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<title>ヘスティアの火</title>
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<description>日々の生活で思ったことを書いていきます。</description>
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<title>意味があって欲しくないものなんですか？</title>
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<![CDATA[ <br>最近、梵我一如とまではいかないけど、そういう世界観が分かってきたように感じる。<br><br>何て言えばいいんだろう、自分は自分でしかないけれど、自分はどこにでもいるようにも思える感覚。<br><br>世界は僕と関わりを持ってるから、ある意味、僕が無くなれば世界も変わるんじゃないかっていう、なぜか満足した感覚(笑)<br><br><br>実存主義の哲学者は、自ら社会に関わって自己と他者との関わりを築くことで、自分というものがちゃんと作られるって考えたんじゃないかと思ってます。<br><br>でも、２人部屋の寮で１年過ごしたり、狭い人部屋で２人で寝たり、僕は最近他人との関係を築いているのに、なぜか自己という感覚が薄いように思いました。<br><br>逆に、自分を最も強く感じるのは友人がこないような道で自転車をこいでいる時。<br>渋谷のスクランブル交差点の中にいる時。<br>遠くのお店で一人で外食してる時。<br><br><br>やっぱり、他者の解釈によりかからないで、自分を感じてる瞬間って僕は好きです。<br><br>無制約的なものは無制約的なもののままにしておくことの良さというかなんというか、<br>物事を急いで分かったつもりにならないことの良さを感じるようになってきてるんじゃないかと個人的には思ってます。<br><br>人はどうしても制約的な中にしか意味を見いだせない生き物な気がしちゃうんだけど、<br>それだけじゃ何か満足できない様な感覚にとらわれている自分がいる。<br><br>それって僕には嬉しい事かな。<br><br>俗に言う意味での幸せにはなれないのかもしれないけど、<br>「よりよく」自分を知れると思う。<br><br>まあ、意味の上で生活している僕たちには関係ないことなのかもしれないけど。<br><br><br>友達が<br><br>「意味があってほしくないものなんですか？」<br><br>っていう問いを書きこんでいた。<br><br>彼自身の答は「祈り」だそうです。<br><br><br>ある世界の解釈を肯定することにおいて、祈りや信仰の要素はあると思います。<br><br>自ら制約に束縛されることは、生きていくためには非常に有意義で、<br>しかし、無制約的なものを捉えようとする時においては無意味でもあるかと思います。<br><br>彼が言いたいことは分かりません。<br><br>でも、僕が彼を束縛することは良くない様な気がするので、<br>それはそれでいいとも思います。<br><br>ただ一つ。<br>こういう所で共感を生むことのできるのは、言葉の凄いところだと思います。<br>言葉によって生きているから、同じように言葉で切り取ったものなら、言葉の上で扱える。<br><br><br>人間は意味の中で意味によって生きている。<br>ならば、その言葉に振り回されるのが人生。<br>でも、振り回されないように生きるのも人生。<br><br>僕は前者の方が幸せな気がするけど後者として生きていきたい。<br><br><br>こんなことを考えていたら、一人で遊んでみたくなって、<br>ヒトカラ（一人カラオケ）とかヒトプリ（一人プリクラ）とかやって、<br>その写真をFacebookにあげたら、炎上したかと思うほどに<br>コメント来ててlikeも押されてて<br>なんだか面白かったです。<br><br>そんな感じです。<br><br>今後はちゃんと更新したいです(笑)
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<link>https://ameblo.jp/t-toki9/entry-10958405870.html</link>
<pubDate>Tue, 19 Jul 2011 13:34:48 +0900</pubDate>
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<title>ユニセフ</title>
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<![CDATA[ <br>今日はユニセフの討論会に行ってきました。<br><br><br>多人数で短時間のディスカッションという形式の性質上、まあ大した話はできないですよね。<br><br>マックス・ウェーバーがデモクラシーについて言及する様に、<br>議論は調停点を見出すためのものでしかないので、<br>絶対の正解は存在しないわけで、それぞれの考えを聞きたいな、<br>と僕は思っておりました。<br>（そして、国連大学の中を見たり、他大の学生を観察したりしたいとも思っていましたｗ）<br><br><br>それにしても、まあ、議論って難しい。<br><br>各人の考えのover viewをさくっと眺めただけだったのかもしれないですね。<br><br>そういう意味で、今回は貧困や支援に対するファーストステップにはなるのかな、とは思いますね。<br><br><br>僕個人の考え方は簡潔に言えば、<br>ラディカルデモクラシーの考え方に集約されます。<br><br>すなわち、「主体的たれ！」です(笑)<br><br><br>途上国への支援を先にするか、それとも東北への支援を先にするか。<br><br>そんなのどっちがいいかなんて決めることなんて出来るわけない！笑<br>出来たとしたら、ただ言い包めただけだと思います。<br><br><br>要は、みんなの意見を集めたうえで、「とりあえずの結論」を出して、<br>その「とりあえずの結論」に対する議論を深め続けることによって、修正し続けていく。<br><br>これがマックスウェーバーの言う調停点だと思います。<br><br><br>だとすれば、議論に参加する人は多い方がいい！で、色々な立場であるべき！<br>なぜなら、それが批判を生み、議論を深めるから。<br><br>むしろ、批判されない状態っていうのが一番こわい！<br>そんなの全体主義と一緒でしょｗ<br>つまり、制約的な人間に無制約的な答えは出せないと思うんですよ。<br><br>だから、分かってるってことは一番何も分かって無いんです、たぶん。<br><br>調停点は常に生き物のように変化していくべきでしょう。<br><br>生物が様々な淘汰を潜り抜けてきたのは、<br>そのDNAの突然変異による進化のおかげです。<br><br>突然変異のもたらす生物の多様性が生物を維持している様に、<br>長続きする答えは多様な批判によって育まれていると思います。<br><br>だから、多様な側面からの議論なしでの結論はすぐに絶滅するんじゃないかと思うんです。<br><br><br>そういう意味で、どんな意見を持っている人もその人格を批判されるべきではない、です。<br><br>「東北に義捐金をあげるとかもったいない」<br>「途上国があるから先進国があるんじゃんｗ」<br>「自分が一番大事！」<br><br>こういう人が無条件に批判されるのはおかしい。<br><br>（そもそも、<br>「日本人として、いてもたってもいられなくなって募金した」<br>っていう人も、<br><br>「自分の身に何か起こるのが怖くて、自分の安心感・自己満足の為に募金した」<br>っていう深層心理はあると思いますしねｗ）<br><br>僕個人の考えを言えば、人間って、やっぱり自分を基本にする必要があると思います。<br>（まるで現象学が独我論的主観から出発するように）<br><br>しかし、それは「自己中心的に生きろ」ということではありません。<br><br><br>親友が死ぬのと、途上国の人が死ぬのでは前者の方が悲しくありませんか？<br>身近なものしか感じられないんだと僕は思います。<br>では、親友とその他の違いは何か？<br>僕は、自分の「関わり」だと思います。<br><br><br>ボーヴォワールが『人間について』で述べている様に、<br>「僕の家」はまさに「僕が住む」という形で「関わる」ことによって「僕の家」になります。<br><br>であるから、「他者」を「隣人」に変えるのは、<br>まさに自分の主体的な関わりによってしかありえないのではないでしょうか？<br><br><br>途上国の人を救いたい、という気持ちが生まれるのは、<br>途上国の人と関わることによってであると思うのです。<br><br>だとすれば、東北の地震によって被害の当事者になった人々（広い意味では東京都民も）の<br>災害への意識が高まるのは当然です。<br><br>そして、関西の意識の低い人々を批判することが出来ないのも当然です。<br>関わりがないのなら仕方ないと思うのです。<br><br><br>関わりが主体性を生むと思うのです。<br><br><br>しかしながら、人間は制約的です。<br>言い換えるなら、人間は考える前に生きています。<br>よって、その人の生きている環境・バックグラウンドによって考え方は制限されます。<br><br>ですから、主体性と言っても誰にとっての主体性かは分かりません。<br><br>そして、主体性を生むのは環境によってであるから、本当の主体性は存在していません。<br><br><br>ですから、僕に出来ることは僕の主体性を持つことです。<br>そして、僕が望むことはみんながみんなの主体性を持つことです。<br><br><br>さらに、共同体に僕が望むことは今回の様な討論会を開催して、主体性の種を蒔くことです。<br><br><font size="3">主体性の種は花開き、さらに種をつけ、それを繰り返し、<br>やがては主体性の花畑をつくることでしょう。</font><br><br>ヤスパースの愛の交わりという言葉は、こういうことを期待させます。<br><br><br>そういう意味で、この会それ自体の意義はあったのだと思います。<br><br>もっと踏み込んだ話が聞きたかった気もしますがねｗ
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<link>https://ameblo.jp/t-toki9/entry-10936761292.html</link>
<pubDate>Tue, 28 Jun 2011 00:27:01 +0900</pubDate>
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<title>姜尚中</title>
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<![CDATA[ <br>今日は授業でguest lectureってことで東大の姜尚中さんの授業を聞きました。<br><br><br>今日はめちゃめちゃ疲れていたから寝る気満々で前の席に座りましたが、<br>話が面白くて寝られませんでした。寝不足です(笑)<br><br><br><br>今日は、ナショナリズムでもグローバリズムでもないリージョナリズムなる概念についての話で、<br>要は、日中韓のような強力な国や、ロシア北朝鮮などの核保有国で集まって、<br>東北アジア共同体という共同体をつくるべきだ、という話でした。<br><br>EUはアウシュビッツの悲劇など、歴史を同じ意味で共有しているのに対して、<br>北東アジアは竹島や南京など、歴史的事実を各国で異なる解釈をしているので(仕方ない)、<br>政治的なコンセンサスを取ることができなくなっているらしい。<br><br>だから、北東アジアは経済的にだけではなく、政治的にも助け合いの関係が築けるように、<br>歴史的意味づけの共有を進めていくべきだろう、ってことらしい。<br><br><br><br>これは確かに的を射た考え方だと思う。<br><br>すなわち、話し合いは同じテーブルにおいて為されるべきものであって、<br>そもそもの前提を合わせなければいけない。<br><br>その中で、話し合われることで、やっと本当に自由に発言ができる。<br><br>そういう自由に主張ができるアーレントが言う意味での公共空間を<br>北東アジアの国家間にも築くべきだとは思う。<br><br><br>情報は共有すべきである。<br><br>そして、情報だけじゃなくて解釈も共有すべきである。<br><br>このことは今日の授業にも当てはまっている。<br><br>でも、人間関係って政治やビジネスみたいにドライじゃないから、<br>解釈の共有を、友達の間で、ただ素直にしようとしてしまうと不和が起きたりする。<br><br>多くの人間はそういうことが分かってるから、解釈を自分の中にため込んでしまうんだけど、<br>そのせいでフラストレーションがたまる様な気がする。<br><br>認められたい欲望(『「認められたい」の正体』山竹伸二)って本当にすごいと思う。<br><br>自分が思っていることと、周りが思っていることがコンフリクトするのって耐えられない。<br>だけど、誰が悪いわけでもないから仕方ない。<br><br>集団で生きるって辛いことだと思う。<br><br>だけど、その逆もあると思う。<br>認められることが幸せを生むから。<br><br>みんながいるから自分でいられる。<br>そうやって思えると幸せなんだろうな。<br>一人じゃ幸せになれないって悲しいな、とふと思った。<br><br><br><font size="3">　　　　　天国にひとりでいたら、<br>　　　　　これより大きな苦痛はあるまい。<br>　　　　　（「格言的」ゲーテ）</font>
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<link>https://ameblo.jp/t-toki9/entry-10925622718.html</link>
<pubDate>Thu, 16 Jun 2011 22:47:55 +0900</pubDate>
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<title>民主主義</title>
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<![CDATA[ <br>寮でいろいろと代表が決まっていくわけなんだけども、<br>民主主義的に決めよう！とかっていう声が上がる。<br><br><br>理系だから政治とか詳しくはないんだけど、<br>民主主義ってすごく哲学的な政治形態だと思う。<br><br>すなわち、民主主義において人間は最も批判的になるということ。<br><br><br>全体主義の問題がそのシステム自体の問題だとすれば、<br>民主主義の問題は個々の市民の問題なんじゃないかな。<br><br><br><br>ヘーゲルは歴史の発展を絶えざる成長の運動だと考えていたらしい。<br><br>確かに、それは正しいのかもしれない。<br><br>それぞれの政治や歴史の理論は、<br>個別的な事象の寄せ集めを解釈した、言ってみればひとつの大きな物語なわけだから<br>その物語に沿って歴史は進んでいくって考えるのは自然なのかもしれない。<br><br>すなわち、歴史を物語と捉えるなら、<br>その変化は絶えず「進んでいる」っていう方向性を与えられるんじゃないかな。<br><br><br>アナーキーを経験して、その上手くいかなさを知ってる人たちが、<br>「これはいけない」って思うから、国家みたいな政治をする代表が出てきて、<br><br>今度はそこから全体主義に発展していって、また、そこでの失敗で<br>「これはいけない」って思うから、民主主義がいい！って変わっていくけど、<br><br>民主主義って全員が利己的に生活してればいいってわけじゃなくて、<br>みんながみんなの為になることを個々に考えていないとアナーキーと変わらない気がする。<br><br><br>丸山眞男はその意味で「永久革命としての民主主義」って言葉を残したんだろうなー。<br><br>つまり、みんなが全体としても個人としても良い選択となる方向を、<br>それぞれ全力で考えていかないといけない気がする。<br><br><br>漫画の「鋼の錬金術師」の最後の話にもあったけど、<br>等価交換じゃなくて10を11で返す様に一人ひとりが行動すれば、<br>世界は本当に素晴らしくなると思う。<br><br><br>それって全体主義と利己主義を止揚した本当の意味での個人主義じゃないのかな。<br><br><br><br>資本主義は自利利他や自利忘他が基本になっている気がする。<br><br>それ自体は全く悪いことじゃない気がするんだけど、<br>たまには忘己利他も大切なんじゃないのかな。<br>それが全体にも個にも大きな意味を持つと思うよ。<br><br><br>一人ひとりが意識を持って動くって本当に大切。<br><br>だから、アナーキーも全体主義も経験して、<br>やっと本当の民主主義に人間は辿りつけると思う。<br><br>そういう意味でスポ根の漫画みたいな教育を受けてきた人たちって<br>すっごく自分で考える力がついてるような気がする。<br><br><font size="3">　　　　　利己的でない好意的な行為が、<br>　　　　　最も高い最も美しい利子をもたらす。<br>　　　　　（「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」第六巻　ゲーテ）</font>
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<pubDate>Tue, 14 Jun 2011 23:16:07 +0900</pubDate>
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<title>鉄の忍耐、石の辛抱</title>
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<![CDATA[ <br>今日までの課題が終わらなかった・・・<br><br>僕は絶望していた・・・<br><br>完全に今学期は取った単位数とプライベートでやることが多すぎて、<br>課題・試験勉強がおろそかになってた<br><br>すごく反省していた<br><br><br>そしたら、先生は月曜の朝まで快く待ってくれるらしい<br><br><br>それを聞いた時に、今までの自分が何やってたのか、冷静に見えてきた<br><br><br>正直、キャパ超えしてたし、キャパ越えを理由に仕方ないって自分で思ってた<br><br><br>しかし、キャパ越えしてるかどうかは、ただ結果のみが規定すると思う<br><br>今学期をオールAで終わればなにもキャパ越えしてなかったことになるってこと<br><br><br>Time is money.<br><br>それは正しい。<br><br><br>だとしても、<br><br>Enthusiasm makes my time and money more precious.<br><br>だと僕は思う。<br><br><br>「太陽が照れば塵も輝く」(『格言と反省』ゲーテ)<br><br><br>僕の情熱は世界を僕に向けて輝かせてくれる！<br><br>この気持ちを忘れずに、頑張れ自分！
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<pubDate>Fri, 27 May 2011 18:49:22 +0900</pubDate>
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<title>最近</title>
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<![CDATA[ <br>この頃、自分が何をやりたいのか、分かったつもりになっている気がしてきた。<br><br><br>もちろん、単なる分子生物学とか生態学とかそんな括りを超えた批判をしていきたい、っていうのが曖昧なのは分かります。<br><br>だからといって、ここで科学哲学をしたいって言うのも間違っている様な気がする。<br><br><br>何をやりたいかを考えていくのが学びで、何かに固執していくのは間違っていると思います。<br><br>でも、何かをするには、何かの立場に立たなければいけない様な気もします。<br><br><br>何かの立場に立つという事は、何かに固執することであるから、<br><br>何かに固執せずに、何かをするって事は出来ないような気もします。<br><br><br>そもそも、「何か」という言葉に頼っていることも良くないと思います。<br><br>でも、「何か」という言葉に立っているからこそ、自由な気がします。<br><br>ただ、選択する自由を放棄しているという点で、自由から逃げているのかもしれません。<br><br><br>僕は何も分からない。<br><br>そんな単純な結論に何度も行きつきます。<br><br><br>ただ、何も分からない事は何もしないことを正当化しないと僕は思います。<br><br>失敗しても行動することで「何か」が起こると思います。<br><br>そんなことを感じて専攻として選択した生物学。<br><br><br><br>ここ最近、なんだか疲れて5月病みたいになっていました。<br><br><br>これまで僕は沢山の失敗と経験を積み上げてきた気がします。<br><br>そういうものを「信じて」頑張っていかないといけない気もします。<br><br><br><br><font size="3">「つまり、目的地は、道のどんづまりにしか、目的地でありえないのです。<br><br>目的地に達すると、ただちに、それは新しい出発点になります。」<br><br>『人間について』(ボーヴォワール)<br></font><br><br>僕が何も分からないという結論に至るということは、僕がこれから分かろうとする出発点です。<br><br><br>何度でも分からないことに気付いて、何度でも新たな出発をしていける。<br><br>そういうことがニヒリズムを超えて自ら価値を創造できる超人という事なのかもしれません。<br><br>ニーチェの勉強をしたいです。<br><br><br>さて、化学の宿題しないと(･Θ･;)
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<link>https://ameblo.jp/t-toki9/entry-10900775114.html</link>
<pubDate>Mon, 23 May 2011 17:19:58 +0900</pubDate>
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<title>ダメダメ</title>
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<![CDATA[ <br>今日は大学院の説明会の為に駒場に行って、<br>学食食べて、散策して、のんびりして、<br><font size="3">説明聞かずに下北に寄ってshoppingして帰りましたｗ</font><br><br>もうすでに行ったことあったからか、なんだかモチベーション上がりませんでした<br><br><br>昨日は先輩と過去・現在・未来の考える比重について話し合いました<br><br><br>どんなに幸せになるために未来の事を考えていても、幸せを噛みしめる時は現在でしかありえません<br><br>最近、先輩も僕も生き急いでいるのではないか、と話しました<br><br><br><br>鷲田清一の『わかりやすいはわかりにくい？』において書かれていたことと同じだな、と思いました<br><br>すなわち、先の事ばかり考えていても仕方が無いんじゃないか、今が大切なんじゃないか、と考える若者が増えたということです<br><br><br>しかし、鷲田清一は他者との関係性の中で人は時間の流れに気付ける、という様な事も言っています。<br><br><br>だとすれば、過去と未来の比較において、便宜上作りだされるのが現在という変曲点なのかもしれないとも思う<br><br><br>でも、僕は時間は現在の繰り返しで、過去が現在をつくり、未来が現在の目的になっている様な気がしてしまう<br><br><br>旅人は旅をする為に旅をしていて、目的地に着いたら、それで終わりじゃなくてまた旅に出るように、<br><br>人間も未来を生きるために現在を生きてどんどん次の現在としての未来を切り開いているんだって思いたいです<br><br><br><br>なんだかよく分からなくなってきましたが、明日は駅伝なので深く考えずに寝たいと思いますｗ
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<link>https://ameblo.jp/t-toki9/entry-10898880933.html</link>
<pubDate>Sat, 21 May 2011 21:13:29 +0900</pubDate>
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<title>何もしない事</title>
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<![CDATA[ <br>このまえ終バスを逃して駅から家まで歩きました。<br><br>その時、久しぶりに何もしないという事の意義に気付きました。<br><br><br>ヤスパースは『哲学入門』の中で、<br><br><font size="3">「人間が徹底的に自分自身と自分の目的を放棄するとき、<br>彼にとってこの事実が唯一の事実として現れることができるのであります」</font><br><br>と書いています。<br><br><br>僕は、これをヒントに「地獄とは神の不在である」というフレーズに倣って、<br><br><font size="3">「実存とは目的の不在である」</font><br><br>というフレーズを考えました。<br><br><br>サルトルの有名な言葉にある様に、<br>「人間は自らつくるところのもの」であり、<br>「実存は本質に先立つ」という様に僕たちは(少なくとも僕は)考えます。<br><br>確かに、これはその通りであると思いますし、<br>僕はいつもこういう言葉を胸に生活してきました。<br><br><br>しかし、ゲーテの<br>「Haste not, rest not (急がず、休まず)」<br>という言葉がここで思い出されます。<br><br>僕はボーヴォワールの『人間について』の「瞬間」という章にある<br><br><font size="3">「人間はいつも他所にいるのです。<br>≪これが私だ≫と、人間が安心して言いうるような、そんな特権的な地点など、<br>世界のどこにも存在していないのです」</font><br><br>という言葉が表す様に、人間はボーヴォワールが言う意味での「超越者」であり、<br>これが現存在であるということだと考えていました。<br><br>これは筋が通っていそうです。<br><br>しかし、ボーヴォワールが言う様に<br><br><font size="3">「わたくしは在ります」</font><br><br>すなわち、人間は超越者である前に実存であるべきだと思うのです。<br><br><br>ヤスパースは、人間は限界状況に突き当たる事で実存を確認できると考えたと思います。<br><br>ハイデガーは、人間は死への存在であることに向き合う事で実存を確認できる存在だと考えたと思います。<br><br>つまり、消極的な意味でも「実存は本質に先立つ」ということです。<br><br>サルトルはそこまで考えてこのような言葉を残したのかもしれません。<br>(やはり、原書を読まないといけないと思うばかりです)<br><br><br>だとすれば、何もしない事は超越することの放棄であり、<br>すなわち、本質を失った存在(=実存)であると思うのです。<br><br><br>駅からの徒歩の間の時間に、<br>高校時代の通学時に感じた何とも言えない「自分」に向き合いました。<br>実存ってこういうことで向き合えそうな気がします。<br>(気のせいかもしれませんね 笑)<br><br><br>何もしない事をすることも大切なのかもしれないと思いました。<br><br>急がず、休まず。<br><br>評価はされないかもしれないけど、自分の実存を見失わない様にしたいです。
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<link>https://ameblo.jp/t-toki9/entry-10890038640.html</link>
<pubDate>Fri, 13 May 2011 02:16:10 +0900</pubDate>
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<title>ヒトの紡ぐ糸</title>
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<![CDATA[ <br>今日はソフトボールの試合に出てきました。<br>2番レフトでした。楽しかったです＾＾<br><br><br>話は変わりますが、今日は寮でクリスチャンの友達と<br><font size="2">見返りを求めない利他的な行為</font><br>について少しだけ話し合いました。<br><br>彼曰く、「見返りを求めない行為で自己満足でないものは存在しない」と。<br><br>確かにそれは一理ある。一理どころではないかもしれない。<br>すなわち、利他行動は利己的であるということなのでしょう。<br><br>こういう考えを持っているから彼がクリスチャンなのか、<br>彼がクリスチャンだからこういう考えを持ったのか、<br>それともその両方なのかは分かりません。<br><br><br>ここで僕がなんとなく思ってしまうのは善みたいな価値基準に頼っていないかっていうこと。<br><br>つまり、善とか悪とかっていう価値の本質は何なのか考えることが必要だってこと。<br><br><br>今読んでいる本の『わかりやすいはわかりにくい？』（鷲田清一）っていう本では、<br>人間を「意味」の糸を紡ぐ蜘蛛に例えて面白いことを言っています。<br><br><font size="2">「人間はだから、みずから吐きだした糸を自分の巣とし、ライフ・ステージとしている蜘蛛のように、<br>みずから紡ぎだした糸の網に引っかかってもがいている存在だと言えそうである」<br></font><br><br>生きる意味や幸せを追い求めてそれに向かって生きて、もがいているのは人間だけかもしれない。<br><br>確かに、ヒト以外の動物の行為は差し迫った欲求に対処するためだけのものであって、<br>その欲求を満たす意味を求めている様には思えない。<br><br>だとすれば、善や悪っていうものも生きる意味や幸せと同じヒトの紡いだ糸なのかもしれない。<br><br><br>この糸がどうやって紡がれているのか、それは僕にはまだ分かりません。<br><br>でも、「熱い」とか「おいしい」とか、そういう意味の糸は、小さい頃に親に教えられて紡がれたような気がします。<br>そして、その与えられた意味を僕は僕の中で紡ぎ直してもいる様な気もします。<br><br>だとすれば、善や悪って価値基準はそういう親の教える社会的な力が自分の生まれつきの体にフィットしたものであって、双方向的に紡ぎあっているって言えなくもないって思います。（ちょっと論理がずれましたね）<br><br>とにかく、まだ僕にはよく分かりません。<br>まさに、「みずから紡ぎだした糸の網に引っかかってもがいている」っていう状態なのかもしれません。<br><br><br>では、最初の言葉<br><font size="2">「見返りを求めない行為で自己満足でないものは存在しない」</font><br>に戻ります。<br><br>僕の友達は自己満足を利己的であるという意味でとらえている様な気がします。<br><br>しかし、これは言葉を変えれば「自分の中で納得する」ということでもあります。<br><br>人間は人生というストーリーを自ら紡いでいると思います。<br>そのストーリーの上で生きるしかない人間はストーリーに整合性を持たせたいと思うだろうということです。<br><br><br>母は僕を育てる時に、自分の中で納得したから育てたはずです。<br><br>すなわち、「この子は自分の子であり、育てられることを望んでいるのだろう」と。<br><br>しかし、子どもにはそのような明確な意識はありません。<br><br>今、ここまで育てられ、母のストーリーに従ったので、その結果として、<br>僕は「育てられることを望んだ」というストーリーを僕も紡いでいるのだと思うのです。<br><br><br>なんだか、ごちゃごちゃしてしまいました。<br><br>今日(昨日)は母の日です。<br><br>母の日に母に感謝することで僕の、そして世界の整合性が、また、保たれました(笑)
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<link>https://ameblo.jp/t-toki9/entry-10885993091.html</link>
<pubDate>Mon, 09 May 2011 00:12:03 +0900</pubDate>
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<title>若きウェルテルの悩み</title>
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<![CDATA[ <br>最近、『若きウェルテルの悩み』を読みたい衝動に駆られます。<br><br><br>もう卒業してしまった先輩が<br><br><font size="2">「僕らが本を選んでるんじゃなくて、本が僕らを選んでいるんだ」<br></font><br><br>と言っていたことを思い出します。<br><br><br>素晴らしい本との出会いは僕を大きく成長させてくれる。<br>でも、本を素晴らしくするのは僕である。<br>そんな気がします。<br><br><br>僕が生涯読んだ中で一番心に残っている本は、おそらく、中学二年生の頃に読んだ<br><br>『フェルマーの最終定理』(サイモン・シン)<br><br>です。<br><br>この本は数学という生き方を僕に伝えてくれた気がします。<br><br>そして、この時学んだ生き方は今の僕の血肉になっています。<br>たとえ数学から離れていてもです。<br><br><br>フェルマーの最終定理という非常に専門的なものに人生をかけて取り組んできた、<br>そんな一部の大数学者と言われる人たちの生き方を、<br>まだ微分も積分も分からない中学生に語りかけ、<br>インプレッションを与えたこの本は僕にとって本当に偉大です。<br><br><br>フェルマーの最終定理と数学好きの中学生。<br>これらを結びつけた一冊の本。<br><br><br>フェルマーの最終定理は自身を知ろうとしてくれる中学生を、<br>中学生はその一生をかけて取り組めるほどの数学的な難題の存在を、<br>たがいに求めあっていたのかもしれません。<br><br>そして、これらを結びつけた本も、<br>この本が架ける懸け橋を渡ろうとしてくれる若い心と<br>求められるに値する古い難題を求めていたのかもしれません。<br><br><br>だとすれば、僕が『若きウェルテルの悩み』によって渡された橋の向こうにあるものを、切望しているのかもしれません。<br><br>そして、その向こうにあるものが僕の求めているものであるのか、本に選んでもらっているのか、これから分かると思うとわくわくします。<br><br><br><font size="2">「僕らが本を選んでるんじゃなくて、本が僕らを選んでいるんだ」<br></font><br><br>いい言葉だな、と思います。
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<link>https://ameblo.jp/t-toki9/entry-10881329805.html</link>
<pubDate>Wed, 04 May 2011 19:19:29 +0900</pubDate>
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