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<title>研究者のブログ</title>
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<description>研究者の生活と趣味のブログ</description>
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<title>不倫騒動</title>
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<![CDATA[ 某女性タレントとバンドメンバーの交際が世間を賑わしているようです．私はこういうネタは，インターネットなどで目に入れますし，話題程度にネタは持っていますが，基本的にあまりどうこうという感覚は無い．ただ，この女性タレントは昔からテレビで観ていて，好感度というのでしょうか．悪い気はしないタレントだったので，書いてみることにします．ちなみに，情報源はネットだけですし，あくまで個人的な想像です．<br><br><br><br>初めて女性タレントを観たのはウッチャンナンチャンのコント番組でした．15年くらい前．まだ女性タレントは10代で初々しい感じでしたが，コントなどを必死にこなす姿など感銘を受けたものです．<br><br><br><br>その内村光良氏が司会をする日曜夜の番組も最近は観ていませんが，数年前まではよく見ていました．そこにも出演していますね．その頃から，テレビやメディアを通してよく聞くのは，この女性タレントの印象はスタッフなどにも良く，恋愛感情なのかどうかわかりませんが，とにかく周囲の人が好意を抱くようになる良いキャラクターであったようです．<br><br><br><br>そしてスキャンダルというものもなかったのですが，ここにきて初スキャンダルが，不倫疑惑といういささかおだやかではない内容でした．<br><br><br><br>週刊誌の記事は直接読んでおらず，ネット上の引用文を見るだけですが，その記事によると，既婚者であることは何度かデートをしてから女性タレントは知ったということになっています．女性タレントはこのバンドメンバーの熱狂的ファンであったそうですから，知り合って食事に誘われたり，また誘っても断られなければ，好意があると思うでしょうし，最初はまさか既婚者であるとは思わないのでは？　そのあたりのことが事実であれば，既婚男性が独身女性に既婚であることを伝えず二人きりでプライベートで何度も食事へ行くというのは，下心ミエミエではないかと…<br><br><br><br>さらに，一度，二度の食事だけでもなく，ホテルを訪れたとか，新婚一年目にもかかわらず実家へ妻ではなくこの女性タレントを連れて行くというあたり，私の感覚では信じられないですし，その時点で結果的に女性を傷つけることになり得るということを男性側は本気で考えたのか、疑問です．ですが，女性タレントにしても，「自分は何も無いから」と言ってしまう辺りは恋愛の魔物というか，周りが見えなくなっていたのかもしれません．<br><br><br><br>そして，週刊誌に掲載されたLINEの内容は，男性側関係者から提供されたものであるようです．提供者として真っ先に可能性として上がるのはやはり男性の妻でしょう．そうでないとしても，これによって，妻が離婚にあたって裁判に訴えた時，離婚へ向けての慰謝料であろうが，離婚しない方向であろうが，有利に働くであろうことは明白ですね．
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<link>https://ameblo.jp/shizu-bpcb/entry-12115323032.html</link>
<pubDate>Fri, 08 Jan 2016 21:47:58 +0900</pubDate>
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<title>民主的とは何だろう？</title>
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<![CDATA[ 元首相が隣国でいろいろ謝罪をしたということが報道されている．その是非についてはここで言う気は無い．私はいろいろ違った角度でみるクセのついている人間であるから，このことを見ているにつけ，報道の多くは「日本に対するデメリット」を懸念する内容が多いように思う．<br><br><br><br>デメリットを述べる際に，必ずメリットを対立として考えねばならない．その対立を考えたあげくに，どうしてもデメリットしかないのであれば，これはもうデメリットというしかないのである．<br><br><br><br>ただ，どうであろう．元首相がどういうことを言ったとすれ，行ったとすれ，現首相はこの国にいるのである．真の民主主義であるならば，国民のセレクションを経て，数々の元首が生み出され，そのときの世論を間接的に表現するのが間接民主制である．よって，過去の，政権を追われた元首相の行いに，全て影響を受けるというのはやや過剰反応であるようにも思う．<br><br><br><br>彼は彼なりに自身の考えに正直に行ったものなのであろう．その態度を隣国の人々がどう思うか，それは隣国民の自由であろう．日本国民がそれを侵害する権利はないのは当然．元首相がこうやったから，それが日本国民の総意ではないかなどと言われても，通常の民主主義国家でそんなことは通用しない．一人の人間が国民の総意などと言えるのなら，元首相ではなく現首相であるはずである．単純な論理である．そういうことを言われたら，端的に反論し，速やかに今，議論すべき本題へ話題を移すべきである．外交問題に，と，こんなことで外交問題が解決できないようであれば，外交官の能力も，たかがしれている．もちろんそんなことは無いと思うし，釈迦に説法を申せば，外交というのは粘り強い交渉が要であろう．そんな基本を日本国の外交官が無能であるとも思えないのだが．<br><br><br><br><br>隣国で言われている「坑日」という感情的な実態に対し，過剰におびえているのはむしろ日本のマスコミではないか？　もっと自国のプロである外交官を信頼し，政治家を信頼し，頼むぞと．うちの国を頼むぞと．元首相だから影響があるとかいう理屈は聞き飽きた．影響があるかないかと言えばあるだろう．そうではなく，日本国民が何を考えるべきなのか，事実関係を述べた上で，そういう問題提起をできるのがマスコミの本来の力ではないのか？<br><br><br><br>もっとましなことを言って欲しい．きわめて三流な報道に辟易する．<br><br><br><br>日本国民にも様々な考え方があるのである．安保法案の件でもまだいろいろ議論があるが，それは考え方の多様性によるものであろう．一方的に誰彼が間違っていると単純には言えない．様々な状況，環境，それらに対し，議題を提供し，議論していくことは重要である．そのためには違った観点はwelcomeである筈である．法案を通すこととは別に，様々な議論を元に，国民の意識・理解を深めていくことが，国会の場でもあるし，特に本来ならば一流のマスコミはその論点や観点の整理をし，わかりやすく国民に伝えることが義務であろう．<br><br><br><br>その多様性のある考え方の一つが，あの元首相なのではないか．違う考え方の人に遠慮して自身の考えを体現できないとしたら，それは窮屈なことであろう．もちろん，配慮すべきことはあろう．そういう意味で，私個人的に，もう少し配慮して欲しいと思うことはある．ただし，他人の思想を，他人が一方的に決めつけることはあってはならない．それは我が国の憲法が守る権利である．九条とかの話しではない．<br><br><br><br>左とか，右とか，なんだか最近，そういう言葉で人をレッテルに貼ることが，昭和以来また多くなってきている気がする．ただ，人の思想は右とか左といった単純な言葉で表せるものではない．思想というものの実態に国民はより多く意識をする必要があるのではないか．自分たちがわかりやすく，かつ人を巻き込みやすくするために，右とか左という足かせで評価しようとしているならば，それこそ，ちっぽけな発想ではないか．<br><br><br><br>最後に，何をしたいか．隣国に対し，外交官は現政権の意向と，国益を元に行動する．ただ，外交官の成果は単純に表に出ない．それは内閣なり政権の成果として出ることが多い．ならば，政権の出方を見ようではないか．その出方を元に，批判すべきならば現政権を批判すれば良い．それが民主的政治ではないか？　そして，国民の一人一人の行動や思想を縛り付けることは何人も出来ないのである．
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<link>https://ameblo.jp/shizu-bpcb/entry-12061512593.html</link>
<pubDate>Thu, 13 Aug 2015 23:42:53 +0900</pubDate>
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<title>頭蓋骨にたばこの問題点</title>
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<![CDATA[ 某大学歯学部において，頭蓋骨の模型にたばこをくわえさせた画像をtwitterに掲載した学生の処分が検討されているようです．<br><br><br><br>あくまでも私個人の感覚ですが，こういう場合，まず大事なことはその学生本人の意識・意図について本人としっかりと話し合い，家族と話し合い，そして，その事項の重要さ・重篤さを本人に理解をさせることで，処分を検討すべではないかと思います．少なくとも，外野がその学生を辞めさせるべきだとか安直に言うべきでは無いと思います．教育機関とは，大学であってもそのように対応するのが厳正かつ丁寧な処分検討ではないかと思います．<br><br><br><br>当然ながら，公開するということは安直な行為であり，無責任であるという批判はあるでしょう．しかしながら，職業に対する冒涜かどうかは安直に決められるものでは無いと思います．なぜなら，扱ったものは解剖検体などではなく，模型であることです．<br><br><br><br>たとえ話として，例えば，解剖検体などの一部にそういう行為を行ったとすれば，それは医療に携わる者としての素質が問われることはわかります．冗談で済まされないことです．<br><br><br><br>ただ，模型というものがどの程度の扱いになるのか，それは様々な考え方があるのではないかとも思います．大事なことは，そのようなことを行った経緯や思考を様々な大人がしっかりと聞き，間違った考え方を様々な観点でじっくりと話すことではないでしょうか？　学生の進退に即関わることはさしあたりは置いておいて，やはり，本人がわかっていないことはきちんと説く．それで問題があるようであれば，それは責任を取らせる．責任をそのとき取らせなかったから上に即責任があるのではなく，例えば再発などを行ったとしたら，本人の修学の権利を剥奪する．あるいは，日々の修学への態度等も関わってくると思います．<br><br><br><br>最後に，twitterにの様々な投稿というのは幾度も問題になっているにもかかわらず，頻発するというのは，投稿自体が安直で，友人と雑談をする感覚ということなのでしょうね．こういうところも教育せねばならないのでしょう．できれば幼い頃から家庭で行うのが基本なのではないでしょうか．学校の義務かといわれると，必ずしも義務では無いような気もします．ただし，社会的環境で指導する内容でもあろうと思います．そういう意味では，学校のようなものが禁止事項としてお触れを出すことは一定の価値があるとは思います．ただそれをフィードバックし，一つ一つの事柄について復習して，じっくりと話し合いながら理解させるのは，やはり家庭内の義務ではないかと思います．
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<link>https://ameblo.jp/shizu-bpcb/entry-12027903492.html</link>
<pubDate>Mon, 18 May 2015 00:27:59 +0900</pubDate>
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<title>大阪都構想の住民投票</title>
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<![CDATA[ 本日，日曜日に大阪都への賛否を巡る住民投票が行われました．報道を見る限り，結果，否決される見込みということです．<br><br><br><br>私は大阪市民でもないですし，外様として様子を見ていましたが，二重行政の解消という目的は課題として問題があるものではなかったでしょうと思います．<br><br><br><br>少し思うに，大阪都構想に対し，明確なメリットとデメリットをはっきりと述べることができたメディアならびに関連コメンテーターはどこまでいたのかという疑問点は抜けずにいます．ある番組で当該構想についてコメントを求められたコメンテーターが「よくわからないんですよね」と答えたことがあり，それには私自身もいささかびっくりしました．少なくとも，公開されている構想内容について，その内容とメリット・デメリットについてわかりやすく伝えるのがコメンテーターの仕事であろうと思います．<br><br><br><br>ただ，都構想については，時期尚早であったのかもしれないなという観点もあると思います．少なくとも，市民・府民がそのデメリットを把握しやすいようなレベルにはなっていないということではないでしょうか．その状態で変化を迫れば，現状維持で良いという考え方が自然であろうことはわかる気がします．<br><br><br><br>間接民主制においては，なんでもかんでも国民等に民意を問うことはできません．なんでもかんでもそうしていては政治が動きにくく，国民の代表がある程度の権限を与えられて議論および採決の義務を負うのが間接民主制です．<br><br><br><br>今回のことは，またいろいろな課題を生むことと思いますが，今回の投票を経て，橋下市長は任期満了で退任・政治家も引退すると表明しているようです．<br><br><br><br>また今後，行政面での問題点が明らかになってくることもあるかもしれません．そのようなときに，国民・府民・市民は当該問題に無関心にならず，大いに議論をして，問題点をはっきりさせ，よりよい選択をできる環境というのは大切なことであろうと思います．<br><br><br><br>［2015/5/18追記］<br>毎日新聞によると，反対が７０万５５８５票，賛成が６９万４８４４票とのことです．僅差ですね．
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<link>https://ameblo.jp/shizu-bpcb/entry-12027895128.html</link>
<pubDate>Mon, 18 May 2015 00:06:14 +0900</pubDate>
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<title>国立大学授業料</title>
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<![CDATA[ 国立大学の授業料を値上げすることを検討するという財務省の議論が記事になっています．<br><br><br><br>実際に，国立大学の運営は財源的に厳しい状況です．運営費交付金の削減と，競争的資金の獲得を促してはいますが，競争的資金にも上限があります．競争的資金のうち，最も身近なものとして，文部科学省の科研費がありますが，多い少ないという議論は置いておいて，某大手メーカーがある分野に集中投入する研究開発費が5000億円という時に，文科省の科研費が全体で2200億円という事実もあります．<br><br><br><br>国立大学と言っても，全国の大学がすべて優秀な人材を確保できているかというと，実情としてはそうではありません．何度か書いていますが，日本の大学はすでにランキングというものができあがっており，多少の変動はあるものの，受験生の目線から見た基本的なランキング構図は変わりません．<br><br><br><br>それは旧七帝大を初めとする偏差値の構図があり，独法化後も良くも悪くもその構図から離れていないのが現状です．<br><br><br><br>今，国立大学の授業料を上げるとすれば，足並み揃えて全国の大学で基準料を一斉に引き上げるか，あるいは東大・京大というトップ校がまず劇的に引き上げるか，その二つの選択肢を議論する必要があるのではないでしょうか？<br><br><br><br>前者の利点は，授業料による国立大学内の相対的ランキングの変化が起こりにくいことが予想されます．ただし，地方国立大学では，首都圏の難関私立大学に対してデメリットとなり，安いから地元の大学に行っていた，あるいは隣の県の国立大学に通っていたような層が，難関私立大学に流れてしまうという可能性がありますので，相対的ランクは変化しなくても，地理的条件，現状のいわゆる偏差値ランキングから不利になる大学は出てくるでしょう．<br><br><br><br>後者の場合，それまで東大・京大に行こうとしていた人材が，学費が高いからと他の旧帝大に流れ，旧帝大間のバランスはやや均衡化する可能性はあるかもしれません．ただし，東大に入学している学生の世帯年収は一千万円を超えている家庭が多いという統計もありますし，大きな変化を生み出さないかもしれません．<br><br><br><br>別の観点からすると，今，国立大学に入学してくる学生にしてもその家庭にしても，国立大学は学費が安くて偏差値の高い学校が多いという理由で志望してくることが大半なのではないかと思います．その学費が安く済んでいる実情を，国民によく理解して貰う必要はあるでしょう．<br><br><br><br>競争的研究費をたくさん取っている大学だからすばらしいというのなら，それは成果が伴う研究型大学ということです．ということは，研究への取り組み方についてもやはりそれなりに厳しい指導となるということは覚悟すべきでしょう．成果を出しているというのはそれだけ研究に時間と労力を割いているということです．ラクをしながら素晴らしい研究はできません．<br><br><br><br>国家予算が厳しいのはわかりますが，財務省の議論は，そろばんはじきのように聞こえなくもありません．ここを減らしたいから努力してねと．政策には飴と鞭が必要だと思います．ぜんぶ飴にはできません．良い大学を出て稼いでいる人は，大学への寄付金は免税または減税対象にするとかすればどうでしょう？　全額免税は難しいのかもしれませんが，授業料を上げるという単純な負担増の鞭のアイデアだけでなく，そういう飴的な要素のあるシステムをつくってもらえないものかと思います．<br>
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<link>https://ameblo.jp/shizu-bpcb/entry-12025511115.html</link>
<pubDate>Mon, 11 May 2015 22:37:44 +0900</pubDate>
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<title>新入社員と新配属</title>
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<![CDATA[ 時期的に新しい年度の人が入ってくる時期です．会社でも研究室でも新入社員・新配属学生が多い時期でしょう．<br><br><br>この時期によく話題に上がっているのが，<br><br>「最近の若い人は言われないとできない」<br><br>というハナシ．<br><br><br><br>私も，つい「今年の人は…」とか「最近の人は…」と言ってしまうことがないとはいいませんが，それだけのくくりで話をされても，された方も困っているだろうというのが私の感覚です．<br><br><br><br>まず，どの時代も「このごろの若い人は…」って言われているのです．言い方は悪いですが，自分たちも入ったばかりの頃は陰でいろいろ言われていたのだろうと思います．だから，自分のことは棚に上げて，入ってきたばかりの人のことを「今年の新人さんは…」と言ってしまう．まあただ，ここまでは私はご愛嬌として済ませれば良いと思うんですね．もし新人さんがそれを直接聞こえてしまっても，過度に不快に思わず，「まだまだ覚えなくちゃならないことがあるんだ．コツコツやっていこう」と思えれば勝ちです．<br><br><br><br>ただ，もう少し冷静に考えてみると，新入社員の方々は，たぶん，仕事をするということが本当の意味でリアリティをもって理解できていないということはあるのではないかなと思います．仕事をするというのは，自分がその所属する会社に対し，それなりの貢献をしてその対価として給料を貰うのです．どこかの大学を出ているから，大学院を出ているから，研究室でこういうことを学んできたばかりの人だからお給料を貰えていると考えてはいけないのですね．<br><br><br><br>もちろんそういったことは「期待されている」ことに間違いはありません．ですが，あくまでも「期待」であって，学歴や研究歴はそのままでは「貢献」にはなりません．そういった期待を持って貰える自分のバックグラウンドを会社のために活かして始めて貢献があるし，評価されるというものです．この順序，冷静に考えてみると気付くと思うのですが，勘違いしていると気付けないことがある．<br><br><br><br>勘違いしていると，「何だ，言われたことしかできないのか」なんて言われると，途端に戸惑ってしまう．あるいは，腹さえ立ってしまう．それくらいならまだ良いのですが，場合によっては「理想の会社生活と違う」なんて大袈裟に誤解を重ねてしまって，五月病，早々と転職を考え出すということにもなりかねない．<br><br><br><br>まあ待てと．言われたことしかできていないと言われたことにたいして，まずは自分がどの程度貢献したかよく考えてみましょう．言われたことはほんとうに100%のクオリティで実現できていますか？　言われたことを、本当に落ち度無く100%できるというのは大切であり，もっと言うと，最低限のラインです．自己基準・自己判断で「俺はやった・できた」と思うことも大切ですが，社会人としては，他人の評価をもって客観的に自分を見るということもして欲しいもの．それでほんとうに言われたことは100%の完成度でできていて，言われたことができていないのなら，できている点は現状維持．そのレベルを落とさないようにすれば良いだけ．逆に，言われてもいないことをできるようになるためにはどのように先輩・上司の意見を聞いたら良いのか？　こを改善していくことを課題として取り組めば良いのです．<br><br><br><br>もし，言われたことも完全にできていないという状況であれば，やはり言われた以上のことをできるようになるということも大事だが，言われた業務内容を正確にこなせるようにしなくちゃならない．まずはそこができないことには，それは他の人の業務を邪魔，または足を引っ張る可能性もある．<br><br><br><br>大切なことは，まず自分を見つめて，自分がやるべきことをやれるようになっていくことなのです．<br><br><br><br>ただし，少し上の人に肩を持つとすれば，大学・大学院で学生生活を謳歌してきた人のほとんどは，人に貢献して対価が支払われると言うことに，まったく慣れていない人が結構多いのではないかと私は思っています．そういう人は，指示された仕事は80点（所詮はこの程度）くらいはできるのです．ところが，残りの20点をアップさせる努力もしないし，次に，指示されてはいないが，自分の所属する部署・部局で共有している目的を理解し，その目的を実現するために自分が何をしなければならないか，そのリサーチをしない人がとても多い気がします．これは大学の研究室でも同じですね．そういう人は，余裕があるときは指示された内容を80%はこなしてくる．大学教員はそのくらいできておれば，それ以上，細かくスパルタ的にもっとやれととても言いにくい状況です．本人も優等生として扱われる．そこに満足していたら，社会に出たときにギャップを感じるのだろうと思いますね．80%ではだめなのですね．そして，少し他にやることがでてくると，その80%のクオリティが落ちてくることが多い．やはりそれでは，社会に出て仕事を任せようとなったときに頼りなくて仕方ないんですね．80%できるのならば，常に80%できているのならばまだ任せられるんです．ですが，自分の都合で到達度のクオリティを変える人はには，責任ある仕事を任せられない．<br><br><br><br>先輩・後輩で教えあって欲しいと，到達目標を伝達しても，先輩は最低限のことだけ教えたらあとは「これは上司の仕事．教員の仕事」として，目的が完遂されていないのに，もう自分の仕事はやったというようにゴールに達した感になっている人は，やはり責任のある仕事を任せられないですね．<br><br><br><br>まあそういう人に話を聞くと，責任を任せられるのがいやだとか，責任持てないといった消極的な意見が返ってきますが，このあたりを改善するのはなかなか難しいですね．ただ，就職活動でも多かれ少なかれ感じ取れることが多いから，幹部候補のような採用には至らないことが多いですね．<br><br><br><br>一つ仕事が終わったら「何か他にやっておくことはないですか？」と自分から言う人は確かに，五，六年前と比べても激減した気がします．そういうことを考えられることが大事だという課題は与えても，周りにそういう人がいないから，どうして自分だけがそうしないといけないか？というように現実味がわかないような雰囲気はあります．これは何なのだろう？と思うことはありますが，研究室で教えられないことを，会社に入って教えるというのはまたなかなか難しいのではないかと思うので（一部の人は給料というもので変わると思いますが），最近は，まずは自分で興味を持ったことについては，自分でいろいろ考えてやってみるということを課題にしていたりします．<br><br><br><br>会社の人にしてみれば，大学というものはいったい何をやっているんだ？と思われるのかもわかりませんが，実のところ，大学は大学でまた同様な観点で悩んでいたりするのです．私からの提案ですが，企業の方で大説明会をやるのも良いのですが，ラボ単位で小さなセミナーをやって貰い，その内容について研究室の教員がフィードバックして，研究室でやっていければ社会に出てもスムーズに行くんだということを，企業・大学が小さい単位でタッグを組んで学生に提示していかないといけないのではないかと思うのです．<br><br><br><br>学生さんというのは，良い意味でも悪い意味でも身勝手で，自分の権利を主張して許されるとそれで満足してしまう傾向があります．それはそれで良いのですが，やはり将来のために今，勉学に励んでいるということをよく理解しなければならないし，研究室で，教員などとタッグを組んでよく仕事のできる人は，私はやはり会社に入っても重宝されると思うし，私の体験ではそういう人は大抵，将来有望株として採用されていることが多いですね．人事の方もよくみているなあと思います．<br><br><br><br>話がずれましたが，若手の人にはまず，システマティックに課題を与えるのは一つ重要で，安直に「言われたことしかできない」と言ってしまうと，最近は安直に反発されてコミュニーションが破綻する危険性が高いので，到達点に対する評価を与えてから，よりよい目標を提示してあげると，できる人はできると思います．もちろんそれでもできない人もいます．まあそれは嘆いていていても仕方ないですから，できる仕事をこなして貰うしかないですね．その中で，何か磨かれていけば幸いというところでしょうか．そして評価査定については，客観的に．どんな反論をされても論破できるくらいの客観的な評価を用意することですね．
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<link>https://ameblo.jp/shizu-bpcb/entry-12014352499.html</link>
<pubDate>Tue, 14 Apr 2015 21:11:03 +0900</pubDate>
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<title>「お疲れ様でした」</title>
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<![CDATA[ 先日，ある学生が教授にメールで文章のファイルを添付して添削の依頼をしていたのだが，文頭に「お疲れ様です」と書いてあるのを見つけて，それは少し注意をしました．<br><br><br>知人，友人に聞いたり，ネットで交わされている意見をみていると，ビジネスの場においては，「お疲れ様でした」は上司に向かっても使え，「ご苦労様でした」は上司に向かって使ってはならないといったことを研修で教えたりするそうです．<br><br><br><br>ただし，それは外営業から帰ってきたときとか，そういう場面でのことだと思います．これから労力がかかることを依頼するときに，目上の人に向かって依頼者自ら「お疲れ様です」と言うのはおかしいと指摘しました．<br><br><br><br>ジョークを交えて返すならば「これから疲れるんじゃい（お前のせいで）」とでも切り返したくなるからです．そう考えると，物事を頼むときに先に「お疲れ様です」なんて言うのはとても滑稽で，やはり失礼なのではないかと思います．<br><br><br><br>添削などの依頼というのは，相手に手数をかけるのです．相手が忙しくて疲れているところを頼むという気持ちを表現するのなら，「お忙しいところ恐れ入りますが（お手数をお掛けしますが），よろしくお願いいたします」だと思うのです．あるいは，依頼文の前半で「お手数をおかけいたしますが，添削をお願いしたく思います」と要件も含めて書き，「よろしくお願いいたします．」で結ぶのが無難ではないかと思います．さらに「依頼」は，相手を立ててはいないので，これも注意すべきではないかと思います．<br><br><br><br>また，「お疲れ様でした」という言葉はやはり上の人に対して使うものではないという意見もあります．現状，ビジネスライクには，上述のように通っているようですが，私は上の人に使うべきではないという意見もよくわかるのです．<br><br><br><br>苦労をねぎらうときでも，「お疲れ様です」は，どちらかというと，対等な立場同士で使う言葉で，習慣上，目上の人に対しては注意が必要と認識しておくのが良いのではないでしょうか．<br><br><br><br>もちろん，上司，目上の人との関係でそのような言い方が許されているのであれば，他人がどうこう口をはさむ問題ではありませんが，その職場の人間関係で問題のないことでも，環境が変わればとらえ方が変化する可能性はあるので，意識しておいても損にはならないのではないでしょうかね．
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<link>https://ameblo.jp/shizu-bpcb/entry-11979635677.html</link>
<pubDate>Tue, 20 Jan 2015 22:06:35 +0900</pubDate>
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<title>気分と心と料理の味と・・・蕎麦</title>
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<![CDATA[ 料理の味というものは，その日その人のそときの気分によって変わりうるものではないかと思う．<br><br><br><br>科学的には体調．体調が悪ければ味覚は変わる．よって，客観的な味というものは存在しないのではないかと思う．<br><br><br><br>例えば，ビール．これは飲むときの体調，気分によって味は全く変わる．表面的な味はもちろん変わらない．ただ，雑味が強く感じられることもあれば，素直にうまいと思うこともある．<br><br><br><br>そのビールを飲むのであれば，風呂でたっぷり汗をかく，喉をカラカラにする，そしてやってきた冷たいビールはとてもうまい．ジョッキの半分くらいをごくごくと飲み干してしまうほどである．<br><br><br><br>すっぱいビールというのがある．なんのことか．居酒屋でもレストランでも，サーバーの，特に流路の手入れが不十分なのであろうと思うが，酸味と匂いが増しているところがある．こういう店のビールは私は嫌いである．当たってしまうと二杯目からは瓶にする．そして，その店ではもう二度とサーバーの生ビールは飲まない．<br><br><br><br>ビールは繊細な酒である．特にビールが好きな者はその繊細な味を楽しむ．ヱビスがいいか，プレモルがいいか，アサヒスーパードライがいいか，それは好みである．しかしながらこのとき，好き嫌いが言える人は，以前味わった味を元に発現している．その味が崩れるとそれは残念に他ならない．<br><br><br><br>繊細な味のものとしていろいろなものがあるが，バリエーションという観点も加えるとやはり蕎麦があげられよう．<br><br><br><br>蕎麦は地方によっていろいろあるが，ここでは話を簡便にするために江戸蕎麦のいわゆる御三家の話に限定するとしよう．<br><br><br><br>藪の汁は生かえしで辛く，更科の汁は本かえしで丸いが決して薄味ではない．砂場は店によって違うことが多いが，どちらかというと上品な雰囲気のあるものが多い．<br><br><br><br>ただし，これはベースの話である．汁そのものはもっともっとバリエーションが出てくる．では，その汁をどうやって食べようか？<br><br><br><br>私の考え．それは各店の汁の味を記憶できるようになれば，あとは自分の「食べたいもの」，つまりは体調と気分を踏まえて，好きなところへ行けばよろしいということである．<br><br><br><br>例えば疲れているときは多少の辛い物が欲しくなる．この辛いものが藪の辛さであるのなら，藪へ行けばよい．藪の辛さではなく，更科の甘さと丸みのある汁を欲しているのであれば更科へ行けばよい．<br><br><br>つまりは，欲している店を選べる者が一番幸せではなかろうか？<br><br><br><br>食べたいと思う汁の味の店へ行って幸せを感じることができる，これが一番幸せであろう．行きたくもない店に行って「あーだ，こーだ」と文句を垂れるよりよっぽど幸せである．<br><br><br><br>時に，一部の店では汁を好みで混ぜてくれというところもある．これは確かに，客にとっては難しい．ただし，その混ぜ方を間違っても，蕎麦の食い方に熟練した者は，いちいち失敗したと文句は言わないであろう．なぜなら，混ぜるのは客の責任であり，味を確かめながら混ぜたのに混みの味にできなかったのなら，それは答えは大きく二つではないかと思う．一つは自分の好みに全く合わない汁を出している，もしくは自分の好みがわかっていないから混ぜても良い味にならない．<br><br><br>前者であれば，蕎麦のことをわかっている者なら，黙ってその店には，もはや立ち入らない．それが自分のためであるからだ．後者であれば問題である．違う店へ行っても自分の気分に合わなければ文句をつけるということになりかねない．<br><br><br><br>故藤村和夫氏の本には，そのあたりのことが江戸っ子のさっぱりとした口調で書いてある．通とは「通う人」であるということである．一度言って口に合わなくても，黙ってしばらく通ってみて，その中で自分に合うものを見出せたらよしとする．それが「通う人」だから「通」だと言っている．なにやら騙されたような気分だが，的を射ていると私は思う．<br><br><br><br>もっと簡単に言おう．「今日はそばが食べたいな」から「今日はxxのxx蕎麦が食べたいな」と思うようになったら，まっすぐにその店に行ってそのそばを食べるべきである．脳と体が欲しているのだから，食べない他にない．<br><br><br><br>蕎麦は，麺と汁のハーモニーである．汁の味だけでその蕎麦屋の評価をすることは危険であるし，もり汁がうまくても甘汁（椀物の汁）がダメな店もあれば逆もある．その店の一番自分に合う汁が何か？はわからないと，その店でどのそばを頼もうか迷う．知らないときは「知るために」頼む．<br><br><br><br>料理は気分である．気分と感じる味がフィットするようになると，それは幸福になるであろう．
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<link>https://ameblo.jp/shizu-bpcb/entry-11947412390.html</link>
<pubDate>Mon, 03 Nov 2014 00:37:11 +0900</pubDate>
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<title>食べ方</title>
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<![CDATA[ 食べ物はどういう風に食べても良いというのは大前提とはいえ，やはり明らかにおいしそうではない食べ方をしても仕方ないとは思う．<br><br><br><br>例えば，蕎麦．蕎麦は伸びやすい．だからこそ，酒を片手にあんまりちびちびやっているとぶよぶよになった蕎麦を食べることになり，これはいかにもまずそうだ．もり蕎麦ならまだましだが，温かい椀蕎麦はやはりのびるまえにするっと食べてしまうのが良いだろう．<br><br><br><br>もり蕎麦でも，白い更科ならば適度にほぐしながら蕎麦が引っ付かないようにしてやれば，「水切れ」という状態で楽しむことができる．これはこれで好きな人の食べ方だが（「通」と言ってはならない），おやどの蕎麦は基本的にはゆでたてが一番うまいと思う．<br><br><br><br>もし酒を片手にゆっくり蕎麦を手繰りたいならば，やはり「抜き」や「蕎麦前」の肴でもって酒を楽しみ，程よいところで「そば」を頼み，それはつるっと手繰ってお勘定．蕎麦を多めに食べたいならば，もり蕎麦などで一枚をまず頼み，それを手繰りながらまたちょうどいいところでもう一枚頼む．気配りのできる店なら，二枚最初から頼んでおいて，「別別に」と言っておけば，このタイミングで出してくれるところもある．<br><br><br><br>もりまたはせいろでは，「さくら」という盛り方を取っているところもある．上野藪蕎麦などがそうである．「さくら」とは，少な目に盛ることで，もちろん頼めばやってくれるところが多いだろうが，メニューにちゃんと出しているのが上野藪である．<br><br><br><br>酒を飲むときは「さくら」にしておいて，酒がなくなったが，腹を満たしたいというときには「せいろう（藪の店では，せいろではなく，せいろうと発音するところもある）」をもう一枚頼むということもできるし，蕎麦前で酒を飲んたら結構お腹がいっぱいになってしまったという時にも「さくら」はちょうど良い．<br><br><br><br>あと，池波正太郎氏も言っているが，江戸前の蕎麦なら，くちゃくちゃといつまでも噛んで食べていてもおいしくないというのはそれはその通りだと思う．<br><br><br><br>次に寿司．寿司は半可に「通」ぶるのは危険行為だし，魚は奥が深いので，よほどのことがないと素材のことで料理人にかなうことはできない．だからこそ，寿司屋では「おまかせ」が無難であるとも言える．<br><br><br><br>ただ，回転ずしや庶民的な寿司屋では，お好みで注文することのほうが多いであろう．席に着くなり「トロ」とか「サーモン」と頼む人を見かけることがある．別に好きなものから食べれば良いし，問題もないのだが，もしも，あっさりしたネタから濃いネタへという流れで食べたことがなければ，一度はそのようにして食べてみることをやってみても良いと思う．<br><br><br><br>最初は，白身の魚であっさりとしたヒラメや，酢でしめたコハダなどから入るのはその意味で理にかなっている．とくに酢でしめたコハダなどは，前菜のごとく，酢が舌の上の雑味を流してくれて，さあ，これから食べる寿司を食うぞと舌を鮮烈にする準備にもなると思う．個人的にはビールかお茶で舌を流してヒラメから入ることが多い．あとはイカ，たこの類．そしてアジなどの青魚系．ガリで口をさっぱりさせたら，貝類，そしてツブツブ系の魚卵．ツブツブ系は口に残るのでしばらくゆっくりと楽しんだらまたガリで流し，それから脂っぽいネタに入る．マグロの赤身なら最初に．そして中トロ．サーモンのときは，赤身の後でサーモン．そしたら残りのビールをごきゅごきゅのんでさっぱりしてから，カッパ巻かおしんこ巻で〆る．食べたりないなと思ったら，いくら巻とか，明太子巻とかそのあたりをカッパの前に挟むと，味も濃いので，食べた気にもなるし腹も満たされる．<br><br><br><br>これを逆にしたらどうだろうか？　ガリでさっぱりできるとはいえ，中トロの味が残ってしまって，白身の魚の味がぼやけてしまうのではないかと思う．トロをたくさん食べたければ，最初に白身かたこあたりを食べて，それからは濃い味のものを並べて食べたほうが良いと思う．ただ，中トロなどを次々頼むと，それは値段はかさむ．<br><br><br><br>ただこれは自分の食べ方であって，別に人に強要したりしない．知人と出かけてもその人が好きなように食べるのを見ているだけである．人は好き好きだから別にかまわない．ただ，私の食べ方を見て，「へーそういう風にいくんですか」と興味を示す人がいたらそれでよいと思う．<br><br><br><br>寿司を食べる時に，醤油をべとべとにつけていたり，シャリをぼろぼろに崩してしまっている人がいるが，これはやはり「見た目にうまそう」な食べ方とは言えないだろう．
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<link>https://ameblo.jp/shizu-bpcb/entry-11918024361.html</link>
<pubDate>Sun, 31 Aug 2014 20:38:10 +0900</pubDate>
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<title>GPA基準</title>
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<![CDATA[ 最近の大学では成績評価にGPAという標準化基準を導入しているところが多いのだが，表面的に見ていると，研究室配属など，そのクラスなり学科なりでの相対的評価を考える時にはいいのだが，他の学科，学部，大学の成績と比べるということになったときは少しややこしいのが現状である．<br><br><br><br>よって現実的には，このGPAというものは，学科内の相対的成績を点数化したものとして解釈されていて，大学院入試や留学の際に提出されられるとはいえ，「この学科で上位の成績なのね」とか「この大学で平均くらいの成績なのですね」という評価のために用いられているということをよく知らねばならない．<br><br><br><br>GPAの別の判定法として，GPAで低い点数であると進級させないといった基準作りに使おうという意見もある．もとより，日本の大学は入学してしまえば進級は容易いと言われている．この意見には一部語弊があるとは思うが，平均的な意味では，そしてアメリカのトップ大学と比べれば，日本の旧帝大クラスの大学でも，進級基準はやはり甘いであろうとは思う．<br><br><br><br>大学教育における文化や歴史の違いもあるのと，近年は「アドミッションズポリシー」という「提示」もあるため，進級基準は学科で決めることが多く，講義を担当する教員が個人で「不可」と評価することに大いなる抵抗感，これは学生に対する抵抗感ではなく，学科の中の相対的評価としての抵抗感が生まれることがあるのではなかろうか．<br><br><br><br>自分が担当している講義から不可の学生がたくさん出たとする．必ず，学科長や学部長，専攻長などから何かしらのことを聞かれるであろうことは安易に予想できる．それより，某大学の医学部で最近あったことのように，マスコミに取り上げられて否定的に報道されたりしたものなら，その大学の中での立場がなくなる可能性だってある．<br><br><br><br>また，アメリカ式でいうならば，不可判定はF (Failedだという説がある)であり，可判定はDであるところが結構ある．もちろん，A&gt;B&gt;C&gt;Dとランクがあるのである．ここにEがないのはなぜか？　明確な定義は知らないが，俗説には，そこには大きな隔たりがあるのだということや，可と不可を区別するためといった話まである．<br><br><br><br>これを日本の大学で見てみると，「可/不可」とシラバスに書いてあるところが多い．スラッシュは"or"を意味するので，可または不可である．「ぎりぎりボーダーラインですよ」という意味は，少し賢明な人ならわかるはずである．しかしながら，不可にする基準は書いていないことが多い．<br><br><br><br>もちろん，不可の基準を書くことは簡単ではない．毎回，一定数は落としますよという意味になるからである．日本の大学は，教員が示す最低限の基準をクリアすれば不可にはしないというところが多い．最低限の基準を作るのは担当教員の責任であると言いながらも，不可にするということに対しては，わりとアレルギーがあったりする．<br><br><br><br>私が思うに，最低限の努力を形で示した人には，可という形でも成績認定をすればよいだろうとは思う．ただし，最低限の努力の提示のない者に合格を与えることに何の意味があるのであろうか．<br><br><br><br>そしてすべて可で通ることに対するデメリットは大学にはあまりない．実は私は学部時代は，可で通ればよいと思っていた．それはなぜなら，自分の将来を見越して行うべき勉強というものは自分で行っていたからである．良い成績を取るということに興味はなく，試験前の勉強と言えば，自分の蓄積と，試験範囲との照らし合わせであり，足らないところは自分の力で補てんするというものであった．もちろんずれることはある．そのため，試験の成績が振るわないときは「可」ということが多かった．試験時間を学科の勉強だけに割くということはあまりしなかったのはよくないとは思うが，学科の勉強だけが大学の学問ではないとエラそうなことを思っていた．<br><br><br><br>このあたりはここではあまり詳しく書けないが，いろいろなことがあったのである．そのため，学科の成績は合格すればよいというもので，将来の研究のために，どういうことを身につけるべきかということを考えながら，いろんな試行錯誤をしていたことは確かである．<br><br><br><br>話が発散してきてしまった．そろそろ筆をおこう．
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<link>https://ameblo.jp/shizu-bpcb/entry-11916638471.html</link>
<pubDate>Thu, 28 Aug 2014 22:14:41 +0900</pubDate>
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