<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>「異端児、常識を疑う」</title>
<link>https://ameblo.jp/socworry/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/socworry/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>世の中の100%正しい常識を疑えるか？ふわふわと舞う、赤とんぼのまま終わるのか？毒を飲むか？薬を飲むか？異端児となるか、出来損ないで終わるのか？混迷の時代を穿つ社会派ブログ</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>マスコミ亡国論</title>
<description>
<![CDATA[ マスコミ亡国論再販されました。今読んでます。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/socworry/entry-12380091116.html</link>
<pubDate>Thu, 31 May 2018 00:08:15 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>気力</title>
<description>
<![CDATA[ 若いお母さんが亡くなり数か月後、5歳なった男の子が母の死を認識しはじめたという。<br><br>残された父親が5歳の息子にかけた言葉が、<br><br>「男の子ならこらえて元気にしていなさい」<br><br>だったという。<br><br>この言葉は、父親が5歳の息子という立場の人間にかけてやれる精一杯の言葉だったかもしれない。<br><br>少なくとも他人である自分には、この言葉しかかけようがないと胸打たれる。<br><br>相手の身になってかけてやる言葉は、必ず「感動」をもたらす、「笑い」をもたらす、そして「ユーモア」がうまれる。<br><br>そして、その前提条件は「まずはその相手のことが好き、愛おしい」相手でなければ、そういう言葉はかけてやりたくても本心からかけらることはできない。<br><br>その人の身になれるような相手であることという条件が必要です。<br><br>しかし、そういう相手とめぐりあうことは簡単にはいかない。<br><br>人が好きな人は、そういう相手とめぐりあう可能性は広がるでしょうが、人が嫌いな人はどうすればよいか。<br><br>まず思うのは、好きになれることが少ないかもしれないが、好きな人を見つけること、それに尽きるのではないか。<br><br>すべての人を好きになる努力をしても仕方がない。たくさんの人の中で「この人は！」と思える人を探せばいい。<br><br>好きな人は数ではない。ひとりいればその相手を思いやり、愛おしく思うことは可能なのだから。<br>好きな人を愛おしく思えることが大事なのです。<br><br>それでも人が嫌いな人はどうすればよいか。<br>まさに、これは現代の問題です。ひきこもりや社会との接触ができない、方法がわからないという問題です。<br>好きになることの第一歩目から気力を奪われてる問題です。<br><br>ここで気づくのは、好きになるには「気力」が必要であるということ。<br>この力の源泉は「欲望」なのです。<br>「欲望」が「気力」を生むのであれば、「気力」が失せている状態は「欲望」すらが発動されない状態。<br><br>社会は横に広がっている世界です。横を見れば競争、競合がひしめきあい、嫉妬やエゴイズムで渦巻いてる世界です。<br>勝ち負けという形で評価を下されたり、その「欲望」は満たされずあえなく失脚の憂き目にあう。<br>そうして人間を信頼できなくなるのも当然の成り行きに思えます。<br>逆に欲望の限りを引き延ばし、果てしなく欲望を追求するものがいるのも当然といえば当然でしょう。<br><br>どちらも両極端です。終わりなき、節度なき運動の繰り返しです。<br><br>ここで考えなければならないのは、横に広がる社会に対し、縦軸につながる世界のことです。<br><br>時間軸、世代間と言い換えてもよいでしょう。<br><br>時間というものは何のためにあるのか。<br>ただ物は風化し、人が年老いるだけのものという価値判断も可能であるが、やはり「欲望」に身を浸す人間である以上、<br>自分が費やした時間を意味あるものにしたい、価値観を見出したいと思うでしょうし、「これは！」と信頼に値するものを手に入れたいと思うでしょう。<br><br>「欲望」は満たされるとまた次の「欲望」へと際限がない性質をおびています。<br>時間というものは、どこまで行っても「欲望」の満たされなさの中に、人間の不完全性を示唆している。<br>そして、人は一歩とどまり、懐疑することを学ぶ。<br>このようにして、本来人は時間の中で様々に成功や失敗を繰り返すことによって、良識や価値観を身に着けてゆくのです。<br><br>つまり時間というものに人の言葉や体験は熟成され、確実に受け継がれてゆくはずです。<br><br>若いお母さんを亡くした5歳の男の子は父親から、最大限身になってかけられた言葉を受け止め、意味を年齢なりに咀嚼し、育ってゆく。<br><br>きっとこの男の子はこれから先、「この人は！」と思える人を、「これは！」と信頼に値するものを手に入れようと必ず進んでゆくことと思います。<br>生きる「気力」を与えられた瞬間ともとれるでしょう。<br><br>今、気力を奪われてる人は、「欲望」がないのではないのです。自分の気持ち、立ち位置が分からなくなってるのです。<br>その相手に対する気持ちは、愛か？恋か？ただの情か？<br>その前に「愛」と一般的に言うが、実体は何であって、自分にとってどういうものかわかってるのか。<br>「欲望」を「気力」に変えてゆくとはどういうことか、どんなことが必要なのか、時間軸の中から暗闇の中でつむぎだす作業が求められている。<br><br>そういうことを真っ暗などん底の中で何日も悩みゆいた先に、感覚は少しはマシに研ぎ澄まされ、ひとつの答えを手に入れるのはずです。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/socworry/entry-12362978370.html</link>
<pubDate>Sun, 25 Mar 2018 01:12:08 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>表現者、西部邁～生命第一主義の命脈を断て</title>
<description>
<![CDATA[ 一報は1/21（日）夕方頃、テレビのニュースで知りました。<br><br>「西部邁さんが死去、自殺か」<br><br>第一報での率直に感じたことは、「ついに来たか」だった。<br><br>それは「西部邁」という人間が、実際ご高齢でそう長くはないと自身もおっしゃっていて、再三にわたり「死に方」、死生観について語っており、<br>もしかしたら…と、漠然と想像していたからそう感じたのだと思う。<br><br>そしてこの「死」から西部さんを初めて知った時までさかのぼって振り返ることで、「西部邁」という方がどんな人間だったかをもう一度確かめたい。<br><br>----<br><br>自分にとって西部さんとの出会いは高校生の頃、「朝まで生テレビ」に出演されていたことでした。<br><br>政治や民主主義、戦後史観や社会情勢などについて、教科書や新聞から得た知識もしくはイメージしか持っていない、しがない高校生の頃です。<br><br>ということで、しゃべっている内容はあいまいにしかわからないのだが、西部さんの語り口には、どこか説得力があり、魅力的であったことはしっかりと覚えています。<br><br>物事をきれいごとで片づけるのでなく、しかし単なる毒舌をまき散らかすだけでもない、それでいていたずらに討論におぼれるのでなく、議論の核心となる部分に近づこうとする意欲、<br>いたずらやおふざけは大抵許してくれそうだが、人生すらもそれで染め上げようなどとは頭がおかしくなるぞというその時代の知識人たちへの警告ともとれるような態度、<br>高校生でもそういう、本気のオーラを受けとったことは確かでした。<br><br>あの魅力はどこから来るものなのか。<br><br>西部さんという人間を語るときに代表的な表現として「保守の論客」と言われることが多い。<br>即ち、敵を作る、排他的という観念で人間性を語られることが多い。<br><br>でもそれは間違いと思います。<br><br>なぜなら、西部邁ゼミナールでは安部首相が下野していたとき（民主党政権時代）にゲストに呼んで励ましていたが、今の安部政権の政策には厳しく批判をしていたし、<br>逆に民主党政権を死産せると厳しく批判したが、鳩山由紀夫元首相をゲストに呼んで活動を励ましたりしている。<br>もっと昔の話だと、宮台真司さんとある番組で議論が激突して西部さんが先に退場したときも、楽屋で宮台さんを待っていて励ましたこともあるという。<br><br>なんで"鳩山"なんぞ自分の番組に呼んだのだとか、信念がないぞという意見が先に立つとは思う。特に「保守主義」を標榜する人ならば。<br><br>だが、このことは西部さんは思想家であるのだが、人が持つ思想というものにもやはり疑いを持っていることの証だとも解釈できる。<br><br>つまり、これも西部さんがよく言っていたことで、人間は誤謬を伴う生きものだということで、<br>極論するとたかが一人間が、大層立派な思想に至れるというのは、まずはあつかましいと構えるのが自然であって、<br>ゆえに、あの人やこの人が語る思想にこだわって、非難ばかりしているのも野暮な話で、<br>それより逆に「お前の言い分も聞いてやるか、それでまたおかしなことを言ったらいくらでもた叩いてやるぞ」と、<br>そうやって表面上の議論も繰り返される内にやがては、「お前の本心やお前の苦しみなんかが明るみになってくれば、少々ましな思想とやらが垣間見えてくるんじゃないか。」<br>そんな風に構えていたから、安部さん、鳩山さん、宮台さんへの対し方があったと思うのです。<br><br>「思想は大事だが、思想を疑うことはもっと大事である。」ということ、<br>そして「論客」と世間では言われているものの、自分の意見を堂々と押し通し、相手を論破することだけを目的に議論する人物ではなかったのではないか。<br><br>それは著書でこんな風にも言ってもいます。<br><br>「私自身は、もう齢だからいってしまいますが、御人好しで情にもろく、困った人がいたら助けたいと思い、威張っている者がいたら喧嘩してしまう気質（たち）の人間にすぎません。<br>こんな平凡な人間なんです。」と。<br><br>こういうふるまい方、表現方法が西部さんの真骨頂なのだと思うし、やはり西部さんは単に思想を内にこもらせてるだけの思想家というより、表現者あるいは実践者と呼ぶのがふさわしいと思うのです。<br><br>この表現者として、実践者としての西部さんは、こんな平凡な人間なんだと自己を表現した後にこうも言っています。<br><br>「こんな平凡な人間が他人様にみせるに値する「非凡な生と死」を展開できると思っているわけでもないのです。」<br><br>「私の念願しているのは、恥ずかしい生き方や死に方はしたくないということだけです。」<br><br>もう何年も前ですが、西部邁ゼミナールで、生命尊重だけを叫び、延命のための社会保障が足りぬと不平不満を述べ立てる風潮に対し、<br>シベリアあたりに鹿かインパラのようなある動物がいて、敵と戦い傷つき自分が役立たずとなったと悟ったら崖から飛び降りて自殺するという話をされて共感されてたのが印象に残っています。<br><br>「恥ずかしい死に方はしたくない」<br>実践者としての西部さんのその信念には今更疑いようがありません。<br>また自分に問われたとき、その信念が説得してくるように、「あいつは生にしがみつくような生き方だった」と思われるより「潔い死に方だった」と思われたいと願うものである。<br><br>だが、それを自分も全うできるか、つまり自分の死を自分で決めることができるかと問われたとすると、はっきり「Yes」とはまだ言えない自分もいる。<br><br>「生命第一主義の命脈を断て、生命に対する過剰なこだわりと縁を切れ」<br>西部さんのこの言葉は、これから決して頭から離れることはないだろう。<br><br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/socworry/entry-12348896542.html</link>
<pubDate>Wed, 31 Jan 2018 12:15:45 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>いなくなっても構わない</title>
<description>
<![CDATA[ 「いらっしゃいませ。」<br>「あのうすみません、最近色々とつらくて、楽に死ねる方法はありませんか。」<br>「それなら、首吊りがおすすめです。」<br><br>座間9人殺害事件のSNSであった自殺の方法は、あたかも店員が商品をすすめるかのようなやり取りで行われていた。<br><br>ビートたけしが、「今の若者は苦労することが生きている証とは思えなくて、足元から生きる意味が無くなってきてる。<br>自分たちの時代はひどい目にあっても、「それがいきてる証拠だ」と思っていたし、良いことも悪いこともあるから面白いとポジティブに捉えていた」<br>といったらしい。<br><br>時代は変わったといえ、「生きる意味」というものは果たして実在するのだろうか。<br>そういうものを明確に自覚して生きられてる人はたくさんいるのだろうか。<br><br>何を生き甲斐と感じ、何を幸せと感じるか、そういう抽象的な問い掛けに対し、明確な実感を与えてくれるのはやはり物質的なものの満足、リアルな充実感なのでしょう。<br><br>しかし物質的なものは満たされてきたときに、そこにはやはり不満があるわけです。<br><br>どこまで行っても人間は憧れるものがあり、なお満ち足りないものがある。<br>そうなるとまたしても「生きる意味」というものは分からなくなってくる。<br><br>人間に「生きる意味」を明確な形で持つことは可能なのだろうか。<br><br>こういう難しい問いには、<br>「それなら、福田恒存がおすすめです。」と言ってしまいたくなるものです。<br><br>福田恆存氏ならこのように問いを導いています。<br><br>人間というのはやっかいなものだが、人間が作ったものには全て「本質」、つまり「目的」があるといいます。<br>例えば“鉛筆”には鉛筆としての「目的」や「用途」が先にあり、そのあとで「ああこれが鉛筆というものなんだ」と「存在」があります。<br><br>逆に“人間”は「本質」や「目的」があとで、「存在」が先にある。<br>私は何のためにいるのか分からないというのは実は当たり前になる。シビアな言い方かもしれないが、よくわからず生まれてきた、産み落とされたという事実は真っ向から否定できないのです。<br><br>すなわち人間というのは本来「目的」がないのだから、いなくなったって一向に構わないわけです。<br><br>人間がそんなに貴重だと思うのは何かの錯覚であって、原爆で一瞬に吹っ飛んでもなんということもないのです。<br><br>人間はただまず、「存在」したというわけです。<br><br>福田恆存氏はこういうところから話を出発させています。<br>そして単に退廃的なことを言ってるのではありません。<br><br>人間はただ生きていたいのでしょう。と。<br>何かのために生きるのではなく、生きていたいのでしょう。<br>自然のちからにおされてただ生きてるのでしょう。<br>自然の一部である人間は、自然的な調和を欲しており、我々はそれを幸福と名づけるわけです。<br><br>こうなると、益々わからなくなってしまった人も居るかも知れないので、福田恆存氏は次のようなことが大事だと言っているので付け加えておきます。<br><br>人間にはユーモアが大事だと。<br><br>ユーモアとは人を笑わせるとかとは少し違います。<br><br>論じてる対象、あるいは戦ってる相手との距離を広くする、ゆるくすること。<br>何でも許すのではなく、距離を置くということで、距離をもって眺めるということです。<br><br>みんなが苦しんでることもはたから見れば喜劇となることもありえるでしょう。<br>だから自分が賢明であり、まじめであり、何かに向かって努力するのはいいけれど、それを眺めてる自分はキリキリ舞いしない、距離を持つことは大事なのことだと言っています。<br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/socworry/entry-12329537982.html</link>
<pubDate>Sun, 19 Nov 2017 03:25:50 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>大報道は朝生まれ、夕に死す</title>
<description>
<![CDATA[ 豊田議員のパワハラ疑惑、蓮舫議員の二重国籍問題、元SPEED議員の不倫疑惑、山尾議員の不倫疑惑と、最近立て続けに女性議員のスキャンダルが報道されている。<br><br>もちろん国会議員の不祥事は批判されて然るべきものではある。<br><br>一方、マスメディアの側は新聞なり映像なりが見られ、売れなければならない。次から次への新しいネタに狙いをつけては世間に垂れ流す。<br><br>そして、時が経てば、スキャンダル報道は何もなかったかのように忘れ去られてゆく。<br><br>まさに「大報道は朝生まれ、夕に死す」のである。<br><br>これは昭和の時代から同じサイクルで今も大して変わりはないであろう。<br>どうしてこの繰り返しから逃れられないのであろうか。<br><br>その答えもマスメディア批判論では、既に繰り返し言われてきている。<br>その最大の理由は、大衆の「退屈」がそうさせているのだと。<br><br>マスメディアが垂れ流すスキャンダルを受信した大衆は、批判の対象である女性議員を憂さ晴らしかのようにバッシングする。<br>そしてこの一時の退屈しのぎの興奮がおさまるとまた次の批判対象が提供され繰り返される。<br><br>この悪循環に大衆が取り込まれてるのは「退屈」が最たる要因であるのだと。<br><br>大衆がお粗末なのはわかった。<br>しかし、もう一方のマスメディア側の正常性についてはどうだろうか？<br>「売れるためなら何でも垂れ流す」無機質な装置だという批判はこれも昔からある。<br><br>だが、目的のためなら手段を選ばないという無機質な性質以外に、致命的な障害がマスメディアには孕まれているということを、<br>言語学者のローマン・ヤコブソンが分析した失語症患者の症状になぞれらえて見てみると、この問題の本質が一層浮き彫りになってくる。<br><br><br>マスメディアが次から次へとへとスキャンダル報道を転移させてゆく表現の仕方は、失語症患者の「類似性障害」という症状と非常に似ている。<br>「類似性障害」とは換喩（この場合、女性議員の話題の次に類似した女性議員の話題をつなげてゆく表現法）のみを繰り返してしまう症状とされる。<br><br>そしてこの「類似性障害」患者の特徴的な症状は、自分から対話の口火を切るのは難しく、相手との対話でコミュニケーションの理解を深めながら共感を見つけ出すことが苦手とされる。<br><br>マスメディアというのは、たんなる情報のやりとりしか実現する能力がなく、大衆に媒体（メディア）を通して、共感や意識・行動の変化を芽生えさせるような能力はないのである。<br><br>マスメディアの発するメッセージからは社会の中での共感というものを感じ取ることは不可能なのであり、<br>マスメディアの発するメッセージを受け取り続けると真の孤独にさいなまれるのである。<br><br>ヤコブソンは提唱する。<br><br>言語には個人的所有物というようなものはひとつもない。<br>すべてが社会化されている。<br>あらゆる言語交換はすくなくとも二人の伝達者を必要としている。と。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/socworry/entry-12315209081.html</link>
<pubDate>Sat, 30 Sep 2017 01:15:32 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>「技術知」そして「実践知」</title>
<description>
<![CDATA[ 先日、Windowsのパソコンについて、知ってる人は知ってる細かい設定情報を問われた。<br>そういう立場にいるので仕方がないので、専門家から説明を受けたのだが、何とも複雑な回答をされた。<br>が、よくよく自分で調べてみると大して難しい内容ではなく、むしろ難しく見える専門用語をさらに専門用語で覆い被せたりして、わざと難しく見せてるかのような内容であったので、Windowsパソコンの詳しい知識を得られた納得感より、ITというものに対するいかがわしさだけが増して終わりとなった。<br><br>こういうことを"知ってる"人が「技術者」なり「専門家」と呼ばれるが、「技術」とは、結局知ってるか知らないかの違いに集約され、そこには価値の基準や思想的なものは含まれてこない。<br>知っている者のみが、具体的に行動をとれるという世界をつくりだすのに、この情報を情報でオブラートするのは好都合なのであろう。<br><br>その意味において世の中では、情報をうまく選択して、それを有用な知識として生かすことができる人がお金を儲けられると言っても過言ではないでしょう。<br><br>マネーゲームがいい例である。どこの株が儲かるというような「情報」にこそ価値が置かれる。しかしその「情報」には簡単にはたどり着けないという具合に。<br><br>情報というのは氾濫している。<br>が、それゆえ、適切な情報は探しにくいものになっている。そして情報とはそういう性質に相性がよいのものなのだろう。<br><br>情報に対する熾烈な収集争いは続いてゆく。<br>そしてそれに敗れて「情報格差」というものが登場するわけです。<br><br>情報をいかに集めるか、いかに適切な情報として身につけるかという休みなき運動より、大事なものは情報の価値性ではないか。<br>マネーゲームに必要な情報は大事かもしれないが、それ以上に、情報の価値性はどうか？という問いは大事というよりも逃れられないはずである。<br>なぜなら、情報の価値性を失った社会はすでに死んだも同然だからである。<br><br>では情報の価値性とは何か？<br><br>知識には2種類あるとマイケル・オークショットが言っています。<br>「技術知」そして「実践知」だと。<br><br>「技術知」は人間の知識の一部に過ぎないです。<br><br>しかし「実践知」とは、“人間の行為の目的にかんする（暗黙の）知識も含まれている”ということ。<br>たとえば、手の込んだ料理法を年寄りが若者に伝えるという実践のなかで、健全な家庭や愉快な社交の場を保持するという目的がおのずと示されてくる。（思想の英雄たちから引用）<br><br>手の込んだ料理法のようにその先の目的の価値まで示されるものでなければ、いかなる高度な技術情報だろうが、投資情報だろうが、いずれ人間世界のすべての証明できるという錯覚を起こしてしまうのです。<br><br>「技術知」だけで世の中は渡っていける、説明が付くという欺瞞に陥ってはダメなのです。<br><br>最後にこういう批判が差し向けられるかもしれない。<br><br>知ってるか知らないかのだけの差だろうが、それで得するなら、金が儲かるなら、それはそれでよいではないか。<br>そういう一見ポジティブに見えて、核心部分はニヒリズムな考え方、生き方を受け入れる姿勢である。<br>。<br>自分は、嫌いである。<br>人間を非常に単純なものとして解釈している姿勢だからである。<br><br>人間とは食って、寝て、稼いで、時には名声を得て、幸せになるのだという、単純に思い描ける「像」には簡単に当てはまらないからである。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/socworry/entry-12296930784.html</link>
<pubDate>Sat, 29 Jul 2017 18:46:37 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>次回コラムは7月掲載予定</title>
<description>
<![CDATA[ <p>次回コラムは7月掲載予定</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/socworry/entry-12288207789.html</link>
<pubDate>Fri, 30 Jun 2017 02:23:59 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>死に様</title>
<description>
<![CDATA[ <p>『もちろん世界中がしあわせになれればいいけど、どうやら僕たちは増え過ぎた』<br>二十数年前にもなるが、こんな歌詞の歌がありました。BLANKEY JET CITYというバンドの「鉄の月」という歌です。</p><p>&nbsp;</p><p>戦場での殺し合いで兵士が途方に暮れて彼が思ったのは、結局のところ人々のいがみ合うのは人が増えすぎたからなんだ、人が多すぎて食べ物も土地も取り合いになるし戦争にもなるんだという、シニカルで虚無的な解釈です。</p><p>&nbsp;</p><p>それまでは「戦争反対」や「平和で行こうよ」というのが、ロック歌手っぽさを演出するための常套句であったが、観衆受けする偽善的なセリフではなく、<br>「戦争すらやむを得ないのではないか？」、「平和が成立することはあるのか？」、あるいは自虐的に「どうやらオレたちは増えすぎたんじゃないのか？」という懐疑をロック歌手に限らず、言え得る者はほとんどいなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>なぜなら、この問いはもしかしたら、「オレたちの中に無駄に生まれてきた者がいるのでないか？」と皆に降りかかってくる、誰もが避けたくなる命題を含んでいるからである。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし人が増えすぎたことは事実で、例えばヨーロッパの人口は6世紀頃から18世紀頃までは1億8千万人程度で1200年以上平均的に推移していたのが、その後たった100年で4億6千万人ほどにふくれ上がった。<br>間違いなく、時代が“近代化”するとともに人口も急進的に増加したのである。</p><p>&nbsp;</p><p>人口の急激な増加をもたらした“近代化”とは何か？</p><p>&nbsp;</p><p>それは科学・技術と民主主義が発展したことである。</p><p>&nbsp;</p><p>これはオルテガ・イ・ガセットが指摘したことだが、増加した「数」よりむしろ、この短期間で増えた「速さ」の方を問題にしている。</p><p>&nbsp;</p><p>人間というのは「教養」であれ「感受性」であれ、人から人へ、ある程度の時間を掛けて漸進的に言葉と行動で受け継がれ、なじまれてゆくものである。<br>つまり過去から未来へ受け継いでゆくもの、それを「伝統」と呼ぶなら、「伝統」は短期間では受け継ぐことは難しく、ゆっくり時間を掛けて伝承されてゆくものなのである。</p><p>&nbsp;</p><p>そうなれば、短期間に人口が増えたと言うことは、やはり「伝統」が真っ当に受け継がれてない現象と見るのが正しいのでないだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>近代生活におけるあらゆる“技術”は短期間で人に教育することは可能だったが、果たしてその人は「教養」というものを身につけられたのだろうか。</p><p>近代生活で必要とされる“モノ”を与えられた人は、近代の産業化に順応することはできたが、伝統を大事と感じる「感受性」はどうやって身につければよいか教えられなかった。</p><p>&nbsp;</p><p>近代には、そういう人がウヨウヨいるということで、それは自分かもしれない。<br>そういう量産された人々のことをオルテガは「マス・マン」と呼んだ。</p><p>&nbsp;</p><p>「マス・マン」は科学と技術を信奉し、民主主義を最も愛したのである。<br>公害が問題になると省エネ技術を持ち出し、技術の進化にのみ未来を託す。<br>真善美の追求を断念し、多数決で正義が決まる効率性を重んじ、つまり付和雷同して生き延びる術を習得した。</p><p>&nbsp;</p><p>「教養」や「感受性」が欠けているというのは、このように己の行く道、取り得る方向性を見失い、ついには地図を持たない旅のようにさまようような様を、<br>これで問題ないのだと自己暗示を繰り返すようなことでないだろうか。<br>本質的な不安を見て見ぬふりをし、次から次へと現れる新しい技術や民主主義の恩恵に後押しされ、一切の懐疑を持たない態度のことである。</p><p>&nbsp;</p><p>彼らに決定的に足りないのは、科学も技術も大事だが、やっぱりやりすぎはよくないなあという「節度」、<br>民主主義といえど、万能な意思決定手段はないもので、調和を重んじつつも抱く「懐疑」ではないか。</p><p><br>最近、最近年寄りが自動車事故を起こして子供を死なせたり、詐欺に大金をだましとられたりする悲惨な事件が後をたたない。</p><p>それも科学技術が進歩して平均寿命が上がったことの弊害ととらえられるのでないだろうか。</p><p>&nbsp;</p><p>こういう事態にこれから近代人はどう対処してゆくのか？</p><p>またしても技術や制度で調和を取ってゆくのか？<br>自動ブレーキ搭載の車を開発すれば片付く問題か？<br>高齢者に運転免許を返納させる制度の規制で取り繕うのか？</p><p>&nbsp;</p><p>ロシアにあるシカ科の動物がいるそうで、その動物は自分が年老いて敵と戦えなくなり、食糧の確保も難しいと判断すると、断崖絶壁から飛び降りて自ら絶命するらしい。</p><p>&nbsp;</p><p>年寄りは自ら姥捨て山に行け、ということを言いたいのではない。</p><p>&nbsp;</p><p>人間にこのシカ科の動物のような選択はできない。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし人間が生きるというのはこういう残酷な面と張り合わせになってるもので、そういうことをいみじくも感じられる感受性が欠けていると生きてる意味もないのでないか。</p><p>&nbsp;</p><p>近代人にとって重要なものは、死に様についての意識かもしれない。<br>生き様については人はよく口に出し語り散らされているが、それよりも死に様について考えることの方がよほど難しく、悩み考える価値のあることでないだろうか。</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/socworry/entry-12278400226.html</link>
<pubDate>Sat, 27 May 2017 17:10:58 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>次回コラムは5月掲載予定</title>
<description>
<![CDATA[ <p>次回コラムは5月掲載予定</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/socworry/entry-12269913168.html</link>
<pubDate>Sat, 29 Apr 2017 02:28:14 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>小学校移民</title>
<description>
<![CDATA[ <p>ひと昔前に比べ子供の教育に熱心な親が増えていると言う。</p><p><br>その熱心さは、「勉強しろ」とうるさいだけのものではなく、もっとリアリティのある熱心さとして露出しされている。<br>それは「小学校移民」という形で露出しているという。</p><p><br>子供を私立中受験に有利な小学校に通わせるため、一時的に引っ越しまでするという現象が起きている。<br>例えば区内のいくつかの公立小学校には教育熱心な親が多いということで、文京区に引っ越す家庭が増えている。<br>公立校ゆえに学区内の住民である必要があるから、千葉県や埼玉県から引っ越してきたり、子供が小学校の間だけ賃貸に越してくる方法を取っている。</p><p><br>これを聞いたとき、熱心ともいえるのだが、「遂にそこまで来たか」という方が率直な感想でした。</p><p><br>学歴競争に乗り遅れないようにするには、塾通いとか普通の行動だけではもはや物足りない時代に来ている。<br>彼らの目指しているところは、漠然とした単なる高学歴ではなく、最上位の東大クラスや医学部といった超一流を具体的に目指していて、そしてこの具体的な行動は有効であるににちがいない。</p><p><br>少し前に流行ったピケティに言われなくても、「富の世代間連鎖」は誰でも感じているはずである。</p><p><br>テレビドラマになった小説の「下克上受験」でのテーマであった、“子供の学力や学歴は親の年収に比例する”ということである。</p><p><br>学歴によっておおむね所得の高低は比例する。<br>これは疑いようのない事実である。</p><p><br>しかし、ここまで事実を突きつけられても、「遂にそこまで来たか」という違和感は払拭できない。<br>自分の子供に対してもこの風潮に乗り遅れることの不安と同時に、いざ自分は彼らと同じ行動を取れるかというと待ったを掛ける自分がいるということ。<br>それはなぜか？</p><p><br>高い『所得』を得るためには一般に大企業や安定した職種に就く必要があるでしょう。<br>そして大企業や安定した職種に就くにはやはり高学歴が必要となるでしょう。<br>むろん高学歴をつけるには早いうちから高い『教育』を受けることが必要になるでしょう。<br>ここまではわかる。</p><p><br>だが、どれほどの『所得』があり、いかほどの『教育』を受ければよいという前提が実は錯覚でないかと一切疑わない姿勢に違和感があるのです。</p><p><br>つまり、「財産」はないが『所得』はある、「教養」とはいえないが『教育』もあるという人が創られるだけではないかということです。</p><p><br>近所に住むある爺さんは少ない年金生活者で所得こそないが、人付き合いを通して旬の野菜や魚をしょっちゅうもらって暮らしている。<br>公共の場で人への配慮がすばらしかったりする婆さんが小学校しか出てないなんてことがある。</p><p><br>これは一例であって、この逆の場合ももちろんある。</p><p>豊かとまではいえないが、ある程度満たされているのが現代であります。<br>もちろん細かい点で不満はいくつもある。<br>だが、決定的に満たされていないものはない状況で、満たしたい欲求がはっきりしない苛立ちが『所得』や『教育』という手段的なものへ目的と化してしまいがちになります。</p><p><br>これは本質的には空虚なことです。<br>日常的に繰り返す家庭生活、職場生活はそれ自体が充実感をもたらすものでなければならないし、そうあって欲しいと希望し、『所得』や『教育』を超えて充実をめざそうと構えるのが人間でないでしょうか。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/socworry/entry-12259422588.html</link>
<pubDate>Sat, 25 Mar 2017 01:47:27 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
