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<title>shimaginta1995のブログ</title>
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<title>夏の陣のはじまりで大名らは？</title>
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<![CDATA[ <p>まず、夏の陣が始まる直前の全国の大名らの心境を考えてみよう。<br>大名らには戦意はまったくなかった。いくさが始まるとしてもそれは徳川対豊臣の対決であって「われらには何の関係もない」と思っていた。だれもが大事な世継ぎと家族を江戸に人質にとられているので、家康に命じられて渋々ながら大坂へ来たものの、いくさにあまり深入りしたくなかった。<br>というのも、結局のところ、どっちが勝つか分からない、つまりひょっとして豊臣が勝つかもしれないという思いがあったのだ。（冬の陣では家康の策略で堀を埋められるまで、豊臣側は互角に近い働きをしていた。）<br>今の史観では「家康が征夷大将軍になった時点で徳川が天下をとった」と思われている。しかし、当時の状況を同時代の視点で見ると、そうとは言い切れない。<br>豊臣に同情している（又は徳川に反感をもっている）大名らがいたのは確かだし、重要なのは、ほとんどの大名がどっちつかず、つまり、どっちでも良いが勝つ方につきたいと思っている日和見主義者だったことだ。<br>豊臣に心を寄せている大名らは、何かが起こって豊臣側が有利になればどっと豊臣につくだろう。すると、日和見主義の大名らも有利な方、つまり豊臣につく。日和見主義者というものはいくさの初めにあまり一方（徳川）に深入りしてしまうと、もう一方（豊臣）が勝った後、自害を命じられる危険がある。だから、のらりくらりとしてどっち側にも言い訳ができるようにせねばと考えるのだ。<br>それが分かっていたからこそ、徳川は容赦しなかった。豊臣に気がありそうな大名や戦意の薄そうな大名を責め立て発破をかけ、働きぶりを注視しておるからな、とすごんだ。<br>また、これまで早々と豊臣を裏切って徳川側についた大名らは何が何でも徳川を勝たせなければ自分の身が危ういことを知っている。それに、ここで奮戦して認めてもらい、領地を広げるか、もっと良い領地に移りたいという野心がある。<br>夏の陣の陣地構成はおもしろい。決して堀を埋められた大坂城を近々と取り巻いてはいない。ずいぶん遠巻きにして東と南に陣を敷いている。近づきすぎると危険だし、大名軍の人数が多くて（15万対5万）陣が広がってしまったのは確かだが。</p>
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<link>https://ameblo.jp/shimaginta1995/entry-12459385178.html</link>
<pubDate>Mon, 06 May 2019 16:24:07 +0900</pubDate>
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<title>大坂夏の陣前夜（５）ーーお江のこと（２）</title>
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<![CDATA[ <p>それまで家康は「嫁のお江の姉である淀どのと秀頼は身内同然だ。悪く考えるわけがない」と何度も大坂側に言っていた。しかし、後ろでは舌を出して合戦の準備をしていた。</p><p>お江は家康がいよいよ最後の対決をして豊臣家をほろぼす魂胆なのを見てとった。だから、じっとしていられなくて京まで来たのだった。</p><p>大坂城に今でも残っている千姫（お江の長女で秀頼の奥方）の身も心配だが、千姫は徳川の人間だから、いずれは助けてもらえる。だれも見殺しにはしない。しかし、淀どのと秀頼は.......？</p><p>一方、千姫は母が京に来ていることを知らされ、淀どのと秀頼に「母が迎えに来ております。どうぞわたくしと一緒に母のもとへ来てくださいませ」と懇願した。</p><p>淀どのと秀頼は意外なことに驚いた。しかし、事ここに至った以上、逃げ出して将軍の御台所にかくまってもらうなど、そんなことは浅ましいし、そもそも不可能だ。</p><p>淀どのは「そなたはお江のもとへ行きなさい。われらは大坂城と運命をともにする」と勧めたが、千姫は「わたくしは出ませぬ。秀頼さまがわたくしを離縁すると言われれば致し方ございませぬが......」と拒んだ。</p><p>秀頼は「離縁する」とは言わなかった。千姫はいとしい妻だし、いずれ徳川側が救いに来るだろう。</p><p>こうした状態で大坂側と江戸側は夏の陣に突入し、そして無惨な最期を迎えた。</p><p>京のお江は自分の非力を悲しみ、自分と淀どのが時代のうねりに巻き込まれ、翻弄されたという思いを抑えきれなかった。</p><p>しかし、淀どのは意志を貫いて、家康に屈しなかった。大名ら誰もが「長いものには巻かれる」中で淀どのは最後まで抵抗した。「お姉さま。ご立派」とお江は最後につぶやいた。</p>
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<link>https://ameblo.jp/shimaginta1995/entry-12300402753.html</link>
<pubDate>Thu, 10 Aug 2017 18:51:01 +0900</pubDate>
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<title>大坂夏の陣前夜（４）ーーお江のこと（１）</title>
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<![CDATA[ <p><span style="color:#0000ff;"><span style="font-weight:bold;">お江（ごう）は大坂夏の陣の時、京の二条城にいた。</span></span></p><p>お江とは淀どのの末の妹である。二度の結婚で、最初の夫とは秀吉に離別させられ、二度目の夫とは死別した。三度目に徳川秀忠に嫁がされた。秀忠は六歳年下だった。</p><p>「私の人生は失敗よ」と身の不幸を嘆いていたお江だったが、江戸では、年上の利点をフルに活用し、末っ子特有の気性もあって、秀忠をお尻に敷いてしまい、愛妾をおかせなかった。（秀忠は一人の側女に男児を産ませたが、お江によって追放された。）</p><p>最初は有力大名の一つにすぎなかった徳川家だったが、関ヶ原のいくさで政敵をほうむった後家康が征夷大将軍になり、その位を秀忠にゆずると、お江はいつの間にか御台所（みだいどころーー将軍の正室）という女性（にょしょう）の最高位についていた。</p><p>一方、大坂には右大臣の豊臣秀頼と淀どのがいた。豊臣と徳川とどっちが偉いのか、うやむやのうち、しだいに家康がのさばり始め、ついには言いがかりをつけて、大坂冬の陣を起こした。</p><p>お江は婚家と実家（姉の家族）との戦いとなって狼狽したが、結局、冬の陣では決着がつかず、和平になったのでほっと一安心した。</p><p>しかし、家康は機略を用いて大坂城の堀のほとんどを埋めさせ、裸城同然にしてしまった。そして、またもや口実をもうけて諸大名を大坂に集結させ、夏の陣に突入しかかった。</p><p>この時、お江は京の二条城に来ていた。とても江戸でのほほんとはしていられなかった。姉と甥を助けたかったのだ。「豊臣家をとことんほろぼすなんて、そこまでせんでもええやないの......」</p><p>大名らも家康がそこまで執念深い男だとは知らなかった。「われらは別に豊臣家に恨みはないんだが......」</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/shimaginta1995/entry-12300402160.html</link>
<pubDate>Thu, 10 Aug 2017 18:48:43 +0900</pubDate>
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<title>大坂夏の陣前夜（３）ーー高台院のこと</title>
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<![CDATA[ <p>さて、二人の女性（にょしょう）について書いておきたい。大坂の陣のあいだ、京都の高台院（秀吉の最初からの妻ねね）と江戸のお江（淀どのの末の妹）はどうしていたか。</p><p>まず、高台院は最初に起こった冬の陣の前に大坂城に入ろうとしたが、京都所司代（徳川側の代理機関）のもうけた検問にかかって京都の高台寺へもどらされた。高台院は秀頼、淀どのと一緒に大坂城にこもろうと思っていたのだ。それまでは尼公として秀吉の菩提を弔うのを日課としていたが、この重大事にそんなことはしていられない、自分も豊臣家の一員だということを天下に示すべきだと考えたのだった。</p><p>だが、家康はそれを一番恐れていた。高台院はだれからも尊敬されていた。権力の座にあった秀吉をいさめたり、家臣のためにとりなしたり、間に立って事を穏便におさめたことがたびたびあったからだ。もし高台院が秀頼側について大坂城にいたら、大名らは攻撃をためらう。そんな高台院の重要性をよく知っていたのは家康だった。だから、最初から高台院を見張り、大坂へは行かせなかったのだ。</p><p>だが、高台院は京都にいても自分にできることをしようとなおも試みた。まず、後陽成上皇に頼んで勅使（上皇の使者）を送ってもらい、豊臣家と徳川家を和解させようとした。上皇が勅使を送るのは命令と同じだ。それなのに、家康は丁重に、しかし頑として拒絶した。そして、冬の陣の火ぶたが切っておとされた。　　</p><p>次に、冬の陣で行き詰まったとき、高台院は今度は後水尾天皇に頼んで和議を勧める勅使を送ってもらった。しかし、家康はまたもや拒絶した。自分のもくろみ通り交渉を進めるためだった。</p><p>高台院と淀どのとは敵対していたとか、高台院は家康に協力して豊臣家をほろぼした、というのは大間違いだ。高台院と淀どのは連携して豊臣家を守り、秀頼を秀吉の後継者にしようとしたのである。ーー跡部信氏「豊家存続に連携していた淀どのと高台院」</p><p>その高台院が京都の高台寺から大坂城炎上を見たと言われているが、どれほど悲痛な思いだったか、想像するのも悲しい。</p>
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<link>https://ameblo.jp/shimaginta1995/entry-12299533045.html</link>
<pubDate>Mon, 07 Aug 2017 18:08:51 +0900</pubDate>
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<title>淀どの正伝ーー大坂夏の陣前夜（２）</title>
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<![CDATA[ <p>秀頼は威容をととのえて大坂城の南郊を行進し、王者の風格を存分に見せたのである。はじめは心配していた淀どのも、冬の陣を経て秀頼がここまで成長したのを誇らしく思わずにはいられなかった。</p><p>冬の陣の最中もそうだった。秀頼は天守閣から城外のいくさのもようをつぶさに見ていた。そして木村重成が苦戦していると見ると、後藤又兵衛を救援に向かわせた。こうして木村、後藤の二人はともに無事に兵を城内に引くことができたのである。（「日本外史」）</p><p>また、矢倉の上から望戦していた時、敵側に六文銭ののぼりが立っているのを見て、秀頼が真田幸村を呼びに行かせると、戦の指揮で多忙の幸村に代わって嫡子の真田大助が来た。</p><p>「敵側の六文銭は誰のものか？」と秀頼が問い、大助が「あれはいとこの真田河内守のものでございます」と答えると、秀頼は「やっぱり親戚か」と言い、みなに「敵中の六文銭の集団には矢も鉄砲も射かけるな！」と命じた。</p><p>大助が「ありがたいお言葉ながら、戦場で相対すれば討ち取らねばなりませぬ」と辞退すると、秀頼は「そう申すな、大助。これは軍師真田幸村への礼儀である」と言ったのである。（「真田三代記」）</p><p>こうした事実を知ると、秀頼の印象ががらっと変わるのではないだろうか？　世に知られている軟弱な秀頼像は、豊臣をつぶした徳川が大坂の陣後、罪を豊臣になすりつけるために作り上げたニセの像だったのである。</p><p>実際には淀どのは秀頼を王者にふさわしい若者に育て上げていたのだ。</p>
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<link>https://ameblo.jp/shimaginta1995/entry-12274300791.html</link>
<pubDate>Sat, 13 May 2017 16:22:08 +0900</pubDate>
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<title>淀どの正伝ーー大坂夏の陣前夜（１）</title>
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<![CDATA[ <p>徳川家康は諸大名に大坂への出陣を命じた後、尾張を治めさせている九男義直の婚礼に列席すると口実をもうけて、名古屋で諸大名が来るのを待つことにした。</p><p>大坂側も江戸側も今回のいくさは野戦になると分かっていた。城の守りが弱いので出て決戦するしかないのは誰にでも分かる。</p><p>大坂側には五人衆とか七将とか言われる名将がいた。家康はもちろん、手をまわして裏切らせようとした。しかし、名将らは一人として裏切らなかった。</p><p>この期に及んで「どこそこの国何万石を与えるから幕府側につけ」と言われても、裏切りの勧めであることは明らかだし、実際に国をもらえるかどうか分かったものではない。とにかく、名将らは豊臣家のために最後まで戦う気でいたことは確かだった。</p><p>大名らが大坂に集まる前、驚くべきことが起こった。秀頼が城を出たのである。一人ではない。軍容をととのえ、隊列を率いて大坂城の近郊を行進したのだ。</p><p>秀頼は鎧を着て、亡き秀吉の金瓢（金の千成瓢簞<span style="color:#cc0000;">＊</span>）の馬じるしをかかげさせ、馬上にあった。あまりの美しさ、立派さに誰もが感嘆した。</p><p>先頭には鎧を着た後藤又兵衛と木村重成（秀頼の乳兄弟、若くて美男）が立ち、秀頼の後ろに毛利勝永、明石全登、真田幸村、長曽我部盛親が続き、しんがりは、大坂城を取り仕切る大野治長の弟、大野治房がつとめた。</p><p>母衣（ほろ）武者や多くの歩兵をしたがえたこの軍容で城の南郊をまわり、茶臼、岡山にも上った。夏の陣で決戦の行われる辺りである。</p><p>秀頼が雄々しい装いで現れた効果は絶大だった。気がついたお百姓や町民らは近くまで駆けより、感激のあまりひれ伏し、「さすが、太閤さまのご嫡男、頼もしゅうございまする！」と叫んだ。軍列を追いかけて城内へ駆け込み、兵になる者もいた。<br>&nbsp;</p><p><span style="color:#cc0000;">＊</span>　金の千成瓢簞の馬じるしは現在、JR新大阪駅正面改札口を出た所の広い通路の左端（南端）にその模型が展示してある。関西の人間は今でも豊臣秀吉びいきなのだ。</p>
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<link>https://ameblo.jp/shimaginta1995/entry-12271540730.html</link>
<pubDate>Thu, 04 May 2017 13:57:39 +0900</pubDate>
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<title>淀どの正伝ーー大坂夏の陣の前に</title>
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アメンバー限定公開記事です。
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<link>https://ameblo.jp/shimaginta1995/amemberentry-12271307534.html</link>
<pubDate>Wed, 03 May 2017 18:24:27 +0900</pubDate>
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<title>淀どの正伝ーー休戦（２）</title>
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<![CDATA[ <p>大名らが去るなり、大坂側では会議を開いた。</p><p>今後どうするか？　徳川側は必ずもう一度攻めてくる。この大坂城で応戦できるか？</p><p>真田幸村が言った。「この城で守備は無理でござる。出て戦うしかありませぬ。早急に迎え討つ準備にとりかからねば」</p><p>そこで、埋められた堀を掘り返す作業がはじまったのである。頼山陽著「日本外史ーー徳川氏前記豊臣氏下」にはこうある。</p><p>＜＜　議、終（つい）に決す。乃ち（すなわち）急に守備を繕ふ（つくろう）。外城の舊趾に柵し、塹（ほり）を穿つ（うがつ）こと二尺。＞＞</p><p>まず塀代わりに柵を立て、埋められた外堀をもう一度掘り返したのである。深さは一メートル足らずだが、堀に投げ込まれた建物の残骸がこれで一部むき出しになったはず。再び城攻めが行われた場合、敵兵らはこれらに足をとられる。つまり、外堀から内側にそう簡単には入れないことになる。</p><p>もちろん、堀と石垣の代わりになるものではない。とりあえずのバリケードといったものにすぎない。</p><p>さらに、豊臣側は再び浪人をつのった。去年の冬の陣で豊臣家の浪人だけで大名らの大軍を悩まし、和議に持ち込んだことは全国に知られていた。浪人は続々集まり、十四〜五万人に達した。</p><p>さらに、四月に入ると、秀頼と淀どのは大蔵卿局（淀どのの乳母）と正栄尼の二女に男の使者を添えて駿府の家康のもとへ遣わした。</p><p>「大坂では食糧が不足しております。先日お約束の大和と紀伊の二国を早くくださいませ」（「日本外史」には詳しいいきさつは書いていないが、「真田三代記」（ここには三女とある）には、家康が和議の交渉の段階で大和と紀伊の二国を与えると勅使（天皇の使者）に約束したので、その催促に行ったとある。）</p><p>家康は怒ってなじった。「うわさでは大坂では再び浪人を募集しておるそうじゃな。それで食糧が不足するのじゃ。それに、埋めた堀を掘り返しておるともいうではないか」</p><p>二女使は答えた。「浪人のことは問わず、と言われたではございませぬか。また、堀を掘り返したといってもわずか一、二尺のことでございます。あのままでは不用心でございますゆえ」</p><p>家康はさらに言った。「二国を与える件については、将軍（秀忠）が反対しておられるのでいかんともしがたいのじゃ」</p><p>二女使は声を上げた。「天皇さまに約束されたことを違えるのでございますか？　天罰が当たりまする！」</p><p>「天罰など、なにほどのことがあろう」と家康は笑った。</p><p>家康は初めから嘘の約束をしたのだ。誰にでも、天皇にまで嘘をついた。</p><p>二女使を送ったのはムダなことだった、と「真田三代記」には書いてあるが、大坂側はこの通り堂々と交渉させて、家康の真価（約束を守らぬ嘘つき）を天下に明らかにしたという効果があった。</p><p>家康はこの後、自分のことは棚に上げて、大坂が平然と誓詞（約束）違反を行っているとして、再び全国の大名らに「軍備をととのえて大坂へ結集せよ」と命じたのである。</p>
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<link>https://ameblo.jp/shimaginta1995/entry-12268238878.html</link>
<pubDate>Sun, 23 Apr 2017 16:14:45 +0900</pubDate>
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<title>淀どの正伝ーー休戦（１）</title>
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<![CDATA[ <p>外堀が埋められた直後、江戸側の奉行が大坂城へやってきた。</p><p>「外堀は済みましたぞ。ところで、三の丸も二の丸も手つかずですな。人出が足りませぬか？　こちらのを寄越しましょうか？」と奉行。</p><p>「いや、結構。今から出しまする」大坂側では急いで浪人を数百人出した。「いいか、働くなよ。ふりだけでいいのじゃ。休まず、働かずじゃ」と大坂側の頭領は（現代のお役人の行動規範のようなことを）言った。</p><p>もちろん、それでは堀が埋まるはずはない。翌朝、江戸側の奉行は数千人の人夫を連れてきて「手伝いましょう」と言うなり、人夫を働かせた。</p><p>「約束が違いましょう。三の丸、二の丸は大坂側が埋めると決まった。よけいな手出しはしないでいただきたい」と大坂側が言うのも聞かず、奉行は行ってしまい、江戸側の人夫は「わしらは命じられたことをせねばならんので」と言ってせっせと堀を埋めた。</p><p>数千人が働いたのは一か所ではなかった。外堀を埋めた十万人の人夫が、今度は三の丸、二の丸の堀にまで取りかかったのだ。二、三日ですべて埋めてしまった。</p><p>さて、一般にはこれで「大坂城は裸城になって夏の陣で滅ぼされた」と思い込まされている。しかし、これは史実ではない。大坂側は指をくわえて掘埋めを見ていたのではない。したたかにやり返したのだ。</p><p>大名や奉行らが全員帰っていなくなった後、大坂城では会議を開き、今後の対策を協議した。</p><p>その時には織田有楽斎はいなくなっていた。</p><p>「どうも、こたびのいくさは老いの身にこたえましてな。そろそろ隠居をと考えておりまする」と去る前に有楽斎が淀どのと秀頼の前で言った。</p><p>「叔父さま、いくさの時はずいぶんお励みになりましたから、それはこたえたでありましょう。懸命のご形相でございましたものね。お倒れになるのではないか、と皆が申しておりました」と淀どの。</p><p>有楽斎はぎょっとした顔つきになり、モグモグと口を動かしながら、逃げるように出ていった。</p><p>（有楽斎が徳川のスパイだったことは言いましたね。豊臣側ではとっくに気づいていた。泳がしていたのだ。）</p>
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<link>https://ameblo.jp/shimaginta1995/entry-12264057511.html</link>
<pubDate>Sun, 09 Apr 2017 16:04:16 +0900</pubDate>
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<title>淀どの正伝ーー和議（３）</title>
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<![CDATA[ <p>常高院が大坂城へもどって徳川側の条件を伝えると、みなは激怒した。</p><p>「堀、堀と何度言うか！　飲めぬものは飲めぬ。いくさ再開の準備だ。やつらに泡を吹かせて国へ逃げ帰らせてやろうぞ！」</p><p>「皆の衆、静まれ、静まれ」と言ったのは織田有楽斎だった。「堀を埋めるというても形だけのものじゃ。ほれ、端をちょいと埋めて停戦のしるしとする、あれじゃよ。とにかく、こっちはそう受けとればよい。二の丸、三の丸は豊臣側が埋めるのじゃから、こっちのほうは埋めるふりをするだけでよい。停戦ともなれば、お互い体裁が必要なのじゃ。ただの体裁じゃよ」</p><p>もちろん、ただの体裁でも堀を埋めるのに同意できない浪人らだった。</p><p>この時誰かが言った。「堀埋めにはどうせ時間がかかる。大名らが帰ってしまえば、妨害できましょう」</p><p>「しかし」と真田幸村は言った。「あの腹黒い老人（家康）のことだ、何を企んでおるか油断はなりませぬ」</p><p>「いや、家康はこの寒さがこたえておるそうじゃ」と言ったのはまたもや有楽斎。「大名らも早う国に帰りたいとぼやいておるそうじゃ」</p><p>そうかも知れぬ、とみなの心は停戦に傾いていった。</p><p>そこで、豊臣側が堀埋めに同意すると返事して停戦になると、大名らは猛スピードで陣地を引き払い、砂ぼこりをたてて国へ引き揚げていった。</p><p>後に残ったのは堀埋めの人夫ら。これは石高に応じて大名らに割り当て、数百人、数千人と出させた足軽や従者で、その数、十万人にのぼった。</p><p>人夫らは集められると同時に働かされ、外堀の内側の塀と建物を壊して堀に投げ込まされた。「働け！　休むな」とむち打つような命令が飛びかった。人夫らが寒い最中に大汗をかき、その汗をぬぐっただけで見張りが飛んできて、「堀に投げ込まれたいか！」と怒鳴った。</p><p>外堀の全域でこうした突貫工事が行われ、夜中も休みなしだった。</p><p>豊臣側ではこのことに早くから気づいていた。</p><p>「案じた通りだ...」とつぶやいたのは、むろん真田幸村。</p><p>しかし、外堀を埋めることに同意した以上、止める理由はない。</p><p>翌朝、外堀はくまなく建物を投げ込まれてその上に土をかけられ、跡形もなく埋められていた。</p>
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<link>https://ameblo.jp/shimaginta1995/entry-12261909222.html</link>
<pubDate>Sun, 02 Apr 2017 14:53:43 +0900</pubDate>
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