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<title>skukutokubbcのブログ</title>
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<description>淑徳高校硬式野球部32期の野球人生です</description>
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<title>定岡映太</title>
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<![CDATA[ <div>大人になる前の大青春、「高校野球」。僕は大学で野球をやらないつもりだ。そんな最後の夏。有終の美を飾る前に自分の野球人生を振り返る。</div><div>(長くなりますが最後まで読んで下さると嬉しいです。メンバーは睡眠優先で明日読んで！)</div><div><br></div><div>僕が野球を始めたのは幼稚園の年中のときだ。</div><div>年少のときに剣道を始め、野球を始めたと同じ時期にサッカーも始めた。剣道は結局7年間続け、サッカーは1年でやめた。他にも小学校の頃は水泳もやった。</div><div><br></div><div>野球を始めたきっかけは、母親が「休日に男3人も家にいるのは邪魔だ。」と言ったこと、そして父親が生粋の野球バカという理由から始めた。全国屈指の強豪、東練馬リトルリーグに入った。通称「ひがねり」だ。最初はボールが飛んでくるのが怖くてフライを取ることさえできなかった。でもちょっと時間が経って、気づいたらそんな怖さは無くなっていた。そしてすぐに試合がやってきた。今でも覚えている出来事がある。僕は人生で初めて打席に立った。そこで僕はショートゴロを打った。僕の打つ前の心境は、「これ打ったら右にあるベースと左にあるベースどっちに走るんだ？前のバッターが右に走っていったから今度は自分が左に走るのか？どっちに走ろう」だった。そのときは全然野球のルールをわかっていなかったためにそのような心境になってしまった。悩んだ末、ボールを打って走った方向は左のベース(三塁ベース)だった。 2分の1を外した。その途端、味方のベンチから「そっちじゃない！逆だぞ！」という声が聞こえ、そっから一塁ベースへ走り直した。そしたら相手のショートが暴投してくれて、ボールデッドになり、なんと2塁までいけた。実質ツーベースヒットだ。僕の初打席は濃いものだった。</div><div>リトルリーグでは小学２年生以下は「ジュニア」という区分で「ティーボール」、ティー台に置かれたボールを打つ野球をする。僕はその頃、ひたすら騙し打ちをしていた。レフト方向に打つとみせかけて右中間に大きいのを打ち、エンタイトルツーベースを打つのが得意だった。また守備も得意だったので野球をやることは楽しかった。しかし、そのときの監督がものすごく厳しい人だったので、土日の朝、起きたらすぐその監督を想像して震えていた。でもその監督に褒められることは何よりも嬉しかったので、何とか最後までくらいついた。結果的に最後のブロック大会で優勝できた。ものすごく嬉しかった。</div><div>今思えば、そのとき厳しい指導をしてくださったおかげで野球に対して本気になるという心が育ったと思う。本当に感謝している。</div><div><br></div><div>小学3年生と4年生の「マイナー」という区分になった。ここから硬式野球が始まった。初めて硬式ボールを触ったときは硬すぎて怖かったが、胸を守る「胸パット」をつけてたおかげで、気持ち的に楽になり、怖さも無くなっていった。この時期から人数も増えてきて、周りに上手い人たちもたくさんいた。僕たちは東京で優勝し、MLBカップ(全国大会)に行くことを目標に練習していた。そして迎えた1番大きな大会、優勝すればMLBカップにつながる大会。予選で勝ち、決勝トーナメントの初戦で自分は硬式野球で初めてのホームランを打つことができた。</div><div>インコース高めのまっすぐを被せ気味に引っ張り、左中間のフェンスを超えた。嬉しすぎたのと、本当にホームランを打ったんだという驚きで、ダイヤモンドを1周するときに鳥肌がたった。今でも覚えている感覚だ。そしてむかえた準々決勝、相手は強豪東京中野リトル。惜しくも負けてしまい、そこで今までで一番の悔し涙を流した。本気でMLBに行こうとみんなでやってきたのに勝てなかったことが悔しすぎた。その試合で覚えているのは、相手の現関東一高の主将、井口の詰まった一二塁間のゴロを自分はセカンドで1歩目が遅れて追いつけずにタイムリーとなってしまい、その失点が負けに大きく響いたことだ。現時点でもその仮は返せてないので、この夏に返したい。</div><div>そして小学校5年生と6年生の「メジャー」という区分になった。主将定岡（兄）率いる2個上の先輩たちが全国3位になったのを見て刺激を受けたこともあり、僕たちは全国優勝を目指すようになった。過酷な練習もみんなで乗り越えた。特に野球の練習が終わった後の、ランメニュー「10×10×10」と「15分間走」は精神的にもすごく追い込まれるメニューで、自分たちをものすごく成長させてくれたメニューだった。そこからチームは強くなっていき、東京大会で何回も優勝することができるまでのチームになった。しかし、コロナの影響で全国大会まで繋がる大会がなくなってしまった。僕たちの目標は達成することができずに終わってしまった。しかし、マイナーのころに達成できなかった東京優勝をできたことはすごく嬉しかった。その頃自分は3番セカンドで出場していて、とにかく振ればヒットになってくれるというくらい、感覚が良かった。</div><div>そして中学生になった。リトルリーグの周りの人たちは坊主にしてそのまま東練馬シニアに進むか、他のシニアに進むかをしていた。しかし自分はどうしても坊主が嫌という理由、そしてその頃中学校のバスケ部の体験に行ったら楽しかったという理由で、野球を辞めてバスケをするという決断をした。正直自分の中でも野球はリトルリーグでやりきったような、そんな気がしていたと思う。ボールが大きくなっても、球を扱う感覚が悪くなかったので、バスケ部ですぐに試合に出してもらえて、すごく楽しくて、「自分はもう野球じゃなくてバスケだ。」と思っていた。結局バスケは中3まで続けた。</div><div>しかし中学2年生になる頃、その頃ずっと行っていた光が丘公園で友達とバスケをしていると父親から、ひがねりが坊主が強制じゃなくなったという趣旨のLINEがきた。その頃僕はまた野球をやることを少し考えていた。なので、そのLINEをみて僕は、今まで長い間やってきた野球だから、もう1回始めるしかないと思い、野球を再開しようと思った。そしてシニアのコーチと面談したときに、「今からだと試合に出れないで終わる可能性ある」と言われたが、僕はリトルで活躍していたし、1年間野球から離れたところで大丈夫だろ。すぐ追いつけると思った。しかし現実は甘くなかった。いざ東練馬シニアに入ったら同学年とは思えないほどごつくてオーラのあるやつばかりで、野球もありえないくらい上手かった。東練馬シニアははっきりいって中学硬式野球の超名門。僕らの学年だけで50人いた。途中から入団したのは自分1人だけで、僕が入ったとき、周りは伸びかけの坊主。周りから見た自分は、〝ロン毛の色白のヒョロガリ〟だった。そしてシニアに入って初めてキャッチボールをした岩橋和志にも「なんだこいつ」という目で見られたのを覚えている。それはそうなるよなと思った。</div><div>そして1年間野球をしていなかった代償はでかく、ノックでもトンネルばっか。そしてリトルリーグに比べて球が来ず、バットがボールに当たらなかった。周りについていける気がしなく、やっぱ野球を辞めたいと思った。父親にも辞めたいと言ったが、シニアには途中から入らせてもらったので、やめることはもちろん反対された。その頃はいやいや野球を続けた感じだった。でも練習してくうちに感覚が少しずつ戻ってきて、試合に出れるようになってきた。一軍で出てる人が上手かったので結局僕らの代は全国準優勝まで行った。結局自分は二軍のショートでそこそこ活躍したが、正直埋もれていた。しかしシニアで1つ自信のついた出来事がある。中３の正月、毎年正月に行われるOB対現役の試合で一個上の専大松戸のピッチャーからホームラン、大阪桐蔭のピッチャーからフェンス直撃の二塁打を打った。これには自分でも驚いた。嬉しかった。意外と自分でもやっていけると思った。</div><div><br></div><div>高校は、そのとき高二だった定岡(※兄貴のことを定岡と呼んでいるので定岡とは兄のこと。)が淑徳のことを「やらされる野球じゃなくて自分で考えて練習できる」と勧めてくれたことで、ここなら野球を楽しくできると思い、定岡と同じ淑徳高校に入学した。定岡から「お前なら1年から試合に出れるぞ」と言われていた。正直弱い高校に入学してきたと思っていたし、「弱いんだからそりゃ俺でも出れるっしょ」という心境だった。</div><div>1年生の夏、東練馬シニア時代僕と一緒に埋もれていた岩橋はスタメンで活躍しているのに対し、自分はスタメンで出れなかった。夏の大会も、ベンチに入れたことは嬉しかったが、初戦しか試合に出れなかった。そしてその夏、チームはベスト8まで行った。準々決勝の帝京戦、神宮のコーチャーボックスに立っているだけで足が震えたのを覚えている。夏の大会の雰囲気をそこで初めて実感した。自分も和志や先輩みたいにここで活躍したいと思った。</div><div>1年秋、自分はそこでスタメンに定着できた。チームはベスト4まで行った。自分はその大会、チームで1番打った。準決勝では甲子園で好投するピッチャーからもヒットを打てた。自信になった。正直ここまで勝ち上がれると思っていなく、びっくりした。四強の中では正直場違いだったが、甲子園であと1歩のところで負けてしまったので悔しさも残った。後に早実が甲子園で活躍してるのを見ると、「あの試合勝っていたら...」という気持ちになった。</div><div><br></div><div>そして2年の春大。春前の関西遠征でチームは帝京長岡戦でコールド勝ちし、智辯学園戦も負けてしまったがいい試合ができた。自分としてもレベルの高いピッチャーから打てていたし、チームとしても甲子園レベルのチームと戦えたことで、法政戦も正直勝てると思っていた。しかしサヨナラ負け。自分は3安打3ファインプレーと調子は良かったが、終始なんか嫌な空気が漂いMAX140キロ超えの八重尾さんの真っ直ぐでさえなぜか打たれ、結局負けた。この敗戦があったからこそチーム全体に火がついた。</div><div><br></div><div>1年生が加わり、サードに井上、ショートに濱田がスタメンで活躍するようになった。その結果関さんと自分がセカンドに回り、しまさんと3人でセカンドを争うことになった。今までで1番大きな試練が訪れたと感じた。バットが思うように出てこなくなり、すごく悩んだ。このままじゃダメだと思い、部活が終わって帰ってからも家の下の駐車場で素振りをした。どうしても負けたくなかった。西武台戦、僕は途中から出て、1打席のチャンスで左中間にツーベースヒットを打てた。ほっとした。そこから、スタメンに定着できて、背番号「4」をもらえた。</div><div><br></div><div>しかし1番の試練はここからだった。迎えた夏大。3回戦の日体大荏原戦。僕はセカンドゴロワンテンポ握り変えが遅くなりバックホームしたがセーフになり先制点を許した。またその後の回で暴投した。そしてまたその後の打席ではワンバウンドする変化球を振ってしまい三振。エラーしてそのままずるずる悪い方にいってしまった。途中交代した。その後に出たしまさんが活躍し、その試合は勝てたが僕は悔しくて試合後に泣いてしまった。絶対もうこんな情けないことはしないと思った。4回戦の立志舎戦はスタメンで二塁打も打てて守れた。しかし5回戦の二松学舎戦からスタメンを外れた。僕の代わりに出るしまさんがエラーしてもそれを帳消しにするタイムリースリーベースを打っていた。その活躍もあり、チームは選抜出場校を倒した。勝ったことは自分も嬉しかった。しかし、その試合で自分は出番がなかったため、悔しくて帰り道1人でまた泣いていた。そして修徳戦も行きの電車でスタメンではないことがわかった。でも途中から出ると信じていたので準備は怠らずにした。そしたら途中から出番が来た。いきなりセカンドゴロが2回飛んできた。どちらも処理できた。そのときはとにかくこの準々決勝の神宮の舞台が楽しすぎたという感覚しか覚えていない。そして最終回、ビハインドの場面。チャンスで打順が回ってきた。今まで見たことない、途中までストレートでそっから浮き上がりながら曲がるようなスライダーがきた。意地でも打ってやると思ったがバットが空を切り三振。打席中、ピッチャーに集中してても鳥肌が経ってしまう一塁側アルプスから聞こえる大応援は、人生で感じてきた中で1番の迫力だった。それに答えられなかった。最終回のアウトは全て、下級生の三振だった。僕たちのせいで最後下居さんに回せず、先輩の夏を終わらしたと思った。涙が止まらなかった。その日、泣きすぎて気持ち悪くなって吐きまくった。本当に悔しすぎた。絶対自分の代でこの仮を返すと心に誓い、自分たちの代になった。</div><div>&nbsp;</div><div>秋は強いとこに勝てて淑徳史上2度目の本戦出場を成し遂げた。そして春前の関西遠征。去年の夏甲子園出場校の東大阪大柏原とやった。その試合はおばあちゃんが1年間で唯一見に来てくれる試合だった。自分はそこで満塁ホームランを打てた。「そこで打てるんや俺」と思った。チームとしても負けてしまったがいい試合はできた。そして迎えた春大、ベスト8までいけた。自分たちの代で勝てるかはもともと不安だったが、しっかりやることをやって戦えば勝てる実力はあるんだと実感した大会だった。自分としてもチャンスの場面で何回も打てて、チームで1番打点を稼いだ。でも準々決勝佼成学園戦のチャンスでは打てなかった。そこで打ってれば勝てた試合だったし、まだ物足りないなと思った。もっと高みを目指さないといけないと思った。</div><div><br></div><div>そして今迎える最後の夏。背番号は「10」。本当は1桁が良かったが、素直に納得した。今までは1桁だったがほぼ下位打線だったし、また1桁をもらっていたら絶対心のどっかで満足してた。この番号に反発して1桁以上の結果を出してやる。</div><div><br></div><div>初戦の相手は修徳。抽選で相手が決まった時、こんなことあるのかと思った。これ以上にない舞台が整った。去年のリベンジができる。本当にこんな最高なことはない。集大成。全部出し切る。最高に長くて熱い夏にしよう。</div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div>和志へ</div><div>ひがねりの頃と比べて色んな意味でかっこよくて頼もしいやつになったね。高校でも一緒にやれて良かった。最高だよ。この夏かまそうな。</div><div><br></div><div><br></div><div>後輩へ</div><div>特に2年生、こっから1年経つのまじで早いから、やろうと思ったことを先延ばしにするんじゃなく「今」から実践しよう。トレーニングも今からやれば今細い人も1年後にはすごくでかくなってる。頑張れ。</div><div><br></div><div><br></div><div>秋山へ</div><div>俺らの代のキャプテンをやってくれてありがとう。秋山とはバチバチに言い合ったりしたときもあったけど、常にチームが勝つためにどうしたらいいか考えてくれてそのために誰に対しても強く言える最高のキャプテンだよ。やっぱお前しかいなかったと思う。情けない俺たち先輩の面倒まで見てくれてありがとう。</div><div><br></div><div><br></div><div>定岡へ</div><div>物事の考え方とかマインド、それに野球のことも筋トレのことも恋愛のことも全部定岡と話するのが楽しかった。今まで定岡を見習って背中を追う時は追って、反面教師にするときはした。そのおかげで今の自分があると思う。そしてなんと言っても1番俺の事を応援してくれる最高の兄貴。定岡のおかげで去年の修徳戦のあの大歓声がうまれたよね。この夏も頼むわ。早く佳代と祐介と一緒にビール飲もう。</div><div><br></div><div><br></div><div>今まで支えてくださった人たちありがとうございました。この夏、結果で恩返しします。&nbsp;</div><div>最後まで見ててください。</div>
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<pubDate>Sun, 12 Jul 2026 21:33:06 +0900</pubDate>
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<title>小野楓馬</title>
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<![CDATA[ <div>仲の良い友達がやっていたから何となく野球を始めた。これが今後の人生を大きく苦しめるとは知らなかった。</div><div><br></div><div>4年生の時に野球を始めた。当時の監督が鬼のように怖くて、雨降らないかなとか考えて生活してた。小学生高学年になると監督が別の人になり、あまり厳しくない環境になり野球が楽しくなった。朝に野球道具を持って学校の校庭に集まり、野球をしたりゲームをしたり遊んだりで毎日が楽しかった。野球というスポーツを純粋に楽しんでいた。自分は成長期が他の人よりも早い方で、小学生の頃は割と活躍出来ていた。打球を体育館まで飛ばして壁を軽く壊したりしてウキウキしていた。練習試合で3試合連続でホームラン打ったり、ピッチャーでも周りよりも球が早かったりで、地元最強だなとか思っていた。</div><div><br></div><div>まあ色んなことがあり、中学でも野球をしようと思い、中学の野球部に入った。シニアはガチすぎて嫌だなと思っていたので選択肢には浮かばなかった。坊主も当時は嫌だったので尚更シニアには行く気がなかった。自分が行く中学野球部の顧問はとても良い先生らしい、ということを聞いていたので期待を膨らませながら入部した。実際にその先生は良い先生だった。が、怖すぎた。怖すぎる。怖い。見た目からまず怖すぎる。焦げてんのかってくらい焼けていて坊主で3mくらいでかくて、あんなに怖そうなオーラを放っている先生は初めて見た。しかも、中学1年2年と担任の先生になってしまった。流石に2年も担任だと慣れたけど、はしゃいだりしたら怒られる。という常に気をつけないといけない緊張感があった。そして、1つだけ大きなデメリットがある。それは昼食がキツすぎる、という事だ。野球部の顧問が担任なので、当たり前のように食べさせてくる。自分の学校はクラスが6クラスあったのだが、他のクラスが余った牛乳やパンや麺を全て自分のクラスに持ってくる。これが本当にキツかった。主菜や副菜が余ったら容器を持ってクラス中を周り、勝手に皿に入れてくる。ご飯なんかは余ってると名前を呼ばれて入れられる。友達の野球部は調子乗って食べすぎて吐いたりしていた（笑）。牛乳は毎日600ml以上は飲まされていた。その影響か、身長が165cmまで伸びた。中学のチームは割と強くて大会でも優勝したり良い結果を残していて、沢山勝てた。練習試合でもほぼ負け無しで、県内の強豪は全て討伐した。でも、大事な大会だけは弱かった。これがなんでか本当に分からない。そうゆう代だったのかもしれない。1年の時から試合に出させてもらっていて、多くの経験を積ませて頂いた。でも悩んだこともある。怪我だ。試合に出させてもらっているのに関わらず、3ヶ月に1回程のペースで怪我をしていて、チームに大きく迷惑をかけてしまったなと思っている。最後の大会でも、肩を怪我していて万全な状態ではなかった。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。それでも中学時代の3年間はとても濃く、楽しかったなと思う。淑徳高校にも来ている友達が、ピリピリしている場面でとんでもない方向に暴投をして、顧問にとどめを刺して帰らせたり、ゲームノックで3回連続でライトオーバーを打たれてゆっくりと処理をしていたら怒られて練習を出され、その後に部室で1人で泣いてるやつがいたり、帰り道に僕たちが煽りすぎて1人で早歩きで帰っていき、2、3歩歩いた頃にはもうその姿は見えなかった。というような人達がいて、とても愉快だった。</div><div><br></div><div>高校では野球を辞めるか、緩くやりたいなと思っていた。「練習が自由」そう聞いてまず緩そうと思った。その判断が僕の高校生活を大きく変えた。入部したら気合いの入りまくった先輩が多くいた。こんな部活とは思っていなかったと気付いた時にはもう遅かった。みんなここに野球をしに来ているんだ。そう思った。でも先輩やみんなと話していると、自分と同じテンション感で入ってきた人もいて、その人達がいることで自分の気持ちも少し楽になった部分もあった。軍団にはとても感謝をしきれません。だけど、自分が思っていたのと違うからといって手を抜いていた訳ではなかった。でもそれほど本気でやっていたかと言われたらそうでもなかった。これが自分の悪い所だとつくづく思う。</div><div>1年生の頃はずっとBチームで、補助をしていた記憶しかない。補助と割り切っていたので、今自分が置かれた環境でベストを尽くそうと思い、どうせやるなら楽しく全力で練習の補助をやらせて頂いていた。僕たちの補助のおかげもあってか、秋大会で先輩達が東京ベスト4まで勝ち上がった。めっちゃ強いなこの高校と思った。自分は緩いと思っていた高校が東京ベスト4なんて思ってもいなかった。そして夏大会でもベスト8。たまたまとかじゃなくて本当に強いんだなと心から感じた。</div><div>そして自分達の代が来た。キャプテンは1年生になった。だけど、僕たちはそうゆう代なんだなと納得した。先輩達が2年連続で夏大会でベスト8まで行っていて、この代はそんな所まで勝ち上がれるのか不安だった。もし初戦負けだったらどうしよう？そんな夏休みの怒涛の練習が始まった。この部活はお盆休みがない。最初はまじかと思っていた。今でも勿論思っている。毎日の様に部活があり、練習試合もあり、先生達に怒られる。大地震が起きてグランドが真っ二つにならないかなとか考えたことも多々ある。この夏休みの期間は体感2年間くらいに感じられた。それでも毎日部活に行っていた自分は偉いと思う。そんな事を考えていたからか、秋大会の予選ではメンバーから外れてしまった。もう部活を辞めようかなとも思った。辞めたら何しようかなとか考えたりもした。だけど、自分のことを応援して励ましてくれた人がいる。𝓜𝔂 𝓯𝓻𝓲𝓮𝓷𝓭だ。そんな人の為にも、こんな所で終わってらんないなと思った。メンバーを外れてしまったから、出来ることを精一杯やって、少しでもチームに貢献しよう。そう思った。そこで僕の才能が開花される。バッピだった。中学までピッチャーもやっていたのだが、肩を壊してしまってからはしていなかった。高校入ってから1度試合で登板したが、2イニングで7失点と、とんでもないパフォーマンスを披露した。だが、1年の頃から先輩のバッティング練習でご指名が入る程の実力を持っていたのだが、その実力がこの時期に開花した。チーム内では、自分のバッピを打てたら東京都内で打てないピッチャーはいない。そんな風潮まで広がっていた。予選は勝ち進む事ができた。予選と本戦の間でメンバーを入れ替えることができ、その間の練習試合等でアピールをして、守備固めという形でメンバーに入ることができた。素直に嬉しかった。なぜ守備固めなのかというと、僕がバットにボールが当たらないからだ。監督は最初、良い振りはしてるなと思っていたらしいのだが、試合で使ってみたら当たらないから、守備でチャンスを貰った。秋大会後の練習試合ではA戦のスタメンで使って貰った。｢やっと監督も僕の実力が分かったか」とか偉そうなことを思っていた。そして冬の期間、僕は怪我をしてしまった。いつか治るだろ。そう思っていた。そして、いつの間にか治っていた。僕は治癒能力が高いのだ。春大会でもメンバーに入る事ができた。でも試合での出場がなく、チームは勝っていて嬉しいけど自分は何も出来ていないなという素直に喜べない感情もあった。春大会期間でも僕のバッピは火を吹いていた。チームのために投げ続けた。そのおかげもあってか、春大会ではベスト8まで勝ち進む事が出来た。僕たちの代でもベスト8まで勝てた事の安心感が大きかった。春大会後は思うように結果が出ず、メンバーに入ることが出来なかった。悔しいという気持ちよりも、自分の事を応援してくれた人に申し訳ないなという気持ちの方が強かった。特に団長(森本一寬）と真章さんには申し訳ないなと思っています。メンバーから外れた分できることをちゃんとやろうと思う。自分はプレイでは貢献できないから、その分他の所で貢献したいと思う。そして、もう野球はガチではやらない。やるなら緩くやろうと思う。結局そうゆう野球が1番楽しいと気が付いたのだ。こうゆう事を言うとガチでやってる人に批判されるが、それは野球が上手くて野球がとても好きだからだろう。僕は上手くもないし正直そこまで野球が好きでもない。それでも野球を選択した以上、最後の夏大会は全力で応援する。生まれ変わったら僕は野球は選択しないだろう。楽しい事も沢山あったが、苦しかった事が多すぎたからだ。僕は楽しく生きたいのだ。</div><div><br></div><div>みんなへ</div><div>常に周りに野球部がいてずっと楽しかったです。引退後も仲良くしましょう。そして僕たちの代はそうゆう代です。そうゆう代なので最後の大会全力で頑張ろう！</div><div><br></div><div>中倉先生</div><div>いつも何を言ってるのかさっぱり分かりませんでした。それでも人としての部分を多く学ぶことが出来ました。</div><div><br></div><div>小田先生</div><div>いつも優しく寄り添ってくれてありがとうございました。僕の精神的な支柱でした</div><div><br></div><div>谷川先生</div><div>なぜか最近友達に谷川先生にしか見えないと言われます。何かのご縁でしょうか。ご指導頂きありがとうございました。</div><div><br></div><div>大地先生</div><div>大地先生が覚えているかは分かりませんが面談で、上手くいかない時に普通とは逆の事をする｢逆に理論｣を教わりました。当時の僕は革命だ、と思いました。この先もこの理論が活きると思います。</div><div><br></div><div>後輩達</div><div>野球を楽しみましょう！楽しんだ人が勝ちだと思います！</div><div><br></div><div>僕は試合に出ることはないが、今後の小野楓馬の活躍を期待していて欲しい。応援よろしくお願いします。</div>
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<link>https://ameblo.jp/skukutokubbc/entry-12972430201.html</link>
<pubDate>Sat, 11 Jul 2026 22:21:22 +0900</pubDate>
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<title>永田壮寿</title>
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<![CDATA[ <div><div>野球人生</div><div><br></div><div>3日後の7月14日、淑徳高校野球部は夏大の初戦を迎える。相手は修徳高校。去年の夏、準々決勝で負けた相手だ。そんな大事な初戦を迎える前に、僕の今日までの野球人生を振り返っていきたいと思う。長くなりますが、最後まで読んでもらえると嬉しいです。</div><div><br></div><div><br></div><div>僕が最初に始めたスポーツは剣道だった。何でかはわからないけれど、気づいたら幼稚園の剣道教室に入っていた。そこで、のちに高校でチームメイトとなる定岡映太と定岡柊太と出会った。剣道は幼稚園から小3くらいまで続けた。</div><div><br></div><div><br></div><div>小学3年生の4月、近所の友達に誘われ、家の目の前にある小学校の少年野球チームに入った。入ったのはいいものの、周りには自分よりもずっと前から野球を始めたやつばかりで、野球を始めたばかりの僕はチームのみんなに追いつくのに必死だった。練習が終わった後も公園で野球をしたり家の前で素振りをしたりして、チームのみんなに追いつけるように頑張った。4年生くらいになると試合にも出られるようになった。試合に出るときはほとんど9番ライトで、ライトゴロをアウトにするのが得意だった。自分の代は10人しかいなかったけれど、上手いやつが揃っていてとても強かった。区の大会は負けたことがなく、全部優勝して、都大会でも優勝したり3位になったりした。いい思いばかりした小学生時代だった。</div><div><br></div><div>中学では杉並シニアに入った。シニアの練習は、朝5時半に起きてグラウンドに向かい、夕方まであってとてもきつかった。同い年は25人もいて、上手いやつばかりで自分はずっと控えだった。練習試合ではいつもエラーばかりしていて途中で交代させられていた。</div><div>チームは強かった。一年生大会では、当時日本一と言われていた世田谷西シニアのAチームとBチーム両方を倒して準優勝した。もちろん、自分は試合には出ていないけれど。</div><div>なぜかはわからないけど、この時の杉並シニアには一つ上の学年が1人もいなかった。だから上の学年の大会にも出て、それでも関東大会まであと一歩のところまで行ったりしていた。</div><div>僕は最初はめちゃくちゃ下手だったけれど、練習をがんばっていたらそれなりに野球は上手くなった。</div><div><br></div><div>中3の春の大会で、岩橋と定岡がいた東練馬武蔵（東練馬の2軍）とあたった。その試合でサードで出ていたやつが顔面にデッドボールを受けて、自分が途中からいきなりサードで出ることになった。この試合ではゴロを一個アウトにしただけだった。でもなぜか試合が終わった後に、スタメンで出ていた人とかではなく自分が県外の強い高校の人から声をかけられ、うちに来ないかと言われた。その高校には行かなかったけれど、自分のことを評価してくれる人もいるんだと知って嬉しかった。その他にも3校くらい声をかけてもらって少し自信になり、高校野球でもやっていけるかもなと思った。</div><div><br></div><div>中3の夏、バーチャル高校野球でたまたま淑徳対東海大高輪台の試合を見ていた。その試合ではシニアの時に控えだった先輩が、先発ピッチャーをやっていて活躍していた。それを見て自分もこの高校だったら試合に出て活躍できるかもしれないと思って、淑徳に行くことを決めた。</div><div><br></div><div>春休みから淑徳の練習が始まった。最初の練習は新入生だけでボール回しやノックをした。その日に小田先生から「お前なら一年夏からショートで出れる」と言われた。最初は冗談だと思っていたけれど、多分冗談ではなかった。入学する前から練習試合に出させてもらって、守備ではいいプレーができた。入学してからもずっとAチームの試合に出させてもらった。ゴールデンウィークの群馬遠征ではスタメンで出た。このときは嬉しい気持ちもあったが、中学時代はずっと控えだった自分が、先輩を退けてスタメンで出ていてとても不思議な気持ちだった。5月くらいまでは順調だった。守備ではいつもいいプレーができるけど、問題はバッティングだった。入学前の練習試合から全くヒットが打てていなかった。中学の時はバッティングはそこまでは苦手じゃなかったから、いつかは打てるだろうと思っていた。それに自分に求められていたのはバッティングよりも守備だったから、バッティング練習は全くせずに守備の練習ばかりしていた。メンバー発表前の最後の練習試合までAに残れて、25人くらいまで絞られていた。結局、最後まで一本もヒットが打てず、35打席連続無安打という大記録を作った。メンバーにも選ばれなかった。</div><div><br></div><div>その夏はベスト8で終わり、新チームになった。僕はセカンドでスタメンで使ってもらえた。最初の方は順調だった。強豪校との練習試合でも守備でいいプレーができた。ヒットも少しずつ打てるようになり、打てないなりにも考えてセーフティーバントを練習したり、夏前よりも考えて野球をするようになった。でも夏休みの中盤ぐらいに、同じポジションの先輩が活躍するようになってきてその先輩にスタメンを取られた。期待されていたのに結局その期待に応えられず、夏前と同じことを繰り返しているような感じでとても悔しかった。</div><div>その秋は史上初の本戦に出場し、快進撃を続けた。自分は2回戦の最終回の守備で一瞬だけ出させてもらえて、そこで初めて公式戦に出れた。チームはベスト4まで勝ち進んで、甲子園をかけた試合で負けた。その大会にベンチに入れて、めちゃくちゃいい経験をさせてもらえたなと思う。</div><div><br></div><div>秋が終わり冬になった。ここで僕は大きな決断をした。それは左打ちに転向したこと。校庭でたまたま左でバットを振っていたらそれを小田先生に見られて、左の方が綺麗だと言われたことがきっかけだった。もともと右で全然打てていなかったので、左の方が可能性があると思った。でもそう簡単ではなかった。最初は前から来る球が全く当たらないところからのスタートだった。でもやると決めたからには必死にやった。家に帰ってから毎日300回は振ると決め、雨の日や、坂戸の練習で帰りが遅くなった日、どんな日でもバットを振った。バッティング練習では最初は全然前に飛ばなかったけれど、ライトの奥の方まで飛ばせるようになるまで成長した。でもそれはバッティング練習だけで、実戦になると全く勝負にならなかった。2月くらいになると春大のメンバーをかけた紅白戦が始まる。結局、この時までに実戦で勝負できるほどにならず、左より可能性がある右で打つことにした。でも、この3ヶ月くらい左でしかバットを振っていなかったから、右の振り方を忘れてしまっていて、紅白戦でも全く打てなかった。春大のメンバーには中野と桑田は選ばれて、自分は選ばれなかった。とても悔しかった。</div><div><br></div><div>春大は初戦で負けた。春にはとても野球が上手い一年生がたくさん入学してきた。人数も多くなって、夏大のメンバー争いが激しくなった。</div><div>一年生の時より出場機会がとても減った。Bチームにいることが多く、Bで活躍してAに上がってもエラーしてすぐにBに落ちる、これの繰り返しだった。ゴールデンウィークの群馬遠征、Bの試合でスコアを書いていた。照井さんがピッチャーをしていたときに、隣にいた小田先生に「お前もサイドスローをやればいいピッチャーになれるんじゃないか」と言われた。その日の2試合目に見よう見まねでサイドスローをやった。意外と上手くいった。次の日の太田高校との試合でも投げて5回1失点といいピッチングができた。次の週はAチームに呼ばれた。ピッチャーでしか活躍しなかったから、もちろんピッチャーをやる気でいて、その週はオフを返上してまでサイドスローの練習をして試合に臨んだ。でもなぜかショートでしか出ず、しかもエラーして途中で交代。僕の2年の夏はここで終わった。</div><div><br></div><div>夏が終わりついに自分の代が始まった。ここから本格的にピッチャーを始めた。新チームが始まって最初の試合で完璧なピッチングをして、それ以来Aの試合で投げれるようになった。夏休み通して全体的に安定したピッチングができて、秋大ではエースナンバーがもらえると思っていた。でもそんな甘くなかった。キャプテンの秋山が1番を貰い、自分は10番だった。監督は1番は今までずっと八重尾さんがつけてた番号だから、そう簡単には渡せないと言った。その言葉が、僕の心に火をつけた。</div><div><br></div><div>そして迎えた秋大。140キロを投げるピッチャーがいる雪谷高校と同じブロックだったから、正直厳しいなと思っていた。でもその雪谷高校との試合で僕は17人連続アウトを取り無双してチームは本戦出場を決めた。本戦出場は2年連続2回目。それまでの30年間淑徳は一度も本戦に進めていなかった。淑徳が30年間超えられなかった壁を、この代でも超えることができて、自分たちでも頑張ればなんとかできるんだと可能性を感じた。</div><div>本戦のトーナメントが出た時、普通にやればベスト8まではいけるなと思った。初戦はなんとか勝ち、2回戦の相手は広尾高校。まさかのコールド負け。どこに投げても簡単に打たれ、今まで戦った中で1番強い相手だった。</div><div><br></div><div>秋が終わってからの冬の練習、全然やる気が出なかった。あのトーナメントで勝てないなら春も夏も勝てるはずないと思っていた。モチベーションが上がらず、練習中にサッカーをしてしまい秋山にめちゃくちゃ怒られたこともあった。</div><div>1月くらいの練習で大地先生から強豪校に勝つための投球術を教えてもらった。最初は半信半疑だったけれど、勝つためにはやるしかなかった。この時から徐々に野球のモチベーションが上がっていった。トレーニングはチームの中では1番やって、球速もそれなりに上がった。</div><div><br></div><div>2月の紅白戦、左打ちに挑戦していた濱田にセンターオーバーの先頭打者ホームランを打たれた。一年前の自分に見せてやりたいと思った。</div><div><br></div><div>3月の上旬に報知新聞の取材があった。その日は抽選会の後で、春大のメンバーは登録した後だった。ピッチャーで取材されたのは居波と猪狩で、自分は取材されなかった。その時点で1番は居波か猪狩だと思っていた。</div><div><br></div><div>3月の下旬の関西遠征の前日、いつも先発をしていた居波が肘を怪我をした。居波の怪我が自分に試練を与えてくれたと思う。関西遠征は4日のうち3日試合があった。戦えるピッチャーは自分と猪狩だけ。猪狩はセカンドがメインだったから、3試合をほぼ1人で投げ抜いた。甲子園に出たバッターとも対戦し、意外と通用して自信になった。</div><div><br></div><div>春大初戦の直前にあったメンバー発表、もらった番号は1番。喜びよりも驚きが大きかった。</div><div>春大は全試合に先発した。点を取られてもみんながそれより多く点を取ってくれて、強い相手にも勝ててベスト8まで行った。準々決勝の9回表、ベンチで定岡と「濱田が出て和志のホームランで追いつくね」と冗談半分で話していたらそれが本当に現実になって、鳥肌が立って試合中なのに泣いてしまった。でも最後は自分が打たれて負けた。試合が終わって悔しい気持ちもあったが、いい試合をしたことに満足してしまっている気持ちがあって、そんなんだから勝てないんだと思った。</div><div><br></div><div>春ベスト8まで行けて、夏は本気で甲子園に行けるんじゃないかって思っていた。でもそう簡単にはいかなかった。どんどんチームは弱くなっていき、コールド負けすることも多かった。練習試合では思うような結果が出ず、不安になることもあった。それでも、このチームで甲子園に行きたいという気持ちは変わっていない。</div><div><br></div><div>去年の夏、僕はスタンドから修徳との準々決勝を見ていた。自分はグラウンドには立てず、スタンドから応援することしかできなかった。試合後、小田先生から「来年はお前がここで投げろよ」と言われたのを今でも忘れない。「来年は自分が神宮のマウンドで投げて勝つ」と強く思った。</div><div><br></div><div>そして3日後、神宮球場でその修徳ともう一度戦う。</div><div><br></div><div>中学では控えで終わり、高校でも何度もチャンスを逃してきた。でも、そのたびに支えてくれた仲間や家族、先生のおかげで、今は背番号1を背負ってマウンドに立てる。</div><div><br></div><div>ここまでの野球人生で、思い通りにいったことなんてほとんどなかった。でも、その全部があったから今の自分がいると思う。</div><div><br></div><div>このチームで野球ができるのもあと少し。</div><div><br></div><div>応援してくれる人への感謝を忘れず、仲間を信じて、最後まで自分たちらしく戦い抜きます。</div><div><br></div><div>3日後、この野球人生の続きが、最高の結末になるように全力で戦います。</div></div><div><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/skukutokubbc/entry-12972420851.html</link>
<pubDate>Sat, 11 Jul 2026 20:43:40 +0900</pubDate>
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<title>木下璃来</title>
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<![CDATA[ <div>僕の野球人生　木下璃来</div><div><br></div><div><br></div><div>僕は大学で野球をやるつもりはない。高校で辞めるつもりだ。そして人生で最後の野球の大会の初戦がもう4日後に迫っている。僕が野球を始めてからの7年半、本当に多くのことがあった。</div><div><br></div><div>野球人生≒怪我人生。そう言っても過言ではないくらい怪我をした。中学生で手の疲労骨折、腰椎分離症。高校に入ってからも捻挫、肉離れ、捻挫、捻挫、剥離骨折、捻挫、捻挫。隠していた痛みとかも片手じゃあ数えきれない。何でこんなに怪我ばっかりするんだろう。1箇所治ったらまた新しいところが来る。なんでだろう。まあ一旦怪我の話は置いておいて野球の話をしようと思う。</div><div><br></div><div>小学四年生の終わり頃、野球を始めた。</div><div>弟と一緒に小学校で練習していた野球チームの体験に行ったのがきっかけだったと思う。その時野球をやるつもりなんて全くなく、気づいたら始めていた。小中であまり印象的な出来事はなかった気がする。強いていうなら初登板で2回で14失点したことくらい笑。ピッチャーってむずかしい。</div><div>中学校では軟式のクラブチームと部活の両立ができる制度だったのでどちらにも所属していた。</div><div>部活の方では人数不足もあって早いうちから試合に出させてもらった記憶がある。そうして高一の秋ごろからはショートを守らせてもらっていた。</div><div>たしか2番ショート。めちゃくちゃエラーしたイメージしかない笑。クラブチームでは監督の方針もあり、いろいろなポジジョンをやらせてもらった。そのおかげで高校に入ってから生き残れたと思っている。しかもキャプテンもやったり。いまじゃとても考えられない。あまり勝った思い出はなかったが楽しかった。</div><div>高校で野球をやるかはとても迷った。硬式にするか軟式にするか。それとも野球はやめるか。何回も体験会に参加して中倉先生と面談して、淑徳高校に入学することに決めた。</div><div><br></div><div>高校に入ってから、最初の春休みの練習、初っ端から全くダメだった。レベルが全然違った。夏大からベンチ入るつもりでいた。けど現実はそんなに甘くはない。そんな自分とは対照的に、先輩たちは自分にはできないプレーを平然とやっていて、それがとてもかっこよかった。元々全然野球について詳しくない上に淑徳は複雑だった。全く覚えられないし、体が思ったように動かない。高校野球のレベルを肌で感じた。絶対に追いついてやるって思ってた。ただ、周りの人のレベルが高く、ずっと置いていかれていた。1年生の夏休み、試合は全員だったけどほとんど試合に出ることができなかった。B戦でも2試合目の最後の方だけ。ほんとに悔しかった。秋大ではチームはベスト4、改めてすごいところに来たのだと思った。絶対ベンチに入って戦いたい、と思って練習してた矢先、オフシーズンに怪我をした。練習試合解禁後も結果は出なかった。そして、状況は変わらずに一年生が入ってきた。1番やばかったのは共栄学園戦のシートノック。サードだから1番最初なのにバックホーム一発で決められなかったら強制終了で3回連続エラー。シートノック終わらせちゃってごめん。この頃、全くAチームに上がれる気はしなかった。けどなんとかくらいつこうと思ってた。2年生の夏休みまではAチーム帯同0回。なんならBチームの3、4枚目の内野っていう立ち位置だったと思う。この時期はほんとにAに上がれる気がしなかった。本当に辛かった。しかも、自分から見たらまわりはみんなうまくて、すごい焦ったし、絶望感もあった。何をやっても悲観的に見えた。自分のやってることが正しいだなんて考えられなかった。自分が情けなくて恥ずかしかった。この時期が自分の人生で1番絶望感があった時期だと思う。本当に野球をやめようと思った。何度も野球から離れたくなったしほんとに部活を辞めようと思った。スマホをいじっている時に野球の動画が流れてきたらスクロールしてしまうくらい。家でも両親は僕のことを気遣ってか野球の話はしないでいてくれた。ほんとに申し訳ないし感謝してます。この頃は毎日がほんとにしんどかった。何度も体調を崩した。もともと遠かった坂戸もこの時期はすごく遠く感じた。だんだん朝が辛くなって、夜も寝れない日々がすごく増えた。ご飯も全然食べれなくなった。けど、ここで諦めたくないってずっと思ってたし夏や秋の大会を見て、大会で活躍したいって思ってた。それを諦めることはしたくなかった。それに、ここでやめたらすごく逃げた感じになってそれも嫌だった。それで辞めるって言う勇気が出なくて結局は続けることにした。今となってはいい経験だと思う。だけど、うまくいく時期が来ると信じて迎えた夏休み最初の浦和麗明の後からはAチームに定着できていた。東海大浦安戦で途中からサードに入ってそこでビギナーズラック的な要素でうまくいき、スタメンに抜擢されるようになった。秋大ではレギュラーで使ってもらえた。一桁をもらえて嬉しかったし、悩んだことも、努力していたことも正しかったって思えた。あの時のことは一生の教訓になると思う。だけど、広尾の最終打席、打てなかった。ファールにするので精一杯だった。あそこで塁に出れてれば…今でも思う。そこからバッティングをする時にケースをより意識するようになった。次はあそこでガッツポーズできるようにしたい。そう思って練習してた。ただ、ビギナーズラックは長くは続かなかった。良かったのはこの時だけで結局秋大が終わってからは一度もA戦スタメンで使われることはなかった。ちょうど冬休みの頃、足首を捻挫した。冬休みはずっと上半身のトレーニングしかしてなかった。もったいなかったと思う。結局春、予選は外れた。外れた後最初の西武文理戦で結果を残して、そこから針谷と一緒にAチーム帯同、関西遠征の頃はめちゃくちゃうまくいってた。柏原の最終回のツーベースは人生でも上位に食い込む印象に残った打席だったと思う。結局本戦から入れ替えで入った。なんでこんなにこの時期うまく行っていたのか自分でもよくわからないくらいうまく行ってた笑。けれども春大の佼成学園戦の代打、打てなかった。ほんとに悔しい。ここで打つために練習したのに…ただ、あの接戦での打席や一つのミスで負けにつながりかねないタイブレークでの守備を経験できて、一歩成長できたと思う。あの感覚をまた味わいたいとすごく思った。春ダメだった分夏までの練習試合で絶対に結果を出して、信頼を勝ち取って試合に出れるようにしたいと心の底から思った。ただ、そこからは思うように結果が出ないような毎日が続いた。今までしなかったようなサインミスも起こり始めた。焦燥感から全てが空回りして悪い方向に行っていた気がする。</div><div><br></div><div>高校生活で7回くらい怪我して、約半年分くらいは離脱していたかもしれない。けどこの間に今自分にできることを全部やるって言う考え方と、耐えることが身についたと思う。これが今自分が行動している1番の土台になっている。夏大は自分ができること全てやってチームに貢献する。コーチャーにいるからみんなたくさん腕回させてね。広尾の最終打席で打てなかった。佼成学園戦での代打でも打てなかった。チームでも練習試合で大量にボロ負けした。悔しい思いはたくさんしてきた。夏、絶対勝ち進んで去年よりも長い夏にしよう！</div><div><br></div><div>3年生へ</div><div>2年半ありがとう。最後まで頑張ろう。</div><div><br></div><div>先生へ</div><div>2年半ありがとうございました。手のかかる面倒なやつだったと思うのですが最後まで面倒を見てくれてありがとうございます。先生方のもとで野球ができてよかったです。野球だけじゃなくて人間としても成長できました。最後までよろしくお願いします。</div><div><br></div><div>1、2年生へ</div><div>舐められてたのかはわからないけど親しみを持って接してくれて嬉しかったです。</div><div>2年生はあと一年あるし、ここからでもどうにでもなるから頑張って欲しい。怪我にだけは気をつけて。</div><div><br></div><div>両親へ</div><div>いつも本当にありがとう。わがまま言ったりイライラをぶつけたりしてごめん。野球やめるっていう話の時もほんとに迷惑かけました。7年半全てぶつけます。最後までよろしく。</div><div><br></div><div>あおと</div><div>俺とは立場が全く違って俺にはないストレスやプレッシャーとかあるだろうけど、頭のネジ外して頑張れ。自慢の弟(!)</div>
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<link>https://ameblo.jp/skukutokubbc/entry-12972330747.html</link>
<pubDate>Fri, 10 Jul 2026 21:35:10 +0900</pubDate>
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<title>中野佑大</title>
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<![CDATA[ <div>僕の野球人生</div><div>中野佑大</div><div><br></div><div><br></div><div>僕が野球を始めたきっかけはよく覚えていないが小学1年生の時に始めた。それまではサッカーをしていたが別に好きではなかったので野球を始めた。近くのリトルリーグに入団した。練習は楽しかったが小さい頃から運動神経が悪く足が遅かったのでランメニューがとても嫌いだった。ティーボールの時の記憶はあまりないが全国に繋がる最後の大会でタイムリーエラーをして負けたことは覚えている。小学3年生になり硬式野球が始まった。そのタイミングでピッチャーとキャッチャーを始めた。大会では完投したこともありピッチャーがすごく好きだった。そして小学5年生になりメジャーが始まったがバンダリー制度もありリトルをやめてボーイズに入団した。ボーイズではセカンドを主にやっていたが大した活躍はできなかった。最後の大会の最終打席でヒットを打つことができ、中学でも野球をやろうと思った。</div><div><br></div><div>小学校の頃から硬式野球をしていたので中学も硬式野球を続けようと思いふじみ野シニアに入った。理由はあまりわからないが副キャプテンになった。自分達の代は23人も人がいたので本気でやらないと試合に出れないという危機感を持ち中1のころは練習にも真面目に取り組み、平日練習も参加していた。そして中2の4月の北関東大会の準々決勝キャッチャーで試合に出ることができて勝つことができてとても嬉しかった。ただそれ以降身長が155センチからあまり伸びずチームの中でも下から3番目だった。周りよりも成長期が遅く体が大きくならず声変わりもだいぶ遅かった。チームでは練習の日は昼に3合の米を食べないと練習に参加できないルールがあり何回も吐いたしほとんど練習に参加できない日もあって食事をすることがめちゃくちゃ嫌いになった。そして4月の大会以降は肘を痛めてしばらく練習ができない時期が長かった。そしてそれ以降はほとんど試合に出ることはなくなっていた。本当に野球が嫌いになり大会を休んだこともあった。絶対に高校で野球をやらないと思っていた。そして月日が流れいつの間にか中学野球が終わった。中3になってからは早く引退したいとしか考えてなかった。野球で結果を残せなかったのでその悔しさを勉強にぶつけた。そして中3の夏に他のシニアの事務局長から淑徳高校をおすすめされ野球部の体験会に行った。ただ野球を続けるかどうかも迷っていたのであまり行くつもりもなかった。埼玉の公立高校を目指して勉強したが不合格だった。</div><div><br></div><div>入学してからはBチームにいることが多かったが長期間野球から離れていたのでとても新鮮だった。</div><div>夏大、秋大でチームが良い成績を残す中、自分は何もすることができなかった。一冬越えて春も予選はメンバーに入れたが本戦で落ちてしまった。春大が終わってからもBチームにいることが多く、たまにAチームに呼ばれることもあったが特に目立った活躍をすることができなかった。夏大が終わり自分たちの代になったが練習試合では二試合目に出場することが多かった。たまに一試合目に出場することもあったが活躍することができなかった。秋大はメンバーに入ることができたが予選の1回戦でスタメンで出場したものの、いい結果を残すことができなかった。予選が終わってから本戦までの期間の練習試合では木下が怪我したので急にサードで試合に出たが3エラーしてしまった。その期間ではバッティングの調子が良く振ったらヒットになる感覚だった。</div><div>本戦二回戦目の広尾戦ではベンチでなんでこんなに打たれんだろうと思っていた。7回になりピッチャーの打順で代打行くぞと言われネクストバッターサークルでバットを振っていた。前のバッターの木下が必死に粘っていたがアウトになり自分に回ってこないで試合が終わってしまった。秋大が終わってからは足を怪我したり、肺炎になってしまい野球ができる期間が少なかった。冬が終わり練習試合では何もできなかった。春大では一年前と同じように本戦でメンバーを外されてしまった。谷川先生と面談していろいろなことを言われて逆に吹っ切ることができた。それ以降は1試合1打席が最後の打席だと思って取り組んだ。あまり思い詰めるとかはなく楽しむことができた。メンバー選考の最後の試合、何も考えずにプレーした。ツーアウト一三塁から盗塁を刺すことができた。今までの野球人生で一番いいボールを投げることができた。そしてメンバー発表がありメンバーを外れてしまった。悔しいという感情よりやっと高校野球が終わったという安堵が強かった。野球を最後まで続けることができたし、やり切ることができたので後悔などはなく楽しい野球人生でした。</div><div>3年生</div><div>今までありがとう。また遊ぼう</div><div>後輩へ</div><div>最後までやり切ってね。</div><div>これからのみんなの活躍期待してます。</div><div>母へ</div><div>他の家庭と違って片親で大変なのにいろいろサポートしてくれてありがとう。これからの人生で恩返しします。</div>
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<link>https://ameblo.jp/skukutokubbc/entry-12972324506.html</link>
<pubDate>Fri, 10 Jul 2026 20:27:44 +0900</pubDate>
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<title>古川祐郁</title>
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<![CDATA[ <div>野球人生　古川祐郁</div><div><br></div><div><br></div><div>小学3年生の時だった。親に「何かスポーツをやりなさい」と言われていた時期で、ちょうど体育館の授業でティーボールをやっていて、少し野球に興味が出てきていたので、友達からも誘われていたし野球をやることにした。これが始まりだった。</div><div><br></div><div>そして僕は朝霞ストロングスに入団した。まず1番最初にあのおじいちゃん監督が怖そうだなと思った。やはり怖かった。試合中はずっと怒鳴っていて、The昭和みたいな感じだった。人数があまり多くはなかったので、こんな僕でもすぐに試合に出してもらうことができた。小学生では色々なポジションを守った。少年野球なので、割と様になっていた。小学5年生の時は1個上の試合に出させてもらっていた。野球がとても楽しかった。今思えば、そこが僕の全盛期だったのかもしれない。</div><div><br></div><div><br></div><div>中学生になり、朝霞2中野球部に入部した。まず1番最初にあの身長が高くて、色黒で、坊主の監督が怖そうだなと思った。やはり怖かった。僕は中学でもすぐ試合に出してもらえるだろうと思っていたが、甘かった。少年野球の時の強いチームからたくさん集まっていた。サードをやっていた僕は、同級生のプレーを見て絶望した。どこをとっても僕が勝てる要素が無かった。内野はどこを見てもそのような感じだったので、1年生の最後に外野にコンバートした。そのおかげで自分の代では試合に出ることができた。そして、中学生になって初めての大会に臨んだ。同級生が上手かったので、優勝することができた。僕もなんとか試合に出してもらっていたので活躍することができた。僕は小学生時代に大会で優勝したことがなかったので、決まった瞬間とても喜んだのを覚えている。その後も朝霞2中はたくさんの大会で勝っていった。強いチームでやる野球も楽しいと思えた。そのまま迎えた中学生最後の大会。1回戦で僕はスタメンで試合に出ることができた。チームは危なげなく勝利したが、僕は残念ながら活躍することができなかった。次は絶対に結果を出すと意気込んでの2回戦前日のノック。これが僕は忘れられない。普段は捕れる普通のゴロを後逸、ボコボコした地面に足をとられ転倒、我ながら酷いプレーだったと今でも思う。消極的だった。ノックが終わった後に先生に怒られた。僕は他のスタメンとは違う。ダメだったら替えが利く。迎えた2回戦。僕はスタメンを外れた。悔しかった。コーチの助言もあり、監督に試合に出してほしいと頼んだ。1度了承を得たが、結局出してもらえなかった。チームも負けた。この経験で、消極的なプレーは何も生まないと学ぶことができた。今思えば良い経験だった。僕を仲間として迎えてくれたみんな、本当にありがとう。</div><div><br></div><div><br></div><div>高校生になっても野球部に入った。朝霞2中がいたので安心できた。高校生になって最初の練習で先輩方を見て僕は驚いた。身体つきが自分とは全然違う。小、中学生の時は特にそんなことは思わなかったが、高校に入ってつくづく思った。しかも自分は軟式上がり。心配でしかなかった。淑徳高校野球部は自分が想像していた高校野球ではなかった。野球のグラウンドで長い時間泥まみれで練習するのが高校野球といったイメージだったが、狭い人工芝のグラウンドで、自分で考えて課題練習を主とするチームだった。最初はなんとなく楽しそうだと思ったが、実際は大変だった。全部自分で考えないといけない。慣れるのに時間がかかった。僕は高校でも外野でいくつもりだった。だから外野手用のグローブを買ってそれを使っていた。だが、1年生のいつかの練習試合でいきなりピッチャーをやることになった。中学の時は1度もやったことがなかったので戸惑ったが、この試合だけだろうと思い、何も考えず楽しくやらせてもらった。次の練習試合、外野で出ると思ってた中で先生に9回にピッチャーでいくと告げられた。そこで確信した。この先自分はピッチャーでやっていくのだと。そこからは大変だった。変化球を投げられないし、試合中の動きも全然分からなかった。シフトやサインを覚えるのも時間がかかった。そんな中でも初めて変化球を投げることができた時は嬉しかった。今は投げていないスライダーだった。結果的に僕は2年の秋季大会本戦と、3年の春季大会予選でしかベンチ入りすることができず、試合に出ることも無かった。初めてベンチに入った時は、温情だった。嬉しさと同時に悔しさもあったが、ベンチから見る試合はスタンドとは全然違った。もう一度メンバーに選ばれたいと思った。冬の練習が終わり春を迎えた。2月の紅白戦で結果を出した僕は予選のメンバーに選ばれた。嬉しかった。大会で投げるのが楽しみだった。テスト後1発目の練習試合である日大豊山戦。僕はここで初回に4失点してマウンドを降りた。肘も痛めた。そこから僕は不甲斐ない結果を出し続け、本戦でメンバーから外れた。喜んでくれた親の顔が浮かんで辛かった。そこから夏のメンバー発表までの期間、可能性が低いことは分かっていたのでかえって割り切ることができ、1試合1試合を全力で投げることができた。正直肘が痛かったが、平日一切投げないことで誤魔化せた。それでも試合中痛くなかったわけではなかったが、今まで逃げの姿勢をとってきた自分への戒めでとにかく結果を出すために根性で投げた。これで少しは人間として成長できたかなと思う。メンバーには選ばれなかったが、最後のピッチャーとしての試合は気持ちよく終わることができたと思っている。</div><div><br></div><div><br></div><div>3年生のみんな</div><div>一緒に野球をしてくれてありがとう</div><div>楽しかったです。</div><div><br></div><div><br></div><div>両親</div><div>今まで長い間支えてくれてありがとうございました。</div><div><br></div>
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<link>https://ameblo.jp/skukutokubbc/entry-12972262803.html</link>
<pubDate>Fri, 10 Jul 2026 07:33:02 +0900</pubDate>
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<title>桑田陽介</title>
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<![CDATA[ <div>野球人生　桑田陽介</div><div><br></div><div><br></div><div>僕が初めて野球をしたのは、小学一年生の時だった。父がグローブとバットを買ってくれた時のことは今でも鮮明に覚えている。なぜ野球を始めたかよく覚えていないが、やはり父の影響が大きいと思う。野球を始める前から父の草野球について行き、父のプレーを見ていた。父が場外ファールを打った時は驚きと、「自分もあんな打球を打ってみたい」と幼心にも思った。</div><div><br></div><div>その後しばらくは、公園で父と野球をしていたが、小学三年生の時に青山イーグルスという少年野球チームに入った。初めてチームで野球をするので、最初はチームメイトと馴染めるか不安だったが、全くの杞憂であった。チームメイトが優しく話しかけてくれて、あっという間にチームに馴染むことができた。同時に、チームで野球をする楽しさも覚えた。決して強いチームではなかったが、みんなと野球するのが本当に楽しかった。そんな楽しい日々が続いていたのだが、突然止まってしまった。新型コロナウイルスの流行により、チームで野球をする事ができなくなってしまったのだ。公園も閉鎖されてしまったので、野球する機会がほとんどなくなってしまった。野球のない日々は、何だか味気ないものだった。そこから1年ぐらいでチームでの活動が再開した時、久しぶりにボールを投げたときに、全くストライクが入らなかったことをよく覚えている。最後の大会も、勝ち進む事はできなかったが、あの時みんなで野球した事は、人生の宝物だと今になって思う。</div><div><br></div><div>中学生になり、特に迷うこともなく野球部に入部した。最初は同級生が三人しかおらず、少し不安もあったが、優しい先輩たちが話しかけてくれてとても嬉しかった。</div><div>中学で特に印象に残っているのは、部員が増えて、みんなと楽しく野球した事だ。先輩たちが引退されて自分たちの代になった時、下級生も入部してこなかったので、部員は二人しかいなかった。転機になったのは、二年生の時に転校生が数人来た時だ。転校生は元々野球をやっている人が多く、僕ともう一人の部員二人で野球部に誘った。これに加え、サッカー部が廃部になり野球部に入部したので、部員は一気に増えた。野球経験者もいれば、未経験の人もいた。そんな仲間たちとみんなで楽しみながらも切磋琢磨しあった日々はとても充実感のあるものだった。</div><div>大会には三校合同チームで出場した。キャプテンだった僕は、チームをどうまとめればいいのか迷う時期があった。そんな時僕を助けてくれたのは、顧問、コーチの先生方、そしてチームメイトだった。先生からは技術面のアドバイスだけでなく、チームをまとめるとはどのようなことかを教えていただいた。この時教えていただいたことは、今の自分を形成している要素の一つであると思う。そしてチームメイト、特に副キャプテン。みんな表向きでは少しふざけることもあったが、心の中ではしっかりチームの事を考えてくれていた。やる時はやる。そんなメリハリをつけられていた。最後の大会は、都大会出場権まであと一歩のところで負けてしまった。負けた時はもちろん悔しさもあった。それでも負けた瞬間ベンチのみんなを見て、この仲間で野球できてよかった心の底から思えた。</div><div><br></div><div>みんな一緒に野球してくれてありがとう。</div><div><br></div><div>高校で野球をするかどうかも、特に迷いなく決まった。野球をしていない自分は全く想像できなかった。初めて練習に行った時は、まず人数の多さに驚いた。五十人の部員のいる野球部は、高校では別に珍しくないのだが、それまで人数の少ないチームにしかいた事がなかったので、とても多く感じた。Bチームの先輩たちも十分上手いのにAチームはどれほど凄いのかと少し恐ろしくも感じた。準々決勝で帝京に負けた時は、この先輩たちでも帝京には及ばないのかと驚いた。</div><div>野球部での日々は想像していたよりずっと大変だった。練習も中学の時の倍ぐらい長く、坂戸もとても遠かった。平日の練習は、自分で考えて練習しないと上手くならない課題練習で、毎日考えるのが大変だった。そんな大変な中でも頑張れたのは、応援してくれる家族がいるからだった。結果ベンチには二年時春大会予選と秋大会予選しか入る事が出来なかった。それでも予選で大会の雰囲気を味わえた事は、今後の財産になるだろう。最後ベンチを外れてしまった時は、入部から夏休み、関西遠征、群馬遠征、いろんな事を思い出した。特に思い出したのは、関西遠征で見逃し三振した事だ。代打での出場。この打席にかかってる。ここまで練習して打たないわけにはいかない。そんな事を思いながら打席に入った。しかし、現実はそんな簡単じゃなかった。追い込まれた時は、焦った。このまま三振してしまうのか。次のカーブ、微妙な球は振ろうと思ったが、手が出なかった。審判が腕を上げた時、頭が真っ白になった。涙が出た。なんでこうなるんだろうか。ベンチメンバーとの差はなんなのか。その答えは、すぐ分かった。最終日の練習試合、雨が降ってきた。グローブを外に置いていた。メンバーの豊田はすぐに気がつき、グローブを屋根の下に置いた。でも僕は気が付かずそのままにして、グローブが濡れてしまった。自分は周りが全く見えていない、自分が何をすべきか分かっていない。そう痛感した。それからはなるべく周りを見るようにした。そうすると、今まで見えなかったものが見えるようになった。これが、野球部で学んだ一番の事だ。</div><div><br></div><div>それに続いて、支えてくれた人への顔が頭に浮かんだ。毎日僕のために一生懸命働いてくれて、美味しいご飯を作ってくれた両親。チームメイト、応援してくれた友達。祖父祖母親戚。いろんな人が浮かんだ。自分は、たくさんの人に支えられながら野球をしていたのだなと気づいた。最後に言いたい。</div><div><br></div><div>ここまで支えてくれて心からありがとう。</div><div>これからもよろしくお願いします。</div>
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<pubDate>Thu, 09 Jul 2026 21:59:28 +0900</pubDate>
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<title>仁後歩</title>
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<![CDATA[ <div>野球人生　仁後歩</div><div><br></div><div><br></div><div>自分が初めて「野球」というものに触れたのは、１歳とか2歳のころだったと思う。当時住んでいた家の近くの公園で両親と遊んでいたのをほんの少しだけ覚えている。幼稚園の頃は、水泳とかサッカーもやらせてもらっていた。小学生になってからは、他のスポーツに充てる時間よりは野球をする時間が増えていった。野球をやる同級生たちはほぼ小学校の学童野球チームに入っていったけれど、自分はチームには入らずに、同じくチームには入らなかった友達と一緒に放課後に野球をしていた。8歳くらいの時、楽天のGM をやっている石井さんが講師をする野球教室に参加した。練習の最中に石井さんに直接投げ方を指導してもらえて、ちゃんといいボールを投げた時にナイスボールって言ってもらえて、頭をポンポンして褒めてもらえたのを覚えている。野球がしたくなって、幼稚園から続けていたサッカーをやめた。その後に、友達と一緒のタイミングで埼玉西武ライオンズのOB選手に野球の指導をしてもらえる「ライオンズアカデミー」というスクールに入った。最初の練習の時にベルーナドームを使わせてもらえることになって、グラウンドに立った時にスタンドから見る景色とはまったく違っていて感動か何かで泣きそうにになったのを覚えている。アカデミーでの練習は、週に1回だけとはいえ本当にいい経験をすることができた。</div><div><br></div><div>小学生の時にいじめられていた自分は、いじめてきたやつも来るであろう同じ中学校に行くことが本当に嫌で嫌でしょうがなかった。</div><div>だから、親にどうにかできないかと相談した。そうしたら、中学受験を勧められた。</div><div>いじめられるのが嫌ならやるしかない。</div><div>そう決心し、野球部があって、いい学校生活を送れそうな中学校を探した。結果、色々な学校が候補に挙がった中、今も通っている淑徳に行こうと決め、必死に勉強した。</div><div>その結果、入試に合格できて入れた。</div><div>中学野球部にも入部できた。そこまではまだよかったとは思う。でも、部活も学校生活すら本当に失敗ばかりだった。正直、自分たちの代になるくらいまでいい記憶はほとんどない。１個上の代が引退した後に1桁の背番号をようやくもらえ、秋から公式戦に出れるようになった。最後の大会の初戦、自分自身のプレーのせいでチームを負けさせてしまった。情けなさすぎる結果に終わるかと思ったが、相手のルール違反で2回戦に進めた。2回戦は結果を出せたが、その次でまた負けてしまった。私学大会でも、学習院相手に途中までは勝てそうだったが、</div><div>また自分がチャンスを潰して、その後試合をひっくり返されて負けてしまった。</div><div>悔しくてたまらなかった。その後、高校野球の体験会があった。参加するか迷っていたが、行くだけ行ってみたらと両親に言われ参加した。すると、今までの野球では味わったことのない楽しさを味わえた。どうしようかと長く迷った末に両親に高校でも野球をやりたいと言った。</div><div>「やり切るなら」いいよと言ってくれた。</div><div>高校野球部の練習が自由なのは中学時代に学校で見ていたから知っていたけれど、やる側になってから自由って大変だなと感じた。自分自身のことを理解してメニューを組まないといけなかった。</div><div>「自分自身を理解すること」</div><div>それは一番自分が苦手なものだった。夏はずっと補助をしていた記憶しかない。1年の秋の本大会初戦、立川球場でボールパーソンを人生で初めてやった。大会のベンチ内の雰囲気、というものをそこでやっと理解できた気がする。明八に勝って校歌をスタンドから歌った時は感動した。秋大は4つまで勝ち進んでいった。でも自分は他の部員に比べて、モチベーションが上がり切ったまま春まで練習することができなかった。冬が一瞬で過ぎてあっという間に一個下が入ってきた。実力差があるのは分かっていた。それでも、意識高くやっておけば競争で勝てたかもしれないとか色々頭に浮かんできた。</div><div>またすぐに夏が来てしまった。その時も、もちろんスタンドから応援をしていた。荏原にも勝ち二松学舎にも勝ったときの興奮は今でも脳に深く刻まれている。修徳戦、負けが決まった瞬間、八重尾さんがベース上でうなだれているのを見てこのチームでさえも修徳には勝ち切れないのかと泣いてしまった。新チームが発足した直後は意識を本当に一新して練習に取り組めていたと思う。でも秋の一次予選は入れなかった。秋に入れなかったら春も夏も厳しいぞ、と先生方から言われていたから正直終わったかなと思った。本大会に進めることになってメンバー変更がある事は分かっていた。それで、中倉先生から20番仁後と言われた。温情なのは分かっていたけれど、それでもメンバーに入れた事が本当に嬉しかった。一回戦、駒沢球場のブルペンとベンチを行き来して、井上のキャッチャー防具を外して、出ているメンバーの水筒にドリンクを入れ、ベンチで声を懸命に出し続ける。楽しかった記憶しかない。でも広尾戦はずっと嫌なムードのままイニングが進んで行った。</div><div>あんなに流れが来なすぎる試合はスタンドからも見たことがなかった。</div><div><br></div><div>一年前とは違い早めに終わってしまった秋大のあと、確か12月くらい。</div><div>ネットニュースを流し読みしていた自分の目に入ったネットの記事の中にこんなワードがあったような気がする。</div><div>「学生コーチに転身」</div><div>そこから自分は長く悩んだ。正直選手はこのまま続けたい、でも続けたとして実力や他の面でも入れないのに、30人以上いるチームに20人くらい新1年が入って来る。それに加え、練習スペースが今までより圧倒的に狭くなる中で、メンバーの1から20番の中に果たして入ることはできるのか。選手を辞めて他の選手のためにマネージャーや練習の補助役になるべきなのか。どちらの道を選べばいいのかよく分からなかった。翌日が坂戸での練習で早く寝ようとしたのに寝れずに夜ぶっ通しで考えて気づいたら家を出る1時間前になっていた、みたいなことが冬休み中や冬休み後の2ヶ月くらいは続いていた。考えたくなくても頭の中はその事でいっぱいだった。決心がついたのは3月末の関西遠征の2日目の試合の後に駅まで歩いて行く途中の時だった。割り切ってサポートに回ってチームを支えようと決めた。春大が終わってから言おうとしたが、春大のメンバーが発表された後の3月末の坂戸での練習の時だった。谷川先生に坂戸のクラブハウスの先生方がよくいる部屋に呼ばれた。春大以降に選手以外にも色々選択肢はあるけど、選手を続けるかと問われた。その瞬間、即答した。サポートに回ります。</div><div>まだ考えていいよとは言われた。それでも、方針は変える気はなかった。</div><div>そして迎えた春大。また立川でボールパーソンをやった。正直日鶴戦の後半は心臓がもたなくなりそうだった。でも勝ち切った。明大中野にも勝った。そして佼成学園戦。スコアと点差は違えど9回ツーアウト。ホームランが出れば同点、そしてバッターは和志。修徳との試合が頭をよぎった。気づいたら和志がセンター右にホームランをぶち込んでいた。そこで自分はお天道様が見ているのを確信した。でも勝ち切れなかった。</div><div><br></div><div>そこから、1年も含んだ約60人での競争が始まった。メンバーには、おととしや去年よりも1年がたくさん入った。もちろん、自分は20人の中には入ることは出来なかった。</div><div>それでも、自分にできるのは1個だけ。</div><div><br></div><div>チームのために行動すること。</div><div><br></div><div>淑徳の初戦の相手に修徳が来るかもしれないというクジの結果になった。</div><div>お天道様からのメッセージとしか思えない。</div><div><br></div><div>自分はここまで自分には大きすぎるような選択をしてきた。</div><div>サッカーを辞めて野球をするかどうか、中学受験をするかどうか、高校野球をやるかどうか、選手を辞めてサポートに回るかどうか。</div><div>野球を選んで、中学受験をして、高校野球をやって、選手を辞めてサポートに回るという選択をした自分は、いま後悔を一切していない。</div><div>自分はやり切った。今までの人生で経験した良かった事や悪かった事の全てをここからにぶつける。</div><div><br></div><div>お父さんへ</div><div>本当にありがとう。</div><div>顔は似てても実力は遺伝しなかったね。笑</div><div>またどっかでキャッチボールしたりラーメンとか食べに行こ。</div><div><br></div><div>お母さんへ</div><div>本当にありがとう。</div><div>疲れてる時でもご飯たくさん作ってくれたり洗濯とかしてくれてありがとう。</div><div><br></div><div>高梁のじいちゃんへ</div><div>スタンドからの応援だけど全力でやってくるから、天国から見とってね。</div><div><br></div><div>先生方へ</div><div>ご指導ありがとうございました。</div><div>淑徳の野球は全く見聞きしたことのないプレーばかりだったけれど、やっていてとても興味深かったです。</div><div>今までありがとうございました。</div><div><br></div><div>3年へ</div><div>個性たっぷりのこの代が大好きです。どっか行こう</div><div><br></div><div>1、2年生へ</div><div>考えて練習すれば絶対に伸びるから頑張って。どんな形であれやり切ってね。</div><div><br></div><div>長い夏にします。</div><div>ぜひ応援よろしくお願いします！</div>
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<link>https://ameblo.jp/skukutokubbc/entry-12972136288.html</link>
<pubDate>Wed, 08 Jul 2026 20:59:00 +0900</pubDate>
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<title>岩橋和志</title>
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<![CDATA[ <div>野球人生　岩橋和志</div><div><br></div><div><br></div><div>野球を始めたのは小学校2年生の3学期。通っていた小学校の軟式野球チームに入った。元々父が野球をやっていたこともあり、テレビでプロ野球を見たことはあった。入ったときはBチームで同じ学年の子と楽しく野球をやっていた。3年生になり、同じようにBチームで練習をしていたある日、いきなりAチームから招待された。正直何もしてなかったし、何で呼ばれたのかもわからない状態だった。いざAチームに行けば、自分よりも遥かにでかい上級生がいた。最初は怖かった。自分以外のほとんどが2学年以上の人たちだった。そこからはAチームで活動するようになった。正直、Bチームの心地よさとは真逆でいつもそわそわしながら野球をやっていた。そして6年生の最後の大会ではベンチに入って応援していた。そしてその代は3位という成績を残した。4年生になってからはファーストとピッチャーをやっていたが、うまくいった覚えがほとんどない。ただ、試合に出るのが嫌だった記憶がある。5年生になり、チームの中心的な選手となってきたこともあり練習もするようになってきた。ピッチャーでもエースとして試合に出ていた。6年生の時は下級生の力もあり春季大会では3位まで行くことができた。そして選抜チームにも選ばれた。周りのみんなも上手くて日々が楽しかった。</div><div><br></div><div><br></div><div>中学生になり、東練馬リトルシニアに所属した。最初に入って思ったことは周りのみんながでかいことだった。ほんとに同じ学年なのかを疑っていた。ジュニアに選ばれているようなエリートもいて自分がここで活躍できる未来を想像できなかった。それでも最初は順調だった。バッティングも調子が良く、Aチームの2番打者をやっていたこともあった。その時は自分もいけるんだと思い、自信も出てきた。その一方で周りの選手もめちゃくちゃうまいため一回でもエラーをすればすぐ交代するような厳しい環境でもあった。今まではそんなことがなかったから試合中はずっと打球が飛んでくるなとか頼むからいい当たりが出てくれと思いながらプレーしていた。その結果、徐々に結果が出て来なくなり、僕のビギナーズラックは終了した。それから一度もAチームに行ったことはない。怪我もした。中学1年生の夏くらいからずっと肘が痛い中で投げていた。その時はほんとにボールを投げたくないという気持ちが強くて、思いっきり投げたことはなかった。そして徐々に悪化していき、中学2年生の夏の午後練習のキャッチボールで「もう痛すぎて投げれない！」と思って練習を抜けて9月に軟骨を取る手術をした。1年生の時から痛くて親にも言ったこともあったけど気持ちでどうにかなると言われていたのでだんだん言いづらくなってきて最終的に手術をした。その時はこんなこと思っていないけど今思えば、最初にAチームの試合に出ていて期待してくれていた部分もあったのかなと思う。正直、中学1.2年生の時はほんとに辛くて生きてる意味あるのか考えたこともあった。そのくらい追い詰められていたんだなと思う。手術が成功して復帰してからは主に外野手としてプレーしていた。けどなかなか上手くいけずBチームでも試合に出れなくなってきた。最終的に最後はBチームの控えでベンチにいた。最初はAチームで試合に出ていたのに終わってみればBチームのスタメン外まで落ちていた。正直野球もやめようと思っていた。嫌いになっていた。そんな中、高校から声がかかった。結果的にその高校には進学しなかったけど自分でも声がかかるんだと思った。それがなければ自分は今、この淑徳高校で野球をやっていることは絶対になかった。そしてコーチの勧めによってこの淑徳高校に決めた。そこからは毎日めちゃくちゃ練習した！一番練習した！バッティングも投げ方も基礎からやった。動画を見て、父親からアドバイスを貰い、周りのいい選手の良いところを盗み、八ヶ月間くらいずっとやっていた。バッティング練習でもだんだん良い打球も増えてきて野球が楽しくなってきた。そして淑徳高校に入学した。</div><div><br></div><div><br></div><div>初めて練習に参加したのは春休みのこと。坂戸のグランドで練習した。何回か練習風景を見に行ったことがある。東練馬みたいな感じではなくいい意味で自由な感じだった。自分が求めていた練習風景だった。ピッチャーとして入ったため最初はピッチャーの練習をしていた。練習試合でもピッチャーがメイン。打者としてはそこまで目立っていなかった。それでもピッチャーで夏の大会のメンバーに入るのは無理だと思った。1学年上には鈴木颯太、八重尾蓮、照井悠麒など２学年上には渡邉さん、定岡兄貴、など正直球速もコントロールも格上のピッチャーがたくさんいてピッチャーよりも野手の方が自信があったのもあり、野手としてベンチ入りを目指した。監督が起用してくれた理由は守備だった。自分も守備の方が自信があった。バッティングは練習はしていたが守備に優っているとは思っていなかった。5月の群馬遠征での守備で使ってくれることを決めてくれたと後から聞いた。先輩たちはミスをしても優しく教えてくれた。淑徳高校の守備、攻撃のルールは他の高校にはないことがあり最初は何だそれと思っていた。サインも覚えて考え方も教えてもらった。そして夏の大会の2回戦（初戦）で3番ライトでスタメン出場した。3年生にとっては最後の大会でメンバーから外れてしまった先輩もいる中でのスタメンだった。その意味を考えた瞬間、自分が絶対に一番活躍しないといけないと思った。1年生でスタメンで出ることの責任はすごかった。そしてその試合で2本ホームランを打ったけど、正直自分でもできすぎた結果だった。けどめちゃくちゃ嬉しかった。その後チームは勝ち進んでいきベスト8という淑徳で最高の成績を残せた。今でも頭の中から離れないのは帝京戦の最後にセンターオーバーを打たれて中継に入った飯島先輩が「諦めんな」と言いながらボールをもらっていたのを覚えている。最後まで諦めない姿を見れたこと、夏を経験させてもらったこと、自分にとってはかけがえのない時間だった。夏が終わり、新チームになってベスト8の壁を越えるべく練習に取り組んだ。その結果秋は初のベスト4という淑徳史上最高成績を見ることができた。冬が終わり春の大会が始まった。投手陣も良く打者もいい選手が揃っていたから勝てるだろうと思っていた。でも負けた。初戦負け。唖然とした。それと同時に夏勝てるか不安になった。自分も打撃の調子を落としていて全くチームに貢献できていなかった。夏に向けて1年生も入ってきて新チームがスタートした。もう一回作り直す気持ちでやり始めた。練習試合でもほぼ勝っていた。しかし、自分は全然打てなかった。そしてスタメンから外された。めちゃくちゃ悔しかった。泣きながら帰ったのは鮮明に覚えている。翌日も試合があったためチャンスがあれば死んでも打つと決めた。そして翌日の試合でホームランを打てた。公式戦のホームランとはまた違った嬉しさだった。そこからは一試合に1本はヒットを打っていた。夏の大会が始まり、順調に勝ち上がっていった。5回戦は記憶に残っている試合。二松学舎との試合。秋に優勝し甲子園にも出ていた。でも正直勝てると思っていた。負けると思っていた選手は多分いないと思う。そのくらい自信があった。センターを守っていたので外野の守備は全部指示した。その指示を信じて外野陣も動いてくれた。見事にハマり、最後に真章先輩がファールゾーンで取った瞬間は気持ちよかった。そして迎えた修徳戦。1打席目にヒットを打ち、4打席目にもヒットを打っていた。そして最後の打席。9回2死　1.2塁でホームランが出れば同点の場面で自分に回ってきた。次の打者はキャプテンだった。打席に入る前に「俺に繋げ」と言われて打席に入った。正直キャプテンに繋ぐことしか考えてなかった。けど打席に入った瞬間、めちゃくちゃ緊張した。それまで2安打打っていたピッチャーがデカく見えた。そして最後は空振り三振。終わった瞬間、バックスクリーンに相手の攻撃が✖︎になるのを見た瞬間、負けたと気づいた。最後の打者が自分、、人生で一番悔しかった。そして申し訳なかった。夏が終わり新チームになっても頭から離れなかった。まわりの期待に応えられなかった自分が嫌になった。自分たちの代になっても同じような場面で打ったことは一度もなかった。監督にもずっと言われた。「またお前が最後の打者になった」と。嫌になりながらも負けず嫌いなところが出て、修徳戦の次の日から毎日欠かさず、あの場面をイメージしていた。ずーーっとあの場面で自分が打っているところを想像していた。でも練習試合でも決めたことがない。そんな中で迎えた春の大会。ベスト4を決める試合で全く同じ場面が来た。9回2死、ホームランを打てば同点。しかもベスト4を決める試合。最終回、1人出れば自分に回ってくることはわかっていた。だから最終回はずっとバットの芯を握っていた。打席に入る直前までずっと握っていた。そして修徳戦のことも思い出して毎日欠かさずイメージしてきた場面がきたとも思った。冬にやったトレーニングも思い出した。2年生の夏の大会、修徳戦以降のことが全てフラッシュバックしてきた。そしてランナーが出て自分に打席が回ってきた。自分に回って来いと思いながら見ていた。打席に入った瞬間、自然とリラックスできた。周りの音も聞こえなかった。そして異様に打てる気しかしなかった。そして初球のストレートをバックスクリーンにホームラン。練習でも打ったことがない打球がセンターに飛んでいった。弾道は低かったけど打った感触はよかった。ホームランになった瞬間はよく覚えていない。嬉しすぎた。ベンチに戻って気づいたら泣いていた（笑）。試合は終わっていないのに泣いていた。それくらい嬉しかった。やってきたことが報われた瞬間だった。</div><div>自分はこの夏、チャンスの場面は全部打つことを目標に頑張っていきたい。そして見にきてくれる方々に「来てよかった」と思わせられるように残り少ない期間練習して結果を残す！！</div><div><br></div><div><br></div><div>両親へ</div><div>野球を始めてから約10年間、良い時も悪い時も、本当にたくさんのドラマがあったけれど、どんな時も一番近くで支えてくれてありがとうございました。これまでの野球人生の集大成を、最後の夏に全力で見せつけます！楽しみに見届けてください！！</div><div><br></div><div><br></div><div>後輩へ</div><div>君たちがいなかったらここまで楽しい野球人生は送れていないと思う。夏の大会全力で楽しもう</div><div><br></div><div>そして外野手へ</div><div>一応自分がやっていたことを共有する。</div><div><br></div><div>・まずは相手打者が打席に入る前のスイングを確認すること。</div><div>・風の向きを確認すること。</div><div>・センターをやる人は投手の投げる球種、コース、高さによってポジショニングの指示をすること。</div><div>・ライト、レフトはセンターに比べて見えづら　　　いと思うけど、球種はわかるからそれを参考に　大体でいいから動く。</div><div>・あとは相手の分析を試合の前日とかにしておくこと。（真っ直ぐが強いのか、変化球に強いのか、どのコースが得意そうなのか、引っ張りなのか、流しなのか、）</div><div>・ピッチャーによって球速も違うし、変化球も違うからそこは臨機応変に対応すること。</div><div>ポジショニングはどれだけ足が遅くても、速くても打球が自分のところに来れば取れる。見えないファインプレーだから頑張って！！</div><div><br></div><div>監督、コーチへ</div><div>夏は任せてください！</div><div>2年間半ありがとうございました。</div><div><br></div><div>定岡へ</div><div>中学時代からありがとう。中学の時は話すことは少なかったけど、高校で同じチームでやれてよかった。あんま遊ぶなよ。何とは言わないけど笑笑</div><div><br></div><div>山本君へ</div><div>2年半ありがとう。豊田と三人で行った外食は最高の思い出。最後の大会頑張ろう。ジャンキーなものばっか食うなー</div><div><br></div><div>豊田へ</div><div>ファースト頑張れ。また飯行こう。やっぱりお前だよ！！！！！！</div>
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<pubDate>Wed, 08 Jul 2026 20:52:13 +0900</pubDate>
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