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<title>経営者向け60秒ブログ</title>
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<description>北九州市内で社会保険労務士の仕事をしています。このブログは中小企業の経営者を応援するために書いています。そのほか、自分自身の勉強のためと、社会保険労務士の業界振興のためにも書いています。</description>
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<title>本は読まずに、繰り返し聞け</title>
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<![CDATA[ <p>■　本は読まずに、繰り返し聞け</p><p>（昨日に引続き）</p><p>&nbsp;</p><p>昨日は利潤動機の話から、虚栄心の話を続けました。虚栄心の話で思い出したことを書き留めておきます。</p><p>私は移動時間を読書の時間に当てています。Kindleという電子書籍を使って読んでいます。Iphoneにはテキストと読み上げ機能がついているので、画面を二本指でスワイプすると本も読んでくれます。これを利用すれば、通勤時間の片道15分、往復30分、そして職場とお客さんのところへの移動時間などを合わせ週に5時間程度、読書の時間を捻出できます。5時間あれば1冊程度の本は読めるので、月に数冊の本を特別な時間を作らずに読むことができます。</p><p>自称読書好きのある男に、この機能を説明したところ「私はコレクションするのが好きだから、そもそも電子書籍を利用したくない」と回答されました。たしかに電子書籍は本棚に並べることはできません。物理的な制約を受けないのが、電子書籍の強みです。彼にいわせれば本は読むというより、並べることに価値を感じるのでしょう。これではインテリアであってもインテリジェンスとはいえません。</p><p>また読書好きがよく「月に何冊読む」という具合に定量的に表しますが、（実際、私もそう書きましたが）、重要なことは何を知ったかであり、何冊読んだかはほとんど意味を持ちません。あくまで参考的な数値にしかならないのです。</p><p>特に強調したいのが、良い本は何度も読むべきだし、つまらない本は途中でやめるべきだという点です。私はピータードラッカーが好きで、何度も読んでいますが、いったい彼の考えをどこまで理解しているのか疑問です。だからこそ、何度も読みたいとも思えるともいえますが。わかっているのは彼の主張はとても啓発的で、重要な指摘をしているということくらいです。読んだその瞬間は感動と共に記憶しても、それを人に話して説明するほどに理解することは難しく、それを自分のものにして具体的な行動に移すことは更に困難を極めます。</p><p>彼の名前は世間によく知られ、本もよく売れてよく読まれていますが、理解されているかは疑問です。彼の本を読んだと言う人に何人かお会いしていますが、話が弾んだことなどありません。せいぜい「読んだ」という程度のもの同士で語れることなどないのです。これは何もドラッカーに限った話ではなく、良い本はたくさんありますが、読むことに重点を置いても何も得るものはないということです。せいぜい本を読むという知的な行為をやっていることに自己陶酔するか、先ほどのインテリアのように本棚に並べて満足するか、くらいでしょう。</p><p>私も３０代半ばを迎え、自分の生活を満たすだけでは満足できないと感じています。知識を得るだけでも満足できません。いつかはその知識が活かせるように自身も本を書き、読み手を感動させ、価値観を転向さることをもって社会に貢献したいと思っています。</p><p>&nbsp;</p><p>●　本は目で読まず、耳でも読める（Kindleとiphoneを活用）</p><p>●　本は読むことではなく知ることに重点を置く</p><p>●　良い本は繰り返し読む</p><p>●　読んで、理解して、自分のものにするまでには大きな溝がある</p>
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<link>https://ameblo.jp/sr-kamiya/entry-12377371934.html</link>
<pubDate>Wed, 23 May 2018 23:00:00 +0900</pubDate>
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<title>ブランド男は優れているのか！？</title>
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<![CDATA[ <p>■　ブランド男は優れているのか！？</p><p>　（昨日に引続き）</p><p>&nbsp;</p><p>　昨日は利潤動機が誤解を与えていることについて話をしましたが、そもそも利潤動機という神話はどのような裏づけを持っているのか考えてみます。企業ではなく、個人を想定して話を考えて見ます。例えばランボルギーニに乗って、ロレックスの腕時計をはめ、ダンヒルのスーツを着ているブランド男がいたとします。</p><p>人はそのブランド男がそれを買うだけの充分な収入があることを想像します。そしてそれだけの収入を得られるということはそれだけ価値のある重要な仕事をしているだろうと想像します。その重要な仕事はきっと社会に貢献していることだろうと想像します。そして、よりよく社会に貢献するその人間的な価値に対しての賞賛の気持ちが、その人の高評価につながるのでしょう。その表象的にあらわれたブランド物に投影された人格への賞賛と羨望が、いつしかそのブランドそのものへの賞賛と羨望に代わっていったのでしょう。</p><p>　しかしこの風が吹けば桶屋が儲かるようなロジックはかなり不安定で、いくつもの違ったストーリーが想像できます。例えば、この男は金持ちの息子ボンボンで本人の収入は全くない場合がありえます。この場合、彼に対する人間性は再評価され、性格が悪ければ、むしろブランド物が悪印象にすら感じらることになるでしょう。次に、彼が自身の稼ぎでブランド物を買っているけど、マフィアのような仕事をしている場合もまた人間的な再評価を受けることになります。社会貢献ではなく人の不幸の上に立つ豊かさなどは、稼ぐというより収奪といった方が適切かもしれません。結果として人間性をマイナス評価されることになります。</p><p>　結局、そのブランド物からはその人格を遠目に推測しているだけで、一致しないことは暗に理解されています。そして、実力以上にブランド物を見につけたりして、周囲によくみられたいという気持ちが自身の内にあることも、誰しも共通するところでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>『・・・しかしながら、集団生活を営むようになると、私たちは、生活にとって必要な水準以上の富、そして社会的地位を求めるようになる。私たちが富と地位への「野心」（a m b i t i o n）をもつのは、富や地位の便利さ、快適さのためだけではなく、それらを手にすることによって得られる他人からの同感や称賛、あるいは尊敬や感嘆のためである。スミスは、このような野心の動機を「虚栄」（v a n i t y）と呼ぶ。虚栄とは、自分の本当の値うち、すなわち胸中の公平な観察者が自分に与える評価よりも高い評価を世間に求めることである。私たちは、自分が富や地位に値する人物になるよりも前に、それらを獲得することを欲するのである。富と地位に値することよりも、それらに与えられる世間からの称賛を優先させるといってもよい。私たちは、このような虚栄にもとづいて、より大きな富とより高い地位、そして他人よりも大きな富と高い地位を手に入れようという野心をもつのである。個人のこのような行動は、かぎられた富と地位の獲得をめぐって、個人間で競争を生じさせるであろう。競争は、人間が孤立して生活するならばもたなかった野心──虚栄心──を集団生活の中でもつことによって引き起こされる。社会秩序の基礎と同様、野心と競争の起源は、他人の目を意識するという人間の本性にあるといえる。（アダム・スミス『道徳感情論』と『国富論』の世界（中公新書））』</p><p>&nbsp;</p><p>　この実力以上によく見せたくなる心情を虚栄心といい、人間の弱さの部分だとスミスはいいますが、一方でそれを排除すべきと言わなかったことはスミスの大きな特徴だといえます。彼はこの弱さこそが、経済の原動力だと話を続けるのです。私も自身の内にあるこの虚栄心を排除し抑圧しようとまでは思いませんが、それが虚栄心という弱さであることくらいは知っておくべきだと思うのです。</p><p>『弱さ』と表現すると道徳的で抽象的な感じがしますが、言い換えれば、理解の『誤謬』のようなもので、ついブランド男を人間的に優れた男と勘違いしてしまい、また自身がそのブランド男となり周囲を勘違いさせようとする内なる心理のことをいっているのです。</p><p>&nbsp;</p><p>●　ブランド男は優れている男、、、かもしれない</p><p>●　ブランド男になりたいのは自身の弱さである。これを虚栄心という</p><p>●　スミスはこれを指摘したが、この虚栄心を悪者にはしていない</p>
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<link>https://ameblo.jp/sr-kamiya/entry-12377371763.html</link>
<pubDate>Tue, 22 May 2018 23:00:00 +0900</pubDate>
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<title>企業の目的は「利益追求」ではない</title>
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<![CDATA[ <p>■　企業の目的は「利益追求」ではない</p><p>（昨日に引続き）</p><p>&nbsp;</p><p>　黒字であることは、組織運営の条件であり、組織の目的ではないというお話をしました。組織を運営する上で、赤字を続けていればいずれ立ち行かなくなるから、最低でも収支トントンである必要があります。しかし、それは条件であって、黒字化することは目的ではなく、黒字の幅を大きくする、言い換えれば利益を増大させることもまた組織の目的ではないということは特別強調する必要がありそうです。</p><p>&nbsp;</p><p>　商売の原則は「安く買って高く売り、その差額を増やすこと」と理解されています。完全に間違っているとは言わないとしても、それは物事の一側面でしかなく、ちょうど円錐のシルエットを見て、コレは丸だと主張するようなものだと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>　『企業とは何かと聞けば、ほとんどの人が営利組織と答える。経済学者もそう答える。だがこの答えは、まちがっているだけでなく的はずれである。経済学は利益を云々するが、目的としての利益とは、「安く買って高く売る」との昔からの言葉を難しく言いなおしたにすぎない。それは企業のいかなる活動も説明しない。活動のあり方についても説明しない。利潤動機には意味がない。利潤動機なるものには、利益そのものの意義さえまちがって神話化する危険がある。利益は、個々の企業にとっても、社会にとっても必要である。しかしそれは企業や企業活動にとって、目的ではなく条件である。企業活動や企業の意思決定にとって、原因や理由や根拠ではなく、その妥当性の判定基準となるものである。（中略）しかも、利益のために事業をしているということから、彼がいかなる事業をいかに行っているかは知りえない。利潤動機なるものは、的はずれであるだけでなく害を与えている。この観念のゆえに、利益の本質に対する誤解と、利益に対する根深い敵意が生じている。この誤解と敵意こそ、現代社会におけるもっとも危険な病原菌である。そのうえこの観念のゆえに、企業の本質、機能、目的に対する誤解に基づく公共政策の最悪の過ちがもたらされている。利益と社会貢献は矛盾するとの通念さえ生まれている。しかし企業は、高い利益をあげて、初めて社会貢献を果たすことができる 。（マネジメント［エッセンシャル版］ドラッカー）』</p><p>&nbsp;</p><p>　企業の目的は安く買って高く売りその差額を増やすことだと、世間は考えますが、ドラッカーは企業の目的を達成するためには経費がかかるため、それに見合う収入が必要である、という形で企業と収入の関係を理解しています。ドラッカーは利益についてはこう述べています。</p><p>&nbsp;</p><p>　『利益とは、原因ではなく結果である。マーケティング、イノベーション、生産性向上の結果手にするものである。したがって利益は、それ自体致命的に重要な経済的機能を果たす必要不可欠のものである。①利益は成果の判定基準である。②利益は不確定性というリスクに対する保険である。③利益はよりよい労働環境を生むための原資である。④利益は、医療、国防、教育、オペラなど社会的なサービスと満足をもたらす原資である。（同上）』</p><p>&nbsp;</p><p>　利益に対する見方を改めない限り、事業の本質的な議論には及ばないのだと思います。儲かるのなら何の商売でもいいのか？といえば、そんなはずないわけで、自分や組織が社会的にどんな意味があり、どんな意味を持たせていくのかを真剣に考える経営者がこれから必要とされます。</p><p>利益追求ではなく事業の本質を考えるという点で、ドラッカーが多用するフレーズがあります「われわれの事業は何であり、何であるべきか」です。これは苦境に陥ったときのみならず、常に問い続けないといけない命題と彼は言います。</p><p>&nbsp;</p><p>『あらゆる組織において、共通のものの見方、方向づけ、活動を実現するには、「われわれの事業は何であり、何であるべきか」を定義することが不可欠である 。（チェンジ・リーダーの条件はじめて読むドラッカー）』</p><p>&nbsp;</p><p>●　企業の目的は利益追求ではない</p><p>●　利益を出すことは最低限の条件であり、企業の指標であり、リスクへの原資であり、次の取り組みの原資である</p><p>●　利潤動機は誤解を与えている</p><p>●　企業の意味を定義することは、重要な仕事である</p>
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<link>https://ameblo.jp/sr-kamiya/entry-12377371564.html</link>
<pubDate>Mon, 21 May 2018 23:00:00 +0900</pubDate>
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<title>黒字、赤字は世間から誤解を受けている</title>
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<![CDATA[ <p>■　黒字、赤字は世間から誤解を受けている</p><p>&nbsp;</p><p>　先日、社労士の支部総会に出席しました。ほかの団体でも同じ位置づけだと思いますが、総会はその団体で最も重要な会議体になります。ちょうど国における国会のようなものです。総会では運営にかかわる重要なことが議論されますが、その中に予決算の議事も含まれます。支部の予決算では費用を大目にみて赤字の予算を組み、最終の決算時点では黒字になるようにしているようです。最終黒字の方が、なんとなく見栄えもするから、ということでしょう。</p><p>&nbsp;</p><p>　こういった収支に対する感覚は支部に限った話ではなく、世間に広く浸透していると思います。というより、それ以外の感覚を持つ者はかなり少ないと思います。つまり「収支が黒字である」ことが善であるという感覚は、広く世間に受け入れられており、そこに疑問の余地はないと思われているいうだろう、ということです。</p><p>&nbsp;</p><p>　中世欧州の修道院では労働は神のための奉仕だと考えられており、苦しみを伴うことそのものに意義を見出し、利益を得て楽をすることは腐敗につながることとして忌避されていました。皮肉なことに私欲を捨てて懸命に働けば働くほどに修道院は大きな利益を得て、腐敗の原因を作り、それに辟易した信徒たちが新たな荒地を探して開墾することを繰り返していたようです。</p><p>&nbsp;</p><p>『修道院は好んで荒れた土地、人々が耕すこともできないような荒蕪地に建設されることが多かった。たとえばシトー派の修道院の成立の状況をみてみよう。もともとはシトー派の人々はクリュニーの修道院に属していた。クリュニーの修道院は、世俗的な権力と結びついた教会のありかたに飽き足らない人々が、イエスのような暮らしをしたいと考えて設立したものだった。しかし信徒の寄付と遺産相続によって、この修道院は巨大な富を築くようになる。このクリュニーの修道院の世俗的なありかたに失望して、一一世紀末に二一人の修道士たちが、荒れ地の「木やイバラを切り倒して」（08）、シトー修道院を建設したのだった。彼らは「俗世間からの分離、物質的な利益および放縦からの解放」を目指した。しかしこの修道院もまた、「購入と贈物によって財産を増やし、苦心の開拓によって資本を蓄積」（09）するようになり、やがては世俗社会の一部になってしまう。修道院の歴史では、ほとんどつねにこの逆説が反復される。修道士たちは「辺境での土地の開墾」と「大規模な田園農業を実行」（10）することで、巨大な富を蓄積してしまい、世俗化する 。そしてこれに飽きたらない修道士たちが独立して、別の修道院を建設し、そこで禁欲的な労働に励む。しかしこれがまた富を蓄積させ、内部に腐敗をもたらすのである。（労働の思想史、中山元）』</p><p>&nbsp;</p><p>　・・・現代日本人では、しっかりと利益を上げることは組織の健全さの証拠というだけでなく、その利益は組織の価値かのようにして語られます。それが社労士会支部のような任意団体においても同様の価値観が持ち込まれているため、常態として黒字化し、繰越金が累積することにつながるのです。</p><p>　黒字化することが目的なのではなく、黒字（というか収支均衡）は組織が存続する上での条件です。黒字化が健全なのではなく、赤字が常態化することが不健全なのです。赤字決算が続けばいずれ資産が尽きて運営がままならなくなる、ことは事実ですが、その事実をもって黒字化を続けることが運営の目的だとういう説明にはならないということです。</p><p>&nbsp;</p><p>●　現代日本人は黒字化することこそが正しいことだと思っている</p><p>●　中世欧州の修道院では利益が上がることが葛藤の材料となっていた</p><p>●　黒字であることは目的ではなく、条件である</p><p>●　赤字が常態化することが不健全</p>
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<link>https://ameblo.jp/sr-kamiya/entry-12377371250.html</link>
<pubDate>Sun, 20 May 2018 23:00:00 +0900</pubDate>
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<title>営業利益５０００万円はすごいことなのか？～労働生産性～</title>
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<![CDATA[ <p align="left">　■営業利益５０００万円はすごいことなのか？</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　営業利益５０００万円・・・なんとなくすごい気がする。ふだん目にしない大きな数字だから。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　しかし、これがすごいかすごくないかはこれだけではなんともいえません。気になるのは組織の大きさです。組織の規模によってまるで印象が異なります。社員１０人の会社であれば、１人が１年かけて５００万円を稼いだことになりますが、５０００人の会社であれば、１人が１年に１万円しか稼いでいないことになるので、むしろ虚しい数字に見えてきます。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　とはいえ、一般的に大企業の方が給料は高めですし、社員の数だけでもなんとも判断できません。</p><p align="left">　そこで気になるのが、社員の給料です。上記のたとえで言うなら、５０００人の企業の社員が高級取りのか、薄給なのかで企業の印象は異なります。高級取りであれば、営業利益が上がらなくても仕方ないともいえますが、薄給でなお且つ企業に十分な利益が上がっていないとなれば、その会社の将来は暗いといえます。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　これを数値にする方法が労働生産性です。営業利益+人件費+αで付加価値額を求めて、それを人数（または時間）で割ることで求められます。人数で割ると、パートタイマーはどうするのか？とかパートでもほぼフルタイムのような社員はどうするのか、とかいうメンドウなので、ザックリ全員の労働時間で割るとわかりやすいと思います。</p><p align="left">　社長さんの中には売上げと経常利益だけ見て、決算を終わらせる方もいると思いますが、それだけで組織の中身を知ることはできません。特に人口減少が加速するこれからの時代、少人数でもしっかりと利益の上がる組織作りをすることが重要ですし、数値で理解するうえで労働生産性欠かせない指標となるでしょう。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　ちなみに昨日は組織の大きさは組織の強さを表さない、と言う話をしましたが、この労働生産性という指標は組織の強さを知るひとつの手がかりになると思います。労働生産性があがっていくことはピータードラッカーに言わせれば『より完全に近づく』ことでもあります。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">営業利益５０００万円はすごいことなのか？</p><p align="left">　●社員数で大きく異なる</p><p align="left">　●社員の給料が多いか少ないかも影響する</p><p align="left">　●労働生産性がその指標になる</p><p align="left">　●これからの時代は労働生産性が重要なキーワードになる</p>
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<link>https://ameblo.jp/sr-kamiya/entry-12373883575.html</link>
<pubDate>Fri, 11 May 2018 23:00:00 +0900</pubDate>
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<title>組織拡大の前に知っておくべきこと2</title>
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<![CDATA[ <p align="left">（昨日に引続き）</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">『外の世界への奉仕という組織にとっての唯一の存在理由からして、人は少ないほど、組織は小さいほど、組織の中の活動は少ないほど、組織はより完全に近づく。組織は、存在することが目的ではない。種の永続が成功ではない。その点が動物とは違う。組織は社会の機関である。外の環境に対する貢献が目的である。』（ドラッカー、プロフェッショナルの条件　はじめて読むドラッカー（自己実現編））</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　このドラッカーの比喩は秀逸だと思います。私たちは組織について考えるとき、大きくなることが強さの象徴であるように錯覚しがちです。孫子は『寡は衆に敵せず』と、戦で勝負する上で数の多さは重要であることを説いています。戦においては目的は明確で、相手を無力化することで、近代以前においては数がものを言ったこともうなずけます。しかし、現代の経済社会において、組織の構成員たる人が多いことは、コストが大きいこと以外は、直接何も意味しません。せいぜいそれだけ売上げがあるだろうことと、それだけ貢献しているだろうという推測ができるだけです。</p><p align="left">　しかし現代の経済社会においても、組織の大きさは強さであり、正しいことであると考えている人は多いように感じます。これはそういった心理に対する警告だと言えるでしょう。ドラッカーはあくまで組織の存在意義を、組織そのものではなく、『貢献』に焦点を当てているので、表現もこのようになっています。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　人は少ないほど組織は小さいほど完全に近づく、という言葉に続けて、存在することは目的ではなく、また種の永続が成功ではないとも言っています。個人においては生体を維持して、種を残して永続を願うことは正しくても、組織においては存在すること自体も永続をはかることも正しいとはいえないのです。つまり私たちの生物的な直感と組織の論理は異なるといえます。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　組織の存在意義は社会に対する貢献にある一方で私たち動物である人間は別の動機に突き動かされます。組織を大きくしたいとか、組織を永続させたいとかいうのは、動物的で本能的な動機との誤認によるものです。そういった誤認が生じることを自覚することがまず重要になると思います。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">組織拡大の前に知っておくべきこと</p><p align="left">●社員数の多さは組織の強さを示さない</p><p align="left">●私たちは社員の多さを強さだと錯覚しがちである</p><p align="left">●錯覚の根本には動物的な直感がある</p><p>●組織の存在意義は社会貢献にある</p>
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<link>https://ameblo.jp/sr-kamiya/entry-12373873903.html</link>
<pubDate>Thu, 10 May 2018 23:00:00 +0900</pubDate>
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<title>組織拡大の前に知っておくべきこと</title>
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<![CDATA[ <p align="left">　今後、人口減少が深刻になってきます。人口減少というのは社会が縮小することであり、あらゆるマーケットの縮小を意味します。そして、多くの企業にとって、売上げが減少することを暗に示しています。人口減少については未来予想などではなく、すでに起こった未来といってもいいくらいで、議論の余地はありません。仮想通貨が値上がりするとか値下がりするとか、そんな博打のような、期待を込めた未来予想などではありません。人口構造については急激な変化は起こりえないため、望むと望まざるにかかわらず、社会は縮小し、企業の淘汰も進んでいくといえるのです。</p><p align="left">　そし企業の淘汰は、売上げ確保以上に労働力確保の優劣でより顕著になることでしょう。今後、労働力の確保は経営者にとって重要性を増してきます。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　・・・ところで社員数についてはしばしば初対面の相手とも話されます。「何のお仕事ですか？」「会社はどちらにあるんですか？」「社員さんは何人くらいいらっしゃるんですか？」といった具合です。社員数が多ければ、立派な企業ですし、少なければそれなりの企業と言う印象です。社員数の多さはその組織の大きさだけでなく、強さを示しているように感じるのは私だけではないはずです。しかし事実とは異なります。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">社員数が多い　→　それだけの経費がまかなえる売上げがある？　→　社会にそれだけ貢献している？</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">という予測をしているに過ぎません。実際、社員を多く抱える大企業の倒産劇など何度となく目にしてきました。赤字続きで倒産する会社もあれば、社会を欺いて信用を失って倒産する企業もあります。社員数の大きさに関係ありません。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">『組織は、社会、経済、個々の人間に対して、なんらかの貢献を行うために存在する。活動の成果は組織の外に表れる。社会、経済、顧客に対する成果として表れる。企業のあげる利益にしても、それを生みだすのは顧客である。内部にあるものはコストセンターにすぎない。』（ドラッカー、マネジメント［エッセンシャル版］）</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　社員が多いことはそれだけコストがかかっていることを意味するだけです。組織の存在意義は組織の外にあって、内にあるのはコストのみだといえます。</p>
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<link>https://ameblo.jp/sr-kamiya/entry-12373544488.html</link>
<pubDate>Wed, 09 May 2018 23:00:00 +0900</pubDate>
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<title>スマートフォンの普及は労使の関係を変える</title>
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<![CDATA[ <p align="left">（昨日に引続き）</p><p align="left">■　スマートフォンの普及は労使の関係を変える</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　経営者の優位性についてはいくつか挙げてみましたが、１つ目の依存度については社会の変化に伴い変化することが考えられます。実際にいまや労働力は売り手市場です。労働力人口は減少し１年に１％ずつ減少するといわれており、２０６０年にはピーク時の半分になるとも言われます。企業は今後、人手の確保で苦しむことになりそうです。企業経営にとって労働力確保の重要性が高まってくると、必然的にその依存関係も変化をみせはじめるでしょう。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　スマートフォンの普及により経営者と労働者の関係は大きく変化すると考えます。スマートフォンの世帯保有率は２０１０～１３年で１０％→６０％に急増しています（図表6-2-1-1　情報通信端末の世帯保有率の推移、（出典）総務省「通信利用動向調査」）スマホは従来の携帯電話よりも操作性に優れており、またＰＣよりも手軽にネットにつなげることができます。スマホは手軽な情報発信ツールであり、また情報の受信ツールでもあります。この情報の発信・受信のツールが市民の手に広がったことで、企業の情報もよりオープンになっていくでしょう。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　すでに『転職会議』や『Vorkers』などの企業のクチコミサイトが誕生しており、在職者や以前勤めていた社員がその会社の内情を暴露していたりします。まだ誕生したばかりなので、企業に対する批判的な書き込みが多く、人によってはウサ晴らしのような書き込みもあるなど問題もあります。しかし、複数の書き込みが同じ内容であれば、信憑性も高まりますし、いずれ書き込み内容も取捨選択され、信頼できる情報のみが残ることでしょう。そうなると企業も無視できないようになってくると思います。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　例えば、飲食店の評価サイトも、情報の信頼性などさまざまな問題を抱えているにせよ、世間の『実際どんなお店か知りたい』という期待を十分満足させているように思えます。就職場所を選ぶのと友人との食事場所を選ぶのはわけが違います。『実際どんな企業なのか知りたい』という期待は、飲食店の評価サイト以上でしょうし、遅かれ早かれ世間に広まるものと思っています。</p><p align="left">スマホの普及は３年で６割に達しましたが、インターネットサービスの普及はスマホなどのモノの普及よりもずっと早いことは想像に難くありません。このような企業評価サイトが普及すれば、企業は求人票の採用条件以上に、職場の充実に気を配る必要が高まることでしょう。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　求人票では残業ナシと書いていたのに、実際には残業は毎日あるとか、大手だからと信用して入ったが、派閥があって人間関係がめんどくさい職場であるとか、実際に働いてみないとわからない情報が公開されていきます。そうなれば今までのような博打のような転職ではなく、ある程度下調べをした転職も可能になります。わざわざ平日にハローワークに行く必要もなく、求人情報をネットで探して、その求人の会社を評価サイトで調べれば、転職が容易になるでしょう。そして、オープンになった情報のもと転職先を探すようになれば、労働力はより流動的になっていくと予想できます。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　こうなると経営者と労働者の人間関係も変化していきます。労働者としてみれば、今働いている職場にしがみつく理由も薄れていきます。そもそも企業の平均寿命が２３年といわれており、労働者の生涯勤務年数４０年（大卒から定年まで）とを比較しても、生涯に最低１回は転職しそうなものですし、転職も特別なイベントではなくなってくるのではないでしょうか？</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">人口減少とスマホの普及で経営者と労働者の関係が変わる！？</p><p align="left">　●　企業は人手不足で苦しむ</p><p align="left">　●　スマホの普及は企業の情報をオープンにする</p><p align="left">　●　情報がオープンになることで、ブラック企業は追い詰められる</p><p align="left">　●　労働者の経営者に対する依存度は低くなっていく</p>
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<link>https://ameblo.jp/sr-kamiya/entry-12373344273.html</link>
<pubDate>Tue, 08 May 2018 23:00:00 +0900</pubDate>
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<title>なぜ経営者は労働者より立場が上なのか？</title>
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<![CDATA[ <p align="left">（昨日に引続き）</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">■　なぜ経営者は労働者より立場が上なのか？</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　私は労使の力関係がなにを根拠にしているのか知りません。つまりなぜ労働者は経営者（使用者）に対して弱い立場に立たされるのか？という疑問です。不勉強を棚に上げ、勝手に想像してみます。</p><p align="left">たとえば社員１００人の会社があるとすると、経営者と一社員の関係は次のように理解できます。１日会社を運営するために必要な労働力は１００人だとします。100人いる社員のうち1人の社員に対しての必要性は１／１００、つまり１％しかありません。換えはいくらでもある状態です。</p><p align="left">一方の社員は副職無しの独身であれば、家計の収入のすべてを会社に依存しますので、依存する割合は１００％になります。会社から捨てられたときのダメージは絶大です。</p><p align="left">経営者は一社員に対して１％依存して、社員は経営者に対して１００％依存するのであれば、依存度の高い社員は経営者の顔色を見がちになるのも無理ありません。言い換えれば、会社は社員の替えがきくが、社員は会社の替えがきかないという関係が、依存度の関係であり、お互いの力関係につながっている、と言えます。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">それから、一度そういった上下関係が社会に根付くと根拠とか関係なく、その関係が慣習として維持されるという側面もあると思います。われわれ現代日本人からすれば異常に感じることも、昔は許容されていました。古代ハンムラビにおいて、自由人、一般人、奴隷と分けられ差別されていたり、インドのカースト制度がバラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラと身分を分けて差別されていたり、日本においては士農工商の身分に分かれていましたが、それはそれで社会の秩序を保っていました。経営者は偉くて、労働者が弱い立場にあるということに特別根拠がなくても、一度、慣習として広まるとその慣習自体がその上下関係を強固にしていくという側面もあるものと思います。</p><p align="left">それから経営者についてはまったく根拠なく、偉いというわけではありません。経営者は組織運営で最も重要な立場にあります。経営者は昨日と同じ仕事を求められません。常に変化する社会に対して、先手を打って組織全体の方向性を示すという大切な役割を担っています。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">なぜ経営者の方が労働者より強いのか？</p><p align="left">●営みの依存度（たとえば会社→社員１％、社員→会社１００％）</p><p align="left">●社会的慣習によるもの（みんながそう振舞うから私もそう振舞う）</p><p align="left">●経営者独特の役割によるもの（責任の重い仕事がある）</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">当たり前のようになっていますが、本当のところ、労働者より経営者が偉いというのは何を根拠にしているのでしょうか？またその力関係は磐石なものなのでしょうか？</p>
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<link>https://ameblo.jp/sr-kamiya/entry-12373343759.html</link>
<pubDate>Mon, 07 May 2018 23:00:00 +0900</pubDate>
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<title>労使対立・ブラックとホワイトの対立</title>
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<![CDATA[ <p>（昨日に引続き）</p><p>&nbsp;</p><p align="left">■　労使対立・ブラックとホワイトの対立</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　引き続き『ブラック』と『ホワイト』の区別で労使関係を考えてみます。ブラックとホワイトと表現すれば、まるで人種問題のようでもあります。特に過去の奴隷貿易から多民族国家となっている米国では現在でも解決されない問題として今でも存在します。世界の歴史では米国に限らずこういった階級制度は欠かせないもので、世界史のあらゆる場面で登場します。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　「・・・たとえばハンムラビ法典は上層自由人、一般自由人 、奴隷という序列を定めている。上層自由人は、人生の楽しみを独り占めしていた。一般自由人はそのおこぼれにあずかった。奴隷は不平を漏らそうものなら、叩かれた。アメリカ人が一七七六年に打ち立てた想像上の秩序は、万人の平等を謳っていながら、やはりヒエラルキーを定めていた。この秩序は、そこから恩恵を受ける男性と、影響力を奪われたままにされた女性との間に、ヒエラルキーを生み出した。また、自由を謳歌する白人と、下等な人間と見なされて人間として対等の権利にあずかれなかった黒人やアメリカ先住民との間に、ヒエラルキーを生み出した。独立宣言に署名した人の多くが奴隷所有者だった。彼らは独立宣言に署名した後、すぐに奴隷を解放したりしなかったし、自分は偽善者だと考えたりもしなかった。彼らにしてみれば、人間の権利は黒人とは無縁だったのだ。・・・だが 、想像上のヒエラルキーはみな虚構を起源とすることを否定し、自然で必然のものであると主張するのが、歴史の鉄則だ。たとえば 、自由人と奴隷のヒエラルキーは自然で正しいと見ている多くの人が、奴隷制は人類の発明ではないと主張してきた。ハンムラビはそれが神によって定められたと見なした。アリストテレスは、奴隷は「奴隷の性質」を持っているのに対して、自由人は「自由な性質」を持っていると主張した。（サピエンス全史（上）文明の構造と人類の幸福）」</p><p align="left">　</p><p align="left">　古代ギリシャの偉大な哲学者であるアリストテレスでも、ゆがんだ差別意識を持っていたことに驚きます。それにあらゆる社会で身分的な差別が存在して、その当事者はそれを差別だとは思っていないことを考えると、自分自身にそういった偏見がないと断言することはできません。むしろ自身も偏見があると言う前提で考える思考のほうが健全と言えるでしょう。</p><p align="left">　私たち社会保険労務士は労働法をよく勉強しているので、労働者・使用者という区分で会社組織を考えがちです。法律上存在する労使の区分はヒエラルキーではないにしろ、労働者と使用者を仮に上下に分けて考えて、労働者を上だという人はいないと思います。経営者をトップ、一般社員末端に、管理職はその中間に位置する組織図を誰もがイメージするでしょう。統計的に確認する必要はないでしょう。労働者は使用者の支配下にあると世間的に理解されています。しかしそれも社会的に築かれた空想にすぎず、本来の契約的性質に見ても労働者と使用者の間に上下関係は存在しないといえます。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">労働契約法第三条（労働契約の原則）</p><p align="left">１　労働契約は、労働者及び使用者が対等の立場における合意に基づいて締結し、又は変更すべきものとする。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　労働契約は簡単に言えば、労働力（時間で測る）と賃金（お金ではかる）を交換する契約です。その労働を測定する労働時間の定義は「労働者が使用者の指揮命令の下に置かれている時間」と説明されます。指揮命令下という表現からも、不自由さと奴隷的存在をイメージさせ、上下関係やヒエラルキーを連想させるのだと思います。さてこの労働者と使用者の上下関係は単なる空想といえるのでしょうか？それとも裏づけのある力関係と言えるのでしょうか？</p>
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<link>https://ameblo.jp/sr-kamiya/entry-12373342122.html</link>
<pubDate>Sun, 06 May 2018 23:00:00 +0900</pubDate>
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