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<title>コンサルタント(仮)のエッセイ</title>
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<description>まだ内定者です。政治、経済、社会、哲学についてのエッセイを綴ります。</description>
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<title>一冊目 哲学とは何か</title>
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<![CDATA[ <div align="left"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20121121/23/sgmr728/d9/0a/j/o0480064012296851875.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20121121/23/sgmr728/d9/0a/j/o0480064012296851875.jpg" alt="photo:01" width="300" height="400" border="0"></a></div><br clear="all"><br><br>ヤスパースの哲学とは何かを読んだ。<br><br>ヤスパースは、哲学とは人間の本来的な活動であると考えていたようだ。子供が○×とは何か、という問いを繰り返すということはままあることである。そうした子供たちは齢を重ねることによって成熟していくにつれ、そうした瑞々しい感受性を次第に失っていく。哲学とは本来的な活動である一方で、有用性を軸とする今日的な価値基準では無用のものであるとされてしまう。<br><br>哲学についての統一的な定義を行うことにも困難があったことを認めている。哲学とはある人間が現実に対処することによってその人自身となることを意味するのであれば、それぞれの人々がそれぞれの答えを持っているだろう。<br><br>哲学が本来的な活動であることの証左として、インド、ギリシャ、中国において同時期にその萌芽が確認されたことが挙げられる。しかし、哲学の世界史が現代でも連続的に続いているものと考えることはもはやできない。なぜならば、哲学の世界史とは人間の精神史とも形容することができるが、世界中に交通網を伸ばし有限さというものを知ってしまった人類の精神にはもはや瑞々しさが失われてしまったからだ。
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<pubDate>Wed, 21 Nov 2012 23:36:03 +0900</pubDate>
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<title>ひさびさにブログ</title>
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<![CDATA[ ブログを久しぶりに書きます。<br><br>なにか真面目なことを書かなければならないというプレッシャーがあって嫌でした。<br><br>なので、今後は普通の日記を淡々と書くだけにします。<br><br>今日は大学が無かったので、無意味に早起きして中小企業診断士の勉強をしてました。企業経営理論の中でもとてもつまらない、労働法についてです。<br><br><br>その合間に借りて来た映画を見る。新海誠作品を三つほど。<br><br>新海誠作品は基本的に喪失と速度の物語ですね。そのうち真面目にそのことについて書いてみたいと思います。<br><br><br>iPhoneからの投稿
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<pubDate>Tue, 16 Oct 2012 23:21:19 +0900</pubDate>
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<title>久しぶりのブログ更新～才能か努力か</title>
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<![CDATA[ 久方振りにブログの更新です。<br><br>先月はいろいろと忙しかった…研究発表も考え、テスト勉強、読書計画の前倒しなどなど。<br><br>真面目なことを書くのに疲れた、ということでもあると思いますね。<br><br>突然ですが、最近友人と話している話題をひとつ。勉強ができる人間とできない人間を分けるものは何か。<br><br>私は受験生に勉強を教える講師などをしております。先述の友人はそこのバイト仲間で、大学では四年もつるんでいます。<br><br>最近、私と友人は生徒に勉強を教えるにあたり悩みがつきません。<br><br>教えても教えても、ザルに流す煮汁のように知識が忘却されていくのです。<br><br>私も天才型の人間ではないので覚えるための努力はしました。勉強できる人間とそうでない人間の脳のスペックの差はないはずだから、なにか方法が間違っているのかもしれないと自問自答を続けて今の私があります。<br><br>私が辿り着いた答えは復習の回数をいかに稼ぐか、でした。なので効率的に復習の回数を稼ぐ為に情報の一元化に取り組みました。持ち歩いているファイルを参照すれば一週間分の知識が総覧できるようにと。<br><br>そのように生徒に教えると生徒はこう言いました。「先生が何回もやってようやくできるもんなら、僕には無理だよ」と。<br><br>悲しくなりました。僕は才能なんぞ信じていません。すべてはものの考え方と方法論に帰着すると考えてます。できないならばできないなりに工夫すればいい。<br><br>結局、才能とは精神なんですかねぇ。
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<pubDate>Mon, 09 Jul 2012 23:08:20 +0900</pubDate>
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<title>目新しい権力についての</title>
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<![CDATA[ みなさん、環境管理型権力というものをご存知だろうか。<br><br>有り体にいえば、アーキテクチャによって人間の行動を支配する権力のことである。<br><br>わかりやすく説明するならば、マクドナルドの椅子を例にあげよう。マクドナルドの椅子はご存知のように、硬い。硬いから椅子に何時間も座り続けることは困難であるから、結果的に店舗全体の回転率が担保されるという。<br><br>つまり、この新しい権力はシステムに内包される様々なギミックによって人間の行動を誘導するものである。<br><br>なぜ、この環境管理型権力の話をしたか。C.Sunsteinのリバタリアンパターナリズムの話をしたかったからである。<br><br>リバタリアンパターナリズム？語義矛盾だろ？と思われる方も多いだろう。まぁ、そうでしょうね。そう思わない方は不勉強か、またはとても偏屈な方でしょう。<br><br>リバタリアンパターナリズムとはこの管理型権力を用いることによって、人々の自由意志による決断に誘導的な選択肢を提示することによって国家の事業を為すという考え方である。<br><br>Sunsteinは行動経済学に明るく、人間の合理性は限定的であるということに着目した。そこで、システムとはなんら無関係でいる人間にはそもそも選択などできないということに気がついた。<br><br>何者にも縛られない自由を謳歌するほどに人間の頭はよくない。できるはずもない。だから、人間の自由意志を尊重できる範囲まで選択肢を提示しようというのが、リバタリアンパターナリズムの考え方である。<br><br>Sunsteinの考える人間の自由意志とは限定的である。人は政府や官僚によって環境を整えてもらわないと自由な選択や決断を行うことができないということだ。環境管理型権力によって人々の自由意志をドライブさせようとする考え方は語義矛盾ではない。そもそも、人々の自由とは権力から生まれるのだ。<br><br>ハーバーマスとルーマンの論争にも似たような事があった。コミュニケーションの前提となるものは第三者によって提示されなければ二者間のやり取りは無限の後退に陥る。<br><br>そう、何かが、誰かが管理しているからこそ君たちは自由なのだ、と言われている気がしてならない。目が覚めるような想いである。マルクス以降、いや、もっと前から自由と権力は敵対関係にあると思われていた。だが、違ったのかもしれない。<br><br>ここでカント先生の例の文句をば。<br><br><br>「考えろ、ただし従え」
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<pubDate>Sat, 16 Jun 2012 16:27:05 +0900</pubDate>
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<title>独自性と解釈について</title>
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<![CDATA[ 突然ですが<br><br>「本を読んで全てに無批判なまま受容することは読まないことと同じである」<br><br>とはよくいったものである。<br><br>Return of Investment を考えるならば読書する効用とは批判的思考力を身につけることを第一に考えるべきである。<br><br>本田宗一郎が技術とは思想であるといったように、技術や思想は活用されて価値を発揮する。技術や思想は蓄積しても腹は満たないし、それ自身には価値がないという意味では貨幣と同じであるといえよう。批判を産まない知識は木偶の坊である。<br><br>一方、本を読むという行為には批判的思考力を育てる他にも自分の思考分野を広げる役割がある。所謂視野の拡大である。こちらの領域においては読書そのものに価値がある。<br><br>自己を構成するのが言葉であるならば、本を読み視野を広げることは人間として懐が大きくなることと同義であるといえる。だが、落とし穴がある。それは読む本というものが他者の傾向によって決定されるのであれば、読者達は画一化されていくということ。<br><br>独自に自己を発展させるためにはどうすればよいか。つまり、創造性を担保するものは何か。それは問いを立てることである。<br><br>問いに対して答えることによって創造がなされるのであれば、問いは何によって用意されるであろうか。それは批判によってであると私は考える。<br><br>もちろん、有効な批判をするためには視野の広さが不可欠である。<br><br>知識を習得し視野を広げ、その知識を活用することにより問いを用意し、その問いに新しい知によって答える、このプロセスによって人間は成長するのである。<br><br>この、成長というリターンを読書という投資において重視するのであれば、本は広く、大量に、かつ批判的に読まなければならない。<br><br><br>少し今日は真面目に。<br><br><br><br><br>
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<pubDate>Thu, 07 Jun 2012 22:21:14 +0900</pubDate>
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<title>勉強することについて</title>
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<![CDATA[ ここ数日ご無沙汰でした。<br><br>今日のテーマは勉強についてです。<br><br>最近、塾の講師のバイトをやっていて、考えることが多いテーマです。<br><br>最近の子供は板書を写すことに専念してて、授業の中身が何も頭に残っていないという子が多いです。<br><br>短期記憶というものは一日で消えてしまうものですが、その日のうちに想起することによって長期記憶になります。なので、勉強することにおいてその日の内に復習するということは非常に大きい意義を持ちます。<br><br>子供たちは想起する知識が頭に残っていない状況で家に帰り、復習もせずに寝てしまいます（笑）<br><br>本来ならば、ノートを書き終えた時点で想起が完了しているということが理想であり、次点としてはノートをもう一度読みながらその日の授業を思い出していただきたいものです。<br><br>社会人も含め知識の習得というものは大事な営みであります。<br><br>本に書いてあったこと、あるいは講義で教わったことをすぐに記憶することができたならば、日々の生活とは豊かになるであろうと思います。<br><br>ではどうすればそうした状況に近づけるでしょうか。<br><br>私はノートの取り方を工夫することによって記憶効率は格段に上がると考えています。<br><br>まず、講義や本の内容を記録と並行しながら摂取するのではなく、記憶することに専念します。読みながら、あるいは聴きながらまとめるのではなく、一度記憶に刻むのです。手を休める勇気を持ちましょう。<br><br>人間の記憶能力は不完全ですが、個人差はそれほどありません。短期記憶でなら、一日はそれを維持することが出来るでしょう。<br><br>ノートをとるのは記憶からある程度時間を経てからです。<br><br>最低でも一日を終える前にその日に学んだことを想起しながらノートをまとめてみるのです。<br><br>一度記憶し、それを思い出すというプロセスを経て始めて記憶は長期的なものになります。あとはそのノートを何度も復習することによって記憶は強化されます。<br><br>懸念されるのは忘れることです。ノートを書く前に忘れたらどうするのか。何を忘れたのか忘れてしまったということはあまりないはずですから（笑）教科書を参照するなり、本の該当箇所をもう一度読む、あるいは検索するのも良い方法です。そこまでして漏れてしまった情報にはさほど価値はなかったのかもしれません。思い切ってなかったことにしましょう（笑）<br><br>あまり極端に走る必要もありません。講義を集中して聴き、休み時間の間にノートをまとめる、あるいは本を閉じたあとに思い出しながらメモをとる。とにかく、一度集中して頭に入れ、再度思い出すということが重要なのです。<br><br><br>読むときは読む、聞くときは聞く。まとめるときは思い出すことに集中しましょう。人間の脳はマルチタスクを処理できるほど万能ではないのだから。
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<pubDate>Tue, 29 May 2012 02:05:43 +0900</pubDate>
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<title>自由と神</title>
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<![CDATA[ 今日は自由についてです。あと神のお話。<br><br>私は自由という概念がわかりません。というか、知りません。<br><br>今通説的に流布されている自由の概念は同様に信じることはできません。<br><br>一般的に自由とは大きく分けて以下の二つの方法で理解されています。<br><br>一つは、縛られない自由です。まぁ、これは達成できない自由ですね。重力や言語に縛られてしか生きることは難しいですから。<br><br>二つ目は縛る自由です。これは幾分か現実的です。何かに依拠することによって解放された気分に浸るという代物ですね。何かに自分を縛ることによって別の何かに縛られることを拒否するのです。<br><br>前者は堅い言葉では消極的自由と呼ばれ、後者は積極的自由、あるいは自己拘束の自由などと言われています。 <br><br>前者の自由は達成不可能ではありますが、後者の自由はお手頃です。自分を縛りつけることにより、拘束が緩んだ瞬間を自由と感じるだけのことですから。<br><br>世の中的には何がしかに帰依することによる自由が一般的だそうです。イデオロギー、国家、宗教に自らを縛ることによって、煩雑なものに縛られるという不自由から自由になるのです。<br><br>複雑な議論になってしまったので、自分の考えを述べたいと思います。<br><br>私の考える自由とは両者を伴う物であります。つまり、縛りたいけど縛られたくないという自分を矛盾を満足させることが自由だと思うのです。痛む考え方でしょう？<br><br>一言で言うならば、「何にも縛られないということで自分を縛る」ことが自由である、ということなのですかね。デカルトっぽいですかね？でも彼は二元論に縛られているという時点で自由ではないですよね。<br><br>何かに依存しないという信条に依存する、ということですかね。それを自分に課している時点で自由ではないのですが。<br><br>何が言いたいのかというと、最近神の存在を感じることがあるのです。怪しいですねぇ。いや、神は自由なんだろうな、と。だって全能なんだもん。<br><br><br>そうしたものには辿り着けない。神の知識を私たちは知ることができない。だから人の口から出た一切を疑うことによって神を信仰するのです。<br><br><br>だから宗教に帰依することはできない。それは人の作り出したモノだから。神とは人間には理解できない。だから語り得ぬものには沈黙しなければいけない。人前で神を語る人はペテンですよ、ほんと。<br><br><br>まあまとめるならば、自由とは「人造のもの全てを疑い尽くすこと」です。それを補完するならば、「神を理解しないこと(できないこと)」ですね。<br><br><br>今日のお話は参考文献をいくつか使いました。<br><br>論理哲学論考<br>現代思想としてのギリシャ哲学<br>自由論(アイザイヤのほう)<br>方法序説<br><br><br>気になる人はググってください。<br><br><br>たまには哲学以外も語るようにします。
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<pubDate>Thu, 24 May 2012 14:29:51 +0900</pubDate>
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<title>虚学について</title>
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<![CDATA[ 雨、つよいですね。それにすごい寒いです。<br><br>どうやら太陽の黒点の影響で寒波がくるかもしれないそうです。<br><br>一方では太陽からハイパーフレアが観測されたそうで。太陽さん忙しいですね。<br><br><br>前振りとは関係なく、虚学についてお話しようと思います。<br><br>虚学とは学問の分類法の一つで、実学に対置され、時には侮蔑的に表現されるものであります。<br><br>虚学には文学や哲学など、実際の生活には直接的には関係性のないものが含まれています。今日は主に哲学について語りたいと思います。<br><br>そもそも、虚学を軽んじる人達は役に立つとはどういうことか、わかっていらっしゃるのでしょうか。答えは否です。なぜならば、彼らは自分が何を研究しているのか、何のために研究しているのかをわかっていないからです。<br><br>では虚学とは一体何を指すのでしょうか。<br><br>虚学の中の一つ、哲学とは「xとは何であるか」と問うことです。シンプルですね。(もちろん、哲学とは何か、の議論は未だ尽くされてはいません。先は長いですね)<br><br>では哲学の対象の例として自転車をあげることにしましょう。<br><br>自転車とは何であるか、それは独自の外燃機関を持たず、人の筋力を動力とする乗り物であると言えます。<br><br>しかし、これでは正しくありません。なぜならば、四輪自転車なるふざけた存在も許されてしまうからです。<br><br>修正するならば、自転車とは独自の外燃機関を持たず、人の筋力を動力とする二輪駆動の乗り物であると言えます。<br><br>しかしこれも正しくありません。<br><br>自転車は第二次世界大戦中に隠密行動を主とする部隊において重宝されました。また、昨今ではモータリゼーションへの反発あるいは抵抗として自転車を用いることが増えました。加えるならば趣味としての自転車、低所得の人々でも容易に購入できる低価格という側面もあります。<br><br>自転車とは何であるか、わからなくなってきませんか？（笑）まぁ、自転車くらい簡単な物は議論は容易なのですが、政治くらいやっかいなものになると世界中で三千年くらい結論がつかないですね…<br><br>では哲学は役に立つのか。実は役に立ちます。断言できます。<br><br>今私たちは自転車を定義しました。自転車を哲学し(そこまで高尚なことはしてませんが)自転車を理解しました。<br><br>ということは、自転車を利用することや能力を改善することには頭一つ長けたことになりますね。<br><br>当たり前の話ではありますが、知らないものを活用したり性能を改善したりすることはできません。程度によりますが、より高い品質を求めるならば必要です。<br><br>これも例えですが、経営とは何か、何のために、誰のためにあるのかを知らない人は経営者として大成することはできません。人ははじめて目にする機械を直すことはできないのと同じです。<br><br>つまり、物事を活用したり、改善するためにはその物事を深く理解する必要がある、ということが言えます。<br><br>よって虚学は軽視できません。是非、就活生には企業とは何か、市場とは何か、貨幣とは、報酬とは、を勉強していただきたいですね。<br><br><br>また、実学主義者にはこうした反論もできます。虚学の有用性が遅効的であり、実学の有用性が即効的ならば、実学は後回ししてもよいのではないですか？と。<br><br><br>自己弁護ですが、私は実学を軽視してません。資格勉強していますしね。<br><br><br><br>おわり！
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<pubDate>Tue, 22 May 2012 18:43:52 +0900</pubDate>
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<title>100キロハイクを終えて</title>
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<![CDATA[ 本庄ー早稲田100キロハイクに参加してきました。<br><br>わけのわからない方もいらっしゃるでしょう。そうでしょうね。説明させていただきます。<br><br>埼玉県から東京都渋谷区西早稲田まで二日間、総距離120キロ弱を歩きました。<br><br>は？<br><br>まあ、そうでしょう。こんなイベントに1500人もの参加者がいるなんて、おかしいですよね。<br><br>参加費4000円払って苦行を買ったわけです。<br><br>合理的経済人である私ですら効用を測ることができません。<br><br><br>まぁ、何が言いたいかというと、今日は協約可能性のお話です。<br><br>前回ブログにて、善や正義などの価値観を普遍的に分かち合うことの不可能性について書かせていただきました。<br><br>つまり、善=徳=有用=正義などはイデアであって、人間が理解することは叶わないということです。<br><br>共通善を相対的にコミュニティの機能を活用することによって創出する試みをサンデルさんが行っていますが、それは相対的なもので偽物です。季節性と空間性を伴った暫定的なもので随時改定が必要なのです。<br><br>ならば悪は？<br><br>悪という概念は人間には理解できないものなのでしょうか。<br><br>どうでしょう。難しい問題ではあると思います。<br><br><br>シュクラーという学者が正義や善の協約不可能性を指摘した上で悪の協約可能性について述べたことがあります。<br><br>シュクラー的にはホッブズは原子論的に人間を理解した上で悪からの逃走としての国家樹立を主張したことになっているようです。<br><br>同じようにリチャード・ローティは偶然性が引き起こす災難、残酷さこそが悪であるとし、そうしたものから人間を守るためにリベラリズムの価値があるとしています。<br><br><br><br>善や正義よりも悪が掴みやすい概念であるということは上述した通りです<br><br>話は変わりますが、人間本性は悪であるという性悪説を唱える学者もいます。<br><br>そう、荀子です。<br><br>東洋思想は多元的かつ諦念的であり、かつ唯物的なので、ポストモダンであると主張する学者が多いです。<br><br>ポストモダン法学においても中国の法律などはポストモダン的じゃね？とされているようです。<br><br>批判としてあげられるのはポストモダン=プレモダン仮説ですね。<br><br>プロタゴラスなどのソフィストたちがポストモダン的であると大澤氏が指摘しているようにプレモダン=ポストモダン仮説というのも広く信じられている説のようです。<br><br>これを後退と捉えるか、新しい復古主義としてルネサンスとなるか。<br><br>面白いですね。<br><br><br>なにはともあれ、苦痛を共にした仲間とは深い絆で結ばれるということです。<br><br><br>おわり
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<pubDate>Mon, 21 May 2012 13:55:28 +0900</pubDate>
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<title>ソクラテスってさ</title>
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<![CDATA[ ソクラテスってさ、ポストモダン的じゃね？<br><br><br>って書いてあった本を読んだので紹介<br><br><br>現代思想としてのギリシャ哲学<br><br>って本なんだけど、ソクラテスは正義や善、徳といったものは人間が理解することは叶わないとしているという点に着目してるのが面白い。<br><br>ソクラテスが批判しているのはモデルネ=人間中心主義、人為  であって、人間が掲げる絶対的価値観や相対的価値観両面を批判しているという点では究極の懐疑者である。という読み方もできるよね。<br><br>ポストモダンに対しての批判として、相対主義批判がよくなされる。相対主義とはそれ自体が絶対的なのではないか、という批判だ。<br><br>たしかに。相対的正義や相対的善があり得るといった態度まで批判するとなると、面白い読み方ができる。<br><br>絶対的価値観を人間が到達出来ない領域まで押しやって、人為的絶対主義と人為的相対主義両方を批判する。これは実に面白いですよ。<br><br>現代思想としてソクラテスを読み解く。こうした方法もあったのだと感心した次第。<br><br>ならば脱構築主義なども主義としての体をなさないかもしれないね。<br><br>神を人為的に解釈しないソクラテスの方法は真の信仰かもしれない。人は神を理解できない。<br><br>一方でニーチェは人が真理に到達することは叶わないが、それと格闘することはできるとしている。<br><br>真理の非存在を証明できないというのは悪魔の証明とされ、自明である。懐疑しつつ信じる。真理は存在するが、真理を知ることはできないということを無知の知というのかもしれない。<br><br><br>おわり
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<link>https://ameblo.jp/sgmr728/entry-11253813585.html</link>
<pubDate>Fri, 18 May 2012 13:25:50 +0900</pubDate>
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