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<title>スマジロ</title>
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<description>コンピューターエンジニア（ソフト＆ハード）を経て、現在ビジネス・プロモーターとして活動中。。パソコンのお悩み相談を受け付け中。Skypeソフトを使って一回1,000円を目安にパソコンのあれこれの質問にお答えします。</description>
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<title>高額なコーヒー</title>
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<![CDATA[ "STARBUCKS RESERVE"というお店をご存知だろうか。<br>スターバックスの高級珈琲に特化したお店である。<br>二子玉川の駅から砧の方に少し歩いた所にある。<br><br>たまにではあるが奮発して、このコーヒーショップで<br>ちょっと高めというか、凄～く値段の高い珈琲を飲む。<br>今日は"KENYA"というコーヒーを頼んだ。<br><br>値段はなんと７９０円である。<br>一緒にレモンケーキも食べたので、合計で１，１８０円。<br>お昼ごはん代よりも高い。<br><br>人の価値観とは様々だ。<br>今の私にとってはたかがコーヒー一杯に<br>こんな値段のついたものは法外な代物だ。<br><br>平日だから人は少なかったが、それでも店内には<br>１０人くらいの男女が思い思いにくつろいでいる。<br>みんな５００円以上する飲み物を頼み、<br>おしゃべりしたり、パソコンに黙々と向ったりしている。<br><br>果たしてこんな高いコーヒーにどんな価値が<br>あるというのだろうか。<br>しかし、なぜか入ってしまう。<br>というか、時々そんな環境に自分の身を置きたくなってしまう。<br><br>普段は２２０円のドトールコーヒーで済ませるのに、<br>気分次第ではこんなお店にも入ってしまう。<br>ささやかな安らぎを求めて。<br><br>追伸：<br>今日飲んだ"KENYA"というコーヒー、<br>飲み始めは苦味も少なく、<br>あっさりとした口溶けであったが、<br>時間が経つとともに苦味が出て、<br>渋く感じるものでした。<br>アメリカンとは違った爽やかさを感じさせるのもですが、<br>どうしても計時変化に弱いようです。<br>まあ、これはコーヒー全般に言えることではありますが。。
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<link>https://ameblo.jp/sma-jiro/entry-12142259443.html</link>
<pubDate>Wed, 23 Mar 2016 13:42:35 +0900</pubDate>
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<title>父の残してくれた家</title>
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<![CDATA[ わたしが大学に入るとちょうど同じ頃、<br>私の父は千葉市の支店に移動になりました。<br><br>偶然でしたが、私が合格した大学も千葉の<br>北習志野に校舎があり、私は父と母と一緒に<br>千葉へ行くことになりました。<br><br>その頃はまだ京葉線は通っておらず、<br>幕張メッセやその周辺は更地の状態でした。<br><br>転居した先はJR総武線の新検見川から<br>まだ出来たばかりのバス会社のバスで約１０分ぐらい<br>ゆられて行ったところにありました。<br><br>数か月後に父がそこからさらに検見川浜という海の方に<br>近い所にできたマンション<br>（というか団みたいな５階建ての建物）の<br>３階の部屋を購入したので引っ越しました。<br><br>今では京葉線が東京と千葉の蘇我を結んでいて、<br>駅まで１０分ぐらいの大変便利なところにありますが、<br>その頃は周りにはまだスーパーが<br>数軒しかなくとても不便な所でした。<br><br>父はケチだったこともあり、このような不便な所に<br>家を購入したのだと思いますが、<br>今思えばホントに「先見の明」があったのだと思います。<br>千葉市の中でもまだ開発が始まった不便な所に<br>あるマンションは当時一千万円強の<br>今ではとても考えられないような安さでした。<br><br>２０１１年の３月１１日に東日本大震災が発生し、<br>千葉は震災の適用がなされましたので、<br>不動産の相場は軒並み下落しましたが、<br>この父が購入したマンションの部屋は<br>思ったほど価格を落とすことはありませんでした。<br><br>利便性や居住性、周辺の教育環境や医療施設などを<br>考えれば購入した当時の価値は十分に<br>維持しているものと考えられます。<br><br>マンションの部屋からは東京湾が見え、<br>海の近くに大きな病院や終末処理場ができるまで<br>天気の良い日には富士山が見えていました。<br><br>大学を卒業し、私は家を離れて川崎市や宇都宮市<br>都内などを仕事で転々としましたが、<br>家に帰るといつも母が食事を用意してくれて、<br>変わらない食卓の光景が続いていました。<br><br>時が移り、父と母は千葉の鎌取にある有料の老人ホームに<br>移ることになりました。<br>もうその頃には父の体力は限界を迎えており、<br>死期の近い事が感じられるようになりました。<br><br>父は検見川浜の家に住むことに最後までこだわっていました。<br>でも母は「もう面倒は見切れない」と考えていたので、<br>半分強制的に父が体を壊したのを契機に<br>施設に入らせることにしたのです。<br><br>でも検見川浜の家は人に売ることもせず、<br>空家のままそのままになっていました。<br>今思えば、このことがわたしの人生を<br>大きく変えることになりました。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/sma-jiro/entry-12071316367.html</link>
<pubDate>Wed, 09 Sep 2015 21:19:28 +0900</pubDate>
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<title>盛者必衰</title>
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<![CDATA[ かつて日本郵政公社、つまり郵便局で<br>お金を預けると年率６％という時代がありました。<br>私の母はこれで結構儲けました。<br>同時に「親書」という郵便物は郵便局しか<br>取り扱いができませんでした。<br><br>郵便局が出来た背景には、徳川幕府時代に発展した<br>飛脚制度を明治政府の誰彼（？）さんが、その組織を<br>うまく取り込み、郵便配達人に昇華させていったという<br>歴史的な出来事がありました。<br><br>明治時代から約100年以上この制度が<br>人と人との遠隔を繋ぐコミュニケーションの主流を<br>なしていたわけですが、<br>コンピューターとデジタル通信機器の技術発展、<br>特に米軍開発の「アルパネット」を端に発した<br>「インターネット」の出現により、<br>電子的に郵便を送信・受信するという<br>「Ｅメール」にとって替わられるようになった訳です。<br><br>長らく郵送による紙の郵便物が電子的な郵便になった。<br>その発想は全く同じです。<br>ちなみに、インターネットでは集配をする郵便局の<br>役割を果たすものが、<br>メールサーバー（POPサーバー＆SMTPサーバー）と<br>呼ばれるものです。<br><br>ちょうどこの歴史はらせん階段に例えられます。<br>武士の時代、情報伝達手段として「文」が<br>家臣によって運ばれ、<br>そこから「飛脚」の組織が編成され、<br>それが明治に入って「郵便制度」になり、<br>現代では「電子メール」になる。<br><br>それぞれの時代の狭間では、<br>緩やかな発展を遂げていたものが、<br>ある日技術の進歩により急激に進化する。<br><br>その様子を「らせん階段」のようだと称したのです。<br>技術が進歩すれば、ある人々の職業を奪ってしまう。<br>時には自分の墓穴をも掘ってしまう。<br>でも、そこには人間の進歩があり、革新がある。<br><br>今は日本郵政は公社から株式会社になって、<br>生き残りをかけてやっていますが、<br>インターネットの出現によって、<br>その地位を脅かされたと言っていいと思います。<br><br>かつては威張り散らしていた一部の郵政族と<br>呼ばれた人たちなどは、まさに「盛者必衰」の感があります。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/sma-jiro/entry-12063925727.html</link>
<pubDate>Thu, 20 Aug 2015 20:25:39 +0900</pubDate>
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<title>流転</title>
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<![CDATA[ わたしは技術者として社会にでましたが、<br>ある時期ある期間、ラーメン店の食材工場で<br>製造と運営に従事したことがあります。<br><br>千葉の稲毛にあった（今は閉店したそうです）<br>ラーメン店が繁盛するに従い、店内で食材の仕込みを<br>することが難しくなった為に、近くの<br>穴川十字路というところに作業場を借りて<br>食材を作っていました。<br><br>何故私がそこへ行くことになったかというと、<br>その頃担当していたソフト製作の業務が<br>自分の希望に余りにも反して居たため、<br>上に人に不信感を抱き、反抗したためでした。<br>しまいには、家に引きこもるようになり、<br>直接の上司とは話ができない状態になりました。<br><br>その頃の私は不平不満だらけでした。<br>時間に縛られているような気分で担当した業務が<br>ことごとく面白くないように感じていたのです。<br><br>そうなったのは、みんな自分に責任があるのですが、<br>だからと言って何故ラーメン屋なのか。<br>私をそこへ入れた人の気持ちは未だにわかりません。<br><br>ここでの経験は確かに自分を成長させるものでした。<br>毎日同じ方法で同じような食材を仕込み、お店に納品する。<br>その繰り返しでした。<br><br>スープの開発を行いました。<br>何度も何度も食材の量や火加減、煮る時間を<br>組み合わせて、美味しい味にするには<br>どうしたらよいかを考えました。<br>繰り返す内に技術者というか職人の勘なのか、<br>きっとこの方法だと美味しくなるはずだという<br>確信みたいなものが芽生えてきました。<br>そのアイディアを上司に提案し、<br>見事想い描いた通りの美味しいスープを<br>作ることができました。<br><br>お店で社長以下社員に試食してもらい、<br>最終的に作る方法の説明書を作成し、<br>自分のスープがお店で使われることになりました。<br><br>味もサービスも上向き加減だった、そこのラーメン店は<br>だんだん超繁盛店になっていきました。<br><br>しかし、わたしの中ではやはりまだ技術者として<br>仕事をやっていくことに執着が残っていました。<br><br>あることをきっかけに結局はそのお店も止めることになり、<br>私はまたコンピューターの技術者に戻りました。<br><br>今考えるとこの経験は決して無駄ではなかったと思います。<br>それは成功に対する考え方が自分の中で形成されていく<br>過程だったように思えます。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/sma-jiro/entry-12062863407.html</link>
<pubDate>Mon, 17 Aug 2015 21:19:54 +0900</pubDate>
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<title>コンピューターとの出会い</title>
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<![CDATA[ 私が大学に入った頃、コンピューターのことは<br>まだほとんど知りませんでした。<br>記憶をたどってみると、確か大学の受験で<br>マークシート方式で答案用紙に記入したような<br>覚えがあります。<br>銀行さんのキャッシュ・ディスペンサーが<br>ちらほら出てきたような覚えがあります。<br><br>しかし、コンピューター自体まだ日本の社会での<br>認知度は極めて少なかったと思います。<br>私が中学を卒業した昭和50年初めの頃のことです。<br><br>私は大学の理工学部に入りました。<br>その学内にはコンピューター・ルームが設置されていて、<br>利用申し込みをすれば学生の誰でも、自作したプログラムを<br>動かす（RUNする）ことができました。<br>そこには確か大型の汎用コンピューターが稼働していて、<br>カードパンチの装置でプログラムをキーボードで入力し、<br>ライン・プリンターから出力される用紙で<br>その結果をもらっていました。<br>言語はFORTRANを使用できた覚えがあります。<br>COBOLも使えたと思いますが、実際にはこのマシンを<br>使わなかったのよく覚えていません。<br><br>自分が所属していた電子工学科の建屋には、<br>日立製の「<b>HITAC 10Ⅱ</b>」というミニ・コンピューターがありました。<br><a title="" target="_blank" href="http://museum.ipsj.or.jp/computer/mini/0009.html">HITAC 10Ⅱ</a><br>夏になるとインクジェットのプリンターが<br>熱のためだと思うのですが、文字が流れてしまって<br>正常に印刷できませんでした。<br>そのため、そのミニ・コンが置かれている部屋だけには<br>学科内の建屋の中で唯一エアコンが動いていました。<br><br>実質的には、このミニ・コンが私が出会った<br>最初のコンピューターでした。<br><br>当時私は「こんなものが何の役に立つのだろう。」<br>と思っていましたが、私が居た学科を創設してくれた<br>川西教授<br>（東大の航空宇宙研から来られたと聞いています。）<br>の講義で、<br>「将来必ず電子工学はコンピューターと<br>通信が融合して発展するに違いない。」<br>といった内容の事を聞いて、そのことが<br>今でも強烈に記憶に残っています。<br>まさに<b>インターネットの出現を予言</b>されていたのような<br>言葉だったと覚えています。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/sma-jiro/entry-12062117350.html</link>
<pubDate>Sat, 15 Aug 2015 20:08:40 +0900</pubDate>
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<title>キーボードは苦手</title>
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<![CDATA[ コンピューター（汎用機やパソコン）と初めて出会ったのは、<br>もうかれこれ30年前のことになります。<br>ちょうど大学に入った頃のことです。<br>大学の研究室に日立の「HITAC10Ⅱ」いうミニコンが置いてありました。<br>夏になると、暑さでプリンターが誤動作をして、印刷した文字が流れてしまう、<br>といった代物でした。<br>この頃はまだクーラーはそれ程普及しておらず、<br>この部屋にはコンピューターの誤動作を防ぐために特別に、<br>クーラーが作動させてありました。<br>　入力はテープ穿孔機。<br>つまり<span style="font-size: 18px;"><strong>キーボードでタイピング</strong></span>するのです。<br>今でこそ、iPhoneやAndroidのスマートフォンなどで音声で文字列を<br>入力できるようになりましたが、<br>最初はキーボードでコンピューターに文字列を、<br>入力しなければなりませんでしたよね。<br>　今でもキーボードを使っている場合が圧倒的に多いと思います。<br>しかも、<span style="font-size: 18px;"><strong>人差し指1本</strong></span>で。<br>わたしもキーボードで入力することはとても苦手でした。<br>まず第一にどのアルファベットがどこにあるのか？<br>なかなかみつからない。<br>みつかって押して、あれ何の漢字を入力するんだっけ、<br>と頭をひねってします。<br>そんなことの連続でしたね。<br>そこで、発奮して、<span style="font-size: 18px;"><strong>ブラインドタッチを練習</strong></span>するソフトを買いました。<br>仕事柄、コンピューターを使ったり、自分自身がコンピューターの設計をしたりしているにも関わらず、今でもキーボードは好きになれません。<br>　そこで、最近再度ブラインドタッチの練習をすることにしました。<br>キーボードを見ないでも、早く文字を入力できたら気持ちいいですよね。<br>一度、以下のサイトに行って、タイプの練習をしてみて下さい。<br>ゲーム感覚で結構楽しく、タイピングの練習をすることができますよ。<br>　　　　<span style="font-size: 36px;"><strong>↓</strong></span><br><a href="http://typing.nh-pma.com/">http://typing.nh-pma.com/</a>
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<link>https://ameblo.jp/sma-jiro/entry-11973136862.html</link>
<pubDate>Sun, 04 Jan 2015 20:17:32 +0900</pubDate>
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<title>わたしの履歴書</title>
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<![CDATA[ <p><font size="4"><strong>１９５８年</strong></font>昭和３３年４月博多（天神から少し南に下った日赤病院）で生まれる。</p><br><p><font size="1">３歳</font>の頃<font size="4"><strong>佐賀県杵島郡大町町</strong></font>へ移住。物心ついた頃、母からもらったお小遣いを手に握りしめて玩具屋に行く。しかし、いつもそこのおじさんにお金が足りないと言われてショボショボと帰っていった。</p><br><p><font size="4"><strong>大町小学校</strong></font>へ通い始める。秋になると小学校も裏手にある椎の木の実を食べに行く。田んぼの中に入ってはお百姓さんに捕まって、そこに罰として立たされたことがあった。</p><br><p>小学校４年の時、<font size="4"><strong>４００mリレーの代表選手</strong></font>として地区陸上競技大会に出る。何位だったかって？もちろん１位だよ。</p><br><p>小学校の５年の２学期の１２月、父の勤めていた<font size="4"><strong>杵島炭坑が閉山</strong></font>になって<font size="4"><strong>東京へ</strong></font>移住。<font size="4"><strong>杉並区松庵</strong></font>の借り上げ社宅に住む。そこは隣が弁護士の大家で、父のことが気に入ったものだから、よく話し込んでいた。</p><br><p><font size="4"><strong>少年野球</strong></font>を始める。６年の夏には<font size="4"><strong>甲府</strong></font>に杉並の子供達が疎開したことを記念して行われた少年野球大会に出た。ポジションはセンター。</p><br><p>神明中学校へ通う。<font size="4"><strong>バスケ</strong></font>に熱中。皆からは「どまじめさのまん」と呼ばれていた。女教師によくしごかれた。</p><br><p>杉並高校へ。中学の先輩が正門でビラを撒いていたことをキッカケに<font size="4"><strong>合唱部</strong></font>に入る。「筑後川」は今も頭の中にこびりついている。</p><br><p>日大理工学部<font size="4"><strong>電子工学科</strong></font>へ。電気工学科から分科したので、一応１期生。でも研究室は昔からあるので、その系統は残る。俺は田中研究室へ。最初は材料工学をやるつもりだったが、電子回路グループが人が足りなかったせいでそっちをやる。研究はつまんなかったが、一所懸命やった。おかげで単位ぎりぎりで卒業できた。友人からは散々「お前なにやってんだ。」と言われたが、こっちは平気の平左。</p><br><p>目出たく日本ＸＸＸＸへ入社。<font size="4"><strong>CDプレーヤー</strong></font>の開発グループへ。デジタルからアナログへ変換する回路を設計した。後年わかったのだが、ソＸＸのやつが俺が作った回路をコピーしやがった。この時特許の重要性を認識する。</p><br><p>あるコンピューター会社へ。DＩＳＰ（電電公社インフォメーションシステムプロセッサー）？とか言う汎用機を設計。面白くなかったので、マイコンの勉強をしていた。当時<font size="4"><strong>マイコンやパソコン</strong></font>はまだ主流でなく、本体事業部のやつらは馬鹿にしていたが、俺はもうすぐパソコンの時代が来ると思っていた。この頃離婚。子供はいなかった。</p><br><p><font size="4"><strong>SMIプログラム</strong></font>に出会う。学生時代、多胡輝千葉大教授の心理学に興味があったので、潜在意識の存在には注目した。しかし、こんな高額なものを売りつけた連中には嫌悪感を抱く。といっても自分も２本ほど人に売っちまったが。。。父の２番目の兄弟であるおじさんには、散々こき下ろされたが、後年おじさんもこのプログラムを別の人から購入したことをおじさんの息子から聞いた。</p><br><p>とある<font size="4"><strong>ソフト開発会社</strong></font>へ入社。会社と言ってもまだ３人。羽田のマンションの一室でしこしこプログラム書いてた。<font size="4"><strong>C言語</strong></font>を教えてもらいながらソフトを作成。この頃借金してたので、首がまわらなかった。でも食いっ逸れはなかった。</p><br><p>いろんな経過があって<font size="4">ラーメン屋</font>で働く。千葉稲毛にあるラーメン屋の食材工場。工場といっても普通の民家の１階。今でも当時一緒に食材を作っていた奴が稲毛の店長兼オーナーをやっているのを風の便りで聞いた。ラードが下水に流れて、しょっちゅうポンプが壊れて、毎日のように油の廃棄に手こずっていた。会社の本部長は「うちの責任じゃないよな。」、と言ってたがこっちの責任に決まってる。現場を見りゃわかるのにね。</p><br><p>千葉の蘇我でラーメン屋を立ち上げる。しかし甘かった。１ヶ月もしないで店長解任。</p><br><p>数ヶ月運送屋の世話になった後、人材派遣会社に登録して、宇都宮へ。<font size="4"><strong>半導体露光装置</strong></font>の開発。</p><p>この頃皆から「えろがっぱ」と呼ばれていたグループリーダーと仲良くなる。辞めるときこの人に俺が乗っていたロードレーサーを１０００円で買ってもらった。今でも親交がある。</p><br><p>東京へ戻っていろんな会社を<font size="4"><strong>派遣</strong></font>で渡り歩いた。いい勉強させてもらった。感謝感謝。借金も返した。</p><br><p>英語の会話能力をつけたかったので、ロサンゼルの<font size="4"><strong>アーバインへ語学留学</strong></font>。おばさんが<font size="4"><strong>トーレンス</strong></font>に住んでいたので、よく遊びに行った。もう２年前になくなったが、波乱万丈の人生だった。おばさんにも感謝。</p><br><p><font size="4"><strong>気象のシステムソフト</strong></font>を制作。</p><br><p>そして独立して現在に至る。</p><p>コンピューターのことは人並み以上にわかるので、少しでも周りの人の役に立つような情報を解かり易く伝えて行きたいと思う。</p>
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<link>https://ameblo.jp/sma-jiro/entry-11973013727.html</link>
<pubDate>Sun, 04 Jan 2015 14:23:28 +0900</pubDate>
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