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<title>里永尚太郎のココロ想うままに！！</title>
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<description>憲法・安全保障問題と島興志（地域活性化事業）への取組みを中心に書いていきます。</description>
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<title>マッカーサーの夢、戦争放棄！！／日本国憲法草案（GHQ）／[２日目]1946/2/5</title>
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<![CDATA[ <p> 戦争放棄に関する草案の下敷きとなったのは、マッカーサー・ノートである。三項目あったマッカーサー・ノートの中で、天皇の地位に関する条項と封建制度の廃止についての条項がただ方針を示しただけの文案なのに対し、戦争放棄の条項は、定義、哲学が包含されたかなり推敲されたものだった。</p><p> </p><p>【マッカーサー・ノートの原型】　</p><p><strong>　＜国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。</strong></p><p><strong>　　日本が陸海空軍をもつ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。＞</strong></p><p> </p><p>【ケーディス大佐】</p><p>　「重要な変更は、草案を数カ所カットしたことです。それは私がやりました。自分でやったのを覚えています。」</p><p>　まず、＜自己の安全を保持するための手段としての戦争をも＞という部分をカットしました。さらに、＜日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる＞の部分もカットしました。あまりにも理想的で、現実的ではないと思ったからです。そして、＜武力による威嚇、又は武力の行使は＞という文言を、前段に挿入したのを覚えています。</p><p> </p><p>　ケーディス氏は、この大胆な処理を誰にも相談せずにやったという。絶対的権限の持ち主である上官のマッカーサーの原稿を書き直したのである。その重大変更の理由は以下の通り。</p><p> </p><p>　「自衛権の放棄を謳った部分をカットした理由は、それが現実離れしていると思ったからです。どんな国でも、自分を守る権利があるからです。だって個人にも人権があるでしょう？それと同じです。自分の国が攻撃されているのに防衛できないのは、非現実的だと考えたからですよ。</p><p> </p><p>　そして、少なくとも、これでひとつ抜け道を作っておくことが出来る、可能性を残すことができると思ったわけです。（草案の中には）はっきりと＜攻撃を撃退することはできない＞とは謳われていないわけですからね。</p><p> </p><p>　この条項について、皆で議論していたら、一週間かけても結論は出ないだろうと思ったのです。それで、これは自分一人でやってしまおうと心に決めました。」</p><p> </p><p>　つまり、法律家としての立場から言っても、国家に固有の自衛権を否定するようなことを憲法上に明記するのは、非合理で不適当であるというのである。</p><p> </p><p>　ジャスティン・ウィリアム氏によると、「ケーディス氏はマッカーサー・ノートの修正を自分の判断によるものののようにいうけれども、それはホイットニー、マッカーサーの考え方に添ったものだったはずだ・・・。」</p><p> </p><p>　実際に後日、１９５７年から活動が始まった憲法調査会が出した質問書簡に対する答えの手紙の中で、マッカーサーは<strong>、</strong></p><p><strong><br></strong> </p><p><strong>　＜戦争放棄の条項は、もっぱら外国への侵略を対象としたものであり、世界に対する精神的リーダーシップを与えようと意図したものである。（略）第九条のいかなる規定も、国の安全を保持するために必要なすべての措置をとることを妨げるものではない。＞</strong>（憲法調査会資料）</p><p> </p><p>と書いている。理想と現実を踏まえて処理した現場の仕事を、見事にフォローしたものといえる。</p><p>そこには、フィリピン攻防戦で惨敗と勝利を経験し、戦争の実像を網膜に焼き付けたマッカーサーの思いがあったのであろうか・・・・。</p><p> </p><p>　　（※鈴木昭典 『日本国憲法を生んだ密室の九日間』 創元社 １９９５年　１２３－１３０ページ。） </p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ssatonaga/entry-11187390499.html</link>
<pubDate>Fri, 09 Mar 2012 10:58:40 +0900</pubDate>
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<title>象徴天皇の誕生！！　／日本国憲法草案（GHQ） ／[２日目]1946/2/5</title>
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<![CDATA[ <br><p>　天皇に関する草案は、マッカーサー・ノートというはっきりとした指針があったため、一応の方向づけはできていた。とはいえ、<u>この憲法草案の作成を急ぐ趣旨そのものに<strong>、「天皇を戦犯として問え」という国際的な世論をかわすことと、日本占領のために巨大な軍事力を使いたくない</strong>というマッカーサーの思惑があった。</u></p><p><u><br></u></p><p>　<strong><u>マッカーサーは、天皇は百万の兵力に匹敵する潜在的能力を持つと評価していたが、それに加え、昭和天皇と会い、その人柄に感動して命を助けることを決心したという、個人的な感情の問題もからんでいた。</u></strong></p><br><p>　前日の２月４日の会議で、ケーディス大佐は基本的な指示をしている。</p><p>　「現行の明治憲法では、天皇の権限と権利とについては、明確な規定があり、保障がなされている。われわれの草案では、これを覆さないといけない。新しい憲法を起草するに当たっては、主権は完全に国民の手にあるということを強調しなければならない。<strong>天皇の立場は、社交的君主の役割のみとされるべきである</strong>」</p><br><p>　<strong>統治権と統帥権が両立していて、軍人が内閣総理大臣を経由せずに軍事的な国家方針を遂行できる明治憲法こそが諸悪の根源である</strong>、という指摘は、SWNCC文書やポツダム宣言などの、アメリカの日本分析の中核をなしている。<strong><u>日本の軍国主義化の根源は、そういった憲法上の問題に端を発した陸海軍大臣の現役武官制にあった。</u></strong></p><br><p>　アメリカ側の方針は、日本国民の欲する天皇制という「冠」そのものを拒否するわけではなかった。しかし、それが民主主義のルールにのっとった新しい冠であること、また、それを、日本国民が納得して戴くことが必要だったとケーディス氏は回想する。</p><br><p>　「１９４６年の元旦に、天皇の人間宣言がありましたし、天皇の地位はどのようなものであればよいかという、国民の考えはできつつありました。</p><p>　しかし、日本政府が作成しつつあった憲法草案は、明治憲法の＜神聖にして侵すべからず＞が、＜至尊にして侵すべからず＞というふうに修正されたものに過ぎませんでした。当時の政府の中枢の人たちの考えは、その意味できわめて保守的でした。</p><p>　天皇は、新しい存在として護られるけれども、神格化された天皇制は払拭されなかればならないというのが、一貫したマッカーサー元帥の考えでした。」</p><p>　</p><p>-----------------------</p><p>　</p><p>　問題の「象徴（シンボル）」という言葉は、１９３１年制定のウェストミンスター憲章の前文に出てくる。</p><p>＜クラウンは、イギリス連合（コモンウェルス）所属国の自由な連合の象徴であり、連合所属国は、クラウンに対する共通の忠誠によって結合されている。＞</p><p>　</p><p>　このような、イギリス国王が国民統合の「象徴（シンボル）」であるということは、西欧社会で教育を受けた人ならば、常識レベルで定着しているという。</p><br><p>　担当したプール氏に確認すると、「象徴（シンボル）という言葉は、旗とか紋章とかの物質を連想しやすいのですが、英語では、精神的な意味も強く含んだ言葉です。日本の憲法学者は、現行憲法第１条の＜シンボル＞という表現がどこから来たか非常にこだわっているようですが、アメリカ人ならば１０人が１０人とも、＜精神的な要素を含んだ高い地位＞という意味を、すぐ理解する言葉です。＜シンボル＞というのはよい表現だと思いました。」</p><br><p>　（※鈴木昭典 『日本国憲法を生んだ密室の九日間』 創元社 １９９５年　１１２－１２３ページ。）<br><br><br></p><br><p>　</p>
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<link>https://ameblo.jp/ssatonaga/entry-11186419238.html</link>
<pubDate>Thu, 08 Mar 2012 10:52:50 +0900</pubDate>
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<title>軍事アナリスト・小川和久氏に学ぶ　「小川流、生き方」</title>
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<![CDATA[ <p>　<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120307/09/ssatonaga/4f/a0/j/o0800060011836993127.jpg"><img border="0" alt="里永尚太郎のココロ想うままに！！" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120307/09/ssatonaga/4f/a0/j/t02200165_0800060011836993127.jpg"></a> ＜懇親会にて小川先生と＞　</p><p>　<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120307/09/ssatonaga/fb/61/j/o0800060011836993126.jpg"><img border="0" alt="里永尚太郎のココロ想うままに！！" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120307/09/ssatonaga/fb/61/j/t02200165_0800060011836993126.jpg"></a> ＜同志社OBメンバーと記念写真＞</p><br><p>　３／３（土）に第８０回日本論語研究会<a href="http://www.rongoken.jp/report/report201203.html">http://www.rongoken.jp/report/report201203.html</a> が開催された。その日の講師は、あの有名な小川和久氏（国際変動研究所理事長　軍事アナリスト）。</p><p>　講演のテーマは、「小川流、生き方―動機は常に不純、「すき間産業」で生きてきた―」。</p><p>　</p><p>　日本では珍しく、組織に属しない、生き方でとても勉強になった。プライベートも含めると、まさに波乱万丈の人生であったが、人生の節目節目、勝負所で、小川氏独特の譲れない個性が、顔を出していることが成功に繋がり、それが現在の高名な地位にまで、結果的に周りが押し上げていった、という感想を抱いた。</p><p>　</p><p>　日本社会の既定のレールに乗らなかったものの、そもそも、頭がよく、センスの良さを、講演を実感することができた。　小生自身が勉強になるのと、備忘録も兼ねて、当日のレジュメ１枚を以下に記します。</p><p><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120307/09/ssatonaga/4f/a0/j/o0800060011836993127.jpg"></a></p><p><strong>１）動機不純編：</strong></p><p><strong>・少年自衛官になる（１９６１年）</strong></p><p><strong>　　</strong>→「自衛隊を嫌いになるなよ」と言われ、自衛隊を出る。</p><p><strong>・同志社大学神学部に進む（１９６９年）</strong></p><p><strong>　</strong>→入学する時もドラマがあったが、退学する時も凄かった。学生運動に参加。</p><p><strong>・地方新聞記者から週刊誌記者へ（１９７５年）</strong></p><p><strong>　　</strong>→記者としての腕は認められていたが、大卒でないことが原因で就職できず。休んだら給料の無い生活が続く。商売も経験する。</p><p><strong>・軍事アナリストとして独立（１９８４年）</strong></p><p><strong>　　</strong>→軍事評論家（国家の命運を決める軍事を評論するのはダメ）とは一線を画した、軍事アナリストという肩書で活動を始める。</p><p>　　→３５歳までには処女作をださいといけないという業界の目安を考えて、著作を出版し、独立。</p><p><strong><br></strong></p><p><strong><br></strong></p><p><strong>２）すき間産業編：</strong></p><p><strong>・車検制度改定（８１）：週刊誌でも、法律制度を変えられる（２年⇒３年、ユーザー車検）</strong></p><p><strong>　</strong>→なぜか車検を受けるとクルマの調子が悪くなる原因を調査し、日本自動車工業会と対決し、勝利。</p><p><strong>・在日米軍基地調査（８４）：誰も「日米同盟」の実態を知らなかった</strong></p><p><strong>　　</strong>→大手メディアが取材要請に来ているにも関わらず、小川和久氏個人に優先的に取材許可を出す。専門的知識を有していたため。アメリカはそこを評価。</p><p><strong>・カンボジアPKO（９２）：陸上幕僚監部と宮澤首相を結ぶ</strong></p><p><strong>　　</strong>→国会で、PKO法案が通過見通しが立っているのに、陸幕は準備ができていなかった。熱帯地の知識や、そこに行く際の装備もなかった。</p><p><strong>・阪神淡路大震災（９５）：消防当局の研究不足を指摘、消防審議会委員に</strong></p><p><strong>　　</strong>→消防当局は、ヘリによる火災の空中消火は技術的にムリと抵抗し飛ばなかった。それで何百人という方の命が助かるかも知れないのに・・・。鳥越俊太郎と特番を組んで、検証。今では、飛ぶようになった。そもそも、戦場には明かりがないのだから、薄明りでも飛べるような訓練をしておかないと・・・。</p><p><strong>・普天間飛行場返還合意（９６）：政府ができなかったのを取り返した（首相補佐官に・・・と）</strong></p><p><strong>　　</strong>→当時の梶山官房長官が記者に漏らし、日経一面トップに。橋本総理が激怒・・・。</p><p><strong>・対人地雷廃絶（９７）：米中露を巻き込めることを実感</strong></p><p><strong>・情報収集衛星（９８）：日本が偵察衛星を持つ場合の論理を構築、国産化と専門家の配置</strong></p><p>　　→仮に情報収集衛星を打ち上げたとしても、分析する人がいないといけないということで、大学の先生にチームを依頼。</p><p><strong>・内閣官房危機管理研究会（０１）：「巧遅拙速」「巧遅は拙速にしかず」</strong></p><p><strong>・イラク復興支援（０３）：小泉首相と陸上幕僚長で安全な環境を構築（首相補佐官に・・・と）</strong></p><p><strong>　　</strong>→「ヒゲの隊長」佐藤さん達が、安全に活動できるように、様々な手配をする。佐藤さんは後から知ったみたいだが・・・。</p><p><strong>・日本版NSC（国家安全保障会議）（０６）：不思議なことが起きた（なぜ、自民党部会は反対から賛成に転じたか）</strong></p><p><strong>・再び、普天間飛行場問題（０９）：２０１０年５月６日、決着寸前。鳩山首相の悔恨。（首相補佐官に・・・と）</strong></p><p><strong>・国際変動研究所（NPO）と有料メルマガ『NEWSを疑え！』（０９）：豪州政府の助成で『平和の構築と国益』</strong></p><p><strong>・地方自治体の危機管理（１１）：「全部、やってくれ」（副知事に・・・と）</strong></p><p><strong>　　</strong>→この頃から、国会議員や、高級官僚の待遇を考えた時に、助言することに嫌気がさし、地方自治体の活動をするようになった。お金をもらわないから、言いたいことがいえるという強みがあったとのこと。</p><p><strong><br></strong></p><p><strong>・当面は、大学の先生で外交・安全保障・危機管理に手と口を挟む（１２）：調査研究と実践を「拙速」で同時進行</strong></p><p><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120307/09/ssatonaga/4f/a0/j/o0800060011836993127.jpg"></a></p><p><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120307/09/ssatonaga/fb/61/j/o0800060011836993126.jpg"></a></p><p>-------------------------</p><p>【３月の論語】</p><p><strong>子貢君子を問ふ。子曰はく、先ず其の言を行うて而して後之に従ふ。</strong></p><p>子貢問君子。子曰、先行其言、而後從之</p><p><strong><br></strong></p><p>[通釈]　子貢が君子の実際を問うた。孔子が曰われるには、「君子は言わない先に行って、行ってから後に言う　　ものである。」</p><br><p>[語釈]　○君子＝人格の完成した人。</p><br><p>[解説]　この章は言よりも行いを先にすべきことを述べたのである。　子貢弁才のある人であるから、行いが言に及ばない幣に陥り易いのである。孔子の語はこれを救うために投じた薬である。世の口先は達者でも実行のこれに伴わない人たちは毎日この語を三誦（ｻﾝｼｮｳ）すべきである。</p><br><br><p><strong>子曰はく、君子は周して比せず。小人は比して周せず。　</strong></p><p>子曰、君子周而不比。小人比而不周。</p><p><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120307/09/ssatonaga/4f/a0/j/o0800060011836993127.jpg"></a></p><p>[通釈]　君子は博く衆人を愛して、己の気に入る者ばかりを親しむようなことはしない。小人は己の気に入る者ばかりを親しんで、博く衆人を愛するようなことはない。</p><br><p>[語釈]　○君子＝人格の完成した人。　○小人＝君子とは反対に人格のなっていない人。　○周す＝普遍で、広く衆を愛するのである。　○比す＝私情に従って人に親しむのである。</p><br><p>[解説]　この章は君子と小人のとの差別を述べたのである。君子と小人とは心を用いることの公私によって別れる。</p><br><p>（※宇野哲人　『論語新釈』　講談社学術文庫）</p><br><br><br><br><p><br><br><br></p><br><p><br></p>
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<pubDate>Wed, 07 Mar 2012 09:42:30 +0900</pubDate>
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<title>諸改革が連合軍によって強要されたものであることを日本国民が知れば・・・。</title>
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<![CDATA[ <p>　いよいよGHQ民生局の憲法草案作業の２日目に入る。１９４６年２月５日（２日目）。</p><p> 日本国憲法はGHQ民政局数名でたった９日間で作成されたとされているが、それまでの蓄積（SWNCC－２２８等の文書）が大きな役割を果たしてきたことが明らかになっている。</p><p> </p><p>　つまり、アメリカのシンクタンク、研究者等の研究の蓄積は、必要とあらばアメリカ政府の政策に強力に影響するということが下記の点からも確認される。</p><p>　</p><p>　日本国憲法を理解する上で、非常に興味深い部分を下記に引用する。このようなプロセスで日本国憲法が作成されて来たことは、今後、活性化すると思われる憲法論議を見据え、事実として共有しておく必要性を感じる。</p><br><p>------------------------------------</p><p>ケーディス大佐がまず口火を切る。</p><p><strong>　「この会議の目的は、日本側の草案を論議するための日本側委員会との会合が開かれる前に、その基本方針を決定しておくことにある。」</strong></p><br><p>　日本側草案というのは、松本烝治国務大臣を長とする政府の憲法問題調査会が書いた憲法草案のことである。また日本側委員会との会合というのは、２月１２日に予定されていた日本政府との会合のこと。</p><br><p><strong>　「我々の憲法草案を核に当たって、できる限り日本流の術語と形式を用いる。これは、昨日ホイットニー将軍も言っておられたように、この我々の草案は、日本政府によって書かれたものとして発表される。だから、彼らの表現を用いていなければ、疑いの眼を持たれるだろう・・・・・・」</strong></p><br><p>　<strong>「それは、当然だ。占領軍が被占領軍の国内法を変えることは、国際法にもとることになるし・・・・・・」</strong></p><br><p><strong>　「しかし、民主主義についての用語や、人権に関する考え方は、日本にはない。意図するところを伝えるには、困難が多いのではないか？しかも我々にとって日本的表現は、あまり得意ではないが？」</strong></p><p><strong><br></strong></p><p><strong>　「確かにそうだ。アメリカ式文言を使った方が、我々の意図するところが明らかな場合は、日本式の形式を使わず、アメリカ式の用語を使うことにしよう。・・・・・」</strong></p><p><strong><br></strong></p><p>　この日の会議では、SWNCC文書がそれぞれの小委員会の委員長に配布されたが、部数が足らず、他の委員たちはそれを覗き込みながら討論した。</p><br><p><strong>　「ラウエル中佐は、法規課長として日本の民間研究者や政党の憲法草案に目を通していたし、アメリカ側の資料にも精通していましたが、私も含めてほとんどの民政局員は、大変な勉強からはじめなければなりませんでした。その意味でも、２０日ほど前に届いていたSWNCC－２２８は、単なる＜情報＞ではなく、ずっと重みのあるものでした。各小委員会に、草案に書いた内容をこのSWNCC－２２８に照らして合わせて、矛盾がないようにチェックしておくよう注意しました」（ケーディス氏）</strong></p><br><p>　SWNCC－２２８には、「日本の統治体制の変革」という文書名がついている。憲法改正が含めた、日本の占領政策に関する最終的な目的が、「合衆国太平洋総司令官」に宛ててきわめて丁寧に書かれた文書である。</p><br><p>　宛名が、「連合軍最高司令官」でなく、「合衆国太平洋総司令官」であること、それに「指令」ではなく「情報」としている点が非常に興味深い。連合軍の最高司令官の立場でなく、アメリカの国益に立った上での判断資料という意味なのだろう。</p><br><p>　文書は、最初に「結論」という見出しで指針を示し、次に問題点を１２の条項に分けて論じ、最後にポツダム宣言の一部と８月１１日の日本降伏に対する回答文、さらにアメリカ合衆国の占領目的を掲げて結んでいる。</p><br><p><strong>◎選挙による国民の意思を代表する立法府が置かれ、その立法府に対して、行政府が責任をとる。</strong></p><p><strong>◎日本国民および日本の統治権の及ぶ範囲にある人に対し、基本的人権を保障する。</strong></p><p><strong>◎日本国民が、その自由意思を表明しうる方法で、憲法改正または憲法を起草し、採択する。</strong></p><p><strong>◎日本の最終的な政治形態は、日本国民が自由に表明した意思によって決定すべきだが、天皇制を現在の</strong></p><p><strong>　形態で継続することはできない。</strong></p><p><strong>◎日本国民が天皇制を必要としないと決定したときは、憲法は次の目的に沿って改正されなければならない。</strong></p><p><strong>　○国民を代表する立法府の立法措置――憲法改正を含む――に関して、他の機関は、暫定的拒否権を有するに過ぎない。</strong></p><p><strong>　○国務大臣は文民でなくてはならない。</strong></p><p><strong>◎日本人が、天皇制を廃止するか、民主主義的方向に改正するよう奨励しなければならない。日本人が天皇制を維持すると決定した時は、次の安全措置が必要である。</strong></p><p><strong>　○国民を代表する立法府が選任した国務大臣が、立法府に連帯して責任を負う内閣を構成する。</strong></p><p><strong>　○天皇は、一切の重要事項につき、内閣の助言に基づいてのみ行動するものとする。</strong></p><p><strong>　○天皇は、憲法に規定されている軍事的権能をすべて剥奪される。</strong></p><p><strong>　○内閣は、天皇に助言を与え、天皇を補佐するものとする。</strong></p><br><p>　まさに、戦後日本のラフデザインが全て網羅されているが、その「結論」の最後に書かれた文章が面白い。</p><br><p>　＜最高司令官が、さきに列挙した諸改革の実施を日本政府に命令するのは、最後の手段としての場合に限られなければならない。というのは、<strong><u>前期諸改革が連合軍によって強要されたものであることを日本国民が知れば、日本国民が将来ともそれらを受け容れ、支持する可能性は著しく薄れるであろうからである。</u></strong></p><p>　日本における軍部支配の復活を防止するために行う政治的改革の効果は、この計画の全体を日本国民が受け容れるか否かによって、大きく左右されるのである。日本政府の改革に関する連合国の政策を実施する場合、連合国最高司令官は、前記の諸改革による日本における代表民主制の強化が永続することを確保するために、日本国民がこの変革を受け入れ易いような方法を考慮するとともに、変革の順序と時間の問題をも考慮されなかればならない。＞</p><br><p>　民族自決の原則は守らねばならないという理念と、困難が予想される日本の民主化には力で臨まざるを得ないだろうという現実的な状況との間を、なんとか政治的配慮でうまくやりなさいというアドバイスであった。</p><br><p>　日本人にとって非常に好意的に感じられる指針だが、この「結論」の最後の部分には、「<strong><u>本文書は、公表されてはならない」と書かれており、いま読んでも衝撃的である。実際、憲法改正の裏にこうした極秘文書があったことを日本側が知るのは、ずいぶん後になってからのことである。</u></strong></p><br><p>　（※鈴木昭典 『日本国憲法を生んだ密室の九日間』 創元社 １９９５年　１００－１０８ページ。）<br><br><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/ssatonaga/entry-11180868703.html</link>
<pubDate>Fri, 02 Mar 2012 16:53:20 +0900</pubDate>
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<title>開戦時の駐日米大使グル―がアメリカで吹かせた神風とは！！</title>
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<![CDATA[ <p>　米国政府に影響力がある親日派の存在が、日本国の進路にとっていかに影響を与えるかを物語るエピソードが日本国憲法の草案時の米国政府内にもみられる。親日派を大切にしないといけないことがよく理解できる。</p><p>　今や唯一の派遣国家となったアメリカとどのように付き合うかという、今日にも通じるテーマにもヒントを与えてくれているような気がする。</p><p>　非常に興味深い部分ですので、下記に引用する。</p><br><p>----------------------------　</p><p>　国務省、陸軍省の対日政策立案の動きを受けた、アメリカ政府の意思決定機関である国務・陸軍・海軍三省調整委員会（SWNCC）が発足するのは１９４４年の１２月である。</p><br><p>　その間をつなぐ、重要な役割を演ずる人物がいた。『滞日十年』（１９４８年　毎日新聞社）の名著で知られる、<u>開戦時の<strong>駐日大使ジョセフ・グル―</strong>である。</u></p><br><p>　半世紀以上経った今日、日本占領政策の立案過程を結果から逆にたどってみると、実にうまく物語が推移しているように見える。しかし、現実はもちろんそれほど簡単な半紙ではなかった。まして血を流して戦っている仇敵なのだ。<strong>「日本を抹殺してしまえ！」</strong>とか、<strong>「農業国家に追い落としてしまえ！」</strong>というモーゲンソーらタカ派の声が主流と考えた方がよい状況であった。</p><br><p>　グル―は、１９４２年に交換船でアメリカに戻ったあと、国務長官特別補佐官としてアメリカ全土を２５０回（／１年）も講演して回った。（交換船というのは、開戦の翌年、一般市民や外交官をそれぞれの国から本国に送り返すために特別に仕立てた船で、マダカスカルでお互いに乗船客を交換した。）</p><br><p>　はじめは、アメリカ国内のムードに会わせて、日本人の好戦性や、侵略への強い意思、団結力などをアピールする内容の講演であった。<u>それが、１９４３年の夏ころから、<strong>日本国民と軍部を区別して、「悪いのは軍国主義者である」というように変わる。そして、日本国民も米国民同様に日本軍閥の被害者であり、天皇も戦争を望んでいなかったと</strong>、敵国への慈愛に満ちた論調に変化していく。</u></p><p>　</p><p>　日本の占領政策の立案がTシリーズからCACへと変わっていくころである。グル―の論調は、そういった知日派によって作られつつあった。草案とほとんど同じ内容であった。しかし、その講演の内容にジャーナリズムの矛先は鋭かった。グル―は「利的行為」を責められ、しばしば窮地に陥った。</p><br><p>　その後、グル―は、日本との和平のために働けるならと、彼にとっては格下げにも等しい国務省の極東局長を務め、ブレークスリー、ボートンらの主張を政府の中枢に取次ぐ役割につく。</p><br><p>　運命という神は、歴史の曲がり角で不思議な悪戯をするものらしい。</p><p>　戦況がほぼ決定しつつあった１９４４年の暮れ、<strong>開戦のきっかけとなった最後通牒、ハル・ノートを突きつけたハル国務長官が病に倒れる。</strong></p><p>　後任の長官に次官のスティティニアスが昇格することに伴い、国務省内の大規模な人事移動が行われ、そしてグル―が次官に就任することになったのである。</p><br><p>　<strong>グル―はその人事権をフルに利用して、国務省内に知日派を迎え入れた。</strong>駐日大使館の部下であったジョセフ・バランタインを極東局長に据え、同じく大使館員だったユージン・ドーマンを国務・陸軍・海軍三省調整委員会（SWNCC）の責任者につけた。</p><br><p>　そして翌１９４５年、今度はグル―自身が、スティティニアス国務長官が国際連合を創設するために４月から６月の間ワシントンを留守にしたことから、国務長官代理を務めることになる。こうして、知日派の集団は、ブレークスリー、ボートンの起案作業のワーキング・グループをベースに、バランタイン、ドーマンの政策形成の実務レベル、グル―の政策決定レベルへと一貫した布陣を敷くことになった。</p><br><p>　その上に４月１２日に、<u><strong>ルーズベルト大統領が死亡するとういドラマティックな出来事まで起こる。日本に対して恨み骨髄に達していたルーズベルトの死は、知日派グループにとって最も巨大な目の上のコブがなくなったことを意味した。</strong></u>そして５月、ドイツが崩壊する。</p><br><p>　一方、国務・陸軍・海軍三省調整委員会（SWNCC）の実務を行う下部機構、極東委員会は、<u>１９４５年の２月に入って、初期対日占領政策をはじめとするさまざまな戦後計画の立案をボートンらに命じていた。そこに上がってきたのが、あの<strong>「軍国主義の排除と民主的過程の強化」などの一連の文書</strong>である。</u></p><br><p>　さらに問題点の検討が行われ、６月１１日「対日初期方針」を扱った、前述のSWNCC－１５０が完成する。<u><strong>１９４２年に国務省の片隅でスタートした極東班の草案が、３年近くの歳月と紆余曲折を経て、アメリカの国家方針にまで登りつめたのである。</strong></u>そしてそれは、憲法草案の指針となったSWNCC－２２８へとつながっていくが、そのSWNCC－２２８を書いた人物もヒュー・ボートンなのである。</p><br><p>　歴史には、派手な表舞台があれば、その裏には滔々と流れる伏流水もある。日本の戦後史を形成している占領政策は、終戦という区切りで伏流水が地表に現れたものといえよう。民政局の憲法草案作成作業は、その地下の水が短時間に吹き出た噴水のような現象ではなかったろうか？もちろん、憲法草案作成作業はは、他にいくつもの知的な流れを巻き込んで豊かな水脈の上で進んでいく。</p><br>（※鈴木昭典 『日本国憲法を生んだ密室の九日間』 創元社 １９９５年　９４－９７ページ。）<br><br><br><p><strong><br></strong></p><p><strong><br></strong></p>
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<link>https://ameblo.jp/ssatonaga/entry-11173328331.html</link>
<pubDate>Thu, 23 Feb 2012 17:41:55 +0900</pubDate>
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<title>日本国憲法草案の原型が見える・・・。</title>
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<![CDATA[ <p>　CAC１８５＝PWC１５２ｂ「軍国主義の排除と民主的過程の強化」の文書の中には、憲法草案の原型を発見するという意味から、が興味深い部分がある。</p><br><p>[１]問題</p><p>[２]軍事機構の破壊</p><p><strong>[３]軍国主義の再興を阻止するための措置</strong></p><p><strong>[４]基本的政治改革の開始</strong></p><p><strong>[５]補完的要因</strong></p><br><p>の５つのパラグラフから成っている。その内[３][４][５]が特に注目される箇所である。</p><br><p>[３]の必要条件として、治安維持法などの悪法の廃止と、大政翼賛会、黒竜会など超国家主義の根絶、それに民主主義発展の条件として、経済復興とリベラルな勢力の育成を掲げ、さらに具体的に、次のような措置を勧告している。</p><br><p>（１）新聞、ラジオ、映画の自由</p><p>（２）言論の自由</p><p>（３）自由主義的教育に対する統制の解除</p><p>（４）新聞、ラジオ、映画を通しての民主主義における個人的自由の意義の説明</p><p>（５）政党、労働組合、消費者団体等の奨励</p><p>（６）地方議会の拡充</p><p>（７）国民選挙その他の方途による将来の政治体制についての国民的意思の表明</p><br><p>　また、[４]基本的政治改革の開始については、さらに次のような４つの項目に分類して説明されている。</p><br><p>　第１に、衆議院の権限の乏しさを改め、首相と内閣が、予算面で国民に選ばれた代表機関である議会に完全に依存するよう変革するとｓｈちえ、国会の権限強化を掲げている。</p><p>　第２には、「戦後日本に陸海軍を保持させるべきでないという、広汎な合意が現在存在してはいるが、それにも関わらず、もし日本が何らかの軍事機構を後に認められるに至るならば、その場合、軍部大臣の武官制も廃し、文民制を条件とすることが絶対に必要である。」</p><p>　第３は、基本的人権の強化と個人の地位の尊重。</p><p>　第４は、裁判所が司法大臣と警察に支配され過ぎていた弊を改め、自立した民主的な裁判制度を樹立する。</p><br><p>この文書は、１９４４年４月２９日に作成されている。</p><p>[５]の補完的要因からは、ボートン博士の人柄を思わせるような、日本に対する暖かい配慮が読み取れる。</p><br><p>（１）諸国民の家族のなかの一員として、平和的な日本が責任を果たすことを認める（自律的に戦争の贖罪を行</p><p>ない、賠償などの責任をとること）という連合国の意図を、連合国の行動によって日本国民に確信させる必要がある。</p><p>（２）日本に世界経済への参加を保証し、将来に希望を持てるようにすること。「耐えがたい経済条件」は民主主義の発展を不可能にする。</p><p>（３）国際的安全保障体制や国際組織の樹立により、太平洋と極東の安全を計り、非軍事化される日本の不安を除かねばならない。</p><br><p>　<strong>要するに、日本が非軍事化と民主化を進めるにあたって、条件を整備してやらないと、日本は動きようがないと言っているのである。</strong></p><br><p>（※鈴木昭典 『日本国憲法を生んだ密室の九日間』 創元社 １９９５年　９１－９４ページ。）<br></p>
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<link>https://ameblo.jp/ssatonaga/entry-11172110253.html</link>
<pubDate>Wed, 22 Feb 2012 11:41:30 +0900</pubDate>
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<title>アメリカの国家方針となる知日派の文書</title>
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<![CDATA[ <p><font size="2">　国務省も戦後日本をどうするかという要請を受けて組織が拡大していく。</font></p><p><font size="2">　１９４４年２月には、戦後計画委員会（PWC）が置かれ、それまで下部のワーキング・</font><font size="2">グループと上部をつなぐ組織として、それなりに機能してきた「領土小委員会」は、極東での問題が大きくなるにつれて欧州担当と区別する必要が生じた。</font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2">　その結果「極東に関する部局間地域委員会」となって積極的に活動を開始する。このあたりの組織の変遷は、戦争の局面と呼応して実に複雑に変わっていく。</font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2">　極東班が極東局と変わり、特別政治局の地域調査部に属していたブレークスリー、ボートンの作成する文書も、内部の参考資料という段階を越え、重要な役割を果たすようになる。</font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2">　文書は、Tシリーズの内容を基礎に、「国と地域の諸委員会（CAC）」というクレジットのついた新しいシリーズに生まれ変わっていった。CACの文書は、占領政策に具体的に反映するという前提で、まず予備草案が書かれ、それが戦後計画委員会（PWC）で討議され、正式の文書に書き直されいる。</font></p><p><font size="2"><br></font></p><p><font size="2">　数多い文書の中で最も注目されるのは、CAC１１６「米国の対日戦後目的」である。</font><font size="2">これはブレークスリー博士のT３５７「日本の戦後処理に適用すべき一般諸原則」が姿を変えたものだが、その格調高い文章のなかには、ポツダム宣言の重要な条項がほとんど網羅されている。</font></p><p><font size="1"><br></font></p><p><font size="2">----------------------------------------------------------------------</font></p><p><strong><font size="4">米国の対日戦後目的　（CAC１１６＝PWC１０８）</font></strong>１９４４年３月１４日</p><br><p><strong>１、領土的目的</strong></p><p>日本は、、満州、委任統治諸島および軍事占領下の全地域より撤収する。朝鮮、台湾、および第一次大戦の開始後に獲得した全諸島を日本は奪われる。</p><br><p><strong>２、軍事的目的</strong></p><p>日本が米国および他の太平洋諸国に対する脅威となることを阻止する。この目的達成のため、武装解除、軍事的監視、経済活動の統制、および連合国が安全保障のため不可欠とみなす特定産業の長期的制限、などの措置をとる必要がある。</p><br><p><strong>３、経済的・財政的目的</strong></p><p>国際的安全保障上必要な制限の枠内で、また賠償問題を考慮しつつ、日本は非差別の原則にもとづく世界経済の発展に与えることを許され、徐々により高度な生活水準に向かうことができる。</p><br><p><strong>４、政治的目的</strong></p><p>他国の権利と国際的義務を尊重する政府を日本に樹立することが、アメリカの利益にかなう。それは、軍部支配から自由であり、平和の維持を望む文民によって支配される政府でなければならない。そのため、①陸海軍から政治的特権を剥奪すること、②新聞とラジオを通して、民主主義諸国との間に知的コミュニケーションの自由を確立すること、③日本の穏健派政治勢力を強化する措置をとること、が必要である。</p><br><p><strong>５、終局的目的</strong></p><p>太平洋地域における平和と安全の条件を高めるため、諸国民の家族のなかでの、完全にして平等なる一員として、友好的な日本を復興することが、米国の終局的な目的である。米国は、日本を含む世界の諸国民が、国内的・国際的生活に於いて、平和と協調と繁栄に向かうことを願うものである。</p><br><p>（五百旗頭真著『米国の日本占領政策』より）</p><p>-------------------------------------------------------------------------------</p><br><p>（※鈴木昭典 『日本国憲法を生んだ密室の九日間』 創元社 １９９５年　８９－９０ページ。）<br></p><p><br><br><!-- google_ad_section_end(name=s1) --></p>
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<link>https://ameblo.jp/ssatonaga/entry-11169550496.html</link>
<pubDate>Sun, 19 Feb 2012 17:27:33 +0900</pubDate>
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<title>【完売御礼!!】今年もタンカンをご愛顧戴き、誠にありがとうございました。</title>
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<![CDATA[ <p>　今年は、昨年、奄美地方を襲った２度の大型台風の影響で、タンカン<img alt="オレンジ" src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/076.gif" width="16" height="16">は不作でしたが、無事、今年も完売御礼<img alt="！！" src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/176.gif" width="16" height="16">と相成りました。ヾ(＠^▽^＠)ﾉ<br></p><p>  誠にありがとうございます。m(．．)m</p><p>　しかしながら、毎年毎年、女性客を中心にリピート・ファンを獲得しているタンカン<img alt="オレンジ" src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/076.gif" width="16" height="16">はマダマダ、広がりそうな気配だ。　</p><br><p>  今年も、「もうそろそろタンカンの時期じゃないですか？」、「（今から）来年もよろしくお願いします。」、「（男性客から）美味しいのに、お店で売ってないから、是非、大規模販路に載せるべきだよ！」との問い合わせがある。</p><br><p>　今から、来年のタンカン<img alt="オレンジ" src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/076.gif" width="16" height="16">の豊作を願ってやまない状況である・・・。「台風<img alt="台風" src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/162.gif" width="16" height="16">よ、今年は奄美地方に来るな～<img alt="！！" src="https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/176.gif" width="16" height="16">」と祈るしかない・・・。　　ﾟ･ﾟ*･(ﾟOﾟ(☆○=(｀◇´*)o</p><br><p><br><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120217/17/ssatonaga/3d/d5/j/o0800060011799698724.jpg"><img style="WIDTH: 393px; HEIGHT: 313px" border="0" alt="里永尚太郎のココロ想うままに！！" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20120217/17/ssatonaga/3d/d5/j/t02200165_0800060011799698724.jpg" width="393" height="313"></a> <br></p><br><p>　</p>
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<pubDate>Fri, 17 Feb 2012 17:08:40 +0900</pubDate>
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<title>対日初期占領政策の策定や日本国憲法草案の作成に至るアメリカのインテリジェンスとは！！</title>
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<![CDATA[ <p>　対日初期占領政策の策定や日本国憲法草案の作成に至るアメリカのインテリジェンスが、どんなものであったか、また、日本が戦争に明け暮れていた同じ時期に、アメリカ国内で、何が、どういう考え方で準備されていたのかを知っておく必要がある。</p><br><p>　まさに、米国は戦争の真最中に、同時に日本占領の準備も同時に始めていたのである。日本が戦局に一生懸命、精一杯、だった頃に・・・・。</p><br><p> ↓非常に解り易いので、その部分を下記に引用する。</p><p> </p><p>------------------------------------</p><p><strong>　戦局が展開していくほどに、陸軍省の中にも占領地域の民政に関する準備が必要だとの声が出はじめる。</strong>すでに１９４２年５月に、シャーロットビルのバージニア大学の中に、陸軍軍政学校が置かれ、軍政官の教育が行われていた。</p><br><p>　しかし、広大な占領地域の民政を考えると膨大な要員が必要になる。占領後の日本の民政には、３，０００人の将校と９，０００人の民間人が必要と計算された。そのために、<strong>１９４３年からハーバード、スタンフォード、エールなどの主だった大学に軍事要員養成所を置き、大学の助教授クラスの人材を民政要員として養成した。</strong>あのドナルド・キーン教授、サイデンステッカー教授、オーティス・ケリー教授ら錚々たる日本研究者は、すべてこのコースで日本占領要員として日本語を鍛えられた人たちである。</p><br><p>　この人たちを教育するプログラムを作成するためにも、占領統治の技術や日本に関する基礎知識の整理と、戦後日本をどう処遇するかの基本がどうしても必要になった。</p><br><p>１９４３年４月に、陸軍省は民政部を置き、それら基本方針作成のための実務的な作業に乗り出した。しかし、武骨な軍人集団で、しかも現実に戦争を展開している統合参謀本部にとって、これは手に余る事柄であった。このような高度な政治問題は、ホワイトハウスか国務省に資料を用意してもらうしか方法はなかった。そして膨大な条項の質問が国務省に届けられた。</p><br><p>その内容は、</p><p>・「占領をどの範囲にするのか？」</p><p>・「それはアメリカだけが担当するのか？」</p><p>・「占領はいつまでなのか？」</p><p>といった原則的なことから、</p><br><p>・「日本政府の権限はどうなるのか？」</p><p>・「政党は解散すべきか？」</p><p>・「悪法は無効にすべきか？」</p><p>・「信教の自由に神道は含めるのか？」</p><p>・「天皇の地位はどうするのか？」</p><p>などなど、多岐にわたっていた。</p><br><p><strong><u>これらの質問に答えることは、まさに日本をどう再生させるか、ひいてはその新しい憲法をデザインすることそのものだった。</u></strong></p><br><p>（※鈴木昭典 『日本国憲法を生んだ密室の九日間』 創元社 １９９５年　８６-８７ページ。）<br></p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ssatonaga/entry-11146401399.html</link>
<pubDate>Thu, 26 Jan 2012 09:57:11 +0900</pubDate>
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<title>アメリカの戦略的大局観を学べば学ぶほど・・・。</title>
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<![CDATA[ <p>　アメリカは戦前・戦中から、日本がファシズムに至った経緯を客観的に明確に分析していた。</p><p>　しかも、戦中から占領後の日本の体制改革まで体制を整え始めている。</p><p>　その研究の積み重ねがあったため、日本国憲法草案も９日間という短期間で、まとめることが出来たのだろう。</p><p>　</p><p>　「今思えば・・・」という話になってしまうが、アメリカの戦略的大局観を知ることによって、今もなお引き続いている日本の先の戦争観もまた違った景色が見えてくる。それは、小生だけであろうか・・・。(→o←)ゞ</p><br><p>　関連部分を以下に引用する。</p><br><p>------------------</p><p>　１９４３年の夏までに上部機構の領土小委員会に提出されたTシリーズと呼ばれる文書群は、アメリカ国立公文書館に保存されているが、占領の枠組みについてばかりでなく、さまざまな角度から検討している。これらの文書が、日本に無条件降伏を要求するカイロ宣言（１９４３年１１月２７日）以前にすでに書かれていることを考えると、いっそう興味深い。</p><br><p>　<strong>T３５７</strong>という「日本の戦後処理に適用すべき一般原則」（）ブレイクスリー博士）を見てみると、ポツダム宣言の文言の原型や、憲法草案に反映した考え方が、この段階ですでに見える。</p><p>-------------------</p><p><strong>　例えば、日本が和解するための条件として、軍事占領地の満州はもとより、領土として持っている朝鮮や台湾は、「国家と民族自決の原則」の上に立って独立すべきであるとし、軍事力については、「日本が再び国際平和の障害になることを防ぐ」ことを絶対的な原則に置いている。</strong></p><p>　そして、その原則の実現のために、<strong>「日本の軍備撤廃」、「重工業の抑制」、「常設の国際軍事査察組織の設立」</strong>などを考慮すべきだと書かれている。</p><p>　その条件を満たすために、政治・経済については、やむを得ず厳しい立場をとることになるが、「日本国民が繁栄できないような状況に追い込むべきではない」として、日本が平和的である限り「世界の天然資源の利用や、貿易への平等な参加の機会は与えられるべきである」と、温かい気遣いすら感じられる。</p><p>　そして「究極の目的」は、「国際的な組織による効果的な防衛制度によって守られた、平等な世界ファミリーの一員として復活してほしい」と結ばれている。</p><p>-------------------</p><p>　また、<strong>T３５４</strong>のロバート・フィアリーが書いた「戦後日本経済の考察」にも次のように書かれている。</p><br><p>　＜日本は経済的安定のために国内改革を遂行せねばならない。地主制と小作制度は長年の積弊であり、農地改革の必要は日本国内でも認められている。しかし終極的には農村の過剰人口を工場労働者として吸収する以外に解決はない。産業部門については、約７割の工場生産と貿易を支配する四大財閥とその他数個の財閥を解体せなばならない。＞（五百旗頭真著『米国の日本占領政策』）</p><br><p>　この最後の財閥解体の部分については、その後書いた<strong>T４７０</strong>で撤回しているが、<strong><u>当時の米国内の強硬派の主張であった「日本から近代産業を奪い去り、貿易も禁じ、農業経済レベルに後退させる」という方針をとった場合、日本の全人口の４分の１は死滅することになると主張している。</u></strong></p><br><p>　ロバート・フィアリー氏に、日本の財界人はもっと彼に感謝しなければならないだろう、と著者の鈴木氏は触れている。</p><p>------------------</p><p><strong>　T３５８</strong>のヒュー・ボートン博士が書いた「日本－最近の政治的発展」（１９４３年７月２８日）では、</p><p>　＜軍部への優先や、東条首相のもつ独裁的権力の集中は、明治２２年発布の、君主制が確立された大日本帝国憲法の枠組みの中で達成された。＞という書き出しから始まり、日本が軍国主義へ傾いていった道筋をたんねんに追っている。</p><br><p>　＜陸軍大臣と海軍大臣は、天皇に直接上奏するという習慣が認められている。したがって両大臣は、奏上した軍事的に重要なこと以外を内閣総理大臣に報告する。この軍部の独立した権限は、大日本帝国憲法の第１１条（統帥大権）と第１２条（編制大権）で明白にされている。＞</p><br><p>　＜その結果、軍部は政治的に力を持つことになり、軍事的な政策、方針を政府に強制することができた。そして、日本現代史に特徴的な「外交の二元化」という現象を生み出した。たとえば昭和６年から外務省は、日本は満州や中国大陸で拡張的な意思を持っていないと強調していたにも関わらず、陸軍は同じ時期に違う目的で行動した。＞</p><br><p>さらに、</p><p>　＜陸海軍大臣現役武官制は、軍の好まぬ政策を内閣が遂行することを阻止できた。普通選挙制度が実施された１９２０年代中葉以降においても、憲法が議会に与えた乏しい権限に加えて、治安維持法が強化され、官憲の選挙への介入が広汎に行われて、政党政治に対する国民の信望は十分に強化されなかった＞</p><br><p>と日本の誤った歴史が、憲法とそこから発した制度にあったことを指摘している。</p><p>----------------</p><p><strong>　T３８１</strong>のヒュー・ボートン博士が書いた「日本の戦後の政治問題」は、<strong>＜軍部が二度と優位を奪えぬよう、日本の国内政治体制は再編成されねばならない。＞</strong>と制度の変革を主張している。つまり憲法改正である。</p><br><p>　そしてその骨子は、</p><p>（１）内閣の強化と軍部の抑制</p><p>（２）議会の強化</p><p>（３）天皇制の存続と改正</p><p>（４）報道の自由と権利章典（基本的人権の尊重）</p><br><p>　で、この数年後、GHQが書いた憲法草案の原則が、この時点ですべて書かれている。ボートン博士にこの文書を書いた頃のお話によると、</p><br><p>「憲法の文章を書き換えるだけでは、日本の政治体制を改めることはできない。それは日本には法による統治よりも人による統治の歴史があるからで、日本人の考えを変える最も効果的な方法は、力によるやり方よりも道義的説得だと主張した」</p><br><p>「それに日本人は、優れた外来文化を素直に学ぶ一面も持っているので、民主主義のよさに触れるきっと砂漠が水を吸うように吸収するに違いないと考えた」</p><br><p>その一例として、「薩英戦争の時、イギリスの軍艦にさんざんやられた薩摩の武士たちが、その翌日には、威力抜群の大砲を勉強するために軍艦に押しかけてきた」という話を、愉快そうにされた。</p><br><p>日本にファシズムをもたらしたあまりにも悪い構造が、対岸から見ればわかりやすかったのかも知れない。</p><br><p>（※鈴木昭典 『日本国憲法を生んだ密室の九日間』 創元社 １９９５年　８０－８６ページ。）<br></p><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/ssatonaga/entry-11143643135.html</link>
<pubDate>Mon, 23 Jan 2012 09:55:01 +0900</pubDate>
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