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<title>sukai124のブログ</title>
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<title>みやこ落ち　九(終章)</title>
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<![CDATA[ <p>　湖の堰堤上は、湖面から吹きつけるつよい北西風の吹きさらしになっていた。欄干にもたれてじっとしていると、みる間に体温を奪われて、歯の根が合わなくなるほどに寒い。<br>　アースダムの斜面は玉石の埋め込まれたごくゆるい勾配になっており、欄干をのりこえて斜面に腰を下ろしているカップルが何組かいた。いっとき風が収まったように思えても、湖水は広い範囲にわたって縮緬皴を寄せていた。下方から、チャプ・ジャボンともろく小波の砕ける音がする。<br>　ネオ・バロックふうの丸いドーム屋根の取水塔や、水道局管理所がある南端あたりでは、西からのうねりと北西からのうねりがひと所に集まり、白波を立てていた。からのペットボトルや木くずなどの漂着物が波に翻弄されて、ものうげな動揺を繰り返している。<br>　欄干から身を乗り出して下を覗くと、法面の水中に没している部分は一メートルほどしか視程が利かなかった。そこより奥は暗緑色に遮られて、あとどれほどの深さがあるのだかちょっと見当がつかなかった。もろく砕ける波にはさほどの力強さを感じないが、この堤体がおよそ千二百トンもの水圧と拮抗していることを想い馳せると、水のエネルギーにこめられた底知れぬ不気味さに襲われてくる。<br>　波打ち際からの連想だろうか。広大なもの、膨大なものにはじめて触れたときの、幼児の記憶がふと蘇ってきた。<br><br>　そこは親戚の子らと連れていかれた大洗海岸の荒磯だった。<br>　貝殻の模様一つひとつの違っているということが、たいへん深刻な意味を持っているように感じられる、そんな感性がまだどの子の内にも宿っていた時分。手にすくい取ってみた濡れて光る桜色の貝が自分と対等な重みに感じられ、そうと扱わなければいけなかった。<br>　潮が引いたあとの岩場に取り残された潮溜まりを、ぼくは長い時間のぞき込んでいた。年上の子供たちや兄は、浜で盛んに大波に挑んでいるのが眺めやれ、ぼくはやはり小さくて海に入ることのできない、黒い水着の女の子と一緒だった。<br>　空を映したまま何一つ動く気配のない潮溜まりに、かぼそい節足をソソと覗かせ蟹やヤドカリが姿を現す。それからおもむろに触手を揺らめかす、彼らの呼吸にぼくは息をつめて魅入っていた。<br>　女の子は入りくんだ磯のこんな所にまで、と思われるような岩の隙間のごくゆるい波の上下に、青白い足首を浸せながらじいと沖合を見つめていた。ばた足の練習をしている二人の姉をそれとなしに気にしている。そんなそぶりを見ていると、本当なら年上の子らと遊びたい、女の子の気持ちがぼくにつまらなく察せられた。<br>　ウン、と前屈みになって、両肘までを思いきり海中のヤドカリの潜むくぼみに差しこみながら、ぼくは広大なものの意思をおぼろげに感じ取っていた。女の子が目を大きく見開いて沖を見つめているのも、かなたに蠢いている凶暴な潮のうねりや深海を、恐ろしく予感しているのに違いなかった。<br>　そうしたぼくの憶測は年を経るにつれ確信に変わった。広大なもの膨大なものを目の当たりにして、まずは脅威の及びそうにない安全な場所へ女の子は本能的に避難する。そして海原に動揺している波のうねりの起こりについて、もしくは水平線を越していく方法なぞをわりと冷静に思案している。海と山とにかかわらず、いざとなると度胸をすえていくらでも泳いで行ってしまうのも、そういう類の女の子だった。<br><br>　堰堤からのぞむ湖水の果ては、藤紫色をした奥多摩の山々が夕映えを浮かべて華やいでいた。<br>　地平線を限りこまやかな鋸歯を引いている、山並みの一部は雲と交差し灰がかった藍にかすんでみえた。噴煙のような雲の上段には、さらに野太い長大な雲が棚引いており、それが熟考している哲人のごとき賢しらな顔形にかいま見えた。陽は地際の雲にさしかかり、没する間際とろけるような茜に煮え立った。<br>　雲が切れ、ほのぼのとした朱を滲ませている遠い山容の上空が刻一刻いろどりを深めていくさまを見つめていると、山のかなたに予感される、いまだ眼にしたことのない展望が少年のように胸に膨らんでくるのだった。けれども一方でまた、期待を抱きながら事あるごとに裏切られた少年時代を自分は苦々しく回想するのだ。童心を一顧だにせず踏みにじる、大都会の横暴に幼いころから馴れてきた自分には、何か期待に膨らみかけるととっさにそれを打ち消してしまう、ひねた性分が身内に宿ってしまっていた。だれか一人が夢見たことは、すぐに周りの少年たちに伝播して、寄ってたかってないがしろにされてしまう。逆にそうした高望みしない、病的に冷めた気分が都会の少年たちの根深い部分に底流していた。<br>　陽がすっかり隠れたのちにも、山の端の雲は淡紅色に染まりつづけた。反対に東の空はひとひらの雲なく、すでに夜の領域で濃紺に冴えている。このとき、残照のはなつ深紅のにぎわいと、濃紺から青に染まっていく夜の先端との狭間に、この世の色調とも思われない、水彩をうすく引いたようなエメラルドグリーンがほのぼのと浮かび上がった。<br>「ああ……ブロンズ製のみどり色の夕焼け!」<br>　あのかすかな色合いはあと何分もつのだろう。<br>　うす緑のなか躍動しているのは、幾人かの少年たちだった。どの子も透明な雲のきわ同様にふちどられて、まるで神話をまのあたりにしているように健やかだった。見覚えのある校庭の三本のイチョウを駆け抜けていく、少年たちは宛然として十年も昔、確かに存在していた自分の分身に違いない。けれども考えもなく今日まで漫然と生を喰いつぶしてきた自分には、今があの童心のなれの果てとはどうしても思えなかった。声をかぎりに呼び止めたいが、どうしても会話が結ばれない。それは蔦葛のようにこの心身にはびこってしまった針金の束と、やわな繭の糸で紡がれている、初心の感性とを懸命により繕うとしているかのような愚かさだった。<br>　余光の紅ににごりが生じ、あわい緑の感じが薄まるにつれ、そこでの遊戯に熱中しつつ少年たちもまた遠退いていく。<br>(……まるでターナーの、ペットワスの夕暮れのようだ)<br>　鎮静した気分のままに瞳を閉じると、眼底にしみのこっている薄緑の残光がどっと心の側に流れていった。余光はついに濃紺に&amp;#x541E;みつくされて、頭を上げると湖岸の森の意外な方角に金星が高々と打ち揚げてあった。<br><br>　ぼくの触れている世間とは、互いの思惑にあまり深入りしたがらない、互いの立場を尊重した大人同士の付き合いだった。昔の級友や両親のように相手の臓腑をえぐり取るような肉薄した関係では決してない。他者を受け入れる臨界点がきちんと定められてあって、土足での立ち入りを頑として拒む。希薄だが、一面アッサリしており必要以上に強要されたり脅かされるようなこともない。有体に言って仕事さえ真面目にこなしていれば世間から文句を言われる筋合いもなかった。他人の目のそんなありきたりな性向になれてしまうと、仕事の内容を退屈に感じ出していた自分には、今の暮らしが金銭を稼ぐ以外、ただ世間体を慮るだけのものでしかないように思われて来た。<br>　出社時刻の八時半を刻む時計の針を眺めながら、今ごろはさだめし苦い顔をしているだろう工場長や職工たちの顔が思い浮かび、胃の焼けるような悔恨に苛まれる。一時間もそうした罪悪感に苦しむと、心の置き所を求めてぼくは八国山の雑木林や狭山丘陵へ分け入っていった。木洩れ日を浴びながら、ベンチに一人思うことは、<br>(出勤して汗して働いてる自分も本当なら、林で緑の息吹を嗅いでいる、今の自分もまた現実のものだ)――そんな感懐だった。林間に差しいる光線の清浄な感じに打たれ、葉裏から透かしみる緑にそまってしまうと、平日のその時刻、広大な緑地帯には人影すらなく、都を離れひとりそうして深呼吸している自分の存在がつくづく不可思議に思われてきて、愉悦の笑みをこぼしたりした。そうして週末となると狭山丘陵に飽き足りず、奥多摩の山々にまで分け入るようになっていた。<br>「おめえが休んだ分は、誰かが肩代わりしなきゃならねえ、そうすっとそいつが抜けた分、全体が迷惑すんだ。こんな十四五人でやってる町工場で、納期の予定が立たないんじゃ仕事になんないってことぐらい、おめえだって解ってるだろう」<br>　無断欠勤をした翌朝、工場全体にとどろく声で、ぼくは工場長に幾度どなられたか知れなかった。<br>　肉体労働がいやなのではない。機械油の染みた作業服は誇りに思う。ともに働く職工仲間はつき合ってみると誰もこだわりのない、気さくな連中ばかりだった。作業中は手にしている製品に没頭しているのでよけいな考えの浮かぶ暇もない、そうした境涯に身を置くことは、知らず人間が磨かれて心身の陶冶されたような快さがあった。<br>　けれども――同一の工程を無思考のまま繰り返していると、それ以上摩滅されることを拒み抗う、もう一人の自分がうっすら影を現わしてくるのだ。<br>(この職場でおまえは彼らと運命をともにして、それで生涯を閉じるつもりか)<br>　無意識裡からのそんな声がぼくの胸をふさぐのだった。会社に籍を置き仲間ができてくると、なるほど人々の自分を見る眼というのができてくる。自分に対する世間の評価が見えてくるにつけ、逆にぼくの側からも、仕事や世間を見る目が固まってきたのだ。するとそこに何ら新味を感じない、今の職にいる理由がぼくにはわからなくなった。工場長や先輩たちを裏切る形になってしまう、その不義理以外に働く理由が見つからない。ぼくはまだ世間のたった一つの窓を覗いたに過ぎなかった。この職一つをもって世間の代表とみなすわけにもいかないだろう。自己の完成といって、胸を張るにはあまりに狭量な視野に過ぎる、安住するにはあまりに自分は若すぎると思った。<br>　無断欠勤が三日目を過ぎた先週、とうとう工場長が『高嶺』にやって来た。階下から声が掛かり、縄のれんをぼくがくぐるや第一声、「ばかやろうっ」と工場長に大喝された。<br>「女将の心配してるのも知らねえで、会社のみんなには迷惑かけて、ああして俺が怒鳴ったっておめえはいつまで経っても悔悛しねえ。これまでさんざおめえには情けを掛けてきたのにそれを屁とも思っていやしねえ。これ以上は俺だって、庇いきれねえってことよ」<br>　工場長の谷さんは呑みに出るとき、いつも小綺麗な格好に着替えてくる。その日も白のスラックスにアイロンの利いた黒い開襟シャツを着て、工場にいる時とは別人のようだった。<br>「もうおめえのツラは見たくもねえ。明日から会社に来るにはおよばねえから、山でも外国でも好きなところにとっとといっちまえっ」<br>　言いながら、それでもまだ腹に据えかねたらしく、ぼくの襟首をつかんでぐいぐいと締め付けてきた。<br>　世間の寛恕の限界を、ぼくはついに越えてしまった。<br><br>　湖はもはや、夜空とは判別しにくい黒灰色に沈んで見えた。<br>　上空の無窮の引力と対照に、湖水にはコンクリートのような冷たいおののきが感じられた。<br>　無窮のものと抑圧されたもの、この異質な両者を双肩に担い、景観の均整を保っているのが両岸の漆黒の水源林だった。気をそらさずに見入っていると、漆黒と思っていたその内にもさらに深い棒状の闇が、幾本も樹幹を浮き立たせており、そこは直視するにはあまりにそら怖ろしい領域だった。<br>(結局自分は美しいものを信じていくより仕方がない)<br>　それとてもここ二三年、迷うたび縋りついてきた考えで、すでにだいぶ色褪せてきていた。一体ここの景観は、土木工学の徹底した計算に基づいて自然を模した造形美であるか、それとも地勢を生かして人間の利便に供した天然の眺めであるのか、そのどちらとも取れる中途半端な景観がキリコの絵画でも見ているようにもどかしかった。<br>　濃紺の空と、湖水の果ての落ち合うあたりに、三つの光点が真横にチロチロ移動している。貯水池の上湖と下湖を分ける、中堤をゆく車のヘッドライトだ。湖岸の森の奥深い沈黙をそろそろ不気味に感じ出していた自分に、それは葉末を匍匐するテントウ虫ほどのつつましさで、どこかいじらしいものに瞳に映った。<br>(人間は――これほどの距離を置いてであったら、許しあえるものか)<br>　あの堤からなら、西の方角にまだ残照が眺めやれるのではなかろうか――そうした思いを引きずりながら、ぼくは湖と反対側の欄干にもたれた。<br>　眼下には、狭山公園の木々の樹冠が夜目にも鬱蒼として見渡された。外灯のあるあたりの葉群が沁み入るような若緑に照り映えている。樹冠のうねりの向こう側は、多摩湖町から本町へかけての、市街地のおびただしい燈火が見はるかす果てまで眺めやれた。<br>　日中はいやでも摩擦を生じてしまう人々が、家という定理を与えられて一人の漏れもなく帰納している。今日一日に起きた猜疑、憎悪、軽蔑、断絶、もしくは信頼、尊敬、熱愛、和解、それら幾万の情感たちが各戸の窓明かりに遺漏なく納まっている。こうして遠望していると、あの信号機という社会的拘束すらもいじましい。<br>　瞳を閉じる。そして頭の中の視点をぐんぐん上昇させる。欅の梢の高さまで。関東を望む雲の高さまで。皇居の小暗い心臓部を中心に環状線の光跡が視認され、環七から外環道にいたる幾本もの光環が連なっている。新宿、渋谷、池袋といった大都市には、とくににぎにぎしい結束部が光を放ち、都心からは東名……常磐道にいたる大動脈が、決然として地方都市に向かい進展していく。山間部に分け入る毛細血管の新たな息吹。それはまったく各部位の細胞を増殖させる、有機体そのものの姿だった。<br>　鉄橋をわたる鈍重な響きに、ぼくはそっと眼を開いた。　武蔵大和駅にすべりこむ列車の明かりが木の間越しにかいま見える。そうだ、高速道の動脈を震わす物流の流れは、まるで脳内のニューロンを伝うパルスのようだ。ところが眼前を行く車窓には、膨大な記憶をもった大脳たちがいくつも、いくつも運ばれていくのだった。その途方もない比較に、ぼくはこめかみに疼痛を覚えた。列車から吐き出された人々もまた、いずれこの夜景の窓明かり一つに帰納する命運をもつ。<br>　試みに、列車の鉄軌を思い浮かべ、そこに数百トンの重量でもってばく進してくる車輪とのきわどい接点にこの身をさらすと、一瞬後にとび散るであろうぼくの臓腑の惨状が、ひいやり瞼に彷彿された。<br>　ただ、それだけのことなのだ。夢かとばかり思われる明かり窓一つひとつの命運もまた、今日の都市の発展、さらには天体の運行に抗うことなく依存している。地際近くのかすかな燈火は星とおなじに瞬いて見え、自己の存在証明としてつつましく煌めいてみえた。この明滅を永続するのが有機体としての悲願であるのだ。<br>(たった、それだけのことが自分にはならえなかった)<br>　ぼくは悄然として、ふたたび街の灯に背を向けた。<br><br>　腕時計のボタンを押すと、液晶画面に7:05の表示が浮かび上がった。丘陵をわたる初冬の風は収まる気配もなく吹きつけてくる。身体がすっかり冷え切ってしまい、ぼくは気を紛らわすのにザックからウォークマンを取り出した。<br>　頭の中でつややかな管楽器のメロディが奏ではじめる。カセットはリーモーガンの『CITY LIGHTS』だ。ブルーノートのジャケットと共に三年前、文京区のジャズ喫茶『ホワイト』で交情を温めた、浪人生たちの顔が思い浮かぶ。彼等はとうに暗い浪人生活を抜け出して、大学生活に打ち込んでいることだろう。あの頃の停滞した空気を自分ひとりが未だに引きずっているのかと思うと、この三年間に彼等との間に穿たれた溝の深さに、ぼくは凝然とせざるを得なかった。<br><br>　昨年の暮れ、工場での仕事納めの大掃除が済んだあとに、ぼくは久々に文京区に帰郷した。なつかしい『ホワイト』の扉を押すと、高校時代の級友だった軽部が驚いた顔をして片手を挙げた。現役で私立大の工学部に合格した軽部はすでに大学四年生になっていて、一足先に社会人として給料をもらっているぼくをしきりに褒めた。そして職工として働いているぼくの日常を事細かに聞きたがった。<br>「会社に入れば保険証をもらって，だれだって社会人になれるんじゃないか」ぼくは憮然として、日々の単純作業がいかに退屈であるかの不満を洩らした。実際ぼくには社会人としての自覚はみじんもなかった。すると軽部は、「働いて金を稼いでいるだけで立派なものさ。なに、捲土重来だ」と学生らしく鷹揚に答えた。ぼくはそのころ家賃の支払いで首が回らなくなっており、金の無心に実家に帰っていたので、内心ギクリとしながら意味を問うと、<br>「将来、何をするかを見極めるために、学生の四年間はあるようなものだ」と彼は言う。「研究室に残る者も何人かはいるが、そういう頭脳明晰な連中がうらやましいよ」そう呟きつつ、来年に就職をひかえた彼のどこにも焦りらしいものは感じなかった。困窮のあげく、蒼白な顔をして帰郷したぼくに比べると、充実した学生生活を暮らす彼の頬はつややかで、どことなくまぶしくぼくは感じた。<br>「いま、卒論を書いてる最中なんだ」照れ臭そうにいう彼には、学問に励む者の知的な品位すら窺われる。昔の級友と&amp;#x541E;むビールはうまいものの、会話の端々に否応なく彼の優位が覗かれるのだった。つまり軽部は三年前と変わりなく、いまだに学歴社会の上位地に列席していた。そう考えることがこちらの卑屈からくるものなのかどうか、ぼくは快活にふるまう彼の微笑の真意を測りかねた。<br>「俺のまわりの同窓生も、いろんな抱負や理想を抱いているよ」<br>　彼の言葉を聞いたとき、ぼくは確かに以前なら無限大のように想像していた社会全般が、みるみると小さくなって郊外の町工場の四角い倉庫に閉じてしまった、そんなわびしさを覚えた。一方で軽部はいまだに世間全般、もしくは世界全体を睥睨している。両人の間に生じた違和感はそこら辺にあるようだった。<br>　郊外へ越してからというもの、ぼくは四六時中を日々の糧に追われ、最低限、暮らせる金があるなら昇給にも高級車にも関心がなかった。丸一日汗して働いてビールをあおる、肉体労働者としての愉悦にどっぷり充足していたので、理想などということは考えたこともない。モラトリアム中、などと自嘲しながら、理想をかかげた大学生の軽部からすると、ぼくなぞ地虫のようなものではないか。理想とは、分厚い書物を前に熟考を重ねた者にして、はじめて得られる概念であるのか。学識と思索が必要なものであるのなら、月々の支払いに追われて機械油にまみれている僕の生活の、どこをひっくり返しても理想の文字は出て来そうにない。<br>「おまえは理想をもっているか」――その晩、『ホワイト』で暗にそう迫ってくる軽部に対し、ぼくは当惑して俯いたまま、顔の赤らむのをどうすることもできなかった。<br><br>　堰堤の遊歩道のゆく末はすでに溶暗にまぎれてしまっていた。<br>　東の眼下景には街の灯がきらめいている。西には縹緲たる夜の湖が横たわっている。ここの場所はじつに人工と自然との境界上だった。<br>　ヘッドフォンから流れるトランペットの、高らかに奏でるメロディに頭を挙げると、北の空を壮大な光の大輪が彩っていた。いくつもの明かり窓をぶら下げながら夜空を巡っているのは遊園地の観覧車だった。頭の中で鳴り響くワルツに合わせ、客車は金星の右脇下をごくわずかずつにせり上がり、下降していく。<br>(日々の暮らしに飽き足りず、あんなものを作り出すなんて)<br>　この堤の延長上に、観覧車がひとり夜空を彩っているのを目の当たりにしたとき、ぼくは救われたような気がした。けれども自分はいつまでも、この同一軌道上を周回しているわけにもいかず、いずれ東か西かのどちらかへ赴かねばならなかった。<br>　同世代の者たちと隔たってきた、三年間という歳月の谷間をぼくはみつめた。そもそも都心を離れて郊外へ越してきたのも、自分の意志からしたことなのだ。そこにはただ一筋、都心を始点に郊外を指さす野太いベクトルだけが刻まれてあった。この堰堤はつまりぼくにとって、世間の出口、自然界への入口なのだ。胸中の方位磁針はひたむきにWESTを志向していた。<br>「さらに西へ……」<br>　このとき、都心のビル群と対照に、奥多摩の重畳たる山並みと、その向こう側にそそり立つ大菩薩連嶺の白銀の峰々が油然とぼくの胸中によみがえってきた。<br><br>　堰堤を行きかう人の姿はとうになかった。<br>　暗がりにするささやき声は、どうやらカップルたちの睦言であるらしい。彼らは数メートルずつの間隔をおいて欄干に寄りそっているらしく、気がつくとぼくはカップルたちのほぼ中間点にいた。驚いて自転車を引いて立ち去ろうとすると、ぼくが近づいた分、隣の黒い影がおもむろに向こう側へ移動した。不快なので委細かまわずそちらへ行くと、カチリと携帯のひらく音がして、白い薄明かりのなか男の方が敵意にみちた眼でぼくを睨んだ。<br>　この街に越して以来、叩かれっぱなしだったぼくは、このときムラムラ抑えがたい激情を催した。ぼくの両腕は三年前よりだいぶ逞しくなっている。<br>「なにか用か」<br>　言いながら、こちらも腕時計のランプを表示して凄んでみせると、女が男の腕を引いて数歩さらに後ずさった。すると、このカップルがずれた影響でひとつと隣のカップルもまた、暗がりのなか向こう側へ移動していく。結果として、ぼく一人が抜けたせいで堰堤全体のカップルが算盤玉をはじいたように横に移動していた。<br>　ぼくは暗然として、彼らの保っていた間隔がいかに微妙なものであったかを痛感した。なるほど永遠の愛を語らう恋人たちにとって、夜の湖は格好の居場所であるのに違いない。<br>「西へ行こう――あの雪煙の舞う峰々へ。ぼくの理想といえばあそこにしかない」<br>　自転車にまたがると、肩肘を張って両翼の肩甲骨をそびやかし、ぼくはいくつもの恋人たちの影を翔びこえていった。<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　(了)<br><br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br><br><br><br><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/sukai124/entry-12699431952.html</link>
<pubDate>Wed, 22 Sep 2021 11:12:54 +0900</pubDate>
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<title>みやこ落ち　八</title>
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<![CDATA[ <p>　夕刻の雑木林は薄暗く、奥行きも見定めがたかった。<br>　都会を離れて、そもそも何をしに郊外の山に踏み込んだのか、自分でも理由が分からなかった。こんな所にひとり踏み込んでしまったら、帰れなくなってしまうんじゃなかろうか。一帯を丈高い熊笹の群落に覆われてしまうと、ぼくはすぐにためらいを覚えた。<br>　見渡すかぎり樹相の大半は、銀灰色と黒い縦縞の襞を浮かべたコナラ林だ。ひょろ長くて、似たような黒白の木肌が溶暗にまぎれ、雑木林の奥深くまで林立していた。死んでから、冥界をさまよったのち次生に生まれてみたら、こんな没個性の林の一樹になっていた――そう思うとたまらない気がした。<br>(こんなところに用はない……引き返そう)<br>　辿ってきた山路をぼくはわびしい気分で振り返った。林縁にぽっかりと穴の開いた入山口にはアスファルトの路面が薄日をあびて静まっており、薄暗いこちら側から見ていると何だか現実界という感じを起させた。するとそこに、ここ四五年のあいだ自分を痛めつけ、あげくに排斥した人々の恣意的な視線――嘲笑、軽侮といった劣情が目くるめくように蘇ってくるのだった。これがあの世間へ戻る退路であるのかと思うと、どうしても素直にそちらへ行くのがためらわれたのだ。梢のかなたに航空機の爆音が轟いていた。<br>　暗がりに慣れた眼で見渡すと、コナラ林の合間にもリョウブ、エゴノキ、ネジキといった違う種の木々が混在している。郊外の二次林とはいえ、そこにはやはり精気あるものの気配、生体に秘めた意思が感じられた。それは例えば図書館の閲覧室で他人と同席したとき、眼は書物に埋もれていながら隣人の性癖、集中している度合いまでが手に取るように感じられる、それと似た親密感だった。<br>　無理強いするようなことはしない、植物や林床の朽ち葉の懐かしい匂いに包まれたとき、ぼくはかすかに善意を感じた。<br>(こちらの世界で生きてく方法はないものかしら……)<br>　林にいると、ささくれ立っていた神経までが鎮まっている。世間から出はずれてしまった郊外の雑木林に、こうした安らぎがあったことをぼくは少時以来うれしく思い出した。　<br>　笹薮を抜けてしばらく行くと、山路は爪先上がりに勾配を増していった。背後から押される気がして、思いがけず額の汗ばむまで登ってしまうと、未知の深林にぼくはすっかり舞い上がってしまい、もう後ろを振り向く勇気も出なかった。意地になって、五里霧中に登りつめていくむき出しの神経に、すると今度は周囲の木々の視線、思惑といったものが重苦しくのしかかってきた。樹幹のこぶや、暗がりにはべらせている枝振りが否応なくこちらの恐怖心をあおり立てる。(何かがいる、誰かが見ている)振り返ってしまったら、林はいっせいに隊列を変え、自分を幽冥境へ連れさらってしまう――そんな妄想が背中にひやりとおぶさっていた。<br>　木の間が透いてきたと想うころ、ようやく前方に淡々しい光を見上げた。どうやら尾根道に出たらしい。ほーっと肩から力がゆるみ、ぼくは最後の傾斜をいつしか体面もなく小走りになって駆けていった。そのとき、「うグゥ」つぶやきとも呻きともつかぬごく低い声音が確かに何かを訴え掛けてきた。ぼくはついに堪らなくなり、振り返りざま、<br>「なんだっ――」そう、人気ない林に大声で怒鳴りつけていた。この心神がどうにかなってしまったんじゃなかろうか――。<br>　気がつくと、そう訝っている魂がひとつ上空の薄暮を映したまま尾根筋の遊歩道に身震いしていた。眼球はめまぐるしく暴れまわり、下半身が棒杭のようにぎこちない。汗に濡れたTシャツは肌に冷たく張りついていた。登路はたった二百メートルにも満たなかったろう。それだのに二十一年使い慣れてきたはずの四肢は勝手気ままな痙攣を起こし、収拾のつかない情けなさだった。幽冥境に惹かれる気持ちはすっかり霧散してしまい、傍らの倒木にぼくはがっくりと腰を下ろした。<br>　うなだれている頭上の梢から、カラカラ角材でも二三本転がしたような高笑いがどこからともなくこだましていた。<br><br>　木の間越しにこちらへ歩いてくる人の姿がかいま見えた。老夫婦のようだが男の方は競歩でもしているのか意外なスピードで近づいてくる。みているとあたかも木彫りの人形が歩いてくるようで、ぼくにはどこかおかしみのある運動に映った。<br>(頼むからそのまま行き過ぎてくれ……)<br>　とっさにぼくはそう思い、振り向きもせずにじっと谷奥の灌木を注視していた。<br>「ああっ。こんにちは」<br>　仕方なく顔を上げると、頬骨の高く秀でた桃色の肌に赤みのさした、七十前後の老人が顔をほころばせて立っていた。頭にボンボンのついた緑色のベレー帽をかぶり、丸い褐色のサングラスをかけ、チェックのベストを着けているのでいよいよ人形臭い。老人はどこかメルヘンチックな風采をしていた。<br>「今日も異常な暑さですな……。ちいとお尋ねしますが、新田義貞の将軍塚はまだこの先でしょうか」<br>「しょうぐん?。さあ。ぼく、昨年この近所に越して来たばかりで」<br>「ああ。私たちもね、そうなんですよ。ここは明るい林でいい所ですなあ」<br>「明るい……そう、ですか?」<br>　陽はすでに木立の合間にだいぶ傾いてはいるものの、尾根道の表土はぬくもりのある薄日にひたされていた。そのせいか、ぼくの辿ってきた谷側の登路は暗がりに一段かしこまって見え、先ほどの声のありかを探っても、どれがその木だったのか自信が持てなくなってきたのだ。後から来て息を弾ませている夫人にぼくは眼をふせて挨拶をした。<br>「あなた、今日はどちらから登ってこられました……私どもはゴルフ場の手前の松ガ丘からなんですが、いやひと汗かきましたよ。けれども健康のためにね、コレと毎日歩いてるんです。ここの尾根道はゆうに二キロはあるでしょう。だから少しずつ距離を延ばしていくんですよ……少しずつね。この先に……ええと久米川古戦場跡っていうのがあるはずなんだが。ご存じない？。これも、ダメと」<br>(こいつは教師かな)<br>　ピンときた。天敵なのである。<br>　こちらがひとり静かに過ごしていたい、そう願っていても相手の心中にお構いなく一方的に話しかけてくる。初対面だろうが何だろうが他人事にすぐ首をつっ込みたがる。迷惑なのだが、一通りは頭に浮かんだことを口にせずにはいられないらしく子供と同じに罪がなかった。一日の大半を学校の塀の中で暮らしていいるせいか、磨かれすぎた珠のように傷つきやすく、一方で異様に公明正大だった。そして体躯にかすかに驕慢が匂う。こうした人の話をむげにさえぎるのも気が引けるので、ぼくは黙って老人の顔を見ていた。<br>「……ですな」<br>「ええっ？」馬の耳に念仏。ぼくは人の目をそらさずに相手の言うことを何一つ聞かないでいることができる。<br>「いや。地図を見ればわかります。オイ、ちょっと地図をよこして。早くしないかどこへやった?。ああっ、何もこんなに小さく畳まなくっても……見てください、これ」<br>「なくすとまた&amp;#x20B9F;られると思ったんですよ」<br>　奥さんらしい夫人は老人を全く意に介していなかった。<br>「ですからね、あなた南から登ってこられたんでしょう？。だから東京人。私どもはすぐ目と鼻の先なんですが埼玉県人なんです。じつにここの尾根道が都県界になっておって、そいつがちょうど私たちの股の間を通ってるってわけです。家は新築なんですが、東京までまさにあと一歩のところで及ばなかった――傑作ですなあ、あっはっはっはっ」<br>　ぼくはつまらなかった。老人のいう松ガ丘はどの家も庭と車庫付きの高級住宅街と聞いていたからむしろ嫌味にも取れてしまう。そろそろ立ち去ろうと頭をかがめたとき、<br>「ああ、私も少し休ませてもらう」<br>　言いながら夫人がニッカボッカに包まれた大柄な尻をぼくの隣に差し出してきた。倒木に三人が並んで座ってしまうとこの場をいよいよ去りづらい。飛び立とうとする蝶をやおら虫ピンで刺したようなやり口だ――僕は苦々しくそう思った。<br>「あんたくらいの若い人を見るとどうも気になってね」図々しく隣に座ったりして申し訳ないが――そう暗に謝っている口吻にぼくはあらためて老人の顔を見直した。<br>　長い年月をかけて人に刻まれた皴というのはどこか厳粛なものだ。無言のうちに相手を黙らすほどの力を持っている。この皴を見ていると、不思議に人生論一冊、ゆうに理解したような心地すらする。幼いころ、しわくちゃで珍妙な生きもの程度にしかみていなかった田舎の祖父母に、ぼくは今更ながら済まない気がした。<br>　老人はこめかみに汗をにじませていたが、横から覗くとサングラスの奥の瞳がガラス玉のように澄んでいた。<br>「あなたは……学生さんなのかな。ここの林へはよく来られるんですか」<br>「いいえ。今日がはじめてで」<br>「ああ、越して来たばかりでしたね、これは失礼。失礼ついでにお尋ねするがあなたここで何見てました」<br>「何って……ただ休んでただけです」<br>「うん。でも林の奥を見てたでしょう。私が明るい林だと言ったとき、あなた怪訝そうな顔をなさっていたから」<br>「ぼくは東京の下町生まれで、郊外のこんな山中に一人で来たのが初めてなもんだから、ちょっと不気味に感じてたんです」<br>「うん。それでよかった。何がよかったかって、私はここの林を明るいと感じた。ところがあなたは不気味だという。じゃあ一体ここの林はほんとうはどんな形をしてるんでしょう」<br>「写真でも撮って比べてみたらどうです」<br>「あなた……」僕の突っ慳貪なもの言いに、気配を察して夫人が老人をにらんだ。<br>「ああ。これは失敬。昔の職業柄、つい話に引き込んでしまって。これで五年前までは私立高校の教師をしていたものですから。若い人を見るとついモノ申し上げたくなる。教師の悪い癖ですな」<br>「ぼくはべつに。どうせ暇ですから」<br>「うん……。ここに、森の風情――ことに樹木の精気を見事にとらえた画家がいるんですよ。カミーユ・コロー。十九世紀のフランス人で近代風景画の父とまでいわれた人です。ご存じですか」<br>「コロー。上野の美術館で、一度だけ」<br>「おや?。そうですか、見ましたか。コローは私が学生のころからの心の師ともいうべき存在でした。この人ほど自然をありのままに、よけいな夾雑物なくカンバスに写し取った画家はちょっといないと思うんです。お察しのとおり私、美術を教えてましたが美術となると受験科目の骨休みに出席するような輩ばかりでしてなあ……」<br>「よかったら、おひとついかが」<br>　夫人はハンカチを乗せた膝の上にペティナイフでリンゴの皮をむいていた。すぼめた掌のくぼみで器用に四ツ割りにすると、笑みを浮かべてぼくによこした。<br>「――そのころ、よく生徒たちに言ってたことは対象をありのままにみろ、ということでした。たんに網膜に映ったそのままを描けというんですが、それがなかなかできないんですよ。ある生徒は交差する枝の繊細な感じを強調するし、ある生徒は木肌の凹凸を克明に描き込む。そうかと思うとある生徒は輪郭すら描かずに、光の明暗だけで立体感を出そうと苦心している。同じ一本の木を描かせても、できあがる絵はじつに多様です」<br>「それは、性格も個性も違うんだから当然じゃないんですか」<br>「大ざっぱに言えばそうですが……。しかしそこでの個性はいわば野放し状態の、殺戮ですとか略奪ですとか、そんな獣性すらもまかり通る身勝手な自己主張と変わりありません――抑制の利いていない、何事も自分の思い通りにしようとする――そんな個性が世に容れられると思いますか。なんぼ個性が大事でも、他を顧みない大胆さ、情動がおもむくままの淫らさといったら、あなた一目見ただけでウンザリしますよ。対象を観るということはまず相手の存在を認めることから始まるんです。それがどうでしょう、自分はそれをああ描きたい、自分にはそれがこう見えた、などと。自惚れちゃいけません。それでは少しも相手の立場を認めていないことになる」<br>「だけど絵は自由に描くのが本来じゃないんですか」<br>「自由ですとも。しかし自由とは一体どんなものを指して言うんでしょう。あなたはどんなときに自由を感じますか。嫌いな学科の授業が終わったとき、卒業証書を手にして制服を脱いだとき、つまり何らかの桎梏から解放されたとき、我々はアア自由だと思うんじゃありませんか」<br><br>　人と人の縁、出会いとは不思議なものだ。老人がもしぼくの高校時代の不登校を知っていたなら歯牙にも掛けなかったろう。人気ない山中で偶然出くわしたものだから、自然に親愛の情を催したのだろう。<br>　もし、ぼくのいた学校がどこを見ても四角形だらけのつまらない鉄筋コンクリートではなく、どこかの地方の山村の、古びた木造の分校だったとしたら――。猛烈な風雨に襲われて、林がうなり、裏山が不気味な地響きを轟かせているような不安な一日。教室のガタガタふるえる窓辺によって、先生を囲み歳のちがう生徒たちが呆然と眺め暮らしているような午前のひと時――そんな時間を共有していたら、級友たちとも教師とも、もう少し健全な人間関係を築いていたかも知れなかった。<br>　そうした空想に耽るたび、けれども金属でも歯にあてたような不快な記憶がぼくの目先を暗くするのだ。<br>　汗くさい中年男の体臭と、革製品と石灰の匂い。<br>　そこはつい三年前までぼくが通っていた高校の、体育教官室の情景だった。<br><br>　――これでお前ともお別れだから、最後に一つだけ訊いておきたいことがある。<br>　担任の体育教師はそう前置きをしておいて、探るような眼でぼくを見ていた。<br>「あの二年前の作文な。あれ、ほんとはお前が書いたもんじゃないんだろう。正直に言ってみないか。その方がお前も気が楽になるだろう」<br>　教諭が言うのはぼくが高校一年だったときの夏休み前、現代国語の時間に課題で出された作文のことだった。太宰治の『畜犬談』が終わったところで、自分の飼ったことがある生き物をテーマに作文を書け、というものだった。ぼくは『土の中から』という題で、幼いころ家にいた三匹のシマリスが次々と死んでいく、十五枚ほどの話を欠いた。二学期になり、提出した作文が戻されてきたのをくくってみると最後のページに現国教諭の評が記されてあり、そこには「学年で一番の出来ばえ」そう朱筆で太々と書かれてあった。<br>　教諭はクラスの生徒たちを前にして、この作文は秋の学校の機関紙『からたち』に載ることになるだろうと公言した。ぼくの周りの席からは驚きと羨望の入りまじったようなな溜息がもれた。<br>　入学当初から不登校を繰り返していたぼくは、ことの意外な展開に椅子から尻がむずがゆく持ち上がるような気がした。なにやら透明で巨きな指先にふいにつまみ上げられたような浮遊感だった。<br>　授業が終わると教諭はぼくを呼び出して、誤字や表現のあいまいな部分を書き直したうえ再提出するようにと言った。その日帰宅すると、ぼくは晩飯もそこそこに夜を徹して作文の書き直しに没頭した。翌日、教諭に提出するとさらに不要な部分を削られて、結局は数度にわたり職員室を往復しなければならなかった。一学期は学校を休んでばかりいた、ぼくのそうした変わりようを当時担任だった地理教諭も向かいの席から目を細めて微笑してみていた。<br>　いよいよそれでよし、清書してこいという段になったとき、ぼくは有頂天になった。親に、話したのだ。中学以来不良性を帯びていた自分について、母はひとしきり激高していた矢先だったから、ぼくのもたらした朗報は父や兄をも巻き込んで、ふさぎがちだった家の重い空気をいちどきに吹き払った。母は親戚の叔母たちに電話を入れ、久々にする明るいニュースに談笑する声が夜遅くまでしていた。<br>　けれどもぼくの作文はついに『からたち』に載ることはなかった。編集委員をしているクラスの女子に尋ねると、彼女は曖昧な表情を浮かべ、「枚数が多いから、ほかの記事が載せられなくなっちゃうって……」そう、か細い声で教えてくれた。教室の生徒の大半は、他人事ながら気の毒そうな、奇妙に歪んだ顔をして、みんな遠巻きにぼくを見ていた。そして唯一ぼくの話し相手だった隣席の軽部は腹を抱えて哄笑した。<br>「小宮山あ、おまえ、とんだ災難だったよな。あんな大嘘つきの口車にのせられてよう。騙されてるとも知らずに、せっせと書き直しちゃあ、職員室くんだりに運んだりしてなあ。結局ボツってことなんだろう?。俺も、こうなるんじゃないかって思ってたんだ。ろくに学校にも来なかった奴が、機関誌に載るだなんて、やっぱ変だもんなあ。まわりが納得しないよ。けどその方がおまえらしい、うん、学年で一番だなんておまえには似合わない。きっとあの先生なんか勘違いしてたんだろう。どうする、ムカついてんなら次の講義フケんの、つき合ってやってもいいんだぞ？」<br>　気のおけない悪友だけにこちらの痛い部分を突いてくる。もっとも、そう笑われてしまうとまったく軽部の言う通りなので、ぼくはむかついてもいない代わりそれほど落胆してもいなかった。痛めつけられることには慣れていたので、精神衛生上ことさら悩むようなこともない。ぼくの属している星の巡りは幼いころからこうした不運が待ち構えている。<br>　現代国語の時間になっても、ぼくはそのことについて現国教諭に詰め寄るようなことはしなかった。なぜなら教諭はそれ以来、校内の廊下でぼくと行き会っても、痩せぎすの身体に寒そうに出席簿を抱えながら辛そうな、泣き笑いするピエロのような歪んだ顔をして、ぼくとの目線を避けるようになっていたから――。家でもぼくは両親となるべく顔を合わせないようにした。会話を避けていたので自然と口数も少なくなった。<br>　晩秋になり、学校の垣根のヒイラギが白い花を匂わせる時期になると、たまりかねた母がついに打診してきた。ぼくはその時も何気ない風を装って、ただ「載らなかったらしい」、そう他人事のように答えただけだった。母はひどく不思議そうに小首をかしげ、何度も頷きながら台所に去っていった。夜ごと仕事で遅い時間に帰宅する父はテレビのニュースに見入ったまま頷くばかり。晩酌を黙って口に含みつつ、<br>「そうか。それは残念。『からたち』は咲かず、か」<br>　そう呟いたきりだった。<br><br>　そんな大昔の話を、卒業間際のいまになってどうしてこの体育教師が蒸し返すのか、ぼくには合点がいかなかった。<br>「おまえ、中学の時の大山先生、憶えているか。先生にお前ずいぶんひどいことしたんだってなあ。プールにゴミぶちまけたり更衣室でタバコ吸ったりよう」<br>「あれは――」<br>　ぼくがしたことではない。けれどもそのころ一緒になってツルんでいた仲間がしたことには違いなかった。<br>「俺となあ、大山先生とは同じ体育だから、教職員組合でよく顔を合わせるんだよ。おまえはずる賢い奴だから、シッポはつかませないんだってなあ。美術でおまえが提出した絵とかも、ぜんぶほかのやつにえがかせたものにちがいないって、大山先生おっしゃっていたぞ。なあ小宮山。そんな悪党が持ってきた作文を俺が黙って見過ごすと思うか。甘いんだよおまえは。まあ、高校生風情じゃそこら辺までしか知恵が回らないってことだよな。俺の言ってることの意味が、わかるかおまえ」<br>　美術の課題を他人に描かせたことも一度もない。けれども教諭のいう内容は氷水でもひっかぶったようにぼくを硬直させた。<br><br>&nbsp; &nbsp;はじめての詰め襟の学生服を着せられて、十三歳のぼくらはひどく緊張していた。まだあどけない顔をしている新入生たちを前にして、<br>「中学校では、小学校と違い勉強についていけない者はどんどん置き去りにしていく」クラス担任の数学教師はそう居丈高に言い放った。朝礼で整列するさいの号令ひとつにしても、小学校の時のような和やかさはない。服装の乱れや長髪は、生活指導の体育教師にきびしく罰せられた。　<br>　月曜の朝、校門で竹刀を片手に生徒の服装をチェックしていたのが生活指導の大山教諭だった。生徒たちは誰よりもこの教諭を怖れ、ほとんどの者が校則におとなしく従っていたらしい。ぼくもまた、ほかの生徒同様この教諭を内心恐怖していたが、登校するうちぼくに対してだけする、教諭の遠回しな締めつけがだんだん分かるようになってきた。髪型にしても立ち襟のホック一つにしても、ほかの生徒ととくべつ変わった身なりをしているわけでもないのに校門で頻&amp;#x7E6B;にチェックされる。<br>　入学当初、ぼくは妙なことを教諭に言われた。<br>「小宮山の弟か。おまえたいへんなところにきちゃったなあ」<br>　どういう意味なのか分からなかった。それから体育の授業では明らかに冷遇、軽視するそれとない締めつけが日々いつ果てるともなく続くのだ。<br>　決定打は体育祭の合同練習のときに起きた。<br>　学年ごとの全体整列の練習中、ぼくらのクラスの列だけが一人分ずれていたのだ。校庭に大山教諭の怒号がひびきわたり、血相を変えた担任の数学教師があわてて列に飛び込んできた。<br>「おまえじゃない、ここまではあってる、こいつも違う」<br>　少年たちの頭が担任の太い腕につぎつぎと払いのけられていった。居ならぶ生徒たちの藪をこいでぼくの前に立ったとき、数学教師は残暑の炎天下いくらかむくんだような蒼黒い顔をしており、こめかみに乱れた髪がべっとり汗ではりついていた。ぼくがハッとしたとき、<br>「一年E組小宮山。前へ出ろ」<br>　抑揚のない声でマイクにうそぶく、竹刀を片手にした大山教諭にぼくは壇上から見下ろされていた。数百人の不審と好奇にみちた刺すような視線のなか、ぼくの頭は空白だった。ゆっくりと壇上から踏み段を降りてくる、教諭の足取りが視野に入った。<br>「後ろを向け」<br>　整列している全校生徒の前で、言われるまま背を向けたその瞬間、ヒュッと風の斬れる音が唸り、背面にすさまじい衝撃を受けた。尻を打たれると油断していたぼくは上体を叩かれ、誰もいない壇上に向かい、ぶざまにお辞儀をしている格好になった。火傷のような熱い痛みが背骨にじりじり浸透した。耳鳴りがする。教員たちを含めその場にいた数百人の人々は水を打ったようにシンとしていた。<br>　授業の終わりをつげるチャイムが鳴ると、ぼくの周囲にたちまち生徒たちの人垣ができた。だれもがぼくの体操着とシャツをまくり、背中を見ていた。<br>「うわっ。ひでえな。みんなおまえは絶対に泣き出すって言ってたんだぜ」<br>　腰より上のあたりが青紫色のミミズ腫れになり、鬱血しているということだった。突発的な出来事に気を呑まれ、興奮状態のまま「ちくしょう。悔しいなあ」と言いながら、本気で涙を浮かべている級友もいた。その場には女生徒もいたから、見栄を張る気持ちの方が勝っていたともいえるけれども、ぼくは比較的テンタンとしていた。間違ったのは自分の方だしもともと大山教諭には睨まれていたから格好の機会を与えたぼくが悪い。こうした見せしめの罰を受けたことも、侘びしいことだが納得がいった。<br>(これでとうぶんは嫌がらせをされずにすむ)<br>　校舎の屋上の向こう側に、いわし雲がはすに無心に居並んでいた。見上げていると、その淡々しい情調がなつかしくこちらの胸にも反映してきて不思議と救われたような心持ちがした。<br>　翌日、登校するやぼくは職員室に呼び出され、今度は先生たちに背中をまくって見せなければならなかった。シャツとランニングを脱ぐよういわれ上半身裸になると、「おおっ」と教師たちの間からどよめきが起こった。担任の数学教師は、<br>「家の人には話したか？。もとはといえばお前が列を乱したのがいけないんだから、解っているな」そう諭すようにぼくに告げた。<br>　学校は、ぼくか家の者が傷害事件として訴えることを恐れていたものらしい。大山教諭は剣道部の顧問だった。昨日の放課後の部活動で、教諭が部員たちの前で教えていたとき、上段に構えた竹刀を一振りしたとたん、割竹がばらりと崩れ落ちたということだった。それを見た何人かの部員があれはやりすぎではなかったかと騒ぎ立て、職員室でも問題になっていたらしい。<br>　何事もなかったかのように振る舞いたがる先生たちと、しかし僕もまた似たような心境だった。この恥な思い出をいっときも早く皆に忘れてほしかった。<br>　それにしても教諭はどうしてああ執拗にぼくをつけ狙ったものだろう。その理由を教諭から直接告げられたことはない。もっとも大山教諭のシゴキはぼくひとりに限られたものではなく、女生徒たちの失笑をあびながらブリーフ一枚で校庭を何周も走らされている男子生徒を見たことがある。そんな偏執狂じみた生活指導ぶりであったから、ぼくは高校に入学するや教諭のことはすぐに忘れた。どうでもよかったのだ。ただ、歳が三つ違いの兄には一度だけ、中学で教諭と何があったのか訊いてみたことがある。すると兄は、<br>「肌が合わなかったんだ。だから逆らったまでさ」<br>　それだけを語った。それ以上ぼくも何も知りたいとは思わなかった。<br>　　<br>「ええ?――。あれは、おまえが書いたもんじゃ、ないんだろう？」<br>　ニタニタと満面に笑みを浮かべ、心底から愉快そうに尋ねてくる体育教師を前にしたとき、不毛だった高校生活よりもこの男と別れられることの方がどれだけ幸せだかわからない――ぼくはそう思っていた。そこで今生の別れに、こちらからも真実をひとつこの男に教えといてやろう、そんな気分になったのだ。<br>「あれはぼくが書いたものです」<br>「ええっ、そうか?。そうかなあ。先生にはどうしても、そうとは思えないんだけどなあ」<br>「ええ。ですけど、あれはぼくが書いたものです」<br>　どす黒く日焼けして白く皮のういた教諭の耳たぶにかすかな赤みがさしていた。教諭はぼくとの目線をそらすと窓外に顔をそむけ、フーッとタバコの煙を鼻から出した。<br>「お前が言い張るんならそうなんだろう。けどな、小宮山、これだけは言っておくぞ。おまえがこの先どんなふうにして生きていくか、そんなことは俺の知ったこっちゃないが、あんまり大人をなめんなよ。今の調子で世間に出たって、必ずしっぺ返しを喰うんだぞ。もういいよ、つまらないこと訊いて悪かったな。実際どうでもいいことだよな、こんなこと」<br>　卒業間際の今になって、どうして教諭は二年も前の出来事をほじくり返すのか、教官室を出た後ぼくは不審に思った。作文がぼくの書いたものかどうかなぞ、現国教諭に確かめればすぐに分かることだ。なぜならぼくは当時、数度にわたって職員室で教えをこうた、その際には段落の組み直しから修飾語一つに至るまで、こと細かに自分の意見を述べたからだ。<br>　教室へもどる途中、うなだれたまま廊下の醜くペンキのはげた跡を見つめながら、ふと自分の知らないところで運んでいたらしい事の成り行きが透けて見えた気がした。確かめたのだ。確かめたから、それでもなお信じられず、それでぼくを呼んだのだ。　<br>　まるで肺でも患っていそうに教材を胸に抱き、つねに前屈みに歩いていた現国教諭だけは恨む気にはなれなかった。ぼくのようなややこしい生徒と出会ったことを気の毒にすら思う。職員室での教員間の人間関係ということになれば、一生徒に過ぎない自分にはとうてい思いおよぶ事柄でもなかった。<br><br>　卒業式の当日――。学年の男子生徒全員が新調したばかりの紺のスーツにネクタイで身を固めるなか、ぼくは褐色のコーデュロイのズボンに草色のジャケット、それにノータイという出で立ちだった。母は、おまえはろくに学校へも行かず卒業させてもらうんだから本物の卒業ではない、スーツを着る資格はないから自分でいいと思った格好で勝手に出席したらいいよ、そういってぼくを見放した。卒業式に何を着たらいいのか、ぼくには見当もつかなかった。<br>　式典の催される講堂は、紺と黒に統一された卒業生たちを背後から見下ろす形に、二階席では一級下の在校生が陣取っていた。隣の生徒が立ち上がるのを機にぼくが席を立ったとき、周囲からは反感と失笑の入りまじったささやきが洩れ、講堂がにわかにざわついた。列席している教員たちの側から聞きなれた体育教師の声がした。<br>「くっ。見てやってくださいあいつの格好。ふだんから何考えてるのか分かんないようなやつでしたが、ああまでして目立ちたいもんですかねえ」<br>「先生。服装のことは……」相手は保険の女性教師のようだった。<br>「あっ、……そうでしたね、これは失礼。けど今になってやっと分かりました。あいつの正体はただの目立ちたがり屋、口先だけのヘソ曲がりですよ」<br>　三年間、探るような嘲るような、まるで腫れ物にでも触るように接してきた教諭たちの言動の意味が、ぼくにもようやく理解できた。教員たちの前を通るさい、卒業生は誰もいったん立ち止まって一礼したが、ぼくはそれをせずに正面を向いたまま素通りした。<br><br>　式が終わると、卒業生たちは三々五々中庭に集い、よそのクラスだった友人と今後の予定を話したり記念撮影をしたりしていた。ぼくはひとり体育館のバスケットゴールに向かって無我夢中でボールを追いかけていた。ドリブルでもロングでもシュートのよく決まる日は調子がいい。名残惜しいといえば、三年のあいだ折に触れてぼくの相手をしてくれた、このゴールと再び向き合えなくなるということだけだ。やがてTシャツが汗まみれになり、肩で息をつくまでシュートを繰り返すと、ぼくは最後のお別れに反対側のゴールに向かって力任せにシュートを放った。ボールはゴールポストの透明なアクリル板に激突し、割れんばかりの反響が体育教官室のある板張りの館内にとどろき渡った。<br>　ジャケットを肩にかけて中庭に出てみると、卒業生たちの姿はすでになかった。<br>　下校時間をとうに過ぎた時計台の針をふりあおぎ、すっかり春めいて霞がかった淡々しい空の色を見つめていると、そのままなごやかに吸い込まれていきそうだった。将来への想いと無窮の感に酔いしれて、ぼくはそこでも胸に快哉を叫んだ者だ。<br>「アア自由だ――!」<br>　もうだれもぼくを知らない。だれからも傷つけられることはない。<br>　それからつくづくと決意した。<br>　もうぼくはだれからも束縛されない。<br><br>　――風がいくらか出てきたようです。<br>　老人はそう言うと、ザックから取り出したレインウエアに腕を通した。風は、向かいの丘の水天宮社を襲ったものが浅い谷にひしめく新興住宅街をこえ、そのままの勢いでもってどっとこちらへ押し寄せてくる。三人の背後を北西からの風が渡ると木々の高所がいっせいにざわめき、しばらくはそれに堪えていなければならなかった。風が収まると尾根道はふたたび静けさを取り戻し、遊歩道の赤土には水玉模様のごく薄い木洩れ日が揺れていた。<br>「あたし、ちょっと笛のお稽古させてもらう」<br>　夫人はそうつぶやいて、ザックから紫色のビロードの袋を取り出した。中から出てきたのは三十センチほどの横笛だった。やがて温かくこもったような音色のメロディが流れ始めた。曲はおそらくロシア人作曲家の作った『インドの歌』だ。<br>　ぼくに話し掛けるというよりも、あふれ出るものを伝えずにはいられない、そんな面差しで老人は語りだした。<br>「……1845年にコローがサロンに出品した絵に『ホメロスと牧人たち』というのがあるんです。ボードレールはこの絵の抑制の利いた色調を評して『コローはつねにアルモニストである』といっています。そこの林の、光の当たっている枝先の葉と茂みの奥との色調の違いをごらんなさい。あの緑のグラデーションにはあれ以上、一筆も色価を加えることはできないんです。加えたら全部が台無しになってしまう。私たちをふくめこの世界はそうしたじつに危うい均衡、精妙な諧調のもとに成り立っているんです。若い人はまず、どんなときでもその力関係を学ばねばなりません」<br>「写真見たような絵でも描いたら及第点をもらえそうですね」<br>「フォルムと質感ができていたら、及第点はむろんあげます。だけどそれ以上はあげません」<br>「どうしてですか」<br>「対象を的確にとらえるだけの澄んだ心と技術が身についてきたら、そうしたデッサンを何十枚何百枚と繰り返していく。するとモノの奥にやがて違ったものがみえてきます」<br>「学校にいたんじゃむりだなあ。でも何ですか、それは」<br>「個性ですよ」<br>　老人が心持ち顔を上げるとサングラスの下のまぶたがククッとせり上がった。ものを見ることに透徹した美術家の瞳というのは、これほど厳しく澄んだものであるのだろうか。<br>「……そもそも、風景画というジャンルが誕生したのが、つまり風景そのものに精神性を見出すようになったのは17世紀になってからなんです。オランダ人画家のレンブラントやフェルメール、同じころまで活躍していたフランス人画家クロード・ロラン、プッサンといった人たちですね。それまでは自然物といいますと、人間の生活を脅かす畏怖すべきもの、対立するものとみられてたんです。絵画もまた、人間中心の世界観にとらわれていた訳なんですね……。<br>　コローがフォンテーヌ・ブローの森でデッサンに励んでいたのは１８３０年頃のことなんですが、彼はただひたすら自然を克明に描写するということに仕事の全精力を傾けていたわけではありません。むしろ戸外でスケッチしたモティーフをアトリエに持ち帰って再構成する、数々の印象を想起することによって独自の画境を切り拓いていったんです。人間中心主義ではない、が自然は我々に感得され、個々人のなかで濾過されて、はじめて存在の意義を現わしてくる――画家はそんなふうに考えていたようです」<br>「あのう……じつはぼく、もう学生じゃないんで。町工場で働いてるただの職工なんです」<br>「モノ作りをされてる方は大好きですよ。自分の手で日々製品に向き合うことも、ものの道理を習うひとつの修練ですから。ただ工業製品は時代とともに改良が加えられていって、これで完成ということがありませんね。その点、自然はたった一度で造られたものでしょう。一度で完成されたものというのは人をひれ伏せさせるほどの威厳と美をたたえています……こんな話をあなたにするのも、べつに絵を学ばせようと思ってしたんじゃないです。<br>　いったい人はどうして風景を求めるようになったんでしょう。我々を支配しているのはなにも人間ばかりじゃない。世間ばかりじゃなくって同時に都市や海や空に大地、それに広大無辺な宇宙に取り囲まれている、そのことを忘れずにいたいからでしょう。中間者である植物や雲の多産な性状を忘れてはいけません。つまり自然物はなべて無心なんで、それを明るいとか不気味とかいうのも我々の勝手な尺度でしかないわけです。<br>　明日もう一度、今ごろの時間ここの林に来てみるといいですよ。今度はきっと違ったふうに見えるから。だって……私のような年寄りに見えるものが若いあなたに見えないはずがないんだから」<br>　老人は微笑んでそう言うと、ぼくに背中を向けてうずくまった。<br>「だって、ほら」言いながら手のひらに差し出したのは一個の眼球だった。<br>「あっ」<br>　サングラスの左奥に、壊れたがま口のようなしまりのない黒い亀裂がかいま見える。笛の音がやみ、かわいた葉音ばかりが耳についた。<br>「なに、義眼ですよ。昔教え子の一人に殴られましてね。メガネを掛けてたんでガラスの破片が食い込んだんです。絵のうまい子だったんですよ。県のコンクールで次点に選ばれたこともあったんだから。それが高校二年生ごろから学校に来なくなりましてね。心配になって彼の家まで訪ねて行ったんですが、このざまです。でも彼を恨んだことなんて一度もなかった。その事だけは伝えたかったんですが、それ以降私を避けるようになってしまって……むしろ傷ついたのは彼の方だったかも知れません」<br>「お父さん……」夫人が心配そうに老人の横顔を窺った。<br>「うん、風も出てきたし、そろそろ行こうか。いや、長々とつまらない話をしました。私たちはこちらの道をもう少し奥へ行ってみようと思うんですが、よろしかったらご一緒にいかがですか」<br>「いえ。ぼくは陽の沈む側へ……狭山丘陵の方へ行ってみようかと」<br>「多摩湖へ……先はまだ長いですよ。でもなあに、暗くなったら抜け道は至る所にあるんだから。帰ろうと思えば右でも左でも、好きな方へ下ればすぐ町には出られるんだから」<br>「ええ分かっています。それでは、また」<br>「あの、よろしかったらいつでも遊びにいらっしゃいな。家は向かいの丘沿いの、舗道に面している奥寺という家だから。絵画教室の看板が下がっています」夫人はしかつめらしい顔をしてそう言うと、ザックのなかからリンゴを取り出してぼくにくれた。ぼくは目礼をして夫妻と別れた。　<br><br>　コナラ林の尾根道は、夕暮れ前の射光がそそぐ明るい緑の回廊だった。<br>　奥寺夫妻は山の西端の尾根筋から登ってきたので、ここより上に木がないのだから林が明るいのも当たり前だ。二十一にもなってそんなことにも気づかなかった。それにしても雑木林に踏み込んだとき、自分はどうしてああ魑魅の心にとらわれていたろう。林の中で恐怖にかられ一人わめき立てていた、自分の姿を地元の小学生が見たら何と言うか、そう思うとさすがに恥ずかしくなった。今は大学生になっている、昔の級友たちが知ったなら腹を抱えて笑うだろう。子供レベルの知識を一つ体験し、それが知恵として身についた――そんなことが、自分に涙ぐむほどうれしく感じられた。<br>　もう、かれこれどのくらい歩いたろうか。<br>　はじめての丘陵をあまり遠くへは行かない方がいい。谷奥は薄闇が籠めてきているし、街の明かりがとどかない山路をひとり戻るのも心細かった。山中では先ほどの老夫婦と行き会ったきり、人の姿を見ていない。<br>　尾根道をそれて枝道を下れば街に出られることは分かっていた。町中でする犬の遠吠えは聞こえているし、暗がりの向こうにときおり西武線の轟音が轟いてもいた。送電塔の巨大な鉄骨の足組を迂回すると尾根道は南西に向けて延びており、そこで僕はこの日ようやく見晴らしの利く高台に立つことができた。<br>　眼下には、宅地造成のためコンクリート枠で縦横に区画整備された分譲中の傾斜地が拡がっていた。林のまばらになった北斜面から、ごくゆるやかな丘が見渡せる。鳩峰八幡宮から水天宮へとつらなる神域の雑木林だった。ぼくの立っている崖縁から向かいの丘まではゆうに五百メートルはあるだろうか。あせたオレンジ色の夕空に、尾根筋の林はしっとりしたシルエットをにじませていた。谷あいの造成地は日脚がとどかず、すでに夜の領分で、全体に青みがかった黒灰色に沈んで見えた。そんな見晴らしのなか、どうした光の加減か、稜線直下の給水塔らしい巨大な円柱のみが側面をピカリと光らせていた。<br>(人間中心主義ではない……が、自然は我々に感得されて、はじめて存在の意義を現わしてくる)<br>　この東西に細長いまとまりをもつ谷あいの虚空を展望したとき、ぼくはこれまで気づかずに探しあぐねていたものを忽然と差し出されたような気がした。いったい人間関係にばかりあくせくして生きてきた自分はいつから四方の物象にこれほど無関心になっていたろう。逃れようのない頭脳競争に呑みこまれ、翻弄され続けてきた胸中の夾雑物が、広大な展望の谷底にゆったりと沈潜していった。<br>　北西にたなびく地際の雲が燃えるような白金の筋を引いている。<br>　ある予感に、ぼくは童心に近い胸さわぎを覚え、崖縁の尾根道を夢見ごこちに辿っていった。北西の急斜面に生えているのはコナラやエゴノキの若木ばかり。ひょろ長い木々の合間を縫って、この時間にしてはと思うほど鮮烈な茜色の日溜まりが堅い表土にぬくもっていた。折からの射光に土は赤くはげしく煮え切って、なにやら悦びを抑えきれぬといった情調だった。一方で谷側のコナラはいっせいに薄桃に染め抜かれ、異観は樹皮のはがれ落ちた高所――そこがアカマツの赫々たる燃焼だった。<br>「ああ……きれいだ」<br>　銅色の反照に、みつめているとこちらまでもが同化して、抑えようなく心神が昂ぶってくる――いま、向かいの尾根からこちらを窺っている人がいるとしたら、ぼくはどんな大馬鹿に映ったろう。<br>　背後の木立は影を畳み、ひんやりした山の気韻は少しずつ林間にこめてきた……。<br><br><br><br>&nbsp;</p>
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<pubDate>Wed, 22 Sep 2021 11:10:53 +0900</pubDate>
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<title>みやこ落ち　七</title>
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<![CDATA[ <p>　老猫は、白地に茶と黒の斑の入りまじった、何ら意匠の伝わってこない平凡な毛並みをしていた。無造作に散らした鼻先の斑紋にも少しも愛嬌といったものが感じられない。まだら模様の版画を刷ったところ、紙と原版がずれてしまった――人から見るとおのずと目を逸らしたくなるような、そんなつまらない柄をしていた。総体に薄汚れているので毛艶も失せて、近寄ると糞尿の臭いが鼻をつく。ふだんの面構えからしてふてぶてしいのに、日中は日向の屋根に小いびきをかいて、たまに一方のまぶたが薄気味悪く見開かれていたりした。<br>　世捨て猫同然のみすぼらしさに、予感はしていたものの老猫は隣家で飼われているのではないらしかった。車道を横切り隣の街区から通ってきている。近頃ようやく出歩くようになったぼくの飼い猫のヒロシが、この老猫と塀の上で鉢合わせになったのを二階から見ていたことがある。<br>　老猫は塀の下までくるとおもむろに高さを測り、体勢をかがめ猪首の筋肉が盛り上がったとみるや、めざましい跳躍でふわりと塀に飛び乗った。そちらへ用のあったヒロシは老猫の突然の出現に、前脚を出したところでひたりと&amp;#x525D;製みたく動かなくなった。先方は、何ら拘泥するそぶりも見せずに一定の歩みを運ばせてくる、その威信に気圧されてヒロシはあっけなく塀の上から退散した。<br>　ぼくは図らずも、腕力では決してよその子供にかなわなかった、自らの少年時代をわびしく思い返した。草むらに降り立ったのち、ヒロシが老猫を睨み返すわけでもなく、相手の気に障ることのないようツユの花なぞを無心につついたりして、さりげないふうを装っているのがなんとも無念でならなかった。<br><br>　アパート全体が寝静まった、ある夜更けのことだった。<br>　枕にうずめたぼくの耳元に、シャーッと乾いた音がした。それが床板に近い所だったので、一階の北側の牛乳屋さんが天井辺りで何かしているのだろうと思っていた。配管のどこかが割れて水が漏れているのかもしれない。いずれ朝になればわかることだと寝入ったが、翌日とくに下から苦情が出るようなこともなかった。<br>　ところが二三日たった真夜中、布団にまどろみかけたころ再び廊下に乾いた摩擦音がする。やや緊張して部屋の窓をそっと開けると、白髪の見たこともない大柄の背中が、ゆっくりと廊下を遠ざかっていく。ぼくは見てはならぬものを見たような気がして、そのまま静かに窓を閉めた。<br>「なんだか、知らない人が住んでるんですがね」<br>　まんじりともせず一夜を過ごした後、ぼくは酒井さんの部屋をノックした。酒井さんは寝ぼけ眼をこすりながら昨夜の話を聞くと、向かいの空き部屋の戸を激しく叩いた。返答はない。<br>「どうもおかしな話だな。四部屋のうち俺と君と守屋さんで三部屋は埋まっている。じゃあ君の観た爺さんっていうのはどこに住んでるんだ?。なあ悪いんだけれど、その爺さんとやらを見たらそんとき呼んでくれないか」<br>　煩わしい話はごめんだと言いたげに、酒井さんは朝寝の床についてしまった。すると翌朝、今度は酒井さんがぼくの部屋をノックした。真夜中に小用をたしに廊下に出てみると、七十年配の老人が顔色一つ変えるわけでもなく、薄暗い豆ランプの下に立ち尽くしていた――寝ぼけ眼でいた酒井さんは度肝を抜かれたらしい。<br>「黒縁のメガネかけた年寄りがよ、ものも言わずに見返してるんだ。俺と眼が合っても全く動じないっていうか、あんまり平然としてるもんで、つい『出た』って思っちまって……泥棒って考えるより先に、俺の方が何だか分かんないような世界に迷い込んじまった気がしたたよ。血の気が引くっていうのはあんなことだな」<br>「けっこう大柄の、老人じゃなかったですか」<br>「おお。この歳になるまで幽霊なんてハナっから馬鹿にしてたろ。何しろとっさに信じまったからな。『出たっ』って。それでこっちが氷みたいに固まってつくづくそいつを見てるとよ、ひとっことも喋らないまま俺の脇をすり抜けようとするんだぜ」<br>「それでどうしたんですか」<br>「思わずそいつの足元確かめちまったよ。したら何てことない、温和な顔した、ただの爺さんじゃないか。それでようやく訊いたんだ。『失礼ですけど、どちらさんですか』ってな。ほら、認知症っていうのか、夜になると町中を徘徊するのがあるじゃないか。そんな人かと思ってさ。そしたら、『先週こちらへ越してきました、笠原です。挨拶が遅れまして』なんて言うもんだからよ。遅れました、じゃねえよな。はじめから挨拶する気なんかなかったんだ。トボけた爺さんだぜ」<br>「近ごろは同じアパートの住人でも探られるのが嫌で話をしないっていう人も多いみたいですからね」<br>「そりゃ入口が別々の、部屋が独立した造りのアパートなら分かるけど。みんなが一つ便所を使う共同住宅で知らんふりするなんて変じゃないか」<br>　常識がないのも甚だしいと怒る酒井さんの言い分を聞いているうち、ぼくは何だか笑みがこぼれた。酒井さんが越して来たときも、相手がどういう人か分かるまで互いの生活ぶりを窺うような時期があったたのだ。<br>「ええ……ですから、そこらへんの感覚に慣れてなかったんじゃないかなあ」<br>「けど赤ん坊じゃあるまいし、あの歳で人見知りなんかするものかい」<br>「さあ……」<br>　真夜中になると聞こえる摩擦音がすぐにスリッパの音と気づかなかったのは、老人の足を前に出す動作が気の遠くなるほどの間隔を置いているからだった。シャーッと一歩を前に出す。寝床の中でアア、今笠原さんが便所に立ったなと気づいてから十秒……二十秒、いつになっても次の一歩が聞こえてこないとそれはそれで気が揉んだ。いかにも懸命に命を運んでいるといったふうに聞き取れて、それが老いて体力の衰えた人の侘びしさにも、また命あるもののひたむきさにも感じられた。<br>　老人は三越のバラ模様の印刷されたしわくちゃの紙袋をたった二つ、ぶら提げて飄然とアパートに舞い込んだ由で、これには酒井さんもぼくもあきれ返るばかりだった。<br><br>&nbsp; &nbsp;残暑のきびしい午前中で全身が汗だくだった。<br>　アパートの階段がふるえるのを聞きつけてから、押し入れに隠れてかれこれ三十分近くになる。廊下をきしませている人の気配は各部屋を舐めるように、いやにゆったりと行き来していた。<br>　ぼくの部屋の戸をノックした。<br>　息をつめて潜んでいると、はめガラスが落ちるかと思うほど、ガラガラこぶしで激しく叩いた。それでも胸のつぶれる思いで堪えているとついに隣の部屋へと移っていった。<br>　そこでも戸を激しく叩く音。けれども返事ひとつ帰ってこない。結局、二階の四部屋のうち顔を出した住人は一人もなかった。各部屋の上部に付けられた電気メーターを調べ、その使用料とガス代、家賃を記した紙片が戸の隙間から投げ込まれると、足音はむなしく出入り口に引き返していく。帰り際に、「不用心だな」そうぼそりと呟いた、大家さんのひとり言を二階にいた全員が耳にしていた。<br>(これでまたひと月寿命がのびた)<br>　ぼくがほっと胸をなで下ろしていると、壁一枚隔てた隣の押し入れから笠原さんのしわがれ声がした。「……帰りましたな」<br>「ええ」<br>　まるで独房に入れられた囚人同士が看守の目を盗み、密通しているような後ろめたさだったが、大家さんが引き返してこないとも限らない。念のため二人とも声をひそめて様子を窺っていた。「……それで、オタクはいったいどのくらい家賃を溜めているのかね」<br>「四か月です」<br>　ほおっと、賛嘆とも軽侮ともつかない笠原さんのため息が洩れた。<br>「失礼ですが、オタクは見たところ真面目そうだし、仕事にも行っとるようだし、私のような年寄りと違って稼ごうと思えばいくらでも稼げるんでしょう。何だってこんな肩身の狭い思いをする羽目になったんですか。借金でもしてるんですか？」<br>「金には困っていますが、べつに肩身が狭いとは思ってないです。だって、この歳でチマチマ金なんか溜めたってしょうがないじゃないですか」<br>「そうは言っても――」笠原さんは体勢を変えたのか、隣でごそごそ布団を押しのけるような音がする。「お互いこのありさまじゃ、とても肩身が広いとは言えないようですが」<br><br>　ぼくは日中、一癖も二癖もあるような職工たちに囲まれて、板金工場に所狭しと並ぶ工作機械の熱に晒されながら、似たような工程を延々と繰り返していた。夕刻、職場での鬱屈や苛立ちを引きずったままアパートに帰り、『高嶺』の暖簾をくぐると、女将が冷えたビール瓶を拭いつつねぎらいの言葉をかけてくれ、栓が抜かれてその日一杯目のコップが見事に置かれる。汗と機械油にまみれた身体を、銭湯で洗い流した後のほてった喉に、冷えた金色の炭酸がはじけながらほとばしり、すきっ腹にしみわたる。このひと時の充足感はたまらなかった。虚脱感と同時に生きている喜びをかみしめるのがこのひと時だ。そうして連日、ぼくは『高嶺』に顔を出しては女将や職工仲間と夜更け過ぎまで呑み騒いでいた。なれない土地柄ひとり暮らしをしている自分にとって、年齢や職業にかかわらず顔見知りが一人でも増えることは先行き何かと心強く思われたのだ。<br>　月給は半月もしないうちに泡となって消えた。一夜にむさぼった愉快の代償として、月の後半は米びつの隅を睨んで暮らす涙ぐましい日々が続いた。その日暮らしのかつかつの有様で四六時中、呑み代の請求と家賃に追いまくられている。<br>　月末ごとにひたひた寄せてきては上積みされていく、金銭面の逼迫をしかし二十一のぼくは等閑視していた。悪習を断ち切りたいとは思うものの、ぼくには貯蓄という観念がない。これ以上、借金を重ねれば人格を疑われてしまう、アパートを叩き出されてしまう、そんな抜き差しのならぬ崖っ縁から、この世の実相を覗き見たいとすら思っていた。<br>「要するに、甘ったれてるんですな。優雅なものだ……」笠原さんはそう呟いた。<br>「まだああして、えんま帳に上書きして引き下がってくれてる分には大丈夫だろうって、高をくくってるんですがね」とぼくは言った。<br>「高をくくるより、腹をくくった方がいいですよ。あんた、いくら大人しい大家さんだってじきに堪忍袋の緒が切れますよ」<br>「キレたらキレたでその時に考えます」<br>「そん時じゃ手遅れになるかもしれませんよ――ははあ、宵越しの銭は持たないって主義ですか……。もっとも私も若い頃はそうでしたかねえ。どうも私にはなんだか危なっかしいというか、少しヤケになってるように感じるんですが。こうして話してるとなんざら血の巡りの悪い方でもなさそうだし……小宮山君、あんた一体何を考えてるんですか」<br>「なにって……あえて言うなら世間かなあ」<br>「世間……世間?。あっはは、可愛らしいことを言う」<br>「だって、戦う相手を知らなけりゃあ手も足も出ないじゃないですか」<br>「うん……。ちょっと失礼。こりゃ一杯やらずにいられない」と、壁の向こう側からグラスがふれあい液体をそそぐ音がした。<br>「小宮山君ね、そんなもなあ社会に出れば、いやと言うほど骨身にしみて解るもんです。焦って理解しようなんて代物じゃないですよ。私はこの歳になるまで、七十になるまでコテコテに世間に叩かれてきたんです。ですから、この自分も含めて世の人間共にはうんざりしています。だから悪いことは言わない、今のうちに学ぶべきことがあるんじゃないですか」<br>「知識より現実を知りたいんです」<br>「できますとも好きなだけ。見ていなさい、あなたの思いも及ばない縁遠い関係が知らないうちに加わってきますから。実際このウーロン茶だって、世に生まれたときはまさか焼酎と知り合いになろうとは夢にも思わなかったでしょうからねえ……それでいて、コップの中じゃ、きちんと釣り合いが取れてるんだから不思議です。何でしたら今から実感してみたらどうですか」<br>「世間をですか?」<br>「焼酎ですよ。大家さんも帰ったようだし、酒井君を呼んで私の部屋で一杯やろう。オタク、さっき家賃を四か月溜めてるって言ってたでしょう。てぇことはあたしの場合、まだふた月の猶予があるってことですな……ふた月のあいだ呑んで暮らせる。なんだか身震いがしてきましたよ。そうと分かったらご馳走しよう」<br>　押入れのふすまを開け、おそるおそる室内の様子を窺うと、ぼくは額の汗を拭った。窓ガラスには休日の午前の外光がいまいましいほど全面にあふれ返っている。ようやく解放された思いで押入れの上段から片足をのばすと、住みなれた部屋の畳に足指をおろすのに泥棒にでも入ったような心持ちがした。<br><br>&nbsp; &nbsp;無造作に酒井さんの部屋の引き戸を開けると、たるんでやわな白い肌をさらした素っ裸の男が立っていた。<br>「あっ。だめっ」<br>「あっ。失礼」僕は眼を伏せ、あわてて戸を閉めた。<br>「小宮山くんっ、いくら君でもノックぐらいしてくれよ。なにか用？」<br>「すみません……あの、笠原さんが一杯やろうって」<br>「うん、わかった、後で行くから……でも小宮山君、このこと誰にも言わないでくれよ」<br>「わかってます」<br>　酒井さんはゴミ出し用の水色のポリ容器に入って、盛大に水浴びをやらかしていた。むろん銭湯代を浮かすためだ。流しの傍らには巨大な金盥が置かれており、中には丸々と太った真鯉が一匹泳いでいる。近所の釣り堀で釣ってきた鯉で泥吐きをさせ、頃合いを見て洗いにして食うのだそうだ。「そんときにはみんなで盛り上がろうぜ」そう酒井さんは言っていた。<br>　大っぴらには言えないが、酒井さんは電力メーターの回転盤にヘアピンを刺し、目盛りを止めて月々の電気代を浮かす、というようなこともしている。「ばれないように月々これだけって決めて止めなきゃだめなんだ」そう酒井さんは言っていた。それでもたまに電力会社の検針員が来て、酒井さんの部屋のメーターを見上げて首をかしげていた。そのことをぼくが酒井さんに告げると、さすがにピンは外したらしいが何日かすると、今度は自室の窓を開けて手の届く高さにある電柱のコンデンサを指さし、「ここから直接電気を引こうと思うんだ」そう言って真剣な眼差しで見入っていた。<br>　小麦粉を練って&amp;#x91AC;油で煮るスイトンだけで、半月はしのげると教えてくれたのも酒井さんだ。貧窮に対するそうした酒井さんのサバイバルぶりを見ていると、未熟なぼくなぞは知らず識らずうっとり感服してしまう。<br>「いやーっ、朝からずっと求人欄ばかり見ていたら頭がクラクラしてきたよ」<br>　酒井さんはそう言って愛嬌を振りまきつつ、部屋へ入ってくるなり折り込み広告だの求人誌の類を畳の上にばさりと投げた。そして「ああ肩が凝った」と、首を左右にひねって見せた。<br>「あんた。働く前から求人広告読んだだけで、そんなに疲れてどうすんのかね」<br>　笠原さんのつっ込みが入ったものの、酒井さんの視線は壁に吊るしたハンガーに掛けてある、紺色の上着に釘づけになった。隣にはもう一着、肩口にエンブレムの刺しゅうされた緑のジャケットが掛かっていた。<br>「あれっ、爺さん、また違う警備会社に行ってるのか」<br>「ははあ。気づきましたか」<br>「ちっ。爺さんには先越されてばかりいて面白くないな。それにしても二人とも、よくこんな蒸し風呂みたいな部屋で&amp;#x541E;んでいられるなあ。こちとら汗が止まらないってのに。どうだい、も少し風通しのいい所に河岸を変えちゃあ」<br>「今日は休日だし、開いてる店なんかありませんよ。金もないし」<br>「北山公園へ行くか。氷だったら、俺んとこの冷凍庫に毎日ごっそりつくってあるから」<br>「あんたもひまな男ですな」<br><br>　北山公園に入るや、眼界は八国山を背景にしてひろびろとした野を一望のうちに眺め渡すことができた。<br>　一瞬のうちに視野が開けるこの爽快は、そこに横たわる広闊な空間がそのままの大きさでもって見るものを包み込んでしまい、自分もこの眺めの点景であることをとっさのうちに知らされるからなのだろう。<br>　花菖蒲の見ごろはとうに過ぎて、菖蒲園には地元の人に刈り取られたあとの根株ばかりが残されてあった。堅く干からびた泥土の上のデッキ道を、三人がゴトゴト靴音を鳴らして歩いていくと、先頭にいた酒井さんが「あっ」と小さな声を立てた。「ヘビだっ。そこそこ」<br>　根株の合間の、朽ち果てた古縄に似たものをよく見ると、なるほど褐色の濡れて光った、縞模様を帯びている胴の一部がうねりながら移動している。蛇はのたうつように全身をくねらせていたかと思うと時折鎌首を持ち上げ、すすっと真一文字に直進していた。三、四十センチの&amp;#x7626;せていたって貧相な蛇だ。<br>「弱ってるんですかね」　<br>　緩急を織りまぜて這いまわっている姿には、しかし鋭利な刃物を思わせるひいやりとした殺気が感じられた。案の定、三人の眼に角度を変えて逃げまどう黒い獲物がすぐに分かった。蛇が、一瞬のうちに三十センチも伸びあがったと思ったとき、蛙の跳ねるゆるい弧はあまりに呑気なものにぼくには映った。次の瞬間、最期の跳躍を試みた蛙は伸びきった姿勢そのままの格好で、下半身のみが蛇の口先にだらりとぶら下がっていた。胴から腿へと呑み下されるにつれ、蛇の下顎が卑猥な形に膨らんでいく。<br>　デッキ道をさらに奥へ行くとハス田に出た。大人の背丈ほどもある長い茎と、大様な葉がびっしり生い茂っていた。合わせた手のひらをふくらませ、そうと開いて見せたような薄桃色の花びらが凛とした気品を匂わせている。すでに花弁を落とし蜂巣を突き立てている茎が多かった。それから三人はスイレン池の脇をめぐり、公園の中ほどにある東屋に腰を下ろした。<br>「やっ、いいものを見たな」<br>　酒井さんはポリ袋の氷をドライバーでかち割りながら、瞳を輝かせてそう言った。「あの、最後の一撃は鋭かった」<br>　隣接する小学校で正午を知らせるチャイムが鳴った。園内はバケツと手網を持った少年たちのほか、動くものの姿を見ない。はろばろと見晴らしの利く水棲植物園は夏日の光線に蒸され、閑散としていた。北側の線路際からせり上がる八国山の雑木林は、ここ数日間の雨に潤いどこまでも成長しようとしている。その緑の生動と、澄みきった底なしの蒼穹とが、見つめているとめまいを起こしそうなほどの対比だった。<br>「先週ね、あたし新宿に面接に行ってきたんですよ」<br>　唐突に笠原さんはそんなことを口にした。<br>「今行ってるとこは辞めるのかい？」<br>「辞めるもなにも、こちらからご遠慮願ったわけで――。職長さんっていうんですかね､ボス格の。その人がまるで年寄りの扱いってもんが解ってないんですなあ。工事現場でよく道路っぱたに置いてある、オレンジ色の三角の形したのがあるでしょう」<br>「カラーコーンか」<br>「名前なんかどうでもいい。そいつをね、百メートル離れた路地の角まで走って持ってけなんて言うんですよ。四十や五十の連中ならまだしも、あたしゃシルバーで派遣された七十の老人ですよ。人を見てものを言ってくれっていうんですよ」<br>「だから爺さんには警備員なんてムリだって言っただろう」<br>　それ見たことかといった面持ちで酒井さんは紙コップの焼酎を一気にあおった。「その足腰じゃ、ムリだって」<br>「あの懐中電灯のおばけみたいなやつ。あれを振ってるだけでいいって言われて行ったんですよ」<br>「派遣する方は、頭数さえそろえりゃいいんだから何とでも言うって。現実はそんなに甘くないってことね」<br>　笠原さんはぐっと口をつぐんでしまい、気まずい沈黙がしばらく続いた。八国山の尾根筋の一端に灰がかった薄雲が這い出してきていた。<br>「ですからね。勤務先を変えてもらうよう頼みに行ったってわけです。そしたら酒井君、その場ですぐに別の会社を紹介してくれましたよ。とりあえず週に三日、来週からです」<br>　フン、と鼻を鳴らせて焼酎をつぎ、酒井さんはもの思わしげにじいと紙コップの中を見つめた。<br>「まあそれはそれとしてね、新宿なんてところは右も左も人人人、あれだけたくさんの人が行き交って、いったい何してんのかと思うなあ。二十階、三十階建てのビルなんてざらですよ。<br>　烈しい労働意欲にあふれた人たちが動き回って、世界はいっそう完璧なものに近づいていきます。一点の汚点すら許せないとでもいうように、隅から隅まで磨き込まれてねえ。それがどうも私には馴じめなくって。だって私ら年寄りは年毎に衰えていって、頭も体も不自由になっていくんだから。考えることっていったら死ぬことの準備くらいでしょう。そんな身からするとねえ、今の人の目指しているものが、なんだか空しいものに思えてくるんです。だからって、若い人をけなすつもりはありませんよ。夢や情熱を馬鹿にしているわけじゃない。ただ、そっくり彼等のしていることに賛同する気にはなれないんですよ」<br>「何が言いたいんだい」<br>「年寄りというのはね、人の想いどころか世の中のことまでも、だんだんどうでもよく思えてくるんです。絵空事のような、まるで喜劇でも見ているような心境です。困ったことが起きても動じませんし、早い話あんまり深く考えない。だから隣町へでもどこへでも平気でひょこひょこ顔を出します……。<br>　それでもね、新宿からこっちの駅にたどり着いたときは、正直なところホッとしましたよ」<br>［ここら辺りじゃ、今時分だと町中でもあんまり人の姿を見ないもんね」僕がそう言って相づちを打つと、<br>「まったく。都会の喧騒に比べたら我々のアパート暮らしなんて屁のようなもんですなあ」<br>　笠原さんは酒飲みの癖で、舌先を上唇に這わせながらひとり愉快そうに頷いた。<br>「それあ、俺たちが負け犬って意味かい<br>「酒井君。オタクはどうしてそう人の話を悪い方へ取るのかね。勝ったとか負けたとか、そんなこと誰に決められるんです？。酒は楽しく&amp;#x541E;まなきゃいかん。この芋焼酎にすまないし、酒を手にする者には愉快な時を過ごす権利があるんだから」<br>「ぼくは……笠原さんの言うこと少しは解るな。ぼくも最近どうも工場の仕事がつまらなくって。会社から帰ってアパートの赤提灯見ると何だかホッとするもんなあ」ぼくがそう言うと、「それとも違うと思いますけどね」笠原さんがぼそりとつぶやいた。<br>「いや。違わないよ、俺だって……」<br>　酒井さんが言いかけた時、一陣の強風が東屋を吹き抜け、菓子袋やら紙コップがばらばらと床に飛び散った。三人はあわててそれらを拾い集めた。<br>「いやーっ、涼しくっていい風だ」<br>　酒井さんはこの際本当に旨そうに、しみじみと紙コップの焼酎を口に含んだ。<br>「俺だって、じつは何か月ぶりかでこないだ電車に乗ったんだ。試練というか、自分を試すつもりでね。嗤うなら嗤ってもいいよ。けど、ダメだった。同じ車両に居合わせた連中に囲まれていると思うだけで、血の気が引いて額から脂汗がだらだら出てくんだ。ほんっとに足元もおぼつかない、フラフラの状態でアパートに戻ってきたときには……ほっとしたどころか命拾いしたような、もっと切羽詰まった心地がしたな」<br>「あんたはそれなりに努力しとる。世間の眼なんて気にしなさんな」<br>　笠原さんはそう言うと、ズボンのポケットから黒革の手帳を出してくくり始めた。口の中でカホリと入れ歯を外し、再度ふくんで&amp;#x5699;み合わせの具合を確かめてから、手帳の文句を誇らしげに朗読した。<br>「『ぐうら　しありるだ　けえた　るてえる　とれかんだ』」<br>「何ですかそれ」<br>「カエル語です。昔この町に住んどった、草野心平という人の詩ですよ」<br>「意味があるんですか」<br>「もちろんです。いいですか、訳しますとね――『われわれは　ただ　たわいない幸福こそうれしいとする』っていうんです。人間だって、出し抜くばかりが能じゃないですよ」<br><br>　吹きつける風が断続的になってきた。<br>　東屋一帯がにわかにかき曇り、見上げると、熱を帯びたような鉛色の雨雲が西の空から上空にかけて這い出してきている。一方で東の雑木林では樹冠の緑がいよいよまぶしく、昼下がりの熱射に照り返っており、様相の正反対な東西の空が不穏な矛盾をはらませていた。校舎の向こう側に雷鳴がとどろいた。<br>「これあ、一雨くるぞ」<br>　吹きつのる風に中身の入った菓子袋が運ばれていく。老人の髪は横になびいた。「アパートへ戻ろう」<br>　身支度をして、酒井さんを先頭に東屋を出ると後ろから笠原さんが声をかけてきた。「小宮山君……おい洋平君や。あんた、世間を実感したいとわしに言っとったね」ぼくは振り返って返事した。<br>「さっき、蛙がヘビに&amp;#x541E;まれるのを見たろう。酒井君は喜んどったが、ああいうガキ大将みたところが彼にはあるんだなあ。わしは身につまされる思いがしたが……。だって、蛙にとっては修羅場じゃないか。<br>　あの菖蒲田が、つまり蛙にとっての世間なんだろう。少なくとも蛙は観念したに違いない。『この世は地獄だ』ってね。ところが世間を出はずれた隣では、こんなにも可憐なハスの花が何やら高貴な品すら漂わせて、ひっそりほころんでいるんだからねえ。君はこれをどう見るい」<br>「どうって……笠原さんはどう見るんです？」<br>「蛙は世間の外の存在を知らない。外の世界は蛙の修羅場に無関心だ。けれど、もし蛙が外の世界に気づいていたら……」<br>「世間の外へと逃げるでしょう」<br>「いいや。も少し往生際よく死ねたろう」<br>　ハス田の葉群が強風にあおられ大きくしなった。<br>　ひょろ長い茎と茎とがもたれ合い、ぶつかりあってざわめく葉表にパタパタと雨粒が落ちてくる。襟元に吹き付ける風が思いのほか冷たい。<br>「私ね……じつは老人ホームから逃げ出してきたんですよ。特別養護施設っていうんですか。私のいた階は自分じゃ歩くことのできない、車椅子の連中が暮らしていましたが、彼らときたらまるで野獣なんだから。<br>　五十あるベッドのうち、埋まっていたのは半分ほどでしたがね。真夜中になると、『ういい、』だの『ぎゃあっ』だのと、あちこちの部屋で絶叫してるんです。床ずれの痛みや、寝返りを打ったときの姿勢が悪くて、自分ではどうすることもできずに苦しんでいるんです。何より恐ろしいのは、じき襲ってくる死の予感に苛まれた者の雄叫びですな。ホームでも一つ屋根の下に暮らしてるとね、何を訴えているかが身につまされて解るんですよ。<br>　そうかと思うと、まだ夜の明けないうちから枕元のブザーを押してね、ヘルパーを呼んで起こしてもらい車椅子に乗ってどこかへ出ていく。寝ながら聞いているとリノリウムの床を滑っていく、タイヤのゴムの音が後から絶えないんですな。何だろうと思っていたら、朝食の時間、ホールに出てみて解りました。皆さん十時からの入浴の順番待ちをしてるんですよ。入浴っていったって、ストレッチャーに裸で寝かされたまま、ボタンを押すと浴槽の中で上下する人間の丸洗い機みたいのに縛り付けられて、ほんの二三分、湯にひたるだけですよ。時間がくるとブザーが鳴って、無情にもザーッと湯から引き揚げられる。それでも並んでいる者の数が多いと、結局その日は順番が回ってこなかったりするんだから連中だって必死ですよ。汚れた身体のままでいて、周りに嫌われたら仲間外れですからな。私はね、幸い歩行器を使って歩く練習をしてましたから別の階の湯船に入ってましたが――。<br>　私のいた部屋は六人が寝ている相部屋でしたが、それでも月に十万以上かかるんです。そしたら息子夫婦が私の年金をそれにあてろだなんて言い出して……だったら、まだなんとか歩けるんだし、好きな酒も飲めなくなるし、何が嬉しくってあんな動物園みたようなとこにいてやるもんですか。<br>　私の向かいのベッドにいた男ね。パジャマの尻にいつも百円ライター忍ばせてましたよ。煙草を吸うためじゃないです。ヘルパーや看護士の目を盗んで火をつける隙を窺ってるんです。よほど腹に据えかねていたんでしょうなあ。施設から何度も逃げ出そうとしては、そのつど取り押さえられてましたっけ。だって、エレベーターにはあなた、上下階に行くボタンのほかにいかめしい南京錠が下ろしてあって、看護士以外はよその階へ行けないようになってるんですから。<br>　私もねえ……とてもあんな所で往生する気にはなれませんでした。小宮山君の言うように、外の世界へ逃げ出したいと思いました。ほかに行き場所があるのなら、せめて畳の上で安らかに死にたい。年金だけでも、食い詰めて暮らしておれば、おたくらのいるアパートでならやってけますから……」<br>「おおい、二人とも何やってんだ、もたもたしてると――」酒井さんが呼んだとき、薄紫色を感じさせる凄みを帯びた曇天がいっせいに閃き、レントゲンのように雲の内部がビカリと見透かされた。ズズン・ドドド……と腰に響くほどの雷鳴が轟いている。「冗談ぬきにマジやばいぜ」<br>　雨脚はさらに強まってきた。酒井さんの後を追いながら振り返ると、笠原さんはぼくを追い払うように手の甲を振って、先に行けと合図している。へたな同情から、病人のように付き添われて街を歩くのはごめんだという意味のことを、ぼくたちは日頃から笠原さんに言われていた。　<br>　公園を出て畑中のゆるい坂道を上がりきったところで、酒井さんとぼくは後ろを顧みた。すると、笠原さんは裂いたポリ袋をマントのように肩にかけ、大きな葉をつけたハスの茎をかざしていた。公園脇の竹林に入って高所を仰いで立ち尽くしており、こちらに気づくと、白く曇ったメガネのままニタニタ笑いながら手を振っている。<br>「こうしてみると、つくづく風変わりな爺さんだぜ」<br>　雨は本降りになっていた。農家の垣根を過ぎて川を渡り、次の角を折れればもうアパートが見えてくるという頃、カチッと何かが爆ぜる音がした。同時に電柱脇といわず、ポストの下といわず白いものの跳ね回っているのが視界によぎった。「いてっ」酒井さんが頬に手を当てたとき、二人はようやく一帯の異変に気づいた。<br>「雹だっ」<br>　アパートの鉄階段に辿り着くと、カンカンいくつもの氷塊が上段から跳ね落ちてくる。笠原さんの部屋についたときには、二人とも肩で息をしていた。<br>　窓枠に腰を下ろし、髪を拭きながら通りを眺めていると、やがてハスの茎にしがみついた笠原さんが角を折れてやってきた。<br>「なんだあれ。走ってるじゃねえか」<br>　見ると、なるほどいつもなら両足を伸ばした格好で、ぎこちなく前進することしかできない笠原さんが、ブリキ玩具のロボットを手放したときのように目覚ましい速度でにじり寄ってくる。<br>「見ろよ。ハスの葉っぱが走ってくるぜ」<br>　酒井さんはそう言って腹を抱えて笑った。<br><br>　耳を聾さんばかりの雹の音に互いの声すら聞き取れない。<br>　聴覚を奪われてしまった三人は、仕方なく六畳間の思い思いの場所に腰を下ろし、じいと屋外の転変に堪えていた。暗灰色と紫の入り混じったまだら模様の分厚い雲に、渦巻き形の純白の雲がつき刺さり、みるみるうちに呑みこまれていく。大空は突風と雹と雷鳴とで縦横無尽に荒れ狂い、刻々と形を変えて流れていく雲の奥深くで、ときおり稲妻が鈍く光った。<br><br>(他者の、世間の寛恕の限界――)平屋の瓦に叩きつける氷のつぶてを見つめながら、ぼくはそんなことを考えていた。　　　　　　<br>　自分をとりまく他者を正確に知ろうと思うなら、相手がよりどころとしている立場を揺すぶってみるのが手っ取り早い。他者の、集団の感情の破裂する臨界点というのが、とりもなおさず世間の器の大きさであることを、ぼくらは幼いころから自覚している。まずは親という肉親の器量を。それから親しい友の譲歩の限界を。仲間内と思っていた間柄にもいつしか生じている不文律を――。<br>　性質の温順ないわゆるいい子は、決して波風を立てるようなことはしなかった。規律の内容に関わらず、破約すること自体を嫌っているので大人や先輩たちに可愛がれ、忍耐強い子が多かった。<br>　それでは教師や世の大人たちに目の敵にされる、きかん坊とはいったい何か。破約すること自体に悦びを感じ、大人を烈火のごとく怒らせて、怒ったとみるや後日もう一度同じことをしてふたたび怒るかどうかを確かめる。親をなじり教師をあざ笑い、果ては法律にまで触れるようなことをして、こっぴどく痛めつけられた後にようやく規律の意味を理解する。人の迷惑になるような事だけはしてくれるな、そう諭されながら、どこまでだったら迷惑でないのか、その身で確かめるのでなくては納得しない――。<br>　野生児のような生命力といい直情径行な性分といい、不良少年の独自性はめったに陽の目を見ることはなかったが、人物を比較すれば優等生の影もかすむほど彼らの存在は水際立っていた。素直という点でいえば、彼等ほど自己の魂に従順であった者はいない。<br>　高校を出てから歳を追うごとに人生の地歩を踏み固め、一段一段登りつめていくかつての級友たちに比べると、ぼくは積みあげた石段をかたっぱしから突き崩してきていた。皆が当たり前に乗り越えてきたハードルさえも闇雲に蹴散らしてしまい、親には家を叩き出され友人には愛想を尽かされて、どこへ流れていくのか自分自身にも分からなかった。<br>　思うに人生行路というものが、無尽蔵にある可能性のうちから選択を迫られるたび一方の道を却下していく、なにやら侘びしい道行きなのだ。二十歳前という若さからか、ぼくには可能性の萎んでしまうのがどうにも我慢ならなかった。結果として人生の岐路に立たされながらついに身動きが取れなくなった。それはまるで卒業と同時に球の中心から爆発的に放射していく、他人の半径を眺めているような侘びしさだった。年と共に膨張してゆく球の表面を実社会とするなら、ぼくはそれらのどこにも参加しておらず、早い話が人生の可能性そのものを放擲していた。<br>　進学する大半の級友たちと歩調を合わせ、勝者同士肩をたたき合い快哉を挙げている、もうひとつの人生をぼくはときおり夢想する。本来ならば、そうして光に向かって伸びていくのが自然なところ、枝ぶりを無理にねじ曲げた盆栽のように、ぼくは自身の人生を歪めてしまったのではなかろうか――。けれども、四六時中を寒風にさらされた土地に縛られ、どれも似たような樹形にかしいだ林はどこか痛ましい光景にぼくには映った。<br>　実社会のどこにも触れていない、求めてそんな立場から眺めていたのは世間の、そして運命の外殻ともいうべきものだった。それが実感されたとき、はじめて自分の採るべき道が見えてくるのではないか――。ある人に近づいては煙たがられ、またある集団の急所を突いては逆鱗に触れて、そうして人心の破裂点を手探りにしながら、ぼくは一刻も早く世間というものの実体が知りたかった。<br><br>　瓦屋根に叩きつける雹の轟音に覆いかぶさるように、バリバリッと砕ける音が間近に起こった。<br>「こんなすごい雹、はじめて見るぞっ」<br>　酒井さんが大声で怒鳴った。一階の裏口にかざしてあったタキロン製の屋根にひときわ大きな雹の塊が直撃し、所々裂け目ができていた。「普通じゃねえよ､これじゃ車なんかボコボコにされちまうぜっ」<br>　超意思の、自然の気象の寛恕の限界――そんなことを考えていたぼくに、天災というものが計り知れぬスケールの、一つの憤怒のように感じられた。他者を知り、世間を知った先にはまだどえらい奴が控えてるらしい。<br>　票がやんで暴風が弱まると、世界がにわかに鎮静した。<br>　雷雲がみるみると遠退いていく。西の空がすこやかな水色の明るみを取り戻し、窓外はひんやりした風と小雨の吹き付ける空模様となった。街中の様子を窺うと、人気ない通りの路肩に白い氷塊がうずたかく残されてあった。<br>　深閑とした部屋内で、三人はそれまで別の国にいたように、妙にちぐはぐな面持ちで顔を合わせた。<br>「ときにオタクらは……ここのアパートの人たちはいったい何して暮らしてるんですかね」<br>　酒瓶を前に、一人手酌で&amp;#x541E;んでいた笠原さんはだいぶ出来上っているらしい。<br>「皆さん、いやに静かなんでね。いないと思ったらいる、いると思うとやっぱりいる。わたし入口のとこの下駄箱調べて毎日観察してるんで……酒井君の靴はいつも置きっぱなしになっている、青い穴の開いたズックがそうでしょう」<br>　フン、と鼻を鳴らして外を見たまま酒井さんは相手にならなかった。「小宮山君の靴はあれかね、黒の安全靴みたいなやつがそうかね。ここんとこ何日か置いたままになっとるようだが……」<br>　いやな爺さんだなと思いつつ、笠原さんの心境もやむお得ない気がした。出入口が一つで共同便所を使うアパートの構造上、住人がどんな暮らし向きをしているかは老人の気になるところだろう。<br>　ぼくは先週、仕事を三日間無断欠勤していた。そのことを白状すると、老人は相好をくずして頷いた。人間の弱さやダラシなさ、若い自分の飽きっぽさ、そんな程度のことなら誰にでも身に覚えがある――笠原さんは酒の肴に格好の話題が出たとでも言いたげに、微笑を浮かべコップの焼酎をクピリとあおった。<br>「君ねえ……下の&amp;#x541E;み屋でも借りてるんだろう。まあ、呑んじまったもんは仕方ないとして、君のような若い人があんな婆さんのやっとる赤提灯に高い金を支払って、いったい何が面白いのかね。金が惜しいとは思わんのかね。いいかね、同じツケするんだったら酒屋にしなさい。黙って一万円も出してみろ。三人で浴びるほど&amp;#x541E;めるんだから。なんだったら、あたしが口を利いてあげても、いい」<br>　孫にでも言って聞かせるような軟化した物言いに、ぼくが思わず釣り込まされそうになったとき、部屋の引戸がガラリと開いた。<br>「すごい雹だったわねえ。裏の勝手の庇なんか穴ぼこだらけにされちゃったわよ。笠原さんとこは大丈夫？。心配になってさ……」<br>　戸口に立っているのは、今し方話していた『高嶺』の女将だった。<br>「まあまあ、皆さんおそろいで。昼間っから焼酎なんか開けちゃって、いいご身分だこと」<br>　ぼくは背筋に水がはしり、笠原さんは固まったまま動かなくなった。<br>「小宮山君っ。あなたお家賃、何か月も溜めたままにしてるんだってねえ。今朝がた大家さんこぼして帰っていったよ。それにこないだはこないだで、仕事にも行ってなかったんだって?。工場長が心配してね、店にまで顔を出してくれたんだよ。そりゃ仕事がきついとか、向かないって言うんなら話は別だけど、行けば真面目にこなすんだそうじゃないか。だったら、裏切るような真似しちゃあ、会社の人に申し訳ないって思わないの？」<br>「まあまあ……女将さん、そのへんで。今ね、私がこってり絞りあげてたところですから」<br>「笠原さんだって人のことは言えないよッ。大家さんが大人しいのにつけ入って、払うものも払ってないって言うじゃないか。うちのツケは大丈夫なんだろね」<br>　ははあ、と唸り、笠原さんは焼酎にしめらせた唇を右へ左へ交互にゆっくり舌なめずりした。それから金輪際口は開かぬといった面持ちで、焼酎のコップをずいいと手前に引き寄せた。<br>　女将は本腰を入れて&amp;#x20B9F;るつもりで来たらしい。店で呑んでいるときの朗らかな面立ちとはほど遠い、すごんだ眼をして仁王立ちしていた。ぼくはすっかり消沈し、神妙に頭を垂れて畳を見ていた。<br>「こちとら都会で暮らしていくのに、一日だって休んじゃいられないんだからねッ」<br>　痛打だった。それでも女将のそんな啖呵を耳にしたとき、ぼくの中にほのかな弛みが生じた。都心の文京区で育った自分には、雑木林や田畑の点在する緑豊かなこの街を都会と形容する、女将の頭がどうやら意外に感じられたのだ。化粧っ気のない女将の、素人くさい顔に見入ったまま、ぼくが眩しげに目をしばたいていると、女将はおやっという顔をしてぼくを睨んだ。そのとき、<br>「女将さんのおっしゃりたいことは、よく分かります｣<br>　窓際にいた酒井さんが、座をとりなすように二三度深く頷いた。そして尻の下に敷いていた小汚い座布団を裏返し、女将の前にすすめながら、<br>「ま、ま。一杯いかがです」<br>　そう言って焼酎のボトルを差し出した。<br>　女将は絶句したまま、あきれ顔をして三人を見ていた。説教する気力も失せたらしい。ため息を棒のように吐き出すと、つまらない時間を過ごしたと言わんばかりに押し黙ったまま背を向けた。そして部屋の戸を閉める間際、<br>「だいたい、あんた方は世間をなめているんだよ。甘ったれんなッ」<br>　癇癪を破裂させて帰っていった。<br><br>　酒宴はつねに、一升なみなみとある出だしは誰も威勢がいいが、酒も互いのふところ具合も透けてくると段々に口数が減ってくる。自分たちのしていることの愚かさが、酔いの醒めるにつれ不快に各々の胸に去来するので、しまいには相手の不甲斐なさを罵り合う、醜い酒盛りとなった。それでも捨てぜリフを吐いて自室に引きあげ一人の時間に堪えているより、まだ皆と顔を合わせている方が救われるのだ。少なくとも明日からのことに思い悩んでいなければならぬ憂鬱からは解放される。<br>　ぼくは住人たちとの付き合いにうんざりすると、翌日からは生活のため仕事に出掛けていった。重い足取りでアパートの階段を下りていくと、朝の日なたに相変わらず老猫がいぎたなく寝ている。<br>　猫は隣家の庇でひねもす丸くなっていた。以前は舗道に面した玄関先を寝場所にしていたのに、どうしてこちらへ移ったのか――ぼくは下校中の子供たちが小石を投げつけているのを見たことがある。睨みのきいた風貌からして、老猫はそうとうの遍歴の持ち主だった。その泰然とした居ずまいが、人間の子供の癪にさわるので石をぶつけられたりするのだろう。<br>　夕刻になり、機械油にまみれた作業服のままぐったりして階段を上っていくと、そこでもやはり猫が寝ている。鼻先まで近寄ったところで何ら動じる気配もない。ぼくは腹立ちまぎれに、<br>「くせぇなあ」と聞こえよがしに言ってやった。<br>　すると――老いた猫は気だるげに前脚の一方を裏返し、醜いひびの入った肉球を一二度なめた。そしてなめた前脚でもって耳の裏から顔全体を洗うようなしぐさを何度も繰り返した。<br>　ぼくはハっとして心中揺らぐものを覚えずにはいられなかった。ふだんは目やになぞ固まったまま、幾日も放置しているこの老猫の如き、見るものは見、すべきことはし尽くした後で、今さら人に媚びるのも面倒なほど生に倦み疲れた立場でも、なおも嫌われていたくないという――そんな老いた者の心根がしんみり伝わってくるのだった。<br><br><br><br><br><br>&nbsp;</p>
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<pubDate>Wed, 22 Sep 2021 11:09:36 +0900</pubDate>
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<title>みやこ落ち　六</title>
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<![CDATA[ <p>　バイトを辞めてからというもの、家賃の滞納がかさんでしまい、大家さんから電気とガスの使用を禁じられて一か月になる。当初はどうなることかと危ぶんでいたが、意外と平穏に暮らしてこられた。<br>　炊事は昼のあいだ留守にしている守谷さんのガス台を使わせてもらっている。電気がこないので、本が読めるのは陽のあるうちに限られているが、おかげで早寝早起きの習慣がついた。半斗缶に入れておいた米が底をつき、外食しようと引き出しの底に散らばっている硬貨をかき集めたものの五百円に満たない。仕方がないので街の私鉄の駅まで歩いていって、立ち食いそばのスタンドですますことにした。<br>　ぼくは二十一になっていた。たてまえは受験生ということにして、『高嶺』では学生を装っているものの、求められて外出する機会をほとんど持たない身空だった。大学や実社会で活動している同級生たちに比べると、この世にあるんだか無いんだか分からないような存在になった。活気にあふれた世界はこの街より遥か遠くに隔たっており、こちらからものを言えば手痛いしっぺ返しに遭うのではないか――そんな怯懦な性向を帯びるようになった。<br>　なにしろ人と比べて自分を見るからおかしな気分に沈むのだ――そう割り切ったつもりでいても、行くあてのない自分は通行人をすら装っている。いわれない後ろめたさが、尻尾のように自分にだけ極印されてあるような気がした。<br>　かけそばをすすりつつ、駅の高架橋からこの街を望む。<br>　住宅街の彼方に藤紫色の八国山の山容がくっきりと浮き立っている。昨日の強風で街の上空はきれいに拭われ、汗ばむほどの陽気だった。<br>　商店街を抜けて八国山のふもとに拡がる北山公園へ行くと、入り口でパワーシャベルが二台呻りをあげて作業していた。公園脇を流れる北川という、多摩湖からくる流れの護岸工事中だった。小橋のたもとから下を覗くと、水は瓦礫の山に堰き止められて、露わになった川床で数人の土工が汗みずくになって鶴嘴やバールを振るっていた。道具を持たない二人は人間の歯根の形をしたコンクリート塊を土の法面に埋めこんで川床に積み上げていた。<br>　住宅街を流れるその川は、生活排水をあつめたどぶ川の様相をしていたが、それでも鳥獣保護区の看板の立つこの辺りでは渡りの冬鳥が羽を休めることもあったのだ。小魚でもいるかと思い、本気で覗き見たこともある。春には川の縁を菜の花が彩っていたが、膝丈ほどの深さしかない浅い流れをこれほど掘り起こしてしまっては、錯覚で味わっていた野趣すらコンクリの下敷きになってしまう。<br>　川床にいる一人に睨まれてぼくは公園を後にした。<br>　様々な作物の植わった畑を行くと、黒土の放つかぐわしい匂いがした。ほぼ百メートル四方を障害物なく眺め渡され、身体ごとすっぽり青空につつまれてしまう。都心の逼迫した市街地で、四六時中の伸縮を余儀なくされてきた瞳孔が、ここでは遠い地平を眺めやれる渡り鳥の目となった。都会育ちのぼくは自然の本質を知らない。それを知っているのは土くれと汗まみれになって格闘している、農夫や土工たちであるのかも知れなかった。<br>　住宅街にわずかばかりの本を並べている文房具店がある。一分の隙なく詰めこまれた書棚には、うっすらと埃がかむっていた。けれども試みに手にする本、どれ一つ取ってみても実社会向けの意気盛んな内容に感じられ、こちらの渇望を充たす本に出会うことがない。十代のころの知的好奇心や問題意識といったものも、しょせんは他人の借り着であったような、空々しい気がした。自分はきっと、何かに目覚め、つかみ掛けようとしているのだが、自分の力では到底それが探し出せず求めあぐねているのだった。<br>　異常な日射しを照りつけていた大暑はしかしようやく傾きつつあった。欅のはるか高いところにゼンマイの切れたような叫びが起こり、一匹の油蝉がゆくあても定まらぬといった無軌道な軌跡を描いて晩夏の空に弾けていった。<br><br>　アパートの階段を上りつめドアを開けると、<br>「ああっ、やってらんねえなあ」<br>　はす向かいの部屋からそんな声が洩れてきた。今年の春に越して来た、酒井さんのぼやきに違いなかった。<br>&nbsp; &nbsp;廊下には、めったに風呂にも出掛けない男たちの体臭が熱気に蒸されて澱んであった。このうだるような暑さのなか、エアコンを持たない彼らが部屋の戸を締めきっているのも、共同便所と他人の異臭が自室に流れ込むのを忌むからなのだ。<br>　部屋に一歩入ると、西日をあびて焼けた古畳の匂いが充満していた。ふた月近くも机上に開かれたままになっている、プラトンにぼくは鬱々としてとして埋没していった。<br>　入居したばかりの酒井さんは定職を持っていない。たるんだ腹をあらわにし、扇風機の前で四十がらみの体躯を横たえたまま、この屋根の下でひねもすグウタラしている。世間とは没交渉だったが、自分と似たような境遇の人のため息は、ややもするとこちらの鬱屈にも聞こえてしまう。やってられないとはこの暑さのことなのか、無聊に苦しんでのことなのか。もとより何もしていないではないか――たるんだ精神そのものの嘆きにも聞こえ、居たたまれなくなってくる。<br>　人生の究理に触れるべく議論に明け暮れていた、哲人たちの思想の海をさすらっていた魂が、タム、という音で我に返った。額の汗が落ちたのだった。黄ばんでささくれだった畳の粗目に、自らの体液が滲んでいくのを見つめていると、それが何だかひどく不潔なものに思われてくる。職を持たない自分たちの暮らしぶりはさしずめ獣のおぞましさと変わらない、そんな哀しい気分に襲われてきた。<br><br>「カツーン、カカッ」という断続音はどうやら夢の中で聞いたらしい。誰かが壁に石を投げつけているようだった。時計を見ると午前二時を回ろうとしている。<br>　投石は酒井さんの部屋に向けられているようだが、誰ひとり起きだそうとはしなかった。酒井さんより、他の住人たちに向けて今夜の来意を訴え掛けようとしているようで、真夜中というのに異様な熱気を帯びている。石はやがて、大ぶりのつぶてに変わり、壁をはねたのが庇のタキロン屋根に落下して大音響がとどろき渡った。石を投げつけられるのがこれほどの侮辱だとは知らなかった。<br>　誰かは知らないが上がりこまれては堪らないと思い、ぼくは入口のドアと自室に鍵をかけ、布団をひっかむって眼をつむった。一回の住人たちはよく堪えていられる。するとこれだけの侮辱を加えられてもなお、他人事ですまそうとしている住人たちの無関心が次第に訝しく思われてきた。これでは同じ屋根の下、同じ時代に生きている意味もない。<br>　ダーン、と廊下の奥で便所の扉の閉まる音がした。寝床を起って見に行くと、便所の小窓が開け放しになっていた。小窓から上空を仰ぐと、外界は巨大なふいごに送られたような生暖かな大風が、人気ない舗道に横殴りの雨を吹きつけていた。不穏な明るみを孕ませた薄紫の雲脚がみるみると上空をよぎっていく。向かいの家の檜は、上体をそろえたまま胴のあたりが立ち割れんばかりのなびき方をしている。　<br>　下を覗くと、酒井さんの部屋の下で二つの黒い影が動いていた。一人はずぶ濡れのまま肩で荒く息をつき、一人はじっと傘を傾けて二階の窓を見上げている。「よしおさん、よしおさん」そう言って小声で呼びかけながら、石を物色しているのは別れた酒井さんの奥さんに違いなかった。便所を出て、廊下を引き返していくと奥の引き戸が開いてようやく酒井さんが顔を出した。<br>「ああっ、すまない騒がせちゃって」<br>「入り口のドアの鍵、閉めちゃいましたけど」<br>「いい、ほっとこ、あんなの。相手にしなけりゃそのうち帰るから――あいつ、ちょっとコレなんだ」<br>　歪んだ薄笑いを浮かべて酒井さんはこめかみのあたりを二三度つついた。「いや、そういう訳にも……」おかしいのはあなたの方ではないか、そう言おうとしたとき向かいの部屋から守谷さんが出てきた。<br>「ああっ、守谷さんまで起こしちゃって……例の女がまた押しかけてきたんで……じきにあきらめて帰ると思いますんで」<br>「起きてんのはアパート中が起きてるよ。下に来てるんだったら入ってもらった方がいいんじゃないの」<br>「いや。あんなヒステリー、中に入れたら何をされるか。ほっときゃあいいんですよ、あんなやつ。好きだなあ、人んちのことに首突っ込むの……二人ともお願いだからもう寝てくんないかなあ」<br>「そうします」ぼくは腹立たしいのを通り越していたので自室に戻り、鍵をしてから床についた。<br>「……それじゃあ、私が仲介役になりますから。何も好き好んであんた方の間に入る訳じゃないですよ。こう見えてもね、私だって昔は小さな会社を立ち揚げて、人を使ってたこともあるんだから」<br>「えっ守谷さんが?」<br>「まあ、短期間で失敗。ポシャッちゃったんですけどね。今から考えるとわが人生の絶頂期といってもよかったですなあ……ナニ、これからだってもうひと花咲かせるつもりではいるんですよ今はその下準備ってわけで」<br>　ぼくは布団の中でアクビを噛み殺していた。やがて二人は酒井さんの部屋へ入っていき、部屋の窓を開けたらしい。<br>「ああっ、やっと開いたっ。金返せッ」<br>　女の金切り声がアパート界隈にとどろき渡った。<br>「どちらさんです」世間体を盾にして、精一杯ドスを利かせたつもりの酒井さんの声音も、事情が読めてしまうとひどく間が抜けて聞こえる。<br>「ばかっ、あんたの昔の女房じゃないかっ、何だってんだい、ここのアパートの住人はよう。ずーっと、びしょ濡れだったじゃないか。あたい、お母さんにおん出されてきたんだよう……せめて廊下にでも入れてくれたっていいじゃないか。女子供みんなでいじめて何が面白いってんだよう」<br>　僕は寝床の中でハッとした。それから三四人が鉄階段を上下する振動がしばらくアパートの二階を揺すぶった。<br>「静かにしろ」<br>「なにさ人の目ばかり気にしちやっ……」奥さんの言い切らぬうち、パーンと平手打ちの音がした。<br>「ぎゃっ。あたい、頭の病気だっての。わかってんだろっ。いたた……髪を放しておくれよう」ふたたび平手打ちの音。今度は廊下に倒れ伏したらしい。「ま、ま、酒井さん。ここはひとつ冷静になって」守谷さんが割って入った。「ともかく坊やを拭いてやらないと」<br>「ああ。ミツル、あんたもシヤツとズボン脱ぎな」<br>　どやどやと三人が部屋に向かう後を、ダダダッと子供の駆ける音がする。戸が閉まり、アパートはようやく静けさを取り戻した。<br>　寝床の中で雨音に聞き入りつつ、ぼくは天井を見つめて吐息をついた。ドアに鍵をしたことが、なんだか非情な行為に思われてきた。都会の人間関係を捨てて知らない土地に越してきても、人の世に生きるかぎり、否応なく新たなしがらみに取り込まれてしまう。なんぼプラトンを読んで上等な考えを頭に入れても、現実は聞きかじりの知識なぞ容易に土足で踏みにじる。<br>(これが共に生きるというものか)<br>&nbsp; &nbsp;僕は枕の上で浅く嘆いた。そのとき、廊下に面したガラス窓が頭一個分ほど無造作に開いた。常夜灯の豆ランプに浮かび上がったのは、ザンバラ髪に扁平な顔の下半分を突き出した、ダウン症に特有の面立ちだった。毛先から滴をしたたらせ、紫色の下唇を小刻みに震わせ、挑むような目でこちらを見ている。ぎょっとしてぼくが半身を起こすと、ダダッと廊下を鳴らして立ち帰り、奥の部屋に入るや、<br>「とうちゃん!」と叫んだ。<br><br>&nbsp; &nbsp;電気を灯すことをやめたぼくの部屋に今日も宵闇がしのび寄ってくる。<br>　寄る辺ない郊外で過ごす晩夏の夕暮れ――ややうらぶれた気分に傾きつつある一方、いつか母の言ったように暗い室内にこうしてひとり置かれているのが人間本来の清浄な処し方にも思われてくる。<br>　おびただしい数に粉砕された入り日の色が、西向きの磨りガラスを透してずいぶんと長くぼくにあたった。<br>　窓を開けると、水飴にくるんだ杏のような茜のぽってりした日輪が、ずるずる山の端めざして落ちていく。西の空から頭上にかけては立秋を思わせる鱗雲が片々として敷かれてあった。淡い紅色の残照をあびて、見事に照り映えている無数の雲の配列に、ぼくはほのかに旅愁を帯びた。<br>(なんという清々しい孤独だろう)<br>　どういう理由か分からないが、この街に来てからぼくの神経は十代の頃のように刺々しく研ぎ澄まされることはなかった。外界の暮色にあるがままに染まろうとしている。忘れ去られ、誰からも求められることのない暮らしのなかで、自意識も反発する対象を見失い、みじめに沈静してゆくかにみえた。ぼくの自我がその程度のものであるのなら、この収束は精神衛生上喜ばしい兆候であるのに違いなかった。<br>　夕映えを映した後のガラス窓を立て切ると、ぼくは石のように身を固くして蹲った。都会に暮らす同窓生たちは今このひと時をどれだけ有意義に過ごしていることだろう。<br>　屋外の闇は刻々と濃度を深めていって、自分の輪郭すら見定めがつかなくなってくる。いったい自分に何ができるというのか、実社会の厳しさを予感すると今さらのように怖くなった。自我はみるみると委縮して、緊密に張りつめた世間の労働者たちの思惑がどっと身辺に殺到してくる。<br>　滅入ったときにはこうしてけし粒にまで縮小し、月夜の晩にはかなたの山影を眺めて救われていられる、ぼくの求めあぐねているものというのは、結局自分に見合った自我の対象――いずこかの、安定したまとまりのある領域ではなかったか。<br>(現実に生きることを考えなければ)<br>　そう観念したとき、突然ずばん、と部屋が揺らいだ。窓を開け、身を乗り出して外を見ると、八国山の上空に光の大輪が彩っていた。山越の空にふわりと開花してから一、二と数え、ようやく夜空にドン、と轟く。打ち上がった瞬間、毬の直径は漆黒に浮かび上がる山容のほぼ半分ほどもあったから、見応えとしては充分に立派な花火だった。<br>「いやーっ、いい。ここは特等席だ」<br>　振り返ると、空き部屋のはずの隣室で、上半身裸の酒井さんが鉄柵にもたれて夜空を見ていた。<br>「誰も使ってない部屋っていうのは、物がなくってせいせいするなあ。ボロ屋だって、ちったあ風通しよくしてやんねえと腐っちまうぜ。どうだい、こっちへ来て一杯やんねえか。大家さんには内緒でさ」言いながら、グラスの氷をカキンと鳴らした。<br>　隣の部屋は、ひと夏のあいだ蒸された空気が重苦しくたち澱み、ひどいカビ臭さだった。裸足で中に入ると畳がざらざらしている。流しの暗がりには動物の死臭が漂っていた。<br>「この部屋も、電気が来てないんですね」<br>「電気なんかつけない方が、こまいところが目に入らなくってせいせいすらあ」似たような事を――さっきぼくも考えていましたよ、そう言おうとして口をつぐんだ。<br>　向かいの部屋は、廊下を挟んで入り口の戸も室内の窓も全開にしてある。外気は筒抜けになった東西を自由に出入りできるはずだが、風はいつになっても抜けていかない。窓枠に背をもたせ、室内から顔をそむける形で花火を見ていると、それでも異臭をふくんだ熱気が少しずつ鼻先をかすめていくのが分かった。<br>　刺し込む外灯のわずかな明かりで、酒井さんは足元に新聞を開いて眺めていた。縦横に区画された紙面は求人欄であるらしい。<br>「ウチのやつさ……ほら、こないだ押しかけてきた前の女房とガキだけど、ここで一緒に暮らそうかと思うんだ。騒がしくなって申し訳ないけど……。そしたら、君の勉強の邪魔になるかな」<br>「もともと勉強なんかしてやしません。賑やかな方がきっと楽しいですよ。でも不思議だなあ。ぼくもさっき働くことを考えていたんですよ」毒気を抜かれたような気がして思わずぼくは素直に答えた。<br>「そう……」<br>　やつれた面立ちで呟くと、酒井さんはいつにないこまやかさでグラスの液体を喉奥に注ぎ、じっと新聞に視線を落とした。<br>　一つ屋根の下に暮らしている者同士が同時刻、同じ考えを抱いているということが偶然とは思えなかった。互いに世間を踏み外してしまった似たような境遇とはいえ、追いつめられて弱った魂がひとつ屋根のもと、よすがを求めてひきつけあう――そんな無意識下の交流が当人たちの気づかないうちに交わされている。他人の影響下にあることは、不愉快に違いないが逃れようのない運命のようにも受け取れた。<br>　暴風雨の晩、鍵をかけて親子を締め出したことの後悔が、無意識理に二人を呼んでいたのではなかったか。凡俗がいくらあがいたところで到底流転からは逃れられない、まとまるべくしてまとまっていくのが人知を超えた自然の意思のように思われて来るのだ。だとするなら、一体ぼくはどこへ引きつけられていくのだろう。<br>　ゆるゆると、天高くたち昇った光球の周囲がチチッと爆ぜた。音もなく枝垂れ空がなりに開花したのち、空が破れんばかりにドン、と轟く。花火は佳境に入ろうとしていた。<br>「あらあ、西武園で揚げてる花火だな。土曜の晩だから盛大なんだ。へっ。金払って下から見上げるんだったら、こんくらいの距離を置いた方がどれだけ上等か知れやしねえ。ま、花火って歳でもねえけどな」<br>「歳は関係ないでしょう」<br>「君はまだ若いから言えるのさ。そんな気分にひたってみたいよ」<br>　そう言うと、酒井さんは新聞を引き寄せ真剣に求人欄を探し始めた。ぼくは眼にふれた一発目の花火にこそ久々の爽快を覚えたものの、十代の頃ほどのセンチメントに染められることはなかった。気持ちのどこかが頑なになっており、素直に満ちていこうとしない。せっかくの美に心身を委ねてしまうことができずにいた。<br>(ああ――あの頃のように感動できたら)<br>　外聞もなく感傷にひたることができたなら、どんなにかいいだろう。取るに足らぬ路傍の花にこの魂が揺すぶられるなら、そこがつまりぼくの自我の居場所なのだ。<br>　通りには、夕涼みがてら近所の主婦や子供たちが大勢出ていた。誰もがしばらくは生活の手を休め、ゆく夏の夜空を彩る大輪に無心に眺め入っている。<br>「ああっ。だめだ、だめだっ。今週もろくな仕事がねえなっ」<br>　地域の求人ビラを放り投げ、酒井さんは大アクビした。<br>「酒井さん。このアパートから近いところじゃ、どんなのがあるんです?」<br>「近い所は……と。高田製作所。板金加工?。なんだ町工場の旋盤工じゃねえか。よしなよしな、どうせクソ暑い倉庫で朝から晩まで重たい鉄の塊もたされるんだから。とても小宮山君には勤まらないよ」<br>「あした、行ってみようかな」<br>　サイコロでも振って目が出たような、そんな気軽さでぼくはその日職をきめた。<br><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/sukai124/entry-12699431274.html</link>
<pubDate>Wed, 22 Sep 2021 11:08:14 +0900</pubDate>
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<title>みやこ落ち　五</title>
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<![CDATA[ <p>　南向きのガラス窓を開け放ち、部屋を拭き掃除してから生まれてはじめて布団を干した。<br>　昨日まで親まかせにしていたそんな家事も、自分でしてみると日射しがありがたく感じられ、ぼくは空いている六畳間の日なたにも掛け布団をひろげた。光線のなかで純白に輝いている布団に上半身をあずけると、神の毛根一つひとつにまんべんなく光がそそいでいるのが分かる。眼をつむる。肌にふれる日射しは初夏のそれを思わせた。<br>(つまり大気中の夾雑物が稀薄なんだな……)<br>&nbsp; &nbsp;熱していく頭の中で、そんなことをふと思う。都心から西へわずか三十キロほど来ただけで、空気がこんなにも違うものだろうか。<br>　それからがばと跳ね起きた。<br>(こうして安穏にしていたのでは、ますます魂が弛緩していくばかりじゃないか。同世代との差が開いていくばかりじゃないか)<br>&nbsp; &nbsp;守谷さんからもらった事務机に向かい腰を下ろすと、昨日掃除したばかりの机上のガラス板にうっすら埃がかむっていた。窓の外に上空をわたる風の音がうなり、みると褐色の土埃が舞い踊っていた。<br>　ぼくはあわてて手すりの敷き布団をしまい、ガラス窓を閉めた。流しに駆け込み、凍てつくような水に雑巾をあてて机と畳を拭ったが、洗面器で雑巾をじゃぶじゃぶやると立ちどころに水が黒く濁った。<br>　この辺りでは、人の暮らしの方が自然の威力に押され気味なのか、ぼくはあらためて郊外へ来たことを実感した。<br><br>　裸の大将で知られる山下清画伯の手記に、「住むんだったら食うに困らない食堂の二階がいいな、」という記述のあったのを記憶している。ぼくはこのアパートの一階に赤提灯がぶら下がっているのを見たとき、いざという時は握り飯の一つも食わせてもらえるのではないか――そんな下心を抱いていた。<br>　階下の小料理屋『高嶺』は毎晩深夜二時過ぎまで営業していた。下の様子は押入れの薄べりを通して酔客の騒ぐ声までがもろに聞こえる。来るたびに大声でがなり立てる客、シンと静まっているなか時折ぼそりとグチる客。連日二階で聞いているうち、店の客層はあらまし分かってきた。夜な夜な同じ叫声罵声に悩まされるなら、ともに騒いだ方がどれだけ気持ちが楽かしれない、ぼくは引越しの挨拶かたがた店に顔を出すことにした。<br>　縄のれんを分けて店に入ると、和紙で囲った柔らかな灯りの下で女将がカウンターをはさんで二人の客と向き合っていた。三人とも一瞬表情をなくしたような顔をしたが、<br>「いらっしゃい」僕が二階で予想していた駒鳥の声とはだいぶ違う、五十年配の大柄な女将が金歯を覗かせ、すばやくおしぼりを差し出してきた。<br>「小宮山といいます。こんどここのアパートに越してきたので……」<br>「ああ守谷さんからね、きいてますよ。浪人してるんだって？」<br>「え？。ええ、まあ」<br>　この引越しは、半分は都会の実家から叩き出されたような形だったが、それでも一年の期限つきで仕送りを得ることができたのも、父と来年の受験を約束したからだった。その時はただ家を出たい一心だったので、半分近くは母に焼かれてしまった参考書の類をダンホ‘－ルに詰めてきたのも、父の手前体裁をとりつくろう猿芝居に過ぎなかった。ぼくに受験生という認識はなかったが、他に適当な肩書も見つからないので女将の言うなり頷いていた。<br>　カウンターの奥で、浅黒く日焼けした土方ふうの巨漢の男が黙ってグラスを傾けていた。隣ではリーゼントの上背のある男が傾けた銀縁メガネを小鼻にのせて、上目づかいにこちらを見ている。<br>「この町に越して来たばかりで。なにも分からないものですから……」<br>　新しい人間関係に飢えていたぼくはそう言って二人に頭を下げた。<br>「……おらあ、ジュウイチってもんだけどよう、なんでジュウイチかっていうと、野郎をこの手で絞めるとよう、野郎が啼くのさ。ジュウイチってなあ。ジュウイチは俺じゃねえ、野郎の方ださ」<br>　巨漢の男は五分刈りの頭を節くれだった指でひと撫ですると、乱杭歯を覗かせて低く笑った。<br>「いっちゃんよ、なにもそんなに硬くなることもないじゃんかよ」<br>　言いながら、女将は微笑して巨漢の男に焼酎を注いだ。<br>「そんな訳でもねえけどよう」<br>「だったらあんた、ここじゃ先輩なんだからよろしく頼むよ後藤君」<br>「おら知らねえ」<br>　高校を卒業して一年しかたたない自分には、他人の年齢というものが分からない。後藤重一という男の歳は、とくに年代の特徴が感じられず三十にも四十にも見て取れた。体を使う仕事をしている人は鍛えているから年齢より若く見えるのだろうか。<br>　後藤さんの隣で呑んでいるのは精肉店の職人だった。二人はぼくより椅子二つ隔てたところで頭を突き合わせるようにして話し込んでいた。「何だ……浪人だあ?。二十歳で?。馬鹿じゃねえのか」「坊ちゃんだろう」「坊ちゃんだあ?……」それから声を押し殺したような失笑が洩れた。ぼくはすっかり立場をなくし、この店に入ったことを後悔し出した。顔を上げることもできずにいると、まな板で刻み物をしていた女将が、<br>「よしなさい」、子供でもたしなめるような口吻で奥の二人にくぎを差した。<br>　職人風情の二人から見ると、二十歳にもなって勉強している者というのが取るに足りない稚児同然に映るらしい。二人とも、珍しい生き物でも見るような眼をして懸命に笑いをこらえていた。<br>「あんたら。なにがそんなにおかしいんだい。人が悪いよ」<br>　女将が&amp;#x20B9F;るのと同時に、「おい坊ちゃ……」後藤さんが声をあげ、単純に振り返ったぼくの顔を見て二人は俯いたまま腹を抱えた。<br>「いいじゃないか坊っちゃんだって何だって。これから頑張ろうっていうんだからね……」<br>　菜を刻む手を休め、女将は二人を睨みつけたものの、ついに口元がゆるみ、ククッと金歯がのぞいた。おそらくは長年、質の悪い酔客相手に水商売の修羅場をかいくぐってきたに違いない、女将にも労働者たちの失笑が琴線に触れて共感されるようだった。店で三人に嘲笑されてしまうと、ぼくはいよいよその場に居づらくなった。目の前のコップに視線を落としていると、<br>「ほんとうにごめんね」<br>　はじめて小料理屋のお袋らしい真顔になって、女将は両手でビールを注いでくれた。<br><br>　アパートの二階に戻り、流しにぶら下がった裸電球のスイッチをひねる。<br>　六畳一間にさし込む沁みいるような明かりのなかに、日中畳にひろげたままにしておいた掛け布団がうすらさ寒げに敷いてあった。上体をパスン、とそこにあずけ薄暗い天井の染み跡を見つめていると、知らない土地で寄る辺のない二十歳の身空がさながら情けなくなってきた。<br>　なるほど労働者の彼らからすると、ぼくなぞ嘲りの対象としか映らないのだろう。自己の本性を明らかにしたい、なぞと息巻いて故郷を出たまではよかったが、社会経験を積んだすべての大人からみて、自分は最下等なのだと悟らざるを得なかった。一笑に付されるほどの価値しかない。天井の、意味不明な染み跡を眺めつつ、自らそう観じてしまうと、自分がけし粒ほどの黒点になって、最下等だ、最下等だという現実が頭の中を無尽にかけめぐった。<br>　『ホワイト』のマスターや、木田やチハルの懐かしい面々を想い浮かべる。けれども都会そのものを捨ててきた自分に、誰も慰めとなる言葉を掛けてくれそうにもない。勉強を放擲したうえ、仲間まで置き去りにしてきてしまった、けし粒に過ぎない今の自分は一体どこに精神的なよすがを求めたらいいのか――住みなれぬ土地の六畳間で、一人息詰まるような逼迫感に堪えきれず、ぼくはおもむろに上体を起こした。<br>　ガラス窓を開けると、ひんやりした夜気がさやさや全身を包み込んだ。下の庭から、饐えたような土の香りのまじった空気が立ち昇ってくる。夜空の底にうずくまる何軒かの平屋の向こう側に、遠くの山影に向けて電信柱が一列に居並んでいた。こちらから四本目あたりの中天には十日目ほどな月がかかっている。大気が澄んでいるせいだろう．ふりそそぐ白い光が網膜に燻すようにまばゆい。<br>　眼下に拡がる屋根屋根の片側は月に磨かれ、何百枚かのすべての瓦が一様にかっきりした陰影を際立たせていた。借家らしい、似たような平屋の背後には、思うさま枝葉を茂らせた一本欅が高々と夜空に屹立していた。月明りを受けた側の樹冠が、幾万もの葉群を浮き立たせている。月影は、瓦一枚から葉脈の微細に至るまで、これほど完璧に照らす腕前を持ちながら、西方の町はずれに横たわる遠い山容は前後を忘れて漆黒の内に押し黙っていた。<br>　ぼくは光と影からなる眼前の欅――巨大なモニュメントの荘厳に恍惚として魅入った。いったい今夜に限り、景物の一つひとつがこれほど際立って目に映るのはどうした訳なのだろう。これと同じ台地の延長に、あの激越な競争社会が今も渦巻いているということが、まったく不可思議なことに思われる。……すると、つい先ほどまでけし粒ほどまでにしぼんでいた自我がゆるゆる膨らんでいくのが分かるのだった。それが人間のもたらす温情と何ら異なることがない。あの恋情を得た際の爆発的な悦びほどではないにしろ、胸内にひたひたと寄せてはことほぐす、そうした類の優しさなのだ。<br>　そういえば引越しの時、軽トラックの中でひとしきりうなだれていたぼくの頭を上げさせたのも、メタセコイアの並木だったり、都会では見られなくなった野原や竹林、畑地といった自然の風物だった。埼玉県境に間近い郊外の緑地帯は、都心からと南北の三方からじわじわ寄せる車道の拡張や宅地造成の波からかろうじて残されてあった。高層ビルと住宅とで都心から延々埋め尽くしてきた建築群のうねりがここへきてようやく鎮まって、力尽きたところに気の抜けたように空き地や畑が点在している。風致地区、鳥獣保護区といった空間が、まるで理想郷の空でも見出したように懐かしかった。<br>　そうしてぼくはすっかり心身の均衡を取り戻していった。<br>　階下から、後藤さんの唸る演歌が轟いている。<br>　要するに、他人とは距離を置いて接しないとこちらが馬鹿を見るのではないか。安易な批評で限定されてはこちらの身が参ってしまう。それなら相手の性格に合わせ、いくつか引き出しを用意して臨機応変に出し入れしたらどうだろう。けれども、そう考えたところで思考が止まった。そんなことなら赤ん坊でもしている。第一、初対面の人に先入観で接しては嫌な奴に違いない。裸の心でいるに如くはない。経験の未熟なので虚仮にされても、こだわらず好きに笑わせておくより仕方ない……。　<br>　目の当たりにしている月映えの光景は、ぼくにとっては引越してきてもたらされた第二の風景だった。同時にいまだこの瞳に馴らされていない、清浄無垢な新世界だった。外物の心象に救われた自分は、この晩どうあっても経験量の豊富より、感性の初心であるのを上位置に置いた。<br><br>　小料理屋『高嶺』の入っているアパートは駅から二十分ほど歩いた畑中にある。市街地の喧騒も及ばない、場末の赤提灯といった情調だった。それでも日中を都会の塵埃にまみれて帰宅した人々からすると、心の安息所にも似た有難みがあるらしい。<br>　ぼくは店に出入りするうち、幾人かの常連と知り合いになり、新しい人間関係を築いていった。そこで耳にする土木作業員や塾の講師、肉屋やサラリーマンの人生観にそっくりひたって、反駁も追従もしなかった。経験に乏しく、何ら独自の考えを持たないぼくは大抵貝のように大人しくしていた。<br>　アパートの二階で向かいの部屋に住む守谷さんは身近に過ぎて、かえって会話を交わさなくなった。質実な暮らし向きを旨とする守谷さんはめったに赤提灯に顔を出すこともなく、毎朝七時にアパートを出ていく。<br>　僕は話相手のない侘びしさから週に二三日は『高嶺』で&amp;#x541E;んだが、一方で支払いがとても月の仕送りではもたなくなった。同時に一刻も早く働きたかった。そのことを店で口にすると、後藤さんが近場ならといって、彼が以前働いていた駅前のパチンコ店を紹介してくれた。それから自分の家はすぐ近いから一度遊びに来い、飼っている猫が子を五匹も産んでしまい、引き取り手がなくて困っているからと、照れくさそうにぼくに語った。<br><br>　1989年1月17日、昨年から病床に臥せっていた昭和天皇が亡くなった。ラジオは早朝からこのニュースでもちきりで、歴史のつなぎ目という題目のもと、天皇の生涯や戦争を中心とした昭和に起こった事件など、さまざまな特集番組が放送されていた。<br>　ぼくはこの日、パチンコ店のバイトが入っていたが、営業は自粛するだろうと楽観していた。それでも一応店へ行き、裏口の前に自転車を止めたが建物からいつもの店内放送が聞こえてこない。裏口のノブを回して店内に入ると、左官屋、設備屋たちのいつもと違わぬ常連たちが一心不乱に台と向き合っていた。<br>「あっ。今日やってたんですね」<br>「あたぼうよ。常より入りがいい方なんだわ。みんな正月気分でヒマ持て余してんだろ、これが庶民の本音ってもんよ」<br>　祭りとなると店を放ったらかして神輿の片棒を担ぎに行ってしまう、気っ風のいいおばちゃんは、どうよと言わんばかりに頷いてみせた。<br>「だけど妙に静かですね」<br>「ああ。有線の歌謡番組、消してあんのさ」<br>　言っているそばから大当たりの台が出た。けれどもおばちゃんはいっこうにマイクを持とうとしない。<br>「『おめでとうございます』も禁止だと」<br>&nbsp; &nbsp;ふだんなら軍艦マーチにのせて意気揚々、「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ……」とお客をあおる、謳い文句では店でピカ一のおばちゃんも、今日は出番がないらしい。大量放出、出血大サービスの幟は店頭からかたず片付けられていた。たまに起こるパチンコ台の効果音も虚しく、ガラスに弾ける球の音のみがガチャガチャとして、殺風景なことこの上ない。<br>「なんだか、間が抜けたみたいですね」小声でぼくがそう言うと、<br>「シラけてんだろ。こんな時はお客も気が立っているから、気いつけな」そ知らぬふりしておばちゃんがつぶやいた。<br>　ホールに立ってみていると、椅子に座った人の前でチューリップに入賞した台がたまにチーン、カラカラと十三個の玉を吐き出す、ただそれだけの光景なのだ。むしろ両替に席を立つお客の動作が際立って感じられ、それは万札がみるまに千円札になり、五百円玉になり、パチンコ玉に様変わりするなんとも痛ましい光景だった。<br>　お客が店員を呼ぶ赤ランプに、ぼくがそちらの「川」をみると常連の一人が顎で奥の台を指し示している。なにかと騒ぎを起こすので知られている土建屋の職人があろうことかドル箱を抱えて仲間の台に大量の出玉を分け与えていた。なるべくならそういった事にはかかわらずに過ごしてきたぼくも、教えてくれた常連の手前、注意しないわけにはいかなかった。赤ら顔で坊主頭にした作業着の男の背後に立つと、ぷんと酒の臭いがした。<br>「あの……すみません。一発台で出した玉は、一般台では使えないんですが……」言い終わらないうちだった。<br>「おおっ?」<br>　やおら反転してぼくの襟首を締め上げながら、男が椅子からいきなり立ち上がった。締め上げる手をゆるめずに、入り口の小広い場所にぼくを連れ出すと、衆目のなか、ぎぎっと斜めに睨みすえた。ばらばらと男の仲間らしい職人風、チンピラ風の幾人かがパチンコ台から離れて顔を出し、瞬く間にぼくは数人の男たちに囲まれてしまった。胸を突かれ、自動ドアから外に出され、隣の建物との間の狭い通路に連れ込まれ、そこでふたたび壁に突き上げられた。<br>「おめえは……さっき、なんか言ったか?」<br>「いや、玉の横流しは……」<br>　と、人垣の中から巨大な黒い頭がすっ飛んできて、顔面に稲光と衝撃がとばしった。とっさに、この人数では何をされるかわからないという打算が脳裏をよぎり、後頭部を壁面に打ち付けられたあと顔を押さえたまま、ぼくはその場にへたり込んでしまった。<br>「おめえはよう、見ない顔何だよなあ。どこの馬の骨だ。どっかの組の回しもんかあ？」<br>　ぼくがぐったりとうなだれたまま黙っていると、<br>「なんとか言わねえかっ」別の一人が恫喝した。「どっから来たのかって訊いてんだろっ」<br>　筋肉質の腕が伸びてきて襟首をつかまれ、持ち上げられた後にふたたび壁面に押しつけられた。<br>「文京区……です」<br>「なんだあ?。ぶんきょーって、なんだあ?」<br>　頭突きを喰らわせてきた、水死人のように蒼黒く顔のむくんだ男がシンナー臭い息を吐いてぼくの顔を覗き込んだ。<br>「二十三区の、文京だろう」「しらねえ、そんな区」「余所もんじゃねえか」<br>　そんなやり取りの後で、舌打ちの混じった失笑が低く男たちの間に洩れ伝わった。<br>「こんなガキ、相手にするだけ時間の無駄だあ」<br>「酔いが醒めちまった……」<br>　その場に打ち捨てられたまま、罵り声とともに一二人が背中を見せて歩み去ろうとした、そのときだった。<br>「おーい、おまえらそこで何してるんだあ？」<br>　聞き覚えのある声がして、通路の奥から後藤さんが歩いてきた。<br>「ジュウイチじゃねえか。おめえこそ何してんだ、こんな所で」<br>「こいつはよう。俺のちいと知り合いでなあ。たまに店に顔を出せばこの始末だあ。こいつに手を出したのはどいつだあ？」<br>　後藤さんの強面顔を前にして、ぼくは内心助かったという嬉しい気持ちと、ようやく男たちが引き揚げそうになったところへ……という面倒なことになりそうな困惑と、半々の心境だった。<br>「俺だがよ……」<br>　そう言って胸を反らせて一歩前へ出た水死人顔の男に、ぬーっと後藤さんの丸太のような腕が伸びた。と、同時にマットを叩くような音がして、太鼓腹にひざ蹴りを喰らった後藤さんは呻き声を洩らしつつ、尻餅をつく形にしゃがみこんでしまった。<br>「俺だがようっ」横様に倒れている後藤さんの脇腹をめがけ、再度つま先での蹴りが入った。<br>「ううっ、もうよせっ」<br>　男達のせせら笑う声が舗道に遠退いていき、腹を抱えて口から涎を垂らしている後藤さんをぼくは呆然と見下ろしていた。<br>「ちくしょう、あいつら。人をいいように叩きやがって……」<br>　苦悶の表情を浮かべ、片腕を突いて立ち上がろうとした後藤さんは、巨体のバランスを崩して尻をしたたかコンクリートに打ちつけた。何度も片腕を心棒にして起き上がろうとするのだが、一人では立てそうになく、ぼくはあわてて肩を入れた。<br>「ああっ。情けないとこ、見られちゃったなあ。『高嶺』のママには、黙っといてくれねえかあ？」<br>　目じりに皴を寄せて照れ笑いしている後藤さんに、ぼくは胸内が焼けただれたようになってしまい、何と言っていいのか分からなかった。<br>　Yシャツの襟元がびりびりに裂けてしまったが、ぼくはその格好で閉店まで働いた。夜十一時にバイトが終わると、ぼくはその足で『高嶺』の暖簾をくぐった。青タンに膨れ上がった僕の反面を見るや女将は目をつりあげて憤慨したが、成り行き上どうしても後藤さんの加勢を黙っているわけにはいかなかった。<br>「ふーん。そうか、あの洟垂れ小僧が、そんな悪さしたってか」<br>　女将は、ぼくと後藤さんを殴った水死人顔の男なら、隣町のワルで有名なその男に違いない、生まれたときから知ってるよ、こんど会ったらただじゃ置かない、と大変な権幕だった。<br>　ぼくはしかし全く違うことを考えていたので、つまりこれで明日から店で働きやすくなるだろう、ということだった。手を出したのは向こうの方でこちらには何の落ち度もない。謝るのは店員たちからも煙たがられている、あの土建屋たちの方だという形勢が、明日からきっと自分に有利に働くに違いない。暴行はいわばぼくがこの町に越して来た、そしてあの店で働くのに避けて通れない洗礼のようなものなのだ。<br>「しかし後藤君も、あれも男だな」どこか労しげに女将が呟いた。<br>「うん。やられっぱなしだったけど、来てくれて本当に嬉しかったよ」<br>「そうじゃなくってね……後藤君、重度の障碍者手帳、持ってるの知ってるかい」<br>「どういうこと」<br>「小さい頃からの持病でね、てんかん持ち……なのよ。がたいは大きいけど、とても喧嘩なんかできる身体じゃないの」<br>　ぼくは絶句した。<br>　それから自分の立場ばかり考えていた了見に、その晩はひとしきり自己嫌悪に陥った。<br>　パチンコ店でのアルバイトはそれから数か月後にやめることにした。事件のあった直後に辞めてしまうのも癪だったからだが、他にもう一つ理由がある。<br>　店ではパチンコ台の並ぶ通路――「川」を見下ろす形に監視カメラが設置してある。お客が不審な動きをしたり、ゴト師に台の扉を開けられたりすると、二階の事務所でモニターを見ている店長がすぐに駆けつけてくる仕組みになっていた。台の釘に玉が詰まっているだけで、いつもならモニターで目敏く気づいてホール係を&amp;#x20B9F;る店長が、どうしてあの晩に限りホールに下りてこなかったのか――。<br>　店内で男たちに囲まれたとき、監視カメラの無言に押し黙ったレンズの奥をすがる思いで見つめていた自分が、あまりにも情けなくなったのだ。<br><br><br><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/sukai124/entry-12699430829.html</link>
<pubDate>Wed, 22 Sep 2021 11:05:37 +0900</pubDate>
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<title>みやこ落ち　四</title>
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<![CDATA[ <p>　葉群を透かしてわずかに届く、外灯の白い光がチハルの白い頬を薄緑色に染めている。<br>　町中の歩道を行く時から、なんとなく人目に晒されるのをいやがるようにして歩いてきた二人に、崖上に立った一脚置かれたベンチは腰を下ろすのにすこしのためらいも、不自然な感じも起こさせなかった。チハルの横顔を見ていると、上京してから短時日のうちにずいぶん引き締まったようにぼくは感じた。<br>　チハルはぼくの知らないところでじつに活発に動き回っていた。日々通学している専門学校の音楽仲間たち、寮生活しているマンションの住人たち、バイト先での常連客たちとの間柄、そしてそれらの間を泳ぐようにして寄り添っているぼくとの時間。つねに屈託のない笑顔を振りまきながら、ゆうに四つの新世界を行き来している。そんな同世代の彼女を前にして、ぼくはいつも底が見透かされてしまうような不安を覚えた。<br>　チハルは、東京のいろんな所に連れていってほしいとぼくにせがんだ。けれどもこれまで高校と自宅を往復してきただけの自分は、地元である文京区以外へはほとんど出掛けたことがない。渋谷、新宿、池袋といった大都市へ映画を見に行くことはあっても目的地を逸れてしまうと方角もなにも判らなくなる。第一、他郷から出てきた人に東京のここを見せたい、といったスポットがぼくには何一つ思い浮かばなかった。<br>「東京の人って、意外とそうなのよね」<br>　チハルは先日、寮の友達と原宿へ買い物に行った帰り、大手町で乗り換えるとき一時間近くも構内をさまよい歩いた、友達は東京の娘なので安心して付いていったらひどい目にあった。その時初めて東京の人でも道に迷うんだと知った、そう言って笑った。<br>「あたりまえだよ」<br>「だって、駅とか歩く人みてるとみんなまっすぐ前だけを見て一直線に歩いてくじゃない。あれって凄くない?」<br>「大半の人が通勤で使ってるんだから、迷うはずがないよ」<br>　チハルが前に住んでいた前橋市では、ブラウスを買うなら○○町のブティック、靴を買うならデパートの何階、ショートケ－キを食べるなら○○商店街の何軒目というように、行きつけにしていた前橋の地理がありありと思い浮かぶ、<br>「あなたにも……」そんな場所があったなら連れてって欲しいと思った、そう素直にぼくに語った。<br>(べつに頭に地理を思い浮かべなくっても――)<br>&nbsp; &nbsp;ＪRか地下鉄でよかったら手帳の最後に載っている――ぼくはそうわびしく考える。それよりも彼女との会話を重ねるにつれ、虚飾が一枚一枚はがされていく畏れと共に、アスファルトの覆いが取り去られた土の香りにほだされて、ぼくはそのときいつになく饒舌になっていた。<br>「ぼくは……きっと一人でいるのが好きな性格なんだ。<br>　学校には運動好きな明るい奴が多かったけどね。ただそれがどこか熱の醒めた、シラッちゃけた明るさなんだ。休み時間が終わって教室に戻ると、さっきまで腹の底から笑ってた連中か゛学力ででもって武装してる。一年後には別々の人生を歩むことが分かっているから、必要以上に深入りしないんだ。みんなが見据えているのはよりハイレベルな大学だから、偏差値を上げようと誰もが必死になってる。三年になると、その熾烈さがますます際立っていたな。狙う学校が絞り込まれて誰も他人をかまっている暇なんかなくて……生活のすべてが針先のように研ぎ澄まされた目的の一点に向けて収斂していく。それはまあ、いいさ。競技者として美しい姿勢には違いないから。けれどさ、自分が競技者であることを望んでいない連中にとってはどうなんだろう。誰が誰より何番成績が上がった、そんな会話にみちた日常は、それこそ針のむしろじゃないか……。　<br>　ぼくたちは、小さい頃からそのピンポイントの一点に向けて差し向けられていたんだ。生きる、目的をね。成績優秀なきわどい細道を除いては脱落者のまま谷底でも這って行くより仕方がない、そんな勝者の雰囲気を作り上げて……。<br>　きみの故郷の話を聞いててさ、ぼくは雄大な山並みに囲まれた、親和力のある地方都市を思い浮かべたよ。たとえば北海道の人口が今はどれくらいか知らないけれど、一キロ四方に一万人が住む土地柄だったら、生活上の必要から、あるいは人情から自然と寄りそうんじゃないのかなあ。ここに同じ面積に百万人が息を殺して暮らすとするだろう?。そうすると、自分が排除されないため、あらゆる手段を使ってわが身を守る。他人を蹴落とすことになるんじゃないか。ぼくが本当に親しくした友達は、小学生の頃にはたくさんいたよ。中学にも何人か、いた。進学するにつれてそうした友達とは付き合いが無くなっていったんだ。いや違う、ぼくの方が彼らに見捨てられたんだ。　<br>　あの予備校の、殺気立った教室を思い出すとぞっとするよ。高校の教師にも嫌われていたし、親ともしっくりいってないし、正直今の人間関係にうんざりしてるんだ。深夜、隣の家から話し声がすると、それが何だか耳奥の部屋でひそひそ話してるように聞こえるんだ。そのたびにギクッとしたり。そんな調子だから、たださえ人間が疎ましいのに、この街より込み入った&amp;#x7E6B;華街なんかへとても行ってみたいとは思わないな。<br>　ビルの谷間を歩いていると、そこで働く人と自分とがあまりに無関係なんで、廃墟を行くような心地がするよ」<br>「あたし……」<br>　言ってもいいかな、といった感じにチハルが首をかしげて覗き込んだ。無邪気な笑みをえみを目もとに浮かべて。<br>「それって小宮山君、なんだか一人で世界を暗くしてる。ぜんぶ周りの人のせいにしてる。周りがシラけてたってなんだって、じゃあ、あなたが元気にしてあげればいいじゃない。目標が小さくたって細くたって、それを越したらひろーい世界が待ってるんだわ。今がつらい時期だから、まわりがきっとそう見えちゃうの」<br>「見えちゃうものが間違ってるというのかい」<br>「だって。気の持ちようひとつじゃない」<br>　チハルとは言い争いをしたくなかった。けれども自分の気持ちを真率に語ることを、ぼくはどうしても抑えることができなかった。<br>「ぼくは――なんだかここにいるのが間違ってるような気がするんだ」<br>「えっ」<br>　小さな悲鳴を聞いたとき、チハルを傷つけるような言葉を吐いてしまったことにぼく自身が驚いていていた。<br>「きみとここにいることが、じゃない。予備校にいることが。家にいることが。このベンチよりほか、ぼくには居場所が見つからないんだ。気の迷いなんかじゃないと思うよ。だって現実に、ここのベンチを取り囲んでいるのは茫洋累々たる都会のビル群じゃないか」<br>「ねえ、あたし……群馬から出てきて、上野駅で降りて、一番最初に行った場所、どこだとおもう?」<br>「さあ？」<br>「サンシャイン60。<br>　もう夕方になっていたから、本当はまっ先に寮に入ってすぐお母さんに連絡入れる約束だったんだけど、どうしても行ってみたくって。ねーいくら東京でもさあ、ビルのてっぺん上がるのにお金取るのってあり？。でもさ、最上階の展望フロアにでてみたら、あたし『アーッ』って叫んじゃったの。周りの人がびっくりして振り向いていたから、そのくらい大きな声出したのよ、きっと。電車に乗ってたときから不思議に思ってたことがそのとき一目でわかっちゃった。街が、なくならないの。どこまでもずーっと街が続いているの。足元からいろんな道路が四方八方にのびていて、ああ、あたしいま東京っていう首都圏の心臓部にいるんだって思うと、なんだか胸までドキドキしてきて……。<br>　東京って、いちど戦災で焼け野原になったんでしょう？。人間って、すごいって思ったの。これだけの街を造った人達って、すごい。その気になれば人間ってなんだってできる、そう心から実感できて、見ていると勇気が湧いてくるの。<br>　もう陽が沈みかけていたから、遠いところは霞んでしまって赤城山は見えなかった。それでかえって、都会の町が果ての果てまで拡がってるように感じたのかしら……北の空を見ていると、卒業式の日に別れた仲のよかった娘の顔とか体育祭のこととか、いやでたまらなかった先生の顔まで想い出しちゃって……。<br>　そのときあたし、思うことが沢山ありすぎて気が抜けたみたいになっていたから、せっかくの空の茜色がどんどんくすんでいってしまうの。ああ――すべてが灰色にくすんてでしまう。そう思って諦めていたら、今度は反対側の地表から、赤や黄色や白い光がぽつぽつチラチラ音もなく輝きただすんじゃない。おっきな道路なんか光の渦よ。<br>　ビルの一つひとつの窓の中でまだたくさんの人が仕事してた。東京の人ってよく働くのねえ。あたしその時はもう感傷も吹き飛んじゃって、びっくりして見入ってたわ。気持ちか゛引いちゃったっていうか……これだけ一生懸命に生きている人たちのいる大都会で、あたしなんかがやっていけるのかしらって、本気で不安になってきたの。みんな怖いくらい、きっと勉強して働いてるんだわ。その人たちのエネルギーが、なんだか熱気をはらんだまま夜空にこもって、ビルの上空に渦巻いているの。それなのに――街は壮絶なほど、きれい。そしてあたしの気持ちは澄んでいて、透明なのに不思議ね。眼のふちから涙が出るの」<br>「どうして」<br>「気持ちの整理がつかなくって、その時は自分でも分からなかった。涙腺がどうかしちゃったかとおもったわよ」<br>「今は?」<br>「たぶん……なんだか悔しいって思ってた。こんなすごい大都会の夜景を、人間の活力が集中しているさまを十九年も知らないでいたんだもの。高校生活はそれは楽しかったけど、ほんとうに狭いところで一喜一憂してたんだなあって……友達のこととか思うと認めたくはないんだけれど、あそこからの夜景見ちゃうとねえ……。あたし、今まで何してたんだろうって感じ?。小さい頃なんて、群馬の夜空見上げてさあ、お星さまきれい、なんて言ってたんだから。それが情けないやら悔しいやらで」<br>「都会の夜景より星空の方がずっと素敵だと思うけどな……それで泣けてきたのかい」<br>「あと半分は嬉しい方よ。ああ、この夜景に出会えてよかったっていう……あたしここからスタートするんだっていう」<br><br>　ぼくたちは、あまりにも無防備に心の扉を開け放ったまま恬淡としていた。チハルは東京に人工美を、さらにはそこに暮らす人々の情熱と活力を身体で体感したのだろう。恩愛や善意をくみ取ることができるのだろう。そして都会人としてのぼくにさぞかし失望したに違いない。<br>　ある日を境に、ぼくは自分の心の鍵を忍ばせて彼女との間を行き来しなければならなくなった。僕の内へ入ったチハルはそれより先へ進むことができず、当惑した面持ちで厭世臭い扉の前に佇んでいた。謝絶の憂き目に遭うたびに、やがてチハルの態度も少しずつ硬化していった。彼女は彼女でぼくには語られぬ第二の部屋を持つようになった。各々の本音を閉じてでなければ相手を迎え入れなくなってから、ほんとうなら互いの性格にそぐわない、心の鍵を持つことの煩わしさから二人は自然に離れていった。<br>　それはチハルにしろぼくにしろ感性の祝典のような一年だった。<br>　まずは現状に不満を抱いている我々の感性というものが、いま自分に不足しているものを求め異境を夢見るものだということ。<br>　つまり翌年の春、チハルは見事に音大に合格してみせ、一方でぼくはすべてのことから落伍して、東京の家を出ることになった。<br><br>&nbsp; &nbsp;根津神社裏門坂を彩っていたハクモクレンの花が落ち尽し、谷中界隈の桜もとうに見ごろを過ぎていた。<br>　昨晩は夜遅くまで雷鳴がとどろき、トタン屋根にうねりのような細かな雨が吹きつけていた。朝になると、枝先にかろうじてしがみついていた町中の桜花はアスファルトに冷たく張りついていた。花冷えする外界はしんと静まり返り、庭木を揺するほどの風もないのに上空を濁った煙のようなちぎれ雲がめざましい勢いで流されていく。<br>「どうも、遅くなってすまなかったね」<br>　父方の縁戚にあたる守谷さんは、約束していた引っ越しの期日がひと月近くもずれ込んだことを頻りに気にして苦笑していた。荷物は高さ一メートルほどもある馬鹿でかいスピーカの付いたステレオセットの他、布団一組とダンボールが三箱あるきりだった。二人でアンプ本体を積んでしまうと、十分もしないうちに積み込みは終わってしまった。<br>「どうも、まだぽつぽつと降ってくるね」守谷さんは上空を見上げてそう言うと、「一応シートを掛けていこうか」相づちを求めるようにぼくの顔を見た。<br>「どっちだっていいですよ」<br>「うん、でも……」<br>「濡れたら濡れたで、構わないです」<br>　投げやりな口調で僕が言うと、それまで茨木の人らしく快活にふるまっていた守谷さんにいくらか強張ったような翳が奔り、黙って運転席の下からシートを引っぱり出した。「ステレオだけにでも……高価なものだからね」<br>　二人を乗せた軽トラックは本郷通りをひたすら南下してしていった。<br>「ほんとうなら池袋に出て、目白通りをいったほうが近いんだろうけど……」<br>　ぼくはただ、守谷さんが今住んでいるアパートが、他に住人が入っておらず気兼ねなく空き部屋が使えるということと、場所は東京の西郊らしいと父づてに聞いていただけで、地理にも疎いので分別もなく車に揺られているより仕方がなかった。実際この先どこへ運ばれていこうがどうでも構わぬといった、やや自暴自棄の心持で助手席に蹲っていた。<br>　この春までぼくが通学していた御茶ノ水の橋に車がさし掛かったとき、<br>「これで見納めになるかもしれないから……」<br>　そうつぶやいた守谷さんの真意が、そのときはじめて殴られたように理解された。こみあげてくる屈辱に、ぼくは身震いするのを抑え込んだ。茨木にいる父方の叔父兄弟は誰も腹にこだわりのない磊落な人ばかりだった。その昔からの気性を知っているだけに、こうした手の込んだ温情らしいやり口がよけい腹立たしく思えるのだった。<br>　スクランブル交差点に停車する。<br>　駅のコンクリートの庇から次々と傘の花が開いては学生たちが吐き出されてくる。雨のなか群衆の顔は一様に光を失い沈んで見えたが、ぼくにはそれが大学生か浪人生かが一目で分かった。ワイハ゜ーが、しゃっと雨滴を払い落とした後の透明なガラスに映っているのは、すっかりキャンパスライフに馴染んだらしい茶髪の垢ぬけた女子大生だ。フロントガラスにぽつぽつと雨粒がたまり、彼女の隣にいくぶん年かさにみえる黒髪の女学生が脇に立った。ワイハ゜ーの往復した後によく見ると、肩から重そうなトートバッグを提げており、彼女はおそらく浪人生で駿河台下へ折れるかおれないかで分かってしまう。<br>　信号が青になった。雨の学生街を眺めながら、けれどもここにいるすべての学生たちよりも結局、自分は頭脳競争で劣っていたのだ――その現実が、破顔し、談笑しているグループを眼にするにつけ否応なく思い知らされた。こみ上げる敗北感をどうすることもできなかった。勉強なぞもうやめた、そう自ら裁断して家を出ながら、奥処ではまだ諦めきれていない、中途半端に堕ちきっていないこの魂の薄汚さが、身につまされて理解されるのだ。そうしてやはり、これは守谷さんの厚意なのだ、厚意なのだと狭苦しい助手席でぼくは頑なに自嘲していた。守谷さんは、うつむいたまま咽んでいるぼくに気づくと、<br>「やっぱり……そうただよな」<br>　男なら、負けて悔しいのは当たり前だと頷きながら、ゆるやかに駿河台下でハンドルを切った。<br>　車は靖国通りから都心を抜けて、一路ためらうことなく青梅街道を西進していった。<br><br><br><br><br><br><br><br><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/sukai124/entry-12699430605.html</link>
<pubDate>Wed, 22 Sep 2021 11:04:17 +0900</pubDate>
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<title>みやこ落ち　三</title>
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<![CDATA[ <p>　母はものも言わずにぼくのわきに立ち、じいと勉強机の本棚を睨むとやおら参考書をひっつかんで無造作に机上に落とし始めた。激しい音を立てて落ちていく書物をぼくは椅子に座って黙って見ていた。<br>「どけっ」<br>　少しも動じない息子の態度が癇にふれたらしい。母はぼくの肩をつかむとぐいと後方に突き飛ばした。暴れ散らす母の狂態をぼくは廊下から黙って見ていた。母は「こんなものが、こんなものが」と毒つ‘‘きながらぼくの愛読していた『堕落論』を何度も踏みつけにした。書棚は大方からになり、部屋中がノートだの文房具だのの海となった。高校時代のスケッチブックが真二つに折れ、美術の課題で一冬かけて彫った石膏のトカゲの腕がもぎれた。幾冊かの画集が叩き落とされ、ターナ－の画集が見開かれて、荒天のなか、波濤さかまく暗い海にはモネの詩的な睡蓮が上下に漂っていた。ビリビリに裂かれたレポ－ト紙の合間からはダビンチの精緻な百合の花がほころんでいた。机の引き出しに手が掛かったとき、<br>「やめろっ」ぼくはこの日はじめて母を制した。<br>　母は委細構わず引出しに片腕をさし込んでは放り投げ、つかんでは叩きつけ、プレイボ－イのヌード写真がぼくの足下にすべり落ちると、薄笑いを浮かべ両腕でセブンスターをひねり潰した。<br>　一番下の大きな引き出しが抜かれてクリ－ム色のノートを手にしたとき、ぼくはとっさに母の腕にしがみついた。<br>「いいかげんにしろ」<br>「あんたがっ、あんたがしっかりしてさえいれば、こんな事にはならなかったのよ。今日、お母さん学校で何て言われてきたと思う。先生はご子息すら進学させられないんですかって、せせら笑われたのよっ。お母さん、ひとっことも言い返すことができなかった。おまえのお陰で、言い返すことすら、できなかった！」<br>　涙まじりにそう言うと、手にしていたノートをつまらなさそうに傍らに放った。<br>「お母さんの職場で面白くないことがあったからって、俺とは関係ないじゃないかっ」<br>「人様の子供を預かって、えらそうなこと言ってたって、あんたのこと想うと情けなくって涙が出てくるんだよ。いいからどきなっ」<br>　つま先で蹴飛ばしながら母は書籍の山を廊下に移した。廊下がいい加減ものであふれ返ると、今度は小気味よい足さばきで次々に階段上から蹴落とし始める。予備校のテキストの合間からは授業中メモした模範解答の紙片が抜け落ちて、ぼくの十九年間の思い出が階段の角で躍り上がった。<br>　高校時代のノートが乱雑に玄関に折り重なつてゆくのを見たとき、ぼくは頭から血の引いていくのが分かった。気持ちのどこかで、まだ勉強に未練があったことをあからさまに思い知らされたからだった。けれども眼下に堆くたまったぼくの私物は、すでにゴミの山としか映らなかった。その光景は何やら運命的なものを予感させた。<br>　肩で息をつくまで存分に本を蹴落としてしまうと、母はゆっくりと階段を下りていった。いったん怒り心頭に発した母が落ち着きを取り戻すためには、つねにこれほどの発散が必要なことは家の者なら充分に承知していた。<br>　ぼくは四畳半の自室にあぐらをかいて、残された品々を呆然と見渡した。中学時代の木版画や小学生のころ書いた作文などが乱雑に散らばってている。手紙の類は誰のものが失われたのか、調べようもなかった。今日までの記憶をこうした形 て''開陳して見せられたのは初めてのことだ。まずは、画集を棚に戻すことから始めよう……そう思いながらも、丸まった煙草の皴をのばして一服つけると妙な虚脱感におそわれた。<br>　階下では、バサリ・ドスンと執拗に本を音がなげうつ音がしていた。やがてきな臭い匂いがぼくの鼻を突き、屋外から近所の主婦の甲高い叫び声が届いた。<br>「小宮山さん、あなた何をはじめるつもりっ?」<br>「ええ。どれもまっさらのご本ばっかりで本当にもったいないんですけど……家の息子はもうだめなんです。望みもなにも尽き果てました。大学へ行かせようなんて思ってた、わたしが馬鹿でした。ですからね、本人にすっは゜り諦めてもらおうと思って、いま身の回りのものを処分してるところなんて'’す」<br>「そんなこと訊いてるんじゃないのよ。あなたこんなせまい路地の中で焚き火なんかしちゃあ、火事になったらどうするのっ!」<br>「あっ。その点は大丈夫。子供の火遊びとは違いますから、バケツだってほら――ちゃんと用意してあるんだから」<br>「なに言ってるの、正気じゃないわよ、あなた。火の粉か゛舞っているじゃないの、よしなさい!」<br>「うるさいわねえ。奥さんまでうちの不良息子の肩持とうっていうんですか。人んちのことなんですからほっといてくださいよう……」<br>　泣き続ける母の声を強風がさらっていった。<br>　立春を過ぎ、街中の梅がほころびだしても気象はいぜんとして冬型のままだった。空気は乾燥し家を揺すぶるほどの大風が時折うなりをあげて吹き抜けていく。「ああっ、危ない!」主婦はついに金切り声をあげた。<br>　一度母がああなってしまったら、第三者の仲介でも借りるより仕方ない――主婦との諍いを耳にしながら、ぼくは　<br>先ほど母が手にしていたクリ－ム色のノ－トを探していた。靴脱ぎにたまった紙屑を掻き分けていると玄関の扉が開き、うなだれた姿で母が入ってきた。むくんだ顔がすすで汚れ、逆立った髪先をちりちりに焦がした母はとうてい常人の顔つきとは思えなかった。視線を逸らしてぼくが階段を上がっていくと、すぐに後から追ってきて、二人は上りきる一段手前でふたたび対峙した。<br>「もう勉強はあきらめるんだね。本もノ－トも全部焼いちゃったから。近所の奥さんに&amp;#x20B9F;られちゃったから、今日はこれでやめるけど、残りの分はあした朝早くに処分するから。あんた下に全部運びな」<br>「いやだね……。どうでもいいけど、も少しふつうの声で話せないのかい。近所迷惑だろう」<br>「ああ、聞いてるだろうよ。両隣もお向かいさんもみーんな聞いてるさ。それがどうしたっ!。お母さんがこれほど惨めな思いしてるっていうのに、お前はすぐそうやって他人の目ばかり気にしてるんだねえ?」<br>　&amp;#x6414;きむしられるようなな恥辱に堪えながら、ぼくはホ゜ケットの中の小銭を勘定していた。母のヒステリ－に感化されてしまう前に、外へ出てふつうに生活している人の当たり前の空気が吸いたくなったのだ。「どいてくれ」すり抜けて階段を下りようとすると、母は肩でぼくを小突いた。<br>「お前はねえ、もう勉強する資格がないんだよ」<br>「そうかい。じゃあやめた」<br>「そうおし?。生きてる資格もないんだから。お前はねえ、人としてやっちゃいけないことをしたんだよ。罪人なんだ。そんなのが外を歩いてちゃ世間様に申し訳ない。頼むから今週中にでも死んでくれないか」<br>「何のことだ」<br>「見たんだよこのノ－トを。女の子の字で書いてあるじゃないか。交換日記かい」<br>　母はクリーム色のノ－トのへ゜―ジをつまんで、ぼくの鼻先に差し出した。<br>「おまえは……人様の娘さんにまで手を掛けたんだねえ。傷物にして……。お母さん、恥ずかしくって明日からどんな顔して教壇に立ったらいいっていうの?。お前のような汚らしい人間は見たことがないよ。この人間の、クズッ!」<br>&nbsp; &nbsp;ぼくは頭がドロドロに熔けた溶鉱炉のようになり、目の前にいるものが化け物にみえた。<br>「いいかい。今週中にでも､お茶の水の駅へ行って、ホ－ムから飛び降りて死ぬんだよ。朝はおよし、まじめに働いてる人の迷惑になるからね。あの黄色い電車の入ってくる……」<br>　せめて、この口だけでも消えてくれたら――そんな思念が自然に行為として形になった。突き出したぼくの拳を顔面に受けて、滑稽なほどあっけなく、母は階段状の虚空に呑まれていった。仰向けのまま、背面を階段の角に激しく叩きつけたのち、猫のように柔らかな感じで母は反転し、階段にすがりつこうと片腕を伸ばした格好のままずるずる最下段まで落ちていった。母が死ぬ――そう思い、ぼくは背後に何者かにスウと引かれた気がした。<br>「うぐっ」<br>　瞳には、階段下に蹲っている人が映っているものの、ぼくの心神はすっかり空白になっていた。思考が停止し、何ひとつ思い浮かぶことがない。<br>「おばえわ、おばえわ……」<br>　口にあてがった両手を震わせて、異形を見る眼でその人がこちらを見ていた。<br>「実の親に手を掛けるなんて……おばえわ……ああっ?」血糊にまみれた口元から、白いものがこぼれ落ちた。「歯が……歯がとれぢゃった。みろっお母さんの歯なぐなっぢゃった。あごも変になってる……」<br>　ぼくは石化したまま、無心だった。<br>「おばえわ……今日という日を忘れないがいい。母をごろそうとした、罪は……生涯消えることはない」<br>　それから憎悪にみなぎっていた母の眼に喜悦の色が奔った。<br>「うんそうだ……間違いがない。自分の額に手をあててごらん。親殺しの烙印が押されたんだよ……死んでも消えない。ざまあみろこの極道め」<br>　悪罵を浴びるにつけ、ぼくの中にもつめたく青い炎がゆらめきだした。顔中を鮮血と煤とで赤黒く汚したその人を前にして、ぼくはそれ以上抗う気にはなれなかった。<br>「ああそうだ。言い忘れてたことがひとつあったよ。黄色い電車じゃない赤い電車だよ。快速なら一息に死ねるから」<br>　真っ赤な口をあけて愉快そうに目を剥いてそう言うと、母は蹲ったまま奥の居間へとひき取っていった。<br>　屋外へ出ると、家の前は焚き火のあとの燃えかすが黒いしみになっており、流した水が帯となってその先へつづく石段を汚していた。すると石段の下から顔見知りの近所の主婦が、踵を鳴らして上がってきた。<br>「あ……」<br>　ぼくは思わず頭を下げたものの、主婦はちらとこちらを見るなりものもいわずに白眼視して行ってしまった。それから頭上にパシャン、と小窓を引きつける向かいの家の音がした。<br>　見上げると、路地なかの建てこんだ家々の狭間から、腸詰めにした挽肉でも並べたような赤黒い雨雲がびっしり頭の上に敷かれてあった。<br><br><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/sukai124/entry-12699430315.html</link>
<pubDate>Wed, 22 Sep 2021 11:02:29 +0900</pubDate>
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<title>みやこ落ち　二</title>
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<![CDATA[ <p>　高校をかろうじて卒業できたぼくは、多くの浪人生同様、お茶の水の予備校に通いだした。<br>　大金と引き換えに与えられたテキストは積み上げると高さ二十センチほどにもなったものの、高校と違い出席を調べるわけでもないので安心して屋上で寝ころんでいられた。屋上から真下をみると、ビルの谷間の歩道を一列になって行進してくる予備校生たちの面持ちはどれも沈鬱で、まるで葬列を眺めているようだった。自分もまた連中のうちの一人なのだと思うと、直感的に誤った道を歩いているような気がしてならなかった。<br>　予備校の授業はまだ陽も高い三時過ぎには終わってしまう。あいた時間、ぼくは同世代の仲間たちが集う向ヶ丘の喫茶店『ホワイト』で小遣い稼ぎにアルバイトをしていた。そしてこの年の春、店の募集の貼り紙をみてウエイトレスとして応募してきたのがチハルだった。<br>　チハルは高校時代を群馬の女子高で過ごし、音大受験のため上京して千駄木の高台にあるマンションでひとり暮らしをしていた。ひとり暮らしといっても、マンションは予備校に紹介された女子寮だったから、それで彼女も親に出郷を許されたのだし、音大受験という同じ目的をもった同世代の娘が両隣に暮らしているので淋しいことはなかったらしい。ただ、これはぼくの憶測で、たんに表面上そうわざと淋しさを隠してふるまっていたのかもしれない。<br>　履歴書を持って店にやってきたチハルはマスタ－に歳を訊かれると、<br>「いくつにみえる？」<br>　逆に探るような眼をして下から見返していた。一人でクツクツ笑いつつ、会話が終始ため口なので、マスタ－もこの娘はすこしおつむが弱いのではないか、そう思ったらしい。<br>　ぼくはカウンタ－に座って聞いていたが、なぜか彼女の襟足ばかりに眼がいった。おかっぱとまではいかないものの両耳があらわに出て、後ろ髪がざっくりⅤ字にカットしてある。青みの浮いた首筋にぽつぽつ剃り残しのあとがあった。女子高のときからの指定の髪型なのだろうが、同世代でそうした髪型の女の子をみたのは中学生以来ぼくはひさびさだった。<br>　マスタ－はめったに面接などしないから、どう対処したらいいのか戸惑っている様子だった。<br>「こっちは真面目に訊いてるんだからね……それで、住所はどの辺ですか、近いんですか？」<br>「どこだと思う？」<br>「う―ん」<br>　腕組みをして唸った後で、「オ－イだれか代わってくれえ」、言いながらマスタ－がスツ－ルを立つと、まわりで息をころして聞いていた若い常連客たちの間からどっと笑声が湧き起こった。まだ面接すら済まないうちから、チハルはもうぼくらの仲間になっていた。<br>　十九歳とはなんてもろくてあやうい年頃なんだろう。町の喫茶店とはいえ、そこでは金銭の授受が行われるわけだから社会の一部であるのに変わりはない。つい最近まで学校の塀のなかで暮らしていた未成年が連日、見知らぬ大人を相手に報酬をもらうようになる。店にくる、一人ひとりの大人がそれぞれ膨大な領土をもつ魔王にみえた。大人というのはこちらの出方ひとつ誤ると、思わぬいかずちを喰らうものだ。<br>　ぼくとチハルはまるで軒先に吊るされたガラス玉に泳ぐ金魚のようなものだった。水があり餌も与えられ、そこからは全方位の世界が見渡されるのだが自分の居場所が分からないのだ。<br><br>&nbsp; &nbsp;ぼくたちはよく&amp;#x9DD7;外図書館の閲覧室で待ち合わせをした。そして夜十時にチハルのバイトが終わるのを待って、ぼくは彼女を寮まで送っていった。<br>　千駄木町は本郷台地の東端にあたり、図書館のある薮下通りから道灌山へかけてが根津谷をのぞむ崖上の縁辺にあたっていた。団子坂を道灌山の方へ折れ、またひとつ路地を折れてしばらく行くと公園がある。園内の遊歩道はその急崖の傾斜に植わった木々の合間を縫って下り、池の縁をめぐって根津谷へと抜けられるようになっていた。<br>　崖上から下りていく途中、チハルは傍らのクスノキを見上げ、<br>「りっぱねえ……この木」<br>　そうため息をついて階段の中ほどにたたずんだ。下草を分けて木肌に抱きつきながら、「あたしが三人手をつないでも、とどかない」そう言って愉快そうに笑った。<br>「あたしの住んでいた町にも、近所にこんな大きな木があって、小さい頃からずっとその木の下を歩いて育ってきたから、こういう大きな木を見ると親しみがわくの……。あなたにも、そんな思い出の木ってある？」<br>「さあ。どうかな」<br>「みてこの枝振り。まるで柔道家やお相撲さんの腕っぷしのよう。こんなにたくましくって、たったひとりでお空を支えてるみたい」<br>　ぼくは自分がみるみる小さくなってゆくような心細さを覚えた。<br>「こ―んなにいっぱい葉っぱをつけて……。あなたも、この木のようなりっぱな人になってね」<br>　そんな言葉がぼくには羽虫の羽音ほどにしか聞こえない。<br>　チハルのめざす音大受験は、学科より実技の方を重視する。学校で学ぶ時間より与えられた課題の曲を暗譜する、一人でピアノに向かう時間の方が大切だった。その貴重な時間をさいて週三日だけバイトをするのも、「すこしでも親の負担を軽くするため」なのだそうで、落第ぎりぎりの成績でかろうじて高校を卒業し、ゆき場のないまま惰性で予備校に籍を置いて、ゲーム代欲しさにバイトをしているぼくとは人生の指針からして彼女の方がよほど立派でしっかりしていた。<br>　それからぼくは道行きをすこし急いだように思う。<br>　コンクリ－トの小橋があった。暗いなか意外な水量が音を立てて流れ下り、奥は何段かの滝になっていた。白い流れは組んだ大岩の上を飛沫をあげて下っていたが、はるか下方の池にそそぐ辺りでは、両岸の岩に水勢をそがれ水紋をゆるく引いていた。<br>「ここ。公園って感じじゃないみたい」<br>　ぼくたちは池まで下りずに、途中から崖上に出るようにつけられてある枝道に入っていった。階段を上りきるとそこが猫の額ほどの平坦地になっていた。見晴らし台にベンチがひとつ置いてある。木立を抜けてふいに現れた虚空の大きさに、<br>「わあっ……」<br>　とチハルは声を挙げた。<br>　園内のとぼしい外灯が池の中央にある弁財天の祠を赤く照らし出していた。つられて眺めいったとき、「将来は云々……」の話から解放されてぼくはほっと安堵した。ふたり眼下景に気をとられたこのひとときこそ、二つの心が肩を並べた初めではなかったろうか。<br>　生いしげる葉群のふところ深いやさしい闇と、夜空の群青と、足下のあやうく張りつめた夜陰のなかで、ぼくたちはたった二言か三言、確かめてしまうと他になにも語ることがなくなってしまった。<br>　公園の周辺は、広壮な家々の建ちならぶ閑静な住宅街だった。<br>　不忍通りの車道をゆく疾駆音が、夜空の遠いところにかすかにしていた。滝音はツツジの植え込みにさえぎられ、茂みの奥にくぐもって聞こえ、互いの息つ‘‘かいばかりが耳につく。ぼくは何やら雰囲気に流されてしまうことが怖くなって、いま二人が置かれている状況について無粋な考えをめぐらせていた。<br>（浪人なら、机にしがみついているのが当たり前のこの時期に……。真面目に勉強に取り組んでいる、日本中あまたの受験生からみたらぼくたちはどれほどの愚か者に映るだろう……）<br>　そのとき、左肩にずん、といきなり衝撃がのしかかってきた。ぼくは彼女の半身を受け止めながら、びっくりして先方を顧みた。チハルは身体をもたせかけ、先ほどと同じ意味合いの内容を今にも泣きだしそうな声音でつぶやくのだった。柔らかな上腕と乳房に押されながら、ぼくは頭の裏側がしびれ体中の血が奔騰し、どうしたらいいのか分からなかった。ただし静かな息つ‘‘かいを繰り返している、小鳥のような温もりがいとおしく、なるたけ男らしく見せようと意味もなく身構えているばかりだった。<br>　十九歳の彼女の重みが、同世代の自分には到底勝っているとしか思えなかった。自分に持ちこたえきれる代物じゃない、そんな危惧が漠然とぼくを捉えていた。ベンチで一つ影にまとまりながらぼくは再び先行きの分からない、心細る想いにおそわれていった。<br><br>&nbsp; &nbsp;チハルは東京の音楽専門学校に通ううち、日毎に女らしさを増していった。<br>　ファッションひとつ取ってみても、より美しく自分を引き立てる大人の服を選ぶようになった。それまでは首を絞め付けるようにきっちり止めていたブラウスのボタンがいつの日からか外されるようになり、ゆたかな白い胸元に細い金のネックレスを覗かせるようになった。なんだか唇が濡れているようにみえる。なんだか眼が大きくなったように感じる。しばらく逢えない日が続いたと思うと、肩まで伸ばした髪がベージュに染まって耳元からふんわりカールしてある。そうした容姿の洗練が、言葉つ‘‘かいやバイト先でのちょっとした所作にも現れていた。<br>&nbsp; &nbsp;そんなチハルを目の当たりにして、ぼくは自分の立場なぞ考えられなくなった。満ちてくる潮のような感情に、ぼくのほぼ全体は抗わず、自身を開け放して少しのためらいも感じなかった。じっさい彼女の想いに委ねてみると、恋は決して日常を脅かすようなものでもなかった。傾く側に素直に傾いた、自分の心情をぼくは嬉しく思った。<br>　けれどもチハルにもらった自信と潜勢力は、やがて僕の内であらぬ方角にむけて転がりだした。机上には参考書のかわり人生論の類が置かれるようになり、『ホワイト』でひとりジャズに聴き入る時間が多くなった。木田や年上の浪人生たちになぜ大学へ行くのかといった議論をふっかけ、常連の大人たちに交じりビールのコップを片手に談論風発してはばからない。<br>　なぜ大学に行くかより、今はどうしたら大学に入れるかだろう、年長者はそう言ってぼくを諭した。年の瀬も押し詰まるにつれ、けれども煮え切れずにいたぼくの内部でもようやく意思が固まってきた。つまりが幼稚園に入園して以来連綿として乗り継いできたこのレールから、ぼくは断然飛び降りることにした。そうした気持ちを木田は逃避だといった。両親にはむろん却下された。<br>　話の合う人合わない人、考えのずれから起こる気まずい沈黙、互いに譲らぬ平行線のままいよいよ会話が煮詰まると、彼らは一様にうんざりした顔をして言うのだった。<br>「親に食わしてもらっている分際で――」<br><br><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/sukai124/entry-12699430096.html</link>
<pubDate>Wed, 22 Sep 2021 11:01:06 +0900</pubDate>
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<title>みやこ落ち 一</title>
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<![CDATA[ <p>　あるじのいない机と椅子に、窓外からイチョウの枯枝を透かして冬の日射しがさしこんでいた。なにひとつ置かれていない机の天板に光があふれ返っている。<br>　受験シーズンが近つ“くにつれ、教室には空席が目立つようになった。学校を休む生徒の中には、願書の提出のほか自宅で不得意科目を勉強するため登校してこない者もいて、この時期では、教科書をすでに独習ですましている生徒が多かった。一方でぼくのように、微積分の応用問題なぞ亜空間をさまよう宇宙塵の如き感覚で聞いている者も何人かいて、各人のレベルに雲泥の差があったから授業そのものがあまり意味をなさなくなっていのだ。<br>　「継続は力なり」「自分に負けるな」「夏を制する者は受験を制す」そうしたスロ－ガンのもと、ぼくらは長い期間にわたり厳しいスケジュ－ルに追い立てられてきた。けれどもこれは本当に自分に克つための戦いなのだろうか。その戦いに参加することを望んでいるとするなら、ぼくはいつその意思表示を明確にしたと言えるだろう。<br>　山積みの課題で首が回らなっていた僕たちに、競争の意義を云々する余裕はなく、精神的なゆとりなど誰も持ち合わせてはいなかった。物心ついて以来、営々として築き上げてきた学歴をこの期に及んで手放そうなどと考えるものはなく、この頭脳競争に疑いを差しはさむ者すらほとんどいなかった。<br><br>　三年生になってすぐの頃、同級の田村という生徒が麻疹にかかった。入院してワクチンを打つというので学校を一週間近く休んだことがある。久々に登校してきた彼が期末テストでいつにない悪点を取ったとき、気の毒なので表向きは励ましながら、言い知れぬ愉悦が鬱勃と身内からこみ上げるのをぼくは抑えることができなかった。慰められる彼もまた、これまでに数々の級友を追い越してきた、身に覚えがあるのでこちらの優越が手に取るように解るのだ。交際すべき友人は同レベル以上の学力をもつ者に求めたく、追い越してしまえば彼もまた過去の点景人物になってしまう。脱落したものに忍びよる失墜の悲哀は、他人事ながらおぞましい。<br>　田村君は、競争の裏面の現実に呆然として立ち尽くしていた。そんな脱落者の卑屈な相貌が、上位にいる者たちの糧となり、血肉となって強者独存の活力となるのだ。「自己に克つ」この美称のもと、ぼくらはずいぶんと昔からやみくもに級友を蹴落としてきた。成績が優秀で進学がほぼ確定している優等生は、けれども底辺あたりであえいでいるエゴイストたちのおぞましさとは無縁だった。陰気な教室を出た陽のあたるあたる校庭で、竹林の七賢よろしくキャンパスライフなぞを語って哄笑しており、洋々たる前途とともに輝いてみえた。<br>　どうしても解けずにいる問題を休み時間に尋ねにいくと、優等生は絶大な友愛精神を発揮して親身になって教えてくれる。有り難いのだが、困っているぼくを何とかして救おうとする彼の至誠、無垢の善意が涙の出るほど自分に苦しいのだった。学力の劣っているぼくのために、自分の時間をさいて何ら拘泥するそぶりも見せない。学校では、みなの前で出題頻度のたかい重要構文を蛍光ペンでけばけばしく囲ってみせて、帰宅すると、ぼくらが見たこともないような何易度の高い問題集を夜に一人ひもといていたりするのだった。<br>　要するに優等生は、頭脳競争に参加していることすら意識するまでもなく、勝者然として人生の大道を歩んでいくのだろう。とすると否応なく踏み台にされたうえ、望んだ覚えのない競争の渦中、凡才同士傷つけあっているぼくらの日常とは一体いかほどのものであるのだろう。　<br>　この真相がうすぼんやりと見えてきたとき、ぼくは断然この日常からの堕落を決意した。どころか厚さ二センチもある歴史の教科書に載っている、年号を丸暗記するのに自分の脳を使うのが嫌になった。<br>　強い日射しがジリジリと校舎に照りつける、残暑きびしい二月期の試験日。静まり返った教室に居ならぶ坊主頭の全員が「自分に克つこと」に血眼になっていた。油蝉のやかましい共鳴が唸り続け、ぼくの頭は空白で両足をバケツに突っ込んでいた。歴史の試験が終了するまでの九十分間、ぼくは額からしたたる汗が紙に醜く滲んでいくさまを半睡半眼の体でにらみつけていた。<br>「あと五分」<br>　監督官の声を聞くや、解答用紙には『教科書を見よ』とだけ大書し、憤然としてぼくは教室を飛び出した。<br><br>　授業が休講になると軽音楽部の小屋に顔を出す。小屋では部長のシュウちゃんがたいてい一人でエレキギタ－をひていた。音が外に漏れてはまずいから、プラグを抜いたままつまびている。シュウちゃんも、来春の受験はすっかりあきらめた様子だった。部外者のぼくが小屋に来ても嫌な顔ひとつせず、かといって音楽の話をするでもない。ぼくはロツクミュ－ジシャンをほとんど知らなかったし、ギタ－テクニックもどこがすごいのだかピンとこない。そんな二人が小窓から射しこむ冬の薄日を浴びて、ひとつ屋根のもと向き合っていること自体、不思議といえば不思議だったが、どちらかというと行き場のないぼくがシュウちゃんの居場所に間借りしている格好だった。<br>　煤けた小屋の板壁にもたれ、ぼくはシュウちゃんの指先ばかりを見つめて過ごしていた。校舎から鐘の音が聞こえても、シュウちゃんはギタ－の教習本から顔も上げず、「次の授業なんだっけ……」そう独り言のようにつぶやいた。<br>「世界史だよ」<br>「うわ－っ、眠いな。休もうか。ここのフレ－ズ、あと少しでマスタ－できそうなんだ」<br>　たまに交わす二人の会話といったらその程度のものだ。そうしたシュウちゃんのそっけない態度がどうゆうわけだか、この頃ぼくには居心地のいい相手だったのだ。シュウちゃんの方でも、たまに珍しい冬鳥が小屋に羽を休めにやってくる、ツグミ程度の存在としてぼくを見ているようだった。<br>　授業が続けて休講と分かると、仕方なく教室に居残っている生徒を後にしてぼくはさっさと校門を出てしまう。<br><br>　地下鉄白山駅の構内から地上に出ると、住みなれた町の匂いをかいでぼくはようやく本来の自分に還ったような気分になった。木田という同級生の悪友と商店街を抜け、しばらく行くと駒込大観音の向かいに黄色い喫茶店『ホワイト』がある。<br>　マスタ－が店を始めて間もないので、客の個人的なことにはあまり口を挟まないものの、基本的に高校生は断っている様子だった。木田とぼくはいつも私服だったので、東洋大の学生だと思ったらしい。木田は夜となると学校近くの雀荘に出入りしており、ヘビ－スモ－カ－でつねに濃厚なピースの煙をくゆらせている、勝負師の妙に苦み走った面立ちをしていた。一方でぼくは頬の丸みも取れていない幼い童顔だ。　<br>　ある時、ぼくらのテーブルを露骨に窺いながらささやいている中年の二人連れがおり、それがどうも近所の私立高校の教師であるらしかった。席を立つと何事かマスタ－に問い質していた。するとマスタ－は頷きながらフライパンの火を止めて、カウンタ－を出、ぼくらのテーブルの前に来た。そしてどことなくこわばった面持ちで内緒話でもするように片手を口元に添え、<br>「君たち……高校生？」と訊いてきたのだ。<br>　ぼくはチクられたと思い、すうっと大人社会に足蹴にされたような虚脱を覚えた。顔の青ざめていくのが分かったが、木田がすこぶる低調のトーンでマスタ－の顔を真正面に見つつ、<br>「いや。違いますよ。俺もこいつも浪人生です。なんなら身分証出しましょうか？　免許証なら持っているから……」<br>　不快そうに言い放つと、<br>「いや、それはいい」手で制してマスタ－はそのまま調理場へ引き返していった。注文したブレンドが出されてからは、テレビゲ－ムに興じながら二人して濛々と煙草を吹かしていたが、木田の不機嫌はなかなか止まなかった。<br>　店内には１９５０年代のハードバップのレコ－ドが抑えめのボリュ－ムで流れていた。夜の都会の片隅にひとり置かれたような哀感にみち、どこか無機的で退廃的、それでいて温かな音色をもつトランペットがたびたびかけられており、それがどうやらマスタ－の好みであるらしいのが分かる。木田との会話がとぎれると、ぼくの心身はすっかりピアノやギタ－のアドリブ演奏にさらわれてしまった。これほどの猛烈な自己主張を、ぼくはそれまでに聴いたことがなかった。自由奔放に謳い上げるソリストの音色は表現する悦びにみちており、圧倒的な独自性を放って野鳥の生の声を聴くのと変わらない。それが作品としてレコ－ドに残されている、ということが驚きだったのだ。トイレへ向かう通路のわきには、フライパンで揮発した調理油をこってりと浴び、褐色に変色したレコ－ドジャケットが戸棚二段にわたってぎっしりしまわれてあった。<br>「失礼な店だ。出ようか」<br>　木田がどんなにフンガイしても、実際ぼくらが高校生であることに変わりはなかったが、日中は教科書を棒読みするだけの漢文でアクビを&amp;#x5699;み殺し、物理のおよそこの世のものとも思われない、意味不明な数式の異次元の如き空間をわびしくさまよってきたぼくらには、心身を健全な状態によびもどすための居場所がどうしても必要だったのだ。<br>　もっとも、千駄木町は地元なので幾度か店に出入りするうち、<br>「あら。あの子知ってるわよ」<br>　知ってることなら何でも口から出さずにはいられないチワワのようなオバサンがいてあっけなく正体がばれてしまった。店の従業員がマスタ－に告げると、「あいつらのことは、もういいよ」、ほっといてやろうという事になったので、それは一つにはぼくらの使うゲーム代が馬鹿にならない額に上ったからだが、もう一つの理由は、駅近くのファーストフ－ド店ではしゃぎ騒いでいる制服姿の高校生とはどこか様子が違う、そうマスタ－が見たらしかった。<br>　木田とぼくは、どんなことを話しているときでも、話の盛り上がりにつれ我を忘れるほど声高になる、ということがあまりなかった。<br>　そもそも何事かに熱くなるという傾向がない。単位を取得するためだけに行く学校生活には一年の頃から幻滅しており、自分の立場をあやうくしない程度には親や担任、それに周囲の大人たちの思惑といったものを敏感に計算に入れて行動していた。だから成算のない、過度の情熱に首を突っ込むというようなことがない。６０年代から７０年代にかけて吹き上がった学生運動の猛火はすっかり鎮静し、その余燼すらきれいに片付けられた後の８０年代、ぼくらはシラケの世代などと呼ばれたが、学生がいくら肩肘を張ったところで成せることはたかが知れている、そんなどこか無感動で索漠とした諦念が時代の空気としてかすかにあった。<br>　ぼくは腕組みをして瞑目し、ジャズの旋律に没入している。木田は麻雀ゲームに見入りながら、<br>「コンピュ－タ－なのに両面待ちよりカンチャン待ちの方があがれる確率がたかいのはなぜだろう……」<br>　などと独り言をいっている。そんな両人を見て、マスタ－も店から追い出す気にはならなかったのだろう。<br><br>&nbsp;　喫茶店で木田と別れてから自宅に戻り、二階の自室にこもっていると、母はよく前ぶれもなしに部屋の障子戸をいきなり開け放った。机上に置いた文庫本に目ざとく気つ”くと、<br>「なんだ。勉強してたんじゃないんだ。だったら電気もったいないから、消すね」<br>　そう言って階下へ下りていき、キッチンにある配電盤のブレ－カ－を落とし、二階の電気を消してしまう。目の前のスタンドから頭上の室内灯からがふっと消えて闇になる。初めてこれをやられたとき、ぼくは停電かと思ったが、それまでしていたことはすべて諦めなければならなかった。これを執拗に繰り返されると、まるでこちらの意思、あげくに存在までを全否定されたようなやりきれない気分に落ち込んでくる。それはどこか精神的な拷問に似ていた。<br>　中学生のころ、暮れの押し詰まった寒い夜、やはり母に不勉強をなじられて、家を叩き出されたことがある。三時間外をぶらぶらしたあとで家に戻つてみると、勝手口や風呂場の小窓まで抜かりなく鍵がしてあった。仕方なく二階の物干しで膝を抱えてふるえていると、隣家の娘の忍び笑いが洩れてきた。ぼくはたまらなくなって、ふたたび真夜中の舗道をさまよい歩いた。行き交う大人たちの怪訝そうな目付きが、そこでも自分をいたたまれない惨めさに追い込んでいった。<br>　それから人目を避けて近所の大学構内に逃れた。グラウンドの黒滔々たる闇に自己を遺棄してみると、身体の輪郭がだんだんに信用できなくなってくる。ぼくはそのとき、真実この肉体が世界のどこにも関与していない、不参加であることの恐怖を感じて、心神の平衡を意識的に保たずにはいられなかった。おもむろに手足を動かしてみたり、暗い非常階段を二三段上ってみたりした。<br>　頬をなぶるつめたい風に薄目をそっと開けたとき、ぼくはいつしか地震研究所の非常階段を上りつめて屋上の縁にきわどく佇んでいた。その場で眼をつむるのはだいぶ勇気のいることだった。これより一歩も先へ進む余地がないという絶望。その境涯に自らすすんで没入するということが、級友たちの顔がなつかしく蘇つてきてしまい、ぼくにはとうてい理解できなかった。自己の内奥を観るのに慣れた視覚に、足下にすっぱり切れ落ちているビルの遥か谷底は、無意識同然の闇に思えた。<br><br>&nbsp;&nbsp;<br>&nbsp;　思春期を迎える多くの青年がそうであるように、ぼくもまた過剰な自意識にさまざまな失態を繰り返してきた。それでもこの生命について今こそ真摯に問うのでなくては、この先何をするにしろ自己の中心を欠いた浮薄な生へ流されていくのではないか――そんな疑念をもっていた。自分は何をしにこの世に生まれてきたのか、沈思するほどしみじみ不思議に思われてくる――その疑念がもっとも奥深いところから湧き出してくる十代後半の今、長考するのでなくては一歩も前へ進めない気がした。<br>　漠とした難題にほてったぼくの脳はさしたるあてもなく図書館におもむき、思想や哲学といった高校生にはややむつかしい人文書を漁るようになった。三時間机に向かい理解できたのがたった数行であるにしろ、それらの金言はかつえた精神に慈雨のごとくに浸透した。<br>　クラスの話し相手を一人、また一人と失いながら、かきむしられるような不安と焦燥はそうした類の本でしか癒すことができなかった。独自性ということになれば決局は自分の力で産み出すしかない――そんな醒めた眼で学校の教科書の小山をみると、それらはとうてい無味乾燥な、自分とは縁のない冊子としか映らなかつた。<br><br>　ある晩、帰宅した父と母が激しく罵り合っているので階下の様子を見にいくと、配電盤の下で二人がもみ合いになっていた。高々と掲げた母の手にはペンチが握られており、それを父が奪おうとしていた。配電盤の中は灰色の電線の束がごっそり切断されてあった。母はなおも電話線を切るのだとわめき立て、ペンチを手放そうとしなかった。<br>　夜が更けて、階下がひっそり寝静まったころ、空腹を抱えてキッチンへ下りていくと八畳間にほのかな明かりが漏れていた。下半分がガラス張りになった障子戸から中を覗くと、畳に置いた懐中電灯の明かりのもと、母は片膝を立てて足の爪を切っていた。こちらに気つ‘‘くと電灯のスイッチをカチリと切って、闇の中じっと息をころしている。と、<br>「真っ暗なところにいれば自分のほんとうの気持ちに気つ‘‘くはずです」母はそう静かにつぶやいた。<br>　それからパチン、と爪切る音がした。<br><br>&nbsp;　ぼくの通う高校は都立校で、三年に進級するさい理数・文科に分けるクラス替えがあり、生徒の大半は進学を希望していた。入学した当初、ぼくは業者の学力テストでは学年で十二位で、クラスでは二番か三番の位置にいたのだったが、三年間でみるまに成績を落とし、卒業間際の時期には落第を免れるか否かという瀬戸際にいた。<br>　進路相談の指定日を記したプリントが配られたとき、ぼくはこの日が高校生活最大の修羅場になるなと覚悟していた。<br>　担任のいる体育館の教官室をノックして中に入ると、バスケットボ－ルやバレ－ボ－ルの革製品の匂いとともに男まさりの体臭が二人分、それに煙草の煙がまじりあい、一歩ふみこんですぐに異様な価値観におそわれた。ぼくはこうしたアクの強い、体育会系の体臭に免疫がなかった。にわかに色をなくし、うろたえているぼくの態度を教諭は一瞥するや、<br>「ああ……おまえのツラだけは見たくなかったよ」<br>　そう言って、連日の進路相談に疲弊した面立ちをあらわに浮かべ、椅子の背もたれにぐったりと上体をあずけた。<br>　教諭は、おまえの入れる大学がこの世にあるとも思えないが、行きたいところがあるのならかってに行け、という意味のことを聞き取りにくい小声で言った。それから中学以来ぼくの品行がいかに悪く、だめな人間であるのかを諭すというより、被告人の罪状を読み上げる検察官のような無表情で簡潔に述べた。嫌悪を通りこしてあきれ果て、このさい減刑でも何でもいいからサッサと行くところに行ってもらいたい、そんな気だるさだった。真剣に勉強に取り組んでいる、ほかの生徒にあてるべき貴重なな時間を一分でもぼくのために費やすことが非常な苛立ちであるらしく、うなだれているぼくの面前で怒りがあふれ語尾のふるえているのが分かった。<br>「おまえの場合、相談にもなんにもならないよ。おまえから訊きたいことがないんだったら、もう行っていい」<br>　退室を命じられ、一言もものをいわぬまま部屋を出ようとしたとき、<br>「ところでおまえ、昨日はどうして学校休んだ」<br>　そう声をかけられた。<br>　単位を落とす、ギリギリの日数まで授業をさぼるのは入学以来ぼくの習慣だったから、そのことについては言及されると思っていたのだ。学校へ行かなくなったのは、授業に出て教科書を読むのと家で寝転がって教科書を読むのとでさほど差がないと思ったからだが、そんな甘い言い訳をいまさら教諭の前で言っても仕方ない。ぼくはこの部屋に入ってすぐに、この人に何を言っても無駄だな、そうはなから諦めていたのだ。<br>　教官室のドアの向こう側で、生徒たちの叫ぶバスケットボ－ルのかけ声がしていた。体育館の床を踏みしだく音、ボールを追ってなだれこむ、幾人かの躍動感がそのまま足裏に伝わってきたとき、ぼくはふっと気持ちが軽くなり、<br>「昨日はミッドウエ－を見に行きました」<br>　そう答えていた。するとこちらに背を向けていた新人の体育教諭がおや、といった顔をして振り返り、<br>「ミッドウエ－って、横須賀港へか」<br>　とぼくに尋ねてきた。それからなぜミッドウエ－を見にいったか、見た感想はどうだったかと訊いてきた。それにぼくが応えようとしたとき、<br>「先生。こんなやこんな奴の話まともに聞いてちゃだめですよ。小宮山。おまえなんだって学校さぼって横須賀なんかに行くんだよ。行ったとして、おまえなんかがアメリカの戦艦見たところで……」<br>「先生、戦艦というより、ありゃ空母ですよ」<br>「そうですか、空母でしたか。先生よくご存じですな。その、空母とやらを見たところで世の中なんも変わりゃしないよ。学生の本分は勉強だろう。とくに三年生の今の時期、横須賀くんだりにぶらつく馬鹿がいるか。もういい、おまえのツラは見たくないと言ったろう。たくさんだ、行け」<br>　担任に手の甲であしらわれ、ぼくの進路相談はものの五分に満たないやりとりで終わった。</p>
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<link>https://ameblo.jp/sukai124/entry-12699429792.html</link>
<pubDate>Wed, 22 Sep 2021 10:59:20 +0900</pubDate>
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<title>みやこ落ち　あらすじ</title>
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<![CDATA[ <p>高校卒業間際の洋平は進路も定まらず悶々とした日々を送っていた。悪友の木田<br>と近所のきっさ店に入り浸り、先の見えない日常を持て余していた。そんな洋平を見かねた店のマスタ－は店の手伝いをするよう洋平にすすめ、彼は調理の仕事をするようになり、小金も貯めてようやく心理的に安どした。一方、彼の両親はあくまでも大学進学を迫ってくる。だが洋平は自身に致命的な勉学的決点があることを認識している。つまりほかの生徒より暗記能力が著しく劣っていた。そんな洋平からすると高校は修羅場に思え、家庭は地獄でふたたび彼の心は蝕まれていく。ある日洋平の窮状を知った親戚の叔父が東村山にあるアパ－トが開いているので、そこで暮らしてみたらどうか、と申し出があった。東村山には思いのほか自然が残されており、洋平は少しずつ精神の健康を取り戻していった。愉快な仲間にも出会っていったが、自分本来のあり方について、ふたたび思考を深化させていく。</p><p>&nbsp;</p><div class="ogpCard_root">&nbsp;</div><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/sukai124/entry-12699429003.html</link>
<pubDate>Wed, 22 Sep 2021 10:54:37 +0900</pubDate>
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