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<title>影光一対「光あるところに、また影も消えず」</title>
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<description>光と影の相反する世界表と裏が同位体で存在する実情適当に書いてますので、更新も適当です・・・。ツイッター版からアメブロ版へシフトしましたよーー。改めてよろしくです！！</description>
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<title>善意と人と勇気</title>
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<![CDATA[ <p>新年になってから帰りが遅くなることが多くなってきました。</p><p>しかし、今年の１月は遅い時間帯の乗車率が高いように思えます。</p><br><p>新年会の影響なのか、結構な人だかりで11時過ぎた電車でもぎゅうぎゅう詰めのことも多いです。</p><p>景況感が若干ではあるが、明るくなってきたのか？と思いながら、少し前向きな気持ちで乗っている一方で</p><p>やはり混雑の具合に多少のイラつきを覚える日々が続いてます。</p><p>（相変わらず、電車遅延なども多く余計に苛立ちが隠せない・・・）</p><br><p>そんな車中で珍しい光景に出会えました。</p><br><p>座っている酔っぱらった男性が、足の不自由な方に席を譲ったということです。</p><br><p>一見、普通かなとも思いますが、よく考えてみると</p><p>酔った男性の心境は称賛されるべきことだと思うわけです。</p><br><p>普通酔っていたら（自身もそうだが）、面倒で居眠りしていたいと思っちゃいます。</p><p>それよりも、周りに気を配り、足の不自由な方に目を配るということは出来ないのではないかと思います。</p><br><p>しかし、男性は偶然にも目に止まったその方に対して、躊躇することなく席を譲るのです。</p><p>小さい出来事ですが、心温まるなと思いながら見入っていました。</p><br><p>親切心といえば、最近「タイガーマスク」の話題が多いですね。</p><p>最初は聞きなれないフレーズから、あまり関心を示す内容ではなかったのですが</p><p>波紋の広がり方に興味を覚え、ついつい聞いています。</p><br><p>今回は小学生2人が、その「タイガーマスク」に扮して寄付行為を行ったというから驚きました。</p><p>正直、なんて度胸のある子なんだと思いました。</p><br><p>先の電車の件もそうですが、親切を発揮するにはどうしても「勇気」がいります。</p><p>もちろん、その「勇気」がなくても正々堂々と当たり前のように親切を提供できる方も多いです。</p><br><p>この「勇気」というのは、一概に指示せず、様々な様相を見せる言葉だと感じます。</p><p>勇気を出して、声をかけた。勇気を出して、周りの目を気にせず善意を行う。</p><p>このような「勇気」であれば、容易に想像できますが、もうひとつ。</p><br><p>勇気を出して、自身の阻害要因を打ち払った。</p><br><p>これが大きい気がしてなりません。</p><p>人間だれしも、内面は統一されておらず、迷いや悩みが生じてしまう生き物です。</p><p>ですが、勇気を出して、その迷いや悩み、不安を打ち払ったということは非常に大きな意味合いを持つと思います。</p><br><p>今回のタイガーマスク女児は、どのような「勇気」を打ち出したのでしょうか？</p><br><p>小学生という中で、出せる勇気の範疇を大きく超えている気がしてなりません。</p><p>成人をとっくに過ぎた自身も、我振り返る事柄でした。</p><br><p>日本人は古来より、地域社会という小さなコミュニティを築くことを大切にしてきました。</p><p>両隣の住民からお向かいさん、なんていう言葉も久しい限りです。</p><br><p>差し入れなんて言葉も、近隣住民には聞かないフレーズです。</p><br><p>地域社会から核化社会への移ろいが顕著な現代において、今回の件は大きな意味を持っていると思います。</p><br><p>今回の一連のタイガーマスク騒動（悪い意味ではなく、世間を賑わしているという意味で）は</p><p>時代の何を映しているのか？</p><br><p>タイガーマスクに扮した人間が偉くて、扮しない人間が偉くない。ということではありません。</p><p>単純にタイガーマスクに扮した人間が素晴らしいのです。</p><p>比較することではありません。</p><br><p>彼ら彼女らは、タイガーマスクを名乗り、助け合い・ボランティアを実行して</p><p>世間に何を訴えたかったのか？何を突き動かしたかったのか？</p><br><p>知る由もありませんし、量り知れるものでもないと思いますが</p><p>メッセージ性は高く、また同時に国内に良い共鳴運動を巻き起こしているのも事実です。</p><br><p>このような良いシンパシーが、小さなコミュニティを築き、互いを助け合う、良い社会構築への</p><p>一手となることが、喜ばしい限りです。</p><br><p>一部、企業の宣伝やら偽善やらという批判的な意見もあります。</p><p>これはこれで、また一方で頷ける部分もあるのかと思いますが、仮にそうであったとしても</p><p>今回の件は単純に国内の多くの方に心情の温かみを伝達させる触媒の役割を果たしているようです。</p><p>それは、素晴らしいことであり、またうれしいことでもあると思います。</p><br><p>この騒動が続くということはなくても、この騒動が切っ掛けで、社会人の目覚ましい革新へと</p><p>繋がることが出来れば、今回のタイガーマスク各位の動きは非常に優位性のあるものであったのではないかと</p><p>考えてしまいます。</p><br><p>まあ、そこまで愚考することなく、純粋にボランティア精神を表に出し</p><p>各個人の中にある煩悩を切って、行動に移したタイガーマスク各位の勇気には頭が下がる思いです。</p><br><p>偽善、それでも善です。</p><p>胸を張って、周囲の人と助け合える社会がたくさん出来て、各地で共鳴現象が起きれば</p><p>日本はお金の意味ではなく、心身がもっと裕福になっていくのでしょう。</p><br><p>今日はこの、二つの小さな「勇気」に感動を覚えました。</p><br>
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<pubDate>Thu, 13 Jan 2011 23:17:43 +0900</pubDate>
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<title>進化と人と発展</title>
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<![CDATA[ シャープが「ガラパゴス」と命名した電子書籍端末を発売するという記事が日経に出ていましたね。名前に工夫があったので興味を引かれましたが、アップルあたりが先行していた電子書籍の世界もいよいよ本格的に”当たり前”のツールになってきているような気がします。今まで横目で見ていた自分もちょっと食指が動き始めています。<br><br>アマゾンなんかでは自分がどんな本を読んでいるかによって近い世界のものを自動的に選択して紹介してくれますが、これが端末でも起こるということなのでしょう。無限に存在する情報の中から、勝手に自分好みを選んでくれていると、自分では意識していなかった自分が出来上がっていくような、好奇心とも恐怖心とも言えないような現象が起こるような気がします。<br><br>技術の発達が人間を変えて行く部分と、技術が人間の普遍（そして不変）な部分によって制限されるということの両方の現象が起こっていると思います。しかし、とにかく自分が動かなくても、「○○な人」向き、と定義された情報の群れがいつでも自分めがけてやってくることの快感と不快感の両方を想像してしまいます。<br><br>便利を利用したから起こる成長や達成と、不便ゆえに与えられた満足や達成の両方から、”いいとこ取り”ができるような器用な人間がどれだけいるのか、っていう興味も湧いてきます。<br><br>いろんな形での生存競争が存在するけど、これからは自分は動かないで洪水のような情報の中でしっかり自立でき、その中で自分の幸福に役立つものを”自ら”選べる能力を競う、言ってみれば「知的生存競争」とでもいうような時代になるのかもしれませんね。そうなるとおそらく自分の幸せとそれに寄与するものを選択できる能力が重要になってくるのだと思います。<br><br>この流れは、個々に違う価値観を作りそれを認め合う世界につながるかも知れませんが、一方ではサブミナル的にマスでの洗脳を容易にすることに通じているとも言えるでしょう。<br><br>本当に大変な時代がやってきたと思うのですが、スマートフォンなんかを本当に生活の一部として使っている今の若い人にはこういう感覚はあるのだろうかと思います。<br><br>その便利さを享受したい自分と、それに怖じけづいてしまう自分の両方がいます。皆さんはどう思います？<br><br>
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<pubDate>Wed, 12 Jan 2011 19:17:23 +0900</pubDate>
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<title>罪と人と罰　2nd</title>
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<![CDATA[ <p>そういえば、去年掲載した内容に続いて、テーマを引き続き掲載しようと思います。</p><br><p>昨年、法務省が東京拘置所の死刑執行場をマスコミに公開したそうです。千葉法務大臣が死刑の是非に関する”国民的議論”を促すために命じたとか。</p><br><p>そもそもあまり話題にしたくないテーマだし、考えれば考えるほど難しい問題です。人が法の名の下に人の命を奪うことを認めるのかということです。</p><br><p>「人」が意図をもって命を操作する形式には殺人と自殺があります。普通、自分の命は自分のもので、他人の命はその人のものだと考えますから、親子であろうが夫婦であろうが、殺人は自分の命ではないのにそれを奪うこと、と定義してもよいでしょう。そしてそれが法的に許される場合は戦争による殺りくと死刑です。</p><br><p>戦争が”許される殺人か”というのはまた難しい話ですが、事実として国際法では禁じていません。</p><br><p>従って、「法的」に許されているという意味では、死刑と戦争による殺人は同じことかもしれません。</p><br><p>”戦争反対”というのは簡単ですが、戦争体験者とそうでない人の言葉の重さには差があります。死刑反対というのも同じように、被害者の家族とそうでない人では圧倒的にその意味することの重大さは違うでしょう。</p><br><p>”人は進歩するのか”とか、”進歩とは何か”というのは個人的な哲学や倫理の視点でしか語れません。</p><br><p>僕は、”人の本質は昔も今もそして未来も変わらない”と考えています。知識や経験や立場で変わったように見えるけど、根っこのところは変わらない。つねに他人に優しくありたいと思いながら信じられない残酷仕打ちを平気でしてしまう。厭なやつでも信じられない善行をすることもある。悪魔は天使がなったものだとキリスト教では教えています。</p><br><p>しかしながら、少なくとも”考えたくない”というのは許されないのだろうと思います。そういう意味でこの公開は意味のあることでしょう。裁判員裁判とは法によって人が人を裁くことに参加することで、その極限の世界が死刑判決の言い渡しです。そして裁判員制度はもう始まっていてかなりの経験者を生んでいるからです。</p><br><p>でも難しい。自分の中で「当事者」と「非当事者」の両方の声がします。想像力の限界とその不純さに悩んでしまいます。</p><br><p>だから、この公開の目的が、「国民的議論」のためという言葉の”偽善”と、それによって安心してしまいたい”弱さ”と、それを「法的」に可能にしてしまう”民主主義”の怖さを思います</p>
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<pubDate>Wed, 12 Jan 2011 19:14:25 +0900</pubDate>
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<title>幸福と人と不幸</title>
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<![CDATA[ 民主党ネタには食傷気味になっていたので、興味の対象になっていませんでしたが、当選当初のころは”「最小不幸の政治」を目指す”というのはなかなかうまい事を言うと思って取り上げました。消去法で迫るローリスクな政治ということをうまく言っていると思います。市民運動出身だけあってさすがに板についている自然な言葉だと思います。<br><br>確かに誰かさんの「友愛政治」よりは100倍大人の言葉で、筋は通っています。だけどいまいちプロフェッショナルな言葉ではないな、というのが第一印象です。<br><br>良く考えて見ると、民主主義というのは、大勢の人が一人ひとりミクロな選択をするだけで、結果として大きな選択ができるシステムです。そういう意味では確率的に、「最小リスクの政治」と言ってもよいと思います。それは国民性悪説に基づくリスク分散を意図したシステムだからです。全体主義や共産主義に懲りた歴史のせいでもあるでしょう。でも国民を本当は信じているシステムではないですね。敢えて言えば国民のいい加減さを信じているシステムでしょう。確かに首相が変わっただけで支持率が３倍。<br><br>しかし、これは政治家も国民もミクロ型になってスケールが小さくなるという負の副産物を必然的に伴うシステムであることも事実です。機密費の公開などの透明性追求も一種の自己批判や自虐本能の現れでもありますが、結局のところ孤独に勝てないアマチュア政治家でもできる政治。政治のアマチュアイズム化と言ってもよい現象を生む事になるのです。谷亮子の立候補に象徴される”身近で、愛される国民代表”というタレント政治です。<br><br>選挙という膨大なミクロの判断の集積が最終で唯一の審判になる。だから何度も何度も選挙があり、また首相が辞任し、また選挙がある。選挙がビジネスで出来れば本当によいお金儲けが出来そうである。<br><br>今から思うと鳩山さんはとんでもない子供だったのかもしれない。今の民主主義は結局政治家と国民の両方を子供にするシステムなのかもしれない。小さなものに幸せを感じられる習慣をつける政治なのかもしれない。そんな人ゆえ小さな幸せすら国民にもたらす事が出来なくなる。<br><br>菅さんには、是非とも「最小幸福の政治」だけは目指して欲しくないと思っている訳ですが、そもそも「最小不幸」と「最小幸福」ならどっちが良いと思います？　<!--entryBottom-->
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<pubDate>Wed, 12 Jan 2011 19:07:46 +0900</pubDate>
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<title>知と人と情</title>
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<![CDATA[ 「知には情を説得する力がない。」<br>「満足というものは情がするものである」<br><br>これは昭和の大数学者（というより哲学者かも）である岡潔の言葉です。痺れる言葉だと思いませんか？<br><br>最近鞄に忍ばせて時間があるときに読んでいる本のひとつに、岡潔と小林秀雄の対談「人間の建設」があります。学生の時に読んでも消化できなかったものが、もの凄いスピードで頭に入ってきます。言っている言葉がどういう意味か、今の自分にとってどう解釈される言葉なのか、流石に学生時代よりは経験の厚みが増しているせいか、読んでいて実によくわかる。<br><br>岡潔に触発されて、「幸せは心がするものである。」という言葉が浮かんできました。今度、社員の賛成が得られたら我が社ののキャッチコピーにしたいと思っています。彼は「知・情・意」という言い方を好みますが、今の日本ではこのバランスが極端に悪くなっているのだと気付かされます。<br><br>家庭、学校、会社、そして政治。メンタル不全に伴う事故の多発は自信と希望が喪失しているから・・・<br><br>”幸せと思える力をどう取り戻すか”が大きなテーマになっています。どうすればそれが出来るのか。岡潔の言葉にハッとさせられました。　<br><br>
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<pubDate>Wed, 12 Jan 2011 19:05:52 +0900</pubDate>
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<title>言語と人と文化</title>
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<![CDATA[ ニュースで、楽天が社内公用語（？）を全て英語にしたという話題を紹介していました。ついにそこまで来たかという印象です。英語ができないと昇進しないとか。そういう会社は結構増えているようです。昔の、英語ができるとキャリアが広がる、というような悠長なものではなくなってきているようです。<br><p>しかし、です。やはり私の意見としては”ちょっと待った”というのがあります。それは最近の国語力の低下とか、言語文化に対する国家的手抜きというような風潮を憂いていたからです。</p><br><p>英語はとにかくコミュニケーションの道具でしかありません。問題は、何をしゃべるか、何をアピールするか、自分の意見は何か、その人と自分の違いは何か・・・　　そういうコンテンツが少ない人の上手い英語というのは実際かえって軽薄に見えてしまうと思うからです。上手い英語かもしれないけど大人の英語ではない可能性があります。そういう経験を何度もしたし、そういうテーマで散々外人と話したこともあります。</p><br><p>英語公用語化というのを「グローバル」と勘違いしている人がいます。多くのことがいわゆるグローバルな視点で理解しなければならない時代になっていることは事実です。しかし言語とグローバルは何の関係もないのではないかと言うのが私の持論です。地球が小さくなって、すぐどこにでも行けてどんな情報でもすぐ入る時代だからこそ、「日本人」とか「日本の文化」が大切になってくるし、その基盤の希薄な人はそもそもまともな外人さんには相手にされません。</p><br><p>「世界人」のような人はいないし、そんなものが存在できるようなら戦争はとっくになくなっているでしょう。</p><br><p>英語を情報の入手手段や、情報発信手段として習得するのは大切なことです。日本の英語力が世界の中でも相当下のほうに位置することは憂慮すべき事態ではあります。しかし、それはそもそも日本語や日本文化が一定の深度をともなったものであり、人口も多く国内市場も大きいことと無縁ではないような気がします。</p><br><p>GDPや人口の大きさでトップ１０の国で公用語を英語（アングロサクソンは別として）にしている国はないでしょう。</p><p>国家が一定の見解をしっかり持っていないからこういう”グローバル企業”がどんどん増えてくると思うのです。</p><br><p>一企業の問題ではないやっかいな問題、という気がします。</p><br><p>言語と文化の問題はちゃんと教育・政治の場で改めて議論しなければ、そのうちどこの国の誰か自分でもわからない国民が英語力が上がったと言って自慢するような国になるのではないかと心配しています。</p><br><br>
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<pubDate>Wed, 12 Jan 2011 19:03:30 +0900</pubDate>
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<title>不法移民問題と人と蜘蛛の糸</title>
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<![CDATA[ 子供の頃、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を読んで、”自分もこの主人公「カンダタ」と同じことをするだろうなあ”と思って、自分の中の怖いものを見たような嫌な気持ちになったことを覚えています。<br><br>今アメリカで不法移民の排斥運動が盛んになっていますが、何かに似ていると思っていたことに気が付きました。この蜘蛛の糸の話です。<br><br>アメリカはもちろん移民の国です。アメリカンインディアン以外は英国から始まり必ずどこかの国からの移民です。合法か非合法かの境目は実際は非常に曖昧です。法律で一気に合法化されたこともあれば、基準が緩くされて国籍取得が簡単になった時期もあります。<br><br>人がもっと必要なときには合法移民が増え、じゃまになると入り口を狭くして違法移民が増える。これはどの国にとっても当たり前のことで、アメリカも例外ではありません。<br><br>ただ、歴史の浅い国（近代的な意味で）アメリカでは、「君まではOKだけど君からは違う」という線が生々しく感じられるのだと思います。豊かだから絶え間なく移民が続くということもありますが、歴史のフィルターを通せるほど古くない時間の中でその鮮度が邪魔をして居る訳です。<br><br>難民の問題も根っこが同じです。どこまでが正義かというのは必ずしも普遍的な基準で判断できるものではありません。政治体制が変わると突然難民が発生する訳ですから、所詮勝てば官軍かもしれません。<br><br>日本も基本的には同じことをする運命にあると思います。そこまでハードな環境にならなくて済んできただけだと思います。<br><br>アメリカは他の国に「人権」主義を要求しています。合法移民と非合法移民の区別の中に人権の発想は見当たりません。<br><br>人は皆「カンダタ」だと芥川が言っています。人が集まって作る国も同じことです。中国のようにむき出しの国もあれば、アメリカのように偽善的な国もあり、日本のようにそのいずれも理解できない子供の国（明治までは違うと思うのですが）もあります。<br><br>蜘蛛の糸の深い意味を今更ながら反芻できたような気がして、今日は”少しだけ”霧が晴れたような一日でした。でも何も解決しません。解っても何も変えられない。無力感だけが残ります。<br><br>
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<pubDate>Wed, 12 Jan 2011 18:59:31 +0900</pubDate>
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<title>価値と人と質</title>
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<![CDATA[ <p>去年はノーベル賞の明るい話題と、小沢さんの不愉快な話と、尖閣の危ない話が一緒になってますが、ノーベル賞の話題がやはり輝いていましたね。</p><br><p>長い間一定の地道な努力を正しく続けてきた立派な人。そういう定義に当てはまる科学者が受賞していることに示唆に富んだものがあります。「人の在り方」というようなものの正当性に変化がないことに安堵しています。最近の日本に感じる多くの懐疑に一石を投じてくれているように思います。</p><br><p>でも、受賞の瞬間から人生が変わる科学者を見る、あの変な気持は去年と一緒です。同じような能力を持って同じような生活を続けてきたもっともっと多くの学者にはこの瞬間は訪れないんですよね。その差は運なのか、それともやはり才能とか人間の違いなのか・・・</p><br><p>偶然ということを私はあまり信じない人間なので、よりこのことに興味をそそられます。</p><br><p>それと、中国にやり込められている今日この頃、日本人の優秀さを外国の人が認めてくれている「誉」を感じますね。素直にうれしいです。</p><br><p>でも「時」の持つ怖さもあります。それは受賞者達が何十年も前に行った実績が今評価されているということです。今若い科学者がやっていること、彼らが生きているこの日本から将来同じような受賞者が出てくるのかという恐怖です。今味わっているお酒は50年前に仕込んで、その時間の長さがこんなに美味しい味を作ったということです。</p><br><p>何十年後には中国人の受賞者が日本人を圧倒するかもしれません。</p><br><p>今何が過去と違うのでしょうか。違っているものに謙虚になる必要がありますね。</p><br><p>今の日本は過去の日本が作ったし、未来の日本は今の日本が作るのですから。</p>
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<pubDate>Wed, 12 Jan 2011 18:57:12 +0900</pubDate>
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<title>なんだかなぁ、と思うこと</title>
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<![CDATA[ <p>チリの炭鉱の落盤事故からの33人全員の救出のことが連日報道されていると思ったら、今度は中国での反日デモの報道がその上にかぶって、チリの話がすでに霞んできていますね。忙しいことです。</p><br><p>チリの話が世界的な美談であることは間違いありません。但し、CNNなんかの報道に比べると日本の報道はやや薄い感じがします。何でだろうと少し気になりました。</p><br><p>ひとつには、欧米にとっての南米は日本にとっての南米より地政学的にも、また心理的にも近いのではないかと言うこと。それとキリスト教文化という共通性があるので、日本人とは死生観の違いなんかもあるのではないか・・・そんなことを漠然と考えていました。</p><br><p>この事件で、「アンデスの聖餐」という映画になった、アンデス山脈に不時着したの1972年の飛行機事故のことを思い出しました。生還した何人かが死者の人肉を食べて生き延びた事件です。また当時人肉を食べても生き延びたことへの賛否両論が渦巻いていて、自分だったらどうしただろうということも考えた記憶があります。</p><br><p>生き残った精神力というような部分や、放置されていた時間なども今回の事件との共通点が多いと思ったし、飛行機はウルグアイ空軍のものだったけど、墜落したのは同じチリでした。</p><br><p>ただ違うのは、今回は生存発見からLIVE中継され、食糧も水の補給されたこと。飛行機事故の方は自力で山越えをして生存を伝えるまで誰も生きているとは思わなかったこと。しかし、何といっても決定的な違いは「死者の肉を食べたこと」でしょう。</p><br><p>今回は手放しに良い話。しかし飛行機事故の方は”カニバリズム”という人肉嗜食の話が伴っていて、キリスト教と肉食文化を持った欧米の人達にとってこの行為は非常に宗教・哲学的に奥の深いデリケートな要素を持って報道されたのです。その意味でも今回の事故は、欧米のメディアにとっても一点の曇りのない昼間のように明るい話題で、さぞ扱い易かったことでしょう。でもその分味わい尽くすスピードも速いのです。</p><br><p>だから、やはり気になるのは「今後の事」です。”英雄はいつまでも英雄ではあり得ない”からです。世界中から祝福を受け、家族から愛をそそがれ、多くの人に希望を与えましたが、時間の経過とともに「普通の人」になってしまうのです。彼ら、特にあのリーダ格の人は少し別ですが、他の生還者はやっぱり普通の人なのではないでしょうか。ましてや一度普通の人ではなくなった「有名な普通の人」になってしまうのです。</p><br><p>人というのは残酷です。エゴに満ちています。感動という心の記憶を長続きさせるには途切れることなく何かを与え続けなければならず、ほとんどの人にとってそんなことはできないことです。ノーベル賞を取った人でもなければ、生還によって決定的に尊敬されるスキルを示せた訳でもないからです。あのリーダの人はその意味ではこれで普通の人ではなくなった可能性があります。</p><br><p>彼以外の人にとって今後の仕事のことはどうなるんだろう。手記を書いたは書いたで嫉妬もされるでしょうし、エルビスプレスりーファンであった為にメンフィスに招待される生還者の話も、世間がその余韻から覚めたときが恐ろしい気がします。</p><br><p>人と言うのは何と悲しい生き物なんでしょうね？</p>
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<pubDate>Wed, 12 Jan 2011 18:54:32 +0900</pubDate>
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<title>『民主』ということ</title>
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<![CDATA[ <p>菅内閣の支持率が25％になって、不支持率が65％になったそうです。完全に民主党への変化を求めた国民が完全に白けたことを意味していると思います。</p><br><p>素人でも良いから新鮮な期待感があったけどさすがに本番はこれ以上任せられない、って言う感じでしょうか。しかも想像以上にひどかったというところかもしれません。民主党というより管政権かもしれないけど、じゃあ小沢さんが良いかと言うと、妙にプロの凄みがある。まあ日本国民の現在のテイストに合う政治家はいないということなのでしょう。</p><br><p>そういえば、鹿児島県の阿久根市の竹原市長の解職請求の住民投票の結果が出て、市長の失職が決まったそうです。そうなるとは思っていたけど、76％という投票率の高さは、市民にとってこの問題が非常に切実なものであったということだと思います。但し、賛成と反対の差が結構拮抗していることに、この問題の深さが読み取れます。</p><br><p>民主主義だから、過半数をとった方の意思に従うのは仕方がないが、その反対票の数も過半に近いということは、とてもじゃあないがすっきりした結論とは言えないでしょう。次の市長戦にこの市長が出て、当選したらどういうことになるんだろう。また同じことが繰り返されるとすると、これはもう最悪の”民主主義ごっこ”という感じのイベントになってしまう。こういう形の選挙やリコールでも相当税金が使われるはずで、希望もないので面白いドラマ仕立ての芝居でも見たいという市民のお祭りになっているのかもしれない。</p><br><p>いろんな判断ができることが良いことです、っていう見解もありますが、可能性が大きいことは人を迷わせ、結果として納得感や満足感の乏しい結論を容認することになるっていう逆説が存在すると思います。</p><br><p>人はそんなに偉くない。すごい判断力もあるわけでもない。誰かに騙されているかもしれないという懐疑的な気持に支配されているからかもしれないけれど、大多数の人の判断ほど危険なものはないことも、また歴史が示しています。</p><br><p>菅内閣のことも、この阿久根市長のことも、そして名古屋の河村市長のことも、共通しているのは、行政の長と議会の対立と言うことですが、もっと深いところで共通している民主主義の罠のようなものも感じます。</p><br><p>日本人はやっぱり民主主義は不得意かもしれない・・・　</p><p>でもそれに代わる方法も思い浮かばないですね。今の日本では。</p>
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<link>https://ameblo.jp/sharpreload/entry-10766268756.html</link>
<pubDate>Wed, 12 Jan 2011 18:53:16 +0900</pubDate>
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