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<title>《リッチライターズ倶楽部》貧乏ブロガーが「たったある事」を知っただけで、累計70万部・出版プロデュース13名を輩出!!</title>
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<description>文「を」売って、夢実現。文「で」売って、スキルUP。新しい仕事の形。さぁ、次はあなたの番です。</description>
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<title>「作者の語り」文体の効果（４）</title>
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<![CDATA[ <center><table><tbody><tr><td width="500" align="left"><b>■絶対の断言をしても構わない場面</b><br><br>　この使い方こそが、物語外視点の持つ効果として、最大の武器になるだろう。うまく使えれば、だが。<br><br>　物語外視点は常に自己言及となる。自己言及ゆえに物語視点は主観描写となる。自己言及で物事を断定した言い方をしたとしても、強い説得力は持てない。「お前の中では正しいんだろ、お前の中だけではな」というヤツだ。<br><br>　しかし先述した通り、物語のルールについて意識的に語る場合ならば物語外視点は許される。ならば主観であったとしても、絶対的に正しい意見、正しくなければならない意見ならばどうだろう。<br>　その意見は確かに主観かもしれない。だが、この物語内では絶対的に正しいものとして扱われなければならない。でないと物語が成立しない。反論の余地は全くなく、「アッ、ハイ」としか答えられない。そんな意見ならば。読者も「そういうもの」として受け入れられるはずだ。<br>　描写では作者が勝手に判断を下してはならない。読者が物語を想像し、入り込む余地がなくなるからだ。だがこの手法では逆に、読者から判断の自由を奪うという効果があるのだ。<br>&nbsp;<center><table bgcolor="#ffff80"><tbody><tr><td width="480">《例》<br>「さあさ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい」<br>「俺のこの手が真っ赤に燃える！　勝利を掴めと轟き叫ぶ！」<br>「今宵の虎徹は血に飢えておる」<br>「アニキは死んだ、もういない！　だけど俺の背中に、この胸に一つになって生き続ける！」<br>「これが逆境だ！」</td></tr></tbody></table></center><br>　こうした言説は既に、講談や落語や浪曲などの古典話芸に近くなる。小説以前の文学、神話や民話といった古来の物語は全て、話者が聞き手に話して聞かせる「ものがたり」だったのだ。この手法は、その時の効果を蘇らせるものだ。原初的、ゆえの強みだともいえる。<br><br>　コツとしては、聞き手に呼びかけるように。高らかに語り上げる。黙読ではなく音読として、リズムの良さを意識しよう。<br>　まあ動画サイトなりレンタルなりで、落語や講談や浪曲を実際に聞くと良い。文字を眼で追うだけではない。こうした口承も文学の、また別の側面。きっと役に立つはずだ。<br>&nbsp;</td></tr></tbody></table></center>
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<pubDate>Fri, 05 May 2017 20:00:00 +0900</pubDate>
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<title>「作者の語り」文体の効果（３）</title>
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<![CDATA[ <center><table><tbody><tr><td width="500" align="left"><b>■自己言及にならない場合</b><br><br>　どんな場合なら、物語外視点が許されるのか。<br>　まずは内容が自己言及にならない場合だ。この場合は大抵が、無人称と変わりない文章になってしまう。主観を極限まで削ってしまえば、確かに自己言及にはならないだろ。<br>　ただし、わざわざ物語外視点の文章を書く意味もなくなってしまう。普通の無人称文では、物語外視点独特の効果も得られないからだ。<br>&nbsp;<center>※</center><br><b>■物語のルールについて意識的に語る場合</b><br><br>　たとえリアリズムの下に書かれた小説だとしても、あらゆる物語には「その作品だけが持つ独特のルール」というものが存在する。<br>　大前提、世界観、暗黙の了解、コード、御都合主義、言い方は何でも構わない。ともかくは「そんなもの」として読まなければ、作品が成立しないというような。物語を支配するルールだ。<br><br>　例えばミッキーマウスはネズミなのに、人の言葉を喋り、人のように生活している。だがミッキーの飼うペットであるプルートは喋らず、動物の犬として振る舞う。それがグーフィーになると同じく犬の姿をしているというのに、ミッキーのように人として振る舞っている。<br>　なぜなのか。理由はないに等しい。だが、ともかくミッキーとグーフィーは人のように振る舞い、プルートは動物として振る舞う。「そんなもの」として鑑賞しなければ、ミッキーマウスという作品は鑑賞できないようになっている。<br><br>　こうした「物語のルール」を物語内の存在は知らない。「物語のルール」を知りうるのは、物語外の存在だけだ。というわけで作者が「物語のルール」について言及するのは、仕方ないこととして許されることになる。<br>　昔話の枕詞として使われる「むかしむかし、あるところに」という常套句もそうだ。「今から語る物語は、現在われわれとは関係ない場所・時間で起こったのですよ」という暗黙の了解を、語り手と聞き手で互いに交換するための言葉なのだ。<br>&nbsp;<center>※</center><br><b>■異化効果を狙う場合</b><br><br>　物語内の存在は全てが、作品の雰囲気を統一させるという使命を持った奉仕者といって良いだろう。作品に関係ない存在は、排除されて当然になる。そこに物語外視点という異物が入り込んだらどうなるか。<br>　上手く行けば、異化効果を得られることになる。<br><br><a target="_parent" href="http://p-o-v.sakura.ne.jp/high/hiyu3.htm">参考１</a>　<a href="http://p-o-v.sakura.ne.jp/high/hiyu4.htm">参考２</a><br><br>　それに対して、一人称は同化効果を狙った文章だといえるだろう。<br>　また三人称文の中で異化効果を狙って、物語外視点を使った場合。「客観的な一人称」に似た効果も獲得できる。というのも物語内から物語外へ視点が移動することで、物語内の出来事がいわば他人事になる。するとモチーフを突き放した、冷静な見方になるのだ。<br><br><a target="_parent" href="http://p-o-v.sakura.ne.jp/lecture/siten-18.htm">参考３</a>　<a target="_parent" href="http://p-o-v.sakura.ne.jp/lecture/siten-19.htm">参考４</a><br><br>　自分で判断した意見よりも、他人の意見の方が正しく聞こえたりしたことはないだろうか。同じ理屈で、物語に対して他人事となった物語外視点の文章では、事実性が高まったように読めてしまうことになる。<br>　だからこそ、推測や憶測は物語外視点では危険になる。推測と事実性という、相反する効果が衝突・矛盾した文章になってしまうからだ。つまりこれも自己言及になるのである。<br>&nbsp;</td></tr></tbody></table></center>
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<link>https://ameblo.jp/syousetsu--tk/entry-12192692709.html</link>
<pubDate>Wed, 03 May 2017 20:00:00 +0900</pubDate>
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<title>「作者の語り」文体の効果（２）</title>
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<![CDATA[ <center><table><tbody><tr><td width="500" align="left">さて、ここで<a target="_blank" href="http://p-o-v.sakura.ne.jp/lecture/siten-13.htm">先述</a>した、視点の大原則について思い出してほしい。<br>&nbsp;<center><table bgcolor="#ffff80"><tbody><tr><td width="480">●観察は、焦点子から、モチーフに向かって行われる。<br>●モチーフから焦点子自身へ、観察が逆行することはできない。<br>●自分自身を客観的に知ることはできない。</td></tr></tbody></table></center><br>　物語外視点の文章とは、作者が自分自身について語っている。つまりモチーフは自分だ。作者として物語について語ったとしても、その物語を考えたのは作者だ。だから自分で自分について語っているのには違いない。<br>　ということは、物語外視点では「モチーフから焦点子自身へ、観察が逆行することはできない」および「自分自身を客観的に知ることはできない」という原則を破っていることになる。<br>　そう。物語外視点とは、根本的に視点の狂った《自己言及》の文章なのだ。<br><br>　例えば「果たして彼らの運命やいかに！？」という物語外視点の文章があったとする。だが、そう語る作者は「彼ら」の運命を、当たり前だが知っているわけだ。なにせ他の誰でもない作者なのだから。<br>　ということは、この「果たして……」という文章とは、作者が自分で自分の物語に対して、「私の語るこの物語は波瀾万丈ですよ」と自己評価を下しているに等しい。つまりは自己言及なわけだ。<br><br>　物語内の存在は、物語外の存在を知り得ない。焦点子が物語内に位置する場合、物語外の存在を描写することは出来ない。対して物語外視点の焦点子は、物語内も物語外も、全てを描写することが許される。物語外視点の焦点子は、物語内に対して、全知の存在として機能する。<br>　といっても視点の狂った文章であることには違いない。自己言及や視点の狂い、という悪文に対する危険を覚悟で、《毒消し》が必要だ。なので物語外視点文は、ある特定の効果を狙って使われることになる。<br><br>　なので物語外視点を使っても構わないのは、以下のような場合になるだろう。次章ではそれぞれの条件について詳しく説明する。<br>&nbsp;<center><table bgcolor="#ffff80"><tbody><tr><td width="480"><b>「作者の語り」が可能な場合</b><br>●自己言及にならない。<br>●作者自身が物語のルールについて意識的に語る。<br>●「物語自体」に対する、異化効果を狙う。<br>●絶対の断言をしても構わない場面。</td></tr></tbody></table></center></td></tr></tbody></table></center>
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<link>https://ameblo.jp/syousetsu--tk/entry-12192692595.html</link>
<pubDate>Tue, 02 May 2017 20:00:00 +0900</pubDate>
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<title>「作者の語り」文体の効果（１）</title>
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<![CDATA[ <p>物語に没頭しているはずの読者へ、なぜわざわざ作者が口出ししなければならないのか。作者の視点にはどのような意味があるのか。もちろん、それなりの効果があるからだ。<br><br>　どんな視点・人称であっても、作者が書いているのに違いない。どんな人称も、《作者の語り》のバリエーションのひとつに過ぎない。要は、作者の設定する《語り手》が「誰」のつもりになって、代弁して物語を語るか、によって視点も人称も変わっているということになる。<br><br>　そうすると三人称とは、セリフの話法でいうならば、作者が間接話法で物語を語っているということになる。<br>　間接話法とは他人の言ったことを文章の中に表現するとき、そのまま引用することをしないで、書き手の立場からその内容を間接的に述べる話法のことだ。<br>&nbsp;</p><center><table bgcolor="#ffff80"><tbody><tr><td width="480">《例》彼はおはよう、と朝の挨拶を述べた。</td></tr></tbody></table></center><p><br>　つまり三人称とは、物語内の独白・セリフを、作者が代弁してあげているという文体だ。<br><br>　ならば一人称はどうなるのか、というと直接話法になる。<br>　直接話法とは、文章の中で他人の言葉を引用する時に、そのままの形で書き表す表現法だ。例えばカギ括弧（「　」）を使って、セリフをそのままの形で書けば、直接話法ということになる。<br>&nbsp;</p><center><table bgcolor="#ffff80"><tbody><tr><td width="480">《例》ボクは挨拶した。「お早うございます」</td></tr></tbody></table></center><p><br>　一人称の場合は全編、主人公の独白まで含めてカギ括弧すら使わず直接に、それこそ心の流れまで読者へ伝えられる。だから、内心全ての直接話法こそが、すなわち一人称であると考えても良いかもしれない。<br><br>　すると物語外視点はどうなるかというと。三人称のように、他の誰かキャラになりきるのでもなく、誰か他人について語るのでもない。作者自身の内心を、一人称で読み聞かせることこそが、物語外視点の文章ということになる。</p>
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<pubDate>Mon, 01 May 2017 20:00:00 +0900</pubDate>
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<title>物語外視点とは何か</title>
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<![CDATA[ <p>物語外視点とは何なのか。当講座で既に先述した箇所を再確認してみよう。</p><center><table bgcolor="#ffff80"><tbody><tr><td width="480">　焦点子が物語世界の外に存在していた場合に《物語外視点》となる。これは例えば、全知全能の神様や、物語の内容を回想する語り手が、焦点子であった場合に相当する。物語内の世界には存在しない、無関係な焦点子が《物語外視点》だ。<br><a target="_blank" href="http://p-o-v.sakura.ne.jp/lecture/siten-10.htm">《視点10より引用》</a></td></tr></tbody></table></center><p><br>　固定視点ならば、特定のキャラの主観だけを出せば良い。だから主観の在処に困ることはない。だが不特定視点になると、どう主観を出すかに困ることになる。<br>　ならば物語外視点はどうなるか。物語外視点は、不特定視点でありながら同時に、とある焦点子に固定されて限りなく特定視点に近くなる。その焦点子とは、いったい誰の主観なのか？<br>　実は物語外視点とは、物語の作者が好き勝手に語っている状態を言う。「物語外視点＝作者の視点」なのだ。物語内に対しては不特定であっても。作者自身の主観による視点文だから、ある意味で固定視点といえるのだ。<br><br>　物語外視点すなわち、作者の視点が小説内でどう使われるか。いくつかの例を紹介しよう。<br>&nbsp;</p><center><table bgcolor="#ffff80"><tbody><tr><td width="480"><b>《物語外視点の実例》</b><br>●「その時はまだ彼ら（私たち）は、行く手に困難が待ち受けているとは思いもよらなかった」<br>●「ところで私は作者だが……」<br>●「これについて読者である、あなたはどう思うだろうか」</td></tr></tbody></table></center><p><br>　上のような文章を読んだことが、皆さんにもあるのではないだろうか。物語外視点を使うことは難しくない。むしろ素人こそ多用しているのを見かける。<br>　だが物語外視点は、得られる効果が難しい上に、使いようによっては大失敗になってしまう。容易く使おうとしてはならない。かなり条件は限られるが、使用方法というのがあるのだ。</p>
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<pubDate>Sun, 30 Apr 2017 20:00:00 +0900</pubDate>
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<title>一人称と語り手</title>
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<![CDATA[ <p>しかし主客の差が使えるのは、主に三人称文だけ、という印象があるだろう。<br>　では、一人称では客観的な描写は行えないのだろうか。行えないのなら、一人称はいつまでも《登場人物内》から離れられない。ずっと主観描写のみで、客観なことはない。と言うことになる。<br>　ならば一人称では、視点が狂わないのか。一人称では主客の量に変化はないのか。もしくは、視点は移動しないのか。実はそんなことはない。<br>　以下の例文を読んでほしい。<br>&nbsp;</p><center><table bgcolor="#ffff80"><tbody><tr><td width="480">・《例文１》：「私は花子だ」<br>・《例文２》：「私が花子だ」</td></tr></tbody></table></center><p><br>　ふたつの例文の差がわかるだろうか。《例文２》の方が、《例文１》より客観的になっている。言ってみれば《例文２》は、ほんの少しだけ客観的な一人称文だと言える。<br>　更に突き詰めてみよう<br>&nbsp;</p><center><table bgcolor="#ffff80"><tbody><tr><td width="480">・《例文Ａ》：「私は嫌な予感がしていた」<br>・《例文Ｂ》：「嫌な予感に私が襲われていた」<br>・《例文Ｃ》：「（自身を指して）自分を嫌な予感が襲っていた」<br>・《例文Ｄ》：「（自分で自分の名前を呼んで）花子は嫌な予感がしていた」<br>・《例文Ｅ》：「（自身を指して）彼女は嫌な予感がしていた」</td></tr></tbody></table></center><p><br>　普通の主観的な一人称文である《例文Ａ》から順番に、少しずつ客観的な文章にしてみた。<br>　《例文Ａ》はほぼ普通の一人称の主観だが、《例文Ｅ》ともなると客観的になり過ぎてしまい、三人称文と変わりなくなっている。<br>　以上から分かることがある。一人称文すなわち《登場人物内視点》が客観的になると、イコールで三人称文すなわち《登場人物外視点》になるのではない。《例文Ｅ》にまで主観性が薄められても、自分で自分のことを話しているのには間違いない。つまりは、一人称文であり、《登場人物内視点》であることには違いない。<br>　つまり一人称文だけでも、こんなにも視点の幅がある、ということだ。こうした一人称でありながら、自分を客観的に見つめる視点を《客観的な一人称》という。</p>
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<link>https://ameblo.jp/syousetsu--tk/entry-12192691907.html</link>
<pubDate>Sat, 29 Apr 2017 20:00:00 +0900</pubDate>
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<title>心理描写における主客（３）</title>
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<![CDATA[ <p>参考までに、他人の心理描写で主客がどう表出されるか、ボクなりに段階に分けてみた。<br>&nbsp;</p><center><table bgcolor="#ffff80"><tbody><tr><td width="480">【例文Ａ】主観での心理描写 ： 彼女は美しいと僕は思った。<br>【例文Ｂ】客観での心理描写（１） ： 彼は彼女が美しく見える。<br>【例文Ｃ】客観での心理描写（２） ： 彼に彼女は美しく見えた。<br>【例文Ｄ】表層的な心理描写 ： 彼は彼女に見とれているようだった。</td></tr></tbody></table></center><p><br>　Ａが最も主観に近く、ＡよりＢの方が、ＢよりＣが、ＣよりＤと、どんどん客観的になっている。どう違うか、理解いただけるだろうか。<br>　もう、ここまで行ってしまうと、論理的に説明しづらくなる。たぶん、国語の文法学者でもないと、この差を《技術》としてお教えすることはできないだろう。今のボクもまだ感覚としてしか、差のつけ方を身につけていない。<br>　後はすまないが、各人で努力してほしい。<br><br>　話を戻そう。<br>　だからつまり、《登場人物外視点》での心理描写でも上記例文のどれかのランクに固定していれば、読者も混乱はしないだろう。<br>　例えば、《登場人物外特定視点》で、焦点子にのみ「主観での心理描写」を行う。その代わりに他の登場人物の主観は介在させない。もしも他の登場人物の心理描写を行う時は「表層での心理描写」となる……とか。<br>　また例えば、《登場人物外不特定視点》つまりは「神の視点」の場合。全ての登場人物に対し、「客観での心理描写」まで許してしまったり。もしくは「表層的な心理描写」のみに留めておく……とか。<br>　焦点子の設定により、いろいろな方法が考えられるはずである。<br>　ただし「表層的な心理描写」はどの視点の位置でも許される場合が多い。主観の介在が少ないからだ。視点を意識するのが面倒になった箇所があったなら、この表現に抑えておくと無難になるので、憶えておいて損はないぞぉ。<br><br>　とりあえず理解してほしいのは、主観と客観の間でも段階がある、と言うことである。オンオフ・あるなしの二元論ではないのだ。<br>　例えば《登場人物外特定視点》でも、心理描写を行っていれば《登場人物内視点》に近づく。また逆に《不特定》の方に近づくこともある。<br>　だから視点の分類は意味がないのだ。<br>　もうちょっと近づけようかな、とか。もうちょっと客観的にしていようかな、それなら三人称だな、とか。<br>　だから一人称と三人称には、明確な違いはない。別物ではないのである。<br><br>　もしも、本当の達人であれば、こんな離れ業だって不可能ではない。<br>　例えば、ひとつの作品の中で、最初は《登場人物内視点》から《登場人物外特定視点》へ移行し、そのまま読者に矛盾を感じさせずにラストでは《物語外視点》になっている。一人称のはずが、気がついたら三人称になっている……などなど。<br><br>　かなり実験小説的な試みだ。しかし過去に例がなかったわけではない。ゆえに不可能とは言わないが、熟練するまでは、やめておいた方が無難である。<br>　それ以前に初心者であれば、視点の《立場》を固定しながら文章を書くだけでも、難事となるはずだ。<br>　やはり視点は固定して、狂わせないのが、オーソドックスである。ベーシックは、王道であるがゆえにベーシックなのだ。<br><br>　と以上、ベーシックを踏まえた上で、ここからが応用。上級者向け。視点のさらなる深奥にご案内しよう。</p>
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<link>https://ameblo.jp/syousetsu--tk/entry-12192691730.html</link>
<pubDate>Fri, 28 Apr 2017 20:00:00 +0900</pubDate>
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<title>心理描写における主客（２）</title>
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<![CDATA[ <p>他人の気持ちはわからない。だから《登場人物内視点》でも、他人の気持ちはわからない。そうなると、今度は《登場人物外視点》つまり三人称では、あらゆる登場人物の内部、つまりは心理を知り得ないことになってしまう。<br>　確かに、厳密な言い方をするならば、《登場人物外視点》での主観描写は全て許されない、と言えるだろう。仕方なく、他人の心理描写を行いたいのなら、主観を排した客観描写となる。だから<br>&nbsp;</p><center><table bgcolor="#ffff80"><tbody><tr><td width="480">彼は怒る。</td></tr></tbody></table></center><p><br>と言う文章は正しくないと言うことになってしまう。これを手直しするとしたら、<br>&nbsp;</p><center><table bgcolor="#ffff80"><tbody><tr><td width="480">　彼が怒った。</td></tr></tbody></table></center><p><br>の方がより客観的で、正確になるだろう。<br>　しかしこの例でも、まだある程度の独断が含まれた、焦点子の《主観的な意見》であると言えなくもない。より客観的な描写にするとしたら、<br>&nbsp;</p><center><table bgcolor="#ffff80"><tbody><tr><td width="480">彼は怒っているようだった。</td></tr></tbody></table></center><p><br>くらいとなる。しかし「……らしい」と思うのも、誰かの主観には違いない。<br>　というように、主観の有無なんて机上の空論を重ねても、キリがない。堂々巡りになってしまう。<br><br>　現実問題として、全くの主観が介在しない文章と言うものはありえない。逆に主観を排除することによるデメリットの方が大きくなる。<br>　デメリットにも色々ある。例えば、文章が他人事となってしまい、読者が感情移入できなくなってしまう。物語へのリアリティを感じられなくなってしまう。そもそも書き手としても、提示できる情報が限定されすぎて、小説を書きにくい。<br>　理想としては大層だが、読者も作者も面倒なこと、この上ない。<br>　ゆえに語り手は選択しなければならない。自己言及による説得力のマイナスを覚悟で、主観描写を行うか。印象は薄くなるが客観描写を行うことで、文章としての論理的整合性を採るか。<br><br>　というわけで。<br>　語り手はある一定のレベルまでしか、主観を表出しないと決める。その上で心理描写が行われれば、読者にも混乱は生じない。乱暴な言い方ではあるが、その方が読者も「そんなもの」だと納得した上で作品を読んでくれる。対して主観の表出レベルが、一部分だけ著しく違っている場合、視点が狂っていると見做されることになる。<br>　現実的なやり方としては一般に、このような方法が採られることになる。<br><br>　例えば《登場人物外不特定視点》もしくは《物語外視点》の場合。これらを《神の視点》と言うこともある。これらの視点になると、全ての人物の心情・行動がわかっても良いと言うことになる。<br>　他方では、いやそれはおかしい。《登場人物外視点》で、しかも登場人物の主観からは、かなり離れる《神の視点》ならば、誰ひとりでも登場人物の内なる心情がわかってはならない、と言う意見もあるだろう。<br>　だが神の視点をとりあえず選べば、あまり視点に悩む心配もない。<br><br>　それが《登場人物外特定視点》になると、主人公の背後について、その人物の気持ちだけがわかると言うことする。他の登場人物に関してはブラインドであるとして、心理描写は行わない。すると読者もそのようなルールさえわかっていれば、読んでいて混乱は生じなくなる。<br>　……と以上が、従来の視点と人称に関する考え方だ。<br><br>　という、これも結局は主客の表出をどのくらいにの量にするかと言う、度合いに過ぎない。<br>　神様は全知全能の存在だから、《神の視点》ではどのような描写を行うことも許される、と言うのも間違いである。《神の視点》と言う呼称は、比喩に過ぎない。<br>　かといって全ての登場人物に対して、主観描写を行っていれば、たちまち文章は強さを失ってしまうだろう。<br>　あらゆる視点の位置は、主客の差から生じている。ただそれだけの違いしかありえない。</p>
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<pubDate>Thu, 27 Apr 2017 20:00:00 +0900</pubDate>
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<title>心理描写における主客（１）</title>
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<![CDATA[ <center><table><tbody><tr><td width="500" align="left">こと心理描写になると、途端に視点の問題は難しくなる。心理描写は全て主観だ。他人の心の中こそ、誰も中身を見透かせない。例えば扉の向こう側が透けて見えないように、後ろ手に隠した物が見えないように。他人の心中は、視線を隠す《ブラインド》として機能して観察できないからだ。<br>　ゆえに《立場としての視点》をどこに置くか。焦点子は自分なのか他人なのか。間違えれば、ドアの向こう側が透けて見えるような文章になってしまい。あっという間に視点が狂ってしまう。<br><br>　心理描写とは、登場人物の内面に関する記述である。他人からは、相手の心の中は見えない。事実として観測しづらい。よってどうしても心理描写は主観描写となりやすい。そもそも心理状態とは主観に属するものである。<br>　よって先述した《自己矛盾》の理論を厳密に守ると、全ての主観描写が許されなくなってしまう。<br>　これでは小説が書けなくなる。<br><br>　小説における心理描写はどこまで許されるのか。つまりは、あえての自己言及を行っても、どこまでなら読者は許してくれるのか。ボーダーを明確にする必要がある。なので幾つかの例を提示してみよう。<br><br>　まずは《登場人物内視点》つまりは一人称で行われる心理描写の場合。<br>　一人称での、焦点子自身の心理描写は許されている。「自分はこう思った」と、自分が認識する。これは事実だ。観測者は自分しかいない。自分のことは自分でわかっているのだから、説得力は必要ない。<br>　許されないのは《自己言及》。つまりは「自己の客観視」をするための主観描写だ。だから一人称では自己言及になってしまうので、自己紹介が難しいといわれている。<br><br>　そして一人称でも、他人の心理を描くのは許されない。これは単純に考えて、他人の気持ちはわからない、ブラインドだから、と言うことになる。悪い例を挙げるなら<br>&nbsp;<center><table bgcolor="#ffff80"><tbody><tr><td width="480">アイツは怒った。</td></tr></tbody></table></center><br>と言う文章には正確さはない、ということになる。焦点子である登場人物が、誰かの様子を見て、勝手に代弁している。もしくは類推・判断し、個人的な意見を述べているに過ぎないからだ。<br>　そう。<br>　他人の心理は、行動や様子と言った表層から想像するしかない。他人の心理は「このような様子がある、だからきっとアイツはこのような心理状態に違いない」と自分が勝手に想像しているだけだ。<br>　だからこの例文も、一人称としてもう少し正確に書くならばこうでもした方が良いだろう。例えば<br>&nbsp;<center><table bgcolor="#ffff80"><tbody><tr><td width="480">　アイツが額に青筋を立てているのに、俺は気がついた。<br>　何かに耐えているのだろうか。<br>　ヤバイ。どうやら怒っているようだ。</td></tr></tbody></table></center><br>と言うように。<br><br>　だがこれでも、ある程度の意見と独断と判断が必要となってくる。つまり他人の心理を描写するためには、必ず多少なりともどこかに、焦点子の主観が介在せざるをえない。<br>　ただこの問題も、一人称ならば焦点子が「わたし」が変わることはないのだから、読者が混乱することはない。焦点子の主観が介在されたとしても、読者は「ああ、主人公はアイツをそう思っているのだなあ」と勝手に納得してくれるからだ。<br><br>　だが、これが三人称すなわち《登場人物外視点》ならば、どうなるだろう。どうしても焦点子の主観が入り込むとするならば。どこまでの意見の量、語り手の独断の介在が許されるのか、を考えなければならない。<br>&nbsp;</td></tr></tbody></table></center>
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<link>https://ameblo.jp/syousetsu--tk/entry-12192691325.html</link>
<pubDate>Wed, 26 Apr 2017 20:00:00 +0900</pubDate>
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<title>視点のフレーム（２）</title>
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<![CDATA[ <p>では５つの視点の位置を、<a target="_blank" href="http://p-o-v.sakura.ne.jp/lecture/zu-7.png">図</a>にしてみた。<a target="_blank" href="http://p-o-v.sakura.ne.jp/lecture/zu-7.png">こちらを参考</a>にしながら読み進めてほしい。<br>　外側の黒い太枠は、物語内外の区切りを。人の形をしたものは、物語内の登場人物を。赤い文字のアルファベットは、焦点子の位置を。それぞれ表している。<br>　そして各焦点子は、<br>&nbsp;</p><center><table bgcolor="#ffff80"><tbody><tr><td width="480">　・Ａ：物語内登場人物内視点<br>　・Ｂ：物語内登場人物外特定視点<br>　・Ｃ：物語内登場人物外不特定視点<br>　・Ｄ：物語外視点<br>　・Ｅ：物語外登場人物内視点</td></tr></tbody></table></center><p><br>に相当する。<br>　《物語外》と《登場人物内》を行き来している、Ｅの矢印については、まだ気にする必要はない。あとで説明しよう。<br><br>　この図からわかることを補足しておくと。<br>　まず、物語の登場人物は、必ず物語世界の内部に属している。だから《登場人物内視点》は、（ごく一部の例外を除き）必ず《物語内視点》となる。<br>　次に、《登場人物内視点》は、他の《観点》でモチーフを見ることはない。つまり、登場人物の中から動けないので、必ず《特定視点》となる。<br><br>　そしてここからが重要なのだが。<br>　<b>観察は、焦点子から、モチーフに向かって行われる。</b><b>モチーフから焦点子自身へ、逆行することはない。</b><br><br>　だからまず、《物語内視点》の焦点子は、物語外を知り得ない。<br>　すると一人称で「俺たちをあんな悲劇が襲うなんて、今はまだ知らなかった」と言う一文はありえない、と言うことになる。これは《物語内視点》ではなく、《物語外視点》による文章である。なぜなら物語内の存在には、未来に起こる出来事を知りようがないからだ。<br>　物語外にとっては《物語内》の全てが既に、描き出すべきモチーフなのである。<br><br>　これはまた、自分自身を客観的に知ることができない、と言うことでもある。人は、自分で自分の姿を見ることはできない。ゆえに「私は可愛い」とか、「俺は青ざめた」と言った文章はありえない、と言うことになる。<br>　自分で自分の姿を見ようと思っても。鏡や他人を通して、間接的にしか自分を知ることができない。<br><br>　このことに関してはまだ、もう少し詳しい説明が必要となるだろう。</p>
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<link>https://ameblo.jp/syousetsu--tk/entry-12192691009.html</link>
<pubDate>Tue, 25 Apr 2017 20:00:00 +0900</pubDate>
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