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<title>シルクロードのブログ</title>
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<title>冬休み課題</title>
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<![CDATA[ （１）<br>　何かが存在するという知識を経験的知識という。幸福は悲惨より、知識は無知より、好意は悪意より望ましいと判断は、あるものが存在する、しないという事実によってそのため、論理的原理は経験的に証明できない。<br><br>（２）<br>　経験論者はすべての知識は経験によって生じると述べている。ラッセルは知識はすべて経験によって生じ、経験を原因とすることは妥当な主張であると考えている。又、他のいくつかの経験の助けを得ない限り、直接経験していないものが存在すると知ることはできないという考え方も妥当である。<br>　逆に、経験論の限界はすべてが経験によって生じるという考えにおいては、幸福は悲惨より、知識は無知より、好意は悪意より望ましいという判断は説明できないということである。<br>　一方、合理主義者は人は皆経験的知識の他に生まれた時から持っている生得観念が存在するというバカバカしい主張したとラッセルは述べている。「Aが存在するならばBも存在する」という演繹を用いて何が存在しなければならないかを演繹できると信じていたが、「何かが存在するならば」という経験に基づいた知識に依存せざるを得ない。これが合理主義者の限界である。<br><br>（３）<br>個別事例はいずれも原理の典型例として理解される。つまり、個別事例は必然性を持つ。現実的であろうと可能的であろうとすべてのものが従うべき必然的な事柄なのだ。　２＋２＝５となる世界が存在したのならば、知識体系の全体が覆され、五里霧中の状態に投げ込まれてしまう。一方、経験的一般化はただの事実にすぎないため、どんなに立証されていても必然的でない。『ガリバー旅行記』の不死のストルドブラグ人のことを想像するように誘いかけるとき読者は黙ってそれに従うことができる。それ故、一般的経験は個別事例より不確かである。<br>（４）<br>　一般命題の意味を明確にするためには普通はいくつかの個別事例が必要である。<br>　単純な論理的判断を下すときは個別事例から推論することなく、一般命題を知ることができる。「ブラウンとジョーンズが二人」で「ロビンソンとスミス」が二人で「２＋２＝４」なので「ブラウン、ジョーンズ、ロビンソンとスミスが四人であるという演繹において彼らは４人であるということを語っているが、一般命題は前者について決して語らず、後者が「ブラウン、ジョーンズ、ロビンソンとスミス」という前提は語らない。一方、経験的一般化は必然性のないただの事実にすぎない。<br>　「すべての人は死ぬ」という経験的一般化に使用する事柄を一般命題として経由して演繹するのは馬鹿げている。単純に帰納的に論じた方がよい。<br><br>（５）<br>「はげた人は人である」とか「平面図形は平面だ」、あるいは「下手な詩人は詩人だ」などは純粋に分析的に判断を下している。つまり、分析的と言われるものは主語を分析するだけで述語が得られる。「はげた人ははげていない」と言うと、はげていることを肯定すると同時に否定しており自己矛盾を生じさせてしまう。「７＋５＝１２」という数学の命題は総合的である。１２の中に７にも５にも足し合わせるという概念にも１２は含まれていない。<br>（６）<br>ラッセルがカントを批判する第一の点は、色や堅さなどは対象から与えられているという点である。ラッセルはそのことに関して、時間と空間の内で素材を並べ、又センスデータと素材との間のすべての関係をもたらすとして批判している。<br>批判する第二の点は、カントの方法ではアプリオリな知識の問題を取り扱おうとする試みにとって致命的であることである。事実はすべて算術と論理に従うということの確実性であった。しかし、論理学と数学が私たちに由来するとしても、この確実性は説明されない。何故なら私たちの本性も現実世界の事実であり、それが一定であり続けるという保証は何もないからである。
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<pubDate>Mon, 07 Jan 2013 19:22:56 +0900</pubDate>
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<title>課題</title>
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<![CDATA[ 一、ラッセルは実在と現象をどのように区別しているか<br>「実在」とは「どのようであるのか」、「現象」とは「どのように見えるのか」であるとラッセルは述べている。つまり、「現象」はある一つの条件下、物体、観察者、光などの加減によって知覚できるものである。例えば、テーブルが茶色いというのも、真っ暗闇の中で確かに存在する筈のテーブルを見ようとしてもそれを「色」を捉えることができない。つまり、我々が目で捉えられるのは「現象で」ある。<br>　それに対し、「実在」は目に見えないものである。私たちはみな、ものの実在について判断する習慣を身につけている。それを余りにも無反省に判断するため、自分は本当の形を実際に見ていると考えてしまう。見えてる形から「実在の」形を作り上げるように経験が教えて来たのであり、生活の中で関心のもたれるのも「実在の」形のほうである。センスデータとは、色、匂い、硬さ、手触りなどのことである。それは、そっくりそのままがテーブルの性質であるとは言うことができない。つまり、センスデータをセンスデータたらしめめているのは五感であり、我々人間が存在しなければセンスデータは存在し得ないのである。だが、例え人が一秒後に世界から消えてしまってもテーブルの「実在」は変わらずに存在する。バークリ正僧は「実在」のテーブルを神の心の中の観念であるとし、ライプニッツは多少発達していない心の集りだとしている。彼らは実在のテーブルは存在するかという問に対しては頷くが、それがどんな対象であるかという段になると常人からかけ離れたトンデモ珍回答をする。つまり、私たちが直接見ているのが「現象」であり、それを私たちは背後にある何らかの「実在」の記号だと信じているのである。しかし、実在が見えないのであればのであれば、そもそも実在の有無を知る手立てがあるのか。これに関する答えが奇妙なものでも否正しくないということを示すことはできない。「実在」を我々が捉えることができない現在、テーブルは「実在」は存在しないのではないかという疑いが生じて来る。<br>二、「自分とその経験以外のものが存在していることは、ある意味では、決して証明できない。」にもかかわらずラッセルが最終的にそれを受入れる理由<br>　私自身とその考え、感情、感覚から世界が成り立っており、それ以外はすべて幻にすぎないと仮に存在したとしてもそこから論理的な不都合は帰結しない。普通センスデータからは対応する物的対象が推論されるが、夢のセンスデータはこの対応を待たずに現れるということが分かったということだ。確かに夢のセンスデータにも物的な原因が見つかるが、夢の中で起こった事項に関して現実で起こった事項と同じように対応する物的対象は存在しない。人生全体が夢であり、その中で会う対象はすべて自分が作り出したものだと想定することは、論理的に行って不可能ではない。しかし、それを正しいと規定することもできないのである。物的対象が本当にあることを想定することで、どう単純になるのか理解するのは簡単だ。猫が部屋の隅にいたとして暫くした後に別の部屋の隅で見かけたら普通は移動したことと考えるだろう。しかし、自分の経験と自分しか存在していないという考え、つまり猫がセンスデータの塊と考えると突然別の墨に猫が出現したことになる。ラッセルが見ていようがいまいが猫が存在するとすれば猫がその間にどのように腹を空かせるかについて、自分の経験から容易く理解できる。しかし、見ていない間存在しないとすると、「存在しないにもかかわらず、その間に、存在している時と同じ早さで食欲がわいている」<br>というおかしな状況になる。この場合、猫がセンスデータであったとすれば、猫の見せる空腹の表情は色編の移動でしかない。人間の場合いも、自分の考えや感じを相手の仕草に結びつけずにいることは難しい。勿論夢の中でも同様のことが起こり、そこに実際に人がいると感じることもあるが、これは起きている間の事柄に影響されているだけである。
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<pubDate>Tue, 13 Nov 2012 10:09:18 +0900</pubDate>
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<title>『哲学入門』バートランド・ラッセル「理性的な人なら誰にでも疑えない確実な知識」について書き抜き</title>
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<![CDATA[ 望まれてる多くの問いを立てることで、世界に対する興味をかき立て、日々の生活のごくごくありふれたもののすぐ裏側に、不可思議と脅威が潜んでいることを示すのである。
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<pubDate>Mon, 22 Oct 2012 22:45:16 +0900</pubDate>
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<title>企画書改案</title>
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<![CDATA[ ファンタジーノベル企画書<br><br>タイトル：祓い屋奮闘記<br><br>テーマ：仕事に生きるって素晴らしい<br><br>対象：中高生（仕事に関する意識をもち、且つ、仕事ということに新鮮味を感じる世代）<br><br>ジャンル：スチームパンク<br><br>セールスポイント<br>1,退廃的な世界。恐怖と戦いながら人々は強く生きる。<br>2,銃と剣と魔法の世界<br>3,様々な異形のものたち<br><br>世界観<br>　<br>　古代、人々が死者の世界の扉を開いて2800年が経った。しかし、死者の世界から漂い出た邪悪な霧は生態系に影響を与え続け人々の生活を脅かし続けている。そこで職業として画一したのが祓い屋である。<br>　舞台は近代のロンドンのような都市、ロンスボンである。教会によって運営されている。大陸の中心にあって４つの地形も文化も異なる地域に分かれている。そこには様々な民族や種族が住んでいるため多民族都市国家になっている。<br>　市街と郊外の二つに別れている。教会の管理する市街で職に就くためには資格が必要だが、郊外では自由に職に就ける。市街で職につくものは法律でギルドに所属しなければならない。<br>　祓い屋にもギルドが存在する。国家資格を持つ祓い屋が所属し、主人公たちも所属している。懸賞金の一括管理を行なっている。<br>　それに対し、教会に所属する浄化組織。治安維持組織の下位に存在する。祓い屋と敵対している組織で、エクソシストの中には祓い屋をバカにするものも多い。<br><br>キャラクター設定<br>ティファ<br>　13歳のエルフの少女。スラム街で浮浪児として１３歳まで育ったため世間を知らない。エルフの体質である金属アレルギーのため都市で働く事は難しいが飴色の髪をしている。<br>最初はジャリルたちを信頼していなかったが、だんだんと天真爛漫な態度を見せるようになる。<br>ジャリルに気があるが本人は気づいていない。<br><br>ジャリル・ラヒーム・アッラシード<br>　17歳のダンピールの青年。吸血鬼から生まれたところを所長に拾われ育てられた孤児。<br>性格は冷静沈着であるが、言葉づかいがガサツであったり、皮肉屋であるところから猪突猛進タイプであると見られやすい。<br>ただし、近くに孤児が目に入ると、自分のみを危険に晒してまで守ろうとする（これは自分の過去と重ね合せているため。）<br>2丁拳銃の使い手。<br><br>フィリップ・ケンブリッジ<br>　22歳ロンスボン大学に所属しないフリーランスの科学者。<br>　教会の登録職業は祓い屋だが、瀬川邸で引きこもり研究を行っている。様々な発明品を作ることでジャリルのサポートをしている男。科学者の息子だが、両親に実験台にされそうになったところ瀬川に助けられた。両親顔負けの科学の知識を持つが、若干、自傷思考があり、自分を実験台に使うこともある。<br><br>あらすじ<br>　主人公、エルフの孤児のティファは，ダンピールの青年ジャリルに拾われ祓い屋として働く事になる。世間知らずなティファであったが，段々と働くことを通して社会について様々な事を学んでゆく。<br>　起承転結<br>　起：ティファとジャリルが出会い、ティファが事務所にやって来る。<br>　承：仕事を貰いにいく。とった仕事がティファに縁のある人が吸血鬼化されていることをとジャリルは知る<br>　転：ティファ、初仕事。エクソシストの妨害にあって巧く進まない。<br>　結：仕事を達成。達成感とともに、ティファの縁の人を助けられなかった悲しみを味わう。仕事のつらさに直面する。<br>　<br><br><br>
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<pubDate>Wed, 25 Jul 2012 02:56:26 +0900</pubDate>
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<title>論文の書き方全体要約（改２）</title>
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<![CDATA[ 　ラジオが現れた。テレビが現れた。筆者は映像の時代への顧慮から原著を書き記している。筆者が、此処で述べようとしている事はどのように書き、考えるかというルールである。これは、今日に至るまで普遍的に存在し続けていることである。映像の時代が現れ、文章は抽象的な観念と未来に関する出来事を中心とするようになったと筆者はいう。だからより一層、文章の書き方について注意を払わねばならない。<br>　論文を書く上で注意を払わなければならない事。<br>　まず主語がハッキリし、肯定か否定かがハッキリした文章を書くということである。それは、本人が責任を負うということであり、差し障りのある文章を書く ということである。文章の上では「社交」がないので、主張すべきことはしっかり主張することができるはずである。昔から思想の発展も学問の進歩も曖昧な「社交」が行なわれずに、相手を傷つけることなく、本当に相手が承服する立派な論文を書くことが基礎になっている。<br>　また、日本語を外国語のように外部に客体化して、これを明瞭に意識化しなければならない。つまり、辞書と文法を便りに全く理詰めで外国語を読むように書かくということである。日本語は接続詞によって固く結びあわされる。「が」という接続助詞はこれを一つもってくればどんな文章でも書ける。そのため、二つの句、あるい は事実の定義が曖昧であるということを意味する。<br>　更に、「あるがままに」書くこと、つまり「見た通り」「思った通り」に書くことは辞めろと作者は述べている。何故辞めなければならないか、いくつもの事 柄が雑居 している「見た通り」「思った通り」の空間的併存状態では、一挙且つ直接的であることが大事であったが、文章を書く上では不可能で不必要である。文字の強 みは実物そのものと似ておらず抽象的である、絵に書けないものも表現することが出来ることだ。文を書く場合は写真や絵画と違い、作者は、一字一句順々に書 き、また、享受者も一字一句追って読んでいく他ない。制作者も享受者も気の長い時間仮定をゆっくり歩いていかなければならない。<br>　自分の意見にしっかり軸をすえ、引用するときに他者の意見に流されるなという意味である。他者の意見は捨てなければならない。経験と抽象の世界には連続性がある。抽象的な語ばかりを並べ立てたり、経験しか語られていなかったりと言うことを防がねばならない。<br>　文章を書く事は難しい。筆者は原著で、筆者の流儀で文章のルールを述べた。文字や活字の「独裁」時代は終わり、映像の時代へと移り変わった。その顧慮から筆者は強調せねばならなかったのである。
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<pubDate>Tue, 24 Jul 2012 11:26:43 +0900</pubDate>
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<title>小説の企画書</title>
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<![CDATA[ ファンタジーノベル企画書<br><br>タイトル：祓い屋奮闘記<br>テーマ：仕事に生きるって素晴らしい<br>対象：中高生（仕事に関する意識をもち、且つ、仕事ということに新鮮味を感じる世代）<br>ジャンル：スチームパンク<br><br>セールスポイント<br>1,退廃的な世界。恐怖と戦いながら人々は強く生きる。<br>2,銃と剣と魔法の世界<br>3,様々な異形のものたち<br><br>世界観<br>　<br>　古代、人々が死者の世界の扉を開いて2800年が経った。しかし、死者の世界から漂い出た邪悪な霧は生態系に影響を与え続け人々の生活を脅かし続けている。そこで職業として画一したのが祓い屋である。<br>　舞台は近代のロンドンのような都市、ロンスボンである。教会によって運営されている。大陸の中心にあって４つの地形も文化も異なる地域に分かれている。そこには様々な民族や種族が住んでいるため多民族都市国家になっている。<br>　市街と郊外の二つに別れている。教会の管理する市街で職に就くためには資格が必要だが、郊外では自由に職に就ける。市街で職につくものは法律でギルドに所属しなければならない。祓い屋にもギルドが存在する。国家資格を持つ祓い屋が所属し、主人公たちも所属している。懸賞金の一括管理を行なっている。<br>　それに対し、教会に所属する浄化組織。治安維持組織の下位に存在する。祓い屋と敵対している組織で、エクソシストの中には祓い屋をバカにするものも多い。<br><br>キャラクター設定<br>ティファ<br>13歳のエルフの少女。スラム街で浮浪児として１３歳まで育ったため世間を知らない。エルフの体質である金属アレルギーのため都市で働く事は難しいが飴色の髪をしている。<br>最初はジャリルたちを信頼していなかったが、だんだんと天真爛漫な態度を見せるようになる。<br>ジャリルに気があるが本人は気づいていない。<br><br>ジャリル・ラヒーム・アッラシード<br>17歳のダンピールの青年。吸血鬼から生まれたところを所長に拾われ育てられた孤児。<br>性格は冷静沈着であるが、言葉づかいがガサツであったり、皮肉屋であるところから猪突猛進タイプであると見られやすい。<br>ただし、近くに孤児が目に入ると、自分のみを危険に晒してまで守ろうとする（これは自分の過去と重ね合せているため。）<br>2丁拳銃の使い手。<br><br>フィリップ・ケンブリッジ<br>　二十二歳ロンスボン大学に所属しないフリーランスの科学者。教会の登録職業は祓い屋だが、瀬川邸で引きこもり研究を行っている。様々な”粗悪品”を作ることでジャリルのサポートをしている男。科学者の息子だが、両親に実験台にされそうになったところ瀬川に助けられた。両親顔負けの科学の知識を持つが、若干、自傷思考があり、自分を実験台に使うこともある。<br><br>あらすじ<br>　主人公、エルフの孤児のティファは，ダンピールの青年ジャリルに拾われ祓い屋として働く事になる。世間知らずなティファであったが，段々と働くことを通して社会について様々な事を学んでゆく。<br>　起承転結<br>　起：ティファとジャリルが出会い、ティファが事務所にやって来る。<br>　承：仕事を貰いにいく。とった仕事がティファに縁のある人が吸血鬼化されていることをとジャリルは知る<br>　転：ティファ、初仕事。エクソシストの妨害にあって巧く進まない。<br>　結：仕事を達成。達成感とともに、ティファの縁の人を助けられなかった悲しみを味わう。仕事のつらさに直面する。
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<pubDate>Wed, 18 Jul 2012 02:31:54 +0900</pubDate>
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<title>全体要約手直し</title>
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<![CDATA[ 　ラジオが現れた。テレビが現れた。著者は映像の時代への顧慮から原著を書き記している。筆者が、此処で述べようとしている事はどのように書き、考えるかということである。これは、今日に至るまで普遍的に存在し続けていることである。映像の時代が現れ、文章は抽象的な観念と未来に関する出来事を中心とするようになった。だからより一層、文章の書き方について注意を払わねばならない。<br>　論文を書く上で注意を払わなければならない事。<br>　まず主語がハッキリし、肯定か否定かがハッキリした文章を書くということである。それは、本人が責任を負うということであり、差し障りのある文章を書く ということである。文章の上では社交がないので、主張すべきことはしっかり主張することができるはずである。昔から思想の発展も学問の進歩も曖昧な社交が 行なわれずに、相手を傷つけることなく、本当に相手が承服する立派な論文を書くことが基礎になっている。<br>　また、日本語を外国語のように外部に客体化して、これを明瞭に意識化しなければならない。辞書と文法を便りに全く理詰めで外国語を読むように書かねばな らない。接続詞によって固く結びあわされねばならない。「が」という接続助詞はこれを一つもってくればどんな文章でも書ける。そのため、二つの句、あるい は事実の定義が曖昧であるということを意味する。<br>　更に、「あるがままに」書くこと、つまり「見た通り」「思った通り」に書くことは辞めろと作者は述べている。何故辞めなければならないか、いくつもの事 柄が雑居 している「見た通り」「思った通り」の空間的併存状態では、一挙且つ直接的であることが大事であったが、文章を書く上では不可能で不必要である。文字の強 みは実物そのものと似ておらず抽象的である、絵に書けないものも表現することが出来ることだ。文を書く場合は写真や絵画と違い、作者は、一字一句順々に書 き、また、享受者も一字一句追って読んでいく他ない。制作者も享受者も気の長い時間仮定をゆっくり歩いていかなければならない。<br>　自分の意見にしっかり軸をすえ、引用するときに他者の意見に流されるなという意味である。他者の意見は捨てなければならない。経験と抽象の世界には連続性がある。抽象的な語ばかりを並べ立てたり、経験しか語られていなかったりと言うことを防がねばならない。<br>　これらの事は映像の時代への顧慮から著者は強調せねばならなかったのである。
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<pubDate>Mon, 16 Jul 2012 23:33:36 +0900</pubDate>
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<title>10回演習問題</title>
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<![CDATA[ 一、読みやすい文の三つの条件とは<br>　読みやすい文の三つの条件とは<br>　　一、短いこと<br>　　二、一義的である事<br>　　三、平易である事<br>である。<br><br>　短い文で書くメリットは、その文の主旨を捉えやすい事にある。長い文章を書くと余計な情報に最も主張したい部分が埋もれてしまう。更に長ければ長いほど、文法エラーも出やすくなる。<br><br>　一義的であることも重要である。一つの文でも異なった多くの意味で解釈出来るような文は、相手に誤解を与える。<br><br>　平易である事も条件の中に含まれる。平易である事によって読み手の負担を軽減出来る。<br>　以上が読みやすい文の三つの条件である。<br><br><br>二、文章構造を意識する練習に訳文を真似るのが良いのは何故か。<br>日本語は主語が落ちても文章として成り立つ言語である。更に、日本語は様々な修飾語をはさみ続ける事が出来るという特色を持っている。それに対し、英文は主語があり述語があって成り立つ言葉である。更に、文の形が完全に定型化している。そのため、英語は日本語の様に多くの修飾語を挟む事は出来ない。我々が英語から日本語に翻訳するとき、日本語の訳文は英語の文法規則に従っている。<br>訳文は、英文はすっきりした部分を日本語に反映した文なのである。
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<pubDate>Wed, 11 Jul 2012 14:04:34 +0900</pubDate>
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<title>９回文書作成演習</title>
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<![CDATA[ パラグラフライティングとはパラグラフを設計・執筆の基本単位とする文章である。一パラグラフに一トピックという原則を守る事は、アウトラインをブロック状に分けそれを記す事である。理路整然とした印象を与え、実際に読みやすい文章は「流れ」を重視して文章よりも，塊を積み上げた文章である。文章の質はその書類の信頼性を評価する基準となるために，塊を積み上げたパラグラフライティングの使われたもののほうがよい。<br><br>メディア・リテラシーの実践的学習の例<br>　学び手の主体性の育成を掲げるメディア・リテラシー教育では，学び手自身による実践中心の学習を行う．実践内容の多くは情報の“読解”と“発信”を念頭に置いたものである．情報の読解についてはメディアテクスト（各種のメディアが送り出す表現）の批判的読解が代表的である．<br>　一般的な手順は，(1)分析シートなどを利用して，学び手があらかじめ設定された視点に基づき現実のメディアテクストを分析する，(2)分析結果からメディアテクストが発するメッセージの形成要因（たとえば制作者の意図，視聴者の価値観，制作者と視聴者との間にある社会的コンテクストなど）を読み解き，その結果について議論する，といったものである．これらを通して座学のみでは困難な“批判的視点の体得”を目指す．<br>　一方，情報の発信についてはメディアテクストの疑似的制作が多く行われる．たとえば学校のPRを目的とするテレビCMの制作などを想定し，対象とする視聴者の分析から絵コンテの作成，さらには動画の撮影や編集作業など，メディアテクストの制作過程を学び手に体験させる．このときに重視されるのは，メディアテクストの人為的性格，すなわちすべてのメディアテクストは“現実を映す鏡”ではなく制作者の視点による“構成物”であること，に対する理解である．<br>　したがって，単に制作過程を体験するだけでなく，内省や議論によって制作過程を振り返る機会が設けられる．これらの実践の基調をなすのは記号論以降のテクスト解釈論である．<br>　すなわち，読解，発信の双方において，読み手による解釈に開かれた（またそれゆえに“現実を映す鏡”には決してなりえない）記号システムとしてのメディアテクストの性質が強調される．したがって，指導にあたる教員は記号論に対する基本的理解を有することが望ましい．<br>メディア・リテラシー教育の背後にある保護主義的観点<br>　メディア・リテラシーの教育活動の源流は英国の保守派の文学研究者F.R.リービスの思想を汲んだ教育活動にさかのぼる．<br>　リービス派の教育活動が始まったのは1930年代初頭である．これは米国から輸出されたポピュラー・カルチャー（たとえばハリウッド製の映画など）が英国に浸透した時期と重なる．リービス派の活動は米国発のポピュラー・カルチャーに対する英国の伝統文化の保護が目的であった．彼らは，彼らが信じるところの“伝統文化”に対して，米国から流入するポピュラー・カルチャーを程度の低い堕落した文化とみなした．そして子どもたちをポピュラー・カルチャーの影響から保護するために，学校でマスメディアを取り上げて批判を行う教育活動を展開した．その後の歴史の中でリービス派の露骨な“保護主義的観点”は相対化されるが，その発想は現在のメディア・リテラシー教育の中にも見て取れる．<br>　たとえば，米国と国境を接するカナダ・オンタリオ州編纂のメディア・リテラシー指導書では，各種メディアの商業的，政治的背景の解説と，批判的読解を中心とする授業案の紹介に多くのページが割かれている（この州は1987年に世界で初めてメディア・リテラシーを公教育に導入した）．<br>　このカリキュラムの１つの大きな目的は，子どもたちの意識をマスメディアの発するメッセージの影響力から保護することであると見ることもできる．<br><br>メディア・リテラシー教育の普及に向けて<br>　メディア・リテラシー教育の普及に向けた課題は多岐にわたる．たとえば，インターネットや携帯電話など，新しいメディアに対応した教育のあり方は現在事例を積み重ねている段階にある．また，英国やカナダなどいわゆる“メディア・リテラシー先進国”と比較した場合，わが国の公教育による取り組みは遅れていると言わざるを得ない．加えて，マスメディアを中心とするプロフェッショナルなメディア制作者による教育への参画もごく少数例にとどまっている．<br>　これらの状況を改善する上で１つの鍵となるのは，伝統的メディア・リテラシーの基調をなす“保護主義的観点”の克服である．この観点はマスメディアと市民との健全な緊張関係を築く上では現在でも価値を持つ．<br>　しかし，この観点への過度の固執は，多様な主体（特にマスメディア）による教育への参画を排除する傾向を生み，教育の普及の足かせとなる．加えて，メディア・リテラシー教育を，学び手自身に対する批判的省察を欠いた浅薄なメディア批判へと矮小化する．<br>　現在，この点に自覚的な担い手たちは新たなメディア・リテラシー像を模索している．今後も多様な立場に開かれた議論と実践の積み重ねが期待される．<br><br>
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<pubDate>Wed, 04 Jul 2012 10:17:51 +0900</pubDate>
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<title>論文を書こう全体要約</title>
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<![CDATA[ 　ラジオが現れた。テレビが現れた。映像化時代への顧慮から著者は論文の書き方について真剣に説明する気になった。映像化社会において文章を書く意味はまず抽象的な出来事と未来に関する出来事である。映像の世界というものが強力な敵としてあるのだから書き方について注意を払わねばならない。<br>　論文を書く上で注意を払わなければならない事。<br>　まず主語がハッキリし、肯定か否定かがハッキリした文章を書くということである。それは、本人が責任を負うということであり、差し障りのある文章を書くということである。文章の上では社交がないので、主張すべきことはしっかり主張することができるはずである。昔から思想の発展も学問の進歩も曖昧な社交が行なわれずに、相手を傷つけることなく、本当に相手が承服する立派な論文を書くことが基礎になっている。<br>　また、日本語を外国語のように外部に客体化して、これを明瞭に意識化しなければならない。辞書と文法を便りに全く理詰めで外国語を読むように書かねばならない。接続詞によって固く結びあわされねばならない。「が」という接続助詞はこれを一つもってくればどんな文章でも書ける。そのため、二つの句、あるいは事実の定義が曖昧であるということを意味する。<br>　更に、「あるがままに」書くこと、つまり「見た通り」「思った通り」に書くことは辞めろと作者は述べている。何故辞めなければならないか、いくつもの事柄が雑居 している「見た通り」「思った通り」の空間的併存状態では、一挙且つ直接的であることが大事であったが、文章を書く上では不可能で不必要である。文字の強 みは実物そのものと似ておらず抽象的である、絵に書けないものも表現することが出来ることだ。文を書く場合は写真や絵画と違い、作者は、一字一句順々に書 き、また、享受者も一字一句追って読んでいく他ない。制作者も享受者も気の長い時間仮定をゆっくり歩いていかなければならない。<br>　自分の意見にしっかり軸をすえ、引用するときに他者の意見に流されるなという意味である。他者の意見は捨てなければならない。経験と抽象の世界には連続性がある。抽象的な語ばかりを並べ立てたり、経験しか語られていなかったりと言うことを防がねばならない。<br>　これらの事は映像時代の顧慮から強調せねばならなかったのである。<br><br>
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<pubDate>Tue, 03 Jul 2012 08:28:14 +0900</pubDate>
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