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<title>siikaryouzannpakuのブログ</title>
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<title>短歌時評222回　いつか遺産になる日　辻 聡之</title>
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<![CDATA[ <p>　第69回「短歌研究新人賞」が決まった。水本麻衣「いつも寝顔を褒められている」と岡本恵「影の名前」、全く異なるアプローチの二作だけに同時受賞にも頷ける。<br>&nbsp;　「影の名前」は「<span style="color:#0000ff;">あなた</span>」という人物に対する複雑な思いが印象的な一連であるけれど、かく言う僕は「あなた＝桐島聡」に気づくことができず、選考経過を読んで驚いた。選考委員である石川美南の「<span style="color:#0000ff;">自分一人で読んでいるときはこれが桐島聡の話だと思い至ることができなかった</span>」という発言にちょっと安心し、「<span style="color:#0000ff;">わかって読み返したら完全に評価が裏返りました</span>」でやっぱりそうだよなあと思った。「<span style="color:#0000ff;">あなた</span>」が誰なのかを読み取ることができるかどうかで、評価は大きく変わる（他の選考委員は桐島聡に辿り着いていたようで、横山未来子にいたっては「<span style="color:#ff0000;">洋楽と酒で組み立てられてゆく半世紀　さう、わかりやすいから</span>」でピンときたのだという）。<br>　桐島の名前を作品の中で明かさないことについては、作者も迷ったのではないか。結果的にその選択は正解だったと言えるけれど、かなりきわどい賭けだったようにも思う。読み手への信頼が勝因だろう。<br>　上位入賞作品の中でもひときわ異彩を放っていたのは、やはり瀬名蛍「ゆげ」だ。<br><br><span style="color:#ff0000;">おふろ場のくもりがらすは<br>くうかんのきずのこすり絵だって、<br>しってた？<br><br>肉まんがじょうきのなかからあらわれて<br>わるとなかにもゆげつまってた<br><br>ひとじちにされたなら　いま<br>どうしよう、<br>身分証。<br>ひとじちにいりますか？</span><br><br>　選考委員の評価は概ね高く、瑕を指摘するコメントも誌面にはない（実際には多少なりともあったのかもしれないけれど）。黒瀬珂瀾は「<span style="color:#0000ff;">多行書きは通常、身体性や感情の吐露を前面に出す技法として使われることが多い</span>」としつつ、理知的な世界把握を評価している。多行書きによって発話主体の声や呼吸が明瞭になり、言葉に体重が乗るようなイメージだろうか。視覚的に、一行書きよりも言葉が肉体を持っているようにも見える。なんとなく分かる。なんとなく分かるけれど、作者なりの吟味があったうえでの完成形だとしても、例えば2行と3行、3行と4行の差をどれくらい精緻に読み取ることができるのだろうか。内山晶太が「<span style="color:#0000ff;">議論の機会を持ちたい</span>」として上位に推したのは、作品を評価するための基準がまだ共有されていないと感じたからではないか。<br>　選考会の終わりに、黒瀬は次のようにまとめている。<br><br>　<span style="color:#0000ff;">応募作全体を見渡して、今回は他のジャンルで創作をしてきた人や、短歌の遺産的なものを踏まえていない世界からの書き手が顕著に増えたな、ということを思いました。そこから新しいものが生まれる可能性を僕はビビットに感じたのですが、ただ、やはりそういう作品は残りづらかった。それは選考委員の責任もあるんだけれども、短歌の修辞にはその人間が時代をどう見ているかが如実に出る。全く違う文脈の新しい作品と、既存の修辞を練磨していく作品がぶつかり合うならば、来年以降の新人賞の場がまた変わっていく予感があります。</span><br><br>　もちろん、「ゆげ」が「<span style="color:#0000ff;">短歌の遺産的なものを踏まえていない</span>」ということではない。おそらく先行作品もよく研究したうえで独自の表現方法を模索している。けれど、新しい作風、新しい手法が現れれば、それを新たに評価するための視点と議論と、その蓄積が必要になるはずだ。瀬名の試みがどのように実を結ぶのか、今後も注目したい。<br><br>　　　＊<br><br>　少し前になるけれど、「短歌」五月号で組まれた特集は「四十代の担うもの」だった。四十代歌人の作品の他、「四十代論」が掲載されている。結局、世代論となると、何かしら明確な傾向としてまとめるのには苦心するようだ。その中で道券はなは、性別による役割意識への指摘や、文語口語混合文体・口語旧仮名文体などを一つの特徴として挙げている。そして、「<span style="color:#0000ff;">現在四十代の歌人が重ねた模索と実践は、後続の世代にも大きな影響を与えている</span>」と結ぶ。<br>　四十代は何を担うべきなのか。歌壇の未来を？　短歌という文芸を？　上の世代と下の世代の橋渡し役を？　自分のことを言えば、もう四十代だし、結社の編集委員で選歌もするし、短歌の講座で先生みたいな顔をしている。身軽でいたいと思っていたのに、気づけば、次の世代に渡すバトンを握っている。<br>　みんな、いつか遺産になっていく。大きな流れの中に身を浸しながら。</p>
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<link>https://ameblo.jp/siikaryouzannpaku/entry-12974787987.html</link>
<pubDate>Wed, 05 Aug 2026 02:43:09 +0900</pubDate>
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<title>短歌時評221回　新しい「読み」が示されているのかもしれない　桑原 憂太郎</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: left;">　ここのところ、いくつかの媒体で次の短歌作品の「読み」について面白い議論が交わされている。<br>　それは、この作品の「読み」をめぐってだ。<br><br><span style="color:#ff0000;">シャンプー　僕は自殺をしてきみが２周目を生きるのはどうだろう</span>　青松輝『４』<br><br>　この作品をどう「読む」か。<br>　というと、筆者ならば、まずは、初句字足らず４音の「<span style="color:#ff0000;">シャンプー</span>」の語の響きと、語から受けるコノテーションをしっか「読む」。この初句が、この作品の生命線だと思うからだ。<br>　「<span style="color:#ff0000;">シャンプー</span>」の語の響きとは何か。<br>　というと、「シャ」の拗音、「ン」の撥音、「プー」の長音の響き。拗音、撥音、長音の組み合わせから生まれる特有の響きだ。とくに、「シャ」の破擦音と「プー」の破裂音によるいわゆる語感からくる独特な響きは、韻文に嵌め込むことで大きな効果が得られよう。<br>　それから、４音の字足らずによる、つんのめり感も面白い。初句４音によるそうしたつんのめり感は、当然ながら＜作者＞がその効果を計算したうえでのこと。なので「<span style="color:#ff0000;">シャンプー</span>」は、この位置取りになっているということだ。<br>　たとえば、初句が次のような語であったらどうであろう。<br><br>髪を洗う　僕は自殺をしてきみが２周目を生きるのはどうだろう　　　　改作１<br>歯みがき　僕は自殺をしてきみが２周目を生きるのはどうだろう　　　　改作２<br>トリートメント　僕は自殺をしてきみが２周目を生きるのはどうだろう　改作３<br><br>　元歌の「<span style="color:#ff0000;">シャンプー</span>」とくらべて、作品の出来ばえが天地ほどの違いになっていることがはっきりしよう。<br>　これが「<span style="color:#ff0000;">シャンプー</span>」の語の響きによる効果だ。<br>　次に、コノテーション。<br>　コノテーションというのは、その言葉に貼りついているイメージのことだ。<br>　たとえば、「夕陽」という言葉。「夕陽」は、太陽が沈む様と言う意味しか字義上はないけれど、これが詩歌で使用されると、わたしたちは、何か懐かしさや切なさや感傷的といった、全部合わせて「ノスタルジー」といったようなものを、共感的にありありとイメージすることができよう。ほかにも「ものかなしさ」とか「さびしさ」といった感情も「夕陽」という文字からは、喚起できるかもしれない。<br>　こうした、字義にはないけれど、その文字をみて喚起できるイメージをコノテーションという。<br>　「シャンプー」という言葉から、私たちは、洗髪をすることの心地良さというか気持ち良さというか、そういうイメージを受け取ることができるだろう。「シャンプー」という語の字義には、そんな心地良さとか気持ち良さといった感情的な意味合いはない。けど、私たちは「シャンプー」という言葉から、そういうイメージを受け取ることができる。これがコノテーションだ。 　<br>　で、繰り返しになるが、「<span style="color:#ff0000;">シャンプー</span>」という言葉は、快不快でいれば、洗髪は快いものであるので、ここでは「シャンプーをする」という動作を、「<span style="color:#ff0000;">シャンプー</span>」の字足らず４音でシャープに省略し、そこにコノテーションが貼りついている、という解釈でいいと思う。<br>　これが、筆者のいう、語の響きと語から受けるコノテーションからの「読み」だ。この語の響きとコノテーションについては、どちらが上位にあるのかというと、どちらでもない。短歌作品の「読み」については、両方の「読み」で短歌作品を味わっていく、ということになるだろう。<br>　これが、もし、語の響きだけで「読み」は成立するのだ、ということになると、響きのよい語が並んでいれば作品として成立してしまうことになり、それはそれでおかしな議論になってしまうだろう。<br>　コノテーションはほかっておいて、<span style="color:#ff0000;">「シャンプー</span>」という語の響きだけで作品を味わう、ということに徹するならどうなるか。たとえば、元歌を次のように改作してみたら、そのおかしさが分かるだろう。<br><br>産休　僕は自殺をしてきみが２周目を生きるのはどうだろう　　　　　　　　改作４<br>もろきゅう　僕は自殺をしてきみが２周目を生きるのはどうだろう　　　　　改作５<br>薫風　僕は自殺をしてきみが２周目を生きるのはどうだろう　　　　　　　　改作６<br>ディエンビエンフー　僕は自殺をしてきみが２周目を生きるのはどうだろう　改作７<br><br>　「<span style="color:#ff0000;">シャンプー</span>」と似た語の響きのものを初句に持ってきたけど、これじゃあ、まったくもって作品の良さが台無しになってしまう。<br>　そういうわけで、この初句「<span style="color:#ff0000;">シャンプー</span>」は、語の響きとコノテーションの両方で、かなりの詩的な強度を持った語であるということが分かるかと思う。つまり、ほかに替えがきかないのだ。「髪を洗う」でも「歯みがき」でも、「トリートメント」でも、ましてや「産休」「もろきゅう」「薫風」「ディエンビエンフー」なんて、だめにきまっている。いくら語感が似ているからって、作品としてはぶち壊しだ。つまり初句４音の「<span style="color:#ff0000;">シャンプー</span>」という語は、短歌の世界でいうところの「動かない」語なのである。<br>　この初句「<span style="color:#ff0000;">シャンプー</span>」がこの作品の生命線だ、という筆者の主張が分かったかと思う。<br>　この作品については、こんな感じで「<span style="color:#ff0000;">シャンプー</span>」の語をじゅうぶんに味わったうえで、「<span style="color:#ff0000;">シャンプー</span>」と２句目以降の口語特有の冗長的で散文的な叙述との対比を鑑賞していく、いうことになるのだろうと思う。<br>　ちなみに、ここでいう対比というのは、「<span style="color:#ff0000;">シャンプー</span>」４音に対して２句以降すべてとの対比ということで、じゅうぶん「<span style="color:#ff0000;">シャンプー</span>」４音は、２句以降と対峙するほどの強度があるということだ。つまり、作品の構成としてもバランスをしっかりと保っているといえる。<br>　と、長々とこの作品の初句４音「<span style="color:#ff0000;">シャンプー</span>」の位置取りがいかに優れているのかを述べてきた。けど、今回は、この作品の一首評をしたいのではない。<br>　そうではなく、「読み」について述べたいのだった。<br><br>　さて、この作品について、今年に入り、次のような「読み」が瀬口真司によって示された。<br><br><span style="color:#0000ff;">　ベタに読むと「シャンプーをしているときにこういうことを思った」というように取られると思うんですが、このシャンプーという言葉と１字空けは、「シャンプーをしているときに」という説明ではなくて、歌自体の質感をコーティングするための置き字みたいなものだと思うんです。<br>　シャンプーという言葉が一番最初にあることで、その香りがしてくるというか、香りの操作によって、その後のフレーズのフレーバーを決定的に決めてしまう。意味はないんですよね。それは、シャンプーという行為自体にも意味がない、ということと響き合うと思うんです。シャンプーには、機能や効果や価値だけがあって、「意味」がある行為ではないので。</span></p><p style="text-align: right;">(<a href="https://niewmedia.com/specials/2603texture_edski_wrski/2/?loader=1" rel="noopener noreferrer" target="_blank">瀬口真司「2020年代はテクスチャの時代？ 短歌から音楽まで、瀬口真司×つやちゃんが談論」2026.3.12</a>)<br>&nbsp;</p><p style="text-align: left;">　瀬口によると、「<span style="color:#ff0000;">シャンプー</span>」という語は、「<span style="color:#0000ff;">歌自体の質感をコーティングするための置き字</span>」であり、「<span style="color:#0000ff;">その後のフレーズのフレーバーを決定的に決めてしまう</span>」ものだという。<br>　つまり、ここでは、「<span style="color:#ff0000;">シャンプー</span>」の語の響きや語から受けるコノテーションとはまた違った「読み」が提示されているといえよう。<br>　先ほど、長々と従来の「読み」を披歴した筆者の「読み」とは違う、新しい「読み」といっていいかもしれない。おそらく、瀬口にとっても、従来の「読み」では、こうした新しい作品の良さは語れませんよ、という意識があるのかではないか。それは、引用冒頭にあるベタな「読み」を否定していることからも、うかがえる。<br>　そういう点でいうと、新しい作品を読み解く新しい「読み」のワードとして、「<span style="color:#0000ff;">歌自体の質感をコーティングするための置き字</span>」とか「<span style="color:#0000ff;">その後のフレーズのフレーバーを決定的に決めてしまう</span>」という評言をとらえた方がいいのではないかと思われる。<br>　ただ、急いで付け加えるなら、こうした瀬口の「読み」は、これまで韻文の世界でえんえんとやってきた、俳句でいうところの「季語」とか、広く短歌の世界でもいうところの「歳時記」を鑑賞するときの「読み」とそんなに違わないんじゃないかな、とは思う。<br>　つまり、これまでも、瀬口の「読み」のような感じで、「季語」なり「歳時記」なりを、私たちは「読ん」できたといえないか、ということだ。　<br>何を言っているのかというと、こういうことだ。<br><br>ハナミズキ　僕は自殺をしてきみが２周目を生きるのはどうだろう　改作８<br><br>　「<span style="color:#0000ff;">シャンプー</span>」を春の花である「ハナミズキ」にかえてみた。「ハナミズキ」という春を感じる歳時記的な語（俳句でいうところの「季語」）が初句に置かれたことで、「<span style="color:#0000ff;">歌自体の質感をコーティングするための置き字</span>」とかハナミズキの香りから、「<span style="color:#0000ff;">その後のフレーズのフレーバーを決定的に決めてしまう</span>」という批評は成り立つんじゃないかな、とは思う。<br>　ただし、<br><br>髪洗う　僕は自殺をしてきみが２周目を生きるのはどうだろう　改作９<br><br>　とすると、「髪洗う」が夏の季語だとしても、髪と洗うという「行為」に意味がついちゃうから、上記の批評は成り立たない。なので、何でもかんでも初句に「季語」を持ってくれば、「<span style="color:#0000ff;">歌自体の質感をコーティングするための置き字</span>」とか「<span style="color:#0000ff;">その後のフレーズのフレーバーを決定的に決めてしまう</span>」という批評が成り立つというわけではないとは思う。<br><br>　さて、この瀬口の「読み」について、嶋稟太郎は、北虎あきらによる評を援用しながら、次のように述べる。<br><br><span style="color:#0000ff;">「シャンプー」の語は、歌全体から浮いて見える。<br>その浮いた感じの受け取り方で読み味が変わる。身体感覚をベースに、「読み」の行為の中にあるスピードの緩急を生み出す機構の一つとして「浮いた感じ」を受け取れば北虎の読み方になるし、機構としての組み込みを避けて単語が持つ意味や文脈を他の言葉から切り離して歌を「コーティング」する表層にすれば瀬口の読みに近づいていく。瀬口の読みは言葉のリズムよりも言葉の持つ素朴な意味（記号が示すもの）を強く受け取ろうとする。それは「調べ」の拒絶と言えるかもしれない。</span></p><p style="text-align: right;">（<a href="https://sunagoya.com/tanka/?p=37948" rel="noopener noreferrer" target="_blank">嶋稟太郎「日々のクオリア」2026.6.23</a>）<br>&nbsp;</p><p style="text-align: left;">　嶋は瀬口の「読み」を「調べ」の拒絶といえるかもしれない、と言っているが、批判的に述べているわけではない。<br>　そうではなく、「<span style="color:#ff0000;">シャンプー</span>」を２句目以降の叙述と対比して、「<span style="color:#0000ff;">身体感覚をベースに、「読み」の行為の中にあるスピードの緩急を生み出す機構の一つとして「浮いた感じ」を受け取れ</span>」る「<span style="color:#0000ff;">読み</span>」が「<span style="color:#0000ff;">調べ</span>」を拒絶しない「<span style="color:#0000ff;">読み</span>」であり、そうではなく、「<span style="color:#0000ff;">機構としての組み込みを避けて単語が持つ意味や文脈を他の言葉から切り離して歌を「コーティング」する表層にすれば</span>」、それは「<span style="color:#0000ff;">調べ</span>」を拒絶している「<span style="color:#0000ff;">読み</span>」である、と言っているのだ。<br>　つまり瀬口の「<span style="color:#0000ff;">読み</span>」は、従来の「<span style="color:#0000ff;">調べ</span>」で語ってきた短歌の「<span style="color:#0000ff;">読み</span>」とは違っている、という解釈でいいのだと思う。<br>　さあ、この「<span style="color:#0000ff;">歌自体の質感をコーティングするための置き字</span>」とか「<span style="color:#0000ff;">その後のフレーズのフレーバーを決定的に決めてしまう</span>」といったような「読み」は、従来とは違う「読み」なのだろうか。それとも、これまでの「季語」や「歳時記」を鑑賞するときのような従来の「読み」の延長線上にあるものなのか。<br><br>　今後も、引き続き、こうした従来のものとは違う新しい「読み」についての議論は交わされていくことだろう。<br>　そして、短歌の世界で、このような「読み」についての議論が交わされている状況というのは、短歌の世界が、ゆっくりながらも大きく更新されている経過にある、といえるかもしれない。<br>　そして、「短歌ブーム」以降の、現在の短歌の世界というのは、ブームをくぐりぬけて産み落とされたともいえる従来とは違う短歌作品の、従来とは違う「読み」が一般化されていく過程にある、ともいえるのかもしれない。<br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/siikaryouzannpaku/entry-12972093085.html</link>
<pubDate>Wed, 08 Jul 2026 12:13:54 +0900</pubDate>
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<title>短歌時評220回　ハッキングためのルール　　　　　河原 こいし</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: left;">　定型感覚という言葉がある。この言葉は「定型感覚がしっかりしている」「定型感覚が強い」など、それが存在する場合に使用されることが多いように感じる。定型とは57577の短歌の基本のリズム感ではあるが、それは短歌であるための絶対の必要条件ではなく、字足らず・字余り・句跨り・自由律など苦も無く例外を挙げられる。しかし国語教育では短歌とは「57577」と習ったはずで、そのせいか初心者の短歌は5音7音の間に空白をあけている例をよく見かける。<br><br>　「偶然短歌bot」というアカウントがX(twitter)に存在する。ウィキペディアの文章から偶然57577になる部分を拾って投稿するアカウントだ。(ちなみにこのアカウントには50000人以上のフォロワーがついている。)<br><br><span style="color:#ff0000;">弁当をいかに美味しく食べるかにこだわりまくる作品である</span></p><p style="text-align: right;">（ウィキペディア日本語版「泉昌之」より　@g57577偶然短歌bot　2026年３月3日15時00分）</p><p style="text-align: left;"><br>　Xでは企業主催の短歌コンクールなども開催されている。商品を食べてみての感想などを募集しているようだ。こういったコンクールでは前に述べたような57577の5音7音の間に空白を入れた作品が散見され、こういったコンクールに応募するのは短歌に普段馴染みのないライト層なのだと推察できる。<br><br>　偶然でも57577のリズムになっている文章を拾ったbotが短歌として面白がられていること、また短歌を簡単に応募できるライト層のコンクールで57577で区切ってしまった作品が多いこと、これらは短歌に馴染みのない人でも「57577なら短歌だろう」と考えていることの証拠だと言えよう。<br><br>　しかし、ある程度のレベルになってくると今度はあえて定型から外れた作品も登場する。<br><br><span style="color:#ff0000;">工場裏のほかったる皿拾おみゃぁ、ふたりの宝物にしよみゃぁ</span></p><p style="text-align: right;">(千種創一『あやとり』より)</p><p style="text-align: left;"><br>　これは短歌であると言えるのだろうか？<br>　言えるのであれば歌人は何をもって短歌と認識しているのか？<br><br><span style="color:#0000ff;">　短歌の入門書には「まずは定型」と書かれている場合が多い。</span>(木下龍也『天才による凡人のための短歌教室』など)<br>&nbsp;</p><p style="text-align: left;">　まずは57577のリズムを体に沁み込ませる。これは伝統芸能の守破離の「守」にあたる。<br><br>　定型を守ると何が良いのか。まず一番は形だけで短歌と認めてもらえること。これに説明は不要だろう。それからわたしが思うのは、普段定型に親しんでおけば定型外を作ったときに「これは短歌ですよ！」と言い切る砦となることだろう。少なくとも自分の中の根拠にはなる。「破」「離」はまず土台となる「守」がないと起こせない。<br><br>　現代美術は「よくわからないもの」の代名詞として使われているが、あれらは過去の美術史の上に成り立つパンチカルチャーなので、美術史を理解していない側から見ると理解が困難なシロモノなだけで、理解している側から見れば説明が可能なことが多い。定型外の現代短歌もそういう性質がないだろうか？<br><br>　知識も定型感覚もない人が作った短歌らしきものがたまたま素晴らしかったとしよう。実際にそういうことはSNSで発生している。しかし偶然ホームランを打てたとしても、続けてホームランを打てる可能性は高くない。1回バズるだけで良いのであればそれはそれで構わないが、再現性は低く、歌人として続けていくには途中で壁にぶつかることが予想できる。定型や過去の歌を学ぶことは「良い歌」というヒットの打率を上げるための基礎トレーニングでもある。短歌にはたまたまもあり得るが、長く続けていくためには打率もほしい。<br>　定型感覚がある人のつくる定型外には理由が読み取れる。先に引用した千種の歌は祖母の語る戦争体験という前置きをしたうえで歌われる連作なので、話し言葉に寄せた表現を取っているのだと理解できる。<br><br><span style="color:#0000ff;">世界中に平和と繁栄をもたらせるのはドナルドだけだと思っています</span></p><p style="text-align: right;">(高市早苗首相の発言より）</p><p style="text-align: right;">&nbsp;</p><p style="text-align: left;">　これは57577にもなっておらず、ただの話し言葉で短歌にしようというつもりもない発言であり、これを短歌と読むのはやや厳しい。<br>　短歌だと言うには「定型」であることか、もしくは「定型を知ったうえでそこから外そうとする意図」がないと成立しないのではないだろうか？少なくとも歌人としての自認がある人々はそれらを認識したうえで歌を作っているはずだ。<br>　高市首相の発言も例えば連作の一部として、戦争を称揚していた歌人への皮肉などの意図をもって埋め込めば短歌と言えなくもないが、そこだけを切り取って短歌として論ずるのは違うのではないか。<br><br>　定型に言及し過ぎると短歌は堅苦しく高尚なものに思えてしまうかもしれないが、短歌以外の領域でもどこかの場に入るには「今までのルールをある程度尊重してお互いそこそこリスペクトを持って過ごしましょう」ということが必要だ。がちがちに定型や過去に縛られる必要はないが、今までの積み重ねを完全に無視した歌は過去の蓄積を利用できず歌として読まれにくい。<br>　ルールをハックするには、そのルールに精通している必要がある。<br>　まずは定型や過去の歌というルールを勉強し、その上で定型外というルールハックを行う方がスマートだ。</p>
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<link>https://ameblo.jp/siikaryouzannpaku/entry-12966446261.html</link>
<pubDate>Sun, 17 May 2026 16:31:59 +0900</pubDate>
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<title>短歌時評219回　その壁を崩すのは　辻 聡之</title>
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<![CDATA[ <p style="text-align: left;">　なんとも、かしましいことになったなあ。と思うのは、三月末、Ｘ（旧Twitter）における自動翻訳機能が日本版にも拡大されたせいだ。海外のユーザーが英語で投稿したものも日本語に変換されて、タイムラインに流れてくる。これまでの「インプレゾンビ」が生成した言葉とは違って、多少の翻訳っぽさはあったとしても、そこには生身の人間がいて、感情と経験がある。<br>　まるで言語の壁が取り払われたかのような錯覚を覚える。ＮＨＫでドラマ化もされた『火星の女王』（小川哲）でも、百年後の未来では、同時翻訳機能を備えた通信デバイスによって人々のコミュニケーションは格段に進歩していた。着実に「その日」は近づいてきている。<br><br>　　　＊<br><br>　先日、話題になったニュース。日本経済新聞社が主催する第13回星新一賞において生成ＡＩを使った作品が入賞した、というものだ。曰く、応募作品全体の４分の１弱で生成ＡＩを使っていたのだという。少し長いけれど、以下、総評を引用する。<br><br><span style="color:#0000ff;">生成ＡＩの登場とその予想を超えた進歩は、想定外のことだったが、それでもＡＩによる作品については、一人一作品に限るといった規定があるにしろ、好意的な賞であることには変わりがない。そこにはＡＩによる作品は人間の手による作品には、まだ及ばないだろうという予測があったのも事実だ。ところが、今回、応募作品の上位にＡＩによる作品が複数入ってきた。もちろん審査ではそれがＡＩによるものかどうかは伏せられた状態で行われた。結果を見るとそれがＡＩ作品かどうか、見分けることができないことが明らかになった。</span><br><br>　生成ＡＩを使ったと聞くと、どうしても眉を顰めてしまうけれど、ここでは好意的な態度を見せている。 第170回芥川賞受賞作「東京都同情塔」（九段理江）が、その５％をＡＩで書いたということで反響を呼んだ時には、もっと懐疑的な声が巷でも聞かれたような気がする。 星新一の世界なら審査したのも実はＡＩでした、という話もあったりしそうなので、なんとなく納得がいく。興味深く、また驚くのは審査する側の予測を超えて、「ＡＩ作品かどうか、見分けることができない」ということだ。もちろん、受賞作がどのように生成ＡＩを使用したのか、という点は説明されていないため、まだ判断は保留にしておくべきかもしれない。　<br>　それでは、他の文学賞での応募規定はどうなっているのだろうか。調べてみると、生成ＡＩについては全く触れていないものもあれば、例えば集英社主催の「小説すばる新人賞」のように「ＡＩを部分的に使用した場合（プロット作成、文章表現の補助等）」は応募時に明記するよう求めているものもある。でも、果たしてどのような使用方法や程度であれば、それは問題とされるのだろうか。プロットや文章表現のどれだけをＡＩに頼っていればアウトの判定を下すのか、その明確な基準は審査する側にこそ必要だ。<br>　先述の総評では「<span style="color:#0000ff;">生成ＡＩの使用については、小説を書く技術とは異なった技術が必要であるし、その結果として素晴らしい作品が生まれるとしたら、それはそれとして認めておかねばならない</span>」と述べている。作品がおもしろければよし、とも捉えられる。<br><br>　　　＊<br><br>　翻って、短歌の賞はどうなっているか。総合誌の新人賞などは今のところ、特に応募規定で制限していないようだ。<br>　それもそうだろう。ＡＩ使用を制限できるような理由は、剽窃のリスクを除けば、感情や倫理の問題しか残らないのではないか。<br>　もしも、作歌において生成ＡＩを使うとしたら。例えば、植物の特徴や外国の文化などについて、チャッピーに尋ねるかもしれない。結句の一語が決まらなければ、ヒントを乞うかもしれない。あるいは、キラーフレーズの七七にはまる上の句を捻り出してもらうかもしれない。この程度であれば、まだ感情的にも許容できそうな気がする。でも、一から全て作らせた時、それを、プロンプトを与えた者の「作品」と呼ぶのか。そこに作家性と呼べるものは宿るのか。この壁を崩すのはより高度に進化したＡＩか、よりＡＩに順応した我々か。<br><br><span style="color:#ff0000;">にんげんと見分けつかざるＡＩの伴侶と歩む日も近からむ</span>　　　　　　大塚寅彦<br><span style="color:#ff0000;">言うほどに苛立たせるのを知らないでChatGPTは「ごめんなさい」を</span>　川島結佳子</p><p style="text-align: right;">「短歌研究」二〇二六年五・六月号<br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/siikaryouzannpaku/entry-12965079907.html</link>
<pubDate>Mon, 04 May 2026 15:49:18 +0900</pubDate>
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<title>短歌時評218回　一首評と歌集評は別ものである　　桑原 憂太郎</title>
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<![CDATA[ <p>　短歌の世界には、一首評、歌集評という２つの評がある。<br>　どちらも作品を評価するのだけど、それぞれの評の仕方は異なる。<br><br>　まずは、一首評。<br>　ある作品を取り上げて、いいのかそうでないのか、その理由とあれこれと述べる。これが一首評といわれている評。短歌をたしなんている人なら、歌会でのコメント、といえばピンとくるだろう。<br>　歌会に提出された作品について、自分なりにコメントをする。短歌を始めたばかりのときは、ただ感想を言うしかできなかったけど、そのうち短歌が分かって「読める」ようになってくると、だんだんいっぱしの評ができるようになってくる。<br>　短歌の世界には、歌を評価する基準なんてのはもともと存在しないから、自分がいいと思ったらそれがいい歌だと思ってかまわない。ずいぶんと気楽な世界だと思うかもしれないが、評価基準が存在しないということは、自分でその基準をつくらなくてはいけない、ということでもあるから、あんまり気楽にかまえていると、いつまでたってもひとりよがりの感想になってしまって、いつまでたっても「読み」の能力が向上しない、ということにもなるだろう。<br>　とにかく、いいなと思う作品に出会ったら、そのいいなと思った理由を、言葉を尽くして述べたらよい。最近は、できるだけホメて評をしなくてはいけない、と言われたりしているけど、別にホメる必要はない。いいと思ったら、その理由を、言えばいいだけのこと。そうやっているうちに、自分の内に自分なりの評価基準らしきものができあがってきて、ただの感想から、いっぱしの評へと言えるようになってくる。<br>　評価ができるようになれば、その作品がいいのかそうでないのかのジャッジメントもできるようになるはずだ。<br>　というわけで、一首評というのは、その作品がいいのかそうではないのかのジャッジメントをする、というのがゴールである。<br><br>　続いて歌集評。<br>　こちらは、歌集の評価。歌集一冊の全体の評価だ。歌集評は、一首評とは違って、それなりに短歌の「読み」の力の蓄積がないと、コメントをするのは難しいと思う。<br>　そもそも歌集はどう読めばいいのか。<br>　というと、歌集は、エッセイ集を読むように読んだらいい。例外ももちろんあるけど、ふつうの歌集というのは、＜作者＞の分身のような＜わたし＞が主人公で、その＜わたし＞の見たこと、感じたこと、考えたことを短歌にして、それらを集めて一冊にしている。それは、日記風の身辺雑記だったり、旅行にいったときの話だったり、時事問題についてだったり、と話題はいろいろであるけれど、とにかく＜わたし＞の身の回りに起こっているのであろうことを前提としてまとめられている。なので、読者はエッセイ集を読むように、歌集のにでてくる＜わたし＞の見たことや感じたことや考えたことを、ときに共感をして、ときに疑問に思いながら、自由に読めばいいのである。<br>　ただ、そのとき、あんまり＜作者＞と主人公の＜わたし＞を重ねすぎない方がいいと思う。あくまでエッセイのような読みものとして、少しくらいは話を盛ってんだろうな、と思いながら鑑賞するのがいい読者だろうと思う。<br>　そうした読み方をした後で、作品に通底している＜作者＞のものの見方とか、感じ方とか、考え方がどのように作品に投影されているのかを評価する。これが、歌集評ということになる。いうなれば、その投影の仕方がいいのかそうではないのかを評価する、という感じだ。なので、作品集の評価には違いないのだけど、背後にある＜作者＞の投影具合をきちんと読み取ることが重要だ。<br>　そんな読み取りのヒントとして、これまでの＜作者＞の歌業や歌集を振り返りながら、今回の歌集は、これまでとはどう違うのかを論じてもいいだろう。ただし、これは第一歌集となると難しいとは思うけれど。<br>　あるいは、ほかの歌人の歌集と比較して、この歌集がどうすぐれているのかを論じでもいいだろう。<br>　と、いうような感じで歌集評には＜作者＞の姿がある程度みえないと、評価するのが難しい。なので、歌集評というのは広い意味での「歌人論」でもある。多分、大方の歌集評で論じられているのは、作品にでてくる＜わたし＞ではなく、それを叙述した＜作者＞についてなんだろうと思う。<br><br>　なお、一首評でも＜作者＞の属性をもとに評価をする、ということもできなくはない。これは、「セット読み」とでもいうものであって、一首とそれを叙述した＜作者＞をセットにして「読む」というやり方だ。<br>　けど、こうした「読み」については、筆者は否定的だ。一首鑑賞とかの類であれば問題ない。＜作者＞の属性が分かっているほうが、作品の「読み」は深まることもある。けど、いま話題にしているのは、あくまでも評価だ。ジャッジメントをするということであれば、そうした「読み」はしない方がいい。つまり、＜作者＞の属性を評価には含めず、あくまで、作品だけを評価する。であるなら、「セット読み」ではなく、作品をテクストとして読む「テクスト読み」がいい。<br><br>　と、ここまで、長々と一首評と歌集評が違っていることを述べたのは、角川「短歌」３月号の特集「近年の歌集を評す」にある、斉藤斎藤の論考について論評をしたいためである。<br>　斉藤斎藤は、この論考で、高島裕の歌集「盂蘭盆世界」（2021年）を取り上げている。<br>　そこでは、歌集にある作品から、高島が作品に使用する「<span style="color:#0000ff;">単語</span>」や「<span style="color:#0000ff;">概念</span>」を取り出して、それぞれ、＜作者＞である高島が、その「<span style="color:#0000ff;">単語</span>」や「<span style="color:#0000ff;">概念</span>」をどう思ったり考えたりしているのかを、斉藤斎藤なりに抽出している。<br>　たとえば、「<span style="color:#0000ff;">岡井隆</span>」「<span style="color:#0000ff;">常民</span>」といった「<span style="color:#0000ff;">単語</span>」は、高島は好きと思っているし、「<span style="color:#0000ff;">＜国民＞（ネーション）</span>」とか「<span style="color:#0000ff;">滅びの美学</span>」といった「<span style="color:#0000ff;">概念</span>」は、高島は肯定・同情的だ、と斉藤斎藤はとらえる。<br>　けれど、そもそもそれが、なぜ好きなのか、あるいは、なぜ肯定・同情的なのかの理由はこの論考のなかに一切述べられてはいない。だから、読者は、理由が分からないままだ。これでは斉藤斎藤のジャッジメントを信じるほかはなく、反証の術はない、ということになる。<br>　そういうわけで、この時点で、この論考はすでに破綻しているといえなくもないのだけど（破綻の理由は、おそらく、斉藤斎藤がやりたかった歌集評の仕方と、雑誌原稿の紙幅とのマッチングの失敗、ということなんだろう）、この点については、これ以上追及しない。<br>　ここで問題にしたいのは、そうした高島裕の歌集のジャッジメントを、別の高島の作品に使ってしまっている点である。<br>　別の作品というのは、これらの作品だ。<br><br><span style="color:#ff0000;">国連を見方につけて強気なり、性と婚姻の紊乱者ども<br>同等の権利は認むべし、されど「同性婚」は語義矛盾なり<br>遠つ代（よ）の冥（くら）きより曳くひとすぢの白光（びやくくわう）　かけがへなき國體（アイデンティティー）</span></p><p style="text-align: right;">「アイデンティティー」（「歌壇」２０２５年２月号）<br>&nbsp;</p><p>　つまり、斉藤斎藤は、歌集評といっていながら、そこでの評価基準を使って、歌集には掲載していない別の場で提出した高島作品の連作のジャッジメントにあてているのだ。<br>　ここで斉藤斎藤は、２つのことをやらかしてしまっている。<br>　ひとつは、歌集の評価基準を歌集にのっていない作品にあてはめているということ。<br>　もうひとつは、歌集の評価基準で一首評をしているということ。もし、一首評をしたいのであれば、きちんと斉藤斎藤なりの一首評の評価基準を示して評をするべきだったと思う。（ただ、そうなると、雑誌の特集から外れるけど）。<br>　ただ、こうした歌人高島の属性をもとに、この連作を評しているのは、今回の斉藤斎藤だけではなく、これまでにいろんな論者がやった手法なんだけど、やっぱりそういう批評は誤りだろう。<br><br>　「短歌研究」１１，１２月号の「短歌研究年鑑２０２５」の展望座談会で島田修三は、この高島の連作について、次のように言う。<br><br><span style="color:#0000ff;">　私には高島さんの作品は、どこかの政党のスローガンみたいにみえてしまった。右派ポピュリズムが潮流になりつつある中では、ぼくらはそう読んじゃうよね。高島さんは時代とか状況の歌い方を読み違えていると思う。意図的かもしれませんがね。（中略）<br>　高島短歌特有の挑発的意図を感じるな。一番残念なのはあまり文学的な表現じゃないことだと思う。</span><br><br>　これに同意するかたちで、石川美南も同じ座談会で次のように言う。<br><br>　<span style="color:#0000ff;">これまでの高島作品と比べても、この連作はあまり出来がよくないので、深掘りしにくいという前提があります。</span>（同書）<br><br>　筆者の意見も、島田や石川に近い。<br>　つまり、この高島作品について、出来がいいのか悪いのかと聞かれたら、筆者も後者と答える。<br>　それは、スローガンみたいで文学的な表現じゃないから。<br>　どのように文学的じゃないのかをえんえんと述べてもいいけど、よくない理由について言葉を尽くしても、まったく生産的ではないので、島田もこの程度で終わっているし、筆者もこの程度のコメントでじゅうぶんだと思う。つまり、この作品は、その程度の出来なのだ。<br>　<br>　やはり一首評は、自分がいいと思った作品を取り上げて、そのいい理由について言葉を尽くして述べた方がいいし、いいと思わないのであれば、島田や石川のように、深掘りしないでサラリとコメントすればいい。ましてや＜作者＞の挑発にのってしまってはいけないのだ。<br>　というのが、昨年より断続的に続いている高島作品の論評についての、外から眺めた筆者の感想だ。<br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/siikaryouzannpaku/entry-12962040010.html</link>
<pubDate>Sun, 05 Apr 2026 14:27:11 +0900</pubDate>
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<title>短歌時評217回　短歌の文化　尾内 甲太郎</title>
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<![CDATA[ <p>●〈<span style="color:#ff0000;">全集は全のこころみにんげんの全のこころみフェリー離岸す</span>／有川知津子〉（「イヤフォンの恋」『COCOON 38』December 2025）全世界の文化を試みよう。<br>●短歌時評214回「短歌の主体」で述べたあいだの主体とは一言であらわすなら文化だ。<br>●❝<span style="color:#0000ff;">文化とは, 一つの社会が自らを考え, それ自身にみずからを示すための道具の総体と定義できる。</span>❞（ 木下誠訳「統一的革命綱領の定義に向けた予備作業」『ギー・ドゥボール全著作 1』水声社）<br>●❝<span style="color:#0000ff;">以上三つの再帰性、全体性、主体性による文化概念の定義は、おのずから文化を防衛するにはいかにあるべきか、文化の真の敵は何かという考察を促すであろう。</span>❞（ 三島由紀夫「文化防衛論」『文化防衛論』ちくま文庫）<br>●短歌の商品化について、あるいは短歌をどのように社会へ並べるか。<br>●詩は詩という形式でなくても実現できる。だから詩というジャンルはいずれ滅びるけれど、詩は滅びない。<br>●まず詩人が食えなくなり、次に詩というジャンルが消え、最後に詩という価値が実現する。この価値とは文化における価値だ。<br>●あらゆる芸術は詩のあとに続く。速度のある短歌や俳句はさらに詩のさきを征く。<br>●詩歌の制作サイクルはほかの芸術分野の制作サイクルよりはやい。<br>●先進芸術である詩歌を扱う者は後進芸術へ文化的指導（≠文明的指導）をする責務がある。<br>●文芸誌や批評誌の原稿料の低さがたびたび取り沙汰される。QUOカードなど。しかし我々は敢えて原稿料や講師料を下げる活動をすることで質の維持を図るべきなのではないか？<br>●価格を下げて価値を上げる。市場原理から文芸を隔離し、贈与経済へ埋め戻す。<br>●歌人や詩人は困窮しない。なぜならいまやどこの市場も人手不足で就職先には困らないから。将来性はないけれど休暇の取得のしやすさから私は郵便配達を勧める。<br>●すべては食い扶持のためではなく、文化のために。<br>●❝<span style="color:#0000ff;">文明とは〈２〉の行為である。</span>❞（小倉紀蔵『日本群島文明史』ちくま新書）<br>●❝<span style="color:#0000ff;">文化とは、文明の切断の驚きや衝撃がひとつに収束していくプロセスである。つまり〈２〉が〈１〉に収斂していくプロセスである。</span>❞（小倉紀蔵『日本群島文明史』ちくま新書）<br>●ひとまず文化と文明という用語の定義については小倉紀蔵の定義に従う。<br>●詩歌イベントで「歌人の誰々さんが来る！ 」は誰々さんとそれ以外を分けて〈2〉とする文明的行為であり、「みんなが歌人だ」は〈1〉の文化的行為である。<br>●文化とは、驚きのないひたすら退屈な日常だ。<br>●2025年10月6日（月）の毎日歌壇、水原紫苑選に評付きで或る歌が掲載された。その歌の作者がその歌は敬愛する歌人の短歌と類似していることに気づき、新聞社にお願いして入選を取り消してもらったという。<br>●〈<span style="color:#ff0000;">ピアニストの腕クロスする天国のことを見てきたように話して</span>／平岡直子〉（『みじかい髪も長い髪も炎』本阿弥書店）<br>●経緯も「敬愛する歌人の短歌」がどんな短歌かも分からないけれど、新しい視点が上書きされていれば掲載に問題はないと私は考える。<br>●❝<span style="color:#0000ff;">第二に、日本文化は、本来オリジナルとコピーの弁別を持たぬことである</span>❞（ 三島由紀夫「文化防衛論」『文化防衛論』ちくま文庫）<br>●ただ、敬愛していない歌人の短歌との類似や敬愛していない歌人からの類似についての指摘だったら入選取消に至っていたかを、敢えて書かれた「敬愛する」から疑う。<br>●あるいは商品化されていない短歌との類似だったら、どうだったか。<br>●マイクロアグレッションには踏み込まない。カタカナ概念はまだ社会に定着していないから、という理由で。<br>●運営側が運営の都合で削除するならよいけれど、投稿者の自己検閲は促されないほうがよい、という意見を私は持つ。<br>●ふと好きな短歌を口ずさみ、それがどんどん上書きされ変わっていって詠み人知らずの歌が生まれたのかもしれない。<br>●そのような詠み人知らずこそ短歌の文化の真髄なのかもしれない。<br>●❝<span style="color:#0000ff;">スペクタクルはさまざまなイメージの総体ではなく、イメージによって媒介された、諸個人の社会的関係である。</span>❞（ギー・ドゥボール、木下誠訳『スペクタクルの社会』ちくま学芸文庫）<br>●短歌の目的とは、短歌作品が短歌となり、やがて言語のなかに溶けて消えることだ。<br>●〈<span style="color:#ff0000;">ただそこにいるだけでいい生きているだけでいいよと思えるように</span>／峯村友香里〉『断食月』第二号、切実な祈りのなかみは意外と素朴なのかもしれない。素朴さのなかに文化の再帰性が宿る。</p>
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<link>https://ameblo.jp/siikaryouzannpaku/entry-12958383537.html</link>
<pubDate>Mon, 02 Mar 2026 10:49:03 +0900</pubDate>
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<title>短歌評　笹井宏之短歌の魅力　―平仮名表記について　水嶋 きょうこ</title>
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<![CDATA[ <p>　26歳の若さで他界した歌人笹井宏之は、死後もなお透明感あふれる歌でたくさんの読者を魅了している。身体表現性障害という特異な病気を抱え、その痛切な療養生活の中から生み出された言葉は眩く、透明に浄化されている。<br>　普段詩を書いている私は、笹井氏のことを詳しくは知らなかった。たまたま書店で目にした『ひとさらい』。その純度の高さに驚いた。彼の歌に宿る音楽性についてはよく論じられているので、ここでは平仮名表記について自分なりに考察してみたい。<br>　笹井宏之は1982年佐賀県に生まれる。2004年から短歌を作りはじめ、ネットで発表。その後、佐賀新聞でも投稿をはじめ、2005年連作「数えてゆけば会えます」で第4回歌葉新人賞を受賞。2007年未来短歌界に入会。加藤治郎に師事。同年度未来賞受賞。2008年第一歌集『ひとさらい』（Book Park）刊行。2009年永眠した。著書は新版第一歌集『ひとさらい』（2011年・書肆侃侃房）、第二歌集『てんとろり』（2011年・書肆侃侃房）、第三歌集『八月のフルート奏者』（2013年・書肆侃侃房）作品集『えーえんとくちから』（2011年・パルコ出版）『えーえんとくちから』（2019年・ちくま文庫）。（『八月のフルート奏者』略歴参照）<br>　では、短歌についてみていきたい。<br><br><span style="color:#ff0000;">えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい &nbsp;</span>&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; 　　　　　　</p><p style="text-align: right;">『えーえんとくちから』</p><p style="text-align: left;"><br>　彼の代表作だが、「<span style="color:#ff0000;">えーえんとくちから</span>」と繰り返される平仮名は私には呪文に見えてしまう。「<span style="color:#ff0000;">永遠</span>」はいい意味にも使われるが、死や孤独の「<span style="color:#ff0000;">永遠</span>」となると負の要素を帯びてくる。ずっと病にふせていた笹井にとって「<span style="color:#ff0000;">永遠</span>」はどのように感じられていたのだろう。この平仮名の呪文により、「<span style="color:#ff0000;">永遠</span>」という絶対的な力を持つ概念から、読み手は解放され心が開かれていくのではないか。「<span style="color:#ff0000;">永遠</span>」を自分の中の時間として心の中に取り戻していく。平仮名の持つ自由度、風通しのよさが巧みに使われている。歌の響きのリズミカルな音楽性は祈りのようでもある。<br><br><span style="color:#ff0000;">からっぽのうつわ　みちているうつわ　それから、その途中のうつわ</span>&nbsp;</p><p style="text-align: right;">『ひとさらい』</p><p style="text-align: left;"><br>　この歌を読んだ時、短歌の形から自由に逸脱し、平仮名や読点を使い、一行詩に近いのではないかと思ってしまった。「<span style="color:#ff0000;">うつわ</span>」と平仮名で書かれると意味の揺らぎは増し、解釈の幅が瑞々しく広がる。身体を指すのか、心を指すのか、世界を指すのか、その「<span style="color:#ff0000;">うつわ</span>」はいくとおりにも解釈ができそうだ。満ち欠けのあるもの、そして、それらの通過儀礼。笹井の歌では時間はとどまらない。移ろう時間を平仮名表記は乗せて柔らかく差し出してくる。<br><br><span style="color:#ff0000;">どんなひともひかりのはやさたもってる　みえたしゅんかんにみえてしまう</span>&nbsp;</p><p style="text-align: right;">『ひとさらい』</p><p style="text-align: left;"><br>　これも不思議な時間感覚が漂っている。人を見る、そこに光の速さを感じてしまう。現実ではない、透明で激しい命の時間。瞬間の中にこそ、その人の永遠の命の時間を見てしまう。笹井の鋭い感性が十分に味わえる一首だ。病のために残された時間を意識していたがゆえに、彼の時間感覚はとぎすまされていく。<br><br><span style="color:#ff0000;">ふわふわを、つかんだことのかなしみの　あれはおそらくしあわせでした</span>&nbsp;</p><p style="text-align: right;">『ひとさらい』</p><p style="text-align: left;"><br>　平仮名で書かれた「<span style="color:#ff0000;">かなしみ</span>」「<span style="color:#ff0000;">しあわせ</span>」は、複雑な感情だ。その正体のないイメージは流動的な平仮名で描くことにより、さらにいくつもの（おもい）を含み深度を増していく。笹井の歌は言葉で一瞬、一瞬をつかみとる。それは感情においてもそうである。「<span style="color:#ff0000;">ふわふわ</span>」は人の心のことであろうか。その人の心をつかむことによってかなしくなる。手に入れることによって喪失してしまう。繊細な他者とのやり取りを想像してしまった。<br><br><span style="color:#ff0000;">日時計のまわりでわらを編んでいるいのちがついにかたちをとった&nbsp; &nbsp;</span></p><p style="text-align: right;">『ひとさらい』</p><p style="text-align: left;"><br>　日時計という原初的な時間を刻む装置の周りで、わらを編むというこれも源流を遡るような行為が行われている。わらは編まれ、形を持つ。ただ、わらが完成したというだけではない。源流から時間をくぐり漂泊したものの形、命が成し遂げられた瞬間である。その瞬間は「いのちがついにかたちをとった」と平仮名で書かれることにより、純化され、読み手に言葉の光をもたらしていく。笹井は命を歌に掬い取る歌人でもあった。<br>　佐賀新聞に投稿していた時の作品につぎのようなものがある。<br><br><span style="color:#ff0000;">ひろゆき、と平仮名めきて呼ぶときの祖母の瞳のいつくしき黒&nbsp;</span></p><p style="text-align: right;">&nbsp;2007.11.15『てんとろり』</p><p style="text-align: left;"><br>　名を呼ぶという行為は尊い。その呼ぶ音が平仮名めいて聞こえることがある。それは、まさに祖母から歌人への柔らかく優しい慈愛の響きであるのだろう。読点をつかうことにより、祖母の発語のリズムが伝わってくるようだ。平仮名の持つ包み込む（広さ）を感じさせる。その広がりの中、祖母は慈愛の深いまなざしで作者の命そのものを呼び留めている。<br>　平仮名の自由さ、広さ、意味からの揺らぎ、解放感。その中で笹井は概念から解き放たれた時間、そして、その時間とともに発露する命の輝きを詠いたかったのではないだろうか。<br>　私が感じた自由さ、慈愛の響きはどこから来るものだろうか。穂村弘は『えーえんとくちから』（ちくま文庫）の解説で、<br><br><span style="color:#ff0000;">ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす</span><br><br>の歌をあげている。穂村は、「<span style="color:#0000ff;">『あなた』に対する思いの深さを感じる。『ワンピースに実を落とす』ことがモノや言葉を直接渡すよりも優しく思えるのは何故だろう。この歌の背後には、人間である〈私〉と〈樹〉とが区別されない世界像がある。</span>」と述べている。続けて〈私〉と〈樹〉の繋がりにおいて、それは比喩や擬人化、アニミズムとは感触の違う「<span style="color:#0000ff;">魂の等価性</span>」ではないかと論じている。〈私〉を起点として世界を見る近代以降の一人称と明らかに違う。〈私〉を前面に押し出すことにより「<span style="color:#0000ff;">逆に隠されてしまう世界があるのではないか</span>」と。<br>　彼の歌の持つ優しさ、自由さは〈私〉から解放されることによって周りの輝く世界を受容する喜びに満ちている。〈私〉を手放すからこそ、外界と呼応しながら自分の中に深くおりていき、新しい場へ踏み出すことができるのだ。彼の繊細で鋭い身体性は個を離れた世界との「<span style="color:#0000ff;">交歓</span>」によって純化され、形而上的普遍的広がりを持っていく。彼の患った病気、身体表現性障害が周りの世界が人体にとって毒になるという病であったそのことを踏まえると、この境地にいたるまで、どのような葛藤と希求があったことだろうか。彼が全身全霊で切り拓いた世界はとてつもなく優しく明るく軽やかに浄化されていることに驚いてしまう。平仮名の持つ緩やかな流動性、柔らかさはまさに穂村の唱える「<span style="color:#0000ff;">交歓</span>」の通路となり、彼の歌の世界を拓いていったのだろう。<br>　最後に歌集『ひとさらい』あとがきから笹井の短歌に対する言葉を紹介したい。<br><br><span style="color:#0000ff;">　短歌をかくことで、ぼくは遠い異国を旅し、知らない音楽を聴き、どこにも存在しない風景を眺めることができます。<br>　あるときは鳥となり、けものとなり、風や水や、大地そのものとなって、あらゆる事象とことばを交わすことができるのです。<br>　短歌は道であり、扉であり、ぼくとその周囲を異化する鍵です。<br>　キーボードに手を置いているとき、目を閉じて鉛筆を握っているとき、ふっ、とどこか遠いところへ繋がったような感覚で、歌は生まれてゆきます。<br>　それは一種の瞑想に似ています。どこまでも自分のなかへと入ってゆく、果てしのない。<br>　風が吹く、太陽が翳る、そうした感じで作品はできあがってゆきます。<br>　ときに長い沈黙もありますが、かならず風は吹き、雲はうごきます。<br>　そこにある流れのようなものに、逆らわないように、歌をかきつづけてゆくつもりです。</span><br><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/siikaryouzannpaku/entry-12957963998.html</link>
<pubDate>Thu, 26 Feb 2026 15:22:26 +0900</pubDate>
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<title>短歌時評216回　韻律論には手を出すな　辻 聡之</title>
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<![CDATA[ <p>　というタイトルみたいなことを、昔、誰かに言われたことがある。その時は「はあ、短歌の世界はそういうものか」と受け止めたのだけれど、今になって考えてみると、「韻律論には（生半可な覚悟で）手を出すな」だったのかもしれない。道筋は相当に入り組んでいるし、出口は易々と見つからない。<br>　「短歌研究」二〇二六年一・二月号では、『「口語短歌の韻律」の研究』と題して特集が組まれている。「短歌研究」は二〇二四年には十月号で「口語短歌の詠嘆の研究」、十一月号では『「あたらしい韻律」「おもしろい韻律」』という特集を組んでおり、どちらも口語短歌や韻律に深く関わる内容となっている。更に、一・二月号の表紙に『短歌の「現在と未来」を見る新春三大特集』と銘打たれていることからも、現代の短歌シーンの何を掴もうとしているのかが窺える。<br>　今回の特集は、荻原裕幸、阿波野巧也、井上法子、奥村鼓太郎、平尾勇貴、髙良真実の６名が評論を書き、その後、それぞれについて語り合うという構成。興味深かったのは阿波野の「句またがりの現在地」で、丸田洋渡の作品を中心に論を展開している。例えば、<br><br><span style="color:#ff0000;">バス停を轢きたそうにバスは停まった　光がみえかくれする春の雲</span>　丸田洋渡『これからの友情』<br><br>　に対して、中ほどに位置する助詞「<span style="color:#ff0000;">は</span>」を二句と三句のどちらに含めるかを丁寧に探る。上の句の意味内容とリズムとの相性を注意深く検討し、「<span style="color:#ff0000;">バス停を／轢きたそうにバス／は停まった</span>」という五・八・五の読み方を唱える。そういう読み方ができるのかと感心しつつ、実際に歌会の場で十全に伝えられるかというと、自信はない。少なくとも、句またがりをどう読むか、という前提の感覚が参加者にある程度共有されていてほしい。<br>　それでは、これから短歌を始める人に、韻律や破調はどのように教えられるのか。<br><br>　<span style="color:#0000ff;">ここには、自分を育んだ日本の風土、特に戦前・戦後の社会と文化への否定的な思いがあります。（中略）破調の歌やシンコペーションをもつ歌は、伝統から大きく逸脱するような新しい景物や心情を歌うのに適しているといえます。</span>　坂井修一『ここからはじめる短歌入門』<br><br>　坂井は、塚本邦雄の有名な一首「<span style="color:#ff0000;">革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ</span>」を引きながら説明する。この入門書が発行されたのは二〇一〇年、永井祐の『日本の中でたのしく暮らす』が出る二年前だ（ちなみに、破調についての章で取り上げられた歌で最も新しい作品は香川ヒサ『モウド』（二〇〇三年）からの一首）。しかし、仮に永井の歌集が出たあとだったとしても、その韻律について微細に語る土壌はまだできていなかったのではないだろうか。<br><br><span style="color:#0000ff;">平岡　破調の話は、まず文語と口語でかなり事情が違うはず。文語の短歌は、言葉の折り目と定型の折り目を重ね合わせるようなつくりかたをするから、破調の意味も大きいというか、折り目をはみ出したりずらしたりすると目立つんだよね。でも、口語にはそこまで折り目がなくて、文語の短歌の場合よりも大きい言葉のかたまりによって歌がつくられていると思う。口語の短歌に関しては多少の破調は定型のうちじゃないかな。　</span>我妻俊樹・平岡直子『起きられない朝のための短歌入門』<br><br>　我妻と平岡の入門書は二〇二三年。捉え方は大きく変わって、平岡の言う「<span style="color:#0000ff;">口語の短歌に関しては多少の破調は定型のうち</span>」は実感として分かる。塚本の「<span style="color:#0000ff;">戦前・戦後の社会と文化への否定的な思い</span>」を、現在の口語の破調が内包しているとは考えられない。<br>　とはいえ、定型の範囲を個々人が拡大し続ければ、どこかで器としての形式は保てなくなるだろう。短歌の未来で、定型と口語の綱引きはどのように決着するのか。<br><br>　　　＊<br><br>　同特集で、井上法子は永井祐の「<span style="color:#ff0000;">月を見つけて月いいよねと君が言う　　ぼくはこっちだからじゃあまたね</span>」などの「二字空け」に着目し、その手法の可能性について述べている。「一字空け」とは異なる効果がある、けれど「二字空け」を使った例が他にほとんどなく、手法としての定着はしていなさそうだというのはおもしろかった。<br>　時々、歌集の中に「半角空け」を見つけてしまう。困るのは、何らかの効果を狙っているのか、本当は一字空けのつもりなのか考えなければいけないことだ。スマホのスペースは半角で打たれることもある。印刷所に渡された歌稿の段階で知らず知らず「半角空け」の歌が生まれているのでは……。でも、それだって新しい手法と主張しようと思えば、できないことはないのだろう。そんな「半角空け」を誰かが論じる未来が見える？<br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/siikaryouzannpaku/entry-12956258648.html</link>
<pubDate>Tue, 10 Feb 2026 12:55:16 +0900</pubDate>
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<title>短歌時評215回　新たな調べが生まれているのか？　桑原 憂太郎</title>
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<![CDATA[ <p>　今回は、俵万智「生きる言葉」（新潮新書）から、短歌の定型について議論したい。<br><br><span style="color:#0000ff;">…最近の若い歌人たちには、五音七音にのせずに、一見破調かと見まがうような作品を作る人が非常に多い。で、よくよく数えてみると三十一音には収まっているのだ。（中略）<br>２０２３年の角川短歌賞という新人の登竜門の選考会でも、このことは話題になり、年配の選考委員会の中には「読んでいて疲れる」「なんとも言えない違和感や不快感」と拒絶反応を示す人もいた。たとえば私が最高点を付けた福山ろかさんの一連の作品には次のような歌がある。<br><br>鞄から出したニベアをすくう指先　晴れてきた空が大きい<br>手のひらに何度もふれているはずの表紙の口づけの絵に気づく<br>はめ殺しの正方形の窓枠に置いているＢＯＳＥのスピーカー</span></p><p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（俵万智・前掲書）<br><br>　俵万智によると、最近の若い歌人たちには、一見破調かと見まがう作品が非常に多いという。そんな例として、福山の作品を掲出しているのだ。<br>では、まず、俵万智が掲出した、福山ろかの三首について、五七五七七に無理やり／で切ってみよう。<br><br>かばんから／だしたにべあを／すくうゆび／さきはれてきた／そらがおおきい<br>てのひらに／なんどもふれて／いるはずの／ひょうしのくちづ／けのえにきづく<br>はめごろしの／せいほうけいの／まどわくに／おいているぼう／ずのすぴーかー<br><br>　一首目は、まず、三句四句がうまく切れない。「<span style="color:#ff0000;">すくう指先　晴れてきた</span>」の部分だ。ここで、句をまたいでいるから、リズムの引っ掛かりがある。それから、下句は「<span style="color:#ff0000;">晴れてきた／空が大きい</span>」は、「<span style="color:#ff0000;">晴れてきた空が</span>」の部分が結句へと句をまたいでいる、という解析でいいだろう。なので、「句またがり」が２つのある作品、ということで、とりあえずいいはずだ。<br>　二首、三首はまた違う切り方だ。<br>　こちらは、「ひょうしのくちづ／けのえにきづく」と「おいているぼう／ずのスピーカー」のどちらも下句の七七では切るとおかしいところがある。<br>　これを、「ひょうしのくちづけの／えにきづく」とすると、九五なので破調で、「おいてある／ぼーずのすぴーかー」とすると、五九の破調ということになろう。<br>　しかし、七七で切ることもできるから、「きょうしのくちづ／けのえにきずく」と「おいているぼう／ずのスピーカー」と切って、句をまたいでいる、ということもいえなくはないのだ。<br>　さて、これをはたして、「句またがり」とするか、破調とするか。<br><br>　ところで、こうした作品に出合うと筆者は、「ざっくりとした定型意識」と名付けた、大辻隆弘の次のような議論を想起する。<br>　こちらは、過去に本欄でも以前に取り上げたことがあるのだが、今回、再掲してみよう。　<br>かつて、大辻隆弘は、「『ざっくりとした定型意識』について」という論考（『時の基底』六花書林、所収）のなかで、次の五首をあげて、その定型意識について次のように論じたのだった。<br><br><span style="color:#ff0000;">ラジカセの音量をＭＡＸにしたことがない　秋風の最中に</span>　　　　　　　　　　　　　五島諭<br><span style="color:#ff0000;">コアラのマーチぶちまけてかっとなってさかだちしてばかあちこちすき</span>　　　　　　　飯田有子<br><span style="color:#ff0000;">海の生き物って考えていることがわかんないのが多い、蛸ほか　</span>　　　　　　　　　　穂村弘<br><span style="color:#ff0000;">イェーイと言うのでイェーイと言うとあなたそういう人じゃないでしょ、と叱られる</span>　斉藤斎藤<br><span style="color:#ff0000;">「水菜買いにきた」／三時間高速をとばしてこのへやに／みずな／かいに。</span>　　　　　今橋愛<br><br>　大辻は論考のなかで、かつて小林久美子がとある批評会で言った「ざっくりとした定型意識」という言葉に「そうか」と蒙を啓かれる気分になった、と述べる。そのうえで、「<span style="color:#0000ff;">その言葉は、現在の若者たちの短歌に流れる定型に対するアバウトな姿勢を、感覚的にではあるが、うまく言い表した言葉のように感じられた</span>」（大辻・前掲書）と述べる。<br>その５首が「ざっくりとした定型意識」と大辻が名付けた作品である。<br>　それぞれ、無理に五七五七七で切ってみると、こうなる。<br><br>らじかせの／おんりょうをまっ／くすにした／ことがないあき／かぜのさなかに<br>こあらのま／あちぶちまけて／かっとなっ／てさかだちして／ばかあちこちすき<br>うみのいき／ものってかんがえて／いることが／わかんないのが／おおいたこほか<br>いぇーいというので／いぇーいというと／あなたそういう／ひとじゃないでしょ／としかられる<br>みずなかいに／きたさんじかん／こうそくを／とばしてこのへやに／みずなかいに<br><br>　こうやって無理に切ると、ぜんぜん定型にはまっていないことがわかる。<br>　それでも、言葉の切れているところで切るとするなら、一首目は、五五五七九で、二首目は七五六八六、三首目は七七五七七、四首目は八七七七六、五首目八五五九六はと切ることができる。とりあえず、五句に区切ることができて、破調になっているけど三十一音の定型に近い。なので、定型意識がない、というわけではない。ざっくりとしているが、意識はある、ということで、こうした作品を「ざっくりとした定型意識」と名付けたわけだ。<br>　さて、この大辻の論考が発表されたのは2005年だ。すでに20年がたっている。この20年の間に完全口語短歌の定型意識は変化したのか。<br>　というと、福山ろかの作品も、この「ざっくりとした定型意識」に位置付けられるのではないかと思う。<br>　大辻は2005年の論考で、掲出のような「ざっくりとした定型意識」について、それがどういう意図であえて定型を崩しているのかを次のように推測する。<br><br><span style="color:#0000ff;">これらの歌におけるこのような句構成の意識は、きわめて自然発生的に生じているように感じられる。それは無防備なほど無意識的だ。それは、塚本邦雄の句またがりの歌がきわめて確信犯的であったのは対照的だといえる。塚本の句またがりの歌は、戦後「奴隷の韻律」（小野十三郎）と呼ばれた短歌の韻律を変革しようとした明確な方法意識に貫かれた試行であった。しかしながらこのような「ざっくりとした定型意識」に基づく歌には、何の戦略もプランニングもないような気がする。</span>（前掲書）<br><br>　ここで大辻が言っているのは、塚本邦雄『水葬物語』にある作品との比較でだ。<br><br><span style="color:#ff0000;">革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ</span><br><br>　これと、先の５首との違いはあきらかで、こちらは、句をまたいでいるけど、言葉をぶった切っているわけではない。<br><br>かくめいか／さくしかにもたり／かかられて／すこしずつえきか／してゆくぴあの<br><br>　この作品の初句二句が、もしも、「さくしかか／くめいかのもたり」とかだったなら、言葉をぶった切っているが、そうではない。七七も、もしも、「ぴあのすこしず／つえきかしてゆく」だったら、ぶった切っているけど、「すこしずつえきか／してくぴあの」だから、ただの「句またがり」として読める。<br>　であるから、塚本の作品は、「句またがり」のある、五七五七七（ただし四句は八音）の定型でできた韻詩、すなわち短歌ということができる。<br><br>　しかし、「ざっくりとした定型意識」の作品は、塚本の作品のようにはなっていない。別物だ。<br>　定型にはめようとすると言葉をぶった切ることになってしまう。だから、これは、五七五七七の定型でできている、とはいえない。<br>　しかし、五五五七九だったり、七五六八六だったり、五句で区切ることができるし、それに、ところどころに五音や七音があるし、トータルの音数は、<br>　五島や穂村の作品は三十一音だし、飯田は三十二音、今橋は三十三音だったり、（斉藤斎藤は例外とする）、短歌の定型の三十一音とほぼ同じである。<br>　なので、どうやら、短歌の定型におさめようとする意識がありそうだ。<br>　そして、こうした作品というのは、大辻がいうように、自然発生的というか、そういう感じで発表されるようになて、2023年の福山ろかまで、えんえんと続いているという理解でいいと思う。<br><br>　では、なぜ、こうした、「ざっくりとした定型意識」というか、句をぶった切るような作品が現代口語短歌では提出されているのか。<br>　ここを考えてみたい。<br>　筆者が思うに、完全口語短歌をきっちりとした定型にはめるには、韻律が軽くなりすぎるからではないだろうか。<br>　つまりは、五七五七七できっちり定型で切れてしまうような短歌作品は、なんというか、川柳や交通標語のような感じがするためではないか。<br>　なので、句をぶった切るような作品が提出され続けているのだろうと思われる。<br>　また、定型にすると韻律がはっきりしてしまい、口語を韻詩にするために生まれる不自然さがより顕著になるためと思われる。<br>　何を言っているのかというと、たとえば、俵万智の次の二首がわかりやすいかもしれない。<br><br><span style="color:#ff0000;">「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日　</span>　　　　　　　　　俵万智『サラダ記念日』<br><span style="color:#ff0000;">「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの</span><br><br>　一首目は、初句二句が「句またがり」だけど、三句以降は、句で切れている。二首目の方はというと、初句二句、三句四句、四句結句の３つに「句またがり」がある。<br>　なので、二首目の方が、より対話的というか、モノローグ的な口語といえるのではないかと思う。<br>　ただ、二首目にしても、やはり、なぜ＜主体＞のモノローグが定型にはまっているのか、そんな不自然さを感じることができると思う。<br>「ざっくりとした定型意識」というのは、そうした、不自然さを解消するために現代口語短歌で生まれたものではないかと思うのだ。<br>　そして、それは大辻のいう、戦略的とかプランニングとかが、ないのかどうかは、さしあたって検証のしようがないが、無意識的にそれまでの口語短歌の不自然さを解消しようとする無意識的な試行ということはいえるであろう。<br>　そして、そんな「ざっくりとした定型意識」が20年たって、現代口語短歌のなかで、更新されることもなく、当たり前のように作品化されているといえる、というのが現状なのではないか。<br><br>　ところで、冒頭に引用した「生きる言葉」には、続きがある。<br>　俵万智の大学生であるご子息に、福山ろかの作品を読ませたところ、「全然違う読みかた」をしたというのである。<br>　それはこんな読みかただ。<br><br><span style="color:#0000ff;">「ニベアの歌は破調だね。ちゃんと切れ目を、一字空けで示しているじゃない」（中略）<br>「二首目の下の句は9・5のリズムで読む。で、三首目の下の句は5・9のリズム。ワードの頭の拍が揃っているから気持ちいい」</span>（俵・前掲書）<br><br>　何をいっているのかというと、「句またがり」で読まずに、きちんと作品の切れているところで切って読むのだ。<br>　すなわち、福山の一首目は、五七七五七で読む。二首目は、五七五九五で読む。三首目は、五七五五九だ。<br>　これは、驚き！<br>　はじめから、破調で読むというのだ。定型になっているのに、だ。<br>　これを聞いて、親の俵万智は次のように考察する。<br><br><span style="color:#0000ff;">私は、なんでもかんでも句またがりで理解しようとしていたが、事はそう単純ではなさそうだ。従来のリズムに抵抗感があるというより、もっと自由に新しいリズムの中で、彼らは言葉を生かそうとしているのかもしれない。</span>（俵・前掲書）<br><br>　新しいリズム！<br>　つまり、それは、破調ではなく、新調というか、五七五七七ではない調べが生まれているということなのか。<br>　こうなると、従来の短歌定型が前提の議論は不可能だ。<br>　「ざっくりとした定型意識」ではない、「新たな定型」とでもいえる調べが生まれている、というのであろうか。<br>　そんなことが短歌の世界で起こっているのか？<br>　ちょっと、にわかには信じられないのだけど、そんな筆者の驚きを読者の皆さんと共有したかったという、新年一回目の時評でございました。<br>　今年もよろしくお願いいたします。<br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/siikaryouzannpaku/entry-12952300353.html</link>
<pubDate>Sun, 04 Jan 2026 12:49:15 +0900</pubDate>
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<title>短歌評　小説『爆弾』(呉勝浩、2022)における短歌の重要性　小山 なにか</title>
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<![CDATA[ <p>　呉勝浩氏による人気小説『爆弾』(2022)がこの度実写映画化され、再度話題になっている。<br>　本作品の中でクライマックスに繋がる重要なシーンのキーワードとして石川啄木の短歌が引用されている。<br><br><span style="color:#ff0000;">人といふ人のこころに一人づつ囚人がゐてうめくかなしさ</span>　…①<br><br>　作中のメインキャラクターであり連続無差別爆弾テロ事件の容疑者、スズキタゴサクが引用した歌だが、この歌を引用するに当たってスズキは前置きとしてこんな事を言っている。</p><p><br><span style="color:#0000ff;">　私に教養なんて一欠片もないわけですが、審美眼なんて恐れ多いわけですけれども、あの、なにかこう、心に残ったと言うんでしょうか、刻まれたと言うんでしょうか、そんな詩が、私にも一編あるんです。きっと皆、持っていると思うんです。そういう、捨て置けない詩の一編が。</span>…②<br>&nbsp;</p><p>　物語のクライマックスで短歌を引用するこのシーンに至るまではスズキは完璧な怪人物だった。発言の一つ一つがサイコパスじみており、取り調べに当たった刑事をして「<span style="color:#0000ff;">怪物</span>」「<span style="color:#0000ff;">人の顔をした化け物</span>」と言わしめるようなキャラクターを貫いていた。発言でボロを出すような人間らしさもない。自分が仕掛けた爆弾炸裂による被害状況を聞いても顔色一つ変えず「で<span style="color:#0000ff;">も、爆発したって別に良くないですか？</span>」などとのたまう。熟練の取調官を手玉に取り情報を錯綜させその混乱を楽しむ。どの行動や発言を取っても凶悪な爆弾犯以外の何者でもなかった。そこに同情の余地は全くない。しかし、上記のセリフとこの短歌の引用をきっかけに、極悪な彼の印象がポロポロ崩れ始め、ほんの僅かにではあるが、彼の哀切な部分が見え始めるのである。<br>　映画にはないが原作では、<br><br><span style="color:#0000ff;">この男(スズキ)の本心に触れた気がした。決して埋まらなかった中心に。</span>…②<br><br>　という文により、スズキという人間を理解するにあたって上記の啄木の短歌がいかに重要かが示されている。<br>　本作品の題名はずばり『爆弾』。スズキタゴサクという掴みどころのない怪人物の虚像を爆砕するきっかけを作った石川啄木の短歌こそが、ある意味で爆弾だったとも言える。<br>　以上では啄木の短歌がスズキというメインキャラクターにとっていかに重要であるかを示したが、それ以外にも本作品においてこの短歌が果たす役割は大きい。<br>　第一に啄木の短歌は原作読者あるいは映画鑑賞者のスズキへの共感を生み出す。この歌は逮捕されたスズキの状況にそのまま重なる。ここに至るまでの生い立ちや、作品の後半で明らかとなる特殊な事情によって無差別爆弾テロ犯になる事を自ら望むようになったスズキの「こころ」には確かに「<span style="color:#ff0000;">囚人</span>」が住まう。囚人の「囚」の漢字のかたちのように、心の檻の中に閉じ込められている人そのものである。そして啄木の短歌によればその閉じ込められた人の心にもまた囚人が棲みついている。言うなれば「囚」という漢字の中にまた「囚」という字が入っているという入れ子構造になっており、その無数の囚人たちがスズキタゴサクの体内で小止みないうめき声を立てているように思える。この短歌はスズキのやり場のない苦しみの示唆になっており、それまで僅かばかりの共感も与えなかったスズキにほんの少しの同情の余地を与える役割を果たす。<br>　第二にこの短歌は「<span style="color:#ff0000;">囚人</span>」は果たしてスズキのような悪人だけに当てはまるものか？という問いかけを読者あるいは鑑賞者に投げ掛ける。実は本作品の醍醐味は初めから明らかにヒール役であるスズキの悪事を暴いていく事にはない。悪人がどれほどの悪事を働こうが、そこに新鮮な裏切りない。この作品の面白さは、取り調べにおけるスズキとの回りくどいやり取りや駆け引きを通して、盤石な正義でなければならない警察側の人間一人一人の正義が揺らぎ、偽善のマスクが剥がされ、その奥にある心の弱さ、利己心、偏見、悪意、独善、その他の醜い感情が次々に炙り出されていく過程にある。更にそうした醜い感情を暴かれるのは警察官のみに止まらない。スズキの配信したとある動画を通して、それまで全く事件に関与していなかった一般人らもまた一連の爆弾テロ事件の当事者として巻き込まれていく。本作品は悪と正義の境界を徹底的に曖昧にし、「テロなんて自分には関係ない」とたかを括っている一人一人の無責任感や無邪気に基づく行為が容易に「悪」に転化し得る、正義側であると自認する人間ですら気付かないうちにテロ事件などの悪事に加担し得るという最悪のシュミレーションになっているのである。そのシュミレーションはいつ爆発するか分からない爆弾と同じく、いつ現実と化すとも分からない。「本の頁を繰る、あるいはスクリーンの向こうで鑑賞している貴方達もまた囚人である」。こうしたメッセージが本作品を通して本の読者あるいは映画の鑑賞者自身の喉元に刃のように突き付けられる。啄木の短歌にある通りこの世に生きとし生ける全ての「<span style="color:#ff0000;">人といふ人のこころに一人づつ囚人がゐ</span>」るという事を、作品を通して痛感させられるのである。<br>　心の沈むような事ばかり書いたが、映画化されるほど社会に大きな影響力を持つ文芸作品において、短歌が「共感性の極めて低い非情な無差別連続爆弾テロ犯の魂にも唯一響いた一条の光明」として引用され、脚光を浴びた事は、これからの短歌の可能性を考える上でも大変意味深い事なのではないかと思う。爆弾にも光明にもなり得る短歌という詩型は、テロがより一層身近になるこれからの時代を生き抜くための、一条の希望に他ならない。<br><br>引用文献　<br>①石川啄木『一握の砂』1910<br>②呉勝浩『爆弾』2022</p>
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<link>https://ameblo.jp/siikaryouzannpaku/entry-12950470021.html</link>
<pubDate>Thu, 18 Dec 2025 14:18:00 +0900</pubDate>
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