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<title>マメブロの小説</title>
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<description>こちらは小説です。実在の人物、団体名とは一切関係ありません。「ブラックコーヒー」は①から⑭までで、完結です。</description>
<language>ja</language>
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<title>ブラックコーヒー　⑭</title>
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<![CDATA[ <p><font size="3">ハルとシェフがハヤシライスを食べ終えた頃、司がコーヒーを三つトレイに乗せてテーブルまで運んできた。二つをテーブルに置き、一つは手に持って、そのままハルの隣に腰をおろした。もうほとんど閉店時間間際で、店内に客はいなかった。司の母親がテーブルを丁寧に拭いている。<br>「どうだ、腹いっぱいになったか。」司がもうコーヒーをすすりながらハルに聞いた。<br>「ええ、すっごくおいしかったです。あ、コーヒー、いただきます。」ハルもカップを手に取った。<br>「そういえば、お父さんが倒れられて大変だったそうじゃないか。」千歳に聞いたのだろう、シェフがたずねた。「どうなんだい？」<br>「はい、始めは心配しましたけど、リハビリ次第では後遺症も重くならずにすみそうで、とりあえずはほっとしました。」<br>「そうか。」シェフはにっこり笑った。「お父さんはお仕事は？」<br>「設計事務所をやってるんですけど、今は事務所の人が管理してくれてます。」<br>「へえ。ハルも設計事務所で働いてるんだったよな。」<br>「じゃあ将来的にはお父さんの事務所を継ぐつもりなのかな。」<br>「そうですね。」ハルは自分で確認するように間を置いた。「今まではそのつもりでした。」<br>シェフと司はハルの言葉を待ってくれている。<br>「なんにも考えてなかったけど、ただ漠然といつかは継ぐもんだと思ってました。なんとなく父と同じ仕事を選んで、今は就職したところにいるけど父が引退するころにはきっと俺が継ぐんだろうなって。そうしたら父も喜んでくれると勝手に思ってました。でも今回のことがあって、父を見ていたらそうじゃないんじゃないかって思うんです。母はこの機会に父の事務所を手伝ってくれないかって言ってました。でも、病院で父は麻痺が残るとしても左側だから利き手じゃなくて良かった、って言ってたんです。リハビリして早く復帰しなきゃ渡辺さんに悪いって。あ、共同経営者の人なんですけど、すごく意気込んで話してました。それ見て俺は、俺には出る幕なんてないと思ったんです。ていうか、最初から俺の場所なんてないんじゃないかって。俺が気安く後を継ごうなんて思えるような軽い場所じゃないんです、きっと。」</font></p><p><font size="3">ハルはコーヒーをすすった。<br>「それに、俺もそんな自分の場所を作ってみたいと思うんです。年取っても倒れても、手放したくない自分の場所っていいもんだなって。だから、父の事務所は継ぎたくないんです。自分でいつか独立してやってみたいって、急に考えるようになりました。変ですよね、親が倒れたのに親の仕事を継がない決心をするってのも。」<br>「いやあ、いいんじゃないか。」シェフが笑って言った。<br>「なんだよ、俺には耳が痛い話だな。おやじの店手伝ってる俺にわざと言ってるだろ。」司が茶化す。<br>「いえ、違いますよ。俺、司さん店の味を守ってすげえなあって思ってるし。」<br>「ほんとかよ。」<br>「まだまだ俺には父にまかせてもらえるものなんてないってことですよ。」ハルはコーヒーを全部飲んでカップをソーサーの上に置いた。<br>「さてと、俺、千歳が戻ってくる前に部屋に帰ります。」ハルはシェフと司を交互に見て頭を下げた。「ごちそうさまでした。」<br>「またいつでも食べにおいで。」やさしく言うシェフを見て、ハルはこの人にどれだけ千歳が救われたかがわかる気がした。</font></p><p><font size="3">　</font></p><p><font size="3">エレベーターを降りて、もう慣れた廊下を歩いていきながら、千歳はバッグから鍵を取り出した。長居したわけじゃなかったのに、思ったより時間がかかってしまった。鍵穴に鍵を差し込んでドアを開けると、中が明るいので、千歳は足元を見ていた目をはっと上げた。昔はずっと、ドアを開けて真っ暗だと安心していた。部屋の電気が点いているということは父親がいるということだったからだ。だが、ハルの部屋に一緒に住むようになってから、明るい場所に帰ることがうれしいと思うようになった。ハルが実家に戻ったあとは一人だったから、今日久しぶりに点いている明かりに千歳は思わず声をあげた。<br>「ハル！帰ってきたの！」<br>「おう、ただいま。ていうか、おかえり。」<br>靴も脱ぎっぱなしで千歳はリビングに駆け込んだ。今、いてくれるのがうれしい。<br>「今日戻ってくるなんて言ってなかったのに。もう大丈夫なの？」<br>「ああ、なんかさ、」ハルはテーブルの上に置いてあったコーヒー豆の袋を指差した。「すげぇおいしいコーヒー飲みたいんじゃないかと思ってさ。」<br>いつものように元気に返事が返ってくると思っていたのに、千歳は黙ってハルを見つめて突っ立っていた。泣きたいのか、笑いたいのか、どっちとも取れる顔をして、くちびるを噛んでハルの目をずっと見ている。それから小さく笑って下を向いた。<br>「知ってる？」<br>「なに？」<br>「私もね、すっごいコーヒー飲みたくて、でも、」千歳は手に持っているコンビニのビニール袋をハルに向かって持ち上げた。「今日はたっぷりミルクとお砂糖入れようと思って、牛乳買ってきた。」<br>そういう千歳の顔はなんだかすごくうれしそうだった。<br>ハルも満面の笑みを浮かべた。「・・・・・・そっか。」</font></p><p><font size="3">ハルが二つのカップにコーヒーを注ぐと、千歳がスプーンで砂糖を一杯ずつ入れ、それを両方ともかき回してから買ってきた牛乳をコーヒーに加えた。スプーンで混ぜたばかりのコーヒーの中に、牛乳がマーブル模様を作って渦を巻いていく。<br>ハルがカップを手に取り、千歳に向けて言った。「じゃあ、乾杯。」<br>「うん。乾杯。」<br>二人はカップを少しだけそっと合わせた。小さくカツンと音がした。<br>喉を下りていくコーヒーは甘くやわらかく体を暖めた。</font></p>
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<link>https://ameblo.jp/sugarmelt/entry-10486340045.html</link>
<pubDate>Sat, 20 Mar 2010 05:41:10 +0900</pubDate>
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<title>ブラックコーヒー　⑬</title>
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<![CDATA[ <p><font size="3">千歳は横浜駅の西口からとりあえずどんどん東急ハンズの方向に歩いて、ハンズに出たところで右に曲がって大通りに出た。そのまままっすぐ岡野町の交差点まで出る。カードの地図ではこの交差点を右に曲がる。岡野町の大きな交差点で立ち止まって信号を待ちながら、この先に店なんてあったっけ、とふと考えた。駅からはだいぶ離れているし、ここからは大通りで車やバスはひっきりなしに走っているが、歩いて飲みに来るような店は記憶にはない。一体どんな店で働いているんだろう。歩く距離はわりとあるので色々考えるにはたっぷり時間があった。信号が青になって千歳は交差点を右に渡った。</font></p><p><font size="3">シンプルな地図のとおり、シンプルな道筋で、店はすぐにみつかった。というより、他にあまり店がなくて迷いようがなかった。まったく何もないわけではないので、ぱらぱらとお弁当屋さんやペットショップなどがあるが、カードの店を見つけるには簡単だった。「キャクタス」と書かれたその店の看板が、ログハウス風の丸太木材で作られている店のドアの上に飾ってある。どうやらアメリカンスタイルの飲み屋らしい。パブやクラブを想像していた千歳には意外だった。小さなパブで地味にホステスをやっているんだろうと勝手に思っていたからだ。「キャクタス」の窓にはよくありがちなバドワイザーの電光看板がかかっていて、幌馬車風の車輪や牛骨が外に飾ってある。ドアの前には黒板のメニューが小さいイーゼルに乗せて置いてある。「トルティーヤチップスのアボカドディップ添え」、「チリビーンズ」といった、ひねりのないアメリカンというよりはメキシカンなメニューが書いてあった。</font></p><p><font size="3">「ふん。」千歳はメニューを一通り読んでから店のドアを開けた。<br>カラン、と平べったいベルの音がした。<br>「いらっしゃいませ。」少し遠くにいるウェイターらしき男が千歳を見た。「お二人様ですか？」<br>「いえ、一人です。」<br>「カウンター席でもよろしいですか？」<br>「はい。」<br>「では、こちらにどうぞ。」男は微笑んで千歳を奥のカウンターに案内した。</font></p><p><font size="3">店内もすべて木調でテーブルもイスもそろって丸太風だった。変わった場所にあるわりには客は結構入っている。雰囲気がいいのだろうか。店の名前が「キャクタス」なだけに、中にはあちこちにサボテンが飾ってあった。ちょうどカウンターのわきの壁際に置いてある鉢植えがずいぶん大きくて、千歳は天井まで伸びているサボテンを下から上まで見上げてからカウンターに目を移して凍りついた。</font></p><p><font size="3">カウンターの内側にいてビールを注いでいるのは母親だった。<br>千歳は母親から目を離すことができずに、視線を動かさないまま手探りで案内されたスツールに座った。上着を上半身だけ脱いでそのままスツールの背にかかるように後ろにたらした。心臓はバクバクしているのに、耳は水の中にいるかのように周りの音を拾わない。<br>「刑事に向いてないわね。」<br>突然母親がそう言った。目はビールを注いでいるグラスを見つめたまま、手も止めていない。<br>「・・・・・・え？」それが自分に言われた言葉だとわかるまでに時間がかかった。<br>「あたしが渡したカード、もらったんでしょう。刑事にしちゃ口が軽すぎだわね。」ビールを注ぎ終えるとレバーを離し、グラスをななめ向こうの客に差し出した。「おまちどうさま。」<br>千歳は黙って自分の両手をカウンターの上でぎゅっと握った。<br>「よく私ってわかったね。」話してみるとすごい久しぶりだけど、声は思ったより落ち着いていて普通で良かった、と千歳は自分のことながらほっとした。声がうわずったりするのはいやだと思っていた。<br>「どうしてって言われても説明できないけど、わかるわねえ。それに、警察が来たから近いうち来るだろうと思ってたし。」<br>「そう。」来るだろうとは思ってて、連絡しようとは思ってくれなかったの、と言いたかったがどうしても言葉になって出てこなかった。「何飲む？」<br>「あ、えっと、」千歳はこの場に来て何かを飲むことをまったく考えていなかった。「なんでもいい。」<br>母親は何も言わずにくるりと背を向け、後ろにある棚からグラスを手に取り、カウンターの上に置いた。丸っこい、かわいい安定型のグラスだ。それからリキュールの棚に手を伸ばして上の方から一本取り、次にカウンターの下に置いてある冷蔵庫からジュースを出した。千歳が見ている間に、母親は手際良くグラスにそれらを入れ、マドラーできれいに混ぜた。千歳はただそれをぼんやり見ているだけだった。正直、千歳が考えていた母親像とはまったくかけ離れていて、どうしていいのかわからなかった。母親の顔を見たら、もっと文句を言うつもりだったのかもしれない。大して流行っていそうもないパブで汚い化粧をして働いている母親を見て、馬鹿にしたかったのかもしれない。でも、目の前でグラスの中身をカラカラと涼しい音を立てて混ぜながら、千歳のわからない名前の飲み物を作っている母親は、きちんと仕事をしている人だった。年相応の化粧をしてはいるが、服装は若く見えるさっぱりとしたブルーのシャツを着て、茶色く染めた髪をゆるく上にまとめている母親は、いかにも酔っ払った若い男の子が恋愛相談をしそうなおばさんだ。<br>「はい、どうぞ。」<br>母親はコースターを千歳の前に置いて、その上にさっきのグラスを乗せた。<br>千歳は何も言わずにひとくち、飲んだ。グレープフルーツの味とライチの香りがふわっとただよう、甘いお酒だった。<br>「ふうん。おいしい。」思わず口から言葉が出た。ほめるつもりなんてなかったのに、となぜか思った。<br>「それ、ディタグレープフルーツ。」<br>「ディタ？」<br>「そう、ディタ。」<br>千歳はディタというお酒は聞いたことがなかった。リキュールの名前なのかなんだかわからなかったがそれ以上聞かなかった。ただ黙ってもうひとくち飲んだ。すきっ腹にきゅうっと吸い込まれていく。<br>「で、どうしたの？」<br>「え？何が？」<br>「何がって何かあるから来たんでしょう。」<br>「何がって・・・突然いなくなった母親が働いている場所がわかったら普通会いに来るんじゃない？」<br>「お父さんはどうしてるの？」母親は千歳の質問には答えずにそう聞いた。<br>「知らない。私、引っ越したから。」<br>「そう。まあ誰でもいやになるわよね。」ふっと口の端だけで笑うと千歳の顔を見て言った。「お兄ちゃんもいなくなっちゃったしね。」<br>「知ってたの。」<br>店員が伝えに来たオーダーを聞くと、母親はうなずいて冷蔵庫からタッパーウェアに入っているライムのスライスを一個取り出してコロナのビンの中にプシュッと入れ、それを店員の差し出したトレイの上に乗せた。<br>「あの子、おばあちゃんに連絡したらしいのよ。もう家を出たから私の居場所を教えてくれって。それでおばあちゃんがかわいそうに思って教えたらしいの。その頃はまだこの店じゃなくて他で働いてたんだけど、その当時住んでいた部屋に会いに来たのよ。本当に家出してもうお父さんとは連絡を取ってなかったから、私も特に拒む理由もないしね。今でもこの店にもたまに来るわよ。でも忙しいみたいだから何ヶ月かに一回だけど。」<br>千歳は信じられなかった。あのお兄ちゃんがお母さんの居場所を知っていて会いに来ていた。私があのアパートにいることはお兄ちゃんも知っていたのに自分には何も知らされずにお兄ちゃんはお母さんと会っていた。<br>グラスの中の氷が溶けてカランと下にくずれて納まっていくように、千歳は何かが自分の中に染み込んでいくような気がした。</font></p><p><font size="3">父親にしがみついていたのは自分の方だったのだ。<br>みんなに置いていかれて自分はそこにいるしかないと思っていたのに、離れて行けないと勝手に思っていたのは自分だったのだ。自分を殴らなければいられない父親の手の届くところにいて借金をされたり迷惑をこうむることで、頼られているような気分になっていたのは自分だった。この位置は母親に、お兄ちゃんに、押し付けられたものだとばかり思っていた。でも、それはこんなにもあっさり出て行ける場所だった。そして出て行った外の世界では、みんなが自分のペースでそれぞれの生活を歩んでいた。母親も、憎らしい、自分を捨てたひどい女というよりは、自分が食べていくために働いている、ごく普通のおばさんだった。<br>「これ、いくら？」千歳はグラスを指差した。<br>「いいわよ、今日は。」<br>「ありがとう。」千歳は素直に礼を言ってスツールから降り、上着を手にかけた。「ごちそうさま。」<br>母親はカウンターの上を拭きながら千歳の目を見て言った。「しばらく、ここ辞めないからね。」<br>「そう。」千歳も母親の目を見て、微笑んだ。「でも、私もうここに来なくてもいいみたい。」<br>母親は首だけを少し動かして二度、うなずいた。じっと千歳を見つめていたが、何も言わなかった。<br></font></p><p><font size="3">千歳は上着を手に持ったまま、着ないでさっさと出口まで歩き店のドアを開けた。ありがとうございました、と男の店員の声が響いた。振り返らずにドアを後ろ手で閉めると、ベルの音がリズム良くカランカランと鳴り続けた。</font></p><p><font size="3">駅に向かって千歳はすごく早く歩いた。ブーツの底がカツカツといい音を立て、まだ手に持ったままの上着は千歳のひざあたりをはたはたと波打った。まだ冷たい空気を吸い込んで深く吐き出した時、ディタの甘い香りがただよった。</font></p>
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<pubDate>Sat, 20 Mar 2010 05:39:49 +0900</pubDate>
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<title>ブラックコーヒー　⑫</title>
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<![CDATA[ <p><font size="3">ハルは実家から毎日千歳に電話をしていた。千歳の仕事が終わる時間まではたわいない話をメールで入れ、終わった頃を見計らって電話をかけた。千歳はメールには休憩時間になるべく返事をしてきたし、仕事が長引いてハルの電話に出られなかった時でも、レストランを出ればすぐに折り返しかけてきた。この日も普通になんてことないメールを会社から送ったのだが、メールの返事はいくら待っても帰って来なかった。普段意外にこういう連絡事に関してはマメな千歳を知っているのでハルはちょっと気になった。メールの返事もできないほどバイトが忙しいのか、それとも寝ているのか。しかし、昨日のメールでは大きな予約が入っているとか最近忙しいとかは言っていなかったし、バイトが休みだとも言っていなかったので、寝ているとも考えづらい。休憩時間にたまたま何かやらなければいけないことが入ってメールできないとしても、やはり気になってしまう。あとで電話がかかってくるさ、とハルは自分を納得させようとしたが、今まで一緒に暮らしていたのが急に四日も会っていないことも手伝って、考え始めると止まらなくなってしまった。</font></p><p><font size="3">「もしもし、母さん？」ハルは家に電話をした。「俺、今日マンションに帰るわ。父さんもとりあえず安定してるし。」<br>「そう、そうね。うちからじゃ不便だしね。会社から直接行くの？」<br>「うん。荷物はまた近いうちに取りに行くから置いといてよ。」<br>「わかったわ。じゃあまた来る前に電話ちょうだい。」<br>「うん、そうするよ。じゃ。」<br>ハルは電話を切ると、急いで事務所を出た。メールの返事が来ないくらいでばかばかしい。そう思いながら、ハルは千歳がバイトしているレストランに向かうために駅へ走った。</font></p><p><font size="3">　</font></p><p><font size="3">千歳が横浜駅に着いた時はもうすっかり暗くなっていた。<br>横浜駅に来るのは久しぶりだった。だいぶ春らしくなってきていても、夜になるとまだ肌寒い。でも、冷たい風が気分をきりっとさせて心地よかった。いよいよだと思う反面、突然向こうからやってきたということもあって、なんだか胸はざわざわしている。電車の中で何度も確認した、もらったカードをもう一度見てみた。小さくてものすごく簡単な地図が書いてある。かなりわかりづらいが、横浜の土地勘のある千歳は大体の見当がついた。駅からはちょっと遠そうだ。十五分は歩くだろう。横浜駅はいつもそうであるようにものすごい人ごみで、にぎやかで、明るい。千歳はそれをぼんやり見ている自分が別世界にいるようだと思った。足を踏み出すと、西口を出てからすぐの信号が赤に変わってまた立ち止った。金髪で白いえりを立て、黒っぽいスーツを着たお兄さんがすかさず話しかけてくる。千歳はスーツの彼の目に入っているグレーのカラーコンタクトを見つめながら、ハルはどうしてるかなあと考えた。そのスーツの彼があまりに何ひとつハルに似ていないので、ハルがなつかしくなって急に会いたくなった。</font></p><p><br><font size="3">ハルは千歳のバイト先の場所は知らなかったが、千歳が前に住んでいたアパートからそう遠くないということと、レストランの名前で、駅の交番で聞くとあっさり場所がわかった。昔からやっている商店街のレストランだから、きっと地元の人ならみんな知っているのだろう。<br>商店街はそんなににぎやかでもないがさびれている風でもなく、やたらにうるさいパチンコ屋と携帯ショップの勧誘が活気を出していた。商店街の通りを少し歩いて一本奥に入った所にその古びたレストランはあった。ドアの上にかかっているテント風の屋根と看板は新しいらしく、そこだけ年季の入った壁に取って付けたように色があざやかだ。まだ閉店時間には間があるが、ハルはちょっと躊躇してからドアを開けた。ちりんちりんとドアの上にぶら下がっているベルの音が響いた。</font></p><p><br><font size="3">「いらっしゃいませ！」女性が振り向いてハルに声をかけた。「お一人様ですか？」<br>「はい。」ハルは答えながら、この人が司のお母さんかな、と思った。ショートカットが似合う明るい笑顔で、年齢にしては意外に背が高く細身だ。<br>「どうぞ。」案内しようとした彼女を、ハルは咄嗟に呼び止めた。<br>「あ、あのっ。」<br>「はい？」<br>「こちらに千歳さんはいらっしゃいますか。」<br>「あら。」彼女は立ち止ってハルの顔をじっと見ながら突然おばさん口調になった。「またちーちゃんのお客さんなの？」<br>「また？」<br>「ちょっと待ってて。」どうしてまたなのか聞こうとしたハルの言葉を聞かないうちに、おばさんは奥にすたすた入って行ってしまった。<br>「ねえ、またちーちゃんいないかってお客さんが来てるんだけど。今度は誰かしら。」最後のは小声で言っていたがハルにはしっかり聞こえてしまった。すると厨房につながっている出入り口からシェフの白い服を着た男が二人顔を出した。一人は司だった。<br>「あー！なんだ、ハルかあ！」司はハルの顔を見るなり満面の笑みで近づいてきてハルの肩をバンバン叩いた。「こっち来いよ。」そしてハルを厨房の出入り口近くまで連れて行った。<br>「おやじ、彼がちーちゃんの彼氏だよ、ハル。」<br>「ああ、そうか。」おやじと呼ばれたその男の人は手を拭きながらハルに近づいてにっこり笑った。<br>「千歳がお世話になってるそうで。」体格の良い体に熊のようなヒゲを生やした司の父親は、絵に描いたようなシェフだった。差し出された手を握ると、分厚くて、あちこちに小さいやけどの跡がいくつも見えた。<br>「いやだ、早く言ってよ。そう、あなたがハルくんなの。食事していってよね。さあどうぞどうぞ。」<br>なんだかわからないうちにハルは一番奥のテーブルに通されてしまった。厨房から千歳がひょっこり顔を出すものとばかり思っていたのに、千歳は現れない。<br>「わたしも一緒に座るよ。」司のお父さんがエプロンをはずした。<br>「ああ、もうほとんど終わりだからいいよ。」司が厨房から顔を出した。「ハル、何でも好きなもん食ってくれよな。」<br>「うん、ありがとう。」ハルはメニューを手に取りながら店内を見回してみた。店はこじんまりとして古くはあるがきれいに手入れされている。もう残っている客は少なく、ほとんどのテーブルは空いている。テーブルは五個ずつ、二列に並んでいて、みんな四人掛けだ。満席なら、家族だけでまわしていくのは忙しいだろう。<br>「決まりましたかな。」<br>「あっ、はい、じゃあハヤシライスを。」ハルは咄嗟に食べやすそうなものにした。司のお父さんがわざわざ一緒に座ったということは、何か話があるのだと思ったからだ。フォークとナイフで切りながら食べるようなものだと集中して聞けない気がした。<br>「じゃあ私もそれにしよう。」そう言って中の司に聞こえるように少し大きな声で「ハヤシふたつ。」と言った。<br>「千歳に会いに来たんでしょう。」前置きなく、彼が聞いた。<br>「はい。今日はメールしても返事がなかったので、突然失礼かもしれないと思いましたが・・・。」<br>「いやいや、うちは店をやってお客さんを迎えているんだ。突然来てくれたってまったくかまわない。千歳は普段どおり仕事をしていたんだが、たまたま今日はちょっと出かけたんだよ。」<br>「はい。」ハルはおとなしく次の言葉を待った。<br>「今日ここに警察が千歳をたずねて来てね。」<br>「警察？」<br>「ああ。被害届けが出されたんだそうだ。」<br>「被害届け？なんのですか？」<br>「ほら、引っ越しの時ビデオ屋が来てたって言ってただろう。その人がどうにもならなくなって警察に被害届けを出したんだよ。」<br>「ああ・・・。なんだ臆病もんだったんだな。」<br>「ははは。まあ、警察に言っても営業停止になるかもしれんが、それよりもやくざに脅される生活に絶えられなかったんだろう。やくざに搾り取られるより、警察に色々聞かれてからでもよそに行けばまた店ができるかもしれん。彼は君達には自主制作ビデオはまだ撮影していなかったと言っていたらしいが、その問題の女の子では撮っていなかったというだけで、違う作品はすでに作っていたらしいんだよ。」<br>「あいつ・・・じゃあウソついてたんですね。」<br>「ああ、千歳も同じことを言っていたよ。ずいぶん前に作っていたらしくてそれをレンタルしていたそうだが、その品揃えが古いのを見て、千歳のおやじさんが声をかけたらしいんだな。」<br>「新しいのを作らないかと。」<br>「そうだ。で、二人で一本撮影したはいいが、二作目で例の女の子にひっかかったわけだ。そこで、被害届けを出された警察は一応共犯者である千歳のおやじさんも探すことにしたんだが、すっかり逃げちまっていてわからない。それで娘の千歳に事情聴取に来たわけだ。行き先を知っているかもしれないからな。」<br>「もし知っていたら喜んで教えるでしょうね。」<br>「ああ、千歳も教えられなくて残念だと言っていたよ。ああいうの、自分も迷惑だからぜひ捕まえてくださいってな。そうしたらな、警察が奥さんも娘さんもそろって知らないんですね、と言ったんだ。」<br>「奥さん・・・？」<br>「千歳のお母さんのことだよ。」<br>「まさか。」<br>「不思議なもんだな。長い間どうしているのかわからなかったのに、警察が調べると案外簡単にわかるもんなんだ。警察がお母さんの実家に聞きに行ったら、お母さんは妹さんには居場所を教えていたそうだ。」<br>「おやじさんとは離婚してたんじゃなかったんですか。」<br>「突然いなくなっただけだから、離婚の手続きも何もしていないんだよ。まだそのままだ。」<br>「・・・・・・。」<br>「千歳は警官にお母さんの居場所を教えてくれと頼んだんだ。父親の消息も知らなければ母親がどこにいるのかもわからないことに警官もちょっと驚いていたよ。最近は個人情報保護法とかがあるから簡単には教えられないと彼は言ったんだが、胸ポケットから一枚のカードを出してな、横浜にあるこの店が人気だから行ってみたらいいと言って、千歳にくれたんだ。」<br>「それが・・・。」<br>「ああ。たぶん母親の務め先だと思う。千歳はそのカードをもらってから上の空だから、もう上がっていいって行かせたんだよ。」<br>「それって横浜のなんて店なんですか？」慌てて立ち上がろうとしたハルの腕をシェフはぎゅっと掴んだ。<br>「邪魔をするな。ここでわたしとハヤシを食って、部屋に戻って待ってろ。」<br>ハルは何も言えずに、テーブルに置かれているハヤシライスを見つめて、もう一度腰をおろした。<br>「・・・なんで、母親の実家に消息を聞くなんて簡単なこと、今まで千歳はしなかったんでしょうか。」<br>「いや、したかもしれんよ。でも、相手が千歳じゃ向こうが何も教えなかったのかもしれん。」<br>「そんな・・・。」その時ふと、ハルは以前母親の話をした時に一度だけ千歳が泣いたのを思い出した。<br>「だから千歳は母親の話をした時にだけ、泣いたりしたんでしょうか。母親の実家ってことは千歳にとっては田舎で、おばあちゃんとかがいるわけじゃないですか。あんまりかわいがられてなかったんでしょうか。」<br>「いや、そうじゃないだろう。」<br>「え？」<br>「確かに暴力を振るわれるのはきつい。だが、父親はいつも千歳の所に戻ってきて殴ったり金を持って行ったりする。それは逆に考えてみれば父親の頭の中にはいつも千歳がいるということだ。それに反して母親は家を出て行ったっきり、千歳には無関心だろう。人間は暴力を振るわれるよりも、放棄されることの方が辛いってことだよ。だから千歳は父親のことはもうどうでもいいはずだ。母親との方がよほど傷ついているんだよ。」<br>まったく思いも及んでなかった言葉に、ハルは自分の鈍さを痛感した。そうだ、いじめだって無視されるのが一番辛いって言うじゃないか。そんなこと誰だって知っている。殴られても殴られても淡々としていた千歳が涙を流した時、どうして気が付かなかったんだろう。<br>「どうした、さあ食べよう。」<br>「はい。」ハルはスプーンを手に取りハヤシを見つめた。<br>「でも、そんな母親と今日会って、もっと傷付くんじゃないんでしょうか？」<br>「もちろん、そうなるかもしれん。でも、あの子にとっては、会わなければ何も進まないだろう？会ってから先は、あの子次第だ。」<br>ハルはしばらくその言葉を頭の中で繰り返した。それから、黙ってひとくちハヤシライスを食べた。時間も手間もかけて作られていることを主張する濃厚な味が口いっぱいに広がった。<br>おいしかった。<br></font></p>
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<pubDate>Sat, 20 Mar 2010 05:38:22 +0900</pubDate>
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<title>ブラックコーヒー　⑪</title>
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<![CDATA[ <p><font size="3">引っ越しがすんでしまうとずいぶん落ち着いた感じがしたが、千歳の荷物を運び入れると、ハルの部屋もごちゃごちゃしてきた。マンションといっても豪華なものではなく、階も三階までしかない建物で家賃も高くない。ただ築が古い分、他の物件よりは少し広めの間取りでハルはそれが気に入っていた。しかしいくら広めとはいえ、二人で住むとなると窮屈感がどうしても出てきてしまい、やはりもう少し広い部屋を早く見つけた方がいいだろうとハルは考えていた。だが、千歳は狭くなった部屋でも機嫌良く、何か憑き物が落ちたような生活ぶりで、そんな千歳を見るとハルは引っ越し物件を探すのが面倒くさく思えるくらいだった。ハルは最初、ここに千歳を連れてきたことにちょっと責任を感じてもいた。もちろん、あのまま放っておくことはできなかった。そして今は、連れてきたからには、千歳がなるべく普通に元気でいられる環境を作りたいと思うようになった。でも、普通ってなんだろう？俺の考える「普通」に合わせるかたちでいいんだろうか？</font></p><p><br><font size="3">そんなことを考えながらなんとなく過ごして１ヶ月ほど経った頃、ハルの携帯に珍しく実家の母親から電話がかかってきた。電話自体が久しぶりだったし、母親はあまり携帯に電話をかけてこないので少し驚いた。かけてくるならいつも部屋の電話なのだ。ハルは携帯があるから部屋の電話を解約してしまおうと何度も考えたが、母親がいつもかけてくるので仕方なくそのままにしていたのだ。</font></p><p><font size="3">千歳が仕事から戻ってくると、ハルが大きめのボストンバッグに荷物を詰めていた。<br>「なに？どこか行くの？出張？」<br>手を止めずにハルが振り向いた。<br>「いや、今日母さんから電話かかってきてさ。なんか、おやじ倒れたんだって。」<br>「そ、そうなの。」千歳はどうリアクションしていいのかわからなかった。こういう場面には出くわしたことがない。「大丈夫なの？」<br>「ああ、なんか命にかかわるとかじゃないらしいんだ。でも入院してるって言うから一応な、様子見に行って来るよ。」<br>「うん、わかった。心配だよね。大丈夫だといいね。」<br>「ああ、平気だと思うよ。それより、千歳、一人で大丈夫か？」<br>千歳はにっこり笑って椅子に座った。<br>「私は大丈夫だよ。今までも一人暮らししてたじゃん。」<br>「そうだよな。しばらく向こうから仕事に行くようになると思うけど、なるべくすぐ帰ってくるよ。」<br>「そういえば、実家ってどこなの？」<br>「逗子。」<br>「逗子。もしかして、お金持ち？」<br>「いや、土地が値上がりしてから移り住んだ金持ちじゃなくて、昔からそこが地元なんだよ。」<br>「へぇ～。」何が違うのかよくわからなかったが、千歳は何も言わなかった。<br>「電話するよ。」<br>「うん。」<br>千歳は荷物を詰めるハルをただ眺めた。それから五分くらいかかってハルは手際よく必要な物だけを入れ終えると、バッグを肩にかけ車のキーをつかみ、それから一瞬黙って千歳の顔を見つめた。<br>「じゃ、行ってくる。」<br>千歳も椅子から立ち上がってハルの顔を見つめ返した。<br>「うん。行ってらっしゃい。気をつけてね。」<br>ハルはバッグがぶつからないように手で押さえながら、もう片方の腕を千歳の体にまわしてぎゅっと抱きしめ、キスをした。それから軽く手を振って部屋を出て行った。</font></p><p><br><font size="3">次の日の朝、すぐにハルは千歳に電話をかけた。<br>母親の報告によれば、父親は脳卒中だった。いつもどおり仕事から戻ってきて食事をし、食べ終わって席を立った時に倒れたらしい。母親がいた目の前で倒れたのですぐに救急車を呼べたのが、後の症状の軽さにつながったと医者は言った。やはり早期発見と迅速な対処が一番のキーポイントだそうだ。それは素人のハルにもわかる。実際、ハルは病室に入って父親を見て安心すらした。やはり最悪の状況を覚悟して行ったのだが、父親は見た目もそんなにひどくはなく、麻痺も体の左側が少ししびれる程度だと本人が話した。しゃべり方も舌っ足らずな印象を与えはするが特有の不自由な感じまではなく、話をする時の顔つきもひきつれたりする程ではなかった。不幸中の幸いと言うべきだろう。父親は現役で設計事務所を経営しているので、他人から見ても年よりはずっと若く見えたし、体力もある。きっと回復も早いにちがいないと期待するかたわら、やはりもう親が倒れる年になったのだという、暗くて大きな波にのまれるような感覚が、病院の冷たい床から足をつたって這い上がってくる気がした。今回は病状も後遺症も比較的軽くて幸いだったが、これからだってどうなるかわからない。今回のことは将来を真面目に考える良い機会なのだろう。</font></p><p><font size="3">「今日はどうするの。」病室から出て来たハルに、廊下で待っていた母親が心配そうに声をかけた。<br>「ああ、」ハルは自分よりもずっと小さくなった疲れ気味の母親を見て、ちょっとほったらかしすぎたかな、と罪悪感を覚えた。<br>「今日は泊まる準備してきたからうちで寝るよ。明日はそのまま仕事に行くから。もし父さんが大丈夫そうなら、ようすを見てマンションに戻る。」<br>「そう、わかったわ。じゃあ今日は泊まっていけるのね。よかった。シンジ、一足先に戻って家で待ってるのよ。」<br>「ああ、シンジ来てたんだ。」シンジに会うのは久しぶりだ。ハルは大学生になってからアパートで一人暮らしをしていたが、家を出てからもしばらくはシンジの方から遊びに来たりしていた。実家に住んでいる高校生の男の子には、兄貴の部屋は格好の息抜きの場所だったのだろう。しかし仕事を始めて今のマンションに引っ越してからはあまり顔を見せなくなった。シンジも大学生になってハルのように安アパートだが一人暮らしをするようになり、もう兄貴は必要ないみたいだった。別に仲が悪くなったわけではないが、自然と連絡を取らなくなっていた。</font></p><p><font size="3">病院から家へ帰るタクシーの中で、ハルと母親は一言も口をきかなかった。ハルは黙っているつもりがあったわけじゃなく、母親が何か愚痴めいたものを言うだろうと思っていたのでそれに受け答えをするつもりだったのだが、いつまで待っても母親は何も言わなかった。普段はよくしゃべる母親が黙っているのはなんだか不気味にさえ思えた。もしかして父親の容態は実はもっと悪いんじゃないか。そんなことを思いながら気まずくて、外の景色を見ながら今頃千歳はなんの料理を作っているんだろうとぼんやり考えた。そうだ、実家から戻ったら、一度千歳がバイトしている洋食屋に食べに行ってみよう。千歳は厨房で働いているから表には出ないと言っていたが、別にかまわない。どんなメニューで、どんな味のものを出すのか、実際に食べてみたい。そしてふと、自分が全然父親のことを考えていないことに気が付いた。心配してないわけじゃない。でもどうしてだか、考えたくない。</font></p><p><font size="3">実家に着くと、家に戻るのも久しぶりだったことを思い出した。子供の頃を思い出させる家のにおい。<br>シンジはハルの顔を見て「よっ。」と小さく言っただけで、またテレビに目をうつした。<br>「あのね。」口を開いたのは母親だった。<br>「お父さんだけどね、今の症状が良くなれば、すぐにリハビリの方に移れるんだって。」<br>「そう。良かったよ、本当に深刻じゃなくて。」<br>「でも、リハビリがどれくらいかかるのか、まだ全然わからないのよ。」<br>「いや、俺はもっと生死にかかわるような状況も覚悟してたからさ。そんなに早くリハビリに移行できるんなら、致命的じゃないってことだろ。」<br>「それはそうね。お医者様がとてもラッキーだったっておっしゃってたわ。麻痺も残るそうだけど、リハビリ次第では軽くてすむそうだから。」<br>ハルは冷蔵庫からいつも母親が作って常備してある麦茶を出してコップに注ぎ、一気に飲み干した。病院でやけに喉が渇いた。<br>「まあさ、俺なんかには脳卒中って言われても、脳梗塞とか脳内出血とかとの違いもわかんないしな。だから病名とかよりもさ、そういうこれからのことを言ってくれた方がわかりやすいよ。」<br>「事務所はどうしてるの？」シンジがテレビからくるりとこちらを向いた。<br>「渡辺さんがやってくれてるわ。」<br>「ま、そうだろうね。じゃあ、一人で大変なんじゃないの。」そう言うわりにはシンジは関心なさそうに見える。</font></p><p><font size="3">渡辺さんは父が入社した時の同期で、二人でいつもいつか独立しようと話し、それを実現して共同経営者として今の設計事務所を立ち上げた人だ。本来なら父が倒れている間事務所を他の誰かに任せたら、金銭面や経営面での心配も普通はありそうなものだが、ハルは子供の頃から父親と一緒に働く渡辺さんを見てきて全面的に信用できた。もちろんいくら長年一緒に仕事をしてきても裏切る人はいるだろう。が、渡辺さんはそういう人種とは一番遠い所にいる人のように思えた。なによりも父と二人でやってきた、小さいながらも自分達の城である事務所を誇りに思っているのが伺えた。渡辺さんが仕切っているのなら、父の事務所は心配することはないだろう。</font></p><p><font size="3">「でもさ、」ハルは落ち着きなく無駄に動きまわっている母親を呼び止めた。「ちょっとは座れば。でもさ、軽くてすんでラッキーだってわりには、母さんタクシーの中でもなんにもしゃべらなかったじゃん。他にもなんかあんの？」<br>「他にも何かってね、あなた。」母親はキッとハルの方に振り向き、下からすごい目つきで睨んだ目は赤く血走っていた。「あなたたちはいなかったからわからないでしょうけど、お母さん、大変だったのよ！急にお父さん黙ってしゃがみこんで、どうしたの、って隣に膝をついたらそのままゆっくり私によりかかるように倒れちゃったのよ。しかもそれっきり動かないじゃない！一人で、もうどうしようかと思ったわよ。倒れた時にどうしていいかなんてわからないし、電話で救急車呼んで来るまでの間がものすごく長かったわ！わかる？」<br>「わかった、わかった、わかったよ。大変だったよね。」<br>「もう、お母さんも寿命が縮んじゃうわよ。」母親は少し目に涙がにじんでいた。<br>ハルは地雷を踏んだので慌てて麦茶のコップを持ってシンジの座っているソファに自分も座り、テレビを見るフリをした。シンジが小さく「バーカ。」と言って笑った。</font></p><p><font size="3">実家で寝泊りするのは正月以来で、そのせいかどうかはわからないが、ハルはなんだか妙な感じがした。そんなに久しぶりでもないのに、なんだかちっともくつろげないのだ。生まれて育った家なのに、イベントもないのにやってきて客のような居心地悪さと、すみずみまでよくわかっているなつかしさとがごちゃまぜになって、どうも落ち着かない。家を出てからも休みのたびには戻ってきたことがあるのに、どうして今回はこんなに変な感じがするのか、自分でも不思議だった。そしてその違和感は、頭の中で千歳のことばかり考えてしまっているからかもしれないとも思っていた。自分の今まで見てきた千歳のイメージとこの家があまりにもかけはなれていて馴染むことがなく、そのため千歳のことを考えている自分も異質なものの側に立っている気がするのだった。今までももちろん彼女がいたことはある。実家にも大層な紹介などではなく、遊びに連れてきたこともあった。しかし、千歳ほど自分自身がむき出しになって向き合っていると感じる相手はいなかった。千歳といると、ハプニングのスピードが早くてつい素のまま対応してしまい、結果最初からよくも悪くも自分を出したままやってきた。千歳に対してはええ格好しいをする暇もなかったのだ。そして今実家に来てみて、昔ここに住んでいた頃の自分と、最近の自分が違ってきていることが実感できた。</font></p><p><font size="3">ハルは結局ずるずると実家にいた。父親の状況はそんなに急に変わるわけでもなく小康状態だ。だがこれ以上悪くはならなくても世話は必要で、母親は何かとあわただしく病院に通わなければならなかった。完全看護の病院であっても、家族のやることはたくさんあるものである。しかし普通に会社に行くハルがそれらを手伝えるわけでもなく、実家にいてもそこから会社に通い、帰ってきて母親の一日の報告を聞く日が続いた。シンジも大して変わらなかった。大学ももう終盤にさしかかり、卒業準備でゼミのレポート提出やらテストやら、留年するわけにはいかないだけに本当に忙しそうだった。これでは実家にいてもマンションにいても同じじゃないかと思い始めた四日目、いつものように千歳にメールをしたが、返事が返ってこなかった。<br></font></p>
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<pubDate>Sat, 20 Mar 2010 05:37:11 +0900</pubDate>
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<title>ブラックコーヒー　⑩</title>
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<![CDATA[ <p><font size="3">当日は遠足に行きたくなるくらいにきれいに晴れて、アパートに向かって走る軽トラックは映画のワンシーンみたいだった。ハルが運転するトラックに千歳が乗り、山口と司と文乃は現地集合だ。ハルのマンションからさほど遠くはないのですぐに千歳のアパートが見えてくると、千歳は誰かが部屋の前に立っているのに気がついた。集合時間より早めに着いてしまいそうだと思っていたのに、誰がこんなに早く到着しているんだろうと思い、目を凝らして見ていたが、どれだけ近づいてもその人影は見慣れない誰かのままだった。</font></p><p><font size="3">アパートの目の前の車道にひとまずトラックを停め、千歳とハルは車から降りた。ちょうど千歳の部屋のドアの前に見知らぬ男が立ってこちらを見ている。<br>「お父さんいないみたいだね。」千歳は小声でハルに耳打ちした。<br>「うーん・・・。借金取りかな？」二人とも視線はその男に向けたままで、ハルも小声で千歳に言った。<br>「それにしちゃ、気が弱そうだよね。」千歳が言い終わらるか終わらないかのうちに、その男が口を開いた。<br>「あの、」言ってから自分でごくりとつばを飲み込んで、また続けた。「どなたですか？」<br>「どなたって・・・。」千歳は嫌な予感がよぎるのを無視できなかった。また何か面倒臭そうなことになりそうだ。「ここの部屋の住人ですけど。」<br>すると彼はずいぶん驚いた様子で小さく「えっ。」と叫んだ。<br>「あなたはどういう・・・」千歳が聞こうとすると、さえぎるようにまたその男が聞いた。<br>「ここって、この部屋ですよね？」ドアを指す。<br>「ええ、そうです。まあ住人ていっても、今これから引っ越しするんですけど。」<br>「引っ越し？引っ越しって・・・じゃあ藤さんはどこに？」<br>「は？富士山？」千歳はまったく話が見えなかった。<br>「そうです、僕、藤さんと一緒にちょっとある企画をしていて、それで藤さんを探しているんです。企画の途中なのに藤さんがいなくなってしまったんですよ。このアパートが藤さんの部屋だったんですけど。」<br>「ちょ、ちょっと待って、そのフジさんって山の富士山じゃないんだ？なに、人の名前？」<br>「ええ、ここが自分の部屋だからって僕も紹介されてお邪魔したこともあるんですよ。なのに、あれから何回来ても留守みたいで・・・。」</font></p><p><font size="3">千歳とハルにはなんとなく見えてきた。きっと千歳がいない間に父親が適当なことを言ってこの部屋を使っていたに違いない。フジさんと言っているのは多分父親がこの男にそう名乗っていたのだろう。でもこの男が部屋の前でずっと待っているということは、何かまずいことがあって、父親は逃げているに違いない。それなら部屋の中にはもういないだろう。<br>「あ、すいません、じゃあちょっと部屋の中で話聞かせてください。ここで三人で突っ立ってるのもなんですから。」千歳は鍵をバッグから取り出してドアを開けた。千歳のすぐ後にハルが続いて部屋に入り、一番最後に遠慮がちに男が入ってきた。中をキョロキョロしながら見回している。</font></p><p><font size="3">中はさほど散らかっているわけではなかった。父親はこの男に自分の部屋だと言っていたらしいが、それもあってわざとなるべく汚さないようにしていたのだろう。何かたくらみがあって使おうとしていたに違いない。千歳は詳しく話を聞き出そうと思っていた。<br></font></p><p><font size="3">低いテーブルの周りに座布団を敷いて座り、正面から男の顔を覗き込んだ。<br>「で、そのフジさんってなんて言ってたんですか？」<br>「いやぁ・・・・・・。」男は始め言いにくそうに下を向いていたが、自分が話さなければどうにもならないとあきらめたのか、ポツポツ説明し始めた。<br></font></p><p><font size="3">「僕はレンタルビデオ屋をやっています。大手のチェーン店みたいなのとは違って、個人営業の店です。昔は父親が写真店をやっていたんですが、デジカメが出てくるにつれて写真店に現像を頼む人も減ったので、僕が店を継ぐ時にレンタルビデオ屋を始めたんです。レンタルビデオでは、もちろんどこの店でもアダルトを置いてあります。大切な人気ジャンルです。やっぱりアダルトはレンタルするのが一番手軽ですからね。で、うちはお客さんが借りやすいようにアダルトコーナーの中に別のレジがあって、他のお客様に気兼ねすることなく、アダルトだけそこで会計できるようにしてあるんです。ある日、そのアダルトコーナーのレジに藤さんが来て、僕に聞きたいことがあると言いました。」<br>「その時、自分の名前をフジって言ったの？」千歳が話をさえ切った。<br>「あ、はい。藤タツヤって言いました。」<br>「はあ？あなた、ビデオ屋やってて、藤タツヤって名乗るオッサンをなんとも思わなかったの？」<br>「ええ、思いましたよ。同姓同名っているんだなあって。」<br>「いや、それって偽名でしょ、普通。」ハルも耐え切れず突っ込みを入れた。<br>「あっ、偽名ですか？いや、そうか・・・。」その男は本当に今気がついたという顔をした。<br>「ねえ、あなた今まで他にもだまされてるでしょ。ま、いいや、でその藤タツヤはなんて言ったの？」<br>「え、それで藤さんはですね、オリジナルはないかと聞いたんです。」<br>「オリジナル？」<br>「はい、オリジナルです。つまり、まあ自分達で撮影したビデオですね。」<br>「アダルトの？」<br>「ええ。やっている所もなくはないんですよ。もちろん大っぴらに店に並べるわけにはいきませんけどね。」<br>「どうして？」自分の店だったら自分で撮ったビデオを置いても文句を言う人はいないんじゃないんだろうか、と千歳は不思議に思った。内容のおもしろさは別にして。<br>「そりゃ、違法だからですよ。」<br>「えっ、いけないの？」<br>「だって、自主撮影だからモザイクなしじゃないですか。」<br>「はあー・・・・・・なるほど・・・。」やっと話が飲み込めてきた。大体、千歳はアダルトビデオをレンタルショップで借りたことがないし、システム自体をあまり理解していない部分があった。しかしここまで聞いてやっとわかってきた。大手のチェーン店でない個人の店だからこそ、ある程度の自由がきく。規模は小さい店だが、そうやってちょっと裏家業をすることによって固定客を掴んでいる店もあるのだろう。そして父親はそのことを見越して、この店長に違法ビデオは作ってないのかと聞いたのだろう。</font></p><p><font size="3">「僕の商売仲間で自主撮影ビデオをこっそりレンタルしている人もいます。でも僕はやったことなかったので、うちにはないと言いました。すると、藤さんは簡単だしいい商売になるから一緒にやってみないかと言ったんです。前にもやったことあるからやり方はわかっているし、言うとおりにやればいいって。」<br>「ふーん。それで？」このへんから千歳は自分の目がきつくなるのがわかった。あの父親は本当に相変わらずだ。<br>「カメラは普通のビデオカメラでいいって言ってました。親が子供の運動会を撮影するような普通のやつです。それは僕も持っていましたから、何の問題もありません。次に、出演してくれる女の子を探しに行こうと言われて、一緒に出会い系に電話しました。電話は藤さんがしゃべって、最初はなんてことない世間話をしてました。それで見込みのありそうな、明るくて細かいことにこだわらず、金額を言えばケロッと協力してくれそうな女の子だなと思ったら撮影の話をしました。１０人くらい話してからでしょうか、一人、会ってもいいという女の子が出てきたんです。」男は淡々と話を続けた。</font></p><p><font size="3">「僕達は渋谷で待ち合わせしました。彼女はサユリさんと言って、もちろん本当の名前かどうかは知りませんが、そんなのはどうでも良かったんです。僕達も説明をしました。モザイクなしならお客様はなんでも喜ぶから、何も男と本番をやらなくてもいいと藤さんが言ったんです。一人でやってるところを撮影させてくれればオーケーだって。サユリさんはそれで承諾して、まず僕達は彼女の顔だけを僕の携帯で撮って名前を登録しました。じゃないとこの後また候補者が現れたらごちゃごちゃになっちゃいますからね。リスト作りです。僕達はサユリさんの顔写真を撮ってから、そこに名前と連絡先の携帯番号を入力しました。こちらの携帯番号と店の電話番号も教えました。その方が信用してくれると思ったんです。」そこで男は少しだまって居住まいを正した。汗をかき、目はおどおどとおびえている。<br>「でもそれが失敗でした。次の日、サユリさんから、僕の携帯に連絡が来ました。その日に会いたいと言うので藤さんも一緒に会うことにしたんです。撮影は藤さんが自分の部屋、つまりここを使っていいと言ってくれていたので、ここに来てくれるように頼みました。藤さんはこの部屋は撮影用に借りてあるんだって言ってました。」<br>「はあー？撮影用ってあの大ウソつき！私の部屋じゃん！」<br>「そうだったんですね。中に入ってみたら女の子らしい部屋だなと思ったので、本当に撮影用に常備してあるんだと思いました。」<br>「あのクソ親父～。」<br>「でも問題はここからです。」男はぐぐっと千歳の目をのぞきこんだ。<br>「一人じゃなかったんですよ。」<br>「え？」<br>「サユリさんは一人で来たんじゃなくて、男の人を一緒に連れて来たんです。」<br>コンコン。突然ドアを叩く音がした。そしてすぐに文乃が呼んだ。「ちょっと、中にいるの？待ち合わせ、外じゃなかったっけ？」<br>千歳は店長に手で押さえるジェスチャーをして話を中断させてから、玄関に走った。千歳がドアノブに手をかけようとした直前にドアが開いて文乃が覗き込んだ。「なんだ、いるんじゃない。お父さん、いないの？」<br>「うん、いないいない。それより中入って。今盛り上がってるところなんだから。」急いで靴を脱いでいる文乃のそでを千歳が引っ張ると、文乃の後ろから司が芋づる式に顔を出した。「あの、俺も外で待ってたんだけど・・・。」<br>「なに、もう、早く早く。」千歳はさっさと中に入ってさっきまで自分が座っていた座布団に戻った。文乃が後に続いて千歳の隣に座り、司もわけがわからないままとにかく上がることにして靴を脱ぎ、二人を追ってテーブルについた。<br>「いきなりギャラリーが増えましたね。」男はもう乾いてしまった汗を拭くしぐさをして、ふうと息を吐いた。「こんなに取り囲まれるとどうも話づらいです。」<br>「何言ってんの、話しづらいです、じゃないよ。どこまでいったっけ？」<br>「やっぱり続けますか。」<br>「当たり前でしょ。ここでやめてどうすんのよ。」<br>「そ、それはそうですね。では、えー、そのサユリさんですが、男の人と一緒に来たんです。」<br>「あー、そうだった、そうだったね。」<br>「はい、そして、その男の人というのが、どう見てもあの、まあそのスジの人でした。２０代後半でしょうか。背が高くて短く刈り込んだ髪の生え際が、勢い良くＭ型の剃りこみになってました。最初に話した時は結構乗り気だったサユリさんが、この日は全然違って弱々しく、私達のことをこの二人よ、と指差したんです。するとそのＭ型はまるでドラマか映画みたいに藤さんの胸元を掴んですごんでこう言ったんです。"お前ら、俺の女を使ってビデオ撮ろうとしてるんだってな。俺になんの断りもねえどころか、もう早速写真は撮ったそうじゃねえか。ちょっとその撮影代だけでも払ってもらわねえとあんまり勝手なことされると困るんだよな。"」<br>「わー、ヒモだ！ヒモのヤクザだ！」文乃がおもしろそうに茶々を入れる。<br>「え、ヒモは違うよ、美人局っていうんじゃないの？」ハルも参加する。<br>「でもさ、撮影って携帯で顔撮っただけなんでしょ？」千歳が店長に戻す。<br>「はい、たった一枚携帯で撮っただけなんですけど、そんなの関係ないんですよね。どう説明しても、とにかく撮影代をよこせって言うんですよ。」<br>「つまりは、ユスられ始めたってことだ。で、いくらって言ってきたの？」ハルが真面目な表情になった。<br>「１００万です。」<br>「出た～もう～また１００万！」<br>「あんたたちのやろうとしてたことが違法だからな、相手も痛いとこついてくるもんだな。」途中から参加したわりには司もしっかり状況を把握している。<br>「はい、足元を見られてます。でも誰にも相談できません。そうこうしてるうちに藤さんが消えてしまいました。」<br>「それまではどうやって連絡取ってたの？」<br>「連絡を取ってたというか、藤さんが毎日店に来てくれてましたし、ここの部屋も知っていたので特に連絡先を聞いたわけではなかったんです。でも急に店に来なくなってしまったのでここに来たんですけど、まったく姿が見えません。サユリさんはこの部屋も私の店も知っているので、いつあのＭ型がまた来るかと思うと生きた心地がしません。もちろん急に１００万なんて払えないですし。」<br>「あきれた。」テーブルに肘をつき、下を向いたまま千歳はものすごくはっきり言葉を吐き出した。「今度ばかりはほんっとうにあきれた。聞いてりゃ、やけに途中までは段取りがいいからきっと今までにもこの手で小金を稼いだことあんのよ、あいつ。だから今回も自信満々でやろうとしたんだわ。バッカみたい。チンピラが出てきて正解よ。それでビビッて逃げたのよ。きっと当分ここには戻って来ないでしょ。私も引っ越しするし、ちょうど良かった。これで縁が切れるわ。」<br>「あの、」男が千歳を覗き込みながら小さく聞いた。「あなたは藤さんとはどういう・・・。」<br>「娘よ。あいつの娘。大体、あいつフジさんじゃないからね。本城っていうの。あんたがだまされたのは本城昭一。残念でした。」<br>「そ、そんな、じゃあ１００万とＭ型はどうしたらいいんですか？」<br>「知らないわよ、そんなの。私、ぜったいそんな責任取りたくないからね。自分でもう少し強そうなヤクザでも探してきて５０万くらい渡してそのＭ型を追い払ってもらえば。」<br>「でも、ヤクザにそんな貸し作ったら今度はそこからゆすられそうだよねえ。」文乃が他人事と思って笑っている。<br>「ゆすられるのも営業できなくなるのも、困るんです。」<br>「だから、知らないって。悪いけど、もう帰ってもらえる？これから荷物まとめなきゃならないから。」千歳は冷たくあしらって席を立った。その雰囲気でみんなもなんとなく立ち上がり、ハルはダンボール箱をトラックから降ろすために外に出た。外では後から来た山口が気付かずにぼんやり呆けていた。<br>「あれ、先輩、中にいたんですか。」<br>「おう、さっ、ちゃっちゃと始めるぞ。」</font></p><p><font size="3">スーパーやドラッグストアでもらってきたダンボール箱に、千歳と文乃が荷物をまとめて入れ、ガムテープで運ぶ間だけこぼれないように簡単に封をしてから、油性ペンで何を入れたか中身を表に書き込んだ。ハル、山口、司はクリアケースなんかに入れてある物は出さずにケースごとどんどんトラックに運んでいった。テーブルや鏡やテレビはプチプチで梱包して積み、その間に千歳と文乃は食器を服やタオルにくるんでまた箱に入れていった。その間、ビデオ屋店長は心配そうな目をしたまま同じ位置に座ってみんなの作業をじっと眺めていた。</font></p><p><font size="3">千歳の言うとおり、荷物はさほど多くはなく、一通りの家具、身の回りのもので終わりだった。冷蔵庫や洗濯機といった大きなものでハルとダブるものは、あらかじめネットオークションで買い手を決めてあり、一旦はハルの部屋に運ぶことになるがすぐに取りに来てもらうことになっている。若い女の子の引越しにしてはさっぱりとしたものだった。</font></p><p><font size="3">トラックに積み終わりロープをかけ、あとはハルの部屋に出発するだけになっても、ビデオ屋店長はなごり惜しそうにみんなが車に乗り込むようすを見ていた。ハルと千歳はトラックに、文乃と司は山口の車に乗ってハルのマンションまで行く。<br>乗り込んだ助手席の窓から千歳は顔を出してビデオ屋店長に言い放った。<br>「あとつけて来ないでよ。」<br>「車じゃないのに、つけられませんよ。」<br>「それならいいけど。じゃあね。」<br>ハルがトラックを出し、そのあとに山口の車が続いて千歳のアパートを後にした。朝来た時と同じシルエットが、またドアの前で立ち尽くしたまま遠く小さくなっていった。</font></p><p><font size="3"></font><br></p><p>しばらくトラックの中は沈黙のままだった。ハルは何かを言おうと思うのだが、さすがにさっきの店長の話にびっくりしていた。ハルの知り合いでもヤクザにゆすられているやつはまだいない。金額より、誰にゆすられているかが問題だ。一度目をつけられたらきっと１００万だけじゃすまないだろう。ビデオ屋の命も短いかもしれない。<br>「つぶれちゃえばいいんだよ。」<br>突然の千歳の声にハルは驚いた。<br>「なに、俺の考え読み取ったりした？」<br>「あはは。あと、コイツ荷物少ない女だなーって思ってたでしょ。」<br>「うーん、荷物っていうか、服が少ないなとは思ったけど。」<br>「そう？」<br>「だって、女の子ってシーズンごとに旬の流行ってる服買うじゃん。」<br>「あー、あれ、もったいないよねー。だって次の年には流行遅れになってて恥ずかしくて着られないでしょ。だから最初から買わないんだ。でも、お店で売ってるのがそういうのばっかりになるから流行じゃないのを買うのも難しいんだよね。って、服ってほんと買ってないけど。」<br>「まあ、服に執着ないのはわかるよ。だっていきなり俺のトランクスはいてるもんなぁ。はっきり言って、かなり珍しいよ。」<br>「ちがうの、あれは。」恥ずかしそうに大声を出しているが、だいぶさっきの少し落ち込んだ感じが取れてきたように見える。平気そうな顔をしていても、荷物をまとめていた時かなり頭にきていたのが手に取るように伝わってきていた。千歳にもさっきの父親の話はショックだっただろう。<br>「あの時は結構ヘコんでたの。よくよく考える余裕がなかったんだってば。」<br>「うん、わかるよ。ありゃきついよな。」赤になった信号をみつめながらハルは言った。「俺、あの時一緒にいて良かったってほんとに思ってるよ。じゃなきゃ千歳、おやじさんに殺されてたかもしれないと思うし、そうじゃなくても確実に今回の自作アダルト１００万に巻き込まれてるよな。」<br>それを聞いて千歳はそうっと運転しているハルの太ももの上に自分の手を乗せた。<br>「ありがとね。」信号が青になって、ハルがアクセルをゆっくり踏んだ。「私、今の借金全部払い終わったら、もうお父さんとはきっぱり何の関係もなくなる。もういらない。」そう言うと、ハルの目を見て、にっこり笑った。<br>「そっか。」ハルも笑った。</p><p>ハルが少し窓を開けると、冷たいけれども気持ちいい風が吹き込んできた。まだ二人ともコートを着ているが、もう冬は通り過ぎて、春になろうとしていた。だいぶ暗くなってきた景色が車の外を流れ、ライトが点き始めた町並みがどんどん後ろへ流れていった。<br></p>
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<pubDate>Sat, 20 Mar 2010 05:29:28 +0900</pubDate>
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<title>ブラックコーヒー　⑨</title>
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<![CDATA[ <p><font size="3">千歳は、久しぶりにリラックスしていた。仕事をしながら、落ち着いて昨日の夜のことを思い返していた。気持ちがゆったりして、微熱くらいに暖めた丸い石をお腹の中に入れているような、ちょうど良い重さのある安定感を感じていた。<br>「ちーちゃん、大変だったんだって？」裏口から厨房に入ってきた司がエプロンを後ろ手に結わきながら千歳に声をかけた。没頭してトマトを切っていた千歳は突然の声にびっくりした。<br>「ああ、司さん。びっくりした。」<br>司はこの店の店長兼シェフの息子で、千歳が働き始めた次の年から店を手伝っている。司が調理師免許を取るまでは店長と奥さんが夫婦二人で厨房に入り、娘がウェイトレスと会計をしていが、司が厨房に入るようになってからは奥さんがやるようになった。娘は今は結婚して兵庫県にいる。本当に家族でやってきたファミリービジネスの小さなレストランなのだ。<br>「おわ、その顔！本当に派手にやられたなあ。」<br>「でも、もうすっかり腫れは引きましたから。」<br>「ちーちゃんさぁ、何度も言うようだけど、引越したら？あそこに住んでる限り、おやじさん何度でも来るでしょ。」司は半ばあきらめで、今まで何度提案しても千歳が聞く耳持たなかったことを、駄目モトで再度言ってみた。しかし予想に反した答えが返ってくるとは思ってもいなかった。<br>「そうなんですよね。私ももうさすがに引っ越そうかと思って。」<br>「えええ～！？ほんとに言ってんの？今まで引っ越す資金がないとかなんとか言って動かなかったのに？」<br>「ま、それもそうなんですけど、ね。」<br>「いやあ、でも絶対あのアパート出た方がいいよ。引越し先をおやじさんにわからないようにしてさ。」<br>「そうですよね。」千歳は笑ってまた下を向いて残りのトマトを切り始めた。<br>「ふうん。」司はそんな千歳を見て、ちょっと様子が変わったなと思ったが、あえてあまり聞かないことにして、自分もさっさと支度にとりかかった。<br>以前から千歳はいつも黙って仕事をするタイプだった。忙しくなるランチとディナータイムにはとにかく手を動かすだけになるし、その合間の休憩時間でも自分から自分のことをべらべらしゃべる方ではなかった。でも、静かながらもいつも楽しそうに仕事をしている感じが伝わってきていた。<br></font></p><p><font size="3">冷蔵庫から仕込みをしてある食材を取り出して鍋に向かいながら、司はさり気なく話を続けた。<br>「でもなんでさぁ、ちーちゃん急に引っ越す気になったの？」<br>「うん、なんていうか、いいなと思う人ができて。」<br>「へ、へぇー！相変わらず、ストレートな物言いだね。」司は思いっきり手を止めて千歳の方を見た。<br>「オブラートに包んでしゃべっても意味ないですよ。」<br>「いや、包むのもいいもんだと思うけどさぁ。ま、良かったじゃん。彼氏できたんだ。」<br>「え？彼氏じゃないですよ。まだちゃんと付き合うとかって話をしたわけじゃないし。」<br>「え～そうなの？付き合ってるんじゃないの？一体どこで知り合ったの？」<br>「合コン。」<br>「はあ～！？合コン！？それって大丈夫なの？いつ会ったの？その合コンっていつ？」<br>「この前のここの定休日です。」<br>「・・・・・・。」司はため息をついた。「ねえ、ちーちゃんそれってだまされたりしてない？ちゃんとした男なんだろうね。」<br>「毎日仕事に行ってますよ。」<br>「うん、まぁ、そりゃ大事だよね。」<br>野菜を切る音が続く。<br>「で、いつ頃引っ越すつもりなの？」<br>「今月末です。」<br>「えっ？もう決めてんの？」<br>「はい、大家さんには話しました。」</font></p><p><font size="3">千歳はすでに大家に電話して、なるべく早く部屋から引っ越したいということを伝えてあった。普通は退室する一ヶ月前には大家に通知しなければならないのだろうが、月が変わったばかりというのもあって、今月末に出ればオーケーということにしてくれた。いつも色々親切にしてくれるやさしいおばあちゃんの大家さんだ。引っ越すことを残念がってくれたが、何も聞かずに了承してくれたのだ。</font></p><p><font size="3">「じゃあさ、引越し、手伝いに行ってやるよ。どうせうちの定休日にやるんだろ？」司はちょっとその合コンで会ったという男を見てみたくなった。<br>「え、いいんですか？確かにバイト休みの日じゃないとできないですけど。司さんだって休みじゃないですか。引越しの手伝いなんかでつぶしちゃったらもったいないですよ。」<br>「いいよいいよ、べつに。月末の定休日に今のところ用事ないしさ。」<br>「じゃあ・・・お言葉に甘えて、お願いします。」千歳はハルと話していたことを考えて、司の申し出を受けることにした。</font></p><p><font size="3">取り合えず、生活を変えるために引越しをしようとハルが強く押して、千歳もやっと本気になった。確かにあのアパートにいる間は父親との縁は切れないのはわかっていた。でも次の一歩をどこに出していいのかがわからなかった。単にハルの部屋に来るのでは転がり込むようでちょっとためらいがあった。でも千歳を動かした一番の言葉は、ハルが二人で新しい部屋に引っ越そうと言ってくれたことだった。まず部屋を出るためには一旦ハルの部屋に来るが、そのあと一緒に違う部屋を探そう言ってくれた。それが千歳に動く安心感を与えた。ただ単にハルの部屋に居候するのはなんとなく気が向かなかったのだ。でも、二人で一緒に部屋を探すのなら、いいかもしれないと思えた。<br></font></p><p><font size="3">引越しは、大目の人数で行けばもし父親がいてもさすがにみんなの前では何もしないだろうということで、なるべくたくさん人を集めて自分達でやろうとハルが提案した。千歳もそんなに荷物はないから、業者に頼むくらいならその分節約したいと考えていた。ハルの言う通り、友達や人がいる前では父親も殴ったりはしないだろう。</font></p><p><font size="3">引っ越しの日は千歳のバイト先の定休日にすることにしたのだが、週末ではないのでハルが休みを取ることにした。休みを取っても代わりにどこかで事務所に出ればなんとかなるので、ハルの方が融通が利く。人数かせぎのためにハルは、千歳と出会った合コンに一緒に行った山口にも参加してもらうように頼んだ。山口もヒマな男ですぐに手伝うことに同意してくれた。あとは千歳が文乃を誘って来てもらうように頼み、バイト先の司も合わせて、ハルと千歳を含めた五人で引越しをすることになった。車はハルが前日に友人から軽トラックを借りてくることにした。</font></p><p><font size="3">引っ越しの段取りがすむと、後は待つだけだった。毎朝ハルが仕事に出かけるのを見送り、のんびりしてから自分もバイトに出かけ、バイトが終わって戻ってくると大抵はハルが先に帰っていて何か夕食を作っていてくれた。簡単な日もあれば、ちょっと手の込んだ料理の日もあった。千歳にとってはとても平和で今までにない新鮮な日々だった。男と付き合ったことが一度もないわけではないが、ハルとの暮らしには千歳が味わったことのなかった穏やかなものがあった。父親のことはもうすっかり慣れてなんとも思っていなかったつもりだったが、父親がいつ戻ってくるかを気にしないでいい生活がこんなにほっとするものだと、千歳はあらためて実感していた。こんなことならなんでもっと早く引っ越しを考えなかったんだろうとまで思うようになった。すっかり引っ越すつもりになると、今度はどうして今まであのアパートに居続けたのかが不思議なくらいだった。</font></p>
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<pubDate>Sat, 20 Mar 2010 05:27:55 +0900</pubDate>
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<title>ブラックコーヒー　⑧</title>
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<![CDATA[ <p><font size="3">久しぶりにバイトに戻ってきて、野菜を切りながら千歳は心の底からほっとしていた。もともと千歳は単純手作業が好きだ。手先に神経を集中させながら、もくもくと作業をこなすときの気持ちよさ。何も考えていないようで実は頭の中でより正確に、よりスピーディにするにはどうやったらいいかを試行錯誤しながら黙って手を動かす。それがとても小気味いい。千歳は今日は手順だけではなく、色んなことを考えながら作業をしていた。ジャガイモをむきながら自分の部屋のことをあれこれ考え、玉ねぎを切りながら父親の対策を考えた。考えながら切った玉ねぎをまとめてボウルに入れると、まるで自分の気持ちも整理がついたように思えてさっぱりした。もちろんそんな気がするだけでも、それでもかまわなかった。ニンジンの皮をむいてその後目的別の形に切り分け、それぞれの山を作った。そして、キャベツをずっとリズミカルに刻みながらハルのことを思った。</font></p><p><font size="3">昨日の夜、千歳はあんなに自分のことをハルに話した自分に驚いていた。でも、いつか誰かに全部言ってしまいたかったのかもしれないとも思った。それが単にハルだっただけなのかもしれない。いつもなるべく自分のことは人に話さないようにしていた。言うと、どういうわけか怒り出す人が結構多かったからだ。そんな風にされて自分は悔しくないのか、と千歳に怒る人もいれば、まわりはどうして何もしてやらないんだ、と矛先をとりまく環境に向ける人もいた。色んな形はあるにせよ、千歳はたくさんのそう言う人達を見てきて、ある統計を見出した。つまりは、自分の育ってきた背景は人を不愉快にするということだ。みんな、対象はどこであれ、怒りがわいてくるということは、嫌な話なのだ。そう発見してからは、あまり人に自分の話をしなくなった。でも、昨日はハルにいっぱいしゃべってしまった。それは、ハルが最初に会った時からお父さんの暴力にハチ合わせしてしまったからかもしれない。今さら何を言っても怒ったり、驚いたりしなさそうだと思えるからだろう。ハルにお兄ちゃんのことを聞かれて、なんだか千歳は初めて本心をしかもさらっと言った気がした。でも言ってしまったあと、急に気持ちが軽くなって、なんだか自分の悩んでいたことが下らないことだったようにすら思えてきた。もしかして、今まで自分が大切だと思って持ち続けていたものは、実は大したことないのかもしれない。思い切って手放してしまっていいのかもしれない。</font></p><p><font size="3">千歳は昨日の夜のことを思い出していた。ソファで寝たフリをしている千歳を見て、ハルは何も言わずに奥の部屋の自分のベッドに入って電気を消した。千歳はハルの部屋に来てからずっとソファで寝ていた。やっぱり部屋にいさせてもらうだけでも悪いなと思っていたので、どうしてもベッドまで占領したくはなかった。ハルはベッドで寝ていいと言ってくれるが、千歳は三日もバイトを休んでいたからそんなに疲れているわけでもないし、ソファで十分だった。でも気を使ってくれるハルに悪いのでさっさとソファで寝たフリをしたり、そのまま本当に寝てしまったりしていた。でも昨日の夜は色々自分の話をしたせいなのかはわからないが、どうしても寝られなかった。ハルがベッドに入るまでソファでじっと目を閉じていたが、暗くなると今度はずっと目をこらして消えているテレビを眺め続けた。テレビのガラス面には部屋の中が映りこんでいて、その動かない室内を見ている間に千歳はなんとか寝られるんじゃないかと思っていた。でもじっと見ていると、たまに何かが隅の方で動いたんじゃないかとか変な風に思えてきて、ちょっと気味悪くなったりばかばかしく思ったりした。そんな風にしながら手元に置いた携帯を見ると、一時間はゆうに経っていることに気が付いた。<br>ハルが寝るまで点けていたヒーターのせいで空気が乾燥していて、喉が渇いていた。千歳は方なく立ち上がると、キッチンへ行ってコップを取り、なるべく音を立てないようにゆっくり蛇口をひねって少しづつ水を出してコップに注いだ。静かに飲むと、水は冷たくて乾いた口を潤してすーっと胃へ落ちていく。コップ一杯の水を飲み干すと、なんだか余計にすっきりして目が覚めてしまった気がした。どれくらいだろう、千歳はその場に突っ立ったまま考えていたが、突然つと、コップを流しの横に置くと、居間を通り抜けてソファではなくハルの寝ている奥の部屋に入った。<br></font></p><p><font size="3">ハルは千歳が水を飲んでいた物音で目を覚ましていた。もともとそんなにぐっすり眠っていたわけではなかった。ハルも千歳の家族の話を聞いて、ベッドに入ってからもしばらくそれについて考えていた。あまりにも自分とは違う境遇でどう頭の中で整理したらいいのか考えあぐねていたのと、初めて千歳が涙を流したことを思い出していた。千歳は父親にあんなに暴力を振るわれても別に泣きもしなかった。でもさっきの話で千歳はこらえきれないという風に涙を流した。ハルには、どこが千歳の悲しいポイントなのかが今いちつかめなかった。そんなことを考えながらやっとうとうとし始めた時、千歳が起きて水をコップに注ぐ音が聞こえたのだ。そのあと、少し静かになったなと思ったら千歳が部屋に入ってきたので、ハルは驚いて飛び起きた。当然、ソファに戻って寝るものだと思っていたからだ。</font></p><p><font size="3">「どうした？」ハルは小声で聞いた。<br>「こっちで寝る。」暗がりの中に立って見下ろしている千歳の顔はまったく見えなかった。どんな顔をして言ったのかわからないが、千歳はそう言うとさっさとベッドの上にひざをついて掛け布団をめくり上げ、中にいるハルの隣にもぐりこんだ。<br>「お、おい、なんだよ？ちょっと待て。」<br>驚いているハルには構わず、千歳は布団の中に頭まで入ってハルの方に横を向いて丸くなった。曲げた膝がハルの足にくっついた。<br>「どうしたんだよ。なんだよ、急に。怖い夢でも見たのか？」<br>「それじゃ子供じゃん。ばかみたい。」<br>「じゃ、なんだよ。」<br>「もう、背中痛い。ソファ。」ああ、そういうことか。ハルは少し安心した。<br>「だから、こっちで寝ろっていつも言ってただろ。いいよ、ここで寝ろよ。俺あっち行くから。」<br>ハルが言い終わらないうちに、千歳はハルの腕を力強く掴んだ。ハルは単純にびっくりした。千歳ってこういう感じだったっけ？と思ったのだ。こういう感じも何もないだろうが、ハルだって女の子の方から誘ってくる独特の甘えた雰囲気は知っている。が、それは今まで千歳からは感じられなかったからだ。ハルはそんなに遊んできた方ではないが、べつに付き合っているわけではない女の子とも関係を持ったこともあった。自分の経験を通して言えば、千歳は今まで自分が見てきた女の子達の中の、誰とも似ていなかった。大学にいた頃は、女の子達は大抵複数のどれかのグループに分けることができた。そしてその同じグループに当てはまる女の子達はそれぞれの似通った傾向というものを持っていた。でも、千歳はそのどのグループの傾向にも当てはまらない、独特な何かがある。そのせいもあって、ハルは対処に困る時があった。今がまさにそうだった。普通、ホテルでも自分の部屋でも、そこまでついて来た女の子は大体ＯＫな場合が多かったが、千歳はいくら部屋に来て泊まっているとはいえ、理由が理由だし自分は何もしない方がいいとなんだか勝手に思っていた。その千歳が今、同じベッドの中で自分にくっついている。<br>「ほんとに・・・どうかしたの？大丈夫？」<br>「あのさ、」千歳が顔だけ布団から出して、まだ上半身を起こしているハルを見上げた。「女の子がベッドに入ってきて大丈夫？って聞くのはどうかと思うけど。」<br>「いや、だってさ、うちに来てから一緒にいても別々に寝てたのに、今日はまた急にどうしてかな・・・って思うだろ。」<br>「あー、初日から来ればよかった？」<br>「いや、そういうわけじゃないけど・・・。」ハルはなんて説明したらいいか考えた。「俺が無理に聞いて話したくないこと話させたから、寝られないんだろ？」<br>「うーん・・・ま、寝られないのは本当だけど・・・よくわかんない。今日は、ソファで一人で寝たくない。それだけ。」<br>「それだけって・・・・・・。」<br>「いいよ、やってもやらなくても。」<br>「へっ？」<br>「やってもやらなくても、どっちでもハルの好きな方でいいよ。」<br>「なんだよ、それ。」<br>「ベッドで一緒に寝たいから、あとはハルの好きにしていいよ。してもいいし、何もしないで添い寝だけでも、"私に魅力がないのね！"とかあとで面倒臭いこと言わないから。」<br>「お前・・・軽く言うよなぁ・・・。」ハルは千歳の隣に仰向けになった。<br>「たとえば・・・。」ハルは天井を見ながら、両手を上げて頭の下で組んだ。「たとえば俺から先に千歳にしようとしたとするじゃん、で、そん時千歳はほんとは乗り気じゃなくても、自分の部屋に帰りたくなくて気を使っていやだって言えないで無理してやったらやだなぁとか、そういうことなんだよな。」<br>「そうなの？」<br>「いや、だから、まぁこれ以上トラウマに触れない方がいいだろうなって。」<br>「あ～、あはは。」千歳は笑った。「まだ隠してる何かがあるかもとか思ったんだ？大丈夫だよ。トラウマに触れるも何も、私レイプはされたことないから、Ｈに対してトラウマなんてないよ。それにハルならやだとか思わないし。」<br>「レイプって・・・。暴力の上にそんなのまでされてたらシャレになんねえよ。第一、あいつほんとの父親だろう？」<br>「なに言ってんの、実の父だろうが義理の父だろうが、珍しくない話でしょ。でも、私は今の所それはないから。それにね、」千歳も並んで天井を見上げた。「トラウマなんて、自分でトラウマとか言ってるやつは大したことないんだよ。"あたしってトラウマがあって～"とか言ってるようなやつはパフォーマンスでしょ。ほんとのダークな核の部分は、自分で簡単に"トラウマ"なんて客観的に見つけられるもんじゃないでしょ、きっと。自分じゃわかんないから苦しいんじゃん。」<br>「はあ・・・。そうですか。」<br>「なんか、ハルは私のこと腫れ物みたいな扱いだね。」<br>「何言ってんだよ、実際に顔、腫れ物だっただろー。」<br>「大丈夫だって、慣れてんだから。あーっ！」そう言いながら千歳は目の上の傷を触っていて、突然大声を出した。<br>「なに？！なんだよ？！」<br>「ばっし！抜糸忘れてた！抜糸だけってどこに行けばいいの？」<br>「抜糸だけ？」<br>「うん、だってこの前行ったのは夜間救急だったから、もう一度あそこに行くわけにはいかないでしょ。普通に昼間にどこかの病院に行ってやってもらわなきゃ。でも抜糸だけって・・・何科？」<br>「う～ん・・・外科じゃ大げさっぽいし・・・でも内科じゃないよな。皮膚科？」<br>「皮膚科ぁ？ちょっと違うっぽくない？でも・・・そう言われると皮膚科？かな・・・？」<br>目の上の縫った箇所の糸を指でちょいちょい触っていると、ハルがその手をそうっと掴み、そのままゆっくりシーツに押し付けた。千歳の上に覆いかぶさるように向き直ると、片腕で自分の上半身を支え、片腕はまだ手を掴んだまま、千歳にキスをした。やわらかい、最初のキスだった。<br>「俺がはさみで糸切ってやるよ。」唇を離して、ハルは千歳に小声で言った。<br>「いいよ。」千歳は笑ってハルにキスをした。今度はお互い、長く深く、ゆっくりと味わった。</font></p>
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<link>https://ameblo.jp/sugarmelt/entry-10486337465.html</link>
<pubDate>Sat, 20 Mar 2010 05:26:33 +0900</pubDate>
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<title>ブラックコーヒー　⑦</title>
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<![CDATA[ <p><font size="3">ハルは文乃と別れての帰り道、頭の中でずっと同じことばかり考えていた。<br>あれが、千歳にとっての「普通」。そう文乃に言われてそれがショックだった。<br>ハルは文乃と会うまで、問題を解決するには千歳と父親をなんとかして切り離せたらうまくいくんじゃないかと考えていた。でも、あの父親といることが千歳にとって「普通」の生活なんだとしたら、自分の今までの「普通」の生活とまったく違う生活を、突然ガラリと送れるようになるだろうか？「普通」というのは、一番変えるのが大変なんじゃないだろうか？千歳がもううんざりしていて変えたいと思っているならできるかもしれない。でもなんの疑問も持たずにそれを「普通」として受け止めているとしたら？千歳は一生おやじさんに殴られながら、これからもおやじさんの借金を肩代わりしていく羽目になるんじゃないだろうか。</font></p><p><font size="3">そう考えながらも、同時にそのイメージには、千歳が少し当てはまらないという違和感も感じていた。千歳はそんなにあの父親に引きずられている風でもない。そこまで自分がない性格にも見えない。第一そうだったら、あんな風に栄養士の免許を取りたいとか、目標を持って学校に通ったりはできないだろう。千歳も千歳なりに、その「普通」を変えるきっかけを待っているのかもしれない。</font></p><p><font size="3">それに、とハルは思う。千歳がどう思っているにせよ、千歳は今、部屋に戻ってはいない。自分から父親を避けて今までみたいに無防備にお金を取られたりしていない。つまり、もうすでに今までとは違う方向に向かい始めているんじゃないだろうか。</font></p><p><font size="3">それなら、今が「普通」を変えるチャンスでなくてなんなんだ。</font></p><p><font size="3">　</font></p><p><font size="3">ハルがマンションに戻ると、千歳はキッチンで魚を焼いていた。玄関を開けた途端、もわっと煙が立ち込めていて魚の焼けるいい匂いが充満している。<br>「なんだなんだ、なんでこんなに煙が出てるんだよ。」<br>急いでキッチンに行って見ると、千歳は魚を焼くグリルを使わずにガス火の上に網を乗せて、魚を焼いている。<br>「煙探知機、作動しちゃうと思う？」千歳はハルを見ずに聞いた。<br>「しちゃうと思う？じゃなくて窓開けろよ、あと換気扇。」ハルはテーブルの向こう側にある窓を全開にした。「グリルあるだろう～。それせっかく煙出ないやつだからそれで焼けよ～。」<br>「網で焼いた方がおいしいんだって。」千歳はさいばしで魚を裏返した。「それにハル、魚のグリルちっとも使ってないでしょう。すごいきれいだもん。」<br>「ああ～なんかな、つい作る時はフライパンで肉だよな。第一そんなに毎日自分でメシ作らないし。」<br>「だから今日商店街で網買ってきた。」<br>「買ってきたの？わざわざ？」<br>「うん。だっておいしい魚食べたくなって。」<br>「あ～そうか、網で焼いてるから、自分の部屋でグリルの中に通帳とか隠してたんだな。」<br>「そうそう。グリルの前はビデオデッキの中。」<br>「凝ってんなぁ。」<br>ハルは奥の部屋に行ってスーツを脱いで着替えると、洗面所に行って手を洗った。</font></p><p><font size="3">千歳がハルの部屋で料理をしたのは初めてだった。料理は全部和食だった。焼き魚に野菜と油揚げと切干大根の炒め煮、味噌汁、玉子焼き、ごはん。老人食かよ・・・。テーブルの上を見てハルは思った。ん？もしくは、病院食か。栄養士の勉強してるだけあって、ものすげー栄養バランスがよさそうだ。でも同時に実家の食事を思い出すような日本人なら誰でも懐かしくなるメニューだ。<br>「バイトって洋食屋って言ってなかったっけ？和食も作れるんだ。」<br>「当たり前じゃん・・・。ていうか、仕事と同じもの自分で毎日作って食べるわけじゃないし。」<br>「そりゃそうだ。」</font></p><p><font size="3">二人で座って食べ始めると、ハルはどれもおいしくてガツガツ食べた。味が濃いわけでもなく、かといって薄くもなく、やはり仕事でやっているだけあって上手い。ハルは作るとしても簡単なスパゲッティーとかくらいで、こんなにきちんと和食を作ったりはしない。べつに料理はしないというわけではないが、料理に特別時間をかけたりしていない。<br>「あのさ、俺そんなにメシにこだわってないから、」ハルはちょっと気になった。「べつに料理とか、こんなにきちんとしなくていいよ。仕事でもやってて帰ってきてからもやってたらやだろ。」<br>千歳はびっくりしてハルを見た。<br>「ハルって珍しいねえ。」<br>「何が。」<br>「いや、普通バイトで厨房にいるって言うとさ、男って大体じゃあメシ作ってよ得意なんだろ、って言うんだよ。そう言われるとさ、私あまのじゃくだから絶対作ってやらないって思うんだよね。でもハルは一回も言わなかったでしょ。今日作ったのは自分が食べたかっただけだし。」<br>「ていうかべつに、今まで思いつかなかっただけなんだけど。」<br>「言わなかっただけじゃなくて、仕事でもやってるから逆に作らなくていいよなんて言ってくれたの、初めて聞いたよ。」<br>「それはどうも。」ハルはしばらく黙って食べていたが、思い切って聞いてみた。<br>「千歳さぁ、前にお母さんはあんまり家に帰ってこなくなったって言ってたけど、子供の頃から家でも料理とかしてたの？」<br>「う～ん、そうでもないなあ。作ってもお父さんにめちゃくちゃにされちゃったらやる気なくなるし、食べたいものがあった時は作ったりもしたけど、そんなにやってないよ。料理やり始めたのはほんとにバイト始めてからだよ。レストランの厨房って、まかないで食べさせてもらえるしね。」<br>「そっか。・・・・・・他にさ、兄弟はいないの？」<br>「おっ、なに？さり気なく探ってるの？」<br>「いや、そういう意味じゃないけど。実はさ、今日さ、」ハルは少し迷ったがやはり正直に言った方がいいと思った。「会社のやつで、この間の飲み会の時いたやつなんだけど、千歳の顔見て知ってるって言うんだよ。中学で陸上やってて、千歳のこと覚えてるって。そいでそいつがお前に兄貴がいたって言うから気になったんだ。」<br>「ふうん。世界って狭いね。」<br>「なんか、お前有名だったって。アザとかあって。学校とかさ、そういう虐待とかなんか対処してくんなかったの？」<br>「う～ん、虐待っていうと響きがもっと小さい子みたいだね。」<br>「でもあれって虐待だろ。」<br>「まあそうだろうね。でも学校は特に何もしないよ。まあ陸上部の顧問は結構気にしてくれてたけどね。私も家に帰りたくないから、だらだら練習して学校にいたりしてさ。バイトのレストラン紹介してくれたのも顧問なんだよ。なんか知り合いなんだって。」<br>「ふうん。で、兄貴は。」<br>「お兄ちゃんは私が中学卒業する頃に、家出しちゃって、それっきり会ってないよ。」<br>「どこにいるかとか、全然わかんないの？」<br>「全然わかんない。」<br>千歳はすました顔でぱくぱくごはんを食べている。<br>「で、何が聞きたいの？」<br>しかし言葉にかなりトゲがあるのをハルは聞き逃さなかった。ちょっと地雷を踏んだかな、とも思ったが、もうここまで聞いてしまって今さらやめられなかった。<br>「いや、ほらお兄さんがいるんなら、一緒にお父さんのこと相談したりできるかなと思ってさ。」<br>「お兄ちゃんは私のこと恨んでるから、連絡先知ってたとしてもどうにもならないよ。」<br>「恨んでる？」<br>千歳はあきらめたように手を止めて息を細くゆっくりと吐き出した。<br>「あのさ。」<br>一言言って黙った千歳の次の言葉をハルは待つしかなかった。なんて返事をしたらいいかわからなかった。少しの沈黙のあと、千歳が言葉を続けた。<br>「あのさ、お母さんが出て行った時、私に言ったのよ。あなたは強くていいわね、って。」千歳はハルの目をまっすぐに見た。<br>「お母さんがね、出て行く時に最後に私に言ったの。あなたは強くていいわねって。あなたはお父さんに似てて同じように強いから黙ってあのお父さんに殴られたりするのを耐えられるのよって。でも私にはもう無理だわ。私はあなたみたいに強くはないから、これ以上は耐えられない。お父さんはまかせるわね。でもあなたなら平気でしょう、って。私、最初はまたいつもの愚痴が始まったんだとばっかり思ってた。でも本当に、そのままお母さんは出て行ってそれっきり帰って来なかった。お兄ちゃんはその頃、お父さんに殴られるのが嫌で、しょっちゅう友達の家に入り浸ってたの。あとからお母さんがいなくなった理由を聞かれて、私もバカだから正直にお母さんが私に言ったことをお兄ちゃんに話したわけ。そうしたらお兄ちゃんはすごく怒って、お前のせいでお母さんは出て行ったんだ、って責めたわ。お兄ちゃんにとって本当に追い出したかったのはお父さんで、私がそのお父さんを黙って許してたから、いて欲しかったはずのお母さんが出て行かなきゃならなかったんだって。お兄ちゃんの夢は、お母さんとお兄ちゃんと私の３人でお父さんを何とか切り離して、あとは平和にやっていくことだったの。なのに、私がお父さんを追い出しちゃった。」<br>ハルの目から視線を斜め下に落とした千歳の目に、涙があふれた。</font></p><p><font size="3">「お母さんがいなくなってからお兄ちゃんは絵に描いたようにグレて、友達の家からあんまり帰って来なくなった。私は家にお父さんと二人でいるしかなかった。私が中学を卒業した春、たまたま久しぶりに戻ってきたお兄ちゃんが、私に言ったの。お前はほんとに強くていいよなあって。なんであのおやじと一緒で平気でいられるんだって。それでね、私言ったの。たとえば殴られた後で怒ったり泣いたりして、自分の時間をもっと無駄にするほどバカじゃないからよって。そうしたら、突然お兄ちゃんがすごい勢いで私の顔を平手で殴ったの。お兄ちゃんに殴られたのは初めてだったよ。"どうせグレてる俺はバカだよ"って言って、そのままお兄ちゃんも帰って来なくなっちゃった。」千歳は涙を手の甲で拭いた。</font></p><p><font size="3">「ほんとに自分が強いなんて思ったことないよ。ただ、我慢した方がいいんだと思って我慢してただけ。強いって言われるのがすごい嫌だった。じゃあ泣いてわめいて生きていけないくらい弱い方がみんなにとって良かったのかと思った。」</font></p><p><font size="3">しばらく間が空いて、部屋の中がしーんとなった。千歳は一度、意識してはぁっと息を吐いた。</font></p><p><font size="3">「そしたらある日ね、夜中にたまたま変えたチャンネルでやってたアメリカの古い映画を観たの。もう始まって半分くらい過ぎてたから題名もわかんないんだけど、黒人差別の開放運動の話だった。黒人にも人権を、って主張して騒動になるんだけど、最終的には勝利して差別は残ってても法律上は平等になるの。でね、映画のラストシーンで、黒人の親子が、以前はホワイトオンリーって書かれてた白人専用のカフェに堂々と入って行って座るの。まわりの白人は嫌がるんだけど、法律的にはもう平等だから、その親子に出て行けとは言えないのね。で、白人のウェイトレスがオーダーを聞くと、親子のお父さんが「コーヒー」って注文するの。このたった一杯のコーヒーのためにすごく辛いことがあったのよ。で、ウェイトレスが「ミルク？シュガー？」って聞くとね、お父さんが胸を張って答えるの。「ブラック。ストロングリーブラック。」って。私の問題なんてね、この当時の彼らの問題に比べたら小さいもんだけど、でもこの映画を観て初めて、それまでグズグズ悩んでた部分がさらっと風に吹かれたような気がしたの。強いってすばらしいことなんだって肯定してもらった気がした。私は自分がそんなに強いとは思ってないし、強いって言われるのが嫌だったけど、この日から強くなりたいって思うようになった。」</font></p><p><font size="3">突然千歳はにっこり笑って、ハルの顔を覗き込んだ。<br>「あのね、私の人生の目標ってなんだと思う？」<br>「人生の目標？う～ん・・・おやじさんから離れて自立すること？かな？」<br>「それは生きて行く生活の方法だよね。それよりも、どうしても、って思ってる目標があるの。それはね、これを絶対私の代で終わらせることなんだ。」千歳はさっきとは打って変わって目をキラキラさせて言った。<br>「よく、虐待された子は自分の子供にも虐待するとか言うでしょう。親と同じような、暴力を振るう男と結婚したり。そういうね、同じことを繰り返したくないの。あんなお父さんやお母さんの悪影響なんて絶対私の人生には残してやんないの。あの人たちの影響なんて私にはこれっぽっちもないってことを証明してやるの。だから、絶対暴力を振るわない、やさしい、お父さんとは正反対のタイプの人と付き合って、子供がもしできても絶対暴力で虐待はしないの。自分も、グレたり、やけになったりしないで、ちゃんと仕事をしてきちんと生きていくの。あんな親の子供だけど、でもその二人の子供のうちの一人はすごく良い子に育ってなかなかの人生を送ってるってことが、それだけであの人たちにとっては十分復讐であり、親孝行になると思うんだ。放って行かれようが、殴られようが、良い人間に育ってやるの。あんたたちのやってることなんて私には届かないんだぞ、って。」</font></p><p><font size="3">千歳は立ち上がってマグカップにコーヒーを入れてまたテーブルに戻ってきて座った。カップを持ってじっと中を覗き込む。<br>「たまに疲れた時にね、コーヒーをブラックでゆっくりゆっくり飲みながら、そうやって考えるの。そうすると、結構気持ちが落ち着いてリセットできるんだ。自分のね、軌道修正の儀式かな。」<br>テーブルの上に並んだままの食べた後の食器を眺めながら、ハルは笑った。<br>「儀式か。いいよな、そういう方法があるのって。べつにさ、そうやって頭で理解してればわざわざ毎回ブラックでコーヒーを飲まなくてもいいんだろうけどさ、でもそうやって儀式として何かを持ってるのって強いよな。俺はいくらストレスがたまろうが、そういうのがないからなあ、なにかあれば気持ちを切り替えるのにもっと楽なんだろうなあって思うよ。ていうか、それでいつもなんにも入れないでコーヒー飲んでんだ。」<br>「そう。」千歳も笑った。<br>「なんかその映画俺も見てみたいよ。」<br>「ラストシーンの内容をツタヤの店員さんに説明したら題名とかわかんないかなあ。」<br>「いやあ、わかんねえだろう。」<br>「でもほら、お店に一人くらいはいる名物マニア店員とか。」<br>「いないって、そんなの。」ハルは笑った。笑いながら、なんだかとても安心していた。正直に考えていることを話してくれた千歳がうれしかった。</font></p>
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<pubDate>Sat, 20 Mar 2010 05:24:55 +0900</pubDate>
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<title>ブラックコーヒー　⑥</title>
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<![CDATA[ <p><font size="3">やっと長引いたミーティングが終わって会議室を出ると、もう１時近くになっていた。急いで昼食を取ろうと外に出ようとしたハルに、山口が後ろから声をかけた。<br>「柏木さん！お疲れ様です！」<br>「おう、お疲れ。」<br>「この前の合コンの帰り、どうだったっすか？」<br>「え？どうって・・・。」ハルが返事に困っていると、山口は意外なことを話し始めた。<br>「あの子、俺どっかで見たことあるなぁと思って考えてたんですよ。そしたら、思い出しました！あの子、本城でしょ。本城千歳。」<br>「え？！なにお前、知り合いなの？」そう言えばハルは千歳の苗字もまだ知らなかった。<br>「いえ、知り合いって程でもないんですけど、俺中学の頃陸上やってて、あの本城って子も陸上やってたんです。県大会とかで見たことありますよ。」<br>陸上か・・・ハルはちょっとおかしくなった。確かにあの逃げ足はかなりの速さだった。逃げる必要があったから速くなったのか、もともと速かったのかはわからないが、あんなに必死になって逃げていれば中学の部活の練習よりは効果がありそうだ。<br>「柏木さん、実家まで送って行ったんですか？」<br>「え？実家？いや、一人暮らしっぽいアパートだったけど。」<br>「なあんだ、そっかあ。いやね、あの子の顔を何で覚えてたかって、ちょっと有名だったんですよ。」<br>「有名？」<br>「実はね、あの子のお父さんってのが暴力親父で。」<br>ハルはまさか山口が知っているとは思わなかったので、驚いて言葉が出てこなかった。ああ知ってるよとも言いたくなかったし、かといって白々しく驚いてみせるのも性分じゃない。<br>「あの子ね、お父さんに暴力振るわれても平気で大会とか出て来てたんですよね。ほら着てるのもTシャツと短パンとかだから腕や足なんかもアザができてると見えるんですよ。顔腫らしてる時も何度もありましたしね。それでも欠場しないで走るんだから、すごい神経ですよね。やっぱ、それくらい図太くないとそういう家庭じゃあやってけないんでしょうかねえ。」<br>ハルは黙って聞いていた。山口はまだ続けた。<br>「いやあ、合コンで顔見た時に絶対どこかで見た顔だと思ったけど、まさかあの本城千歳だったとはねえ。俺あいつの兄貴とは同じ年で、それで兄貴の同級生から暴力親父の話とかも聞いたんですよ。」<br>「兄貴！？」ハルは驚くと同時にそれまでの山口の話も合わせて怒りがこみ上げてきた。「兄貴だって？！」<br>「え、なんすか？そうっす、兄貴・・・。」<br>「あいつ、兄貴がいんのか？！」<br>「い、いましたよ、確か・・・。俺は違う学校でしたけど、俺のクラスにも兄貴を知ってるってやつがいて、それで、いろいろ聞いたんすよ・・・。」<br>「なんだよ、兄貴って・・・！どこで何してんだよ！」<br>「い、いや、知りません・・・けど・・・。」<br>「あ、悪い、ちょっと行くわ。」ハルはそのまま山口を置いて自分のデスクに走った。そしてデスクの足元に置いてあった自分のカバンから携帯を取ると、急いで外に出た。</font></p><p><font size="3">兄貴が、いやきょうだいがいたなんて千歳はこれっぽっちも言ってなかった。しかも、弟や妹じゃなくて、兄貴だ。じゃあなんで千歳は親父さんの借金を一人で肩代わりしたりしてるんだ？！山口と同級生ということは、自分のひとつ下だ。経済的にも十分自立できるはずだ。兄貴は一体何をやってる？</font></p><p><font size="3">ハルは会社のビルの外に出ていつも休憩に行くカフェに向かった。カフェは１時を過ぎていることもあって、そんなに混んではいない。ハルはコーヒーと適当に昼食になりそうなサンドイッチを買うと空いているテーブルに座った。まずコーヒーを一口飲んで、気持ちをいくらか落ち着かせてから、携帯の履歴を見た。昨日千歳が友達と言ってかけた子の番号がある。３秒くらい迷ったが、勢いをつけてその番号に発信した。<br>２回呼び出し音が鳴って、すぐに相手は電話に出た。<br>「もしもし？千歳？」はきはきした声の女性が電話に出た。<br>「あ、すみません。千歳じゃないんです。この電話の持ち主で柏木というんですが。」<br>「あ～、もしかして、千歳が言ってた新しい友達？」<br>「ええ、まあ。」<br>すると意外にも彼女は笑い出した。<br>「新しい友達ね～！あ、私、中嶋文乃と言います。」<br>「あ、僕は柏木ハルです。」<br>「千歳、どうかしたんですか？」<br>「いえ、どうかしたってわけじゃないんですけど・・・ちょっと教えてもらえないかと思ってることがあって。」<br>「はい。なんでしょう？」<br>「千歳のお兄さんのことなんですけど、千歳は何も言わないんですが・・・何か、事情があるんでしょうか。」<br>「お兄ちゃんね・・・。」彼女はちょっと考えてから言った。「どの程度聞きたいのかがわからないからなんとも言えないんですけど、電話でってのもなんだし、一度会って話した方がいいかもしれないですね。」<br>ハルも同じことを考えていた。「ええ、僕もそう思います。えっと、いつも仕事って何時頃に終わるんですか？」<br>「私は病院の夕食出しちゃえば終わりだから、早いんです。私の仕事は千歳からもう聞いてますよね？」<br>「ええ。」<br>「だからそちらの時間に合わせられますよ。なんだったらそっちの近くまで出るし。今日何もないけど、今日は大丈夫？」<br>「ああ、ええ、大丈夫です。じゃあ僕もなるべく早く終わらせて出ますんで、連絡します。」<br>それからハルは自分の会社の場所だけ取り合えず説明し、サンドイッチを食べずに持って急いで会社へと戻った。<br></font></p><p><font size="3">ハルが仕事を終えたのは定時を少し過ぎたくらいだった。契約も立て込んでなくて、暇というわけではないが徹夜をするという忙しさでもなかった。コンピューターでできることはまた家に持ち帰ればいい。急いで文乃の携帯に電話をすると、すぐに文乃が電話に出た。<br>「さっき教えてもらったそちらの会社の最寄り駅までもう来てるんです。」文乃が言った。「駅の東口にあるコーヒーショップにいますけど。」<br>「わかりました。じゃあそこに行きます。えっと、どんな服装ですか？」<br>「ああ、目印に赤いバラ持ってるから。」<br>「ええ？！」<br>「冗談です。髪の毛ひっつめておだんごにして黒いセーター着てます。」<br>「ああ、わかりました。」ハルはため息をついた。とっさに真面目に受けた自分が少し恥ずかしかった。</font></p><p><font size="3">ハルが急いでその店に行くと、窓際の席に長い髪の毛をひっつめて黒いセーターを着ている女性がこちらを見て手を振った。ハルはセーターと聞いてざっくりしたセーターを思い浮かべていたが、実際はぴったり体のラインが出る細身のセーターで千歳とは全然違う雰囲気の大人っぽい女の子だった。<br></font></p><p><font size="3">「初めまして。よく僕ってわかりましたね。」<br>「だって、この前の合コンの時、私いたから見覚えあるし。」<br>「ああ、そうか。」ハルはコートを脱いで椅子の背にかけた。「とりあえず、なんか買ってきます。」<br>ハルがコーヒーを買って席に戻ってくると、文乃はニコニコして楽しそうにハルのことをじっと見ていた。<br>「ごめん。俺、中嶋さんのこと全然覚えてなくて。」<br>「そりゃそうよ。私は千歳を送って行くって言った人だから覚えてるんだから。」文乃は急にくだけた口調になった。「で、千歳は結局送ってもらったんだ？」<br>「ええ。」<br>「で、部屋まで送って行ったらお父さんがいたと。」<br>「はあ。よくわかりますね。」<br>「だって昨日千歳がお父さんが来てるって言ってたから。そいでどうしたの？」<br>「いや、千歳が殴られたりしたんで、ちょっと止めに入って、まあ最後は一緒に走って逃げたんですけど。」<br>「へえ～。一緒に逃げたんだ。で、そのバトルのときに携帯水没しちゃったの？」<br>「いや、それは昨日なんだ。昨日また部屋に戻っておやじさんとやり合ったらしいんだよ。」<br>「部屋に戻ってって、じゃあ千歳今部屋にいないの？」<br>「あ、俺んちに。」<br>「えっ？あなたが自分の家に連れてっちゃったの？」<br>「あっ、いや、だって他に送って行く所ないし・・・。」<br>「で、そのままあなたの所にいるの？」<br>「ええ、いますね。」<br>「へえ～・・・。」<br>「いや、へえ～って・・・。」文乃は意外といった感じで、でも笑みを浮かべて頬杖をついた。<br>「で、なんでお兄ちゃんのこと聞きたいの？」<br>「あ、そうそう！それですよ！千歳はお兄さんがいるなんて一言も言わないんですけど、お兄さんがいるなら、どうして一緒にお父さんのこと考えたり、借金をどうにかしようとかってならないんでしょうか。千歳が一人で借金返してるみたいだし。」<br>「お兄ちゃん行方不明だからねえ～。」<br>「えっ！？」<br>「逃げちゃったのよ。まあ若かったから家出になるのかなぁ。」<br>「家出って・・・。」<br>「誰も責められないでしょ、あのお父さんじゃ。」<br>「いや、それはそうかもしれないけど・・・、でも現に千歳は一人で借金とかも・・・。」<br>「だって、借金は最近よ。お兄ちゃんがいなくなってからずいぶん経ってからだし。それをお兄ちゃんに手伝ってくれってのも変じゃない？」<br>「でも、もしお兄さんが家出してなかったら、お父さんも千歳の名前で借金なんてしてなかったかもしれないんじゃないかなあ・・・。」<br>「その代わりお兄ちゃんの名義でしてくれてた方が良かったってこと？」<br>「いや、そうじゃないけど・・・。」<br>「あのさ。お父さんのことでお兄ちゃんを責めるのは無理があるんじゃない？」<br>「・・・・・・。」ハルは段々自分が何を言いたかったのかわからなくなってきた。<br>黙ってしまったハルを見ながら、文乃は意味ありげに聞いた。<br>「ねえ、千歳って文句言わないでしょう。」<br>「は？文句？」<br>「そう、お父さんの文句とか愚痴。」<br>そう言えば・・・ハルは考えてみた。あんなに殴られたりしてるのに、ハルの部屋に来てからも一度もお父さんの愚痴をこぼしていない。<br>「確かに、何にも言ってないな。なんでだろう・・・。もうあきらめてんのかな。」<br>「あのお父さんが千歳にとって普通だからだよ。」<br>「え？普通？」<br>「そう。千歳には、物心ついた時からあのお父さん。あれが、千歳の普通のお父さん。でしょ？他にお父さんいないんだから。殴られ続けてきたのも、お金に困ってきたのも、全部普通。あれが、千歳にとっての普通の生活なのよ。」<br>「でもさ、普通っていっても、たとえば俺たちも毎日普通に通勤電車乗ってても疲れるみたいに、やっぱりストレスたまるんじゃないかな。」<br>「そりゃあたまると思うよ。暴力とかってやる方もやられる方もすごいエネルギー使うだろうし、私たちよりずっと抱えているものって大きいと思うよ。だからいつかそれに疲れて爆発しなきゃいいなと思ってるんだけどね。」<br>「爆発って・・・なんですか。」<br>「誰でもさ、人生で一回くらい心がポキッと折れちゃうときってあるじゃない？」<br>「・・・・・・。」<br>「べつに脅かしてるわけじゃないよ。でも、柏木君の家にいるってことは、千歳ああ見えて結構疲れてるのかもしれないよ。だって、前はお父さん来ても自分の部屋に毎日戻ってたんだから。まあ、すぐお金取られちゃったから、お父さんもそんなに長居してなかったけど。子供の頃だって一緒に住んでたわけだし、お父さんが来たからってそんなに泊まり歩いたりはしてなかったんだよね。まああとは、」文乃は自分のカップの紅茶を一口飲んで先を続けた。「さすがに今、お金取られたらキツイんだと思う。前の借金もまだ返してる途中だし、今借金を増やされたら学校に戻るとか相当先になっちゃうしね。だから柏木君の所にいられてほんとに助かってるんじゃないかな。」</font></p>
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<link>https://ameblo.jp/sugarmelt/entry-10486336492.html</link>
<pubDate>Sat, 20 Mar 2010 05:20:16 +0900</pubDate>
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<title>ブラックコーヒー　⑤</title>
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<![CDATA[ <p><font size="3">電車に乗ってハルのマンションの入り口に着いた時にはもう当たりは暗くなっていた。エレベーターで上がって部屋のある階に降りて歩き始めると、部屋のドアの前にもうハルが帰って来ていて、立ってぼんやり待っていた。近づいて来る千歳を見てハルの目が丸くなった。<br>「なに、なにそんなんなってんの？！」<br>千歳の髪の毛はまだびしょびしょで、タオルを首にかけ、変な長い白いコートを着ている。<br>千歳はハルの顔を見たらすごく帰って来たぁーっという実感がわいてきた。<br>「ただいま。」そう言ってさっさと鍵を差し込んでドアを開けた。鍵を開けている千歳の背中を見てハルが叫んだ。<br>「ショーパブ・ファンタジーって書いてあるけど？！」<br>「あ、これもらったの。」<br>「もらった？誰に？」<br>「このショーパブの人に。」<br>「ええっと・・・。」ハルはわけがわからなくなった。「だってバイトはレストランの厨房じゃなかったっけ？」<br>「べつにショーパブで働いてるわけじゃないよ。道を聞いたらくれたの。」<br>「道を聞いたら？コートをくれたの？ってか、なんでそんなずぶ濡れなんだよ・・・・・・。」そう言いながらハルの顔が険しくなった。「・・・千歳、もしかして自分の部屋に行って来たんだろ。」<br>「うん。」<br>「おやじさんいたんだな！一体何された？！」<br>「えー・・・、湯船に突っ込まれた。」<br>「なんだよ、それ。なんで一人で行くんだよ・・・・・・。俺が帰ってくるの待って、一緒に行けばいいだろう。大体、せっかくあんなに必死で逃げてきたのになんでまたわざわざ行く必要があるんだよ！？」<br>「だって、着替えがなかったから・・・。」<br>「そんなもん、開き直って俺のパンツはいてんだから、それでいいだろ！」<br>「だってブラジャーないでしょ！」<br>「ああ・・・まあさすがにブラジャーはないけどさ、だからってブラジャーのためにそんなにされてまで行くことないだろう。」<br>「・・・。」千歳は黙って部屋に入った。ハルもあとに続いて入る。<br>「あ、あのね、ハルのドライバーセットのキリ、なくしてきちゃった。」<br>「はあ、キリ～？なんでそんな話が飛ぶんだよ。」<br>「話飛んでないよ。それで刺したの。」<br>「刺したって何を。」<br>「お父さん以外何刺すの。」<br>「えっマジで？」<br>「で、気がついたらどっか行っちゃった。ごめん。」<br>「いいよ、そんなおやじさん刺したやつ、もう使いたくないよ。」ハルはジャケットを脱いで椅子の背にかけた。<br>「刺したって、どこ刺したんだよ？まさか目か？」<br>「いやぁ～想像しちゃったよ。タコヤキ食べれなくなるわ。」<br>「うわっ、よせ、俺だってタコヤキ好きなんだからさぁ。」そう言いながらハルは風呂場に入ってお湯を湯船に入れ始めた。<br>「とにかく、まず風呂入らないとお前、風邪引くよ。」<br>確かにすっかり体は冷えきって、実は震えるくらいだった。ハルの手前、努めて平気な顔をしていたのだが、唇が紫になっていて誰が見ても凍えているのはバレバレだ。<br></font></p><p><font size="3">千歳はお湯がたまるのを待たずに風呂場に入り、慌てて濡れた服を脱いでいると、首から下げた携帯から水がしたたっていた。そうだ、すっかり忘れていた。あ～携帯死んだか・・・。千歳は無造作に携帯を首からはずすと洗面台の上に置いた。壊れたり取られたりしないように服の中に吊るしていたのが今日は裏目に出た。やっぱりここの部屋に置いていけばよかったけど、もう考えてもしょうがない。</font></p><p><font size="3">千歳が風呂場から出ると、椅子に座ってコーヒーを飲んでいたハルが待っていたように口を開いた。<br>「さっき、湯船に突っ込まれたって言ってたよな？で、大丈夫だったのかよ？どうやって逃げてきたんだ？」</font></p><p><font size="3">「うん・・・。あお向けに湯船に押し込まれたから、ポケットに入れてったキリで抑えてる手を刺したの。でも、今日はちょっとヤバかったよ。」</font></p><p><font size="3">「ヤバかったって何が？」</font></p><p><font size="3">「いや、ほんとに今日は殺されるかと思った。」</font></p><p><font size="3">「・・・・・・。」ハルはすぐにはなんて答えたらいいのかわからなかった。それが伝わったかのように、千歳が続けて話し始めた。</font></p><p><font size="3">「べつにね、今までも"ああ～殺される～"なんて思ったことはもちろんあるの。でも今日はほんとに、このままあきらめたら多分気が遠くなってそのまま戻って来れないんだろうなって思うくらい容赦なかったよ。」</font></p><p><font size="3">「・・・・・・。」ハルがまだ黙っているので、千歳はゆっくり椅子に座った。</font></p><p><font size="3">「もうお金だけせびりに来たんじゃないのかなあ。」</font></p><p><font size="3">「よく、キリなんて持って行ったな。」</font></p><p><font size="3">「うん、奥の手がないと何かあった時にまずいと思ってさ。」</font></p><p><font size="3">ハルはコーヒーを飲み、「あのさ、」と言いかけて少し考えてから、また言葉を選びつつ話し始めた。<br>「あのさ、千歳、これからどうすんの？」<br>「え？これから？これからって・・・。」千歳は突然の質問に始め何を聞かれているのかピンと来なかった。が、この部屋に居座っていることだとすぐにわかって、慌てて取り繕った。そうだ、ハルだって迷惑に思うのが普通だ。</font></p><p><font size="3">「あ、ごめん。出て行くよ。彼女にバレたらマズイよね。」<br>「いや、そうじゃなくてさ。べつに彼女いないし。」<br>「え、いないの。」<br>「いねえよ。それはいいからさ、千歳もう自分の部屋に一人で戻るのやめろよ。」<br>「・・・。」今度は千歳がなんて返事をしたらいいか迷う番だった。</font></p><p><font size="3">ハルは黙った千歳を見ながら、ぽつぽつ気持ちを話しだした。<br>「俺さ、さっきドアの前で千歳が帰ってくるの待ってた時、バイト先に行っただけだと思いながらもさ、もしかしてまたおやじさんと何かあったんじゃないかと思ってすげぇ心配だったんだよ。そうしたら案の定、ぽたぽた水たらしながら変なカッコして帰ってきただろ。」ハルはちょっとため息をつくように息を吐いた。<br>「俺さ、正直言って、千歳があんな風に殴られたり暴力振るわれるの、見たくないんだよ。俺彼氏でも何でもないしさ、えらそうなこと言えないけどでも理屈抜きでやなんだよ。だからさ、どうしたらいいか考えが決まるまで、ここにいろよ。」<br>「いいの？」<br>「いいよ。」<br>千歳は少し間を置いて聞いた。<br>「考えが決まるって、何を決めるの？」<br>「だからさ、たとえば荷物とか確かに不便だから、おやじさんいても何とかして運べないかとか考えようよ。」<br>「なんか、あの部屋お父さんにあげちゃうみたいだね。」<br>「ていうか、ずっと居座る気なのかな、おやじさん。」<br>「いや、お金が手に入ればどっか行っちゃうよ、あの人は。今回はまだお金もらえてないからどこにも行けないんじゃない？」<br>「なるほど・・・。でもだからといってただ金やるのも頭に来るよなあ。」<br>「まあね。」<br>「あ。」ハルが立ち上がった。「千歳もコーヒー飲む？」<br>「飲む。ありがとう。」<br>ハルはカウンターの向こう側にまわって、コーヒーメーカーからマグカップにコーヒーを入れた。<br>「砂糖は？牛乳は？」<br>「どっちもいらない。」<br>「はいよ。」<br>ハルがテーブルに置いたカップを手に取ると、すごく暖かくていい匂いがした。そのまま一口飲むと、冷えた胃にすとんとコーヒーがしみていくのが感じられた。<br>「あ～～～おいしい。」千歳はカップを両手で包むようにして持ったまま、テーブルを見つめた。<br>「実はさ、昨日ハルが鍵持って行ってまた中で待ってればいいって言ってくれたでしょ。あれ、すごいうれしかった。またここに帰ってきていいんだなあって思ったの。」<br>「ああ、だって、今あの部屋に帰れないだろ。」<br>「そりゃそうだけど。でもやっぱりうれしかったよ。」</font></p><p><font size="3">ハルは意外に素直なことを言う千歳が急に可愛く思えた。もし椅子じゃなくてソファに座っていたらぎゅっと抱き寄せたい気持ちになった。が、椅子からわざわざ立ち上がってそうするのは変なので、黙ってコーヒーを覗き込んでいた。</font></p><p><font size="3">すると突然千歳が声を上げた。</font></p><p><font size="3">「あっそうだ！ハル、携帯貸して。一か所電話してもいい？」<br>「は？俺の携帯？なんで？」<br>「今日私の携帯一緒に湯船に浸かっちゃったの。でも携帯通じないと心配する友達がいるから、その子にだけは連絡しておきたいんだ。」<br>「ああ、いいけど。」<br>ハルが携帯を差し出すと、千歳は手帳も何も見ずに番号を押した。呼び出し音が鳴って少しして相手が電話に出た。<br>「もしもし？」<br>「もしもし、文乃？千歳。」<br>「千歳？なにこの番号？」<br>「ごめん、携帯水没しちゃってさ。とりあえずこの番号で連絡取れるから。」<br>「新しいの買ったの？」<br>「ううん、新しい友達の携帯。」<br>「新しい友達？」<br>「うん。」<br>「ふう～～～～ん。」文乃は意味ありげに語尾を上げた。<br>「千歳、お父さん来たんでしょ。」<br>「おっ、よくわかったね。」<br>「水没とか、新しい友達とか、なんか盛りだくさんだからさぁ。」<br>「そうだね。」<br>「今度ゆっくり聞かせてよ、待ってるから。じゃあね。」</font></p><p><font size="3">「じゃあね。」<br>千歳も電話を切って携帯をハルに返した。</font></p><p><font size="3">電話の会話が終わると急に静かになって、ハルはまだ色々言いたいことがあったのになんだかどう話したらいいのかわからなくなり、立ち上がってコーヒーのおかわりを入れた。</font></p>
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<pubDate>Sat, 20 Mar 2010 05:18:57 +0900</pubDate>
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