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<title>法窓夜話　穂積陳重　（私家版）</title>
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<title>四一、必也使ㇾ無ㇾ訟乎　かならずやしょうなからしめんや（続法窓夜話）</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size:0.83em;">※記事のうち興味深いものを２点ほどをご紹介させて頂いています。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">　松崎白圭（1682-1753）は江戸時代中期の儒者であり、篠山（現在の兵庫県篠山市）を封土とする（形原）松平家の家臣でした。形原松平は三河の頃からの徳川家康の親戚筋であり、戦国のころから忠義をつくして各地を転封したのち慶安２年（1649）からは篠山５万石の藩主として就封しておりました。<br><br>　白圭（名は佐吉・堯臣）の父親は、元は河内の人物で、家系についてははっきり示せない事情があったのか明らかには伝わっておりませんが、おそらくは学問をもって松平家に出仕が適い、のち２００石取りの参政（家老）を勤めるまでに出世いたします。<br><br>　白圭もまた子供のころから利発で、５歳のころ八幡祠で遊んでいると、参拝客のうちの大人の三人組が、佐吉の可愛らしい姿に小遣いでもやろうと十文銭二枚を与えると、作法どおりに地面に伏せて丁寧に稽首したのち、それを祠のさい銭箱に投げたので、大人たちが愧じて立ち去ったという逸話が残っています。８、９歳のころにはすでに大人の風格を帯び、成年式を終えたのちは松平家の世子信岑（1696-1763）の近習として仕えるようになります。<br><br>　この頃の篠山には松崎蘭谷（1674-1735）という儒学者がおりまして、この儒学者は篠山の在地の出であり、伊藤仁斎の門下生として推挙され、松平信岑の父信庸に仕えることとなった人物なのですが、白圭と同じ松崎姓ではありながら、同じ家門や係累であったというわけでは無さそうで、記録からははっきりしないところがあります。ところが松崎蘭谷には男子がふたりいたのですが、ともに若くして亡くなっており、蘭谷の学問は白圭とその子の観海が継いでゆくこととなります。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">　さて、その松崎白圭が書き残した随想集（エッセイ）に「窓の須佐美」があります。譜代大名家の近臣としての広い見聞と、儒学者としての見識をもとに享保年間（1716-1736）のころに記されたこの書は、江戸時代初期から中期にかけての逸話や小話、当時の風俗などを伝える好著として多くの江戸期研究に史料を提供しています。またいくつかは文芸や娯楽、落語の素材に利用されており、落語の「芝浜」「黄金餅」、芥川龍之介「忠義」、中山義秀「世を美しく」といった近世の作品に翻案されています。<br><br>　この「窓の須佐美」には次のような逸話が記されています。備前岡山の国に兄弟で田畑のことで争いをする者がおり、何年も何年もそのような争いを続けて納まることがなく、次第に双方に加担する者まで増えてゆき、代官の差配にも納得しないようなありさまでした。<br><br>　そこで当地の大名である池田光政（1609-1682）は、これは人の道に大いに通じる問題であるから軽々にしてはいけない事案だとして、泉八左衛門にこれを裁断せよと命じました。泉八左衛門は陽明学者である熊沢蕃山（1619-1691）の実弟であり、ともに岡山池田藩に出仕しておりました。<br><br>　八左衛門にも陽明学への志が深くあることを期待しての任命でありました。しかし八左衛門には実務の経験がなく、このような争訟をお預かりすることは出来かねますと度々辞退したのですが、藩公には思うところがあってお許しになりません。<br><br>　それではと、何某かの邸宅にて事情を聴きましょうということになり、兄弟をその屋敷に召し寄せ、加担する方々の者の意見はこのさい聞かないぞと言うことに致しまして、ことごとく立ち去らせまして、さて人を遣らせて言わせますところ、今日は突然に急用ができた、時間がかかりそうだ、気を張りつめずに打ち解けて待っておれ、このように伝えさせまして、兄弟を狭い一室に入れまして、そのままにして置きました。<br><br>　その日は終日そのままにさせておき、食べものも十分にごちそうを揃えて食べさせもし、酒も無理にでもと飲ませて酔わさしめ、今日は寒いだろう風呂にでも入れと、用意させてある風呂に一緒に入れさせたりも致します。<br><br>　夕方にはまた人を差し向かわせ、こちらの要件はまだ終わらない、遅くはなるが今夜中には話しを聞くからと告げさせ、兄弟二人の間に火鉢をひとつ差し置いて、夜中に至るまでお出ましになりません。<br><br>　兄弟のふたりは、日中は物も言わずにおりましたが、時間も過ぎ、狭い一間の部屋に終日ずっと顔を突き合わせておりもしますので、さすがに兄弟のよしみでもあり、寒いのだから火の近くにでも寄れと言うこととなります。<br><br>　いつとはなく火鉢のそばに座り寄り、火にあたりもし、竹馬の鞭のふりわけ髪とでもいうところ、子供のころの親しみも思い出し、なんとはなく親のいた時分のことなどを語りもし、親のことがいつもよりも恋しく慕しく思い出されます。兄が言うことには、つくづくと思うんだが田畑の争いのことは、誰々が強いることが募りつのって訴訟などということになったのだ、これからは争いを止めて、二人で作っていこうやと言いますと、弟のほうも、元よりそういうことならば何の思う所があるものかと言うのでした。<br><br>　ならばそのように申し上げてみるかと言うことになりまして、このように考えておりますという主旨のことを差し申し入れましたところ、泉八左衛門はすぐさま出てまいりまして、二人の申すところが理（ことわり）である、めでたいことこの上ないと賞賛し、親が残したその体、その骨肉の去りがたきが理であると彼らにも理解できるようこまごまと説き聞かせもしますと、兄弟は涙を流します。<br><br>　二人は連れだって帰ってゆき、その後には世にもめずらしいほどの仲の良い兄弟になったということです。「必ず訟なからしめんとはかかる心にこそ」と、この話しは締めくくられます。<br><br>　これは論語顔淵第十二「子曰、聴</span><span style="font-size:0.83em;">ㇾ</span><span style="font-size:1em;">訟、吾猶人也、必也使</span><span style="font-size:0.83em;">ㇾ</span><span style="font-size:1em;">無</span><span style="font-size:0.83em;">ㇾ</span><span style="font-size:1em;">訟乎」の引用で、「次郎物語」で知られる昭和初期の作家下村湖人はこれを「先師がいわれた。訴訟ごとの審理判決をやらされると、私もべつに人と変ったところはない。もし私に変ったところがあるとすれば、それは、訴訟ごとのない世の中にしたいと願っていることだ」と訳しています（「現代訳論語」）。</span><br><br><br><span style="font-size:0.83em;">※参考文献<br>・東条琴台「先哲叢談続編」巻之七、松崎白圭、松崎観海<br>・東条琴台「先哲叢談続編」巻之五、松崎蘭谷<br>・松崎堯臣「窓のすさみ」泉八左衛門兄弟の田地争を和解せしむ<br>　（校訂 塚本哲三 有朋堂書店 1915.3）P.42 トロント大収蔵。なお有朋堂版の緒言において塚本哲三は松崎白圭</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">　（堯臣）の履歴について青山下野守の臣下と記していますがこれは「先哲叢談続編」の白圭・観海の履歴と整</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">　合性が取れず、ここでは「先哲叢談続編」をもとに履歴を紹介し、また形原松平家の家臣として記しました。佐</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">　村八郎「国書解題」も青山下野守の臣下としてありますが同様に判断しました。</span></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">穂積陳重の『続・法窓夜話』（1936.3.10）を現代語に完全改訳。<br>短編×１００話なので気軽に読めます。<br><br>AMAZON公開の便宜上、第二話「憲法という語」と<br>第三十六話「加藤弘之博士の人権新説」を<br>入れ替えてあります。リライト本です。<br><br>続・法窓夜話私家版&nbsp;（立ち読み「なか見検索」できます）</span><br><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B07HZ49V46">https://www.amazon.co.jp/dp/B07HZ49V46</a>/</p>
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<pubDate>Tue, 03 Apr 2018 18:54:15 +0900</pubDate>
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<title>一五、うちのジョンも（続法窓夜話）</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size:0.83em;">※記事のうち興味深いものを２点ほどをご紹介させて頂きます。</span></p><p>&nbsp;</p><p>　言葉あそびや冗談と法律学が関係するということは俄かには信じられないことなのですが、人間社会をつなぎとめるものはつき詰めるところ表現や言葉ですので、法律の関係するところに冗談が関係するのもまた物の道理という次第です。<br><br>　古代ローマの修辞学者クィンティリアヌス（35頃-100頃）はその著書「弁論家の教育」の中で裁判官（ないし陪審）の心を動かすことの重要性を強調しており、弁論家の悲しみが聴衆の心を動かすことを述べ、そして笑いの力が「おそらく最も支配力が強く、抵抗することが最も困難なもの」として強調します。<br><br>　ただこの技術は訓練するのは困難なうえ、教わることも困難で、素質と機会にかかっていると言います。とりわけキケロ（Marcus Tullius Cicero、前106-前43）の弁舌における笑いの力は節度を超えており、当時から彼の洒落についてはそれ専門の本が３巻あったと言うそうです。<br><br>　法と文学（Law and Literature）という研究分野は1973年にアメリカのホワイト（James Boyd White、1938-）が提唱した学際分野ですが、その関心とするところは古代から注目されており、そして穂積陳重の生きた１９世紀から２０世紀にかけても法律研究者に興味を持ち続けられた分野です。<br><br>　穂積は「法学」と「法術」を峻別し、現実世界に影響を与える　「法術」の威力に興味を向ける研究者でありました。とくに穂積が終生の課題とした「法律進化論」はその形象のつきつめるところ「法律の文体論」の考究であり、法の認識について、その歴史的あるいは世界的な広がりについての整理と分類にその主眼があるものでした(文献㈠)。詩や絵画、文章による法の叙述はその重要な研究対象であり、むろんそのなかにはことわざ（法諺）や冗談の部類も含まれているわけです。<br><br>　さて。ある有名な弁護士が、ある日出廷の時間に遅れたので、大急ぎで法廷に駆けつけました。粗忽に出たものか法廷戦術によるものか俄かには分かりませんが、裁判欠席となれば欠席側に不利な判断が行われますし、遅刻や無断欠席は法廷侮辱に問われて罰金などの処罰もありうるふるまいです。裁判官はさも重々しげに咎めます。弁護士はしきりに陳謝して、<br><br>じつは、今朝はいつもより少々朝寝坊をいたしまして、出かけに髪を梳かして衣服を改めなどいたしておりましたので、つい時刻が移りまして<br><br>などと申し開きをいたしますが、裁判官は、<br><br>いやいや、自分などは毎朝２、３分もあれば、それくらいの身支度など済ませておりますぞ。身支度は遅刻の言い訳にはなりますまい。<br><br>と詰ります。弁護士は微笑みまして、<br><br>さようそれも御もっともです。我が家のジョンも毎朝起きますとブルブルッと体をひとゆすりするだけで身じまいをしてしまいますからな。<br><br>裁判官は呆れて咎め言葉も引っ込んでしまったということです。</p><p>&nbsp;</p><p>　裁判への無断での遅刻や不参は江戸時代の頃からすでに御上を悩ませる問題であったようで「呼出日限遅参不参之者咎方之事」という規定には、当日遅参の者は「叱」とし、不参翌日罷出の者は本人と付添人ともに３日間の「宿預」すなわち公事宿への強制宿泊と場合によっては手鎖が命じられることがありました。明治に奉行所が裁判所に改められて後にも無断で遅刻不参加する者の取り扱いはさっそく問題となり、裁判の遅延を招くほか裁判所の威信に関わる深刻な事態と考えられていたようで、罰銭や過料銭の処分が行われていました(文献㈡)。<br><br><br>※参考文献<br>㈠ 堅田剛 「穂積陳重の歴史法学-進化論から文体論へ-」（独協<br>　法学 1992.9）<br>㈡加藤高「明治初年代、民事裁判呼出に遅不参の者処分の一事例」<br>　（修道法学29 2006.9.30）<br><br>全般に<br>・クインティリアヌス、森谷ほか訳「弁論家の教育」（京都大学<br>　学術出版会 2013.1.1）<br>・林田清明「「法と文学」の諸形態と法理論としての可能性」<br>　（北大法学論集 2004.11.29）<br>・堅田剛「イェーリングあるいは冗談法学」（独協法学）1989.3<br>・イェーリング、眞田･矢澤訳「法学における冗談と真面目」　　<br>　（中央大学出版 2009）<br>・吉井匡「刑事法廷における秩序維持と威信擁護㈠」（立命館<br>　法学 2009）<br>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>穂積陳重の『続・法窓夜話』（1936.3.10）を現代語に完全改訳。<br>短編×１００話なので気軽に読めます。<br><br>AMAZON公開の便宜上、第二話「憲法という語」と<br>第三十六話「加藤弘之博士の人権新説」を<br>入れ替えてあります。リライト本です。<br><br>続・法窓夜話私家版&nbsp;（立ち読み「なか見検索」できます）<br><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B07HZ49V46">https://www.amazon.co.jp/dp/B07HZ49V46</a>/</p>
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<pubDate>Mon, 02 Apr 2018 16:29:04 +0900</pubDate>
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<title>七、READ せずして STUDY する（続法窓夜話）</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size:0.83em;">※「六、臣民」については返り点がうまく表示できませんでしたので割愛させて頂きます。</span></p><p><span style="font-size:0.83em;">末尾リンク先からAmazon「無料サンプル送信」をご利用ください。</span></p><p>&nbsp;</p><p>　イギリスの法哲学者ベンサム（Jeremy Bentham,1748-1832）がまだ年少の頃、当時のコモンローの権威であったブラッグストン卿　（Sir William Blackstone,1723-1780）の講演を聴く機会があって、その講演中にずっと腕組みをして眼をつむり、講演の内容を検討していたがために、ついに講演内容をいっさいノートしなかった、という逸話は先著（法窓夜話六十八話）でお話ししたことがあったのですが、アメリカ大統領リンカーンにはちょうどこれと好対照な小話が残されています。<br><br>　エイブラハム・リンカーン（Abraham Lincoln,1809-1865、第１６代アメリカ大統領）は貧しい農場の子どもとして生まれ、両親とも学がなく、法律にも疎かったことから裁判でせっかくの農場を全て失ってしまうなど不遇のもとで育ち、また開拓者の子弟がおおむねそうであったように、まともな学校教育を受ける機会にほとんど恵まれないような少年時代を過ごします。<br><br>　彼の学力は親切な近隣の人々が無償で、あるいは有償で貸し与えてくれる書籍の精読により、ほぼ独力で伐り啓かれ、１９０センチを超える屈強な青年に成長してのちも、日中は雇われ仕事をこなし、夜間には読書を続けるという日々を送ります。<br><br>　なにかを書き留めておくための真っ新なメモ用紙すら手に入れることが困難だったフロンティア生活において、ちり紙を拾いあつめてそれをメモ用紙に充てたり、部屋の壁にチョークでメモしたりするまでして彼の勉学は進められます。<br><br>　夜間にはランプもない窮乏生活ですので、暖炉の明かりを頼りに読書をし、日中は頼まれ仕事を持ち前の絶倫な体力と手際の良さでさっさと片付けては、木陰に拠って読書をするという日々だったそうです。<br><br>　あるとき、彼は靴も履かずに道端に積んである木材の上に腰を掛け、膝の上に書物を置いて読書をしておりました。そこにラッセル・ゴドビーという農夫が通りかかります。彼はリンカーンにしばしば仕事を依頼しておった人物で、この日も彼に仕事を任せていた雇用主です。<br><br>ゴドビーは何を読んでおるんだろうと近寄り、リンカーンに声をかけます。「あなたは何を読んでおられるのですか。」<br><br>リンカーンは答えます。「読んではおりません。」<br><br>ゴドビーは尋ねます。「では何をしておるのですか。」<br><br>リンカーンは答えます。「研究をしております。」<br><br>ゴドビーは尋ねます。「何の研究をしておりますか。」<br><br>リンカーンは答えます。「法律ですよ、御主人。」<br><br>　素足の大男が、木材の山にゆったり腰かけて法律の研究をしているのだと述べた、その姿は古代ローマのキケロを仰ぐような気がしたものだと、ゴドビーは老人になってから、伝記作家に話したそうです。この頃にリンカーンが精読していた書物がイギリスのジョゼフ・チッティや、かの先述のブラックストン卿の書籍だったということです。</p><p>&nbsp;</p><p>　この話しは１９００年にニューヨークで刊行された「エイブラハム・リンカーン　偉大なる人生」に採録されています。ブラッグストンの解説するイギリスコモンローに関するコメンタリはベンサムによりthe demon of chicane（シケインの悪魔、誤魔化しの悪魔）と痛烈に批判されますが、アメリカの裁判法廷では重要な学術資料であり、連邦最高裁の判決にもしばしば引用されています。<br><br><br>※参考文献<br>・ William Henry Herndon and Jesse William Weik.　'Abraham&nbsp;<br>　Lincoln:The True Story of a Great Life'vol.1,1900,P.101</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>穂積陳重の『続・法窓夜話』（1936.3.10）を現代語に完全改訳。<br>短編×１００話なので気軽に読めます。<br><br>AMAZON公開の便宜上、第二話「憲法という語」と<br>第三十六話「加藤弘之博士の人権新説」を<br>入れ替えてあります。リライト本です。<br><br>続・法窓夜話私家版&nbsp;（立ち読み「なか見検索」できます）<br><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B07HZ49V46">https://www.amazon.co.jp/dp/B07HZ49V46</a>/</p>
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<pubDate>Sun, 01 Apr 2018 16:20:34 +0900</pubDate>
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<title>五、最も条数の多い法典（続法窓夜話）</title>
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<![CDATA[ <p>　古今の法典のなかで、もっとも条文数の多いものは、恐らく１９世紀ドイツのプロイセン一般ラント法でしょう。この法典は大王フリードリヒ２世の命で１７８０年に編纂に着手され１７９４年に施行されたものですが、単一の法典としては１９１９４条の条文がありました。最も多い部は、第二部第八章（市民の身分）であり、この一章だけで２４６４条あります。最も少ない部は第二部第十三章（国家の権利・義務）で、１８条あります。<br><br>　この法典は１９００年にドイツ民法典が施行されるまで、およそ１０６年のあいだ、現行法として機能していました。ここまで膨大な法典となったのには、なにより先ず全ての法典を１つに盛り込んでしまったことにあります。<br><br>　すなわち個人と個人の関係を規定する法（私法）、国家と個人の関係を規定する法（公法）のほぼ全てを含んでおり、民法や商法、共同体法、国家法、教会法、封建法、刑法の大部を含めた包括的な法典という側面がありました。この結果、プロイセン王国の法は基本的にはこの一般ラント法のほかには手続法が特別法により規定されるだけとなりました。<br><br>　この時代のドイツ（通称神聖ローマ帝国、「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」）は約３００の領邦が平等の主権をもち割拠する状態でした。プロイセンはその中で数々の戦勝と条約により領土を拡大しつつある北ドイツの新興の大国でした。<br><br>　そのため新たに獲得したほとんどの領土では固有の政治体制や条例、慣習が長くおこなわれており、それらの共通項を整理し、なおかつ最大限に反映させるように編纂したことは、肥大化のひとつの原因となりました。一方で近代法哲学の影響を多分に受け、人間の理性をもとにした啓蒙的思想から草案が執筆作成され、人民の権利の保護に一定限度の配慮を行っていることもこの法典の特徴に挙げられます。<br><br>　この頃のドイツ諸邦では領邦間に関わる問題を解決するさいには共通法・一般法としてローマ法（ユスティニアヌス法典）が利用されていましたが、これら膨大な一般法規範もまた整理して法典に取り込まれました。ラテン語で記述されていたため一般庶民にはとても理解できないものであった中世ローマ法の運用は、この法典の施行によりプロイセンでは廃止されることとなります。<br><br>　条文数の多さにびっくりさせられるところの大きいこの法典ですが、研究者の説によれば文字数においてはユスティニアヌス４法典のうちの１つ、ディゲスタ法典を下回る程度までに要約されているとのことで、ドイツ法の統一と近代化にかける編纂者の努力が偲ばれるところであります。<br><br>　このプロイセン一般ラント法（Allgemeines Landrecht für die Preußischen Staaten、ＡＬＲ、アーエーエルとしばしば略されます）は、基本的にはプロイセン王が公布した法典ですので、当初から全ドイツ諸邦で実施されたわけではありませんでした。施行直後にはフランス革命を経たナポレオン軍の侵攻にドイツ全土は見舞われ、プロイセン王国は領邦の半分をフランスに割譲させられてしまいます。また他のドイツ諸邦の多くではナポレオン法典が先だって統一法典として実施されます。<br><br>　ライプツィヒの戦い（ドイツ東部ザクセン州ライプツィヒで戦われたナポレオン戦争最後の大戦。諸国民の戦い。1813.10.6-10.19）のフランス軍の敗北によりナポレオンに従属していたライン同盟は崩壊し、ドイツ諸邦は領域と諸法を回復します。このさい発生した統一法典の作成提案がティボー・サヴィニーによるドイツ法典論争でした。結局保守的なサヴィニーの学説が有力であり、プロイセンもまたその回復した領土に対してＡＬＲを適用させます。<br><br>　１８６０年以降、ビスマルクに指導された鉄血政策によりプロイセン王国は統一戦争を勝ち抜き、普仏戦争勝利にともなうヴィルヘルム１世の皇帝戴冠によりドイツはプロイセンの下に統一され（1871年）、さらにのち３０年近い議論のすえ、統一されたドイツ民法典（1900年）の編纂を見たのでした。<br><br>　なお平成２９年９月末現在、日本の法律は１９５８法、別に政令や勅令で２１４７令、法律等に指定のある府省令や規則が４０４２あり、法令数の総数は８１２７あります（分類に重複があるため合計は一致しません）。このうち主要６法の条文数は、憲法１０３条、民法１０４４条、商法８５１条、刑法２６４条、民事訴訟法４０５条、刑事訴訟法５０７条で、この合計は３１７４条となります（附則は除く）。最も条文数の多い法典は民法で１０４４条、ついで会社法の９７９条、商法の８５１条、もっとも少ない法律は失火ノ責任ニ関スル法律で１条です。<br><br>※参考文献<br>・壽福眞美「歴史的自然法としてのプロイセン国家一般ラント法」<br>　（法政大学社会学部学会 2007.4.22）<br>・ゲルハルト・ケブラー、藤巻梓訳「人間生活の法化」（早稲田<br>　大学比較法学 2008.1.1）&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>穂積陳重の『続・法窓夜話』（1936.3.10）を現代語に完全改訳。<br>短編×１００話なので気軽に読めます。<br><br>AMAZON公開の便宜上、第二話「憲法という語」と<br>第三十六話「加藤弘之博士の人権新説」を<br>入れ替えてあります。リライト本です。<br><br>続・法窓夜話私家版&nbsp;（立ち読み「なか見検索」できます）<br><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B07HZ49V46">https://www.amazon.co.jp/dp/B07HZ49V46</a>/</p>
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<pubDate>Sat, 31 Mar 2018 12:41:35 +0900</pubDate>
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<title>四、フローレンチナ（続法窓夜話）</title>
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<![CDATA[ <p>　ユスティニアヌス帝（Justinianus,I 483-565,在位527-565）により編纂されたローマ法大全のうちで、ディゲスタ法典（学説彙纂）はその当初の形をほぼ正確に現代に伝えています。この原典はイタリアのフィレンツェに収蔵されており「フローレンチナ」（フローレンス本）と呼ばれますが、この本がフィレンツェの市宝となったのには経緯があります。<br><br>　ユスティニアヌス帝は東ローマ皇帝としてコンスタンティノープルで即位するとまもなく法典の編纂にとりかかり、最初は過去の勅令を整理編纂させます。１０名の法学者が１年少しでまとめたのが「勅法彙纂」であり、これに手ごたえを感じた皇帝が次に命じたのがローマ法の不朽の学説の全てを編集しなおしダイジェスト本を作成することでした。１６名に増員された法学者が３年でまとめたのが「学説彙纂」ディゲスタ法典です。この２法典は西暦５３３年に公布され同年１２月３０日に実施されます。<br><br>　ディゲスタ法典は編纂の過程で1528巻300万行あった元の資料を全50巻15万行にダイジェスト（要約）してありますので、イギリスの歴史学者ギボン（Edward Gibbon,1737-1794）はこのことを非難し「権力の手によって古典法学者の情操の真正な権威ある写本を抹殺して、原本の本来の姿を損傷したので詐欺と偽造の罪を負うべき」だと述べます。研究者としてはまさにそうでしょう。<br><br>　ユスティニアヌス帝は蛮族により滅亡させられていた（紀元400年代）西ローマ帝国領土の再征服に着手し、５４５年にはイタリアをローマ帝国の版図に回復します。このさい東ローマで編纂された諸法典もイタリアに持ち込まれ実施されます（554年）。</p><p>&nbsp;</p><p>　これにともない幾つかの写本がイタリア半島に持ち込まれローマの法律学校で学生に教授されたと考えられています。ドイツの歴史家モムゼン（Theodor Mommsen,1817-1903）によればイタリアに持ち込まれた学説彙纂は６世紀または７世紀のころに１２人のギリシャ人により手書きで写本されたものであり、アンシャル体（uncial script）という古体文字で筆記されているのが特徴だと言います。またそのさい別の２名により校合され異同がないか確認されているとのことです。<br><br>　さて、イタリアの情勢は流動的で、ユスティニアヌス帝の死後わずか３年でランゴバルド族がイタリア半島に侵入を始め、ローマも略奪されます。これを避けるようにローマ法律学校は東ローマ帝国の総督が駐在していた半島東部、付け根あたりにある都市ラヴェンナに移転します。この総督領は７５１年にランゴバルドに征服され、のちフランク王国のピピンにより再征服され７８１年にローマ教皇に寄進され教皇領となります。<br><br>　この頃に至ってはイタリアはすでに旧ローマ時代の法文化や慣習は破壊されており、ラヴェンナの法律学校でも基本書の法学提要や新勅法が授業されていた程度のようで、学説彙纂は長らく忘れ去られた状態になります。<br><br>　これが１０７２年頃に何らかのきっかけによりおそらくイルネリウス（Irnerius,or,Guarnerius,</p><p>1050-1130）によって発掘され、のちに註釈学派（ボローニャ学派）と呼ばれるようになる重要な学問領域を拓く素材となります。学説彙纂の写本が大量に出回るようになったのは註釈学派の貢献によるもので、その大元はラヴェンナで発見されたこの書籍につながっています。</p><p>&nbsp;</p><p>　イタリア東部の都市ラヴェンナにあった学説彙纂はこの後の経緯の伝承が不明となり、つぎに現れるのはアマルフィで、イタリア南部西岸、ナポリの南６０ｋｍにある海洋都市アマルフィに保存されていたこの学説彙纂はザクセン人の神聖ローマ皇帝ロタール３世がアマルフィを占領したさいに発見され（1136年）戦利品として持ち去られ、同盟都市のピサに贈呈されたと言います。ただこの伝承についてはドイツの法学者サヴィニーが実証的に否定しております。<br><br>　いずれの経緯にせよピザに保管されることとなった学説彙纂は１２４８年に法が制定され公宝とされ、保護保存に関する詳細な規定が置かれます。<br><br>　１４０６年にはフィレンツェがピサを征服しますが、このさいピザの公宝であるディゲスタ法典はフィレンツェに持ち去られます。そののち長らくフィレンツェの宮殿の公庫に保蔵されていたこの書籍が１７８６年にローレンチア文庫（Laurentia）に収められ、フローレンチナと呼びならわされるようになったのでした。<br><br><br>※参考文献<br>・戸倉広「イタリアにおけるローマ法の諸相」（国士舘大学比較<br>　法制研究 1978）&nbsp;<br>・上田健二訳「グスタフ・ラートブルフ：法哲学入門（1948年）<br>　下」（同志社法学 2008.11）&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>穂積陳重の『続・法窓夜話』（1936.3.10）を現代語に完全改訳。<br>短編×１００話なので気軽に読めます。<br><br>AMAZON公開の便宜上、第二話「憲法という語」と<br>第三十六話「加藤弘之博士の人権新説」を<br>入れ替えてあります。リライト本です。<br><br>続・法窓夜話私家版&nbsp;（立ち読み「なか見検索」できます）<br><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B07HZ49V46">https://www.amazon.co.jp/dp/B07HZ49V46</a>/</p>
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<pubDate>Fri, 30 Mar 2018 15:51:52 +0900</pubDate>
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<title>三、十二表法（続法窓夜話）</title>
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<![CDATA[ <p>　古代ローマは伝説の王ロムルスが紀元前７５３年に建てた王国ですが、法律による国家の運営は当初から行われており、とくに第２代のヌマ王には水神エゲリアから統治の諸法が授けられたという伝承が残されています（法窓夜話四十四話）。<br><br>　この「王国の法律」Leges regiaeは、紀元１世紀のころ歴史家プルタルコス（46-120）や法学者ポンポンギウス（100年代前半）らに書き残され、またユスティニアヌス帝（在位527-565）のディゲスタ法典にも記載が見られます。<br><br>　その内容は暦の作成や都市の統治方法、元老院の規定、裁判の方法など詳細なもので、王国の発展にともない整備されてきたものです。とりわけ現代人の眼を引くのは父親の強力な家父長権を認める点にあり、父親は息子が結婚していない限り売り飛ばしても合法などという驚くべき規定がありました。また女性の権利は著しく制限されており、娘は１２歳で結婚させることが合法とされており、女性が訴訟において証言できるのはその父親が存命中のみとされておりました。<br><br>　また障害をもって生まれてきた嬰児は近隣５人の同意のもとで殺害することが合法とされており、同意なく殺害した場合には財産の半分を没収するとの規定がありました。そのほか女性のワインの飲酒は違法とされていました。<br><br>　このローマ「王国の法律」はヌマ王の頃に樹皮に記載され、あるいは牛皮に記載されたりしたようですが、原本はすぐに失われ、のちは口伝による慣習法となります。</p><p>&nbsp;</p><p>　ローマは小さな都市から発展し、あまたの戦争や条約により拡大してきた国家でありますので、最初期からの国民の子孫が元老院の議席を占めており、一方でそれらの末裔でありながら没落してしまった市民であったり、あるいは新しく併合された部族の住民の大半には参政権がなく、また口承による王国法が具体的にどのようなものか知りうる機会が得られないという問題がありました。<br><br>　ローマの王政は、７代目の国王タルクィニウス（在位 前535-前509）が、末子の起こした強姦事件を発端として追放されたことで終わりを迎え、以降は元老院が選出した執政官を中心に統治を行う共和制となります。しかし法を熟知し国政に参加することのできる貴族と、それに関与することができず、よく内容の分からない法律を理由に処罰されるだけである平民との対立はただちに国制上の問題となります。<br><br>　たいていの場合、貴族は債権者であり平民は債務者であり、法の運用は平民には知らされませんので執政官や貴族の思うがままに見えます。なにより債務が期日までに返済されない、あるいは法廷の命令に従わないような場合には鎖を付けられ、最後は奴隷として国外に売却されるといった法の執行が合法に行われていましたので、これらが内紛のタネとならないわけがないのでした。<br><br>　国王が追放されてわずか１５年後に平民たちは大ストライキをおこし、ローマ北東５ｋｍほどの小高い丘に集結します。元老院は説得を試み、平民の利益を擁護する護民官の官職を置くことを認める決定をおこないます（紀元前494年の聖山事件）。護民官は平民の利益を擁護し、元老院の立法や、その選出するところの２名からなる執政官の命令を拒否できるという強力な権限が付与されます。当初の護民官の定員は２名だったようです。</p><p>&nbsp;</p><p>　しかし貴族と平民の関係はこれでは安定せず、このことが周辺のエトルリア都市国家を刺激し、紀元前４８０年代にはウェイイ族(ローマ北方１６ｋｍほどにあった都市国家。現在は広大な牧草地がひろがるばかりの丘陵地帯となっている)との戦争を招きます。またローマ東方の山岳地帯に居住するアエクイ族とも戦争が続きます。<br><br>　ローマがこれらの戦いを優勢に終え、のち安定期に入りますと、また貴族と平民の対立が再燃します。<br><br>　紀元前４６２年に護民官のテレンチリウス(Caius Terentilius Harsa）は、元老院選出の執政官２名に与えられる権限を明確に表示するための明文法を制定すること、その制定のために公選による５人からなる委員を選出することを提案します。<br><br>　これは口承と慣習を元にした法に依存した裁判の諸判決に対する平民の不信が再燃したものでしょう。執政官が元老院から選出されるのである限り、平民階級にも法を公開することは彼らが強く要請するところでした。<br><br>　この頃からさかんに行われるようになった百人隊(ケントゥリア)の兵員ごとによる集会（民会）は、過半がこの提案を支持します。一方で貴族を中心とした民会のメンバーの中には平民層を中心としたケントゥリア民会に押しかけて議事を妨害したり、有力者を暗殺するなど険悪な行為に出たものもいたようです。<br><br>　護民官からは紀元前４６２年と４６１年に法案が提出されますが、いずれも元老院の容れるところとならず拒否されます。一方で護民官は平民の代表として元老院の議決を拒否できるという強力な権限が与えられておりますので、元老院のほうも懐柔をはかる現実的な必要があり、４５７年には護民官の数を、このころは４名に増えていたようですが（歴史家リヴィウスによれば前４７１年に４名となった）、これを１０名に増やす決定がなされます。<br><br>　両者の合意は紀元前４５４年に成立し、護民官側はテレンチリウス法案の通過を迫らないかわりに、元老院から執政官の権限をもつ１０人からなる法典起草委員を選出すること、３人からなる法律調査委員（Triumviri）をギリシャや南部イタリアのギリシャ植民市に派遣してソロンの法などを調査させることで合意します。<br><br>　調査委員が実際にギリシャ本土まで出かけたのかどうか、あるいはソロンの法を調査したにせよそれがどこまで反映されたのかについては研究者により意見が分かれます。ギリシャへの旅程が当時は容易でなく、せいぜい南イタリアの植民市を調査しただけであろうとするもの、しかし土地の境界に関する規定など明らかにソロン法の影響がみられるとするもの、などが論じられています。<br><br>　いずれにせよこの３名の法律調査委員は紀元前４５２年にローマに戻り、ただちに十人委員会（Decemviri）が選出され、従来の執政官は停止され、アッピウス・クラウディウス（Appius Claudius Crassu）を総裁とした元老院貴族からなる十人委員会は法典の作成に着手します。<br><br>　これは翌紀元前４５１年に草案としてまとめられ、民会（おそらくは兵員会、ケントゥリア民会）において賛同のうえ法令は可決され、ただちにローマの中心広場（フォロ・ロマーノ）の自由殿　　（Atrium Libertatis）に掲げられます。<br><br>　十人委員会は任期切れとなり、翌紀元前４５０年には平民階層からの３名を含んだ新たな十人委員が選抜され、条文の一部が修正され、新たに２条の項目が追加されます。全１２条となった法文は民会により採択され、紀元前４４９年に自由殿に掲げられることになります。これがいわゆる十二表法と呼ばれるものです。<br><br>　十二表法がどのような方法で掲示されていたかについては古くから謎とされており、ティトゥス・リウィウス（Titus Livius,前59-後17）によれば銅に刻んだものであるといい、ナポリ博物館などに収蔵されているローマ期の法文も銅板に刻まれているものが多いことからこの説は有力だと思われますが、他にも象牙に彫刻したものだとの説があったり、象牙というのは誤字で樫の木だとするものもあります。十二表法について詳細に研究したドイツのモーリッツ・フォークト（Moritz Voigt,1826-1905）は、木版を石灰で白く塗ったものであるとの説を取っています。<br><br>　この十二表法の原板は、紀元前３８７年にガリア人がローマに乱入したさいに破壊され、すぐ復元されたものの５００年ほど後には完全に散逸してしまいます。その法文は完全な形では伝来しておらず、他の多くの文献の記述から断片が収集されたり、内容から推測されて復元されたものが報告されています。<br><br>　１６世紀頃にはフランスの法学史家リヴァリウス（Aymarus Rivallius,1491?-1560?）が散逸した十二表法の復元に着手し、スイスの法律家ゴドフロア（Jacobus Gothofredus,1587-1652）により成果が進み、１９世紀ではディレクセン（Heinrich Eduard Dirksen）、ショエル（Rudolfus Schoell）、フォークトらの手により研究成果が挙げられています。<br><br>　なお「十二表法」なる明文法そのものが存在しなかったのではないかとの疑問がイタリアのパイス（Ettore Pais,1856-1939）から提示されており、現在十二表法と言われているものは紀元前３００年代に出されたフラビアヌム法（ius civile Flavianum）ではないかと論じていますが、この疑問に対しては真偽を検証するに足る十分な史料がなく仮説の一つとみなされている状態です。<br><br>　カエサルと同時代の哲学者にして著名な政治家のキケロ（Marcus Tullius Cicero,前106-前43）は幼少期に学校の日課で十二表法を暗唱したと書き残しております（De legibus「法律について」）。<br><br>　同時代のルフス（Servius Sulpicius Rufus,前106-前43）や、時代が下りラベロ（Marcus Antistius Labeo, ? -10 or 11）やガイウス（Gaius,生没不明）といった法学者にも十二表法に関する著作があります。ユスティニアヌス帝はディゲスタ法典を編纂するにあたりガイウスの記した十二表法注解を使用しています。このあたりから存在そのものを否定する論に立つ現代の研究者は少ないようです。<br><br><br>※参考文献<br>・春木一郎「十二表法」（京都法学会雑誌 1906年8～11月、<br>　1907年1月）<br>・Aldo Schiavone, Traduction Geneviève et Jean Bouffartigue<br>　Ius : L'invention du droit en Occident, Paris, Belin,&nbsp;<br>　coll. &lt; L'Antiquité au présent &gt;, 2008, P.539<br>・ヘンリック・ムーリツェン/高橋亮介・鷲田睦朗（訳）「民衆/<br>　民会の権力」(大阪大学 Journal of History for the Public<br>　2010）</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>穂積陳重の『続・法窓夜話』（1936.3.10）を現代語に完全改訳。<br>短編×１００話なので気軽に読めます。<br><br>AMAZON公開の便宜上、第二話「憲法という語」と<br>第三十六話「加藤弘之博士の人権新説」を<br>入れ替えてあります。リライト本です。<br><br>続・法窓夜話私家版&nbsp;（立ち読み「なか見検索」できます）<br><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B07HZ49V46">https://www.amazon.co.jp/dp/B07HZ49V46</a>/</p>
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<pubDate>Thu, 29 Mar 2018 16:16:50 +0900</pubDate>
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<title>二、 加藤弘之博士の人権新説　（続法窓夜話）</title>
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<![CDATA[ <p>　加藤弘之（1836-1916）は旧幕臣でありながら新政府に出仕し、ドイツ学に通じた政治学者として、官僚、議員、のち東大総長などを務め、明治の政治学や法律学を牽引した人物です。<br><br>　加藤３０代の頃、慶応４年（1868）に発行した「立憲政体略」や明治３年（1870）の「真政大意」、明治７年（1875）「国体新論」では天賦人権説をもとにした国法論を説き、彼は明治初期の啓蒙期におけるリーダーのひとりでした(文献㈠)。この３書は、本来われわれ人間には天賦の人権なるものが備わっているという主義に確信を置いて、これを土台に置いて立論されたものでした。<br><br>　ところが４０半ばを超えたころ、すなわち明治１４年（1881）に著名な『転向』騒動を巻き起こすことになります。<br><br>　加藤は明治１２年の頃からダーウィンの進化論や、イギリスの哲学者スペンサー（Herbert Spencer,1820-1903）、ドイツの生物学者ヘッケル（Ernst Haeckel,1834-1919）の学説に接し、大いに影響を受け、形而上学の観点から国法を論じるのではなく、自然科学と進化論の観点から国法や政体について研究を始めます。その結果として明治１４年に、かつて自身が出版した「国体新論」「真政大意」および「立憲政体略」の絶版宣言を行うに至ります。<br><br>　この告知はみずからが新聞（「郵便報知新聞」）に署名付きの広告を出すことで行われ、また官許出版の時代ですので出版条例にもとづき政府に禁書として取り締まるよう内務省に要望を出すまでして行われました(文献㈡)。このことをもって日本の「転向第一号」などと評されることもあるようです(文献㈡)。</p><p>&nbsp;</p><p>　この絶版宣言と『転向』については、その思想について政府当局から内命を受けていた点があるのは事実なのですが(文献㈢)、天賦人権説は「迷夢」であるとし、手のひらを返したように進化思想の観点からこれにまっこうに反対する立場を採ったことは、在野の自由民権論者から強い批判を招くことになります。<br><br>　この明治１４年はイギリス型の議院内閣制を支持していた大隈重信や、その同調者とみられた慶應義塾門下生ら１５名が政府や官界から一斉に諭旨免官された政変の年であり、加藤の『転向』は矢野文雄、馬場辰猪、植木枝盛といった在野の自由民権論者や東京大学文学部教授外山正一などから批判を受けます(文献㈣)。<br><br>　すなわち在野の民権論を忌避制圧しようとした政府当局者の意向に迎合したものであり、曲学阿権の徒である。<br><br>　さて、しかしながらわたくし穂積の見たてによりますとこのような批判は曲解であり、明治１５年（1882）に刊行された加藤の「人権新説」はその疎明であり、その内容を略述した大正４年（1915）の「自叙伝」では次のように記述しています。<br><br>《余の四十七歳の時即ち明治十五年に「人権新説」なる小冊子を著述出版した。之は余の主義が一変してから初めての著述である。余の主義の一変したといふのは、抑々如何なる訳である乎といふに、余は英国の開化史の大家バックルの著書を読んで、所謂形而上学なるものゝ、殆ど荒唐無稽なることを初めて知り、専ら自然科学に依拠せざれば何事をも論究する能はざることを感じて、それからダーヰンの進化論や、スペンサーやヘッケル其他の進化哲学の類を読むことゝなつて、宇宙観人生観が全く変化したためである。そこで先づ吾人の権利なるものが、決して天賦抔いふものではなく、全く進化に依つて漸次に出来たものであるといふことを論ぜんがために、前掲「人権新説」を著述したものである。》<br><br>　この点については加藤は晩年の著書「自然と倫理」（1912.3）の自序の中にも同様の主旨を記しています。<br><br>　その転向した学説の行き着くところについては、のちにおいては様々な研究があり、また批判のあるところですが、加藤博士のように国法学研究の先駆者として、またヨーロッパ法学の輸入の功労者として功績絶大だと評価されている研究者が、老境に至るまで矻々窮年、学問を進め、後日に至りその非を知り、誤謬であったと覚るのであれば、たとえ従来に主張していた主義学説であっても、断然としてこれを抛棄し、自分が正しいと信じ真正だと覚るところに帰従されたということは、学者の態度としてじつに模範たるものと考えます。<br><br><br>※参考文献<br>㈠許艶「加藤弘之における進化論の受容と展開」（日本教育学科<br>　大会研究発表要項 1991.8.28）<br>㈡武田清子「近代科学攝取の三つの道」（国際基督教大学学報<br>　1960.3）P.30<br>㈢「加藤弘之講演全集 第４冊」直接は㈡武田1960.3 P.30<br>㈣岩波文庫「続法窓夜話」（第６刷）2014.11.14 巻末脚注<br>　これらの批判は新聞紙上で掲載され、のち「人権新説駁論集」<br>　として共同社出版から刊行された（梶木甚三郎編纂、明治15年<br>　12月13日出版）</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>穂積陳重の『続・法窓夜話』（1936.3.10）を現代語に完全改訳。<br>短編×１００話なので気軽に読めます。<br><br>AMAZON公開の便宜上、第二話「憲法という語」と<br>第三十六話「加藤弘之博士の人権新説」を<br>入れ替えてあります。リライト本です。<br><br>続・法窓夜話私家版&nbsp;（立ち読み「なか見検索」できます）<br><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B07HZ49V46">https://www.amazon.co.jp/dp/B07HZ49V46</a>/</p>
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<pubDate>Wed, 28 Mar 2018 19:26:53 +0900</pubDate>
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<title>一、学者の真勇は怯懦に似たり　（続法窓夜話）</title>
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<![CDATA[ <p>　法窓夜話では節義に死んだパーピニアーヌスのお話しから始まりましたが、今回は研究者は慎重でなければ学術の極まる場所には至りえない、大事は成し難いというお話しから始まります。<br><br>　学者は真理を追い求めることが何より好きな性分の人たちで、疑り深さや執拗さは彼らの才能を示す美質であります。<br><br>　研究のやり方ひとつをとっても、のっけから疑惑の眼で対象を観察し、自分の考えはむろん、他人の学説や意見にも疑問の眼をむけ、容易に確信したり納得したりすることがありません。<br><br>　イギリスのベーコン（Francis Bacon,1561-1626）は学問について「疑うには速かれ、断ずるには遅かれ」と言います。研究の構想は古人の言う２つの道のたとえ話と同じことで、一方は見るからに快適そうだがどこにも通じない、もう一方はデコボコした荒れ道だが慎重に進むことで目的地に通じる、確信から始める研究は疑いに終わり、疑いに疑うところから始める研究はやがて確信に至るものであると（「学問の進歩」1605年）。<br><br>　ものごとの真理はたやすく発見されるということはありませんので、軽信妄断は学者がもっとも戒めなければいけない点であります。<br><br>　とはいえ、このようなことは一端の学者なら誰でも心にとどめているような事なのですが、実際には研究は競争でありますし、真理の最初の到達者に名誉の大半は殺到します。そのため自分の研究の公表を急ぎ、不十分な前提から一足飛びに結論に達して得々としてしまいがちになります。戒めるべき悪事といえます。</p><p>&nbsp;</p><p>　また学者は真理のことを最優先しますので、傍からみれば軟弱にみえるようなことも、しばしば平然とやってのけます。<br><br>　フランスのデカルト（René Descartes,1596-1650）は少年の頃にガリレオの学説に触れる機会があり、３２歳のころ「世界論」という思想書を執筆しはじめますが、ガリレオがローマの異端審問で有罪終身刑となったと知るや、あっさりその公開を断念します。彼は若く、まだまだ行うべき主題がいくつかあったのです。<br><br>　デカルトと同時代のイギリスのホッブス（Thomas Hobbes,1588-1679）も往々にして臆病者のレッテルを張られる人物です。彼の場合は、自分でも天性の臆病者だと自称しており、その原因は母親がスペインの無敵艦隊が攻め寄せた時に早産したからだと自伝で語っています。むろんこれは冗談の類いでしょう。<br><br>　彼の９１年に及ぶ長い人生の前半生は貴族の家庭教師として生計を営んでおりましたが、彼が書きためていた人工国家に関する論考は貴族や知識人の小サークルの中で回覧され評判となっていました。<br>　<br>　ところが１６４０年の短期議会で国王チャールズ１世（1600-1649）と議会の対立が決定的になるや、国家理性に関わるこのような論考が君主絶対主義の肯定や無神論の告白と取られるのではと危険を感じ、さっさとパリに亡命してしまいます。<br><br>　のち亡命先パリでこれらの論考を集成した「リヴァイアサン」（1651）を公表し、たちまち評判となりますが、フランスのカトリック教会やイギリス国教会系のアングリシアン達はその無神論にしか読めない論考に激怒します。一方でイギリス国王に国教会を強要されたことから反乱をおこして、２年前に国王を処刑していたクロムウェルらのイギリス国家評議会は、意外にもその世俗性を肯定的に評価します。するとホッブスはこの年の末にはパリを抜け出し、あっさりロンドンに帰還いたします。<br><br>　このような身の軽さと屈託のなさを臆病となじるのであれば、源頼朝が平家追討の挙兵初期、石橋山の戦いに敗れて伏木に隠れ難を逃れたことも軟弱でしょうし、劉備が劉表の側近・蔡瑁に謀殺されそうになったとき、名馬の的驢に身を託して壇渓を飛び越えたことも臆病ということになるでしょう。<br><br>　イギリスのダーウィン（Charles Robert Darwin,1809-1882）は、ビーグル号での海洋調査の経験から生物進化論の着想を得ますが、２０歳代後半から実直にその理論を例証する研究を積み上げ、理論の公表には２０年を要しました。「神による世界の創造」を教義としていた当時のキリスト教社会では、生物の進化や自然選択のような理論を主唱することは背教の告白でしかありませんでしたが、膨大に積み上げた調査資料や論考、また他の研究者たちとの協力により、ようやく学理上の地位が獲得されたのでした。<br><br>　実際のところデカルトやホッブスのような大胆な学者は稀で、デカルトのいう「我思うゆえ我あり」Cogito ergo sumなどという言明は観念哲学における無類の断定でしょう。<br><br>　またホッブスはキリスト教の伝統的な人間観である原罪説や堕落説に立たず、人間性悪説を前提とした万人闘争状態においてなお人間には未来を予測する特有の理性があり、これにより社会契約は行われ自然法が成立しうると論じたことは、唯物論に立つものであり、「神の摂理」を必要としない点で大胆すぎる論考だったと言えます。<br>&nbsp;</p><p>　清教徒による国王への抵抗が始まろうとするさなかで国王主権の不可侵に論考が至ったその大胆さにも驚くべきものがあります。真勇の学者が怯者の如きに写るのは、大賢が大愚に似るのと同じことです。<br><br><br>※参考文献<br>・中谷義和「国民国家への視座」（立命館法学 2012）&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>穂積陳重の『続・法窓夜話』（1936.3.10）を現代語に完全改訳。<br>短編×１００話なので気軽に読めます。<br><br>AMAZON公開の便宜上、第二話「憲法という語」と<br>第三十六話「加藤弘之博士の人権新説」を<br>入れ替えてあります。リライト本です。<br><br>続・法窓夜話私家版&nbsp;（立ち読み「なか見検索」できます）<br><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B07HZ49V46">https://www.amazon.co.jp/dp/B07HZ49V46</a>/</p>
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<pubDate>Tue, 27 Mar 2018 15:04:27 +0900</pubDate>
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<title>続法窓夜話私家版のご案内</title>
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<![CDATA[ <p>穂積陳重の『続・法窓夜話』（1936.3.10）を現代語に完全改訳。<br>短編×１００話なので気軽に読めます。</p><p>&nbsp;</p><p>AMAZON公開の便宜上、第二話「憲法という語」と</p><p>第三十六話「加藤弘之博士の人権新説」を</p><p>入れ替えてあります。リライト本です。<br>続・法窓夜話私家版&nbsp;（立ち読み「なか見検索」できます）</p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B07HZ49V46">https://www.amazon.co.jp/dp/B07HZ49V46</a>/</p><p>&nbsp;</p><p>【目次】</p><p>　　一、学者の真勇は怯懦に似たり<br>　　二、 加藤弘之博士の人権新説<br>　　三、十二表法<br>　　四、フローレンチナ<br>　　五、最も条数の多い法典<br>　　六、臣民<br>　　七、READ せずして STUDY する<br>　　八、上帝の加護ある窃盗<br>　　九、死刑定而三奏<br>　　一〇、銀台公三たび死刑を宥す<br>　　一一、主観的死刑廃止論者<br>　　一二、死後の刑罰<br>　　一三、その人を罪してその祀を存す<br>　　一四、墳墓の抵当<br>　　一五、うちのジョンも<br>　　一六、咎め言葉<br>　　一七、老農の喫驚<br>　　一八、板倉裁判<br>　　一九、天言わず人を以って言わしむ<br>　　二〇、不教而罪者虐也<br>　　二一、五刑之属三千而罪莫大於不孝<br>　　二二、三百代言<br>　　二三、英国弁護士の仮髪の由来<br>　　二四、片聴の陪審員<br>　　二五、刑事弁護制の主唱者<br>　　二六、元老の外人崇拝<br>　　二七、「クルアーン」の威徳<br>　　二八、結婚禁止刑<br>　　二九、縁結びの法律<br>　　三〇、「大茶をのむ」女房<br>　　三一、犬公方<br>　　三二、白木屋の煙管と喫煙禁止法<br>　　三三、堀野義豊の酒専売法<br>　　三四、一人の代りに首三個<br>　　三五、会社<br>　　三六、憲法という語<br>　　三七、法学通論<br>　　三八、成人<br>　　三九、裁判延期<br>　　四〇、古代ギリシャの裁判所<br>　　四一、必也使無訟乎<br>　　四二、猛は易く寛は難し<br>　　四三、骨董屋の論法と肴屋の論法<br>　　四四、諱に関する疑<br>　　四五、法と主権者の意思<br>　　四六、モーゼの十戒<br>　　四七、規範は消極より積極へ<br>　　四八、民免而無恥<br>　　四九、甘藷先生と流刑者の福音<br>　　五〇、法令読誦<br>　　五一、「胸に在る」法律<br>　　五二、印度の神託裁判<br>　　五三、区訶陀智<br>　　五四、アイヌ人のサイモン<br>　　五五、死骸から出血<br>　　五六、起請の失<br>　　五七、君意即法の法諺<br>　　五八、法律解釈は皇帝の大権<br>　　五九、口から口へ<br>　　六〇、有職<br>　　六一、法人<br>　　六二、「法の活ける声」<br>　　六三、比喩諧謔式諺句法<br>　　六四、ドイツ法諺集<br>　　六五、剣と紡錘、頭から爪の先まで<br>　　六六、詩の法律<br>　　六七、絵の法律<br>　　六八、イグノランチア・ユリス<br>　　六九、約法<br>　　七〇、木鐸<br>　　七一、徳川幕府の法典朗読式<br>　　七二、アイヌの「オムシャ」<br>　　七三、印度アショーカ大王の石柱法<br>　　七四、高札<br>　　七五、天和の高札</p><p>　　七六、作左が叱る<br>　　七七、明治の高札<br>　　七八、切支丹邪宗門<br>　　七九、西洋人の高札観<br>　　八〇、法令の掲示<br>　　八一、輪廓附<br>　　八二、官報<br>　　八三、北条泰時の法文平易化<br>　　八四、「第何条」と「第何号」<br>　　八五、ドイツの国語運動<br>　　八六、法律語の国語化<br>　　八七、悪逆不孝之罪<br>　　八八、同姓不娶・男女有別<br>　　八九、キングス・ピース<br>　　九〇、ハイウェーマン&nbsp;<br>　　九一、殿上人<br>　　九二、御目見と御覧<br>　　九三、将軍御成り<br>　　九四、「いも」と「せ」<br>　　九五、「あに」と「おと」<br>　　九六、復讐罰すべきかにつき大学に諮問<br>　　九七、戦国時代の復讐制限<br>　　九八、山越被仰付<br>　　九九、孝子に太刀取を命ず<br>　　一〇〇、復讐禁止と司法権の確立</p>
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<link>https://ameblo.jp/somebodyunknowntonobody/entry-12363094625.html</link>
<pubDate>Sun, 25 Mar 2018 15:13:24 +0900</pubDate>
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<title>九、大津事件</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size:1em;">　法律の取り決めが大ざっぱすぎたり細かすぎたりすることの利害は簡単に述べられるものではありませんが、刑法のように正文でハッキリ記述されていなければ処罰することを許さないような法の運用（罪刑法定主義）では、たとえほとんど起こりえないような事柄であっても、その結果が重大であるようなものについてはあらかじめ取り決めておかなければ困ることになります。<br><br>　それまでの日本や中国の法令では過去の先例や犯罪の類例からあらかじめ刑罰を決めたものがあり、そこに記述されていない犯罪が新たに起こってしまった場合には、裁判官が似たような犯罪の類例を挙げ、それより罪が重い・軽いなどと審査して判決を書くことが認められていました。これを断罪無正条と言います。<br><br>　たとえば明治５年（1872）に茨城県で発生した仇討ち事件では仇討ちに助太刀した２名に対する適当な条項がなかったので、死刑に当たる罪人をつかまえ怒りから殺害してしまう罪（捕亡律・罪人拒捕）から類推適用されました。<br><br>　また、犯罪と呼ぶほどではないけれども、道徳的に許されないことに軽い刑罰を科すことが認められており、これを不応為条と言い、断罪無正条や不応為条の項目は日本の過去の法令に見られ、明治の新律綱領や改定律例のなかにもその規定は置かれました。<br><br>　しかし明治１３年（1880）に施行された刑法は西欧型の罪刑法定主義で編纂されており、明文にない慣習による刑は禁止、刑法の類推解釈は禁止、法令に取り決めの無い非行にあとから法令をつくって罰することは禁止（法の不遡及・事後法の禁止）であり、刑法学思想の大転換が行われます。<br><br>　この明治の刑法改革の結果として起きた事件として有名なのが大津事件と幸徳事件です。皇室に対する罪は副島種臣の議論により一度は削除されたのち伊藤博文の建議により規定が設けられていたため、幸徳事件のさいには計画段階で捕縛し処断すべき法文があったのですが、伊藤により刑法の中に規定が設けられなかったことで大問題となったのが大津事件でした。<br><br>　明治２４年（1891）５月１１日、滋賀県の警察部巡査である津田三蔵が、当時日本を表敬訪問中であったロシア帝国の皇太子ニコライを大津町で襲撃し、サーベルをもって頭部に傷をおわせる事件が発生しました。<br><br>&nbsp;この事件は日本中を震え上がらせるに十分な効果がありました。当時の国際法の理解では一国の元首（皇帝など）はその国家と同等とみなされ、その身体安全や権威への攻撃は、その国への攻撃とみなされかねないと理解されていたからです。<br><br>　日本政府はいまにでもロシアは責任を問うべく軍事行動をおこすであろうと心配し、善後策に苦心を重ねたのでした。明治天皇は翌１２日の早朝に東京の新橋を汽車で立ち、２年前に全線開通したばかりの鉄道を急行して夜には京都に到着、翌日にみずから皇太子を見舞い直接謝罪するまでの誠意を見せます。<br><br>　しかし当時の刑法（明治１３年刑法）では殺人未遂・謀殺未遂は死刑よりも１等ないし２等を減ずることになっていたので、津田三蔵は重くても無期徒刑（懲役）以上に処することができませんでした。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">　日本政府は津田三蔵を極刑にしなければロシアはとても納得しないだろうと考えます。また日本の外務大臣が皇太子来日のさい、万一の場合は皇室罪を適用することを密約していたことも事態をむつかしくしました（文献㈠）。<br><br>　廟議の結果は、皇室に対する罪をもってロシア皇室に対する罪にも適用すべきと決定、三蔵の非行に対し刑法１１６条「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」を適用するとして、検事総長に命令して起訴させました。<br><br>　当時は大日本帝国憲法がようやく実施されてわずか一年でありましたが、その憲法には司法権の独立が保障してあり、また明文をもって臣民の権利を保障して「日本臣民ハ法律ニ依ルニ非ズシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ」と規定してあります。<br><br>　また刑法第２条には「法律ニ正条ナキ者ハ何等ノ所為ト雖モ之ヲ罰スルコトヲ得ズ」との明文があります。それにもかかわらず検事総長は当局の命令によって、皇室に対する罪をもって三蔵の犯行を起訴したわけです。<br><br>　当時の司法大臣と内務大臣はみずから大津まで出向き裁判官に面会して説得しようとまでしましたが、これは大審院長の児島惟謙が身命と地位をかけて行政側の威圧を防ぎ、裁判官の多数もまた職務に忠実で神聖な法文の曲解をゆるさなかったため、結果として通常の人間に対する条文をもちいて判決することとなり、三蔵の行為は謀殺未遂（刑法２９２条）と判決され、日本の憲法史上に汚点を残すことを免れたのでした。<br><br>　当時の法科大学の学者も意見を述べ当局に上申し、皇室に対する罪をもって三蔵の犯罪に充てることの非を論じたのでしたが、伊藤博文は戒厳令を発してでも死刑にすべきとし、松方正義、西郷従道、山田顕義といった維新の元勲も死刑適用に奔走しました。<br><br>　彼らの意見は、三蔵を死刑にしてロシアに謝罪しなければ国難がたちまちおとずれる、国家があってのちの法律である、温情ある法文にとらわれて国家のおもさを忘れるのは学者の世間知らずな意見だ、法律を活用して帝国の危急を救うべきだ、というものでありました。<br><br>　副島種臣は罪刑法定主義に理解があり、多くの学者たちの意見を聞き「天皇三后皇太子」を外国の皇族にあてるのは不適切であることを理解し、また以前に草案中の外国に関する条文を伊藤博文がすべて削除していたことも知っておりましたので、憤り嘆き「法律で三蔵を殺すことが不適切なら種臣が殺す」と口外されたという話しです。わたくし穂積は当時これを聞いて「伯爵の熱誠は同情に値する。三蔵をみずから殺す罪は、憲法を殺し刑法を殺す罪よりは軽い」と言ったものです。<br><br>　大津事件においてこのような困難が生じたのは、まったく立法者の不用意によるものでした。明治１０年に刑法の草案ができ、元老院内に刑法草案審査局がつくられたとき、最初に問題となったのが草案総則第４条以下の外国に関係する規定と、第２編第１章の天皇の身体に対する罪をどうするかについてでした。<br><br>　委員会はこれを決めかねる問題（予決問題）として政府に上申し、明治１１年２月２７日に伊藤博文総裁から、外国人に関する規定はすべて削除すること、皇室に対する罪はすべて設置することを天皇への上奏を経て決定した、と宣告が下ります。その結果として大津事件の大騒動が生じたわけです。<br><br>　当時、新律綱領制定のさいに副島伯爵が皇室に対する罪は不必要と考えたように、外国の元首または国王一家に対する犯罪がおこるだろうとは夢にも思わなかったのでしょう。<br><br>　明治４３年（1910）の幸徳事件においては、無政府主義者による天皇謀殺計画についての陰謀を阻止するにあたり、皇室に対する罪が定められており、裁くべき特別な条文がありました。大津事件では外国の国家元首や要人に関する条文がすべて削られていたので、裁くべき特別な条文がなく、一般人に対する条文をもって無期徒刑（懲役）とするほかなかったのでした。<br><br><br>※参考文献<br>㈠平塚篤 編「伊藤博文秘録」（春秋社）1929.P.4<br>・手塚豊「明治五年茨城県大砂浅吉兄弟仇討一件の裁判資料」<br>　（慶応義塾大学法学研究会.1988.03）</span></p><p>&nbsp;</p><p><br><span style="font-size:1em;">穂積陳重の法窓夜話を現代語に完全改訳<br>短編×１００話なので気軽に読めます<br><br>法窓夜話私家版 （</span>無料サンプル送信ご利用頂けます<span style="font-size:1em;">）</span></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B07ZC6FR2R">https://www.amazon.co.jp/dp/B07ZC6FR2R</a></p>
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<pubDate>Thu, 15 Mar 2018 11:07:37 +0900</pubDate>
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