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<title>死の恐怖</title>
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<description>日々感じる、死の恐怖。死にたくない。死後の世界を信じられない。霊はいない。人はなぜ個体が死ぬことを受け入れざるを得ないのか。</description>
<language>ja</language>
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<title>死と肉体</title>
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<![CDATA[ 久しぶりにログインした。<br><br>死を忘れていたわけではなく、毎日考えることに変わりはない。<br><br>死は逃れられないのかを考えるあまりに、<br>死に取り組む職に就いた。<br>生を学べば何か変わるかと思ったが、<br>学ぶ前となんら恐怖は変わらない。<br>ただ他人の死が身近に日常になっただけだった。<br><br>世界は自分の脳が認知している。<br>肉体があり自分は世界を感じられている。<br>目で見た世界はルートを通り脳で情報を処理されている。<br>眼球もルートも脳も、どれかひとつでも損傷すれば見える世界は変容する。<br><br>肉体が停止してしまえば、<br>見ることは出来なくなる。<br><br>そんなことは当たり前に知識のない子供にだって分かることだ。<br><br>死ねば世界は止まる。<br><br>受け入れられるか？<br>世界はいつの間にか始まっていた、<br>終わりもある時に突然来る。<br>病気なら死期を予期できるかといえば、<br>ざっくりおおよそであって、<br>やはりその瞬間は突然だ。<br><br>死は認知できる世界の終わりだ。<br>なら恐怖していい。<br>怖くて当たり前だ。<br>もがいていい、<br>悲しんでいい。<br>苦しんでいい。<br><br>それも生きた感覚だ。<br><br>抗っていい。<br><br>静かに受け入れるのが美徳とする価値観を<br>ばらまくのはやめてほしい。<br>死にたくないと叫んでから死んだっていい。<br>みっともなくない。<br><br>なので自分はやなせたかし先生が好きだ。<br>最後まで死を恐れており、<br>それを隠さなかった。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/sudmm/entry-12326923285.html</link>
<pubDate>Thu, 09 Nov 2017 14:15:51 +0900</pubDate>
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<title>死が突然である時</title>
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<![CDATA[ 普段生活していて自分の死について考える時、<br>大概の人は<br>｢家族はそばにいて｣<br>｢布団の上で｣<br>最後を迎えると想像している。<br><br>不意に車がぶつかって<br>突然家が崩れ<br>足を踏み外し落下して<br>火災にあって逃げ遅れ<br>事件に巻き込まれ殺されて<br><br>日常どこかで、毎日、<br>誰かは突然の避けられない死を迎えている。<br><br>私は死の間際の走馬灯の存在について、やや疑問を持っている。<br>本当に人は死の間際にこれまでの人生を<br>走馬灯のように場面で思い返すのだろうか、<br>瞬間に脳はそんな機能を果たすんだろうか、<br>脳神経を走るのは電気なわけだが、スピードは物理的に変わらないだろうから<br>信号処理にかかる時間を思うならムリそうじゃないか？<br><br>だいたい、<br>｢死にかけたときに本当に走馬灯を見た｣というレポートは、<br>｢臨死体験をした｣というレポートに比して、<br>ほとんど聞かないし知らない。<br>私は｢死｣のマニアなので、あれやこれや読み漁っているが、<br>比較にならないぐらい数が違う。<br><br>･･･とはいえ幽霊や天国の存在よりは<br>走馬灯の存在を私は<br>疑ってないとはいえる。<br>死の前に脳が認知する世界は、<br>脳や脊髄がないのに感覚を持っている死後の世界よりリアリティがある。<br>そもそも臨死体験も｢生きた脳の体験(認知)｣だしな。<br><br>しかし、死の一瞬前に<br>永遠とも感知できる時間が自分に訪れる、<br>なんてのは都合がいい妄想のように思える。<br><br>実際は、パソコンの電源を突然コードを引っこ抜いて落とすように、<br>次の瞬間には無になっているように思う。<br>そこになんらかの余韻はないのではないか。<br><br>人間の最後の知覚は聴覚と聞いたことがあるが<br>(私は脳に近いぶん嗅覚ではないかとか思うんだが)<br>最後にどんな音を聞くのだろうな、<br>と考えることはある。<br>
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<link>https://ameblo.jp/sudmm/entry-12218285012.html</link>
<pubDate>Thu, 10 Nov 2016 23:09:57 +0900</pubDate>
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<title>作られた物語の中のあの世</title>
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<![CDATA[ ドラマや映画を観ると、<br>幽霊がいたりあの世があったりする。<br><br>脳がない、肉体がないのに<br>登場人物はものを見て音を聞き、ヤコブレフの回路もないのに情感を爆発させたり忙しい。<br><br>観ている間は物語として没頭して、<br>こちらも泣いたり笑ったりするが、<br>あとでふと冷静になる。<br><br>霊魂を全く信じない訳では無い、<br>あるのかもしれない、<br>なんらかのエネルギーがこの肉体を<br>動かしているのかもしれない。<br>しかし、感じて考えている今の自分の反応は<br>やはり肉体と脳があるからだろう。<br>音を聴くというのは、<br>音が鼓膜に振動波を伝えてコルチ器にとどけ、<br>神経が脳に電気信号を伝えているわけで、<br>そのシステムがないなら音は｢個｣に届かない。<br>ゆえにこのシステムが生まれつきどこか障害されている人のなかには、<br>音をまったく聴いたことがない人がいるだろう。<br>その人が死んだなら、<br>霊になったら音を知らない霊になるんだろうか。<br>目が見えない人は？<br>脳のなんらかの欠損などで情動に起伏がない人は？<br><br>なんらかのエネルギーがあり<br>この肉体を動かしていて<br>死後もそのエネルギーがあるとして<br>そのエネルギーがなにかを<br>感じたり考えたり発したり記憶したりしないなら<br>それは今の自分ではない別のなにかだろう。<br><br>死にたくないと悲鳴をあげているのは<br>そのエネルギーではなく<br>この肉体(脳を含む)だ。<br>今を感じているこの今の自分だ。<br><br>自分は死にたくない。<br>死を受け入れたくない。<br>生きたいのだ。<br>
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<link>https://ameblo.jp/sudmm/entry-12215913175.html</link>
<pubDate>Thu, 03 Nov 2016 12:04:39 +0900</pubDate>
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<title>死んだら霊になる</title>
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<![CDATA[ 死んだら霊になると信じることが出来る人は幸せだ。<br><br>自分は少しもそれを信じることが出来ない。<br>身近に死んだ人がいるからだろうか。<br>その人は｢いなくなった｣と思う。<br>いや、ちがう。<br>幼い頃から私は霊の存在を疑っていたし、<br>気付いた時には｢そんなものはいない｣と思っていた。<br><br>仮に死んだ後何らかのエネルギー体になった、<br>のだとしても<br><br>感じない、認知しない、考えない、<br>というだけの存在なら、<br>何の意味があるというのか。<br>私が感じているのはこの、現在も文章を表出している脳それ自体が<br>なくなるのだ、という恐怖であり、<br>自分が生まれる以前に戻るということへの恐怖なのだから、<br>エネルギー体になるのだとか<br>生まれ変わる(記憶はない)だとか聞いても<br>それはつまり<br>現在の自分は消える、<br>としか思えない。<br><br>肉体の損失はすなわち脳の損失だ。<br>言語とは記号であり、<br>私は今文字を打ちながら<br>記号を羅列する作業をしている。<br>これは脳内の不安を<br>形として表出しているのだ。<br><br>霊を信じられるひとは幸せだ。<br>しかし<br>そう信じていたところで<br>認知や感覚を失うことには変わりない。<br><br>霊を信じられない私は幸せといえるのか<br>不幸なのか。
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<link>https://ameblo.jp/sudmm/entry-12188635496.html</link>
<pubDate>Tue, 09 Aug 2016 06:06:38 +0900</pubDate>
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<title>死にたくないことを思い出す毎日</title>
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<![CDATA[ さんざん書いてきたが、<br>死から逃れることはどうやら難しい。<br>記憶が曖昧なほど幼少の頃から<br>なんとか死を逃れたいと思ってきたが、<br>私の生存中に人類が死を超越できるわけではなさそうだ。<br>いや<br>もしかしたら意識を保たせる何らかの技術や医療やなんかが開発されたり<br>理論上可能になったりするかもしれないが<br>確実に<br>｢それを一般的にさせない反対者｣が現れて<br>｢人は死ぬのが当たり前。死を受け入れる｣とかいう話になるんだろう。<br><br>死ぬのが怖い。<br>自分の意識と記憶、認知を継続したい。<br>世界を認知し続けたい。<br>生まれるまえに戻りたくない。<br><br>そんな気持ちをなぜ押し殺さねばならんのか。<br>永遠を渇望するのは罪なのか？<br>死にたくない死にたくないと叫びつづけるのは醜いか？<br>死をあっさり受け入れるのは美徳か？<br><br>私は最後まで自分に素直であるぞ！<br>どうせ死んだら、その後自分の認知なんて2度と出来やしないんだから、<br>みっともなくても見苦しくても終わりなら<br>死にたくない！<br>死ぬのが怖い！<br>と叫ぶぞ。<br><br>私の脳、つまり私の一部であり<br>私の意識や認知や記憶を構成しているものよ、<br>できるだけ長生きしよう。<br><br>私は消えたくない。
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<link>https://ameblo.jp/sudmm/entry-12179024973.html</link>
<pubDate>Sun, 10 Jul 2016 01:35:11 +0900</pubDate>
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<title>死にたくない</title>
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<![CDATA[ しにたくない、しにたくない。<br><br>幽霊になりたい。<br><br>幽霊なんていない。
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<link>https://ameblo.jp/sudmm/entry-12170120136.html</link>
<pubDate>Mon, 13 Jun 2016 02:14:58 +0900</pubDate>
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<title>死にたくないと叫んでも</title>
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<![CDATA[ どんなに自分が毎朝目が覚め<br>死にたくない、死にたくないです、と叫んでも<br>残念ながら現状今の段階では、<br>どうやら死を避けることは難しい、と着地する。<br><br>ならば忘れて過ごすしかないと、<br>日々の慌ただしさに身を任せる。<br><br>思い出すのは眠る時だ。<br><br>電気をパチンと消すように意識はなくなる、<br>そうして世に戻らなくなるのが死だ。<br>終わったところから、先に進まない。<br>何の認知もなくなる。<br><br>睡眠は死の体験を繰り返し、<br>起床覚醒は生を繰り返す、<br>目覚めて現在の自分の立ち位置をフォーカスするまでの刹那、その後の生きている実感、<br>これをあと何回繰り返せるのだろう。<br><br>死の克服や、<br>死の恐怖緩和について、<br>ネットで検索してもたいした答えは得られない。<br>大概は論旨のすり替えや、<br>空想的なもので、<br>｢生を味わいましょう｣的な締めが多い。<br><br>生を味わえば、満喫すれば、死は怖くないかというと、全く関係ないと自分は思う。<br>むしろ退屈してやることがない、生き甲斐がない人の方が死を恐れていない側面があるのを感じる。<br><br>死を恐れない人と対話したことがある。<br>何度も聞いた。なぜ怖くないか。<br><br>彼は<br>死が無であることの想像すらしたことない、<br>そんな事考えるなんてすごいな、<br>死んだらどうなるとかも考えない。<br>時々死にたいとか思うが深く考えてもいない、<br>という主旨の返事をした。<br><br>羨ましいなと思ったが、<br>そういう思考になったとしても、<br>ある時意識と認知が途絶え、自分の世界が終わることを避けられるわけではない。<br><br>自分がこれを書いているのも<br>多少のあがきに過ぎない。<br><br>誰か自分と同じか似た人はいないのか、<br>せめて死の恐怖を検索した人が、<br>こんなつぶやきにでもたどりつかないものか、<br>と<br>書き残しているだけだ。<br><br>この文章も私ほどもこの世に存在できないかもしれないのだが。<br><br>人間は短命だと思う。<br>100近くまで生きた祖母ですら人生は思いのほか短いと言っていた。<br>しかし、人間が作ったもので、人間ほど長持ちするものも、身の回りには実はそんなに多くない。<br>例えば日本家屋はほとんどが60年ほどでなくなる。<br><br>音楽や文学、絵画など文化的なものならどうだろう。<br>ほとんどの作品はその人物が生きている間に消えていく、残るのは本当にごくごく僅かだ。<br><br>じゃあその一縷をかけて、<br>自分が野心を持って何かしら生産するかというと、<br>自分の望みの生は意識と認知の継続であって、<br>痕跡を残したい訳では無い。<br><br>私は死にたくないのだ。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/sudmm/entry-12162859433.html</link>
<pubDate>Sun, 22 May 2016 09:50:50 +0900</pubDate>
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<title>永遠の命</title>
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<![CDATA[ その昔、テレビである有名なアニメ映画が放送された。<br>扱うテーマはズバリ、永遠の命、だった。<br>主人公はしかしなにも、自分のように｢死にたくない｣わけではなく、<br>母親がそれを言っていたからとか、<br>まぁ立派な大義名分があった。<br><br>永遠の命が欲しいから、<br>とは彼は言わない。<br><br>ラスト近くで彼の理解者のような立ち位置の男が<br>｢親から子へ、その子からまた子へ、<br>引き継がれるのが永遠の命だ｣<br>みたいなセリフを言うのだが、<br><br>それを聞いた当時、自分は確か６歳ぐらいだったのだが<br><br>｢えっ、何その価値観｣という違和感を覚えた。<br><br>永遠の命というのは、その個が生きることで<br>｢永遠に認知していきたい｣というのぞみが<br>｢永遠の命が欲しい｣であろうよ。<br>子どもは自分ではない、<br>血縁者で遺伝子を半分同じものがあったにしても<br>他者だ。<br>その他者がどう世界を認知し、記憶し、考え、生きようと、自分には関係なかろうよ。<br><br>主人公は永遠の命を得られるチャンスを何度か、<br>自分の意志で｢逃す｣。<br>ヒロインはすでに、｢永遠の命のようなもの｣を得ているんだが、ちっとも幸せそうでなく、<br>むしろそのことで悲劇を背負っている。<br><br>なぜ、永遠の命が欲しい、という思いを<br>この作品はそこまで否定するのか。<br>ずっと生きたいと思うのは悪いことなのか？<br><br><br>最近のニュースでSONYがAIBOの修理をやめたこと、購入者へのフォローをやめたことを知った。<br><br>AIBOのふれこみの一つに｢死なないペット｣があったかと思う。<br><br>しかし、なんてこたない。<br>世間が変われば、企業が儲からぬと判断すれば、<br>あるいは会社の景気が悪くなれば、<br>機械の体なんてのはあっという間に朽ちるのだな。<br><br>永遠の命は遠い。
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<link>https://ameblo.jp/sudmm/entry-12162460457.html</link>
<pubDate>Sat, 21 May 2016 02:15:25 +0900</pubDate>
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<title>人は不死に前向きにならない</title>
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<![CDATA[ 「死ぬのが怖い」「死にたくない」と<br>考える人は自分だけではない。<br>死んで無になることをひたすら恐れる人はいる。<br>世界中にいるといってもいい。<br><br>しかし人は同時に死に対して諦めてもいる。<br>みんな死ぬ。<br>それを当たり前のこととして<br>自分もいずれ死ぬと受け入れている。<br><br>なぜだろう。<br>不死に対してもっと前向きに取り組んでいいんじゃないか。<br>人類すべての問題だ。<br>死なないことに貪欲になり、研究し、開発していくことはなぜ否定的に捉えられやすいのだろう。<br><br>死を受け入れることに対しては<br>尊敬や同情は得られやすいが<br>寿命を伸ばし、死をなくしていく考え方や手法に<br>好意的な人は少なくなる。<br>みんな死ぬなら死なねばならないのか。<br><br>人類全体を考えるなら代謝しなければならないのか？<br><br>若さにはこだわり、技術を発展させ<br>汎用化していこうとするのに<br>意識と認知の永続性に否定的な人はなんなんだ。<br><br>自分は生きたい。<br>この自分の認知と意識を継続し続けたい。<br>死がなくなるなら喜んで受け入れたい。<br>死にたくない。<br><br>死にたい人、無になることを受け入れたい人を<br>否定しない。<br>それならそれでいいと思う。<br><br>ただ、他者が不死を望むことを否定しないで欲しい。<br>自分を永続化することを望む人を<br>愚かとか人は死ぬから人生は尊いとか<br>説教するのはやめてほしい。<br>ほうっておけば、そう言ってるあなた自身は死ぬんだから、理想の死に方出来るわけだから、<br>他者に「自分の理想の人生」押し付けるなといいたい。<br><br>死にたくないと最後までもがき抵抗することが<br>可哀想とかみっともないとか、<br>自分の尺度で他人の死を評価するな。<br><br>穏やかにだろうが悲しみに暮れてだろうが、<br>苦しみにまみれていようが、<br>死は同じだ、<br>死後誰がどうなにをしようと<br>死んだ本人はもうなにも認知も出来ないんだから<br>死に方をあれこれいうな。<br><br>死にたくない、死ぬのが怖いと<br>震えている人に<br>「死があるから人生は素晴らしい」とかいうな。<br>永遠に続く命をあなたも経験したことは無いのだから<br>もしかしたら生き続け認知し続けるほうが<br>あなたの死より素晴らしいかもしれないわけだ。<br><br>死を経験し語れる人がいないから<br>死を恐れるのは意味がないという理屈も<br>論旨がずれてるとしか思えない。<br>死とは、<br>二度と目覚めない、<br>認知しない、意識できない、<br>なくなるということだ。<br>大半の人はそれを知っていて、<br>一部の人は否認している。<br>それだけのことだ、だからこそ怖いのだ。<br>
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<link>https://ameblo.jp/sudmm/entry-12144084835.html</link>
<pubDate>Mon, 28 Mar 2016 15:14:54 +0900</pubDate>
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<title>恐怖に耐えられなくとも今は明日が来る</title>
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<![CDATA[ 目が覚めた。<br>今は生きている。<br>ホッとする。<br><br>また一日が始まる。<br>しかし必ずこの終は来る。<br>自分が無になるのは恐ろしい。<br>世界が閉じてしまうなんて･･･<br><br>誰か助けてと叫びたくなる。<br><br>いろいろネット検索をしてみると、<br>どうやら無になることを恐れているのは<br>半数満たないようだと感じる。<br>死を恐れていない人がいることに驚く。<br>死後の世界を信じている人はさほど多くない、つまり<br>死んで無になることは、受け容れられるということなのか。<br><br>自分はかなり苦しい経験をしてきたと思うが<br>その時期ですら死は怖かった。<br>無になるのは怖い。<br><br>死ぬことが怖くなくなる自分がある？と<br>思うことすらも怖い。<br>私は感じ続けたい、世の中を、世界を。<br>終わりにしたくない、生まれる前に帰りたくない。
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<link>https://ameblo.jp/sudmm/entry-12143577310.html</link>
<pubDate>Sun, 27 Mar 2016 05:14:54 +0900</pubDate>
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