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<title>考福学 （宗教じゃないっすよ）</title>
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<description>長寿で幸福度が高い福井県に引っ越して、その秘密を探っております。幸福について考えたことと、趣味の観葉植物について書いていこうと思っています（＾-＾</description>
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<title>桑田佳祐はまず自分がやってみせなきゃいけない</title>
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<![CDATA[ <font size="4">ピースとハイライトの歌詞に、<br><br>♪　絵空事かな？おとぎばなしかな？<br>　　互いの幸せ願うことなど<br><br>や、<br><br>♪　色んな事情があるけどさ<br>　　知ろうよ　互いのイイところ！<br><br>などと日本と韓国の関係を皮肉るフレーズがあるけど、だったらまず桑田が長渕剛と仲良くしてみせなきゃいけないと思う。<br><br>「ビールかけてすみませんでした」と謝罪と倍賞ができたら世界平和への一歩になるのかもしれませんねぇ。</font>
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<pubDate>Tue, 03 Feb 2015 00:08:49 +0900</pubDate>
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<title>長渕剛の価値観と、桑田佳祐のスタンス</title>
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<![CDATA[ <center><iframe width="459" height="344" src="https://www.youtube.com/embed/WJl2Rcg4aEo" frameborder="0" allowfullscreen></iframe></center><br><br><font size="4"><br>原案・主演を長渕剛がやったドラマ「とんぼ」の第一話に、サザンの曲について長渕剛が「そんな糞みたいな歌消せ！日本人をなめ腐ってやがるな！この野郎！」というシーンがあると話題になっていたので、これについて私も私見を述べたいと思います。<br><br>最近桑田が日本を愚弄していると話題になりましたが、桑田と長渕の不仲は以前からのことで、ライブで茶化されたからというエピソードも聞いたことがありますが、昔から国家観の違いが大きな原因であったのだと思います。<br><br>私はやはり長渕剛の方が好きですが、最近は桑田のなんでも茶化す姿勢もわかるような気もします。<br><br>愛国だ義理だと真面目に考えたり語ったりしているつもりでも、実はただの保身だったり自分に酔っていたりするだけのことがあって、常に自分も含めて何もかも「ほんとにそうかい？」と軽く茶化す気持ちで見つめ直すことも必要だと思うのです。<br><br>それでもやはり私は義理堅さを美徳とし、真面目に生きるべきとする日本人の価値観が好きですし、たくさんの人が安全で幸せな暮らしを続けていくためには義理や規律を重んじるかつての日本人ようでなければならないと思うので長渕剛の発信力を強めるべきだと思います。<br><br><br>さて、問題のシーンは、４１分頃からです。<br>サザンの歌が流れ、<br>エイジ（長淵）「おい！なんだそれ！？」<br>ツネ（哀川）　「今、一番売れてるんですよ！」<br>エイジ（長淵）「消せ！」<br>ツネ（哀川）　「あれ？嫌いですか？」<br>エイジ（長淵）「そんな糞みたいな歌消せ！日本人をなめ腐ってやがるな！この野郎！」<br></font>
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<pubDate>Sun, 01 Feb 2015 22:44:39 +0900</pubDate>
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<title>私が私と思っている者は</title>
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<![CDATA[ <font size="4"><br>「キミじゃなきゃ、ダメなんだ。<br>　そう言われることが、人生で何回あるだろう」<br><br>骨髄バンクへのドナー登録を促すＣＭでの一言目のフレーズです。<br>そして、ドナー登録の必要性を説いたうえでこう続きます。<br><br>「僕にしか救えない、命がある」と。<br><br>キミだとか、僕だとか、果たしてその表現は適切なのか疑問です。<br>必要とされているのは、欲せられているのは、“キミの造血幹細胞”であって、それは“キミ”や“僕”なのかと。<br><br>「どうせ体が目的なんでしょ」という定番のセリフがありますが、それに近いものを感じ、そしてそれの方がまだマシかなと思いました。<br><br>見た目や本能的な部分だけで求められること。<br>それは求められる側が持っているものが、例え原始的なレベルであっても好かれています。<br><br>しかし、自分のパーツに合うから他者のパーツを借りる（時には奪う）というのは、細胞レベルで言えば好かれていると言えるかもしれませんが、前述の原始的なレベルよりもさらに感情や意識から遠いレベルでのことです。<br><br>そんなレベルで好かれても…と思いますが、私の細胞はこれを書いている（と思っている）私の価値観を「くだらない」と感じているのかもしれません……<br><br><a href="http://www.ad-c.or.jp/campaign/support/03/" target="_blank">http://www.ad-c.or.jp/campaign/support/03/</a><br><br><br></font>
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<link>https://ameblo.jp/ssyone/entry-11782542744.html</link>
<pubDate>Wed, 26 Feb 2014 22:37:49 +0900</pubDate>
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<title>ピタゴラトープ鉢が天空の城ラピュタに</title>
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<![CDATA[ <font size="3">トイレタンクの手洗い管の水で観葉植物を育て、その観葉植物はトイレの空気を浄化するというピタゴラスイッチ的でビオトープ的な素敵なものを作ってみたのが、さかのぼること２ヶ月ほど前のこと。（ちなみにピタゴラスイッチもビオトープもよくわかっておりません）<br><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20131105/01/ssyone/79/98/j/o0800045312739244117.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20131105/01/ssyone/79/98/j/t02200125_0800045312739244117.jpg" alt="考福学 （宗教じゃないっすよ）-ピタゴラトープ鉢" width="220" height="125" border="0"></a></div><br><br>トイレに行ってみると、便器の奥に黒いものが溜まっておりました。<br>もしやこれは『ピタゴラトープ鉢』（私命名）になにかあったのではないかと思い、裏面を見てみると根がビッシリと張っており、天空の城ラピュタのような状態に……<br><br><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20131105/01/ssyone/9d/71/j/o0800141212739244118.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20131105/01/ssyone/9d/71/j/t02200388_0800141212739244118.jpg" alt="考福学 （宗教じゃないっすよ）-天空の城ラピュタ状態" width="220" height="388" border="0"></a></div><br><br>そして鉢の主な構成物であるパームマットには穴が……（おそらく水で弱ったところを根が突き抜けてバルスしてしまったものと思われる）<br><br>いやビックリです。<br>植物が根を張るのって、こんなに早いものなんですね。<br><br>とりあえず応急処置を施したのでhideのHURRY GO ROUNDはって寝ますおやすみなさい。<br>つ<a href="http://youtu.be/d_2kM8I4Ofc" target="_blank">http://youtu.be/d_2kM8I4Ofc</a><br></font><br><br>♪　ツタの葉密やかに　根を広げた頃に<br>　　目に映る景色は　音もなく過ぎ去る<br><br>　　ひとつ　季節巡り<br>　　そっと枯れ落ちたとて<br><br>　　ツタは絡まり　身は朽ち果てて<br>　　思い出の欠片　土に帰り<br>　　また花となるでしょう<br><br>　　Like a merry-go-round &amp; round<br>　　また春に会いましょう
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<pubDate>Tue, 05 Nov 2013 01:27:45 +0900</pubDate>
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<title>リーガルハイが突きつけた法のあり方問題</title>
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<![CDATA[ <div align="center"><font size="5"><br>リーガルハイで出てきた、法のあり方に関する問題です。<br><br>「法は理想と共にあるべき」<br>　v.s<br>「法は現実に即しているべき」<br><br>これを解決するには、現実を理想に近づけることです。<br><br>つまりは法と教育をすり合わせていくことです。<br><br>しかし、急いで合わせようとすると、民族浄化や宗教弾圧とその反発を招き戦争になる。<br><br>戦争状態になると、多くの者にとっては理想とは反する状態となる。<br><br>ゆるーくゆるーく真綿で首を絞めるように、蛙が入っている水の温度を徐々に上げていくようにして、人を洗脳していくこと。<br><br>それは絞められる者、煮られる者を幸福にも不幸にもできる方法の一つなのかもしれない。<br><br></font></div>
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<pubDate>Wed, 23 Oct 2013 22:38:26 +0900</pubDate>
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<title>愛宕坂　灯の回廊</title>
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<![CDATA[ <font size="4"><div align="center"><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20131015/00/ssyone/13/52/j/o0800059312716493693.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20131015/00/ssyone/13/52/j/t02200163_0800059312716493693.jpg" alt="愛宕坂　灯の回廊" width="220" height="163" border="0"></a></div><br><br>足羽山北側にある愛宕坂で行われたイベント「愛宕坂　灯の回廊」へ行ってきました（＾-＾<br><br>情緒ある石段があんどんでライトアップされるというものですが、このあんどんの光源がＬＥＤでも電球でもなく、蝋燭であることにちょっと驚きました。<br><br>係の人が見回って蝋燭をかえているようです。<br><br><br><br>なかなか素敵なイベントだなと思いつつも、ミスチルの曲「もっと」の歌詞を思い出して、少しばかり考えさせられました。<br><br>思い出した歌詞は、<br><br>♪悲しみの場所に灯された裸電球に似た光<br>　それはほら吹きに毛の生えたにわか詩人の蒼い願い<br><br>というもので、悲しみの場所というのは旅客機が衝突して倒壊したワールドトレードセンターの跡地を指しているそうです。<br><br>この歌詞の意味はよく考えていなかったのですが、私は「アートだとか慰めだとか正当な理由めいたものをくっつけるが、実のところ自分が満足したいだけ。遺族は果たしてそれを望んでいるのか？それで死者が慰められるのか？」といった批判めいたものだと漠然と解釈していました。<br><br>しかし、検索してみたところ、そうではない解釈もあるようです。<br><br><br><br>いまのところ私なりの正解は出ていませんが、アートは時として人の気持ちを盛り上げ、慰めにもなるので、自分の満足のためであっても、無駄とは限らない。とも思っています。<br><br>アートのつもりじゃなく電気つけてても、そこを目指して虫が意気揚々と飛んで来て、それを狙って来たカエルが食にありつけることを考えると、無駄なようなものも、誰かの、何者かの役にたっているんだと思います。いや、思いたいだけかもしれませんが……<br></font>
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<pubDate>Tue, 15 Oct 2013 00:16:40 +0900</pubDate>
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<title>幸せになるためのヒントをくれた村田奈津恵さん</title>
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<![CDATA[ <font size="4">踏切内にうずくまる老人を助けて亡くなった村田奈津恵さん。<br><br>奈津恵さんが亡くなった踏切には、たくさんの花束が捧げられました。<br><br><br><br>さて、ニューヨークでは病院の待合室で倒れた女性が気付かれながらも放置され、中国では自動車に轢かれた子供が放置され、さらには生き残ると賠償額が大きいからと、わざと轢きなおすこともあるそうです。<br><br>日本人はこういった情報を見聞きして、自分だったらどうするかと考えて、自分もいざという時に助けてもらえないという不安や孤独を感じているように思います。<br><br>だから、いざという時のためと言っては貯金をするが、いくら貯金をしても不安や孤独感は払拭されず、幸福度は高まらない。<br><br>これが現状だと思います。<br><br><br><br>自分を助けてくれる、自分の葬式で本当に悲しんでくれるのは、家族や親しい人という限られた人だけだと感じているので、それ以外は同じ職場の人や近所の人でも、味方だとは感じていない。<br><br>これが日本の幸福度が低い主因の一つでしょう。<br><br><br><br>お金が無くなっても、本当に困ったら近所の人が助けてくれたり、自分が死んだたら近所の人が、市民が、国民が悲しんでくれる。そう思ったら、貯金なんかしなくてもさほど不安ではないし、孤独感もない。そして安心して死んでゆけることでしょう。<br><br>しかし、多くの日本国民は「自分を助けてくれる他人はいない」と思っています。<br><br><br><br>そんな時に村田奈津恵さんの話を聞いて、「そんな人がいたのか」と思った人がたくさんいたのでしょう。<br><br>奈津恵さんは、きっと自分がたくさんの人を愛しているから自分もたくさんの人に愛されていて、自分が死んだらたくさんの人が悲しんでくれる、そう感じていた人だと思います。<br><br>だから幸福度が高い人だったことと思います。<br><br>奈津恵さんの葬式で、いったいどれだけの人が本気で悲しんでいたかはわかりません。<br><br>でも、事故が報道されたことで、たくさんの人が花を捧げ、葬式にもたくさんの人が列席したことでしょう。<br><br>愛とは何かと考えると言葉が合っているかわかりませんが、奈津恵さんは他人を愛したことで、たくさんの人に惜しまれ、おそらくは死後もあらためて愛されたことと思います。<br><br><br><br>ツイッターなんかで奈津恵さんの行動に賛否があるのもわかりますし、私は前述の中国の問題についても肯定的な持論も持ち合わせています。<br><br>しかし今は、単純かもしれませんが世界中の人が全員同じタイミングで村田奈津恵さんと同じようになれたら、世界の幸福度は劇的に高騰すると思っています。<br><br><br><br>村田奈津恵さん、ありがとうございました。</font>
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<pubDate>Mon, 07 Oct 2013 00:22:17 +0900</pubDate>
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<title>宗教ってなに</title>
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<![CDATA[ <font size="4">日本で育った人には、<br><br>宗教　＝　怪しい集団、金儲けのための組織<br><br>というイメージを抱く人が多いと思います。<br><br>私もそう思っています。<br><br>これはオウムの事件などで日本人の多くに植えつけられた先入観の一つだと思います。<br><br><br><br>しかし、たまに<br><br>「なんのために生きて子供を残すのか」<br><br>などと考えを巡らし、“宗教は人類が発明した麻酔”であって、生存のために必要なものなのだな、と思います。<br><br><br><br>人類は子孫を残して文明を築き、その文明はやがて核戦争や氷河期によって滅亡します。<br><br>どうやらそんなことを繰り返しているようです。<br><br><br><br>なんのために子供を残すのでしょうか。<br><br>自分が寂しいから？<br><br>親に寂しい思いや心配をさせたくないから？<br><br>自分と自分が愛する者たちの生きがいのため？<br><br>そのために、いま自分が背負っている疑問を子供に背負わせ、自分の寂しさや悲しみを先送りにするのでしょうか。<br><br><br><br>若いうちに子供を作る人は、このあたりを考えずに作っている人が大半だと思います。<br><br>下手に歳をとるとよけいなことを考えてしまうし、そんなことを考えるようになった時点で、適正範囲を超えてしまっているのかもしれません。<br><br>「なんのために生まれてきたのか」<br><br>「なんのために子孫を残すのか」<br><br>こう考える時点で、その者は“進化し過ぎたもの”なのではないかと思うのです。<br><br>そう言うと、グルグル考えて独身のまま歳をとった私のほうが進化しているのだと擁護しているようですが、適正範囲におさまらないということは、失敗作なのではないかとも思っています。<br><br><br><br>繁殖し過ぎた故にブレーキの役割として生きることに疑問を抱くのかもしれませんし、発展と滅亡を繰り返すことがあるべき姿なのかもしれませんし、あるいは私の遺伝子は現在くらいまでに文明を発展させるまでの役割であって、ここから先は必要ないのかもしれませんが、どうやら私はわがままな生物で、自分の幸福に結びつかないことは「間違っているのではないか」と思うので、自ら命を絶つことや、繁殖をやめることは“過ぎたこと”なのではないかと思います。<br><br><br><br>そして、私がこんなふうに考えてしまうのは、我が民族を滅ぼそうとする他民族や、私がいる階層の人口を減らそうとする上層による情報操作のせいではないかとも思っています。<br>（こう思うのも、自分が生まれ育つうちに育まれた、おそらく愛と呼ばれる感情によるもので、これも信仰心と似たようなものでしょう）<br><br>考えてみれば、当たり前と思っていることも、脈々と受け継がれてきたことも、答が出ないことや矛盾したことばかりです。<br><br><br><br>映画マトリックスの世界のように、うまく騙され続けることが幸福に生きて死ぬために大事なことなのかもしれません。<br><br>真実を知りたいという欲求。<br><br>現時点の人類はこれを正しいことのように言いますが、それは単に自分の欲求を肯定しているだけと言えないでしょうか。<br><br>神とする存在に求めすぎてはいないでしょうか。<br><br>幼少期に全知全能のような存在であった親や自分の面倒を見てくれた者も、大人になって自分と同じ人間であったことを実感したはずです（できない人もいますが）<br><br>大人が作ってくれた砂場で遊び、親が用意してくれた家で過ごす。<br><br>いずれそれが当たり前になり、もっと面白いものはないかと、もっと自分が目指すべきところがあるのではないかと欲求は無限に広がっていく。<br><br><br><br>おそらくそれは滅亡への道を歩んでいるだけです。<br><br>適正範囲を超えることは不幸なことだというのが、現時点での私の自論です。<br><br><br><br>適正範囲を超えて考えることも滅亡への道を歩むことであり、それはきっと荷が重過ぎることでしょう。<br><br>なんのために生きるのかなど、過去にたくさんの賢人が考え、そして答は出ていないようです。<br><br>その答を自分で求めようなどというのは、きっと荷が重過ぎます。<br><br>だからその出口のない迷宮に便宜的なゴールを設け、「ここを目指してください」とするのが宗教なのではないかと思っています。<br><br></font>
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<pubDate>Wed, 02 Oct 2013 21:18:41 +0900</pubDate>
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<title>大善は非情に似たり、小善は大悪に似たり</title>
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<![CDATA[ <font size="4">京都府八幡市の事故について話すうちに、<br><br>「大善は非情に似たり、小善は大悪に似たり」<br><br>という稲盛和夫氏の言葉を思い出しました。<br><br><br>私が免許を取った頃は、かろうじていわゆる“鬼教官”と呼ばれるような人がいた時代でした。<br><br>今思えば、当時の指導員はいまの指導員よりも義務感があり、厳しくしたら仕返されるかもしれないという恐れや嫌われたくないという感情を抑えつけて厳しくしていたのだろうと思います。<br><br><br>それが最近では金のための形式ばかりの教習になってしまい、ひどいケースでは教習の途中で「今日はもういいよ」と言って決められたコースを走らないうちに終わってしまうそうです。<br><br><br>親は、大人は、生きがいであったり未来を託す存在であったりする子供たちのために、大善を実行する必要があるのです。</font><br><br><br><font size="3">※ただし大善をどの規模で考えるかで話は変わってきますが、そのあたりの話はまた別の機会があれば書いてみたいと思います。</font>
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<pubDate>Thu, 26 Sep 2013 23:09:09 +0900</pubDate>
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