<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>俗文学覚書</title>
<link>https://ameblo.jp/subroh/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/subroh/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>高尚な文学はわからないけれど、芸術ってものが、文学ってものが、果たして生きるために必要なのか、そんなことは考えたいかも。ということで、俗文学覚書。本、舞台、音楽、マンガ色々感想書きます</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>あまりにもグロテスクな、ホラーとしての、世話浄瑠璃</title>
<description>
<![CDATA[ 人形浄瑠璃の今日における価値とはなんであろうか。<br><br>連日の、文楽協会の支援金問題に関する報道や各方面の意見をみる度に、考える。<br><br>人形浄瑠璃は、どうしたら必要とされるのか。<br>なくてはならないものとなれるのか。<br><br><br>一つの面としては、一度失われては二度と生き返らせることのできない、<br>不可逆の様式美を可能な限り受け継いでいくことに意義があると思う。<br><br>画面越しでは大変伝わりにくいのであるが、<br>江戸時代の人の動き、型、哲学に基づいた動き、音声の挙げ方、<br>三位一体となって人形に魂を宿そうとするその果てしない労力の素晴らしさ。<br><br>人の手を介して連綿と受け継がれてきたものを保存する血脈。<br>これはどうしても維持しなければならない。<br><br>一方で、一つの表現手段として、人形浄瑠璃はどれほどの意味を見出されているだろう。<br><br>一つの人形を三人で操るという、一見非効率で不合理な方法。<br>江戸時代の関西の方言を標準語とする、現代人にとって耳馴染みのない地の文とせりふ回し。<br>感覚的に理解しにくい、時代背景。<br><br>この、現代人にとって分かりにくさの詰め合わせを、いったいどうやって<br>「意義のある表現芸術」<br>として息づかせることができるだろうか。<br><br><br>世話浄瑠璃において考えた場合、<br>まず「あまりにグロテスクに、世間をホラーとしてあぶりだす手段」としての浄瑠璃を考えられないか。<br><br>私たちの生きる世間など、恐ろしいことばかりだ。<br>建前では、人と人は寄り添い合うことで明日も生きることができるはずなのだが、<br>実際のところの我々は、常に隣人と衝突を繰り返し、<br>挙句の果て命まで落とさねばならない。<br><br>そんなやりきれない無残さを、世話浄瑠璃は美しい恋人たちの死にざまにかこつけて描き切ってしまう。<br><br>例えば、あの美しい道行文で有名な『曽根崎心中』は、<br>真面目で誠実だが少し頼りない男が、親友と思っていた男に金を騙し取られ恥をかかされ、<br>世間に身の置き場をなくして死に転がり落ちていく話である。<br><br>『女殺油地獄』は、未熟で血気ばかり盛んな世間知らずの若い男が、<br>内にひそむ混沌を御しきれずに理由なき惨殺に走る話である。<br><br>世間にとってはちっぽけな、けれど彼らにとっては等身大の、視界が真っ暗になるような悩みの中で、<br>いつのまにか道を踏み外していく。<br><br>ほら、彼らはあなたの隣にいる、誰かに似ていないだろうか。<br><br><br>世話浄瑠璃の登場人物たちは、どれもあまりに個性の薄いキャラクターで描かれる。<br>たった数十万やただのいがみ合いで、<br>命を落としてしまうような、ひ弱な存在である。<br>その人物造型は、人形遣いと、大夫と、三味線に寄ってのみ辛うじて命を与えられる、<br>あの人形たちに、ぞっとするほどお似合いなのである。<br>その無表情さは、人口一億二千万人の私たちの、分身の様なのである。<br><br>彼方で、手招きをしているのだ。<br>あのかわいらしい傾城の人形の頭が、向こう側で、笑いかけているのだ。<br><br><br>あなたの物語を語って見せましょう、と。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/subroh/entry-11303615444.html</link>
<pubDate>Mon, 16 Jul 2012 00:51:53 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>ダム・タイプ　『S/N』</title>
<description>
<![CDATA[ 『S/N』<br>----<br>これは、世の中のコードに合わせるためのディシプリン<br>私の目に映るシグナルの暴力<br>----<br><br>自分自身が、世間とずれていないことを100%の自信を持って生きているものなどいるのだろうか<br>否<br>何者かによってでも、それを証明しうるものはいるのだろうか<br><br>空気が読めない<br>変わってる<br><br>そうやって、少しずつ蝕まれていく、大人しい、自我。<br><br>例えば<br><br>不具であること<br>セクシャルマイノリティであること<br>外国人であること<br><br>そんなわかりやすい分類名によって<br>自力では乗り越えることのできない<br>「中心と周辺との壁」を築かれてしまった人々は<br>体内に生まれたひずみを<br>如何に蓄積させているのだろう<br><br>例えば<br><br>男であること<br>女であること<br>あなたであること<br>私であること<br><br>そうした移ろいやすい理由によって<br>不条理にも周縁に追いやられてしまった人々は<br>心と体が分離しそうな今日明日を<br>如何に生きていくというのだろう<br><br>----<br>あなたが何を言っているのかわからない<br>でも<br>あなたが何を言いたいのかはわかる<br>----<br><br>周辺からはこんなにも<br>温かい視線が注がれているというのに
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/subroh/entry-11297727813.html</link>
<pubDate>Sun, 08 Jul 2012 21:48:44 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>『ヘルター・スケルター』岡崎京子　- あなたという美しさについて-</title>
<description>
<![CDATA[ 誰にとっても、自分が美しくないということに気付くということは、<br>とてつもない絶望だと思う。<br><br><br>誰にとっても、自分が取るに足らない、死んでも構わない人間であるということに気付くということは、<br>死に勝る絶望だと思う。<br><br><br>私は、私に恋をして<br>恋をしている内に<br>世界から醜いと罵られてしまった<br><br>自分が自分の築いてきた美しい自分の幻想が、<br>明日、<br>いや、<br>今この瞬間消え失せるものだと気付いた時<br><br>幻に限りなく近い現世に<br>愛想を尽かさず明日をも生きていける人間が、<br>どれだけいるだろうか。<br><br>----<br>その瞬間のリリコは<br>誰よりも<br>美しかった<br>----<br><br>美しいと思う人、<br>美しくある瞬間、<br><br>それが誰にとっても違うのだとしたら<br>美しくない私をわざわざ悲しむことに<br><br>どれだけ意味があるのだろうか。<br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/subroh/entry-11197764314.html</link>
<pubDate>Mon, 19 Mar 2012 22:38:12 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>Vocaloidについて</title>
<description>
<![CDATA[ 可愛い架空のキャラクターに好きな歌を歌わせる<br>Vocaloidという文化。<br>好きとか、楽しいとかそれだけじゃない。<br>今は「萌え」という単語に託される魅力。<br><br>人形浄瑠璃だってそうだ。<br><br>精巧に作られた、小さな顔、小さな手。<br>それらが、お茶目な動作で喜び、<br>体を震わせて嘆き、<br>抱き合いながら死に至る。<br>もうとんでもなく、当時の人にとって魅力的なエンターテイメントだったのだ。<br><br><br>今は伝統芸能とか言って高尚な何かのように思われているけれど、<br>そんな取っつきにくさってただ単に古い言葉を使っているだけのこと。<br>当時の関西弁で書かれた、なんとも庶民的で親しみのある娯楽なのだ。<br><br><br>初音ミクの歌に、曽根崎心中がある。<br>ヘビメタにあわせて曽根崎心中の道行文を歌わせる。<br><br>美しいと思う曲に合わせて、<br>美しいと思う言葉を歌う。<br><br>人形浄瑠璃も、<br>Vocaloidも<br><br>みんないいと思う根元はきっと一緒だ。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/subroh/entry-11188929702.html</link>
<pubDate>Sat, 10 Mar 2012 22:11:23 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>『告白』町田康</title>
<description>
<![CDATA[ 誰にでもうまく伝えられない、言葉にできないことがあって、<br>理解されない必然があって、<br><br>繋がっていたかにみえたそれぞれの腕は、<br><br>ふんづけられて、解きほぐされていく。<br><br><br>胸の底に漂う悲しみがあって、<br>でもそれに理由はなくて、<br>ただふさわしい世界に生まれなかったことで<br>生涯解放されることのない鬱屈に由来する悲しみかも知れなくて<br><br>それに気づいて、むしろ忠実に生きようとした人の一人が、<br><br>熊太郎だと思う。<br><br>ようじょこの場の、がちゃがちゃして収拾不可能な混乱は、<br>熊太郎にとっての世界そのものだ。<br><br>ずれて、ずれて、ずれて、<br><br>世界が牙をむく。<br><br>そしてある時突然、<br>自分が生きる意味などないのではないかという<br>疑念が心をよぎる。<br><br><br>引き返さなかった彼が悪いのか。<br>卑屈だった彼が悪いのか。<br><br><br>弾かれるべくして世間のメカニズムにむりやり組み込まれた、<br>ゆがんだ歯車が悪いのか。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/subroh/entry-11183374103.html</link>
<pubDate>Mon, 05 Mar 2012 01:57:42 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>『リバーズ・エッジ』岡崎京子</title>
<description>
<![CDATA[ それは風船がぱちんとはじけるように起きる<br>ぱちんとはじけるように起きるのだ<br><br>---<br>当たり前に普通に生きている日々のさなか<br>突然堪忍袋の緒が切れることがある。<br><br>キレる<br><br>ということだろう。<br><br><br>突如膨れ上がり暴走する感情をあとから振り返るにつけ、<br>刹那的な自分の性を嘆くとともに、<br>理性以外の油断ならない何かが自分の中に住んでいることを感じ、<br>自己満足的な安堵に陥る。<br><br><br>まだ小学生のころ、<br>自分には突然なにかの力が発現し、<br>非日常的な生活を送るのだと無意識に、そして当たり前に信じていた時期があった。<br><br>ゲーム脳、の一種だろうか。<br><br>それはあるなんでもない瞬間、<br>そう、近所の交差点を友達とともに自転車で渡った瞬間だった、<br>自分が非現実の世界に生きることを当たり前に思い、信じ、<br>そしてそれは一生叶うことなどないということ、これらを一気に知覚したのだった。<br>今も鮮烈に覚えている。<br><br>そして月日がたち、人並みに社会に適応して生活できているかにみえるけれど。<br><br>ふと思うのだ、<br>不思議な力でも、<br>異世界から来た使者でも、<br>この世界の崩壊でもない、<br>自分自身によって、<br>日常が非日常になる瞬間が起こりうるということを。<br><br>突然、常識もルールも思いやりもコミュニケーションもキャリアプランもなにもかも忘れて、<br>自分の怒りが暴走することによって。<br><br>----<br><br>惨劇は突然起きるわけじゃないよ<br>そんなことがあるわけがない<br><br>それは<br>アホな生活、<br>退屈な日常のさなかに用意されている。<br><br>そしてそれは、風船がぱちんとはじけるように起きる。<br>ぱちんとはじけるように起きるのだ。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/subroh/entry-11183368848.html</link>
<pubDate>Mon, 05 Mar 2012 01:39:29 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>『菅原伝授手習鑑』寺子屋</title>
<description>
<![CDATA[ 「にっこり笑って」<br><br><br>大の大人の、歪みにゆがんだ忠義の形が<br>観客の目の前でぱっと咲いて儚く散る、<br>そんなむなしい華やかさの一方で。<br><br>語られることしか許されない身代わりの子の無残な死がある。<br><br><br>松王丸は首実検の役目を自ら担い、<br>わが子の生首を目にする。<br><br>顔で笑って。<br>心の中は、泣き笑い。<br><br>わが子の生首を目にするという<br>狂った状況を自らお膳立てして、<br>忠義が立ったと喜ぶ。<br><br><br>そして聞く。<br><br>「あやつの最期は、さぞ駄々をこねて困らせたことでしょう。」<br><br>まるで、子供を預かってくれた隣の人に詫びるように、<br>わが子を打ち首にした相手に言う。<br>そして、手を下した源蔵は言う。<br><br>「いいえ、菅秀才の身代わりだと説いたら、あの子は<br>にっこり笑って首を差し出しました」<br>「にっこり笑って」<br><br>ここには。<br>親の忠義のため身代わりにされる子の身の上を思う憐憫や<br>封建社会の理不尽さに対する憤りが到達しえない、<br>ある超越した世界の風景がある。<br><br>首を打たれる小太郎には<br>何を感じていただろうか。<br><br>耳が痛くなるほどの沈黙。<br>自らを置いて行った父と母の思い出。<br>抜けるような青い空、<br>そして終焉の暗闇。<br><br>忠義の意味も、<br>やむにやまれぬ事情も、<br>彼の心を理屈づけていたわけではあるまい。<br>淡々と、目の前に姿を現した残酷な姿の運命の手を、<br>言われるがまま握っただけである。<br><br>やるせないほどの素直さ、純朴さ。<br><br><br>沈黙の青空が、彼の小さな首の上に、<br>いつまでも横たわっている。<br><br><br>---【観劇備忘録】---<br>2/18　国立劇場2月文楽公演　『菅原伝授手習鑑』『日本振袖始』<br>----<br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/subroh/entry-11183359345.html</link>
<pubDate>Mon, 05 Mar 2012 01:08:49 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>『義経千本桜』すし屋の段、『摂州合邦辻』合邦住家の段</title>
<description>
<![CDATA[ 忠義の人と認められ生きるなら結構。<br>死して忠義と褒められるなら結構。<br><br>でも、自らの負い目や人を思うが故に、<br>蔑まれ、貶まれ、<br>それでも心の中に誰も知らぬ忠義を宿して<br>死に向かって生きる、<br>そんな酷な生き方を自ら描く人物がいる。<br><br>いがみの権太。<br>玉手御前。<br><br>彼らは、自らの死を前提に、親や主人の忠義立てを誓う。<br>それは、きっと、彼らにとって至極当然の感覚なのかもしれない。<br>自分が生きていては、かなえられない他人の幸せがある。<br>自分が好かれては、かなえられない他人の夢がある。<br><br>そんな、酷な現実を受け入れて、<br>物語の輪郭を、<br>描いていく。<br><br><br>一方で。<br><br>彼らのその肉体が滅びる時に、<br>眼から滲み出る涙は、<br>忠義という、彼らが心に立てた強靭な心の壁を、<br>乗り越えてあふれ出た、<br>理屈の無い叫びであろうと思う。<br><br><br>---【観劇備忘録】---<br>1/22 国立文楽劇場初春文楽公演　『義経千本桜』<br>3/4　京都文化芸術会館文楽公演　『摂州合邦辻』<br>------<br>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/subroh/entry-11183344690.html</link>
<pubDate>Mon, 05 Mar 2012 00:18:15 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>クレムリン</title>
<description>
<![CDATA[ 弱者で優しくてかわいい。<br><br>三匹の猫　関羽は、のんびりと、<br>「今が幸せだからいいにゃ」と<br>その日々を過ごしている。<br>それがとてもうらやましい。<br><br>力はないけれど、けなげで、かわいい。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/subroh/entry-10796704121.html</link>
<pubDate>Thu, 10 Feb 2011 21:31:01 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>義経千本桜</title>
<description>
<![CDATA[ 『恋と忠義はいづれか重い<br>かけて思ひははかりなや』<br><br><br>自分の親を鼓にされて、その「初音の鼓」の音を慕う狐忠信。<br>その想いはとても悲しいと思う。<br>やるせなくて、せつなくて、<br>それでもその気持ちとは別に、静御前に仕える狐忠信。<br><br>人形浄瑠璃文楽の世界には、こうして<br>滑稽だけれどもどこか笑い飛ばすことのできない、<br>切ないキャラクターがしばしば存在する。<br><br><br>いや、しばしばなどではなく、<br>すべての登場人物がそうなのかもしれない。<br><br><br>わたしたち現代人にとって、<br>昔話の人物なんて言うのは、<br>みんななにかしら下らない義理や決まり事や世間体や、<br>執着やこだわりに縛られていて、<br>生きたいように生きられた試しがない。<br><br><br>各々が、それこそ当時の人々に<br>「馬鹿だねえ」<br>「不器用だねえ」<br>なんて嘲られて、要領悪く悲劇の顛末に転げ落ちていくのである。<br><br><br><br>人形浄瑠璃なんて、人間の身体の半分ほどしかない人形を<br>大の大人が三人で寄って集って操って、<br>声のない人形の台詞は、別に大夫が喋ってやって、<br>三味線やら笛やらがBGMで参戦して、<br>それでようやっと成り立ってる舞台なのである。<br><br>狐の化けた侍と義経を追って日本中旅する白拍子の<br>「さあこれから向かいましょう」<br>なんて陽気に舞い踊ってるだけのシーンに、<br>大の大人が何人も何人も、たくさん役割分担をして必死でそれをこなして―――――――――<br><br>ようやっと成り立っているのである。<br><br>不器用なのである。<br><br>なのに、その不器用がいとおしい。<br><br><br>人が三人も、にょっきとその後ろに佇んでいるのに、<br>ちゃんと狐忠信が愛しく感じられる。<br><br><br><br>たぶん、そう思えるのは、<br>大の大人が何人も何人も、寄って集って、一つの人形に、<br>魂を「宿そうとしているから」、<br>今のところ、私はそうだと考えている。<br>「魂を宿している」のではない。<br>人形というものに、魂が宿って、自然に動くことなどないのだから。<br><br>それを割り切って、それでも「宿そう」とする。<br><br>そのことが、何かとてつもない緊張感になって、<br>客席側に伝わってくるときに、<br>人形は、狐忠信や、静御前や、九郎判官義経に「みえる」ことがあるのではないかと、<br>そう考えている。<br><br>それは本当はあり得ないのだけれども、不思議なことにそう「みえた」時に、<br>なんだか当たり前のように美化されていた人物たちは、<br>とても滑稽で不器用な一人の人間として、忽然と姿を現す。<br><br>そのとき、ふと。<br>ああ似ているなあと思うのだ。人なんて変わらないなあと思うのだ。<br><br><br>「かすかに、ひっそりと、恐怖の出来事は日常のそこここに棲みついています。ホラー小説はこの極小の兆しまたは痕跡を極大化する。…この方法により、わたしたちはわたしたちじしんの恐怖を明視することが可能になるのです。「ＳＦがほんとうにうまくしごとをしたとき、それは見知らぬものを飼い慣らしたりしない。それは飼い慣らされたものを見知らぬものにする。それはわれわれを旅に連れだし、そこでわれわれは見知らぬものに出会い、その見知らぬものが自分自身であることを知る」（Ｒ・スコールズ）。これは、ホラー小説でも変わりません。（『高橋敏夫教授の早大講義録　ホラー小説でめぐる「現代文学論」』まえがき、高橋敏夫、宝島社、２００７年）<br><br><br><br>見慣れたものが見知らぬものになった時に、初めてその醜くて卑小な本性を思い知ることができる。<br>私たちは、<br>義経とか、静御前とか、なんだか美化されちゃった人たちが、<br>「現実的に無理あるでしょ」っていう演出の中でなんとかその役をやりきろうとしている現場に出会うと、<br>なんか知ってるものが、自分が見たくないものが、突然スポットライトを浴びせられたような感じがする。<br><br><br>日常世間と慣れ親しんでいくことを当然のこととされながら、<br>その日常世間は対して報いてくれることもなく、<br>むしろ他人との衝突を強制する。<br><br>それをもう嫌というほどわかっているけど、<br>知らないことにしている。<br>そして、自分でもわからないうちに、疲弊している。<br>私たちは、自分たちの、その醜くて卑小な本性に蓋をしている。<br><br>狐忠信を見るときに感じるいとおしさなんてものは、自分が蓋をしているものを<br>飼いならしながら実は腐らせているという、後ろめたさゆえの共感なのかもしれない<br><br><br><br>「古典演劇が伝統を受け継いで今も上演される意味は、 <br>現代人が当時の社会の保存された一瞬に立ち会い、 <br>日常性を超えたところで一から人間に出会えることにある。 <br>普段たくさんの人に触れ合っていて、ああ嫌だな、疲れたなと思っていても、 <br>古典の舞台では、その日常から離れた所で、一から人間を発見し出会うことが出来る。 <br>だから伝統や伝承は、現代人の一時的な好みで歪曲されてはならない」 <br>（元Ｗ大教授　U氏最終講義より）<br><br><br>…それでも。文学や芸術なんてものは、たまにこうした飴と鞭を行使する。<br><br><br><br>「辛い目ばかりに日を半日、心を伸ばすこともなく．死なうとせしも以上五度．…」（『心中宵庚申』）<br>→（現代語訳）「毎日毎日ほんとキツくてさ、超ストレス溜まってマジ死んじゃおうかとおもったよ」<br><br><br>こんなセリフ、現代のドラマなんかで言われても「こっちだって疲れてんだよ」とか言いたくなるが、<br>人形浄瑠璃の、自分とは違う世界に生きる、くそまじめな不器用町人がポツリと言うと、<br>「人間変わらんなぁ」<br>とあきれとあきらめ半々な気持ちになる。<br><br><br>見るほうをみじめな気持に突き落としときながら、<br>まあみんな一緒だよとか言って肩を叩いてくる。<br><br><br><br>そんな天邪鬼で八方美人な人形浄瑠璃が私は大好きです。<br><br><br><br><br>--------------------------【観劇備忘録】----------------------------<br>国立劇場平成23年二月公演<br><br>『義経千本桜』<br>・渡海屋・大物浦の段<br>・道行初音旅<br>2/6 18:00　開演<br><br>--------------------------------------------------------------------<br><br><br>※このブログは、こんな感じで鑑賞・観劇の感想を交えつつ<br>基本的に自分にとってのゲイジュツ観をダダ漏れさせていくブログです。<br>若干、研究視点での意見等も挟みますが基本的なスタンスは<br>「現代の普通の若者が芸術（特に古典）を見たらどうなるか」<br>ですので、話半分にご覧いただければ幸いです。
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/subroh/entry-10792747507.html</link>
<pubDate>Sun, 06 Feb 2011 23:03:57 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
