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<title>最後の言葉</title>
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<description>人がその人生を、終える時、その心で何を見ているのだろうか。私は、人の死期が、ちょっと、わかる。最後の言葉を、確かに聞いた、、。きっと誰でも聞く事が出来ると思う。私の体験を、できるだけ事実にもとづいて、語りたい。</description>
<language>ja</language>
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<title>父の兄「拓」</title>
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<![CDATA[ <p>父の兄｢拓」</p><p><br>拓は、フイリッピンで戦死した、まだ、２５歳ぐらいではなかっただろうか。<br>陸軍に所属していた。<br>おシズの次男である。</p><p><br>終戦後に、有田で焼かれたか、唐津で焼かれたか、瀬戸物でできた、お墓と、一緒に、送られてきたのであろうか、、家の者が焼き増ししたのであろうか、額に入った、拓の軍服の、遺影が仏壇横の鴨居でにこやかに微笑んでいる。</p><p><br>私の知ることのできるたった一枚の写真である。</p><p><br>ハツヨは、よく言っっていた。<br>｢父ちゃんより、だいぶ男前やったね～」<br>確かに、軍人の服に制帽は、大方の人を、数段かっこよく見せてくれる。</p><br><p>この小さな村の中でも、｢拓さんは、誰よりかっこよかった。｣　と、知る人はいう。<br>まだ若い青年である。</p><p><br>ハツヨは、毎日、御佛飯をあげながら、こんなことも言った。<br>｢父ちゃんは、海軍じゃきね、水兵帽にセーラー服、あの白い服がよかね、、。」<br>｢拓さんの隣に、並べんとね。」　と、自分の方が長生きするものと信じて、父の遺影のことを、しゃべっていた。</p><br><p><br>叔父「拓」　の、話は、いろんな人がしていく。</p><p><br>拓は、旧制中学の先生であった。<br>１７歳で、師範代に合格した。</p><p><br>その１７歳の少年は、そのまま、村の旧制中学の先生になった、、、。<br>１７歳の少年が、１４，５才の生徒の教鞭をとっていたのだ。<br>現在では考えられないことである。</p><p><br>それは、戦時下の特例ではない、、昔の日本では、今に言う　｢飛び級」　が、あった。<br>その拓先生の生徒だったという人が、今でも村には、結構健在でいる。</p><br><p><br>父は、よく言う。<br>｢兄貴は、勉強一筋、先生といえど、先生の給料なんか、ほんのちょっとしかない、、本や、参考書を買ったら、もうほとんどなかったよ。」<br>｢ミツシ、ちょっと小使いをくれんね、、。」　と、３歳も年下の俺から、お金を持っていった。<br>｢そのほとんどが、本代になっていった。」<br>｢俺は、勉強のことなどちっとも分らんたい、兄貴の本の１ページも開いてみたことがないっちゃね。」</p><br><p><br>父の従兄弟に、校長まで勤め上げて亡くなった人がいる。｛西先生｝</p><p><br>私たち兄妹も、その西先生に、｢英語」をおそわった。<br>西先生は「教頭」として、また、英語の教師として村の中学に来ていた。</p><p><br>西先生は、家にもよく来た、、その度に話をしていた。<br>「拓さんは、僕と同じ年、拓さんが、突然師範代を受けに行くと言い出したときは、子供の冗談だと思ったよ。」<br>「一発で、合格してきたつよ。」<br>「僕もずっと学校の先生になるのが夢だったからね、、拓さんに出来たのだから、自分も出来るって信じていたよ。」<br>「僕も拓さんに負けん位、勉強した、と、今でもおもっているよ。」<br>「僕は、高等科に行っていた、、拓さんは、旧制中学を出ただけだよ。」<br>「結局僕は、高等科を卒業して、２年も浪人して、やっと、師範代に合格したつよ。」<br>「今でも、、いつも、、追いつこう、追いつこう、と、、、僕は、拓さんが目標だった。」</p><br><p><br>この「西先生」は、教師としての最後に、「ナイジェリア」の、日本人学校の校長として、５年間赴任している。<br>帰国して、一冊の本を、自費出版した。<br>「ナイジェリアの民話、阿蘇の民話」<br>西先生は、本を持ってきて、、<br>「僕は、英語の教師一筋に、ずっと努力してきた、自分の英語力は、世界でどのくらい通じる物か、知りたかった、、、僕たちの世代では、誰にもまけんぐらい努力したつよ、、。でもまだまだやね、、」　と、笑っていた。</p><p><br>それから何年もしないうちに、亡くなられた。</p><br><p><br>叔父「拓」も、英語の教師をめざしていたのではないかと、思える。</p><p><br>私は、小学校の４年のころ、自分の部屋がほしくて、２階の、完成もしないまま物置になっていた部屋を、こつこつと片付け、掃除をした。</p><p><br>そこからは、どこから取り寄せていたのか、きれいに畳まれ、丁寧にくくられた英字新聞が、５個もあった。<br>当時９歳の私は、自分の部屋がほしいばかりで、自分に必要のないものは全部捨てた。</p><p><br>唯一つ、拓の作った文机だけを残した。<br>その文机は、１４歳で、実家を出るまで、私の勉強机になった。</p><p><br>今でも、実家のどこかにあるはずだ、、。<br>ひっくり返せば、そこに、製作日と、拓の名前が、濃い墨字で書かれている。</p><br><p><br>今から、１５年ぐらい前に、妹のヨシコが、１冊の科学の教科書を、持ち帰ってきた。<br>「役所の上司が、これをかえしますって、、もってこられた。」<br>拓先生に、お借りしていました、、と言う。</p><p><br>自分のなくした教科書の代わりに、拓先生が、貸してくれた、、。</p><p><br>こんなこともいったと言う。<br>「同じ苗字のあんたに会わなかったら、この本は僕に宝物のままだった、、拓先生は、僕たちと、３歳しか違わんかった、、僕たちの憧れだった。」</p><p><br>そういいながら、教科書のにおいをかいで、両手で、その存在を記憶するように、おしいだき、渡されたのだという。</p><p><br>科学の教科書といっても、中学高学年用ぐらいで、ページをめくると、小さな丁寧な字で、書き込みがいたるところにしてあった。</p><p><br>拓の、教師としての情熱が、十分すぎるほど伝わってくる。</p><p><br>父も、書き込みの字をなぞりながら、<br>「兄貴の字、、間違いなく兄貴の書いた字、、」　と、ゆっくりとページをめくった。</p><br><br><p>私の実家は、私が生まれた年に完成したと聞く。</p><p><br>戦死した拓は、その時はもうすでにいない、、拓の親である、おシズや福人は、拓の遺品でもある、英字新聞の束を大切に持ってきたのであろう、、。</p><p><br>でも、何も分らない、９歳の私は、捨ててしまった。<br>別に、田舎の家、、狭いわけではない、保管する場所は、どこにでもあったのに、私は捨てた、、。</p><br><br><p>今でも親しく、尋ねてきてくれる人の一人は、<br>「僕も、拓先生の生徒だったつよ、拓先生は、こわかったよ！、教壇におっても、子供が子供を教えているぐらいしか、年も離れとらんかったけどね、、。」<br>「今で言うたら、ヒーローやね、、女子も、男子も、みんなあこがれちょったよ。」<br>「少なからずとも、みんな、ちょっとは勉強したと思うよ。」<br>「この僕でさえ、いつもより、がんばったたい。」<br>と、今でも、お盆には、必ず、仏壇横の鴨居に掲げてある、拓の写真に手を合わせ、しばらく仰ぎ見て、そんな話をしてくれる。</p><br><br><p>一つの家系の中で、一人ぐらいは、知る人ぞ知る、「偉人」がいてもいいだろう。</p><p><br>一人ぐらいは、手放しで自慢できる人がいてもいいだろう、、。</p><p><br>その声も、その言葉も、その姿も、知ることはできないが、<br>拓の作った文机で、、拓が向かっていたその文机で、、</p><br><p><br>私も、小学校の３年間と中学校の２年間、そこで学習した、、。</p><br><br><br><br><br><br><br><p>＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊</p><br><p>「最後の言葉」</p><br><p>読んでいただきありがとうございました。</p><p>このオーロラの壁紙が、私の未熟さを、補ってくれたと、感謝しています。</p><p>次のものを書く用意は、出来ていますが、</p><p>このページは、このオーロラのまま残したい、、と、思っています。</p><br><p>壁紙を変えて</p><p>新しいブログネームで、再スタートします。</p><p>また、お会いできれば、幸いです。</p><br><p>＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊</p><br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/sumiko815k/entry-11253587703.html</link>
<pubDate>Fri, 18 May 2012 03:37:49 +0900</pubDate>
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<title>母今子の妹 「久子」</title>
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<![CDATA[ <p>母今子の妹、｢久子」</p><p><br>私が最後に叔母の久子に会ったのは、６月に亡くなった、母の初盆の前ではないかと思う。</p><p><br>母今子が亡くなった時、私は３歳９ヶ月、、、育て母ハツヨが嫁の来たのが５才になったばかり、、その１年２ヶ月間、自分達がどのように生活してきたのかは、残念なことに、まったく覚えていない。</p><p><br>そんな自分が唯一記憶にあるののが、久子とのほんの１０分ぐらいのことだけである。<br>大人になって、さらに今現在回想してみると、、、、</p><p><br>久子は、明らかに人がたくさん集まる時を避けていたと思える。<br>朝のバスで来て、夕方のバスで帰っていった、、そんな感じであった。</p><p><br>台所に立っている様子もイメージできない、、、<br>兄たちと話している絵も浮かんでこない、、、<br>家に誰もいた記憶がない、いつもいるはずのおシズの姿さえ、思い出せない、。</p><br><p><br>そんな中で、ほんとに唯一つ、覚えていることの一つ、、、</p><br><p>昔の実家は、お風呂が別棟になっていた、建物は地面より、２０cmほど盛り土をして、建ててある。<br>母屋と、湯殿との間はわずか、４mほどしか離れていないが、、雨が降った時など、地面に下りなくていいように、渡し板がしてあった。</p><p><br>その渡し板は、通り道だけにするのでなく、いろんなことに役に立っていた。<br>農作業後の道具を洗う台になったり、土のついた野菜を洗う台になったり、、</p><p><br>一日の終わりを、その幅６０cmの、長さ４mぐらいの板は、ずっと私たちを見てきた、。</p><br><p><br>その、渡し板の上にパンツ一つで立たされた私は、久子に、「たわし」で、ごしごしとこすられていた。<br>その時の久子の言葉、、</p><p><br>｢田舎の子は、ほんと汚い、、」</p><p><br>と、笑顔も、優しい言葉一つも、、、まったく覚えていない、、。<br>覚えてていることは、４歳になろうとする私にも、「屈辱｣　だと、感じたその　｢田舎の子は、ほんと汚い」という言葉と、<br>「たわし」で、こすられる、痛さを我慢したことだけである。</p><p><br>私は汚かったわけではない、、７月、８月の夏である、、、足や手が、日に焼けていて黒いのは、当然である。<br>その日焼けした、手や足は、特に何回もごしごしと、こすられた。</p><p><br>痛さに身をすくめると、ぐいっと引っ張られて、さらにごしごしこすりながら<br>｢田舎の子は、ほんと汚い、、。」<br>を、独り言のように、はき捨てるように何回も、つぶやいた。</p><br><p>叔母「久子」は<br>兄たちが、学校から帰ってくるのも、父が、仕事から帰ってくるのも、待ってはいなかった、、、</p><p><br>ともにご飯を食べた記憶も、優しい言葉の一つも思い出せない、、。<br>どんな後姿を見せて帰っていったのかも、まったく頭に浮かんでこない。</p><p><br>そんな私が、もう一つ記憶していたことがある、、、<br>久子の職業、、「スチィワーデス」　当時の私には、あの空を飛んでいる飛行機の中で、どんな仕事をするのか、まったくの謎であった。</p><p><br>当時は、まだ、スチィワーデスなどという言葉も普及していたわけでも、職業として今のように確立されていたわけではなかっただろうと思う。</p><p><br>航空会社も、全日空や、JALのようなところではなかった。<br>おぼろげながら思い出せるのは、歩いてきたときの姿、、、<br>うちまきヘアーに、紺色のタイトスカートのスーツ、、<br>それは、制服だったのではないかと、今では思える。</p><p><br>あこがれたことも、、、同じ　｢血」を持つ心が、恋しいと思ったこともない。<br>それ以後、一度も、会うことはなかった。</p><br><br><br><p><br>母今子の妹「久子」で、思い出したこと、、、、</p><p><br>４歳の誕生日を間近に控えた私の心を傷つけたその屈辱の言葉、、</p><br><p><br>｢田舎の子は、ほんと汚い」<br></p><br><p>その言葉と、湯殿の渡し板の上の、パンツ一枚の小さな自分、、、。</p><br><br><br><br><br><br><br><br><p><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/sumiko815k/entry-11245668421.html</link>
<pubDate>Wed, 09 May 2012 01:38:06 +0900</pubDate>
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<title>最後に、、、、</title>
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<![CDATA[ <p>最後に</p><br><p>私は、私とかかわりのあった人や、心に残っている人達の、私の聞いた　「最後の言葉」　を、つづってきた。</p><br><p><br>ちょっとしたきっかけで、バンコクで仕事をすることになり、単身赴任の私には、思いがけない、自分の時間が、たくさんできた。</p><p><br>人生折り返し地点もだいぶ過ぎて、自分の思いを一つのテーマを通して記録してきた。<br>それは自分自身ということではなく、過去帳のようなものとして、残しておきたかった。</p><p><br>私と、　『血』　を、共有する人たちに、その過去の人達の記憶も、伝えたいと思った。</p><br><br><p><br>ただ漠然と、未熟すぎる作文に、毎回、１００人ぐらいの人たちが、定期に読んでくれた事、に感謝している。</p><p>１００人といえど私にとってはすごいことである、顔も知らない、あったこともない人たち、、、<br>誰かか読んでくれていることで、途中で放棄することもなく、書くことができた。</p><p><br>私は、こんな物を書いていることを、誰にも知らせていない。<br>知る方法はいくつもあるだろう、、が、自分から伝える意思はない。</p><p><br>まだ現存の人のことを書くのは、素人の私ではとても、難しい、、、<br>だけど、真実に基づいて、ありのままを、記述してきたつもりである。</p><br><p><br>後、二編を書けば、完了する、｢最後の言葉」、、</p><br><br><p>ただ、もう９０歳になった、父だけは、読んでほしいと思っている。<br>近い日に、これをもって、実家の阿蘇へ、、、、父に会いに行くつもりでいる。</p><p><br>私と、この思いを、共有できることを信じているし、まだまだ聞きたいこともたくさんある、、、父の想いなども織り込んで、、今一度、挑んでみようと思っている。</p><p><br>事実はもとより　、「９０年の人生を、こんことを思い、こんな心で生きてきた、、、」　と、父の生の声で聞き、その表情を見て、、父の　「残してほしい言葉」　で、、綴ってみたい、、。</p><br><p><br>私の知っている、５８年の日本のごく普通の生活、、過疎の村の生活、、人がたくさんいる都会だけが、日本ではない、、、高度成長期の真っ只中で、生きてきたその時間の変化も、、、、、残せただろうか。</p><br><br><p>番外二編</p><p><br>叔父｢拓」</p><p><br>今子の妹「久子」</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/sumiko815k/entry-11238998797.html</link>
<pubDate>Tue, 01 May 2012 23:56:15 +0900</pubDate>
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<title>母今子、最後の言葉　『ありがとう』</title>
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<![CDATA[ <p>母今子の５０回忌は、本命日にした。</p><p><br>身内だけで、ひっそりと、するつもりだったが、従兄弟たちも、まったく今子を知らない、ハツヨのほうの、従兄弟たちも来てくれた。</p><p><br>今子が集めたのでないだろうかと思えた。</p><p><br>今子の話など、何もしないで、２０人の親戚たちは、楽しく飲んで大いに食べた。<br>５０回忌が出来ることは、ある意味お祝いだと思っている。</p><br><p><br>母今子は、３２歳で死んだ、、気になることもたくさんあっただろう、、、。<br>私たちはみんなこんなに、元気だよ！！</p><p><br>３歳９ヶ月だった私は、もうじき５４歳になるよ。</p><p><br>哲夫の誕生日の日に亡くなったのを覚えていますか？母ちゃん！。<br>今日は哲夫の、５７歳の誕生日だよ。</p><p><br>父ちゃんは、８３歳のおじいさんだけど、元気だよ。</p><p><br>卓夫は、来年の誕生日が来ると、定年退職で、ここに戻ってくるよ。</p><p><br>みんな、ごらんのとおり元気でここまで来たよ！！<br>これからも、こんな感じで、みんなで暮らして、いくよ。</p><p><br>私も、父ちゃんも、兄貴たちも、母ちゃんのこと思っていない日などなかった。<br>これからだって忘れない、、。</p><p><br>母ちゃんを知っている人は、私のことを「今子さんに顔も、声も、そっくり」　だと、言うよ。<br>きっと、私の中で、私と同じ年を重ねているよね。</p><br><p><br>私は、今まで私とかかわった人の最後の言葉を、聞いてきた、、。</p><br><p><br>そして、私は、母ちゃんの最後の言葉、確かに聴いたよ！。</p><br><p>３２歳の母ちゃんは、健康な立派な骨だった、、、。<br>何かがあって、家の中の事故で、肋骨を折ってしまった、、その折れた２本の肋骨は、心臓を直撃した、、それが、即死の状況に至ったこと、、</p><p><br>それが今回、今子の５０回忌に合わせて墓を新しくするために骨揚げをして、わかった事、、、</p><br><p>私も、父ちゃんも、母今子のお骨とともに、最高の言葉を聞いた、、、、</p><p><br>３２歳の、妻今子、母今子の　『香り』　を、言葉の代わりに、その声の代わりに、残してくれた。<br>私は、その墓地いっぱいに広がった『香り』とともに、</p><p><br>確かに聞いたよ、、</p><p><br>『ありがとう！！』　と、、、</p><p><br>母ちゃん！、母ちゃんは、母ちゃんそっくりの私の中で、これからも私とともに年をとっていこうね、、</p><p><br>私は、まだまだ残されたたくさんの時間を、きっと、面白く楽しく、自分の思ったように生きていくよ！。<br>母ちゃんと一緒だと思うと、心強いしうれしいよ！。</p><p><br>母ちゃんの大好きな父ちゃんも、母ちゃんと同じぐらい大事にするからね。</p><br><p><br>私も、今、心から、初めて言います。</p><br><br><p>『ありがとう！』　</p><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/sumiko815k/entry-11233579961.html</link>
<pubDate>Thu, 26 Apr 2012 01:56:55 +0900</pubDate>
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<title>母今子の妹　「佐和子」</title>
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<![CDATA[ <p>兄、哲夫は、どのような経路で、母今子の末の妹佐和子にたどり着いたのかは聞いていない。</p><p><br>私は、不思議にも、久子と、佐和子の名前を、思い出した。<br>母今子は、３人姉妹、、私の記憶の中には、母の母「祖母」と、母今子を含めて、その４人しか、記憶にない。</p><p>それも、ほとんど写真のように切り取られた記憶でしかない、、。</p><p><br>だが、家には一枚の写真もない、、私の記憶の中だけの一つの表情でしか過ぎない。</p><p><br>写真いたっては、母今子のものですら、２枚しか残っていない。<br>玄関前で白い前掛けではにかみ笑う母、、、<br>３歳の私をひざに、微笑む母、、、</p><p><br>兄、哲夫は、今回の墓地の件と、母今子の５０回忌にと、その名刺よりやや大きめのセピア色の白黒写真を、写真屋さんに持ち込んで、引き伸ばし、焼き増しをして、私にくれた。</p><br><p>そして、同じく、叔母である、久子と佐和子にも、５０回忌の法要をこめて渡したいと思ったのだそうだ、、。</p><br><p>もちろん、嫁いで、姓も変わっているはずだが、、、、、私は、母今子の実家の姓も知らない、、、、</p><p><br>兄、哲夫は、尋ねていった。<br>兄の持っている限りの、卓夫と、自分と、私の、時折々の写真と、今子の写真を手に尋ねたのだという。</p><p><br>佐和子は、私の写真を食い入るように見ながら、<br>「姉さんにそっくり、、」だと、つぶやいたという。</p><p><br>だが、その７０歳位であろう、叔母佐和子は、兄哲夫にこんな風に言ったという。<br>「てっちゃんが、子育ても終わって、もう何も心配するようなことがなくなったら、そのときまた会おう、、そのときいろいろ話そうね。」<br>そして、久子の住所も所在も教えてくれる、ようすではなかったという、、、</p><p><br>そのとき、<br>「こんなのを作ってくれた親戚がいるとよ、私の分あげる、、」<br>って、もらってきた、、と、兄哲夫は、ぼそぼそと話した。<br>父も、そのアルバムをぱらぱらとめくって見ただけで、何も言わなかった。</p><p><br>兄哲夫も、多くを語らなかった。</p><p><br>私は、ただ無性に悔しかった。</p><p><br>私の中では、まだ２０歳そこそこの、ロングヘアーの巻き毛の、優しそうな笑顔の、佐和子が、音を立てて壊れていくようであった。</p><p><br>母今子が亡くなってから、佐和子は一度も来ていない、、、。<br>母今子の死に、不信があるのは、そんなことは、当時３歳９ヶ月の私ですら、感じていた。</p><p><br>だが、、もう５０回忌を迎えようという今日を、私たちは生きてきた、、、。</p><p><br>それは忘れたわけではない、、どうでもいいことだと思ってきたわけではない、、みんな懸命に生きてきたのだ。<br>私たち家族だけではない、従兄弟や、親戚の人だって同じだ、、いろんなことに、時折折りに、声を書け、助け合い、励まし、慰め、許しあい、今日を生きてきたのだ、、、。</p><p><br>『父や、兄たちの次に、濃い血のつながりを持ちながら、、あなたたちは、３歳９ヶ月のまだ小さなの私に、何をしてくれたのか、、、、この５０年の間に、あなた方は、叔母として、何をしてくれたのか、、』</p><p><br>『母が恋しいだけの、小さな私たち兄妹は、、あなたたちに何をしたというのか、、』</p><p>『妻を亡くした父が、あなたたちに何かしたというのか！！』</p><br><p>『いかなる事実をあなた方が知っていようとも、墓参り一つ、仏壇参り一つしない、、、母今子はあなたたちの姉ではないのか、、、』</p><p><br>『もう私の家系は、ここに、この場所に、一世紀もの間、住んでいるのだ、、あなたたちだって、ここから中学校に通ったのではないか、、、』</p><p><br>『私たちは、もう５０年の年月を、まっとうに、まっすぐ生きてきた、、、母今子の死因をあなた方が知っているかもしれない、、、あなた方しか知らないことかもしれないが、、、いまさら叔母の顔して、語らないで、、、』</p><p><br>『やっとさがして、尋ねていった兄に、あなたは、優しさのつもりで、そんな言い方をしたのか！！』<br>『心配事がなくなった残された人生に、さらに新たな疑惑を残そうというのか、、』</p><br><br><br><p>ただ無性に悔しかった。</p><p><br>父は、アルバムの今子のページを見つめて、<br>「こげな立派なもんを作ったのに、、、写真ぐらい知らせてくれば、送ってやったのに、、俺の写真はよか、、今子と子供の写真ぐらい、名前だけでなく、ちゃんとした写真を載せてやれば、よかったのに、、、うちは、住所も昔のままなのにのう、、、」<br>と、ぼそぼそと言った。</p><p><br>妹のミツコは、私とは異母姉妹、初めて聞く話ばかりに、ただただ、だまって、立ち入ることを、控えていた。</p><br><p><br>何事も、ドラマや小説のようにはいかない、、</p><p><br>そこには、在りし日の、母にそっくりな、母の妹が、、、両手を広げて待っていたはずであったのに、、、。</p><br><p><br>たぶん、兄哲夫も、二度と佐和子を訪ねていくことはないであろう、、。</p><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><p><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/sumiko815k/entry-11230998272.html</link>
<pubDate>Mon, 23 Apr 2012 03:38:37 +0900</pubDate>
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<title>一冊の「家系図」</title>
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<![CDATA[ <p>来る土曜日の午前中に開眼をした。</p><p><br>実家のほうでは、お彼岸のお参りはあまり習慣がない、お寺の住職も、とりわけ忙しいわけでもない。</p><p><br>大分の哲夫も、家を出た妹のヨシコも、同じ村に住む従兄弟も、みんな家族で来てくれた。</p><p><br>それぞれに、新しいスタイルの墓を、品定めをして、、、、<br>それぞれに手を合わせてくれた。</p><p><br>ご住職は、<br>「『俱会一処』みんなで、極楽に行きましょう、、ですから、どなたがこのお墓に入られてもいいんですよ。」<br>と、みんなに話をして、帰られた。</p><p><br>従兄弟は、墓碑を作っていないことを、何回も繰り返していたが、私も説明するのも面倒なので、<br>「お金ができたら、そのうち作るね。」　と、答えておいた、、が、<br>作る気持ちはまったくなかった。</p><p><br>第一、これから先、何事にも経済的にと思って作り替えたのに、埋葬者があるたびに、名前を刻むのには、それなりの費用も、動力もいることになる。</p><p><br>先祖があって、今の自分達があることもよく分かっているつもりである。<br>が、時代が変わっても同じ気持ちで、同じことが出来るとは、とても思えない。</p><p><br>先祖への思いも、この私ですら、おシズや父とは、かなり違う、、それが、子や孫や続いていく子孫には、負担になることも、多々おきてくるであろうと、思っている、、。</p><p><br>不況日本の、現状は、お墓を持たない、、と決めている人もよく聞く、、、<br>散骨、、海に撒いてほしい、、山に撒いてほしい、、などとよく聞く、、。<br>だが、、誰が、、どこに、、どんな時に、撒きに行くのか？<br>そんなことを、しなければいけない子孫の気持ちも考えたい、、。</p><p><br>そんな時に、お骨を堂々と収納しておける場所が、ここにある。</p><p><br>ここから、みんなで、、極楽浄土に行けばいい、、、だから、あえて、個人を特定したくない、、<br>それが、私の真意なのである。</p><p><br>精神論は、１日かけても、１年かけても、納得できない人には、その気持ちを共有することは出来ない。<br>議論しないことが得策である。</p><br><p><br>その日、兄哲夫は、一冊のアルバムを持ってきた。</p><p><br>みんなが帰った夜に、出してきた。<br>それは、アルバムの形式になった、家計図であった。</p><p><br>そのアルバムになった、家計図の終わりのほうに、５００円玉サイズの私の写真が、あった、、、。</p><p><br>母、今子の若かりし日のピンボケの写真と、まだ３歳の私の写真、、、父も、兄たちの写真もなく名前だけが、そこには書かれていた。</p><p><br>母、今子の実家筋の誰かの記念に作られた、家計図なのだそうだ。</p><p><br>兄、哲夫は、今度の新しくする墓のことを知らせたい人が、いたという。</p><p><br>母今子には、２人の妹がいた。<br>その末の妹は、兄の住む、比較的近くに住んでいることが分かったらしい。</p><p><br>まだ、４歳に満たなかった私でも、記憶しているぐらいであるから、もう小学生になっていた兄には、立派な、「叔母と、甥」の関係が築かれていたと思う。</p><p>が、母今子がなくなってから、まったく会っていない、、。</p><p><br>今まで、誰もそこには、触れることはなかった。</p><p><br>あまり裕福でなかったらしい今子の実家、、その妹たちは、父ミツシのもとから、中学に通ったと聞いている。<br>そんな間柄でありながら、今子の死後、まったくの絶縁状態なのである。</p><br><br><p><br>兄は、ひっそりと、そのアルバムを出して、私のページを見せた。</p><br><br><br><br><br><br><br><p><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/sumiko815k/entry-11226590980.html</link>
<pubDate>Wed, 18 Apr 2012 18:26:40 +0900</pubDate>
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<title>新しい墓　「納骨」</title>
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<![CDATA[ <p>翌朝は、真冬並みの冷え込みであった。</p><p><br>現場から、一番若い彼が帰ってきた。</p><p><br>「バケツと、ひしゃくと、ポリ容器ありますか。」<br>「昨日、現場に持っていったのは、使えないです。」<br>「ガチガチに凍っている、バケツの水の中で、ひしゃくも、氷と一体化していま～～す。」　　と、この高原の早春を、面白がっていた。</p><p><br>このごろ、ひしゃくなど普通の家にはない。<br>酒好きのセイちゃんが飲み干した、４リットルの焼酎のペットボトルを、５本と、手ごろなボールとバケツ、渡してあげた。<br>コンクリートが練れればいいはずだ。</p><br><p><br>父はポツリと、<br>「みんな、仏壇の前でよかったない、、。」と、独り言のようにいった。</p><br><p><br>そんな日でも、段取りよく予定を進めて、明日は、据付をを、すれば、完成である。</p><p><br>職人さんたちは、温泉も気に入ったらしく、さっさと支度をして、みんなで、行っててくれた。<br>ミツコと私は、ゆっくりと、晩御飯の支度ができる。</p><p><br>村の農家の人たちは、私たちが帰っているのを知ると、自分達が作っている野菜を、入れ替わり立ち代り持って来てくれる。<br>取れたての、高原ブランド野菜は、大阪から来たこの人たちも、美味しいといってくれた。<br>自分が作ったのではないが、過疎の村の、高原野菜は、私の自慢でもある。<br></p><p>石匠は、「スミちゃん達は、ずうっと、田舎者やね。」と、「うらやましい。」とも、いった。</p><p><br>そんな野菜の数々が、食卓の味も、話も、にぎやかにしてくれた。</p><br><p><br>翌日は、春らしい、暖かな日になった。</p><p><br>石の据付も、怪我もなく、事故もなく、無事に終わり、みんな一通りほっとした、安堵感を見せた。</p><p><br>今夜一晩、時間経過を見て、職人さんたちは、トラックで、明日の朝は、陸路で大阪に帰るという。<br>次の仕事がまっている、引き止めるわけにはいかない。</p><p><br>石匠は、<br>「僕が一人で、フエリーで帰るんか～～」<br>「こんな毎日宴会やっていたのに、寂しすぎるやん。」<br>「セイちゃんは、いつ帰る？」<br>「僕は、あさって、、。」　などと、子供みたいな押し問答に末、<br>セイちゃんは、「家まで送ってやる」という言葉で、石匠と帰ることにした。</p><p><br>石匠は、彼岸は忙しい、小坊主として、檀家参りもしなくてはいけない。</p><p><br>それに、車は、残った私たちのために、一台置といてほしかった。</p><p>話がまとまれば、また酒の量も増える。</p><br><p><br>翌朝、早々に、みんなで、墓地に行った。</p><p><br>まだ肌寒い空気の中で、新しい墓は、堂々たる姿をしていた。<br>地震や、地質、掃除などのことを考えて、低い新しいスタイルにした。</p><p><br>まだ開眼をしていないので、仏石はさらしをまいたままである。</p><p><br>納骨をして、開眼の日に始めて、さらしを解く、それは、、、、<br>もともと入るべき人以外を、先に入れないためだと、私は解釈している。</p><p><br>まだ納骨も開眼もしていない墓は、ただの物にしか過ぎない。<br>花も、線香も、ろうそく、もない。</p><p><br>父は、満足げに、<br>「みんな、ご苦労さんやったね。こげに立派なもんを作ってもろうて、ありがとうございました。」<br>と、深々と頭を下げた。</p><br><p><br>職人さんたちは、朝ごはんを済ませると、帰り支度に取り掛かった。</p><p><br>農家の人たちは、予定を知っていたかのように、取れたての野菜を、コンテナで持ってくる。<br>「持って帰らんね、ご近所にもわけてはいよ！。」と、いう。</p><p><br>方言が分らない、、、</p><p><br>ミツコが、「みんなに、お土産って、近所の人に差し上げてって、。］と、通訳した。<br>職人さんたちは、嫌がるかなと思ったが、喜んで貰っていた。</p><p><br>私とミツコも、「ハイ！弁当、、ドライブインで、ほかのもん食べたいやろうけど、、捨てたらいかんよ！！」　と、洗ったイチゴも、ワンパック添えて、渡した。</p><p><br>若者には、初めての、田舎体験だったと思う。<br>きっと、コンビニが懐かしくなったころだろう、、嬉しそうに、帰っていった。</p><br><p><br>１０時のコーヒーを飲みながら、石匠は、午前中に、納骨をするという。</p><p><br>「スミちゃん、昨日墓地で、骨壷を探したけど、何処に置いたの？」<br>父が、すかさず、「向こうの家の、仏壇の前。」　と、答えた。</p><p><br>「え～～、持って帰ったら、いかんとよ！。」</p><p><br>「あげ～なとこに、よう置ききらんかったたい。」<br></p><br><p>石匠は、笑いながら、<br>「死んだ人は、二度と、家には戻ったらいかんとよ。」<br>「探してもないはずやね、、。」　と、さらに笑っていた。</p><p><br>私たちは、それとはなしに、そんなことも分ってはいた。<br>だから、仏壇の前にお骨を並べたことも、誰も、口にしなかった。</p><p><br>仏の道に外れたことをしていることを、、、いたずらした子供が、ばれないように、ちょっと隠し事をしている感じだった。</p><p><br>お茶を済ませて、写経や、さらしの袋を持って、もちろん仏壇の前のお骨もまたそれぞれの胸に抱えて、、、<br>今度は、花も、線香も、ろうそくも、用意した。</p><p><br>開眼はまだだが、納骨をする、、それぐらいは、いいに決まっている、、。<br></p><br><p>今度こそ、二度と帰らぬ道を、墓地へと、みんなで、ピクニックにでも行くがのように、春の日を、歩いた。</p><br><p><br>写経を敷き、奥列に、蓮蔵じいさんとご先祖、坂梨の、祖祖母と靖男大叔父とご先祖、</p><p><br>前列に、孫九郎、一郎、拓、福人、今子、シズ、ハツヨ、と、先に亡くなった者から順に、骨壷からさらしの袋に移して、おさめた。</p><p><br>母今子の、骨壷からは、まだ、かすかに、「母のにおい」　が、していた。</p><p><br>その香りをかぎながら、<br>｛私も、この香りに包まれて、眠りたい。｝と、ひそかに思った。</p><p><br>坂梨の墓地の、靖男大叔父が、「お母さんのところに埋葬してほしい、。」と、遺言したその気持ちが、分るような気がした。</p><p><br>骨壷は、ただの容器になった、、石匠が、処分してくれるという。<br>石匠は、すべての仕事を終えて、開眼に用意する物などを、伝授してくれた。</p><br><p><br>昼ごはんをすまして、石匠は、やっぱり、いただいた野菜を車に積み込み、<br></p><p>セイちゃんは、フエリー食べる、晩御飯の弁当と、お楽しみの焼酎を持って、２時過ぎには家を出た。</p><p><br>石匠は、帰り際に、「大阪から、わざわざ来た甲斐がありました、いい仕事ができた、、。」　といってくれた。<br></p><br><br><p>天気も上々、、やまなみハイウェーも、もう春、いい景色が広がっているだろう、、。</p><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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<pubDate>Thu, 05 Apr 2012 00:53:11 +0900</pubDate>
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<title>初めての親孝行　「写経」</title>
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<![CDATA[ <p>翌朝は、かなり冷え込んでいた。</p><p><br>３月も彼岸といえど、阿蘇の山中は、普段でも寒い。</p><p><br>みんなは、のんびりなどしていなかった。<br>さっさと朝ごはんを済ますと、８：００には現場に出かけていった。</p><p><br>一番若い２０歳の彼は、ポリタンクに水を入れながら、石匠に、<br>「夕べ、セイちゃんは、一郎さんが来るって、言ってましたが、誰も来ませんでしたね。」<br>「そうか、、現場にいったら分るよ。」　と、こんな会話をしていた。</p><br><p><br>私とミツコは、今日は、写経をすることを決めていた。</p><p><br>浄土真宗は、骨壷のままでは埋葬しない。<br>さらしの袋に、お骨を移して、納骨する。</p><p><br>『土に返る』、、、骨壷のままでは、土に返れない、、、。</p><p><br>お墓の納骨堂の中も、床面には、コンクリートを打たない、、。<br>水はけのことなども考えて、砂利、砂、まさ土などで整地する、一番表面は、まさ土だと、記憶している。</p><p><br>その土の上に直におくのである。</p><p><br>私は、納骨を初めてしたのは、主人の父であった。</p><p><br>お墓を立ててくれた、友達は、<br>「スミちゃん、納骨までにはまだ日があるから、写経をしたらどう、、。」<br>と勧めてくれた。</p><p><br>主人の母のときも、写経をした。</p><p><br>死んで、火葬をして、骨になったといえど、、、『土に返る』、ことは十分理解しているが、、<br>土の上に直には、冷たいであろうと、、私にできる、形ある最後の、ことであるように、思ったのだ。</p><p><br>今度も、直接、形ある何かができる、一度っきりの、私とミツコの気持ち、、、</p><br><p>写経といえど、浄土真宗の正信偈は、般若心経の３倍ぐらいある、、長いのだ。<br>だが、一人２枚は書きたい。<br>静まり返った、コタツで、筆を進めていた。</p><br><p>父は、傍らで静かにじっと見ていた。</p><p><br>ミツコは、「父ちゃんも、書いてやらんね。」<br>父も、「書いてやりたいのう、、、」<br>「もうそげな、ちいさか字は、書ききらん。」　と、ミツコの筆先を見ていた。</p><br><p><br>６人のお骨と、叔父拓の土と、他の２箇所の墓地の、それぞれの土の袋は、私とミツコの、正信偈の写経を、座布団に、肩を並べてくれるだろう、、。</p><p><br>さらしの袋は、ミツコが大阪で、全部を、手縫いで縫ってくれた。</p><p><br>これから先も、仏壇にお参りはするだろう、、墓参りもするだろう、、、だが、直接この手で何かが出来るのは、これが最初で最後、、、</p><p><br>私は、自分を産んでくれた母今子に、やっとできる、親孝行だと思っている。</p><p><br>その日は、さして気温の上がらず、みんな昼ごはんもそこそこに現場に戻り、１日分の工程を進めた。<br>３時ごろから雷が鳴り始め、あられに、氷まで、激しく降った。<br>早々に１日分の、現場仕事を終えて、みんな帰ってきた。</p><br><p><br>私は、セイちゃんに、みんなを温泉に案内するようにだのんだ。<br>このあたりは、３０分も車を走らせれば、立派な温泉施設があちこちにある。</p><p><br>父は、すでに温泉行きの用意を自分で済ませていた。</p><p><br>ミツコと私は、その間に、晩ご飯の用意をする。</p><br><p><br>温泉でさっぱりしてきたみんなは、コタツを陣取り、出来た料理に手を伸ばし、ビールを飲み、焼酎を飲み、</p><p>今夜もにぎやかだ。</p><br><p><br>一番若い彼は、唐突に思い出したように、<br>「セイちゃん、冗談が過ぎますよ！、一郎さん、今日、墓地にいましたよ！」<br>と、酔いのまわった赤い顔で、笑っていた。</p><br><br><br><br><br><br><p><br></p>
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<pubDate>Sun, 01 Apr 2012 01:31:33 +0900</pubDate>
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<title>お墓から、我が家へ</title>
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<![CDATA[ <p>骨壷には名前をメモ書きして、骨壷の蓋につけた。</p><p><br>業者は、仏石を残して土台石は、掘った穴に、全部埋めた。</p><p><br>私は、墓の石は、そういうのを引き取ってくれるところに、持っていったほうがいいのでは、と言ったが、<br>石匠は、<br>｢ここにおいて置く方がいいよ、墓地は墓地以外に、ほかに使うことはないから、、、元の所に、返しておこう。」</p><p><br>私もよく考えてみたら、もっともだと思った。<br>どこか分らないところで、粗末の扱われろより、ここがいいに決まっている。</p><p><br>業者は、土台石を土中に戻し、きれいに整地した。<br>墓地は、何事もなかったように、整然としていた。</p><p><br>仏石は墓地の上座に寄り添うように、立てた、、、<br>今まで同様、お釈迦様の生まれたほう、インドの方角であろう方に向けた。</p><p><br>土台を亡くした、仏石は、とても身軽そうに見え、長年の孤立を、とかれたようだった。<br>一家団欒を、楽しんでいるかのようにさえ、見えた。</p><p><br>業者は、仕事を済ませると、段取りよく片づけを済ませて、帰っていった。<br></p><p>ミツコ夫婦と、父と私だけになった、、音もしない墓地は、夕暮れも伴って、急に寂しくなった。<br>三月も、彼岸のころだといえど、阿蘇の山中は日が落ちると、一気に寒くなってくる。</p><br><p><br>私たちは、目の前に並んだ小さな白い骨壷を、見ていた。</p><br><p><br>私は、言った。<br>｢もって帰ろう、、こんなところに置いておくわけにもいかんやろ。」<br>「今までは、土の中やったけど、いきなり掘り出されて、ここは夜は寂しすぎるし、寒すぎる、、持って帰ろう！。」<br>誰も反対しなかった。</p><p><br>私は、母今子と、祖父福人を、胸に抱えた。</p><p><br>父は、母おシズと、兄一郎を小脇に抱えた。<br>ミツコは、母ハツヨと、祖祖父孫九郎を、胸に抱えていた。<br>セイちゃんは、土だけしか入っていない、伯父拓を、抱えていた。<br></p><br><p>ご先祖は、村の人に担がれて、二度と後戻りしない、、と、通った道を、それぞれの胸に抱かれ、家へと戻っている。</p><br><p><br>阿蘇の三月は、畑仕事にはまだ早い、日暮れ時に誰に会うこともない。<br>骨壷を抱えた、変な家族を誰に見られることもない、、。</p><p><br>みんな、なぜか晴れ晴れと、していた。</p><br><p><br>この話し声は、この胸の母にも聞こえているだろうか、、、。</p><br><br><p>実家の仏壇の前に、7つの骨壷を並べた。<br>父は、｢久しぶりの我が家は、みんな、なつかしかろ。」と、つぶやいた。</p><br><br><p>大阪から一緒に来た、石匠も、職人さん3人も、明日からの工事に使う砂やセメントを、現場に下ろして、帰ってきた。</p><p><br>みんな、セイちゃんの家で、泊まってくれるという。<br>その夜は、大宴会となった。</p><p><br>ハンターの従兄弟が害獣駆除で、しとめた猪の、骨付き肉は、従兄弟に教わって、ミツコが、ここにつくとすぐに、下ごしらえをした。</p><p><br>従兄弟は　｢都会の者は、こげなもん食べるやるやろか？。」　と、心配していたが、<br>石匠は、『ジビエ』　だと、喜んだ。</p><p><br>従兄弟の心配にも及ばず、その素人がさばいた、ぶった切っただけの骨付肉に、かぶりついて食べた。</p><p><br>肉を食べつくして、骨だけになたのを、かざして、<br>「今日掘った骨は、もう少し大きかった。」とか、「動物も、人も、骨はあんまり変わらんね。」　とか、、誰もが経験することではないであろう、今日の一日を、飲んで、食べて、談笑した。</p><p><br></p><p>お酒もだいぶ入ったころ、セイちゃんは、「一郎さんが来ている。」と、いう。</p><p><br>父は、「そうね、」、と、にこやかに、微笑んでいたが、それ以上の言葉は、なにもなかった。</p><p><br>誰もそのことに、大して触れようとはしない。<br>そんなこともあるだろう、、と、誰もが、思っていたからだ。</p><br><br><p><br>だが、歓迎することはできない、、、それが、「生」と、「死」、、、死んだ人は、どのように死のうとも、この世に、未練を残してはいけないのだ、、。</p><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><p><br></p>
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<pubDate>Tue, 27 Mar 2012 09:48:39 +0900</pubDate>
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<title>母、今子の、香りの記憶</title>
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<![CDATA[ <p>実母今子は、私が、後二ヶ月ぐらいで4歳というころに、急死した。</p><p><br>私と父は、大分に、父の仕事を兼ねて泊まりで、出かけていた。</p><p><br>父は、過疎の村育ちの私たちを、自分が連れて行ける限り、仕事でも都会に連れて行ってくれた。</p><p>そのときも、そんな時の、出来事であった。</p><p><br>夜中の出来事に、電報で、母の死を知らされた、、。<br>翌朝、始発列車で、家に帰る、、、</p><p><br>自分が大きくなるにつれて、｢母にいったい何が起きたのか？。」　という、疑問が、常に頭の中から離れなかった。<br>自分も子供から大人になり、年を重ねるごとに、疑惑も大きくなってくる。</p><p><br>それとなしに、祖母おシズや、家にいた、兄たちにも聞いては見るが、「わからない？。」という。<br>本当に知らないのか、何か隠しているのか、、、、。</p><p><br>それは、その時そばにいなかった父も、同じ疑問である、と、思っている。</p><p><br>今回、墓を新しくするために、　「遺体を掘り起こす｣　ことに、一も、二もなく賛成ししたのは、父である。<br>もちろん、兄たちにも知らせをしたし、集まりやすい土曜日にしたが、どちらもこなった。</p><p><br>別に、私は攻めているのではない、、、</p><p><br>母今子は、寝棺で埋葬されている。<br>業者に、表面の土を丁寧に取り除いていってもらった。</p><p><br>｢骨が見えてきましたよ。」　と、声が、かかる。<br>業者の人には、休んでもらった。</p><p>私と父で、考古学者のようにはいかないが、小さなシャベルで、丁寧に掘った。</p><p><br>ミツコ夫婦と、業者はその間に、堀出した骨を、一人ずつ混じらないように、その場で、野焼きで火葬にした。</p><p><br>父は、｢俺が、足元から掘ろう、スミは、頭の方から、ほってやれ、、。」　と、いう。</p><p><br>母今子だけは、大きな敷物を用意した、そこに、指先の小さな骨も一つ残らず拾った。</p><p>33歳になったばかりの母今子の、骨は、理科実験室にある人体模型のように、しっかりした骨であった。</p><br><p><br>胸元まで掘ったとき、初めて副葬品が、出てきた。<br>その副葬品を見て、涙がポロポロこぼれてきた、、父も、手を休めてしばらくそれを、見ていた。<br>父も私も、何も、言葉がでてこなかった、、。</p><br><p><br>私は、そっと土からはずし、丁寧に土をふき取り、頭蓋骨の横に固定するように、置いた。</p><p><br>化粧水のビンには、まだ、淡い黄色の化粧水が、三分の二ぐらい、はいっていた。<br>リキットタイプのフアンデーションは、半分ぐらい、今でも使えそうなとろみと、色を、保っていた。<br>口紅は探したが、見当たらない、、<br>櫛も出てきた。</p><br><p><br>33歳という若さで死んだ、母今子にふさわしい、副葬品に、埋葬時の思いが、十分伝わってきて、うれしかった。</p><br><p><br>肋骨部分を、一本一本確かめるように拾っては、丁寧に土を落とした。<br>その左側の肋骨の2本が、青竹を折ったように、折れていた、、、。</p><p><br>父に見せた、父も手にとって、じっと見つめて、こっくりとうなずいた。</p><p><br>業者の人たちにはあまり知られたくない、私も父も、言葉を交わすようなことはなかった。</p><p><br>病気をすることのないような、若くて健康な女性が、血を流すこともなく、即死に近い死因って、なんだろうと、ずっと思ってきた。</p><p><br>この折れた肋骨が、心臓を直撃したのだろう。</p><p><br>素人の私が見ても、こんな折れ方をするような、家の中での事故って、、何なか、、それも夜中に、、、そんなことを思いながら、、ほかの骨も一つずつ、見逃さないように、確認しながら、掘った。</p><p><br>父は、｢もう、無かごつあるね。｣　と、腰を伸ばした。</p><p><br>私も父も、穴から出てきて、母今子の骨を、敷物ごと動かそうとしたとき、化粧水のビンが倒れてしまった。</p><p><br>掘ったときは、プラスチックの蓋しっかりあった、、50年、、、、</p><p>半世紀、土の中で密封されていた、プラスチックは、外気に触れて、空気に気化するように、なくなっていった。<br>リキットファンデーションの蓋も、プラスチックの櫛も、、消え入りそうにもろくなっていた。<br>あわてて起こした、、、が、、化粧水は、もうビンの底に、1cmほどになってしまった。</p><br><p><br>だが、その墓地一帯は、その化粧水の芳しい香料の匂いが、、、充満した。</p><p><br>その場にいた人が、皆無言で立ち上がり、わずかに、天を仰いだ。</p><p><br>そよ風が来て、その香りを、実家の方向に、持っていってしまった。</p><p><br>私は、、父は、、、母今子の記憶の一つに、　｢母、匂い｣　を、追加することができた。<br>そして、母今子は、心残りであったであろう、4歳に満たないわが子と、、、</p><p>かなり気に入っていたという夫のミツシに、最後の別れと、礼をこめて、生きた香りを残していったのだ、、。</p><p><br>その澄んだ香りは、私の記憶の香りの中で、最高に清い香りの記憶となった。<br>同時に、母も、「もう十分だよ、忘れなさい、ありがとう、。」　と、言ってる気がした。</p><p><br>この墓地の中で、一番立派なしっかりした骨だった。</p><p><br>火葬を済ませて、父と私で、小さくなった骨を、一かけ残らず、骨壷に収めた。<br>化粧水も、ファンデーションも、わずかになった櫛も、骨壷の中に入れた。</p><br><p><br>｢私より、ずっと若い母ちゃんだから、化粧品は必需品やろ。」　と、父と顔を、見合わせた。<br>父も、何かが吹っ切れた、清々しい、笑顔を、見せていた。</p><br><p><br>私が、墓を新しくしたかった、一番大きな理由であった。</p><br><br><br><br><br><br><p><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/sumiko815k/entry-11199964413.html</link>
<pubDate>Thu, 22 Mar 2012 05:18:51 +0900</pubDate>
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