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<title>映画を観ることについて語るとき、わたしの語ること</title>
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<description>はじめまして。映画を観ることが多いので、その備忘録として始めました。定期的にアップすることを目指します。</description>
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<title>松岡錠岡『バタアシ金魚』</title>
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<![CDATA[ <p>　望月峯太郎が書いた漫画を映画化した作品。一目ぼれした女の子の気を引くためにあっさりとバイク仲間との縁を切り、女の子と同じ水泳部に入部し、その子の気を引くためにオリンピック出場を目指して猛特訓する話だった。面白いのは、オリンピックに出なくても、同じ部活に入部しなくても、バイク友達と縁を切らなくても、その子にアピールする方法は色々あるのに、それらの無駄なことを主人公のカオルがしないわけにはいかないところだ。自分の世界に酔っていて、「愛している」というような気障なセリフを好み、好きであるが故に、相手を見失い、自分も見失う。オリンピックを目指してしまうのは、直接好きだと言うのが怖いからなのだろう。</p><p>　一方、高岡早紀演じるソノコもなぜか過食が止まらない。ソノコはカオルのことが途中から本当に好きになるのだけど、その気持ちを否認し、認めない。自分の机の上にカオルの写真を置き、画鋲でその顔を刺してしまうとき、その鬱屈した感情の裏には、カオルへの好意が隠れている。自分の気持ちを受け止めることができたとき、彼女は過食を止めることができた。</p><p>　でも、そういった不器用さというか、自分自身を持て余している様子が、カオルといい、ソノコといい、とても見ていてじれったくて、つい応援してしまうのだ。この映画は、思春期に私たちが感じるあのどうしようもない他者への憧れと、気持ちが通じないかもしれないときの不安を私に思い出させてくれた。</p><p>　最後に、この映画では筒井道隆さんの名演が光っている。しかも、その表情をきちんとカメラに収めている。土手のシーンが多く、緑に輝く夏の雑草がプールの青さと美しいコントラストを見せている。１９９０年制作の映画だが、今から３０年以上前の夏の景色がフィルムに保存されていることに、私は驚きと懐かしさを覚えた。</p>
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<pubDate>Tue, 07 Jan 2025 22:20:28 +0900</pubDate>
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<title>チャン・イーモウ『紅いコーリャン』</title>
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<![CDATA[ <p>　紅いは、コーリャンから作られる酒の色。それは、共産主義の色でもあり、大地を染める夕日の色でもある。また、コーリャンが、そこに生きる人たちのことならば、流された血の色でもある。その意味では、虐殺と共産主義国家、そしてコーリャン畑に生きた、その土地の人々の記憶をつなぐ作品である。</p><p>　気になったのは、描写の仕方である。話は、自分の祖父母の思い出を、語り継ぐ「私」の視点から語られる。その土地に生きた人たちの魂を蘇らすように、彼らは活力に満ちている。お嫁に行く女の子を運ぶ役目の男たちは、女の子を乗せた籠を揺らして、その子を泣かせてしまうし、その子は家畜と交換でお嫁に出されて、ハサミで自殺しようとする。また、好きな子を自分の妻にするために、男は結婚相手を殺してしまったそうだし、酒にも放尿する。盗賊さえ出て来る。</p><p>　おそらく酒蔵の頭首が殺されるのは、共産主義では資本家を敵とみなすからだろう。主人公の女性は酒蔵で、そこで働いている人々を資本家から解放し、全員が平等な理想の世界を作る。その女性は頭首となり、羅漢というのちに共産党に参加する人物が彼女を支え、人々を幸せに導く。そのような政治的な世界観が物語に反映されている。</p><p>　羅漢は日本軍に皮膚を裂かれて殺されてしまう。しかし、彼は悲鳴一つ挙げなかったと語られる。この映画の中では、人民衆の敵はコーリャン畑をなぎ倒した日本軍と、コーリャンから取れた酒を独占する資本家なのだと思った。政治的な思想が映画の背景に隠れている。その部分は曖昧にされていたが、もし酒蔵の頭首＝資本家が殺されたのならば、それは暴力革命になる。この映画を作ったとき、資本主義に対して政府はどんな見解を示していて、この映画はそれについてどのような忖度をしたのだろうか。また、殺された頭首はハンセン病ということになっていたが、ハンセン病を使って頭首を罵るのは、やはりハンセン病への偏見だろう。</p><p>　それでも、この映画の美的な側面は少しも損なわれないと私は思う。それほど、映画館で観たが映像と中国の楽器を使った場面演出は天下一品だった。</p>
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<pubDate>Mon, 06 Jan 2025 20:25:13 +0900</pubDate>
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<title>ヴィム・ヴェンダース『PERFECT　DAYS』</title>
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<![CDATA[ <p>　役所広司演じる平山は、東京で公衆トイレの清掃員として働き、彼のもとを様々な人が訪れ、また去っていく。平山の趣味は、木の写真を撮ること、そして小さな木の芽が出ているのを見つけると、それを収集して家で栽培すること。彼の中に澱のように溜まっていく、毎日の繰り返しの中に、彼は特別な瞬間を見つけ出しては、それを写真に収め、大切な記憶として丁寧に保管していく。その生き方は、禅の修行のようでもあり、社会的な価値や判断基準から距離を取りながら、自分の生を価値あるものとしてくれるものを慈しむ。例えば、トイレ掃除。同僚は彼に「どうしてそんなにトイレ掃除を一生懸命にするのか？」と問う。しかし、平山はトイレ掃除を楽しんでいるように見える。それは、トイレ掃除の公共性を理由に、同僚の意見を否定するのとは違う。何か、その仕事に面白みを見出すことで、意固地にならずに、穏やかに抵抗して生きている。そのような穏やかさは、彼のもとを訪れる人たちへの歓待となって現れる。彼の世界は孤島かもしれないが、そこに流れ着いた人に対して、彼は優しい。自分の島を囲って、塀を作り、上陸しようとする敵を威嚇するようなところがない。平山は一歩引いた目線から穏やかに世界を眺める。しかし、それは達観ではなく、むしろ終わりなき日々の残酷さを引き受けることなのだと思った。</p>
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<link>https://ameblo.jp/shuu927/entry-12880684750.html</link>
<pubDate>Tue, 31 Dec 2024 18:00:23 +0900</pubDate>
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<title>カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』</title>
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<![CDATA[ <p>　たとえば、帰属が対立している島がある。それをどちらかの国のものかはっきりさせることが、記憶を思い出すことになるならば、思い出さない方がよい記憶もあるのだと思う。しかし、昔私はこの島に住んでいたけど、追い出されたという人もいるかもしれない。その人は忘れたくても、忘れられないだろう。一方、歴史上その場所で何が起きたのかを調べず、理解もしようともせずに、偽の歴史を信じ、その島の領有を正当だと考える人もいるかもしれない。後者の場合は、思い出すという言葉で表現すべきではなく、事実を忘却しているのだろう。</p><p>　この本の中では、忘れることが戦争をなくすという立場が語られる。確かに、領有権を巡って対立がある場所に対して、両国のナショナルな記憶を呼び覚ますような国の決定は、対立を生む。多分、思い出すべき記憶と、忘れるべきナショナルな記憶がある。最後に、老夫婦は将来有望な戦士となるであろうエドウィンに私たちのことを忘れないでと語る。敵国のブリトン人である老夫婦の優しさはエドウィンに受け継がれ、もしかしたら将来の戦争を止めるきっかけになるかもしれない。ナショナリズムから距離をとるためにも、個人の物語は忘れなくてもよいのだと思った。そして、その個人の記憶がナショナルなものに吸収されないように語り継ぐことが、忘れないということなのだと思う。</p>
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<link>https://ameblo.jp/shuu927/entry-12880107692.html</link>
<pubDate>Thu, 26 Dec 2024 22:27:24 +0900</pubDate>
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<title>パブロ・ベルヘル『ロボット・ドリームズ』</title>
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<![CDATA[ <p>　大都市マンハッタンで孤独に生きるドッグがＣＭを見て注文し、送られていきた友だちロボットと仲良くなる話でした。ロボットは海水でさび付き、動けなくなる。ビーチに置き去りにされたロボットは、様々な夢を見ます。その夢のどこから、どこまでが夢で、どこからどこまでが現実なのかも分からなくなるくらいに。</p><p>　ロボットアニメの歴史は深く、ドラえもんや鉄腕アトムなどがすぐに浮かびます。ターミネーターもそうですし、ＡＩ技術が進歩する中で、人間以上にロボットの知能が進化する可能性も現実味を帯びてきました。</p><p>　ロボットと人間の関係は、倫理的な問題を多く含みます。ドッグも「お友達用」のロボットですが、たくさんの夢を見るような生き物を、人間がそもそも生産していいのか。また、生産されたロボットを売り買いしてもいいのか。この作品に出て来るロボットも自分と同じ型のロボットが他の家の車の中にいるのを発見して困惑したり、自分の代わりに新しいロボットに買い替えられてしまうことに不安を抱いたりします。</p><p>　また、ロボットに対して私たちは様々な願望を投影します。それは恋愛の対象であったり、ターミネーターのような救世主であったり、蔑みの対象であったり。この映画に出て来るロボットには、どのような他者への私たちの意識が投影されているのだろうかと思いました。</p><p>　</p>
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<link>https://ameblo.jp/shuu927/entry-12879444785.html</link>
<pubDate>Sat, 21 Dec 2024 11:04:51 +0900</pubDate>
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<title>ヤンチョー・ミクローシュ『赤と白』</title>
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<![CDATA[ <p>　池袋の新文芸坐でヤンチョー・ミクローシュの『赤と白』と、映画評論家の大寺眞輔さんのトークショーを観てきました。ロシア革命直後の赤軍（ソヴィエト軍）と白軍（ソヴィエト政権に武装蜂起した反革命軍）の内戦についての映画で、そのほとんどが戦闘シーンで、多くの民間人や兵士たちが画面の中で、亡くなっていました。</p><p>　ミクローシュは、赤軍や白軍のどちらかに肩入れして描いてはいなくて、それよりも二つの勢力の間で犠牲になる人たちがいたことを丹念に描いていました。特に女性へのレイプが裸の後姿の映像で象徴的に画面に映し出される様子は、戦争で犠牲になる、声なき声の民衆とは、「女性」であることを思いました。</p><p>　また、赤か白かのどちからの側で、戦闘に参加しながらも、わざと敵兵を逃がしたり、戦闘に積極的に参加しない兵士のことも描いていて、ベトナム戦争における逃走兵のことを思い出しました。自己の良心や個人としての考えから、集団主義的な軍隊の秩序とそこで与えられる役割から心理的に距離を取る様子を見ていると、物事は白か赤のどちらかに分け切ることは不可能なのだと思いました。</p><p>　大寺眞輔さんも言っていたように、見ていて無秩序だなと思いました。いつ自分が殺されるのか、殺す側になるのか状況がコロコロと変わるので、その中に投げ込まれた個人は、いつ自分がどんな原因で死ぬのか分からない。そういった自分の生死が偶然の些細な出来事に簡単に左右されてしまうような例外状態にあったのだと思いました。そして、それは内戦という国家の法的な機能が停止した真空状態の中で起きている。ゴダールがナチスの収容所の映画を撮るならば、ヤンチョー・ミクローシュが適していると話したそうですが、それも納得でした。</p>
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<link>https://ameblo.jp/shuu927/entry-12877760991.html</link>
<pubDate>Sat, 07 Dec 2024 11:55:06 +0900</pubDate>
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<title>『四月』April（監督）デア・クルムベガスヴィリ</title>
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<![CDATA[ <p>　第２５回東京フィルメックスで『四月』という映画を観た。本作品はヴェネツィア映画祭のコンペティション部門で特別審査員賞を受賞している。何よりも新しかったのは、帝王切開と出産のシーンであった。子どもがお母さんのお腹の中から出てくる瞬間を、天井の側にカメラを設置して、一部始終を撮影した映像が物語の一部として使われている。モザイクもないので、よく見えるのだが、赤ちゃんというより、へその緒や羊水に私は目がいった。あんな風に自分もつながっていたのかとか、本当に水の中に自分も浮かんでいたんだなとか感じた。</p><p>　四月というと、啓蟄。生命の循環の中で、春は誕生の季節。人だけではなく、花も牛も、犬も、カエルもけたたましくその産声を上げる。主人公の女性は、そのような生命の循環に逆らうように堕胎手術を繰り返す。生まない権利と生まれてくる権利がある。その相克の中で、矛盾を社会は解決してはくれないから、責任は彼女に個人化される。作品全体を包む不穏な空気感、神経をすり減らすような緊張感は、負荷を一人で引き受けようとする彼女の決断が「英雄的」である証拠である。村上春樹が言うように、システムの壁に投げつけられた抵抗する個人という卵は、あっけなく割れる。しかし、ただ何事もなく割れるのではなく、割れたという痕跡をこの世に残すのだと思った。</p><p>　</p>
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<link>https://ameblo.jp/shuu927/entry-12877024542.html</link>
<pubDate>Sun, 01 Dec 2024 11:26:34 +0900</pubDate>
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