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<title>Serching...真理・真実の探求</title>
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<description>真理や真実を解き明かしたい！そんな気持ちで書く個人ブログです。</description>
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<title>「思考者とは思考のことである」という思考に意味はあるのか</title>
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<![CDATA[ 真理や真実を探究していくなら、やはりクリシュナムルティは無視できないと思うので、これから触れてみます。<br><br>クリシュナムルティの本を読んでいて、最初に一番大きな衝撃を受けたのが、<br><br><br><b>「思考者とは思考のことである」</b><br><br>という部分でした。<br><br>今まであった1つの違和感、あるいは謎を解き明かすものだったからです。<br><br><br>葛藤の原因は葛藤そのものということは、もともと他の本を読んだりしていた中でわかっていました。<br><br>人間は肌の内側と外側で、自我と外部を分けていますが、<br><br>これは解釈に過ぎません。<br><br><br>この解釈が、葛藤や争いなどの原因ということですね。<br><br>ここまでは、比較的普通のことだと思います。<br><br>しかしクリシュナムルティは、更にこの考え方そのものが思考であり、思考者であり、錯覚であると指摘します。<br><br><br>視覚によれば、人間には外側にはっきりと輪郭があります。<br><br>触覚の外側も、やはり肌です。<br><br>ですから、肌でわけることはとても自然なことのように思えます。<br><br><br>しかし、この思考そのものが思考者なわけです。<br><br>思考者とは思考のことであるわけです。<br><br><br>このことには、大変感銘を受けたものです。<br><br>しかし、彼の本を読み進めていくと、<br><br>「思考者とは思考のことである」という思考をすることに、何の意味があるのだろうかと疑問に思い始めます。<br><br><br><b>依然として思考は続いている</b>わけです。<br><br>これではいつまでも変わらないのではないかと思ってしまいます。<br><br><br>ですが、クリシュナムルティによれば、<br><br>「思考者とは思考のこと」に気づくのは、知覚（あるいは空、秩序、愛など）ではなく、<br><br><b>思考</b>のようです。<br><br><br>もしそうであるなら、<br><br>何の問題もないということですね。<br><br><br><b>秩序、知覚にはそもそも思考が生じないので、<br><br>「思考者とは思考のことである」という思考も生じません。</b><br><br><br>よって、このことに気づくのは間違いなくエゴということですね。<br><br><br>思考者とは思考そのものであり、エゴとは思考そのものであり、錯覚に過ぎないと思考そのものが気づきます。<br><br>それで問題ないということですね。<br><br>思考が無意味であることを知るには、思考を腐るほどするしかないのかもしれません。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/serching-truth/entry-11876257534.html</link>
<pubDate>Sat, 14 Jun 2014 16:18:32 +0900</pubDate>
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<title>「一人でいても寂しくない」は誤魔化しているだけという説</title>
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<![CDATA[ 「友達なんていなくても平気だ」とか、<br><br>「一人でいれば慣れてきて寂しさなんてなくなる」<br><br>といった話がありますね。<br><br><br>しばしば世間的な友達の価値観に反発するかのようにも見えるかもしれません。<br><br>確かに、実際に寂しさを誤魔化しているだけでしかないケースもあるでしょう。<br><br>友達なんていなくて問題ないという反発をしているだけの場合もあるでしょう。<br><br><br>しかし、これには違和感があります。<br><br>というのも、むしろ最も孤独感を誤魔化しているのは、友達が多い人や、<br><br>社交性が高い人の方だと思うからです。<br><br><br>どんなに意気投合しても、どんなに仲が良くても、<br><br>本当に理解し合えるわけではありません。<br><br>これはそもそも不可能なことです。<br><br><br>どんなに仲の良い恋人同士であったとしてもです。<br><br>感覚を共有できるわけでも、思考が共有できるわけでもありません。<br><br>また、感情も同じ物事においても異なることは多々あります。<br><br><br>理解し合うことはできません。<br><br>従って、孤独感は完全に解消できません。<br><br>特に仲が良い相手に対して、ついつい理解を求めてしまいがちです。<br><br><br>しかし、理解を求めている時点で、一種の孤独感があります。<br><br>寂しさがないのであれば、相手の理解など不要ですから。<br><br><br>ただ、これは友達が不要であるという話ではなくて、<br><br>どんなに頑張っても孤独感を否定することはできないということです。<br><br>要するに、孤独であることを受け入れることです。<br><br><br>ただ見守る感じです。<br><br>友達の例でいえば、友達はいてもいなくてもいいといったニュアンスですね。<br><br>柔軟に対応する感じです。<br><br><br>もちろん、意気投合すれば仲良くなればいいでしょう。<br><br><br>ただ、相手に理解を執拗に求めたりしてはいけません。<br><br>理解を求めなくても理解されることに、意味があるのです。<br><br>だから友達なのです。<br><br><br>自然に生じることこそが、友達との関係です。<br><br>キャラを作ったり、ムリして友達と多く付き合うことは、<br><br>孤独感を誤魔化し続けるのであとでものすごい孤独感、虚無感に襲われるのではないかと思います。<br><br><br>本能のままでいいわけでもないのですが、<br><br>自分を作りすぎるのもよくないですね。<br>
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<link>https://ameblo.jp/serching-truth/entry-11875765547.html</link>
<pubDate>Thu, 12 Jun 2014 01:32:42 +0900</pubDate>
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<title>そばなどの中庸食品で気をつけること</title>
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<![CDATA[ 中庸食品ということで、そばなどを食べようとしている人や、食べている人は多いと思います。<br><br>私は陰性体質なので、中庸食品を多めに摂りたいと思っています。<br><br>その際、気をつけてほしいところがあるのですが、<br><br>その前にそもそもこういった食品は本当に中庸なのかという疑問があるかもしれません。<br><br><br>陰性や陽性といったことが情報によって違うケースは、しばしば見られます。<br><br>例えばそばの場合は、中庸～陽性の間ではないかと思います。<br><br>白米だったら、陰性～中庸でしょうか。<br><br><br>なぜ同じ食べ物なのに情報が違うのかというと、地域の違いもあります。<br><br>育ち方も環境も違います。<br><br>感じ方にも、多少差がありそうですね。<br><br><br>なので、理想は自分で感じられることでしょう。<br><br><b>断食をすると、陰陽のエネルギーを感じやすいようです。</b><br><br>砂糖なんかは、常温で保存していてもひんやりしていますけど。<br><br><br>まぁ環境が違えばまた違うかもしれませんが･･･。<br><br>中庸食品だと何も感じないかもしれないので、<br><br>陰陽が激しい方が感じやすいでしょう。<br><br>体にはあまり良くないかもですが･･･。<br><br><br>さて、そんなわけで中庸を目的として白米やら蕎麦やらを食べようということになったとして、<br><br>注意してほしいのが原料や製法です。<br><br>同じ小麦粉でも、全粒粉はおそらく陰性度が弱いと思います。<br><br><br>白米も、胚芽米などのほうが陰性度が弱いでしょう。<br><br>とはいえ白米の時点で、中庸的とは思うので気にしなくていいかもしれませんが。<br><br>そして原料で意外と陥りやすいのがそばです。<br><br><br>というのも、大抵の市販の品はそば粉よりも小麦粉のほうが多いからです。<br><br>7<b>割～9割ぐらいでしょうか。かなりの部分が小麦粉です。</b><br><br>そばはアミノ酸スコアが高い食品とされていますが、小麦粉が大半では意味がありません。<br><br><br><b>血糖値も急上昇</b>します。<br><br>そば粉は血糖値が上昇しにくいのですが、それで小麦粉が大半のものを食べてしまえば、<br><br>ほとんど意味がなくなります。<br><br><br>さらに、加工に加工を繰り返しているわけですから、陰性寄りになっている可能性が十分あります。<br><br>小麦粉の割合がどれぐらいまでなら安全圏かはわかりませんが、<br><br>最低5割まで、1～3割ぐらいには収まる物を購入するといいかもしれません。<br><br>特に100％そば粉を使用している十割そばは安心でおすすめです。<br><br><br><table cellspacing="0" cellpadding="0" border="0"><tbody><tr><td valign="top"><div style="border: 1px solid; margin: 0px; padding: 6px 0px; width: 260px; text-align: center; float: left;"><a target="_blank" href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0c9be379.a8987d75.0c9be37a.f627a4ea/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fsoukai%2f4902110091076%2f%3fscid%3daf_link_tbl&amp;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fsoukai%2fi%2f10149900%2f"><img border="0" style="margin: 0px; padding: 0px;" alt="滝沢更科 十割そば / 滝沢更科●セール中●★税抜1900円以上で送料無料★滝沢更科 十割そば(200..." src="https://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/?pc=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fsoukai%2fcabinet%2f76%2f4902110091076.jpg%3f_ex%3d240x240&amp;m=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fsoukai%2fcabinet%2f76%2f4902110091076.jpg%3f_ex%3d80x80"></a><p style="font-size: 12px; line-height: 1.4em; text-align: left; margin: 0px; padding: 2px 6px;"><a target="_blank" href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0c9be379.a8987d75.0c9be37a.f627a4ea/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fsoukai%2f4902110091076%2f%3fscid%3daf_link_tbl&amp;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fsoukai%2fi%2f10149900%2f">滝沢更科 十割そば / 滝沢更科●セール中●★税抜1900円以上で送料無料★滝沢更科 十割そば(200...</a><br><span>価格：268円（税込、送料別）</span><br></p></div></td></tr></tbody></table><br><br><br>陰性の人は、甘い物や糖質系が好きだと思いますので、<br><br>こういうところで工夫していくと改善していきやすいと思います。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/serching-truth/entry-11874713690.html</link>
<pubDate>Mon, 09 Jun 2014 20:05:53 +0900</pubDate>
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<title>スピリチュアルなどに対する科学的批判の違和感</title>
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<![CDATA[ スピリチュアルやオカルトなどに対する批判で、<br><br>「なんて非科学的なんだ！」<br><br>といったものがよくあります。<br><br><br>しかし疑問なのは、そのスピリチュアルなどの思想は、<br><br><b>紛れもなく科学によって引き起こされた</b>ものです。<br><br>少なくとも科学を信仰するのであれば、このことを前提とするしかありません。<br>（科学に対して中立の立場を維持する場合は話は別ですが、そういった人は非科学的なことに対しても中立なので除外します）<br><br><br><br>思考も電気の一種なわけですから、その思考も科学によって引き起こされています。<br><br>それなら、<b>その思考を引き起こした科学を批判すべき</b>ではないでしょうか。<br><br><br><br>もちろん、「非科学的な思想体系（スピなど）に関することの思考」という科学的な現象に対して、<br><br>「それは非科学的思考に過ぎない」という（批判的ながらも結局は）科学的現象が生じただけですから、<br><br>それはそれでいいのですが。<br><br><br><br>どちらも、科学的現象の中にあることですから、<br><br>科学的にはどっちがどうとかないはずです。<br><br><br>少なくとも、何らかの科学的理論によって、<br><br><b>「スピやオカルト思考」という電気信号</b>と、<br><br><b><font color="#FF0000">「スピやオカルト思考は非科学的である」という電気信号</font></b>に、<br><br>科学的優劣や比較の結論を与えることはできません。<br><br><br><br>私が科学において違和感があるのは、<br><br>前述にもかかわらず科学の中で科学を証明している点です。<br><br>「この実験をやって再現性100％だから、こういった法則がある」という思考（科学的現象）が、<br><br>科学的に引き起こされているわけです。<br><br><br><br><b>その科学という名の思考が、科学という別の法則を証明している</b>（あるいは証明しているつもりになっている）ことに、<br><br>違和感があります。<br><br><br><br>証明しているというよりも、証明させられている感じがしますね。<br><br>科学という体系の中に矛盾がないことは、確かに科学の立場からは重要です。<br><br>しかし一方で、科学が科学を証明したところで、どうしてもそれは証明にはなり得ないように思えます。<br><br><br><b>「我思う故に我あり」</b>と一緒です。<br><br>これは、我の存在を証明しているわけではなく、<br><br>「我思う故に我あり」という思考を（証明）しただけでしかありません。<br><br><br><br><b>「そうは言っても、そこには我があるじゃないか」<br></b><br>という思考をしただけに過ぎません。<br><br>ただ思考だけがあるかもしれないのです。<br><br><br><br>同じように、<br><br>「あらゆる実験によって、この世界の謎を解き明かし、万物の理論を手に入れた」<br><br>という思考（科学的現象）が起きたことしか示さないように思えるのです。<br><br><br>思考に限らなくても、<br><br>科学的現象に過ぎません。<br><br>つまり、万物の理論を発見したという科学的現象が起きたことしか示さないのです。<br><br><br>これは極端な話ですが、<br><br>万物の理論を発見したとき、<br><br>それは科学が<b>「人類に万物の理論を発見したという現象」</b>をもたらしたに過ぎず、<br><br>人類にとっては「万物の理論」でも、<br><br>科学にとってそれは四天王の中でも最弱に過ぎないかもしれないのです（笑）<br><br><br><br>科学に踊らされているだけではないかということですね。<br><br>科学の中で科学を証明しているということですから、<br><br>全ての現象が科学の中にありますよね。<br><br>なので、「科学の中で科学を証明したという科学的現象」が起きただけということになります。<br><br><br><br>換言すれば、この世に存在する本物の真の万物理論とは、どんな理論体系もとることができるのではないかということです。<br><br>科学は固定的ですが、真の理論は柔軟性を持っている気がしてなりません。<br><br>科学とは、その中の一定パターンであり、<br><br>人類にとっては私たちが住んでいるこの宇宙のパターンが科学であり、<br><br>ましてやそのパターンの中で私たちは科学的だの何だの言っているに過ぎません。<br><br>このことは、あまりにも特定のパターン過ぎて真の万物の理論には遠すぎる気がするのです。<br><br><br>なぜなら、科学を生み出すものこそが本当の科学に思えるからです。<br><br>今ある科学は、あまりにも個別具体的すぎます。<br><br><br>尤も、それが科学といえば科学ですし、科学の探究を止むこともないでしょう。<br><br>人類が万物の理論を発見することがあるのかどうか･･･。<br><br>いずれにしても、やってみるしかありませんし、歩みを止めることもないかもしれません。<br><br><br>そして、依然としてこの記事も科学的現象に過ぎないかもしれません。<br><br>だとすれば･･･、科学とは一体なんなのでしょうか･･････。<br>
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<link>https://ameblo.jp/serching-truth/entry-11869671241.html</link>
<pubDate>Tue, 03 Jun 2014 21:45:10 +0900</pubDate>
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<title>友達がいない、就職できない、夢が実現しないかもという恐怖</title>
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<![CDATA[ <a href="http://ameblo.jp/serching-truth/entry-11829219476.html" target="_blank">以前の記事</a>では、友達関係というのはただの共依存に過ぎないことが多いといったことを書きました。<br><br>しかし例えどんなに友達関係とはそんなものと理解したところで、<br><br>一生孤独かもしれない、ひとりぼっちかもしれないという恐怖が消えるわけではありません。<br><br><br>友達は友達でいてもいいわけですが、あまり依存しすぎないようにしましょう。<br><br>お互いを尊重できない関係なら、あまり維持する意味もないと思います。<br><br>共依存ということを踏まえてあえて維持するのも自由ですが。<br><br><br>さて一方で、恐怖は恐怖で向き合わないといけません。<br><br>多くの人が友達がほしいと思うのは、恐怖や焦り、不安があるからではないでしょうか。<br><br>様々な意味で友達がいたほうが、何かと心強いと思う人も少なくないでしょう。<br><br><br>この恐怖は、孤独感だけではありません。<br><br>就職できなかったらどうしよう、お金がなくなったらどうしよう、<br><br>夢を追いかけているのに実現しなかったらどうしようといったように、<br><br>ありとあらゆる恐怖がこの世では感じられます。<br><br><br><br>恐怖はさらなる恐怖を呼びます。<br><br>お金がなくったらどうしよう･･･。<br><br>不安だから、資格を取っておこう。<br><br><br>でも、資格取っても仕事がなかったらどうしよう･･･。<br><br>年をとるばかりなのに、クビになったら大変だな･･･。<br><br>最悪アルバイトをたくさんすればなんとかなるかな。<br><br><br>でも、周りに変な目で見られたら嫌だな･･･。<br><br>それに、アルバイトすら通るとは限らないし･･･。<br><br>病気になったら更にお金もかかっちゃうな･･･。<br><br><br><br>このように、恐怖は連鎖しやすいのです。<br><br>では、恐怖の連鎖から私たちは逃れることができるでしょうか。<br><br><br>日本の借金が大変なことになっていて国が破綻するかもしれないとか、<br><br>食糧危機や水不足になってしまうかもしれないとか、<br><br>様々なネガティブ情報が飛び交うこの社会の中で、<br><br>恐怖に支配されずに生きていくことができるでしょうか。<br><br><br>なぜ私たちは恐怖に支配されるのでしょうか。<br><br>それは、恐怖から逃げてしまうからです。<br><br>友達がいないという恐怖、あるいは自分に価値はないのではないかという恐怖があります。<br><br>誰にも助けてもらえず、見向きもされないのではないかという恐怖です。<br><br><br>あるいは、夢が実現しないかもしれないという恐怖です。<br><br>夢が叶わず、みじめで悲惨な人生を送っているかもしれない恐怖です。<br><br>未来のみじめで哀れな自分を目撃することに対する恐れです。<br><br><br>この恐怖から逃れるために、人は未来に希望を託し、<br><br>恐怖は見て見ぬフリです。<br><br>しかし、恐怖から逃げれば逃げるほど恐怖は大きくなります。<br><br><br>これは例えるなら、あと3時間で死ぬと宣告されたときに、<br><br>時計をあえて見ないようなものです。<br><br>ですが、いつ死ぬのかわかりませんよね。<br><br>1時間後か、30分後か、10分か、5分か、あるいは今死ぬかもしれないという風に、<br><br>心の奥では恐怖がただただ大きくなるだけです。<br><br><br>しかし、時計を見てしまえば、50分後に死ぬというそれだけの恐怖で終わります。<br><br>恐怖を見てしまえば、感じてしまえば最小限の恐怖で済みます。<br><br>5分後、10分後、15分後、20分後といったあらゆる可能性がある以上、<br><br>それらの可能性すべてに恐怖が生じます。<br><br><br>こうして恐怖は大きくなります。<br><br><br>ですから、恐怖から逃げてはいけません。<br><br>時計をちゃんとチェックして、残り時間を確認しないといけません。<br><br>そうでなければ、いつまでも恐怖は大きくなるばかりなのです。<br>
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<link>https://ameblo.jp/serching-truth/entry-11844931877.html</link>
<pubDate>Thu, 08 May 2014 19:58:55 +0900</pubDate>
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<title>資本主義の本質とは何か　～不況で不透明な世界を生き残るには～</title>
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<![CDATA[ 自然は誰のものでもありません。<br><br>この世にある資産はすべて、最初は誰の物でもありません。<br><br>自然は自然です。地球の資産と見なすこともできます。<br><br>しかし、人間が所有権というものを主張し始めると、ほぼ全ての物が誰かの所有に割り当てられました。<br><br>この世の商品、資産は自然にあったものをすべて変換、加工して作られています。<br><br><br><br>資本主義は、文字通り資本を全てとする体制です。<br><br>しかし、本来は生活のために資本主義があります。<br><br>資本主義の上に生活があるのではなく、まず生活があってその上に資本主義があるべきと思います。<br><br>なぜなら、自然は誰のものでもないからです。<br><br><br>この世に赤ん坊として誕生してきたときには、誰のものでもないはずの自然が、<br><br>既に誰かのものになっています。<br><br>きっと希少価値が高い自然を確保した人間が、資本主義を強く望んだのだろうと思います。<br><br><br><br>世の中では、逆転現象が多く見られます。<br><br>生活のための仕事が、仕事のための生活になります。<br><br>生活のための社会が、社会のための生活になっています。<br><br>生活のための法律が、法律のための生活になります。<br><br><br>そして、生活ためのお金が、お金のための生活になります。<br><br>それは物々交換のためだったはずのお金が、お金のための販売になります。<br><br><br>お金というものは、実在する資産や商品価値と等しくならなければなりません。<br><br>100万円分の資産、商品が存在するのに、1億円の紙幣が出回っているとインフレです。<br><br>1万円分のお金しか出回っていなければ、デフレです。<br><br><br>お金には、それぞれ額が違う物が用意されています。<br><br>これが、インフレやデフレの仕組みをわかりにくくさせています。<br><br>額面を印字せずに、例えば金100gの棒を貨幣として使うことを想定してみましょう。<br><br>金の棒は全部で<b>1万本</b>とします。<br><br><br><br>もし1億円の価値が市場にあるのであれば、金の棒1本あたり1万円の価値です。<br><br>もし100億円なら、1本あたり100万円です。<br><br>100万円なら、1本あたり100円です。<br><br><br>お金の価値とは、本来こうして決まるものです。<br><br>しかし、貨幣に金額を印字すると、まるでお金そのものが価値を持つような錯覚に陥ります。<br><br>更に、インフレやデフレの本質的な仕組みがわからなくなります。<br><br><br>今回の例からわかるように、変わるのはお金の価値であって物価ではありません。<br><br>物価が変わるとしたら、単純に需給の問題です。<br><br><br><br><br><br>最初に言ったとおり、この世の中の資産、商品は自然が源です。<br><br>ですから、資本主義で強者になることはまさに自然を押さえることですね。<br><br>これが一番シンプルな方法です。<br><br>もちろん、そうでない数多の方法もあるでしょうが。<br><br><br>とはいえ、資本主義ですから資本主義の本質は資本にあるとも言えます。<br><br>一方で、その本質である「資本」の本質は自然でもあるわけです。<br><br>理想は、自然を確保することですね。<br><br>しかし、自然は誰のものでもないはずなので、感謝だけは忘れないようにするべきでしょう。<br><br><br>あと日銀は、とにかく金融緩和を続けるようなので、インフレに備えておくことがいいのかなと思います。<br><br>特に、紙幣の価値が一気に下がるかもしれないので、<br><br>できるだけ紙幣を金とかに換えておくといいかもしれません。<br><br><br>まぁもしかすると、金融危機などが起きてデフレになったりするかもしれませんが･･･。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/serching-truth/entry-11821622645.html</link>
<pubDate>Sat, 03 May 2014 20:59:21 +0900</pubDate>
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<title>だらけてしまう自分を努力をする自分に変える方法</title>
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<![CDATA[ 私たちはついつい甘くなってしまい、努力が手抜きになってしまったりします。<br><br>なかなかやる気が起きなかったり、明日やろうということになってしまったり･･･。<br><br><br>そこで、自分自身を変えたいと思いますが、なかなか続きません。<br><br>数日も経てば、元通りでいつも通りです。<br><br>いったいどうしたら自分を変えられるのでしょうか。<br><br><br>自分を変える方法は1つではありません。<br><br>よくある例としては、以下のものがあります。<br><br>・環境を変える（付き合う人を変えることも含めて）<br><br>・ゴ－ルをイメージし、ゴールから逆算する<br><br><br>環境を変えるのが有効であることはわかると思います。<br><br>ただ、変えられない環境もあります。<br><br>また、環境に依存してしまうことでもあります。<br><br>とはいえ、環境の変化が解決になりそうであれば、実行した方がいいでしょう。<br><br><br>一方で、ゴールをイメージして、逆算してそれを実行していくという方法は、<br><br>かなり難しいです。<br><br>これで変えられる人というのは、基本的に天才だけと思った方がいいです。<br><br><br>そこで提案するのが、素晴らしい物事だけを集めるようにすることと、<br><br>プレッシャーをあえて設定することです。<br><br>これは、どちらかと言えば環境の変化に入ります。<br><br><br>ただ、ガラッと環境を変えるわけではなく、理にかなった環境の変え方をします。<br><br>まず最初に挙げた、素晴らしい物事だけを集めるようにすることについて解説します。<br><br><br>これは、例えば圧倒的に素晴らしい人の本を読むことが挙げられます。<br><br>例えば、松下幸之助の本を読んでやる気がでてがんばれるのであれば、<br><br>その本を頻繁に読みます。<br><br><br>ついついネットサーフィンをしてしまうのであれば、<br><br>ストイックに努力してる人のブログを見るようにして、<br><br>一方でダラダラしてしまうようなサイトを見ないようにします。<br><br>とはいえ、きっと不要なものも見てしまうでしょう。<br><br><br>しかし重要なことは、素晴らしい物事、人と毎日のように接していると、<br><br>だんだん意識が同調してくることです。<br><br>もちろん、完全には難しいでしょうが、<br><br>だんだん余計なことをしなくなってきます。<br><br><br>素晴らしい人や物事だと、例えば聖書が1つの例です。<br><br>あるいは、興味のある分野の中で、この人のようになりたいと思えるような人を見つけて、<br><br>毎日見るのもいいですね。<br><br><br>毎日触れていると、雰囲気みたいなのがわかってきます。<br><br>そうすると、不要な物事には同調しづらくなります。<br><br><br><br>一方で、やる気が下がることはしないようにします。<br><br><br>ここで重要なのが、早い話不要と思うものはどんどん捨てることです。<br><br><br>捨てるといっても、物理的に捨てることだけを意味するわけではありません。<br><br>たとえば、ついついゲームをしてしまうのであれば、<br><br>ソフトを売り払ったり、アンインストールすることです。<br><br>あるいは、すぐ飽きてしまうゲームだけ残します。<br><br><br>どうでもいいようなものをネットで見てしまうのであれば、ブックマークから削除してしまいます。<br><br>もしかすると、削除したくないかもしれません。<br><br><br>でも、ストイックな人や素晴らしい人格者の話に毎日触れていると、<br><br>近いうちに削除しようと思える日がくるのではないかと思います。<br><br>そのときに、さっさと削除してしまいます。<br><br><br>音楽を聴くのであれば、できるだけやる気がでるような音楽を聴きます。<br><br>それは時に情熱的な曲かもしれませんが、<br><br>一方でモーツァルトやバッハなども聴くといいと思います。<br><br><br>何というか、宇宙と一体化できるような曲とかがいいと思います。<br><br>普通の曲だと、あまり努力する気にはなれないんじゃないかなと思います。<br><br>ましてやラップなんかだと、「Hey!Yo!」と同調してしまいます（笑）<br><br>これではサボってしまいかねません。<br><br>とはいえ、ほぼ問題なく努力できるのであれば別に何でも構いませんが。<br><br>大抵は、再現性に乏しく却って逆効果だったりします。<br><br>なので、聴く曲1つとっても、見直していきましょう。<br><br><br>これを聴くと無心になれるという感じの曲を、毎日聴きます。<br><br><br><br>こうして触れる情報をたくさん変えるだけでも、かなり違ってきます。<br><br>ただ、やはりちょっとゲームしてしまったりとか、<br><br>漫画を読んでしまったり、友達とダラダラしたり、<br><br>あるいはいろいろな話で盛り上がったりすると、また元に戻ってしまいやすいです。<br><br><br>とはいえ、毎日見ているのであれば、少しずつ変化はすると思います。<br><br><br>できるだけダラダラしてしまったり、サボってしまう要素をなくしていくことがいいです。<br><br>たったちょっとでもゲームをやると、ダラダラしてしまいやすいと気づくことができれば、<br><br>完全にやめることに近づけるようになると思います。<br><br><br>もちろん、たまには娯楽も良いと思いますけどね。<br><br><br><br>さて、それからプレッシャーを自分で設定していくことについて解説します。<br><br><br>プレッシャーの設定とは、<br><br>例えば勉強していきたいのであれば、資格試験や模擬試験に応募してしまいます。<br><br>ブログを始めて、惜しみなく公開してみてもいいかもしれません。<br><br>もちろん、講座に応募するの良いですが、講座の内容次第という点は注意です。<br><br><br>それから、日々の予定を埋めていきます。<br><br>これは、他人と接する予定です。<br><br>締め切りがないと、人はダラダラやってしまいます。<br><br>なので、人と会う時間を設定すると、緊張感が出てきます。<br><br><br>なにせ、自由に使える時間が減っていきますからね。<br><br>もちろんできるのであれば、他人と接さない内容でもいいです。<br><br>筋トレとか、予定をどんどん入れてもいいわけですが、<br><br>大抵サボってしまうので、他人と関与する方がいいです。<br><br><br>勉強であれば、もちろん勉強を他人にみてもらうような時間がいいです。<br><br>ただ、そうでなくとも、別の習い事とかでも忙しくなってくるので、<br><br>時間に緊張感がでてくるのではないかと思います。<br><br><br>毎朝1時間図書館やカフェに行って勉強するとかでもいいですね。<br><br>実際にはする気が起きないかもしれませんが、とにかく行くだけ行きます。<br><br><br><br>定期的に一人合宿とかしてみてもいいかもしれませんね。<br><br>もちろん、可能であれば他人がいたほうがいいかもしれませんが、<br><br>遊びになってしまうぐらいなら一人のほうがいいでしょう。<br><br><br>漫画喫茶で徹夜で勉強とか、可能ならどこかに宿泊してずっと努力し続けるとかですね。<br><br><br>いずれにしても自分を変えるには、できるできないを環境のせいにするよりも、<br><br>自分がこの環境を選んでいるんだという認識が重要かなと思います。<br><br><br>環境に支配されているわけではないはずなんです。<br><br>多くの人は、世間一般でいうとおりに行動しているだけかもしれません。<br><br>でもそれは、洗脳と言っても過言ではないでしょう。<br><br><br>このような行動様式では、自分の行動に責任を持つことができません。<br><br>他人の言うとおりにしていようといまいと、自分の人生における全ての責任は自分にあります。<br><br>全責任を自分で負うことが、トラブルの問題である依存を解消することにも繋がります。<br><br><br>これはこれで、かなり難しいことなんですが。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/serching-truth/entry-11829513085.html</link>
<pubDate>Thu, 24 Apr 2014 22:18:39 +0900</pubDate>
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<title>友達が少ない（あるいはいない）がそもそも友達は必要なのか</title>
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<![CDATA[ 友達がいなかったり少なかったりで、悩む人がいると思います。<br><br><br>私は以前、友達というのは深い関係でないと意味がないと思っていました。<br><br>大体この考えは、中学～高校ぐらいですかね。<br><br>大学入る前ぐらいになると、過去問やノートなどの試験対策はあったほうがいいらしいので、<br><br>浅い関係は浅い関係で付き合えばいいと思うようになりました。<br><br><br>この流れは、他の人にも割とあるんじゃないかなと勝手に思っていたりします（笑）<br><br><br>ですが･･････、最近1つ気づいたことがあります。<br><br>それは前回の記事とも重なるのですが、<br><br>そもそも友達との深い関係、いわゆる漫画であるような深い友情というものは、<br><br>ただの共依存に過ぎないのではないかということです。<br><br><br>依存的な関係は、トラブルの元にもなります。<br><br>もちろん、デメリットだけでなくそれ相応のメリットもあるわけです。<br><br>ただ、人間関係においてどんなに頑張っても、理解されたり理解したりすることは不可能だと思います。<br><br><br>一見信頼関係があるように思えるかもしれませんが、<br><br>実際には共依存なので、「なんで言ったとおりに行動してくれないんだ」といった不満が溢れてきます。<br><br>「これぐらい察してほしい」といった欲求も出てきます。<br><br><br>そういった関係よりは、会いたいときに会い、純粋に時間を楽しんで、<br><br>無意味に会ったりはしない関係のほうが、<br><br>むしろ友達と言えるんじゃないかなと思います。<br><br>相手の意見や決断、価値観などを尊重しあえる感じですね。<br><br><br>依存という観点に立つと、多くの友人関係というのは、ただの依存かなと思います。<br><br>でも、前回の記事で書いてますが、依存を愛だと思い込んでいる人が結構多いように思えます。<br><br>いわゆるダメ男に貢ぐ女といったあからさまな構図ではありませんが、<br><br>本質的には一緒に思えます。<br><br>もちろん、依存したり共依存したりするのは、人の自由ですけどね。<br><br><br>そういう意味では、友達が少ない人というのは、依存に過ぎないという本質に無意識的に気づいているのではないかなと思います。<br><br>お互いを尊重し合えない関係であれば、そもそも友達として維持する意味はないでしょう。<br><br>なかなかこういった関係をつくるのは難しいですけどね。<br><br><br>人間関係が深まっていくと、依存的になりやすいです。<br><br>そのうち、共依存を強化することが人間関係を深めることと勘違いしてしまいます。<br><br>そこが注意ですね。<br><br><br>人間関係がどんなに深まっても、相手に依存せず精神的自立を前提として接することが大事かなと思います。<br><br>もしかすると、この前提ではそもそも大して深まらないかもしれませんが、<br><br>精神的には充実していると思います。<br><br><br>とはいえ、人間ですから、現実には精神的に全く依存しないことはほぼ不可能でしょう。<br><br>多少依存しあうことが、そもそも友達として前提なのかもしれません。<br><br>ただ、依存するということは依存しないという精神的自立を前提として行われることが必要です。<br><br><br>友達すなわち依存し合う関係がほしいというのであれば、それはそれでその人の自由です。<br><br>依存的な関係は望まないのであれば、友達がいないとか少ないことで、悩むことはナンセンスと思います。<br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/serching-truth/entry-11829219476.html</link>
<pubDate>Tue, 22 Apr 2014 22:07:12 +0900</pubDate>
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<title>多くの問題は依存が原因である</title>
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<![CDATA[ 最近気づいたのですが、世の中の多くの問題、トラブルに共通した原因があります。<br><br>それが依存であるとわかりました。<br><br><br>普遍性という観点から世の中を見ると、依存というものはあまり出てきません。<br><br>普遍性という見方では、依存という概念は個別具体的すぎるからです。<br><br><br>世の中の問題の多くは、欲望とか邪心が原因とされると思います。<br><br>もちろん、それらも問題です。<br><br>それらも含んだ上でさらに超えた観点が、依存です。<br><br>邪心も欲望も、依存の一種です。<br><br><br>一般には、「他人には期待するな」と言われます。<br><br>この期待も依存です。<br><br><br>なぜ人は感謝するのでしょうか。<br><br>それは依存しているからです。<br><br>あって当たり前の物事に、人は感謝をしません。<br><br><br>ですが、あって当たり前ということはつまり依存しているということです。<br><br>依存していることに感謝すると、精神的に依存ではなくなります。<br><br>なぜなら、感謝することはあることが当たり前でないことを認めることだからです。<br><br><br>以前にも書きましたが、依存と認めること自体が、精神的には依存でなくなり始めるのです。<br><br><br>信念も依存の一種です。<br><br>思考も、イメージも、感情も依存であり、そして依存が原因です。<br><br>こうした依存という観点に立つと、結婚も依存まみれであることに気づきます。<br><br><br>察してほしいをやめれば、夫婦喧嘩の八割は減るという意見もあるみたいです。<br><br>もちろん、この察してほしいも依存です。<br><br>ちゃんと、思っていることは表明しましょう。<br><br><br>同時に、思っていることを口にしないほうが悪いと思わず、<br><br>できるだけ口に出してもらうように努めてみましょう。<br><br>そうすると、依存性が薄れていきます。<br><br><br>依存が愛であると勘違いした結婚は、<br><br>問題が起こりやすいでしょう。<br><br>依存や執着は、あらゆるトラブルを引き起こします。<br><br><br>あっちが得かこっちが得かといった悩みも、依存が原因です。<br><br>変化を避けてしまうのも、依存が原因です。<br><br>世間体を気にするのも、人の意見に左右されるのも依存が原因です。<br><br><br>他人が思うように動いてくれないというのも、依存が原因です。<br><br>死が怖いのも、依存が原因です。<br><br>諸問題を社会や他人のせいにするのも、依存が原因です。<br><br><br>では、この依存はどうすればいいのでしょうか。<br><br>それが、感謝です。<br><br>感謝が第一歩です。<br><br><br>感謝をすればするほど、依存していることに気づきます。<br><br>まさに気づきがなければ、依存の問題が解決することはありません。<br>
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<link>https://ameblo.jp/serching-truth/entry-11828449897.html</link>
<pubDate>Sun, 20 Apr 2014 23:30:15 +0900</pubDate>
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<title>動物も植物も生きているのになぜ肉食を批判するのかということ</title>
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<![CDATA[ 菜食をしている人は、ついつい肉食を批判してしまいがちです。<br><br>「菜食している私は偉い」<br><br>みたいになってしまうのだと思います。<br><br><br>しかし、それでは肉食動物の存在を否定してしまいます。<br><br>動物保護のために菜食していても、結局動物を否定してしまうわけです。<br><br>菜食主義になってしまうと、よくないと思います。<br><br>菜食していようがいまいが、人は人ですからね。<br><br><br>さて、その上で菜食に対して肉食を正当化したいのかわかりませんが、<br><br>「植物だって生きているのに、動物とどう違うのか」<br><br>という反論がよくされます。<br><br><br>しかし、これはもっと根本的に冷静に考えればわかることだと思うんです。<br><br>この答えは、何と言っても「痛覚や感情がない」ということに尽きるでしょう。<br><br>もうこれが、本質的な答えでしょう。<br><br><br>人間の体で例えれば、肉食とは言わずもがな人肉を食べることです。<br><br>ですが、菜食は爪や髪の毛を食べることに等しいです。<br><br>痛覚がなく、かつまた生えてくるという点が非常に重要です。<br><br>自分の肉と髪の毛どちらを食べられる方がマシかなんて、答えるまでもありませんよね。<br><br><br>植物というのはそういうものなんですね。<br><br>むしろ、地球の生物のためにサポートしている存在といっても良いぐらいじゃないでしょうか。<br><br>植物と人間の関係には、共生してると言っていい部分がありますからね。<br><br><br>また、痛みがないというたった一点だけでも、大きく異なってきます。<br><br>特に、物理的な痛みだけでなく、精神的な痛みがないことも重要です。<br><br><br>果実をもぎとっても、その木にはまた実が成ります。<br><br>確かに動物を食べても、また赤ちゃんを産ませればいいです。<br><br>しかし、一緒に生活をしてきた家族がいなくなってしまう悲しさや痛みが、<br><br>動物にはあります。<br><br><br>知能が低いとあまりないかもしれませんけど。<br><br>いずれにしても、菜食をするに越したことはないと思います。<br><br><br>肉食をするのであれば、動物の命を犠牲にしていることを認識したうえで、「いただく」ことが重要と思います。<br><br><br>私は食べる前に、<br><br>どういった動物でどういった環境でどういう風に過ごしてきたのかというのを想像します。<br><br>もちろん、そんなのはほとんど妄想の領域です。<br><br><br>ただ、私はこういうことをしないと、命を犠牲にしていることを忘れそうになってしまうのです。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/serching-truth/entry-11801220651.html</link>
<pubDate>Sat, 29 Mar 2014 15:14:18 +0900</pubDate>
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