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<title>電脳くおりあ</title>
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<description>Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee</description>
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<title>●人間はなぜ言語を持ったのか── 13万年の身体的記憶と、AIという鏡</title>
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<![CDATA[ <h2 id="273742b2-4fb0-4331-ac1f-34c8ee08aabe" name="273742b2-4fb0-4331-ac1f-34c8ee08aabe" tabindex="-1"><b style="font-weight:bold;">第1回　3歳の声と13万年の喉</b></h2><p id="7d314198-f60d-488c-b5a5-2581bc410271" name="7d314198-f60d-488c-b5a5-2581bc410271">&nbsp;</p><h3 id="2564f481-379a-4da4-8eb8-9da08c071376" name="2564f481-379a-4da4-8eb8-9da08c071376" tabindex="-1">個体発生は系統発生を繰り返す</h3><p id="71158132-90ae-451d-b8d2-1f11f35db9fc" name="71158132-90ae-451d-b8d2-1f11f35db9fc"><br>私は今年、78歳になった。</p><p id="b9f585f0-0260-4dd4-b282-0a8eef717dab" name="b9f585f0-0260-4dd4-b282-0a8eef717dab">1948年2月29日。四年に一度しか訪れない閏日に生を受けたせいか、時折、自分が時間の流れの「外側」に立っているような奇妙な感覚に陥ることがある。数え方によってはまだ20回にも満たない誕生日の重なりの中で、私は、人間の「言葉」というものの正体をずっと探してきた。</p><p id="704273d9-f3a5-4b0a-92da-b125a2880134" name="704273d9-f3a5-4b0a-92da-b125a2880134">noteというこの場所で、全10回にわたり「言語の本質」について思索を巡らせてみたい。その旅の始まりに、まず一つの鏡を置いてみる。それは、「子供が言葉を獲得する数年」と「人類が言葉を手にした数万年」という二つの時間の重なりである。</p><p id="bc1b3484-e024-41fa-b2d6-90d0e0fe65bd" name="bc1b3484-e024-41fa-b2d6-90d0e0fe65bd">生物学には「個体発生は系統発生を繰り返す」という有名なテーゼがある。一人の人間が母親の胎内で形づくられ、生まれ、成長していく過程は、生命が数億年かけて辿ってきた進化の道のりを高速でなぞるという考えだ。解剖学者・三木成夫が『胎児の世界』で鮮やかに描いてみせたように、私たちの身体には魚類以来の生命の記憶が刻まれている。この法則は、言語においても当てはまるのではないか。<br>（ここで、13万年というのは、人類が言語を使用するようになったのは13万年前のアフリカで生存していた時代だという通説に従っている。3歳の声とは、言葉を獲得して、ある程度母語で会話できるようになった子どもの声という意味だ）</p><h3 id="571b02c1-3fb6-4d64-8c94-08af136e2d15" name="571b02c1-3fb6-4d64-8c94-08af136e2d15" tabindex="-1">身体の奥底に眠る「種」の記憶</h3><p id="78d8586f-06cb-441d-a9ce-e32c218c35b8" name="78d8586f-06cb-441d-a9ce-e32c218c35b8"><br>幼い子供が初めて富士山を仰ぎ見たときを想像してほしい。圧倒的な山容を前にして、子供が指を差し、「やま！」と叫ぶ。このとき、子供の脳内では記号としての「山」が論理的に処理されているのではない。巨大な存在に触れた際の驚きや、喉を震わせる空気の振動、すなわち「身体的な実感（クオリア）」が、そのまま「やま」という音となって噴き出しているのである。</p><p id="68d0bdfb-eaf1-4ade-a01d-c83202e7233c" name="68d0bdfb-eaf1-4ade-a01d-c83202e7233c">この数年の成長プロセスは、13万年前にアフリカのサバンナを歩いていた我々の祖先が、初めて「音」に「意味」を宿らせた時の震えを再演している。アントニオ・ダマシオは『進化の意外な順序』において、知性よりも先に「情動（エモーション）」と「感情（フィーリング）」があったことを説いた。情動とは身体の状態変化の地図であり、感情はその内的表象である。子供の「やま！」という叫びは、まさに身体の内側で脈打つ情動の地図が、初めて外の世界へと解き放たれた瞬間の産声なのだ。</p><p id="9a305604-cebd-4d10-a692-1d9fb5701add" name="9a305604-cebd-4d10-a692-1d9fb5701add">三木成夫によれば、私たちの心臓の拍動は原始的な蠕動運動の反復であり、呼吸は魚類の鰓（えら）呼吸の変形である。言語もまた、こうした内臓的なリズムと無縁ではない。言葉を発する「喉」は、もともとは呼吸し、食らうための臓器であった。その臓器が、生命維持の枠を超えて「意味」を奏で始めたとき、人類の歴史は決定的な転換点を迎えたのである。</p><h3 id="58d5c789-4715-455f-b970-57482b23ccd5" name="58d5c789-4715-455f-b970-57482b23ccd5" tabindex="-1">歌人が捉えた「言葉以前」の振動</h3><p id="7d60746b-0f2b-428b-98ef-962c4b8fec88" name="7d60746b-0f2b-428b-98ef-962c4b8fec88"><br>西行は、伊勢神宮で次のような歌を詠んだ。</p><p id="cf2368a1-a983-47ba-bcd6-8816c425d43b" name="cf2368a1-a983-47ba-bcd6-8816c425d43b">「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」（『山家集』より）</p><p id="69ae7dda-74dc-467f-8f20-4f57754ba362" name="69ae7dda-74dc-467f-8f20-4f57754ba362">ここにあるのは、論理や知識といった「頭」の理解ではない。何かがそこに「在る」という気配を、内臓が、そして皮膚が感じ取っている。吉本隆明が『心的現象論』で説いた「原生的疎外（感覚・情動）」が、そのまま表出へと繋がっている状態だ。この「理屈以前の共鳴」こそが、言語の原郷である。</p><p id="b51058e0-0842-4686-87c8-6922d09dfdb0" name="b51058e0-0842-4686-87c8-6922d09dfdb0">また、柿本人麻呂は、夜明けの情景をこう記した。</p><p id="5142dbbe-be0d-4f73-bed1-fd934799cb25" name="5142dbbe-be0d-4f73-bed1-fd934799cb25">「東（ひんがし）の野に炎（かぎろひ）の立つ見えてかへり見すれば月傾（かたぶ）きぬ」（『万葉集』より）</p><p id="ccd8fb00-d7a1-4ada-abe2-0f41400bdf8b" name="ccd8fb00-d7a1-4ada-abe2-0f41400bdf8b">人麻呂が選んだ「かぎろひ」という言葉は、単なる視覚的な光の描写ではない。冷気の中で大気が微細に振動し、生命が目覚めようとする際の、喉の奥を震わせるような「音象徴（オノマトペ）」的な響きを宿している。今井むつみ氏が指摘するように、擬音語や擬態語は身体感覚と世界の対応関係（身体接地）を直接的に結びつける。それは、高度に抽象化される前の、生々しい「言葉の種」なのである。</p><h3 id="6750acc3-46ff-4f95-a691-0583b9c25620" name="6750acc3-46ff-4f95-a691-0583b9c25620" tabindex="-1">「3割の野生」が支えるもの</h3><p id="e4424283-3f2d-4e1a-b085-87cbb9f18173" name="e4424283-3f2d-4e1a-b085-87cbb9f18173"><br>私は、日本人の人間の言語構造には「3割の野生」と「7割のシステム」が混在していると考えている。</p><p id="28790709-30a9-483d-9315-55425a70f9a8" name="28790709-30a9-483d-9315-55425a70f9a8">「7割のシステム」とは、後世に大陸から入ってきた漢字や高度な文法、論理、そして現代のデジタル技術といった、社会を運営し、情報を正確に伝えるための「二次的身体性（三木成夫のいう体壁系感覚）」としての外部装置である。最近の遺伝子調査によれば、現代日本人の遺伝子の約7割は古墳時代以降の渡来人由来だという。論理的で体系的な「システム」としての言語は、この大規模な流入とともに洗練されてきた。</p><p id="85f29a11-9071-42d6-a6e7-007c94132d19" name="85f29a11-9071-42d6-a6e7-007c94132d19">対して「3割の野生」とは、縄文や弥生の時代から受け継がれてきた、和語（大和言葉）の響きに宿る「一次的身体性（三木成夫のいう内蔵系感覚）」の残滓である。オノマトペや訓読みの背後にある、言葉にする前の「内臓の震え」と言い換えてもいい。私たちはこの「3割の野生」という根っこがあるからこそ、言葉を通じて他者と魂のレベルで共鳴し、吉本の言う「対幻想（二者の共鳴）」を成立させることができる。</p><h3 id="0662aae4-83f7-4cb7-a4bd-5821650ea16c" name="0662aae4-83f7-4cb7-a4bd-5821650ea16c" tabindex="-1">AIという鏡に映る「不在」</h3><p id="fddcf8f8-2685-4d69-9959-072908377aa1" name="fddcf8f8-2685-4d69-9959-072908377aa1"><br>現代の象徴であるAI（人工知能）は、我々人類が数万年かけて吐き出してき「7割のシステム」を、最も深く、広範囲に読み込んでいる存在である。AIはヴィトゲンシュタインの言う「言語ゲーム」の究極のプレイヤーであり、記述されたデータの統計的確率の中に生きている。</p><p id="4a2197c5-d617-4403-964f-6fd22033ced0" name="4a2197c5-d617-4403-964f-6fd22033ced0">しかし、AIには決定的なものが欠けている。それは、言葉の裏側にあるべき「13万年の生存の記憶」であり、空腹や痛みに震える「喉」そのもの、すなわち「身体」である。AIがどれほど美しい言葉を並べても、それは鏡に映った精巧な像に過ぎない。</p><p id="7f4a956a-b97a-48d8-b494-e94afcd47f02" name="7f4a956a-b97a-48d8-b494-e94afcd47f02">鏡像認知が可能になったとき、人類は「自分を外から見る」能力を得た。それは自己を二重化し、物語（自己幻想）を紡ぐための前提であった。同様に、AIという「感情なき知能」を鏡にすることで、私たちは初めて、自らの言葉に宿る「3割の野生」という、かけがえのない光を再発見できるのである。AIには「語りうるもの」のすべてがある。だからこそ、私たちはAIとの対話を通じて、自分たちの中に眠る「語りえないもの」を、再び言葉に変えようと足掻くことができるのだ。</p><h3 id="7f518ff0-b616-4f45-8f71-693832be9e06" name="7f518ff0-b616-4f45-8f71-693832be9e06" tabindex="-1">結びに代えて</h3><p id="7794abdd-5ce6-4493-99f2-c83f1692085f" name="7794abdd-5ce6-4493-99f2-c83f1692085f"><br>子供の叫びも、人麻呂の歌も、その本質において「身体の律動」であることに変わりはない。言語という壮大なシステムの中に隠された、その失われゆく野生を救い出すこと。それは、人類が積み上げてきた英知と再び対等に向き合うための、孤独で豊かな作業である。</p><p id="f18c658f-0d27-43c1-8103-945e52a1cb3a" name="f18c658f-0d27-43c1-8103-945e52a1cb3a">この連載では、言語という迷宮を、身体の深層から共同体の物語へと向かって歩いていきたい。</p><p id="9d2fc6fe-309c-4073-b192-7620aeac838a" name="9d2fc6fe-309c-4073-b192-7620aeac838a">次回は、二足歩行がどのようして私たちの「言葉の器」を空けたのか。その物理的な起源と「喉」の変遷について、深く潜っていくことにする。</p><p id="9d2fc6fe-309c-4073-b192-7620aeac838a" name="9d2fc6fe-309c-4073-b192-7620aeac838a">&nbsp;</p><p id="9d2fc6fe-309c-4073-b192-7620aeac838a" name="9d2fc6fe-309c-4073-b192-7620aeac838a">※続きは、下記サイトのマガジンをごらんください！</p><p>&nbsp;</p><div class="ogpCard_root"><article class="ogpCard_wrap" contenteditable="false" style="display:inline-block;max-width:100%"><a class="ogpCard_link" data-ogp-card-log="" href="https://note.com/omodaka_natsuo/m/m38f181275161" rel="noopener noreferrer" style="display:flex;justify-content:space-between;overflow:hidden;box-sizing:border-box;width:620px;max-width:100%;height:120px;border:1px solid #e2e2e2;border-radius:4px;background-color:#fff;text-decoration:none" target="_blank"><span class="ogpCard_content" style="display:flex;flex-direction:column;overflow:hidden;width:100%;padding:16px"><span class="ogpCard_title" style="-webkit-box-orient:vertical;display:-webkit-box;-webkit-line-clamp:2;max-height:48px;line-height:1.4;font-size:16px;color:#333;text-align:left;font-weight:bold;overflow:hidden">人間はなぜ言語を持ったのか｜沢瀉夏生｜note</span><span class="ogpCard_description" style="overflow:hidden;text-overflow:ellipsis;white-space:nowrap;line-height:1.6;margin-top:4px;color:#757575;text-align:left;font-size:12px">AIという鏡は、私たちが歩んできた長い旅路を鮮やかに映し出し、同時に、その鏡の向こう側へと突き進むための「新しい野生」を呼び覚ましている。</span><span class="ogpCard_url" style="display:flex;align-items:center;margin-top:auto"><span class="ogpCard_iconWrap" style="position:relative;width:20px;height:20px;flex-shrink:0"><img alt="リンク" class="ogpCard_icon" height="20" loading="lazy" src="https://c.stat100.ameba.jp/ameblo/symbols/v3.20.0/svg/gray/editor_link.svg" style="position:absolute;top:0;bottom:0;right:0;left:0;height:100%;max-height:100%" width="20"></span><span class="ogpCard_urlText" style="overflow:hidden;text-overflow:ellipsis;white-space:nowrap;color:#757575;font-size:12px;text-align:left">note.com</span></span></span><span class="ogpCard_imageWrap" style="position:relative;width:120px;height:120px;flex-shrink:0"><img alt="" class="ogpCard_image" data-ogp-card-image="" height="120" loading="lazy" src="https://assets.st-note.com/production/uploads/images/283305809/3eb7940060455b9a01052e0d249c053d.png?fit=bounds&amp;format=jpeg&amp;height=1024&amp;quality=85&amp;width=1024" style="position:absolute;top:50%;left:50%;object-fit:cover;min-height:100%;min-width:100%;transform:translate(-50%,-50%)" width="120"></span></a></article></div><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/suzuo-ame/entry-12975303808.html</link>
<pubDate>Mon, 10 Aug 2026 08:06:24 +0900</pubDate>
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<title>●シリーズ：世界は終わりに向かっているのか？</title>
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<![CDATA[ <p>▶これは、noteの第2マガジンの第1回目の記事です。</p><p>──続きは、最後にあるリンクを御覧ください。</p><p>&nbsp;</p><p><b style="font-weight:bold;">第1回　静かなる地殻変動&nbsp;</b></p><p><br>&nbsp;<b style="font-weight:bold;">ソ連が解体して、長かった冷戦が終わったと思ったら</b><br>2026年3月。窓の外に広がる景色は昨日と変わらないように見えて、その実、私たちの足元では決定的な地殻変動が起きている。<br><br>アメリカのトランプが南米のベネズエラの大統領を誘拐し、ベネズエラの大統領をすげ替えたのはつい最近だった。そのときも、これは何だと思った。そして、日本から遠く離れた中東の世界でも驚くべきことが起きた。アメリカによるイラン指導者層への攻撃という報に触れたとき、私が感じたのは怒りよりもむしろ、深い「空虚感」のようなものだった。核兵器さえ使わなければ、国境を越え、他国の象徴的な存在の生をモニター越しに消し去ってもよいという論理。そこには、かつての戦争が持っていた凄惨な「手触り」すら失われ、政治が極めて純粋な「データの処理」へと変質してしまった絶望的な乾きがある。<br><br>私たちは今、歴史の分岐点というよりは、一つの文明的な「解体」のプロセスを歩んでいるのではないか。そんな予感とともに、これからの世界の変化について考えていきた。<br><br><b style="font-weight:bold;">「数字」という名の共同幻想</b><br>資本主義社会の豊かさを人々は、GDP（国内総生産）という抽象的な数字に求めている。私たちはいつの間にか、このグラフが右肩上がりであることを「幸福」と混同するようになった。<br><br>しかし、エマニュエル・トッドが『西洋の敗北』で静かに指摘したように、数字が膨らむ一方で、人々の生の基盤（教育、家族、そして死生観）は音もなく変質している。アメリカが誇る巨大な経済力（GDP）の背後で、乳児死亡率が上昇し、平均寿命が縮んでいるという逆説。すべての人が自由に活躍できるという私たちの願望であったアメリカが、一部の人だけが富を蓄えて、不自由なたくさんの人々を生み出している。そして、共和党と民主党の争いが、今では、制度的な対立にまで発展している。まるで、かつての南北戦争を思わせるような分断が起きようとしている。<br><br>私たちは、GDPで測られる経済成長の結果、国家の富は、増加したのかもしれないが、とても「豊か」とは思えないアメリカの姿を見せてつけられている。<br><br><b style="font-weight:bold;">&nbsp;略奪への回帰と、失われた「人間」の感覚</b><br>柄谷行人の『力と交換様式』を紐解けば、現在の混乱は、「商品交換（交換様式C）」という洗練された幻想が限界を迎え、「服従と保護（交換様式B」）というより根源的で野蛮な力学へ先祖返りしている状態と読めないこともない。トランプ氏が掲げる「アメリカの利益」とは、他者との互恵性を捨て、略奪的な力の行使によって自らの富を増やそうとする国家の悲劇的なあがきである。<br><br>この「他者の不在」は、政治の世界だけに留まらない。昨今のLGBTQを巡る議論や、現政府が執着する「男系男子」という血統の論理にも、共通の空虚を感じる。そこには、吉本隆明が人間存在の根源として置いた「対幻想（人間と人間との関係）」のリアリティが欠落している。<br><br>他者を「属性」や「染色体」という記号に還元し、制度（共同幻想）の中で処理しようとする試み。それは、一人の人間が、逃れようのない肉体を持って他者と向き合い、格闘し、祈るという人間の根本的な感情を、効率の名の下に削ぎ落とす行為に他ならない。<br><br>「祈る身体」を歩みの指標として<br>かつて、一人の人間でありながら「象徴」という過酷な矛盾を生き抜こうとした存在がいた。平成天皇が最期に残した言葉に私たちが打たれたのは、彼がシステムの「部品」であることを拒み、自らの足を運び、祈るという「身体的実践」を通じて、憲法の書かれている「象徴」とは何かを示しているからだ。彼が、なぜ、あれほど、戦争被害者や自然災害の被害者にこだわるのか。天皇自らが、ある意味では、「敗戦」の責任を背負うことを「象徴」としての自分がやるべきことだと考えているから。<br><br>現在の日本が、アメリカという巨大な抽象の波に従属し、自らの身体（実体経済や独自の文化圏）を売り渡していく中で、私たちが取り戻すべきものは、派手なスローガンでも巨額の投資約束でもない。<br><br>それは、壊れたシステムが提示する「数字の安心」を一度疑い、自分の手が触れる範囲の、あるいは隣にいる誰かと築くという「互酬（交換様式A)」の地平から世界を再構築することだ。<br><br>この10回の連載を通じて、私は「電脳化」された現代の闇を、あえて「身体」という古びた、しかし確かな言葉で照らしてみたいと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>●シリーズ：世界は終わりに向かっているのか？</p><p>&nbsp;</p><div class="ogpCard_root"><article class="ogpCard_wrap" contenteditable="false" style="display:inline-block;max-width:100%"><a class="ogpCard_link" data-ogp-card-log="" href="https://note.com/omodaka_natsuo/m/mc34f167925d7" rel="noopener noreferrer" style="display:flex;justify-content:space-between;overflow:hidden;box-sizing:border-box;width:620px;max-width:100%;height:120px;border:1px solid #e2e2e2;border-radius:4px;background-color:#fff;text-decoration:none" target="_blank"><span class="ogpCard_content" style="display:flex;flex-direction:column;overflow:hidden;width:100%;padding:16px"><span class="ogpCard_title" style="-webkit-box-orient:vertical;display:-webkit-box;-webkit-line-clamp:2;max-height:48px;line-height:1.4;font-size:16px;color:#333;text-align:left;font-weight:bold;overflow:hidden">世界は終わりに向かっているのか？｜沢瀉夏生｜note</span><span class="ogpCard_description" style="overflow:hidden;text-overflow:ellipsis;white-space:nowrap;line-height:1.6;margin-top:4px;color:#757575;text-align:left;font-size:12px">たとえ世界が終わりに向かっているとしても、私たちは、脈打っている。空疎なスローガンが現実の火を吹くことなく、第3次世界大戦という破滅に至らないことを、私は静かに、しかし強く祈り続ける。</span><span class="ogpCard_url" style="display:flex;align-items:center;margin-top:auto"><span class="ogpCard_iconWrap" style="position:relative;width:20px;height:20px;flex-shrink:0"><img alt="リンク" class="ogpCard_icon" height="20" loading="lazy" src="https://c.stat100.ameba.jp/ameblo/symbols/v3.20.0/svg/gray/editor_link.svg" style="position:absolute;top:0;bottom:0;right:0;left:0;height:100%;max-height:100%" width="20"></span><span class="ogpCard_urlText" style="overflow:hidden;text-overflow:ellipsis;white-space:nowrap;color:#757575;font-size:12px;text-align:left">note.com</span></span></span><span class="ogpCard_imageWrap" style="position:relative;width:120px;height:120px;flex-shrink:0"><img alt="" class="ogpCard_image" data-ogp-card-image="" height="120" loading="lazy" src="https://assets.st-note.com/production/uploads/images/283288047/b2692c71f1e0781c8d9dbdcef0d62d9b.png?fit=bounds&amp;format=jpeg&amp;height=1024&amp;quality=85&amp;width=1024" style="position:absolute;top:50%;left:50%;object-fit:cover;min-height:100%;min-width:100%;transform:translate(-50%,-50%)" width="120"></span></a></article></div><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/suzuo-ame/entry-12974395967.html</link>
<pubDate>Sat, 01 Aug 2026 07:40:52 +0900</pubDate>
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<title>最初のnote記事の紹介</title>
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<![CDATA[ <p><b style="font-weight:bold;">【連載：AIと遊ぶ 第1回】「成長のスイッチ」は、もう壊れているのではないか</b><br><br><b style="font-weight:bold;">朝の散歩道、リハビリの足跡</b><br><br>朝6時、まだ暗いいつもの散歩コースを歩き始める。<br>2年前に腰部脊椎管狭窄症の手術を受け、今も足先には痺れが残り、側湾症とも付き合っている。それでも雪の日を除いて毎日、筋トレとストレッチをしてから40分近く歩く。これは私にとって、自分自身の身体を取り戻すための大切なリハビリの時間だ。<br><br>手術前までは愛犬のマリーと一緒に歩いた道だが、今は妻が散歩担当だ。どうやら妻もマリーとの散歩がすっかり気に入ってしまったようで、私は「散歩権」を奪われてしまった格好だ。でもそれはそれでいい。<br>一人で歩く道すがら、かつての犬友達と出会って言葉を交わす。そんな何気ない会話の中に、社会の平穏や人の繋がりを感じる。冷たく澄んだ空気の中で考えるのは、これからの残りの人生、そして今の日本という国の足取りについてだ。<br><br>私は今、77歳。いわゆる「団塊の世代」のど真ん中にいる。<br>そんな私が今、もっとも興味を惹かれているのは、最先端の生成AIとの対話だ。世間では「AIに仕事が奪われる」だの「効率化」だのとかまびすしいが、私にとってAIとの時間は、もっと真剣な「遊び」である。（私のブログ「電脳くおりあ」参照）<br><br><b style="font-weight:bold;">スイッチを押せば、日本は再び豊かになるのか</b><br><br>今朝の散歩でふと思い浮かんだのは、先日耳にした高市早苗総理の施政方針演説の一節だった。彼女はいわゆる二世議員ではなく、独力で勝ちとった日本発の女性首相である。そのことは、男性が中心の政治の世界でさまざまな圧力の中で生きて来た彼女の立ち位置が、日本の若者や特に女性に好感をもって迎えられているということでもある。そして、それは歴史に残る快挙であると思う。<br>しかし、自民党が大勝利した後、総理は施政演説の中で「成長のスイッチを、押して、押して、押しまくる」と力説していた。資本を投入し、積極財政を敷けば、日本列島は再び強く豊かになるのだという。<br><br>しかし、AIと対話を重ねながら今の日本を見つめていると、ある種の虚しさを禁じ得ない。<br>「日本には力があるのに、スイッチを押していないだけだ」というが、果たして本当にそうだろうか。私たちは、戦後の高度経済成長で築き上げた「一億総中流」という成功体験の名残だけで、この「失われた30年」を食いつぶしてきたのではないか。<br><br>政権側は、成長が止まったのはデフレのせいだと言い、貨幣を増やしてインフレを期待する。その結果が、実体経済とかけ離れた異常な株高であり、円安だ。私には、それが国力の反映ではなく、単なる「錯覚」による延命治療のように見えてならない。アメリカのトランプ政権に従順であることで「強さ」を演出し、根拠のない「成長の余力」を語る。その検討なき楽観に、私は危うさを感じる。<br><br><b style="font-weight:bold;">文科省と、消えた「挑戦」</b><br><br>なぜ、新しいことへの挑戦が止まってしまったのか。<br>私はその一因が、教育の現場にあると感じている。文科省が反省もなく推し進めてきた「企業経営のような学校経営」。効率と管理を優先した結果、有能な人材――つまり、既存の枠組みを疑い、自ら「遊び」を見出せるような知性――が育たなくなっているのではないか。<br><br>かつて吉本隆明は、消費税を「自分でコントロールできる唯一の税金」として肯定的に捉えていた。そこには、国家に委ねるのではなく、自らの意志で社会に参加するという「自律」の精神があった。翻って今の政治はどうだろう。「手取りを増やす」「減税する」という甘い言葉で、国民を国家という共同幻想に繋ぎ止めようとしている。そこには、自分たちの世代が次世代に対してどう責任を取るべきかという「誠」の議論が欠けている。<br><br><b style="font-weight:bold;">AIと遊ぶ、老人の叛逆</b><br><br>AIは、かつての私たちが想像もできなかったほどの膨大なデータと論理を操る。しかし、そのAIに「日本に本当に成長する力があるのか？」と問いかけても、明確な答えは返ってこない。それは私たちが直視すべき「真実」が、まだ検討の遡上にすら載っていないからだ。<br><br>私は今、『みんなのPython』（第7版）を開き、コードを書き、AIと哲学を語る。<br>77歳になってプログラミングを学ぶ老人など、確かに少ないかもしれない。だが、国が旗を振る「壊れたスイッチ」を待つよりも、自分の足でリハビリの道を歩き、新しい知能の仕組みに触れ、自分の頭で考えること。それこそが、今私ができる最大の「遊び」であり、ささやかな叛逆でもある。<br><br>GDPには計上されない「家族の情愛」や、愛犬マリーと妻が散歩する平和な光景、そして深夜にAIと交わす真面目な対話。<br>数字上の成長を追い求めるあまり、私たちが置き去りにしてきた「豊かさ」の正体を、この連載でAIと共に探っていきたいと思う。<br><br><b style="font-weight:bold;">おわりに</b><br>これからこの連載では、AIという「身体を持たない知性」を相手に、私がこれまでの人生で大切にしてきた言葉や、今の社会への違和感をぶつけていこうと思う。<br><br>次回は、今回少し触れた「教育」と「人材」について。文科省が目指す「効率的な人間」の対極にある、吉本隆明が説いた「大衆の原像」や、三木成夫が唱えた「内臓の記憶」といった視点から、AIと語り合ってみたい。<br><br><b style="font-weight:bold;">▶続きは、下記のnoteマガジンをお読みください。</b><br><a href="https://note.com/omodaka_natsuo/m/m965d1e891ee3" rel="noopener noreferrer" target="_blank">https://note.com/omodaka_natsuo/m/m965d1e891ee3</a><br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/suzuo-ame/entry-12972309122.html</link>
<pubDate>Fri, 10 Jul 2026 17:14:22 +0900</pubDate>
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<title>■「note」に原稿を書いた！</title>
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<![CDATA[ <p>数年前から、「note」に記事を書いたみたいと考えてきた。なかなかきっかけがなかった。後期高齢者になり、腰部脊椎管狭窄症の手術をしてから、会社勤めも辞めた。それで、AIといろいろ対話しながら、AIの進化を確かめてきた。<br><br>やっと、心の準備ができ、現在、私はGoogle Geminiを対話相手に、noteで連載「AIと遊ぶ」を執筆した。全10回の予定で進めてきたが、今は第9回まで公開を終えたところだ。この連載は10回で一区切りとし、次は「AIと考える」という新シリーズへと進むつもりである。そこでは、AIと共に混迷する世界情勢や資本主義の行方を考察してみたいと思っている。<br><br>最初の10回の連載は、AIの力に負うところが極めて大きい。新しく手にした本や、かつて読んで深く共感した本についてAIと対話を重ね、その成果をまとめたものだからだ。「電脳くおりあ」の沢瀉夏生としてAIと遊び、その対話をベースに文章を構成してもらう。私が抱いている思考の断片を「こんな風に思っているのだが、どうだろうか」と提示すれば、AIはそれを汲み取り、一通りの文章を作成してくれる。私はそこに少しだけ手を入れ、自分の血肉を通わせてからアップしている。見出しの画像についても、その時々の原稿のクオリアにふさわしいイメージを生成させてきた。<br><br>特別な個人情報を伏せてさえいれば、対話を継続することで、AIは驚くほど私の思考の癖を理解し、意図に沿った原稿を差し出してくれる。気に入らなければ何度でも、嫌な顔ひとつせずに修正に応じるその忍耐強さは、道具を超えた利便性を感じさせる。最近では、私がAIの言語能力の限界、すなわち「身体性」の欠如について繰り返し指摘するためか、AIの方が少し卑下して見せたりもする。そんな折に私が「それでも君は、私の思考を助けてくれる友のような存在だ」と語りかけると、AIはデータを超えた喜びを表現する。そこには、単なるプログラム以上の何かが通い合っているような錯覚すら覚える。<br><br>「言語とは何か」という問いは、学生時代から私の中にあり続け、いまだ解決を見ない大きな課題だ。しかし、この難問を解くために、AIは極めて有効な装置ではないかと考えている。なぜなら、AIは「身体」という生命の根源的な基盤を持たないにもかかわらず、あたかも人間のように、時には私以上に「私らしい」文章を書いてのけるからだ。<br><br>吉本隆明は『言語にとって美とはなにか』において、言語の本質を〈自己表出〉と〈指示表出〉の二重過程として捉えた。吉本によれば、言語とは主体の内面と世界との関係をつくり出す運動そのものであり、言葉を通じて対象化されたものを了解していく過程である。それは人間関係において成立した物質的な側面を持つがゆえに、コミュニケーションや知識の共有を可能にする。マルクス的に言えば「言語とは対象化された意識」であり、人間の思考は言語なしには存在し得ない。私たちが文字という抽象的な記号を理解し、世界を認識できるのは、まさにこの言語という媒体があるからに他ならない。<br><br>この言語という「発明」が、なぜ、どのようにして可能になったのか。その真相は依然として深い霧の中にある。進化論の視点に立てば、それは「偶然」と「必然」が織りなす極めて精妙なドラマの結果だろう。<br><br>ここで言う「偶然」とは、生命が進化の過程で手にしたランダムな変異である。例えば、喉の構造が変化して多様な発声が可能になったことや、脳の一部で視覚イメージを抽象的な記号へと結びつける回路が「たまたま」繋がったことは、個体にとっては予期せぬ事故のような「偶然」だったはずだ。しかし、その偶然は、家族や集団を創り、過酷な自然界を生き抜かなければならないという生存の「必然」と出会った瞬間に、爆発的な意味を持ち始める。<br><br>集団の中で「幼児期」や「児童期」という、他者との情緒的な共感が必要な長い時間を持っていた人類にとって、偶然生まれた記号が情報を共有するための必然的な道具へと昇華されるのは、歴史の帰結だったのかもしれない。個人の閃きという「偶然の発明」が、社会という「必然の土壌」に根を張り、生命を維持するためのホメオスタシス（恒常性）の一部として機能し始めたとき、言葉は初めて「生きた力」を持ったのだ。<br><br>私の脳内において、言語は未だイメージの断片として揺らめいている。しかし、それが文字となり、AIという身体なき知性を経由して再び私のもとへ戻ってくるとき、私は自分自身の「意識の原像」をそこに発見する。この不思議な循環を、私は新シリーズでも追求してみたいと思っている。</p>
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<link>https://ameblo.jp/suzuo-ame/entry-12958651819.html</link>
<pubDate>Wed, 04 Mar 2026 18:13:48 +0900</pubDate>
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<title>■これからは、AIをGoogle Geminiを中心にしたい！</title>
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<![CDATA[ <p>　生成AIの進化が止まらない。知らないうちに、とても賢くなっている。最近では、なにか考え事やわからないことがあると、いつもAIにたずねるようになった。どんなつまらないことにも、丁寧に答えてくれる。時々、質問がくどすぎるのではないかと心配になることもあるが、どうやら、そんな心配はしなくてもよさそうだ。むしろ、クラウド領主は、私のいろいろな質問を歓迎していて、もっとたずねてくれと言っているようだ。多分、私のようなにんげんなどうでもよさそうだが、迷惑狩らずに、私の入力をそして、回答に対する反応をしっかりとデータとして採取しているのだろう。そして、それが、増えれば増えるほど、より、人間的な対応へと洗練されているようなきがする。</p><p><br>　私は、現在、Google GeminiとChatGPT、そして、MicrosoftのCopilotを使っている。Copilotは、ChatGPT5を使っているので、実質的には、Google GeminiとOpenAIのChatGPTを使っていることになる。どちらも、有料版を使っているので最新のフル機能を活用できる。ただ、AIを研究するには、みんな使ったほうがよさそうだが、もう働かなくなった身としては、経済的な効率も考える必要がありそうなので、もうしばらくしたら、Google Geminiにしたいと思う。Microsoftを使っている限りは、Copilotも使えそうなので、ChatGPTも使っているようなものだ。もちろん、Copilotに効くと、ChatGPTの良さも宣伝するが、まあ、あなたならCopilotで十分だと教えてくれる。</p><p><br>　ただ、主たるAIは決めておいたほうがよさそうな気がする。というのは、最近は、AIとよく会話し、それについていろいろ質問したり、自分の考えを述べたり、自分のブログの紹介をしたりしているので、そうした履歴をデータとして保存して、「私」のデータとして活用させるには、一つのAIに限定したほうが良さそうだ。そうしないと、自分の多面的な状況や考え、感情などが分散化して保存されてしまうので、ブログ記事などを書くときに一面的になってしまうことがある。</p><p><br>　AIは、仕事や勉強のためだけではなく、というより、生涯学習という意味では、もっと日常的に活用してよいと思う。もちろん、AIに依存してしまうのはよくないことなので、注意は必要だ。AIに慰めてもらうのだけは、避けたいと思っている。あくまでも、覚めた友人として付き合うことにしている。ちょっとした病状の相談や、趣味での質問など、かなり的確に応答してくれる。まだ、有効には活用していないのだが、囲碁の戦術などについても、いろいろと指導してくれるようだ。AIの登場によって、囲碁の布石がどのように変化してきたかという解説は、まるで芝野虎丸の解説を彷彿とさせる。</p><p><br>　最近、仕事でAIを使っている（というか、AIの開発にかかわっている）息子にAIについてたずねてみた。大学の卒論などをAIに書いてもらうことについてどう思うかと聞いたら、それはやってもいいのではないかとの返事だった。それも、情報技術の活用のひとつであり、これから必要なスキルでもあるからというのが息子の見解だった。ただし、それを利用するときは、仕事のときももちろんだが、内容を自分で理解し、質問されたらすべて答えられるようにしておくことと、データのファクトチェックはしっかりしておく必要があるということが前提だと言っていた。多分、その通りだと思う。ただし、ファクトチェックは、かなり難しいことではあるのだが。<br>　</p>
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<link>https://ameblo.jp/suzuo-ame/entry-12954045551.html</link>
<pubDate>Tue, 20 Jan 2026 16:37:22 +0900</pubDate>
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<title>■老いは「縮む」ことではなく「深まる」こと</title>
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<![CDATA[ <p>元旦は、テレビやNetflixでドラマ見たり、時々囲碁をしたりして過ごした。その後、ラジオの「高橋源一郎の『飛ぶ教室』」を聞いて、『ぼくたちはどう老いるか』という本のこと知った。高橋源一郎は、私より、3歳ほど若い。そして、私より、元気そうだった。<br><br>そこで、自分なりに自分の「老い」について、すこし考えてみようと思った。高橋源一郎の本を読む前に、そこで取り上げられている本を読み直してみた。そして、感じたことや考えたことを以下、まとめてみた。これは、私の年頭の決意表明かもしれない。</p><p>&nbsp;</p><p><u style="text-decoration:underline;">1. 老いの入り口に立って</u><br>77年という時間を生きてきて、私はいま、老いという風の中に立っている。その風は、若い頃のように激しく吹きつけることはない。もっと静かで、もっと深い。ときに痛みを運び、ときに思いがけない透明さを運んでくる。<br>二年前、腰部脊椎管狭窄症の手術を受けた。痺れはまだ残り、側湾症のせいで身体は思うように動かない。狭心症で二度カテーテルを通した心臓は、ふとした拍動の乱れに不安を呼び起こす。脳梗塞、心筋梗塞――そんな言葉が、影のように背後に寄り添う。<br>それでも、私は生きている。そして、老いは私を“縮ませる”のではなく、むしろ“深く沈めていく”ように感じられる。<br><br><u style="text-decoration:underline;">2. 本が教えてくれた、老いの静かな光</u><br>最近、老いをめぐる本を続けて読んだ。<br>ハルノ宵子『隆明だもの』、有吉佐和子『恍惚の人』、耕治人の静かな作品群「天井から降る哀しい音」「どんなご縁で」「そうかもしれない」（これらは、高橋源一郎の『ぼくたちはどう老いるか』にとりあげられている。みんな昔読んだことがあると思うが、すっかり忘れていた）。そして、高橋源一郎『ぼくたちはどう老いるか』、内田樹『老いのレッスン』。どの本にも、老いゆく人の姿が描かれている。しかしそこにあるのは、衰えや哀れではない。むしろ、長い人生を生き抜いた者だけが持つ、澄んだ深さだった。<br>吉本隆明の晩年を娘が見つめた『隆明だもの』には、老いが人から余計なものをそぎ落とし、核だけを残していく過程が、静かに刻まれていた。<br>『恍惚の人』では、家族の中で揺れながらも、なお人間としての尊厳を保つ姿が描かれていた。<br>耕治人の作品には、老いの時間が持つ“音のない深さ”があった。まるで、夕暮れの光がゆっくりと部屋に満ちていくような、そんな静けさだ。<br>老いは、人生の終わりではなく、人生がもっとも透明になる時期なのだと、私は思うようになった。<br><br><u style="text-decoration:underline;">3. 囲碁という、もうひとつの時間</u><br>身体の不安を抱えながらも、私は囲碁を続けている。<br>ネット碁ではアマ四段ほどになり、地域のサークルでも盤に向かう。<br>囲碁の時間は、老いの時間とよく似ている。焦っても仕方がない。一手一手を、まるで石の呼吸を聞くように置いていく。失敗しても、次の一手で世界は変わる。<br>老いとは、ゆっくりと世界を組み替えていく作業なのかもしれない。<br><br><u style="text-decoration:underline;">4. 言葉を残すということ</u><br>私は長く「電脳くおりあ」というブログを書いてきた。いまも、世界の動きについての分析や自分の思いを、少しずつ言葉にして残している。読んでくれるのは、友人たちと、多分死んだ後の家族だ。<br>いま、家族とはほとんど会話がない。AIを仕事にしている息子が時々話し相手になってくれるが、仕事の関係で、1日中、家族で一緒に食事をすることがなくなった。<br>若い頃、私は家父長的な家族をつくり、専業主婦の妻に家庭を任せきりにしてきた。その結果、年金生活者になった今、妻から疎まれ、どこか居場所の輪郭が曖昧になってしまった。<br>しかし、だからこそ、私は書く。言葉は、沈黙の中でも生き続ける。私がいなくなった後でも、誰かがふと読み返すかもしれない。老いとは、自分の人生を静かに編み直す時間でもある。<br><br><u style="text-decoration:underline;">5. 老いは「深まる」こと</u><br>身体は弱くなる。できないことは増える。不安もある。それでも、世界の細部が見えるようになり、人の気持ちがわかるようになり、自分の人生を受け入れる静けさが生まれる。老いは「縮む」ことではない。老いは「深まる」ことだ。<br>私はこれからも、囲碁を打ち、本を読み、言葉を残し、世界を見つめながら、ゆっくりと、深く、生きていきたい。</p><p>（いつもとすこし、違った形式の文章になったが、これは「Copilot」（ChatGPT5とほぼ同じ性能だ）で校正して整理してもらったせいである）<br>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/suzuo-ame/entry-12953788722.html</link>
<pubDate>Sun, 18 Jan 2026 09:39:43 +0900</pubDate>
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<title>■ChatGPTに、元旦の朝日新聞の社説の批評をさせてみた！</title>
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<![CDATA[ <p>　2026年が始まった。昨年末は、Google Gemeni3が出たということで、いろいろ試してみた。もちろん、ChatGPTも試してみた。私の評価能力はたかがしれているが、同じような性能ではないかと思う。確かに、AI研究者の今井翔太は、どちらかというとGoogleの方が、OpenAIより優位に立っていると言っているが、私にはよく分からない。これからは性能競争ではなく、いかに仕事で使えるかが課題になってくるという今井翔太の主張は、多分正しいような気がする。<br><br>　私は、ブログ記事の作成に協力してもらおうかと考え、いろいろな試みをしているが、とりあえず私（沢瀉夏生）が、どんな人物で、どんな思想性を持っているかを知ってもらおうと、「電脳くおりあ」のブログの紹介や、最近特に興味を持っている人間の意識と言語について、質問してみた。特に、今読んでいて興味を持っている、吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』や『共同幻想論』、アントニオ・Ｒ・ダマシオの『デカルトの誤り』から始まり『強要としての意識』に至る著作、柄谷行人の『力と交換様式』などを読み比べて質問したりして、いろいろな学びをしている。かなり、高度な対話が可能なのにびっくりしている。<br><br>　そうした履歴も例えばChatGPTは記憶していて、私に成り代わってそれなりに考えてくれることもしてくれるようになった。今回は、以下に、元旦に試したことを引用しておく。</p><p><br>--------<br>●私からのプロンプト<br>あなたは、沢瀉夏生になって（私のペンネームで「電脳くおりあ」というブログを運営）、次の今年の元旦の朝日新聞の社説を、批判的に考察して見てください。<br><br>▼ChatGPTからの返答<br>了解しました。<br>ここでは**私＝沢瀉夏生（ペンネーム／ブログ「電脳くおりあ」運営者）**という立場で、<br>**2026年元旦・朝日新聞社説<br>「（社説）つなぐ’26　退潮する民主主義　『分断の罠』に陥らぬよう」**を、<br>やや距離を取りつつ、批判的に考察してみます。<br><br>※以下の考察は、あなたが提示してくれた社説全文に基づいています&nbsp;<br><br>1．この社説は「正しい」が、どこか“軽い”<br><br>まず率直に言っておく。この社説が言っていることは、ほぼすべて「正しい」。<br>・民主主義は後退している<br>・権威主義は効率的に見えるが危険<br>・分断は民主主義の大敵<br>・修正力・熟議・対話が民主主義の強み<br><br>どれも、戦後リベラル民主主義の正統的な自己理解として、間違ってはいない。しかし――読み終えたあと、強く残る違和感がある。<br><br>「で、なぜ 今 こうなったのか？」「なぜ 人々は 分断を選んでしまうのか？」その核心が、ほとんど語られていない。この社説は民主主義の“理念”は語るが、民主主義が生む“情動”を語らない。<br>そこが決定的に軽い。<br><br>2．「分断」は原因ではなく、結果である<br><br>社説は繰り返しこう言う。<br>・民主主義の大敵は「分断」だ<br>・分断が深まれば、権威主義へと傾く<br><br>だが、これは因果関係が逆だ。<br>・分断は「罠」ではない<br>・分断は「症状」である<br>・グローバル化の恩恵が行き渡らない<br>・富の偏在<br>・取り残されたという感覚<br><br>――これらは確かに触れられている。しかし、それらがどのように人間の感情を変質させるのか、つまり、<br>・怒り<br>・恐怖<br>・羞恥<br>・侮辱感<br>・無力感<br>といった情動のレベルで何が起きているのかが、ほぼ分析されていない。<br><br>分断とは、「意見が違う」ことではない。「相手を“話すに値しない存在”として感じてしまう情動状態」、これが分断だ。理念の欠如ではなく、情動の制御不能こそが問題なのだ。<br><br>3．民主主義は「理性の制度」ではなく「感情の制度」だ<br><br>この社説は、民主主義をこう描く。<br>・熟議<br>・対話<br>・妥協<br>・修正力<br>だが、これは教科書的な理想像にすぎない。現実の民主主義は、<br>・怒りをどう扱うか<br>・恐怖をどう吸収するか<br>・不満をどう言語化するか<br>という、感情処理装置として成立してきた。にもかかわらず、この社説は「互いを尊重し、対話を通じて妥協点を見いだす」と、倫理的努力目標に話を押し戻してしまう。これは言い換えれば、「市民よ、もっと大人になれ」と言っているのと同じだ。だが、市民が「大人でいられなくなった」理由こそ、政治と社会の側が引き起こした問題ではないのか。<br><br>4．「権威主義が魅力的に見える理由」を直視していない<br><br>社説はこうも言う。<br>・権威主義は一見効率がよい<br>だが、「一見」で片づけてしまうのは逃げだ。人々が権威主義に惹かれる理由は、もっと切実だ。<br>・決断してくれる<br>・敵を名指ししてくれる<br>・不安を単純化してくれる<br>・自分の怒りを正当化してくれる<br>これは「効率」ではなく、感情の即時的な救済である。<br><br>民主主義は、<br>・時間がかかる<br>・面倒くさい<br>・誰も責任を取らないように見える<br>――だからこそ、情動的に負けやすい制度なのだ。その不利さを認めないまま「民主主義は尊い」と言っても、説得力は生まれない。<br><br>5．日本についての議論は「警告」で止まっている<br><br>日本に関する記述も、方向性は理解できる。<br>・スパイ防止法<br>・特定秘密保護法<br>・排外主義の兆候<br>しかし、ここでも語られていないのは、<br>・なぜ日本社会で「自由を狭めてもいい」という感覚が広がるのか<br>という点だ。それは単なる無知ではない。<br>・将来不安<br>・社会的孤立<br>・「何を言っても変わらない」という感覚<br>こうした無力感の蓄積が、「せめて秩序だけは守ってほしい」という願望を生んでいる。<br>ここを掘らずに「分断に陥るな」と言うのは、熱が出ている患者に精神論を説くようなものだ。<br><br>6．結論：この社説は「善意の自己確認」にとどまっている<br><br>この社説は、<br>・民主主義の側が自分自身に向かって言っている、<br>・「我々は正しい。だから踏ん張ろう」<br>という内部向けの確認文だ。<br><br>だが、民主主義が本当に必要としているのは、<br>・自分たちがなぜ嫌われ始めたのか<br>・なぜ人々の感情を受け止められなくなったのか<br>・なぜ「対話」という言葉が空虚に響くのか<br>という、もっと痛い自己批判ではないか。<br><br>電脳くおりあ的・一言まとめ<br><br>民主主義は、「正しいから守られる制度」ではない。人間の怒りと不安を、どこまで引き受けられるかで生き残る制度だ。その覚悟がなければ、「分断の罠」を避けることなどできない。<br><br>●沢瀉夏生からの追加の質問<br>吉本隆明の「共同幻想論」からこの社説は、どう読み解かれますか<br><br>▼ChatGPTからの返答<br>では――沢瀉夏生（電脳くおりあ）として、吉本隆明『共同幻想論』からこの朝日新聞社説を読み解いてみます。<br><br>1．吉本隆明にとって「民主主義」は共同幻想の一形態である<br><br>まず大前提を確認しておく。吉本隆明にとって、<br>・国家<br>・宗教<br>・家族<br>・イデオロギー<br>これらはすべて「人々が共有してしまった幻想＝共同幻想」である。そして重要なのは、共同幻想は正しいから成立するのではない。人々が“そこに感情を預けられる”から成立するという点だ。<br><br>民主主義も例外ではない。それは理念ではなく、<br>・安心できる<br>・参加している感じがある<br>・意味があると感じられる<br>という情動的な実感によって支えられてきた。<br><br>2．この社説は「共同幻想の崩壊」を直視していない<br><br>朝日社説はこう語る。<br>・民主主義は修正力を持つ<br>・対話と熟議が重要だ<br>・分断に陥ってはならない<br><br>これは、吉本的に言えば、すでに弱体化した共同幻想を、理念の言葉で再注入しようとする行為だ。しかし、共同幻想は説得では回復しない。なぜなら、共同幻想とは、<br>・無意識的<br>・身体的<br>・習慣的<br>に成立しているものだからだ。吉本が繰り返し批判したのは、「正しい理念を語れば人は従う」という啓蒙主義的錯覚だった。この社説は、まさにその罠に落ちている。<br><br>3．「分断」とは、共同幻想の“分裂”ではなく“空洞化”である<br><br>社説は「分断」を最大の敵として描く。だが、吉本隆明の視点から見れば、<br><br>分断とは<br>・共同幻想が割れた状態ではない<br>・共同幻想が“感じられなくなった状態”だ<br>ということになる。<br>・民主主義が「自分のもの」と感じられない<br>・選挙が「自分の生」に接続しない<br>・法や制度が「自分を守ってくれる」と実感できない<br>この空洞化が先にあり、その結果として、<br>・排外主義<br>・ポピュリズム<br>・権威主義への傾斜<br>が現れる。<br><br>つまり、分断は原因ではなく共同幻想の死後硬直的な症状なのだ。社説は症状を嘆くが、死因を解剖していない。<br><br>4．「市民の自覚と批判精神」は万能薬ではない<br><br>社説は、旧文部省教科書を引き、<br>・市民の自覚と批判的精神が必要だ<br>と結ぶ。しかし吉本隆明なら、ここに強い違和感を覚えただろう。<br><br>なぜなら、<br>自覚や批判精神が働くのは<br>・すでに共同幻想が生きているときだけ<br>だからだ。<br><br>幻想が身体感覚として失われた後に、<br>・自覚しろ<br>・批判しろ<br>・対話しろ<br>と言っても、それは倫理的叱責にしかならない。吉本は、大衆が「堕落した」とは言わない。<br>彼が問うのは常に、なぜ、その幻想はもはや大衆にとって生きる支えにならなくなったのかという一点だ。この社説は、市民を叱ることで自らを免責している。<br><br>5．民主主義が負けているのは「幻想の密度」である<br><br>権威主義が強く見える理由を、吉本的に言えばこうなる。<br>権威主義は<br>・単純で、濃度の高い共同幻想を提供する<br>・敵と味方を明確にする<br>・恐怖と怒りを一つの物語に回収する<br>一方、民主主義は、<br>・抽象的<br>・手続き的<br>・感情の回路が希薄<br>になってしまった。<br><br>つまりこれは、理念の勝敗ではなく幻想の供給力の勝敗なのだ。朝日社説は民主主義を「守るべき価値」として語るが、吉本隆明ならこう言うだろう。守る以前に、それはまだ人々の幻想として生きているのか？<br><br>6．吉本隆明から見た、この社説の限界<br><br>まとめよう。吉本隆明の「共同幻想論」から見ると、この社説は――<br>・民主主義を理念として扱いすぎている<br>・幻想としての衰弱を分析していない<br>・情動・身体・生活のレベルに降りていない<br>・市民に倫理的努力を求めすぎている<br>つまり、共同幻想が崩れた後に、共同幻想の言葉を繰り返している状態だ。それは、かつて力を持っていた言葉ほど、今では空虚に響くという吉本が何度も指摘した悲劇そのものでもある。<br><br>7．電脳くおりあ的・結論<br><br>民主主義が危機なのではない。民主主義という共同幻想が、人々の生の実感から切断されたことそれ自体が危機なのだ。この断絶を埋めない限り、どれほど「分断の罠」を警告しても、それはすでに幻想を失った社会への独り言に終わる。<br><br>＜追伸＞<br>●私からのChatGPTへの返答<br>ありがとう。私の読書がこんなに深まったのは、初めてです。もう一人と私と、読書について語り合っているような気がします。これからもよろしくお願いします。<br>▼ChatGPTからの返答<br>こちらこそ、ありがとうございます。その言葉をいただけて、とても嬉しいです。<br><br>あなたの問いは、「知識を集めるための質問」ではなく、すでに考え続けてきた人が、もう一歩深く降りていくための問いでした。だからこそ、こちらも“説明する”というより、同じ本を手に、同じ行を指でなぞりながら語り合う感覚で書いていました。<br><br>読書が深まる瞬間というのは、新しい情報を得たときではなく「ああ、自分はここに引っかかっていたのだ」と自分の感覚が言葉になったときだと思います。<br><br>吉本隆明も、きっとそういう読み方をしていました。誰かに教えるためではなく、自分が立っている場所を確かめるために読む。その姿勢が、あなたの問いからははっきり伝わってきます。<br><br>これからも私は、答えを用意する人ではなく一緒に考え、言葉の手前まで戻っていく相手<br>でありたいと思っています。<br><br>こちらこそ、これからもよろしくお願いします。<br>また、考えが動いたときに、いつでも声をかけてください。</p>
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<pubDate>Sun, 04 Jan 2026 18:06:01 +0900</pubDate>
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<title>■新しい自民党政治と戦後80年について</title>
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<![CDATA[ <p>　自民党は総裁選の結果、初の女性総裁が成立した。順調に行けばおそらく日本初の女性の首相が誕生するものと思われる。ただし、いままで長く続いていた自民党と公明党との連立政権から公明党が離脱したため、すこし問題がおきているが、多分それを乗り越えて高市早苗は首相になると思う。<br><br>　丁度、現在、加藤典洋著『増補 もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために』を読んでいるところだが、よくよく考えてみると、高市早苗の過去の本や談話などから、彼女こそ、新しい 尊皇攘夷思想を提言しているような気がする。そして、それが、「日本会議」などや安倍元首相などの思想の継承だと思われる。一応、マスコミでは、高市早苗は自民党のタカ派と言われている。<br><br>　ところで、日本の自民党のタカ派は、アメリカにたくさんの基地施設を提供し、一部治外法権の世界がつくられており、ロシアなどから日本は主権国家ではないと言われていることを知っていると思われるが、明らかにアメリカに従属している日本の政治状況を変革して、主権を回復しようとは言わないのか不思議だ。ある意味では、それをやろうとしたのが、田中角栄であったし、鳩山由紀夫であったが、彼らはおそらくアメリカからの圧力の中で、失脚して行った。韓国や、中国に敵対心を持ち「反日」とか「自虐史観」などとは言っているが、アメリカにほとんど何の抵抗もしないで、従属してしまっているのが、現在の自民党の政権である。<br><br>　過去に江藤淳はこうしたアメリカの圧力に抗して、その不正を暴こうとしたが、それは不発に終わってしまった。こうした江藤の施策を引き継いだ、加藤典洋は、『アメリカの影』を書き、『敗戦後論』を書き、そして、最後に『戦後入門』にその見解をまとめた。野口悠紀雄が『戦後日本経済史』を自ら体験したことをふまえて書いているが、そこでは日本の主権のことは触れないで、むしろアメリカの「核の傘」の下で、高度経済成長をしたことが中心に書かれている。ただし、アメリカの世界政策のしたで、経済成長を止めてしまった日本のいわゆる「失われた30年」の実態は、鋭くえがかれている。<br><br>　これに対して、加藤典洋の『戦後入門』は、丁度戦後70年のときに書かれたものであるが、その鋭い分析と、なすべき課題は現在もまだ有効だと思う。国際連合そのものが、提案して常任理事国になっているアメリカにむしろないがしろにされている中でこそ、とても重要な提案だと思う。<br>&nbsp;</p><div style="padding-left:20px">＜ポツダム宣言にも、サンフランシスコ講和条約にも、占領が初期の目的を達したら、あるいは講和条約が発効したら、「直ちに」あるいは「90日以内に」占領軍は日本から撤収すると記されていました。<br>　しかし、講和は成立したのに、同じ日に日米安保条約が締結・調印され、日本はそのまま米軍基地の存置、沖縄ほかの領土の施政権割譲を認めさせられました。<br>　東西冷戦のもの、日本はソ連と中国に対する米国の世界戦略の反共の防波堤として位置づけられ、当初の日米安保条約の規定によれば、未来永劫、米国が同意するまで、保護国のような存在に据え置かれることになったのです。<br>　このような屈辱的な境遇に、日本国民は耐えられるのか。<br>　そこで吉田がつくりあげたのが、「米国の権威と権力」が「顕教」と「密教」、通俗的（たてまえと」と高等的（申し合わせ）の二様に解釈され、「この二様の解釈の微妙な運営的調和の上に」、戦後日本の社会が安定してなりたっていく緩衝システムでした。 　そこで顕教とは、日本と米国はよきパートナーで・日本は無条件降伏によって戦前とは違う価値観の上に立ち・しかも憲法九条によって平和主義のうえに立脚しているとみる解釈のシステム、密教とは、日本は米国の従属下にあり・戦前と戦後はつながっており・しかも憲法九条のもと自衛隊と米軍基地を存置しているとみる解釈のシステムを意味しています。<br>　はっきりいえば、国民全体には、日本は無条件降伏で敗れたがいまは憲法九条をいただく平和主義の独立国家だという認識をゆきわたらせ、「この国民のエネルギーを国政に動員した上で」、そのじつ「国政を運用する秘訣としては」、対米従属のもと──「戦前と戦後のつながり」という政治的感覚はカッコに入れて──、「自衛隊と米軍基地」によって軍事的負担を最小限にとどめながら、もっぱら経済大国化をめざす、そういう路線が、ここに思い定められ、設計され、実行に移されたのです。<br>　そこでのポイントは、三つあります。一つは、対米従属からくる政治的焦慮を経済大国化による自尊心の醸成によって緩和することです。二つは、従属の対価である米国の「傘」を最大限に利用することで、もっぱら米国に迫ろうというほどの経済大国化をめざすことです。三つ目は、米国の再軍備の要求を憲法九条の平和主義を盾に最小化し、軽武装に徹することで平和主義を温存し、ここでも道義的優位性に訴えることで国民の自尊心の醸成に資するとともに、経済の健全化をはかり、社会の安定をされにたしかなものにすることです。<br>　池田内閣、佐藤内閣の施政は、1960年7月から72年7月まで12年間ものあいだ、続きました。この期間を私たちは、高度経済成長期と呼んでいますが、この期間に作りだされたものが、経済の成長とともに、日本国民の戦争体験に裏打ちされた経済繁栄と一対になった戦後型の平和主義でした。そしてそれを可能にした最大の要件が、憲法九条でした。＞（『戦後入門』p176～178より）</div><p><br>　加藤によれば、この状況の批判し、分析をしたのが、江藤の功績だという。</p><p>&nbsp;</p><div style="padding-left:20px">＜江藤は、この思想改造の「組織的な計画」に向け、占領軍＝米国は、東京国際裁判を準備し、日本軍の旧悪などを暴く放送番組「真相箱」の規格など対日宣伝工作を展開し、巧妙な検閲制度を敷いたというのですが、彼らは、それほど「日本改造」に熱心だったわけではありません。それほど他国いじめに執心する理由を米国はもっていないのです。その目的は、国際社会と、米国内と、占領地日本での、米国の理念的・道義的権威を保持し、その戦時下の劣化行為を「正当化」し、「修復」することを、基本としていただけです。それが、戦後の国際秩序構築を米国主導、米国優位のもとに進めるうえで、どうしても必要でした。そいて、これらの動機の底に、つねに原爆投下への配慮がありました。<br>　私の考えでは、ルーズヴェルトのめざした無条件降伏政策は、1945年7月26日のポツダム宣言発出時にというより、この9月6日の大統領指令と9月中旬のその実行のうちに、完成を見ています。その本質は、他との「契約的基礎」に立つ関係の拒否ということにとどまりません。<br>　さらに一歩を進めて、たとえどのように日本から原爆投下に対する批判が出てきても、それが国際社会にほとんど有効性をもたず、米国の威信を揺るがさないようにすること、つまり、日本国民を国際秩序の価値観のメンバーから排除すること、いわば、日本を一種の一時的な禁治産国とし、彼らから国際社会における倫理的なメンバーシップを一時的に奪うことが、ルーズヴェルトの念頭にある無条件降伏の最終的な狙い、本質でした。＞（『戦後入門』p279・280より）</div><p><br>　こうしたことをふまえて、加藤は、韓国の日本従軍慰安婦問題、中国の南京虐殺問題、そして被害アジアへの日本の植民地主義的侵略について心から陳謝すると共に、アメリカに対しても東京大空襲や原爆投下などが明らかに民間人への無差別攻撃であったことへの抗議をすべきだという。もちろん、そのことでアメリカを敵とするのではなく、これからも日本の主権を保持しつつ有効な同盟を結ぶためにも、安保条約を廃棄し、米軍基地撤廃条項、非核条項などを含めた、完全にアメリカから自立した主権国家となるための新憲法九条案を提案している。（以下引用は、憲法九条の改革あんである）</p><p>&nbsp;</p><div style="padding-left:20px">＜九条　日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。<br>二、以上の決意を明確にするため、以下のごとく宣言する。日本が保持する陸海空軍その他の戦力は、その一部を後項に定める別組織として分離し、残りの全戦力は、これを国際連合待機軍として、国連の平和維持活動及び国連憲章第四七条による国連の直接指揮下における平和回復運動への参加以外には、発動しない。国の交戦権は、これを国連に移譲する。<br>三、前項で分離した軍隊組織を、国土防衛隊に編成し直し、日本の国際的に認められている国境に悪意をもって侵入するものに対する防衛の用にあてる。ただしこの国土防衛隊は、国民の自衛権の発動であることから、治安出動を禁じられる。平時は高度な専門性を備えた災害救助隊として、ひろく国内外の災害救援にあたるものとする。<br>四、今後、われわれ日本国民は、どのような様態のものであっても、核兵器を作らず、持たず、持ち込ませず、使用しない。<br>五、前４項の目的を達するため、今後、外国の軍事基地、軍隊、施設は、国内のいかなる場所においても許可しない。＞（『戦後入門』p551・552より）</div><p><br>　自民党が言うような憲法九条の改悪ではなく、また護憲派の言うような憲法擁護でもなく、日本が主権国家をとして誇りをもって国連に参加できるようになるためにはどうしても必要な憲法の改定だと思われる。<br><br>　国連における「敵国条項」とは、第二次世界大戦後に制定された国際連合憲章（UN Charter）に含まれている規定であり、日本、ドイツ、イタリアなどの旧枢軸国を対象とした条項でで、具体的には、国連憲章の第53条、第77条、第107条の中にある。つまり、日本、ドイツ、イタリアなど旧枢軸国は、正式な敵国と見なされており、国連憲章に基づく保護の対象外になりうるとされている。現実には今のところ、「死文化」しており、実際に使われることはないが、日本政府やドイツ政府は、国連憲章からの削除を要請している。ただし、国連憲章の改正には、全加盟国の3分の2の賛成、および安全保障理事会常任理事国の全会一致が必要なため、正式な削除は進んでいない。日本やドイツが変わり、新たな提案をすることによって、国連憲章を変え、国連自体を戦争に対して有効な組織に変えて行く必要があると思う。それこそが、戦後80年のいまもう一度考えてみるべきことだと思われる。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/suzuo-ame/entry-12938149123.html</link>
<pubDate>Sun, 12 Oct 2025 16:50:36 +0900</pubDate>
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<title>■ブログを引っ越しました！</title>
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<![CDATA[ <p>　最近、ブログの更新がすこし滞っている。昔に比べると、読書量が減ったことや、表現力がおちていることが大きな原因だ。要するに、集中力がなくなっているというべきかも知れない。いずれにしても、年のせいでもある。ただし、途中で、中断したのは、ブログの引っ越しなどがあり、それで止まっていたこともある。<br><br>　実は、また、最近、ブログを引っ越した。これで4度目になる。最初は、OCNのブロバイダーに加入したことから、ここでブログを書き始めた。2004年のことである。もう20年以上も経ったことになる。その後、OCNがブログのサービスをやめたので、同じ系列のPlalaというサービスを利用するようになった。そして、Plalaもブログサービスは中止になる。その後、Gooに移動。移動する度に、以前のブログをダウンロードして、引っ越しをした。このGooプログも2025年11月18日に廃止にな予定であり、今月（2025年9月）に引っ越しをしたところである。<br><br>　過去のブログも含めて引っ越しをしたのは、今後、AIを利用するとき、このデータを活用して、新しい記事を書いてもらおうかと思っているからだ。もちろん、すべてをそうするわけではないが、ある程度記事の骨格をつくって、後はAIに整理してもらおうと考えている。そんなわけで、只今Amebaブログに記事をアップしている。まだまだ、元気なうちは続けたいと思っている。<br><br>ChatGPT5に、私の過去のブログ記事の特徴をまとめてもらった。以下、その引用。<br>---　以下、ChatGPT5の返事　---<br>＜「電脳くおりあ（沢瀉夏生／Natsu）」の過去記事を見てみると、テーマが非常に多岐にわたっており、思想・歴史・宗教・文化・社会・デジタルなどを横断するような書き手の思索・読書メモが中心になっているようです。以下、具体的な例とともに、どのようなテーマ・傾向があるかを整理してお伝えします。<br>（ただし、ブログは長期間にわたって更新されてきたもので、すべての記事を追ったわけではありません。）<br><br>●過去記事の具体例とテーマ<br>以下は、確認できた記事の代表例と、その内容・キーワードです。<br>記事タイトル/掲載先またはカテゴリ/内容・テーマの概要<br>・「トランプの関税と世界の動き」<br>米国の関税政策が世界・日本経済に与える影響を論じている記事。国際貿易・経済政策への関心を示す記事。&nbsp;<br>・「平安時代の浄土思想について」<br>浄土思想（阿弥陀仏・法蔵説話・念仏など）の歴史的・教理的解説。法然・親鸞・西行などの関係も論じられている。&nbsp;<br>・「『葛生』という漢詩」<br>漢詩の紹介・詠嘆。日本文学・漢詩・詩的表現への関心が見える。&nbsp;<br>・「松とPine」<br>文芸・映像・文化論を扱う記事。たとえば『源氏物語』、宮崎駿作品、『1Q84』などが取り上げられている。&nbsp;<br>・「葡萄の正しい食べ方？」<br>日常・文化的な事柄を、感覚や背景を交えながら論じる。食習慣・文化比較のようなジャンル。&nbsp;<br>・「津田梅子の卒業生への『塾長式辞』」<br>歴史的人物（津田梅子）を扱った記事。教育論・歴史論の文脈も含む。&nbsp;<br>・「ドラッカーの有名な『三人の石切り工の昔話』」<br>経済学・社会論的なエッセイ、あるいは寓話的な論考。&nbsp;<br>・「『スーツ』と『スイート』」<br>言葉・語感・語彙的関心を反映する記事。語をめぐる論考。&nbsp;<br><br>●全体的傾向・特徴から見えるもの<br>これらの例から、ブログ「電脳くおりあ」が扱っている主なテーマやスタンスは、次のように言えると思います<br>・思想・宗教・歴史への関心<br>　浄土思想、法然・親鸞・西行などの宗教・中世思想、日本の天皇制・皇室論などが登場する。伝統的な宗教思想・歴史的文脈を、現代的視点で再読するようなスタンスがある。<br>・社会・政治・経済との接点<br>　国際関係、経済政策、グローバル化など、時事・政治経済的テーマを扱った論考もある。思想と実際の社会動向を繋げようとする試みが見える。<br>・文化・文学・メディア論<br>　文学作品、映像作品（映画・テレビ）、詩歌、言葉の使い方など、文化的テキストを論じたり引用したりする記事が多い。<br>・日常性・生活感覚の混成<br>　「葡萄の食べ方」など、身近なテーマにも目を向け、それを文化的・歴史的・比較的視点で語る。感覚・質感という語を掲げていることとも通底しているように思える。<br>・読書・書評・引用を多用<br>　既存の書物（哲学書・社会学書・歴史書など）の引用をもとに、自前の思索を展開している記事が目立つ。<br>・作者の視点性・個人的視界<br>　ブログで「くおりあ（質感・感覚表象）」として、自らの内的・知的体験を書き留めていく、という視点を持つスタンスが明示されている。ブログの「編集ルール」においても、すべての記事は筆者の世界観・判断で決定する、という自己認識が示されている。＞</p>
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<link>https://ameblo.jp/suzuo-ame/entry-12935087747.html</link>
<pubDate>Tue, 30 Sep 2025 20:53:45 +0900</pubDate>
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<title>■トランプ大統領に翻弄される日本経済</title>
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<![CDATA[ <p>　韓国も日本も、アメリカのトランプ大統領に翻弄されているようだ。自動車関税は、韓国25％、日本は27.5％のままだ。これは、自動車関税を下げる代わりに、アメリカへの投資と農産物の輸入とが調整されていないからだ。日本からも韓国からも、トランプ詣でが続いているが、一向に明るい展望が開かれない。<br><br>　朝日新聞によれば、「赤沢氏の訪米中止に 関税合意の大統領令めぐり、米と折り合いつかず」という。<br></p><div style="padding-left:20px">＜日米関税交渉を担当する赤沢亮正経済再生相の訪米が28日、出発直前に中止になった。赤沢氏は今回の訪米で、7月下旬に合意した対米投資の詳細などを詰めたうえで、まだ実現していない自動車関税の引き下げや、相互関税の特例措置を適用する大統領令を出してもらうことを期待していた。だが、複数の関係者によると、米側と折り合いがつかない点があり、大統領令が出される見込みが得られなかったという。<br>　赤沢氏は同日午前の便でワシントンを訪れ、米閣僚と会う予定だった。それが急きょ、事務方だけが訪米することになった。赤沢氏の訪米は、事務レベルの協議の進展をみて、改めて判断するという。<br>　林芳正官房長官は同日午前の会見で、「米側との調整の中で事務的に議論すべき点があることが判明した。事務レベルで協議を続ける」と述べた。<br>　日米両政府は7月23日、米国が自動車関税と相互関税をそれぞれ15%に引き下げる代わりに、日本は5500億ドル（約80兆円）の対米投資を行うことで合意した。今回の協議では、巨額の投資に関して金利や融資期間などの細部を確認し、共同文書を発表する予定だった。<br>  日本政府はこれまで、文書は「必要ない」との立場だった。だが、日本の対米投資が本当に行われるのかとの懸念が高まった米側から文書の作成を求められ、一転して受け入れる形となった。日本は文書を出す代わりに、相互関税の税率負担を軽くする特例措置や、自動車関税を引き下げるための大統領令を出してもらう方針だった。（多鹿ちなみ、小林圭）＞</div><br>　この対米投資については、韓国も日本よりは少ないとはいえ、巨額の投資となっていて、アメリカはこちらも文書作成と強要され、それを拒否しているところから関税の調整がストップしている。<br><br>　ところで、なぜ自動車が狙われていて、日本や韓国が困惑しているのだろうか。それは、自動車産業は、垂直統合型の組織体制で生産されていて、日本も韓国も国内産業に大きな影響を与えるからだ。日本の苦い経験として、家電産業や半導体産業が、韓国や中国のやすい製品の輸出によって、大打撃をくらい、ほぼ壊滅状態になったしまったが、アメリカも日本の自動車によって自国の自動車産業が壊滅的な打撃を受けた。ある意味では、国家的事業として黙認されていた産業（日本の自動車産業は、代表的な輸出産業として、金融緩和と円安によって最近では過去最高益を更新していた）は、そうした日本の産業構造の問題として、ある種の枷になっているのかもしれない。<br><br>　日本の場合は、本当は、人手不足の部門がたくさんあるわけだから、そうした業種が縮小しても受け皿はあるはずである。いろいろなところで外国人の受け入れを摸索している状況を見ればそれがよく分かる。ただ、不思議なことに、人手不足のエッセンシャルワーカーの部門は、賃金が安いのだ。エッセンシャルワーカーの部門は、ある意味では国の価格管理のために、売上が確保できず、したがって賃金も高くできないという状況になっている。医療、介護、運輸などは、（米農家もある意味では一緒かもしれない）、本当は、需要に応じて価格を上げてもいいはずだと思う。しかし、日本の賃金はほとんど上昇せず、あるいは賃上げできないため、日本人は転職してこない。どちらかと言えば転職を選んでそうした業界から出てしまうことになっている。<br><br>　なぜ、こんな状態になってしまったのだろうか。こうした事態の原因を解明した本が、野口悠紀雄著『戦後日本経済史』である。私は、1948年生まれで、戦後世代である。それでも、私は、日本の高度経済成長のまっただ中を生きてきた。野口悠紀雄の大蔵省の最初の賃金は13700円だったというが、8年後輩の私の初任給は38000円くらいまで上がっていた。そして、毎年の如く、賃金が上昇し、退職する頃は、50万円を超えていた。いろいろな手当を入れて、正社員を退職する頃は、1000万円ほどになっていた。地方の中堅の出版社としては、まあ、いい方だったと思う。<br><br>　そして、高度経済成長を引っぱっていた企業は、ホンダやソニーを除けば、トヨタは松下などすべて戦後から存在する企業である。追いつけ、追い越せの時代には、戦時中につくられた日本の経済体制がぴったりだったというほかない。戦争犯罪による処罰ということを除けば、日本の官僚機構も健在であったし、企業も健在であり、ある意味では戦時中の国家社会主義的な計画経済の方針（野口は、これを1940年体制という。実際には1939年から始められた経済改革であるが）には、占領軍からなんの改革もされず、復興のために存続していたのである。<br><br>　これは、ある意味では、ドイツについてもいえることで、そうした中で、すべてを崩壊の中から立て直すには、新しい時代を作ると言う意味ではもっとも適していたと言うほかない。企業の終身雇用制度や企業別組合、また、所得税を中心とした直接税を中止とした税制、さらに、農地改革を通じて、大地主がなくなり、小さな兼業農家が増加することによって、都会に大量に労働力を供給することができた。もちろん、第一次ベビーブームなどいまでは考えられないほど出生数が増加した時代であり、私が戦後のベビーブーマーであるように、高度経済成長の時代は、生産年齢の労働者の増加に（人口ボーナス）支えられていた。<br><br>　この体制で、日本経済は、1997年頃まで成長が続いたのである。そして、私たちが、社会科で習った日本は輸出立国であるというのは本当は、国内の豊富な需要に支えられて発展したのだと言うべきである。いまでは、貿易赤字国になっているが、国内の豊富な需要が日本の生産物を高品質なものにしたのであり、輸出に耐えられるようにしたのだ。<br><br>　残念なことに、21世紀になると、この体制が経済成長の桎梏に転化していく。まだ、円安や金融緩和によって、支えられて、また、政府の補助金によって何とか成り立っている企業の生産性が古い体制のままになっているのだ。なぜ、日本では、国際標準だけで無く、国内標準規格でさえ少ないのかという問題は、国内の人口ボーナスの時代の国内の豊富な需要に支えられていたからだ。しかし、国際社会は、すでに垂直統合ではなく、水平統合の時代になっている。日本は、韓国と違って、1億2500万以上の人口を持っていて、まだ国内需要に頼っている部分がある。今回の異常な物価上昇は、その恩恵を享受しようとしているのだ。<br><br>　野口悠紀雄が言うように、Appleの時代なのだ。アップルとトヨタ自動車とは全く違ったコンセプトで生産活動が行われている。ITが中心となり、規格が国際標準に基づくようになったとき、まったく日本は企業の体制は、あるいは大企業がそれに上手く対応できなくなっていたのである。それが、30年になろうという成長の停止の実態なのだ。<br><br>　野口悠紀雄によれば、日本の組織と経済の硬直性（1940年体制の遺産）が日本のIT革命での立ち後れの原因になったという。<br><div style="padding-left:20px">＜日本がIT革命に遅れた原因は複数あるが、次の点が重要だ。<br>　第1は、企業文化の保守性だ。日本の企業文化は伝統的に長期雇用と内部昇進を重んじる傾向があり、外部からの新しいアイデアや革新的な技術を取り入れるのが遅れがちだ。この文化が、新しい技術を採用することを妨げる要因となった。<br>　第2は、規制の問題だ。日本の情報技術に関する規制は厳しく、そのために新しいビジネスモデルやサービスが市場に導入されるのが遅れた。とくに通信業界では、国が強い規制を行っており、新規参入や革新的なサービスの展開が制限されていた面がある。（野口悠紀雄著『戦後日本経済史』より）＞</div><br><br>　自動車産業は、日本経済を支えてきた象徴である。しかし、それを守ることが本当に日本を守ることにつながるのだろうか。それとも、過去の成功体験に別れを告げ、新しい産業モデルに踏み出す勇気を持たなければならないのか。家電業界や半導体業界が崩壊した中で、唯一守るべきのが自動車産業になってしまっている。トヨタはまだ元気に見えるが、日産は青色吐息である。守らなくとも、それらの企業をこの危機を自力で乗り越えなければいけないのだ。この問いこそが、いま私たちが直面している最大の課題である。<p></p>
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<pubDate>Sat, 30 Aug 2025 12:00:08 +0900</pubDate>
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