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<title>雨のち晴れの記</title>
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<description>このブログは、私の知的関心の赴くところを書き綴るもので、読み残しておきたい書物などを取り上げ、また自分の過去の文章などをとどめておくもので、まったくの個人的な内容です。</description>
<language>ja</language>
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<title>幕末の若きサムライが見た中国５-２　名倉予何人の『海外日録』を読み解く</title>
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<![CDATA[ <p>幕末の若きサムライが見た中国</p><p><span style="font-size:1.96em;">第10回「攘夷の無意味さ」を実感したに違いない日本の若侍</span></p><p><span style="color:#0000ff;"><span style="font-size:1.96em;">名倉予何人の『海外日録』を読み解く</span></span></p><p>2018/06/16　樋泉克夫&nbsp;（愛知県立大学名誉教授）</p><p><a href="https://wedge.ismedia.jp/articles/print/13125">https://wedge.ismedia.jp/articles/print/13125</a></p><p>　名倉予何人「イナタ」と読む。生年不詳。浜松藩儒官。昌平黌で学び、後に洋学、兵学を修める。維新の際には浜松藩主の参謀役を務め、明治政府では外務大佑として清国貿易に携わった。退官後には台湾貿易を目指したが失敗。根岸に漢学塾を開き、明治34（1901）年に没している。</p><p>　名倉が残した毛筆和綴じ本の『海外日録』の表紙には、「四月二十九日発長崎　七月十三日帰埼　上海在留五十九日」と墨痕鮮やかに記されている。表紙を繰ると、千歳丸による上海行きは「寛永以前ノ朱章船」の復活だが、幕府役人が公式に「入唐」するは室町幕府以来のことであり、誰もがこの航海を「一大愉快」と痛感していると記す。彼ら幕末の若者の押さえようにも押さえられない胸の高鳴りが伝わって来るようだ。</p><p><span style="font-weight:bold;">■ニューヨークを超える上海の賑わい</span></p><p>　『海外日録』は、「四月廿七日　快晴　午後官吏大小及ヒ従僕総計五十一名斉シク官船　船名千歳丸　ニ乗ス」るところから書き出されている。操船担当のイギリス人15人を含め全員が乗り込んだが船中は相当にごった返していた。出航準備を整え29日早朝に長崎港を離れる。途中、暴風雨に遭いながらも6日後に大陸の山々を望む。「舟中ノ人喜色掬スヘシ」というから、船中が大いに沸き返ったに違いない。</p><p>　やがて「砲臺並列ス」る両岸を見やりながら上海側の派遣した蒸気船に導かれ、係留地点に向かう。数多くの軍艦が停泊しているが、殊に「英船最多シ」。さすがに「支那諸港中第一繁昌ナリ所」だけあって「西洋諸国ノ商船櫛比シ壮観ヲ極メタリ」。一行の中に万延元（1860）年の新見豊前守を正使とする遣米使節に加わって訪米した者がいて、「ワシントン〇ニューヱロク〇ニモ遥カニ勝リタル繁昌ナリト」と口にする。彼の目には、<span style="color:#0000ff;"><span style="font-weight:bold;">上海はワシントンはおろかニューヨークよりも繁華に映った</span></span>のだろう。</p><p>　上海上陸の後、中国人の先導で一行が世話になるオランダ商館に向かう。<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">じつは当時、日清両国（江戸幕府と清国政府）は国交を結んでなかった</span></span>ため、清国当局は日清両国と国交のあったオランダを経由しての交渉を幕府役人に求めた。そこで上海での正式交渉は全てオランダ商館の仲介を必要としたのである。上海滞在中の宿舎としてフランス商館を利用しているが、江戸幕府に対するフランスの気遣いが感じられる。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#800000;"><span style="font-size:0.83em;">＊近代的な意味での『外交』を理解していなかった、とでも言うべきだろうか。出島でオランダとシナの船は交易ができたと思うのだが。シナの方が先に列強国との間に近代的な外交を展開していたといえる。アヘン戦争から２０年以上たっていた。</span></span></p><p>&nbsp;</p><p>　上海上陸数日後、宿舎に留まっていると多くの中国人がやって来ただけでなく、筆談で「琉球人か」と問い質してきた。琉球は上海との間で往来をしていたことの証左とも考えられる。また「長崎横濱等ニ曾テ来リシ唐人」が近寄ってきて、「吾邦語ヲ以テ『アナタイツキタ』」などと狎れなれしく声を掛けてきた。街頭を歩けば多くの中国人からジロジロと眺められ、「殆ド眩暈ヲ覚」える。それほどまでに日本人は街中で珍しがられたのだろう。</p><p>　埠頭を歩く。「数萬ノ船舶江中ニ泊シ」、上海の「盛ナル吾浪華ノ比ニ非ラス」。<span style="font-weight:bold;">上海は「吾浪華」、つまり天下の台所で知られた大阪なんぞ比較にならないほどに大きくて賑わっている。</span>名倉の仕える浜松藩より日本は広く、日本より世界はもっと広い。広い世界から日本を見直すべし、である。</p><p>■<span style="font-weight:bold;">貪欲に情報を得ようと手を尽くす日本の若侍</span></p><p>　上海到着から1週間ほどが過ぎた5月15日頃だと思われるが、この日から自由外出が許され「上海中ヲ徘徊」することができるようになった。先ず本屋に立ち寄り「新出ノ兵書」を手にした後、街をぶらつく。太平天国軍を防備するために厳重警戒する「英人ノ駐防ノ所」に出くわした。川辺では船で逃れて来た数多くの難民を目にして愕然とする。散策中も常に無数の好奇の目に囲まれる。街では流しの芸人、屋台の骨董屋、人相見やら易者なども商売に励むなど賑やかで、「其光景宛モ吾江戸ニ異ナラサルナリ」と。市井の生活ぶりは「吾江戸」とさほど違ってはいないようだ。</p><p>　某日、清国人宅を訪れて帰路に出会った英国人に酒に誘われ、「酒店」に立ち寄った。言葉は通じないが、「ジヤツハンジヤツハンジヤツハント呼テ」極めて親しく応対してくれた。かくて名倉は、どうやら西洋人は日本人を「ジヤツハン或はヤツハント呼フモノ」らしいと書き留める。</p><p>　名倉を始め若者たちは上海の内外を「徘徊」するのはもちろんだが、滞在中に多くの清国人との交流を重ねる。いったい誰が紹介したのか。それとも自ら進んで探し当てたのか。興味深い点だ。清国人と知り合った経緯についての詳細な記録が残されていないことを恨むが、ともかくも当時の清国を取り巻く内外情報――それは、とりもなおさずに日本を繞る国際情勢ということになるわけだ――を得ようと八方手を尽くしている様子が覗える。貪欲なまでに清国人の懷に飛び込んで行った。</p><p>　名倉が交流を重ねたうちの1人である陳汝欽が宿舎に訪ねてきたが、肝心の名倉は不在だった。そこで「同寓ノ士高杉晋作」が応対することになる。高杉が「兄何故尋名倉来」と筆談で問うと、「私は上海の駐防を担当し職務内容が同じ名倉と今朝、時事問題を論じたのですがすっかり意気投合しました。そこで、こうして訪ね来た次第です」と、陳が応える。すると高杉は「僕も時事問題を談ずることを好みますよ。さて姓名、ご住所を記しては下さらぬか」。すると陳は名前と住所をすらすらと記した後、「請問君姓名在貴邦所司何職（お名前とお国での役職は）」と問い返す。そこで高杉は、「僕姓源名春風通称高杉晋作讀書且好武事常欽慕貴邦奇士王守仁為人一個書生而已矣（姓は源で名は春風。通称は高杉晋作でござる。書を読み武事を好み、<span style="color:#0000bf;"><span style="font-weight:bold;">貴邦の奇士である王陽明を欽慕致し申す一介の書生</span></span>に過ぎぬ）」と。すると陳が「妙極、妙極、妙極」と応じた。</p><p>　それはそうだろう。目の前に立った日本の若侍から、陽明学の創始者で、吉田松陰以下の多くの幕末の志士の五体に「忠義の志」を刻み付けた「貴邦奇士王守仁」こと王陽明（1472年～1529年）を「欽慕」する「一個書生」と自己紹介されたのだから、陳ならずともマトモな清国文人なら「妙極、妙極、妙極」と口にしたはず。この時、高杉は眦を決し力強く筆を動かしたものと想像したい。溢れんばかりの志を秘めた胸は、陳に正対していたはずだ。その時の高杉の胸の裡を推し量るに、不覚にも涙を流してしまいそうだ。あくは</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#800000;"><span style="font-size:0.83em;">＊陽明学は日本では広く好まれた。このシナの儒学者が高杉と筆談して痛く喜んだことだろう。当時武士たちの知的レベルはかなりたかかったと言える。</span></span></p><p>&nbsp;</p><p>　その翌日である。名倉は高杉に使いを頼んで『兵要錄』を陳汝欽に届けている。どうやら名倉が日本から持参した本らしいが、出国前後の慌ただしさの中で日本に置き忘れてきた部分があり全冊が揃ってはいなかった。そこで名倉は遺憾ながら残欠がありますが、「伏乞高評大批（伏してご好評・批判を望みます）」と記した手紙を高杉に託している。</p><p>　某日、小舟に乗って黄江を下り、7年前に広東人が開設し、今はアメリカ人の所有になっているドックを視察した後、「浦東ノ造船場ニ至ル」も、その規模・構造は「吾長崎ノ製鉄所ニ比スレハ遥カニ劣レリ」と。造船所と製鉄所を比較するのも奇妙な話だが、当時の長崎に設けられた製鉄所の自慢を忘れてはいない。</p><p>　幕府役人のお供で馬銓宅を訪問した時のことだ。大歓待を受け、「銓ト共ニ時事ヲ談ス」。余ほど長居をしたようで、気が付くと既に「斜日」。そこで宿舎に戻ることになるが、「本日雨甚シキヲ以テ道路泥濘深ク特ニ城裡ナレトモ僻地ニハ草第堆ク不潔ノ所アリテ歩履甚タ苦ム」と。「城裡ナレトモ僻地」とは街中の貧民街を指すようにも思われるが、ぬかるんだ道路に足を取られ、山のように積もったゴミに行く手を遮られる状態。<span style="color:#000073;">今風にいうなら</span><span style="color:#6416b3;">当時の上海の都市インフラ環境は劣悪の極みといった状態だったわけだ。</span></p><p>　街を「徘徊」している折に偶然に馬銓に出会った。ちょうど正午だったこともあり、昼食を御馳走になる。「銓余カ為ニ牛豚鶏肉等ノ盛饌ヲ設ケ此皆余カ口ニ適セサル処ナレトモ強テ箸ヲ下ㇱ且喰ヒ且語」った。淡白な味で育った日本人の名倉である。矢張り中国式の「牛豚鶏肉等ノ盛饌」には面食らい、箸の動きもぎこちなかったろう。肉料理を強引に喉の奥に押し込み眼を白黒させながら会話を続ける。「強テ箸ヲ下ㇱ且喰ヒ且語」の数語に名倉の苦衷が察せられ、何やら微笑ましくも思える。</p><p>■<span style="font-weight:bold;">清国のダメさ加減を象徴する「ナマクラ」</span></p><p>　月が改まった6月の某日、「獨行」し雑沓する寺院を経て次に向かった文廟では、数人の「英夷（イギリス兵）」から呼び止められた。孔子像はすでに他所に移されイギリス軍の野戦病院となっていたらしい。「各堂ノ獰風腥キニ堪へス」というから、傷病兵が溢れていたのだろう。太平天国軍との戦いの激しさが窺われるようだ。かくて<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">名倉は、中華文明の根幹である聖人・孔子を祀る文廟の変貌からに「イカニモ支那ノ衰世」を感じ取っている。</span></span></p><p>　「英虜ノ頭目」――文廟駐屯のイギリス軍司令官だろう――が盛んに酒を勧めるから、彼らの「鎗砲白刃」の中を「余傲然トシテ」飲み干す。身振り手振りでのボディーランゲージとアルコールが、英語の出来ない名倉とイギリス兵の間をグッと近づけたのだろう。</p><p>　馬銓宅を訪れた折りのことだが、彼が佩刀と槍が誇示した。そこで名倉が手にしてみる。刀は「長僅ニ一尺五六寸鈍刀ト覚ユ」。槍の「刃ノ長五六寸是亦釘ヲ打ノヘタルニ似タリ」といった有様。「鈍刀」に加え「釘ヲ打」ち延べたような槍だ。馬が自慢の刀と槍が清国のダメさ加減を象徴している。おそらく名倉は腹の中で「こんなナマクラな刀と槍では、戦にはなりもうさん」と思ったに違いない。</p><p>　郊外を「徘徊」し農村の様子を観察するが、そこに集まる多くの難民の悲惨な生活ぶり、さらには立派な門構えの邸宅でも屋敷内を田畑に設えるなどの「乱世の光景」に接し慄然とし憐れみを覚える。</p><p>■それでも「用兵の妙」には感嘆せざるを得ない</p><p>　上海上陸から40日ほどが過ぎた頃、念願だった清国軍の操練視察が実現した。操練には余ほど興味があったと見えて詳細に記録した後、講評を綴っている。</p><p>　「余カ同来ノ人」は操練を見て、「之ヲ大ニ誹謗スルモノアリ是ハ全ク兵法ヲ夢見セルモノノ談ト云フヘシ」。以下、延々と「同来ノ人」の「誹謗」の根拠がない点を次のように論じている。</p><p>　――だいたい今回の同行者の中でも「兵法ヲ熟知スル者多カラジ」。そのうえ我が国では長い泰平の世に馴れてしまい、兵法者といったところで実戦を経験していない。最近の戦争の実態を知らないから、日本の鋭い刀槍と西洋の優れた火器さえあれば無敵だなどと口にできるのだ。</p><p>　こういった連中の目には、清国軍の「操練」は拙劣の極みに映るだろう。<span style="color:#0000bf;">だいいち刀も槍もナマクラで使い物にならず、火器も老朽化しているから「誹謗スル」ことになる。<span style="font-weight:bold;">だが、清国軍は太平天国軍相手の実戦を積んでいる。</span></span>その用兵の妙には感嘆せざるをえない。しかも連日斥候を遣って敵情を探っているではないか。こういったことは<span style="color:#0000bf;"><span style="font-weight:bold;">「本朝ニ在テ希有ノ事ナレハ能々眼ヲ注キ心ヲ潜メテ玩索スヘキニ非スヤ」。武士とはいえ太平の世に慣れ、戦から離れて長いのだから、やはり実戦を重ねている清国の軍隊操練から何か学ぶべき点があるはず。虚心坦懐に「玩索スヘキ」だ。</span></span></p><p>　アヘン戦争以来、「洋虜（西欧）」との戦争に負け続けているが、清国軍は伝統的な「陣法兵制」を貫き「虜風（西欧方式）」の真似をしてはいない。こういう態度を愚とも狂とも評するかも知れないが、その志は高く評価すべきだ。だから「支那ノ弱兵」が「旧来ノ拙キ火器ヲ用ユルタルモ」、西洋軍に勝利することだって考えられないことはないだろうに。</p><p><span style="color:#cc0000;">　</span><span style="color:#0000bf;">「本朝ノ武勇タクマシキ兵」に西欧の近代兵器と海軍を備えることができたら、まさに「虎ニ翼ヲ添ユルモノ」のように無敵であり、西欧の軍隊など恐れるに足らない。だが西欧の兵法を真似て「気節ヲ失」ってしまってはダメだ。</span></p><p><span style="color:#0000bf;">　清国軍は兵を動かし陣形を整えるのにカネや太鼓を使っているが、「凡ソ号令約束ハ本朝ノ操練ニ比スレハ甚タ簡易ナル様ニ覚ヘタリ是皆実地ヲ施コス処ノ真ノ操練ナレハ余レ敢テ之ヲ非トセサルナリ」。やはり<span style="font-weight:bold;">実戦を踏んだ軍隊である。</span>戦場での伝達方法は単純明快でなければならず、これこそ真の操練というものだろう――</span></p><p>　実戦は遥かな昔である。江戸の長い泰平の世を謳歌し備えを怠りながら、<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">「支那ノ弱兵」ぶりを「誹謗」することは愚なことだ。独りよがり</span>の考えを強く諌める<span style="font-weight:bold;">名倉は、大きな時代状況の中に身を置いて客観視すべし、と力説している</span>。</span></p><p><span style="color:#800000;">　　↓</span></p><p><span style="color:#800000;">*<span style="font-size:0.83em;">名倉の物事を見るに客観的態度、このような思考は現代では当たり前に思うかもしれないが、やはり優れていた見識を持つ者と言わざるをえない。同じ儒教の影響を受けながら韓国の反日に見る論法、またシナの外交に見る強弁は、まったく異なるもので、自らの立場を是として他者を否とする態度・論法と比較してみれば、日本が西欧的論理論法に近いことが判るだろう。日本の近代化は、一地方藩士であっても、このような見方ができるところに、その源泉があると言える。</span></span></p><p>&nbsp;</p><p>■<span style="font-weight: bold;">「攘夷の無意味さ」を実感したのかもしれない</span></p><p>　念願の操練の見学を果たした翌日、思いがけずに帰国の沙汰が下る。天津やら寧波など外国に向って次々に開かれる港に立ち寄ってから帰国という当初の計画は反故になり、上海から真っ直ぐに帰国となった。そこで「有志ノ士皆失望ニ堪ヘス長太息ヲナスモノアリ」。「長太息ヲナスモノ」の中には、高杉や五代も含まれていたのだろう。だが、命令が下った以上は従わざるを得ない。そこで名倉は帰国も詮ないことと諦め、上海で知遇を得た友人への別れの挨拶に出掛けるのだが、幕府役人から注意――帰国後に「支那ヨリ書翰」が送られてきて、それが長崎やら横浜で幕府当局者に察知された場合、思いがけずに「大ナル禍」が出来するかも知れない。だから「支那人ノ内ニ如何ナル知己ノ出来スルトモ以後書翰ノ往来」は「嚴ニ戒ムヘシ」――が下された。そこで名倉は将来の不測の事態に備え、友情の印にと揮毫を贈ってくれた友人に次のような文章を残した。</p><p>　――ご厚誼に対し、お礼の申は文章で意尽くし述べようもございません。御恵贈賜りました揮毫は帰国後に表装して室内に掛け、朝な夕なに眺めながら「一日三秋之情」を慰めたく思います。一旦お別れした後は最早再会の機会は期し難く恨みは増すことでしょう・・・。そして最後を、「弊邦有禁不許通信問干異域又不許受域外之信也犯禁之罪受禍不測是特以為憾頗大兄為國自愛以身報国片言不尽意頭与涙共垂六月念三日本辱交名倉敦再拝（せん。誠に遺憾に存じます。大兄におかれては御国のため自愛に努め、身をもって報国の道を歩まれんことを切に望みます。拙い我国では、書信にて外国の事情を尋ね、また外国からの書信を受け取ることは禁じられております。禁制に背いた場合に思いも掛けない罪過を受けることになるかもしれませませんが、首を垂れ別離の涙を流します。六月二十三日　ご厚情に深謝しつつ　名倉敦再拝」と結んだ――</p><p>　いつの時代でも役人は“前例と法令”に生きているということだろう。江戸の役人も同じだ。名倉を戒めた役人にしても職業上の責務であり、我が身を守るためだ。だから、それはそれで致し方ないこと。だが、<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">それにしても当時、上海で日本人と清国人との間で、かくも深い付き合いがみられたとは。まさに奇跡の一瞬だったようにも思える。</span></span></p><p>　名倉は残り少ない上海を惜しむかのように川辺に立つ。「黄江ヲ一望ス晩涼風景最佳ナリ」。だが、悠長に日を送っているわけにはいかない。帰国準備である。「支那物産緒品ヲ官船ニ搬送吾輩之ヲ監ス」。「官船」である千歳丸にどんな品物が積み込まれたのか。同行した商人の松田屋半吉の書き残した『唐國渡海日記』によれば、石膏、氷砂糖、上白糖、水銀、大黄、甘草などが上海で購入されている。</p><p>　じつは長崎出発時は「支那有名ノ五港ヲハ巡暦」と謳っていたものの、結局は「上海ノミニテ回帆」で終わってしまった。この処置を名倉は「遺憾ナリ」と呟いているが、幕府の方針は最初から上海寄港のみでの帰国にあったようにも思える。</p><p>　帰国待ちのある小雨の日、「舟中同志ノ諸士ハ首ヲ聚ム」というから、四方山話にでも興じたのだろう。そこで<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">名倉は今回の上海滞在で有益だったのは清国軍の軍営を見学したことだけだ。常に敵と対峙している形で進められる彼らの訓練は、日本では決して見ることができない。やはり清国軍のように実戦を想定した訓練が必要だと語るが、必ずしも全員が諸手を挙げて賛意を表したわけでもなさそうだ。</span></span></p><p>　それにしても長き太平に我を忘れた日本の侍が口角泡を飛ばして談じる紙の上の兵法ではなく、実戦で鍛えられた清国の戦いぶりに強く感心するが、名倉は西欧世界を知らない攘夷の無意味さを、はたして上海の地で実感したのだろうか。<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">実戦知らずの兵法では、実戦で鍛えられ最新兵器を備えた西欧諸国軍には勝てない、と。</span></span>やがて明治維新の偉業に向け尊皇攘夷から尊皇開国へ。日本は、まさにコペルニクス的大転を遂げる。</p><p>　7月6日に抜錨した千歳丸は揚子江を出て外洋へ。6日後の12日には「遥ニ五島ヲ看ル」。そして14日には長崎に帰港している。</p><p>　上海では自由な「徘徊」が可能だったことから、<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">名倉は「支那ノ形勢事情十分ノ一」を探索できたことは「実ニ吾輩ノ幸」であったと総括する。</span></span>だが、敢えてリスクを取ろうとしない「小成ニ安ンスルノ輩」が多く、「支那有名ノ諸港」を探索するという当初の計画が取り止めになったのは残念至極と綴って『海外日録』の筆を擱いた。やはり名倉に「支那ノ形勢事情十分ノ」九を探索させてやりたかったとも思う。</p><p>　　　↓</p><p><span style="color:#800000;"><span style="font-size:0.83em;">明治維新に向けての動きにの背景に、このようにシナの実情を視察した経緯があり、それらが後に明治新政府で活躍していく。</span></span></p><p><span style="color:#800000;"><span style="font-size:0.83em;">やはり、その後の歴史の不幸は生ずるべくして生じてきたと思える。孫文の起こした辛亥革命を日本はシナの近代化として支援したにも科ｋ触らず拘わらず、孫文自身が日本を敵視するに至る。孫文の「三民主義」自体が、近代への道を歩むには、至らないものがあったと言わざるを得ないのだが、人間の生き方を変える「革命的核心」が欠けていたと言える。結果として、「近代人」を生み出すことなく、権力の争奪戦で終わって行き、その先に再び専制王朝が名前を変えて現れたに過ぎない。</span></span></p><p><span style="color:#800000;"><span style="font-size:0.83em;">前回の項で、自国を外国人に守らせる清朝にのふがいなさ、自立心のなさに日本の若い武士たちは憤慨ししたのだが、まさにその自立の精神を生み出せずにいたことが現在のシナの「専制政治」と「人権」「自由」を奪われても、平然としている人民を作り出しているのだ。</span></span></p><p><span style="color:#800000;"><span style="font-size:0.83em;">なんら革命的なことは起きていないのだ。ただ汚い遅れたインフラが現代風になったけれ、一歩街を離れれば、昔ながらの後継の光景が展開する。以前よりは良いけど、環境破壊はその極みでもある。</span></span></p>
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<link>https://ameblo.jp/tabioyaji33/entry-12591030745.html</link>
<pubDate>Tue, 21 Apr 2020 13:43:40 +0900</pubDate>
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<title>幕末の若きサムライが見た中国　5</title>
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<![CDATA[ <p>････････････････････････・・・・・・・・・・・・・・・</p><p><span style="font-size:1.96em;">第9回　運を天に任せてばかり」の清国に憤る日本の若き侍</span></p><p>峯潔の『航海日録』を読み解く（後篇）</p><p>2018/05/30　樋泉克夫&nbsp;（愛知県立大学名誉教授）</p><p>国の防衛と治安を外国勢力に頼りきる清国に、「戦の沙汰もカネ次第」という現実を見せつけられた日本の若き侍は何を思ったか。</p><p>■<span style="font-weight:bold;">上海の街が不衛生極まりなかったワケ</span></p><p>　当時の上海の人口は「三万六千余人ト云」うが、これに太平天国軍の侵攻を逃れ上海に逃げ込んだ多くの人々が加わるはず。一方、「年中在留ノ夷人一万五千余人アリト」のことだから、外国人もまた少なくない。</p><p>　市街には井戸は3，4カ所あるだけで、多くは川の水を利用する。だが濁り切っていて飲用には不適であり、明礬で汚物やら泥を沈殿させ、その上澄みを口にする。「是我国ノ人居留民難渋ノ第一ナリ」というから、生活用水が大問題だったわけだ。郊外の土地は痩せているうえに「田畠ノ様子ヲ見ルニ作リ方疎漏ニシテ草ヲ除ケス。荒所多シ」。やはり農業もさぞや杜撰だったことだろう。</p><p>　さて問題は衛生状態である。「上海中、糞芥路ニ満チ、泥土足ヲ埋メ、臭気鼻ヲ穿チ、其汚穢言フ可ナラス」。中国人に尋ねてみたら、アヘン戦争敗北の結果として結んだ南京条約で上海が開港されて以降、経済繁栄に反比例して上海の街は汚くなっていったと解説してくれた。そこで峯は、中国人というものが目先の利に奔り、「農業ヲ切ニセス、不浄ヲ棄テ田畠ノ肥ニ用ヒサルヨリ自然路傍ノ尾篭ニナリシモノナリ」と考える。　⇒シナ人の特性と言える。（その根源は何か？）</p><p>　日本のように糞尿を畠の肥料にして作物を育てればいいものを、<span style="color:#ff0000;"><span style="font-size:1.96em;">目先の損得に奔るから</span></span>、街路が不衛生極まりない状態になっても知らん顔だ。やがて「悪病ノ流行スル、腐敗ノ気、是カ害ヲ為スコト最モ多シ」。そこで毎年炎暑の時節には必ず疫病が大流行し、多くの死者を出す。街路の衛生は些末なことのようだが、「人命ニ拘ルコトナレ」ば、国家の指導者は十二分な対策を考えるべきだと、峯は強調する。</p><p>　<span style="color:#ff7f7f;"><span style="font-size:1.96em;">「</span></span><span style="color:#ff0000;"><span style="font-size:1.96em;">土人目前ノ利ニ走リ</span></span><span style="color:#ff7f7f;"><span style="font-size:1.96em;">」、</span></span>土地を荒廃させ環境破壊も日常化している情況は、まさに21世紀初頭の現在にも通じているだろう。ということは、中国人は環境・公衆衛生面に関する限り19世紀半ばから進歩がないということだろうか。そういえば習近平政権は都市部の公衆便所の改善に乗り出したようだが。</p><p>■<span style="font-weight:bold;">「武」を軽んじる科挙が弱体化の一因？</span></p><p>　様々な制度について、峯は頻りに筆談を試みている。</p><p>　科挙試験に関し、日本と違って中国では文は重んずるが武は軽んじられてきた。最近では太平天国軍対策のため、若干だが武も重視されるようになったとの返答を受けて、「按スルニ当今清国ノ風、文弱ニ流レ夷蛮ノ力ヲ恃ムニ至ル。是万邦ノ殷鑑ナリ」と綴る。文弱に流れた結果、太平天国軍の前に清軍はなす敗退に次ぐ敗退。ついに上海防衛を「夷蛮ノ力」、つまり欧米の常勝軍に委ねざるを得なくなった。かくして文弱は亡国への道でしかなく、それゆえに各国は、危難に直面している清国の姿を戒めとすべきだというのだ。<span style="color:#804000;">⇒強兵への志向を強める</span></p><p>　話が科挙の弊害に及ぶや、先ず峯は「文学」の盛行という伝統を讃えてみせる。だが、峯の言う「文学」は現在の文学ではなく、儒教古典や二十四史と呼ばれる歴代王朝の正史を捏ね繰り廻す学問を指しているはずだ。紙の上での詮索のみ力を注いだからといって、それは「実用甚タ稀ナリ」。学問には励むといったところで専ら科挙試験合格を目指すものでしかなく、官途に就く道が科挙試験に限られてしまっているところに国家衰亡の原因が潜んでいる。バカバカしいばかりに盛大な葬式もまた大金を浪費するばかりで、「清国衰乱ノ極ルコト」と断じた<span style="color:#800000;">。<span style="font-weight:bold;">⇒見事な推察力だ！科挙の弊害を見る</span></span></p><p>　上海に集められた中国兵の数が1万2千人だと知って、峯は「按スルニ兵ノ要ハ精ニ在リテ衆ニアラス」。「徒ニ其衆多ナルヲ夸シテ却テ其微弱ノ恥ヲ顕スヲ知ラス」と記した。多いからと言って弱兵の寄せ集めでは敵に勝てるはずがないじゃないか、である。</p><p>　「現ニ上海ノ陣屋ニ到テ其兵卒ヲ見ルニ」というから、中国軍の兵舎でも訪れたのだろう。そこで目にした中国兵が着ていた軍服はボロボロ、顔は垢だらけ、裸足、頭を防備する鉄兜もない、そのうえ武器を持たない。「皆乞食ノ如ク一人ノ勇アルヲ見ス」。こんな奴らじゃ、俺1人で5人でも相手にできる。1万騎の我が強者が打ち揃って押し寄せたら、広い大陸を縦横無尽に暴れて見せようぞ――峯の心は高鳴るばかりだ。</p><p>■権威もへったくれもない最高指揮官</p><p>　そもそも「豹ノ一班ヲ見テ其ノ全体ヲ見サレハ固ヨリ其美ヲ知ルコト能ハス」。だから広大無辺の大陸の一部にしか過ぎない上海を見ただけでは清国全体についてとやかくはいえないものだが、名医というものは脈を診ただけで病名から治療法までたちどころに判断するものだといいながら、峯は「清国ノ病」を診断してみせた。</p><p>　「病ハ特ニ腹心ニアルノミナラス、面目ニアラワレ、四躰ニアフレ、一指一膚モ痛マサル所ナキナリ」。つまり、もう国を挙げてガタガタですね、という見立てだ。太平天国軍の猛攻に為すすべなく、国の防衛と治安を外国勢力に頼るしかないばかりか、貿易関税業務も英仏両国の思うが儘で清国は口を挟めない。「運上税銀スラ自ラ取ルコト能ハス」、つまり徴税収入も全て英仏両国に取り上げられてしまっている惨状である。上海を例に全土を“診断”すれば、もはや救国は不可能であり、亡国は必至である。兵士が不足しているから、上海防衛の任務は英仏両国に委ねるしかない。学校は英国兵の駐屯地となり、「影形モナク実ニ哀ナル形勢」としかいいようはない。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#800000;"><span style="font-weight:bold;">⇒今のシナ人はこのような実体としての自国の歴史をかえりみることがなく、上辺の姿で飾りたてた歴史を教えて、西欧に恨みを持つ。ルサンチマンの塊に洗脳したのが共産党であろう。本来あるべき地位を求めても、それに至らぬ原因を内に求めず、外に転嫁して、他を恨む、または卑下する。孔子の『儒教』の有様とまったく同じと言える。</span></span></p><p>&nbsp;</p><p>　上海の最高指揮官である「道台」を表敬訪問した際には、ともかくも「送迎共ニ甚タ礼有ルカ如シ」だが、参列する官吏は「野鄙ナルコト見ニ忍ヒス」といった状態である。たとえば日本側の陣容に興味津々の態であり、着物に触って値段を尋ねたり、互いにヒソヒソと評定を繰り返したり、じつに野卑である。加えて一般の人々も日本側一行を取り巻いてジロジロ。清国側役人が制してもお構いなし。日本側一行を見送るために道台が出てきたところで、道を開けるわけでもない。「其形勢、実ニ法ナキカ如シ」であった。まさに無秩序で混乱の極みだ。</p><p>　また道台が日本側を表敬訪問した時のことだが、敵意を持っていないことを見せるために道台は丸腰となった。すると道台の家来、つまり「刀ヲ持チ門外ニ待居ル者」が肝心の刀を峯たちに見せて、「自ラ其鈍刀ナルヲ嗤笑ス」。「鈍刀」であることを自嘲する。かくて「道台ノ権威ナキコト此一事ヲ以テ察知スヘシ」となった。権威もへったくれもない。先ずは粗にして野だが卑でもある、といったところだろう。時代が清国人をそうしてしまったのか。それとも混乱の社会だからこそ、人としての地金が露わになってくるのか。</p><p>■難民が押し寄せ物価が高騰するも「打つ手なし」</p><p>　「清国十八省ノ内、稍靜ナルモノハ僅ニ五省ニテ余十三省ハ殆ド清国ノ所領ニアラス」。全18省のうちの13省は清国の管轄外といった状況であり、すでに亡国の一歩手前だ。上海には四方から難民が逃げ込み、高騰するのは米価のみならず、諸物価も同じ。かくて「下賎ノ者ハ米或牛豕ヲ食スル能ワス」。一般人はコメも牛も豚も口にできない。人々は困窮するばかり。日本側が雇った人夫をみても「餓鬼ノ如ク骨ト皮斗リニテ一人モ支〔肢〕ノ肥タルヲ見ス」。誰もが瘦せ細って飢餓状態である。そこで峯は、「近日餓死スルモノ多カラン」と書き留めた。</p><p>　上海を流れる申江をみても、上海にやって来る難民の小舟で川面はギッシリと埋まっている。これは蘇州からの難民だそうだが、その数は10万人余。通常は一石3、4千銭の米価が今や9千銭。これじゃあどうにもならない。そこで峯は清国側と筆談して「銭尽如何」と問うと、「撫可如何」。峯が「官府亦無可如何乎」と続けると、答えは「官府難弁」。つまり当局には打つ手がないというのだ。</p><p>　昔から「仁者有勇」というが、10万人もの難民が明日の命もままならない惨状を前にしながら「憤発シテ」救おうという者もいなければ、「是ヲ哀シム」わけでもない。英仏両国などは「清国ヲ助」けようとするが、すべてがソロバン勘定で「真ノ仁心ニアラス」。難民を救わないだけではなく、「時ニ或ハ此（難民）ヲ凌辱シ少シモ哀憐ノ情ナシ。嘆息ニ堪ヘサランヤ」。英仏両国には人道もへったくれも認められない。</p><p>峯は、いったい10万人もの難民に食わせる米はあるのか筆談で問う。すると、上海は海運ネットワークが発達しているので、満州の海の玄関として開港した牛庄（現在の営口）や長江の北から、商人が米を運んでくるので心配ない。それを知った峯は、「幸有此一事、稍放心矣（幸いにも左様で御座ったか。これにて些か安心し申した）」と。</p><p>　ところが一転、中国側が問い質す。日本の米は特に上質とのことだが、なぜ上海に持ち込んで売らないのだ、と。峯は「此大禁也。若一開之、猾商相争販出矣（それは天下の御禁制でござってな。それを解いたなれば、抜け目ない商人どもが先を争って売り出すであろう）」。そんなことをしたら日本では国中の米価が沸騰し、庶民や貧民は餓死しかねないではないか、と応じている。</p><p>　かくて峯は考えた。</p><p>「米穀ハ人命ノ関スル処ニシテ国家ノ急務」だ。上海の場合は海運が発達しているから他所から大量に運べば何とか命を繋げるが、日本は山がちであり海路も陸路も十全ではなく、やはり非常用の備蓄は必至だ。だから「国家ヲ治ムル者」は自国の情勢の如何に拘わらず「米穀ヲ貯ヘサルヘカラス」と。この時、おそらく峯は、大量の難民を出し、彼らを救うことも出来ないままに滅び行く隣国を、幕末混乱の自国と重ね合わせたのだろう。峯の頭の「国」は大村藩のままなのか。それとも日本全体だったろうか。</p><p>　難民に対処するために清国当局は「難民廠」、つまり難民収容所を設置し無条件で食糧を給付しているが、上海に押し寄せる数多の難民は「自謀生計、不願入廠者也（自活を考えていて、難民収容所には入りたがらない）」との説明を受け、峯は敢えて「此説可疑（この説明は怪しかろうぞ）」と綴っている。おそらく上海の現実を見て疑ったのだろう。</p><p>■「運を天に任せてばかり」の清国人に憤る日本の若き侍</p><p>　清国において「賊匪」、つまり太平天国軍の行いが「最酸烈」な場所は何処かと問うと、すかさず南京である、と。太平天国が首都と定めた南京ゆえに最も峻烈を極めていたはず。清国にとっての「逆匪」である太平天国軍を滅ぼすことは出来るのかとの峯の問いに、相手は「此天数也（運を天に任せるばかり）」と応える。そこで峯は静かに憤った。</p><p>――清国人というヤツは、なんでもかんでも「天数（天の思召し）」を口にする。難事が起れば「天数」を持ち出し、その原因と結果、対処方法を考えることを放棄してしまう。苦境を挽回する意思はないのか。そういう消極的な考えこそが災禍が繰り返される所以である。古来、「唐土」では戦乱・混乱が繰り返されてきたが、その都度人命が失われることは勿論だが、「古器宝物ノ散逸」も甚だしい。太平天国などと名乗っているが、彼らは人々の苦境を救うべく立ち上がった正義の集団ではなく、強盗・盗人の寄せ集めに過ぎない。このままでは、「古ヨリ幸ニシテ遺リシ古器宝物」も一切が消えてなくなってしまうではないか。「惜シムヘキノ甚シキナリ」と――</p><p>　峯が南京の位置を訊ねると、ここから「僅三十里」。賊勢は頗る猖獗であり、上海も累卵の危機にあります。そこで「西夷」、つまり英仏勢力を頼りにしているわけですと説明され、またまた峯は静かに怒る。</p><p>――その昔、石敬瑭は夷狄の助力を得て自らを守ったことで、結局は「大患ヲ遺」した。清国は夷狄の力を借りるだけでなく、自分たちができないからと上海の防衛を「夷狄ニ託ス」。石敬瑭の故事が教えているように、それは「他日患ヲ遺スコト」だと峯は記す。「他日患ヲ遺スコト」とは、やはり自らの防衛を他に委ねた瞬間、独立自尊の道は消えてしまうということだろう。</p><p>■<span style="font-weight:bold;">「英仏露」を警戒すべき　</span></p><p>　目の前の上海の惨状から、峯は一転して国際情勢に思いを馳せる。</p><p>　「按スルニ五大洲中大国多シト雖トモ、大抵目前ノ富強ヲ争ヒ遠大ノ計策ナシ。甚シキハ只一日又一日ヲ送ルノミニテ絶テ進取ノ慮リナキ者アリ。俄露斯ノ如キハ目前ノ利ヲ争ハス、惟望遠是務ム。是各国ノ畏ルゝ所以ナリ」と。どの「大国」も目先の利益に汲々とし「遠大ノ計策」を持たない。だが、畏るべきは深謀遠慮のロシアだ。ロシアに備えよ、である。</p><p>　西洋人は上海と広州に最も多いことを知ると、現下の清国はまるで他国のためにあるようなもの。自存自衛の決意を固めず、ましてや自国防衛の責を他国に委ねてしまった清国に未来はない。他国が蚕食した残り滓を舐めるしか生きる道はないとは亡国の極みだと、峯は断じた。</p><p>　続いて西欧列強に話を進め、英仏両国は「専ラ戦争ヲ好ミ」、他国から庇護を求められると「敢テ是ヲ」拒否しない。太平天国軍に悩む清国に対しても「毎日数艘ノ舟ヲ出シ」て上海防衛のために防備を固めているが、専らソロバン勘定で上海防衛に当たっているだけだ。ロシアは徹頭徹尾に国土拡張方針を貫いて譲らない。だから周辺国と領土紛争を起こし、「寸土モ広メント欲ス」るのである。以上の3カ国は通商貿易だけを求めているわけではない。そこへゆくとオランダとアメリカは安心だ、というのだ。</p><p>　上海は世界各国が交わる都市だから情報が早いとして、その一例を挙げている。峯が日本人がやって来るのは何日前に知ったかと筆談で尋ねると、「土人曰、本月初一日以聞貴邦人到此地（清国人がいうには、今月一日に貴国の方々のいらっしゃると聞いた）」と。そこで峯は、我々の上海到着は6日なのに、なんとも耳の早いことだと感心しつつ、「万国通商ノ船ナレハ皆前ニ是ヲ聞キ、其貨ヲ待チ居ルト見ユ」と。やはり迅速で確実な情報の入手こそが「万国通商」のカギであることは、昔も変わらなかった。</p><p>■「戦の沙汰もカネ次第」という現実</p><p>　難民の１人に「開雲ト云者」がいて、長崎との間を往来していた経験から「少シク我語ニ通」じていた。そこで太平天国軍との「合戦ノ様子ヲ尋ネ」たところ、清国軍は「銀銭ヲ出シテ之（英仏軍）ヲ頼」んだ始末である。たとえば1万の太平天国軍が上海を攻めるとすると、「洋銀三万枚」で依頼するが、英仏軍は「五万枚」と値段を釣り上げる。かくて英仏軍は「銀ノ多少ニ依テ請合、軍ヲ買フコトノヨシ」。地獄ならぬ戦の沙汰もカネ次第だった。</p><p>　かくて戦争を請け負った英仏軍は「専ラ大砲ヲ用ヒ」、一方の太平天国軍は「素騎戦ヲ専ラトス」。大砲に馬では勝てる道理がない。そこで太平天国軍は「銃丸ニ恐レ上海ヲ襲フコト能ワス」となるわけだ。とどのつまり英仏軍は戦争商売である。「英仏ノ兵ヲ用ユル、義ニ出ス只利ヲ是貪テ人命ヲ顧ミサル等ノコト、此一事ヲ以テ察スヘシ」と。</p><p>　そこで峯は日本が置かれた情況に思い至ったのだろうか。英仏両国は幕府やら西南雄藩の間を往来し、あっちに策を授けたり、こっちに武器を売り込んだりしているが、やはり「義ニ出ス只利ヲ是貪テ人命ヲ顧ミサル」ばかりだ、と。</p><p>　「七月朔日、潔上海近郊ノ陣屋ニ至テ兵卒ニ聞シニ当時、長毛賊上海ヲ距ル九十里、青浦ノ地ニ退キ先ス此ノ近郊ハ穏ヤカナリト云フ」と。太平天国軍の攻勢は止んだ。</p><p>　上海から戻ると数年で大政は奉還され、江戸は終わり明治の次代となる。生没年不詳。残念ながら、峯潔が激動の時代をどう生きたのかは不明である。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#800000;">⇒峯潔の『航海日録』から、当時の若者のモノの見方が実にしっかりしていて、その多くが的を得た指摘となっており、後に彼が慮ったような形で日本は推移していく。彼の様な思いが、江戸末期の人民を覆っていたわけではないだろうが、指導者層に在っては、共有されていた見方かもしれない。本でしか知らないバーチャルなシナと現実のシナとの落差は我々が予想するよりも大きかったに違いない。</span></p><p><span style="color:#800000;">私などはまだ60年代の中国を見ているし、毛沢東の時代を知って居るから、今の中国の姿をそのまま信じるわけにはいかないが、この数十年の変化は「革命的」と言っても良いが、その変革に人々の「精神」が追いついていないと思える。《中国人というものが目先の利に奔り》と言う性格は少しも変わることが無く、《独立自尊の道》の道も定着しているわけではない。</span></p><p><span style="color:#800000;">ただ、峯が見たダメなシナと、強欲な西欧とを見渡している見識に驚く。当時の日本人の立場にいまだ今の日本人は立てていないように思える。日本を守る気概が、戦後70年以上を経て見事に消されているのかもしれない。その意味ではアメリカ依存の「事大」に陥っているとも言える。またそれはアメリカ仕組んだ罠でもあったのだが、その呪縛から逃れ得ないのは、今の日本人が『独立自尊』を軽んじているからに他ならないからだ。</span></p><p><br>&nbsp;</p>
]]>
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<link>https://ameblo.jp/tabioyaji33/entry-12589144070.html</link>
<pubDate>Sat, 18 Apr 2020 21:03:45 +0900</pubDate>
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<title>幕末の若きサムライが見た中国　４</title>
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<![CDATA[ <p><a href="https://wedge.ismedia.jp/category/Hiizumi">幕末の若きサムライが見た中国</a></p><p><b>第</b><b>7</b><b>回　アヘンの本当の恐ろしさに気づいた日本の若き侍</b></p><p>2018年4月28日　樋泉克夫 （愛知県立大学名誉教授）</p><p><a href="https://wedge.ismedia.jp/articles/-/12651">https://wedge.ismedia.jp/articles/-/12651</a></p><p align="left">文久２（1862）年、高杉晋作ら幕末の若者は幕府が派遣した千歳丸に乗り込み、激浪の玄界灘を渡って上海に向った。<span style="color:#0000ff;"><span style="font-weight:bold;">アヘン戦争の結果として結ばれた南京条約締結（1842年）によって対外開放され20年が過ぎ、上海は欧米各国の船舶が蝟集する国際都市に大変貌していた。</span></span>長い鎖国によって生身の人間の往来が絶たれていたこともあり、日本人は書物が伝える“バーチャルな中国”を中国と思い込んでいたに違いない。その後遺症に、日本は悩まされ続け、現在に至るも完全治癒とは言い難い。</p><p align="left">上海の街で高杉らは自分たちが書物で学んだ中国とは異なる“リアルな中国”に驚き、好奇心の赴くままに街を「徘徊」し、あるいは老若問わず文人や役人などと積極的に交流を重ね、貪欲なまでに見聞を広めていった。</p><p align="left">明治維新から数えて1世紀半余が過ぎた。あの時代の若者たちの上海体験が、幕末から明治維新への激動期の日本を取り巻く国際情勢を理解する上で参考になるかもしれない。それはまた、高杉たちの時代から150年余が過ぎた現在、衰亡一途だった当時とは一変して大国化への道を驀進する中国と日本との関係を考えるうえでヒントになろうかとも思う。（⇒<a href="http://wedge.ismedia.jp/articles/-/12440" target="_blank">前回から読む</a>）</p><p align="left">&nbsp;</p><p>　<span style="font-size:1.96em;">納富介次郎の上海体験</span>を、もう少し続けてみたい。</p><p>　納富は、上海では各所を歩き見聞したものを記録すれば、幕府の対外政策の一助になろうと考える。だが到着直後に病を得て当初の目論見は外れてしまう。ところが、太平天国軍から逃れて上海に押し寄せる多くの難民の中に、<span style="color:#6416b3;">日本が欧米諸国とは違って儒教を尊び漢字を使っていることを知った知識人がいた。彼ら知識人が、思いがけずに納富らに接触を求める。そこで親しく付き合うようになり、色々と情報を聞き出すこととなるのだが、ということは日本人が漢字を使い、儒教に慣れ親しんでいることを知らない知識人がいたということだろう。</span>彼らもまた、日本についての確たる情報を持たなかったということか。</p><p><b>五代友厚の見た「太平天国」と「英仏」の戦い</b></p><p>　同行者の中には高杉はじめ筆談で清国人と対応できる者もいれば、清国語に慣れた通訳もいたから、清国政府の動向などについても知ることができた。納富は同行者の中の<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">「薩州ノ五代才助」</span></span>、つまり後の五代友厚に言及する。身分を隠し「水手（船乗り）」となって千歳丸に乗り込んだ五代は単独で行動し、時に遠く上海の東郊まで足を延ばし、浦東というから現在の上海国際空港辺りにおける太平天国軍との戦争を見物している。おそらく五代は、英仏軍の近代兵器が持つ凄まじいばかりの破壊力に驚いたに違いない。ところが五代は、浦東での戦況視察の一件を長崎に戻った後に明らかにした。</p><p>　そこで納富は、全員が上海で得た情報を集大成すれば、より有益な情報が得られたはずなのに、そうできなかったのは自分の微力のゆえであると綴った。情報は個々人が私蔵するものではなく、共有し集大成することで“化学変化”を引き起こし、より有益な情報になることを、納富は説きたかったのだろう。</p><p>　上海には欧米から貿易を求めて多くの船舶がやってきて商売は賑わっているものの、欧米商人は書画筆墨には興味を示さない。そこで「書畫ト文房ノ具」に興味を持つ日本人のところに数多くの「掛軸幅古器ナド」が持ち込まれる。ところが<span style="color:#ff007d;"><span style="font-weight:bold;">「固ヨリ僞物ノミ夥シクアル」</span></span>から不要と応えるが<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">、「彼強ヒテ眞物ナリト辯ジ勧メ」る。そこで「日本人ハ皆眞眼ヲ具セリ、汝等欺クベカラズト云ウ」と、最終的には彼らは品物を包んでスゴスゴと引き上げて行く。</span></span></p><p><b>日本への亡命を望む者たち</b></p><p>　上海に攻め寄せる太平天国軍、これを迎撃する清国軍と英仏軍。戦場は上海に迫る。戦場から逃れ上海に押し寄せ惨めな生活を余儀なくされている難民を見て、<span style="color:#cc0064;">納富は「定メタル住居ナク、或ハ路傍ニ佇ミ或ハ船ヲ栖家トシ雨露ニ濡レ飢渇ニ困シミ、タゞ一日々々ノコトヲ計ルノミ。ソノ命懸絲ノ如シ。憐レムニ堪ヘザル衰世ナリ」と綴る。</span></p><p>　難民の多くは<span style="color:#cc0064;">「蘇州ノ者ニシテ約ソ十餘萬人モコレアルベシ、且官府モコレヲ救フコト能ハザレバ、餓死スル者日々ニ多シ」。</span>難民をめぐる環境は日々刻々悪化するばかり。清国政府も手の打ちようがないだけに、日本への亡命を望む者が現れたのである。</p><p>　千歳丸一行の宿舎に顔を出し<span style="color:#cc0064;">「風流ノ交リヲナスハ、皆難民中ノ人ニシテ、ソノ中ニハ秀才モ有ツテ、清朝ノ衰政ヲ哀ミ頻リニ皇國ヲシタ」</span>う。納富が綴る「秀才」が科挙試験上位合格の秀才なのか、一般的に頭がいいという意味を指すのかは不明だが、ともかくも一般難民とは違う読書人クラスの難民がやって来て納富に対し、「もう清朝はダメです。救いようはありません。それに引き替え皇国（にほん）は素晴らしい」とでも語ったのだろう。<span style="color:#0000bf;"><span style="font-weight:bold;">とどのつまりは亡命への支援要請だ。反日感情など考えられもしなかった時代の話ではある</span></span>が、その後の紆余曲折極まりない日中関係を考えるなら、なにやら不可思議な思いがしないでもない。</p><p>　納富は<span style="color:#cc0064;">「余ニ言ヒテ曰ク、現今多クノ難民去ツテ貴邦ノ長崎ニ在リト。古ヘモ亦コレアリ。貴邦ハ素ヨリ仁義ノ國ト知ル。而シテ我邦ト唇齒ニ均シ。若シ諸侯ニ於テモ我輩ヲ憐レンデ倒懸ノ苦ミヲ救ヒ、召シテソノ民トナシ玉ハゞ、長ク恩澤ヲカフムリ安居スルコトヲ得ント、坐ロニ涙ヲ浮カベケレバ、余モマタ哀憐ノ悲ニ堪ヘザリキ」</span>と記している。この部分のやり取りは筆談だったのか。それとも通訳を介したのか。ともかく「現今多クノ・・・」から「・・・悲ニ堪ヘザリキ」までを現代風に翻読してみると、</p><p>　――ただ今、多くの難民が貴国の長崎に流れ着き住まいしている。こういったことは、その昔にもありました。貴国は古より道義の国であることを承知しており、加えて我が国とは唇と歯のように切っても切れない関係にあります。私を哀れに思われ、召し抱えても宜しかろうと恩情を掛けて戴けますなら、末永くご厚情に浴し安居することが叶うことと思います――</p><p>　こう涙を浮かべて訥々と語り掛けられたことで、納富としては「哀憐ノ悲ニ堪ヘザリキ」である。続けて「因テ思フ」と難民の処遇について記す。これまた翻読すると、</p><p>　――拙者が思うに、これら難民を救い申して皇国の民の列に加え、職人の技術を生かさば国益にもつながり申そう。農民ならば島々や山林を切り開かせ、意欲と能力ある者は挙って使うが宜しかろう。太平天国の賊乱に遭って苦しみ、空しく餓死するなどということ、痛々しく、これまた口惜しきことではござらぬか――</p><p>　この時、果たしてどれほどの数の難民が長崎にやってきたのか。そのうちの何人が日本に落ち着き生計の道を確保したのか。それは不明だ。</p><p>　納富は自らが見聞きした上海の姿から、一向に止みそうにない「賊亂」が清国全体に及ぼす惨状を考えてみた。上海では従来からの住人に加え「十餘萬ノ難民等」が食べなければならない。上海は「幸ヒ廻船便宜ノ地ナレバ米穀」が底を尽くことはないが、米価は日々に高騰するばかり。かくして「難民等ハ買フコト能ハズ。又乞兒トナリテモコレニ與フル者ナケレバ、遂ニハ餓死スルヨリ外アラザルベシ」という状況が現出する。</p><p>　<span style="color:#cc0064;">手の打ちようのない惨状から、納富は考える。「他ノ地モ亦賊亂ヲ避ケ、ソノ地モシ米粟少ナク又運送ノ便ナクンバ、從令黄金ヲ貯フトモ、飢渇ニセマリ餓死スル者上海ヨリ尚多カラン。實ニ清國當今ノ衰世アサマシキコトゞモナリ」と</span>。最早この国は、手の施しようがない。</p><p><b>なぜ、聖書など有難がるのか</b></p><p>　某日、病床の納富を「二人ノ書生來リ訪フ」。友人が応接すると、聖書を持参している。「耶蘇」の布教らしい。そこで友人は「大イニ怒リソノ書ヲ抛チ」、追い返した。「然ルニ次日又來ル」。「入ルコト許サゞレバ、立ツテ戸外ニ在リ」。そして折から訪ねて来た「知己ノ書生馬銓」に納富への取次ぎを頼んだ。馬銓もまた「聖書だから読んでみたら」などと悪気もなく勧めたのだろう。だが、いくら「知己ノ書生」の勧めとはいえ、「耶蘇ノ邪教書」なんぞを受け取るわけにはいくまい。当然のように「我友等倍々怒リ大イニ嚷責シ皆出テ右ノ書生ヲ遂却」した。その結果、布教活動は翌日から絶えたようだ。一連の聖書騒動を、「噫、清國書ヲ讀ム者スラ既ヲ尊奉ス。況ヤ愚民等ニ於テヲヤ」と納富は慨嘆する。</p><p>　――<span style="color:#ff007d;"><span style="font-weight:bold;">清国には孔孟以来の聖賢の著書や歴史書があろうものを、読書人たるもの、なにゆえに「耶蘇ノ邪教書」なんぞを有難がるのか。読書人がこれだから、一般民衆は推して知るべし。嗚呼、何とも嘆かわしい限りだ</span></span>――</p><p>　ところで、「倍々怒リ大イニ嚷責シ皆出テ右ノ書生ヲ遂却」した「我友等」の先頭に立ったのは、はたして高杉晋作であったか。かりに高杉が刀の柄に手をやりながら大喝した場面などを想像してみると、じつに痛快な“文明の衝突”の現場といえそうだ。</p><p>　日本の若者の剣幕に驚いただけではなく、おそらく彼らの武勇伝は瞬く間に上海の知識層に広まったに違いない。そこである日、「清人ノ醫師來リ語ツテ曰ク」となる。これまた筆談なのか、通訳が入ったのかは不明だが、「清人ノ醫師」の話の大意を綴っておくと、</p><p>　――浮説では、あなた方は英国からの支援要請を受け上海に来たとのこと。清国・日本・英国・仏国が力を合わせて太平天国軍を撃破してくれるのだろう。日本軍本隊を乗せた軍艦は、いつ到着するのか。待ち遠しい限りだ。日本軍には1日で千里往って還る兵士もいれば、雲に乗り水の上を走る兵士もいるそうだが、あなた方を見ると不思議にも普通のヒトのようだが――</p><p>　かくて納富は「初メ我船着岸ノトキ皆上陸セシニ、來リ觀ルモノ雲集セシハ、サル浮説ノアリシ故ナラン」と納得した。どうやら中国人は千歳丸一行を日本からの援軍の先遣隊と期待していたようだ。それほどまでに<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">上海は「長毛賊（太平天国軍）」の攻撃に悩まされ、それゆえに人々は日本を頼みの綱と心待ちにしていたことになる。</span></span></p><p>　この「浮説」に一行の哄笑が聞こえて来るようだが、<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">やはり納富には自国を守ろうとする気概なき清人の振る舞いが気になって仕方がないらしい。だから「清人ヲ見ルニ、凡ソ柔弱ナル躰ナリ」となる。</span></span></p><p><b>■アヘンの本当の恐ろしさに気づいた日本の若き侍</b></p><p>　ある日、上海を管轄する役所を訪問した。自らが目にした<span style="color:#cc0064;">役所内の様子を、「ソノ情躰甚ダ賤シ。又禮儀ヲ知ラズ。見苦シキ下僕ト見ユルモ、主客ノ座ヲ憚カラズ立騒ギ見物ス。或ハ應接アル所ノ後障ヨリ數十人窺ヒ見ル。又我輩ノ傍ニ來リテハ、衣服ヲ撫デソノ品價ナドヲ評シ、或ハ草履ヲ取ツテソノ製ノ異ナルヲ笑フ。最モ珍奇トスルハ刀釼ナリ。頻リニコレヲ看ンコトヲ請フ。許サゞレバ窃カニ取ツテ抜カントス。ソノ形様ノ野鄙ナルコト云ワンカタナシ。コノ後到ルコト兩三度ニモ成レバ、庭前ニハ古キ衣服ヲ晒シ、廊下ニハ多クノ便桶ヲスエ置ケリ。更ニ掃除セシテイモナシ」と綴る。</span></p><p>　上司が日本からの賓客を接待している厳粛であるべき場面を、「後障（ついたて）」の影から鈴なりになって覗いている。汚い手で裃を撫で、武士の魂である刀を触りまくり、抜いてみようとさえする者もいるほど。役所の庭には着古した衣服が干され、廊下には便器が並び、掃除された様子がみられない。綱紀は弛緩するに任せている。納富が呆れ返ったのも肯ける。</p><p>　さらに続ける。「既ニ歸リ去ラントスルトキニハ、盤上ニ餘リシ菓子ナドヲ盗ミ、或ハ殘酒ヲ取ツテ飲ムモアリ。實ニ犬猫ニ異ラズ」。武器はハリボテ状態でナマクラそのもの。兵士を眺めるに、「ソノ狀殆ンド狐狸ノ行裝ノゴトシト。官府ノ困窮コレヲ以テ知ルベキナリ」。語るに落ちたとは、こういう状態を指すに違いない。</p><p>　下っ端とはいえ役人の惨状は、そのまま民間にも及ぶ。その最たるものがアヘンだ。</p><p>「清人云フ、鴉片烟ソノ味ヒ甚ダ美ナリ。然レドモソノ害ノ甚シキハ人命ニ及ブ」。そして「コレヲ吃スレバ一月ニシテ癊必ズ生ズ」。つまり1ヶ月もすれば必ず中毒になる。だが体調不良や気分が優れない時にアヘンを吸えば「精神頓ニ明發ス」るから吸わないわけにはいかない。</p><p>　千歳丸が雇った水路案内人は30歳ばかり。英語もできて収入も多いらしい。尋ねると、父母妻子なし。博打もしないし、「女色飲酒ニモフケル」わけではない。高収入であるはずが、ボロを纏ったような水路案内人は「我他事ヲ欲セズ、嗜ムトコロハ唯阿片煙ノミナリ。故ニ得ルトコロノ金多シト雖ドモ、コレガ爲ニ不足ナリト云フ」のであった。ここまで聞いても日本人の誰もが信じない。アヘンの値段が高いといっても、財布がスッカラカンになるほどのことはないだろう、というわけだ。</p><p>　すると<span style="color:#cc0064;">「須臾ニシテコノ者我輩ノ所ニ來リ、美ナル箱ヨリ阿片烟ノ具ヲ出シ、平臥シテコレヲ吃スルコト凡ソ半刻。皆コレヲ奇トシ傍ニ依テ見物ス。然ルニソノ烟座ニ滿チソノ臭モ亦惡ムベシ」。納富ら一同は面白そうに眺めていたが、アヘン煙が放つ悪臭に誰もが耐えられなくなる。そこで「コレヲ静止スレドモ更ニ耳ニ通ゼズ。眸神蕩ケテ眠ルガゴトクナリケレバ、ソノ久シクシテ過チアランコトヲ恐レ」た。一同の内の誰かが怒りを露わに刀の柄に手を掛け、「キサマ、黙っておけばいい気になりおって」とでも大声で怒鳴ったのか。水路案内人は「アハタゞシクソノ具ヲ収メ出デサリヌ」というわけだ。</span></p><p>　かねてから<span style="color:#cc0064;">納富は、清朝の「官軍屢々敗レ」る原因は戦場でもアヘンを吸うからだ。「眸神蕩ケテ眠ルガゴトクナリケレバ」、敵軍の接近も判らない。予め定まった吸引時間になれば、戦闘を中断してしまう、と聞いていたが半信半疑だった。ところが「今コノ者ノナスヲ見テ」、やっと納得できたという。かくて「憐レムベク又戒ムべキニアラズヤ」となる。</span></p><p><b>■太平天国は自滅するも、外国勢力に牛耳られ衰弱する清国</b></p><p>　太平天国は当初は明朝の再興を掲げ破竹の勢いであった。だが時の経過と共に勢いは失せ、「現今ニハ專ラ天主敎ヲ奉ジ愚民ヲ服セシメ、不從者ハコレヲ誅殺シ賊徒ヲ集メ駿夫ヲ捕ヘコレヲ兵勇ニ充テ、タゞ亂暴狼藉ヲナスノミト云ヘリ。コレ全ク賊中ノ將戰死シ或ハ降シヨリ、法令モ自ラ邪道ニ墜チタルナリ」――</p><p>　当初は異民族である満州族の清朝を撃ち倒し、漢民族の明朝を再興しようなどと“大義”を掲げていたが、今では天主教を前面に押し出し、かき集めた愚民を俄か兵士に仕立てる体たらく。指揮官は戦死し、あるいは投降し、もはや軍律は守られず乱暴狼藉の限りを尽くす盗人集団に成り果ててしまった。にもかかわらず掃討できないのは、「タゞコレ清朝ノ衰弱シテ暴臣政ヲ取ルヲ以テナリ」だからだ。政治改革を断行し国内に「仁政」を施せば、軍隊を動かさずとも太平天国軍は直ちに滅びるだろうと、納富は考える。だが当時の清朝政権に「仁政」は求め難かった。</p><p>　ほどなく太平天国は幹部間の内紛が表面化し瓦解するが、問題は清国である。<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">納富は、国家運営の根幹である財政・軍事権を英国や仏国など外国勢力に握られていることが清国衰亡の根本原因だと考えた。</span></span></p><p>　先ずは財政だが、アヘン戦争に敗れた結果、清国は英国との間で南京条約を結び、上海・寧波・福州・厦門・広州の南部沿海の主要5港の開港を余儀なくされた。かくて「萬國ノ商客」が蝟集し、上海はアジア最大の貿易港へと大変貌を遂げ、税関収入も莫大なものとなった。だが「洋商」は「柔弱ナル」清国役人などバカにして命令に従わない。密輸・脱税など日常茶飯事だったに違いない。そこで英国人に代行を依頼したものの、都合が悪いことに第２次アヘン戦争（＝アロー戦争。1856年~60年）で清国は再び「英軍ニ打負ケ」てしまい、莫大な賠償金を支払わざるをえない。だが国家財政は火の車である。そこで上海港で徴する莫大な税関収入を差し出す羽目に陥ってしまった。つまり上海が賑わい貿易取引が増加したところで、清国の国家財政を潤すことはないわけだ。</p><p>　次は軍事。納富は仲間のなかの「或ヒトノ話」から説き起こす。その「或ヒト」が上海の「徘徊」を終えて宿舎に戻ろうとしたが、刻限を過ぎていたので城門は閉じられ「往來ヲ絶ス」。ところが日本人であることを知った城門守備の仏兵が、わざわざ城門を開けてくれた。すると「土人等コレニ乗ジ通ラント」したが、ダメだった。ちょうどその時、清国役人が輿に乗ってやって来て、仏兵の制止を振り切って城門を通過しようとしたが、「佛人怒リテ持チタル杖ニテ速撃シ、遂ニコレヲ退キ回ラシメ」たのである。</p><p>　日本人は特例。清国人は役人も含め、自らの国土に在りながら他国の兵士の指図を受けざるを得ない。当時、上海をぐるりと囲んだ城壁には7つの城門があり、それらを英仏2国の兵士が守備し、朝晩5時を刻限に開閉していた。かくて<span style="color:#cc0064;">「嗚呼清國ノ衰弱コゝニ至ル、歎ズベキコトニアラズヤ」となる。</span></p><p>　上海港の税収はそのまま英国女王陛下の懐を潤し、街の防衛・治安は英仏両国に委ねたまま。これでは納富ならずとも「嗚呼清國ノ衰弱コゝニ至ル、歎ズベキコトニアラズヤ」といいたくもなるだろう。</p><p><b>「愚民」を籠絡するキリスト教の役割とは</b></p><p>　西欧による籠絡の手法の1つにキリスト教の伝道を挙げる。「耶蘇堂」を築き、「愚民」に「先ズ多クノ金銀ヲ與へ」る。「故ニ愚民等ハ宗法ノ善惡ヲ論ゼズ」、キリスト教に靡いてしまう。また病院を建設して「愚民」に医療を施す。「藥劑等」も「上帝」からの施しであり、病気治癒もまた「上帝ノ救助シ玉フ」ところだと思い込ませる。かくて「ソノ教遂ニ天下ニ盛ンナリ」ということになって、民族精神は徐々に蝕まれるという始末である。</p><p>　<span style="color:#ff0000;"><span style="font-weight:bold;">財政権と防衛権は他国に握られ、精神は侵されるがまま。清国の惨状を目の当たりにした納富は、風雲急を告げる幕末の日本に戻って行った。</span></span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#800000;">＊書物のシナは幻想であり、改めて考えれば古代の諸子百家以上の思想家は朱子と王陽明ぐらいで、新しいビジョンもなく、旧弊の仕組みと思想によっていたのであるから、時代の変化についていけないのは当然といえる。ないのではその本質は今も変わることがないように思える。</span></p><p>&nbsp;</p><p>幕末の若きサムライが見た中国</p><p><b>第</b><b>8</b><b>回　高杉晋作と五代友厚が上海で交わした「密談」</b></p><p>峯潔の『航海日録』を読み解く（前篇）</p><p>2018/05/27　樋泉克夫 （愛知県立大学名誉教授）</p><p><b>文久２（1862</b><b>）年、高杉晋作ら幕末の若者は幕府が派遣した千歳丸に乗り込み、激浪の玄界灘を渡って上海に向った。アヘン戦争の結果として結ばれた南京条約締結（1842</b><b>年）によって対外開放され20</b><b>年が過ぎ、上海は欧米各国の船舶が蝟集する国際都市に大変貌していた。長い鎖国によって生身の人間の往来が絶たれていたこともあり、日本人は書物が伝える“バーチャルな中国”を中国と思い込んでいたに違いない。その後遺症に、日本は悩まされ続け、現在に至るも完全治癒とは言い難い。</b></p><p><b>上海の街で高杉らは自分たちが書物で学んだ中国とは異なる“リアルな中国”に驚き、好奇心の赴くままに街を「徘徊」し、あるいは老若問わず文人や役人などと積極的に交流を重ね、貪欲なまでに見聞を広めていった。</b></p><p><b>明治維新から数えて1</b><b>世紀半余が過ぎた。あの時代の若者たちの上海体験が、幕末から明治維新への激動期の日本を取り巻く国際情勢を理解する上で参考になるかもしれない。それはまた、高杉たちの時代から150</b><b>年余が過ぎた現在、衰亡一途だった当時とは一変して大国化への道を驀進する中国と日本との関係を考えるうえでヒントになろうかとも思う。</b></p><p>&nbsp;</p><p>　源蔵とも潔助とも名乗っていた峯潔は、文久2年4月（1862年5月）、<span style="color:#6416b3;">大村藩医師尾本公同の従僕として千歳丸に乗りこんで</span>上海を目指した。この千歳丸は徳川幕府が英国から購入し、貿易の可能性を探る目的で上海に派遣した木造船である。</p><p>　万延元（1860）年の遣米使節、同じく文久2年の遣欧使節、文久３年の遣仏使節、慶応３（1867）年などの幕府派遣の外交使節とは一味も二味も違うものの、千歳丸の「唐国渡海」は「江戸の夕映え」を彩るに相応しい壮挙であろう。</p><p>　1862年5月27日（「文久二年壬戌四月二十九日」）の黎明に長崎を出帆した千歳丸は7日余の航海の後に上海に到着し、70日余り後の「七月十三日」に長崎に帰任している。往路と復路を合わせて半月ほどの航海を差引くと、彼らの上海滞在は50余日だった。この間、じつに精力的に上海を見て廻り、清国人（中国人）と意見を交わし、気息奄々たる隣国の姿を嘆き、憤り、日本の行末に思いを馳せる。</p><p>　ところで峯潔が書き残した『航海日録』（『幕末明治中国見聞録集成』ゆまに書房 平成９年）を読み進める前に、当時の日清両国が置かれていた内外状況を簡単に振り返っておきたい。</p><p><b>■「緊張の極」にあった上海に入港した千歳丸</b></p><p>　先ず日本。文久の前が安政だが、安政年間の大事件をみると、下田条約調印（4年5月）、将軍によるハリス謁見（同年10月）、井伊直弼の大老就任（5年4月）、神奈川・長崎・函館を開港し露・英・仏・蘭・米に貿易を許可（6年6月）、橋本佐内・頼三樹三郎・吉田松陰に死罪（同年10月）と続き、その後は咸臨丸渡米（万延元年1月）、桜田門外の変（同年3月）、水戸浪士による高輪東漸寺での英国公使など襲撃（文久元年5月）、百姓一揆頻発（同年）となる。文久元年から6年後の慶応3年12月には王政復古の大号令が下り、今から150年前には明治維新となった。　次に文久2年を少し詳しく見ておくと、坂下門外における水戸藩士による老中・安藤信正襲撃（1月）、薩摩藩内尊皇派粛清事件とされる所謂「寺田屋騒動」（4月）、生麦事件（8月）、朝議攘夷に決す（9月）、幕府開国論が朝議を受け攘夷奉勅に一変（10月）、高杉晋作ら外国公使襲撃（11月）、徳川慶喜の武田耕雲斎を伴っての上洛（12月）、品川御殿山に新築の英国公使館を高杉晋作・伊藤俊輔ら焼き討ち（12月）など、激動の1年である。</p><p>　一方の清国は、1840年のアヘン戦争敗北以来、昔日の栄光は跡形もなく、開明的官僚・知識人による絶対必死の救国策も空転するばかり。もはや亡国への坂道を転がり落ちるしかなかった。最大の脅威の太平天国軍が長江以南を制圧し、南京に都を定め太平天国を建国したのは我が嘉永6年に当たる1853年2月である。以後、指導者間で内紛を起こしながらも勢力を拡大し、太平天国は軍を上海郊外に進めていた。当時は長髪賊と呼ばれた太平天国の攻撃を前に上海には累卵の危機が逼る。そんな緊張の極にあった上海に、千歳丸は入港したのである。</p><p>　幕府役人から許可が下りるや、峯は高杉晋作らと直ちに上海の街に飛び出し、先ず筆屋に飛び込んだ。もちろん筆を買うためだが中国人に囲まれ、好奇の目で見られる。峯は「日本人始テ上海ニ遊来也」と綴るが、勘違いしていたらしい。峯は知らなかったようだが、峯以前に上海に住んでいた日本人がいた。この年の初めに上海を離れ、シンガポールに移っていったジョン・マシュー・オトソンを名乗る日本人漁師・音吉である。</p><p><b>■音吉の波乱万丈な人生</b></p><p>　文政２（1819）年に尾張国知多郡小野浦に生まれた<span style="font-weight:bold;">音吉</span>は、天保３（1832）年に乗組んだ宝順丸（船頭以下13人）が遠州灘沖で暴風に遭遇し難破し、太平洋を14か月の漂流した後、アメリカ太平洋岸に漂着した。生存者は音吉を含め3人だった。インディアンに奴隷として売り飛ばされたが、イギリス船に救助され、ロンドン経由でマカオに送られた。この間、1日だけロンドン見物を許されたとのことだから、<span style="color:#0000bf;">彼らはロンドン上陸を果たした最初の日本人ということになる。</span></p><p>　何回か帰国を試みたが果たせず、天保９（1838）年にアメリカへ。その後、上海に渡りイギリス軍の1兵士としてアヘン戦争に従軍し、やがてイギリス商社のデント商会に勤務し、マカオで宣教活動をしていたスコットランド人と結婚。嘉永２（1849）年と安政元（1854）年の2回、イギリス側の通訳として長崎などに赴いた。長崎奉行から帰国の誘いがあったが、上海での生活を理由に断ったそうだ。この時、福沢諭吉と面談している。</p><p>　上海ではデント商会勤務のドイツ系マレー人女性と再婚しているが、太平天国軍の進撃によって上海に危機が逼った文久２年初め、シンガポールに移住している。シンガポールでは竹内下野守を正使とする文久遣欧使節に「翻訳方御雇」として加わっていた福沢と再会し、清国の状況を語っている。元治元（1864）年には日本人として初めてイギリス帰化を果たし、ジョン・マシュー・オトソンと改名する。慶応３（1867）年、シンガポールで病死。享年49歳。</p><p>　音吉のシンガポール移住が数ヶ月遅く、あるいは千歳丸の上海入港が半年ほど早かったら、峯にせよ高杉にせよ上海の街角で音吉と出会い、料理屋の片隅でアヘン戦争の実態やら英米事情を聞きだしていたかもしれない。</p><p>　音吉は鎖国政策によって遂には帰国が果たせなかったものの、日本は軍事力を保持して外国に対すべしとの主張を持っていただけに、外国の軍事力の前に鎖国を解いたことを「外国に屈した」と慨嘆していたともいわれる。であればこそ、かりに音吉がアヘン戦争における清国の惨敗ぶりを語り、軍事力による鎖国維持を強く進言する機会があったとしたら、幕末の外交政策は尊皇開国へと大転換することなく、尊王攘夷のまま継続された可能性も考えられなかったわけでもないだろう。</p><p>　だが、滔々と流れる時代の荒波は賢しらな人智などで押し止められるほどにヤワではなかったであろうだけに、外国暮らしが長く外国の事情に精通していたとはいえ、音吉1人の考えではどうすることもできなかったに違いない。</p><p><b>■厳戒態勢を敷く上海の街で</b></p><p>　上海の街を歩いて先ず気になったのが、居並ぶ食べ物屋の店先に漂う油の臭いだった。「通行スル其息気甚不宜」と記しているところからして、峯は油の臭いと饐えたような人いきれで悪臭紛々たる往来を顔を顰めながら歩いたのであろう。</p><p>　そんな峯のところに中国人が近づいてきた。自ら長崎唐人街居住経験者と名乗り、「馴々敷来テ袖ヲ曳テ日本語ヲ以テ、イツイツ」来たのかと尋ねる。そこで峯が丁寧に応じると、「遊ヒカソレハヨイ」と。馴れ馴れしくやって来て袖を曳くというのが面白いが、この馴れ馴れしさに昔も今も日本人はコロッと丸め込まれてしまうから油断ならないし、それゆえに始末に困る。</p><p>　「大ナル呉服所在リ」。そこで店先で値段を尋ねた。どうやら上海初上陸の日本人を甘く見てバカ高い値段を吹っ掛けられたようだ。日本の武士を甘くみるなよ、といったところか。やがて追い着いてきた2，3人の仲間とフランス軍の兵営へ。この日は休暇らしく酔っぱらったフランス兵が出て来て、盛んに峯の袖を引く。</p><p>　そこで、同行していた薩摩の五代才助（のちの友厚）と連れ立ってフランス軍の兵営に入って杯を酌み交わす。そのうちにフランス兵が興味を示すので峯は腰の日本刀を抜いて渡した。真剣の鋭い美しさに多くの兵が驚嘆の態を示す。</p><p>　酒もそこそこに切り上げ兵営を離れ、上海を囲む城壁の西門辺りへ。同所を護っていたのは総勢で2，30人ほどの武装した英仏両国兵だった。どうやら太平天国軍は上海近郊にまで逼り上海攻略一歩手前の情勢にある。そこで英仏兵が増強され、上海城内も厳戒態勢に入った。夜も早々と城門を閉じ防備を固める一方、英仏軍を軸とする各国兵士によって太平天国軍攻略の軍議がもたれたようだ。</p><p><b>五代友厚が探った「商売の可能性」</b></p><p>　上海着から10日程が過ぎたある日、峯は訪れた「旧識ノ唐人宅」から持ち帰った菓子を五代才助に分け与え、菓子を頬張りながら五代に上海来訪の目的を聞き質す。すると五代は、「君命を思ふに」と話し出した。</p><p>　じつは薩摩の殿様の命を帯びてやって来た。先ずは上海までの海上航路の状況把握だが、将来的には上海で薩摩藩の物産を取り引きし、「巨万ノ利潤ヲ得」る可能性を探るのだ、と。そこで薩摩産の樟脳を取り出して見せた。どうやら禁制品らしく、箱の蓋に記されていた「日本薩摩製」の文字が削り取られていた。さらに五代は薩摩産黒砂糖の上海での取り引きを考えていることも口にする。そこで峯は「五代子、〔中略〕国家ノ事ヲ計ル両三年ノ損失ハ少シモ厭トテ」と記した。明治初年、自らが「まさに瓦解に及ばんとする萌し」と慨嘆した大阪経済を立て直した五代友厚の、若き日の姿である。</p><p>　某日、五代に加え同行商人の永井屋喜代助などと共に商人の周蘭宅を訪れた。もちろん商用である。すると周が「氷及ヒ菓子諸品ヲ出シ」て歓待してくれたのである。「我国ニテ五月ニ氷ヲ食スルナトナキコトナレハ実ニ冷気妙也」と思い、「五月初吃氷清風渡歯牙厚意多謝」と漢文を書いて謝意を表した。五月に氷を口にするなど、当時の日本では考えられなかったのだ。</p><p>　峯は出入りの清国商人と筆談を試みる。やはり長毛賊（太平天国軍）の動向が知りたかったのだろう。「現今長毛賊状陳書有乎（いま、太平天国軍の状況を記した書物はありませんか）」と。すると、「無人倣出。英国之新聞紙有長毛話（誰も出版せず。英国紙は報じています）」。そこで「清人乃陳文有之乎（清国の人が書いたものは）」と尋ね返すと、「無」。</p><p>　商売の可能性を探っていたのは五代だけではなく、そのため一行の多くは清国商人との付き合いを重んじていた。芝居見物に誘われ、また「唐人商人等ヲ馳走ノ為メ芝居ヲ買上ケ」もしている。清国商人を接待のために芝居小屋へ招待したのだろう。</p><p>　「（芝居が）終ルノ後、婦ヲ出シテ大イニ商人ヲ取リ持シ」と記し、「姫一人〔中略〕価洋銀十二枚ナリ」と続けた。峯は上海で大量に毛筆を買い込んでいるが、「数六十二本其價洋銀一枚ナリ」とのこと。とすれば「姫一人」の値段は62×12＝744本に当たる。現在の相場で、仮に筆１本が1,000円として、74万4千円。500円として37万2千円になるから、決して安い値段ではない。とにもかくにも、日本側も清国側も徹底的なオモテナシである。反日運動も嫌中感情もない“古き良き時代”の招待外交の一齣である。</p><p>　一行は幕府役人に加え長州や薩摩などの各藩からの“出向者”で構成されていた。そこで待遇も、殊に支度金に大きな差があった。ある幕府役人は出張手当がないのだから「骨折カ損ナリ」と愚痴る。峯が「拙者とてご同様」とでも慰めたのだろう。すると「決而左様ニテハアルマシク」と断わった後に藩主から「仕度料トシテ五十両小遣ニ五十両」をもらった者もいるらしいぞ、と返答する。支度金と出張手当で計百両となる。幕府と西南雄藩の力の入れどころは明らかに違っていた。</p><p><b>■高杉晋作と五代友厚の「密談」の中身とは</b></p><p>　ところで峯は高杉が頻繁に五代と密談している様子を見て、両人共に「天命ヲ受ケ来テ国家ノ事ヲ談スルナラン」と想像する。そこで峯は五代に向って単刀直入に、「長州侯ノ内命」を受けた高杉とは大型船舶を「国産シ国家ヲ利スル事」を話し合っているのかと問い質す。</p><p>　すると五代は高杉との話し合いの内容を認めた。じつは高杉から懇請されているが、「今新ニ舟ヲ求メ、事ヲ成ントスル、一旦急ニハ成リ難シ、依テ時ヲ得ツニハ不如ト云」と洩らした。「長州侯ノ内命」を受けている高杉の気持ちも判らないわけではないが、事が事だけに、そう簡単には運ばないと、五代は高杉を説得したのだろう。</p><p>　ここでいう<span style="color:#cc0000;"><span style="font-weight:bold;">「国産」や「国家」の「国」が長州藩を指すのか。天皇親政の未来の日本国なのかは不明だが、やはり江戸幕府でないと思う。</span></span>とにもかくにも「国」のためであった。ｘつパン的ではなく</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#800000;">＊当時近代国家意識は一般的ではなく、あくまでも藩ごとの立場であろう。</span></p><p><span style="color:#800000;">鎖国をしていなかったならば、日本はどのような歴史を描いただろうか。</span></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/tabioyaji33/entry-12589143542.html</link>
<pubDate>Sat, 18 Apr 2020 21:01:47 +0900</pubDate>
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<title>幕末の若きサムライが見た中国　3</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size:1.96em;"><b>第</b><b>5</b><b>回　サムライたちを驚愕させた上海の汚水</b></span></p><p>2017/01/07　樋泉克夫 （愛知県立大学名誉教授）</p><p>　おそらく一行は、酷い所に来てしまったと思ったに違いない。だが上海の汚さは、この程度ではなかった。ゴミ捨て場と見紛うほどの川の流れに「數萬ノ舶船屎尿」が加わる。じつは<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">上海の街には井戸は5、6個所しかなく、しかも「ソノ濁レルコト甚シ」。</span></span>そこで、否応なく川の水を容器に移し、石膏やらミョウバンを加えてゴミを沈殿させ、上澄み水を飲む。山紫水明の国土からやって来た武士たちにすれば、こんな「惡水」を口にできるわけがない。だが飲まざるをえない。<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">そこで「皆病マザル者ハナシ」。</span></span></p><p><b>3</b><b>人の死者を出した汚水</b></p><p>　かくして日本から連れてきた<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">炊夫ら3人の葬式を営まざるをえなくなった。</span></span></p><p>　これが当時の上海の衛生状態であると共に、孔子を生んだ国の現実であることを、彼らは改めて思い知らされたに違いない。</p><p>　<span style="font-weight:bold;">死に至らずとも床に臥せ「苦難ノ餘リニ嘆息」した納富は、体調回復の後に「苟モ遠ク絶域ノ地ニ赴クニハソノ地理風土ヲ聞キ知リ第一時候ヲ考へザレバ、カクノゴトキ大難ニ逢フ」と猛省し、加えて新提案を記す。</span></p><p><span style="font-weight:bold;">　――だから、中国にやってこようとするなら、上海だけに限らず、長江を遡行して他の都市に停泊するか、天津や香港などに入港すれば「惡水」に苦しむこともないはずだ。天津、香港に加え廣州、瓊州、潮州、厦門、福州、鎮江、寧浪、漢口、台湾、牛荘も通商港として開放されている。だから、これらの港に向えば、多方面からの情報も入手でき、見聞を広めることもできるだろう――</span></p><p>　彼らより後の時代、「狭い日本に住み飽きた」などと意気揚々と大陸雄飛を謳いあげた若者たちがいた。だが、<span style="color:#ff007d;"><span style="font-weight:bold;">「苟モ遠ク絶域ノ地ニ赴クニハソノ地理風土ヲ聞キ知リ第一時候ヲ考へザレバ、カクノゴトキ大難ニ逢フ」</span></span>との納富の冷静な判断に接すると、<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">幕末の若者の方が、後の世の大陸雄飛青年に較べ数段も合理的だったといわざるをえない。</span></span>それはまた日清、日露の両戦争、ことに日露戦争勝利後にみられた日本の野放図なまでに拡大した大陸政策に通ずるものがあるようにも思える。</p><p><b>日本人の来訪は幸い</b></p><p>　街を「徘徊」すると、必ず彼らの周囲に人だかりができる。彼らが進めば、進む方向に人だかりが動き、彼らを指さし喧々諤諤の議論が続き、まるで耳をつんざくばかり。初めて目にする武士のいでたち――チョン髷に袴、腰には日本刀――に奇異の目を向けたからだろうと思いきや、そうでなかった。</p><p>　じつは上海統治の責任を担う道台の呉氏の依頼に応え、「長毛賊ヲ討伐ノ為メ」に日本が派遣した大艦隊が、ほどなく上海港を埋め尽くすとの噂が千歳丸到着前から流れていた。そこで人々は、上海の街を散策する武士の一行を日本からの援兵の先遣隊と勘違いし、彼らを遠巻きに観察していたというわけだ。</p><p>　この噂がまことしやかに流れた背景には、貧弱極まりない自国軍隊の力では上海郊外にまで迫って来た「長毛賊」、つまり太平天国軍の猛攻は防ぎきれないという不安感があったはずだ。なかには「今般東洋人来リシハ吾朝ノ大ヒナル幸ヒナリ」と口にする者もいたという。たとえ根も葉もない噂であったにせよ、<span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff007d;">中国人が「東洋人（にほんじん）」の援兵を「吾朝ノ大ヒナル幸ヒナリ」と大歓迎していたわけだから、この時から現在までの160年に近い日中関係を大きく左右することになるに反日という感情は、当時の中国人にはなかったということだろう。</span></span></p><p>　それもそうだ。当時、<span style="font-weight:bold;">日本と清国との間で利害が対立するような外交上の懸案は生じていなかった</span>わけだから。</p><p>　この一件をキッカケにしてか、<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">一行は<span style="font-size:1.96em;">清国人の気概なき振る舞い</span>に注意を払うようになる。</span></span><br>たとえば納富は訪問先の道台の役所での体験を「清人ヲ見ルニ、凡ソ柔弱ナル躰ナリ」「ソノ情躰甚ダ賤シ。又禮儀ヲ知ラズ」と記している。</p><p><b>廊下に並ぶ便器</b></p><p>　納富が目にした風景を現代風に要約すると、上司が日本からの賓客を接待している厳粛であるべき場面を、下っ端役人が衝立の裏から鈴なりになって覗いている。汚い手で裃を撫で、武士の魂である刀を触りまくり、抜いてみようとさえする。役所の庭に着古した衣服が干され、廊下に便器が並び、掃除された様子がみられない。<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">一行が辞去しようとすると、テーブルに並べられた料理を奪い取り、酒の残りがあれば飲み干す始末。</span></span></p><p>　<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-size:1.96em;">綱紀弛緩の極であり「實ニ犬猫ニ異ナラズ」</span></span>。加えるに道台防備の武器はナマクラばかり。<span style="color:#6416b3;"><span style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">警護兵の姿は「殆ンド狐狸ノ行裝ノゴトシト。</span></span></span>官府ノ困窮コレヲ以テ知ルベキナリ」。かくて<span style="font-weight:bold;">関心は、兵士から一般人の生活へと移る。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#804000;">＊よんでいため息ばかり出る。江戸時代19世紀後半、それから70年後に父が大陸に渡った時代にもさほど変わらぬ風景であったかもしれない。この時代からして環境とか衛生とかに注意が向いているわけではなかった。当時の朝鮮南大門の周りも道路も素晴らしく汚かったのと大差ないのかもしれない。</span></p><p>&nbsp;</p><p>幕末の若きサムライが見た中国</p><p><span style="font-size:1.96em;"><b>第</b><b>6</b><b>回「なぜ外国の兵隊が？」若侍が上海で感じた疑問</b></span></p><p>2018/04/14　樋泉克夫&nbsp;（愛知県立大学名誉教授）</p><p><a href="https://wedge.ismedia.jp/articles/print/12440">https://wedge.ismedia.jp/articles/print/12440</a></p><p>　【承前】文久２（1862）年、高杉晋作ら幕末の若者は幕府が派遣した千歳丸に乗り込み、激浪の玄界灘を渡って上海に向った。アヘン戦争の結果として結ばれた南京条約締結（1842年）によって対外開放され20年が過ぎ、上海は欧米各国の船舶が蝟集する国際都市に大変貌していた。長い鎖国によって生身の人間の往来が絶たれていたこともあり、<span style="color:#800000;"><span style="font-weight:bold;">日本人は書物が伝える“バーチャルな中国”を中国と思い込んでいたに違いない。その後遺症に、日本は悩まされ続け、現在に至るも完全治癒とは言い難い。</span></span></p><p>　上海の街で高杉らは自分たちが<span style="color:#cc0000;"><span style="font-weight:bold;">書物で学んだ中国</span></span>とは異なる<span style="font-weight:bold;">“<span style="color:#cc0000;">リアルな中国”</span>に驚き、好奇心の赴くままに街を「徘徊」し、あるいは老若問わず文人や役人などと積極的に交流を重ね、貪欲なまでに見聞を広めていった。</span></p><p>　明治維新から数えて1世紀半余が過ぎた。<span style="font-weight:bold;">あの時代の若者たちの上海体験が、幕末から明治維新への激動期の日本を取り巻く国際情勢を理解する上で参考になるかもしれない。</span>それはまた、高杉たちの時代から150年余が過ぎた現在、衰亡一途だった当時とは一変して大国化への道を驀進する中国と日本との関係を考えるうえでヒントになろうかとも思う。</p><p>　１年ほど前に連載をはじめたものの、筆者の個人的事情から数回で中断していた高杉たちの上海での足跡を追う旅を再開したい。当然のように、既に記した部分と重複することがあろうかとは思うが、ご容赦のほどを願います。</p><p><b>●なぜ外国兵に自国の防衛を委ねるのか？</b></p><p>　佐賀藩の支藩である<span style="color:#0000ff;"><span style="font-weight:bold;">小城藩出身の納富介次郎</span></span>も、この旅に加わっていた。天保15（1844）年の生まれだから、千歳丸に乗り込んだ頃は20歳になってはいなかった。<span style="font-weight:bold;">彼が記した『上海雑記　草稿』</span>（東方学術協会<span style="font-weight:bold;">『文久二年上海日記』</span>全国書房　昭和21年）を基に、納富の目に映った上海の姿を見ておきたい。</p><p>　その後、彼は明治2（1869）年に大阪佐賀藩商会の一員として再び上海へ。ウィーン万博（明治6＝1873年）、フィラデルフィア万博（明治9＝1876年）に参加し、美術工芸品輸出に尽力した後、石川、富山、香川、佐賀などで工業・工芸教育に努めた。大正7（1918）年の没。因みに彼がDesignを「図案」と翻訳したと伝えられている。</p><p>　上海に上陸してまず気になったのが<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">、「城門ヲ英佛二國ノ兵卒ヲ請フテ守ラシムルコト」</span></span>であった。第２次アヘン戦争（アロー戦争／1856年～60年）に敗北したことで結ばされた北京条約に基づくとはいえ、やはり納富は<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">外国兵に自国の防衛を委ねることに得心がいかなかったようだ。</span></span></p><p>　そこで「清人等ニ對シ、中國如何ゾ外夷ノ力ヲ借リテ城壘ヲ守ルヤ」と問い掛けたわけだが、「皆黙ス」のみ。</p><p>　それもそうだろう。海の向こうからやって来た異国の若者に、突然、お前の国はなってないじゃないか。自分の国は自分で守るべきだろうなどと吹っかけられたら、取りあえずは口籠るしかなかったようだ。</p><p>　しばらくの沈黙の後、<span style="font-weight:bold;">太平天国軍の第一波攻撃を受けた1861年には清朝軍による上海防備が整っていなかった。そこで「止ムコトヲ得ズ英佛ノ兵ヲ借リ」たとの答えが返ってきた。</span></p><p>　これに対し納富が<span style="font-weight:bold;">「然ラバ何ゾ洋人跋扈ノ甚シキヲ制セザル。コレ清朝ノ却テ外夷ニ制セラルゝトコロニアラズヤ」</span>と畳みかける。</p><p>　そうかもしれないが、ではなぜに西洋人をのさばらせておくのだ。それこそが清朝が紅毛碧眼の「外夷」に頭を押さえつけられる由縁だろう、と。すると<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">「皆答フルコトナシ」</span></span>であった。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#804000;">＊華夷序列とか中華などと言っていたものが、夷的に自国を守らせることなど、バーチャルとリアルの差に愕然としたと同時に、清国人のふがいなさを感じただろう。孔孟の書を崇めて読んだ当時の若者にとって、この落差をどう解釈するのだろう。</span></p><p>&nbsp;</p><p>　千歳丸には数名の通訳が同行していたから、あるいは彼らを介しての会話だったとは思われるが、かりに筆談であったら、さぞや怒りに任せて殴り書きしたことだろう。</p><p>　上海の街を歩いての第一印象を、<span style="font-weight:bold;">「上海市坊通路ノ汚穢ナルコト云フベカラズ。就中小衢問逕ノゴトキ、塵糞堆ク足ヲ踏ムニ處ナシ。人亦コレヲ掃フコトナシ」と綴る。街は汚い。殊に裏通りなんぞはゴミや糞便がてんこ盛りで歩けやしない。ところが郊外はもっと酷かった。　</span></p><p>　<span style="font-weight:bold;">一歩郊外に出ると一面の広野には草が生い茂り、道が没して見当たらない。そのうえ、棺が転がっている。「只棺槨縦縱橫シ、或ハ死人蓆ナド包ミテ處々ニ捨テタリ。且炎暑ノ頃、臭氣鼻ヲ穿ツバカリナリトゾ。寔ニ清國ノ亂政コレヲ以テ知ㇽベシ」。</span></p><p>　つまり<span style="color:#8f20ff;">棺桶は埋葬されずに地上に放り出され、蓆に包まれた死骸はそこここに捨てられている。雨風に曝されて棺は壊れ、蓆は破れ。夏の日盛りには臭気が鼻を衝き堪えられたものではない。ここからも「清國ノ亂政」は見て取れる、というのだ。</span></p><p>　同じ頃に日本の各地を歩いたイザベラ・バードなど欧米人は、街といわず村といわず、貧しくも明るく清潔な日本の姿に讃嘆の声を残している。そんな日本からやってきた納富からすれば、<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">耐えられそうにない汚さだったに違いない。人は腰抜け、街の裏通りにはゴミと糞便、郊外に出れば打ち捨てられたままの棺や蓆に包まれた死骸、そのうえ飲み水は汚れている。</span></span>だが、<span style="font-size:1.96em;">これが孔孟の生まれた国の偽らざる現実だった</span>のである。</p><p>　「此度ノ上海行、最モ艱苦ニ堪ヘザリシハ濁水ナリ」。緩慢な茶褐色の流れに遡上する海水が交じり合う。流れが淀むのは当たり前だが、<span style="font-weight:bold;">「ソノ上ニ土人死セル犬馬豕羊ノ類、ソノ外總ベテ汚穢ナルモノヲ江に投ズル故、皆岸邊ニ漂浮セリ。且又死人ノ浮カベルコト多シ。コノ時コレラ病ノ流盛ンナリシニ、難民等ハ療養ヲ加フルコト能ハズ。或ハ飢渇ニ堪ヘズシテ死スル者甚ダ多シ。又コレヲ葬スルコトヲ得ズ。故ニコノ江ニ投ズルナルベシ。寔ニソノ景様目モ當テラレヌ計リナリ」。</span></p><p>　――様々な汚物に加え、家禽類やらヒトの死骸までが茶褐色の淀みに浮んでいる。<span style="color:#8f20ff;">劣悪な環境に加えて貧弱な医療施設である。これでは猛威を振るうコレラには対処しようがない。ただでさえ体力のない難民はバタバタと斃れる。だが、まともに埋葬はしてやれないから、勢い死骸を川に流すしかない。やがて死骸は海へ――</span></p><p>　だが上海の汚さは、この程度では済まなかった。</p><p>「尚コレニ加フルニ、數萬ノ舶船屎尿ノ不潔アリ。井ハ上海街中纔カ五六所アリト云フ。然モソノ濁レルコト甚シ。故ニ皆コノ江水ヲ飲ム。多クノ大瓶ニ汲ミタクハヘ、石膏或ハ礬石ヲ投ジ置ケバ、數刻ニシテ清水トナレリ」。</p><p>――汚い流れに「數萬ノ舶船」からの「屎尿」が垂れ流される。上海にある５、６カ所の井戸水は酷く濁っている。そこで飲料水は川から取るしかない。掬いあげた川水に石膏か明礬を入れて汚れを沈殿させ、上澄みの部分を飲むことになる――</p><p>　いくら幕末の若者であったとしても、こんな「清水」を口にする“蛮勇”は流石に持ち合わせてはいなかっただろう。かくて「素ヨリ飲狎レザル惡水ナレバ、皆病マザル者ハナシ」という最悪の事態になってしまい、不幸にして3人の船頭は病死してしまう。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#800000;">＊疫病の流行は、それぞれの王朝ごとに記録されている。その回数は多く、人口の増加に影響を与えていた。</span></p><p>&nbsp;</p><p>　納富も病気になったが、佐賀藩出身で後に海軍軍令部長などを務めた中牟田倉之助（天保8＝1837年～大正5＝1916年）の介護によって事なきを得た。</p><p>　そこで納富は、<span style="font-weight:bold;">「苟モ遠ク絶域ノ地ニ赴クニハソノ地理風土ヲ聞キ知リ第一時候ヲ考へザレバ、カクノゴトキ大難ニ逢フ」</span>と猛省した。かくて「苦難ノ餘リニ嘆息」しながら考えを綴る。それを現代風に要約して“翻訳”すると、次のようになるだろう。</p><p><span style="color:#8f20ff;">　――だから中国にやってこようとするなら上海だけに限らず、長江を遡行して他の都市に停泊するか、天津や香港などに入港すれば「水患」に煩わされることもないはずだ。天津、香港に加え廣州、瓊州、潮州、厦門、福州、鎮江、寧浪、漢口、台湾、牛荘も通商港として開放されている。だから、これらの港に向えば多方面からの情報も入手できるし、清国に対する知見を広めることができる――</span></p><p>　沿海部にあって海外に向けて開かれた主要通商港をネットワークすることで生きた情報を収集し、清国に対する戦略を総合的に打ち立てようというのだが、鎖国の時代に生きた20歳前の若者とはいうものの、幕末という危機の時代でなければ生まれそうにない合理的な考えというべきかもしれない。ところが時代が下るに従って我が国の中国に対する見方は合理性や総合性から離れて、偏頗な独善性が目立つようになる。その要因はどこにあるのか。おいおい考えていきたい。</p><p><b>孔子よりも関羽を尊敬する</b></p><p>　街を歩くと多くの<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">関帝廟</span></span>に出くわす。「清國ノ俗、關羽ヲ尊敬スルトコロ宣聖ヨリモ優レリ」とするが、どうやら納富のみならず千歳丸の一行は、『三国志』の英雄で剛毅・赤誠の武門の神として知られる関羽が<span style="font-weight:bold;">、じつは商売の神として信仰されてきたことを知らなかった</span>ようだ。商売の神であればこそ、市井の人々が「宣聖」である孔子より「關羽ヲ尊敬スル」ことは当たり前といえば当たり前。<span style="color:#ff0000;"><span style="font-weight:bold;">やはり「子曰く・・・」よりカネ儲けだろう。</span></span></p><p>　ところが<span style="font-weight:bold;">「近年天主耶蘇ノ二教盛ンニ行ハレテ、愚民コレヲ尊ブコト孔聖關羽ヨリ更ニ超エタリ」</span>と。それというのも<span style="font-weight:bold;">「愚民」が「孔聖關羽ヨリ」は<span style="color:#ff0000;">「天主耶蘇ノ二教」の方に現世利益を感ずるようになった</span>からに違いない。</span></p><p>「耶蘇教内ノ唐人」の一般信者には学校を建設し教育を施し、あるいは病院を設けて医療に務めるなど民生向上を図る一方、成績優秀者には海外留学を体験させるなどして信者拡大をテコに中国社会への影響力を強めるため積極的に動いていたということだ。やがて留学組は帰国後に社会的地位を高め、中国から富を吸い取ろうとする「天主耶蘇ノ二教」の国々の手足となって動き回ることになる。欧米諸国の中国への取り組みは、日本よりも数10年も先行していたことを知るべききだ。</p><p>　にもかかわらず<span style="font-weight:bold;">「土人等數年狎居ル西洋人ニハサモナク、初テ渡リシ我輩ヲ親シムコト眞ニ舊知ノゴトシ」</span>であった。納富は、その理由を文字が同じだから筆談で意思疎通ができるからだろうと考えるが、結局は<span style="color:#ff0000;"><span style="font-weight:bold;">「倭漢ノ人心自然ニ相通ズル故ナルベシ」</span></span>と推測する。さて、そういえるかどうかは別にして、やはり欧米人に較べて遥かに遅れてやってきた日本人は、中国人の眼にはやはり新奇に映ったのである。これまた“リアルな中国”というものだろう。</p><p><b>科挙試験に受かることのみを目的に学問にはげむ</b></p><p>　納富は教育事情に興味を示す。</p><p><span style="font-weight:bold;">「清國當今ノ風、兒童六七歳ヨリ學ニ入リ」、商家の子弟までも学塾で勉強に励んでいる。それというのも「清國ハ固ヨリ文學無雙ノ國ニシテ、コレニ因テ國家ヲ治ムルコト論ナシ」。</span></p><p><span style="font-weight:bold;">「文學」、つまりは儒教古典である四書五経の思想によって国家を治めてきたからだ。だが時代が下るに従って志は失せ、科挙試験に受かることのみを目的に学問にはげむようになった。こうして現在では「自ラ虛文卑弱ニ落チ、遂ニ自國ヲ治ムルコト能ハズ」。「内長匪ニ苦シメラレ、外夷狄ノ制ヲ受ク。實ニ清國ノ危キコト累卵ノゴトシ。憐レムベキコトナリ」。</span></p><p>　かつての<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">「文學無雙ノ國」も今や志を失い、遂に内からは太平天国軍に揺さぶられ、外からは列強に蚕食されるがまま。清国の直面する危機的状況は「憐レムベキ」ことだ。</span></span></p><p>　納富は<span style="color:#6416b3;"><span style="font-weight:bold;">「虛文卑弱」の実例</span></span>を次のように記している。</p><p>　ある日、詩を書いた扇を持ってきた中国人がいた。その詩に「納貢ノ事ト蠻王云々ノ句」と日本を見下す部分を見つけた会津藩士の林三郎は、「勃然トシテ大イニ怒リ、即チソノ扇ヲ抛ツテ曰ク、我神國ノ天皇ハ萬古一系革命有ルコトナク萬邦ニ比スベキナシ。〔中略〕憎キ腐儒生甚ダ以テ無禮ナリト云」った。</p><p>　ーーさて一気に頭に血をのぼらせた林は、顔面に青筋でも立てながら、「我が神国は畏れ多くも万世一系の天皇陛下が治め賜うておられるのじゃ。キサマらの国とは大いに違い申す。どこのウマの骨やも知れぬ下賎の身が権力欲の赴く儘に力に任せて天下を私し、これを革命などと賞揚せしは笑止の沙汰。キサマが如き腐れ儒学徒が、無礼千万。生かしておくわけにはいかぬ。そこに直れ」などと、あるいは腰間の利刀に手を掛けた――</p><p>　こんな展開であったら、その<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">施渭南と称す中国人</span></span>は林の剣幕に驚き、さぞや胆を潰したはずだ。</p><p>　かくて施渭南は、「坐ヲ立ッテ拜謝シ、乃チソノ句ヲ削リ改」めた。素直に自らの非を認めたのか。それとも、ここは謝っておくに限るといったところか。それにしても、この緊迫した情況を、まさか筆談で応酬したわけではなかっただろう。</p><p>　その後も彼は毎日やって来て熱心に話していたというから人懐っこいのか。忘れっぽいのか。ウマが合ったのか。それとも日本人の腹の底を探ろうとしていたのか。</p><p>　ある日、千歳丸一行の宿舎を訪ねて来たオランダ商館長を見て、施渭南の「顔色土ノ如ク戰慄シテ立」ってペコペコとお辞儀し、慌て立ち去った。北京では一角の人物として知られた施渭南にして、<span style="color:#cc0064;"><span style="font-size:1.96em;"><span style="font-weight:bold;">この卑屈</span>さ</span></span>である。<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">「カクノゴトク異人ヲ恐怖スル國勢ノ情態、歎ズルニ堪ヘタリ」。なぜにそこまで異人を恐れるのか。</span></span></p><p>&nbsp;</p><p>＊⇒<span style="color:#6416b3;"><span style="font-weight:bold;">「虛文卑弱」の実例・・・</span></span><span style="color:#804000;">わかる。中国を旅した時に出会った体験を思い出す。掌を返すように態度が変わる。</span></p><p><span style="color:#804000;">日本人は世界の人たちも自分たちと同じ考えをすると思っているが、とんでもないことであって、日本人と同じような振る舞いをするのはドイツ系の人たちぐらいだろう。アジアは全く違うと思っていい。アジアは一つなどでは全くないのです。</span></p><p><span style="color:#804000;">実際のところ、1860年代に上海を訪れてリアルな清朝の人々に触れて、本当に驚いたと思う。それは反面、ヨーロッパ列強への視点を変えさえるものとなっただろう。</span></p>
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<link>https://ameblo.jp/tabioyaji33/entry-12589142931.html</link>
<pubDate>Thu, 16 Apr 2020 20:59:28 +0900</pubDate>
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<title>幕末の若きサムライが見た中国　2</title>
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<![CDATA[ <p>第3回　<b>高杉晋作を落胆させた幕吏</b></p><p>2016/12/03　樋泉克夫&nbsp;（愛知県立大学名誉教授）</p><p><a href="https://wedge.ismedia.jp/articles/print/8232">https://wedge.ismedia.jp/articles/print/8232</a></p><p>　凡そ交渉事は、相手を相手以上に知り尽くしたうえで臨むべきものだろう。にもかかわらず、幕吏は事前の周到な準備がないままに上海に乗りこんで、清国側との交渉の席へ着いた。ぶっつけ本番の出たこと勝負になってしまった。かくして無手勝流にならざるを得ず、「受太刀もしどろもどろとな」り、結果として口を滑らせ、「餘りに正直なる應答」に誘い込まれる。いつしか相手の術策に嵌りこみ、こちらの腹の内を見透かされた挙句の果てに不要な言質を与えてしまう。こうなると待ち構えているのは、悲惨な結果でしかない。</p><p>　交渉に陪席した中牟田は、幕吏と上海側責任者の呉道台が応酬でみせた振る舞いから、両人の心理状態を探っている。</p><p>　道台が「辭令巧妙」に機先を制すと、「先を越されて幕吏聊か狼狽の氣味あり」。「探らるゝ質問」に、如何せん「受太刀」。「質問益々鋭利」になるばかりで、「受太刀もしどろもどろ」。「追窮少しも緩まず」、答に窮して幕吏は「赧顔の至り」。「知らんとする要領は皆知りたり」とほくそ笑む道台の余裕十分な態勢に気押されし、思わず「餘りに正直なる應答」をしてしまう。そこで背中を冷たい汗が流れる。かくて「流石に氣の毒にもあり」と「温顔にて慰め」られれば、幕吏は冷や汗を拭き「吻とす」る。散々な結末である。これでは外交交渉を有利に進められるわけもなく、外交上の果実をむざむざと相手に献上したも同然だ。</p><p>　幕末からから現在までの凡そ1世紀半。この間の対中交渉の歴史を概観するなら、幕吏が曝け出してしまった失態を笑っていられない。悲しいかな、これが現実の姿ではないか。</p><p>　さて再び舞台を文久2年の上海に戻す。</p><p><b>別室に移っての宴席</b></p><p>　幕吏の失態は、これだけでは終わりそうにない。次なる舞台が設えてあった。別室に移っての宴席だ。極度の緊張から解き放たれたからだろう。ついつい幕吏の口が軽くなる。</p><p>　幕吏が、1842年の南京条約で対外開放された上海・寧波・福州・厦門・広州の5港に加え、天津・漢口への日本船の入港は可能かと尋ねる。すると道台は「差支えなし」と応じているが、その種の質問は正式交渉の席で問い質すべきであろうに。酒席での話はその場限り。公式発言とは見做されず記録もされない。「酔った席でのこと」とシラを切られたらそれまで。この時の道台は、おそらく幕吏の外交音痴に呆れ果てたのではなかろうか。だが、まだ続きがあった。</p><p><b>遊女等に出産せる小兒は、本國に伴ひ歸りて宜しきや</b></p><p>　道台が去った後、なにを勘違いしたのか幕吏は突然オランダ公使に向かって、「道台は才子と相見え申候（いや～、道台はデキ申す）」と、口を滑らせる。加えて、あろうことか「遊女等に出産せる小兒は、本國に伴ひ歸りて宜しきや」などといった愚にもつかない、いや相手からバカにされるに決まっている質問まで口にしてしまう。</p><p>　公式の場で主張すべきことを主張せず、言うべからざる席で言わずもがなの話題を持ち出す。オランダ公使を“身内”と思い込んでの軽口だろうが、永遠の味方はいないのである。いつだって、時と場合によっては味方が敵に豹変することもあることを肝に銘ずるべきにも拘わらず、軽率が過ぎる。交渉担当者としては最悪・最低の振る舞い。バカにつける薬はないというしかない。</p><p>　<span style="font-weight:bold;">中牟田のみならず高杉もまた、千歳丸の幕吏は役不足の小役人であると綴っている</span>ところからしても、対中交渉不首尾の責任の一端は幕吏の無能に求められそうでもある。だが、やはり長かった鎖国もまた大きな要因として考えておかなければならないようだ。</p><p>　それしても<span style="font-weight:bold;">既に幕末の時代から、さほどまでに交渉下手だったとは。</span>プロ野球解説者の野村克也元監督に<span style="color:#0000ff;"><span style="font-weight:bold;">「勝ちに偶然の勝ちあり。負けに偶然の負けなし」</span></span>との“格言”があるが、確かに負けるべくして負けたというのが、幕吏対道台の談判だったように思う。</p><p>　あるいは<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">文久2年の上海での外交交渉の席における幕吏の振る舞いがトラウマとなって、我が国の現在まで続く対中交渉を縛ってきたのではなかったか。</span></span>そう“牽強付会”でもしないかぎり、<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">ことに1970年代にはじまった日中国交正常化交渉以後の一連の対中外交の弱腰ぶりは説明できそうになさそうだ。</span></span><span style="color:#804000;">⇒同感です</span></p><p>　ここで改めて千歳丸に乗り込んだ若者を紹介しておくと（上海滞在時年齢。著作名。所属藩）、<span style="font-weight:bold;">高杉晋作（23歳。「遊清五録」。長州藩）</span>、<span style="font-weight:bold;">中牟田倉之助（25歳。「上海行日記」。佐賀藩）</span>、<span style="font-weight:bold;">日比野輝寛（24歳。「没鼻筆語」。高須藩）、納富介次郎（18歳。「上海雜記」</span>。<span style="font-weight:bold;">小城藩）、名倉予何人（不明。「支那聞見録」。浜松藩）、峯潔（不明。「清国上海見聞録」。大村藩）、五代友厚（26歳。薩摩藩）</span>など……誰もが若く好奇心に溢れていた。</p><p>　　　　　<span style="font-size:1.96em;">↓</span></p><p><span style="color:#800000;">鎖国のもたらした弊害を改めて見直さないといけないかもしれない。江戸時代がある意味、日本文化の原型を作ったと言えるが、「鎖国」がもたらした国際世界での外交下手の要因は依然として克服されていないように見える。</span></p><p>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・</p><p>&nbsp;</p><p><b>第</b><b>4</b><b>回　<span style="font-size:1.96em;">侍が発見した上海の賑わいと汚さの理由</span></b></p><p>2016/12/31　樋泉克夫 （愛知県立大学名誉教授）</p><p>　高杉晋作ら幕末の若者らを乗せた千歳丸は、旧暦の文久2年4月29日早暁に長崎を出港する（以後、日付は原則として旧暦）。海上では台風に遭遇し激浪に苦しみながらも、5月6日の朝、前檣にオランダ、中檣最上部にイギリス、後檣に日本――3カ国の国旗を掲げオンダ領事館前に投錨し、上海到着となった。</p><p>　初めて目にする上海港の賑わいを、峯潔は<span style="font-weight:bold;">「華夷ノ船舶来往織ルカ如」</span>く、<span style="font-weight:bold;">「就中英船最多シ」</span>。<span style="font-weight:bold;">「西洋諸国ノ商船櫛比シ壮観ヲ極メタリ」</span>。さすがに<span style="font-weight:bold;">「支那諸港中第一繁昌ナル所」</span>と記し、中牟田は<span style="font-weight:bold;">「上海滯在之洋船百艘も可有之歟。唐船は一萬艘も可有之歟。誠に存外之振にて候事」</span>と綴っている。</p><p><b>●文久2</b><b>年の“なんでも見てやろう”</b></p><p>　2人の記述からは、想像を遥かに超えた上海港の賑わいに対する<span style="color:#0000ff;">素直な驚き</span>が感じられる。当時の日本で唯一外国（といってもオランダと清国）に向って開かれていた長崎の出島も、天下の台所で知られた大阪も、ましてや将軍様のおひざ元である江戸も、上海港の賑わいと較べたら、子供と大人の差以上の違いを痛感させられたのではないか。</p><p>　とはいえ上海が漁港から「支那諸港中第一繁昌ナル所」に変じたのは、<span style="color:#0000ff;">アヘン戦争敗北の代償として1842年に締結された南京条約によって、広州・厦門・福州・寧波など中国南部沿海に位置する主要港と共に英国に開かれてからだ。</span><span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">1842年から千歳丸入港の20年の間に、中国と西欧世界とを結ぶ貿易拠点と変じたのである。</span></span>彼らもまた、諸外国との交易が繁栄に繋がることを学んだはずだ。</p><p>　そんな上海に、<span style="color:#0000bf;">血気盛んな幕末の若者が上陸したのである。若者は「徘徊」と称し、足と興味に任せて歩く。中国人の住む上海の街だけでなく、西欧人居住区、攻め寄せる太平天国軍から上海を守備するために編成された英仏軍や清国軍の兵営、さらには郊外にまで足を伸ばす。許可なく外国人と交渉すべからずなどという幕吏の上陸前の注意など守るわけがなかった。まさに文久2年の“なんでも見てやろう”である。</span></p><p>　先ず彼らが驚かされたのが、極度に不衛生で雑然とした街並みだった。</p><p><span style="font-weight:bold;">　「上海中、糞芥路ニ満チ、泥土足ヲ埋メ、臭気鼻ヲ穿チ、其汚穢言フ可ナラス」</span>と記す峯は、中国人に筆談で質問した。</p><p>　すると以前はこんなに汚くなかったが、外国人が大挙して押し寄せ賑わいが増すに従って街路が不潔になってしまったという説明が返ってきた。だが、この説明に納得できない峯は、中国人というものが<span style="font-weight:bold;"><span style="color:#cc0064;">目先の利に奔り</span></span>、<span style="font-weight:bold;">「農業ヲ切ニセス、不浄ヲ棄テ田畠ノ肥ニ用ヒサルヨリ自然路傍ノ尾篭ニナリシモノナリ」</span>と考える。江戸八百八町のエコ生活を見習うべし、ということだろうか。</p><p><b>●目先の損得に奔る</b></p><p>　<span style="color:#0000ff;">日本のように糞尿を畠の肥しにして作物を育てればいいものを、目先の損得に奔るから、街路が不衛生極まりない状態になっても知らん顔。やがて空気が汚染され、疫病が流行ることとなる。毎年炎暑の時節には、<span style="text-decoration:underline;"><span style="font-size:1em;">「<span style="font-weight:bold;">必ス悪病大ニ行レ、人民ノ死スルモノ甚ダ多シ</span>」。</span></span>と公衆衛生は「人命ニ拘ルコトナレ」ばこそ、国家の指導者は十二分な対策を考えるべき</span>だと、峯は強調する。</p><p>　<span style="font-weight:bold;">「土人目前ノ利ニ走リ」、土地を荒廃させ環境破壊も日常化している</span>当時の上海は、21世紀初頭の現在にも通じているようにも思える。</p><p>　次に驚いたのが耐え難いまでの水質の悪さである。納富は、概略次のように綴っている。</p><p>　――<span style="color:#0000ff;">淀んだ茶褐色な流れに、家禽類の死骸、ありとあらゆる汚物、さらにはヒトの死体までが浮かぶ。</span>劣悪な環境のうえに、<span style="font-size:1.96em;"><span style="font-weight:bold;">医療施設は貧弱。猛威を振るう<span style="color:#cc0064;">コレラ</span>を前にしては、もはや為す術がない。</span></span>太平天国軍を逃れて上海に辿り着いた体力のない難民はバタバタと斃れる。だが、まともに埋葬はしてやれない。勢い死骸を川に流すしかない――</p><p>　海外交易で繁栄を誇る一方で、<span style="color:#0000ff;">上海は劣悪な環境に悩まされていた。</span></p><p><b>●ソノ濁レルコト甚シ</b></p><p>　じつは上海の街には<span style="color:#0000ff;">井戸は５、６個所しかなく、しかも「ソノ濁レルコト甚シ」。</span>そこで、否応なく川の水を容器に移し、石膏やらミョウバンを加えてゴミを沈殿させ、上澄み水を飲むことになる。山紫水明の国土からやって来た武士たちにすれば、こんな「惡水」を口にできるわけがない。だが飲まざるをえない。そこで「皆病マザル者ハナシ」ということになり、<span style="font-weight:bold;"><span style="color:#cc0064;">悪いことに日本から帯同した炊夫ら３人が命を落としてしまう。</span></span>　たしかに繫栄する上海の衛生状態は劣悪である。これもまた孔子を生んだ国の現実であることを、彼らは改めて思い知らされたに違いない。</p><p>　<span style="font-size:1.96em;"><span style="font-weight:bold;">↓</span></span></p><p><span style="color:#800000;">1）繁栄はしているものの、その街の風景に見る非衛生的光景に唖然とする。　<span style="font-weight:bold;">「土人目前ノ利ニ走リ」、土地を荒廃させ環境破壊も日常化している</span>当時の上海は、・・・ＰＭ25などの大気汚染問題や河川の汚染が問題となる現代にもそのままなのだ。</span></p><p><span style="color:#800000;"><span style="font-weight:bold;">「土人目前ノ利ニ走リ」</span>と書いた当時の若き日本人にとって、恐るべき土地に見えたであろう。</span></p><p><span style="color:#800000;">支那人を当時の若い日本人がどのようにとらえたか、その第一が、<span style="font-weight:bold;">「土人目前ノ利ニ走リ」</span>であったのだ。そしてその傾向はいまもその通りなのだ。</span></p><p><span style="color:#800000;">2）コレラで3人の同行者が死んでいる。疫病は支那にはつきものなのだ。今度の武漢ウィルスにしても常に起こる出来事の一つに過ぎないと思える。「支那」そのものがコレラ菌の様なもので、阿片戦争以来、国際関係の輪につなげたことで、コレラ菌が拡散されていくのだ。</span></p><p><span style="color:#800000;">共産主義がどうのこうのではなく、「チャイナ」という歴史個体が「病原菌」なのだと言える。</span></p>
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<link>https://ameblo.jp/tabioyaji33/entry-12589142525.html</link>
<pubDate>Mon, 13 Apr 2020 14:57:58 +0900</pubDate>
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<title>幕末の若きサムライが見た中国　1</title>
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<![CDATA[ <p>樋泉克夫&nbsp;（愛知県立大学名誉教授）の『幕末の若きサムライが見た中国』を読みましょう。</p><p><b>「1862</b><b>年、高杉晋作ら幕末の若者は幕府が派遣した千歳丸に乗り込み、激浪の玄界灘を渡って上海に向った。上海の街で高杉らは自分たちが書物で学んだ中国とは異なる“</b><b>リアルな中国”</b><b>に驚き、好奇心の赴くままに街を「徘徊」し、文人や役人などと積極的に交流を重ね、貪欲なまでに見聞を広めていった。明治維新から数えて1</b><b>世紀半余が過ぎた。衰亡一途だった当時とは一変して大国化への道を驀進する中国と日本との関係を考えるうえでヒントになろうかと思う。」</b></p><p>&nbsp;</p><p><span style="text-decoration:underline;"><span style="font-size:1.96em;">第1回　<b>高杉晋作が上海で見て感じた日本人</b></span></span></p><p>2016/11/03　樋泉克夫&nbsp;（愛知県立大学名誉教授）</p><p><a href="https://wedge.ismedia.jp/articles/print/8113">https://wedge.ismedia.jp/articles/print/8113</a></p><p>　明治維新に先立つこと5年。<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">文久2（1862）年</span></span>もまた、多事多難の年であった。</p><p>　1月には水戸藩士が老中安藤信正を坂下門外に急襲し、4月には薩摩藩内尊皇派粛清事件とされる所謂「寺田屋騒動」が発生している。生麦事件が起こったのは8月で、9月に行われた朝議は攘夷と決した。翌文久3年早々、京都で新選組が結成されている。</p><p>　陽暦この年の5月27日に当たる「文久二年壬戌四月二十九日」、徳川幕府が英国から購入し、貿易の可能性を探る目的で<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">上海に派遣した木造船の千歳丸</span></span>が、長崎港を出港した。咸臨丸の太平洋横断に遅れること2年のことである。因みに、この年は清朝年号の同治元年。富強をめざした洋務運動が緒に就いき、アメリカでは南北戦争が闘われていた。</p><p>　徳川幕府が第一次鎖国令を発した1633（寛永十）年以来、日米和親条約が結ばれた1854（安政元）年までの間、我が国はわずかにオランダと中国（明朝・清朝）とは通商関係にあったが、それ以外の諸外国との交流を絶った。長崎の出島を拠点にオランダ・中国との交易は継続していたものの、日本人がオランダや中国に出向いたわけではない。いわば一方的な関係だった。<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">その間、日本人が中国の国情を知る手段は漢字で記された文書しかなかった。いわば日本人はバーチャルな中国像を描いていたということになる。</span></span></p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="color: rgb(128, 64, 0);">⇒バーチャルなシナ像が江戸から明治の変革の時期の日本人がどのように眺めたのか、またそこからどのような支那観を描き出したのか、それをこのしりーずで学んでみたい。そして１５０年後の今、われあれも同じ立場にあることを知ると思う。</span></span></p><p>&nbsp;</p><p><b>バーチャルな中国像を打ち破る</b></p><p>　そのバーチャルな中国像を打ち破り、生身の中国と中国人に接し、その姿を日本に伝えたのが千歳丸に乗り組んだ若者たちであった。そのなかの1人が記す<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">『海外日録』</span></span>の和綴じ本の表紙には「室町以来希有」と記されている。この6文字からは、逼塞する徳川幕藩体制の日本を飛び出し、海外を知ろうという若者の高まる胸の鼓動が聞こえてくるようだ。</p><p>　千歳丸の上海訪問から現在までの150年ほど、日本も中国も激動に次ぐ激動の歴史を歩み、日中関係もまた激変に次ぐ激変を繰り返してきた。この間、千歳丸で上海に向かった若者をはじめとして数限りない有名無名の日本人が中国各地を歩き、生身の中国人に接し、自らの思いを綴り、紀行文として残してくれている。</p><p>　それぞれの時代環境、それぞれの社会的背景で、中国と中国人に対する思いは当然のように違っている。時に悪しざまに罵り、懲罰すべしと訴え、侮蔑・嫌悪し、一転して際限なく崇め奉る。先人が綴る紀行文の数々を、年代を追って読み進むうちに何故か不思議な思いに駆られた。はたして<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">先人が語る中国、或いは中国人論は、じつは中国という鏡に映しだされた日本人の自画像ではなかろうか</span></span>、と。</p><p><b>「嗟日本人因循苟且、乏果斷」</b></p><p>　千歳丸に乗り込んだのは幕府勘定方の根立助七郎を筆頭に従僕も合わせて総計で51人。おそらく長い鎖国に慣らされた日本人に外洋での航海はムリだったようで、10数人の英国人が操船を担当している。</p><p>　51人のうちの1人である<span style="color:#7f7fff;"><span style="font-weight:bold;">高杉晋作</span></span>は、幕府が上海で貿易を目指すに至った経緯を推測し、<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">「内情探索録」</span></span>に漢文で書き残している。その部分を現代風に訳してみると、　</p><p>　<span style="color:#0000bf;">――幕府は上海で諸外国との貿易を掲げてはいるが、おそらく長崎の商人どもが長崎鎮台の高橋某を金銭で籠絡し、ボロ儲けしようと企んでいるはずだ。江戸からの幕吏にしても、多くは高橋某の仲間だろうに。海外出張で手にできる高額手当を狙っているのではないか。取引については、幕吏なんぞは商人や長崎の地役人に任せっきりで、何も知らない。ヤツらは商人からの報告を鵜呑みにして記録するだけ。商人は通訳を仲間に引き入れ、通訳は何から何まで「外夷」に相談する。こちらの意図は、相手に全て読み切られてしまう。かくてイギリス人とオランダ人に好き勝手のし放題ということになるわけだ――。</span></p><p>　乗船したのが旧暦の4月27日。翌28日は「好晴、船中諸子云、今午後必解纜、而終日匆々、不發船（好天、同乗者は今日の午後には必ず出港するというが、終日、あたふたするばかりで出港しない）」と。そして「嗟日本人因循苟且、乏果斷、是所以招外國人之侮、可歎可愧」と続けた。</p><p>　<span style="color:#0000bf;">――「嗟日本人」……嘆かわしいぞ、日本人。どうでもいいような物事に拘泥し、</span><span style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1em;"><span style="color:#cc0000;">イザという肝心な時に果断に対処できないではないか。これだから外国人にバカにされてしまうのだ＊。</span></span></span><span style="color:#0000bf;">歎ゲク可シ、愧ジル可シ」――</span></p><p>　上海に向う船中での高杉の慨歎は、1世紀半ほどが過ぎた現在の日本人を徹見していたようにも思える。「嗟日本人因循苟且、乏果斷、是所以招外國人之侮、可歎可愧」。</p><p>　　<span style="font-weight:bold;"><span style="color:#804000;">↓</span></span></p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="color:#800000;">⇒＊高杉のこの一言は今も変わらないように思える。今回のコロナ対策の初期対応のまずさ、習近平訪日への忖度、親中派の二階などの行動が日本を危うくしたのだ。</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#804000;">《</span><span style="color:#cc0000;">イザという肝心な時に果断に対処できない》、今も昔も変わらない。</span></span></span></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><span style="text-decoration:underline;"><span style="font-size:1.96em;">第2回　<b>日中交渉で受け身に立つのは日本の伝統か？</b></span></span></p><p>2016/11/16　樋泉克夫&nbsp;（愛知県立大学名誉教授）</p><p><a href="https://wedge.ismedia.jp/articles/print/8159">https://wedge.ismedia.jp/articles/print/8159</a></p><p>　（高杉晋作たちが上海に渡った）当時、<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">清国側は正式の通商関係がないことを理由に、幕吏に対し、オランダ商館を通しての交渉を求めている。</span></span>勢い込んで乗り込んだと思われる幕吏は、さぞかし肩透かしを食らったはずだ。だが考えてみれば、清国側に理があったといわざるをえない。</p><p><b>一日の長があった清国外交</b></p><p><!--[if gte vml 1]><v:shapetype id="_x0000_t75" coordsize="21600,21600" o:spt="75" o:preferrelative="t" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" filled="f" stroked="f"> <v:stroke joinstyle="miter"/> 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alt="https://wedge.ismedia.jp/mwimgs/d/b/1200m/img_dbe0315460ec76c1cad6af10efb73f43340527.jpg" border="0" contenteditable="inherit" height="173" src="file:///C:\Users\NEC-PC~1\AppData\Local\Temp\msohtmlclip1\01\clip_image002.jpg" v:shapes="図_x0020_800" width="282"></p><p>1875年の上海港（iStock）</p><p>　それというのも1840年に勃発したアヘン戦争に敗北して以来、南京条約や北京条約など、屈辱的とは言いながら西欧諸国と外交交渉を重ねてきた。それだけに外交関係については長い鎖国に慣れた日本と較べ、清国側に“一日の長”があったということか。</p><p>　某日、幕吏はオランダ公使の許を訪ね、千歳丸による渡航の当初目的である上海港での貿易の可能性について打診した。石炭や人参など、持参した品々が当初の目論見と違って売りさばけそうにない。オランダ側は値引けば売れると助言するが、長崎の相場に較べ安すぎる。かくして、持ってきたものをそのまま持ち帰るしかなかった。<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">幕吏も長崎商人も国際貿易の現実を知らされたことだろう。</span></span><span style="color:#ff0000;"><span style="font-weight:bold;">鎖国が引き起こしたゆえの情報音痴という弊害か。</span></span><span style="font-size:0.83em;"><span style="color:#804000;">⇒この音痴感は今も続いていると言える。</span></span></p><p>　某日、上海の行政を預かる道台の呉某がオランダ公使を訪問するというので、日本側はオランダ公使の許に出向き、<span style="font-weight:bold;">道台</span>と面談する機会を得た。両者の会談の模様を、鍋島藩藩士で後に海軍大学校長、軍令部長、枢密顧問官などを歴任した<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">中牟田倉之助（天保8＝1837年～大正5＝1916年</span></span>）が記録している。<span style="font-weight:bold;">上海滞在時の中牟田は、なんと25歳！</span></p><p>　中牟田の記録に基づいて、その場の遣り取りを再現してみたい。なお「●」は幕吏、「▲」は道台。会話は簡略に現代語訳。中牟田の評語は原文のままに《　》で括っておく。双方の当たり障りのない挨拶が終わると、道台が切り出す。<span style="font-size:0.83em;"><span style="color:#804000;">⇒「道台」はシナの役人</span></span></p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="color:#804000;"><b>餘りに正直なる應答</b></span></span></p><p>　▲　過日は当方をお訪ね戴きながら、返礼が遅れてしまいお詫び申し上げます。<br>　　　《呉道台の挨拶也。辭令巧妙、先を越されて幕吏聊か狼狽の氣味あり》<br>　●　先般は一同が過分な饗応に与かり感謝致します。<br>　▲　商売の手応えは如何でしょうか。<br>　　　《探らるゝ質問なり。幕吏受太刀となる》<br>　●　あまり捗々しくありません。<br>　▲　ともかくも初回でもあることですし……。<br>　　　《質問益々鋭利、受太刀もしどろもどろとなる》<br>　●　帰国後、政府に報告したうえで再度の訪問もありますので、その旨をお含み願いたい。<br>　▲　持参された物資は残らずさばけましたか。<br>　　　《追窮少しも緩まず。幕吏赧顔の至りなり》<br>　●　残らず売却するつもりでおりましたが、いまだ所期の成果を挙げてはおりません。<br>　▲　上海には何時頃までご滞在で。<br>　●　未定。日本人の体には具合の好い気候でもなく、持参した物資が売りさばけ次第、可能な限り早めに帰国のつもりです。<br>　　　《知らんとする要領は皆知りたり。餘りに正直なる應答にて、流石に氣の毒にもあり、道臺、温顔にて慰めて曰く、》<br>　▲　上海は貴国と近い。蒸気船なら2、3日で往復できますので、時々、お越し下さい。<br>　　　《道臺を免れて幕吏吻とす》<br>　●　近日中に道台の役所に参上し、種々ご相談致したく。<br>　▲　過日は結構な品々を賜り深謝。日々、楽しんでおります。<br>　●　つまらないもので恥じ入る次第です。（原文は「些少の品にて恥入候」）<br>　▲　<span style="color:#cc0064;"><span style="text-decoration:underline;">日本製品は殊に品質に優れており、驚くばかりです。</span></span></p><p>　清国は亡国の瀬戸際に立ち、上海は英仏両国に守られて僅かに命脈を保つ始末――まさに惨状というべき情況だが、<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">緩急自在で巧妙な外交手腕だけは健在だったらしい。その姿は、「餘りに正直なる應答」に終始する幕吏とは対照的だ。</span><span style="font-size:0.83em;">⇒何も変わらない</span></span></p><p>　時にたわいのない挨拶で、時に日本製品の素晴らしさを讃えて座を和ませ、肝心の貿易工作が不調であることを探り出す手腕に幕吏はタジタジ。「道臺を免れて幕吏吻とす」との中牟田の一節に、道台に翻弄されるがままに終始した「受太刀」の幕吏の緊張が解けた瞬間の姿が浮かぶ。まさにホッと、だろう。</p><p>　だが幕末のみならず、1949年の建国から現在まで、いや建国以前にしても、日中交渉に際し、<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">日本側は「餘りに正直なる應答」と「受太刀」に過ぎた嫌いはなかったろうか。</span></span></p><p>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・</p><p><span style="color:#804000;">＊幕府の役人と今の政府の官僚・自民党の議員連中など、１９世紀と何もかわらない姿がこの２回の記事から見えてくる。現在のコロナ騒ぎと重ねてみれば、高杉の嘆きを私は共有する。この原因は、鎖国故の国際感覚の欠如と、日本人の「生真面目な特性」にあると言える。相手をみて話す態度がないのが日本人なのだ。誰もが同じ考えをするなどと思っていることに大きな間違いがあるのだ。</span></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
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<link>https://ameblo.jp/tabioyaji33/entry-12589142079.html</link>
<pubDate>Sun, 12 Apr 2020 20:56:21 +0900</pubDate>
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<title>「経済史上における近世支那社会の性質」からの支那（China）研究①</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size:1.96em;"><span style="text-decoration:underline;"><span style="font-weight:bold;">小竹文夫箸『経済史上における近世支那社会の性質』を読む</span></span></span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#800000;">昭和10年代に書かれた論文をまとめて上記の一冊にして、昭和17年に出版された本を、興味深く読みたいと思追います。小竹氏は戦前中国に設立された上海東亜同文書院大学で教授をされていた中國研究家です。</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-weight:bold;">緒　言　</span>　封建的社会説への抗議</p><p>（1-4）<span style="color:#ff0000;"><span style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1em;">「封建」の始原的意義</span></span></span></p><p>1.　現代をも含めた近世支那社会の特質乃至経済発展上におけるその地位に関しては従来から種々なる意見の並立があり、今日と言えどもなお定説を得ない有様であるが、これらの諸説を要約すれば大体に<span style="font-weight:bold;">封建的社会説</span>および<span style="font-weight:bold;">特殊社会説</span>の二つとなるようである。このほか、<span style="font-weight:bold;">現代のみについては資本主義社会説</span>もあるが、<span style="font-weight:bold;">国民の八割が農民であり、近代的機械の少ない現代支那の実状からは到底承認しがたい</span>のであって、実は最初からあまり有力な意見ではなかった。<span style="font-weight:bold;">特殊社会説はさらにアジア的生産様式社会説、<span style="color:#8f20ff;">官僚的前資本主義社会説等</span>の諸論に分れる</span>のであるが、これらに対して今日最も有力なるは<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">封建的社会説</span></span>であって、支那を論ずるほどの者が意識的に無意識的に多く好んで「封建的」の語を口にするごとくあたかも一種定論となれるかの観を呈しているのである。そこで支那論はおのずからこの封建的社会説の吟味が論点の中心とならざるをえないのである。（ｐ3）</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="color:#800000;">＊「<span style="font-weight:bold;">国民の八割が農民であり、近代的機械の少ない現代支那の実状」＝封建的社会説⇒前近代</span></span></span></p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="color:#800000;">　1930年代の認識から1990～2010年代への変化⇒<span style="font-weight:bold;">官僚的前資本主義社会説⇒前近代</span>　と読み解く。</span></span></p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="color:#800000;">　2020年の現時点で、この議論を参考にするのは、現代にあってもシナは、『前近代』的状態にあることをテーマとしたいからです。</span></span></p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="color:#800000;">　つまり『近代』という歴史文化概念と対比しうるのは、『非近代』または『前近代』と言う概念だ。この論文の中に使われている用語をもちいる</span></span></p><p><span style="font-size:0.83em;"><span style="color:#800000;">　ことえを前提にして考えれば、いまを言い当てるには「<span style="font-weight:bold;">官僚的前資本主義社会説」</span>がきわめて妥当な概念に思えます。</span></span></p><p>&nbsp;</p><p>2　しかるに封建的社会論者のいう<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">封建的なる意義</span></span>に関してはいまだ明確にこれを指示したものなく、西洋のFeudal System,Lehenswese　日本の武家時代制度等に共通した概念とも考へられるが、後に述ぶるごとくこれとも異っており、<span style="color:#8f20ff;">その果して政治的現象なのか経済的現象なのか、はたまた社会的現象なのか、</span>すこぶる広義漠然、意義の曖昧をまぬかれぬのである。もっとも文化は相互連関性をもち、強いてかくのごとく区別すべきものでなく、一連の系列として考えるべきものとするも、少なくとも「封建的」なる語句を用うる以上、封建の原義に即して考えられるべきものでなければならぬこといふまでもないであらう。</p><p>3　そもそも<span style="font-weight:bold;">「封建」なる語句はいうまでもなく支那で出来た言葉</span>であって「封」字は土を小高く盛り上げ、その上に樹木を植えた形が原義とされている。支那では昔から<span style="color:#ff0000;"><span style="text-decoration:underline;"><span style="font-weight:bold;">天界を支配する神、天</span>――<span style="font-weight:bold;">帝</span></span></span>ともいう――に対して地殻を支配する神があり、これを地――后土ともいう――と称したが、<span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;"><span style="text-decoration:underline;">地は地殻全体を支配する神</span></span>であって</span>、このほか地殼の各部分部分を司る神があった。これが所謂<span style="font-weight:bold;">「方」</span>であって、あたかも天の外に天界の各部を司る諸神があったと似ていた。この<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">方</span></span>――これを後に社とも土地神ともいう――<span style="color:#8f20ff;">を祭るためにその土地の一定の神聖かなりとされる場所を選んで土を盛り特殊の神聖なりとされる樹木――殷では松、周では柏――柏を植える一種の宗教的儀式が</span><span style="color:#8f20ff;">「封」であった</span><span style="color:#000000;">（ｐ4）</span><span style="color:#8f20ff;">のである。</span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;"><span style="text-decoration:underline;">祭祀権と支配権とが同一であった古代においてはこの「封」ずることは主権者から与えられた土地が自己の領有たることを表示確認することにほかならす</span></span>、<span style="color:#ff0000;"><span style="text-decoration:underline;">かくてその土地に国を建てることが「建」の意味</span></span>でめった。</span>従って<span style="font-weight:bold;">「封」と元来は同一字であったと考へられる「邦」が国を意味するのもこのためである。</span>因みに天下全体を領有する者は天と共に地を祭るべきであって、後世これが天子の特権とされたのもこれによる。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:0.83em;">＊<span style="color:#800000;">天皇制の元をただせば、<span style="font-weight:bold;">「祭祀権と支配権とが同一」</span>の事態を差し、ここでいう「封建」の古代の原義において国づくり神話が形成されていると言えるのではないか。</span></span></p><p>&nbsp;</p><p>4　以上が<span style="font-size:1.96em;">「封建」の始原的意義</span>であるが、かくのごとき現象が実際支那に見られたのは殷末から周代まで、いな、周代でも中葉以後はよほど宗教的意味がうすれているのである。従って<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">巌密に封建ということになれば</span></span>、西洋のFeudal Svsten、Lehenswesen日本武家時代の制度とも異なっており、<span style="text-decoration:underline;"><span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">支那独特の現象にはかならぬ</span></span></span>が、日本の武家制度が――に封建制度と呼ばれ西洋Ｆｅｕｄａｌ　Ｓｙｓｔｅｍ　Ｌｅｂｅｎｅｓｗｉｓｅｅｎｅｎに封建制度の邦訳が当てられたごとく普通に「封建」というときは少なくともこれら三者に共通もしくは近似の要素を含んだ概念とせねばならぬであらう。</p><p>5　　いま便宜上、経済學辞典（岩波版）の封建制度の項、西洋封建制度の意義を見るに、「封建制度とは君臣主従の身分的開係が封土なる物的関係を紐帯として結ばれる中世持有の政治形態である」とあり、日本の封建制度を本庄博士の日本経済史概論に見るに「封建なる語は<span style="text-decoration:underline;"><span style="font-weight:bold;">群県に対する</span></span>ものである。（ｐ5）中略、上に形式上の主権者あり、全国各地に諸侯があって之に臣従するも諸侯は各自一定の土地を占領し、例外の場合を除くの外<span style="text-decoration:underline;"><span style="font-weight:bold;">その封土人民を世々統治し、その領域内に於ける人民は臣下として諸侯に服従してその生業を営むのである。</span></span><span style="font-weight:bold;">而して諸侯の下には更に家臣が一定の土地を受けてその封土人民を治むること諸侯の場合と同様である。かくの如く封建制度は上下相実の主従関係と封土関係とを以て組織する所のものであって、この人的開係と土地開係とは封建制度に離る可からざる要素を為すものである」</span>となっており、<span style="color:#800000;"><span style="font-weight:bold;">かかる封建制度の意義は実は我々が従来普通に理解していたところにほかならぬ</span></span>のである。本庄博士が封建をもって郡県に対する語とされるのは、もとよりこれを政治現象と解されるからであり、従って封建なる言葉のもつ根本的概念としては少なぐとも君臣主従の人的開係と封土なる物的関係を二大要素とする政治現象となすことができるようである。</p><p>6　　この特殊的政治現象にともなう経済現象が封建もしくは封建的経済現象、社会現象が封建もしくは封建的社会現象であって、総じてかかる社会を封建もしくは封建的社会と呼ぶことができるであらう。もっとも封建的社会論者のいう<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">封建「的」</span></span>の意味は類似もしくは近似封建的の意味のようであるが、いづれにしてもその内容は原義の封建なる現象より導かるべきであるはいうまでもない。（ｐ6）</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#800000;"><span style="font-size:0.83em;">＊封建と言うのは、「近代」と同様にある種の歴史的概念で、「土地・支配関係・思想」とが一体的になった概念だと思う。そこで一番強調されるのは「政治面」に於いては<span style="font-weight:bold;">「身分制度」</span>であり、その身分に従った封土に伴う人民の<span style="font-weight:bold;">「不自由性」</span>であろう。西洋の封建と日本の封建に含まれる思想的側面は「忠義」であったが、シナの場合は『礼』にあると思われる。忠義が礼を伴うのが、礼を重視するあまりに、礼の形式化が強調されていく。礼教の影響による。</span></span></p><p><span style="color:#800000;"><span style="font-size:0.83em;">経済史的に見るならば、農業が主体の社会であり、農民＝人民は半ば奴隷的、所謂農奴であり、土地の所有権、生産手段の所有権の法的な位置づけによるだろう。農奴＝不自由労働者の再生産⇒家族の形成、これらと法体系の関係に於いて、マルクスが言うように<span style="font-weight:bold;">生産手段を持たない存在</span>で、かつ<span style="font-weight:bold;">政治的自由がない者＝人権がない社会</span>、<span style="font-weight:bold;">政治権＝支配権は身分制度の上層部に独占される、</span>というのが<span style="font-weight:bold;">封建制度の特徴</span>だ。特に強調されねばならないのは、被支配者である人民＝農民の</span></span><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#800000;"><span style="font-size:0.83em;">《「土地」の所有権がない》形態、</span></span></span><span style="color:#800000;"><span style="font-size:0.83em;">つまり土地は支配者の所領であり、その根本は国家のモノとされ、それが身分に応じて分け与えられているので「封土」されているだけで、領主が「</span></span></p><p><span style="color:#800000;"><span style="font-size:0.83em;">一時預かり」のじょうたいで、人民は土地の一部に過ぎない。＝人民は移動の「自由」がないのだ。</span></span></p><p>&nbsp;</p><p>7　　元来封建制度は全く地方割拠的民族部落もしくはこれに類似する荘園的形態が漸次に中央集権的社会たらんとする過渡期に起った政治形態であって、部族の酋長や独立的武装荘園の領主がその武力によってすこぶる強大を致し、他の酋長・領主を圧して最有力になったが、<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">なお全国を統一支配するはどの実力を有しないときに起った</span></span>のである。<span style="color:#cc0064;"><span style="text-decoration:underline;"><span style="font-weight:bold;">それで形式上は上に主権者があり</span>――西洋ではKing、目本では征夷大将軍、支那の殷代で元后、周代で天子あるひは王等――<span style="font-weight:bold;">実質的には各地方に領主</span>――西洋でHerr――日本で守護・地頭・大名、支那の殷代で群后、周代で諸侯等――があり、<span style="font-weight:bold;">緩慢なる統制のもとに地方割拠的状態を呈せざるをえない</span>のである。</span>主権者と領主との関係は名目は君臣であり、領主は主権者より封ぜられたものであるが、その統制力はようやく会盟、參覲を行わせる程度にすぎなかった。</span>最も中央集権的であった徳川封建さえ、<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">直接家康が封じた各藩の領主はいわゆる譜代大名</span></span>だけであって、外様大名の存在は結局その従来からの所領に安堵するのを認めざるをえなかった結果である。それで領地こそ多いが<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">主権者も政治的にはまた一個の大領主</span></span>で、自己直轄の土地を有した。周の王畿、徳川の天領などすなわちこれである。領地は西洋ではFief,Lehen、日本では所領・知行地、支那では封地・采邑など言われ、[ｐ7]　これも形式的には一応主権者の領有として領主に分与したものであり、<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">実質的に分与されたる土地はその人民と共に完全に領主の領有するところで、<span style="text-decoration:underline;">主権者の支配力はほとんどこの内部におよばぬのである</span>。</span></span>‘</p><p>&nbsp;</p><p>＊<span style="font-size:0.83em;"><span style="color:#800000;">封建制度というイメージは、<span style="text-decoration:underline;"><span style="font-weight:bold;">緩慢なる統制のもとに地方割拠的状態</span></span>がって、全国を統一的に支配するのは、<span style="text-decoration:underline;"><span style="font-weight:bold;">形式上の主権者</span></span>であって、</span></span><span style="font-size:0.83em;"><span style="color:#800000;"><span style="font-weight:bold;">実質的に分与されたる土地はその人民と共に完全に領主の領有するところで、<span style="text-decoration:underline;">主権者の支配力はほとんどこの内部におよば</span></span></span></span><span style="color: rgb(128, 0, 0); font-size: 0.83em;">ないのです。ところが、シナに在ってはそれは戦国時代までの周王朝の時代にあったもので、秦の始皇帝によって起きた秦王朝以来、この封建制度は、その後の唐王朝の滅亡による貴族の消滅を持って荘園制度が消えると同時に、皇帝がすべての人民に直接及ぶ体制になる。</span></p><p><span style="color: rgb(128, 0, 0); font-size: 0.83em;">それともう一つ、この直接支配は官僚制を伴うもので、その官僚制は近代の法治国家の官僚制とは異なる、封建的つまり人治的官僚制で、封建制度の場合は領主の私的官吏が官僚であったのだが、それを全国版の皇帝家の官僚が支配する、大家産制度の官僚制に変えたことです。</span></p><p><span style="color: rgb(128, 0, 0); font-size: 0.83em;">今のシナは皇帝は「共産党」と言う『党』であり、習近平すらも、その「党」に支配されている。ただ表面的には習への忖度で、全てが人治で動いている。「党」と言うのは「皇帝」と同じ制度カリスマとして機能し、皇帝が変化しても、そのカリスマは機能する。よって日本の軍部が天皇統帥権を悪用して軍部の専横がおきた様に、「党の名において」とか「皇帝の名において」と言う無理が通る道をつくる。</span></p><p><span style="color: rgb(128, 0, 0); font-size: 0.83em;">このことから導かれるのは、「封建」という概念の中に「人治」「家産」という概念が加わる。そのことによって、権力者の家族が利害を独占する行為、また賄賂・収賄が通常となる社会が『常識』となるのだ。それは封建的身分関係における「忠義」は、カネで売買されるということになる。これは日本人の心性とは全く異なるもので、「心」の動きを全く考慮せずに、「忠義」をカネで計算すると言うことになるのです。シナ人には「心」と言うのは別物のようなのだ。つまり「道徳的」とか「倫理的」などと言うのは、彼らの世界では意味が無く、「禮」を整えればよいということにる。『心』＝「形式」とかんがえられるようになる。葬儀における「泣き女」などの商売が成り立つことを見ればわかる。</span></p><p><span style="color: rgb(128, 0, 0); font-size: 0.83em;">《</span><span style="font-size:0.83em;"><span style="color:#800000;"><span style="font-weight:bold;"><span style="text-decoration:underline;">主権者の支配力はほとんどこの内部におよば</span></span></span></span><span style="color: rgb(128, 0, 0); font-size: 0.83em;">ない》と言うのを封建とするならば、20世紀に現れた「馬賊」「軍閥」がそれに該当するだろう。張作霖・張学良などの軍閥と蒋介石の関係、その前の孫文と袁世凱の関係が、この関係の具体例だろう。それが共産党に吸収されていく過程で、消えていった。</span></p><p>&nbsp;</p><p>8　とにかく、<span style="color: rgb(204, 0, 100);"><span style="font-weight:bold;">形式上は領主を封じた主権者であり、武力においても逞かに他の領主を凌ぐ最高の実力者</span></span>でめった。そこで両者の関係はおのづから<span style="color: rgb(204, 0, 100);"><span style="font-weight:bold;">君臣主従の関係をとらざるをえず</span></span>、徳川時代のごときは諸大名が将軍に対して服従と忠勤を誓い将軍よりは武家諸法度を遵奉すべきことを命じたのである。これ<span style="color: rgb(255, 0, 0);"><span style="font-weight:bold;">上級の第一次的君臣主従関係</span></span>であるが、重要なのはむしろ<span style="color: rgb(255, 0, 0);"><span style="font-weight:bold;">各領主の領内において領主と家臣、家臣とさらにその従者との間に結ばれた第二次的第三次的君臣主従の関係</span></span>である。かかる下級の君臣主従関係炉出来たのは主権者の支配力が領主の領内土地人民におよばなかった当然の結果である。</p><p>9　　領主にはその領地の大小等により諸種の階級があつた。すなわち<span style="font-weight:bold;">西洋ではDuke（Herzoｇ）Marquis（Markgraf））Count（Graf）isgraf（Vizgraf）その他、Barton、Seigneur,Seigneur, Freherr　等</span>、徳川時代では<span style="font-weight:bold;">大名・小名、周代では<span style="color:#8f20ff;">公・侯・伯・子・男</span></span>等で、Duke(Herzog)以下（ｐ8）Visount(Vizgrf)が大領主、、Baron以下が小領主、大名は知行高十萬石以上、小名は十萬石以下、公侯は伝説的には方百里、伯は方七十里、子男は方五十里とされた。なお大領主としての主権者が徳川将軍において八百萬石、周王において方千里とされたことは他の領主との比較を示す一例である。主権者をも含めたこれら領主はその大小高下にかかわらずいづれもまた自己に臣従する家臣を有した。すなわち西洋のKnight(Riter)、徳川の上輩・徒士・足軽、周代の卿・大夫・士等これで、支那では周王に直属する臣下も卿・大夫・上と称したが、徳川では幕府直属の上輩は特にこれを旗本、徒士・足軽は御家人と称した。これが第二次的君臣主従関係であって、臣従たるものはその主君に対し絶対的な服従忠勤の義務があった。西洋においてはKnight（Ritter）が主君と結ぶ主従関係は忠誠の誓言をもって行はれた。しかしてこれら家臣の上級なる者はさらに自己に従う従者をもち、<span style="font-weight:bold;">その間に第三次的主従関係を作った。</span>すなわちKnight(Riter)、におけるSquire（Edelknecht）、上輩に対する足軽・中間、卿大夫に対する士等これで、これらの間にもまた密接なる主従の開係炉結ばれたこというまでもないであらう。これらの第二次的第三次的主従関係における従者は直接自己の所属する主君に対しては直接の臣下であったが、主権者に対しては陪臣または陪臣の臣で、もとより直接の服属開係はなかった。<span style="color:#ff0000;"><span style="font-weight:bold;">要するに上下を貫く階級的服従開係、これが君臣主従の人的関係の意味なのである。</span></span></p><p>&nbsp;</p><p>＊　<span style="color:#800000;"><span style="font-size:0.83em;">⇒やくざの世界と同じようなもの。</span></span><span style="font-size:0.83em;"><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#8f20ff;">公・侯・伯・子・男</span></span></span><span style="color:#800000;"><span style="font-size:0.83em;">は日本の貴族の階級</span></span></p><p>&nbsp;</p><p>10　　封土なる物的開係とは既述のごとく<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">全国の土地は一応主権者の所有としてこれがさらに封土の形態をもって各領主に付与せられたもの</span></span>である。これが<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">第一次の封土開係</span></span>であって、かの第一次的君臣主従関係に対比するものであり、いわば領主の主権者に対する人的服従の代償として具へられた物的基礎である。領主はこの封土すなわち領地をもって更に自己に臣従する者に典へる。これが<span style="font-weight:bold;">第二次的封土関係</span>であって、またかの第二次的人的関係に対する物的関係であるこというまでもないであらう。家臣はまたこれを下級の自己従者に与へる。これが<span style="font-weight:bold;">第三次的封土関係</span>であう、第三次的人的関係に対する。従って封土はこれを具える者と受ける者との人的関係すなわち臣下の主君に対する忠誠服従の義務と関連したものであり、もし臣下がこの義務を充たさないときには取り上げられるものであった。換言すれば<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">受封者はこれを使用牧盆および相続することもできたが、結局完全なる処分権を有しない一種特別の借地関係にある土地、これが封土の性質であって、かかる土地占有の形式が上下幾層かの階段をなし、ほとんど全国を蔽っていたのである。</span></span>但し、徳川時代では上輩以上は知行すなわち封土を有したが、それ以下は<span style="color:#8f20ff;"><span style="text-decoration:underline;"><span style="font-weight:bold;">切米すなわち特定額のクラ米または扶持米の何人分かを給与する俸禄</span></span></span>になった。すなわち大多数を占める<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">下級の武士が</span></span><span style="color:#000000;">（ｐ10）</span><span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">俸給生活者化した</span></span>ことは封土なる土地を通じて行はれる封建機構の変質を物語るものであば純粋なる封建の概念と大分離れるものであった。<span style="text-decoration:underline;"><span style="color:#8f20ff;">これが封土の物的関係なる意味である。</span></span></p><p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　↓</p><p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<span style="color:#800000;"><span style="font-size:0.83em;">　＊経済的な意味で言えば、給料が米であった。つまり封建制度は実物経済がベースであって、補完的に貨幣経済が発達していく。近代以降は、貨幣が主役となることで、金本位制度と言うのは、その実物経済の名残で、貨幣経済のさらなる進化が、金本位を離脱した形になったと言える。封建と言う意味が貨幣経済の発達により、</span></span><span style="color:#800000;"><span style="font-size:0.83em;">経済的意味合いを変えていき、むしろ政治的な概念となっていく。</span></span></p><p>&nbsp;</p><p>11　　以上<span style="font-weight:bold;">人的および物的関係を二大要素</span>とした政治形態乃至は制度にともなって、<span style="color:#ff007d;"><span style="font-weight:bold;">政治上にも経済上・社会上にも特殊なる現象</span></span>があった。例えば<span style="color:#ff0000;"><span style="font-weight:bold;">政治的には官吏と軍人の身分が同一</span></span><span style="color:#ff007d;">であって、且つこれを</span><span style="color:#ff0000;"><span style="font-weight:bold;">特殊の身分階級が独占世襲し土地に定著</span></span><span style="color:#ff007d;">していた。また、</span><span style="color:#ff0000;"><span style="font-weight:bold;">一般人は政治上人格の自由炉認められず、所有権が確立していなかった。</span></span><span style="color:#ff007d;">すなわち<span style="font-weight:bold;">農民は他人の封地を耕す隷農の地位にあり</span>、その納める租税は一種の小作料であって、このほか諸種の賦役貢献を命せられることがあり、且つその<span style="font-weight:bold;">小作も農民の自由意思による契約によったものではなかった。　</span></span><span style="font-size:0.83em;"><span style="color:#800000;">⇒<span style="font-weight:bold;">官吏と軍人の身分が同一</span>と言う</span></span><span style="font-size:0.83em;"><span style="color:#800000;">指摘は日本の事例だと思う。軍人と官僚は分離していくのが近代です。</span></span></p><p>&nbsp;</p><p>12　地方割攘的封建政治においては経済の単位もおのずから地方的にならざるをえず、いわゆる領地経済乃至は領主の居城を中心として出来た城下町を中心とする都市経済であって、農業が主たる産業であり、工業は家内的手工業、商業も比較的小規模であう、商工業いづれも独占的ギルド組織を作った。もとより貨物の商品化低度であり、これが交易は多く特定の市においてなさねばならなかった。従って商工業による資本の集積多からず、貨幣の流通も少なかった。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#800000;"><span style="font-size:0.83em;">＊この段の指摘は、封建にについて消極的な評価だと思う。日本や西洋では、むしろ地方の経済の発展を促した時代としてとらえられると思うし、反対にシナでは地方の特色が生まれ出ていないように思われる。</span></span></p><p>&nbsp;</p><p>13　　社会的には士農工商の別が巌重であり、士は武士であって腰に刀を帯び貨武の風炉めった。（ｐ11）また、上層における主従服従の開係は一般人の間にも移り、商人仲間における主人と召使、工人仲間における親方と徒弟の間にも存した。さらに一般に義理が重んじられて復讐が美徳とされ、社会の尊崇が富に朝宗するよりむしろ身分に向けられていた。</p><p>　その他数え上げればなお幾多の特徴をあげることができるが、これらを要約して少なくとも<span style="font-size:1.96em;">基本的封建社会</span>は</p><p><span style="font-weight:bold;">（一）地方割拠的政治（主権の分割）、</span></p><p><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#8f20ff;">（二）封土制（土地保有形態）</span>、</span></p><p><span style="color:#ff0000;"><span style="font-weight:bold;">(三)身分階級（武士の存在）、</span></span></p><p><span style="font-weight:bold;">（四）領地経済（経済単位の狭量）</span></p><p><span style="color:#ff0000;"><span style="font-weight:bold;">（五）制限的自由（人格・所有・交易・思想）</span></span></p><p><span style="font-weight:bold;">（六）封建的風尚（尚武・服従・復讐）等の</span></p><p>諸点に特徴があったと称してよいだろう。</p><p>&nbsp;</p><p><span style="color:#800000;">＊この諸言に於いて小竹氏が明らかにしようとしたのは。封建という概念を明瞭にすることです。最後の13節でその基本的封建社会の条件を整理しています。</span></p><p><span style="color:#800000;">政治経済的な意味を込めて「封建文化」とでもいうべき内容規定であると思います。</span></p><p><span style="color:#800000;">今井明著「封建制の文明史」は《近代化をもたらした歴史の遺産》として封建制を捕えています。これは文明論として封建制の意味を評価していますが、私は今回、着目している点は、近代へつながらない諸要素についてです。現代のシナ社会は、経済的には上の6項目を検討すれば、（１）の地方割拠は軍区の編成とかかわっていると言えますし、（２）の封土性は、官僚制度の運営で、土地と官僚は以前から切り離されていることにかわりはない。（３）の身分制度は共産党の序列に残されている。（４）の領地経済と言うのは、各省ごとの競い合い、また各省の経済的な格差として現れている。（５）の自由の制約は変わらぬものだ。（６）の封建的風尚は、ヤクザの世界のように政治に現れているかもしれない。</span></p><p><font color="#800000">むしろ、克服しなければならない封建的なるもの（つまり、前近代的なるものの要因は、現代に在っては「政治面」に於いて観られるもので、貨幣経済の発展が、時代的封建制度を変えていったと言える。</font></p><p><font color="#800000">今のシナの「近代化」問題を語るときに、上の6つの要因は、中世期の封建制の要因であるが、そこから経済的要因を除いたもの、つまり赤字で取り上げた、『身分制度と自由の制限』がある社会は、《前近代社会》であると規定してよいと思う。</font></p><p>&nbsp;</p><p><font color="#800000">　　　　　　　　封建制　　　　独裁的支配（家産官僚制）へ</font></p><p><span style="text-decoration:underline;">アジア的生産様式社会⇒官僚的前資本主義社会（<span style="color:#cc0000;">唯一の封建的残滓＝</span></span><span style="text-decoration:underline;"><span style="color:#cc0000;">土地の所有権がない社会）＝</span></span><span style="font-weight:bold;"><span style="text-decoration:underline;"><span style="color:#cc0000;">擬似資本主義</span></span></span></p><p><span style="color:#cc0000;"><font color="#800000">　　　　　　　実物経済　⇒　　　貨幣経済</font></span></p><p>&nbsp;</p><p><font color="#800000">結局、共産党がつくりあげた現代シナ社会は、巨大な前近代的遺物の外装を塗り替えたものと言うことができる。</font></p><p><span style="text-decoration:underline;"><font color="#800000">法治国家・主権在民・基本的人権</font></span></p><p><font color="#800000">　　　　　　自律的自由</font></p><p><font color="#800000">この図式が成立して「近代国家」と言えるわけで、シナの共産党のビジョンは、中華原理主義の復活に過ぎない。</font></p><p><font color="#800000">それは何を意味するかと言えば、近代科学によってより高度化される産業社会とそれを支える社会とのズレが生じてくることで、矛盾が拡大すると言う一点です。その矛盾がいつどのように現れるかはまだ読めないですが、どうみても帝国軍が勝利するとは思えないのです。</font></p><p><font color="#800000">今回は、現代シナ社会の状況を紐解く切っ掛けとして、小竹氏の「封建」を規定する部分を利用してみました。</font></p>
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<link>https://ameblo.jp/tabioyaji33/entry-12587701963.html</link>
<pubDate>Sun, 12 Apr 2020 10:53:14 +0900</pubDate>
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<title>小竹文夫著「現代支那史」を読む　13　結語</title>
<description>
<![CDATA[ <p align="left"><span style="font-size:1.96em;">結　　　言</span></p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">支那事変はその勃発以未満二箇年半以上を経過した今日尚ほ大規模に継続せられつゝある。その今迄に蒙った日支両國の有形的損害のみでも誠に莫大の数に上る。<span style="font-weight:bold;">殊に自國の領域を戦場とした支那の惨害は<span style="color:#ff0000;">自ら蒔いた種</span>を<span style="color:#ff0000;">自ら刈取らねぱならたかったもの</span>としても殆んど言ふに忍びざるものがある。</span>幾千萬の民衆は郷里と家族とを失って流離顛浦の内に在り、従来支那文化の中心として繁栄を極めた江南の都會はその抵抗が激しかった為大半が破壊された。之等は<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">日支両民族の大損失たるに止まらす實に東亜民族の一大不幸</span></span>であった。</p><p align="left">今や遠からず<span style="font-weight:bold;">新政権の成立を見んとするも、而も重慶政権及び之を支持する一般の徹底抗戦主義は尚ほ執拗に存在</span>してゐ。その言論機関の高調する所は今も<span style="color:#ff007d;"><span style="font-weight:bold;">「抗戦は一切より高し」であり「坐して亡國せんより寧ろ戦って滅族せん」</span></span>である。そして抗戦が一緋救國の途なるを理由づける口号が「最後の勝利」なのである。尤も<span style="font-weight:bold;">二箇年半余の敗戦により多数の兵力を失ひ多量の武器を損し、財政は枯渇せんとし武器の輸入意の如くならず、加ふるに共産党との軋轢も漸く激しくなって来た<span style="color:#ff0000;">重慶政権の抗戦実力は今日余程低下</span>してゐる</span>のであるが、それでもなお今後<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">日本及び新政権に對して頑固なる對抗を続ける</span></span>ことであらう。</p><p align="left">斯くて此の後の時局が如何になりゆくか、これら政局の変転をも含めた支那社会の全体文化が如何に形成されてゆくか。これ等は凡て尚ほ将来の問題で茲には省略に従うより外ない。只、斯くて形成せられた新支那の姿が阿片戦争以来変化し始めた現代支那の落ち着くところであって、その方向が日本の唱道する東亜新秩序の上に在るのみたらす<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">新文化の性質が東洋文化反省の上に建設されるべきものであること</span></span>だけは断言出来るであらう。そしてそれは単に新支那の方向であるのみたらす亦、<span style="color:#ff0000;"><span style="font-weight:bold;">東亜に盟主たるべき日本新文化の方向でもあらう。</span></span>此の点<span style="color:#ff0000;"><span style="font-weight:bold;">孫文の三民主義は幾多不明瞭な点があり思想的に大して原理的なものではなかった</span></span>が必少しも新支那への方向と逆行したものでもなかった。只國民政府がこれを実現せんとするに東亜の安定勢力として其に亜細亜民族の向う解放を念願とする<span style="font-size:1.96em;"><span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">日本の遠慮を理解せす、その援助協力を拒むのみか却づで支那を今日の束縛に沈侖せしめた英・露と結んで排日抗日を試みたところにその歪曲と罪悪とがあったと言わねばならぬ。</span></span></span>それ故、<span style="font-size:1.96em;"><span style="color:#0000ff;"><span style="font-weight:bold;">汪精衛がとの歪曲と罪悪とを訂正し孫文の真意に還ると稀し純正三民主義を唱ふるも意味のないことではない。</span></span></span></p><p align="left">而して國民政府が三民主義を歪曲せしめたに就ては日本としても反省すべき点があり、其に<span style="color:#0000ff;"><span style="font-weight:bold;">東洋の盟主として亜細亜民族の解放と日本の世界的発展を翼ふなら日本民族自体が早く今次事変勃登の初め昭和十二年（民国２６年）八月の内閣声明によつで提示され、昭和十三年十二月の近衛声明によつで確認された</span></span><span style="color:#ff0000;"><span style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.96em;">「今次事変の目的は固より毫末も領土的意画を有するものに非ず、叉、支那國民を征圧せんとするものにも非ず』</span></span></span><span style="color:#0000ff;"><span style="font-weight:bold;">てふ根本精紳を体し、今少しく異民族を抱擁し之を指導すべき世界的気宇が必要であらう</span></span>そして日本民族の此の気宇と態度こそ東亜の新文化を建設し世界史を発展を衰展せしむる所似に外ならぬと思ふ。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・</p><p align="left"><span style="color:#800000;">日本はＧＨＱに散々の人種差別的被害の上に歴史を歪められてきた。この時代、支那を食い物にしていたのは一体だれであったか。その実態を日本人は江戸末期より見ていたのである。そして列強の植民地主義・グローバリズムを目のあたりにして、日本を守ろうと動き出した。</span></p><p align="left"><span style="color:#800000;">それまでは孔子の儒教による聖人の国と尊敬の念を抱いていたものが、その実態を見て、一気に自らの国のあるべき姿を追うことにし、早く列強に追いつき、「文明国」として認知される努力に走り、西欧の殖民地化されているアジアの国々の解放を自らの使命として行動してきたものを・・・</span></p><p align="left"><span style="color:#800000;">重慶政府も、共産党も外国の手先となって本来味方となるべき日本に抵抗している。・・・・つまりこれは当時の日本人知識人の共通の感情であったと思える。</span></p><p align="left"><span style="color:#800000;">敢て言うならば、我々が今失っているものは、『<span style="font-weight:bold;">少しく異民族を抱擁し之を指導すべき世界的気宇が必要であらう』</span>というアジアのリーダーとしてその自負を抱くことに他ならない。支那・朝鮮は、この時代から、世界の流れには同調することができないで、乱暴に櫂をかいて荒海の中で動き回っているだけで、歴史の流れに乗れていないのだ。</span></p><p align="left"><span style="color:#800000;">かつて日本はその東亜の国々、流れに乗るように友綱を投げて波に乗れるようにしたのに、彼らは自らその綱をほどいて、頑なに自らが正しいとして動き回っているだけなのだ。</span></p><p align="left"><span style="color:#800000;">日本は、改めて東亜の国が目覚めるまで、彼らを引き寄せることをすると日本も危ういことになりかねない。</span></p><p align="left"><span style="color:#800000;">私たちは、再び1900年代初頭のシナの見方、朝鮮の見方に立ち返るべきだ。彼らが目覚めて初めて友綱を先投げても有効になるが、今はその時ではない。彼らに媚びるような行為は、彼らと共にこの国を海の底に沈没させる様な物だ。</span></p><p align="left"><span style="color:#800000;">戦後、我々は罪悪感をアメリカに植え付けられた。だがそれは違う。罪悪感を抱くべきは彼ら白人主義者たちである。と言って今の時点で過去と同じ感情的な反発をするわけではなく、時代の変化を正当に受け入れるべきだということです。ただ無自覚的に低レベルに理性もなく反日に走る国や人種には付き合え切れないことを明確にすべきです。ただ、当時の日本人が抱いた《気宇》をもう一度抱くべきだということです。その視点に立ってみれば、支那人民の共産党からの解放は歴史的課題なのですが、それはどうも徒労に終わると言えそうに思えている。つまり、彼ら人民の「自立」なくしては歴史概念上の《近代化》の波に乗ることは不可能に近い。孫文の辛亥革命、毛沢東の共産党の革命と二度失敗しており、この習近平を倒しても、また同じことが繰りかえされる。</span></p><p align="left"><span style="color:#800000;">孔子像と毛沢東の像を倒しても、また同じことにｂなる。</span></p><p align="left"><span style="color:#800000;">ただ、今、私は孟子の思想にふとある重大性を見つけようとしています。孟子が、あの時点で、何をかえたならば民主主義に近づけたのかを考えています。孟子については改めて取り上げますが、今の支那人民は「孔子の呪縛」から抜け切れていません。むしろさらに強く縛り付けられているように見えます。さらに言えば、今の共産党はもはや哲学も思想も何もありません。ただ権力の怪獣に身も心も喰われている連中しか政治にかかっていないということです。香港のように、列強が分割して支配して、教育をし直さない限り、この国は変われないでしょう。</span></p><p align="left"><span style="color:#800000;">この国の知識人階層の政治へのかかわり方が、世界と違うのです。</span><span style="color:#ff0000;"><span style="font-weight:bold;">「反権力」にならないのがこの国の知識人階層の特徴</span></span><span style="color:#800000;">です。</span></p><p align="left"><span style="color:#800000;">それを変えようとして日本は南京政府を樹立したのですが、欧米が利権のために彼等と手を組んだというより、利用されたのです。</span></p><p align="left"><span style="color:#800000;"><span style="font-weight:bold;">戦前の日本のアジアの研究者が東亜をどう見たかを考え</span>、今の我々がその目線に合わせて東亜を見ないといけないのです。</span></p><p align="left"><span style="color:#800000;">私はそう思うのです。</span></p><p align="left">&nbsp;</p><p><span style="font-weight:bold;">激動！日中戦史秘碌</span></p><div class="youtube_iframe"><iframe allowfullscreen frameborder="0" height="274" src="https://www.youtube.com/embed/WMi6YRLB4us" width="488"></iframe></div><p>&nbsp;</p><p align="left">蒋介石は欧米の利権の手先となって「反日」路線を引いたのだ。共産党を叩くことに日本と協力していれば、歴史は大きく変わって、今の人民の不運は、今少し和らいだかもしれないだろう。だが、欧米も日本を叩く蒋介石が必要であったのだろう。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">《支那事変はその勃発以未満二箇年半以上を経過した今日尚ほ大規模に継続せられつゝある。その今迄に蒙った日支両國の有形的損害のみでも誠に莫大の数に上る。<span style="font-weight:bold;">殊に自國の領域を戦場とした支那の惨害は<span style="color:#ff0000;">自ら蒔いた種</span>を<span style="color:#ff0000;">自ら刈取らねぱならたかったもの</span>としても殆んど言ふに忍びざるものがある。</span>幾千萬の民衆は郷里と家族とを失って流離顛浦の内に在り、従来支那文化の中心として繁栄を極めた江南の都會はその抵抗が激しかった為大半が破壊された。之等は<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">日支両民族の大損失たるに止まらす實に東亜民族の一大不幸</span></span>であった。》</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">この小竹氏の視点は当時の日本人の視点だと言える。<span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">《自ら蒔いた種》</span></span>と言えるのは、清朝時代の満州政策です。ロシアに対して強硬な態度を取らねばならぬのに、満州人の本拠地を守ろうともしない態度、近代的な意味での自国の防衛＝独立国の意識がなく、異次元の政治感覚で動いていたことなのだ。</p><p align="left">＜「現代支那史」10　満州国の興起＞で指摘されているように、ロシアの山東省進出は、清王朝が招き入れたことに寄ることなのだ。</p><p align="left">「カシユ―密約とも呼ばれてゐるものであるが實際には軍事同盟と鉄道敷設契約」をロシアと結んでいたことが<span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">《自ら蒔いた種》</span></span>なのだ。</p><p align="left">石平氏が朝鮮は「加害者」だと述べているが、その根拠は自立的な行動がなく、常に大国を利用して騒ぎを起こす原因を作っているというものだが、それは支那人も同様な行動パターンなのだ。</p><p align="left">今回の武漢ウィルスにしても、このパターンだと言える。一言で言うと<span style="font-size:1.96em;"><span style="font-weight:bold;">「卑劣」な政治文化</span></span>だと言える。他者に取って卑劣に見えるものが、中華世界では「褒められる」ことなのだろう。もともとパワーゲームで権力を握ったものを、「徳」だの「仁」だの、「義」だのと現実とかけ離れた言葉で飾ろうとする思想そのものが、結果として「卑劣さ」を生むのだが、それがわかっているから武力で抑え込み、言論の自由など認めないのだ。それは昔も今も変わらないものだと言える。</p><p align="left">言い換えると為政者の頭を呪縛している『伝統的儒教政治思想』、これが有効なかぎり、この中華世界は同じことを繰り返すだけだろう。</p><p align="left">当時と違うのは、人民がインターネットや旅行で支那と違う世界があることを知ったことだ。その人民が目覚めなければ変わらないけど、彼らが目覚める機会は現在の方が十分にあるのだが、自分で目を明けない限り、変革が起きることはないだろう。</p><p align="left">離れるのが上策なのだ。その点で安倍首相は間違えている。アメリカと中国の接点に立とうなどと思うな。自分の欲は捨てて国民のために働け。支那忖度することは、何らかの魂胆があるからで、それは二階と同列でしかなく、アメリカとの確固たる関係を築いた功績っもチャラになって仕舞うだけだ。ちょっと欲が出たのかな。もしそうだとしたら、愚かだ！</p><p align="left">&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/tabioyaji33/entry-12580986814.html</link>
<pubDate>Mon, 30 Mar 2020 23:02:39 +0900</pubDate>
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<title>小竹文夫著「現代支那史」を読む 12 支那事変</title>
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<![CDATA[ <p align="left">　<span style="font-size:1.96em;">七　支那事変　　</span></p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　日本の満洲に於ける特殊関係に対する支那の無理解から排日が起こり、排日の激化が満洲に於ける日本の地位を危くするや満洲事変が起り満洲國が興ったのである。而して満洲國の成立は愈々支那の排日感情を激烈ならしめ其の結果が又、<span style="color:#ff0000;"><span style="font-weight:bold;">柳津・何庶欽協定の締結</span></span>、<span style="font-weight:bold;">翼東自治政府</span>の出現となった。而して之等の締結、出現が更に一般の反日風潮を昂めたこと亦言ふまでもないであらう。</p><p align="left">しかし排日によって当面の責任を負はねばならぬ國民政府としては少くとも表面的に反日政策の標榜を避けるを結局の得策としたのみたらす、對内的にも常時共産軍討伐問題や広東、西によって新たに反蒋の態度を持して譲らたかった李宗仁、白崇禧に對する西南問題などがあた為、<span style="color:#ff0000;"><span style="font-weight:bold;">國内の統一まで暫らく対日関係を悪化したい方針を採ることが必要であった。</span></span>それ故、かの<span style="font-weight:bold;">塘沾停戦協定後</span>、北平政務委員會委員長黄郭の意見を容れて<span style="font-size:0.83em;">（126）</span>満支両国間の通車、郵便、国境長城線税関開設問題等の協定をど行ひ、又、日本との間に大使交換の問題をも協定した。しかし此の國民政府の日支國交調整的態度に対しては仮令それが一時的便宜的のものであったにしろ、反蒋派のみならず國民の憤激が昂まり排日宜傅、排日貨運動を中止して親日の熊度を採るは敵に媚び敵に降るものである、排日教育を取り締まるは敵の我が教育権に干渉を是認するものであるとの非難攻撃を受けた。民國廿三年<span style="color:#6416b3;"><span style="font-weight:bold;">馮玉詳</span></span>が三度反蒋の運動を張家口に起したのも、<span style="color:#6416b3;"><span style="font-weight:bold;">李洪珠</span></span>、<span style="color:#6416b3;"><span style="font-weight:bold;">陳銘柄</span></span>等が福州に独立を宜布し<span style="color:#6416b3;"><span style="font-weight:bold;">福建人民革命政府</span></span>を組織したのも蒋政権の親日的態度に反対し或はその抗目を義満なりとした為であった。<span style="font-weight:bold;">而も國民政府は裏面に於て自らが煽った人民の排日感情の為、幾多の抗日反満事件が起って梅津何応欽協定を締結し、翼東自治政府の出現を見るや、目下は對日戦争の準備が急務で内戦などに没頭すべきの秋ではないと言って、また之を反對派の統一、中央集権の強化、軍備儒実等に利用した。斯くて民國廿五年に、<span style="color:#6416b3;">胡漢民</span>が急死するや西南政権の徹底的中央集権を企圖したので<span style="color:#6416b3;">陳済巣、李宗仁、白崇禧</span>等は燧に再び蒋介石の抗日が不徹底であるを名とし<span style="color:#6416b3;">抗日救國軍を超して反抗を試みた</span>。</span>しかし上海事件以来急激に充実してきた中央軍の飛行機や<span style="color:#6416b3;"><span style="font-weight:bold;">陳応</span></span><span style="color:#000000;">下</span>の軍長<span style="color:#6416b3;"><span style="font-weight:bold;">余漢</span></span>謀の離叛投降により抵抗の力もなく廣東を明波し、<span style="color:#000000;"><span style="font-weight:bold;">陳</span></span>は香港に逃れ<span style="color:#000000;"><span style="font-weight:bold;">李、白</span></span>は一時廣西にて對抗せんとしたが間もなく<span style="font-weight:bold;">中央の命令に服する</span>やうになった。又、既述の如く共炭党も此の年<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">蒋に逐はれて江西から甘蕭方面に逃れたので茲に國民政府は大体に國内の統一を完成したのである。</span></span></p><p align="left">　これより<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">支那は自國々力を過信し始め、<span style="text-decoration:underline;">排日はやがて侮日</span>となり各地に於いて日本官民に對する暴行侮辱や極端なる日貨排斥等不法事件が続出してきたのである</span></span>が、それでも民國廿五年九月から又、一時的に日支國交の調節を目的として日支交渉が開始された。しかし<span style="font-weight:bold;">支那</span>は平等互恵、領土主権の相互尊重の原則下に満洲問題の解決より始むべくそれが尚時期に非ずとすれば翼察、内蒙古の行政権の完整、恢復より始めざるべからすと主張し<span style="font-weight:bold;">日本</span>は日支國交調整の基本的問題は北支及防共の二大問題であってこれに對しては主権保持、行政完整の二大原則に疑ありとして容易に意見の合致を見ず、その間に翼東政府間題、北支那輸入問題、安東問題等の発生でその解決が先決問題だとされ、既に大綱に関して<span style="color:#cc0064;"><span style="font-size:0.83em;">（127）</span></span>意見一致を見た関税引下げ、重要交通連絡、顧問招聘の問題までその細目協定に入るを避け十一月て停頓状態に陥った。そして同月、日独間に防共協定が成立したとき支那は防共は内政問題であって自力を以て賓施する信念を有し、第三國の協力を俟つ必要がないと声明した。</p><p align="left">　斯くて民國二十五年末<span style="color:#6416b3;"><span style="font-weight:bold;">徳王</span></span>等の内蒙古軍が安遠東境に進出して来た時、支那はその背後に日本の援助ありと考へ<span style="color:#6416b3;"><span style="font-weight:bold;">緩遠</span></span>戦守は對日戦守の前哨戦だと称して献金救援等の<span style="font-weight:bold;">全國的愛國運動を起し中央軍を山西安遠に大挙出動せしめた。</span>そして安遠戦の勝利は人民を熱狂せしめ抗日感情を弥が上にも昂揚せしめたのみたらず百霊廟の戦勝は中國民族の抗戦力が如何に偉大なるかを示すものとして國家團結して之に常れば日本何ぞ恐るゝに足らんやとの自信を深くした。<span style="color:#0000ff;"><span style="font-weight:bold;">内蒙古は民國以来支那に従属してゐたのだが満洲國の建國により満洲國内の蒙古人が地方自治権を認められたのに刺戟され錫林郭勒盟のテムチュクドンルブ王即ち徳王を中心として内蒙自治運動を起し民國二十三年経遠省百霊廟に於て<span style="text-decoration:underline;">内蒙地方自洽政務委員會（蒙政會）が成立する</span>に至った。</span></span>支那は之を抑圧せんとして民國二十五年反徳王派の伊克昭盟のシヤクドウルジヤブ王即ち沙王等をしてオルドス沙漠中に在る伊金郭霍洛に於て遠省境蒙古の自治政務委員會（綬遠境門政會）を設けしめ百霊廟い蒙政會を察哈爾内に移転する様命じたので<span style="color:#0000ff;"><span style="font-weight:bold;">徳王等は支那政府離脱を決心し内蒙防共自治軍を組織し同年末遂に兵を起し綏遠東境に進撃したのである。</span></span>　此の時<span style="color:#ff0000;">共産党</span>は<span style="color:#ff0000;">甘粛より更に陜西に入り膚施県に新たに支那労農政府を樹てゝゐた。此の大遷徒は共産党の政策に再び一大転換を齎すことゝなり</span>、民國廿四年の第七回コミンテルン世界大會の決議により同八月一日中国共産党中央執行委員會及び<span style="color:#ff0000;"><span style="font-weight:bold;">中華労農政府人民委員會連名の下に「抗日救國の為に全国國同胞に告ぐ」なる宣言の発表</span></span>となった。宣言の趣旨は一般的革命戦術としての階級的、反帝國主義的運動を清算して、<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">目標を専ら先づ日本にのみ限定しこの目的の為には國民党のみならすその他国内緒力及び欧米諸國をも利用して一路抗日民族主義へ邁進せんことを述べたもので、これが支那救國の唯一の出路であるといふのである。</span></span>ここに所謂抗日人民戦線の結成があり共産党と小勢力ではあるがその他国内諸力が合することになった。（129）</p><p align="left">　<span style="color:#ff0000;"><span style="font-weight:bold;">共産党の斯かる方向転換</span></span>はその目的巡行の為には矢張り<span style="font-weight:bold;">國民党との衝突を不利とし且國民党及び民衆の排日勢力を巧みに自派の活動に利用せんとしたものである。</span>しかし蒋介石は初め之に迷はさるゝことなく飽くまで共産党の弾圧を決意し今や綏遠戦勝の余威に乗じて一擧に之を熾滅せんと圖った。それ故、当時西北剿匪副司令であつた張學良に討伐を命じたが、學良の率ゆる旧東北軍は満洲を逐はれて以来素質も悪く常に各處に転駐を命ぜられて困苦し、共産軍討伐に苦労しても中央よりの給養薄く遂には共産軍との接触によって<span style="color:#6416b3;">相富共産軍化してゐたので學良は蒋の命令に對しても軍心の欲せざるを理山として之を辞退した。よって蒋は単身自ら西安に入り學良部下将領の意見を聴いた上、共産軍討伐は中央軍を以て之に当らしめ旧東北軍は之を綏遠に移駐して西北の中央化を完成せんことを計った。</span></p><p align="left">　然るに<span style="color:#cc0000;"><span style="font-weight:bold;">十二月十一日夜學良は俄かに一脈の兵を以て蒋を西安附近、臨滝の宿舎に團んで之を逮捕し西安に監禁するに至った。</span></span>此の報一炭傅はるや國民政府のみならず、一般人民をも痛く驚愕せしめ政府は學良に対し速かに蒋を釈放しなければ西安を爆撃し武力を以て解決すべきを告げたが結局蒋の義弟にして學良と親交あった宋子文とその姉にして蒋夫人たる宋美齢の西安入りによって無事南京に帰ることが出来た。</p><p align="left">　一般は委座還京として之を喜び蒋及び國民政府も無條件解放だと称したが、<span style="color:#cc0000;"><span style="font-weight:bold;">實際には此の時共産党討伐をも含んだ内戦を停止し全図の勢力を集注して積極的に武装抗日準備を為すことが蒋との間に約束せられたやうである。</span></span>之を裏書するものは蒋の体面上、十年の徒刑を科せられた<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">學良が間もなく特赦され共産党討伐が停止されるのみたらず共産党軍を國民革命軍に編入して抗日共同戦線を完成したことであった。</span></span>茲に武漢追放以末仇敵の間におった<span style="color:#cc0064;"><span style="font-size:1.96em;">国民党と共産党との第二次合同が成り、</span></span>此の後っ国民政府の対日態度が露國の援助をも得て愈々急激に走るべきは猿め想像し得られる所であった。</p><p align="left">先是、<span style="color:#cc6600;"><span style="font-weight:bold;">成都に於ける日本大阪毎日新聞社記者の惨殺</span></span>、<span style="color:#cc6600;"><span style="font-weight:bold;">廣東省北海に於ける日本商民の虐殺</span></span>、<span style="color:#cc6600;"><span style="font-weight:bold;">漢口に於ける日本警官の惨殺</span></span>を初め、所謂<span style="color:#cc6600;"><span style="font-weight:bold;">漢奸に對する暴言等直投間接の排日侮日事件が支那各地に続出した</span></span>のみたらず北支那に於ても廿五年から廿六年にかけて警察政務委員會委員長<span style="color:#cc6600;"><span style="font-weight:bold;">宋哲元配下第廿九軍の日本北支那駐屯軍や在留人民に對する暴行侮辱事件が頻発した</span></span>。（131）</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　<span style="color:#ff0000;"><span style="font-size:1.96em;">民国廿六年（昭和12年）</span></span>七月七日、‐豊台駐屯の日本小部隊が北京の西南約十二粁たる蘆溝橋附近にひ於て夜間演習中、突如第廿九軍から之に對して発砲し来るの事件が起こった。当日本政府は本事件の不拡大方針を声明し北支駐屯軍と第廿九軍幹部との聞には現地協定が成立た程であるが、支那下級軍隊の抗日意識頗る強く挑戦行為は依然継続されたので七月廿日、北支駐屯軍は逞に、以後独自の行動を執るの止むなき旨を声明するに至った。これより戦時は京津一帯に波及し、多数の日本人が虐殺された<span style="color:#ff0000;"><span style="font-size:1.96em;">通州事件</span></span>も発生したが八月八日には第二十九軍を追て日本軍が北京に入城した。</p><p align="left">　然るに支那一般の抗日熱は愈々昂まり上海はじめ支那各地には日本人に對する不穏危瞼な気が浸って来た。國民政府も此の時遂に全面的對日抵抗を決したやうで、日本が北支以外ほ戦の不拡大方針を持するに拘らす、<span style="color:#ff0000;"><span style="font-size:1.4em;"><span style="font-weight:bold;">八月九日、上海郊外にて日本陸戦隊大山中尉が射殺された。謂大山事件</span></span></span>の起こると共に同十二日、上海事変にて停戦区域と定められた地域に突如中央軍を入れ、十三日より日本陸戦隊を攻撃した。<span style="color:#6416b3;"><span style="font-weight:bold;">十四日には数十機の飛行機を以て黄浦江停泊の旧本軍艦始め陸戦隊本部、總領事館等に爆撃を加へた</span></span>ので翌日、日本政府も「支那軍の暴戻を膚懲し以で南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置を執るの止むなきに至った」旨声明を発し、不拡大方針を放棄して全面的支那廣懲の軍を興すに至つた。所謂<span style="color:#ff0000;"><span style="font-size:1.96em;">支那事変の発生</span></span>である。</p><p align="left">國民政府は上海近郊に對して数十萬の精兵を逍り最も執拗なる抵抗攻撃を試みたので上海界の存在、地形の不利と相俟って日本軍の進撃意の如くならず、所謂上海戦は稀見るの激烈さ呈したが、十一月遂に敵を潰滅して上海一帯を占拠した。次いで日本は首都南京を衝かんとし蘇州、鎮江の線及び杭州、呉興の線より之に迫り十二月之を完全占拠した。此の間、<span style="color:#400e73;"><span style="font-weight:bold;">十一月廿日支那は南京陥落の近きを知って重慶への遷都を決定し外交部を漢口に移した。　　　　　　　　　　</span></span></p><p align="left">　北支に於ても着々と戦果を収め十一月には閻錫山軍を逐って太原を陥れ十二月、韓復架　軍を破って済南を陥れ、<span style="font-weight:bold;">翌民國廿七年（昭和13年）二月よりは所謂黄河作戦が開始せられ五月、李宗仁軍の蟠居する徐州を奪取して徐州作戦を完成した。</span>朧海線を西進せる日本軍を阻止する為、<span style="color:#800000;"><span style="font-size:1.96em;"><span style="font-weight:bold;">支那が鄭州附近に於て黄河決潰の暴擧を敢てせるは此の時のことである。</span></span></span>（133）揚子江八〇〇浬をはじめ珠江、太湖、鄙陽湖、洞庭湖等の交通遮断、敵機雷處分数八二九個、支那空軍に与えた損害、飛行場六三、撃破飛行機数確実成るもの一三四九機、支那艦艇に輿へだ損害總計六二隻であった．同日、陸軍部も亦、空軍の總合戦果として爆破飛行機機数合計四七五機なることを発表した。</p><p align="left">　　事変発生以来の戦果の概況は以上の如くであったが、此の間國民政府は事変発生と共に抗日のほか出路なしとして民衆を卒ひ、民衆亦之に響応して挙国一致その全力を挙げて抵抗した上海戦線が危くなるや上海はじめ従来支那政治、経済、文化の中枢地として繁栄した揚子江下流江南一帯の資力、物力及び人力の徹底して「支那民族は必ず不屈の意思を以って一切の人力財力物力を動員して長期抗戦を為し最後の勝利に達すとの趣旨の宣言を発し、武漢、広東の攻略後も重慶に於て最高軍事會議を開き徹底的新抗戦体制の断行を決定した。<span style="font-weight:bold;">民国廿八年一月</span>には国民党五中全會を開催して更に抗日強化の方策を決議し、同四月には国民精紳總動員要綱を全國に宣布すると共に実際にも反撃戦、ゲリラ戦等を以て執拗なる挑戦行為を継続した。</p><p align="left">　　之等は国民政府首脳部の強固なる抗日決心、共産党の頑固なる主張及び一般人民の抗日情緒によるものであったが、<span style="color:#6416b3;"><span style="font-weight:bold;">此の外露國を始め英・佛・米等諸國の物質的及び精神的援助も亦一大因であった。支那の発生が露国の思ふ所であったことは既述した第七回コミンテルッ大會の決のときから既に明らかた所である。</span></span>従って事変の発初生と共に<span style="color:#cc0000;"><span style="font-size:1.96em;">露國が積極的に共産党賞及び國民府を援けてその對日抵抗を強化せしめたこと言ふまでもなく、</span></span>多数の飛行機及び飛行士を派遣して支那空軍な援助し、所謂西北路線によって多量の武器弾察を供給す昌涜接的援助の外、民國廿七年（昭和13年）七月、日本の武漢攻略を前にして朝鮮とシベリアとの国境附近に張鼓峰事件を起し、<span style="font-weight:bold;">民國廿八年（昭和14年）五月からは満洲と蒙古との國境附近にノそンハン事件を起して日本軍を牽制し大々的間接援助を輿へてゐる。</span></p><p align="left">　　<span style="font-size:1.96em;">英国</span>は一面その、支那に於ける巨額なる投資と幾多の権益保持の為、戦果の波及拡大を嫌ひつ他面、支那の強硬なる抗戦によって日本の軍事力経済力等國力に打撃を与えることが自国の對支帝国主義を永引かし得るとの矛盾した二理由によって、亦自ら國民政府支持の方向に在ったこと言うまでもない。<span style="font-size:1.96em;">佛・米</span>の態度も亦之に準ずるものであった。従って日本の廣東占拠前は香港、廣東路線より、廣東被占後は緬旬及び佛印方面よりの所謂西甫路線によって武器弾薬を供給したのみならす英領香港及ぴ上海、天津等に於ける租界を以て抗日の遡源地たることを黙認し日本の之が取締りにも頑として応じなかった。事変発生と共に國民政府が國際聯盟に對して日本の武力行使を正式提訴したとき<span style="color:#6416b3;"><span style="font-size:1.96em;">聯盟が九ヶ國條約會議を召集して對日糾弾宣言発表したのも亦此の列國の對支援助の現れであった。</span></span></p><p align="left">　　英・露等の援助をも得て國民政府の抗日が斯の如く頑張であったから<span style="color:#cc0064;"><span style="font-size:1.96em;">南京陥落後、民國廿七年（昭和13年）</span></span>一月、日本政府は<span style="font-weight:bold;">「爾後國民政府を對手とせず帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待しこれと両國國交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす。元よ力帝國が支那の領土及び主権並に在支列國の権益を尊重するの方針には毫もかはる所なし」</span>との声明を発し事変は長期戦に転ずることゝなった。</p><p align="left">　而して此の時、<span style="color:#6416b3;"><span style="font-weight:bold;">南京陥落前の民國十二年九月には綏遠、察哈爾雨省に於て早くも察南及ぴ晋北の爾自洽政府</span></span>が成立し、十月には<span style="color:#6416b3;"><span style="font-weight:bold;">蒙古聯盟自洽政府が國民政府より分離して両立な宣言し南京陥落の翌日、北京に王克敏を首脳とする中華民國臨時政府が成立してゐた</span></span>が声明の二ヶ月後には<span style="color:#6416b3;"><span style="font-size:1.96em;">南京にも梁鴻志を主脳とする中華民國維新政府が成立</span></span>した。之等各政権は聾明の所謂新興支那政権であって固より日本の協力を惜しまざる所であったがその實際勢力は未だ大なるものではなかった。</p><p align="left">武湊、廣東の陥落後は國民党内の一部にも抗戦の前途に對し疑惑を有ち寧ろ湘平の意見を抱くものが出て来たが、蒋介石は國民寞抗戦沢及び共産黛の主張によって愈々抗日の決心を固めると共に對日和平派を圧迫したので、<span style="font-size:1.96em;">民國廿七年（昭和13年）十一月</span>、日本政府は「國民政府は既に地方の一政権に過ぎざれども尚は抗日容共政策を固執する限りこれが潰滅を見るまで断じて矛を収ることなく、而して帝國の翼求する所は東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設にあり。此の新秩序の建設は日満支三國相携へ政洽、経済、文化等各般に亘り相互連環の開係を樹立するを以て根幹とし東亜に於ける國際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するに在り。</p><p align="left">　　帝國が支那に望む所は此の東亜新秩序建設の任務を分担せんことに在り」との声明を発し、同十二月には更に近衛首相談話の形式を以て八日。「日満支三國は東亜新秩序の建設を共同の目的として結合し、相互に善隣友好、共同防共、経済提の責を挙げんとするものである。これが為には支那は先づ何よりも奮米の偏狭だる観念を清算して抗日の愚と満洲國に對する拘泥の情とを一擲することが必要である。</p><p align="left">　即ち日本は支那が進んで満洲國と完仝なる國交を修めんことを率直に要望すの存在を許すぺからざるが故に日本日支防共協定の締結を以て絹國さぺ調整上喫緊の要件とするものである。而して支那の現情に鑑み此の目的に對する充分ｍる保証を挙げる為には同協定機校期間中、特定地勲に日本軍の防共駐屯を認むること及び内蒙地方を特殊防共地域とすべきことを要求する。</p><p align="left">　日支経済開係に就では日本は何等支那に於て経済的独占を行はんとするものに非ず。また新しき東亜を理解し、之に卸応して行動せんとする善意の第三國の利益を制限するが如きことを支那に求むるものに非ず。唯飽くまで日支の提携と合作とを実効あらしめんことを期するものである。即ち日不平等の原則に立って支那は帝國臣民に支那内地における居住営業の自由を容認して日支両國民の経済的利益を促進し、且つ日支間の歴史的経済的開係に鑑み特に北支及ぴ内蒙地域に於てはその資源の開発利用上、日本に対し積極的に便宜を与えふる事を要求するかのである。日本の支那に求むるものゝ大綱は以上のも如きものである。日本が敢て大軍を動かせる真意に徹するならば日本の支那に求むるものが孤々たる領土に非ず、また戦費の賠償に非ざることは自ら明かである」との所謂近衛声明を発した。</p><p align="left">　　此の両度の声明は先の「蒋政権を對手とせす」との聾明より更に進んで新支那の建設が正に日本と如何たる関係に於て出現すべきかの目標を明示したものであって、そして之と時を同じうして和平派の亘頭汪精衛は重慶を脆出し佛領河内にて國民政府に和平勧告書を送ると共に第一次声明を発した。その要旨は「善隣友好、協同防共、日支経済提携の三大原則を基礎として國民政府は最も速かに和平恢復の為、日本政府と意見の交換をなすべきである」といふのであってかの近衛耶明に響応したものでがること言ふまでもないであらう。因に日本は此の時東亜新秩序建設の中枢機闘として興亜院を設立し華北、蒙疆、華中及び厦門聯絡部を置いた。</p><p align="left">　　汪の和平声明は抗戦支部に晴天の霹靂の如き激動を与え國民政府内でも之によって非常び無所属の民間有力者に発することゝなったが、之が実現には尚ほ日本との具体的諒解を得ることが必要であつた。</p><p align="left">　　尚ほ<span style="font-weight:bold;">察南、晋北爾自治政府及び蒙古聯盟自治政府も民國廿六年十一月、これり三政府を統合する蒙級聯合委員會を茜織し、民國廿八年九月には蒙古聯合自治政府として徳王を主席とする単一政権の成立を見たが、此の政権はその性質上中華民國新政権とは別個の立場に立つものであったが、亦、東亜新秩序建設の一環として新中央政権運動を促進せしむるものであった。</span></p><p align="left">　新中央政権樹立運動が近衛声明に拠ったものである限り日本の支持を受くべきこと当然であらう。汪がその六全大會の前六月、日本を訪ふた際、平沼首相よりも之を全幅的に支持する旨表明あり、同年八月末、平沼内閣に代った阿部内閣の方針も亦同様であった．夫れ故早くその成立を見るべきであったが實際には未解決なる諸種の問題があり、叉中央政治會議の召集には諸般の準備が必要であった。而して民國廿九年（昭和15年）一月遂に青島に於て準備會議の招集を見るに至ったので新支那の建設を日本と共に担当すべぎ新中央政府の成立も遠いことではないと考える。<span style="color:#ff0000;"><span style="font-size:0.83em;">（145）</span></span></p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">　　</p>
]]>
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<link>https://ameblo.jp/tabioyaji33/entry-12580986502.html</link>
<pubDate>Wed, 11 Mar 2020 23:01:27 +0900</pubDate>
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<title>小竹文夫著「現代支那史」を読む 11 満州国建国</title>
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<![CDATA[ <p align="left">（承前）</p><p align="left">　それ故、日本が欧洲大戦に參加して独国を敵とし支那に於ける独國の租借地膠州湾を占領するや、大正四年（民国4年）一月、日支間に於ける年来の懸案を一掃する為日支交渉を提議した時、<span style="font-size:1.96em;">所謂二十一ヶ條の要求</span>を示し山東に関する條項等の外常に終らんとする<span style="color:#0000ff;"><span style="font-weight:bold;">旅順、</span></span>（113）<span style="color:#0000ff;"><span style="font-weight:bold;">大連湾の租借期限を改めて九十九年間延長し、日本臣民が内山に南海に往来居住して如何なる實業にも従事し得、且つその為土地を商租することが出来る等、官湘東蒙に関する七ヶ條を加へたことは又余りに当然のことであった。</span></span></p><p align="left">然るに<span style="color:#ff0000;"><span style="font-weight:bold;"><span style="font-size:1.4em;">支那は之より日本に對する悪感を深めパリ会議に於てもその無効を主張し国内に於五四運動から激しい排日運動を起すに至った</span></span></span>こと既述したところである。故に<span style="font-size:1.96em;">華府會議</span>に於ては<span style="font-weight:bold;">日本は英・米・佛・伊・和・葡・白・支の諸国と極東に関する九ヶ国条約を結んで支那の主権独立及び領土、行政の保全を尊重すると共に二十一ヶ條の山東に関する部分其の他を放棄し膠州湾を支那に返辺することとして好意を示したのであるが支那は山東の還附は承認するが甫満東万に関する部分は承認しないとの主張を続けた。<span style="color:#cc0064;">華府會議に於ては尚ほ英國は威海衛を仏国は広州湾を返還すべきことを宣言したのに其の後永く之を實行せす日本の山東還附は此の点最も真面目に實行せれたのであった。</span></span></p><p align="left">　此の間帝制露國が倒れて労農露国が出来、民國八年（1919年）から支那に好意ある対支宣言を行ひ民國十三年北京政府との間に露支協定を成立したこと既述したところである。<span style="color:#cc0064;"><span style="font-size:0.83em;">（114）</span></span></p><p align="left">本協定は正式には中我解決大綱十五條、暫行中東鍼路協定十一條及ぴ附属照明書等より成るものでその要旨は對支宣言に言へる如く一切の不平等開係を除去し新たに相互公平の原則及宣言の精紳に基いて條約協定を結ばんことを定めた外、中京鉄道即ち東支織道を二國の共管とせんこと等を定めたものであった。然るに常時<span style="font-weight:bold;">北京政権を握ってゐた直隷派と満洲に在った張作霖の奉天派との間に反目があった為、</span>張は斯かる満洲に開係深き事項は東三省の諒解を経るを要すとて協定否認め態度を採ったので露国も実権の及ばぬ北京政府と満洲に関係深き問題を議するを不可とし単独に奉天派と亦、露奉協定を結んだ。而して此の時第二奉直戦があり直隷派が倒れて張の勢力が北京に伸びることとなったので露奉協定に関する一切の処理は再び北京政府に移さるゝことゝなったがその細目會議は遷延を重ね逐に中断さるゝに至った。</p><p align="left">　　民国十四年末から十五年にかけ奉天派に内抗があり張の勢力一時危殆に瀕するや露國は突如その虚に乗じて兵を派し東支織道を占領したので張の能穴硬・化し、亦軍隊を派遣して恰爾賓の市會を解散し支那側の手に自洽會を設置する外、更に引続き満洲里、海拉爾、<span style="color:#ff0000;"><span style="font-size:0.83em;">（115）</span></span>斎々恰爾、ボダラーニチナヤ等に於ても市會を解散し之を支那側に独占した。叉、呉佩孚と聯盟して赤化討伐の大旗を拐げ共産党の弾圧を試みカラハン大使の退文要求を提出したので露国も張の対露感情緩和の為、東支鉄道長官を罷免しカーフハンをも本國に召還したので東支鉄道に於ける支那側の勢力は頗る増大した。</p><p align="left">　　張の満洲に開しての露國に對する態度斯の如きものであったと共にその勢力の増大するや日本が満洲に有する歴上、條約上正当の権益に對しても亦頗る強硬であり或は日本人の土地商租、自由居住を妨害し、工業、森林、鍍窓等の諸権利蹂躙し南満織道の併行線包囲線を敷設し排日反日の言論行為を縦にした。而して張學良が日本の抗議を無視して民國十七年易幟を晰行し國民党に入ってからは是等が一層甚しくなった。我が鉄道守備隊、巡察兵の襲撃、殴打事件、満洲に在る朝鮮農民の虐殺、圧迫事件等が瀕発した。長春萬賓山で支那の許可を得て水田工事に従事せる朝鮮人の退去を強要した事件に引接き、奉天省西北境の混索地方で支那官兵の日本參謀本部附中村大尉虐殺事件があり日本國民の憤激は甚だしく途に民國二十年（欄四）九月十八日を一部支那軍隊の甫海鉄道線路を爆破し（116）我が守備隊を襲撃するに及び我が関東州守備軍の出動となり、所謂満洲事変が起こった。</p><p align="left">　　当時日本兵力は一万余名で之に対する支那軍の總兵力二十余萬であったが一度日本軍立つ　　や支那軍を各地に於雀潰敗せしめ忽ち奉天、長春、皆口、吉林を始め各地要点を占領したため張学良に遼寧省臨時政府を錦州に設置しなほ蠡動を続けんとしたので十月飛行機を以て之を爆撃し、十一月には馬占山を破って黒竜江省を日本軍の手に収めた。斯くて十二月より翌年一月に且っで錦州を攻め完全に張学良の政権及び東北軍を一掃し之を関外に追いだした。</p><p align="left">　　これより先い九月袁金凱等は奉天に地方維持會を組織し、吉林亦独立宣言し其他東三省各地に漸次地方自治の運動が起きて来、支那の政権から離脱して独立国家を建設せんとする気運も起きて来たので<span style="font-size:1.96em;"><span style="font-weight:bold;">民國二十二年</span></span>二月、咸士毅、張景恵、同一洽、袁金凱等により東北行政委員會が組織され独立國家の組織を決議し<span style="color:#cc0064;"><span style="font-size:1.96em;">三月一日には早くも満洲國建國宣言を発表</span></span>した。そして先に民國成立の際優待條件を以て退位せられながら實際には何等優待に預からざるのみならず<span style="font-weight:bold;">民國十三年には馮玉祚の國民軍の為北京の故宮をも追われ当時天津<span style="color:#cc0064;"><span style="font-size:0.83em;">（117）</span></span>に蟄居中であった清朝の宣統帝溥儀を迎へて満洲國執政に推し新國都を長春に改めて同月九日建國式を挙行し、執政は「必ず道徳を重んすべし、然れども種族別あり、即ち他人を抑え己を挙ぐれば道徳薄し、人類必ず仁愛を重んすべし、然れども國際の争あり、即ち人を損じ己を利せば仁愛薄し、今我國を建つ、道徳仁愛を以て主となし種族の別、國際の争を除去せば将に王道楽土の実現を見るべし、此の事実に我國人共に努めよ。」　</span>　　　　　　　　</p><p align="left">との宣言を発した。<span style="color:#cc0064;"><span style="font-weight:bold;">此の時國都を新京と改称し年号を大同と定め<span style="font-size:1.96em;">、國務院、參議院</span>が設けられて新興満洲國が建設された。</span></span></p><p align="left">　　これより満洲國は漸次國家の基礎を固め日本と相倚り相扶けて東洋の平和を保全とを考へたので日本は同年九月十五日満州國を承認し新京に於て日満議定書に調印した。<span style="color:#ff0000;"><span style="font-weight:bold;">その要旨は満洲國はその領域内に於ける日本の特殊権益を承認し日本は滞洲國と共同合力して両國の領土及び治安の防衛に当るといふのであった。</span></span>茲に於て日本の満州に於ける特殊開係が初めて確立すると共に南下し来る露國の勢力に對し支那の如き無責任なる國家で<span style="color:#ff0000;"><span style="font-size:0.83em;">（118）</span></span>はなく日本と共同して之を防がんとする新國家の出現を得て日本は大いに國防の安全感を増大したのでおる。</p><p align="left">　　満洲事変勃発後支那に於ける排日、排日貨運動が猛烈となった。特に上海には抗日救國會本部其の他多数排日諸團が出来て頗る横暴を極めたが目民政府はこれを以て國民愛国心の発露であるとし何等の取締りを為さぬのみか却って奨励の態度に出た。これに對して日本居留民は激昂を続けて居たが、民国廿一年一月上海の二支那新問が我が、皇室に對する不敬記事を掲載するに及んで上海日本居留民の積憤は発して支那膚懲の叫びとなり、ついで支那職工が我が日蓮偕侶を殺傷した事件が起り激昂した居留民と支那人との衝突があり同月二十一日上海日本總領事は支那上海市長呉織城と會見し抗日會の解散等三項の要求を提出した。</p><p align="left">　　奥市長は初め回答を遷延した末事態の重大なるに鑑み二十八日午後三時我が要求を全部承諾したが、これより先、上海附近に集結して居た蔡廷楷旗下の第十九路軍は租界附近に於て戦備を整へ又便衣隊及び不逞分子は租界に潜入し流言蜚語が盛んに飛んだ為共同租界当局は同目午後四時戒厳令を発し日・英・米・佛・伊の軍隊は予で協定した<span style="font-size:0.83em;"><span style="color:#ff0000;">（119）</span></span>受持区域の守備に就くことゝなり日本海軍陸戦隊は二十九日午後零時より北国川路西側の警備につかんとして遂に第十九路軍との間に衝突が起った。その後支那側は益々攻撃的態度に出たので日本は居留民保護の為陸軍を派遣して激戦の後之を破り三月初め戦闘行埓を停止したが次いで英國公使等の調停により五月初め租界附近二十粁以内に支那軍を入れないこと等を定めた停戦協定に調印して派遣軍を撤退した。</p><p align="left">　　此の間支那の國論沸騰し國民政府も對日強硬策を採って都を洛陽に遷し長期抵抗を決定したが賓際には到底日本軍に敵すべからざるを知って居たから中央軍を送って直接日本と衝突することは之を避けた。しかし上海事件の一段落で政府各機関が南京に復帰するや又満洲事慢の對策に就いて議論起り失地恢復を急とする積極論と失地恢復の為には先づ共産党を討伐して内部の統一を要すとの消極論とがあつたが十二日に南京會議が開かれ自力救國、對日積極抵抗が決議された。</p><p align="left">満洲國に於ては支那の失地恢復論に拘らず蕭々と國内の残匪を掃蕩し、大同二年（民国22年）二月からは更に日満議定書の約により日本軍の援助を得て熱河討伐を行ひ僅かに十数日に（120）平定し萬里長墟を以て支那との国境線とした。慨し熱河は鮮卑族や契丹族の興起した地方で元代以来は蒙古諸部の地となり清代に於ても同様であった。只、清朝に對しては早くその入関以前かあ帰降し牧地を進献したので康煕帝以来此處に御料狩猟地を設け駐屯所として離宮を造ったのである。これより黙河が漸次発達し支那人も多く入って承徳府の下に州県が設けられ直隷省の下に属せしめられるやうになったのであるがそれでも関内の支那とは別個の地域をなし民國になっても特別行政区として特別扱ひにされたのである。その後省制が施かれるや奉天、吉林、黒龍江と共に東四省と稀せられ張學良の軍政権の下に置かれたが熱河は亦清朝とも特別の関係にあり従って支那よりは寧ろ満洲と不可分の開係に立つものであった。</p><p align="left">　　満州事変の後省主席の湯玉麟は満洲独立の成行を見て又独立運動に參加し執政の就任式にも代理を出して祝辞を致したのであるが其の後張學良の脅誘を受けて満洲國の政令に従はす却って支那の軍除を省内に入れて反満戦備を整へたので遂に之を討伐するに至ったのである。</p><p align="left">　　支那にては熱河討伐の結果、張學良は國土喪失の責を引いて下野陳謝の通電を発し<span style="color:#ff0000;"><span style="font-size:0.83em;">（121）</span></span>國民政府は代って何応欽を河北軍總司令に任じて北支那軍政の権を統べしめたが、その率いる中央軍は平津を根拠として屡々長城の線を侵し日本軍に執拗なる挑戦的態度を探った。それ故、日本は支那軍挑戦の策源地を掃蕩し満洲國国境線を確保する為一時長城前面の傑東地方に進出したが盆々挑戦撹乱行為を恣にしたので、民國廿二年五月再び進撃して平津に迫り遂に支那と塘沾に於て停戦協定を結ぶに至った。これによって支那軍は延慶、昌平、高麗管、順義、俑州、香河、賓坂、林亭饌、寧河、蘆盗の線の以西以南に退き、以後これを越えて前進せず叉一切の挑戦撹乱行為を行わず、停戦区域内の治安は保安隊を以て維持することが定められた。</p><p align="left">　　満洲事変発生以来い熱河討伐から塘沾停戦協定に至る間、國際聯盟を中心としで諸外國は日本の満洲に對する特殊関係を理解せす事毎に日本と意見を異にしたので日本は松岡全権を派して聯盟脱退を通告し、満洲國の健全なる発展のためその確固たる所信を中外に表明した。爾来満州國は愈々健全なる発展を遂げ大同三年（民国23年）三月には帝政を遡行することゝなり執政は皇帝の位に即き国号を満洲帝國と称し年号を康徳と定めた。中央組織の完整<span style="font-size:0.83em;"><span style="color:#ff0000;">（122）</span></span>と共に同年十二月勅令を以て省公署官制を公布し全國を十四省に区分して地方制度をも確立した。同年六月には秩父宮殿下が日本　天皇陛下御名代として満洲國を御訪問あらせられ、翌康徳二年（昭和10年）満洲國皇帝は又答禮の為親しく日本を御訪問あらせられ日満両國の開係は益々親密を加へて行った。</p><p align="left">然るに支那側の抗日反満事件は停戦協定後と雖も繰返され民國廿四年一月から五月までに北支那に起った抗日反満事件のみで凡て五十余件に及ぶと言はれ、殊に<span style="font-weight:bold;"><span style="color:#ff0000;">停戦区域内に於ける孫永勤匪の満洲撹乱の援助、長城附近に於ける支那義勇軍の援助、天津に於ける烈日系二新聞社長暗殺</span></span>の如きは単なる一匪賊、一兇漢の所信とは考へられたかった。</p><p align="left">　　それ故、日本陸軍は停戦協定及びその他の條約上の根拠に基づいて<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">支那官憲の不信背約を糾弾し之等事件が満洲、上海両事件の勃発した原因と全く同一の背後的重大原因を有するものあることを指摘し強硬な要求を為して六月に所謂梅津・何応欽協定を結んだ。</span></span>これで支那中央軍及び一切の付属機関、河北省主席于学忠。、国民党及び市党部が河北省より撤退し、責任官吏の罷免し、又将来斯かる事件の絶無を期する為対日問題に関する限り北支機関に広汎な自由裁量権を具へ、北支各機関の人選は此の目的に合致する様にすることが定められた。翌七月には國民政府は撤退軍隊を再び平津地方に進入せしめず國民党部その他排日機関の復活かを許さざることを誓約した正式回答を出すと共に邦交敦睦令を発布して一般民衆及び団体に、邦に對して睦誼を敦ぺきことを喩告し、排斥及び悪感挑発の言論行為をなすことを禁じ違犯者を巌罰に處する旨定めた。</p><p align="left">　　しかし<span style="color:#8f20ff;"><span style="font-weight:bold;">此の後も抗日反満の感情は少しも下火にたらず各地に於て幾多事件が起こった</span></span>のみならず北支那に於ても秘密機関によって潜行的に尚ほ抗日反満手段が績けられた。そしてれは多く國民党部及び共産党の指導によるものであったから同年十月香河県農民の自治運動より殷汝耕を首班とし停戦非武装地帯二十二県を管轄区域とする翼東防共自治政府が組織され、叉宋哲元を首班とする翼察政務委員會といふ日満支三國の緩衝地帯の如き特種政権が河北・察恰爾二省を管轄区域として組織せられた。</p><p align="left">&nbsp;</p><p align="left">・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・</p><p>&nbsp;</p><div class="youtube_iframe"><iframe allowfullscreen frameborder="0" height="274" src="https://www.youtube.com/embed/TQUD6Tr6pMQ" width="488"></iframe></div><p>&nbsp;</p><div class="youtube_iframe"><iframe allowfullscreen frameborder="0" height="274" src="https://www.youtube.com/embed/xg7ssIBDiew" width="488"></iframe></div><p>&nbsp;</p><div class="youtube_iframe"><iframe allowfullscreen frameborder="0" height="274" src="https://www.youtube.com/embed/tir3-u3OL8Y" width="488"></iframe></div><p>&nbsp;</p><p align="left">　</p>
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<pubDate>Mon, 09 Mar 2020 23:58:47 +0900</pubDate>
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