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<title>仙台食べ歩きノート</title>
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<description>暇さえあれば、食べ歩き。ときどき、幸せなのか、不幸なのか分からなくなってきます･･･　</description>
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<title>温泉場で働くということ</title>
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<![CDATA[ <p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">温泉場の仕事。温泉場という場所。私はなにかに引っ張られるようにこの場所にやってきた。やりがいであったり、自分の能力を試したいなどというもっともらしい理由、そういったことにはまるで興味ない。ただ、温泉場にいたかっただけだ。これが自分にとっての「温泉場で働く」というイメージでもある。正直、自分が既定の路線から外れていくであろうという予感はすでに２０歳のころから薄々感じていて、すでにそのころからこのイメージを、漠然としたものではあったが、抱いていたような気がする。決して記憶の美化ということではない。こう考えなくては自分自身を維持することができなくなるのではないかという危機感がこの傾向へと向かわしめた。</span><span style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">朝７時半、ゴミ捨てから仕事が始まる。チェックアウトを終わらせたら、館内の清掃。さらにクモの巣除去等の雑用を午前中いっぱい行う。オーソドックスな旅館業務であり、単純作業の連続。単純作業を苦痛だとする向きも多いかと思うが、私はそうは思わない。それどころか、この午前中にこそ、私が職業に求めてきた価値的なものが具現化されているような気がする。その価値的なものとは、一言で表現するならば、純粋な時間。オーソドックスだからこそ顕現する純粋さ。温泉場の醍醐味ではなかろうか。あと、一日の仕事が終わったとのお風呂。反則なくらい純粋だ。</span><span style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">純粋な時間には目的がない。将来何かを達成するために現在があるという思考形式とは無縁のものである。目的に縛られない時間意識。時間の先に何も存在しないということだ。つまり、過ぎゆくことのみ。季節が過ぎゆくとはよく使われるフレーズだが、まさにそのイメージといったところか。過ぎゆくこと自体にある種の美を意識する感覚と密接な関係にあるのではないかとも思う。</span><span style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin"><br></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">とは言うものの、人の意識形態というものは目的から完全に自由になることなど不可能に違いない。そういう意味においては、目的に支配された時間意識からの開放など、単なる幻想なのかもしれない。どう解決したらいいものだろうか。無論、純粋な時間という発想自体を無効にする必要は全くない。純粋な時間を目的化すればよいだけのことである。哲学において手段を目的化する発想はしばし見受けられる。ヘーゲルの弁証法などその典型ではなかろうか。もちろん、結局は目的となると言ったところで、こういう時間が客観的に存在しているという意味ではないし、時間の形而上学を提示しているわけでもない。私自身がこういう時間感覚のなかにあってはじめて人並みに生活できるという、ただそれだけのことだ。私があんなに哲学を求め続けたのも、根本的に純粋な時間と密接な関係があったのではないかと、今ではそう思っている。過ぎゆくことが目的を何らかの形で孕まざるをえないとしたら、純粋な時間は死と無関係ではいられないのではないかと、そんな気もする。人間が目的から完全に自由になれないのも、死がなんらかの形で絡んでいるからなのかもしれない。</span><span style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin"><br></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">どういうときに純粋な時間を体感できるのだろうか。この問いは、結局のところ、純粋な時間を感じるにはどういう環境に身を置くべきかという観点からのアプローチと不可分である。人間はそもそも社会的存在であるはずで、ならば、社会関係（環境）という視点を外すわけにはいかない。意識のあり方によってのみ実践的解決を目指すには相当な無理があることを再認する必要があろう。</span><span style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin"><br></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">過ぎゆくことのみを感じることのできる場をひたすら探し続けてきた。それが自分にとっての温泉場である。そういう意味での温泉場はまさに私にとって楽園でもある。しかし、場所というものは自分自身の意識のみで形成されるほど甘くはない。職場の論理であったり、職場の関係であったり、様々な要因が介在してくる。その要因から自由になることなど不可能。こういう言い方をすると、いかにもそういった要因を否定しているようにも聞こえるかもしれないが決してそういうことではない。そういう要因を抱え込んで生活するしかないのだ。そういう要因に不寛容なこともあるだろうし、うまく折り合いをつけられることもあろう。どちらが良い悪いの問題ではない。単なる偶然の問題なのだ。たとえ折り合いをつけられないからといって、悲観する必要はない。そういう事実をきちんと受け入れ、別の場所を探せばいいだけの話である。純粋な時間は肯定そのもの。不本意な状況ですら肯定へと向かわしめる。だからといって、不本意の肯定が不本意を忍従せよという実践と結びつくわけでは全くない。肯定はあくまである種の忘却機能でしかない。つまり、忘却機能が十分に働かない具体的状況も考えられるわけで、そのときには別の場所を探すことが有効な実践となろう。</span><span style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt" lang="EN-US"><br></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin"><br></span></p><p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">働き始めてはや６ヶ月。いろんな事情を抱えてやってきたわけだが、少し考えもまとまってきた。あらゆる出来事が何らかのサインである。要するに、次の展開を考える時期が来たと、今、強く思う。</span><span style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt" lang="EN-US"><br></span><br></p><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/suppi1632/entry-11228423621.html</link>
<pubDate>Fri, 20 Apr 2012 20:16:15 +0900</pubDate>
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<title>てんぷら</title>
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<![CDATA[ <p>火曜日に肘折の丸屋に行ってきた。震災プランがあって、格安。お気に入りの旅館だったけれども、改装で値段がかなりアップしてしまい、改装以降は一度も行かず。格安だからと言って、食事に手を抜いているわけでもなく、非常に良かった。いつもこんな感じだったら最高なんだけど、まぁ、そうもいくまい。</p><br><p>旅館の食事なのだが、非常に参考になった。席に着くと、旬の山菜が４、５品とメインの山形牛が並んでいる。山形牛は鉄板で自ら焼くという形式。部屋のレベルを考えると、これだけでも十分な内容だったのだが、途中に出来立てのてんぷらが運ばれてきた。〆はご飯とみそ汁。さらにデザート。文句なし。そのなかでも特に私はてんぷらに反応した。山菜てんぷら。特に高級な材料を使っているというわけではない。しかし、存在感があるというか、気持ちを持っていかれてしまった。</p><br><p>山形牛が華であることは間違いない。だからと言って、それ以外のサブが単にメインを際立たせるだけの脇役かというと決してそうではなかった。脇役たちにはキッチリとメッセージ性があったように思う。地産、山菜、旬等々。私が第一に注目したいのは言うまでもなく旬である。メッセージとしての旬。てんぷらにとりわけ心動かされたのは旬のメッセージをこのてんぷらに最も強く感じたからだ。</p><br><p>「旬」という概念には、私達が日常的かつ無意識的に採用してしまっている「メイン＞サブ」という図式を、さっくり相対化してしまう力が備わっている。メイン勝負は技術戦とほぼ同義。技術戦に巻き込まれるならば私のもつ条件では圧倒的に不利な立場に追い込まれるのは明らか。とにかく技術戦だけは避けたい。つまり、技術戦ではなく価値観を。この方向性が「旬」概念の本質である。</p><br><p>「旬」概念を具体化するメニューは今のところ３種類を考えている。漬物、みそ汁、おひたし。みそ汁としたが、旬の素材を使ったみそ汁ということである。この３種類はどれも普段は副菜扱いである。しかし、「旬」という観点から見れば十分主役になりうると考えている。ちなみに私の場合自炊が食事の７割を占めている。基本的に野菜を多く取ることを心掛けているので、自炊の知恵というか、野菜たっぷりのみそ汁がメインになることも多い。簡単にできるおひたしや保存のきく漬物もほぼ毎回登場する。言うまでもなく位置づけはみそ汁とほぼ対等である。逆に一般的にメインとされる料理のほうがオマケ的な扱い。というより、メインは少々手間がかかるのでそもそもあまり作らないというか。</p><br><p>う～ん、やっぱり４種類かな。丸屋から大いに学んだてんぷらも加えたい。少しメイン度が高くなるような気もするが、素材の風味を引き立てるべくさらっと揚げるイメージを大切にしたい。このイメージこそ「旬」だという気がするのだが、どうだろう。</p><br><br><br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/suppi1632/entry-10876441324.html</link>
<pubDate>Fri, 29 Apr 2011 16:09:57 +0900</pubDate>
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<title>やきそば</title>
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<![CDATA[ <p>焼きそばを食べている。カップめんの焼きそばなのだが。それにしても、焼きそばはうまい。ビールと焼きそばのコンビなど、何物にも代えがたい組み合わせだ。特にソ－ス焼きそば。もちろん定番に加入。この焼きそばに関しては、頭脳戦よりもガツンと行きたい感じがする。北京餃子のごとく大盛りなんてどうだろう。</p><br><p>焼きそばと一緒にグラタンも食べた。冷凍のやつ。食べながらつくづく思ったのだが、このあたりもバランス的に外せない一品かなと思う。定番として。</p><br><p>旬料理の内容に関して具体的な展開は今からの予定だが、基本的にあっさりした傾向になるかと思う。ならば、定番は「腹にたまるもの」をしっかり準備するつもりだ。定番という言い方からするとまさにここが全体構成の基本のように感じられるだろうが、実は違っていたりする。あくまで旬が基本で、そのリスク管理として定番。微妙な変化球だが、案外、おもしろいところなのかもしれない。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/suppi1632/entry-10871646387.html</link>
<pubDate>Sun, 24 Apr 2011 22:21:02 +0900</pubDate>
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<title>カレー</title>
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<![CDATA[ <p>今日はカレーを作った。材料はヨークのたたき売りで買った挽肉、玉ねぎ、にんじん、ジャガイモ。まずはそれらをザザァ～ッといため、ひたひたに水を張って約１５分煮た。火を消した状態で市販のカレー粉をどさっと入れ、ある程度溶けたところを弱火でコツっと煮て終了。ごく普通のカレーで特に特徴があるわけでもないのだが、強いてあげるならば、カレー粉がオリエンタル即席カレーなるもので、よくあるブロック型ではなく粉のやつ。かと言って、普通に１００円ショップで買っただけの話で、こだわったわけでもなんでもない。ブロック型に比べるとさらっとした味だったかな。</p><br><p>それにしても、最近はカレー流行りだよなぁ。エススタイルでもこないだ特集を組んでいたっけ。カレーたちの饗宴というか、まさに百花繚乱の様。個人的にはグミや４０計画のカレーがおもしろいと思ったのだが。特に４０計画は味も盛り付けも独特で群を抜いているという感じだった。</p><br><p>やっぱりカレーも頭脳戦だよな。味にいかにひねりを加え、盛り付けをいかに面白く見せるか。定番というより流行の観点からメニューに加えると面白いかもしれない。</p><br><p>今日は森民のお酒(純米)を飲んでいる。荒町の蔵だ。割とすっきりしていて、飲みやすい。米の香がほのかに残るところがたまらない。震災で超お気に入りのぐいのみを割ってしまった。まっ白い生地に赤い唐草が一面に配してある。香蘭社製の陶磁器だ。結構高いやつなのだが、どうしてもあきらめきれずまた買いに行ってきた。藤崎まで。早速このぐいのみを使うべく、お酒を用意したというわけだ。それはそうと、伊万里風唐草ファンの私は食器にも少しこういう要素を加えたいなどと考えていたりする。実はオークション等で少しづつ買い集めていたりするのだが。</p>
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<link>https://ameblo.jp/suppi1632/entry-10869491519.html</link>
<pubDate>Fri, 22 Apr 2011 22:35:02 +0900</pubDate>
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<title>ハンバーグ考</title>
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<![CDATA[ <p>ラカームでハンバーグライスを食べた。お客さんの入りはいつも通り。なんだかほっとする。それにしても街を歩いていると、５００円ランチの多さに驚く。厳しい状況なんだなぁと、つくづく感じる。</p><br><p>ハンバーグライスは「ライスは大盛りでも大丈夫ですよぉ」ということだったので、大盛りを注文。なかなかすごい大盛りだった。こりゃ食えないと一瞬思ったくらい。でも汗をふきふき、涙目で完食。写真がないのが残念だけど、盛り付け方が大変参考になる。ワンプレート。ご飯が下に敷いてあって、その上にポテトサラダ、ソースたっぷりのハンバーグ、ベーコン、レタスの４種類がどさっとのかっている。見た瞬間、直感的に「お～っ」と思う。参考どころか、この方向性は検討しなければというくらいの勢いだ。さらに小鉢のサラダとみそ汁。フル型スペシャルだ。食後はコーヒーも出てくる。８５０円。人気なのも当然か。</p><br><p>この店は女性客が圧倒的に多い。間違いなくハンバーグを主力とする店。しかもボリュームたっぷりのハンバーグがでてくる。もっと男性客が多くてもよさそうなものだが。店の雰囲気は８０年代に流行ったペンションみたい。スキーが終わったあと、ひと風呂浴びて、なんかお腹すいたなぁってところにあったかいハンバーグがでてきたみたいな。こぎれいな奥さんがいそうなというか、家庭的でかわいい感じのする内装だ。</p><br><p>ハンバーグの味にも注目。おいしいと評価を受けているハンバーグは一般的にプロの味であるケースが多い。例えば、サフランのハンバーグなどが典型的。いかにも熟練の味だ。しかし、ラカームは若干味の位相が異なる。店の雰囲気同様、家庭的なのだ。要するに、母ちゃんの味。私が子供だったころ最高のごちそうと言えば筆頭はハンバーグだった。母ちゃん達は腕によりをかけてハンバーグを作ったものだ。数ヶ月前に久しぶりに実家へ帰って２週間ほど滞在したのだが、２週間も滞在すると必然的に「なんか食べたいものある？」という話になる。私は迷わず｢ハンバーグ｣と答えた。というか、答えてしまった。で、母親はニヤニヤしながらハンバーグを作るという感じになるわけだ。ぶっちゃけ、うちのハンバーグはうまい。</p><br><p>味の評価は実に多様だ。プロ級の味ばかりが求められるのでもない。結局、味というものは戦略なのかもしれない。そう考えると、技術のレベルに委縮する必要など全くないわけで、今現在の技術が及ぶ範囲内で堂々と戦略を練れば特に問題は生じないはずだ。</p><br><p>ハンバーグはやっぱり定番から外せないかな。１品追加。少々種類があってもいいかもしれない。とにかくハンバーグは頭脳戦だという気がする。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/suppi1632/entry-10868476706.html</link>
<pubDate>Thu, 21 Apr 2011 20:20:57 +0900</pubDate>
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<title>鯵のフライ</title>
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<![CDATA[ <p>光に行ってきた。一度このブログでも紹介したことのある店。今日で４回目になる。メニューは定食中心で、どれを注文してもハーフ型スペシャル。ボリュームがあって、それなりにおいしい。栄養のバランスも取れている。今日は鯵フライ定食を食べた。店でさばいた鯵をそのまま揚げたフライだった。お腹がかなり減っていたせいもあったのか、特においしいと感じた。まさに揚げ物の威力を堪能した感じ。</p><br><p>ここのメニューはどれも定番中の定番ばかり。野菜炒め定食、レバニラ定食、ナポリタン等々。今どきのおしゃれなネーミングなどとは全く無縁。店自体が特に気取りもない昔の喫茶店風。感じのいいご夫婦がやっていらっしゃる。なんだかすべてが実直そのもの。日常性における最良の部分がにじみ出ている感じ。何の特徴もないように感じてしまう定番。しかし、私はそんな定番にすごい魅力を感じる。静かながらも芯のあるメッセージが込められているような。</p><br><p>情報化が高度に達成されている社会において、言うまでもないことだが、メッセージ性の欠如した情報は量のうちに埋没してしまいかねない。つまり、ただ提供するということでなく、メッセージを付与しながら提供するという</p><p>ことでなければ、私の持つ様々な条件を考慮する限り、生き残りは困難だということになる。そういう意味で昨日述べた｢旬｣も非常に有効な概念だ。ある意味、｢旬｣は思想の領域に達しているのではあるまいか。例えば、お茶、俳句、歳時記等々、どれにあっても旬は重要な位置を占めている。</p><br><p>定番メニューに揚げ物は欠かせない。今日の鯵フライが妙においしかったもので、鯵フライを揚げ物定番に加えたい衝動に駆られている。が、もう少し考えたいところだ。帰り道、近くの肉屋からビーフコロッケとハムカツを買ってきた。ここのコロッケは結構うまい。店の前を通るときにはつい買ってしまう、そんなコロッケである。やっぱり揚げ物はコロッケだ。メッセージ力のあるコロッケ。目指したいものだ。１品追加。</p>
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<link>https://ameblo.jp/suppi1632/entry-10867779636.html</link>
<pubDate>Wed, 20 Apr 2011 22:41:04 +0900</pubDate>
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<title>定番</title>
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<![CDATA[ <p>今日から実践的なメニュー構成を考えていきたい。最初のうちはひたすら試論の連続、ひたすら変更の連続になるかと思うが、粘り強く取り組んでいきたい。。</p><br><p>（1）　定番　（２）　独創　（３）　流行　(４)　旬　(５)　セット</p><br><p>とりあえずメニュー構成の契機を５点あげてみた。ポイントはこれらの契機をいかに有効に組み込むことにあるかと思う。(４)に「旬」を取り上げたが、私的にはここがメインコンセプトになると考えている。そもそも「旬」概念は料理の一部に含意されているものだ。つまり、料理は「旬」の素材でつくられるのが最も標準的なあり方である。その観点からするとわざわざここを取り上げることに疑問を感じる向きもあろう。あまりにも普通すぎるのではないかと。しかし、ここには強力なメッセージが存在しているように思う。</p><br><p>料理をまずは国籍別にとらえてみよう。日本料理、フランス料理、イタリア料理等。料理界全般を見渡すときにはこの国籍別という観点が非常に有効であるように思われる。国籍が分類の端緒となるという意味で。ここを軸に据えると、家庭料理、創作料理、無国籍料理等、これらのジャンルの位相がおぼろげながら見えてくる。つまり、国籍があいまいな概念群なのである。「旬」料理も国籍があいまいである。だからと言って、家庭料理、創作料理に埋没してしまうわけでもない。なんだか独自の領域を想定できそうである。ここが魅力なのだ。</p><br><p>そもそも「旬」は日本料理の場で頻繁に語られる概念である。だからと言って、日本料理のみに従属的であるとする必要は決してないように思う。フランス料理にもイタリア料理にも旬という概念は明らかに存在するわけで、あくまで日本料理と特に相性が合うという理解で構わないのではなかろうか。そういう限定的な意味ではあるが、日本料理からの独立宣言、こういう観点から「旬」をとらえるのも有効であるかと思う。ターゲット的に比較するならば、日本料理というジャンルには特有の敷居の高さが付きまとう。「旬」概念はこの敷居からもっともっと自由になってもいいかと思われる。</p><br><p>技術であるとか、素材であるとか、そういう観点からのアプローチもよく見られる。そういう場では有能な技術、優れた素材こそが高いポイントを獲得する。しかし、「旬」概念はそういう場ともまた異質である。優れた素材を旬と呼んでもよさそうな気がするが、旬でなくても優れた素材は存在するわけで、必ずしも同一ではない。その非対称性に「旬」概念独立の根拠があるとしたいところだ。</p><br><p>とりあえず、旬に関してはこのくらいにしておく。</p><br><p>２日連続で、定食屋に入った。定食屋と言っても本来的機能は居酒屋だ。居酒屋がどういう形で定食をやっているのかというところが胆となる。以前詳しく述べたように定食はセットである。つまり、サービスメニューであって、単品よりも集客の増加が望めるというわけだ。地震後の消費停滞と相まって定食メニューを用意する居酒屋も増えているようだが。</p><br><p>ちなみに両居酒屋のメニューに共通していたもの、それは生姜焼きである。ちなみに一昨日はまぐろの中落ち定食。生姜焼きは売り切れ。昨日は煮魚と生姜焼き定食。なんとフルだった。しかも６９０円。安いけれども大した味でもないし、ボリューム的にも特徴はなし。まぁでも、今日は前にやっていた詳細な評価ではなくて、生姜焼きに焦点を当てるつもり。要するに、定番として生姜焼きは面白いのではなかろうか。無論、ボリュームや盛り付け方に工夫が必要なことは言うまでもないが。で、私的に１品決定。</p><br><p>ちなみに生姜焼きは上で述べた「旬」構想とは特別なリンクがあるわけではない。あくまで定番メニュー。かと言って全く断片的かというと、そうでもない。食堂構想と一定のリンクが見られるのも確かだろう。とは言っても、当分は論理性よりも量の追及を第一義的としたい。ある程度の形を整えないことには舟は山に登ってしまうだろう。</p><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/suppi1632/entry-10866389199.html</link>
<pubDate>Tue, 19 Apr 2011 14:32:51 +0900</pubDate>
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<title>哲学私信(1)</title>
<description>
<![CDATA[ <p class="MsoPlainText" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><font face="ＭＳ ゴシック" size="2">自分自身のことを論じることは非常に苦手だ。しかし、思索というものは最終的に自分自身のうちから展開するのが自然であると思われる以上、躊躇してはならないようにも思われる。とは言っても、現実的に躊躇からは自由になれそうもない。こういうときはキケロ、セネカ、モンテーニュ等を読むと心が休まるものだ。彼らは自己のことを論ずるにあたって非常に積極的である。書くにふさわしい人生を送ってきたことに自負があるからこそのものであろう。しかし、次の瞬間には自分にそういう自負はあるのだろうかと考えてしまう。そうなると、やはり躊躇が再び頭をもたげてくる。これはもしかしたら一種の自己否定かもしれない。さらに思いは複雑になってくる。</font></p><p class="MsoPlainText" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span lang="EN-US"><br></span></p><p class="MsoPlainText" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><font face="ＭＳ ゴシック" size="2">今日、自分の書いたブログを読み返してみた。時々自己の内面に果敢に挑戦している記述が見られることに今さらながら驚いた。つい最近も「新規」という内容で自分自身のことを触れている。どれも躊躇的な文脈ではあるが、いずれにせよ、自己に言及することからは全く自由になれていないのである。結局自由になれないのならば、果たしてこの種の躊躇に意味などあるのだろうか。論理的には積極的に自分自身に言及しても問題ないはずだ。自己を欺かないという徳の観点からしても、この考え方は実に正当である。しかし、現実的にはやはり躊躇してしまうのだ。そして、躊躇しながらも書き続けざるを得ないこのやるせなさ、どう向き合ったらよいものか。</font></p><p class="MsoPlainText" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span lang="EN-US"><br></span></p><p class="MsoPlainText" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><font face="ＭＳ ゴシック" size="2">正直、私は自分自身に対し自負と呼ぶべき明朗な意識を適用できる段階にはまだまだ達していない。もしかしたら私が完全たる自負の段階に至ることなどないのかもしれない。しかし、そうあるべきだという意識は明確に持っている。ただ、卑下は決してしていなと自信を持って言える。つまり、自負と卑下の中間を漂っている状態なのである。</font></p><p class="MsoPlainText" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span lang="EN-US"><br></span></p><p align="left" class="MsoNormal" style="TEXT-ALIGN: left; MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt">年末にシュガーシャックである人と話す機会があった。話題は哲学へと及び、自然と「徳」がテーマとなった。ここで彼は「徳は他者による評価と一体化したものである」という持論を軽やかに展開し始める。哀しいことに徐々に私は、彼の軽やかさというか、屈託のなさというか、この雰囲気に完全に飲み込まれてしまうに至る。まさに衝撃だった。「徳」と「他者の評価」は必ずしも一致するものではなく、それでも「徳」を求め続けていく。これが自己鍛錬という哲学の伝統であると固く信じていた。もちろん実践的にもこの観点を大切にしてきたつもりである。しかし、彼の展開は私の立場をあざ笑うかのようにある種の高みを予感させる雰囲気を持って迫ってきた。要するに、がっつり凹んでしまった。もしかしたら、私の理解は非常に浅いものなのかもしれない。それから数時間呆然と時をやり過ごした。その間にモンテーニュ読みのマスターから私の立場の正統性を強く語って頂き、何とか一途の希望を持って帰途につくに至る。次の日から猛勉強を開始。ひたすら文献を読みこんだ。しかし、どこをどう見ても彼の持論にここまで動揺する理由は全く見当たらなかった。なんだか不思議にさえ思った。なぜあの議論にここまで動揺する理由があったのか。<span lang="EN-US"><br></span></span></p><p align="left" class="MsoNormal" style="TEXT-ALIGN: left; MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt"><br></span></p><p align="left" class="MsoNormal" style="TEXT-ALIGN: left; MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt">実はここに私の弱さがあるのではないかと思う。弱さというか、もしかしたら未熟さと呼んでいいかもしれない。先に「自負と卑下の中間」に関して簡単に触れたが、問題はここにある。もちろん、私は「卑下」に何の価値も見出していないし、自分自身を卑下していることなどあり得ないと思っている。しかし、どうだろう。「中間」であるということは「卑下」の意識から完全には自由になっていないことを含意しているのではなかろうか。上でも述べていることだが、いくら「卑下」を観念的に否定しても、どこかに「完全たる自負」へ至るという実践には懐疑的な面があることを自ら告白しているのではないか。まさに私が忌み嫌う理論と実践の間の隙。微妙な隙ではあるが、間違いなく私がいつも問題にしているあの隙である。要するに、彼にはこの隙を心情的に思いっきり突かれたというわけだ。実践的な弱さ、ここは自己鍛錬の意味も込めて徹底的に総括したいと思う。<span lang="EN-US"><br></span></span></p><p align="left" class="MsoNormal" style="TEXT-ALIGN: left; MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt"><br></span></p><p align="left" class="MsoNormal" style="TEXT-ALIGN: left; MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt">ここから先はどうでもいいような私の個人的事情になるのだが、上で述べた弱さがこの事情に起因しているという意味ではどうしてもここへの言及が避けられないものになってくる。本来、学的な内容はミクシィに書き込みたいのだが、読者が特定されるミクシィにおいて個人的事情を述べることにはやはり躊躇してしまう。この躊躇にこそ本質的な問題が存在しているのかもしれないが、きちんと（読者の特定されない）ブログには書き込んでいるということで、とりあえずの決着をつけたい。私小説嫌いというか、内面の告白的な展開がどうしても体質的に合わない私にとって、読者の特定されないブログのほうが若干気楽であるという形で収めておきたい。そういう意味であくまで論理的な展開を目指すつもりであるし、もちろん論理的な解釈を望むものでもある。<span lang="EN-US"><br></span></span></p><p align="left" class="MsoNormal" style="TEXT-ALIGN: left; MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt"><br></span></p><p align="left" class="MsoNormal" style="TEXT-ALIGN: left; MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt">去年、博多がクライマックスシリーズで盛り上がっている頃、私は帰省した。久しぶりの帰省ということもあって、２週間ほどの滞在。かなり長い滞在と言える。この長さは私ができるだけ避けて通ってきたある事態に直面させる。親は当然ながら今の私の状況に言及する。そうなると、過去と現在の落差を指摘せざるを得なくなる。落差を指摘したところで何も変わらないということは十分承知しているであろうにもかかわらず、そうせざるを得ない状態なのだろう。もちろんその心情はよく理解できる。自分達の生活をぎりぎりまで削って私の教育に投資してきた親の姿を思い浮かべるに、正直、私自身言葉を失ってしまう。親の期待を一身に担っていたころの自分、「この子なら」と美しいほどまでに純粋な期待を寄せていた親の姿。もはやこの領域では哲学が自己鍛錬だという議論が全く通用しない（ように思えてくる）。この議論自体が全くのいいわけである（ように思えてくる）。もう二人とも７０を超えた。両親の生きる希望であった自分、それをものの見事に裏切ってしまった自分、裏切られた両親。二人の人生って何だったのだろう。どうにもならない気持ちを抱えて生きていくということはどういうことなのだろう。私はそれを傍目に自己鍛錬を続けていくと言うのか。何もかもがばかばかしくなってくる。<span lang="EN-US"><br></span></span></p><p align="left" class="MsoNormal" style="TEXT-ALIGN: left; MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt"><br></span></p><p align="left" class="MsoNormal" style="TEXT-ALIGN: left; MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt">クライマックスシリーズを親父と酒を飲みながら見た。一緒に野球を見たのは何年振りだろう。原辰徳が４番だった頃だったかな。まだダイエーが福岡に来てなかった頃だったよな。なんだか泣けてきた。<span lang="EN-US"><br></span></span></p><p align="left" class="MsoNormal" style="TEXT-ALIGN: left; MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt"><br></span></p><p align="left" class="MsoNormal" style="TEXT-ALIGN: left; MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt">「徳は評価と一体化している」という彼の議論はこういう私を直撃した。もはや論理の問題ではなかった。評価さえあれば・・・　ただこれだけだった。<span lang="EN-US"><br></span></span></p><p align="left" class="MsoNormal" style="TEXT-ALIGN: left; MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt"><br></span></p><p align="left" class="MsoNormal" style="TEXT-ALIGN: left; MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt">再びモンテーニュを熟読している。自己鍛錬にこだわるストア派の伝統を彼は正当に受け継いでいて、迷っているときなど、ハッとさせられることが非常に多い。第Ⅰ巻第<span lang="EN-US">1</span>章「さまざまの方法で人は同じ結果に到達する」からの引用である。「大ディオニュシオスは、長い時間をかけ、非常な困難をなめたのち、レギウムの街を攻め落としたが、その町をあれほど頑強に守ったりっぱな男である隊長のフィトンを、復讐のおそろしい見せしめにしてやろうと考えた。彼は、フィトンに、まずどういうようにして彼の息子と親族の者たちすべてを溺死させたかを言って聞かせた。それにたいしてフィトンは、「彼らは私よりも一日だけ幸福だ」と答えるだけだった。そのあと、彼は、刑罰を行う役人たちに命じて、フィトンの着物をはぎとらせ、縛りあげさせて、屈辱的なむごたらしい仕方で彼を鞭打たせながら町中を引き回し、これにさらに屈辱をこめたひどい言葉を浴びせかけた。しかし、フィトンは毅然とした気持ちをひとときも崩さず、取り乱さなかった。そして、しっかりとした顔つきで、逆に、自分の国を暴君の手に渡したくなかったため、こうして名誉ある誇り高い名分のもとに死んでいくのだということを、声高らかに述べて、相手に思い知らせ、神々の罰が近いうちに下るだろうと脅した。ディオニュシオスは、自分の軍隊の一同が、この敗北した敵が自分たちの大将もその勝利も問題にせず、言いたい放題を言っていることに憤慨するかわりに、これほどまれな勇気に驚いて気持ちがくじけ、反乱をおこそうかという気になっていて、今にもフィトンを番卒の手からひきさらっていきそうな状態なのを、彼らの眼のなかに読み取ると、その残虐行為をやめさせ、こっそりと海へ送って溺死させた。」<span lang="EN-US"><br></span></span></p><p align="left" class="MsoNormal" style="TEXT-ALIGN: left; MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-family: &quot;Times New Roman&quot;; mso-bidi-theme-font: minor-bidi; mso-font-kerning: 1.0pt; mso-ansi-language: EN-US; mso-fareast-language: JA; mso-bidi-language: AR-SA"><br></span></p><p align="left" class="MsoNormal" style="TEXT-ALIGN: left; MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-family: &quot;Times New Roman&quot;; mso-bidi-theme-font: minor-bidi; mso-font-kerning: 1.0pt; mso-ansi-language: EN-US; mso-fareast-language: JA; mso-bidi-language: AR-SA">自己鍛錬の道って、やっぱり厳しいなと思う。たとえ評価と無縁であっても徳は成り立つのかという問い。私にとって哀しすぎる問いである。それでも私<span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt">は「<span lang="EN-US">yes</span>」と答えたい。いつの日にか心から「<span lang="EN-US">yes</span>」と答えられる程の力を自分のうちに宿したいと思う。<span lang="EN-US"><br></span></span></span><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br></p><p><font face="ＭＳ ゴシック" size="2"><br></font></p><br><p><font face="ＭＳ ゴシック" size="2"><br></font></p><br><p><font face="ＭＳ ゴシック" size="2"><br></font></p><br><br><br><br><br><br><br><p></p>
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<link>https://ameblo.jp/suppi1632/entry-10758609294.html</link>
<pubDate>Wed, 05 Jan 2011 08:16:35 +0900</pubDate>
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<title>新規について</title>
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<![CDATA[ <p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">一般的にサービス業の事業計画書作成は難しいと言われている。なかなか認められないとの話もしばしば聞く。もちろん、その理由を知りたくもなるのだが、話を掘り下げたところで、これという回答に出会ったためしがない。結局、単に明確な方法論がないままに提出に至ったという個人的理由なのかもしれない。従って、慣例にとらわれることなく論理的な展開を目指すことが肝要かと思われる。</span><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">方法論の核はジャンル内優位性と新規獲得の２本柱である。この展開を明確に語ったのは実は社長である。ちなみに社長の話には事業計画が難しいなどという話は全くなかった。一般の業界人とは一線を画しているのは明らかで、これが彼の事業の優位性を示しているのも明らかと言えるのではないかと思われる。私自身もこの会社の営業方針に触れてきたので、ハッとさせられる展開であったと言わざるを得ない。</span><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">正直、この２本柱を簡単に語るだけでは、この考え方の射程の深さが伝わらないのもまた事実であろう。一見あまりに平凡であるように見える。普通に語ったところで、大きく反発を受け、右往左往する自分の姿が即座に思い浮かぶ。それでもその射程圏を丁寧に説明していくしかないだろう。地味な作業ではあるが、心してとりかかりたい。</span><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">２本柱の理解を阻害する第一の要因は「そんなことくらい当然分かっている」という慢心である。例えば哲学のような学問の現場においてそういう慢心は致命的なミス以外の何物でもない。哲学という作業自体が一見平凡で何の変哲もない概念を徹底的に吟味していくことであるからだ。結局、慢心は実践の弱さを生じさせるにすぎない。慢心なりの実践しか成立しないということである。</span><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">なぜ慢心が生じるのか。そもそもこういうケースでの慢心は単に個別的現象に収まるものではなくて普遍的な現象ではなかろうか。だとしたら、真摯な分析と自己否定との微妙な関係からその普遍性が説明されるように思う。通常「当然のことを指摘される」ことは誰しもが忌避する傾向である。「そんなことくらい分かっている」と言い放つ衝動に駆られるのが人の世の常であるといったところだろうか。単なる事実認識の問題ではなくなっているのだ。「当然」という概念が自分自身のあり方（「当然をいまひとつ理解しきれていない自分自身に対する恥ずかしさ」と「その恥ずかしさからの逃走」）と哀しくも切り離しがたい関係性を持っている。ここに「当然のこと」を単に「当然のこと」として受け入れる「勇気」というテーマが開けてくることになり、ここを達成すると、次のテーマは「当然のこと」が持つ射程圏である。射程圏は理論の可能性でもある。理論が大衆的に成立しない理由の一つに実は慢心があると思っているのだが、忌々しき問題である。理論は当然のところをきっちり説明することから大きく花開くものであるのに、なんと哀しい人間の性であることか。慢心とは自己否定を恐れる自己保存欲求そのものである。</span><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">成功神話というものがしばしば語られる。そこで語られる内容は、成功神話は長期的には阻害以外の何物でもなく、しかも人はその成功神話からなかなか逃れられないということに集約される。要するに、成功神話は慢心の一形態である。世の中の移ろいは残酷なもので、ある時点の成功は次の時点の失敗へとあっという間に姿を変えてしまう。もちろん、失敗に移行する前にはその兆候が表れているはずなのであるが、簡単に見過ごしてしまう。実のところ兆候には気付いているのだが、気付かないふりをしているだけなのかもしれないし、あえて強力に排除しているのかもしれない。いずれにせよ、失敗はやってくることになる。成功神話にとらわれる人たちの特徴はまさにこの一言、恐ろしいくらいに共通しているこの一言である。そんなことくらい分かっている。しかし、「分かる」と「実践」の隔たりは巨人軍バリに永久なのである。</span><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">分かるとは何なのだろう。単に理解することなのか。それとも理解して実践することなのか。正直、こういうことを言っていること自体がなんだか陳腐であるような気がしてきてだんだん自分自身が怖くなってくる。しかし、この状態自体もまた慢心の一形態ではなかろうか。分かるとは理解と実践が一体化する状態であると言いたいはずなのに、どこか躊躇する感じから逃れることができない。間違いなく「そんなことくらい分かっている」という反応を恐れているのであり、つまり、「当然分かっている」という反応が返ってくることくらい「当然分かっている」という慢心なのである。常識と呼ばれうる分野の扱いは本当に難しい。常識が陳腐ならば、常識を扱うこと自体も陳腐だからだ。だからと言って、単純に常識が陳腐ではないと言ったところで何の解決にもならない。常識が陳腐という一面を持っているのを全否定はできないであろうし、人はその事実を心のどこかで受け入れているであろうから。もっと言うならば、常識が陳腐であるという見解はある程度経験を重ねた人間にとって味わい深い快感を伴うものではなかろうか。陳腐と考えることが慢心という自己保存欲求につながるならば陳腐という発想を控えたくもなるのだが、その陳腐自体が強烈な自己保存欲求（快感）を持っているわけで、どこに視点を置いたらいいものか自分でもよく分からなくなってくる。しかし、ここはあえて確認しておく。私の文脈において、分かるとは理解して実践することである。</span><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">ちなみに常識を語る際の常識に収まらない方法は単に常識の内容分析だけではなく常識の射程を語ることである。以下、私はその方法を採用することにする。</span><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">私の最初の事業計画書は２本柱という観点から検討するに新規という観点が完全に欠落していたと言わざるを得ない。もちろん、想定の中に新規というテーマがなかったわけではなく、それなりに十分考慮していたつもりである。従って、最初に「新規という観点が弱い」という指摘を受けた時にはそれなりの反発を感じたのも事実である。分かってねぇなぁと。しかし、社長の爽やかで明快な語り口に経営者としての誇りを感じたのもまた事実で、とりあえず彼の論理を追うことに専心した。そして・・・ある時点で衝撃に近い感情に襲われた。これはまずいと。私の議論の欠陥はあまりにも明確である。ジャンル内優位性と新規の区別が論理的位相として曖昧だったのだ。ジャンル内優位性が新規に結びつくという楽観論は通用しない。ここを確実に押さえておく必要があろう。確かにこの楽観論は新規について考慮していないわけではない。そういう意味で「新規のことなど当然分かっているよ」と心の中でつぶやいたとしても何の不思議もないはずだ。しかし、論理的位相が不明確という事態は理解の領域からはほど遠いと言わざるを得ない。論理的位相を明確にすることは実践的方法論がより明確になることに直結する。そこから実践が無理のない形で誕生するという構図こそが理解のあり方であって、２分法という常識の射程はこの構図のうちで展開される。</span><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">さらに具体的に見ていこう。いかなる要因がジャンル内優位性と新規の区別を阻害したのだろうか。それは私が口コミの効果に過剰に期待したからであると深く反省している。そもそも宣伝とは違って内容が伴うからこその口コミである。その内容規定がジャンル内優位性を発揮するものであるならば、新規が口コミとジャンル内優位性という２つの要因で説明可能だとしても特に問題が生じるわけではないように思える。しかし、ここはよくよく考えてみたい。口コミとジャンル内優位性が加わったところで、なぜこれが新規という領域を開拓することになるのだろうか。つい新規のような錯覚を覚えてしまうが、実のところ、すべてがジャンル内優位性のうちで進行している事態ではなかろうか。いずれにせよ、コスト面まで勘案したうえで、口コミによってお客が増えるという構図は非常に魅力的である。口コミで流行っている店が議論の対象となるならば、高揚感に沸き立つ感覚が否応なく私自身を直撃する。口コミへの過剰な傾斜を断ち切るのは容易でないと言える。ジャンル内優位性に自信があればある程そうであろう。しかし、ここは冷静に考えたい。あくまで新規はジャンル内優位性とは全く別系統の概念である。少なくとも社長の見解はそうであった。この区別が実績を暗に示しているようにも思え、そこを体感してきた自分自身にとって心情的にも納得のいく見解である。</span><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">口コミの位相を再考する必要がありそうである。もちろん、口コミを全否定するには及ばない。２本柱という構図を前提とする以上、新たなルートで新規獲得戦略を模索しなければならないのだが、口コミは新規獲得よりもジャンル内優位性のうちに大きな存在意義を見出すことになろう。ならば新規獲得に口コミは必要ないということだろうか。新規獲得戦略に反応した口コミも当然ありうることを確認しておかねばなるまい。しかし、新規獲得に最も適した方法論は宣伝である。何らかの形の宣伝なくして新規という新しいジャンルを大きく成立させるのは困難ではないかと思われる。口コミはあくまで宣伝によって獲得した新規層によってなされると考えた方が構図の理解は容易であろう。</span><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">ちなみに社長が提示した全体的モデルは弁証法的な方法論である。これがすべてであるとは言わないが、有効な方法論であることは言うまでもないだろう。弁証法とは、違うジャンル同士がぶつかって新たなジャンルを創設することだ。優位性と新規獲得という違うジャンル同士がせめぎ合って、新たな形をつくりだすという戦略である。具体的な道筋は諸事情を鑑みてここでは割愛しておく。</span><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ ゴシック'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">射程と銘打った以上、さらに分析を続けなければならない。</span><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">口コミに期待するという心情からすると、宣伝という方法論にはどうしてもある種の違和感を覚えてしまう。しかし、そこを合理化するものこそ、まさに射程である。ならば、この場面における射程とは一体如何なるものなのだろうか。見取り図を簡単に示しておきたい。事業展開を目指すのか、目指さないのかという問いが射程の端緒になり、射程のあり方を大きく左右する基本方針となる。</span><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ ゴシック'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">以下、事業展開を目指すという方向から論理を展開することにする。</span><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">当然ながら事業計画は営業形態を規定する。しかし、事業計画と営業計画は同一のものではない。事業展開という項を介すならばなおさらそうである。例えば、資金集めを例にとってみよう。２本柱という設定は金融機関に対してジャンル内優位性１本柱よりもはるかに大きな説得力を持つ。事業計画の緻密さは資金獲得をより効率的なものにしているわけだ。この例は事業計画は営業形態を超えて資金集めという別領域へと射程圏を広げていることを内包している。単純な論理展開であるが、注意深さを失ってはならない場面ではないかと思う。先に実践の弱さに関して軽く触れたが、実践の弱さとはつまり射程の狭さとほぼ同義である。ならば、緻密な事業計画とは強い実践を意味していることにもなる。こういう方向からの展開も補足しておきたい。</span><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">資金集めは単純にお金が集まるか集まらないかの問題では決してないように思う。私自身資金集めに奔走したという経験を持っているわけではないのだが、単なる個人的賛辞を超えた客観的な次元において、社長の明確な言語</span><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><font face="Arial">(</font></span><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">２本柱</span><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><font face="Arial">)</font></span><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">は資金集めの射程圏の深さを雄弁に語っているように思う。もちろん現時点における資金集めそのものの成果自体は不可測である。失敗するかもしれないし、成功するかもしれない。しかし、このことをここで指摘される必要は全く感じない。そんなことよりもここ</span><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><font face="Arial">(</font></span><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">２本柱</span><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><font face="Arial">)</font></span><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">を看過することのほうが将来的にリスクを抱え込むことになるのではなかろうか。</span><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ ゴシック'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">資金集めという言葉にまとわりつく陳腐さにも触れておきたい。資金集めは企業目的と比較するといかにも手段的な役割しか持ち合わせていないようにも感じるし、なによりも「当然分かっているよ」と言いたくなってくる場面でもある。しかし、我々が考察すべきはそこにある論理構造であり、その構造とは資金集めは事業と営業の単純な同一化を相対化することである。理解は論理構図の把握を避けて通ることはできず、理解のうちに強い実践が含まれている。上で述べた内容の繰り返しでしかないけれども、再度確認しておきたい。</span><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">なぜここに執拗にこだわるかと言うと、これも繰り返しになるが、射程の問題なのである。例えば組織という考え方にも簡単に触れておきたい。これも事業展開に含まれる重要なジャンルだと思われるが、しかも誰もがやはり「当然分かっている」と言いたくなる内容にもかかわらず、なぜだか軽視される。私の経験からしても哀しいほどに軽視される。結局、これは事業概念の把握不足であるとしか言いようがないのではなかろうか。「資金集め」の場合はこれなくして活動自体が成り立たない以上「軽視される」の捉え方が「組織」とは異なるにしても、相対化という文脈からすると「営業」「資金集め」「組織」これらすべて身分的には同等であり、事業展開に内包される概念群である。実践や行為における心情の問題は複雑かつ困難である。まさに「当然」であるはずなのに、実践的には後景に追いやられているケースがいかに多いことか。倫理というジャンルでもよく語られるケースではあるが。</span><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">要するに、企業（事業展開）という発想からすると、将来の事業展開、それを踏まえた交際等、広範な活動が必然的に展開されざるを得ない。社会的なメッセージを発するとともに社会的な評価を得ることも重要な任務となる。もちろん我々はそれにふさわしい言語を保有せねばならないわけで、例えば今展開してきた２本柱という言語はまさに企業的言語ではなかろうか。そもそも我々の企業は資金力が豊かであるとは言えず、従って、高い価値観、ここに活路を求めるよりほかはない。その際に高度な分析力こそが最大の武器になるはずで、ならば、２本柱のような言語を蓄積していくことは当然の作業であるという気がしてならない。</span><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ ゴシック'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin">宣伝もこの射程で解釈されてしかるべきである。どこか陳腐な感じがまとわりつく宣伝という響き。しかし、宣伝は単なる宣伝ではなく我々の社会的メッセージであるとしたい。我々の姿勢を広く社会に伝えるという役目を負っているとも言い換えられようか。上で企業活動自体がそもそもそういう性格を内包していると述べた以上、これは決して大げさな言い方ではない。営業活動を超えたところにある様々な事柄への配慮、背負い込むべきものは背負い込まなくてはならないという実存、企業活動はそういった類のものを不可避的に内包していると、どっと疲れが出るような言い回しではあるが、こう表現しておきたい。</span><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p class="MsoNormal" style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><span lang="EN-US" style="FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt"><br></span></p><p><span style="FONT-FAMILY: &quot;ＭＳ ゴシック&quot;; FONT-SIZE: 10pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; mso-ascii-font-family: Arial; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Arial; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: &quot;Times New Roman&quot;; mso-bidi-theme-font: minor-bidi; mso-font-kerning: 1.0pt; mso-ansi-language: EN-US; mso-fareast-language: JA; mso-bidi-language: AR-SA">高度な言語は高度な実践を生む。あるいはこうも言い換えられよう。実践は射程の外では成立しない。この観点から私は２本柱の意義を高く評価したいと考えている。</span> </p><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><p><font face="Arial"><br></font></p><br><br><p><font face="Arial"><br></font></p>
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<link>https://ameblo.jp/suppi1632/entry-10711557862.html</link>
<pubDate>Fri, 19 Nov 2010 09:23:46 +0900</pubDate>
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<title>需要</title>
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<![CDATA[ <p>たまご。パラレコのある通り沿い。最近は家庭料理系の店に興味がある。もしかしたらこの店も家庭料理系かなぁと直感したので入ることにした。</p><br><p>案外、大きな店だった。入ったのが１２時半ごろだったので、お客でいっぱい。ウェイティングとなった。４、５分すると席があいた。</p><br><p>メニューを見ると、日替わりのほかに、丼ぶり物が多い。店の名前通り、卵丼が主力のようだ。しかも４５０円と安い。少し迷ったけれども、日替わりにした。メニューがフル型だったんだよね。</p><br><p>店は３人で回していた。キッチンがおじちゃんとおばあちゃん、フロアがおばちゃん。家族なのか、単なる従業員なのかは判別不可能。夜のメニューものぞいてみたが、やっぱり安い。しかも凝った料理など何一つない。</p><br><p>非常に込み合っていたので、少し時間がかかったかな。まぁでも、特に問題なし。メンチカツ、肉団子、サラダ、煮物、きんぴら、ご飯、みそ汁。２種のメインとサラダは一皿に盛り付けてあった。フル型スペシャル。これで６００円。</p><br><p>あんまり美味しいというわけではない。肉団子は冷えていたし。でも、この客数だったら作り置きじゃないと大変なことになるよなぁ。小鉢はちょぼっとだったので、ボリューム的にそこまですごいランチではなかった。総合的に６００円という値段なら妥当じゃないかなと感じた。実際、お客さんも多いわけだし。バリュー感が最大の売りなのかもしれない。</p><br><p>安くて、凝った料理ではないと書いたが、だからと言って家庭料理という感じでもないんだな。少し雑のような気もするし。皿は別として料理内容としてはどこかどんQと似ているところがあるような気がする。普通料理というか、この感覚を何と名づけたらよいのだろう。なんだかもどかしい。お客さんの強い支持も感じたし、このジャンルに一定の需要があることは否定できないように思う。</p><br><p>フル型スペシャル。味メイン２その他２．８、ボリュームメイン３．５その他２、外見メイン３その他２．５、バリュー感３．５、満足感３。</p><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/suppi1632/entry-10486595368.html</link>
<pubDate>Sat, 20 Mar 2010 13:15:54 +0900</pubDate>
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