<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>大久保 彦駄衛門のブログ</title>
<link>https://ameblo.jp/sergeant-york/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/sergeant-york/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>ブログの説明を入力します。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>和歌山の絶景”象の背”を見て</title>
<description>
<![CDATA[ ２～３日前のテレビで和歌山の”象の背”の絶景を見て、色んな<br>思い出がよみがえりました。<br>　５０年ほども前に父親を連れて、嫁の姉婿さんの案内で<br>大台ケ原へ行きました。そこにも”馬の背”が在りました。<br>やはり象より少し小さいですが大きな岩の山でした。馬の背を<br>歩きますと両側は崖っぷちで、父は歩いて先端まで行きましたが<br>私は両側にスベリ落ちる恐怖感から這って行きましたが恐ろしく<br>て引き返しました。<br>　姉婿さんは大台ケ原の下の奥に在る”三之公”と言う５～<br>６軒の集落で生まれ育ち、父親は猟師でした。珍しいほど<br>大きなテンが獲れた時には、剥製にし首巻に加工して嫁に<br>贈ってくれました。<br>　私が初めて三之公を訪れた時、ランプ生活と聴いてたのに<br>台所に蛍光灯が在り、尋ねると三之公川に小型の水力発電機を<br>設置し夕暮れから３時間配電するとの事でした。姉婿さんは<br>大台ケ原展望台の造築工事も手伝って来ましたので、<br>”月夜の晩には展望台から富士山が見えるんだぜ”と自慢<br>して居ました。その他嫁の実家近くに在る公民館前広場で<br>大台ケ原で獲った月の輪熊を解体するのを見た事があります。<br>生まれる前の子熊２頭を腹から取り出してました。そして<br>連れの熊も明日，獲りに行くかと話し合って居ました。<br>　車から川原で遊ぶ猪の親子も見ました。夜の帰り道で前を<br>走る尾の長い銀キツネが居ました。ライトの明かりで山手か<br>川に逃げ込む細道が見にくいのか、しばらく一緒でしたが<br>車の速度を落とすと、山手の方へ逃げました。<br><br><br><br><br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/sergeant-york/entry-12169588842.html</link>
<pubDate>Sun, 12 Jun 2016 08:06:14 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>朝刊で大仏鉄道の記事を見て</title>
<description>
<![CDATA[ 　平成２８年６月６日の朝刊で大仏鉄道の記事を見て,大変<br>懐かしい気持ちに浸りました。勿論,大仏鉄道を知りません.<br>でも母親が大和ノ国添上郡東山村より大和ノ国添上郡奈良<br>村へ嫁いだ時には,嫁入り道具を運ぶのには東山村から<br>笠置駅へ(牛車で？大八車で？)汽車で大仏駅に着き、奈良村<br>まで大変だったのよとの話でした。総桐の長もち箪笥も在り<br>ました。で昔に加茂駅から大仏駅跡地まで鉄道に添った道を<br>単車で走った事があります。当時の黒髪山はトンネルが在り<br>此れが大仏鉄道のトンネルだと思って居ましたが、黒髪山<br>トンネルは車両用の道路でした。勿論、信号も無く１車線<br>でしたが高低差の無い直線道路なので進入時には反対出口迄<br>確認出来たので、お互いに入り口で待機出来たのでした。<br>奈良阪町から黒髪山頂を通り法連町へも行きました。確か<br>奈良ドリームランドが出来た時に黒髪山は切り開かれて<br>トンネルは広い道路となり、山頂の道路は長い橋と成り<br>ましたが細くて車は通れませんでした。<br>此の黒髪山トンネルの東の方、奈良阪町に大仏鉄道の<br>小さなトンネルが残って居ました。<br><br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/sergeant-york/entry-12167848043.html</link>
<pubDate>Mon, 06 Jun 2016 08:46:12 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>米兵の暴行事件</title>
<description>
<![CDATA[ 　終戦後の日本は敗者の渦中に巻き込まれて居たのだった。<br>　敗戦国日本に、米兵や支那人や朝鮮人が自由に来日して<br>思う存分に勝手な行動を繰り広げて居たのだった。<br>　奈良では垂仁天皇陵の近くの農機具小屋で、米兵に連れ<br>去られた女性が暴行を受け、無残な姿で発見されたのだった｡<br>{昔、男性の陰部をハサミで切り取る”阿部定事件”が<br> ありました。残念ながら此れと同じ事件を起こして見せしめ<br>の警告とでも、しなければ他に効果のある再発防止方法は<br>無いのかな？｝他に<br>支那人や朝鮮人は多勢で建材店や材木店に堂々と侵入して<br>建材を略奪し他人の土地に勝手に新築したのだ。　<br>チャイナタウンや朝鮮人町の誕生だ。<br>　娘を殺され、建材を略奪され土地を略奪されても敗戦国人<br>だから、日本人は泣き寝入り状態の我慢だった。<br>此れが戦争の勝者・敗者の現実なのだ。<br>蛮行は日に日にエスカレートし度を過ぎたので、さしもの<br>ＧＨＱ（米軍総司令部）も彼らは、戦勝国人では無く単なる<br>三国人だと決めつけ規制に乗り出したのだった。奈良でも<br>３箇所ほどの朝鮮人町が出来，そこから超有名な一流歌手が<br>誕生したのだった。<br><br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/sergeant-york/entry-12162848487.html</link>
<pubDate>Sun, 22 May 2016 09:54:01 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>自動車税の増額</title>
<description>
<![CDATA[ 　私は軽四を使用して居ますが先日、軽四の税率変更の案内を<br>受け取り大変驚きました。１３年以下の使用車は、昨年と同じ<br>７２００円ですが１３年以上の使用車は１２９００円に増額<br>されました。理由は<br>　排出ガスの違いとの事でした。年金生活者には軽四を買い<br>換えるには早くから計画し、貯金をしなければとても買え<br>ません。だから連日、丁寧に運転し長持ちさせるよう使用して<br>居ます。なのに長く使用する者への罰金なのか。低い税率を<br>望むなら新車を買いなさいと云う事なのか。<br>普通は下書きを済まして書くのだが、初めての現政権に対する<br>怒りから今回はストレートに書き込みました。<br><br>蛇　足<br>前回のブログで鹿に好物のミカンの皮を与えてると書きました<br>が、鹿愛護会の人が「鹿に格別な美味を与え慣れさせると、<br>農作物の被害が増大します」の話を聞いたので好物を食べ<br>させるのを止めるとしました。<br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/sergeant-york/entry-12161144767.html</link>
<pubDate>Tue, 17 May 2016 08:01:32 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>昨夕憲法の話をテレビで見て</title>
<description>
<![CDATA[ 　今まで憲法について色んな話を聞いて居ますが、昨夕テレビで<br>憲法の話を色々聞いて突然に変だなと感じた事がありました。<br>それは今まで日本国憲法については色々と語られて居ます。でも<br>まずは主要国の憲法の直訳を日本人に周知させ研究すれば<br>日本人教育のため参考に成るのではと思ったのですが<br>何故に今まで実施されなかったのでしょうか。<br>　いやいや私より何千倍もの賢者が大勢居られて研究され周知の<br>事柄なのに今まで全然、見聞き出来なかった低脳な私だけが知ら<br>なかっただけの事で、今回はとんだ恥さらしと成りましたか。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/sergeant-york/entry-12156435925.html</link>
<pubDate>Tue, 03 May 2016 12:55:27 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>奈良の鹿　の番組を見て</title>
<description>
<![CDATA[ 奈良の人は早起きだと昔に聞きました。奈良の鹿は神の使いで<br>神鹿だと言われて居たので、朝起きて家の前に鹿が死んで<br>居たら大変な事に成ると,他の家の前に鹿を移動するため他の<br>人よりも早く起きるようになったのだと聞きました。<br> 伝説　三作石子詰の旧跡が興福寺境内通称十三鐘に在るそう<br>です。小坊主？の三作と云う名の少年が習字の稽古中に鹿が<br>来て半紙を食べたので文鎮を投げたら当たり所が悪かった<br>のか鹿が死んだのでした。当時は神鹿をあやまって殺傷した<br>三作を石で生き埋めの刑にした石子詰の塚が在ると聞いて<br>居ます。<br>鹿せんべいの無い時代にエサの少ない時は,市のゴミ収集の<br>ため木製のゴミ箱を家の前に出して居たので町へ来る鹿が<br>多いでした。”角振町”の町名も御座います。<br>現在でも鹿の農作物への被害が何億もあるらしいです。<br><br> 終戦直後に飛び火野で三人の男の人に「ボクどの辺に<br>行けば鹿が居るのか」と聞くので教えた記憶があります。<br>後で思えば毛布で丸く包んだ１メートルほどの重そうな<br>物を持って居たので鹿の密猟をする人と思ったのでした。<br>又、観光客の男の人が脇腹を角で刺された話も聞きました。<br>だから角切り行事が始まったのかなと思って居ます。<br>秋はオス鹿の発情期でオス鹿同志が争ってメス鹿の取り<br>合いをするので気性が荒くなり近寄る動物を襲うと聞き<br>ました。だから秋には木の幹に角をコスリ付けて先を磨く<br>鹿を何度も見ました。翌年の５月・６月頃になりますと、<br>あちこちで可愛い子鹿が誕生するのでした。<br><br>結婚前の嫁と鹿園から飛び火野へ出る<br>通称”ささやきの小道”と呼ばれる道を散歩した時<br>普段はおとなしいメス鹿が草むらから突然に現れ立ち<br>上がり、前足で叩かれたのでした。咄嗟に、<br>近くに生まれたばかりの子鹿が居るのだと気づいたて<br>御免御免と言いながら逃げたのでした。<br>私はミカンを食べた時には皮を小さく千切って<br>ナイロン袋に入れ保存してます。<br>鹿は主食の草やドングリよりも此れが大好物のよう<br>なので皮が乾く前に時々食べさせに行きます。<br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/sergeant-york/entry-12135188439.html</link>
<pubDate>Sat, 05 Mar 2016 07:14:50 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>シャープ電機の報道を見て</title>
<description>
<![CDATA[ 　確実な時期の記憶は無いのですが、私の独身時代に<br>井植氏・早川氏・松下氏の三人が共同で、小物電気製品の製造<br>会社を大阪に設立し、差込み・電球ソケット・プラグ・延長<br>コードなどを製造したのだった。その後、洗濯機や冷蔵庫が出来<br>テレビの製造を始める頃に三人が別れてサンヨー・シャープ・<br>ナショナルと別々の会社を設立したのだった。そして三社共々<br>世界で通用する大会社に成長したんだと記憶して居ます。最近の<br>報道でシャープが台湾の電機メーカーに身売りしたんだと思われ<br>大変に残念な気持ちに陥ち入って居ます。<br>（当時は、某ＴＶ工場の研究室に居ました）<br><br>　　蛇　足  １<br>  偶然に　自殺高校生が受けた暴行のビデオを見ました。<br>　バスケット　コートの端で　監督？なのか、生徒の顔面を<br>殴って居ました。生徒は後（アト）ずさりしながら<br>１０メートルほど後ろへ下がりましたが、監督は右手左手と<br>交互に平手打ちで追いながら２０発ほども強く打ちました。<br>平手打ちとは言え驚くほども強打でヒド過ぎると思ったのだ。<br>大勢の面前で、此れほどヒドイ仕打ちを受ければ被害生徒の<br>全部が自殺したであろう。此の監督の態度を見た限り過去に<br>同じ光景を見て居る生徒は沢山居るであろうに。学校側には<br>聞こえてなかったのだろうかと思ったのだった。<br><br>  蛇　足　２<br>　別々の会派が政権奪取の目的で合体する報道を聞いて、<br>あれほど何度も真剣に議論してたのに、都構想については<br>何も聞こえて来ないのは、目的達成の為にはドッチャでも<br>エカッタのかと、友人が落胆して居ました。<br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/sergeant-york/entry-12132634651.html</link>
<pubDate>Sat, 27 Feb 2016 07:15:17 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>台湾は政権交代した報道を見て(後)</title>
<description>
<![CDATA[ 楊さんは、昭和７年（１９３２）台南市に生まれた。<br>　楊　素秋（日本名　弘山　貴美子）父親は日本統治下に生まれ<br>完全な日本人に成りきっており、貴美子さんが生まれてからは<br>家庭でも日本語で通うした。<br><br>楊さんが小学校に入学した最初の担任の先生は、宮本先生と云う<br>優しい先生だった。楊さんが落し物を拾って届けると先生は手を<br>引いて家まで来てくれて父親に色々と楊さんの事を褒めてくれた。<br>父親は目じりを下げて聞いていた。宮本先生に限らず当時の<br>先生方は生徒に自分の子供のように接し又、親との緊密な関係を<br>築いて居た。３年生の担任は小谷先生と云う男の先生で楊さんの<br>家の裏に住んで居た。<br><br>　授業で楊さんは修身の時間が好きだった。先生は偉人伝の本を<br>読んでくれたり紙芝居を見せてくれたり、楠　正成・二宮金次郎<br>宮本武蔵から野口英世・東郷元帥・乃木大将そしてエジソン<br>キューリー夫人。これ等の人が艱難辛苦を超えて立派な人になった<br>と云う話に楊さんは感動して、自分もそう成りたいと思った。<br>　　　(当時は日本の子供も同じだった）<br>　先生は「我が国には」昔こう云う人が居たという具合に教えて<br>くれた。「日本には」と云わなかったから楊さんも「我が国には」<br>と覚えて来た。毎朝の朝会では明治天皇の御製などを朗詠するので<br>楊さんたちも自然に覚えた。その中には、こう云う歌もあった。<br>難しいのだが意味は明治天皇が日本人と同様に台湾の民をご自分の<br>民として思ってその反映を喜ばれてる事が良く解った。<br><br>　昭和１８年、楊さんが５年生の時には米軍の空襲が激しくなり<br>一家で祖母の居る大社村と云う田舎に疎開した。そこにも日本の<br>若い兵隊さん達が居り日本語を話せる楊さん一家に自然に遊びに<br>来るようになった。　（だから楊さんの情報が多いのか）<br>兵隊さんが時々映画を見せてくれるので、その時は[貴美ちゃん<br>映画に行くか]と云ってくれるので、そう云う時は「ハーイ」と<br>云って元気に家を飛び出す。小さい楊さんは、周りが皆兵隊さん<br>ばかりで映画が見えないので、いつも肩車をして貰うのだった。<br>楊さんの幸福な日々も日本の敗戦と同時に、終わりを告げた。<br><br> 　楊さんの最初のショックは蒋介石軍が上陸して来た時だった。<br><br>＊　日本の敗戦後、支那では毛沢東軍と蒋介石軍とで内戦が勃発し<br>共産党の毛沢東軍が優勢となり蒋介石軍は、源平合戦ではないが<br>大陸海岸から追い落とされ、多くの金塊と武器を持った蒋介石軍の<br>敗残兵が対岸の台湾に無血上陸し台湾を隷属したのだった。<br>　楊さんは、此の上陸状況に出くわして居たのだった。<br><br>＊　楊さんの最初のショック<br><br>　上陸する支那兵は裸足でボロボロの服を着て、天秤棒に鍋と七輪<br>をブラ下げ、コウモリ傘を担いて,だらだらと歩いて居た。手で鼻を<br>かんだりタンを吐き散らしてる人も居て、まるで乞食のようだった。<br>こんな兵隊がやって来て、台湾はどうなるのかと大変心配だった。<br><br>　　昭和２０年の春<br>走る汽車のステップに立ち、振り落とされまいと必死に鉄棒に<br>掴まってる１２～３才の少女。台南第一中学を（旧制）受験する<br>ための参考書などを詰めたリュックサックを背負い３日分の野菜と<br>米を詰めた２つが両腕に食い込んで居た。そばに立って居た２０歳<br>くらいの兵隊さんが「大丈夫ですか」と聞くと、もう返事をする<br>気力も残ってなかった。足元もおぼつかない少女を見て将校さんは<br>「その荷物を捨てなさい」「早く捨てなさい」と云った。<br>丁度汽車は鉄橋にさしかかり鉄棒から片手を離して持ち替える。<br>ゴーと云う轟音に、はっとして左足をステップからはずして<br>しまった。「助けてー」と叫ぼうとしたが、目の前が真っ暗になり<br>気を失ってしまった。<br><br>大勢のざわめきが聞こえ、誰かがホホを叩いて居る。おばさんは<br>「良かった息を吹き返さなかったらどうしようかと心配してたのよ。<br>誰かが「あの兵隊さんが居なかったら、お前は今頃川の中だよ」と<br>云った。台南駅に着くとおばさんは少女を抱いて窓から外に出した。<br>外には、あの将校さんが待ち構えて少女を抱き下ろした。<br>汽車のステップに立ってるだけで大変なのに、気を失った少女を<br>摑んで引っ張り上げてくれたのだった。「あのう、お名前聞かせて<br>貰えますか」[ハハハ子供のくせにいいから気をつけて帰るんだよ]<br>将校さんは手を振って汽車に乗って行った。爽やかな笑顔だった。<br><br>その後少女は、名前だけでも聞いておけば良かったのにと５０年<br>以上も悔やむ事になる。生きていればもう一度お会いして御礼を<br>云いたい。そんな思いを抱きつつ少女は成人してから小児麻痺の<br>子供を１０人と健常者の子供２０人を預かって育て上げた。<br>あの将校さんは自分の命を助けてくれただけでなく他人に尽くす<br>力を与えてくれたのだった。<br>　（さすがだ。支那人や朝鮮人では斯様には成長するまいて）<br><br>私は２２歳までは日本人だった。日本時代の人民は政府を信頼して<br>居ました。そして其れに答えるかのように政府も人民の生活を良く<br>したいと云う気持ちを表して居ました。また兵隊さんも,お巡り<br>さんも良くして来れて町中至る所に良い雰囲気が溢れて居ました。<br>そして危険を顧みず身を賭して走る列車から見ず知らずの人を<br>救う真の”心”を持った日本人が大勢居たのです。<br>それが普通の国、の時代でした。<br><br>日本時代とは私にとってすばらしい時代であり私の人生の道標を<br>こしらえてくれました。私の心の中には、いつもとても素敵な<br>日の丸の旗がヘンポンとはためいています。もしタイムマシンで<br>元に戻れるなら、もう一度日本時代に戻りたいです。楊　素秋<br><br>　　(政権交代が出来て良かったね。)<br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/sergeant-york/entry-12119236752.html</link>
<pubDate>Sat, 23 Jan 2016 07:26:58 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>台湾は政権交代した報道を見て（前）</title>
<description>
<![CDATA[ 台湾・朝鮮半島を隷属し次に日本を狙う日清戦争勝利後、<br>明治２８年（１８９５）日本は条約の中で台湾・朝鮮を清国から<br>分離独立させた。また台湾の統治を始めるにあたり朝鮮にも清国<br>時代の劣悪な生活環境や貧困から救うため白人のように隷属する<br>事無く日本人として平等に扱う目的で同化する方針を固めた。が<br>朝鮮は明治３０年大韓民族として皇帝を擁した。明治３８年<br>日本は日露戦争勝利後、大韓民国を保護国とした。<br><br>台湾は地名をフォルサモとも云う。１６世紀に、やって来た<br>ポルトガル人が緑溢れる、その美しさに驚嘆してフォルサモ<br>（麗しの島）と呼んだ。その麗しの島で台湾原住民と日本人が力を<br>合わせて幸福な時代を築いた。それは俗に「侵略」と云われている<br>行為とは、かけ離れた真実が隠されていた。<br>貧困時代には貧民街状態の劣悪な環境で風土病の地と言われた。<br>不衛生な状態を改善するため日本政府は、支那大陸や朝鮮半島や<br>パラオと同じように力を注いだ。縦断鉄道の建設・広い道路<br>大きな病院・上下水道・学校・農作物など、中には本土よりも<br>立派な施設を作った。治安も良くなり、あちこちに都会が出現した。<br>豊かになった民衆は日本人と同じ環境で生活できた事に感謝し<br>日本人になりたいと思うようになった。<br>　<br>これ等の実話は日本人のお陰で豊かな生活を送れるようになったと<br>感謝の気持ちが強すぎた上での単純な清い心で日本人を神として<br>祀りいつ何時までも日本人と共に居て恩恵にあやかりたいと云う<br>願望が霊感となって現れ神として祀るようにさせるのでしょうか。<br>同じ日本人として尊敬する日本人を敬う気持ちの現われでしょうか。<br>はたまた５０年近くも日本人として育てば、実の日本人に成りきって<br>しまったからなのか。<br>＊　芝山公園　（台北市士林地区）<br>古くからの仏教聖地である此の土地に一人の日本人が祀られて居る。<br>広枝　音衛門　警部。昭和５年（１９３０）に巡査として当時の<br>竹南郡に就任。温厚ながら正義感に溢れる人柄で地区の人々の信望を<br>集めた。昭和１８年（１９４３）１２月台湾人巡査達を率い広枝警部は<br>フィリピンへ出征。戦局悪化の中、広枝警部は此れ以上の犠牲者は<br>無意味と他の台湾人を連れて投降。それを見届けて自らは責任をとり<br>拳銃で自決。多くの台湾人の命を救った。広枝警部を慕う人々の熱意に<br>より１９７６年権化堂の一画に位牌を安置して供養した。<br>元部下だったり遺族らが集まり毎年法要が営まれて居る。<br><br>＊　富安宮（嘉義県東意石郡副瀬村<br>　五府　千歳（中国の武将）を主神として幾つかの神々を祭る。<br>此の宮に一人の日本人が神として祀られて居る。神名は「義愛公」<br>本名は　森川　清治郎。森川は明治３０年（１８９７）巡査として<br>此の地に就任。勤務のかたわら子供達に日本語を教えるなど村人と<br>共に生活して慕われた。明治３５年（１９０２）行政支庁に村の減税を<br>嘆願。それが元で懲戒処分。無念の余り森川巡査は小銃で自殺した。<br>　その２１年後、此の地区に伝染病が蔓延すると村長の夢枕に現れた<br>森川巡査が感染予防の処方を伝授した。その結果伝染病は此の村には<br>広がらず村人達の総意により森川の神像を作り「義愛公」の尊称で神に<br>祀る事にしたのである。その後「義愛公」は霊験あらたかな神として<br>話題になり<br>貸し出し用の神像も作られた。今では其の数８０体に上ると云う。<br><br>＊芝山厳学堂<br>日本が台湾を領有した明治２８年（１８９５）最初に設立された学校が<br>あった。芝山と言われたこの岩山に学堂を開き付近の師弟に日本語を<br>教えた。所が占領直後の混乱期にあって日本統治に不満を持つ武装<br>勢力が襲撃。６名の教員全員が惨殺された。６名の教員達は抵抗する<br>事無く、最後まで教育の大切さを説いたと言われる。その後彼らは<br>六士先生と呼ばれ教育者の鑑とされた。戦後進駐した国民軍に神社や<br>墓石は壊されてしまった。最近になって六士先生を慕う人々によって<br>墓石は再建。芝山学堂は士林学校となり現在の士林国民小学校に受け<br>継がれて居る。<br><br>＊鎮安堂<br>此処に祭られて入る３体の仏像は全て日本人。<br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/sergeant-york/entry-12120149147.html</link>
<pubDate>Thu, 21 Jan 2016 07:09:06 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>いつまでも慰安婦問題か</title>
<description>
<![CDATA[ 何年も前に此の問題を取り上げた事があります。再度思い出して<br>みたいと思いましたので。<br>　終戦直後にアメリカ軍はミチナ収容所で慰安婦から直接聞き取り<br>調査をした。其の記録を報告書として残して居る。<br>　☆　慰安婦募集のチラシも残して居る。(売春業者か？)<br>　　　◎　本人面談　　◎　京城旅館内　◎　前借金3000円迄可<br>　☆　朝鮮で父親に1000円を払い娘を連れて来たケースが<br>　　　一番多かった。<br>　☆　慰安婦は豪華な部屋に住み、前借を返せば朝鮮に帰るのを<br>　　　許された。<br>　☆　中には続けて住み続ける慰安婦が多かったので、一番<br>　　　安全な日本名で作成した通帳の残高が2万円～3万円もある<br>　　　慰安婦が何人も居た。<br>　☆　当時の大卒初任給　100円　☆　日本軍兵士15円～25円<br>　☆　慰安婦　1000円～2000円　<br><br>　　世界は慰安婦について真実を良く理解してると判断できるのだ<br>　だから毎回の慰安婦問題の発生に対して、日本はなぜ反論しない<br>　のかと不思議に思ってるとの話を何度も聞いたのだった。<br>　　朝鮮の大統領として此の事実を容認すれば、職を失うのは明確<br>　なのである。だから人気を得るため国民を煽り立てて毎回日本の<br>　犯罪だと主張を繰り返すのだろう。だが現時代でも日本で同じ<br>　ような仕事に従事してる朝鮮女性を知る世界の人たちが、繰り<br>　返される此の問題は世界の人々が民族性の悪質さを痛感する<br>　判断材料となり其の悪質さを肝に銘じた人達が、反友好的と<br>　成ってしまってるのである。<br>　　<br>  　彦駄衛門の考え<br>　日本は、今までに慰安婦問題の出る毎に、相当な額の援助費を<br>　提供して来たんだと思って居ます。だから民族性から考えて、<br>　慰安婦問題を出せば日本から援助費が入って来るとの、一種の<br>　タカリのような行為だと、何時も何時も呆れて居るのですが。<br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/sergeant-york/entry-12111095725.html</link>
<pubDate>Mon, 28 Dec 2015 19:26:23 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
