<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>sinchokokiのブログ</title>
<link>https://ameblo.jp/sinchokoki/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/sinchokoki/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>ブログの説明を入力します。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>信長公記16～19</title>
<description>
<![CDATA[ <div>１６<br>斯波の騒動に好機を見た今川駿河勢は、信長の小河城を狙いに定め、近くの村木というところに砦を築いた。信長はこれに対し自ら出陣する意気であったが、清洲から名古屋に軍兵を差し向けられるのは必須、道三方へ一部隊を派遣するよう依頼を出した。<br>1554年1月18日、道三は名古屋の留守役として大将安藤守就と1000の兵を向かわせた。信長は安藤への挨拶もそこそこに、小河城に急いだ。22日はことのほかの大風であり、船頭水夫は口々に「渡航はできまい」と進言するが、「源平争乱の昔、義経と景時が福島で逆櫓を付けるかで争った際もこのようであったろう。是非とも船を出せ」と信長は強引に船を出させ、20里ばかりを1時間で着岸した。駿河衆が立てこもる村木城は、東は大手、西は裏手、北は手薄だが要害、南は瓶形に固めた堀を備える堅固な守りである。信長自身は南の攻めを受け持った。信長は堀端に立ち、城の弓櫓の狭間を鉄砲で取りかえひきかえ撃つよう命じ、その他の全軍は堀を上るよう命じた。兵どもは信長自身のかけ声に奮い立ち、突き落とされては這い上がる有様で、負傷者、死者も山のように積み上がったが、いよいよ疲弊した城内は降参を申し出るに至った。<br>美濃に帰陣した安藤は、信長の難風中の渡海や南方からの城攻めの様子をいちいち細かく道三に伝えたところ、「隣には恐るべき男がいるものだ。」と感嘆したという。</div><div>&nbsp;</div><div>17<br>清洲城城主の坂井大膳は、織田三位や坂井甚介といった松葉城乗っ取りの同士が討ち死にした難局を乗り切るするためには、当面織田家の恨みを避けること肝要と考え、清洲城の従来からの守護代織田信友のほかに、新たに織田信光を守護代に迎え据えた。信光は、内心坂井許すまじとの思いであったため、表では快諾したふりをし、密かに信長と内通していた。1555年4月20日、信光のあてがわれた清洲城南櫓を坂井大膳が礼に参った際、信光は一気に決着しようと、軍兵を配置させたが、城中異様な気配を感じた大膳は風をくらって逃げ去り、駿河の今川義元を頼った。肩透かしを食らった信光は、代わりに大膳を保護した守護代信友を切腹に追い込んで清洲城を乗っ取り、そのまま信長に清洲城を献上した。</div><div>&nbsp;</div><div>18<br>さて、先の坂井大膳に対する仕置において、信長に従わず行軍から立ち退いた者がいた。一番家老の林新五郎とその弟林美作守であった。林兄弟は、大膳の騒動後、信秀葬儀の際に信長の弟信行側に着いた柴田勝家を担ぎ出し、三人で信行を盛り立てる計画を立てた。信長はその風聞を薄々感じていたものの、特段の動きを見せることはなかったが、信行が信長直轄領の三郷を横領したことを受け、佐久間盛重に三郷付近の砦を築くよう命じた。<br>1556年8月23日、砦がまだ完成しない中、大雨が降り、河の水が著しく増した頃を見計り、柴田勝家は手勢1000人を率い、林美作守700人とともに出兵した。信長は軍勢700人を守りやすいやぶぎわに陣取らせ迎え撃ったが、屈強の者ども続々と打たれ、皆信長の前へ逃れてくる。士気を高揚させたのは森可長ら槍持ちの中間衆で、槍を突き突き勢いを押し返した。信長も大音声で怒鳴り散らした。さすがの敵ももともと身内の者であり、信長の威光に恐れをなし足を留める者が徐々に増え始めた。信長と中間衆の勢いは林美作守の軍勢まで切り込んだ。美作の疲弊した姿を捉えた信長は、槍を突き伏せ、美作守の首をとった。勢いを失った柴田、林の軍勢は総崩れとなった。<br>信行は母の土田政久女を通じ信長に謝罪の意を再三申し上げたことにより、信長は信行ばかりでなく柴田勝家、林新五郎らも許された。林新五郎については再び召し出すことは困難と思われたが、林美作守が信長の丸腰を機貨として切腹を迫ろうとした際、林新五郎が「三代相恩の主君をこのような時に討つことは天道の怒りに触れ許されるものでない。せめて別の機会を待つべきだ」としたことを引き合いにしたものであった。</div><div>&nbsp;</div><div>19<br>弟の信行とは別に、兄の信広も、信長に対し反旗を翻そうと企んでいた。信広は美濃の斉藤氏と次のように示し合わせた。「信長は敵の攻撃にはいつも軽率に出向いていく。城に残った佐脇も迂闊者なので、信広の軍勢を城内で迎えた隙に佐脇を討ち、清洲城を乗っ取る。その後、斉藤勢と挟み撃ちにすれば信長に引導を渡せるだろう。」美濃衆はすぐに軍勢を清洲城に向けた。美濃衆の行軍がいつもより浮き足だっているとの進言を受けた信長は、家中に謀反があることを瞬時に悟り、「佐脇を城から出すな、信長が帰るまで一人も入れるな」と命じて、兵を向けた。信広はすぐさま全軍を清洲に向けたが、町に一歩も入れなかったため、謀反が知れたかと、早々に引き返した。美濃衆も引き上げる。信長も帰陣する。この時には大事に至ることはなかったが、信長の周りにはいつもこのように敵ばかりで、身内も背き、ただ一人であった。しかし、そのようだからこそ、連戦を勝ち抜く屈強の戦士800人が常に信長と共におり、信長が合戦において不覚をとることはなかった。</div><div>&nbsp;</div><div>&nbsp;</div>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/sinchokoki/entry-12168467244.html</link>
<pubDate>Wed, 08 Jun 2016 04:18:18 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>信長公記首巻10～15</title>
<description>
<![CDATA[ <p>信秀葬儀から一月、1549年4月のこと、斎藤道三から、「富田の正徳寺まで出向くので、信長殿もお出でいただきたい」との申し入れがあった。「信長は大あほう者だ」と道三に告げ口する者多かったが、道三は、「周りからそう言われるときには決してそのようではないだろう」と考え、その真偽を確かめようとしていた。<br>信長はためらいなく申し入れを受け、お供衆800人に朱槍500本、鉄砲500丁を持たせ、木曽川、飛騨川の大河を渡った。道三は、町外れの小家に忍んで、信長の様子をそっとのぞき見た。その時の信長の身なりは、いつものように、ちゃせんまげに豹柄の半袴、火打石などぶらさげていた。道三は正徳時に戻り、信長を待ち受けた。信長が正徳寺に着いた頃の様子は、うって変わって髪をきちんと折り曲げ、人知れずこしらえた褐色の長袴を履き、小刀を差していた。<br>信長が御堂へ上がったところ、堀田道空が「はやくお出でください」と迎えたが、信長は知らぬ顔、諸将の前を素通りし縁の柱にもたれて待った。<br>道三は屏風を押し退け姿を見せたが、信長はなお知らぬ顔を通すので、見かねた堀田道空は「これが山城殿でござる」と近づくと、信長は「そうか」と受け、敷居から中に入り、堂々座敷に座し、道三に一礼した。<br>道空が両名に湯漬けを差し上げ、両名互いに杯を交わし、対面の儀は滞りなく済んだ。信長は「またいずれお会いしましょう」と座を立ち、道三は2㎞ほどを見送った。その時、美濃衆の槍よりも、尾張衆の槍々が長く、道三は苦虫を噛み潰した様子で、言葉もなく御堂へ戻った。<br>帰りの道中、道三の家来兵助が「信長はやはりうつけ者ですな」と向けると、道三は、「誠に無念だ。我が子はあのうつけの門外に馬をつないで仕え働くことだろう」と答えた。それ以後、道三の前で信長をうつけと呼ばわる者はなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>1553年4月、信長御年19の時、父信秀は急逝した。信秀が目をかけていた鳴海の城主、山口教継とその息子教吉は、信秀が亡くなるや謀反を企て、今川の駿河衆を味方につけ、尾張領内に乱入した。鳴海城は教吉にまかせ、教継は中村の里に要害を拵え立てこもった。信長は直ちに軍兵800ばかりで出発、鳴海城の北西2kmに迫った小鳴海の三の山へ駆け上った。教継は直ちに打って出て、三の山東1kmの赤塚へ、1500の軍兵を向けた。この様子を三の山から見た信長は、赤塚へ軍兵を向け、先陣の足軽衆同士が矢を放ち、入り乱れ、火花を散らして戦った。敵味方互いに見知った間柄で、少しも油断がならなかった。数時間後、山口教吉の軍兵が優勢で終わったが、その後、馬や捕虜を互いに返し合った。</p><p>&nbsp;</p><p>同じ年8月、今度は清洲衆家老の坂井大膳、坂井甚六らが謀議し、松葉城の織田伊賀守と深田城の織田信次を人質に取り、両城を手に入れた。信長はすぐに名古屋を発ち、信秀の弟の信光とともに、ふもとの川口に軍勢を寄せ、相戦った。信次のお抱えの者で、腕に覚えのあった赤瀬清六という男が先を争い坂井甚六と渡り合ったが、しばらくして清六が討ち死にした。しかしながら、疲れ果てた坂井甚六も、その後柴田勝家に首を取られた。数時間に渡る矢戦の後、正午頃、清洲衆に負傷者多数、清洲城へ引き上げ始めた。そこへ信長、すかさず二城を囲み、敵は降参、城を明け渡した。信長は清洲城の周りの田畑を全て刈り取り、清洲城を丸裸にした。<br><br>さてその清洲城には、16の若年ながら、兵卒300人を従える名古屋弥五郎がいた。弥五郎は、斯波義統の臣下の梁田弥次右衛門を呼び、「清洲に不和を起こさせ、信長様にお味方し、知行をおとりなさい」と唆した。弥次右衛門は信長のもとへ訪れ、忠節を尽くしますと密かに明かしたところ、信長は一方ならぬ満足ぶりであった。信長は清洲城に軍兵を引き入れ、町を焼き払ったが、城中の守りの志気高く、弥次右衛門の動く隙を与えなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>1554年7月、清洲衆の坂井大膳らは、清洲城内の手薄な頃合いを見計らい、今度は斯波義統の御殿を取り囲んだ。四方の屋根から弓衆が散々射立てるので、かなわず御殿に火をかけ、斯波義統はじめ一門の方々、数十人が切腹を果たし、高貴な侍女は堀へ飛び込み、溺れ死ぬ者、絶え絶え渡った者、哀れな有様であった。信長は速やかに清洲城へ柴田勝家の軍勢を向けた。清洲勢も城下村で防戦するも、信長方の槍の方が長いため支えきれず、外れの堀に追い込まれ、優れた武士30騎あまりが討ち死した。清洲勢主格の織田三位も、斯波義統家来で若年17、湯帷姿の由宇喜一に首を捕られ、信長の賞賛ひとかたでなかった。斯波義統死後7日のことで、天道に違わず、織田家の父祖以来の主君を殺した織田三位の因果は明白であった。</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/sinchokoki/entry-12157823821.html</link>
<pubDate>Sat, 07 May 2016 11:34:47 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>信長公記首巻１～９</title>
<description>
<![CDATA[ <p>尾張の国は、真ん中を川で隔てられ、北は織田信安の、南はその弟の織田達勝の支配下にあった。達勝は、守護職の斯波義統を清州城に置き、三人の奉行を仕えさせていた。<br>その一人が織田信秀であり、尾張の国境にある勝幡城を任されていた。<br>信秀は、名古屋を丈夫な要害とするよう、嫡男の織田信長に城を守らせ、自身は熱田の近くの古渡というところに新城を造った。信長は、毎日天王坊というお寺に通い勉学に励んだ。</p><p>&nbsp;</p><p>1542年、今川義元率いる駿河衆の軍勢が三河の正田原へ進出し、軍兵を七段に配して戦陣を整えた。三河の安城は信秀が守っていたが、小豆坂での合戦で敗れ、安城には駿河衆が入ることとなった。</p><p><br>1546年、信長は、古渡の城にて元服した。翌年初陣した信長は、紅筋の頭巾、馬乗り羽織、馬鎧という出で立ちで、手勢をつかわし三河の吉良大浜をあちこち放火し、名古屋に帰陣した。</p><p><br>1547年、信秀は、尾張国中の将兵を集め、美濃の国へ乱入し、斎藤道三が守る稲葉山城の町の入り口まで攻め込んだが、城の守りは案外固く、夕方に仕方なく兵を引き上げようとするや、道三勢が城の外へどっと切りかかり、信秀の弟信康を始め、織田勢50人あまりが討ち死にした。その時の一人である千秋紀伊守が持っていた名刀あざ丸を、美濃衆の蔭山掃部助が奪ったが、蔭山はその後、敵方から射ち込まれた矢が左の目をつぶし、引き抜くと今度は、右の目を射ち抜かれた。不思議なことに、その後丹羽長秀の元にわたるが、長秀も直後眼病を患った。熱田大明神に奉納したところ、立ちどころに目もよくなった。その名刀あざ丸は、昔平家の盲目の大将景清が差していたものとのことであった。</p><p>&nbsp;</p><p>道三は、この9月20日の合戦に勢いづき、11月、織田播磨守が守っていた美濃の大垣城に攻め寄せた。古渡の信秀にもその旨の注進があり、それならと諸将から兵を集め、木曽川、飛騨川の大河を船で越え、美濃に乱入しあちこちに火をつけた。道三は慌てて大垣城から兵を引き、稲葉山城へ引っ込んだ。</p><p>信秀の留守中、古渡では清洲衆が反乱の兵を挙げ、城の付近を放火する矢先に、信秀が帰陣した。信秀家老の平手政秀は、清洲衆となんとか和解するよう、書状を幾度となく書きしたため、翌年秋、ようやく和平の合意に至った。正秀が和睦の書状に付した古歌が一首。「袖ひぢて結びし水のこほれるを春立つけふの風や解くらむ」</p><p>&nbsp;</p><p>その平手正秀は、尾張の安泰を願い、信長と道三の娘濃姫との縁談を発案した。めでたく縁談は取り結ばれ、濃姫は尾張に呼び迎えられた。信長は18の頃まで馬の稽古や川の水泳はもちろんのこと、弓、鉄砲や兵法の師匠を常に側近く置いて、幅広く稽古に励み、一日一日を武士として有為に過ごした。身なりは湯帷子の袖をはずし、半袴で、火打ち袋をぶら下げ、髪をちゃせんまげに結い上げ、もとどりを紅や萌黄糸で結い、朱ざやの太刀を差し、お供にも朱色の武具をつけさせる有様で、町中人目をはばかることなく、瓜など食べ歩き、時には餅を頬張り、人の肩にぶらさがるような恰好で、周りは「大うつけ」と呼ぶ者ばかりであった。</p><p>&nbsp;</p><p>1549年3月、信秀は疫病にかかり、祈祷や療治の甲斐なく、御年42年で逝去した。国中の僧衆のほか関東に行き来する会下僧も含め、300人に及んだ。信長には、平手正秀はじめ家老衆が付き従う。弟の信行には、柴田勝家、佐久間信盛ら家臣が供をする。まずは信長が焼香に立つ。ちゃせんまげに袴も通さず、仏前へ出、抹香をかっとつかんで投げつけてそのまま背を向け後にした。対し弟信行は、袴を召し礼にかなった作法により無事に済ました。周りの者は、例のごとく信長を「大馬鹿者よ」と囁く中、一人筑紫から来た客僧は、「あの人こそ国持ちの大名ともなるべき人よ」と評した。信長の幼少から仕えた平手正秀は、信長のまじめでない様子が一向に変わらないのを悔やみ、「今まで盛り立てて来た甲斐なく、存命していても仕方がない」と、腹を切って、息果てた。</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/sinchokoki/entry-12157297505.html</link>
<pubDate>Thu, 05 May 2016 20:56:46 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
