいかな？」<br>　ユウは少しはにかみながら小さく頷いた。<br>「よし、じゃあ休みの日は俺が御馳走するよ。ちなみにユウは何が食べたい？」<br>「別に、何でも……」<br>「何でもて言われると困るんだよなぁ、何かあるでしょ？　外出したら絶対にこれだけは口に入れたいってヤツ」<br>　ユウは天を仰ぎ、少し考えた。<br>「ラーメン……かな」<br>「ラーメン？」<br>「ハイ」<br>　頭の中で一番最初に思いついたのは、もやしがたっぷり載った味噌ラーメンだった。<br>「オッケー、俺2軒ほどうまいラーメン屋知ってるから今度の土曜日に連れてってやるよ」<br>「本当ですか？」<br>　ユウの顔がこの上なくパッと輝いた。<br>　暗い洞窟に閉じこめられ、2度と陽の光を見ることはないだろう、と諦めていたところに、突然救助隊が現れたような……終身刑を打たれ、一生娑婆(しゃば)の光を拝むことはないだろう、と諦めていたところに、突然恩赦(おんしゃ)の知らせが舞い込んできたような……それは一言にまとめるなら『奇跡』だった。<br>　この1年間、ずっと透明人間として生活してきた。辛くなかったと言えば嘘になる。<br>でもそれが自分に与えられた運命だと思って諦めていた。が、奇跡が起こった。<br>「ついでに映画も御馳走するよ」<br>「いいんですか、そんなに御馳走して貰って？」<br>「いいのいいの、その代わり平日はお弁当頼むね」<br>「分りました」<br>　ユウはとびっきりの笑顔で応えた。<br>　友達としても先輩としても見れない。どういう角度から見ても1人の『男』としてしか見れない。<br>　多分、自分は人よりも惚れっぽい体質なのだろう。<br>　胸の中で熱い炎が、大きく渦になっていくのが自分にも分る。もしこれでまかり間違って、夏樹と付き合うことになったら、自分はどうなってしまうだろうか？　<br><br>　もしかしたら嬉し過ぎて、屋上から音量大で奇声を発してしまうかもしれない。<br>　<br>　<strong>キーンコーンカーンコーン</strong><br><br>「何だもう終わりかぁ……この学校って昼休み短いよな？」<br>「そうですね。あともう5分くらいあってもいいですよね」<br>「5分でも短い。俺的にはあと二時間あってもいいな」<br>「それじゃ午後の授業終わっちゃいますよ」<br>　ユウは口に手を当ててクスッと小さく笑った。<br>　今は自分の姿が見えている。<br>教室に戻れば、また元の透明人間に戻ってしまうかもしれないが、少なくとも今は見えている。<br>それでよかった。<br>　夏樹にさえ見えていればそれでいい。<br>　夏樹にさえ認めて貰えればそれでいい。<br>　譬えそれ以外の人間には認めて貰えないない存在であっても。<br>　<br><br>――1ヵ月後――<br>「ユウ、帰りにマック寄っていこうぜ」<br>「うん」<br>　ユウは小さな笑みを浮かべながら、夏樹の右腕に自分の左腕を絡めた。<br>　夏樹の彼女になって今日で3週間が過ぎた。<br>特別な告白という告白はしていない。<br>　気付いたらそういう関係になっていた。<br>そういう関係になっていると気付いたのがちょうど3週間前。<br>夏樹にラーメンと映画を御馳走して貰った日である。<br>　お互いがそう気付き、じゃあ付き合おうか？　というあっさりとした流れで付き合い始めた。<br>勿論その時にお互いの気持ちは伝え合った。<br>　まさか両想いだとは思いもしなかったから、夏樹の気持ちを知った時は、正直驚いた。<br>　それに対し、夏樹は然程(さほど)驚いてはいなかった。薄々気付いていたらしい。<br>　自分はすぐに顔に出るから分りやすい、と言われた。<br>確かに言われてみればそうかもしれない。<br>　正式に付き合うことが決まったその日にファーストキスを済ませ、その1週間後にファーストＨも済ませた。<br>　取り敢えず今のところ関係は良好。問題なくやっている。<br>　夏樹以外の生徒の眼には、相変わらずユウの姿は映っていないが、それも全く気にならなくなった。<br>　恋の力とは凄いものだと、改めて実感した。<br><br><br>――4ヵ月後――<br>「ん？」<br>　登校して教室に入ると、すぐに違和感を覚えた。<br>　教室の空気がいつもと違っていたからだ。<br>　いつもの朝の教室はガヤガヤと騒がしく、ユウに視線を向けてくる生徒など1人もいないのに、今日は教室に入った瞬間、クラス中が静まり返り、生徒の視線が一斉にユウに向いた。<br>　ユウは少し戸惑いながらも、自分の席に向かおうと歩を踏み出した。が、3歩歩いた所で、その足がピタッと止まった。<br><br><strong>淫乱女</strong><br>　<br>　黒板に書かれた大きな3文字が、襲いかかるようにユウの眼に飛び込んできた。<br>　一体どういうことなのかサッパリ分らなかったが、黒板に書かれた3文字が、ユウに宛てられたメッセージである事だけは、瞬時に理解できた。<br>　ユウは黒板から眼を離し、自分の席に向かって歩を踏み出した。<br>　クラス中の視線がユウの動きに合わせて移動する。<br>「……」<br>　ユウの躰が机の前で石のように固まった。<br>　昨日までキレイだった机に書かれた、おびただしい数の落書き。その殆どはユウを罵倒する内容だったが、その中にＵＲＬと思われるアルファベットの羅列があった。<br>　ユウは無意識に携帯を取り出し、机に書かれたＵＲＬを打ち込んだ。<br>　暫くすると、画面が動画投稿サイトに切り替わった。<br><br><strong><font size="5">「!?」</font><br></strong><br>　ユウは携帯を持ったまま再び石のように固まった。<br>　一糸まとわぬ全裸の男女が、ベッドの上で激しく絡み合っている。<br>　そこに映っている男の顔にはモザイクがかかっていたが、ユウはその男が誰か、見た瞬間に分った。<br>　何故なら、そこに映っているモザイクのかかっていない女の顔が、自分だったからに他ならない。<br>――何これ……<br>　画面の向こうで、夏樹に攻められて嫌らしく悶(もだ)える自分の姿を、ユウは無言で見つめた。<br>　動画に映っている、大きなアストンマーティンのポスターには見覚えがある。<br>そこは紛(まご)うことなく夏樹の部屋だった。<br>　携帯を握る左手が小刻みに震える。<br>ユウはハッと我に返り、携帯の画面から目を引き離して顔を上げた。<br>おびただしい数の視線がユウの躰に集中している。<br>「……」<br>　動けなかった。まるで四方八方から無数の槍でくし刺しにされたように。<br>脇の下から冷たい汗が伝い落ちる。<br>ユウは鞄を引っ掴むと、逃げるように教室から出て行った。<br>　何が何だかサッパリ分らなかった。<br>何故自分と夏樹の性行為が、動画投稿サイトにアップされているのか？　混乱する頭をフル回転させてもさっぱり分らない。<br>　とにかく今は夏樹に事情を訊くことが先決。<br>夏樹なら何かしらの事情を知っている筈。<br>　ユウは怒濤(どとう)の勢いで階段を駆け上がった。今の自分が3年の校舎に入るのは、かなりの抵抗があるが、そんなことを言っている時ではない。<br>「いい感じで撮れてるだろ？」<br>　階段を上がりきった所で、ユウは足に急ブレーキをかけた。<br>「このアングルはきわどいなぁ」<br>「だろ？　この位置にバレずにカメラ仕掛けんの苦労したんだぜ」<br>　その声は間違いなく夏樹の声だった。<br>　ユウは壁に張り付き、曲がり角の向こうにいる夏樹にバレないように、耳をそばだてた。<br>「今までの投稿の中でも断トツじゃないか？」<br>「まぁ女優の質がいいからな」<br>「確かにルックスは今までのヤツとは比べものにならないな。俺も1回味見したいくらいだよ」<br>「じゃあお前にやるよ」<br>「え、いいのかよ？」<br>「あぁ、俺のお古でよかったらな」<br>「全然オッケーだよ。でもそう簡単にはヤラせてくれないだろ？」<br>「面白いほど簡単だ。アイツに普通に話しかければイチコロだよ」<br>「本当か？」<br>「あぁ、アイツみんなからシカト食らってるから人が恋しいんだよ」<br>　ユウの顔から潮が引くように赤みが失せていった。<br>「でもいいのか？　一応お前の彼女だろ？」<br>「冗談だろ？　施設の孤児なんかまともに相手するかよ」<br>「だよな。でも捨てるのはちょっと勿体なくね？」<br>「あの程度の女なんて合コンに行けば腐るほどいるよ」<br>「じゃあ、今度そのハイレベルな合コンのセッティングの方、宜しくお願いします」<br>「いいけど高いよ？」<br>　ユウは魂の抜けたような顔で階段を下り、そのまま学校を後にした。<br>　自分がどこに向かっているのか、どこに向かおうとしているのか、全く分らなかった。<br>　脳の支配から独立した足が勝手に動く。<br>気付くと近所の公園のベンチに座っていた。<br>嫌なことがあると、この公園のベンチに坐って何も考えずにぼ～、とする。<br>そうすると不思議と気持ちが安らいだ。<br>でも今日はなかなか心が安らがない。<br>厚い雲に覆われた空が、ユウの心を更に暗くする。<br>　結局何も変わっていなかった。<br>変わったと思っていたのは自分だけ。<br>そんな都合のいい展開など、そうそうある筈がないのに、それに気付けなかった自分は……やっぱりバカなのかもしれない。<br>「何やってんだろ……私」<br>　ユウは空に向かってポツリと呟いた。<br>　不思議と涙は出てこなかった。<br>　もしかしたら心のどこかで、こうなることが分っていたのかもしれない。<br>　だからなのか、思ったよりも悲しくなかった。<br>　ただ……バカな自分が少しだけ嫌いになった。<br><br><br>　その後時は過ぎ、ユウは高校へと進学した。<br>　鳳坂学園は中高一貫校なので、普通に学校に通っていれば、エスカレーター式で高校に進学できる。<br>だから受験勉強で苦労すことはなかった。<br>　でも……ユウは苦労してでも普通の高校に行きたかった。<br>自分の存在を当たり前のように認めてくれる……そんな普通の学校に。<br><br><br>　前方で揺れる赤い提灯が、ユウの瞳に寂しく映る。<br>　ユウは静かに眼を閉じた。<br>そして6年間の青春時代を綴った思い出のアルバムを、再び胸の奥に封印した。<br>「高校に行けば、もしかしたら何か変わるかなぁ、って少しだけ期待してたんだけど……何も変わんなかったぁ」<br>　ユウは眼を伏せて力なく笑った。<br>　脳裏に浮かぶ高校時代の自分の姿。<br>中学時代と同様に、誰にも相手されず、悄気(しょげ)返っている自分の姿が悲しく映る。<br>「友達なんてこれからいくらでも出来るよ」<br>　隣で黙って聞いていた俊介が穏やかに言った。<br>　ユウは和也の顔を思い浮かべた。<br>　人当たりのいい青年で、素直に好感が持てた。<br>　思い返せば始めはみんなそうだった。<br>　夏希……そして翔。<br>　始めはみんないい人だった。いや、厳密に言えばいい人を演じていた。<br>　間抜けな自分は、その演技を本物と錯覚し、偽物の幸せに酔いしれていた。<br>　演技の裏に隠された本性をもっと早くに見抜いていれば、もっとマシな人生を歩んでいたかもしれない。<br>「和也はな、養子なんだ」<br>「え……？」<br>　太鼓台を見つめながら俊介は更に言葉を続けた。<br>「アイツの本当の父親は4歳の時に事故で死んでしまってな、それから１年後くらいに母親が再婚してあそこの家具屋に嫁いだんだ」<br>「そうだったんだ……」<br>　ユウは改めて三橋家具店の看板に目をやった。<br>　他の家具屋の看板よりも一際大きな看板。<br>　よく見ると、少し小さな文字で『明治元年創業』と書かれている。<br>「だが……その再婚相手、つまり義理の父親っていうのと反りが合わなかったみたいでな、まぁ父親側にも子供がいたから色々贔屓されてきたんだと思う。そんな日頃の鬱憤が晴らされることなく溜まっていったんだろうな。中学の卒業式を2日後に控えた日の夜、アイツはとうとうブチキレて父親の顔面をクリスタルの灰皿で殴っちまったんだ」<br>「灰皿って……そんなもので殴ったら……」<br>「あぁ、もちろん大怪我だよ。眼窩底骨折で全治3ヶ月。立派な傷害事件だ。だから当然警察も動いた。そしてアイツは傷害罪で逮捕され、少年院に送られた」<br>「……」<br>「ヤクザの世界に身を投じたのは少年院から出てきて半年後くらいだったかな。本人はヤクザの世界に昔から憧れていて夢が叶ったって言ってるが、本心は違うと思う」<br>「本心……？」<br>「アイツは出てきてから毎日職安に通って仕事を探していた。でも就職には漕ぎ着けなかった。恐らく父親を殴った事件が噂となって尾を引いていたんだと思う。狭い街だからなここは」<br>「……」<br>「アイツはアイツなりに必死になって社会に手を伸ばし続けた。でも誰もその手を握ってくれなかった。そこで諦めてヤクザになっちまったアイツは、弱い人間の部類に入っちまうののかもしれない。だが、肩書きがヤクザになっても、アイツは昔から俺が知っている三橋和也のままだ。何も変わっていない。多分、これからも変わることがないと俺は信じている。だから……」<br>　俊介は足を止め、ユウに向き直った。<br>　ユウも足を止めて俊介に向き直った。<br>「アイツを友達として迎え入れても、お前を裏切ることはない。絶対にな」<br>　そう言いながら真剣な眼差しで見つめる俊介。<br>　不安に怯える心が徐々に安らいでいく。<br>　ユウは小さく微笑んだ。<br>「知ってるよ。だって私の直感もそう言ってるから」<br>「マジかよ……それならそうと先に言ってくれよ。シリアスに悩んでいた俺がバカみてぇじゃん」<br>「バカみたい？　何言ってんの？　元々バカんだから今更そんなこと気にしても仕方ないじゃん」<br>「な！？」<br>　絶句して固まっている俊介に向かって軽く微笑むと、ユウは再び歩き出した。<br>　今の平穏があるのは自分の直感を信じたお陰。<br>　ヤクザだろうと関係ない。そう、関係ないのだ。<br>　所詮は肩書き。人間性は肩書きでは推し量れない。<br>　この人はいい人だと、直感が教えてくれた。<br>　ならばその直感をもう１度に信じてみよう。<br>　きっと、今度もいい未来を運んでくれるハズ。<br>　そう信じて。<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　続く……</font>
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<link>https://ameblo.jp/sekt2330/entry-12099255786.html</link>
<pubDate>Tue, 24 Nov 2015 23:09:46 +0900</pubDate>
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<title>幸せの砂時計　８</title>
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<![CDATA[ 　　　<br>　　　　　　　　　　　　　　<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<font size="5"><strong>９</strong></font><br>　　　<br><font size="4">――10月――<br>　<br>　黒の腹掛に黒の股引。菊と牡丹の濃口シャツ。赤と白のねじりはちまき。<br>『祭』一文字が背中に入った赤い法被(はっぴ)。足には地下足袋。<br>　初めて袖を通した祭り衣装は、問題なく周りに溶け込んでいる。<br>　気合を入れすぎて、もしかしたら自分だけ浮いてしまうのではないかと心配したが、そんな心配は取り越し苦労だった。<br>　周りはみんな気合の入った祭り衣装に身を包んでいる。<br>　逆に自分の衣装が地味に見えるくらいだ。<br>「人がスゴいね……」<br>「年に一度の祭りだからな。そりゃあ人も集まるだろ」<br>　人、人、人、360度どこを見ても人だらけ。<br>　普段が静かな町なだけに、余計に多く感じる。<br>「人ごみって私嫌いだけど、この人ごみは何か好き」<br>「その気持ちは分からなくはない。俺も祭りの人ごみは嫌いじゃないからな」<br>「何でだろうね。同じ人ごみなのに」<br>「多分、熱気だろ。街の人ごみやテーマパークの人ごみにはない熱気がある。<br>いわゆる祭り空気ってやつだ」<br>「なるほど～確かに祭りの人ごみは熱気がすごいよね」<br>　夜の帳(とばり)に浮かぶ幻想的な灯火。<br>　無数の赤い提灯をまとった山車(だし)が、人波と一緒にゆっくりと進んでいく。<br>　２人は山車のスピードに合わせ、ゆっくりとした足取りで歩を進めた。<br>　和太鼓と篠笛が織り成す祭囃子に合わせ、揃衣(そろいころも)を身にまとった若者達が『わっしょい　わっしょい』と声を張り上げる。　<br>　いつもと違う町の空気に、ユウの心は激しく躍った。<br>　俊介から提灯祭りの話を聞いたのは、ちょうど１週間前。<br>　秋田の竿燈祭り、愛知の津島天王祭りと並ぶ、日本三大提灯祭りの１つで、300以上の提灯を取り付けた７台の『太鼓台』と呼ばれる山車が、長い列を成して町を練り歩く。<br>　そういう祭りが１週間後に開催される。<br>　そんな話を聞いたら当然見に行くしかない。<br>　元々祭りは好きだった。<br>　東京にいた頃も、何度か浅草の三社祭を見に行ったこともある。<br>　参加した訳ではない、ただ遠目から見ていただなのに、自然と心が躍った。<br>　その場にいる人達全員と、１つになれたような気分になった。<br>　多分、それが祭りの空気というものなのだろう。<br>「どうだ祭りは。楽しいか？」<br>　揺れる提灯の灯火を見つめながら、俊介が唐突に訊いてきた。<br>「楽しいに決まってるじゃない。そんなこと聞くまでもないでしょ」<br>「確かに……聞くまでもなかったな」<br>　楽しくない訳がない。<br>　スゴく楽しい。楽しすぎて胸が張り裂けそうなくらいだ。<br>　ただ楽しい気分とは別に、小さな違和感も感じていた。<br>　俊介の様子だ。<br>　表面上は楽しそうに振舞ってりうが、どことなくよそよそしい。<br>　自分は祭り衣装に身を包んでいるが、俊介はいつもの普段着。<br>　帽子を目深にかぶり、サングラスをかけているので、表情の全てが見えている訳ではない。、<br>　でもいつもと顔つきが違うように見える。微細だが緊張感も伝わってくる。<br>　思えば数日前から何となく様子が変だった。<br>　話をしてもどこか上の空。祭りに行くこと自体も、余り乗り気ではないように見えた。<br>　もちろんそれは単なる勘違いかも知れない。<br>　そう見えただけであって、そうである根拠は全くない。<br>　何気ない日常でも、気分がすぐれない日は自分にもある。<br>　理由もなく欝な気分になる。人間であれば、そういう気持ちの起伏があっても不思議ではない。<br>　だから敢えて俊介に尋ねることはしなかったが、それでもやっぱり違和感は拭えなかった。<br>「ちょっとここで待ってろ。友達に挨拶してくる」<br>「うん、分った」<br>　俊介は大きな提灯がぶら下がったテントに向かって歩き出した。<br><br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　<font size="4">★　　　　　　　　★</font><br><br>　竹の模様が入った藍色の揃衣に身を包んだ男が、テントの前で暇そうに煙草を銜えていた。<br>　俊介は真っすぐ男に歩み寄った。<br>「ヒマそうだな、和也」<br>「ん……？　あっ俊介！？　お前何やってんだこんな所で？」<br>　俊介の姿を見た男が、化物でも見たかのように眼を大きく見開いた。<br>「何って、祭り観に来たに決まってんじゃん」<br>　俊介がそう言うと、男が腕を掴んでテントの影に引っ張り込んだ。<br>「バカかお前は？　自分の立場分ってんのか？　こんなオマワリがゴロゴロいる所に出てくるなんて何考えてんだよ？」<br>「だからこうやって変装してきてる訳じゃん」<br>「変装って……ただ帽子かぶってサングラスかけてるだけだろ？」<br>「でも今俺に声かけられて、一瞬誰だか分らなかったろ？」<br>「まぁ、確かに。でも万が一……」<br>「大丈夫だって。俺はこう見えて運だけは強いんだ」<br>　そう言うと俊介はセブンスターを口に銜え、穂先に火を加えた。<br>「『フダ』が出でるっていうのに何ともふてぶてしい奴だ」<br>　和也が呆れた顔で溜め息を吐いた。<br>　太鼓台が徐々に遠のいていき、それに伴って人の波も徐々に引いていく。<br>「ところであの家の住み心地はどうだ？　古いから結構不便だろ？」<br>「いや、案外快適だぞ」<br>「本当か？」<br>「あぁ。同居人も大満足してるよ」<br>「同居人？　何だ同居人って？　お前誰かと一緒に住んでんのか？」<br>「あ～そういえば言ってなかったけ？　スマンスマン」<br>　俊介は軽い調子で謝り「あそこに立ってるちっこい女がその同居人だ」と言って、電柱に寄りかかり、足をプラプラさせているユウに向かって親指を立てた。<br>「あの赤い法被着てる子か？」<br>「そうだ、カワイイだろ？」<br>「いや、確かにカワイイけど……いくらなんでも未成年連れ込むのはマズイだろ？」<br>「ぷっ」思わず噴き出してしまった。<br>「アイツの前でその言葉は禁句だぞ。メッチャ気にしてるからな」<br>　童顔、チビ、この２つはユウの２大コンプレックスである。<br>　ユウの前でこの単語、もしくはそれに類する単語、あるいはそれらの単語に直結するようなことを口にすると、極めて高い確率でメンドくさいことになる。<br>「あの子お前の事情知ってんのか？」<br>「知ってるよ。警察に追われてることも知ってる」<br>「ん～まぁ知ってんならいいけど……しかし改めて見るとめっちゃカワイイなぁ。もしかして東京から連れてきたのか？」<br>「そうだよ。もしかして羨ましいのか？」<br>　勝ち誇ったかのように紫煙を吹く俊介に向かって、和也が苦虫を噛み潰した顔でチッと舌打ちをした。<br>「しかしこんな田舎までよくついてきたなぁ、一体どんなトリックを使って連れてきたんだ？」<br>「そりゃもちろん、愛さ」<br>　今度は和也が「ぷっ」と噴き出した。<br>「お前の口から『愛』なんて言葉が出てくるとは思わなかったよ。もしかして一発キメてんのか？」<br>「アホか。俺達は愛という名の絆で繋がってんだよ。冗談抜きでな」<br>「冗談抜きって……お前マジで言ってんのか？」<br>「あぁ、大マジだよ」<br>「……」<br>　和也の顔から表情が消えた。<br>　俊介はセブンスターを口に銜え、空に向かって長くゆっくりと紫煙を吹いた。<br>　数秒の沈黙を挟み、和也が徐(おもむろ)に口を開いた。<br>「馴初めとか……訊いてもいいか？」<br>「もちろん」<br>　俊介はユウとのこれまでの経緯を簡単に説明した。<br>「なるほど……じゃあ今はあの子と仲良くやってるんだな」<br>「まぁな。おかげさまで毎日を有意義に過ごさせて貰ってるよ」<br>　俊介は短くなった煙草を携帯灰皿に押し付けた。<br>「もしかして今日祭りに出てきたのは、彼女に祭りを見せるためか？」<br>　その問に答えるように、俊介は眼を伏せて力なく笑った。<br>「リスクを冒してまで彼女のために……か。お前変わったな」<br>「自分でもそう思っているよ」<br>　ユウと出会い、確かに何かが変わった。いや、変わったというよりは何かが芽生え始めた、と言ったほうが正しいかも知れない。<br>「だったらあの件は……」<br>「それとこれとは別だ」<br>　俊介は澱みなくキッパリと言った。<br>「でも……」<br>「和也、俺が今ココにいるのは何のためだ？　予定に変更はない」<br>「そうか……でもあの子はどうするつもりなんだ？」<br>　和也の視線がユウに向いた。<br>「……」<br>　無邪気な顔で、行き交う人達を眺めるユウの姿が、俊介の眼に切なく映った。<br>　彼女は知らない。<br>　自分の背中に宿るドス黒い闇も、この先に待ち受けている約束された未来も……。<br>「取り敢えずまだ時間はある。先のことはゆっくりと考えればいい」<br>　そう言うと俊介の肩をポン、と軽く叩いた。<br>「色々迷惑をかけて済まない」<br>「本当だよ。このカリはデカいからな？　いつか必ず返して貰うぞ」<br>「あぁ……必ず返すよ」<br>　俊介は少し遠ざかった太鼓台に視線を向けた。<br>　昔は自分もあの太鼓台に乗って太鼓を叩いていた。<br>　仲間と同じ揃衣を身にまとい、祭り囃子に合わせて声を張り上げる。<br>『ほらどっこい　ほらどっこい』と。<br>　あの頃は楽しかった。そんな陳腐な言葉が漏れそうになる。<br>　どんなに思い描いても、あの頃にはもう戻れない。<br>「あ、そうだ和也。ユウを紹介するよ。アイツお前にお礼を言いたがってたからな」<br>「お礼？　俺あの子に何かしたか？」<br>「まぁアイツの口から直接聞いてくれ」<br>　そう言うと俊介はユウに向かって手招きをした。<br>　手招きに気付いたユウが、少し遠慮がちにやってきた。<br>「ユウ、紹介するよ。こいつは和也。前に言ってた家と車の提供者だ」<br>「えっ？　あのボロ家の……あっ！？」言いかけて慌てて口を塞ぐ。<br>「そうだ。あの『ボロ』家の提供者だよ。『あんなボロ家あてがいやがって、ふざけんな』って文句言いたかったんだろ？」<br>「ち、違う！　あ、その、違うんです。ごめんなさい」<br>　しどろもどろの言葉を並べ、頭を下げるユウ。<br>「いいよいいよ、ボロ家って言われりゃ確かにその通りだしな」<br>「違うんです。私あのボロ、じゃなかったあの家すごく気に入ってるんです」<br>「あの掘っ立て小屋を？　本当か俊介？」<br>「バカだなぁ、からかわれてんのが分らねえのか？」<br>「何だ、からかわれてんのか……」<br>　少し大袈裟に和也が肩を落として項垂(うなだ)れた。<br>「ち、違う、誤解よ！　もう俊君は余計なこと言わないで」<br>　顔を赤くしてムキになる。思惑通りの反応。<br>　普段はクールな風を装っているが、実は単純で熱しやすく、ネコよりも好奇心旺盛で、子供以上に子供っぽく、純粋で不器用な性格であることを、俊介は知っていた。<br>「まぁコイツの言いたいことを代弁するとだな、人から見たらボロくて小汚い家だけど、そのボロくて小汚い家こそが、私の探し求めていた理想の家。ああいうボロくて小汚い家にずっとずっと住みたかったの。もう感動しすぎて死んでもいいくらい。そんな感動を与えてくれた和也君に心の底からお礼を言いたいの。有り難う。有り難う。本当に有り難う。私の夢を叶えてくれて感謝感激雨あられです。もう一生和也くんには頭が上がらないわ。一生ついていきます！　何だったらもう犬にしてください！　私は一生アナタの……」<br>「ちょ、ちょっと待って！　黙って聞いてれば何適当なこと並べまくってんのよ！？」<br>「ん？　何だ違うのか？　あのボロ家がすごく気に入ったから和也にお礼が言いたかったんだろ？」<br>「いや、それは……その通りなんだけど」<br>「その通りなら別にいいじゃん」<br>「でも何か後半おかしなこと言って……」<br>「お前がしどろもどろではっきりしないから俺が代弁してやったんだろ。感謝こそされぞ文句を言われる筋合いはないぞ」<br>「そ、そんなこと言ったって……」そう言いながら口を尖らせ、しどろもどろになる。<br>「ってことで、つまりそういうことだ和也」<br>　有無を言わさぬ口調で俊介は話を強引にまとめた。<br>「お、おう。そうか……そんなに気にいって貰えるとは思わなかったから俺はちょっと嬉しいぞ」<br>　照れたように和也が頭を掻いた。<br>「でも、ユウちゃんみたいな子が一緒に住むって分かってたら、もっとちゃんとした家探してたんだけどな」<br>「全然！　私本当にあの家気に入ってるんです。社交辞令とかじゃなくて本当に本当です」<br>　熱のこもった眼でユウが捲したてた。<br>「そ、そんなに気に入ってくれたんだ……」<br>　ユウの勢いに圧倒された和也がぎこちない笑みを作る。<br>「蓼(たで)食う虫も好き好きって言うだろ？　あんなボロ家でもコイツにとっては最高の家らしい」<br>「なるほど……世の中には色んな価値観を持った人がいるんだな」<br>「早い話が変わり者ってやつだ」<br>　俊介も始めの頃は、自分に気を使って、気に入っている風を装っているのかと思っていた。<br>　どの角度から見てもただのボロ家。いいところは１つも見当たらない<br>　そんなボロ家に魅力を感じること自体が、理解できなかったからだ。<br>　でも日を重ねるごとに、それが演技ではなく、本心であることが分かってきた。<br>　ユウの求める理想とは、多分見た目とかではないのだろう。<br>　平穏な環境。温かみのある空間。<br>　そういう環境と空間があれば、それが譬え、いつ倒壊してもおかしくないボロ家であったとしても、心から満足する。<br>　そんな風に今は理解してる。<br>「そうだ、今度ウチに遊びに来いよ。お前が最後に見たボロ家の時よりは、ちょっとはマシな趣になってると思うから」<br>「いいのか？　２人の時間を邪魔しに行くような気がしてならないんだが……」<br>「そんなことないよ！　ぜひ遊びに来て。俊君の友達なら大歓迎だし、色々話とか聞きたいから」<br>「ユウちゃんがそこまで言うなら……じゃあ今度折を見て遊びに行くよ」<br>「待ってる！」<br>　ユウの顔に満面の笑が広がった。<br>「来る時は連絡よこせ。うまいもの作って待ってるから」<br>「うまいもの？　お前が作んのか？」<br>「まさか。俺は基本的に料理はできない。作るのはコイツだ」<br>　そう言ってユウに向かって親指を立てる。<br>「へぇ～ユウちゃん料理が得意なんだ」<br>　ユウが少し誇らしげな顔で胸を張った。<br>「人間誰でも取り柄の１つくらいはあるだろ。まぁコイツはメシを作るのは確かにうまいが、あとはやかましいガキとさほど変わりな……いでででで」<br>　ユウの左手が俊介の尻をキツくつねりあげた。<br>「おい、どうした？」<br>「気にしなくていいよ。たまにこうやって奇声を上げるの。多分ストレスが溜まってるんだと思う」そう言って涼しい顔で微笑むユウ。<br>「あぁ～なるほど、大声出して溜め込んでるモノを吐き出すっていうアレか？」<br>「そうそう、前触れなく突然叫ぶから初めて見た人はびっくりするけど、１回見れば慣れるから」<br>　尻をさすりながら俊介は渋柿を食ったように顔をしかめた。<br>「あ、ちなみに和也さんは何が……」<br>「ストップ！」<br>　口を塞ぐように右手を前に突き出し、和也が言葉を遮った<br>「さん付けはご遠慮願いたい」<br>「え……でも」<br>「堅苦しいのは嫌いなんだ。和也でいいよ」<br>　そう言って人懐っこく笑った。<br>「ゴメン……私あんまり人を呼び捨てで呼んだことがなくて、その……慣れてないから」<br>　ユウが言いづらそうに眼を伏せて口ごもった。<br>「あぁ、そうなんだ……いや、俺の方こそゴメン。確かに言われてみれば初対面でいきなり呼び捨てはできないよな」<br>「違うの。ただ呼び捨てで名前を呼ぶのが慣れてないってだけで、だから……和君とかじゃダメ？」<br>「お～～和君全然いいよ！　むしろそっちの方がいい！　いいねぇ和君！　和君はこの呼び方を大層気に入ったよ」<br>　和也が満足そうに首を大きく縦に振った。<br>「で、さっき何か言いかけたけたよね？」<br>「ん？　あっ！　そうそう、和君は何が食べたいのかなぁって聞こうと思ったの」<br>「食べたいものか……」<br>　和也は腕を組んで天を仰いだ。<br>「ん～そうだなぁ……これから寒くなるから鍋とか食べたいかな」<br>「了解！　じゃあとびっきりの鍋作って待ってる！」<br>　溢れるような満面の笑みを作り、ユウが左手の親指を立てた。<br>「さて、そろそろ行ってみるか。太鼓台も大分先まで行っちまったしな」<br>「うん」<br>　囃子の音は微かに聞こえるが、太鼓台が通った道の先にはもう、赤い灯火は見えなかった。<br>「今日は最後まで見ていくのか？」<br>　ラッキーストライクに火をつけながら和也が訊いてきた。<br>「そうだな。せっかく来たんだから最後まで見ていこうと思う」<br>　隣でユウが嬉しそうに破顔した。<br>「そうか……こういう日は不審な輩もうろついてるから絡まれないように気をつけていけよ」<br>「あぁ」<br>　俊介は帽子のつばを少し下げた。<br>「太鼓台もう見えなくなっちゃったけど急がなくて大丈夫？」<br>「心配しなくても太鼓台はのろまだから、普通に歩いていけばすぐに追いつくよ」。<br>　ユウに向かって小さく微笑むと、俊介は遠い空を見つめた。<br>　祭りを見るのは恐らくこれが最後。<br>　来年の祭りはもう見ることはないだろう。<br>「よし、じゃあ行くとするか」<br>「うん、和君またね！」<br>　和也が柔和な笑顔で手を振った。<br>　２人はテントを後をし、太鼓台の軌跡をたどって歩を踏み出した。<br><br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　続く……</font>
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<link>https://ameblo.jp/sekt2330/entry-12096792774.html</link>
<pubDate>Wed, 18 Nov 2015 03:40:21 +0900</pubDate>
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<title>幸せの砂時計　７</title>
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<![CDATA[ 　　　　　　<font size="4"><br><br><br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　<font size="5"><strong>７</strong></font><br><br>「市街地って言っても何もないんだね」<br>「東京を基準にして見れば確かに何もないかもしれんな」<br>　家から市街地までは車で30分ほど。歩けば3時間以上はかかる。<br>　買い物などの用事がなければ、そう頻繁に来る機会はない所だ。<br>　この日、俊介がユウを市街地に連れてきた目的は、買い物ではなく観光。<br>　これから住む町を、ユウにもっと知って貰うため。知って貰った上で、更にこの町を好きに貰うため。<br>　そして願わくば、この町に骨を埋めてほしい。<br>　そういう思惑が俊介の中にはあった。<br>「この辺は町の中心部で、今歩いているこの商店街の通りが町のメインストリートだ」<br>「ここがメイン……なの？」<br>「何だ、文句でもあんのか？」<br>「いや、文句はないけど……うん、静かでいい所だね」<br>　寂れているという訳ではないが、だからと言って活気に満ちているという訳でもなく、至って普通の商店街の通り。それでもこの町では一番栄えている通りなのだ。<br>　2人は商店街通りから脇に入り、細い坂道を登っていった。<br>　この二本松という町は、南北を分断するように、西から東へ山が連なっている。<br>　山といっても300メートルにも満たない小さな山だが、それでも北から南、南から北へと行くためには、坂を登って下るという作業をしなければならない。<br>　坂の頂上にさしかかると、前方に石垣が組まれた城らしき建造物が見えてきた。<br>「ねぇ俊君あれ何？　お城？」<br>「あれは霞ヶ城だ。って言ってもあれは城じゃなくて門だけどな」<br>「お城じゃないの？」<br>「城自体は昔の戦で焼け落ちてもうない」<br>「じゃあ、あの門だけ焼け残ったってこと？」<br>「あれは30年くらい前にリメークで建てられたものだよ」<br>「へぇ～」<br>「元々あそこには二本松城っていう城があったんだけど、今はその城跡が自然公園になってるんだ。地元の人間は『お城山』って呼んでる」<br>「お城山？」<br>「お城が建っていた山だからお城山。分かりやすいだろ」<br>　石垣の上に建てられた白土壁の門。その門から左右に、石垣と白土壁で築かれた城壁が伸びている。<br>　そしてその城壁と門の後方には小高い山があり、その山の頂上には、大きな石垣が築かれていた。<br>「あの1番上の石垣は何なの？」<br>「あれは本丸の跡地だ」<br>「へぇ～ってことは、あそこに本当のお城が建ってたってことかぁ」<br>「そういうことになるな」<br>　ユウの眼が好奇心旺盛な少年の眼ようにキラキラと輝いた。<br>「行ってみるか？」<br>「うん」<br>　2人は坂を下り、本丸跡地へと向かった。<br><br><br>「近くで見るとこんなに大きいんだ……」<br>　眼前に聳(そび)える巨大な門を前に、ユウが呆然と口を開けた。<br>「そりゃあ城の門だからな。でかいのは当然だろ」<br>「確かに民家の門とは比較にならないわね」<br>　色々な角度からデジカメを構えるユウを、俊介はぼんやりと眺めた。<br>　初めて会った頃は、何にも関心を示さなかったのに、今ではどんなものに対しても、素直な心で関心を示すようになった。<br>　この地に来て、ユウは確実に変わった。いや、本来の自分を取り戻した、と言った方が正しいのか。<br>「何やってるの？　先に進むよ」<br>「おう」<br>　俊介は柔和な笑顔を作り、ユウの後につ箕輪門を潜った。<br>　今の季節は青々とした緑が山を覆っているが、これが秋になると、その緑が赤や黄色の色彩豊かな色に変わる。<br>　そして冬が過ぎ春になると、淡いピンク色が山全体を覆う。<br>　箕輪門を潜り、少し歩くと前方に池が見えてきた。<br>「あっ俊君、鯉がいるよ」<br>　池の中で優雅に泳ぐ鯉に向かって、ユウが人差し指を向けた。<br>「人が来ると餌が貰えると思って寄ってくるんだ」<br>「鯉って何食べるのかな？」<br>「基本的に雑食だから与えれば何でも食べるんじゃないか」<br>「じゃあガムも食べるかな？」<br>「う～んガムはさすがに食べないだろう。あれは口の中でクチャクチャするものであって、厳密に言えば食べるモノじゃないからなぁ」<br>「だよね」<br>　2人は池の縁をゆっくりとした足取りで歩き、更に奥へと進んでいった。<br>　細い山道を1歩1歩と登っていく。<br>　奥に進むにつれ、草木の匂いがより濃くなってきた。<br>「変わってないなぁ、この辺も」<br>　俊介は懐かしむように辺りを見渡した。<br>　ネコの額ほどの小さな原っぱが、なだらかな斜面の上に広がる。<br>「俊君は何度もここに来たことあるの？」<br>「何度もどころか毎日来てたよ。この辺一帯はガキの頃、遊び場として余すことなく有効活用してたからな」<br>　俊介は足元に落ちていた枝を拾い、少年がそうするように枝で葉っぱをパシ、パシ、と叩いた。<br>「そっか、ここが俊君の子供の頃の遊び場か……何か羨ましいな」<br>「そうか？」<br>「うん、こんな自然地帯でユウも思いっきり遊びたかった」<br>「それを言うなら俺も都会の摩天楼が羨ましかったよ」<br>「摩天楼？」<br>「よくドラマとかで高いビルの下を颯爽(さっそう)と歩くシーンがあるだろ？　あれがガキの頃は半端じゃなくかっこよく見えてさ。まぁ田舎にはあんな高いビルがないから余計にそう見えたのかもしれないけどな」<br>　そう言うと俊介は柔和な笑みを空に向けた。<br>　緑をまとった樹木たちが風に撫でられてサワサワと揺れる。<br>「お互い無いものねだりだね」<br>「本当だな」<br>　2人は更に上を目指して歩を進めた。<br><br>　<br>「うわぁ～～何なのこのだだっ広い景色は！？　前方1キロ圏内に障害物が1つもないんですけど！」<br>　眼前に広がる大パノラマを前に、ユウが興奮と歓喜の入り混じった声を上げた。<br>「なかなかいい眺めだろ？」<br>「うん、超いい眺め！　東京タワーでも同じような景色が見れるけど、あそこはガラスの壁に遮られてるからダメ。でもここにはその遮るモノが何にもない！　この開放感がたまらない！　もうこれは文句なしで超絶景認定だね」<br>　本丸跡の石垣の上からは、二本松の市街地が一望できた。<br>　ユウはデジカメを取り出すと、大パノラマに向かって何度もシャッターを押した。<br>「ボロ家はどっちの方角にあるの？」<br>「方角的には向こうだ」<br>　俊介は西の方に向かって人差し指を向けた。<br>　その人差し指に沿うように、ユウの顔も西に向く。<br>「全然見えないね」<br>「そりゃあ見えないだろう。ボロ家は山の向こう側にあるんだからな」<br>　俊介はセブンスターを口に銜え、その先端に火を加えた。<br>「ここに昔はお城があったんだよね？」<br>「そうだな」<br>　140年前、そこには立派な城があった。<br>　その城からは多分、小粋な町人達で賑わう城下町が一望できただろう。<br>　俊介はゆっくりと紫煙を吐きながら、横目でユウを見た。<br>　口元が小さく緩み、眼には穏やかな光が宿っている。<br>　好奇心に満ち溢れ、何にでも興味を示す。<br>　初めて会った時の、あのユウとは全くの別人だ。<br>　恐らくこれが本来のユウの姿なのだろう。　<br>　少しずつではあるが、確実に傷は癒えてきている。<br>　俊介は前方に視線を戻した。<br>　焦る必要はない。でも悠長(ゆうちょう)にはしていられない。<br>　時間は限られている。その時間内にユウの傷を完全に癒し、どんなことにも耐えられる強い心に鍛え上げなければならない。<br>　何があっても絶対に折れない心に。<br>　<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　<font size="6">♦　　　　　　♦</font><br><br>　本丸跡の石垣を下ると、2人は元来た道とは別の遊歩道に入った。<br>　蛇のようにくねくねとうねった細い道が、西から東へと続くこの遊歩道は、南北を分断する山の上を這うように続いている。<br>　距離は2.8キロ。普通に歩けば始点から終点まで大体45分はかかる。と案内板に書いてある。<br>　その案内板を、ユウは穴が空きそうなほど真剣な眼つきで見つめた。<br>　そして最後にデジカメで写真を撮る。また１枚、思い出が追加された。<br>　デジカメに保存された写真は、もう既に500枚を超えている。<br>　ユウにとってこの日見たものは、全てが思い出の対象だった。<br>　普通に生えている草や木も、何の変哲もないベンチや案内板であっても、その対象は同じ。　<br>　一歩ごとに変わる全ての景色を残しておきたい。<br>　思い出に対するそんな貪欲な気持ちが、間断なくユウの指にシャッタを押させた。<br>「あっ竹だ！？」<br>　鬱蒼(うっそう)と生い茂る竹林に向かって、ユウは興奮したように人差し指を向けた。<br>「うん、竹だな。もしかして珍しいのか？」<br>「うん」<br>　筍(たけのこ)ならスーパーの食料品売り場で見たことがある。もちろん食べたこともある。<br>　でも加工されていない、生きた大人の竹を実物で見るのはこれが初めてだった。<br>「これが竹かぁ……初めて見た」<br>　ユウは眼を輝かせながら、高々と伸びる竹を見上げた。<br>　サラサラと葉がこすれ合う音と共に、地上茎がギギッと軋む音が微かに聞こえた。<br>「俺は竹を初めて見たなんて言うヤツを初めて見たよ」<br>　半ば呆れたように俊介が言った。<br>「そんなこと言ったって初めて見たんだからしょうがないじゃん」<br>　そう言いながら口を尖らせる。<br>　実際に初めて眼にしたのだからそう言うしかない。<br>「お前はどんだけ都会っ子なんだよ」<br>「今はもう都会っ子じゃありません」<br>「じゃあ何だよ？」<br>「田舎っ子」<br>　ユウは可愛らしくニコッと笑った。<br>「竹も見たことないヤツが何を言い出すかと思えば……田舎っ子が聞いて呆れるな」<br>「うるさいうるさい、ユウが田舎っ子って言ったら田舎っ子なの」<br>　そう言うとユウは逃げるように大股で歩き出した。<br>　この遊歩道は、山の上にあることから、樹木の密集率は全体的に見て高い。<br>　そのため日差しの強い夏場であっても、鬱蒼(うっそう)と生い茂る樹木が、その日差しを何割かカットしてくれるので、汗の出やすい日であっても、『涼』を堪能しながら散歩をすることができる。<br>　そんな心地よい環境が整った散歩道を、2人はのんびりとしたペースで散策した。<br>「そういえば昔この近くに住んでた女子の家のベランダから、パンツ盗んだことがあったなぁ」<br>「ハ？」<br>　遠い青春時代を懐かしむように、俊介が唐突に呟いた。<br>「いや、別にそのパンツが特別欲しかった訳じゃないんだけどな」<br>「……」<br>　恐らくこういう時は、こういう時に合った適切な『ツッコミ』というのがあるのだろう。でも余りにも唐突に切り出されたことで、脳が暫しの間フリーズしてしまい、適切なツッコミを与えることができなかった。<br>「まぁ若気の至りってやつだな」<br>　まるで空に向かって話しているかのように、俊介が遠い眼で呟く。<br>「それはつまり……自分が変態だってことを言いたい訳？」<br>「それは大きな勘違いだ。俺は決して変態なんかじゃない」<br>　女のパンツを盗んでおいて、自分は変態じゃないと言う。<br>　今に始まったことではないが、時々俊介はこういうおかしなことを言ったりする。<br>「変態じゃないなら何なのよ？」<br>「普通の人だよ」<br>「普通の人はパンツなんて盗まないよ」<br>「バ～カ俺が本気でパンツなんか盗むと思うか？」<br>「盗んでないの？」<br>「盗んだよ」<br>「やっぱり盗んでるんじゃない！？」<br>　俊介にいいように振り回されている自分が、だんだん情けなくなってきた。<br>「パンツは盗んだけど別にパンツが欲しくてやった訳じゃないんだよ」<br>「じゃあ何のために盗んだのよ？」<br>　俊介は天を仰ぎ頭をひねった。<br>「ノリ……かな？」<br>「ノリ？　ノリでパンツ盗んだって訳？」<br>「うん」<br>　呆れてものが言えないとは、多分こういう場面に直面した時に言うのだろうと、この時ユウは思った。<br>「俺の通ってた中学の女子っていうのがね、パンツ見られたくないからか着替えるのが面倒臭いからかは知らんけど、とにかく制服のスカートの下に短パン履いてるヤツが多くてさ、でもそんな中で1人だけ、頑として短パンを履かなかったヤツがいたんだよ」<br>　そう言うと俊介は、再び遠い眼で空を見つめた。<br>「男子の立場で言わせて貰うなら、あれは素晴らしい女子だったね。まぁ言うなれば、男子の心を本当の意味で思いやる女子ってやつかな。あれは多分彼女の信念だったんだと思う」<br>「……」<br>「まぁ思春期真っ只中の健全な中学生ならば、そんな素敵女子がいたら、もっと深くその女子を知りたい！　的な思いが生まれるのは至極当然の事じゃん」<br>「だからパンツ盗んだの？」<br>「うん」<br>　呆れすぎて言葉も出ない。ユウはやるせない顔でため息を吐いた。<br>「ちなみに言えば俺１人でやった訳じゃないからな。友達数人とでちょっとしたノリで決行しただけだ」<br>「え、１人でベランダに忍び込んだんじゃないの？」<br>「バカ野郎。１人でパン泥なんてやったらそれこそ変態になるだろ？」<br>――何人でやろうとパンツ盗んだ時点で変態なんだけど……<br>「盗んだって言っても、あとでちゃんと返しに行ったし、お詫びの品も置いてきたし」<br>「お詫びの品？」<br>「あぁ。盗んだお詫びとしてパンツと一緒にとんがりコーンをベランダに置いてきたんだ」<br>「……」<br>　もし自分がパンツを盗まれたとして、その数日後に盗まれたパンツと一緒に、とんがりコーンがベランダに置いてあったら、自分ならどうするだろうか……？<br>――食べる？　いや、いくら何でもソレはないだろ。<br>――じゃあ警察に届ける？　う～んそこまでするのもなぁ……<br>――じゃあ捨てる？　う～ん捨てるのも何か勿体ないような気も……<br>――じゃあ飾っとく？　それもそれでどうだろうか……？　もし飾って置いたとして誰か来た時に『あのとんがりコーンは何？』って訊かれたら返答に困ると思うし……<br>「ユウ」<br>「えっ」<br>　ユウは弾かれたように顔を上げた。<br>「どうしたんだ？　何かスゴく難しい顔してたけど」<br>「え、別に何でもないよ」<br>　ユウはくだらない妄想劇を頭から追っ払った。<br>「まぁ別にいいけどね、仮に俊君がド変態の本性を秘めてたとしても、ユウはそんなに気にならないし」<br>「気にならない？」<br>「うん、だって今とそんなに変わんないでしょ？」<br>　ユウは涼しい顔で言った。<br>「お前……今まで一体どういう眼で俺を見てたんだよ」<br>「まぁまぁ、そんな細かいことはいいじゃん、ユウはどんなことがあっても俊君のことは嫌いにはならないからその辺は心配しなくていいよ」<br>　そう言うとユウは大手を振って歩き出した。<br>　唄うような野鳥の囀(さえず)り。木の葉が擦れ合う音。蝉の鳴き声。<br>　それらが１つに混ざり合い、心地よく耳を癒す。<br>　上を向いても下を向いても360度回っても、視界から緑が途切れない。<br>　そんな最高の環境の中を、大好きな相方と一緒に歩く。<br>　これ以上に幸せな一時はないだろう。<br>「この辺も昔はよくチャリンコで走ったなぁ」<br>　のんびりと足を前に運びながら、俊介が懐かしむように呟いた。<br>「俊君の実家ってここから近いの？」<br>「ここから歩いて４～５分のところだ」<br>「そうなんだ、ちょくちょく帰ったりしてるの？」<br>　ユウは高く伸びる樹木を見上げながら訊いた。<br>「帰ってないよ。家そのものはもう火事でなくなったし」<br>「あっ」<br>　ユウの脳裏に無残に焼け爛(ただ)れた俊介の背中がサッと過(よぎ)った。<br>「ごめん……」<br>「謝るってことは、俺に何か悪いことでもしたのか？」<br>「そ、そういうわけじゃ……」<br>　ユウは眼を伏せながら口ごもった。<br>　そんなユウの頭の上に、俊介の手がポン、と乗った。<br>「カタチあるものはいずれ壊れるんだよ」<br>　覇気のない笑みを作りながら、俊介は宙に話しかけるように言った。<br>　その笑みを見た瞬間、胸に焼き鏝(ごて)を当てられたような痛みが走った。<br>　根拠はない。漠然ともしない。全く見当違いかも知れない。<br>　でも、その痛みが自分の未来を暗示しているような……そんな気がしてならなかった。<br><br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　続く……<br></font>
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<link>https://ameblo.jp/sekt2330/entry-11973118502.html</link>
<pubDate>Sun, 04 Jan 2015 16:47:27 +0900</pubDate>
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<title>幸せの砂時計　６</title>
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<![CDATA[ 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<font size="5"><strong>★　　　　　　　　★</strong></font><br><br><font size="4">「この車で行くの？」<br>「あぁ、なかなか渋い車だろ？」<br>　相棒の肩を叩くように、俊介はボンネットをポンと叩いた。<br>　納屋の中で眠るように停まっているその車は、何の変哲もないライトバンだった。<br>　白いボディは薄らと赤茶け、フェンダー周辺には乾いた泥がこびりついている。<br>　恐らくこの家の元家主が、野良仕事で使っていたのだろう。<br>「これ俊君の車？」<br>「まさか。こいつはダチが用意してくれた車だ。ちなみにボロ家もソイツの提供だ」<br>「へぇ～そうなんだ」<br>　運転席に俊介が座り、その隣にユウが座る。<br>　俊介は慣れた手つきでギアーをローに入れると、サイドブレーキを下ろした。<br>　納屋から抜け出した車が、ゆっくりと砂利道を下っていく。<br>「その友達いい人だね」<br>「まぁガキの頃からの腐れ縁だからな」<br>　俊介はハンドルを握りながら遠い空を見つめた。　<br><br>『これでまた１つ貸しができたな』<br><br>　腐れ縁の言葉が脳裏に蘇る。<br>　今ここで、こうして行動ができるのも全ては腐れ縁のおかげ。<br>　だがそれと引き換えに、借りも大分溜まってしまった。<br>　やるべきことはまだ残っているが、そろそろ返していかなければならない。<br>　砂利道を下り終えると、車は陽の沈む西に向かって走り出した。<br>　<br><br>「このワンピースどうかな？」<br>　パステルピンクのワンピースを躰に合わせ、ユウが意見を求めてきた。<br>「うん、いいと思うよ」<br>「本当？　でもこっちのワンピースも捨て難いんだよねぇ」と言いながら、今度は花柄のワンピースを躰に合わせる。<br>　女と買い物に行くと、無駄に時間がかかるとよく言うが、全くその通りだと俊介は思った。<br>　ショッピングセンターに来て、もうかれこれ２時間近く、ユウの服選びに付き合っている。<br>『元がいいんだからどれ着ても似合うよ』と言えば、ぱっぱぱっぱと選んでくれるかと思ったが、そうは問屋が卸さなかった。<br>『元がいい』という部分は素直に喜んでくれたが、『どれ着ても似合う』という部分は、キッパリと否定された。<br>　別にあからさまな嘘を言った訳じゃないし、ユウなら実際に何を着ても似合うと思う。でも『そんなマネキンみたいな人間はいません』と一喝された。<br>　自分の中に、妥協できない『こだわり』みたいなモノでもあるのだろう。<br>　ただ単純に優柔不断なだけなのかもしれないが。<br><br><br>「随分買ったなぁ」<br>「うん、何か見てたら次から次と欲しくなっちゃって……でもこんなに買っちゃって本当によかったの？」<br>「いいも何も今着てるヤツ洗濯したら着る服がないだろ」<br>「確かにそうだけど……」<br>「まぁ裸でいても俺は気にしないけどな」<br>「いや、そこは気にしてよ」<br>　買った荷物を1度車に積むと、次に雑貨コーナーで日用品を見て回った。<br>「あっこのマグカップカワイイ！　ねぇ俊君、これよくない？」<br>　やる気なさそうなカワウソが『ま、そのうちいいことあるよ……たぶん』と元気づけているマグカップを手に取り、ユウが眼を輝かせた。<br>「何だこのカワウソ？　メッチャやる気なさそうだな」<br>　俊介もマグカップを手に取った。<br>「うん、このやる気ゼロのヌボ～っと感がツボ！　こっちの黒いのが俊君で、白いのが私。どうかな？」<br>「悪くはないな」<br>「でしょ？　このマグカップで毎日牛乳飲んだらいいことありそうじゃない？」<br>「そうだな」<br>　マグカップを買ったくらいでいいことが起これば、みんな挙(こぞ)ってマグカップを買う。でもそんな愚のもつかないことを信じて、物を買うのも悪くはないと俊介は思った。<br>　日用品、雑貨については、家を出る前に買い物リストを作ってきてたので、滞りなくスムーズに買い物が進んだ。<br>　それでもショッピングモールを出る頃には、陽は完全に沈んでいた。<br><br><br>「ハァ～疲れた……」<br>　ぐったりとした躰を投げるように、俊介は畳の上に大の字になった。<br>　買い物から帰ると、買ってきた掃除用具を手に取り、そのまま部屋の掃除に取り掛かった。<br>　まず手始めに、至る所に巣食ったクモの巣を払い落とし、蓄積された綿ゴミを履き取り、壁や柱などに生えた黒カビを丹念に拭き取った。<br>　窓は全開に開けていたが、それでもおびただしい量の埃が飛び回り、瞬く間に黄土色の霧が屋内に充満した。<br>　電気は通っていたので、陽が沈んでも掃除に差支えはなかった。ただ、光に誘われてやってきた虫達が、縦横無尽に頭上で飛び回るのが少しだけ鬱陶しかった。<br>　細かいゴミを履き取り終えると、次に畳を下ろした。<br>　藁床なので１枚１枚がかなり重く、ユウの華奢(きゃしゃ)な腕では、とても扱える代物ではなかった。なので俊介が畳を敷いていき、その後を追うようにユウが畳の表を雑巾で拭いていった。<br>　無心で掃除に取り組む2人。その額には、オレンジの粒のような汗が光っていた。<br>　掃除を始めて3時間後、充満していた黄土色の霧も晴れ、取り敢えず畳の上に大の字になれるくらいまでキレイになった。<br>「これでちょっとは人が住めるレベルになったね」<br>　額の汗を拭いながら、ユウは畳の入った茶の間を見渡した。<br>「そうだな。あとは買ってきた荷物を下ろすだけだ」<br>　食料、寝具、生活家電や、その他細かい日用品など、今日一晩過ごす上で必要なモノは、取り敢えず買い揃えた。<br>　明朝にはリサイクルショップから購入した、大型の家電、家具類が届けられる。<br>　掃除もまだ完全には終わっていないので、明日も１日中、忙しく動き回ることになるだろう。<br>　無音の茶の間にグゥ～という音が、控えめに鳴り響いた。<br>「あぁ……そういばお腹すいてたのすっかり忘れてた」<br>　ユウが思い出したように呟いた。<br>　時計を見ると、夜の10時を大きく回っていた。<br>　思えば新幹線で弁当を食べてから10時間、水以外何も口に入れていなかった。<br>「ちょっと遅くなったが晩飯にするか。今日は特別に俺が作ってやるよ」<br>「え、俊君料理できるの？」<br>「ラーメンを茹でるくらいのレベルなら何とかね」<br>　ラーメンが食べたい！　というユウの要望に応え、買い物の際に喜多方ラーメンを買ってきた。<br>　喜多方ラーメンが福島の名産であることを告げると、ユウが貪欲なブラックバスのように食いついたのだ。<br>「じゃあ今日だけ頼もうかな。明日からは私が作ってあげるね」<br>「私が作ってあげるって……任せても大丈夫なのか？　ちなみに俺は毎日インスタントでも全然文句を言わない奴だぞ」<br>「インスタントって……バカにしないでよ！？　これでも家庭科だけはずっと『5』だったんだからね」<br>　腰に手を当ててこれでもかというくらいに胸を突き出すと、ユウは誇らしげに小鼻を蠢(うごめ)かした。<br>「へぇ～そいつは楽しみだな。ちなみに家庭以外はどうだったの？」<br>「そ、それはまぁ、家庭科ほどではないけどそれはそれで……」<br>　誇らしげな顔が次第に萎(しな)びてゆく。<br>「あぁ～なるほど。その様子から察するに、他の教科に使うべき能力が全て家庭科にいってしまったって口だな」<br>「いや、そういう訳じゃ……」<br>「まぁまぁまぁまぁ、みなまで言わなくていい。１つの教科が特化し過ぎて他の教科がダメになる。よくある話だ」<br>　俊介は『気にするな』という意味を込めて、ユウの肩を軽く2回叩いた。<br>「何か誤解してるみたいだけど、私はそもそも学校で教えるアノ勉強スタイルが嫌いだったの。成績に縛られて奴隷みたいに机にかじりつく、アノやらされてる感が好きになれなかった。ただそれだけのことよ」<br>「ふ～ん……まぁ言わんとしてることは何となく分かるような気もするけど、それでも成績が悪かったことを否定しないってことは、取り敢えず俺の推論は当たってたってことだな」<br>「う、うるさい！　ていうか人のこと言えないでしょ。私より数倍バカのくせに」<br>「はぁ？　俺がユウより数倍バカ？　オイオイ笑わせんなよ。本当のことを指摘されたかからって根拠のないデタラメを並べるのはよくないぞ」<br>　俊介は呆れ果てた顔でせせら笑った。<br>「真顔で自分のことをIQ180以上とか言ってる時点で、十分に根拠になると思うけど」<br>「な、何でそれが根拠になるんだよ」<br>「え、何？　もしかして本当にIQ180以上あるっていうの？　IQ180って言ったら普通の人の半分以下の勉強量で余裕で東大に入れるレベルだよ？　俊君は自分の頭にそんな常人とかけ離れた天才的な脳みそが詰まってるって、シャレじゃなく冗談抜きの本気のマジの大真面目に言ってる訳？」<br>「いや、それは……」<br>「IQの数値と自分の身長の数字を間違えてるんじゃない？　もうその時点でバカ決定じゃん」<br>　苦虫を噛み潰した顔で押し黙る俊介を指さし、ユウが勝ち誇ったように声を上げて笑った。<br>「もうね、自分を偽るのはやめなさい。いくら偽っても、生まれ持ったバカという名の根っこは隠せないんだから」<br>　そう言いながら、憐憫を帯びた眼で俊介の肩を優しく叩く。<br>「テメーこの野郎！？　言わせておけば調子に乗りやがって」<br>　俊介は眼を吊り上げてユウに掴みかかった。が……<br>「おっと」<br>　その俊介の手をひらりとかわし、ユウは飛び跳ねるように縁側から外に飛び出した。<br>「あのバカ裸足で……」<br>　唖然とする俊介を尻目に、ユウはわんぱく坊主さながらに裸足で土の地面を駆け回った。<br>「悔しかったらここまで来て捕まえてみろバ～～～カ」<br>　そう言いながらあっかんべぇをする。<br>　笑顔が溢れている。見ていて気持ちがいいくらいの満面の笑顔が、俊介の心に深く浸透した。<br>　自分と出会わなければ、今もこの笑顔は封印されたままだったろう。<br>「まるでガキだな……」<br>　俊介は呆れた顔に笑みを浮かべ、小さく溜め息を吐いた。<br>　<br>　<br>　年季の入った振り子の柱時計から、ぼーんぼーんと12回鐘が鳴った。<br>　年季の入った無垢の木のこたつやぐら。年季の入ったくたびれた扇風機。<br>　朝になれば、新たに年季の入ったダイヤル式のテレビが加わる。<br>　年季の入った家の空間に合うように、敢えてレトロな調度品を揃えた。<br>　全てはユウの強い要望だった。<br>　何をどう気に入ったのかは分からないが、何故かユウはこの家を大層に気に入ってしまった。<br>　もちろん気に入って貰えるに越したことはないのだが、ただただボロいだけのこの家のどこにそんな魅力があるのか、俊介は未だに分からなかった。<br>「もう12時かぁ」<br>　俊介は腰に手を当ててググッと半身を逸らした。<br>「明日も早いし、そろそろ寝ようか」<br>「そうだな。てか本当にあの部屋でいいのか？」<br>「うん」<br>　ユウが笑顔で頷いた。<br>「そうか……まぁユウがいいって言うならそれでいいけど」<br>　茶の間は真ん中に掘りこたつがあるので、布団が敷けない。<br>　なので3畳間をユウ、4畳半を俊介という風に割り当てた。<br>　最初は俊介が3畳間を使うと言ったのだが、ユウが自分から3畳間でいいと言ったのだ。<br>　3畳間は下地板が腐っていたため、そのまま畳を敷けば床が抜ける恐れがあった。<br>　なのでホームセンターで檜板を買ってきて、下地板を補強した。<br>　簡易的な補強ではあるが、すぐに床が抜ける危険性はなくなった。<br>　本来ならこの上に畳を敷くところだが、3畳間の畳は全て、湿気を含み過ぎてぶよぶよに腐っていた。<br>　こればかりは交換する以外にどうすることもできないので、取り敢えず畳を交換するまでの間、下地板の上に直接ゴザを敷いて対処することにした。<br>「あんなボロボロのカビ臭い部屋に寝かすのは何か気が引けるんだがなぁ……」<br>「気にしなくていいよ。ボロボロでカビ臭いのはどこの部屋も同じだし、それに元々私は居候の身だしね」<br>「一緒に汗だくになって掃除したのに今更居候なんて水臭いこと言うなよ。付き合いはまだ１日だけど、これから同じ屋根の下で同じ釜のを食うんだ。ユウはどう思ってるか分からないけど、少なくとも俺はユウのことは家族だと思ってるぞ」<br>　そう言うと俊介はユウの肩をポン、と叩いた。<br>「ありがとう」<br> 　眼を伏せたままユウが穏やかに微笑んだ。<br>「まぁ今日は色々あって疲れただろうからゆっくり休め」<br>「うん」<br>　2人はゆっくりとした動きで同時に立ち上がった。<br>「じゃあ俊くん、おやすみ」<br>「おやすみ」<br>　ユウは笑顔を残したまま、襖(ふすま)を静かに閉めた。<br>　茶の間の電気を消すと、俊介も自分の床に就いた。<br>　安物の布団だが、ホテルのベッドよりは寝心地が良かった。<br>　静寂がボロ家を包み込む。<br>　俊介は仰向けになりながらも眼をつぶらず、静かに天井を見つめていた。<br>　当初の予定では、この家には1人で来るハズだった。<br>　1人で来なければならないハズだった。<br>　だがユウと出会ったことで、その予定は大きく狂ってしまった。<br>　ここで予定が狂うということは、この先の予定が狂う可能性も当然出てくる。<br>　1人で来なければならないと分っていたのに、何故そうしなかったのか……。<br>　俊介の脳裏に、13時間前のユウの姿が甦った。<br>　生気を失ったガラス玉のような死んだ眼。<br>　そんな死んだ眼をしていた人間を、俊介は1人知っている。<br>　そしてその眼を持った人間が、どれほどの絶望感と苦しみを背負っているのかも。<br>　ユウのその眼を見た瞬間、俊介の胸に何かが宿った。<br>　うまく説明ができない何かが。色々な思いが詰まった何かが。<br>　俊介は眼を閉じ、これから先のことを考えた。<br>　これから先、自分がやらなければならないことを。<br>　絶対にやり遂げなければならないことを。<br>――このままユウと一緒にいても……<br>　<br>　<strong>俊君</strong><br><br>――ん？<br>　俊介はゆっくりと眼を開けた。<br>　リーンリーンと鳴く鈴虫の声が、心地よく耳に届く。<br>――空耳……か<br>俊介は再び眼を閉じた。<br>「俊君、もう寝ちゃった？」<br>――ユウ……？<br>　俊介は半身を少し起こし、声のする方に視線を向けた。<br>　襖が15センチほど開いている。その襖の向こう側に、ユウが俯きながら立っていた。<br>「どうした、眠れないのか？」<br>「うん……もしかして寝てた？」<br>「いや、俺も何か寝付けなくてゴロゴロしてた」<br>「じゃあさ、眠くなるまでちょっと夜更かししない？」<br>　そう言うとユウは、両手に持った缶ビール2本を顔の前で軽く振った。<br>　買い物の際に何本かカゴに入れていたのを、今になって思い出した。<br>「酒持参か」<br>「うん、縁側で一緒に飲もうよ」<br>　屈託のないユウの笑顔を見て、何かが吹っ切れた。<br>　この先に待っている未来。そんなものは誰にも分らない。<br>　大切なのは眼の前にある『今』という時間を大切にする事。<br>　だから今はあれこれ考えるのはやめよう。<br>「よし、じゃあささやかな引越し祝いでもやるか」<br>　俊介は床から出て縁側に腰を下ろした。<br>　その隣にユウも腰を下ろす。そしてお互いにビール缶を手に取り、軽く乾杯をすると、2人は喉を鳴らしてビールの苦みを堪能した。<br>「わぁ～星が出てる」<br>　空を見上げながらユウが歓喜の声を上げた。<br>「今日は天気が良かったからなぁ」<br>　縁側に手をつき、俊介も空を見上げた。<br>　黒い風呂敷に、数えきれないほどの宝石を鏤(ちりば)めたような……そんな星空が、視界一面に広がる。<br>「この星空がずっと見たかったの」<br>　ユウが呟くように言った。<br>「東京じゃ地上の光が強過ぎて、星が出ててもよっぽど眼を凝らさないと見えないからなぁ」<br>　俊介はセブンスターを口に銜え、先端に火を加えた。<br>　東京のどす黒い空とは一線を画した、鮮やかな星空。<br>　田舎育ちの俊介にとっては見慣れた空であったが、都会育ちのユウには感動に値する空なのだろう。<br>　少女のように眼を輝かせているユウを横目で見ながら、俊介は小さく破顔した。<br>「1つだけ、俊君に言っておきたいことがあるんだけど……いいかな」<br>「何だ？」<br>　一拍の間を置き、ユウが徐(おもむろ)に口を開いた。<br>「実はね、俊君のことが好きになっちゃったみたいなの」<br>　表情を変えずに淡々とそう言うと、ユウはゆっくりとビール缶を口元で傾けた。<br>　窓辺に吊り下げていた風鈴が、夜風に撫でられてチリン、チリンと涼を奏でた。<br>「そいつは奇遇だな」<br>「奇遇？」<br>「実は今同じ単語をユウに言おうかと思ってたところだったんだ」<br>「ホント？」<br>「あぁ。本当にタッチの差だったよ」<br>「チッ、だったらもう少し待ってればよかった」<br>　ユウが悔しそうな顔を作り、指をパチン、と鳴らした。<br>「でもね、何となく想いは一緒かなぁ、って思ってたんだ」<br>「ホントかよ？」<br>「何となくだけどね。だからその何となくを確かなものにするために、今告白したの。善は急げって意味も込めてね」<br>　そう言いながらユウは穏やかな笑みを浮かべた。<br>　何となくほっとした時に出るような……そんな笑みを。<br>「もし違ってたらどうするつもりだったんだ？」<br>「別にどうもしないよ。そっか……で終わったと思う」<br>「そっか……」<br>　夜風に撫でられた風鈴が、再び涼しげな音色を奏でた。<br>　和やかな空気が２人の周りを緩やかに包み込んだ。<br>「ねぇ、いつからユウのこと好きになったの？」<br>　夜空を見つめながらユウが尋ねてきた。<br>「そうだなぁ、今になって考えてみると、多分バッティングセンターの前で初めて会った時からだと思う」<br>「それって俗に言う一目惚れってヤツ？」<br>「そういう事になるな」<br>　俊介は夜空に向かってゆっくりと紫煙を吐いた。<br>　自分が人を好きになる。全くもって滑稽だった。<br>　そんな人間らしい感情がまだ自分にも残っていたことに、素直な驚さえあった。<br>「私もね、こう見えて結構惚れっぽいんだよね」<br>「そうなのか？」<br>「うん。俊君が翔をブッ飛ばした時に完全にスイッチが入ったみたい」<br>「意外と単純だな」<br>「うん……多分生まれつきそういう単純な脳みそなんだろうね」<br>　力なく笑うユウの顔に少し影が過った。<br>「類は友を呼ぶ……ってヤツか」<br>「え……？」<br>「俺も生まれつき脳みそが単細胞だからな」<br>　ユウの顔に再び柔和な笑顔が戻った。<br>　縁側で星空を見上げながらビールを飲む。身近で得られる小さな幸せの一時。<br>　もし普通の人生を歩むことができるなら、その小さな幸せはやがて、一生心に残る宝物になるだろう。<br>　普通の人生を歩むことができるなら……。<br>「10年後……俊君の隣には誰がいるんだろうね」<br>「さぁな、先の事なんて誰にも分らねぇよ」<br>「だよね」<br>　過去は変わらない。しかし未来は変わる。今この瞬間の選択次第で、如何様にも変えることができる。<br>　譬え約束された未来であったとしても。<br>「10年後、ユウが隣にいれば申し分ないんだけどな……」<br>「大丈夫！　10年、いや50年後もきっと、俊君の隣にはユウがいるよ」<br>　そう言ってニコッと笑い、俊介の眼を見つめる。俊介も同じ笑顔で見つめ返す。<br>　2人はどちらからともなく、ゆっくりと唇を重ねた。<br>　<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　続く……<br></font><br>　　　　　　　　<br><br>　　　　　　
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<link>https://ameblo.jp/sekt2330/entry-11972401672.html</link>
<pubDate>Fri, 02 Jan 2015 21:21:31 +0900</pubDate>
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<title>幸せの砂時計　５</title>
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<![CDATA[ 　　　　　　　<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<font size="5">　<strong>５</strong></font><br><font size="4"><br>　東京駅から新幹線に乗ること、1時間30分。<br>　そこから各駅電車に乗り換えて20分。　<br>　2人は目的地の福島県二本松市に到着した。<br>「ここから結構距離あるけどタクシーで行くか？　それとも歩いて行くか？」<br>「距離ってどのくらい？」<br>「向こうにでかい山が見えるだろ」<br>「うん」<br>　俊介の人差し指に誘導されて西に眼を向けると、一際大きな山が視界に飛び込んできた。<br>「あの山の裾野だ」<br>「なるほど……じゃあ大したことないわね。天気もいいし気合を入れて歩きましょう」<br>「大したことないって……山がでかいから近く見えるかもしれないけど、歩けば余裕で2時間以上はかかるぞ」<br>「2時間？　じゃあやっぱり大したことないじゃん」<br>「マジかよ……言っとくけど途中でへばってもタクシーは拾えないからな」<br>「大丈夫！　これでも体力には自信がある方だから」<br>　ユウは腰に手を当て、軽く胸を張った。<br>　静かな田舎道をのんびりと歩く。<br>　旅番組などでよく見るその光景に、子供の頃から憧れていた。<br>　都会で生まれ、都会で育った自分にとっては無縁の世界。<br>　だからこそ憧れも人一倍強かった。<br>　いつか自分の足で行ってみたい。<br>　胸の中で膨らむその思いは、いつしか憧れから夢へと変わっていった。<br>「こんなクソ暑い中を歩きたいなんて、なかなかの変わり者だな」<br>「変わり者はお互い様」<br>「何だお互い様って？　一緒にされるのは些か心外だな」<br>「心外に思うのは勝手だけど、私をこんなところまで連れてきた時点で、貴方は既に変わり者認定よ」<br>　苦虫を噛み潰したような顔で俊介が『ふん』、と鼻を鳴らした。<br>　翔と出会い、夢は1度は幻となって消えた。<br>　でも再び蘇った。それも不確かな夢ではなく、確かな現実へと生まれ変わって。<br>　ユウは興奮に震える気持ちを足に宿し、弾むように歩を踏み出した。<br>　少し遅れて、ガラガラというキャスターの音が後ろからついてきた。<br>　無意識に深呼吸をしてしまうほどに、空気がおいしい。<br>　息を吸い込むたびに、肺が浄化されるようだ。<br>　排気ガスにまみれた東京の空気など、もう2度と吸いたくない。<br>　いや、もう吸うこともないだろう。<br>　走り出した気分をぐっと堪え、ユウは一歩一歩を味わうように、足を前に出した。<br>「お店が1軒もないね」<br>「市街地に行けば色々あるぞ」<br>「色々って？」<br>「色々って言ったら色々だよ。コンビニとか、本屋とか、服屋とか……」<br>「それだけ？」<br>「それだけって……それだけあったら上等だろ？」<br>「フフ、確かに上等過ぎるね」<br>　青々とした稲穂が揺れる田園地帯。その向こう側に連なる小高い山々。<br>　高い建物が周りにないだけで、こんなにも大地が広く見える。<br>「おい、歩くペースが早ぇぞ。もうちょっとのんびり行こうぜ」<br>「なに年寄りみたいなこと言ってんの。若いんだからさっさと歩く歩く」<br>　後ろでブツブツ文句を言う俊介に構わず、ユウはどんどん歩調を早めた。<br>　視界に広がる緑の景色が眼を癒し、仄かに漂う草木の匂いが鼻を癒し、夏を奏でる蝉時雨(せみしぐれ)が耳を癒す。<br>　ここはまさに桃源郷だ。<br>　歩が進むにつれ、ユウの顔の輝きが少しずつ増していった。<br>「私ね、ずっと田舎に憧れていたの」<br>「田舎に？」<br>「うん。小さい時に1回だけ家族で田舎に旅行に行ったことがあるんだけど、その時にすごく感動した記憶が今でも残ってるんだ」<br>「へぇ～、どんな感動？」<br>「それがね……実はあんまり覚えてないんだ」<br>「覚えてない？　感動したのにか？」<br>「うん。当時はまだ4歳だったからね。星空が綺麗だったこととか、鮮明に覚えてるものもあるんだけど、それ以外にも数え切れない色々なものに感動したハズなの。だからもう1度田舎に行って、その感動を全部蘇らせたいってずっと思ってたんだ」<br>　散らばった思い出のピース。<br>　それが全て集まり、ひとつの思い出として完成した時、何かとても大切なことを思い出せそうな……漠然だけどそんな気がした。<br>「感動ねぇ……これから行く所は山と田んぼしかないから、そんな感動が蘇るとは思えんが、まぁ過剰な期待はするなよ」<br>「それは無理。もう既に期待で胸がはち切れそうだもの」<br>　そう言うとユウは、青く澄みきった空を見上げた。<br>　燦々(さんさん)と降り注ぐ紫外線が眼にしみる。<br>　体感的には暑いのに、暑さを全く感じない。不要な苛立ちも全く覚えない。<br>　あれほど嫌っていた夏の暑さが、今は不思議と心地よく感じる。<br>「東京生まれの東京育ち。俺がガキ頃は逆にそういうのに憧れてたけどな」<br>　タオルハンカチで汗を拭いながら、俊介も空を見上げて眼を細めた。<br>「東京育ちって言っても、私の場合は半分の人生が施設暮らしなんだけどね」<br>「施設って……もしかして親いないのか？」<br>「うん、私が8歳の時に両方とも事故でね……」<br>「そっか……色々苦労してきたんだな」<br>「まぁね。ほかに身寄りがなかったから取り敢えず施設に入れられたの。小学生じゃホームレスになっても食っていけないしね」<br>　ユウは眼を伏せて力なく笑った。<br>　惨めな雨に晒(さら)されていた青春時代。<br>　思い出したくない過去の記憶が朧(おぼろ)げに蘇る。<br>「私にとって東京は辛い思い出しかない。だからもう2度とあそこには戻りたくない」<br>　緩やかな夏風に撫でられた稲穂が、ゆらゆらと揺れる。<br>　全てに於(お)いて忙しなく動いていた2時間前の風景と比べると、まるで時間が止まっているかのように見えた。<br>「思い描いていた理想的な田舎かどうかは分からんが、取り敢えず傷が癒えるまでこの土地で暮らせばいい。ここにはユウを苛める輩はいないし、東京の不良もここまでは追ってこないだろう」<br>「うん……そうさせて貰う」<br>　これは自分に与えられた最後のチャンスかも知れない。<br>　どんなに悔やんでも過去は変えられない。だから振り返らない。<br>　過去に囚われず、自分を偽らず、今を一生懸命に生き、そして未来を切り開く。<br>　そうすればきっと幸せを手に出来るハズ。そう信じる。<br>　ユウの中で止まっていた時間が、5年振りに動き出した。<br><br>　　　　　　　　　　　　　　　　<font size="5">★　　　　　　　　★</font><br><br>「ここが今日から住む家？」<br>「そうらしいな」<br>　眼の前に立つ平屋の木造建造物を、2人は呆然と見つめた。<br>　年季の入った焼杉板の外壁の上に、苔の生えたネズミ色の瓦屋根が覆いかぶさっている。<br>　築年数は恐らく、100年以上は経っているだろう。<br>　時代感を醸し出す民家、とは少し違う。<br>　それは譬えるなら、貧乏な農民が100年前に建てた掘っ立て小屋が、奇跡的に台風や地震に耐え抜き、満身創痍でかろうじて建っている。そんな感じの表現が適切だろう。<br>「俊君」<br>「何だ？」<br>「気に入った」<br>「え……？」<br>「私はこの家を気にいった！」<br>「き、気に入ったって……この家をか？」<br>「他にどの家があるのよ」<br>「いや、それは……」<br>「ここまでボロいと逆に清々しいわ。てか、ボロすぎて逆にテンションが上がるんですけど！」<br>　歓喜の声を上げながら、ユウが庭の方へ走っていった。<br>　予想外の反応に、俊介の眼が驚きに見開いた。<br>　この家を見た瞬間、ユウのがっかりする顔が脳裏をかすめた。<br>　ひきつった笑みを浮かべ、当たり障りのない感想を述べる。そう予想していた。<br>　自分が逆の立場なら、間違いなくそういう反応をしていただろう。<br>　でも蓋を開けてみたらその逆だった。<br>　予想を裏切り、子供のようにはしゃぐユウの姿を見て、俊介は小さく肩を撫で下ろした。<br>　実際にこの眼で見るまでは、俊介自身も自分の住む家が、どんな趣(おもむき)の家なのか分らなかった。<br>　分っていたのはボロい家である事。それだけは事前に情報として得ていた。が……ここまでボロいとは正直思っていなかった。<br>「俊君ちょっと来て」<br>「どうした？」<br>　俊介は声のする方へ歩いて行った。<br>「スゴいよ俊君、井戸だよ井戸！？」<br>　顔を紅潮させて井戸を指さすユウ。相当興奮している。<br>「ほぉ～今時釣瓶(つるべ)式の井戸なんて珍しいな」<br>　俊介は井戸の蓋を開けて中を覗いた。その横からユウも首を伸ばす。<br>　暗くて底はハッキリ見えないが、外の光に反射する揺れる水面の様子は確認できた。<br>「水は枯れてはいないみたいだな」<br>「飲めるかな？」<br>「う～んどうだろ？　長いこと使ってなさそうだからなぁ」<br>「だったらちょっと汲み上げて飲んでみようよ」<br>「飲んでみようって……この井戸の中の水をか？」<br>「他にどの水があるのよ」<br>「いや、飲むのはいいけど、ヘタしたら便所から暫く出てこれなくなるぞ。それでもいいのか？」<br>「望むところよ」<br>　ユウは腰に手を当てて鼻息を吹いた。<br>「そうか……そこまで意志が固いなら仕方ない。じゃあちょっと汲み上げてみるか」<br>　取り敢えず飲めるかどうかは別として、生活用水に使えるかどうかを調べる必要はある。<br>　この家で生活していく以上、それはとても大事な事。<br>「この木のバケツを井戸の中に放り込んで汲み上げればいいんだよね？」<br>　丸い木の桶を左手に持ち、ユウが好奇心に溢れた顔を輝かせる。<br>「バケツじゃなくて釣瓶だ。まぁいい、ちょっと貸してみろ」<br>「貸さない。ユウがやるんだから」<br>　釣瓶を小脇に抱え込んで、口をへの字に曲げるユウ。<br>　その様子はまるで、玩具を絶対に渡すまい、と頑(かたくな)になる子供のようだった。<br>「おいおい大丈夫か？　この井戸結構深いから釣瓶と一緒に落っこちても俺は助けられんぞ」<br>「あのね、１つ言っておくけど私はこう見えて運動神経は相当いいのよ」<br>　俊介は薄ら笑いを浮かべて『へぇ～』と相槌を打った。<br>「何そのバカにしたような反応は？」<br>「いやいやバカにはしてないよ。ただ意外だなって思っただけだ」<br>「井戸の水くらい簡単に汲めるわよ。もう速攻で汲み上げてみせるわ」<br>　そう言いがら憤然と鼻息を荒げる。<br>「そうか、そいつは失礼しました。ではお願いします」<br>「任せなさい！」<br>　自分の胸をポンと叩き、ユウは釣瓶を井戸の中に放り込んだ。<br>　釣瓶の落下するスピードに比例して、井戸の真上に取り付けてある滑車も、同じスピードでカラカラと音を立てて回転する。<br>　程なくして井戸の底からポチャン、と水の跳ねる音が聞こえた。<br>「じぁあ汲み上げるわよ」<br>　井戸縄を握るユウの両手が、ゆっくりと交互に上下し始めた。<br>　その動きに合わせて滑車もゆっくりと回る。<br>「大丈夫か？」<br>「うん、そんなに重くないから」<br>「あっそ……」<br>　俊介は自然を装いながらユウの真後ろに立った。<br>　そして、そ～っと両手を前に出すと、ユウの両脇腹を指でチョン、と突ついた。<br>「あっ」<br>　ユウの手から井戸縄が離れた瞬間、滑車が高速で逆回転した。<br><br>　<strong>ボチャン</strong><br><br>　井戸の底から大きく水の跳ねる音が聞こえた。<br>「あぁごめん。ちょっと脇腹に虫が止まってたからさ。取ってあげようと思ってね」<br>「……」<br>　鬼の眼つきで睨むユウの視線から逃げるように、俊介はあさっての方を向いた。<br>　フ～～っと大きく息を吐き、ユウが再び井戸縄を握った。<br>　一定のリズムを刻んで滑車がゆっくりと回る。<br>　俊介は再びユウの真後ろに立った。<br>　そして再びユウの脇腹に向かって手を伸ばす。が、その瞬間、ユウの顔がサッと後ろに向いた。<br>　俊介は慌てて手を引っ込め、あさっての方を向いた。<br>「何慌ててんの？」<br>「別に」<br>「もしかしてまた虫でも止まってた？」<br>「あ、あぁ……でもすぐに飛んでいっちまった」<br>　そう言いながらぎこちなく笑う。<br>　警戒心に満ちたユウの眼が井戸に向き、再び滑車がゆっくりと回る。<br>　そして釣瓶を少し引き上げ、また振り返る。<br>　そんな動作を5回ほど繰り返しながらの1分後、釣瓶が漸(ようや)く地上に帰還した。<br>　水の入った釣瓶を井戸枠の縁に乗せると、ユウは左手で額の汗を拭った。<br>「お疲れさん。お、結構水がきれいだな」<br>　長いこと使われてなかった井戸の水とは思えないほど、釣瓶の中の水は澄んでいた。<br>「これはもしかしたら普通に飲めるかもしれんな」<br>　そう言いながら俊介は釣瓶に向かって手を伸ばした。が……<br><br>　<strong>パシッ</strong><br><br>「イテッ」<br>　釣瓶に届く前にユウの左手によって叩き落された。<br>「これはユウが苦労して汲み上げた水です」<br>　そう言って俊介を睨みつけると、ユウは釣瓶に手を伸ばし、中の水を口に含んだ。<br>「ん～～～冷たくておいしい」<br>「本当か？　どれ」<br>　俊介は再び釣瓶に手を伸ばした。が……<br><br>　<strong>パシッ<br></strong><br>「イテッ」<br>　釣瓶に届く前にまたしても、ユウの左手によって叩き落された。<br>「これはユウが苦労して汲み上げた水です」<br>「……」<br>　ユウは再び釣瓶に手を伸ばし、井戸水を口に含んだ。<br>「あ～～～おいしい」<br>　恍惚(こうこつ)の笑みを浮かべながら、手の甲でグイッと口元を拭う。<br>「俺にも飲ませてくれよ。炎天下の中歩きっぱなしで喉がカラカラなんだよ」<br>「え、もしかして飲みたいの？」<br>　わざとらしく切り返すユウに、俊介は無言で頷た。<br>「どうしても飲みたい？」<br>　再び頷く。<br>「そんなに飲みたいのかぁ……あ、ちなみにこれはユウがク・ロ・ウして汲み上げた水です」<br>「分かってるよ」<br>「だったら何か言うことあるんじゃない？」<br>　余計なちょっかいがなければ苦労せずに済んだ。<br>　だからその辺をきっちりさせない限り、水は絶対に飲ませない。というユウの腹の内がひしひしと伝わってきた。<br>　俊介は小さく溜め息を吐くと「水汲みご苦労様です。それと水汲みの邪魔をしてすいませんでした」と言って、深々と頭を下げた。<br>「宜しい」<br>　満足そうにユウが大きく頷いた。<br>「水、飲んでも宜しいですか？」<br>「もちろん！」<br>　俊介は釣瓶に手を伸ばし、水をすくって口に運んだ。<br>　程よく冷えた地下水が、乾いた喉に深く染みわたった。<br>「ん～～何のだこの水は！？」<br>「おいしいでしょ？」<br>　俊介は無言で頷き、再び水をすくって飲んだ。<br>　そして一息つく間もなくまたすくって飲む。<br>　ユウも横から手を伸ばして飲み始めた。<br>　気付くと鶴瓶の中の水は半分以下にまで減っていた。<br>「あぁ～生き返った」<br>　手の甲で口元を拭うと、俊介は天を仰いで一息ついた。<br>「でもびっくりだよね。こんなに古い井戸なのに水が全く枯れてない上に、その水がこんなに澄んでるなんてね」<br>「もしかすると、ここの井戸神様は俺達が来るのを待っていたのかもしれないな」<br>「井戸神様？」<br>「厳密に言えば水神様かな。昔から井戸には水神様が宿るって言われてて、むやみに井戸を潰したりすると、水神様が怒って災いを引き起こすっていう、まぁ昔の人が作った迷信だと思うけどな」<br>「私は迷信じゃないと思う。その証拠に、ずっと使われてなかった井戸なのに水がこんなに澄んでいるじゃない。これは絶対に水神様のお陰だよ」<br>「俺もそれは正直驚いてる。まさか本当に飲めるとは思わなかったからな」<br>「さっき俊君が言った通り、私達が来るのを水神様は待ってたのよ。来てからすぐに飲めるように水をきれいしてね」<br>「ってことは、俺達は水神様に歓迎されてるって受け取っていいのか」<br>「歓迎されてると思うよ。そう信じましょう」<br>「そうだな」<br>　2人は静かに佇むボロ家を見つめた。<br>　見れば見るほどボロかった。<br>　3匹の子ブタに出てくるオオカミの一吹きで、簡単に吹っ飛ばされそうなほどに。<br>　でも、何故か心が休まる。そんな不思議なボロ家だった。<br><br>　　　　　　　　　　　　　　　　<font size="6">　♦　　　　　　♦</font><br><br>　立て付けの悪いガラス戸を開けると、眼の前にがらんどうとした空間が広がった。<br>　ユウは眼を輝かせながらランダムに視線を移動させた。<br>　濃厚なカビの臭いが鼻腔を刺激したが、全く気にならなかった。<br>　恐らく湧き上がる高揚感が、この家にまとわりつくマイナス要素を、全てプラス要素に変換してくれたからだろう。<br>　お陰で視界に映る全てのモノに心が奪われた。<br>「中もくたびれ感が半端ないね」<br>「取り敢えず雨風くらいは凌げるだろ」<br>　靴を脱ぐ土間の広さは畳約1枚分。<br>　踏み固められた土がそのまま剥き出しになっている。<br>　眼の前に広がるこの空間は、恐らく茶の間として使っていたのだろう。<br>　真ん中には木枠に囲われた正方形の穴があり、中には燃え尽きた豆炭が灰となって積もっている。<br>　昔ながらの豆炭こたつだ。<br>　壁に立てかけてある長短不揃いの藁床(わらどこ)の畳と、豆炭こたつの面積で計算すると、茶の間の広さは恐らく3畳くらいだろう。<br>　茶の間として使うにはかなり狭い作りだ。<br>　2人は土足のまま上がり框(かまち)を上がった。<br>　茶の間の左隣には2畳スペースの台所がある。<br>　所々が欠け落ちたタイル張りの流し台が、時代を感じさせた。<br>　台所の勝手口から5歩ほど進んだ所には風呂場と便所がある。<br>　薪を燃やして沸かす五右衛門風呂に、汲み取り式の便所。<br>　どちらも時代を感じさせる。<br>　茶の間を横切り奥へ進むと、続き間で4畳半の部屋があり、その左隣に3畳の部屋がある。<br>　3畳間からはそのまま台所にも抜けられた。<br>　茶の間と4畳半は南側に面していて、日当たりは良好。<br>　あちこちカビは生えていたが、さして問題視するほどではなかった。<br>　逆に3畳間は北側に面しているので、日当たりは最悪。<br>　そのせいか湿気が酷く、カビも4畳半の軽く10倍以上の量で繁殖していた。<br>　壁に立てかけてある畳も黒く変色し、床が完全に腐てるのは近寄らなくても見て分かる。<br>　おまけに畳を支える下地板も、あちこちが腐食しているので、このまま畳を敷いても、人間の体重を支えるのは厳しいだろう。<br>　ユウは洞窟を探検するかのように、上下左右至る所に眼を走らせた。<br>　歩くたびに床が軋み、眠っていた埃が飛び起きたように舞う。<br>　見れば見るほどボロい。でも心が躍った。<br>　こんなにボロくて汚い家に、今日から住まなければならないのに、興奮が止まらなかった。<br>　一通り見て回ると、ユウは茶の間に戻った。<br>「あらかた見て回ったけど、人が住めるように整えるのは結構骨が折れそうだね」<br>「そうだなぁ……障子や畳の張替えとか下地板の修繕とかやることは山積みだが、まぁ追々やっていくよ。幸いなことに時間だけはたっぷりとあるからな」<br>「そうだね。じゃあ取り敢えず部屋の掃除から始める？」<br>「いや、その前に生活していく上で必要なモノを買い揃えないとな。もう夕方だから早くしないと店が閉まってしまう」<br>「確かに言われてみれば、掃除するにも掃除用具もないから掃除もできないよね」<br>　家の中には何もなかった。<br>　箪笥(たんす)も冷蔵庫も布団もない。<br>　あるのは蓄積された綿ゴミと、部屋の四隅に張られた蜘蛛の巣だけ。<br>「じゃあこれから買い物に行くの？」<br>「行かなきゃメシも食えないだろ」<br>「うん。でも私あんまりお金持ってないけど大丈夫？」<br>「俺の職業をもう忘れたのか？」<br>「え？」<br>　俊介の視線が足元にある2つのボストンバッグに向いた。<br>　ユウもボストンバッグに視線を落とした。<br>　このバックは、俊介がボロ家の屋根裏から引っ張り出してきたもので、中に何が入っているのかは、もちろんユウは知らない。<br>　俊介が薄い笑みを浮かべ、ボストンバッグのチャックを開けた。<br><br><strong>「！？」</strong><br><br>　ユウの眼が飛び出さんばかりに大きく見開いた。<br>　多分、それは新聞紙の束ではないだろう。<br>　バッグの中には、本物と思われる福沢諭吉の束が、ぎっしりと詰まっていた。<br>「言っただろ？　俺は詐欺師だって。詐欺師の収入はデカいんだぜ」<br>　確かにそこにある現金の額は、常識的な次元を明らかに超越していた。<br>　普通のサラリーマンがこの額を稼ごうとしたら、恐らく10年、20年では無理だろう。　<br>「本当に詐欺師だったんだ……」<br>　正直に言うなら、半分冗談だと思っていた。<br>　だから今更ながら驚きが隠せなかった。<br>「軽蔑するか……俺のこと？」<br>「え……？」<br>　俊介の顔から突然笑みが消えた。<br>「な、何で軽蔑するの？」<br>　ユウは言葉に詰まりながら尋ねた。<br>「詐欺師ってのは人が大事にしているモノを騙して奪い取る商売だ。この金もそうやって溜め込んだものだ。最低だと思うのが普通の人間の思考だと思うがな」<br>　確かにこれだけの額を手にしているということは、相当な数の人間を騙してきたということになるのだろう。<br>　俊介の言う通り、それが事実なら最低な人間になる。<br>　でも何故だろう。この男が人を騙している姿が、どうしても想像できなかった。<br>　むしろ人を騙すことに対して、憤りを感じているように見えた。<br>「そんなの私には関係ないよ」<br>「え？」<br>　俊介の顔に微かな驚きが過ぎった。<br>　ユウはまっすぐ俊介の眼を見つめ、徐(おもむろ)に口を開いた。<br>「私を自由にしてくれたのは誰？」<br>「……」<br>「詐欺師だろうが人殺しだろうが、今私の眼の前にいる人は、私にとって大切な恩人なんだよ？　その恩人に対して軽蔑なんてしたら、それこそバチが当たっちゃうよ」<br>　そう言うとユウは、溢れんばかりの屈託のない笑顔を作った。<br>「そうか……そう言って貰えるなら助かる。ありがとう」<br>　眼を伏せ、力なく笑う俊介。<br>　気のせいかもしれないが、俊介の眼が一瞬冥(くら)く陰ったように見えた。<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　続く……　</font><br>　　　　　　
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<link>https://ameblo.jp/sekt2330/entry-11972151050.html</link>
<pubDate>Fri, 02 Jan 2015 07:37:52 +0900</pubDate>
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<title>幸せの砂時計　４</title>
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<![CDATA[ <font size="4">――5ヵ月後――<br><br>「ホスト？」<br>「うん、近い将来に事業を起こそうと考えてるんだけど、そのためにはある程度のまとまった資金が必要なんだ」<br>　そう言いながらマルボロを口に銜(くわ)え、ゆっくりと紫煙(しえん)を吹く翔。<br>　ブルガリブラックの甘い香りに混じって、一瞬眼の痛くなる辛い匂いが鼻先を掠めた。<br>　激しい躰のぶつかり合いを終え、ユウは熱気の帯びたベッドの中で、翔と一緒に余韻に浸っていた。　<br>「手っ取り早く稼ぐにはホストしかない。もちろんユウも応援してくれるよな？」<br>　熱意のこもった真っ直ぐな眼が、ユウの心を激しく揺さぶった。<br>「それはもちろん応援はするけど……」<br>　複雑な気持ちが、歯切れの悪い言葉となって口から漏れ出た。<br>「心配すんなって。ホストになっても俺はユウ以外の女には尾は振らないよ。それとも俺のことが信用できないか？」<br>「そんな訳ないじゃん。信用してるよ」<br>　そう言うとユウは、程よく引き締まった細い躰に絡みついた。<br>　ブルガリブラックの甘い香りに混じって漂う、本来の翔が醸し出す野性的な体臭が、休息していた性欲に再び火を付けた。<br>　今の自分にできることは翔を愛し、翔の夢を応援し、そして翔を信じること。<br>　これは唯一無二のパートナーである自分にしかできないことであり、自分でなければ意味がない。<br>　翔なら大丈夫。こんなにも自分を愛してくれているのだから。<br>　ユウは心の中で何度も自分に言い聞かせた。　<br><br><br>――2週間後――<br><br>　エレベータの扉がゆっくりと開いた。<br>　ピンクのロングドレスに身を包んだキャバ嬢と、ほんのりと顔を赤く染めた中年男が寄り添うように出てきた。<br>「適当にその辺で飲んでるから終わったら連絡しろよ」<br>「うん、分かった。終わったら連絡するね」<br>　だらしなく顔の筋肉を弛緩させる中年男に向かって、小悪魔的な笑顔を作るキャバ嬢。<br>　鼻につく香水の匂いと、粘着質なアルコール臭を撒き散らす2人とすれ違い、ユウと翔は無人のエレベータに乗り込んだ。<br>　男2人が小走りでエレベータに向かってきたが、扉は待つことなく静かに閉まった。<br>　翔の人差し指が『閉』ボタンから『７F』ボタンに移動する。<br>　エレベーターがゆっくりと上昇した。<br>「翔君、私あんまりお金持ってないけど大丈夫？」<br>　不安そうに見つめるユウに向かって、翔が柔和に微笑んだ。<br>「心配しなくても俺が奢ってやるよ」<br>「でも……本当にいいの？」<br>「もちろん！　俺はユウの彼氏だぜ？　相方の財布を苛めるようなことを俺がする訳ないだろ」<br>『俺の働いているところを見たくないか？』と翔に言われたのは2日前。<br>　本音を言えば接客とはいえ、他の女達と仲良くしている翔の姿は、できれば見たくはない。<br>　だが自分の知らないところで、翔が他の女達と仲良くしているのは、それはそれで神経が削られる。<br>　翔が実際に働いている姿を見ることで、胸の中で渦巻いている不安が、少しでも払拭できるなら……そういう思いとの葛藤を重ねた末、本日翔の働くホストクラブを視察することに至った。<br>　恐らく翔も、不安になっている自分の心中を察して、誘ってくれたのだろう。<br>　だが、ホストクラブという、未知の世界に足を踏み入れることに対しては、また別の不安もあった。<br>　テレビなどでよく見るホストクラブの風景は、どの角度から見ても、自分には場違いな世界にしか見えない。<br>　自分みたいな人間が、本当に足を踏み入れていいのか……。<br>　隣に翔がいるとはいえ、正直一抹の不安は隠せなかった。<br>　そんな不安を読み取ったのか、翔が無言で唇を重ねてきた。<br>　ユウも翔の肩に腕を回し、それに応えた。<br>　上昇していたエレベーターが止まり、ゆっくりと扉が開いた。<br>「さぁ着いたよ」<br>　翔に促され、ユウはエレベーターから降りた。<br>　黒の大理石調パネルで覆われた通路を少し進むと、煌(きら)びやかなゴールドプレートの看板に刻まれた<br><br>　<font size="5"><strong>ｃｌｕｂ　ｌｕｍｉｎｏｕｓ</strong></font><br><br>　という文字が眼に飛び込んできた。<br>「何か緊張してきた」<br>「緊張なんかする必要ないよ。俺が隣にいるんだからな」<br>　そう言ってユウの頭を優しく撫でると、翔はレザー張りの分厚い扉を開けた。<br>『ウェルカムプリンセ～ス』<br>　ホールで接客する全てのホストが、ユウに向かって歓迎の意を浴びせてきた。<br>　取り敢えずポカンと口を開くしかなかった。<br>　そこに広がる光景は、18年の人生の中で見た、どの光景よりも異様だった。<br>　タイトなスーツに身を包んだ男に群がる女達。<br>　担当のホストに甘える者。テーブルに飾りボトルを並べて女王さまの如く踏ん反り返る者。ヘルプのホストを玩具(おもちゃ)にして遊んでいる者。ガールズトークに花を咲かせている者。独りでポツンとしている者。テレビで得ていた情報を、遥かに凌駕した非現実的な世界に、ただただ呆然と口を開くことしかできなかった。<br>「大丈夫？」<br>「えっ？」<br>　翔の声でハッと我に返った。<br>「何か魂が抜け出ちゃったような顔してたから……」<br>「あ、うん大丈夫」<br>　こわばる顔に無理やり笑顔を貼り付ける。<br>　ユウは霧散しかけた意識をがむしゃらに掻き集めた。<br>「じゃあ行こうか」<br>「う、うん」<br>　翔の後ろについてホールを横切る。<br>　ホストの視線、客の視線、いくつもの視線が躰にまとわりつく。<br>　この場から逃げ出したい、という衝動に駆られたが、グッと我慢した。<br>「ここが姫様のお席になります」<br>　ボックスソファーに右手を差し向け、大仰しく翔がお辞儀をする。<br>　ユウは強ばった笑顔を作りながら、ゆっくりとソファーに腰を下ろした。<br>「焼酎でいいよね？」<br>「うん」<br>　慣れた手つきで鏡月の水割りを作る翔を、ユウは興味深げに見つめた。<br>「本当は未成年者は入店できないんだけどね」<br>「え、そうなの？」<br>「一応お酒を提供するお店だからね。でも今回は俺の女ってことでユウだけ特別にフリーパスにして貰ったんだ」<br>「そうなんだぁ、何かユウだけ特別扱いなんて他のお客さんに悪いね」<br>　そう言いながら満更でもない笑みを浮かべる。<br>「他の客はただの客、ユウとは立場が違うんだよ」<br>　張り詰めた弦のように緊張していた顔の筋肉が、翔の言葉で、伸びきったゴムのように弛緩した。<br>　この中には多分、翔を目当てで来ている客もいるだろう。<br>　でも客はあくまでも客。自分とは立ち位置が違う。<br>　湧き出る優越感が、更に気持ちを高揚させた。<br>「じゃあ乾杯するか」<br>「うん」<br>　翔がグラスを手に持ち、ユウもグラスを手に持つ。<br>　<br>　<strong>カチン</strong><br><br>　2つのグラスが小さくぶつかる。<br>「初めてのホストクラブのご感想は？」<br>「ウ～ン何て言ったらいいんだろう……よく分からないけど気分は悪くないかな？」<br>「うん、気分が悪くないならそれでいい」<br>　翔は『満足』の二文字を顔に浮かべながら、グラスを口元で傾けた。<br>「でもみんな愉しそうだよね」<br>　一息ついたところで、改めてホールを見渡してみた。<br>　箇所箇所で思い思いに酒を飲むホストや客の顔は、一様に愉しそうだった。<br>「まぁホストクラブは夢を売るのが商売だからなぁ、愉しいのは当然だろ」<br>「夢か……」<br>　ユウは薄らと汗を搔き始めたグラスを静かに見つめた。<br>　未来の自分を取り巻く環境を、理想的なカタチに作り上げることが、即ち夢だとするならば、1つだけ夢があった。<br><br>　　　　　　　　　　　　　　　　　<strong>幸せになりたい</strong><br><br>　別に立場や環境が華やかじゃなくてもいい。お金もそんなに沢山なくてもいい。<br>　ただ、普通に幸せになりたかった。<br>　浮き沈みのない平穏な幸せ……そんな幸せなら文句は言わない。そんな幸せがあれば、あとは何もいらない。<br>　人並みに幸せになり、人並みに生きていく。　それがユウの望む理想的な夢だった。<br>「ごめん、ちょっと大事な客が来たから席外すけどいい？」<br>「うん、いいよ」<br>　翔はグラスの酒を全部飲み干すと、席を立った。<br>「じゃあちょっと行ってくるよ」<br>「頑張ってね」<br>　奥のテーブルへと向かう翔の背中を、ユウは静かな眼差しで見送った。<br>　今の翔は、自分の彼氏であると同時に、ルミナスのホストでもある。<br>　仮に他のテーブルで、他の女と仲良くしていたとしても、それは『ホスト』と『客』の関係を保つため。だから別に心配はしていなかった。<br>　翔にとって一番重要なポストにいるのが自分であることを、しっかりと理解していたから。だから別に心配はしていない。ただ……一欠けらのジェラシーは拭えなかったが。<br>　その後何人かのホストが入れ替わりに隣に付き、翔が戻ってきた頃には、もう大分酒が回っていた。<br>「ただいま戻りました」<br>「遅い」<br>　ユウは眼を吊り上げて頬を膨らませた。<br>「ごめんごめん、じゃあ仕切り直しにもう一度乾杯するか」<br>「うん」<br>　2人はグラスを手に取り、再び乾杯をした。<br>　ホール内は相変わらず活気に満ちていた。<br>　担当のホストに甘える者。テーブルに飾りボトルを並べて女王様の如く踏ん反り返る者。ヘルプのホストを玩具にして遊んでいる者。ガールズトークに花を咲かせている者。独りでポツンとしている者。30分前には、あれほど異様に映っていた光景が、今は当り前のように普通に映っていた。<br><br><br>――1ヵ月後――<br><br>「こちらのテーブルの素敵な素敵な姫様がまたまたやってくれました。我らが王子の為になんと！　なんと！　ドンペリ・ゴールドを！　ドンペリ・ゴォォォォォォォルドを1本入れて戴きましたぁ」<br>『あ～りがとうございま～す』<br>　店中のホストがユウのテーブルに集まり、ノリノリのシャンパンコールを浴びせる。<br>　そしてみんなが一斉にシャンパングラスを掲げた。<br>『ゴチになりま～す』<br>　ご機嫌な笑顔を湛えながら、全員が一斉にグラスの中身を呷(あお)った。<br>　あっという間になくなるシャンパン。<br>　あっという間に消える30万……。<br>「あ～なんか飲み過ぎた感じ……」<br>　翔の肩に頭を凭(もた)れ、ユウは熱の帯びた吐息を漏らした。<br>「大丈夫か？　そろそろチェックした方がいいんじゃないのか」<br>「うん、そうだね」<br>　ユウは両手を腰の後ろに回し、ググッと半身を反らせた。<br>「じゃあ俺は会計を済ませくるよ」<br>「よろしくぅ」<br>　キャッシャ―に向う翔の背中に向かって、ユウは旗を振るように手をヒラヒラさせた。<br>　翔と付き合い始めて半年が過ぎた。<br>　あの日以来、ユウは週に2回のペースでルミナスに通い続け、翔の売り上げに貢献していた。<br>　店に顔を出すと、翔はすごく喜ぶ。翔が喜ぶと、自分も嬉しくなる。<br>　だからユウはルミナスに通い続けた。<br>　翔をハッピーにする為に。そして自分もハッピーになる為に。<br><br><br>　ご機嫌に口笛を吹きながら、翔はキャッシャー台の上に伝票を置いた。<br>「真樹さんチェック」<br>「ん？　何だ翔、今日もカケか？」<br>　キャッシャーの中で電卓を叩いていた坊主頭のマネージャーが、片眉を上げた。<br>「ハイ、今日もカケでお願いします」<br>　翔はマルボロを口に銜えると、デュポンのライターを小気味に鳴らした。<br>「カケはいいけど大分溜まってきてるぞ？」<br>「真樹さん、俺が今までカケの回収でしくじったことが1度でもありましたか？」<br>　紫煙を燻(くゆ)らせ、翔は不敵に口角を歪めた。<br>「心配しなくても締日までには必ず回収しますよ」<br>「なら問題ないけどな」<br>　そう言うとマネージャーは伝票を手に取り、再び電卓を叩き始めた。<br><br><br>――数日後――<br><br>「ねぇ翔君、今度の休み映画観に行かない？」<br>　乱れたシーツの上で頬杖をつきながら、ユウは何気なしに切り出した。<br>「ん～そうだなぁ……」<br>　鏡の前で髪にアイロンを当てる翔の口から、気のない返事が漏れる。<br>　ここは新宿にある翔のマンションの一室。ホストクラブで遊んだ日は、お決まりで翔のマンションで一夜過ごしていた。<br>「今公開中のヤツで観たい映画があるんだけど……」<br>「あ～そうだ！　ユウ、その前にちょっと大事な話があるんだけど、いいか？」<br>　ユウの話を遮(さえぎ)るように、翔が言葉をかぶせてきた。<br>「大事な話？」<br>「うん……実はカケが溜まってきて、そろそろ回収しないとマズイんだ」<br>「カケ？」<br>「売掛だよ。つまり今までユウがウチの店で飲み食いした分のツケだ」<br>「ハ？」<br>　半分口を開いた状態で、ユウの顔がフリーズした。<br>「実は明日が店の締日でさぁ、今日中に店に金入れないと俺の首が飛んじまうんだよ」<br>「……」<br>「だからさ……今すぐ払って貰えないかな？　362万」<br>「さ、362万……？」<br>　翔の口から飛び出た金額が、余りにも桁が外れていたため、瞬時にリアクションを起こすことができなかった。<br>「毎回来るたびにドンペリ入れてたろ？　実はアレ結構高いんだよなぁ……でも店中のホストが全員で乾杯するから、アレはアレで愉しかったろ？」<br>　何気なく乗ったバスが、突然拳銃を持った男にジャックされたような……。<br>　何気なく受けた健康診断で、突然医者から『余命3ヶ月です』、と告知されたような……。<br>　それは一言でまとめるなら、『青天の霹靂』だった。<br>「あの……話が見えないんだけど？」<br>　歪(いびつ)な笑みを浮かべたまま、ぎこちなく口を開く。<br>　そんなユウに向かって翔が「俺の話ちゃんと聞いてたか？　今までの飲み代、362万を今日中に払って貰わないと困るって言ってるんだ」と突き放すように言った。<br>「ちょ、ちょっと待ってよ！？　飲み代はいいからって前に言ってたじゃない？」<br>「あぁ確かに最初の1回目は俺が奢るって言ったよ。でもそれ以降の飲み代まで奢るとは一言も言ってないぜ？」<br>　ワックスを髪に馴染ませながら、翔はにべもなく言った。<br>「そんな……だったら何で2回目に行った時にそう言ってくれなかったのよ？」<br>「そんなこといちいち言わなくても、普通に理解してると思うだろ？」<br>「理解も何も翔君言ったじゃない？　これから先も金の心配はしなくていいからって。だからいつでも遊びに来いって」<br>「それはホストクラブは売掛ができるから、その日に懐(ふところ)が寂しくても遊ぶことができるよ、って意味で言ったつもりなんだけど……」<br>「そんなこと一言も言ってないじゃない！？　『金の心配はするな』なんて言われたら普通に翔君が持ってくれてるって思うでしょ？」<br>　ユウはホストクラブに行くと、結構派手に遊んでいた。<br>　派手に遊ぶと翔はすごく喜ぶ。だから敢えてそういう遊び方をしていたのだが、時給1000円の居酒屋のバイト程度の収入では、ホストクラブで派手に遊ぶことはできない。<br>　もちろんユウもその辺は理解していたし、翔も自分の彼女の懐具合は、ある程度理解しているとばかりに思っていた。<br>「そいつは勘違いしたお前が悪いんじゃないのか？」<br>「なっ！？」<br>　自分の耳を思わず疑ってしまった。<br>　翔の口からそんな言葉が出てくるとは夢にも思わなかった。<br>「それ……本気で言ってるの？」<br>「当たり前だろ。冗談でこんなこと言えるか」<br>　そう言いうと翔はチッと舌打ちをした。どうやら前髪のＭ字バングがうまく決まらないらしい。<br>　眉間にしわを寄せて髪を弄(いじ)る翔を、ユウは鏡越しに見た。と、同時に躰中に激しい戦慄(せんりつ)が走った。<br>　その鏡に映っている翔の眼……それは今までに見たことがない、恐ろしいほど冷たい眼だった。<br>「私は翔君を喜ばすために今までお店に通ってたのに……」<br>「金さえ払ってくれれば俺はいくらでも喜ぶよ」<br>　ユウの言葉を遮るように、翔はにべもなく言った。<br>「取り敢えず今日中に金を入れないと俺が困るんだ。俺のことを想ってくれるなら、今すぐ金を払ってくれ」<br>　自己中心を絵に描いたようなことを、悪びれもせずに言う。<br>　そんな翔を見つめるユウの顔が、みるみる紅潮してきた。<br>「何よその身勝手な言い方……前と言ってることが全然違うじゃない！？　私は翔君の一体何だったの？　彼女じゃなかったの？」<br>　沸々と込み上がるマグマのような憤(いきどお)りに、ユウの肩が小刻みに震えた。<br>「あのなぁユウ、彼女だろうが何だろうが、自分で飲み食いした代金は、自分が責任持って払わなければならないの。それが社会のルール。学校で教わらなかったか？」<br>「……」<br>「大体においていくらお前が俺の彼女だって言っても、お前の飲み食いした金を全部俺が払ってたら、俺が破産しちまうだろ？　そんなこと少し考えれば分ると思うけどなぁ」<br>　そう言いながらまたチッと舌打ちをする。今度はトップの盛りがうまく決まらないらしい。<br>　相変わらずユウには眼もくれず、鏡の中の自分をひたすら磨き続ける。<br>　そんな翔をユウは無言で睨みつけた。<br>「まぁそうは言っても俺はユウの彼氏だ。1万とか2万くらいなら俺の奢りで終わらせてもいいんだけど、さすがに362万は、ちょっと奢りで済む限度枠を超えちゃってるからなぁ……ユウには申し訳ないけど正直無理だ。まぁ端数の2万は俺が泣いてやるから、残りは頼むよ」<br>　申し訳ないと言いながらも、淡々と髪を弄リ続ける。<br>　もしかしたら自分の首が飛ぶかもしれない。<br>　そういう状況であるハズなのに、その顔には危機感や切迫感というものの、欠片も見えなかった。<br>「362万って言ってるけど、殆ど翔君が勝手に頼んでたんじゃない？」<br>「ハァ？　人聞きの悪いこと言わないで貰えますか？　頼むときはちゃんと『頼んでいい？』って訊いてたでしょ？」<br>「それは……でも、そんな高いお酒だなんて私知らなかった」<br>「それは確認しないアナタが悪いのではありませんか？」と言いながらまたチッと舌打ちをする。<br>　この話が始まってから、翔は1度もユウに視線を向けていない。<br>　鏡の中の自分を磨きながら、淡々とユウの心に唾を吐く。<br>　そこにはもう、ユウの知っている翔はいなかった。<br>「何で……何でこんなにツケが溜まるまで教えてくれなかったのよ。こんなにツケが溜まってるって知ってたら、お店になんて行かなかったのに……」<br>「いや、知ってると思ったから」<br>　もう反論する気力もなかった。<br>　伏せたその眼に薄らと涙が浮かんだ。<br>　悔しさ、悲しさ、色々な感情が入り混じった涙。<br>　ユウは天を仰ぎ、何度も瞬(まばた)きをした。<br>「とにかく360万、今すぐ払ってよ」<br>　鏡の中の自分とにらめっこをしながら、翔は畳み込むように言った。<br>「そんな大金……ある訳ないじゃない」そう言うと眼を伏せて拳を固く握った。<br>「困ったなぁ、払って貰わないと俺が困るんだよなぁ」<br>　口では困ったと言っているが、翔にとって今もっとも重要なことは、外ハネをうまく決めることだった。<br>「あ、そうだ！」<br>　何かを思い出したかのように、翔が拳で掌(てのひら)を叩いた。<br>　そして「こういうお金のトラブルを一発で解決してくれる人、俺知ってるから、ちょっと連絡してみるよ」と言って、流水の如く自然な流れで、手元に用意してあった携帯を開いた。<br>　まるで今、この瞬間にその携帯を開くことが、前もって約束されていたかのように。<br>　携帯を耳に当てながら『お疲れ様です』と頭を下げる翔を、ユウは虚ろな眼で見つめた。<br>――何でこんなことになっちゃったんだろう……<br>　パンクした脳内で、這うように思惟(しい)を巡らせた。<br>　一体どこで間違えてしまったのか？<br>　翔の口車に乗って、安易にボトルを入れてしまったところからなのか……。<br>　あるいはホストクラブの性質を十分に理解もせずに、安易にホストクラブに足を運んでしまったところからなのか……。<br>　それとも翔の人間性を見極めずに、安易に翔と付き合ってしまったところからなのか……。<br>　多分、全部間違っていたのだろう。<br>　いくら後悔しても、後悔は先には立たない。<br>　意図的に作られた幸せの時間は、驚くほどあっけなく終わった。<br><br><br>――1時間後――<br><br>　ユウと翔はマンションから場所を移し、歌舞伎町のとある喫茶店で、『お金のトラブルを一発で解決してくれる人』を待っていた。<br>『360万払ってくれ』、と言われてもそんな大金はない。<br>　すぐに用意できる額でもない。無い袖は振れない。<br>　だから最終的には翔の知り合いだという『お金のトラブルを一発で解決してくれる人』、に頼るしかない……。<br>　怪しい匂いがこの上なくプンプンしていたが、他に頼れる人もいなかったので、ユウは渋々その人に相談することを了承した。<br>　喫茶店で待つこと30分、ユウの座るボックス席に２人の男がやってきた。<br>　1人はがっちりした体型の、年の頃40代半ばくらいのスキンヘッドの男。<br>　もう1人はほっそりした体型の、年の頃30代前半くらいのオールバックの男。<br>　清潔感が溢れるビジネススーツを着こなし、誠実と信頼性を絵に描いたような眩しいスマイルが似合う、良心的なファイナンスの人が来るとは期待していなかったが、予想通りそこに現れたのは、どちらもＶシネマ系の人だった。<br>「お疲れ様です」<br>　ユウの対面に坐っていた翔が素早く立ち上がり、スキンヘッドの男に向かって、深く頭を下げた。<br>　恐らくこの男が『お金のトラブルを一発で解決してくれる人』だろう。<br>　名前は前川。翔が電話でそう呼んでいた。<br>「悪いな、ちょっと事務所に顔出してたから遅くなっちまったよ」<br>　ふんぞり返るように前川がユウの対面に坐る。その隣にオールバックの男が坐り、翔はユウの隣に坐った。<br>「それでお金に困ってるってのは、そのお姉ちゃんかい？」<br>「ハイ、こいつです」<br>　ユウが答える代わりに翔が答えた。<br>「ふ～ん……なるほどね」<br>　前川が品定めをするようにユウの躰に視線を這わせた。<br>「まぁしかし、360万って言えばなかなかの大金だよ？　一体そんな大金何に使ったんだい、お姉ちゃん」<br>「……」<br>「ウチの店で売掛したんですよ」<br>　翔がユウに代わって答える。<br>「なるほどね、ホストにハマっちまったクチか……。一時の夢を追いかけて気付いたら借金地獄。若いうちはよくあることだ。」<br>　重く噛み締めるようにそう言うと、前川はポケットからメビウスを取り出し、1本口に銜えた。<br>「まぁ金の方はいくらでも面倒見てやれるが、問題はこのお姉ちゃんの返済能力だな。こっちも慈善事業でやってる訳じゃないんでね。返済能力がない人間の面倒までは見きれない」<br>　ここで前川は1度言葉を切った。そして一拍の間を置き、再び口を開いた。<br>「とはいえ、見たところお姉ちゃんも相当困ってるようだ。それになかなかの器量良しだ。その辺に寝転がってるホームレスよりは将来性もある。そこでだ、金の方は俺が面倒見てやる。その代わりお姉ちゃんはウチの店で働くんだ。そうすれば返済能力の問題も解決するし、双方丸く収まる。どうだ、この案は？」<br>「それが最良じゃないんですかね」<br>　今まで黙っていたオールバックの男が、初めて口を開いた。<br>「そうですね、それが1番いいと思いますよ」<br>　オールバックの男に続いて翔も賛同した。<br>「よし、話は決まったな。これでこの件は一件落着だ」<br>　前川が満足そうに頷いた。話がとんとん拍子で進んでいく。<br>　ユウの意思とは関係なしに。<br>「じゃあこれが約束の360万だ」<br>　帯封付の100万の札束3つと、バラの1万円札数十枚が、前川から翔の手に渡る。<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　<strong>人身売買成立<br></strong><br>「これでお姉ちゃんの債権は、このホストの兄さんから、オジサンの手に移った訳だが、心配しなくてもゆっくり返してくれればいいからね。毎月利息分さえきっちりと払って貰えれば、うるさいことは何も言わない。まぁ見た目はこんな感じだから周りに誤解されるけど、こう見えてオジサンは優しい人で通ってるんだ」<br>　そう言いながら、恵比寿様さながらの笑顔を作る。<br>「おいユウ、前川さんは本当にいい人なんだぞ。毎回飲みに行くたびに奢ってくれるし、この前の誕生日なんかプレゼントでパテック・フィリップくれたんたんだぞ」<br>　興奮したように翔は左腕を突き出し、黒の革ベルトで締めた、アンティーク腕時計を誇らしげにかざした。<br>「まぁ言っても借金のカタで取り上げた中古品だけどな」<br>　軽く鼻を鳴らし、前川が薄い笑みを浮かべる。<br>「いやいや、コレ自分めっちゃ欲しかったんッスよ。周りのホストはブルガリとかカルティエとか見た目だけのちゃらけた時計ハメてるけど、こっちは世界三大時計ブランドですからね。そもそもの価値が違うんですよ」<br>「そんなにいい時計なのか？　俺は時計に興味ないから価値がイマイチよく分からんが、そんなに価値があるならやっぱ返して貰おうかな」<br>「え～～マジっすか！？　勘弁して下さいよぉ～一生大事にしますから」<br>　左腕を我子のように抱き込み、眉尻を下げて泣き顔を作る翔。<br>　前川とオールバックの男が愉快そうに笑った。<br>「冗談だよ。1度やったものを返せなんてみっともない真似はしないから安心しろ」<br>　それを聞いた翔が大袈裟に肩を撫で下ろす。<br>　笑えない茶番劇。ユウは唇を噛み、震える膝を両手で押さえた。<br>「まぁちょっと話が逸れたけど、お姉ちゃんのことはオジサンがしっかりと、責任を持って面倒見るから安心しな。さっきも言ったが、借金はゆっくりと返済してくれればいいからね。オジサンはこう見えて気が長い方でね、待つのは嫌いじゃないんだ。だから気長～～～に待ってるからね」<br>　前川の口から吐き出された紫煙が、蜘蛛の糸のように、小刻みに震える小さな躰に絡みついた。<br>「だから間違っても逃げようなんて考えちゃダメだよ。そんなことしたらオジサンも『やりたくない仕事』をやらなければならなくなるからね」<br>「……」<br>「それと、お姉ちゃんには早速今日からウチで働いて貰うんだけど、ウチは寮制なんだよ。だから今後はウチの寮に住んで貰うからね。場所は大久保だから仕事場も近いし利便性もいいから、思ってる以上に快適な生活を送れると思うよ」<br>　俯きながら黙って話しを聞く。<br>『ＮＯ』とも『ＹＥＳ』とも言えない情けない自分を恨みながら。<br>「あ、そうそうお姉ちゃん、免許証持ってる？　無ければ保険証とか学生証でもいいんだけど」<br>「え？」<br>　本能が電撃の速さで『持ってないと言え』と脳に命令を下した。<br>「いえ、持って……」<br>「あ～そういえばお前、専門学校に通ってるって言ってたよな？　そこの学生証でいいんじゃね？」<br>「……」<br>　最後の最後までこの男は足を引っ張ろうとする。<br>　18年の人生の中で1度も抱いたことがなかった『殺意』というものを、この時初めて抱いた。<br>「ほぉ、専門学校に通ってるのか？　まぁどっちにしても仕事とは両立できないから、最終的には辞めて貰うことになるけど、取り敢えず学生証出して」<br>　ユウは観念したように項垂(うなだ)れると、バッグから専門学校の学生証を取り出し、それをテーブルの上に置いた。<br>「これはちょっとオジサンが預かるね。まぁもう使うこともないだろうから、問題ないでょ？」<br>　そう言うと前川は、傍らに置いていたクロコダイルのセカンドバッグに、学生証を仕舞った。<br>「ところでお姉ちゃんは今は実家？　それとも一人暮らし？」<br>「……」<br>「コイツ親いなんですよ。ガキの頃からずっと施設で育ってきたみたいで」<br>　ユウは膝の上に置いていた拳を固く握った。<br>「あぁ～そう。親いないんだ。へぇ～そう。お姉ちゃんもなかなか苦労してきたんだねぇ」<br>　憐憫(れんびん)の帯びた眼でそう言うと、前川は灰皿にタバコを押し付けた。<br>「じゃあそろそろ行こうか」<br>　3人の男達が同時に立ち上がった。<br>「何やってんだ、行くぞ。モタモタしてんじゃねぇよ」<br>　俯いたまま動かないユウに向かって、翔が吐き捨てるように言った。<br>　ユウは唇を噛んだままゆっくりと重い腰を上げた。<br>「お姉ちゃん、悪いけどちょっとコイツと一緒に先に出ててくれるか。あ、言い忘れたが、コイツは今後お姉ちゃんの上司になる安村だ。色々教えて貰いな」<br>　そう言いながら前川は、安村の肩を軽く2回叩いた。<br>「宜しくね、お姉ちゃん」<br>　薄い笑みを浮かべ、安村が片目をつぶった。<br>　もう何も聞こえなかった。<br>　全身に麻酔を打ったかのように何も感じない。自分が今どこにいるのかも分らない。<br>　思考が完全にストップしてしまった。<br>　気付いたら安村に促されるように、出口に向かって歩いていた。<br>　その後ろ姿を、2人の男が無機質な眼で見送った。<br>「今までお前が連れてきた女の中で1番だな、アレは」<br>「でしょ？　男ウケしそうなロリコン顔に加え、ロシア人のクオータっていうオマケまでついてますからね。探してもなかなか居ないですよ。あそこまでスペックの高い女は」<br>　翔は満足に満ちた顔でマルボロを銜えた。<br>「一体どこで拾ってきたんだ？」<br>「行きつけのラーメン屋です」<br>「ラーメン屋？」<br>　前川の片眉が少し上がった。<br>「毎日大体同じ時間帯に、決まって大盛りの味噌ラーメンを啜ってる女が眼にとまりましてね、顔見たらこれがびっくり！　まさに1000年に１人の逸材じゃないですか！？　おまけに世間知らずのオーラを全面に出してるときたら、これはもう見逃す選択肢はないでしょ」<br>「それでそのラーメン屋で一本釣りしてきたって訳か」<br>「ハイ。思ってた以上に単純な女だったので、餌付けする間もなく簡単に落ちましたよ」<br>　翔は満面の笑みで小鼻を蠢(うごめ)かせた<br>「簡単に落ちたって言う割には随分と時間がかかったな？　使えそうな女がいるってお前から連絡があったのは半年以上前だぞ」<br>「いや～それはまぁ……色々事情がありまして」<br>「何だ？　もしかしてまた『恋愛ごっこ』で遊んでたのか？」<br>　その問いに答えるかのように、翔の顔がニヤリと歪んだ。<br>「お前も好きだなぁ」<br>「こう見えてプラトニックな恋愛に憧れてるんですよ」<br>「プラトニック？　何だそれは新しいギャグか？」<br>「いやいやガチですよガチ。実際半年くらいはホストの身分を隠して真面目に付き合ってましたし、週一の頻度で色んなところに遊びにも連れて行きました。まぁぶっちゃけ途中からめんどくさくなってきましたけど、それでもアイツには有り余る夢の時間を提供してやったつもりです」<br>「ほう……夢の時間ねぇ」<br>「まぁホストは夢を売るのが商売ですからね。自分はその役目を忠実に果たしただけです」<br>「なるほど物は言いようだな」<br>「でも夢ってのは遅かれ早かれいずれは覚めるもの。これは残念ながら避けられない未来です。アイツはその未来がやってくる日が今日だった。それだけの話です」<br>「クズもここまで極めると逆に清々しな。さっさと借金作らせて俺の所に持って来ればそれで済む話なのに、お前の『お遊び』のせいで、あの女は相当傷ついたぞ」<br>「それがいいんじゃないんですか。幸せの絶頂にいる人間の背中を押して、奈落の底に突き落とす。考えただけでゾクゾクしてきます。この快感はある意味シャブよりもヤバイっすよ」<br>　紫煙を勢いよく吹かし、翔は恍惚の笑みを浮かべた。<br>「まぁお前のその歪んだ性癖はさておき、取り敢えずあの女は使える。今回は少しばかり報酬に『色』を付けといたから、次もまた頼むぜ」<br>「分かりました」<br><br>         　　　　　　　　　　　　　　　　　<font size="6">♦　　　　　♦</font><br><br>　中でそんなやり取りが交わされているとは露とも知らず、ユウは店の外で、地獄へ誘(いざな)う水先案内人が出てくるのを大人しく待っていた。<br>　このまま走って逃げようか……とも考えた。でもできなかった。<br>　ほんの少し勇気を出せばいいだけなのに、その勇気を出すことができなかった。<br>　喫茶店の自動ドアが開き、翔と前川が出てきた。<br>「悪い悪い待たせたね。じゃあ行こうか」<br>　ユウに向かって恵比寿様の顔を作ると、前川はそのまま歩き出した。<br>　安村が促すように肩に手を添えてきた。<br>　このまま連れて行かれたら確実に破滅する。そんなの嫌だ……。<br>　不規則な呼吸が小刻みに漏れる。<br>　カクカクと膝が笑い、カチカチと奥歯がぶつかり合う。<br>　全てを飲み込む津波のような恐怖が、全身の筋肉を痙攣(けいれん)させた。<br>――誰か……誰か助けて<br>　頭の中で必死に叫んだ。<br>――誰でもいい……誰でもいいから<br>　脳裏に蘇る柔らかな笑顔。<br>　漆黒の恐怖に飲み込まれる寸前で、一筋の淡い光が見えた。<br>　この７ヶ月間、あの笑顔に幾度となく癒された。<br>　幾度となく見てきたあの笑顔には、偽りの片鱗など微塵も見えなかった。<br>　これは本人の意思ではない。<br>　もしかしたら脅されているのかもしれない。<br>　本当はこんなことしたくはなかった。<br>　今、この瞬間の中でも自分を何とかして助けようと、必死に救出方法を考えているかもしれない。<br>　もしそうなら……<br>　ユウは一縷(いちる)の望みを賭けて翔に視線を向けた。<br><br><strong>「！？」</strong><br><br>　絶望に色褪せた眼が大きく見開いた。<br>　無情な現実……。<br>　翔は笑っていた。<br>　恐怖に震える自分のこの姿を見て笑っていた。<br>　まるでコメディー映画を観ているかのように、目尻にシワを作り、口角を上げ、白い歯を見せながら……。<br>　視界にヒビが入り、ガラスのように砕け散った。<br>　見開いたまま固まった眼が、枯渇した大地にのように急速に乾いていく。<br>「さぁ、行くよ」<br>　肩に添えられてた安村の手が、震える躰を前に押し出す。<br>　ユウは小さく項垂れ、前川と安村の間に挟まれるような恰好で歩き出した。<br>　その後ろ姿を翔が無言で見送る。<br>　悪魔のような笑みを浮かべながら。<br>　この7ヵ月間、幸せな夢を見ていた。でもそれは文字通りただの夢だった。<br>　そして7ヵ月間の幸せな夢から覚め、再び現実に戻ったら、いつの間にか絶望に変わっていた。<br>　夢を見る前の7ヶ月前は、それなりに幸せだったのに……。<br>　どんなに思い描いても、結局幸せにはなれない。<br>　多分、そういう星の元に生まれてきたのだろう。<br><br>　　　<strong>もう……どうでもいい</strong><br>　<br><br><br>　ユウはゆっくりと眼を開けた。<br>　焼け付く紫外線が肌に突き刺さる。でも不思議と暑さが苦にならなかった。<br>　2時間前までは、うんざりするような暑さだったのに……。<br>　ユウは空を見上げた。<br>　澄み切ったコバルトブルーが視界一面に広がる。<br>――境遇が変わると体感温度も変わるのかな……<br>　ビジネスホテルの自動ドアが『ガー』、と音を立てて開いた。<br>「お待たせ。ちょっと荷物の整理をするのに時間かかっちまってよ、暑かったろ？」<br>「うん。でも暑いけど暑くなかった」<br>「何だそりゃ？」<br>　ユウはクスッと笑い、俊介に背を向けた。<br>　男は信用できない。その気持ちは今でも変わらない。<br>　男がどれほど冷酷で身勝手な生き物であるか……それをこの5年間で、いやというほど『復習』した。<br>　男とは即ち、容易(たやす)く信用してはいけない生き物。<br>　だから信用はしない。だが……<br>「じゃあそろそろ出発するけど、東京に思い残すことはないか？」<br>「こんな街に思い残すことなんてある訳ないじゃない」<br>「そうか、それを聞いて安心した」<br>　この俊介という男からは、自分と同じ匂いがする。<br>　自分と同じような『痛み』を経験している。心ではなく、本能がそう言っている。<br>　この短時間でそれを確信した。<br>　今にして思えば、最初に会った時から既に、その『匂い』に反応していたのかもしれない。<br>　俊介の言動に激しく感情を顕(あらわ)にしたことも、そう考えると自然に納得ができる。<br>　だから信用はしないが、取り敢えず付いていくことにした。<br>　その先のことは、その先に辿り着いてから考えればいい。<br><br><br>　ビジネスホテルを後にし、2人は新宿駅に向かって真っ直ぐ歩を進めた。<br>　一歩一歩の前進が、びっくりするほど軽かった。<br>　まるで羽の生えた足で、天国に続く階段を上っているような……そんな感じ。<br>　修学旅行の当日、家で朝ゴハンを食べるのももどかしいと思っていた、あの気分に似ている。<br>　こんな気分は本当に久し振り……<br>「あれ？　ユウじゃん。久し振りだな」<br>　軽やかに動いていた足が、ピタッと止まった。<br>　スタイリッシュな銀色のスーツに身を包み、ブルガリブラックの甘い香りを漂わせた男が、ゆっくりと歩み寄ってきた。<br>　5年前と変わらない、柔らかな笑顔。その柔らかな笑顔が、高揚した心を一瞬で凍らせた。<br>「どうだ、あれから元気でやってるか？」<br>「……」<br>　ユウは血の気の失せた顔を晒(さら)したまま、ただただ呆然と立ち尽くした。<br>　自分から全てのものを奪った男。<br>　この5年間、頭の中で1000回以上ありとあらゆる方法で殺し続けた。<br>　その男が今、眼の前で何事もなかったかのような顔をして立っている。<br>　脇の下から冷たい汗が這うように流れ落ちた。<br>　静を保っていた心臓が、怒り狂う大魔神のごとく暴れ始めた。<br>　燃え上がる黒い炎。漸(ようや)く訪れた復讐の時。<br>　臆病の殻を脱ぎ捨てた今の自分なら殺れる。<br>　これは神様が与えてくれた最初で最後のチャンスだ。<br>　この男と再び対峙した『その時』に備え、バッグの中には常時フォールディングナイフを忍ばせていた。<br>　5年の時間を費やし、山のように蓄積した憎悪の塊を、その切っ先に宿らせる。<br>　そして憎きこの男の躰に、憎悪の宿ったナイフを突き刺してやる。<br>　何度も……何度も……。<br>　刺し違えてでも殺してやる。絶対に殺してやる……。<br>　ユウは口内に溜まった唾液をゴクリと飲み込んだ。そして震える左手をゆっくりバッグに向かわせた。が、バッグに辿り着く手前で動きが止まってしまった。<br>　ユウは全神経を左手に注いだ。だが全く動かない。<br>　まるで石化の魔法をかけられたかように、左肩から下の筋肉という筋肉全てが固まってしまった。<br>「オイオイ、なんだそのポーズは！？　なんちゃら戦隊の変身ポーズか！？　<br>お前よ～、久し振りに会った元彼の前でいきなりそのリアクションはないだろ？」<br>　お腹の前でフリーズしているユウの左手を指差し、翔が堰(せき)を切ったように笑いだした<br>　翔と一緒にいた3人のホストも腹を抱えて笑った。<br>「もしかして俺に会って感激しすぎたのか？　そうなのか？」<br>「……」<br>「ってことわぁ～つまりそれは……感激を表す愛のポーズってやつだ！？」<br>　翔の言葉に3人のホストが爆笑する。<br>　宙で止まった左手が小刻みに震えた。<br>　半分開いた口から漏れ出る乾いた息が、わななく唇から水分を奪い取った。<br>「いや～～笑った笑った。てかどうだ仕事の方は？　ごっつい稼いでるか？」<br>「……」<br>「まぁお前はその辺の女よりも見た目がいいから、ご指名ご指名で大忙しだろう。でもあんま無理すんじゃないぞ。体は資本！　元気ハツラツが明日の仕事に繋がるってことをくれぐれも忘れるなよ」<br>　5年前にいつも見せていた、あの柔和な微笑みを湛えながら、翔は石化したユウの左肩をポン、と叩いた。<br>　屈辱が電流となって全身を駆け巡る。と同時に、左腕にかかっていた石化の魔法が解け、指先に動きが戻った。<br>「まぁアレだ、気が向いたらまた店に遊びに来いよ。金がなくても『ミネ』くらいはご馳走してやるからよ」<br>　そう言って再び肩を叩くと、翔は悠然とユウの横を通り過ぎた。<br>　仲間のホスト達とこの上なく愉快そうに笑いながら。<br>　左手の動きは戻った。<br>　バッグに忍ばせているナイフを手に取り、すれ違った翔の背中をめがけて刺そうと思えば刺せる。でも無理だった。<br>　牙は完全に折られた。<br>　燃え上がった黒い炎も、煙のように霧散して消え失せた。<br>　残ったのは行き場を失った憎悪の塊と、ヘタレで根性無しの復讐心もどきだけ。<br>　ユウは油の切れたロボットのような、ぎこちない動きで振り返った。<br>　殺しても殺したりないほど憎い男の背中が、一歩一歩と離れていく。<br>　固く握った拳が小さく震え、これでもかというくらいに噛み締めた奥歯が鈍く軋(きし)み、赤く充血したその眼からポロッと涙がこぼれ落ちた。<br>　情けなかった。<br>　騙され、裏切られ、そして馬鹿にされながらも何もできない自分が、死ぬほど情けなかった。<br>　情けないと痛感していながらも、涙目で翔の背中を睨むことしかできない。<br>　どんなに憎しみを募らせても、今の自分では翔には勝てない。<br>　言葉にならない悔しさが、大粒の涙となって頬を濡らした。<br>「待ちな兄さん」<br>　ケラケラと笑う翔の肩を俊介がグッと掴んだ。<br>「あぁ？」<br>　眉間にしわを寄せながら翔が振り返る。その瞬間……<br><br>　<strong>ゴツッ</strong><br><br>　俊介の拳が翔の顔面にめり込んだ。<br>　細身の躰が瞬間的に宙を舞う。そして駐輪している自転車を数台なぎ倒しながら、ハデにひっくり返った。<br>　ユウは両手で口を押さえ、驚愕に眼を見開いた。<br>　一緒にいたホスト達も唖然とした顔で立ち尽くしている。<br>　覆いかぶさるように倒れた自転車を退かし、翔がゆっくりと半身を起こした。<br>　鼻の穴から流れる真っ赤な鮮血が、2つの筋を作り、シャープな顎から<br>ポタ、ポタ、と一定のリズムを刻みながら伝い落ちる。<br>「いってぇ……」<br>　手の甲で鼻血を拭い、俊介を睨みつける翔。<br>「テメェいきなり何しや……」<br>　言い終わる前に俊介のつま先が翔の顔面を蹴り上げた。<br>「うがぁ」<br>　飛び散る鮮血。<br>　半身を仰け反らせ、翔は再び自転車の中に突っ込んだ。<br>「うぅ……」<br>　俊介は苦痛に顔を歪める翔の前でしゃがみこみ、赤いシミが滲んだ、白いドルガバのシャツを手荒く掴んで引き寄せた。<br>「ヒッ」<br>　翔の口から短い悲鳴が漏れた。<br>「お前よ、どうでもいいけど俺の女に気安く触るんじゃねぇよ」<br>　顔をゼロ距離まで近づけ、低く静かな声で唸る俊介。<br>「あ、す……すいませんでした」<br>　眼を潤(うる)ませ、震える声を絞り出す翔。<br>　その傍らで呆然と立ち尽くす3人のホスト。誰も翔を助けようとしなかった。<br>　多分、本能的に悟っていたのだろう。<br>　仮に3人がかりでかかっていったとしても、この男には敵わない、ということを。<br>　翔のシャツを離すと、俊介は眼を見開いたまま立ち尽くしているユウの所に戻り「行こっか」、と穏やかな笑顔をで言った。<br>　２人は再び駅に向かって歩を踏み出した。<br>　青ざめた顔でひっくり返っている翔と、石のように固まっている、情けない3人のホストに一瞥することなく、振り返ることもなく。<br><br><br>　キャリーケースを転がして淡々と歩を進める俊介。<br>　そこから半歩下がり、ユウが眼を伏せてついていく。<br>　ガラガラと地面を撫でるキャスターの音が、街の雑音を押し退け、不自然なほど際立って耳元を掠めた。<br>「ありがとう……」<br>　ユウは蚊の鳴くような声で呟いた。<br>「……」<br>　聞こえなかったのか、前を歩く俊介は何も言わない。<br>　胸の奥底から熱いものが込み上がってきた。<br>　ユウは小さく唇を噛み、俊介のＴシャツの端をギュッと掴んだ。<br>「ありがとう……俊君」<br>　一言一言を絞り出すように言うと、その眼からとめどなく涙がこぼれ落ちた。<br>「別に礼を言われる筋合いはない。いけ好かない奴を単純に殴りたいと思ったから殴っただけだ」<br>　そう言うと俊介は、満足そうに笑った。<br>　　　　　　　<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　続く……</font><br>
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<link>https://ameblo.jp/sekt2330/entry-11971973477.html</link>
<pubDate>Thu, 01 Jan 2015 15:07:50 +0900</pubDate>
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<title>幸せの砂時計　３</title>
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<![CDATA[ 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<font size="5"><strong>４</strong></font><br><br><font size="4">　2人はホテルを出ると、周囲を確認して足早にその場を去った。<br>　数メートル進む度に後ろを振り返ってみたが、今のところ誰かが後をつけてくる気配はない。<br>　万が一事務所の人間に見つかれば、その時点で逃走計画は終了。<br>　再び奴隷生活へと引き戻される。<br>　新宿を、いや東京を無事に出るまでは油断はできない。<br>　2人は区役所通りを横断し、細い路地に入った。<br>　向かう先はビジネスホテル。そこに男の荷物があるらしい。<br>　東京に来てからずっと、定住につかずビジネスホテルに寝泊まりしていると、ホテルを出る前に男が簡潔に話してくれた。<br>　人を欺いて金を稼ぐプロの詐欺師。<br>　男の言っていることが事実だとすれば、今自分は犯罪者と一緒にいることになる。それも警察に追われてる逃亡犯だ。<br>　普通に考えれば、すぐにでも警察に通報しなければならない。<br>　そういう状況なのだが……。<br>　生憎なことに売春も立派な犯罪。5年間法を犯し続けてきた自分に、人の犯罪をとやかく言う資格はない。<br>　取り敢えず今は、この男がどういう性質の人間かを見極めることが先決。<br>　詐欺師かどうかは二の次だ。<br>「そのヤクザとかってさ、香奈ちゃんの家とかも知ってたりするの？」<br>　男がそれとなく訊いてきた。<br>「知ってるも何も、そのヤクザが借りてる部屋に私が住んでる訳だから……知ってると思うよ」<br>「えっもしかして同棲してんの？」<br>「まさか。私から少しでもお金を毟(むし)り取るために、強制的に入れられてるの。一応1人だよ」<br>　ユウは元々5万の部屋に、15万の家賃を払っていた経緯を簡潔に説明した。<br>「ひどい話だな……」<br>「もう慣れたから」<br>　これが当たり前だと思えば、それが当たり前になる。<br>　当り前になれば、それが本来ならとてつもなく理不尽に思えることも、理不尽に思えなくなる。そう自分に暗示をかけ、この5年間生きてきた。<br>　でも……『辛くないのか？』と問われれば、本心から『ハイ』とは答えられない。<br>「あ、じゃあすぐに家に帰って荷物持ってこないとマズイじゃん」<br>「うん。でもそんなに大した荷物もないし……」<br><br>　<strong>ピリリリリ　ピリリリリ</strong><br><br>　単調な着信音が、2人の足を同時に止めた。<br>「事務所からだ……どうしよう」<br>　ユウは『困惑』と『恐怖』の二文字が入り混じった顔を男に向けた。<br>「貸して」<br>　少し迷ったが、ユウは男に携帯を渡した。<br>　男は不敵に口角を歪め、右手で自分の鼻をつまむと、携帯を耳に当てた。<br>「お掛けになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめになって、もう2度と掛けてこないで下さい」<br><br>　<strong>ブチ</strong><br><br>　何事もなかったかのような顔で携帯を返す男。<br>　唖然とした。<br>　あまりにもショックすぎて、しばらく言葉を発することもできなかった。<br>「これで大丈夫！　もう掛けてくんなってキッチリと言ってやったから、もう掛かってこないだろう」そう言って男は自信に満ちた顔で、右手の親指を立てた。<br>　この５年間、自由を奪ってきた鋼鉄の足枷(かせ)が、こんなにもあっけなく引きちぎられた。いや、もしかすると鋼鉄と見せかけた、発泡スチロール製の足枷だったのかもしれない。<br>　引きちぎろうと思えばいつでも引きちぎれた。そんな見せかけの足枷に屈し、5年間も奴隷のように躰を売ってきた自分。<br>　未来に絶望し、人生を諦め、死ぬことすらもできず、死んだように生きてきた。<br>　ユウはキツく携帯を握りしめ、そして堰(せき)を切ったように笑った。<br>　街ゆく人達が怪訝そうに眼を向ける。でも構わずに笑った。声を大にして。<br>　男が呆気にとられた顔で立ち尽くしている。<br>　笑うというのはこんなにも気持ちが良かったのか。<br>　そういえば5年前の自分は、よく笑っていた。<br>　くだらないオヤジギャグにも、表せる感情を全面に出して笑っていた。<br>　漸(ようや)く思い出した。自分は笑うのが何よりも好きな人間だったのだ。<br>　封印していた本来の自分が、湧き水のように溢れてくる。<br><br>　<strong>ピリリリリ　ピリリリリ　</strong>　　　<br><br>　いい気分で笑っているところでまた携帯が鳴った。<br>　ユウは左手で握り締めた携帯を見つめた。<br>　ディスプレーに表示された『Ａ』の文字が、一定のリズムで点滅している。<br>　『Ａ』からの電話は事務所からの電話。<br>　万が一警察に携帯を押収された時のために、電話帳に入っている番号は、全てアルファベットで登録してある。<br>　今電話を鳴らしているのは、恐らく安村だろう。<br>　断続的に鳴り響く電子的な着信音が、『オイ、今のふざけたヤローは誰だ！？　ナメたことしやがって、殺すぞ』という怒りの着信ボイスに変換されて聞こえてきた。<br>「しつこいなぁ……よし貸せ。もう1度ガツンと言ってやる」<br>　ユウはニコッと男に笑いかけると、眼の前の空き缶入れに携帯を放り込んだ。<br>「アナタの手を煩わせるまでもないわ」<br>　男がヒュ～っと口笛を吹いた。<br>　一歩を踏み出す勇気。悪足掻きをする度胸。<br>　なるほど。実際にやってみれば何のことはない。簡単なことだったのだ。<br>「行こっか」<br>　ユウは軽い足取りで歩を踏み出した。<br>　足枷は外れた。もう縛るものは何もない。どこまででも逃げていける。<br>　今眼の前に手下を率いた安村が現れたとしても、何ら問題はない。<br>　走って逃げればいいのだ。こう見えて足の速さには自信がある。<br>　いざってときは交番に飛び込めばいい。<br>　さっきまでの臆病な自分とはもう違う。<br>　絶望に閉ざされた未来が解放された。今この瞬間から未来は変わったのだ。<br>「取り敢えず今日中に東京を出て福島に向かう」<br>「福島？」<br>「俺の地元だ。田舎者らしくこれからは田舎で暮らそうと思ってな」<br>「田舎で暮らす……」<br>　東京で生まれ、東京で育ち、現在に至る。<br>　今まで旅行らしい旅行の経験は殆どないので、東京から出たことも殆どない。<br>　だから自然に心が躍った。<br>「プー太郎さんは……」<br>「俊介」<br>「え？」<br>「俺の名前は俊介だ。まぁ仕事やってないからプー太郎はプータローだけどな。あ、俺今うまいこと言ったな！」<br>　自分の言ったギャグにウケたのか、男が可笑しそうに笑った。<br>「じゃあこれからは俊介さんって呼べばいいのかな？」<br>「サン付はやめてくれ」<br>「え」<br>「堅苦しいのは嫌いなんだ」<br>　ユウは天を仰ぎ、少し考えた。<br>「じゃあ俊君って呼ばせてもらうわ」<br>「いいねぇ俊君。フレンドレーな感じで一気に距離が縮まった」<br>　男が白い歯を見せて右手の親指を立てた。<br>　サン付以外で人の名前を呼ぶのは実に5年振り。<br>　何となく照れくさいというか、新鮮な感じだった。<br>「俺はこれまで通り香奈ちゃんでいいかな」<br>「ユウ」<br>「え？」<br>「香奈は仕事用の源氏名。本名はユウ。『ちゃん』はいらない。普通にユウでいいよ」<br>「へぇ～ユウか。良い名前だな」<br>「そう？」<br>「うん、良い名前だ」<br>「ありがとう」<br>　男という生き物を蛇蝎(だかつ)の如く嫌っていた自分が、今こうして男の隣で笑顔を見せている。<br>　昨日の自分が今の自分を見たら、きっとあの人形のような無機質な眼を飛び出さんばかりに見開いて驚くだろう。<br>　心配しなくても大丈夫。男を100%信用した訳ではない。<br>　少しでも不穏な動きを見せれば、すぐにでも逃げ出すつもりだ。<br>　簡単には心は許さない。隙も見せない。だから心配しなくても大丈夫。<br>　ユウは心の声で何度も自分に言い聞かせた。<br><br>　<br>　炎天下の中を歩くこと5分。<br>　2人は目的地のビジネスホテルに到着した。<br>「何かボロいホテルだね」<br>　額の汗を拭いながら、ユウは率直な感想を言った。<br>　高い雑居ビルに挟まれた、2階建てのこじんまりとしたホテル。<br>　ホテルというよりはむしろ、民宿と言った方がしっくりくる佇まいだった。<br>「穴場ってのは大概『ボロ』って相場が決まってんだよ。ちょっと待ってろ、今荷物持ってくるから」<br>　ホテルの自動ドアが閉まるのと同時に、ユウの視界から俊介の姿が消えた。<br>　ユウは駐車禁止の標識に寄りかかり、一息ついた。<br>――暑いな……<br>　じりじりと焼け付く紫外線が、容赦なく肌に突き刺さる。　<br>　ユウは静かに眼を閉じた。<br><br><br>――5年前――<br><br>「あの、隣いいですか？」<br>　モデル並みに顔立ちの整った、年の頃20代前半の長身の男が、控えめに訊いてきた。<br>「あ、ごめんなさい」<br>　ユウは隣の席に置いていたバッグを慌てて足元に退かした。<br>「すいません」<br>　浅く頭を下げながら、男がバッグを置いていた席に坐った。<br>「つけ麺と餃子」<br>「あいよ」<br>　カウンターの中で軽快にテボを振っていた老店主が、快活に声を張り上げた。<br>　注文を終えると、男は携帯を開いてメールのチェックを始めた。<br>　隣から仄(ほの)かに漂う香水の匂いが少し気になったが、ユウは再びラーメンを啜(すす)る手を動かした。<br>　ここは新宿のとあるラーメン屋。1年前から通っている行きつけの店だ。<br>　ボロくて小汚い店だが、客入りは良好。知る人ぞ知る穴場だ。<br>　新宿に来た時は、必ずこのラーメン屋に立ち寄っていた。<br>「ハイ、つけ麺と餃子お待ち」<br>　つけ麺と餃子が載った盆が、カウンターを挟んで、老店主の手から男の手に渡る。<br>　男は携帯を傍らに置くと、割り箸を2つに割った。<br>　2人組の客が会計を済ませて出て行き、それと入れ替わるように、新しく入ってきた2人組の客が、カウンターの前に腰を下ろした。<br>　黙々とラーメンを啜る者、携帯を片手にラーメンを啜る者。他愛のない会話を交えながらラーメンを啜る者。喉を鳴らしてビールを飲む者。<br>　今日もいつもと変わらず店は活気に満ちていた。<br>「味噌ラーメンが好きなんですか？」<br>「え……？」<br>　男が唐突に話しかけてきた。<br>「いや、いつも来るたびに味噌ラーメン食べてるから、好きなのかな～って思ったんで」<br>「見てたんですか？」<br>　ユウは箸を止めて男に視線を向けた。<br>「見てたっていうか……いつも来るたびに大盛りの味噌ラーメンを豪快に啜ってる女の子がいたら、普通に目につくでしょ？」<br>「それは……」<br>　ユウは顔を伏せて口ごもった。<br>　全身の血液が顔に集中し、燃え盛る火のように耳が熱くなった。<br>「実は僕もこのラーメン屋には結構お世話になってるクチなんだけど、大体3分の1くらいの確率かなぁ」<br>「何がですか？」<br>「僕が店に来た時に、キミが味噌ラーメンを啜っている確率」<br>「え……そんなに高い確率なんですか？」<br>「高いですねぇ、まぁ記憶に残りやすい顔をしてるから、余計にそう感じたのかも知れないけどね」<br>「何その記憶に残りやすい顔って？　私の顔が変だって言いたい訳？」<br>「いやいや、その逆だよ。ん？　逆？？　う～ん……常識を超えたとてつもなく可愛い顔は、ある意味的に言えば普通の顔ではない訳だから……そうすると変な顔ってことになるのか？」<br>　そう言いながら、眉間にしわを寄せて首を傾げる男。<br>「遠回しな言い方で分かりづらいんだけど、もしかして私今、ナンパされてます？」<br>「あら、バレちゃった」<br>　一拍の間を置き、ユウと男が同時に噴き出した。<br>　何とも言えない不思議な空気が流れ始めた。<br>「新宿にはよく来るの？」<br>　ラーメンを啜りながら男が訊いてきた。<br>「うん、学校が新宿にあるからね」<br>「学校って大学？」<br>「専門学校」<br>「へぇ～専門学校か……ちなみに何を専門で勉強してるの？」<br>「美容師」<br>「やっぱり！　そうじゃないかと思ったよ」<br>「そうじゃないかって……その根拠は？」<br>「根拠？　だって美容師ってみんなオシャレじゃん。身のこなしを見れば大体分かるよ」<br>　さらっとそう言うと、男は再びラーメンを啜った。<br>「最近のナンパはそうやって言葉巧みに褒めちぎって落とすんだね。怖い怖い」<br>　そう言いながらユウは満更でもない笑みを浮かべた。<br>「今も昔も言葉巧みに褒めちぎって落とすのは、ナンパの常套(じょうとう)手段だよ。でも俺は嘘は言わない。いいモノはいいと褒めるけど、微妙なモノには当たり障りのないコメントでやり過ごす。これでも俺は正直者で通ってるんでね」<br>「ふ～ん、正直者ねぇ……」<br>　訝しげに眉をひそめると、ユウはラーメンを啜る作業を再開した。<br>「ところでなんだけど、キミは何ちゃんって言うんだい？」<br>「名前？」<br>「うん」<br>「ユウ」<br>　ラーメンを啜りながらユウは短く答えた。<br>「ウユちゃんね。ＯＫ！　しっかりと覚えたよ」<br>「別にすぐに忘れて貰っても構わないよ」<br>「いやいや、この名前は絶対に忘れないね。あ、俺は翔。飛翔の翔でお馴染みの翔。宜しくね」<br>　何とも不思議な感じの男だった。少年のように無邪気でありながらも、どことなくミステリアスなベールに包まれている。<br>　無関心を装うユウの心に、小さな好奇心が芽生えた。<br>「ユウちゃんは彼氏とかはいるの？」<br>「いないよ」<br>「どれくらい？」<br>「18年」<br>「ハ？」<br>　半分口を開いた状態で、翔の顔がフリーズした。<br>「18年って……今まで男と付き合ったことないの？」<br>「うん」<br>　ユウは小さく頷き、水の入ったコップを口元で傾けた。<br>「え……何で？」<br>「何でって私に訊かれてもね……単純に魅力がなかったからじゃない」<br>　少し投げやりに気味に言うと、ユウはどんぶりの底に残っていた最後の一口を啜った。<br>「いや、逆に魅力がありすぎてみんな腰が引けたんだと思うよ。それかユウちゃんの理想が高いか」<br>「私の理想はそんなに高くないし、魅力もその辺に落ちてる石ころと大差ないよ」<br>「またまたご謙遜を」<br>「本当だよ。まぁ色々あって恋愛は暫く休業してるだけ。それだけよ」<br>「色々？」<br>「まぁまぁ、そんなのどうでもいいじゃん。これから頑張って作っていくからご心配なく」<br>　胸の奥底に封印していた忌まわしき過去が、脳裏に一瞬甦り、すぐに消えた。<br>「お～休業中の恋愛シャッターが今まさに開いた感じかな？」<br>「さぁ～どうだろ」<br>「思い立ったら吉日！　ってことで早速番号を交換しようよ」<br>「番号？」<br>「うん、ここで会ったのも何かの縁だし」<br>「……」　<br>　ユウは少し考えた。<br>　出会ってからのコミュニケーション時間は5分程度。<br>　当然ながらこんな短時間では、この男がどういう人間かは分らない。<br>　でもだからこそ好奇心が疼(うず)いた。<br>　この人懐っこい青年の奥底に秘められたモノを、もっと知りたい。<br>　そういう好奇心が、グイグイと心を前に押し出した。<br>「確かにここで会ったのも何かの縁かもね」<br>　ユウはバッグから携帯を取り出した。<br>「赤外線出来る？」<br>「もちろん！」<br>　2人は携帯を向き合わせ、番号の交換をした。<br>　電話帳に新しく追加された『田神翔』という名前を、ユウは暫く見つめた。<br>「ラーメンも完食したし、そろそろ出ようか」<br>　男の声に弾かれたように、ユウは慌てて携帯を閉じた。<br>　会計を済ませると、2人は暖簾(のれん)を潜って表に出た。<br>「ユウちゃんはこれから帰るの？」<br>「うん」<br>「じゃあ気をつけて帰りなよ」<br>「翔君は？」<br>「俺はこれから仕事だよ」<br>「そっか、じゃあ仕事頑張ってね」<br>「おう、頑張る！」<br>　お互いに小さく手を振り合うと、ユウはその場で翔と別れ、駅に向かって歩を踏み出した。<br><br><br>　色づいた葉が散りゆくとともに、着々と寒い冬が近づいてくる。<br>　そんな季節の中で、ユウはいつもと変わらぬ日々を送っていた。<br>　いつものように専門学校に通い、いつものように行きつけのラーメン屋で味噌ラーメンを啜り、いつものように電車に揺られて家路につく。<br>　相も変わらずの平坦な毎日。<br>　ただ、時間が過ぎるのが少しだけ早くなった。<br>　気のせいではなく、確かにそう実感していた。<br>　理由は多分、翔の影響だろう。<br>　翔はほぼ毎日電話をくれた。会話の内容そのものは、近況報告に毛が生えたような取り留めのない話が主だったが、普通に愉しかった。<br>　2回ほど一緒に映画も観に行った。<br>　映画の内容そのものも、それなりに面白かったが、それよりもとにかく翔といる時間が愉しくて仕方がなかった。<br>　そして気づいたら、翔の電話を心待ちにしている自分がいた。<br>　翔は大体決まった時間に電話をよこす。その時間を有効に活用するために、ユウはこまごまとした用事を事前に済ませるように心掛けていた。<br>　そうすれば余計なことを考えずに、翔との会話に集中できる。<br>　たまに電話がこない日などもあったが、そういう日は何となくそわそわして落ち着きがなかった。<br>　自分の中で起きている小さな変化に、ユウは気づいていた。<br>　その変化に対して、別に戸惑いはなかった。むしろそれを素直に受け入れていた。<br>　そしてその変化が、1つの『カタチ』に生まれ変わるのを、密かに心待ちにしていた。<br><br><br>――12月――<br><br>　翔と出会って1ヵ月が過ぎた。<br>　今日は翔と一緒に、ディズニーランドで愉しい一時を過ごし、今は翔の運転する車の中で、他愛のない会話で盛り上がっていた。<br>「服乾いた？」<br>「いくらかね、でもまだ湿ってる。翔君のは乾いた？」<br>「ユウの服が乾かないんじゃ俺の服も乾く訳ないじゃん」<br>「確かに」<br>　冬場にスプラッシュマウンテンは乗るもんじゃない。<br>　取り敢えず2人の間ではそういう結論に達した。<br>「でもあんなに濡れると思わなかったね」<br>「最前列に乗らされたのが運のつきだな」<br>「あそこでは誰かが最前列に乗って、後列の者の犠牲にならなければならないのよ」<br>「なるほど、つまり俺達は人柱の役目を果たしたってことか」<br>「そういうこと」<br>　ユウは小さな笑みを湛えながら、ミッキーマウスのクッキーを1つ頬張った。<br>「ところでこれからどうする？」<br>「う～ん……どうしよっかぁ」<br>　日はもう西の空に沈みかけていた。時間的にも、そろそろ腹の虫が鳴きだす頃合いなので、このまま夕飯を食べに行く、というコースも悪くはない。<br>「ホテル行こっか？」<br>「えっ？」<br>　2枚目のクッキーに伸ばしかけていたユウの左手が、ピタッと止まった。<br>「嫌か？」<br>「それは……」<br>　ユウは語尾を濁して眼を伏せた。<br>　翔とは別に付き合っている訳ではなかった。この1ヵ月の間で、翔の口から『付き合おう』と言われたことは1度もないし、またユウの口から『付き合いたい』という言葉が出たこともない。　関係的には友達のような関係だが、それよりも更に一歩踏み込んだような関係。それが今の2人の関係だった。<br>「翔君は……ユウのことどう思てるの？」<br>　ユウは眼を伏せたまま控えめに訊いた。<br>「好きだよ」<br>「本当？」<br>「あぁ。俺はずっとユウが好きだった。ラーメン屋で話しかけたのも、ユウともっと近づきたいって思ったからだ」<br>「……」<br>　翔はハンドルを握りながら更に続けた。<br>「最初は単純に、顔がカワイイから仲良くなりたいっていう軽い気持ちで声をかけた。でもこうしてユウと一緒に遊びに行ったり、毎日電話したりしていく中で、どんどんユウの存在が大きくなってきた。本気でユウと付き合いたいって思いが、どんどん強くなってきた。これが俺の偽りのない気持ちだ」<br>　オレンジ色の街灯の光が、一定のリズムを刻みながら過ぎ去っていく。<br>「なぁ、俺と付き合わないか？」<br>「……」<br>　胸の奥底に封印していた忌まわしき過去が、脳裏に再び甦った。<br>　自分の気持ちはもう分っていた。その気持ちに嘘をつくか素直になるか……。<br>　自分が今どうしたいか、それも分っていた。<br>　でも、もう2度と傷つきたくはない。心を削り取るような涙は流したくはない。<br>　でも……でも……<br><br>　　　　　　　　　　　<strong>　やっぱり自分の気持ちに嘘はつきたくない</strong><br><br>「ユウも……翔君が好きだよ」<br>「マジで？」<br>　難病を克服した患者が見せる歓喜に満ちたような笑顔が、翔の顔一面に広がった。<br>「うん、マジで」<br>　ユウは頬を赤らめ、少し照れの入り混じった顔で応えた。<br>　こうなることをずっと待ち望んでいた。<br><br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<strong>翔のことが好き</strong><br><br>　これが偽りのない自分の気持ち。もう、この気持ちを抑え込む必要はない。<br>　大丈夫。翔ならきっと、この気持ちに応えてくれる。<br>　きっと……応えてくれるハズ。<br>　<br><br>――数日後――<br><br>　ユウはハチ公の銅像に寄りかかり、空を見上げていた。<br>　雲ひとつない澄みきった青空。まるで今の自分の心を、そのまま映し出しているかのような空だ。<br>　腕時計にチラっと眼をやった。<br>――あと5分、いや10分くらい遅れて来るかな<br>　腕時計を見やりながら、無意識に笑みがこぼれれる。<br>　人を待つのも悪くない……最近になってユウは、人を待つ愉しみを覚えた。<br>　今までこんな愉しみを経験したことは1度もない。<br>　だから今、この瞬間が愉しくて仕方なかった。<br>――あっ！？<br>　ユウの顔に満開の笑顔が咲いた。<br><br>　<strong>待ち人来たる！</strong><br><br>「お待たせ！待った？」<br>「全然！今来たとこ」<br>　本当は待ち合わせ時間の20分前から待っていたのだが、そんな事はいちいち申告することではない。<br>　翔が突然真顔になり、無言で見つめてきた。<br>「どうしたの？」<br>「いや、今日のユウも抜群にカワイイなぁって思ったから、ちょっとばかり見惚れてた」<br>　意図せずに口元が緩む。ベタな褒め言葉でも、心の通じ合ったパートナーから言われると、魔法にかかったかのようにテンションが上がる。<br>「じゃあそろそろ行くか、早くしないと映画始まっちまうからな」<br>「うん」<br>　ユウは満面の笑みを湛えながら、翔の右腕に自分の左腕を絡め、ゆっくりとした足取りで歩を踏み出した。<br>　数日前までは、すごく仲のいい友達のような関係だったが、今は違う。<br>　ごく自然に手を繋ぐこともできるし、キスもできる。<br>　躰を重ねて愛し合うこともできる。<br>　翔と付き合うことになった日を境に、ユウの人生は劇的に変わった。<br>　長い冬が明けたような……。<br>　長いトンネルからやっと抜け出たような……。<br>　それは一言にまとめるなら『幸せ』だった。<br>　幸せになると、自然と躰が軽くなる。何をやっても愉しくて仕方がない。満員電車も全く気にならない。常に笑みがこぼれる。いいことずくめ。<br>　だから自分の選択は間違っていない。そう信じていた。<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　続く……</font><br>　　　　　　　　　　　　
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<link>https://ameblo.jp/sekt2330/entry-11632143532.html</link>
<pubDate>Wed, 09 Oct 2013 20:31:57 +0900</pubDate>
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<title>幸せの砂時計　２</title>
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<![CDATA[ <font size="4">――ホテル・コンパス　402号<br><br>「いや～涼しいなぁ」<br>　部屋に入るや否や、男はソファーに腰を沈め、備え付けのビールを飲み始めた。<br>「あ、香奈ちゃんも飲む？」<br>「結構です」<br>「遠慮すんなよぉ、ビールくらい奢ってやるぞ」<br>「本当に結構です。それより前金で戴いていいですか？」<br>　男は小さく溜め息を吐くと、財布から1万円札2枚を取り出し、それをテーブルの上に置いた。<br>「有り難うございます」<br>　ユウは無造作に紙幣を財布に押し込んだ。<br>　貰うモノさえ貰ったら、あとはさっさと終わらすのみ。<br>　この後もまた2件予約が入っているので、悠長にはしていられない。<br>　ユウは手際よく衣服を脱ぎ始めた。<br>　男もユウに続き、衣服を脱ぎ始める。<br>　視界の端で動く男の躰。ユウは無意識に男に眼を向けた。<br>　強靭な筋肉に覆われた腕、胸板、腹筋。無駄なモノを徹底的に排除し、本当に必要なものだけを抜粋して身に付けた肉体が、真っ直ぐ眼に飛び込んできた。<br>　ユウは呆然と男の躰を見つめた。<br>　異性の躰など腐るほど見てきたハズなのに、なぜか眼を離すことができなかった。<br>「どうした？」<br>「え？」男の声でハッと我に返った。<br>「何か真剣な眼差しでずっと見てたから」<br>「べ、別に何でもないです」そう言って慌てて眼を逸らす。<br>　柄にもなく動揺している自分。まさか見惚(みと)れていたのか……。<br>　あり得ない。<br>　ユウは小さくかぶりを振った。<br>「ずっと気になってたんだけどさ、香奈ちゃん朝メシちゃんと食ったか？」<br>「え？」<br>　質問の意図が全く読めなかったが、取り敢えず「食べてないです」とだけ答えた。<br>　すると男の口から深い溜め息が漏れた。<br>「やっぱなぁ……だからそんな腐ったキムチ食ったみたいな顔してんだな」<br>「なっ！？」<br>　男の口から飛び出たとんちんかんな言葉に絶句した。<br>「ずっとムスっとしてるから愛想のないヤツだなぁって思ってたんだけど、要するに腹が減ってたんだな」<br>「いや、別にそういう訳じゃ……」<br>　男が『みなまで言うな』と言わんばかりに手を振って、言葉を遮った。<br>「朝が忙しくてメシ食う時間がなかった。もしくわ起きたばっかで食欲が湧かなかった。そういうことだろ？」<br>「いや……はい」<br>　ユウは意味も分からずに頷いた。<br>「まぁ俺も実際のところ朝が弱いから、起きてすぐにはメシを食う気力がない。腹は減ってるハズなんだが、全く食欲が湧かんのだ。食べたくない時に食べるメシってのはそりゃあ不味いもんだ。でも俺は頑張ってメシを食う。譬えおにぎり1個でも、口に入るのであれば無理矢理にでも詰め込む。なぜそこまでしてメシを食うか分かるか？」<br>　全く話が見えなかったが、ユウは小さく首を横に振った。<br>「人間ってのは腹が減るとみんなカリカリするんだ。アドレナリンとかっていうホルモンが関係しているらしい。まぁ俺は学者じゃないから人間の構造的なことはよく分からんが、要するに腹が減ると人間は荒(すさ)んでいくってことだ。だからメシを食うんだ。しっかりとな。じゃないとカリカリしっぱなしのつまらん1日で終始する。人間食わねば力も出ない。どんなに忙しくても、食欲がなくても、ちゃんと朝、昼、晩、食べなきゃイカン。分かったか？」<br>「はい……」<br>　ユウは押されるがままに返事した。<br>「返事に覇気がないなぁ……　てか、朝メシ食わないから躰もそんなちっこいままで成長しないんだぞ」<br><br><strong>「！？」</strong><br><br>「ホント最初見た時はぶっちゃけ小学生が歩いてきたのかと思ったよ。あ、イマドキの小学生はもっとデカいか」そう言いながら男が愉快そうに笑う。<br>　ユウの眼がこれでもかというくらいに大きく見開いた。<br>　自分が一番気にしている身体的コンプレックスをネタにして笑われた。<br>　それもこんな頭の弱そうな、なんちゃってイケメン風情に。<br>　言い知れぬ屈辱が沸々と込み上がってきた。<br>　自分でもびっくりするくらいに鼻息が荒くなっている。<br>　その間抜けなツラに思いっきり爪を立ててやりたい。その小憎らしいくらいに筋の通った鼻の穴に、割り箸を突っ込んでやりたい。胸の奥から湧き上がる『何か』が、そういう衝動に火を放った。<br>「ん？　どうした？」<br>「あ、いや……」<br>　ユウは男から慌てて眼を逸らした。<br>　柄にもなく感情的になっている自分に動揺が隠せなかった。<br>　今までの自分なら、氷のように冷めた眼で相手を睨みつけ、無言で部屋を出ていくだろう。<br>　間違っても顔を引っ掻いたり、鼻の穴に割り箸を突っ込みたい、などという感情的な衝動には駆られはしない。<br>　そもそも今の自分の中に、感情が残っているハズがない。<br>　5年前のあの日を境に、喜怒哀楽の原動力となる感情という感情は、全て死滅したのだから。<br>「話変わるけど香奈ちゃんって地元はどこなの？」<br>「え……？」<br>「え？　じゃなくて地元だよ地元。どっか地方から出てきたの？」<br>「あ、あぁ……地元ね」<br>　ユウはぎこちなく笑いながら「東京」と答えた。<br>「東京かぁ。じゃあずっと都会で育ってきたってことか……羨ましいなぁ」<br>「羨ましい？」<br>「いや実はさ、俺の地元ってのは、何もないのが取り柄のババクサイ田舎でね。緑があふれる豊かな土地って言えば聞こえがいいが、何もないつまらない土地であることには変わらない。昔はよく街の奴らに『田舎者』と馬鹿にされて喧嘩したよ。東京人から見たらどっちも田舎者なんだが、まぁ田舎者同士の愚にもつかない小競り合いってヤツだ。今考えるとホントくだらないが、昔はよくひがんでたよ。俺は何で華やかな都会じゃなくて、こんなクソみたいな田舎に生まれたんだろう、てな」<br>「……」<br>「修学旅行で初めて東京に来た時はもう、全てが別世界に見えたね。お祭りでもあるのか？ってくらいの人の多さにもたまげたが、見上げるような高いビルを目の当たりにした時は、正直鳥肌が立ったよ。これが東京かぁ……っていうモーレツな感動は今でも覚えてる。で、俺はその時に思った訳だ。俺もいつか東京で、テレビドラマみたいな生活を送ってやる、てね。笑えるだろ？　何だテレビドラマみたいな生活って」<br>　自分の言葉にウケたのか、男が可笑しそうに笑った。<br>「まぁでも実際に来てみると、中々どうして住みづらい街だよな。1年近く東京に住んでみたが、全く順応できなかった。やっぱり田舎者には東京はハードルが高すぎたのかもな」<br>　男の口から小さな溜め息が漏れた。<br>「だったらさっさと田舎に帰ればいいじゃないですか」<br>　ユウは素っ気なく言った。<br>「言われなくても帰るよ。今日でこの街ともお別れだ。だから最後に東京の思い出を作るために、キミを呼んだんじゃないか」<br>　そう言って男が片目をつぶった。<br>　最後の思い出作りが自分との性行為……。<br>　余りにも滑稽過ぎて危うく噴き出しそうになった。<br>「ってことで、ぼちぼち思い出作りを始めるとしますか」<br>　着ていた衣類を全部脱ぐと、男はユウに背を向けてベッドに向かった。<br><br><strong>「！？」</strong><br><br>　男の背中が視界に映った瞬間、アーモンド型の眼が大きく見開いた。<br>　それは正面の逞しい肉体美とは対照的な醜い背中だった。<br>　首筋から腰にかけて広範囲に皮膚が盛り上がり、赤黒く変色している。<br>　恐らく火傷(やけど)の跡だろう。<br>　しかしこんなにも痛々しく凄惨な火傷の跡は、今まで見たことがない。<br>　一体どんな熱を浴びせたら、こんな背中になるのだろうか……。<br>　言葉を発することを忘れ、カカシのように立っていると、男が小首を傾げて「どうした？」と訊いてきた。<br>「え……いや、その……背中のそれ、火傷？」思わず訊いてしまった。<br>　訊くつもりはなかったのに訊いてしまった。そして訊いてしまった自分に、激しい嫌悪が走った。<br>「あぁコレ？　なかなかグロテスクだろ。これはね、昔家が火事になった時に奇跡の生還を果たした時の火傷なんだ」<br>　そう言って男は陽気に笑った。まるで滑稽話でもしているかのように。<br>「ごめん……」<br>「何で謝んだよ？　何か俺に悪い事でもしたのか？」<br>「いや、そういう訳じゃ…」ユウは眼を伏せて語尾を濁(にご)した。　<br>　あの火傷に明るい思い出などあるはずもない。そんなことは誰が見ても分かること。昨日までの自分なら、何も訊かず淡々と仕事に入っていただろう。<br>　ユウは小さくかぶりを振った。　<br>　自分の仕事は他人の過去をほじくり返すことではない。<br>　黙って男の性のはけ口になる。それ以上のことは考えることも、する必要もないのだ。なのに……。<br>　今日の自分は全てに於(お)いておかしい。どうかしている。<br>　くだらないことで感情を顕(あらわ)にしたり、触れる必要がない他人の過去に手を触れようとしたり……。<br>「なぁ、1つ訊いていいか？」<br>　目まぐるしく走っていた思考が、男の声によって停止した。<br>　陽気な雰囲気をまとっていた男の顔つきが、いつの間にか真剣な顔つきに変わっていた。<br>「今、生きてて楽しいか？」<br>「えっ？」<br>　唐突に訊かれ、一瞬言葉が詰まった。<br>　表に出かけた動揺を隠すために、ユウは無理やり無機質な表情を作った。<br>　束の間の沈黙。そして……<br>「あんまり楽しくないかな」思わず本音を言ってしまった。<br>「そっか、楽しくないか……」<br>　呟くようにそう言うと、男はベッドから立ち上がった。<br>「どうしたの？」<br>「やめた」<br>「え？」<br>　呆気に取られているユウを尻目に、男は着ていた衣服をまとい始めた。<br>「私、何か気に障ること言った？」<br>　男の視線がユウに向いた。<br>　時間にして約5秒間、ユウは男の視線と対峙(たいじ)した。だが最後は逃げるように眼を逸らした。<br>　男はソファーに腰を下ろし、徐(おもむろ)に口を開いた。<br>「香奈ちゃん見てるとさ、何か籠(かご)に閉じ込められた鳥みたいに見えるんだよね」<br>「え……」<br>　焼けた鉄杭を打たれたような衝撃が胸に走った。<br>　男は真っ直ぐユウを見つめ、更に続けた。<br>「籠に閉じ込められていることを、もう自分の運命として受け入れている。そんな哀れな鳥のように見えるんだよ」<br>　男の言葉が壊れたテープレコーダーのように、頭の中で何度もリフレーンする。<br>　ユウはギュッと拳を握った。<br>　過呼吸に陥(おちい)ったかのように息ができない。<br>　静を保っていた心臓が徐々に暴れ出す。<br>「人生を諦めてしまった脱落者っていうのかな……そんな風にも見える」<br>　固く握った拳が小刻みに震える。<br>「本当はまだ飛ぶ力があるのに、自分からその力を封印してもう飛ぶことを……」<br>「アナタに何が分るっていうのよ！？」<br>　たまらずに叫んでしまった。<br>　男の眼が少し驚いたように見開いた。<br>「何も知らないクセに……分ったような口きかないでよ」<br>　拳を震わせながらユウは低い声で唸った。<br>　怒気の孕(はら)んだ眼で男を鋭く睨みつける。<br>　その眼に溢れた涙が、紅潮した頬に一筋の轍(わだち)を残してこぼれ落ちた。<br>「そんな風に感情的にもなるんだな」<br>「……？」<br>　男はポケットからセブンスターを取り出すと、1本口に銜えた。<br>「もしかして意外な一面ってやつを見せて貰ったのかな？」<br>　そう言って悪戯っぽく笑う。<br>　ユウは敵意むき出しの眼で男を睨んだ。<br>「おっかない眼で睨むなぁ、冗談だよ。もしかして怒った？」<br>　これ以上は付き合いきれない。<br>　ユウは男に背を向けると、無言で衣服を着始めた。<br>　苛立つ心が、荒れ狂う時化のように激しく波頭を立てた。<br>　これまで何度も耳を塞ぎたくなるような、誹謗中傷を受けてきたが、眉ひとつ動かさずに淡々と受け流してきた。<br>　眼を背けたくなるような、凄惨な交通事故の現場の前を通った時でさえ、感情が揺れ動く気配は一切なかった。<br>　なのに今の自分は、ブラのホックをうまく付けられないほどまでに、激昂している。<br>　この5年の間で、こんなことは1度もなかった。<br>　ユウは細かい深呼吸を繰り返し、霧散する平常心を必死にかき集めた。<br>「援交を誘った俺が言うのもなんだが、何で『ウリ』なんてリスクの高い事やってるんだ？　躰を売るにしても、もっと違う方法あるだろ？」<br>　無遠慮な詮索。<br>　ユウは小さく溜め息を吐くと、億劫そうに口を開いた。<br>「お金以外にこんなことをやる理由を、逆に教えて貰いたいわね」<br>　まともに答えるのもアホらしいので、少しばかり皮肉をぶつけてやった。<br>「お金以外にやる理由か……」<br>　腕を組みながら天を仰ぎ、男が思惟(しい)を巡らす。<br>「まぁ思いつくのはヤクザに売られたとか？　かな？」<br>「……」<br>「あ、もしかしてビンゴ？」<br>　ユウは何も答えず無言で帰り支度を始めた。<br>「なるほど、そういう事か。会った時から何となく投げやりな感じだったから、ちょっと気にはなってんだけど、なるほどなぁ……漸(ようや)く合点がいったよ」<br>　男は柔和な笑みを湛(たた)えながら、天井に向かって紫煙(しえん)を吹いた。<br>　どこまでも人をバカにした男だ。もう1秒たりともこんな男とは一緒にいられない。<br>　ユウはバックを引っつかむと、大股でドアに向かった。<br>「よかったら一緒に来るか？」<br>「え……？」<br>　ドアノブを掴もうと伸ばした左手が宙で止まった。<br>「このままヤクザの言いなりで人生を棒に振るのもバカらしいだろ。俺と一緒に来れば、少なくとも今の生活からは抜け出せるぞ」<br>　男の言葉を理解するのに数秒ほど時間がかかった。<br>「何を言い出すかと思えば……そんなこと出来る訳ないじゃない」<br>「なぜ？」<br>「なぜって……」<br>「ヤクザが怖いのか？」<br>「……」<br>「まぁ確かに相手がヤクザじゃビビるなって言う方が酷かもしれないな。でもな、よく考えてみろよ。ヤクザだって所詮は俺達と同じ人間なんだぜ？　神様から逃げるっていうなら確かに骨だけど、同じ人間から逃げるって考えれば、そんなにビビる必要はないだろ？」<br>　ユウは反論しようと口を開いた。でもその反論を形作る言葉が出てこなかった。<br>「物理的に籠に閉じ込められている鳥とは違うんだ。逃げようと思えば簡単に逃げられる。必要なのは一歩を踏み出す勇気と、悪足掻きをする度胸だけだ」<br>　一歩を踏み出す勇気……悪足掻きをする度胸……<br>　男の言葉が頭の中で狂ったネズミのように走り回った。<br>「随分と……知ったような口を利くのね」<br>「ん？」<br>「口で言うのは誰でも出来るのよ」<br>　ユウは眼を伏せながら歯切れの悪い口調で反論した。<br>「知ったような口？　口で言うのは誰でも出来る？　軽く見て貰っては困るな。俺は今現在も有言実行中だ」<br>「有言実行中？」<br>　ユウは訝(いぶか)しげに片眉を上げた。<br>　一瞬不敵な笑みを浮かべ、男が徐に口を開いた。<br>「実はな、俺も今逃亡中の身なんだよ」<br>「え？」<br>「まぁ俺の場合はヤクザじゃなくて警察からだけどな」<br>「警察……？」<br>　一拍の間を挟み、男が更に続けた。<br>「実は俺……プロの詐欺師なんだ」<br>「プロの詐欺師？」<br>　男が小さく頷く。<br>「ぷっ」思わず噴き出してしまった。<br>「……？」<br>　豆鉄砲を食らった鳩のように、男の口がぽかんと開いた。<br>　笑うつもりはなかった。でも押さえることができなかった。<br>「何がおかしいんだ？」<br>「ごめんなさい……」ユウは男から眼を逸らして謝った。<br>　男の顔をまともに見れなかった。見ればまた笑ってしまうから。<br>「何か俺変なこと言ったか？」<br>　男が訝しげに眉をひそめた。<br>　ユウは小さく深呼吸をすると、男から少し眼を逸らして口を開いた。<br>「詐欺師ってもっと狡猾って言うか、頭の切れそうな顔つきしてるのかと思ったけど、実際はそうでもないんだね」<br>「んん？　それはどういう意味だ！？」<br>　男の眼が隈取(くまどり)を施した歌舞伎役者のように吊り上った。<br>「どういう意味も何も、そういう意味よ」<br>「そういう意味って……じゃあ何か？　俺は頭の切れる顔つきじゃないって言いたいのか？」<br>「うん」<br>　ユウは真顔で頷いた<br>「しれっと頷きやがって……言っとくけど俺はこう見えて頭はかなり切れるんだぞ」<br>「へぇ～そうなんだ。ＩＱいくつ？」<br>「ＩＱ……？　あぁ、測ったことないけど多分180くらいじゃないか」<br>「ぶふぅ」<br>　押さえ込んでいた爆笑が喉元まで突き上がってきた。<br>　ユウは口元を抑えて必死に笑いを堪えた。<br>「俺はウケを狙ったつもりは一切ないんだけどな」<br>　顔を引きつらせながら男が低く唸る。<br>「だってその顔でＩＱ180とかって……」<br>　笑ってはいけない。笑ってはいけない……と思えば思うほど、無情なほどに爆笑の波が押し寄せる。<br>「人の顔のことをとやかく言える顔かよ。自分だってクソガキみたいな顔してるクセに」<br>「な！？」<br>「って言うか本当は未成年じゃないのか？　俺イヤだぞ。淫行条例でパクられるなんて」<br>「はぁ？　何言ってんの？　未成年な訳ないじゃない」<br>「本当かよ？　実は中学生とか勘弁してくれよ」<br>「中学生って……それを言うならせめて高校生でしょ」<br>「え、マジで高校生なの？」<br>「それを言うならって意味で言ったのよ。アンタ相当バカでしょ？」<br>「ガキにバカ呼ばわりされたかねぇよ」<br>「私はガキじゃありません」<br>　2人は鬼のように眼を吊り上げて暫く睨らみ合った。<br>　そして同時に噴き出した。<br>　笑った。5年振りに心から笑った。<br>　もう死ぬまで笑うことはないだろう。そう諦めていた。<br>　でも奇跡が起きた。<br>「1つ訊いていい？」<br>「ん？」<br>「何で私を助けようと思ったの？」<br>　率直な疑問をぶつけてみた。<br>　助ける目的が『利用』であれば、答えはもう決まっている。<br>　チラッと男に視線を向けると、アゴを摩(さす)りながら考える格好をしいてた。<br>「確かに言われてみると……何でだろうな？　よく分からない」<br>「分からない……？」<br>「何となくそうしたいと思ったからそうしようと思ったんだろ。きっと」<br>　余りの適当な答えに唖然とした。<br>　あり得ないほどの適当な答え。しかし何故だろうか。<br>　あり得ないほどの適当な答えなのに、何故かその答えが胸に響いた。　　<br>　そしてその不確かで適当な答えに、縋(すが)りつきたいという気持ちが急速に膨らんできた。<br>　こんなこと、今までなら絶対にあり得ない事。<br>　薄々感じていたが、この男と出会ってから、自分の中で何かが変わリ始めている。いや、変わったというよりはむしろ、本来の自分が戻ってきたと言った方が正しいのか。<br>「プー太郎さんって適当だね」<br>「今頃気づいたのか？」<br>「いや、会った時から気づいてた」<br>　胸の中で燻(くすぶ)っていたモノが晴れたような気がした。<br>　今の生活から脱却したい。それが偽りのない本音。<br>　身構えたところで、自分にはもう失うものは何もない。<br>　だったら一か八か、未来を賭けてみるのも悪くない。<br>　その結果が『吉』と出るか『凶』と出るか……それは今の段階では全く分らないが、もし仮に『凶』と出たら、その時は自分の頭上に輝く星が、そういうものだったと諦めればいい。<br>　それだけの事だ。<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　続く……</font><br>
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<link>https://ameblo.jp/sekt2330/entry-11630633798.html</link>
<pubDate>Mon, 07 Oct 2013 22:00:22 +0900</pubDate>
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