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<title>ただっちのきくしか書×感</title>
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<description>もりも＆しののPodcast「きくかくしかじか」への個人的感想文です</description>
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<title>第20夜書感</title>
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<![CDATA[ <p>本書をきくしかで扱ってきて、15夜からのつながりで言えば、最後までただっち先生はただっち先生だったな、と思います(笑)。一般論にしたがるし、抽象的に語りたがる。お前はどんな体験をしてきて、いまどう感じてる、がない、薄いなあ、というのが、これまでのところも、この最終回に関しても、自分に対する「客観的」批判です。<br><br><br>対話。継続したコミュニケーションでもあるし、何度も「出会いなおし」があるものなんだ、ということだと思います。19夜でしのさんが言っていたように、どれだけ長く連れ添ってても、けんかもしますし。<br><br>今この瞬間が、後には戻れないものだ、という話。ただっちの愛の告白なのか、それとも、巻き込みやがったな、なのか(笑)。<br><br>あとは、ケアするただっちとしては、ケアという概念ですかねー。<br>もちろん、仕事としての出会いではあるのですが、ちょっとずつ、そしてどんどんケアにのめりこんでいったし、引き込まれていった。<br>「産まれたときには、誰でもお世話してもらわないと生きていられないのだがら、依存しない状態を自立と呼び、それを当たり前だと思うのは、ちゃんちゃらおかしい」なんて考えは、私にとってはパラダイムシフト以外の何物でもなく、それこそそれを知る前には戻れない、という概念との出会い、って感じでした。じわじわ、ちょっとずつでしたけど。<br>これから先、どんなことがあっても、このようなケアの概念との出会い、と自分とは、切って切り離すことはできないな、と思います。<br><br><br><br><br>はい。ヘビーリスナーが、ゲストとして、ブースに呼ばれて話す、みたいなことを経験し、さらにその放送を聞き直しての文章を上げる、というわけが分からないことをここまでやらせていただきました。<br>様々書いてきましたが、感想を、と聞かれれば、「いやあー、楽しかったぁ～」の一言に尽きると思います(笑)。<br>収録を通して自分が得たことは、本番でも語っていたように、自分の関心や何に重きを置いているかを改めて知れる機会になったということと、芸術家の自己をもっと大切にしてあげないといけないと思えたこと、染まるときには思い切って染まることも必要、という気づきなどでした。<br>しかし何よりも、準備も含めた収録に向かっている時間の一秒一秒が、かけがえのない時間になっていたな、と思います。<br>20夜の最後、自分の中の熱い／冷たいを外から眺める、他者とコミュニケーションしながら、自分と対話しながら、そして伊藤さん自身の生き方にもヒントをもらいつつ、「どう生きるべきか」を相互的に探究していく、という話になりました。<br>「きくかくしかじか」が、初めからずっとそうだったように、きくこと、かくこと、はなすこと、これらことば、そしてからだを使ってなされる何ものかは、必ず「生きる」とつながっているということのあくなき再確認をしていくこと。<br>その大きな流れの中で、あちこちに引っかき回しつつも、最後まで一冊を語り終えられた、ということは、自分の人生にとってのこの上ない喜びだったと、間違いなく言えます。<br>この場を借りて、あらためて、しのさんともりもさんに、最大限の感謝をお伝えしたいと思います。<br>本当にありがとうございました。<br><br>それではまた、「ケアする読書家ただっちのきくしか書感」、第21夜で皆様にお会いできることを、楽しみにしております。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><br>→聞き直しはこちらから</p><p>&nbsp;</p><div class="ogpCard_root"><article class="ogpCard_wrap" contenteditable="false" style="display:inline-block;max-width:100%"><a class="ogpCard_link" data-ogp-card-log="" href="https://open.spotify.com/episode/0wN6NAm08F98IBq2ZMpKXe" rel="noopener noreferrer" style="display:flex;justify-content:space-between;overflow:hidden;box-sizing:border-box;width:620px;max-width:100%;height:120px;border:1px solid #e2e2e2;border-radius:4px;background-color:#fff;text-decoration:none" target="_blank"><span class="ogpCard_content" style="display:flex;flex-direction:column;overflow:hidden;width:100%;padding:16px"><span class="ogpCard_title" style="-webkit-box-orient:vertical;display:-webkit-box;-webkit-line-clamp:2;max-height:48px;line-height:1.4;font-size:16px;color:#333;text-align:left;font-weight:bold;overflow:hidden">第20夜「人類学者と言語学者が森に入って考えたこと 」6</span><span class="ogpCard_description" style="overflow:hidden;text-overflow:ellipsis;white-space:nowrap;line-height:1.6;margin-top:4px;color:#757575;text-align:left;font-size:12px">きくかくしかじか · Episode</span><span class="ogpCard_url" style="display:flex;align-items:center;margin-top:auto"><span class="ogpCard_iconWrap" style="position:relative;width:20px;height:20px;flex-shrink:0"><img alt="リンク" class="ogpCard_icon" height="20" loading="lazy" src="https://c.stat100.ameba.jp/ameblo/symbols/v3.20.0/svg/gray/editor_link.svg" style="position:absolute;top:0;bottom:0;right:0;left:0;height:100%;max-height:100%" width="20"></span><span class="ogpCard_urlText" style="overflow:hidden;text-overflow:ellipsis;white-space:nowrap;color:#757575;font-size:12px;text-align:left">open.spotify.com</span></span></span><span class="ogpCard_imageWrap" style="position:relative;width:120px;height:120px;flex-shrink:0"><img alt="" class="ogpCard_image" data-ogp-card-image="" height="120" loading="lazy" src="https://i.scdn.co/image/ab6765630000ba8a6b63c6380459b1ffd40d3857" style="position:absolute;top:50%;left:50%;object-fit:cover;min-height:100%;min-width:100%;transform:translate(-50%,-50%)" width="120"></span></a></article></div><div class="ogpCard_root">&nbsp;</div><div class="ogpCard_root">&nbsp;</div><div class="ogpCard_root">&nbsp;</div><div class="ogpCard_root">&nbsp;</div><div class="ogpCard_root">&nbsp;</div><div class="ogpCard_root"><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20251219/19/st482622840/49/40/j/o3120416015731755868.jpg"><img alt="" height="560" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20251219/19/st482622840/49/40/j/o3120416015731755868.jpg" width="420"></a></div><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/st482622840/entry-12950602548.html</link>
<pubDate>Fri, 19 Dec 2025 19:48:18 +0900</pubDate>
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<title>第19夜書感</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>一番印象的な一幕。</p><p>18夜のただっち</p><p>「私はこう見てる。あなたはこう見てる。それでいい。」に関して。</p><p>→しのさん「それはちょっと寂しい」。分からないからこそ、分かってほしいって言ってもいいし、傷ついた言葉から自分を知ることもあるじゃないか。なので、大失敗しながら人と関わっていきたい。</p><p>&nbsp;</p><p>ここで思ったのは、ただっちのコミュニケーションは予防しすぎている、ということです。</p><p>&nbsp;</p><p>そして、後出しの言い訳みたいになりますが、ただっちの「それでいい」は、物分かりよく、割り切っていこう、という話でなくて、「差がある」、「だから対話していくし、もがいていく」という部分も含んだそれでいい、という言葉の意図だったように思います。</p><p>「差を埋める」のではなく、やはり「差を差として認める」ためのコミュニケーションではあるのですが、双方が妥協しない、という点では、非常に難しいことでもあるのかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>優しく正しいコミュニケーションだけが誰かを救うわけじゃない。「コミュニケーション能力」の否定。『聞くこと、話すこと』の再来ですね。</p><p>きくしかパーソナリティのお二人に比べて、ただっちは頭でっかちになりながら、「コミュニケーション失敗」の経験が、全く足りていないのだな、と思いました。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>『人類学者と言語学者が～』編は、自分の話ばかりしていますね・・・。</p><p>まあ、「ただっちの」書感なので、どうしても自分目線のことになる、ということで、お許しいただければ、と思います。</p><p>20夜まで、お付き合いくださいませ。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>→聞き直しはこちらから</p><p><a href="https://open.spotify.com/episode/3YfmSWcsDzN0ZLkZ6PwuYx">第19夜「人類学者と言語学者が森に入って考えたこと 」5 - きくかくしかじか | Podcast on Spotify</a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20251213/17/st482622840/9a/06/j/o3120416015729680843.jpg"><img alt="" height="560" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20251213/17/st482622840/9a/06/j/o3120416015729680843.jpg" width="420"></a></p>
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<pubDate>Sat, 13 Dec 2025 17:33:31 +0900</pubDate>
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<title>第18夜書感</title>
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<![CDATA[ <p>　もりもさんから、奥野さんのプロ奢ラレヤーさんに対する分析を読んでほしいと紹介されていますが、一方で伊藤さんのスタンスも非常に重要です。伊藤さんは、プロ奢ラレヤーがすり鉢から出ているのは確かだけど、奢るという行為がすり鉢のルールから出ていなかったり、すり鉢のルールが定着しているからこそ特別に見られたりするのだ、と指摘したうえで、自分はプロ奢ラレヤーと同じ方法ですり鉢から出られないから、「ぼくはこう出てみたよ」を実践してみたい、と言うわけです。そのために、ムラブリの感性を身に付けつつある、日本生まれの自分がどんな生き方ができるか挑戦したい、と。本当に、言語学者などとという枠は完全に超えてますよね(笑)。タイトルで、伊藤さんに「言語学者」というラベルを貼っていること自体が、間違いかも、と思うくらい。まあそれは置いておいて、プロ奢ラレヤーが資本主義的な日本社会を相対化していることは事実だけど、全員はそうすることはできないから、ならば、自分はどうするか。伊藤さんの地に足をつけた実践から、われわれも何かできることを探っていく必要性を考えさせられると感じます。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　ただっちの科学者の自己と芸術家の自己という矛盾した二つが同時存在する、のところは訂正する必要があります。二つあるから、二つある、と同語反復してしまっています。「世界は一つだから共有するまでもない」、と、「一人一人別の世界に住み同じものを見ていると感じることができない」、が同時に矛盾して存在していることが、結論、人が人とコミュニケーションをしようと思う動機なのである、ということを伊藤さんは言いたい。</p><p>言語によるコミュニケーションは、その矛盾から生まれている、と。</p><p>唯一絶対の客観的事実がある、という考えと、一人一人の見方は全く別だから、絶対に交わらない、の考えの間。そこに、人と人のコミュニケーションが生まれるきっかけがあるよ、と。「なるほどな」、と思ったと言っておきながら、全く説明できていなかった点、大変失礼いたしました。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>コミュニケーションには忍耐強さが必要だし、当たり前に人によって考えが違う中で、エネルギーも必要、という中で、それでもコミュニケーションしていくという、覚悟がいるもの。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　そして、16夜から続いて、『貫くもの』の中でお話ししたポリフォニーということ。完全に一致はしないけど、それでも私たち人間は、相手に語り掛ける存在なのだ。「違いを知る」というコミュニケーション。そこから何が始まっていくのでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>→聞き直しはこちらから</p><p><a href="https://open.spotify.com/episode/6bDdcnEeAnjUqyl6jjDYxE">第18夜「人類学者と言語学者が森に入って考えたこと 」4 - きくかくしかじか | Podcast on Spotify</a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20251213/17/st482622840/92/fa/j/o3120416015729678384.jpg"><img alt="" height="560" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20251213/17/st482622840/92/fa/j/o3120416015729678384.jpg" width="420"></a></p>
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<pubDate>Sat, 13 Dec 2025 17:28:32 +0900</pubDate>
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<title>第17夜書感</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>この収録の最後の部分、ただっちの、ここにきて「染まらない」発言はやっぱり問題だな、と感じます。</p><p>奥野さんも伊藤さんも民族の中にエイヤっと入っていくことで学ぶ、という方法論の人で、この本からは、その部分を学ぶべきだと考えれば、しっかり他者に当てられる、という経験や実践の必要性が問われているわけで、ただっちの修行不足が表れている個所かな、と思いました。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>この最後の個所で重ねてもう一つ加えると、ここのただっちは、もりもさんの話を聞いていないな、と思います。</p><p>「ただ巻き込まれるだけじゃなくて、自分の大事にしているものを守る、スタンスを守る」、という文脈でもりもさんは話していたのに、それに対して、ただただ相手に話を合わせる、レベルで「染まらない」という言葉を言い換えてしまっている。すり鉢になぞらえると、例えば上に上にと目指していくマッチョな考え方とか、効率重視の考えとかから、如何に距離をとっていけばいいのか、ということをもりもさんは話したかった部分だと思うのです。</p><p>&nbsp;</p><p>つまり、何に染まるのか、何に染まらないのか。</p><p>&nbsp;</p><p>絶対的な他者である、目の前の相手が、どんな世界を見ているのか。一度どっぷり浸かってみる。それが本書で紹介されていたパースペクティヴィズムでもあるわけです。そこから、例えば日本で生きていく上での「当たり前」から、距離を取る生き方を模索してく第一歩を踏み出す可能性が生まれる。当たり前、何となく社会の中で揺るがないとされているものに、あえて染まらない。森の民が、分かりやすく「我々」との差を示してくれるために、本書ではクローズアップしているけれども、「隣のあなた」と見ている世界が違う、ということを認めるだけでも、確固とした「当たり前」、「常識」なんてものは、そう思い込んでいるにすぎない、みたいなことに気づくきっかけになりえるはずです。</p><p>その意味では、収録の段階でのこの部分は、「惜しい」ところだったな、と改めて思いました。ただの反省と言えばそれまでですし、このように言い切ってしまうのも面白くないかな、と思いつつ。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>→聞き直しはこちらから</p><p><a href="https://open.spotify.com/episode/3ZCHhnx3qLrgHgKDJjSHsB">第17夜「人類学者と言語学者が森に入って考えたこと 」3 - きくかくしかじか | Podcast on Spotify</a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20251213/17/st482622840/c0/08/j/o3120416015729676383.jpg"><img alt="" height="560" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20251213/17/st482622840/c0/08/j/o3120416015729676383.jpg" width="420"></a></p>
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<pubDate>Sat, 13 Dec 2025 17:23:34 +0900</pubDate>
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<title>第16夜書感</title>
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<![CDATA[ <p>　「ジャパン」の中の他者。ここで言っておかなければならないと思うのは、私が、高齢者介護という業界に飛び込んでいった経緯です。この本の本編に入る前の番外編で、老人ホーム紹介の会社から、実際に介護をする老人ホーム側としての会社に移った、ということに軽く触れました。運営側の方も見てみたくなった、というのがその主な理由で、その動機は今も変わっていないのですが、漠然と、福祉の業界で働いている人が、どんな考え方で動かれているのだろう、という興味もあったように思います。で、中に入ってみると、やはり特殊な業界は特殊な業界で、非常に身体性の強い仕事なので、体の動かし方が鍵を握るということが実感できたり、特有の共通言語みたいなものが使われていたりするわけです。業界の特性上、海外をルーツに持つ方も多いですが、それらの方も含めて、高齢者介護を行っていくという目的において、介護現場ではそのような共通性をもった特殊な世界が展開されているように感じる。もちろん、現在のところ私は一生を介護という専門職にささげるつもりはないので、小さな会社のいち職場にすぎませんが、ある見方をすれば、介護という世界の参与観察をしているし、フィールドワークをおこなっていると自分で捉えることもできます。このように、同じ日本語という言語が話されている場所であっても、見方によって、全く違う世界だ、と感じることができる「フィールド」は身近にもある、と言いえる。人類学という枠でいうと、医療人類学などの分野も存在します。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　放送の中のただっちさんにツッコミをいれなければならないことがありまして、この本の中で使われている「多層的」という言葉は、二元論とか、固定された考え方から逃げるための、グラデーションとしての多層性である、という点です。後半少し、多層的な人格論に終始してしまっているところがありますが、この時の自分はこうだ、という人格が固定されてしまっていては、それは多層的でない、ということになってしまう。あくまでも、その時その時によって、少しずつ違う、という、一貫性がなく常に揺れ動いている自分をとらえることができるか、という話をしているということが重要なのだと思います。しかしながら、アイデンティティの固定はなされなくてもいい、ということ自体の流れは問題ないと考えられ、この少しの誤用から、第17夜の分人（ぶんじん）の話につながっていくことができた、と言うこともできます。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　パースペクティブという言葉自体は人間が作り出しものでしょ、というただっちのいちゃもんに反して、想像力は、人間特有のものではないという話をしているな、ということを感じます。ヒトが神話を語りだしたり、物語を紙に刻み付けたりするようになる、何億年も前から、多くの生物が、食べる、食べられないという目的のために、他者のまなざしを想像する、という行為はおこなわれてきた。その意味では、自分が捕食者によって食べられるかどうか、という視点なのだから、当然、利己的なものであるし、まさにいのちがかかっている状況のはずなのです。この論理では、完全にしのさんに軍配が上がるような気がします。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　その後の話の流れでは、とことん、しのさんとただっちとの考えが交わらないまま平行線をたどっていった、という向きがありますね。</p><p>ただっちがインタビュー論で言いたかったのは、人や人の話を道具・手段にしない、ということだったのだと思います。人の話を人の話として聞く、声を拾う、ということは、そこで話されることが、「聞かれる」という、人の尊厳にかかわる実践。その意味では、ただっちの「きく」は完全にケア実践における傾聴に振り切っていると言うことができると感じます。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　唐突なただっちの話。相手の立場に立ったり、自分が経験しえないことについて知ろうとするのはなぜ、の部分で、面白くないな、と思ったのは、ただっち自身が、マジョリティとして固定した自我を認識してしまっている、ということです。ここで出てきた話でいえば、シスターヘテロの男性というアイデンティティは揺るがない、そのうえで、という話になってしまっている。しかしそれは、『言葉の魂』でいえば、「常套句」的なものなのではないでしょうか。人の自我が「多層的な」自我であるならば、たった一つのマジョリティ性で成り立っている人間なんていない。誰しもマジョリティ性とマイノリティ性を抱えてその中で生きているのであって、自分がマジョリティだ、という断定は、その先に議論が進まない最大の要因になってしまいかねません。その意味では、後から聞き直して、ただっちにはもっと揺らいでほしかったし、なぜ人はパースペクティヴィズムを求めるのか、ということについて、深いところで一石を投じてほしかったな、という部分ではあります。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>→聞き直しはこちらから</p><p><a href="https://open.spotify.com/episode/07vthEWS9GCi5YEjNQCfAm">第16夜「人類学者と言語学者が森に入って考えたこと 」2 - きくかくしかじか | Podcast on Spotify</a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20251213/17/st482622840/2c/c3/j/o3120416015729672339.jpg"><img alt="" height="560" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20251213/17/st482622840/2c/c3/j/o3120416015729672339.jpg" width="420"></a></p>
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<pubDate>Sat, 13 Dec 2025 17:12:44 +0900</pubDate>
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<title>第16夜から第20夜を貫くもの</title>
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<![CDATA[ <p>ポリフォニーと、「人の顔が全く覚えられないんだ」</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　『人類学者と言語学者が森に入って考えたこと』編では、新たな試みとして、あとの回で出てきた話によって、前の回から語りなおす、ということをしてみたいと思います。私ただっちが、象徴的だな、と思った話は、第19夜、しのさんの、親友から「人の顔が全く覚えられないんだ」と打ち明けられた話と、第20夜で自分が話したポリフォニーの話です。そして流れ、常に動き変わり続けている私たち。「差を知る」対話、何を目指すわけでもない調和しない語りあいこそ、コミュニケーションの神髄に近いものが生み出されるフィールドになりえるのではないか、ということで、ここから始めてみたいと考えております。</p><p>&nbsp;</p><p>　第16夜。共感神話が強すぎる、という話が出てきます。共感しようとする態度が悪いわけではありません。ただ、表面上の共感、「わかるわ」と言った時の共感は、あくまでシンフォニーを目指すためのものであって、ポリフォニーというレベルでの対話には達していないことが多い。しのさんの、インタビューする時の利己的なもの、は、ある見方をすれば、私は私のままでしか、あなたの話は聞けないよ、という態度の尭明であるとも捉えられます。</p><p>真剣に対話する、ということは命がかかったこと。</p><p>この部分で二人が完全に了解できたわけではないと思いますが、「聞くこと」、「対話すること」の深淵さが垣間見れた一幕のような気がします。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　17夜。ただっちの部分的な誤読は、各夜の書感にゆだねますが、「染まらない」、相手に話を合わせすぎないための、ポリフォニー、でもあるとは思います。上記で「何も目指さない」と書きましたが、ポリフォニー的対話を達成するためには、「心地良い」ことを目指しすぎない、ことが大事な気がしていまして。シンフォニー（調和）を目指さない対話には、絶対に、違和感、とか相いれない感じ、とか一種のいびつさは、セットになってくると感じます。それが、もりもさんの言う「染まりすぎないようにしたいんだ」にどれほどマッチしているのかは分かりませんが、空気を読むみたいなところから、少し外れるためのヒントのようなものは、与えてくれていると思っています。もちろん、その相いれない発言をするための、安全性を担保できているか、という前提は必要だし、それが難しかったりする場面も多い気はするのですが。</p><p>&nbsp;</p><p>　18夜ただっちの「私はこう見てるし、あなたはこう見てる。それでいい。」論。後にしのさんから物言いは入るわけですが、やはりポリフォニー的なコミュニケーション、ポリフォニー的な人間関係を容認した発言ではあると思います。完全に一致しない、ということに関しては、身体性とか、ある種人間としての物質性みたいなものも関わりがある気がしています。今、この瞬間ここにある私の体は、誰と共有することもできない。後から、他人が同じ場所から見る、ということはできても、そこには時間の差が生まれるわけで、その瞬間その場所から見ることができるのは私だけ。だから、私の感覚はどうしても私だけのものなのです。そして、その絶望的な他者性を、乗り越えられないものとしつつも、少しでも近づこうとするのが、パースペクティヴィズムであるし、人がコミュニケーションを行う、「さが」みたいなものなのではないかと思います。それでも知りたい、伝えたい。</p><p>そしてこのあたりの話が、「人の顔を覚えられない」の話にゆるくつながっていったように思えます。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　19夜前半。しのさんの「私が聞きたい」という利己心はどこから来るのか、という話。対話をする、ということは、相手も自分も変わっていく、変化の只中にいる、ということなのだ、ということ。</p><p>身体性とも相まって、一回一回が絶対的な「他者」との出会いだし、そのつどのまだ見ぬ「自分」との出会いなおしでもある、ということ。</p><p>自分がこれから人とどう関わっていくか、ということについて、深い示唆を与えてくれます。難しい。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>上手に語りなおしをしようと試みたのですが、全くうまくいきませんでした(笑)。各夜の書感と行ったり来たりしながら、少しでも皆様の考えを深めることに寄与できましたら、嬉しいです。お付き合いいただきありがとうございました。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20251213/16/st482622840/dd/f9/j/o3120416015729666033.jpg"><img alt="" height="560" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20251213/16/st482622840/dd/f9/j/o3120416015729666033.jpg" width="420"></a></p>
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<pubDate>Sat, 13 Dec 2025 16:57:22 +0900</pubDate>
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<title>第15夜書感</title>
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<![CDATA[ <p>　月夜の静寂からこんばんは。改めましてただっちと申します。</p><p>　もりもさんとしのさんが収録するポッドキャスト「きくかくしかじか」に対し、私なりの文章をお届けする「ケアする読書家ただっちのきくしか書×感」。『言葉の魂の哲学』番外編をはさんで、十五夜になりました。これを書いている時期は全然秋じゃないですが・・・。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　大変恥ずかしながら、本編でいうと今回から、執筆者である私自身がゲストとして、ポッドキャストに出演させていただいております。取り上げている本は、『人類学者と言語学者が森に入って考えたこと』です。収録時の裏話ではなく、とはいえ放送の登場人物の一人として、フラットな気持ちで後から聞き直してみたときに感じたこと、を中心に書いていこう、と現時点では思っています。初志貫徹できなかったらすみません(笑)。</p><p>それでは今回もはりきっていきましょ～</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　・・・と、元気よく始めてみたものの、えー、早速ポッドキャストでのただっちの語りを客観的に聞いたときに、「ただっちの先生感」がキクシカの対話的な雰囲気にはやっぱり合ってないな、と思って、収録に慣れてない感、もうちょっとどうにかしてほしいな、というのが聞き直してみての感想です(笑)。ポッドキャストという媒体自体も、ほぼどんな人でも発信できるという状態になっている現在、固めのフォーマルな内容のものから、本当に個人的な語りというものまで、様々なレベルがあるなかで、同じ内容を喋るにしてもその「語り方」で、雰囲気とか、リスナーからの印象とかは思いっきり変わるよな、と思った、自分の声の聞き直し体験でした。ゲストではありますが、今後のただっちに期待、で。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　しのさんが、ボルネオとタイ・ラオスの地理的な近さを指摘されたことは、文化人類学関係の話をするにあたってはとても良い導入になったな、と思っていまして、民族同士、人同士の類似性と差異性にフォーカスする人類学においては、近くに住んでいても、民族（当然人種ではない）が違えば暮らし方も考え方の基盤も全く違う、ということにまず気が付くという事がスタートだと感じています。前回の書感「番外編」で一瞬だけアイヌ語の話をしましたが、日本というひとつの国の中に存在する、アイヌと呼ばれる方々が、例えば奈良に住む私と、どれだけものの見方が違うのか。そこには想像を絶する「豊かな」違いがあるはずだ、と思います。かと思えば、人類学の研究では、地理的に何千キロも離れた場所に暮らす民族同士が、ある共通性を元にスッと結び付けられたりもする。今回の本は、プナンとムラブリが、「森」というキーワードと、その研究者である奥野さんと伊藤さんがともに日本人であったという偶然から結び付けられてできた書籍であるという見方もできます。もちろん、伊藤さんは言語学者ですし、人類学のフィールドは民族だけに留まらない、という前提の中で、ではありますが、当たり前の着眼点として、しのさんが仰っていただいたことは本当にありがたいな、と思っています。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　上記で人種、という言葉を用いたときに、自分でハッとなったのが、映画のムラブリの女性が自分の肌が黒い、と発言したというエピソードについてのところ。レイシズムとルッキズムなどが絡み合い、しかもそれが自然と内面化されてしまう、という恐ろしさが描かれた一場面だったのでは、と思えてきました。「憧れ」がすぐにルッキズムに変容してしまうという根深い問題。遠い異国の一場面ではなく、現代を生きる自分と密接にかかわるその一言だったのだ、と解釈が広がる思いがしています。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　しのさんの「そもそも持っていかれている説」。この本自体が日本にいながら森の民について考えてみようという試みなわけで、人はなぜ旅行、たび、放浪するのか、移動することによって何を得たいと思っているのか、みたいなところがずっと語られていく側面があるのではないかと予感しています。人の移動と新たな他者との出会い。今の日本で暮らしている時点で「持っていかれている」はずの三人が、この本を通してどこにいくのか。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　少し大きめの前振りをしておいて、今回の書感を締めたいと思います。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>→聞き直しはこちらから</p><p><a href="https://open.spotify.com/episode/4bGI5Dc9PuViwyhx6wWxH1">第15夜「人類学者と言語学者が森に入って考えたこと 」1 イントロダクション・プロローグ - きくかくしかじか | Podcast on Spotify</a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20251213/16/st482622840/be/86/j/o3120416015729663623.jpg"><img alt="" height="560" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20251213/16/st482622840/be/86/j/o3120416015729663623.jpg" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/st482622840/entry-12949949265.html</link>
<pubDate>Sat, 13 Dec 2025 16:51:21 +0900</pubDate>
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<title>『言葉の魂の哲学』書感　番外編</title>
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<![CDATA[ <p>番外編『言葉の魂の哲学』批判：クリティーク、あるいはただの思考実験</p><p>&nbsp;</p><p>　第13夜の書感で、ヴィトゲンシュタインやクラウスは哲学者や詩人であったからこそ〈言葉の実習〉等を論じることができた、と述べました。「言語不信」を乗り越え、それでも生活の一部としての言葉を論じるために、彼らは新たな「言語信仰」を創り出した、とも捉えられるわけです。本書167ページで言語に対する独特なかたちの、信頼（傍点）とされていますが、あくまでクラウスが自然言語へのある種の信仰によってこの論を打ち立てた、というところは注目すべき。複雑な自然言語の中身を具体的に吟味し把握すること、と本書では表現されています。文法的に正しい言葉を使うことのみが言葉を正しく用いることではないというクラウスの主張が紹介されていましたが、あくまでドイツ語などの公用語という文脈の中で言葉選びをせよという話に聞こえるわけです。しかし、自然言語とは何ぞや？という問いが出てきたのは私だけでしょうか。母語という言葉が本文に出てきますが、ここでは、一定程度の「歴史」があり、一定数の話者が既に存在する言語というおおまかな捉え方ができそうです。ヴィトゲンシュタインはエスペラントやオグデンのベーシック英語を人工言語として、歴史が無く実用性が重視されたせいで多義性の少ない言語であると批判したわけですが、現在世界に200万人ほどいるとされるエスペラント話者に、エスペラント語の言葉を吟味し把握することはできないのでしょうか。ドイツ語も、素人としての見解ですが、インドヨーロッパ語族の元となる言語から派生し、ゲルマン語から派生し、様々に枝分かれして・・・という経過をたどってきたはずで。万が一確固たる「ドイツ語」というものが存在するのであれば、それを初めに喋った人たちは、歴史があり非常に多義的であったそれまでの言語と比べると、実用性が重視され「奥行きのない」言語だったのではないでしょうか。つまり、奥行きのある多義語を重視しすぎると、言語が新しく生まれる契機を見逃してしまいかねない、という問題があるように感じるのです。その意味で、言語は全て「人工」である。自然言語などというものがあるとすれば、それはチンパンジーやイルカの鳴き声ではないですか？チンパンジーはヒトではないから（笑）。クラウスやヴィトゲンシュタインがドイツ語や英語などを自然言語としている時点で、それは近代国家の公用語というイデオロギーがどうしても含まれてしまっている。一つの国家に一つの言語という「理想」であり「幻想」。エスペラントだけでなく、ピジンやクレオールもそこから抜け落ちてしまうという問題がはらまれているということです。「正しい語彙」や「正しい文法」を排斥するとしても、母語としての「多くの人に話されてきた自然言語」というものを称賛する限り、常に移り変わる言語、新しく生成し続ける言語に目を向けることへの限界が生まれる。ヴィトゲンシュタインとクラウスの言語信仰は、母語信仰／母国語信仰と言い換えてもいいのかもしれません。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　公用語ということに関してもう一言。新しく生まれる言葉、という側面に関して、ピジン・クレオールとともに、方言というものにも注目がもっとされてもいいのでは、と感じます。本書では讃岐方言の「むつごい」くらいしか言及がなく、方言そのものについての考察がされていません。グラデーションとしての言葉、相互接触する言葉というものにフォーカスが必要では。例えば、「知らんけど」という関西弁。最近なぜか流行っているそうです。知らんけど。なぜこの言葉が流行るのか、やはり標準語という東京で話されるような「基準」があっての、ズレの面白さだと思うのです。関西の人間からすれば、関西以外の人が「知らんけど」という言葉を使うのは、イントネーションとともに違和感を覚えるわけですが、何かしら面白がられているからこそ方言が全国的に流行する。そこには、関西人が「知らんけど」を使うときの使い方も含めて、誰かがそれを面白いと思い始めたということがあるはずで、関西弁話者とそれ以外の人との相互接触の結果、それがズレとして現れ出たという契機があるはずです。もちろん、それが関西人というステレオタイプを生み出すことになってしまえばマイナスの方向にいくけれども、少なくともこの流行は方言話者とそれ以外の人間とが相互接触した結果、方言が再発見されたケースと捉えることができると感じます。一方で、標準語と方言の「力関係」の存在を再認識させるという面もあります。「日本語」という言語の中での現象と考えれば、方言の流行ということによって、「日本語」の枠が少し多層的になった、と捉えることもできる。ちなみに、日本には、日本語の他にアイヌ語や琉球語もあります。分岐する言葉と、人と人が出会うことによって新たに生まれる言葉性。方言や少数言語の存在抜きで言葉一般を語ることの危険性はどうしてもある、と個人的には思います。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　続いてしっくりくる言葉を選び取る実践について。それがどれだけ過程重視のものだったとしても、ヴィトゲンシュタインとクラウスはしっくりくる言葉を選び取ることは「できる」と考えています。しかし、〈言葉の実習〉において、しっくりこないと感じ続けること、「迷い」つづけることを重視するのであれば、完璧にしっくりくる言葉を選び取ることが「できないからこそ」、迷い続けて言葉を選び取ろうとし続けることがむしろ重要になる、とも言えると個人的に思います。クラウスは伝達のための道具としての言葉と、かたち成すものとしての言葉を分けましたが、「道具」に過ぎないからこそ、その使用法を吟味し、より丁寧に扱おうとする態度が生まれるという側面もある気がするのです。ナイフという道具が、使う人間によって、リンゴの皮をむくこともできれば人を殺すこともできるように、言葉をプロバガンダとして人を洗脳するために使うこともできれば、戦争を遠ざけ人を救うために使用することもできる。後者の使用法の一つの戦略として〈言葉の実習〉があると考えることもできます。</p><p>&nbsp;</p><p>　第１章で論じられたマウトナーは、本質的に不完全な言葉という「言語不信」から、言語からの解放、生き生きとした言語としての詩への傾倒という道をたどりました。しかし、言葉は本質的に不完全であるという考えから出発しても、すなわち、完全にしっくりくる言葉を選び取ることなどできないという考えから始めても、「それでも」迷い続け言葉を選び取「ろう」とする〈言葉の実習〉にたどり着く道もある。「言語不信」と〈言葉の実習〉は必ずしも折り合いのつかないものではないということです。マウトナーの問題は、言葉の不完全性という「言語不信」から、言語からの解放という方向に走ってしまった点のみにあると感じます。詩への傾倒ということで言うと、マウトナーは、詩とそれ以外を分けることなく、詩作を支える言葉の多義語性や同音異義語性を重視し、それを生活の一部としての言葉にも当てはめるという方向に、舵を切ることもできた、と考えることができるのではないでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　ヴィトゲンシュタインが絵画や音楽に言及していたり、クラウスが演劇のセリフをしっくりくる言葉として例示していたりするのを読んで、言葉はほかの芸術と呼応することによってはじめていきいきとしたものになるという側面もあるのではないかという仮説が生まれました。言葉には限界がある、だからこそ、表立ってでも隠喩的でも、他の芸術と相補的に機能しなければ効果を発揮しないのではないかということです。言葉至上主義になるのではなくて、音楽、演劇、絵画などのアートと並ぶ芸術的な何かとして言葉を考え直してみる、という視点もありえるのかな、と思いました。言葉の多義語性や同音異義語性とも合わせて、言葉が開かれている状態ということが大切なのかな、と感じています。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250318/19/st482622840/e1/cd/j/o3120416015555963945.jpg"><img alt="" height="560" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250318/19/st482622840/e1/cd/j/o3120416015555963945.jpg" width="420"></a></p>
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<link>https://ameblo.jp/st482622840/entry-12890440925.html</link>
<pubDate>Tue, 18 Mar 2025 19:18:07 +0900</pubDate>
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<title>第14夜書感</title>
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<![CDATA[ <p>　あくつさんの小説好きという側面を新たに垣間見ることができた回でしたね。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　最終的なもりもさんの『言葉の魂の哲学』に対する腑の落ち方は、曲解だなあと思いましたが、もりもさんがとても満足された様子だったので、いいかそれで、とも思いました（笑）。しかしながら、自分の想いと文章が一致しているのかと自問し続けること、大切。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>あくつさんの尊敬するライターさんのお話のパートでは、2冊目のタイトル『読者に憐れみを』という言葉を思い出していました。そして、出ましたキーワード「伝える」、というところですね（笑）。ここでもつながる小説とインタビュー記事。ライター道？文章道？の話。第13夜であくつさんがしっくりくる言葉を選び取る責任に大きく納得していた、そのバックグラウンドが見えた思いでした。はたから客観的に聞いていると、そんなに気負わなくてもいいのでは、と感じるのですけれど、そこは文章を書く人の矜持みたいなものがあるのでしょうね。その尊敬するライターさんの哲学があるし、あくつさんの哲学がある。このきくしか書感もこんな軽い気持ちで書いていていいのだろうか、と思わされます(笑)。</p><p>　あくつさんの伝えたい・届けたいよりも、自分の中でしっくりくる言葉を選び出す方が大事な気がする、という話。しのさんの問い続けたい、触れ続けたいとも関連しますし、言葉というと伝えることに重きを置かれがちな気がしていたのですが、伝えるありきでなくまずは自分の納得感のある文章を突き詰める、そこから人との出会いが生まれる、みたいなことが話されている気がして、非常に深いな、と思って聞いていました。書くことだけで食べていくことがとても難しいこの時代、何のために書くのかを一人一人が考えることが重要であり、そこに幅広い可能性が広がっていることを思い知らされた気がしています。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　もりもさん、あくつさんのインタビュー記事はぜひ概要欄に載せてくださいね！</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>→聞き直しはこちらから</p><p><a href="https://open.spotify.com/episode/0Dx1AY44pYXpNAn2jfiJ3f">第14夜「言葉の魂の哲学」～あくつさんともりもでふりかえり～ - きくかくしかじか | Podcast on Spotify</a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250318/19/st482622840/e1/2e/j/o3120416015555962891.jpg"><img alt="" height="560" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250318/19/st482622840/e1/2e/j/o3120416015555962891.jpg" width="420"></a></p>
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<pubDate>Tue, 18 Mar 2025 19:14:57 +0900</pubDate>
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<title>第13夜書感</title>
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<![CDATA[ <p>　今回は、熱血「物書き」漫画を読んでいるような気分で放送を聴いていました。聞いていて、しっくりくる言葉を選ぶことはネガティブ・ケイパビリティなんだなあ、と感じました。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　ヴォネガット編第9夜書感で述べたのが、狂った時代は言葉の存在が生み出すものではないかということでした。その意味で常套句の反復が戦争を引き寄せるというクラウスの主張に非常に納得するとともに、ナチスによるユダヤ人虐殺の話だけでなく我々の日常にあふれる差別みたいなものも、言葉による功罪はとても大きいのではないかと感じています。「えた・ひにん」や「部落」という言葉。「男」と「女」。LGBT（LGBT「という」人はいないという意味で）。レッテル、ラベリング、固定化、分断。これらの言葉は大きな意味で言うとクラウスの常套句に含まれるのでしょうか。このような言葉のマイナス面にもきちんと向き合ったうえで、言葉を選び取る。「今その言葉をどういう意味で言ったの？」という問いを常に自分自身に向け、固定的な言葉・一義的な言葉から逃げ続けることが大切なのかもしれません。そしてこの問題の本質は、ラベリングや固定化が、人に安心感を与えるものであるということです。病名が付いたことでむしろ安心できた、みたいなプラス面としても、ラベリングや固定化を捉えることができる。その時に、あくつさんの言う「流れ」、一時的に固定化できたように見えたとしても、常に物事は変化しづつけているのだ、という捉え方は非常に大事だと思います。社会としても個人としても、よどまないために言葉を用いていくこと。言葉を選び取る責任を果たすことの難しさについて考えさせられました。</p><p>&nbsp;</p><p>　その言葉のマイナス面にも関連して、個人的な意見として、本論の進め方に納得感がある反面、第11夜で触れたように、言語不信という考え方にも非常に共感できる点があります。ヴィトゲンシュタインやクラウスは、哲学者であり、詩人であるという意味で、そもそも言葉のプロであり、言語強者みたいな立場で、だからこそ論じることができた部分があるとも感じるわけです。</p><p>&nbsp;</p><p>　この本で言われる「しっくりくる言葉を選び取る」という言説には注意しなくてはいけなくて、自分にとって「しっくりくる言葉はこれだ！」とという気づきを得られたとして、その言葉を他人に押し付け、どんどん断定化していってしまうと、それはまた「常套句」になってしまう。ヴィトゲンシュタインとクラウスが言っているのは、しっくりこないと感じ続けること、「迷い」続けること、言葉を選び取る責任を自覚し続けること、という「過程」の重要性です。しっくりくる言葉が一回で見つかって、それで終わりということはありえない。しかもそのしっくりくる言葉は、「その人にとって」個人的にしっくりくる言葉でしかありえないということです。他人の言葉を無思考に繰り返せばそれは「常套句」だから。断定化させることなく、それでも言葉による実践を続けていく。求められているレベルは非常に高いですね。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　後半のあくつさんのライターの話には、第10夜後半の文章、ライターという肩書きに縛られずに、自分なりのライター像を自由に追ってくださいね、という言葉をあくつさんに対しても贈りたいと思いました。</p><p>　本書の主張も、熱血「物書き」漫画の帰結も、「それでも言葉と生きていく」ということだったのではないかと感じます。もりもさん、しのさん、あくつさんが、聞くこと書くことと切り離すことができない、言葉というものと、これからどう付き合っていくのか。それが楽しみになるな、という回だったように思いました。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>→聞き直しはこちらから</p><p><a href="https://open.spotify.com/episode/7CHEVQRgLCJGyf2Vn9aSLA">第13夜「言葉の魂の哲学」第3章 - きくかくしかじか | Podcast on Spotify</a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250316/15/st482622840/06/f6/j/o3120416015555165745.jpg"><img alt="" height="560" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250316/15/st482622840/06/f6/j/o3120416015555165745.jpg" width="420"></a></p>
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<pubDate>Sun, 16 Mar 2025 15:30:30 +0900</pubDate>
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