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<title>それでも太陽は輝いている</title>
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<description>人生とは？人間とは？真理への道を求めてひたすらに生きる。晴れの日も雨の日も闇夜でも、いつでも輝いている太陽を心に思い描きながら。</description>
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<title>現象の病気はあるのか？</title>
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<![CDATA[ <p>「実相世界においては病気は無い、じゃあ現象界においては？」</p><p>なんとなく、今までこのことがモヤモヤしていたのだが、今日なんとなくすっきりした。</p><br><p>現象界において、病気というものは</p><br><p><font color="#ff0000" size="4">有ると思えば有る。</font></p><p><font color="#ff0000" size="4">無いと思えば無い。</font></p><p><font color="#ff0000" size="2"><br></font></p><p>この言葉がとてもスーッと頭に入った。</p><p>「ああ、そうか」という感じである。</p><br><br><p>（関連する言葉）</p><p><font color="#ff0000" size="1"><br></font></p><p><font size="2">心で認めたものが現れる。</font></p><p><font size="2">この世は全て自分の心が作り出す世界。</font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2">病気のみならず、不幸、不調和、不完全など</font></p><p><font size="2">悪しきもの（こと）を思えばそれが現われ、</font></p><p><font size="2">善きもの（こと）を思えばそれが現れる。</font></p><p><font size="2"><br></font></p>
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<pubDate>Fri, 11 Nov 2011 21:57:25 +0900</pubDate>
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<title>感謝について</title>
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<![CDATA[ <p><font color="#0000ff" size="4">■「大調和の神示」より</font></p><br><p><font color="#ff1493">汝ら天地一切のものと和解せよ。</font></p><p>天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。</p><p>天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ。</p><p>汝が何者かに傷つけられたり、黴菌や悪霊に冒されたりするのは汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ。</p><p>われ嘗て神の祭壇の前に供え物を捧ぐるとき先ず汝の兄弟と和せよ教えたのはこの意味である。</p><p>汝らの兄弟のうち最も大なるものは汝の父母である。</p><p>神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ。</p><p><font color="#ff1493">天地万物と和解せよとは天地万物に感謝せよとの意味である。</font></p><p>本当の和解は互いにこらえ合ったり、我慢しあったりするのでは得られぬ。</p><p>こらえたり我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ。</p><p>感謝し合ったとき本当の和解が成立する。</p><p>神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ。</p><p>天地万物との和解が成立せねば、神は助けとうても、争いの念波は神の救いの念波をよう受けぬ。</p><p>皇恩に感謝せよ。</p><p>汝の父母に感謝せよ。</p><p>汝の夫または妻に感謝せよ。</p><p>汝の子に感謝せよ。</p><p>汝の召使に感謝せよ。</p><p>一切の人々に感謝せよ。</p><p><font color="#ff1493">その感謝の念のうちにこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう。</font></p><p>われは全ての総てあるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる。</p><p>われは此処に見よ、彼処に見よと云うが如くにはいないのである。</p><p>だからわれは霊媒にはかからぬ。</p><p>神を霊媒に招んでみて神が来ると思ってはならぬ。</p><p><font color="#ff1493">われを招ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招べ。</font></p><p>われは愛であるから、汝が天地すべてのものと和解したとき其処にわれは顕われる。</p><br><p>（昭和六年九月二十七日夜神示）</p><br><br><br><br><p>長年苦しんだ病が、憎んでいた親に感謝できたとき嘘のように消えてしまった・・・そのような実例は沢山ある。</p><p>感謝と反対の心・悪感情が如何に我々の心身や環境に影響を与えることだろうか。</p><p>また、「有って当たり前」と思っていることが、よく考えてみると「有難い」ことだらけである。</p><p>我々は一人では生きられない。総てが何かのおかげなのである。それに気づいたとき、すべてのものに感謝できる。そしてすべてのものを動かして（生かして）いる、大いなる力の存在を感じ、感謝・和解の心はその力と方向を同じくするものであることを感じる。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/shining--sun/entry-10885264280.html</link>
<pubDate>Sun, 08 May 2011 13:36:54 +0900</pubDate>
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<title>「病を治す」ことについて</title>
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<![CDATA[ <font color="#000000" size="2"><br><p><font color="#0000ff" size="3">「生命の実相に学ぶ」（徳久克己 著）より</font> </p><p><br></p><p><font color="#0000ff">○生長の家では「病を治す」ともいい、「病気はない」とも言います。それをどのように説明しますか？ (p.244)</font></p><br><p>『生長の家は病気に対しましても － 病気を治すという言葉を仮に使う人がありますけれども、病気を「治す」のではないのであって、「病気は<strong>ない</strong>」なのです。それは哲学上の本体論の上から「病気は本来実在しない」と申し上げるのです。「病気を治す」とか「治り<strong>たい</strong>」とかいう言葉には病気というものを認めて恐れている恐怖心が入っているのです。だから精神治療の方から申しますと、「病気を治したい」その「たい」を脱却しなければ、恐怖心を伴うから治りにくいのです。だから、天理教でも「惜しい」「欲しい」「欲と高慢」 － これが迷いだと教えています。「病気はない、しなぬ」というのが生長の家の説くところであって、死なぬ、決して死なぬ － この永生の自覚に入るとき、恐怖心が滅して治るべきものならば速やかに速やかに治るにいたるのであります。』</p><br><p>　　（ 生命の実相　第40巻（家庭教育編）のp.152（携帯版ではp.159） ）</p><br><br><p><font color="#0000ff">○治病宗教は低級でしょうか？ (p.171)</font></p><br><p>『病気治療はただの肉体上の問題であって、それが魂の救いの上になんの関係もないからというので、病の治療が魂を救うことを使命とされている宗教の上に顕われてきたときには治病宗教として軽蔑せられがちであるが、この軽蔑する心こそ、いっそう軽蔑せられる資格があるのである。なぜなら「魂を救う」ということはその魂を業苦の束縛から解放することでなければならない。そして、病気とは実在でなく業の流転より生ずるものであるから、業の流転が解放せらるとき、ただちに、あるいはまもなく、病苦が消えるはずであるのは、映画がフィルムの流転によって映されている場合にフィルムの流転を截ち切れば、ただちに、あるいはまもなく、病苦が消え去るべきであるのである』</p><br><p>　　（ 生命の実相　第27巻（久遠仏性編 上）のp.169（携帯版ではp.172） ）</p><br><br><br><br><br><p><font color="#0000ff" size="4">「新版　病気に勝つ 」（世界聖典普及協会）より</font></p><br><p><font color="#0000ff">○医学と宗教　(p.30)　より</font></p><br><p>宗教が病気を治すということについては、賛否両論があります。最近では医師の方からの批判ばかりでなく、宗教家自身からの批判も多いようです。しかし、病気を治すのは宗教でも、医者でも、薬剤でもありません。私たち内部の生命力のみが、病気を治す根本原因です。生命力が完全に発現されていれば私たちは健康であり、生命力の発現が何らかの形で制約されているときに病気が起こります。ですから、病気が治るためには、その生命力の発現の制約となっているものを取り去ればいいのです。その制約が物質的なものであれば、医師がそれを取り除きます。（中略）しかし、（中略）毒素を原因とする病気を完全に解消するには、体内毒素をつくる根本原因である患者の精神状態を改造するほかはありません。この精神面からの治療は（中略）宗教によって大悟徹底の境地に入り、不安や焦燥や不満足感を根本から取り去ることによっても得られます。</p><br><br></font>
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<link>https://ameblo.jp/shining--sun/entry-10868701263.html</link>
<pubDate>Fri, 22 Apr 2011 01:25:38 +0900</pubDate>
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<title>記録</title>
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<![CDATA[ <p>しばらく更新していなかったのだが、日々起きた素晴らしいことなどを記録しておかないと忘れてしまうので、些細なことでも書き留めておこうかと思い立った。</p><p>本当は「日時計日記」に書こうと思っていたのだが、なかなか入手できずにいるので、それも理由のひとつである。（日時計日記は、それはそれで活用したいが）</p><br><br><p>最後の更新は2010年5月16日なのだが、この間にあったことも思い出せることは記録しておきたい。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/shining--sun/entry-10868635686.html</link>
<pubDate>Fri, 22 Apr 2011 00:14:24 +0900</pubDate>
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<title>祈り合う（２）</title>
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<![CDATA[ <p>さて、昨日は寝る前に神想観をしたわけです。</p><p>いつも通りに家族の円満完全を祈り、自分の仕事の発展を祈り、そして新たに妻の仕事の発展（勤務先の団体の発展）を祈りました。そうしましたら、なんだか無性にもっと他の人のために祈りたくなったのです。前々から気になっている人々を思い浮かべて、その人のために祈りました。</p><br><p>その中で一番気になっている人がSさんです。Sさんは若いころに腎臓を悪くされ、透析にも長年通い続けています。Sさんは大変明るい方で、病気をされる前は身体も逞しい方で有りましたが、長年の闘病で身体のほうはすっかり痩せてしまわれました。奥さんもこれまた大変明るい方なのですが、先日ご主人の病気のことがやはり気になるらしく、将来を不安に思う言葉を漏らしていたと妻から聞きました。</p><br><p>私は祈った後布団の中でも、「Sさんに生命の実相を教えてあげたいなあ。でも、どういうきっかけですればいいのかなあ」等と思いながら眠りにつきました。</p><br><br><p>すると、今日、そのSさんの奥さんから妻あてにメールが来たのです！</p><p>用件は仕事に関する相談を私にしたいという内容で、私は仕事中に妻から転送されたメールを見たのです。</p><p>ほんとに驚きましたねぇ。</p><p>きっかけが向こうからやってきたのですから。</p><p>さらに驚きなのが、その相談内容というのが私の仕事の発展に関与することだったのです。</p><br><p>「人のために祈る」ことがいかに大切なことか、実感した日でした。</p><br><p>後日Sさん宅を訪問することにしたので、その時に何かひとこと言ってあげたい、人生観が好転していく種を植えてあげたい。そう思って、聖典を漁っていたら、また驚くことが。</p><p>以前に教化部で、過去に誌友が寄付した本を整理しており、その際に何冊か頂いたものがあったのです。</p><p>まだ読んでいなかったものが大半だったのですが、今回それも開いたりしていたら「九三」のサインが！</p><p>「九三」といえば「故・藤島九三先生」です。実はこの先生の半生記「北天の大志」（絶版）を読んで大いに感激し、以来、お会いしたこともないのに気がつくと自分では師と思ってしまっている。つい先日も「北天の大志」を開いていて、色々とヒントを頂いたところだったのです。</p><p>九三先生のお導きを感じました。</p>父と一緒に並んで「君の息子はガンバっとるなあ、ワハハ」と二人で笑っているお姿が観ぜられました。<br>ありがとうございます。
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<link>https://ameblo.jp/shining--sun/entry-10868677806.html</link>
<pubDate>Thu, 21 Apr 2011 00:41:17 +0900</pubDate>
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<title>祈り合う</title>
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<![CDATA[ <p>祈るという行為が実際に現象世界に影響を及ぼすことは、近年の米国医学界でも注目されるほどに現実的な事である。信心深い人であれば言うまでもなく「祈り」の素晴らしさを体験している人は多いと思う。</p><br><p>また、祈りは「自分のために祈る」よりも「他の人のために祈る」ほうが効果が高いようである。『祈り合いの神想観』という「行」（ぎょう）ではそう解説していたと記憶している。</p><br><p>今日、妻とお互いの仕事が発展するように、互いに毎日祈ろうという話をした。</p><p>今まで私は神想観で家族の円満完全なる様を祈り、そして自身についてはさらに「家族を支えられるだけの仕事が与えられますように」と祈っていたのだが、結局それは自分のために祈っているのであって、あまり効果が無いのではないかと思ったからだ。</p><p>（祈りは薬では無いので「効果」などという言葉は使いたくないのだが、適当な言葉が思いつかないので…）</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/shining--sun/entry-10868650933.html</link>
<pubDate>Wed, 20 Apr 2011 00:22:14 +0900</pubDate>
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<title>人生最良の日</title>
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<![CDATA[ <p>以前に「宗教嫌いの妻」について書かせていただいたが、そんな妻にも転機が訪れた。経緯は後述するとして、なんと一緒に練成会に参加するというまでになり、明るく輝く妻を見て僕は胸がドキドキするのを感じる。まるで新婚に帰ったようである。練成会では皆に喜んで頂き、喜んでくださる皆を見て、またこちらも嬉しくなりといった「喜びの無限連鎖」とでもいうものが発生し、実に深い心からの喜びを感じたのであった。</p><br><p>経緯を述べると次の通りである。</p><br><p>5月2日</p><p>「相愛会・栄える会全国幹部研修会」を終え、とても清々しい気分で家に帰ると家の中がなにやら暗く沈んでいる。妻はといえば、いつもは開いているふすまを締め切って閉じこもっている。子供たちに聞くと子供とちょっとした言い合いをして、その後閉じこもってしまったとのこと。ふすまを開けてみると布団をかぶって泣いている妻がいた。「どうしたんだい？」と聞いてみると「もう死にたい。疲れた。」との返事が・・・</p><p>詳細を聞いてみると、妻は病気（精神的なもの）であまり家事が出来ずそれ故子供達に頼る事が多いのだが、この病気は知らない人が見ると単なる「なまけもの」に見える類のものである。家族はそうではないと重々思っているはずなのだが、時としてそう思えない事がままあり（僕自身もそう思ってしまいがちになることがあるくらいである）、子供達になまけもの呼ばわりされることがあり、妻としては精一杯頑張っているのにそう言われることが大変つらく、今日はもうそれが耐え切れなくなったらしい。慰めているとポツリと「室蘭のばあちゃん（＝僕の母）のところにでも行って来ようかな」と言った。僕はそれを聞いてハッと気づいた。実は、妻は結婚当初に頼れる実家を無くしてしまい、僕の母も（古くからの生長の家信徒である故に）嫌いであったので、所謂「ワタクシ実家に帰らせていただきます」ということが出来ずに今まで20数年いたわけで、色々と辛いことをずっと我慢してきたのだろうと僕は初めて気づいたのだった。初めて僕の母を頼ってくれたことに僕はとても嬉しくなり、「それがいいよ。きっとお母さんも喜ぶと思うから。丁度連休だし行っておいで」と言ったり等してその日は少し落ち着いたようだった。</p><p>5月3日</p><p>妻は朝から寝込んだままである。テーブルの上に置かれた大量の薬の殻がちょっと嫌な事を想像させたのだが、まだ生きているようでほっとした。室蘭の母に事情を話すと大歓迎だったので、「室蘭行くかい？」と妻に言うと、突然元気に起き上がり「うん、行ってくる」とそそくさと準備を始めた。テーブルの上の薬はやはり睡眠薬だったらしいのだが、実は大量に飲んでも死なない類の物だと後で医者から聞かされたそうだ。（その辺はお医者様も心得ているらしい）　僕は仕事を休んで妻をバス停まで送って行った。</p><p>数時間後妻から電話があり、「今着いたよ」ととても明るい声。バス停から僕の実家までは急な坂道なのだがタクシーに乗らず歩いて来たとも言っており、それだけで「行ってよかった」と嬉しくなる。</p><p>5月5日</p><p>妻、帰宅。</p><p>「行ってよかった。お母さんにとても癒された」とのこと。室蘭では母とあちこち遊びに行き、そして色々と話をして有意義な日をお互いに過ごしてきたようである。たまたま仏壇に置いてあった、僕が以前に一般練成で書いた感想文を読んだり、栄える会の行事の時の写真を見たりして、僕がどんな気持ちで一般練成に行ったか、どうしてそれ以来変わったのかが分かったと言ってくれた。生長の家は悪いものでは無いと分かってくれた。さらに先祖供養までやってきた（それも２回も！）というのだから、素晴らしいことだと思った。</p><p>だいぶ心が良い状態になってきたようなので、この状態が単に一時的な”癒された”程度のものでなく、ずっと続けられるようにしてあげたいと思い、まずは練成会に行ってみないかと提案してみたところ、意外にすんなりと「行ってみようかな」との返事。（実は母にも勧められたらしい）</p><p>なんと都合のいい事に、今月は期間中ちょうど末の娘がクラブの大会で道外に行って不在なのである。</p><p>5月10日</p><p>詳細日程を知りたかったので仕事の帰りに教化部に立ち寄り練成会の案内をもらう。（Webで見られればいいのだが・・・そのうち構築してあげなきゃと思う）　教化部長から「どうしたんだい」と聞かれ事情を話すと「良かった良かった」と喜んでくれ、「初めての人を一人で参加させたら心細いからだめだよ、君も来なさい」と言われたので夫婦で参加することになった。</p><p>5月15日～16日</p><p>練成会参加。</p><p>会期は14日からなのだが、仕事の都合で15日の夜からの参加になった。本当は初日の浄心行も受けさせたかったのだが、それはまた次の機会に。</p><p>初めて来る「宗教団体の施設」に妻はどういう反応を示すのだろうか？そればかり気になっていたのだが、感想を聞くと「とても癒される所。人も皆温かい。」と言ってくれたので嬉しかった。知り合いにも紹介し色々と良い話をして頂き、とても素晴らしかった。</p><p>できればまた一緒に来たい。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/shining--sun/entry-10561621827.html</link>
<pubDate>Sun, 16 May 2010 02:33:29 +0900</pubDate>
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<title>自分を信じる</title>
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<![CDATA[ <p>　今日は隣の地区の相愛会の誌友会に参加させていただいた。</p><p>　その中でY講師がご自身の体験を話されていたのだが、E先生に言われた言葉というのが印象的であった。YさんがE先生に相談の手紙を送って返ってきた手紙には　「神様は誰に相談をするのか？　人間は神の子であるから答えは自ら見つけ出せるはず。　自分の判断を信じなさい。」要約するとこのような内容が書かれていた。</p><p>　「自分を信じる。そのままでいい（完全円満）。・・・生長の家の教えや行は色々あれども、一番の基本はこれじゃないでしょうか？」とのY講師の言葉。色々勉強しなければいけないとあせる自分がどれほど落ち着いたことか。また、色々あってちょっと自身を失いかけていた時でもあり、とても心に響いたのである。</p><p><br>　思い起こせば以前鬱病になった時にも自分に自信が持てない、生きていく自身が無いといった考えに支配されていた。それを飛田給の一般練成参加により「自分にはもう何も恐れるものはない」という心境になり、それにより鬱病はすっかり消えたのであった。</p><br><p>　「心の病は世間では難しい病気とされていますが、生長の家では最も簡単な病気です。」とは先の一般練成会の時に言われた言葉である。自分も自己体験から全く同感である。自分が通院した経験から言うと、心の病というのは体の病気のように治療法が確立されておらず、医者のできることといえば眠れない時に眠剤を処方したり、神経作用剤を色々試して気分がよくなったかヒアリングしながら、患者が自分で直るのを待つしかないのだと思う。患者が自分で直る・・・それには患者の心の不安が取り除かれたり、心の持ち方が変わらなければいけないのだと思う。生長の家で心の病が簡単に治ると言っているのは、心の持ち方を良い方向に、それも何かでごまかすのではなく、また何かにただ祈るとかいう妄信的なものではなく、理性的に納得できる根拠で変えることができるからである。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/shining--sun/entry-10316955450.html</link>
<pubDate>Sat, 08 Aug 2009 23:38:28 +0900</pubDate>
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<title>宗教嫌いの妻で良かった</title>
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<![CDATA[ <p>　妻が宗教嫌いである。</p><br><p>　奥さんが生長の家の教えを学んでいらっしゃる他の方の話を聞くたびにいつも羨ましいと思っていた。</p><br><p>　僕は妻や子にも幸せになってもらいたい。教えを学べばもっと幸せになるのに…との思いがあるのだが、なかなかそれを実現できない。それは僕の弱さ・頼りなさである。そのことを常日頃から思って苦しんでいた。</p><br><p>　だが、今日ふと考えが一変した。今万人向けの救済のためのウェブサイト作成の仕事に関わっているのだが、その過程で宗教というものを世間一般の人はどう受け止めているのかを考える必要があることに気付いた。それを考える上で格好の素材（？）が身近にいるではないかと思いついたのである。これから妻にインタビューをしようと思う。「なぜ宗教が嫌いなのか？」「そもそも宗教ってどういうものだと受け止めているのか？」</p><br><p>　そのためにこのような妻という存在があったのかと有難く思う次第である。</p><br>
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<link>https://ameblo.jp/shining--sun/entry-10316788631.html</link>
<pubDate>Sat, 08 Aug 2009 20:15:46 +0900</pubDate>
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