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<title>父の思い出</title>
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<description>介護の忘備録など</description>
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<title>医者通いに熱中する父</title>
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<![CDATA[ <p>　常に何かに集中していないと気が済まないのだろうか</p><p>父は仕事場を失い、自動車を失い、なにか集中できるものを探していた。</p><p>還暦のときにはゲートボールへの誘いも「なんで俺がこの歳でゲートボールなどしなくていけないのだ」と口には出さないが体よく断わっていた。当時のお客さんのひとりが誘ってくれた弓道には熱心に通っていたが、ある程度以上上達しないのと、後から入った者たちに抜かされていくのと体力的な限界を感じてやめていった。70過ぎまで十数年続いた。</p><p>体力的に難しくなるとたいていは書や俳句とか定番なのだろうが、いずれも父には似合わないのはわかっていた。</p><p>　そんなときに夢中になったのが医者通いであった。数年前に前立腺がんを患い、手術を受けていらい通っていたのだが、ここへきてから膝の痛みを訴え始めてから整形外科へも通うようになっていた。当人としてはもちろん暇だから通っているわけではない、悪いところがあるから通うのだ。問題は先生の言葉を拡大解釈して受け取る癖があるようだ。ちょっとした痛みでも「なんだかおかしいんですよ、ここが時々痛むんですよ」しつこく言われれば先生の方も「それなら一度検査してみましょう」となるわけだ。80年も生きてきてるのだから検査すればどこかしこの数字になにかしらは出てくる。少し○○が弱っているようですな、と来たらしめたものだ。父は自分が正しかったのと病気が見つかったので大喜び（のようにしか見えない）だった。増えた診察項目と投薬に後で自分が苦しめられるとは思いもよらなかったのだろう。</p><p>前立腺がんの予後観察、貧血による血液内科、膝の痛みによる整形外科、認知症による心療内科（当人は不眠のための心療内科と考えてる）</p><p>三つの病院の４つの科を定期的に受診しなければならないうえに薬もそれぞれ、ランダムに胃の検査だ便秘だと地元の病院の内科にも通うし、歯医者にも行く。整理しきれない予約表と薬を目の前にして呆然としている父の後ろ姿は悲しげだった。</p><p>緊急性のない貧血やら便秘やら胃もたれやら行かなければいいのにと思うが、口にしただけで怒り出す。通院しなければ死ぬとでも思っているのか心の底はわからない。</p>
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<link>https://ameblo.jp/sima-yuu/entry-12442245039.html</link>
<pubDate>Sat, 23 Feb 2019 16:38:24 +0900</pubDate>
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<title>免許証返納と自転車</title>
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<![CDATA[ <p>　警察署から電話があったときは少しおだやかではなかった。</p><p>事故から半年、ちょうど父の免許証の書き換えの年だったので免許証を返納することに納得して出かけていったのだ。ところがいざとなると返納することが惜しくなったのだろう、警察でひとしきりもめて、呆れた警官が家族に連絡をとったらしかった。</p><p>やはり一緒に行けばよかったなと後悔したが、かならず免許証は返納するから一人で行くと固い約束で出かけたのだから今更しょうがなかった。「お父さんに代わりますから」と警官が困惑しきったような声でつげる。電話口に出た父は「免許証が無くなるのはいろいろ不便だろうから『自動二輪』のほうだけ残したらどうだろう」と話し始めた。若いときは自動二輪に乗っていた父は、その後車の免許を取得してからオートバイは一切乗っていないのだから、いまさら何をと声を荒げるが、免許証を残すだけで絶対オートバイは乗らないからと言う。受話器の向こうの必死な様子の父が思い浮かぶ。まあ、家には原付バイクすらないし、知り合いで持ってる人もいないようだし万が一にも乗ることはあるまいと思い了解する。もう一度警官に代わって自動二輪を残して普通車免許を更新しないことを確認して電話は切れた。</p><p>免許証を返納すれば運転経歴証が代わりにもらえて身分証代わりにもなるのだと何度も父に説明したのだが、やはり免許証への執着は強かったようだ。父にとって使えない免許証でもそれは社会的存在証明や存在価値の明かしのようなもので、失ってしまうことは今までの人生や、社会とのつながりさえも無くしてしまうものだったのだろう。そう考えたのはずっと後のことだったが、その当時は「つまらないことにこだわるんだな」としか思っていなかった。</p><p>後日送られてきた自動二輪だけになった免許証を、それでも満足気に、ややさみしげに眺める父の姿が妙に可愛らしく見えて安心したものだ。</p><p>&nbsp;</p><p>　もっともそこまで来るのにもいろんなことがあったのだが、家族総出で絶対に譲らない気持ちで何ヶ月も父と対峙していた。</p><p>膝が痛んで歩けないという父に無理に自転車を押し付ける。同級生がまだ車を運転しているのに自転車に乗るのは恥ずかしい、遊びに行くこともできないと本気で怒る父をなだめすかすのは正直辛い部分もあった。気持ちはわからないでもないのだが、そんなことで馬鹿にする友人を父は持っていないはずだった。仕事を離れては付き合いも少ない父だが、その分、残っているのは本当に親しい友人だけだった。</p><p>どうやって父の心の中で決着をつけたのか知る由もないが、泣いたり喚いたりの日々から落ち着きを取り戻して自分から免許証を返納すると言い出すようになったのは偉大な進歩だった。最終的に自動二輪を残したとしても半年間の苦労を考えれば十分報われた気がしたものだった。</p><p>　ひとつ乗り越えることができた。これからもなんとかやっていけそうだ、そう思った。</p>
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<link>https://ameblo.jp/sima-yuu/entry-12434244273.html</link>
<pubDate>Sun, 20 Jan 2019 12:52:54 +0900</pubDate>
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<title>父の通院</title>
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<![CDATA[ <p>　父は19歳のときに母を亡くし、10代の頃から父親の、つまり私の祖父の商売を手伝って暮らしていた。祖父はあまり商売に熱心なタイプではなかったようで、父が家の商売をほとんど一人で切り盛りして7人の兄弟の面倒を見ていた。兄弟たちが結婚して家を離れてからも、近くに嫁いでいる妹たちとの親族のつながりは強い。一家の惣領として60年間取り仕切ってきた自負がある。<br>仕事一筋で兄弟たちの面倒を見て子供たちを育て上げてきた。仕事は人生そのもの、仕事で使う自動車は道具というよりパートナーとしての意味合いがつよかっただろう。それをふたつとも続けざまに奪われた父はどこに心の拠り所を求めたのだろう。<br><br>　<span style="font-weight:bold;">自転車への乗り換え</span><br>　交通インフラの弱いこのあたりではほとんどの人が自動車で移動する。自転車にのるのは通学の中学生ぐらい。小学生が自転車に乗らなくなったのは震災後の放射能の心配が尾を引いているのか。高校生は歩いたり親の送迎だったり。町内の道幅は狭く自転車道などどこにも無い。歩行者がほとんどいないので自転車は通り放題だが、区分けされた歩道さえない道路は狭く天蓋のない側溝など危険もいっぱいだ。自転車通学の多い中学生の安全とか、自動車や免許をもたいない交通弱者とかへの配慮など微塵もない今どき笑えるぐらいな遅れた町である。もちろん今の行政じゃ変える気などもサラサラ無いようなのである。自転車乗りにはけっこう命がけの町だ。<br>そんな町内を80歳目前の父にいまさら自転車で走らせるのもどうかと思ったが、危険度からいえば自動車よりは自転車のほうがはるかに安全であろう。朝夕を除けば交通量は少なく安全性は高い。自転車も意外と乗りこなせるのには驚いた。とにかく駅や町内の温泉施設への行き帰りは自転車になり一安心だった。<br>母ももう自動車は運転しないと心に決めた。事故の後遺症の手のしびれがいつまでも取れないのを気にしていて、それで新しい自転車を買ったのだが、慣れない自転車で転んで軽いけがをしてからすっかり乗る気力がなくなっていた。私も両親が出かける用事のあるときは、すぐに車を出すようにはしていたのだが、仕事もあるしいつでもというわけにもいかない。大人用の三輪自転車なら乗れるかもしれないと母の思いつきに、さっそく自転車屋に問い合わせて、たまたまあった中古を譲ってもらったのだ。</p><p>　最初は怖がっていた母も、少しづつ慣れてくると楽しげに乗り回すようになった。街なかの用事はこれで大丈夫。<br>　母は自転車では行けない場所は用事のときは気軽に声をかけてくれるが、父は意固地になっているのか、決して乗せてくれとは言ってこない。そういうところはプライドが高く、私が母を乗せて出かけるときも一緒に出かけようとはしない。<br>　夕方になると父は自転車で数分の町営の温泉施設へ行くのが日課だ。いつも同じ時間に集まる友人たちに会うためだ。心配なのは自転車での行き帰り。危険だから夕方でなく、交通量の少ない昼間に出かけてゆっくりしてきたらと提案してみるがそれだけは譲らない。友人と会って話すことだけが今残された父の楽しみなのだから。それだけは奪えないようだ。不安を感じつつも見守るしかなかった。<br>いや、父にはもうひとつの楽しみがある。仕事といってもいい、それはいくつかの病院通いだ。ひとつは７０代の時にやった前立腺がんの手術の経過観察。すでに5年以上経っているので3ヶ月に一度の通院で済むはずなのだが、いつのまにか血液内科や整形外科へも通わなければならないようになっていた。僅かな貧血や膝の痛み、毎日のように病院へ通う高齢者はあたりまえのことだ。この程度は仕方がないのだろうとさほど気にしなかったのだが…</p><p>問題は次々に起こるトラブル。まず検査結果への異常な執着。検査結果で異常が見られ手術をしなければならない----医者にそう言われた。真顔で語る父の様子に、さすがに放っておけず一緒に行って医師に説明を聞くのだが、「特に問題はありません。今後の経過で異常がでるようなら検査や入院の可能性も無いとはいえませんが」と説明を受けてポカンとするばかりだ。「そんなはずはない、前回たしかに先生は手術が必要だと確かに言ったんだ…」父はそう繰り返すばかりで納得してくれない。そればかりかしばらく経つとまた同じことを言い出して騒ぎだすのだ。<br>病院へ行った父から電話がかかってくるとひやりとする。駅においた自転車のかごにバックを置き忘れたと聞けば、すぐに探しに行くのだが自転車を置いた場所がはっきりしないので駅前駐輪場を端から端まで探し回ることになる。<br>隣町のS駅ホームでバックを無くしてしまったと騒ぎ出したときには夜中に20キロ先のS駅まで車を走らせてホームを端から端まで探し回る。駅員にも確認したが見つからずに翌日すぐにバックに入れておいたという保険証・免許証や銀行通帳の紛失届を出すまで大騒ぎだった。</p><p>母が戸棚の奥から失くしたはずのバックを見つけ出したのはそれから数週間後のことだった。通帳や保険証などもちゃんと入っていた。<br>K駅前の交番から携帯電話が届いていると電話があったときは母がすぐ飛んでいった。届けてくれた人の住所を聞いて携帯を受け取り、帰りの電車に乗るとき母は偶然、父の姿をホームに見た。帰る方角の電車はこのホームで良いのか---年配の御婦人二人に尋ねては楽しそうにしていた。</p><p>電車を降りた時にホームで母の姿を見つけて驚いたらしい。携帯を無くしたのはまったく気づいていなかった。</p><p>　父が通院の日は戻ってくるまで落ち着かない日々が始まった。<br><b>　</b><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/sima-yuu/entry-12419238281.html</link>
<pubDate>Thu, 15 Nov 2018 17:09:25 +0900</pubDate>
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<title>交通事故</title>
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<![CDATA[ <p>　震災という特殊な状況下で精神のバランスが崩れて一時的におかしな言動が増えたのかもしれない。<br>落ち着いていて普通に変わりない様子をみせている父を見るとそう思った。だがあきらかに言動はおかしくなり始めていた。<br><br>　同じ質問を何度も何度も繰り返されるのがあれほど精神を痛めつけられるとは思いもよらなかった。たとえば震災の補助金の申請をしたのかどうかを聞いてくる。答えても答えても数分後には全く同じ質問を繰り返す。耐えきれずに、さっき聞いたばかりだと怒り出すと「何を言う、はじめて聞いたんだ」と真顔で答える。それでもまた同じことを聞いてきて私が怒り出すと「わかってる、確認の意味で聞いただけだ」<br>さすがに気づいたのか、しばらくは黙るのだが数時間後にまた始まる。それがいつ来るのかと身構えてるだけで精神は疲労し、沸いてくる怒りを必死に押さえる。そしてまた質問が始まった時に爆発してしまうのだ。<br>いままでも忘れっぽいのは確かにあって閉口する場面も多かったものの、あれほど酷いのは見たことがなかった。<br>それでもまだ父の症状を軽く考えていたのは身近にいた認知症の人を見ていたからだろう。親戚にも近所の人にも過去に認知症を患っていた人を見聞きしている。突然訪問されて話も噛み合わなず対応に困った経験も何度かあった。でも親戚であれ近所の知人であれ、しょせん私は部外者、同情はするけれど彼らのことを真剣に考えたり心配したり親身になったりはしない。身近に存在しながら距離を置いてしまうのでその本質はもちろん、まして介護の苦労など理解できるはずはなかった。<br><br>　それでも被災した住宅の補修も済み、普通の生活が戻るにつれて父の様子も落ち着きを見せてきた。その翌年の春のことだった。姉が母を花見に誘った。落ち着いてきたとはいえ、商売をやめて毎日退屈して何かやることがないかといろいろ考えてはどうでも良いことで騒ぎ出すことが増えた父に母はすっかり参っていた。せめて一日くらいは父から離れてくつろぎたい、ほんのいっときでも離れたくてこれ幸いと姉との待ち合わせ場所にむかうつもりでいたのに、父は許さなかった。駅まで送るといって母を車に乗せると、そのまま駅にはよらずに高速へ乗ってF市へ向かった。ひとり置いていかれるのに不安を覚えた父の作戦勝ちだ。<br>インターを降りて国道へ入る手前だった。付近は花見の観光客もあっていつもよりも混雑していた。標識を確認していた父は信号で詰まっている前方の渋滞に気づかなかった。それほどスピードは出ていなかったものの、ほぼノーブレーキで突っ込んだせいで2台先までの玉突き事故となった。連絡を受けた姉が駆けつけてさまざまな処理はすんだものの車はそのまま近くの修理工場へ送られ最終的に廃車となった。<br><br>　その事故の数年前から父の運転は危なげだった。父の場合はもともと運転の荒いところがあり、そこに高齢が重なって、より不安定になっていた。当人が知らぬ間に車体のあちこちに凹みや擦り傷が増えていた。まったく認識が無いのだ。たしかに普通でも気づかぬうちに隅を軽くこすっているぐらいの事はある、しかし何箇所にも及ぶ深いキズを覚えていないのは異常だ。あげく問い詰められると自分がぶつけたのではない、母が勝手に乗ってぶつけたのだろうと言い出す始末。しかし母は自分の車を数年前に手放してから車の運転すらしていない。<br>十分注意するように言うのだが、その後も側溝にハマってタイヤ一本ダメにしたり、バッテリーをあげてしまっったり、そのたびに私が出かけて処理していた。そんなことがある度に車を手放すことを進言するが、もちろん父は聞き入れなかった。思えばあの時に車を手放していれば…と後悔した。ドライブの好きな父は用事がなくても車でどこへともなく出かけるのが日課だった。ある日青い顔をして帰ってくると「大変なことをしてしまった」とうなだれていた。聞いてみると道路標識にぶつけた単独事故のようでようで父の体にも怪我はないようだ。県道上の標識なので県と警察に連絡、そのうえで保険屋に連絡して処理を頼んだ。</p><p>その当時「GOAシステム」をテレビを中心にトヨタがしつこいくらいに宣伝していた。事故の衝撃を車体で受け止めて搭乗者を護る画期的なシステムだ。なるほど、車は真っ二つかと思うくらいにフェンダーからぐいっとV字型に深くえぐれて衝撃を分散させていたのがわかる。一時停止の標識はぶつかった痕さえ確認できないくらいだ。たしかに父の体はなんともないのだが修理代のことを考えると納得がいかない。トヨタでなければ事故ると潰れやすいヘナチョコ車と言われるだろう。</p><p>だがこれはいい機会だ、今までも毎月のようにあちこちぶつけてきていたのだから、免許を返納して車は廃車にしてもらおう。説得には数日間かけたが父が折れることはなかった。車を買うのはこれが最後だなと言っていたのに、長年付き合っているディーラーの所長が中古のヴィッツを持ってきたのは翌月のことだ。修理代よりは安く上がったからと今まで乗っていた車より古い型を納車したのが前の年の5月だから、1年も経たずに今回の事故だった。<br>　<br>　幸い追突した相手方には大した怪我はなく、まもなく示談が成立した。父もすぐに精密検査をしたが異常なし。しかし母の方は数ヶ月の間、体の痛みを訴えて寝込むことが多くなっていた。加えて手のしびれがいつまでも治らなかった、これは今でも残っている。<br>前回の事故の時にも車を降りることを必死に頼んだがどうしても言うことをきかなかった。中古車ならいいだろうと譲ってきたので、金の問題ではないのに新車しか乗らない父が譲歩したのについほだされて許してしまったのが間違いだった。<br>　若い時は自動二輪で商売を始めた父。のちに普通車免許を取得して自動車を買い、仕事に遊びにと毎日乗り回した。車は父の歴史であり人生のほとんどであった。仕事をやめたあとも、毎日車ででかけては、ただわけもなく町内をグルグルと回って満足していたのだろう。友人や親戚、家族よりも父のパートナーというべき存在なのだ。車があっての父なのだ。<br>　しかし母の具合が悪いのをたてに、私は今度ばかりは車の買い替えを許さなかった。免許の返納まで父に要求した。父は激昂し反対する。車に乗れなかったら死んだほうがマシだ、今すぐ死んでやると子供のように駄々をこねた。<br><br>私のいない時に、お前の貯金で車を買えと母に迫って、母が拒否すると馬乗りになって暴力までふるったらしい。私が家に帰ると、その時の様子を泣きじゃくりながら話す母と、ふてくされた父の姿を見て為す術もなく呆然としてしまった。<br>　<br>　高校生の頃は私も人並みにオートバイを欲しがって両親を困らせたものだった。当時原付きを含めてオートバイを乗り回しているのは三分の一ぐらいだったろうか。高校生にとって三分の一は「みんな」だった。みんなが乗っているから自分も欲しいと毎日訴えた。あきらめたのはいつ頃だろうか。説得に応じない父を見て当時の自分が思い出されて悲しくなっていた。<br>事故による怪我も怖いが、他人を巻き添えにするもの恐ろしい。運転に不安があるのだから止められるのなら止めるのが家族の責務だろう。全ては父と家族のため、と思っても父は車のことばかり考えている。自転車に乗ることを勧めても「恥ずかしくて乗っていられない」と断固拒否だ。<br>長年付き合いのあるディーラーにも父の車の相談には乗らないように釘をさしておく。もし新車を買って何かあったら恨んでやると冗談めかして言っておいたのだが、冗談でないことは所長も理解してそれ以来我が家には寄り付かなかった。<br>任意保険のほうも解約を頼んでいたのだが、いつの間にか父が継続の手続きをとっていたようだ。苦情を言うと、父の希望で継続したのに私はどうすればいいんですかと保険屋は泣き崩れた。<br>最終的に保険は解約してもらい、父の方はディーラーも保険屋も押さえられて八方塞がりだった。始終泣きそうな表情で車が無ければ生きていてもしょうがないと、ことある度にくだをまくばかりだった。<br>さすがに不憫になって買ってあげようかという気にもなる、その当時出始めた自動ブレーキならどうなのかとか。しかし母も姉も反対した。<br>　長年続けていた商売に続いて自動車まで取り上げられた父の苦悩はどれほどだったのか。今なら理解できる。だが当時は取り上げることが最善の策であり、なにがなんでもやらなければいけないと考えた。もう少しやりようがなかったかと反省しないでもないが、仮に今同じシーンが繰り返されてもきっとまた同じような対応しかできないだろう。<br>　それから何度も同じことが繰り返され、ようやく父が納得して車に乗ることをあきらめ、自分から免許を返納するまで数ヶ月の時間を要した。今思い出しても家族全員が精神的にかなり追い詰められていた時期だった。<br>　<br>　とにかく、これを機に父の症状が加速していったような気がする。連日異常な言動が増えていった。<br>車の件が片付いて一息つくと新たな問題が発生する。このあとからそんな時期が始まっていった。</p>
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<link>https://ameblo.jp/sima-yuu/entry-12419200452.html</link>
<pubDate>Thu, 15 Nov 2018 13:37:50 +0900</pubDate>
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<title>春　震災から</title>
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<![CDATA[ <p>　認知症と診断された父。心療内科に通いはじめて落ち着いてきたように感じられた。普段の生活を通して困ることはなく、おかしく感じることもなくわりと平和な日々がすぎていった。<br>ただ、長年続けてきた商売に関してはいろいろ不都合が多く、お客様との約束を忘れたり、計算がおぼつかなかったり、商品のメンテ等技術的なことでもミスが目立ち始めていた。さすがに父も限界だと感じたのか説得に応じて長年続いてきた店を閉めることを決断。<br>　高齢のための引退と説明すれば、喜寿を過ぎた父に周りが不信感を抱くこともないでしょう。<br>店を整理したあとは隣町で営業していた私の店舗を移転する計画で、店内の商品や作業場の片付け、ディスプレイ機材等の整理をした。その日は母もK市内の大学病院へ通院日で家を空けており、父とふたりだけの片付け仕事だった。<br>　午後４時過ぎ、2階で商品の整理をしていた私は突然の揺れに驚きはしたものの、ここしばらく大きめのが頻発していて慣れていたせいか慌てることもなかった。しかしあまりにも長い時間通常とは違う揺れ方が続くため階下へ向かい玄関で固まっている父を見て動かないように大声で繰り返すと、私自身も初めて経験する恐怖で階段の下から動けなかった。天井は激しく軋んでいるし、もう持たない、間もなく家が潰れる。押しつぶされる自分を想像し、死を予感したあたりでようやく揺れは収まってきた。<br>片付けたばかりの部屋はものが倒れ、棚にあったものはすべて落ちて渦を描くように散乱していた。<br>それからはもう分刻みで様々なことを成し遂げなければいけなかった。<br>なによりも電車が止まったためK市の病院へ行った母を迎えに行かなければならない。店より悲惨な状態になっている自宅の整理を父にまかせて車に乗り込み、ところどころ崩れたり分断したりする4号線を北上し30ｋｍ先のK市へ向かった。駐車場へ避難している患者や看護師、国道沿いで燃え盛る大きな工場、普段なら野次馬でごった返すような騒ぎになるのにこの日ばかりは閑散としているのが不思議と現実感がなかった。薄闇につつまれ始めた４号線をひとりで歩いている母をつかまえて自宅に戻ったときはすっかり暗くなっていた。それから倒れた冷蔵庫やタンスを戻し、崩れ落ちた廊下のサッシ戸の代わりにタンスでバリケードを張って、食事や寝る場所を確保したのが夜の11時過ぎ。日頃食料を買い過ぎだと父に叱られている母も、この日ばかりはふんだんにある冷蔵庫の中身を誇り、運良く地震の前に買い求めた弁当を、まだホコリの残るテーブルの上にちょっと自慢げに広げた。<br>あまりの出来事に現実感もなく、それほどの悲壮感に襲われることもなく疲れもあって食事を終えてその晩は眠るだけでした。<br>翌朝になっても崩れ落ちた内外壁や瓦を見ながらなぜ夢から醒めないのか不思議な気持ちだった。<br><br>　大工さんが入ったのは二日後。とりあえず落ちたサッシや裏口のドアの応急処置、割れたガラスや外壁の処理をしてから今後のスケジュールを決めていった。<br>自宅の損壊はひどく、屋根の瓦は1/3ほど崩れ落ち、一階の外壁は大きな亀裂が何箇所もばってん印に走っていた。もちろん内壁の損傷もひどく、内部構造が丸見えなのが悲しかった。まだ築15年なのに。<br><br>　それでも落ち込んではいられない。ただでさえ父が家の惨状を見ては呆けた顔をして玄関先で倒れ込んだりするのだから、家族だけでも空元気をだすしかなかった。<br>幸い建築業者の方々がみな明るい人ばかりだったのが救いになった。それぞれ家の問題もありながら無理して仕事にかけつけてきてくれるのです。<br>　翌日から自宅の大改修が始まりました。店をたたんだことですっかりしょげかえっていた父は大張り切り。人が大勢あつまることがなによりも好きな父だから初日からテンション高めで、ゴミを運ぶのもせっせと手伝って大喜び。ちょっとした施主気分、父にとっては最高のイベントと言っていい。ひとつひとつ親方との打ち合わせも至福の時間だったろう。私は親方を信頼していたので、父が細かいことに口をはさむのは構わずにいましたが、何度も何度も同じことを聞かれるのには親方も大弱りだった。<br>　<br>　今から考えるとどうやらこれが契機だったように思える。父は明らかに症状が進んだように見えた。もちろん以前から多少の違和感はあったが、今回ほどひどい状態の父はみたことがなかった。まして家の修復で父もいつにもまして真剣で気合の入り方が違いう。疑問が解けるまで何度でも聞くし、忘れてしまうからもう一度聞く。<br>相手方は何度も同じことを聞かれて辟易していても、父にとっては初めて聞くのだから変な顔をされたり怒られたりは理不尽にしか感じてなかったのだろう。もっともそんなことは当時は理解できず、ただうるさくしつこい父に閉口していた。<br>震災の補助金等の申請など何度も何度も申請済みなのかを確認してくる。毎日、日に何度も確認してくるので、各種申請状況や工事の進捗などノートに書いて渡しておくのだが、これもちらっと見るだけでまた同じことを尋ねてくる。「重要なことだからあえて再度確認しただけだ」繰り返される質問に思わずカッとして声を荒げるとそう言い訳をします。さすがに、『何度も聞いているのを忘れている事』を理解し始めたようだ。<br>それでもこっちが答えるのが面倒になって黙っていると怒り出す。自分で役場に行って確認してきたら？と言ってやると何をすればいいのかわからないのでまた怒り出す。<br>私の店は移転が済むまで休業中なのでじっくり自宅の改修や雑用にかかれたのだが、父の対応だけが一番の困りごとだった。<br><br>　家の改修も少しづつ進み、さまざまなトラブルや嫌なことも有ったものの、まあなんとか目星がつき先が見えてきて安心していた。だが父の心は落ち着かない。連日のように報道される放射能、原発不安が父の頭をいっぱいにしていた。それに加えて改修費用の心配など落ち着くことがなかっただろう。<br>地震とともに父の心も崩れてきたのだろうか。<br>震災被害の方は少しずつ落ち着いてきたのに、父の様子はどんどん悪い方向へ変化していく。それを見ている家族の不安も少しづつたまっていくようだった。<br><br>　ところが、友人や親戚、近所の人達と震災や家の様子に関して話すときは明るく陽気な父で、いつものおかしな言動は見られなかった。<br>震災という特殊な状況で起こった一過性のヒステリーのようなものだろう、そう思うことにしていた。</p>
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<link>https://ameblo.jp/sima-yuu/entry-12419199743.html</link>
<pubDate>Thu, 15 Nov 2018 13:34:21 +0900</pubDate>
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<title>父70代後半　病院の診断は</title>
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<![CDATA[ <p>　浴室の方から水音が聞こえた。<br>誰も入っていないはずなのに……不思議に思って行ってみるとシャワーを使っていたのは父だった。<br>あれ？いつ退院したんだろう。それにお尻の褥瘡は大丈夫なのか？<br>近寄ってよく見ると、尻にハート型の生地がパッチワークのように縫い付けてある。<br>おどろいた、病院側の粋なはからいだ。<br>「よかったね」近づいて声をかける、振り向く父。久しぶりに見る笑顔に胸が温かくなった。<br><br>　目が覚めると自分の部屋。障子から薄明るくなった外の様子がうかがえる。<br>ああそうか、今日は父の一周忌だったなと思い出す。<br>夢の中の温かさがまだ腹の中にのこっていて妙に心地よい。そのあたたかさを消したくなくて、ゆっくりと立ち上がった。しかし、法事のいろいろな段取り確認で頭がいっぱいになってきてやがて消えた。<br>ひどく残念な気持ちになった。<br>　<br>　父は若いときはけっこう自分勝手でカッコばかりつける人間だった。<br>母が大事なお客が来るからとカーペットを買いにデパートへ行った時のこと。<br>我が家にとって当時はカーペットさえちょいとした贅沢品で、父は不承不承についてきたものの、実際に購入したカーペットを見るととたんに不愉快になり「俺はそんなものを買うことを許した覚えはない」人混みの中で大声をあげると家族を置いて一人でエスカレーターを早足で降りていってしまった。<br>６畳敷のカーペットを抱え、三人の子供をはぐれないように手を握りながら母は途方に暮れてしまった。<br>離れた駐車場で待っていた父は口も聞かずに不機嫌な表情のまま車をだした。<br>家に戻っても不機嫌な様子は変わらなかったが晩酌で酔いが回ってくると<br>「どうだ、今日の俺はちょっとかっこよかっただろう」<br>上機嫌で語った。<br><br>　若いときの父の写真はどれもモデル並みにポーズをとっている。<br>常に見た目や他人の評価を気にして人には優しく、家族に対しては厳しかった。<br>いわゆる外面の良いタイプだったのだ。当時なら珍しくもなかったのだろう、「亭主関白」といった言葉がまかりとおっていた時代だった。<br><br>　「お父さんの様子がおかしいんだよ」ある日、母が不安げに話しかけてきた。<br>子供に対しても深い愛情を示すことのなかった父だったから自然と距離をとっていたせいもあり、母の言葉を意に介さなかった。よくある年寄りの物忘れだろう。80歳近くなってるのだから多少の物忘れはあるだろうし、まして若いときからちょっとうっかりさんなのだから。<br>　確定申告や決算書のまとめなど事務的なことは昔から苦手な父だったが、その年は町内会の役にあたって特に困っていたようです。「手伝ってあげて」と母に頼まれて父の仕事場に顔をだすと、班長としてまとめなければいけない町内会の収支決算書の清書がうまく出来ずに頭を抱えていました。<br>一通り確認すると、ほぼ仕上がっていてあとは清書するだけのようだ。「この数字を写すだけでいいんだね」父に確認すると用紙を取り上げるようにして転記し始めました。<br>「うまくできるのか、大丈夫か、失敗は困るぞ」くどくど言う父を尻目にわずかの間に数枚仕上げていくと父はすっかり安堵した表情に変わっていきました。　手伝おうとしても「お前にできるものか」と一喝する父に対して手を出させないで困っていた母もほっとしていました。<br>手書きで一行づつ数字を写していくだけの作業を何日も何日もかけて失敗を繰り返して悩み抜いていたようです。見栄えの良い決算書を作りたい一心だったのでしょう。<br>仕上がった決算書を前に、ようやく呪縛から開放された父の安堵した表情を見ると嬉しくなってしまいました。人の助けを借りることが嫌いだった父、まして息子にまかせるなんてありえなかったのに、こんな様子は初めてみた気がします。<br><br>　この程度なら案ずることもあるまい。<br><br>しかしその後もあきらかにおかしい様子をみせる父を心配した母が無理にK市の総合病院の脳神経外科に父を受診させたのはそれから間もなくのことでした。病院の診断は「認知症」でした。<br>　<br>　世間一般が認知症という呼び方にまだ慣れなかった頃です。痴呆、時にはボケといった言い方がまかり通っていました。それゆえ「認知症」と言われてもさっぱりピンとこなかったし、危機感もなかった。呼び方が柔らかくなった分、かえってゆるく、軽く感じられました。「介護」とかいう言葉の持つイメージさえ、はるか遠く別の世界の出来事のように感じていました。<br>薬を飲んでいれば進行はしないだろう、進行してもそれほどひどくはならないはず。<br>ーーまあたぶんやっていけるーー<br>自分の親に限ってそんなに悪化はしないはず、なんの根拠もなくそう考えていた。<br>この頃にもっと真剣に向き合っていれば少しは結果が変わったのかなとも思います。<br><br>　K市の総合病院は通うには遠いので、自宅のある隣の市の個人病院を紹介してもらい通院が始まりました。「一人で大丈夫、付いてくるな」と強く言いはる父。3ヶ月に一度受診して薬を処方してもらうだけと考えて無理に付き添うことはやめました。投薬や診察がよかったのか、それ以降とくに変わった様子もなく順調な日々が続いていました。<br>震災の起こるあの日までは……</p>
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<link>https://ameblo.jp/sima-yuu/entry-12419199045.html</link>
<pubDate>Thu, 15 Nov 2018 13:30:36 +0900</pubDate>
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