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<title>shiku-yのブログ</title>
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<title>山本空外上人こと　18</title>
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<![CDATA[ <p>友人のＫ師から電話があり、「空慧上人が亡くなった」と。<br><br>兄弟子でもあり、空外上人島根の寺「隆法寺」の後任の住職として長きに亘って守られた方です。<br>晩年は認知症を患われホームで生活されたそうです。<br>　このブログでも以前に書きましたが、我々大学生の頃初めて訪ねて以来、ほぼ毎年のようにお邪魔して、数日間滞在させていただいた。<br>　空慧上人はもともと出西窯の創立メンバーの一人で、窯の運営に問題が起きたことから、隆法寺住職として隠棲されていた空外上人の元を訪ねられ、以後メンバーと共に念仏に精進する様になられた。<br>　中でも、空慧上人は熱心で、他のメンバーに先駆けてお寺に来て一生懸命念仏に精進されたので、空外上人が広島大学に復帰されるに当たり、後任住職として任された。</p><p>　朴訥な人柄は、みんなに好かれたが、時々自分勝手に物事を進めたりして、空外上人によく怒られていました。それでもご本人は「へへへ」と笑って過ごされることが多かった。</p><p>寂れた山寺は、そのうち立派な念仏道場になり、ついには「空外記念館」の設立に尽力された。</p><p>　後は、息子の空幹師がお守りをしておられる。</p><p>　本当にお世話になり、十分なお礼もできなかったが、そんな事にお構いなく暖かく我々を迎えてくれたことが、思い出として残っている。</p><p>　残念ながら、入院中のため葬儀に参列できなかったが、落ち着いたらお参りに行こうと思っている。</p><p>　今は、はるかな愛知の地からご冥福を祈るのみである。</p>
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<link>https://ameblo.jp/shiku-y/entry-12666788089.html</link>
<pubDate>Mon, 05 Apr 2021 18:58:15 +0900</pubDate>
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<title>山本空外上人のこと　　その17</title>
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<![CDATA[ <p>「不の主体性」について掘り下げていくと際限がありませんが、常に自分自身の問題として日々取り組む事で、自らが深まり、その時に理解できなかったことが後に明らかになる事も多いのです。<br>ここで、その主体性を持って行じていくことについて少し考えてみたいと思う。<br>仏教を信じるという事は、倶舎論にある通り、「自分自身の心を浄める」事でありその為に努力する、即ち「行じる」事が求められるのであるが、一般的に信仰は単に「信じる」だけで、「行じる」という考えが薄い。特に「浄土真宗」では「信」に重点が置かれ、「行」は「自力」と考えて否定する傾向がある。もちろん「信じる」事は大切であるが、ただ信じるだけで救われると考えるのは、おめでたいのではないだろうか？それで良ければ何も口を挟む事は無いが、それをみんなに強制し修行を否定する事は傲慢以外の何者でもない。「不」というのはそういった自らの傲慢さを自ら反省して前向きに生きること以外に考えられない。<br>かつて（今でも一部あるが）仏教は厳しい修行を通して悟りを求めるもので、真実に目覚める為には何度も生まれ変わって修行を続けて初めて悟れるという考えが主流であった。<br>いっぱんじんは、そのような修行者に対して布施を行う事で、言ってみればおこぼれを頂戴するように幸せになれると考えていたのだ。<br>それが法然上人よって、そんな難しい行をせずともただひたすら念仏すれば御仏のお力により救われると説いたのだった。いわゆる「平等往生」である。<br>この事で、仏教は飛躍的に発展したが、同時に多くの問題点を抱えることともなったのである。<br>現代は民主主義時代であり全てが多数決で決められ、それが宗教の評価にまで影響を与えて、数の多い信仰が本当の宗教というように評価されがちになっている。<br>新興宗教が数を集める為になりふり構わず活動を続けているのも、数を絶対視することによるのだ。<br>仏教は自らの可能性を求めて取り組むものであり、釈尊遺言にある通り「自らを燈とし、法を燈として」生きること以外に仏教は無いと言える。<br>その「自らを燈とする」のが「主体性」であり「法を燈とする」のが「不」であると私は信じ日々念仏を行じているのである。</p>
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<link>https://ameblo.jp/shiku-y/entry-12624095065.html</link>
<pubDate>Fri, 11 Sep 2020 09:47:59 +0900</pubDate>
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<title>山本空外上人のこと　その16</title>
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<![CDATA[ <p>空外上人の学術用語であり宗教的提言に「不の主体性」という言葉がある。<br>深く掘り下げていけば、ギリシャ哲学まで遡る必要があるが、それは今後の研究者任せるとして（現在、広島大学倫理研究室おいて始まっている）単純に信仰の立場で考えてみたいと思う。<br>空外上人にとって、「不の主体性」はあくまで法然上人の「一枚起請文」が、根底に置かれる。「一枚起請文」はご存知の通り、法然上人が亡くなられる３日前に弟子の源智上人の依頼を受けて残された言葉で、上人在世中から念仏についての様々な解釈がなされて、弟子の間でも意見が分かれていたため遺言としてご自身の念仏の思いを述べられたものである。<br>その中で、中心になるのが「智者の振る舞いをせずして、ただ一向に念仏すべし」であり、これに異議を挟む人はいないと思う。しかし、空外上人は「この言葉を日常の生活でどれだけの人が実行しているのか？」と疑問を投げかけておられます。<br>この「智者のふるまいをせず」が「不」に当たり、「ただ一向に念仏す」が「主体性」あたるのです。<br>世の中を見回してみても、また自分自身を振り返ってみても「智者のふるまい」が当たり前のように思われています。テレビでの討論会に於いても、他人を論破するために相手を否定するのが普通であり、不毛な論議が繰り返されています。自身を振り返ってみても、自分の意見が絶対のように決めつけ、相手を否定するのが日常なのではないでしょうか。<br>聖徳太子が「十七条憲法」で言われた「人各々執れるあり」の言葉通りそれぞれ執着するものがあり、それを否定する事はできないけれども、どちらが正しいかを決める事も出来ないのです。すなわち「共にこれ凡夫のみ」を主体的にお互い自覚する事が、争いを無くし平和な人生が約束されるのです。<br>しかしながら、人は自分自身の力ではどうする事もできない「宿業」に縛られて生きているのです。頭で理解できても実際の生活ではついつい怒りと悲しみに振り回されるのです。<br>であるからこそ、私たちの「生命の根源」であるところの「阿弥陀如来」に全てをお任せして、ひたすら「南無阿弥陀仏」と念仏を続けることが必要なのです。<br>長い弟子生活の中で、共に時間を過ごすことはそれほどありませんが、それでも共有する時間の殆どが、師僧が常に小声で「ナムアミダブツ・・・」と称え、書を書かれる時も念仏と共に書かれていたのが事実です。<br>又、小生がある事を決めて「こうしたいと思うのですがいかがでしょうか？」とお尋ねしても決して否定されず、「それで良いでしょう」と認めて下さった。<br>一方で、自分勝手な行動をした時は厳しく叱られたものでした。<br>「不の主体性」は自らを厳しく律しながら「前向きに力強く生きる=往生」事を提案されたものだと受け止めております。</p>
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<link>https://ameblo.jp/shiku-y/entry-12623395674.html</link>
<pubDate>Tue, 08 Sep 2020 11:28:53 +0900</pubDate>
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<title>山本空外上人のこと　15</title>
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<![CDATA[ 前回述べた「無への飛躍」は、空外上人が体験された心の飛躍を意味しますが、その中身は人それぞれ違うものです。ここを押さえておかないと「悟る」事が固定化され、みんなが同じ体験をする事が目標になってしまうのです。弁栄上人が提唱された「見仏」も、見る仏は人によって違うのに、一つのパターンが与えられて、これでなければならないと限定されてしまうのであって、実際光明会に於いてそのように主張する人達が居ました。そう思う人はそれで良いでしょうが、やはり無量=計算できない世界である以上、限定されたところに真実を見出す事は困難であろうと思います。<div>同じ事をしても、感じ方受け止め方は一人一人違うのであって、この人がこうしてこうなったからと言って、みんなが同じなのでは無い事をしっかりと基本に置く事が大切に思います。</div><div>本来の伝統的な仏教に於いては、修行の階梯をパターン化して、そのパターンに従って修行していけば悟りに至れるとしてきました。</div><div>それを法然上人がひっくり返して、平等往生を掲げて、善人は善人なりに悪人は悪人なりに念仏をして往生できると主張されたので、有名な「義無きを義とす」る教えを広められたのです。</div><div>一時期、「大乗非仏説論」が言われましたが、それ以上に法然上人の教えは仏教をある意味超えてしまったのです。そういう意味では法然上人の教えは仏教では無いのかも知れません。現在でもチベット仏教などから見ると日本の仏教は違うと見られても仕方がないのかも知れません。</div><div>しかし、仏教とは悟った人の教えであり、悟るための方法はこれであると釈尊は残していません。釈尊以来2500年という年月を経て、それぞれの地域にそれぞれに合った教えが広まっていったわkwで、どの教えが真実でどの教えが真実でないと決める事は誰も出来ないのです。</div><div>では、みんなが好き勝手にやれば良いのかと言えば、決してそうではなく、そこに真実が流れていなければ、単なる放逸に過ぎないのです。</div><div>人間どうしても自分自身が正しいと信じ、自分の考えに合わないものを非難する事は日々のテレビでの討論を見ていれば明らかで、自らを振り返ってみれば、自分自身がそのような考えを他に押し付けている事が多いのに気づくのです。</div><div>聖徳太子が「十七条憲法」で述べられている「人はそれぞれ執着するものがあり、常に自分が正しく他人が間違っていると考える。しかし自分が必ずしも聖人ではなく、他人が愚かなのではない。共にこれ凡夫なのです」と説いています。私達はこの言葉をしっかりと受け止める必要があります。</div><div>空外上人の「無への飛躍」をどう捉えるかは、それこそ人によって違うでしょうが、自分の解釈が一番なのではなく自分はこのように受け止めただけで十分なのです。</div><div>そこから念仏修行が始まり、自分でしか体験できない世界を作り上げていく事が仏教を生きることに繋がるのだと思います。</div><div>空外上人の思想で次につながるのが「不の主体性」という言葉です。次回は、この言葉について考えてみたいと思います。</div>
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<link>https://ameblo.jp/shiku-y/entry-12621326470.html</link>
<pubDate>Sun, 30 Aug 2020 15:02:53 +0900</pubDate>
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<title>山本空外上人のこと　　その14</title>
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<![CDATA[ ここで、空外上人の哲学的宗教的テーマについて考えてみたい。もちろん、学問的な掘り下げは後世に任せるが、直弟子として身近なところで見聞した世界から考察してみたいと思う。<div><br></div><div>「無への飛躍」</div><div>この宗教的テーマは空外上人の比較的早い時期から提唱されていて、基本は般若経典の「空」の思想、いわゆる中観思想から来ていると思われます。</div><div>実はこの考え方が、山崎弁栄上人の直弟子から批判されたようなのです。なぜかと言うと、弁栄上人の光明主義は主に「法華経」「華厳経」を展開して「無量寿経」「阿弥陀経」に繋げているのに対して、空外上人は大乗仏教の基礎になる「般若経」を基本に据えたからです。</div><div>その上で「法華経」「華厳経」「無量寿経」に繋げて、最後に「観無量寿経」のいわゆる「南無阿弥陀仏を称える」ことに帰結していくのですが、この「無」という言葉は一般的には禅の世界で用いられる事が多いので、例えば「趙州無字」に言われる、「如何なるかこれ祖師西来意」に対する答えとして挙げられている。</div><div>この禅的な「無」と空外上人が提唱する「無への飛躍」にどのような違いがあるのでしょうか？</div><div>空外上人の宗教思想はそのご自身の体験を通してのものなので、到底その真意を知る事はできないと思いますが、様々なお説教などで語られるところからすると、般若思想の「空」が、「無」によって展開されているところから、「空」というのはその存在のあり方で、「無」は実践的取り組みと言えるのではないかと思う。</div><div>いわゆる「色即是空　空即是色」(空外上人はサンスクリット原典からさらに「色は空なり　空こそ色なれ」までを大切にされた)の後、「色」から始まる「受、想、行、識」が全て「無」によって押さえられている点から総合的に「無」を主眼に置いたのだと思う。</div><div>ここからが、空外上人独自の世界で、「般若経典」が大乗仏教の根本となりそこから展開されて、全ての人が悟れる事を説いた「法華経」「華厳経」に発展して、千年の時を経て「無量寿経典」により「南無阿弥陀仏」の称名に結実したという考え方が生まれた。</div><div>実は、弁栄上人の時代までは、いわゆる経典成立史が確立されておらず、明治の半ばまでは「仏典」は全てお釈迦様の言葉として受け止められていたのです。未だに、お経はお釈迦様の言葉だと言っておられる方がありますが、その間違いは正す必要があると思います。</div><div>いずれにしても、空外上人の「無への飛躍」の無は、般若思想の「無」と「阿弥陀」(阿弥陀の阿は「無」という意味で「弥」は計量するという意味)を総合した上で、その「無」の世界へ飛躍する事が、仏教の取り組みの根本であると主張されたのです。</div><div>ここで、「飛躍」という言葉を考えてみます。仏教の「仏」は「悟った」という事で、悟らなければ仏教とは言えないのです。しかし、悟る事はある意味大変難しい事で、どんなに修行しても悟れない人が多いのが実際です。そこで、法然上人が「念仏」を勧められ、「念仏」すれば「往生」でき、それは全ての人が可能なのだと説かれたのです。では、「悟る」事と「往生」はどう違い、どう同じなのでしょうか？</div><div>これまでは、日本の仏教界に於いては別と考えられてきたのですが、弁栄上人において一つの世界と考えられたのです。その為、当時は浄土宗内でも異安心として批判されました。</div><div>それを、学問的な背景をもとに空外上人がズバリ「悟る」事と「往生する」事に違いの無い事を実際のご自身の体験を通して主張されたのです。</div><div>では、飛躍とはなぜなのか。私たちの心は常に動き、真実を捉える事ができません。身の回りに起こる出来事に引きずり回され、悲しみ、怒りに身を任せているのが現実なのです。</div><div>そこで、その現実から一歩下がって、念仏に集中していると、ある瞬間、現実の動きから心が離れて、真実に気づく事があるのです。</div><div>それを「飛躍」という言葉で表現されたのだと思います。</div><div>よく「執着」から離れるといいますが、そう簡単に離れられるものでは無いのです。心はそれほど難しいもので、だからこそ多くの仏教者が取り組んできたと言えます。</div><div>小生の経験から言っても、「飛躍」は一度経験すれば良いというものではなく、念仏を続けていくと、その都度体験し、おそらく一生取り組むものであると思います。</div>
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<link>https://ameblo.jp/shiku-y/entry-12620664960.html</link>
<pubDate>Thu, 27 Aug 2020 14:14:06 +0900</pubDate>
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<title>山本空外上人のこと　その13</title>
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<![CDATA[ <p>山本空外という方は、およそ社会的権威に拘泥されなかった。東大を首席で卒業したことでそのまま東大教授になることも可能であったが、当時の国民の義務として一年志願兵として軍隊に入り除隊後に山形高等学校の教諭として赴任、その後請われて新設の広島文理大学に行き、文部省派遣研究者としてヨーロッパに３年間の留学。滞在中にフッサール・ハイデガー・ヤスパースなどの歴史的な哲学者と交流、帰国後直ちに博士論文に取り組み、32歳の若さで学位を取得した。<br>英語・ドイツ語・フランス語・ラテン語・サンスクリット語など語学の才能は群を抜いていたが、学問の世界に於いてはそれほどの評価をされていない。例えば中村元や井筒俊彦など世間に大きく評価されているのに対し、それほど評価されていないのは現実である。<br>又、一生を小さな寺の住職として過ごし、浄土宗の大本山や総本山の法主・門主に推薦されても即座に断っておられた。<br>常に仰られた事は、例えば「仏教学」は「仏教」ではない、法主・門主などは忙しくてやっておれないという事です。19歳にして人生に悩み、死をも覚悟して念仏に取り組み大悟された事で、ご自身の生きる道を確立され、世間的な名声・地位などに全く興味を示されなかった事がその生き様を示しておられる。<br>世間では、文化勲章やノーベル賞を受賞する事が評価され、法主や門主になる事で尊敬されるが、そのような外面的な事に全く価値を置かなかったためであろうと思う。<br>しかし、その思想の深さは自らの悟りの世界と相まって歴史的な評価を与えられても不思議ではないのだ。<br>これは、弟子としての贔屓目ではなく無条件に感じる事である。例え、世間の評価が低くてもその中身の値打ちについては下がる事はなく、時代が進めば必ず歴史に残る存在であると言える。<br>次回から、その思想の一端を記してみたいと思う。もちろん、学問的な素養もない小生が到底説明できるものではないが、念仏体験を通して得た理解を少しでも多くの方に伝えることも弟子としての責任と考えている。<br>小生が空外上人と出会って以来、紆余曲折を経ながら念仏に取り組み、この年になってようやく気付くこともある。<br>著書を紐解いても、おそらく空外上人にとっては平易な言葉で表そうとしているが、やはり仏教的哲学的な素養がなければ、ただの難しい話で終わり、中身が理解されないまま終わってしまうこともあったと思える。<br>生きておられるときは、内容の難しさに拘らずその人間的な魅力に多くの方が信者として着いてこられた。しかし、空外上人亡き後、念仏に励む人が少なくなった事は一つの事実でもある。<br>宗教の世界は一人の天才が現れることで大きく動くが、亡くなられた後衰退する傾向が歴史的にもあるが、それを繰り返しながら世の中は進んでいくのだろうと思う。<br>宗教にとって最も大切なことは自らが自らの体験を通して、その世界を生きることなのだが、往々にして天才的宗教者の側にいるだけで癒され、それで良しとする人が多い事がその一因のように思われる。<br>やはり空外上人の口癖に「人の事はどうでもいいのです。自分自身が真剣に取り組まなきゃだめです」と仰り、他人が批判しても相手にしないというスタンスを常に取っておられた。<br>一例として、明治時代に三昧発得され念仏を全国に広められた山崎弁栄上人が作られた「光明会」という組織がある。その上首という立場に立たれたとき、多くの光明会員から反対の声が上がったのだ。その理由は山本空外は弁栄上人の光明主義の考えを曲げているという批判があったからだ。<br>この問題は掘り下げると難しいところがあるが、根本に仏教の「空」思想とヨーロッパ神秘主義を一つの世界として考えの基本に置いた事が、直弟子と言われる方達の反発を招いたのだ。<br>しかし、空外上人は一切反論する事なく自身の念仏を通され、今ではその評価は大きく変わってきている。<br>聖徳太子の「人各々執れるあり」言葉の通り、人間には一人として全く同じ考えを持つ人はいない事を踏まえて、他人を非難する事が争いの元であると常に言っておられた。<br>この文章にしても、それは違うとおっしゃる方がいるかもしれませんが、あくまで40年間師事してきた弟子としてのささやかな理解として読んで頂ければ幸いです。</p>
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<link>https://ameblo.jp/shiku-y/entry-12619695454.html</link>
<pubDate>Sun, 23 Aug 2020 10:22:01 +0900</pubDate>
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<title>山本空外上人のこと　　その12</title>
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<![CDATA[ <p>　出西窯はほとんど毎年のように訪ねて、時には空外上人とは別に窯場でコンサートをさせてもらったこともあった。近年は元のメンバーも徐々に亡くなり、今は若い人たちが中心になって経営しており、全国各地に出荷しているようである。</p><p>さて、出西での思い出の一つに空外上人の性格を直接感じる出来事が多くあったことである。空外上人は、大学時代は非常に厳しい方で、学問に対して妥協をしない方だったようで、卒業生の多くの方がその怖さを語っておられる。学問以外ではとても優しい方で、そのため各地で「空外会」が組織され、その地方に行かれるたびに集まって交流を深めておられた。広島大学の卒業生の多くは各地の教師をされ、中には校長まで昇進された方が多いが、その校長が「空外会」で空外上人に会われるときには直立不動の姿勢だったそうである。</p><p>&nbsp;</p><p>どういうわけか小生に対してはとても優しく、こちらが無理難題をお願いしてもいつも快く引き受けてくださった。一方、同級生で共に空外上人の弟子になった川本君に対してはある意味厳しいところがあって、彼が学問的な質問をすると、「君は、その意味が分かって質問しているのか？」と、もっと勉強しなさいとでも言うようにほとんど返事をされなかったようである。</p><p>ある時、出西窯でいつものように焼き物に字を揮毫され、その後みんなで食事をしていた時、お酒が回られたのか（揮毫される時は、前もって必ずお酒を飲まれる。その理由は、若いころから心臓が悪く、時々結滞して手が震えるのでその震えを止めるために飲まれる）、小生に、「尺八を吹いて下さい」と頼まれたので、もちろん気持ちよく吹かせていただいたのであるが、その後、くだんの川本君に「君も尺八を吹くそうじゃが、今度は君が吹きなさい」と声をかけられた。しかし、彼は「いや、吹きません」と即座に断ったのだ。すると、「吹きなさい」「吹きません」のやり取りが数回続き、周囲の人々が凍り付くような状況になり、かたずをのんで見守っていた。最後は「強情なのう」とあきらめて話題を変えられたのだ。小生から見れば、どちらも強情だが、空外上人にたてつく川本君も大したものである。しかし、彼に対する信頼は厚く、書や焼き物、絵画などに対する彼の審美眼は高く買っておられた。彼には、近くのお寺を紹介し、何かにつけて可愛がっておられたことも事実である。</p><p>&nbsp;</p><p>叱られたと言えば、小生にも実は2度ほどある。最初は、阿久比のお寺に入山してしばらくたったある日、空外上人の書を見て、これは素晴らしいと人づてに小生の寺を訪ねてこられた方があった。四方山話の後、御縁だからと出西の茶碗を差し上げた。もちろん空外上人の字が書かれてあるものだったが、帰られる時、壊れた鐘楼を見て「この鐘撞堂を再建しませんか？」と言われたので、もちろん入山以来何とかしたいと思っていたので、「そうしたのですがお金がないので」と言うと、「釣り鐘の金は自分が出すので、お堂を檀家さんに頼んで造ってもらえばいい」とおっしゃるので、早速総代さんに相談してお金を集めることにした。釣り鐘は高岡市の鋳造所に行き直接発注していよいよ出来上がるころ、空外上人が半田の小栗家に来られることになり、くだんの方は「是非お会いしたい」と言われたので、当日ご案内して、空外上人に紹介させていただいた。最初のうちはとても良い雰囲気で、くだんの方は、翌日ぜひうちに来て食事をしてくださいと誘われ、空外上人も喜んで承諾されたのだ。ところが、お帰りになる直前、くだんの方が「お弟子さんが鐘撞堂を再建されるというので、協力しようと思っているのですが、それについてお上人に何枚か書を書いていただけませんでしょうか」と申し出られた。小生は、たちまち凍り付いてしまった。まさかそんな申し出をされるとは思っていなかったので、ただ謝ってその場を辞した。</p><p>寺に帰ってしばらくするとくだんの方から電話があって「空外上人はうちには来られないそうだ」との連絡があったので、小生は慌てて空外上人に改めてお詫びの電話をしたところ、「ようするに私の書を売ってお金にするということでしょ、汚らわしいじゃないか」とのお言葉。もう何も言えなくてただひたすら謝るしかなかったのだった。</p><p>以前にも書いたように、空外上人は数えきれないほど書を書かれたが、我々のような者にも気軽に（ではないかもしれないが）書いて下さった。我々は、依頼するときはお酒一升を持っていくのが常で、お金を払ったことは一度もないのだ。</p><p>出西で字を書かれる時も、必ず焼き物の代金を払って書かれ、それを配られる時は一切お金を受け取られなかった。「お金で字を書くと、その気持ちが字に表れて見とれん」とおっしゃるのだ。かといってプロの書家を批判されることはなく、全国の書家に講演をされて書の世界を広げられた。あくまでご自身の生き方として貫かれたのだ。</p>
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<link>https://ameblo.jp/shiku-y/entry-12610905415.html</link>
<pubDate>Tue, 14 Jul 2020 10:07:45 +0900</pubDate>
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<title>山本空外上人のこと　　その11</title>
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<![CDATA[ <p paraeid="{ba68e0e5-bb76-4b7a-a76f-ed3ab3dacfa4}{160}" paraid="1538118893">　鉢伏山別時念仏会は5日間の日程で、大変充実した時間を過ごすことができました。さらに、その期間中に空外上人が鉢伏の後、出雲のご自坊に帰られるとの話をお聞きしたので、ぜひそちらにもお伺いしたいと申し出たところ、快諾していただいたので、別時後とりあえず神戸に帰り、両親に挨拶して出雲の隆法寺に向かった。&nbsp;</p><p lang="JA-JP" paraeid="{d6c60bd3-ab03-482e-bc76-c73bf482447c}{203}" paraid="103927958" xml:lang="JA-JP">　隆法寺は、空外上人が戦後大学を辞任され、隠棲する場所として住職になられたお寺である。島根県大原郡加茂町にある小さな山寺で、檀家は数十軒しかないお寺である。広島で原爆に遭われた空外上人は、戦争の悲惨さを痛感し、同時に教授時代に戦争に送り出した学生たちに対する反省の意味を込めて出家されたのである。しかし、ただ隠棲するだけでなく、地域の人々に仏教の話を様々な場所で説き続け、念仏を勧める活動を続けられた。&nbsp;</p><p lang="JA-JP" paraeid="{5728af02-4ebe-4671-9ae5-aa17abbe7068}{104}" paraid="55610144" xml:lang="JA-JP">&nbsp;</p><p lang="JA-JP" paraeid="{5728af02-4ebe-4671-9ae5-aa17abbe7068}{112}" paraid="1492762614" xml:lang="JA-JP">　隆法寺は、初めて鉢伏別時で念仏を経験した時、島根にお寺を持っておられることを知ったのだ。当時は広島のご自宅しか知らなかったのであるが、実は島根にお寺を持っておられ、年に数回帰られるということを聞いたので、翌年、お願いしてお伺いしたのが最初であった。今考えると、まったく厚かましい話で、ただ行って泊めていただき、お話を聞き、さらに近くにある出西窯という民芸焼きの窯元でのお話も一緒に同行させていただいたのだ。宿泊費や食事代など払うこともなく、ただただご厚意に甘えていただけで、今考えると恥ずかしさでいっぱいであるが、空外上人はまったくそのようなことをおくびにも出さず、普通に受け入れてくださったのである。&nbsp;</p><p lang="JA-JP" paraeid="{7abb8d2f-62d2-4d95-a155-166a0e9a4769}{23}" paraid="1596215506" xml:lang="JA-JP">　当時は、東京で尺八に打ち込んではいたが、ある意味自堕落な生活でもあったので、空外上人と触れ合うことが自分にとって唯一の安らぎであった。小生のお願いに対し、手紙で、この電車に乗るからと時間を指定してくださり、その列車にご一緒させていただき、加茂の駅に着くとお迎えの方が来ておられて、当たり前のように一緒にお寺まで連れて行ってくださったのだ。隆法寺では朝5時に起きてお念仏を勤め、そのあと空外上人が当時留守番をしておられた中島空慧上人とそのご家族に法話をされた後、朝食をいただいた。&nbsp;</p><p lang="JA-JP" paraeid="{a8ecd29d-5d25-46cb-9834-ff3ad51a6c3e}{198}" paraid="6950347" xml:lang="JA-JP">　その後、車で15分ほどのところにある出西窯に行き、準備された茶碗やお皿に揮毫され、さらに集まった方に法話をされて食事をいただく。ここでも、くっついてきた若造になんのてらいもなくご馳走してくださったのである。&nbsp;</p><p lang="JA-JP" paraeid="{02d83b63-f5af-4e13-88cd-11397865b3d5}{250}" paraid="450567831" xml:lang="JA-JP">&nbsp;</p><p lang="JA-JP" paraeid="{c5b8353d-a691-4b5f-af93-6ca3fec9ad85}{3}" paraid="761565744" xml:lang="JA-JP">　先に書いたように、鉢伏での別時会の後、神戸に戻り、２～３日滞在してすぐに隆法寺に向かった。そして、いつものように泊めていただき翌日の出西窯での法話にも参加させていただいた。出西窯では特に多々納弘光さんにお世話になりさまざまな助言や励ましをいただいたことが忘れられない思い出である。出西窯は、戦後地元の青年たちが集まって、陶芸窯を開き、共同で運営する新しいシステムで始めた窯である。しかし、当初はなかなか売れず、仲間のうちでの考え方の違いが出てきて、解散するかどうかの瀬戸際まで追い込まれていたそうである。その時、たまたま空外上人が隆法寺に入山され各地で法話をされていることを聞き、相談するために訪れて、たちまちその人格に触れて全員が念仏をはじめられ、それとともに窯の運営も軌道に乗ったのだそうだ。&nbsp;</p><p lang="JA-JP" paraeid="{ee64d614-13f1-4348-812f-e913a14c434f}{35}" paraid="1501659926" xml:lang="JA-JP">　そのメンバーの中で、特に念仏に熱心だった中島空慧師が空外上人の弟子になり出家して、住職の資格を取り、留守番としてお寺のお守りを続けられた。その後、空外上人が京都の法連寺に入られることになり、正式な住職として後を継がれた。&nbsp;</p><p lang="JA-JP" paraeid="{075f688d-309e-4a7a-a208-8f94d7af2789}{177}" paraid="559927208" xml:lang="JA-JP">&nbsp;</p><p lang="JA-JP" paraeid="{075f688d-309e-4a7a-a208-8f94d7af2789}{185}" paraid="2007099033" xml:lang="JA-JP">　出西窯では、準備された茶碗や皿に揮毫されるのであるが、その様子は、お念仏を称えながら、時には揮毫する文字を口にしながら次々に書いていかれる。素焼きの茶碗や皿には呉須で書き、練り上げたばかりの物にはお箸で豪快に彫りながら書いていくという作業であった。その速さは、あっという間で、「はい、次」と言いながら手渡していった。時に、自分の希望する言葉を言うと、「はい」と言ってすぐに書いてくださり、後日その作品を送っていただいたものである。&nbsp;</p><p lang="JA-JP" paraeid="{c1e02372-2472-4f8b-8871-382776ced1e2}{238}" paraid="1558102246" xml:lang="JA-JP">&nbsp;</p><p lang="JA-JP" paraeid="{c1e02372-2472-4f8b-8871-382776ced1e2}{246}" paraid="697690699" xml:lang="JA-JP">　島根での楽しい時間を過ぎて、そのまま引き続いて托鉢に出ることにした。&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/shiku-y/entry-12609191894.html</link>
<pubDate>Mon, 06 Jul 2020 11:19:43 +0900</pubDate>
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<title>山本空外上人のこと　　その11</title>
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<![CDATA[ <p paraeid="{53886d9f-1bf8-4659-8fed-45f686e6a0e0}{160}" paraid="1538118893">　鉢伏山別時は昭和34年から昭和61年まで「鉢伏雲上別時会」として毎年開かれていました。この道場は、松本市にお住いの多田助一郎氏のご努力で国定公園に指定されている松本市郊外の2000メートルの山上付近に道場を建てられ、毎年夏に開催されていたものです。多田先生は養蚕の仕事をしておられたのですが、若いころ弁栄上人にお出会いなされて、一瞬でその高貴なお姿に打たれ熱心に念仏されるようになったのですが、その後継者とも言われる空外上人に会われて、毎年松本市内のお寺でお説教をお願いするようになり、その中で山の上に道場を建てるという願いを持たれたのだそうです。当初は常念岳に立てる予定だったそうですが、たまたま鉢伏のことを知り、実際に見られてこの場所に決められたそうです。&nbsp;</p><p lang="JA-JP" paraeid="{20e1ec4e-d240-4b10-911a-b203b514a166}{16}" paraid="46653721" xml:lang="JA-JP">　先に書いたように、鉢伏山別時は小生が初めて念仏を経験した思い出の場所で、「高野山別時」の後開かれることになっていたので参加し、以後ほとんど毎年のように参加しました。&nbsp;</p><p lang="JA-JP" paraeid="{e036f23e-498a-4d68-8397-0ac783d32294}{20}" paraid="73831204" xml:lang="JA-JP">　山上付近は、ほとんど草原で別時の時期にはニッコウキスゲが満開となり、黄色いじゅうたんのように見え、念仏中に鶯の声が聞こえることも度々ありました。大自然に恵まれた環境では念仏のありがたさが一層強く感じられ、7月下旬に5日間にわたる「青年別時会」が開かれ、続いて「一般別時会」がまた5日間あり、少し間をおいて「親子別時会」も開かれていました。&nbsp;</p><p lang="JA-JP" paraeid="{fee9af97-8811-494e-9fee-7fad33b464fd}{147}" paraid="1752638507" xml:lang="JA-JP">　小生は、「青年別時会」と「一般別時会」の両方に参加し、念仏修行を続けることもありました。&nbsp;</p><p lang="JA-JP" paraeid="{20e1ec4e-d240-4b10-911a-b203b514a166}{51}" paraid="215102823" xml:lang="JA-JP">　別時での空外上人のお話は、ほとんど大学の授業のようなもので、様々なお経を学問的に解説し、言葉の意味だけでなく体験からくるその中身が深く語られました。小生が大学に入学した時はすでに退官されており直接講義を聴く機会はありませんでしたが、大学時代に受けた退屈な授業と全く異なり、ここで聞くお話は小生の希望を叶えてくれる内容で、一つ一つの言葉にうなづきながら話を聞いていました。&nbsp;</p><p lang="JA-JP" paraeid="{aeb260d1-b25b-44ad-9b9b-7bdfa35597fc}{137}" paraid="2103426958" xml:lang="JA-JP">　お別時中の朝は、天気が良いと4時ころに空外上人が起こしに来られて、まだ真っ暗な山道を歩いて移動し、ある場所に来ると、ある人は座り込みまたある人は立ったまま鉦にあわせて念仏一会に入ります。すると段々と空が白み始め、やがて東の空にご来光が顔を出すのです。その荘厳さは言葉で言い表せないほどで、念仏の声が一段と高くなってくるのが常でした。&nbsp;</p><p lang="JA-JP" paraeid="{6edc6431-93c1-4c59-b64f-41dd1fff0d46}{133}" paraid="818326561" xml:lang="JA-JP">&nbsp;</p><p lang="JA-JP" paraeid="{6edc6431-93c1-4c59-b64f-41dd1fff0d46}{141}" paraid="340653068" xml:lang="JA-JP">　別時中、念仏をしていると、いつも空外上人のお世話をしておられる原田さんという方が、そっと小生に声をかけて下さり、ついていくと空外上人の控室に連れていかれました。入室するといつものように「ようおいでくださいました」と声をかけて下さり、お抹茶と羊羹をごちそうしてくださったのです。お茶は宇治の銘茶で、羊羹は名古屋の老舗美濃中の夏限定の水ようかんでした。&nbsp;</p><p lang="JA-JP" paraeid="{6f070adb-3422-4b34-8881-eb82e1013f57}{167}" paraid="543459462" xml:lang="JA-JP">　又、休憩時間の後散策があり、皆さんが車座に座った時、空外上人が「矢野君、尺八を吹いてください」といわれ言われたので、托鉢の間吹き続けていた「手向け」という曲を演奏させていただいた。小生にとっては一か月の思いと、高野山での体験を込めて吹いたのですが、後で、別時の世話人をしておられた名古屋の西蓮寺太田上人が「空外上人が泣いておられましたよ」と教えて下さいました。高野山での体験の話は誰にも話すことなくもちろん空外上人に話そうとは思っていませんでしたが、小生の心を読んで下さったような気がしてとても嬉しく感じました。&nbsp;</p><p lang="JA-JP" paraeid="{ba261bea-da8e-4bdd-962f-41c27f428905}{94}" paraid="295197816" xml:lang="JA-JP">&nbsp;</p><p lang="JA-JP" paraeid="{ba261bea-da8e-4bdd-962f-41c27f428905}{102}" paraid="1818284767" xml:lang="JA-JP">&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/shiku-y/entry-12608575768.html</link>
<pubDate>Fri, 03 Jul 2020 15:04:36 +0900</pubDate>
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<title>山本空外上人のこと　　その10 </title>
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<![CDATA[ <p paraeid="{d3ebde2e-27db-4918-b3f0-52a5b096eddb}{160}" paraid="73561187">　高野山での5日間は充実したものだった。導師は佐々木隆将上人で山本空外上人とはタイプの違うお説教をされる方であった。もっとも、小生にとって説教を聞くことは２の次であり、説教中も心の中で念仏を続けていた。そして、４か目の夜。明日は最後になるので思い立って徹夜念仏をすることにした。他の方が寝てしまった後道場に入り、木魚に毛布をかぶせて念仏を始めた。どれくらい経ったのかわからないが、いつの間にかそのまま寝てしまっていたようで、ふと気が付いて再び念仏を始めたその時、暗闇の中から一筋の光が差し込み、小生の胸の中に差し込んできた。その瞬間、一気に心の中が明るくなり、それまでの後ろ向きの否定的な気持ちが、前向きに進む心となって喜びの中でひたすら念仏を続けたのだった。やがて、空が白み始め参加者が道場に入り、共に朝の念仏を始めたのだった。&nbsp;</p><p paraeid="{d3ebde2e-27db-4918-b3f0-52a5b096eddb}{178}" paraid="507969285">　念仏の後、高野山に建立されている弁栄上人のお墓参りをして、朝食を頂き下山したのであるが、その時はもう心も晴れ晴れとして言いようのない喜びを味わっていた。&nbsp;</p><p paraeid="{d3ebde2e-27db-4918-b3f0-52a5b096eddb}{182}" paraid="270306996">　曇鸞大師の「往生論注」に「千年の闇室」のたとえがあり、「一千年の間暗闇に閉ざされた部屋であっても、一瞬の光で明るくなる」という話があります。小生にとっての体験はまさにそのままで、暗闇に閉ざされていた心が、お念仏を通して如来さまの光に触れ、一挙に明るくなったことは一つの回心体験をさせていただいたことになる。&nbsp;</p><p paraeid="{d3ebde2e-27db-4918-b3f0-52a5b096eddb}{186}" paraid="493367701">&nbsp;</p><p paraeid="{d3ebde2e-27db-4918-b3f0-52a5b096eddb}{188}" paraid="1013778886">　師空外上人も、若き１９歳の時何のために生きるのかという深い悩みに陥り、自殺まで考えたが、ご縁があって山崎弁栄上人の噂を聞き、お会いすべく約束までしていたが、果たすことなく弁栄上人は柏崎で亡くなられた。そのため空外上人は自らでその問題を解決すべく、弁栄上人の高弟に当たる藤本浄本上人のお寺で、決死の念仏行に入られた。その時のご様子はDVD「無二的人間ー空外書道の世界ー」でも語られていますが、念仏を始められて３日目の夜、やはり暗闇の中で光に満たされて、言い表すこともできない尊容を拝まれ、人生の悩みが一挙に消えてしまわれたそうです。その時の心持をこのように表現されています。「お寺に上っていくときの気持ちはまるで足に重りを加えたようであったが、帰りは天をかけるようなここちであった」と。また、兄弟子に当たる別府信空上人も念仏中に、如来さまに抱かれ救われたそうです。もちろん、それぞれの中身は同じではなく、小生の体験が同じとは言いませんが、それでも念仏を通して得た「回心」はそれまでの心の苦しみを一挙に消えさせてしまったことは間違いありません。&nbsp;</p><p lang="JA-JP" paraeid="{08efbdd6-3151-40f4-acb8-049a65624e8c}{219}" paraid="222940383" xml:lang="JA-JP">&nbsp;</p><p lang="JA-JP" paraeid="{08efbdd6-3151-40f4-acb8-049a65624e8c}{227}" paraid="1795888766" xml:lang="JA-JP">　高野山を後にして、そのまま名古屋を経由して松本に向かい、引き続いて開催された「鉢伏山別時念仏会」に参加した。この別時会は小生が初めて念仏に出会った思い出の多い会で、その後も時間のある限り参加していたが、今回は特別な気持ちで参加することができた。&nbsp;</p><p paraeid="{d3ebde2e-27db-4918-b3f0-52a5b096eddb}{194}" paraid="1827581032">&nbsp;</p><p paraeid="{d3ebde2e-27db-4918-b3f0-52a5b096eddb}{196}" paraid="1108037169">　&nbsp;</p>
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<pubDate>Tue, 30 Jun 2020 19:45:58 +0900</pubDate>
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