<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>考える大学生の青年</title>
<link>https://ameblo.jp/shankeistraiya/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/shankeistraiya/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>&quot;Just Be Critical&quot;　このブログが物事について考える場になってほしい。思ったことを書く。皆さんそれぞれのコメントを頂けたら嬉しい</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>大人の皆さんにQuestion</title>
<description>
<![CDATA[ <p>成長するにつれて、孤独になっていくものですか？</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/shankeistraiya/entry-12445830172.html</link>
<pubDate>Sun, 10 Mar 2019 22:38:11 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>男性優位社会で“女らしい”を着る“女子たち”</title>
<description>
<![CDATA[ <p>日本でもGender-equalityがトレンドとして叫ばれるようになったからこそ、<span style="font-weight:bold;">“女らしい服装”</span>とは一体なんなのか考えてみる。</p><p><br>　日本において女を形容する代表格である<span style="font-weight:bold;">「かわいい」</span>という概念はどのようにして生まれてきたのか、そして今日の社会でいかにして根付いているのか。街行く若い女性たちの多くは、若く、子供らしく、女らしく、つまりは<span style="font-weight:bold;">「かわいく」</span>なることを目的とした服装に身を包んでいる。だがしかし、こうした服装や、彼女たちのそれらに対する無意識な志向は、彼女たち自身によって形成されたものではなく、常に女性の上に立とうとしてきた男性たちの存在によって生み出されてきたものだということを本人たちは自覚していないのだろうか。日常的に見られる服装における男女間の差異は女性の社会的地位の低さに深く関係している。男女不平等、女性差別というイデオロギーが服装に結果として現れている。　<br>ジェンダー、すなわち生物学的特徴によってではなく社会的役割により区別された性差、とともにジェンダーの象徴としての服装もまた社会によって何が<span style="font-weight:bold;">「ふさわしい」</span>か定義されている。<br>長い歴史において、慣習や常識という名のもとに女性たちは<span style="font-weight:bold;">"女らしい"服装</span>をすることを強いられてきた。そんな<span style="font-weight:bold;">“女らしい”服装</span>の中に暗示されているのは、女性が自由であることを抑圧してきた、男性優位、父権社会において、彼ら男性の権力や富の誇示のための装飾的役割である。例えばスカートがとても象徴的であり、産業革命以後の大量生産・大量消費社会において、労働の担い手である男性は、効率性や生産性、合理性をより求められ、その結果としてジーンズに代表されるズボンが急速に男性の間で一般的になっていった。しかし、産業革命後に顕著になっていった、女性は家事と育児、つまりは女性を内に閉じ込めようとする社会的圧力によって、女性たちはズボンを履くことを許されず、女性たちの服装はより煌びやかで奢侈なものへ、より男性の欲望を満たす形へと変遷を遂げた。大戦後の西洋で女性がズボンを履き始めたことや、明治維新後の日本は洋服を受け入れそれによって女性の社会的地位が向上していったこととに鑑みると、一般に自由や男女平等が叫ばれてくるにしたがって服装の差は縮まりよりユニセックスな様式へと変わっていくと予測できる。<br><br>　女性がどうあるべきかという社会のイデオロギーが目に見える形となって服装に現れるのは先述の通り決定的だが、それらの歴史的背景・社会的文脈を度外視した、女性たちの<span style="font-weight:bold;">「女らしい」「かわいい」</span>服装への志向は、むしろ女性が男性に劣るという観念を社会に留まらせ、逆に形成してしまっているのではないだろうか。現代においては、服装による女性への抑圧、不自由の強制という歴史的意義はもはや機能していないにもかかわらず、その差別の歴史によって築かれてきた<span style="font-weight:bold;">「女らしい」「かわいい」</span>服装は今彼女たちによって意識的に好まれている。しかも、それらは民主主義が確立された自由な、日常において女性を服装によって縛ることのない社会において起こっているのだ。換言すれば、男性たちにとっての都合のいい可愛さや、か弱さが女性自身の志向のうちに<span style="font-weight:bold;">「かわいい」</span>として内在化してしまっているのである。<br>日常となってしまった物事に隠されている権力の意図を明らかにしに、批判的になることこそこれからの時代、最も大切だ。女性の服装においてそれは、男性優位社会というイデオロギーであり、女性は無意識のうちに服装を介してその観念を日常のリアリティとして受け入れてしまっている。<br><br>これまで主に日常、プライベートな状況、において、女性の服装への志向について考察してきたが、以下は公的な、または職場などの環境における女性の<span style="font-weight:bold;">”女らしい服装”</span>とそれに対比される男性の装いについて分析する。プライベートな日常とは異なり、公的な、または職場などの環境では多くの場合、服装の規定が存在している。現代では女尊男卑だと抗議する男性も少なくないが、彼らに言わせれば、男性がスーツひと通りしか服装のバリエーションがない一方で女性たちは色彩に富んだ多様な服装が許されているのはおかしいというものだ。この主張が示すように女性に対して服装の自由が比較的許されているのは確かだが、しかし、自由であるという不自由、不平等、女性差別という意味が含まれているのではないか。スーツとは男性、つまり生産性や効率性のシンボルとしての服装であり、女性たちの<span style="font-weight:bold;">「自由な」</span>服装に現れているのは彼女たちにそれらの能力は求めらていないという意図である。歴史的には制限される、規定される、ということによって女性差別がなされてきたが、今日規定されない、自由という形で女性たちは社会から切り離されているのかもしれない。そして、その自由の中で選ばれた<span style="font-weight:bold;">「女らしい」「かわいい」</span>服装には無抵抗な彼女たちの志向に内在化した男性優位というイデオロギーが潜んでいるのだ。（ヒールの強要という「制限」の問題ももちろんあります）<br>　男女格差など各人自身の問題が深く関わってくる社会問題の解決にあたっては、政府や企業などがいくら制度の中で見直しを努力したとしても、人々の根幹にある潜在意識や観念などに根本の課題があるために大きな変革には至らない。日常にこそ固定概念が溢れ、それによって人々の当たり前が形成されているのだから、よりそこにフォーカスして考えていく必要がある。まさに女性の社会進出が叫ばれ、彼女たちによる女性の権利獲得のための抗争の時代で、彼女たちは皮肉にも男性優位社会の具現化である<span style="font-weight:bold;">”女らしい”服装</span>を着て男女平等を訴えている。<br>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/shankeistraiya/entry-12445824944.html</link>
<pubDate>Sun, 10 Mar 2019 22:18:43 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>生まれてから何人に会っただろう。【夏休み】</title>
<description>
<![CDATA[ <p>少し先の話だけれど夏が終わって日本に帰ってからたったの二週間ほどで大学が始まる。</p><p>全然休みがないことに気づいて萎えている。</p><p>&nbsp;</p><p>でも限られているからこそ毎日を濃くしていこうと思う。夏休みにしかできないことはやっぱり人に会うということだと思う。</p><p>もちろん企業訪問や成功している人のお話を聞くこともいいのだけれど、それでも僕にとってこういう人たちの話は自分の性格というか感性とはズレがあって、心には刺さらないみたいだ。むしろ教育者の方々の話の方が性に合っているだろう。だけれど、それももう聞き飽きたというか、こういう人たちの話は数が多ければいいというものでもないし、偶然聞いた話の方がぐっと来るものだと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>そこで夏休み、中学高校大学とたくさんの友達、そして様々に生きようとしている人たちに会おうと思う。意識の高い学生たちがお話と聞きに行くとなった時には、会いに行きもしないような中学の時やんちゃしていた人、今どこで何やっているのかわからない人、飲みサー・やりサーでtheいけいけ大学生ってやつを楽しんでいる人、あげればキリがないけれどこういう人たちを自分とは違うと言って遠ざけずにむしろ話を聞く、同じ空間同じ時間を共有してみると、面白いし何より自分の人生を考えることになる。人生にはいろいろな可能性があるということ。そしてなりより自分の心に刺さるのは</p><p><br>鈍感で幸せ者がいいのか、敏感で不幸者がいいのか。</p><p>何も知らずに憧れだけ抱いて幸せに生きるのか、多くを学び知り、現実を経験して不幸に気づき生きるのか。</p><p>自慢のつもりではなくて、いい学歴いい職を目指す中で、バカの方が楽しいし幸せだろうなとつくづく思う。これが真実ではなくただの自分のないものねだりであってほしい。だた子供のころ無知で楽しかったあの頃と今の大学生の自分を比べれば真実のように感じてしまう。</p><p>&nbsp;</p><p>ところで地元の夏祭りも全部終わってなお日本に帰れない今、どうやって会おうかと悩んでいる。</p><p>インスタグラムなどSNSのおかげさまで、何をやっているのかは頑張れば分かるものの、何を感じ何を思い生きているのかはあってみないとわからない。</p><p>とりあえず帰ったら親友の近状報告を楽しみに二人で旅行でも行けたらいいと思う。彼女より先に親友を取ったらまた怒られそうな気もするけど。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/shankeistraiya/entry-12397757688.html</link>
<pubDate>Tue, 14 Aug 2018 09:11:05 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>見下すということ。争いと命</title>
<description>
<![CDATA[ <p>gyaoで映画「男たちの大和」が配信されていたが海外からの視聴ができなくてとても残念。</p><p>戦争について考える中でなぜ人は争うのだろうと思う。</p><p>そして争いは心を汚し、格差を生み、社会を巻き込んで今目には見えない万人の万人に対する闘争が現代社会には蔓延しているのかもしれない。</p><p>&nbsp;</p><p>なぜ世界はこうも歪み矛盾に満ちているのだろうか。</p><p>その歪みはどこから来ているのか。</p><p>なぜ人には無意識の悪意というものがあるのだろうか。</p><p>なぜその悪意に気付こうとすらしないのか。</p><p>なぜ人生すら狂わせる存在があるのか。</p><p>なぜ人は支配し支配されるのか。</p><p>なぜ傷つけ合うのか。</p><p>なのになぜ人はこうも生きようとするのだろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>沖縄にいった時を思い返す。</p><p>自分は違う、自分には関係ない、違う世界の出来事だと、今ある現実から目を背ける行為が無自覚な悪意となって数えきれない人の命を、人生を侮辱している。</p><p>沖縄の語り部の方たちの言葉からは言葉にならないものが感じられた。</p><p>&nbsp;</p><p>正直に打ち明ければ戦争なんてものを遠すぎて分かりっこない。もちろん歴史をしっかり学んだつもりだしドキュメンタリー映像を通して知る努力はしてきた。でもわからない、そんなものでわかっちゃいけないのかもしれない。</p><p>でも今そこら中に社会問題は転がっている。</p><p>より複雑で高次なものへと悪化し続けている。</p><p>&nbsp;</p><p>なぜ人は争うのかを自分なりに考えてみた答え。</p><p>人が人を見下し続ける限り分かりあえない、と思います。見下すということ、それは怒り、嫌悪、そして無視、争いを生む始まりなのではないかと僕は思います。</p><p>&nbsp;</p><p>何のために生きるのか。</p><p>生きるために生きている。この一瞬一瞬が生きていく意味そのもの。</p><p>命は心を運び、そして伝えるもの。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/shankeistraiya/entry-12397687879.html</link>
<pubDate>Mon, 13 Aug 2018 22:23:56 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>大人ということ。（うまく言語化できませんでした）</title>
<description>
<![CDATA[ <p>”何かするとなったとき、そのことに対して意味を持ってはいけない。それはまだ早い。社会人になったら嫌でも働く、そしてそこには意味を持たせなきゃならないからだ。”</p><p>&nbsp;</p><p>中学生の時フラれたあいつからこんな意識の高い言葉が出るとは思いもしなかった。俺も成長しているといいんだけどな。だけれど好きなことでもなければやっぱり意味を無理やりでもつけてしまうなと思っている。未だにフラれるな（笑）</p><p>&nbsp;</p><p>今日は人生に対するちょっとした持論を書こうと思っています。</p><p>人はいつ大人になるのかについての自分なりの考えです。</p><p>&nbsp;</p><p>結論から言えば大人にはならない、です。ちょっと馬鹿げてますけど、共感していただけるように頑張ろうと思います。学生の戯言かもしれませんが、僕が思うに「大人という役になる」というのが大人になるということです。</p><p>&nbsp;</p><p>想像してみてください。</p><p>もし今、タイムスリップという意味ではなくて、小学生に戻ったら？中学生に戻ったら？？</p><p>きっとあの頃はバカだったなあ、とかなんであんなことしたんだろう、子供だったなあとか思うでしょう。そして、今の自分があの頃の自分のこころの中に入れたらそんなことしないのになあと思ったでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>けれどよく考えみてほしいんです。これは僕個人だけ感じることなのかもしれないです。でも共感する人が少しでもいてくれたらと思います。</p><p>今の自分がもし小学生になれて、小学生として生活を送ったのなら、きっと小学生の考え方になってしまうと思うんです。</p><p>もし中学生になれたなら、中学生の時自分が考えていたように考え行動するはずです。</p><p>つまり何が伝えたいかというと、人の核になる自我の根本は変わることはなく、ただそのまわりを覆っている殻のようなもの？社会の役割？そして他人からそれ相応に扱われるということが成長しているように錯覚する理由だと思うのです。</p><p>僕の場合だと小学生前半までは自我の形成期でそれ以降は社会的身分が成て長していくにつれて、という感じです。</p><p>&nbsp;</p><p>すごくわかりにくいし、なにいってるの、という感じですみません。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/shankeistraiya/entry-12397669929.html</link>
<pubDate>Mon, 13 Aug 2018 21:07:17 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>社会人に問う</title>
<description>
<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p>喧嘩を売るようだけれど、街を歩く「社会人」に片っ端から聞いてみたいことがある。</p><p>”あなたはいつ大人になりましたか”</p><p>何人がまともに大人らしく考えてくれるだろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>もう一つ質問がある。</p><p>”社会の厳しさはもういいから社会の楽しさを教えてください。”</p><p>&nbsp;</p><p>俺はまだまだ何にもわかっていないガキなんだろうか。</p><p>大人しいっていうのが大人なら子どものままでいたい。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/shankeistraiya/entry-12397230783.html</link>
<pubDate>Sat, 11 Aug 2018 21:28:18 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>やりたいこと</title>
<description>
<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p>将来はなにになりたいの？</p><p>夢は？</p><p>どんな仕事がしたいの？</p><p>&nbsp;</p><p>こう聞かれる機会が増えてきている</p><p>&nbsp;</p><p>誰か共感してくれるといいのだが、</p><p>いわゆる物欲に代表されるようなもの、それが自分にはほとんどと言っていいほどない。</p><p>自分のニーズがわからないので社会のニーズもわからない。</p><p>世の中の人が欲しいもの求めるものがいまいちピンとこない。</p><p>自分に夢がなくむしろ他人が笑顔になってくれるような、社会に貢献できるようなことがしたいと思ってもそれがいまいち想像がつかない。</p><p>&nbsp;</p><p>悟り世代ってやつなのだろうか。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/shankeistraiya/entry-12397225764.html</link>
<pubDate>Sat, 11 Aug 2018 21:07:09 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>留学という選択</title>
<description>
<![CDATA[ <p>現在オーストラリアに留学中。</p><p>&nbsp;</p><p>高校受験を控えた中学三年生だった自分。</p><p>英語が得意分野だったことをきっかけに（今になってあんな簡単な英語ができたぐらいで調子に乗っていたなと思う）今までの学歴は国際色が強い。そしてそんな安易な考えから始まり、現在はオーストラリアで生活を送る。</p><p>&nbsp;</p><p>留学という選択。英語という選択。なんだか、かっこよく聞こえてしまいませんか？？</p><p>憧れは経験できないからこそ憧れであり続け、一度経験し知ってしまえば、もはや憧れではなくなし、辛く苦しいことは増えていく。</p><p>&nbsp;</p><p>ちょうどそろそろ日本に帰る。</p><p>就職情報などを見ると英語は「コミュニケーションのツールとして」必要などと聞くが、自分はこの言い方にとても気持ち悪く感じる。コミュニケーションのツールという言葉の重みを軽視しているとしか思えない。TOEICを必死になって勉強している就活生そして、「社会人」を見ると、全く本人を責める気はなく、だけれど気の毒に思う。</p><p>そして英語だけにしか能がない人たちを世間は過大評価しすぎだと思う人は少なくないだろう。</p><p>その通りだと心の底から思う。</p><p>今までたくさんの帰国子女、在日外国人、海外の現地人、様々な出会いを通して感じたことがある。</p><p>&nbsp;</p><p>英語が堪能でない、英語をやらなくちゃ、と思っている学生さん社会人の方々へ</p><p>今や英語ができて当たり前！みんなやってる！やらなくては。とりあえず英語。</p><p>という心構えよりも、</p><p>英語ができない。自分には何ができるのか。どうしたら人の役に立つような社会の役に立つようなことができるのか。教養を身につけていくこと、英語ができない英語はやらないという背水の陣で挑むことをすすめる。</p><p>&nbsp;</p><p>なぜならあなたたちが英語ができるようになることは一生ないし、英語は本当の意味でコミュニケーションのツールとなることはない。言語は自分そのものを表現するもの、自分の話す言葉全てだけが自分であってその人生共に構築されていくもの。英語を日本語に対比して考えざるを得ない時点で、そんな英語で本当にコミュニケーションを取ることはできない。言語は人を通してこそ生活と経験の中でしか習得することができないし、大学生や社会人がたとえ海外に行くことがあってもその機会は少ない。</p><p>&nbsp;</p><p>だから高校生、今すぐ留学しろ。中学生、今なら何にだってなれる、いま留学しなかったらもう日本から出ることは一生ないだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>日本の中だけで今必死に英語を勉強している人たちへ。</p><p>そんなことをしても日本にいる自分と違う自分を海外で演じることになるだけだ。言葉ってそういうものなんだ。</p><p>そんな生きづらさのためにそんなに苦労してまで英語を勉強するのはもうやめにしようよ。</p><p>心の底からのアドバイス。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/shankeistraiya/entry-12397100762.html</link>
<pubDate>Sat, 11 Aug 2018 09:52:35 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>【初投稿：大学生】「社会人」という言葉</title>
<description>
<![CDATA[ <p>学生のみんな、学生に戻りたい「社会人」の皆さんへ。</p><p>&nbsp;</p><p>初めての投稿、まずは自己紹介を兼ねて。</p><p>&nbsp;</p><p>都内の、世間一般には優秀で高偏差値、将来有望、そんな有名大学に通う大学生。</p><p>しかしその実は、そんな恵まれた環境にも関わらず、将来の展望もなく今を迷走し、</p><p>大学生活の意義そして人生について、思索に耽る。</p><p>今の恋人との結婚を見据え、安泰な生活のため就活に向けてやらなければならないと思うことは山積みなものの、</p><p>なかなかやる気が起きず、初心者ながらブログでも書いてみる。</p><p>というもの、文字に起こしてみるというのは無駄なようでとても重要なことだと最近になって気づいたからだ。</p><p>小学校の頃から作文は大の苦手で、今になって後悔している。きっと今よりデジタル化された世界を歩む未来の息子や娘には</p><p>書くことの大切さを教えてあげられたらと思う。もっとも結婚できなければそんな心配は無駄になってしまうのだけれど。</p><p>&nbsp;</p><p>将来について考えることが成長するにつれて増えたように思う。</p><p>人は大学を卒業すると社会人になっていく。</p><p>きっと正確には義務教育を終えた者が学生という身分ではなくなった時、職を手にした時、そう呼ぶのだろう。</p><p>学生としてwikiはどうかと思ったがすこし興味深かったので。</p><p>&nbsp;</p><p>社会人（しゃかいじん）は、社会に参加し、その中で自身の役割を担い生きる人のことである。一般的には学生は除外される。 ただし一部の学生も社会人と呼ばれる場合がある。 日本語以外の諸外国語では日本で言うところの“社会人”をさす言葉はほとんど見られない。たとえば英語では労働者(worker)や成人(adult)、市民(citizen)という単語はあるが、日本語の”社会人”にあたる単語・表現はないが、最も近い言語では”participant in civil society”。</p><p>&nbsp;</p><p>大人たちにはもうすぐ社会人なのだから、もっと言う人はもう社会人だから、「社会人として～は常識だろ」「社会人として恥ずかしくないように」と言う。あなたたち大人の言う社会人は会社人のことだろう、と違和感を覚えずにはいられない。あなた方の言う社会人としての～はすべて会社の使用人としての心得やマナーのことだろう。社会に参加する者という意味ならば主婦だって老人だって社会人なはずだ。うまく伝わるかはわからないけれど、学生の屁理屈、戯言かもしれないけれど、この言葉に対する違和感、そして社会人＝会社人というイメージの根付いたこの社会に生きづらさを感じずにはいられない。</p><p>ただの愚痴でしたね（笑）</p><p>&nbsp;</p><p>初めての投稿のテーマとしては微妙かもしれない。けれどこれから「社会人」を目指す前に、立ち止まって考える必要があると思った。これは学生の悪い癖かもしれないが、何事も定義にこそ核心があるという心構えで物事を考えるべきだ。</p><p>&nbsp;</p><p>これからもこんな感じで頭の中に渾沌としてある疑問やそれに対する想いを気ままに綴っていこうと思います。</p><p>読んでいただければ幸いです。</p><p>誹謗中傷でも構いません、ご意見ご感想などありましたらぜひぜひ～</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/shankeistraiya/entry-12397026514.html</link>
<pubDate>Fri, 10 Aug 2018 22:43:17 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
