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<title>たけさんのブログ</title>
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<title>庶民的な大ベテラン歌手田端義夫さん。</title>
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<![CDATA[ <p>気さくで面白くて楽しいベテラン歌手</p><p>田端義夫さん、通称バタヤン、この人は私の子供の</p><p>頃よりラジオから流行歌（歌謡曲）が子守唄</p><p>代わりに聴いてきた「かえり船」「別れ船」</p><p>「大利根月夜」「玄海ブルース」「麦と兵隊」等</p><p>大衆に絶大に人気のあった歌手だったと思う</p><p>特に私の祖母が大ファンで大阪公演は必ず大阪は</p><p>千日前にあった定番の劇場、大劇（大阪劇場）に</p><p>観に出掛けていた、当時此の劇場は座席指定では</p><p>なく早朝、早くに良い座席を確保するため劇場の</p><p>前から並ぶのである人気歌手の場合は劇場を何重に</p><p>も取り巻く行列だった、其所で祖母は私に言うの</p><p>である「茂ちゃん、アルバイトせぇへんか</p><p>場所取りしてくれたら、５００円あげるでぇ」</p><p>と来る当時のお金で中学年の私に取って５００円</p><p>は大金✊であった、私は二つ返事で「ああ、エエよ」</p><p>と言って実家の船場から千日前の大劇まで朝一番の</p><p>市電に乗り場所取りをした事を思い出す</p><p>その田端義夫さんとまさか一緒に仕事を指せて戴く</p><p>事に成るとは夢にも思わなかった</p><p>１９６１年昭和３６年、北の御大、市川右太衛門</p><p>さんの「旗本退屈男、謎の七色御殿」の作品で</p><p>田端義夫さんは旅籠の番頭役で出演する事になり</p><p>初めて撮影所で顔合わせする、此の作品は</p><p>歌手の方々の出演が多く村田英雄さんに、こまどり</p><p>姉妹他に東千代之介さんに久保菜穂子さん</p><p>山城新吾さんの面々だったと思う</p><p>此の撮影中の時間待ちの時田端義夫さんに挨拶に</p><p>伺った折り田端さんから「アンさん、大阪の人か</p><p>ワテも生まれは三重やけど、育ちは大阪の鶴橋や</p><p>ねん」と言うことになり、失礼ながら父親か年の</p><p>違う兄貴の様な親近感を持った事は不思議だった</p><p>その後、年の離れた兄貴の様に慕い意気投合し</p><p>田端義夫さんの晩年までお付き合いさせて頂きま</p><p>した、色々お世話になりぱなしで撮影が終わった</p><p>後も、田端さんの大阪公演は必ず楽屋見舞いに伺っ</p><p>て居りました、唯、田端義夫さんのホームグランド</p><p>であった千日前の大劇は消滅していて、場所は</p><p>千日前から道頓堀の「中座」に替わっていた１年に</p><p>一度必ず中座公演があり、その中で日本中が驚いた</p><p>出来事があった昭和５４年の８月だったと思う各</p><p>新聞に「田端義夫、ラスベガスでスロット、マシン</p><p>で６千万円の大当たりが出る」と報道されている</p><p>日本中の国民も驚いたが私も天と地がひっくり返る</p><p>驚きだった、その翌年昭和５５年の正月に名古屋で</p><p>長期公演が「中日劇場」で公演するから良かったら</p><p>遊びに来ないかと田端義夫さんのマネージヤから</p><p>電話連絡が入る、当然ながら楽屋に陣中見舞に</p><p>訪問する、その折昨年のラスベガスの一件を</p><p>尋ねると面白可笑しく話して下さった</p><p>その頃田端さんは仕事が一段落すると約一週間</p><p>ほどラスベガスに行きカジノに入りびたりの</p><p>日々を過ごすことにしていたそうだ</p><p>泊まりはヒルトン、ホテルでスロットマシンは</p><p>ストレス解消の格好の遊び道具だったそうだ</p><p>ガチャン、ガチャンとハンドルを手前に倒す</p><p>その頃ラスベガスは日本人客がいっばい居たそうだ</p><p>朝方の４時頃だったそうだスロットマシンの</p><p>賭け率の一番大きいのがビッグ、ジャンク、ボード</p><p>だ横５列、縦上中下の三段に数字が並ぶ</p><p>ビッグ、ジャンク、ボードは下段の横五列に七が</p><p>五つ出るとベルが鳴り出す配当を示すイルミネーション</p><p>を見ると何と「二十九万ドル」当時のレートで</p><p>日本円にして「六千四百万円」、ホテルの従業員が</p><p>駆け付けすぐに日本の歌手田端義夫とわかって</p><p>しまったと言っていた、その時ラスベガスでショー</p><p>をやっていたポール・アンカーと知り合え</p><p>「楽屋に来てくれと言われ」ショーの事とか日本の</p><p>歌の事を長い間話をしてきたと言っていた</p><p>私も一度、フランク、シナトラを観にラスベガスに</p><p>行った折り、ホテルでスロットマシンでをやった</p><p>事があるけどサッパリでした</p><p>個人的に田端義夫さんとは昭和３６年の映画撮影</p><p>以後色々お世話になり本当の兄貴の様な感情が</p><p>今も心の中に住み着いている。</p>
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<pubDate>Tue, 28 Mar 2023 12:12:15 +0900</pubDate>
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<title>勢揃いした東映スターの立回り。No.２。</title>
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<![CDATA[ 前に書いた両御大の立ち回りから、若手だった<div>当時の中村錦之助さんと大川橋蔵さんの立ち回りを</div><div>比較してみたいと思う、御二人の個性も違うが</div><div>立ち回りも全然違っていた、一口に言えば（豪）と</div><div>（軟）であった、御二人に絡ませて頂いた経験から</div><div>言えばお二人とも立ち回りのセンスは抜群で</div><div>当時の殺陣師足立伶二郎さんも舌を巻く上手さだった</div><div><br></div><div>播磨屋三世、中村時蔵を父に持つ歌舞伎界名門の</div><div>御曹子中村錦之助さんを当時、若旦那と呼んでいた</div><div>後に「錦兄ぃ」と呼んでいたが者もいたが我々は</div><div>若旦那の愛称で呼んで錦之助一家の一員だと自負し</div><div>ていた、若旦那錦之助さんの作品「笛吹童子」以来</div><div>「源義経」「織田信長」「一心太助」「清水次郎長」</div><div>と次々に芸域を拡げた若旦那だった、後に内田吐夢</div><div>監督とコンビを組んだ「宮本武蔵」五部作によって</div><div>豪剣が生まれた、錦之助さんは作品に依って立ち回り</div><div>を変えていた、若旦那の殺陣では「宮本武蔵、一乗寺</div><div>の決斗」での下リ松の場面が今でも語り草に成ってい</div><div>る、監督の要望で夜明けを狙っての撮影なので</div><div>実際カメラを回せるのが僅か一時間程しかないのだ</div><div>此の場面だげで一週間以上かかったものだ</div><div>寒中一月の午前四時、現場の田んぼには薄氷が</div><div>張っている、若旦那の武蔵は、追いすがる吉岡門弟</div><div>を斬っては走り、走っては斬る、畦道で、おのれの</div><div>足場をかためつつ展開する立ち回りは、まさに</div><div>剣と人とが一体に成った、凄まじさだった</div><div>私達、絡みは膝まで泥に浸かり、斬りかかり</div><div>斬られて田んぼの中に転がる、此れぼどリアルな</div><div>感じを味わった芝居は他に記憶がない</div><div>足の冷たさは頭のシンまで凍てつくようで下半身</div><div>には感覚が無くなっていた、此の場面に賭けた</div><div>若旦那の豪剣とスピード感が錦之助さんの特色では</div><div>ないだろうか、同じ「宮本武蔵、般若坂の決斗」</div><div>では、私は身体中にホースを巻き付けて、血の出る</div><div>仕掛けをしたものである</div><div><br></div><div>また最高の美剣士を演じた「源氏九郎颯爽記</div><div>秘剣揚羽の蝶」では伊藤大輔監督の要望で能の形</div><div>から殺陣を工夫していた、二刀流で蝶々が舞う</div><div>ような殺陣を披露していた秘剣揚羽の蝶と言う剣法</div><div>は自身の家柄、播磨屋の家紋が（揚羽の蝶）で</div><div>あった、私自身武蔵や源氏九郎にもまして若旦那</div><div>らしいなあ、、としみじみ思ったのは、やはり</div><div>「森の石松」である、斬られ役の私が若旦那の</div><div>背中に一太刀浴びせた映画だから余計に思い入れが</div><div>あるのかも知れない、錦之助さんの立ち回りは</div><div>豪快かつ豪剣であった。</div><div><br></div><div><br></div><div>もう一人の美剣士大川橋蔵さん文字通り絵に描いた</div><div>様な二枚目で、その色っぽい流し目は</div><div>貴公子然とした風貌は梨園の名門、音羽屋ならでは</div><div>だ市川男女丸の名前で初舞台を踏んだお人である</div><div>橋蔵さんは「笛吹若武者」の美剣士でデビュー</div><div>すると、甘いマスクに涼やかな瞳かたちまち</div><div>女性ファンを魅了した人だった</div><div>橋蔵さんの立ち回りの特色は、菊五郎劇団でトンボ</div><div>を切る修練を重ねた事もあって、良く腰が入ってい</div><div>るのだ、此れに踊りの下地が加えられ、手数の多い</div><div>立ち回りは、上手いの一語につきるのだ錦之助</div><div>さんの（剛）に対して（柔）と言う違いがあっても</div><div>華麗でテンポが良く、あえて言えば、艶や伸びが</div><div>あるのである、此れは橋蔵剣法、独特の魅力と</div><div>言えるバサッ、と人を斬っておいて、(^-^)と流し目</div><div>で笑う芸当は橋蔵さんでなくて叶わない芸であるが</div><div>橋蔵さんの場合殺陣師さんとの打ち合わせを良く</div><div>しておりました、色々相談する訳です</div><div>いわゆる「口立て」ですね、例えば殺陣師さんが</div><div>「ここで相手が斬りかかって来るから、こう斬って</div><div>次に振り向きざまに、こう斬って、ここで</div><div>飛んで、スバッ」、此のように殺陣師さんが説明</div><div>して居るだけで「わかった」と言って橋蔵さんは</div><div>セットに入って、すぐ本番になって、華麗で優雅に</div><div>殺陣師さんの説明通り演じてしまう、よほど</div><div>立回りが上手くないと十種類以上ある殺陣を頭の</div><div>中だけじゃ理解出来ない筈が橋蔵さんの</div><div>「新吾十番勝負」や「若さま侍捕物帖」での</div><div>立ち回りは若旦那錦之助さんのような豪快さは</div><div>無かったが橋蔵さんの身のこなしが実に優雅で</div><div>躍り的と言うかとても華やかな立ち回りの印象が</div><div>あった。</div>
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<pubDate>Wed, 28 Dec 2022 08:47:33 +0900</pubDate>
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<title>綺羅星の如く勢揃いしていた東映スターの立回り。</title>
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<![CDATA[ 時代劇黄金期の東映スターの立ち回りには<div>其々の個性があった、一人、一人に独特な特徴が</div><div>あり、日本映画史上最長の退屈男シリーズに成った</div><div>北の御大市川右大衛門さん</div><div>当たり役と言う言葉を使うなら此れぼどの当たり役</div><div>は他に類をみない、高禄ながら無役のために</div><div>退屈ばかりしている直参旗本、早乙女主水之介、</div><div>派手な着流し、眉間に冴える三日月の天下御免の</div><div>むこう傷で、御大は当たり役をそのままに東映城を</div><div>まかり通るといった印象で、万事、殿様らしく</div><div>常に豪快かつ派手だった、さて其ではこの御大の</div><div>殺陣、立回りはいったいどんなものだったのか</div><div>一口に剣豪と云うけれど、御大ぼどこの言葉が</div><div>当てはまるスターは居ないように思う</div><div>豪快かつ華麗できまりのポーズが実に美しく</div><div>鮮やかなのだ、例えて云えば太鼓の大波の様だった</div><div>普通立ち回りと言うものは、斬られる役が主役の</div><div>呼吸に合わせるのが常識であるが、御大は逆に</div><div>斬られ役に合わせてくれる事が多かった、まるで</div><div>斬られ役一人一人の技量を知り抜いているかの様で</div><div>かかりの遅い時は自分から飛び込んで来る</div><div>かかりの早過ぎる時は自分で、かわしておいて</div><div>最後の決まりで帳尻を合わせてくれるのである</div><div>さらに言えば、御大は刀でも折れない限り</div><div>立ち回りのシーンでNGを出さなかった</div><div>この御大は立ち回りと踊りのシーンがあれば</div><div>ご機嫌と言う此の人ならではの話である</div><div><br></div><div>もう一人の山の御大、片岡千恵蔵さん</div><div>此の時代片岡千恵蔵、市川右大衛門両看板スター</div><div>の対決こそはまさに時代の象徴だった</div><div>この人の立ち回りは「大菩薩峠」で演じた</div><div>机龍之介であった、目を半目に見開き極端に唇を</div><div>歪めてボソボソ語る、あの独特なセリフ回し</div><div>魔剣を抱いて無明地獄をさすらう後ろ姿、そして</div><div>鬼気迫る殺陣が、文字通り山の御大の独壇場である</div><div>北の御大の豪快かつ華麗な、律動感のある殺陣に</div><div>対して、山の御大の立ち回りは一口に言えば</div><div>「一振り一殺」である、間（マ）のある立ち回り</div><div>であった、刀一振りで一人を倒した瞬間、きりり</div><div>と引き締まった御大の「顔」が其処にあって</div><div>迫力が倍増すると言う仕組みに成っていた</div><div>だから極意は一振り一振りの間にあった、一人を</div><div>斬ってから次を斬るまでの間「マ」</div><div>斬られ役の側からすると、次のかかりのきっかけ</div><div>の息を計るのが難しかった、御大を取り巻いて</div><div>ジリ、ジリと摺り足で迫ったり逆に退いたりする</div><div>ので足のつま先には、より以上に力が入る</div><div>草履や草鞋がすぐに痛んでしまって小道具泣かせで</div><div>あった、立ち回りのテンポ自体はスローなので</div><div>次から次へ斬り倒して行くテンポの早い立回りに</div><div>比べ、ずっと難しい立回りであった</div><div>例えば「大菩薩峠」の机龍之介とか「新選組」の</div><div>近藤勇とか、そして「宮本武蔵」など一種ニヒルな</div><div>感じの殺陣と成れば、山の御大は俄然本領を発揮</div><div>するのだ「一振一殺」、その力あふれる重厚な</div><div>立ち回りは何者をも寄せ付けない天下一品の</div><div>ものだった。</div><div><br></div><div>すべてに置いて天才的な持ち主だった</div><div>お嬢こと、美空ひばりさん</div><div>ひばりさんは歌や踊りや芝居のみならず</div><div>全てに渡って天才的センスの持ち主なのだ、それが</div><div>立回りに現われるのである、姫君から男装の</div><div>若衆役まで幅広い主役をこなしていたお嬢だが</div><div>女性ながら立ち回りは実に上手い、お嬢は</div><div>若旦那錦之助さんのファンだったが、そんな事も</div><div>あって、若旦那錦之助さんの立回りに良く似ている</div><div>意識して錦之助ポーズを取っていたフシがある</div><div>若旦那錦之助さんはお嬢から歌をお嬢は錦之助</div><div>さんから殺陣をお互い学びあっていたいた様に</div><div>思われる、なんと言うか刀に芸が籠っていた</div><div>器用にその場をこなすと言うのとは違って、剣が</div><div>生きていた、あの小さな身体で（本当に失礼）</div><div>剣が届くかと思うのだが、其れが不思議と届く</div><div>のだ、間合いを計るのも上手く「又来るな」と言う</div><div>時、知らせを送ってくる「ここだっ」と言う時</div><div>凄い気合いが入る、その時、その時の舞台や観客</div><div>に会わせるコツは、もう、天才のなせる技としか</div><div>言いようがなかった、文句なし女優ナンバーワン</div><div>ひょっとしたら男の俳優さんより上手かったかも</div><div>しれないお人でした。</div>
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<pubDate>Tue, 20 Dec 2022 15:04:58 +0900</pubDate>
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<title>個性ある大部屋俳優の博識。</title>
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<![CDATA[ スターさんは華やかで皆さんの憧れの的だが<div>東映京都撮影場所の大部屋俳優に個性的で魅力が</div><div>あり博識のある方々が大勢在籍していた、例えば</div><div>泣く子も黙る子供達が恐がる悪役専門の吉田義夫</div><div>さんは役者としても立派だが確固たる信念を</div><div>持って居られた、本来吉田義夫さんは役者では</div><div>なく美術専門学校の日本画科の先生だった、俳優に</div><div>なる前は高校の美術の教師をなさっていた</div><div>唯、当人が芝居が好きで、自分の気持ちを抑え</div><div>きれず絵筆を折ったと聞いたことがある</div><div>学校で生徒に教える位だから、失礼ながらあの</div><div>顔で実に温厚なお人でした、本当に人として</div><div>最高に魅力あるお人でした。</div><div><br></div><div>ベテランで脇役専門に演じていた役者</div><div>加藤浩さん、此の方は書道の達人だった映画の中で</div><div>黒墨で決闘状や巻き紙の書状が良く画面に現れる</div><div>が、その習字は全て加藤浩さんが書いて居られた</div><div>此の方は、何処かの高僧のような物静かな役者さん</div><div>でいつもセットの片隅に座って出番を待っていた</div><div>姿を思い出します、役者を辞めてから京都市内で</div><div>書道の先生をしておられると聞いたことがある。</div><div><br></div><div>我々大部屋の神様的で博識のある大先輩がいた</div><div>その人の名前は、遠山金次郎さんと言った</div><div>此の人は時代劇の決まり事や江戸時代の風習など</div><div>全て熟知していた、ある時マキノ組（雅弘）の</div><div>仕事で駕籠かきの役が廻ってきた、其処で</div><div>「明日、駕籠かきの役をすることに成ったんやけど</div><div>どんな事に気を付けたら、親父さん良いですかね」</div><div>すると、おもむろに「駕籠にも色々あってな</div><div>まず、武士用と町人用の二種類に大きく分けられるん</div><div>や、武士用の駕籠は引き戸が付いているから、直ぐに</div><div>分かる、それも三種類に分かれていて、お忍び駕籠</div><div>に留守居駕籠、其れに権門駕籠があるんや、まぁ</div><div>お前の役は、たぶん町人用の駕籠やと思うから</div><div>宝泉寺駕籠にあんぼつ垂れをたらしただけの</div><div>京四つ駕籠か四つ手駕籠の四種類の内のひとつやなぁ」</div><div>と言って親切に色々教えて貰った、その内駕籠の</div><div>担ぎ方から走り方まで細かく教えて貰った</div><div>此の方は、遠山金次郎さんは映画の業界では</div><div>有名な方でした、又、</div><div>江戸時代の行商人の種類とかも教えて貰った</div><div>年末になると餅網売りがやって来て「餅網や、餅網や」</div><div>云いながら江戸の町人に売り歩いていた、とか</div><div>油売りは「へぇ油、へぇ油」と売りに来るのやけど</div><div>その格好は紺の無地の木綿の着物に小倉帯、胸に</div><div>前垂れを掛けてたすき掛け、油を売る時は桶から</div><div>油を油差しに移して、それからお客さんが持ってきた</div><div>容器に入れるんや」とか我々大部屋の大辞典でした。</div>
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<pubDate>Wed, 14 Dec 2022 17:47:37 +0900</pubDate>
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<title>時代劇映画黄金期の太秦界隈。</title>
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<![CDATA[ <p>京都市右京区太秦界隈は映画全盛の頃町全体が</p><p>活気があり繁栄していた、太秦近辺には時代劇</p><p>映画を撮る会社が三社のあった、東映、松竹</p><p>大映と町全体が象徴するように広隆寺前から</p><p>斜めに入って帷子ノ辻までの商店街は大映</p><p>撮影所から名前をとった「大映通り商店街」と</p><p>名付けられていた、その場所の喫茶店や食堂には</p><p>監督やスタッフの溜まり場で良く撮影現場の話を</p><p>していた。町には扮装のまま役者達が武家娘や</p><p>町娘に侍姿や浪人姿に虚無僧姿色々な扮装のまま</p><p>闊歩していた、京都は元々お寺で成り立っている</p><p>町だから時代劇映画を撮るには最適な場所だった</p><p>特に撮影所のある太秦は近くに嵯峨野があり</p><p>撮影の定番で大覚寺があるその横に大沢池や</p><p>広沢池は我々大部屋の役者の悲喜こもごもの</p><p>場所だった、何度斬られて池に飛び込んだ事か？</p><p>夏場は良いが比叡下ろしの風が吹く冬場の池は</p><p>地獄だった（もっとの、その場合は危険手当）が</p><p>会社から支給された、例えば危険手当と云えば</p><p>松竹映画、深作欣二監督の「蒲田行進曲」の</p><p>平田満さん扮するヤスが階段落ちシーンが</p><p>メイン、テーマになっていますが、此の階段落ち</p><p>のモデルだったのが役者、汐路章さんだった</p><p>片岡千恵蔵御大扮する近藤勇が池田屋に斬り込み</p><p>階段の上二階から後ろ向きで転がり落ちる役を</p><p>演じたのが汐路さんだった、どれ程恐怖感が</p><p>あったか計り知れない、１９5８年の「新選組」の</p><p>作品でした</p><p>撮影所に入れば東映京都撮影所は当時二万坪を</p><p>超える敷地にステージ１２棟に東映城と呼ばれる</p><p>城があり時代劇のオープンセット（現、東映太秦</p><p>映画村）を所有する時代劇のメッカに相応しい</p><p>陣容を誇っていた</p><p>正門前にある俳優会館の二階は伝説の俳優部屋</p><p>だった、廊下の一番奥が北の御大市川右大衛門さん</p><p>の部屋で反対の端が山の御大片岡千恵蔵さんの</p><p>部屋だった　真ん中にあったのは月形龍之介先生</p><p>の部屋で、その間に大友柳太朗さんの部屋で</p><p>中村錦之助さんや大川橋蔵さんの部屋が並んでいた</p><p>女優さん達の部屋は一番奥が美空ひばりさんの</p><p>部屋で、当時東映では美空ひばりさんは別格で</p><p>飛ぶ鳥を落とす勢いだった、女優さんの部屋は</p><p>華やかで皆さん色とりどりの暖簾を掛けて</p><p>廊下には付き人やマスコミの人達で賑わっていた</p><p>御贔屓の人達が花や楽屋見舞いを持って訪ねて</p><p>いた。当然我々大部屋の者は用事がない限り</p><p>入れなかった、我々大部屋の仕事は俳優会館に</p><p>何枚か張り出されるスケジュール表が掲示板に</p><p>張られている。松田組（定次）小沢組（茂弘）</p><p>佐々木組（康）マキノ組（雅弘）沢島組（忠）</p><p>深作組（欣二）等其処に書かれている自分の</p><p>役を確認して仕事をしていた、我々大部屋役者の</p><p>ハローワークでした。</p>
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<pubDate>Tue, 13 Dec 2022 10:43:34 +0900</pubDate>
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<title>昨日、飛び込んだ訃報に驚く。</title>
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<![CDATA[ <p>昨日テレビから松原千明さんの訃報が知らされた</p><p>驚きと共に何故、と言う気持ちだった、まだ６4歳</p><p>の若さだ、遥か昔彼女がまだ3歳か4歳の頃</p><p>初めて彼女を見たのが東映京都撮影所だった</p><p>彼女の父上は東映時代劇の名脇役として大活躍を</p><p>した原健策さんだった、私が東映撮影所に入り</p><p>右も左も分からない時、親切に御指導下さった</p><p>大恩人のお人だった、撮影所での決まり事や</p><p>着物の着付けに羽二重の付け方、刀の差し方に</p><p>時代劇の歩き方に、いつ呼ばれても間に合う要に</p><p>準備をしておく事等、色々教えて頂き今でも</p><p>心の中で終生忘れられない恩義を感じている</p><p>大恩のある方のお嬢さん松原千明さんの訃報は</p><p>驚きと同時に可愛かった幼少の頃の彼女の面影が</p><p>去来した、お会いしたのは２度か３度位だった</p><p>と思うが本当に可愛いキューピーさんの様な</p><p>女の子だった父上、原健策さんは目に入れても</p><p>痛くないほど可愛がっておられた</p><p>当時、時代劇が大盛況の頃、原健策さん演じる</p><p>役処は二枚目、三枚目、敵役と何でもこなす</p><p>芸達者ぶりだった、例えば東映オールスター作品</p><p>の「忠臣蔵」では浅野内匠頭の最後を見届ける</p><p>片岡源五右衛門役を２度も演じるお人だった</p><p>そのお嬢さんが６4歳の若さで御逝去されるとは</p><p>余りにも速すぎます、唯、松原千明さんの娘さん</p><p>すみれさん原健策さんのお孫さんが元気で</p><p>頑張って下さることを願っております</p><p>本当に心より御冥福を御祈り致しております。</p><p><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/takesan151105/entry-12775073230.html</link>
<pubDate>Fri, 18 Nov 2022 08:01:14 +0900</pubDate>
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<title>役者に成る為に生まれた仲代達矢さん、</title>
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<![CDATA[ <p>仲代達矢と言う名優がいる、この人はどんな役柄を</p><p>やらせても実に上手い、生まれながらの役者で</p><p>あると誰もが認識している、しかも自分の仕事だけ</p><p>でなく若者達の為に「無名塾」を作り俳優達の</p><p>養成所として新人を育て日本の演劇界に貢献して</p><p>いる、無名塾から巣だって行った役者は大勢いる</p><p>仲代達矢さん本名は仲代元久と言ってチャキ</p><p>チャキの江戸っ子である、私が初めて仲代達矢さん</p><p>の映画を見たのが高校生の学生の頃で大阪、道頓堀</p><p>の「浪花座」と言う映画館だった昭和３１年の</p><p>作品で「黒い河」で冷酷なヤクザで通称人斬りの</p><p>ジョーの演技に強烈な印象を受けた、その当時の</p><p>映画スターの美男、美女の殻から抜け出た印象で</p><p>昭和３１年は日活の石原裕次郎さんの太陽族映画</p><p>「太陽の季節」や「狂った果実」が異色スター</p><p>として人気を呼んでいた、裕次郎さん同様</p><p>仲代達矢さんも当時はまだ無名に近かった俳優で</p><p>はあるが仲代さんの声や立ち居振舞いが強烈な</p><p>魅力が脳裏に焼き付き大ファンに成っていた</p><p>その後不思議と仲代達矢さんは名匠や巨匠と言わ</p><p>れる監督に恵まれた黒澤明、市川崑、小林正樹</p><p>監督の昭和昭和３４年から始まった「人間の条件」の</p><p>６部までの一人の人間のヒューマニズムを描いた</p><p>大作に挑み撮影は１年以上に及んだと言う</p><p>人間の条件は何度も見た映画だった</p><p>私が初めて大ファンだった仲代達矢さんにお会い</p><p>したのが仲代さんが初めて東映京都に来たのが</p><p>最初だった１９６５年、昭和４０年の年東映時代劇</p><p>が衰退していくなか起死回生を狙って制作された</p><p>のが沢島忠監督の「股旅、三人やくざ」だった</p><p>此の作品は随分と変わった作品で三人の一人一人を</p><p>描いたオムニバス形式の物語だった共演は</p><p>中村錦之助さん、仲代達矢さん、松方弘樹さんが</p><p>メーンで錦之助の春の章、仲代達矢の秋の章</p><p>松方弘樹の冬の章と言う従来の格好良い股旅物と</p><p>全然違って、強くなく、颯爽としてない旅人で</p><p>あるが。、しかし本当は格好良い強いばかりが</p><p>男じゃない男は心意気が大事だぜ、と言う</p><p>作品だったと思っている、私は秋の章の仲代達矢</p><p>さんの絡みに出演させて頂いたのが最高に幸せ</p><p>だつた、子供の頃から憧れていた大ファンだった</p><p>仲代さんと一緒に仕事が出来ると思うだけで</p><p>役者冥利に尽きると感激していた、唯、後で聞いた</p><p>話だか沢島忠監督はお互い大きな者同志がぶつかり</p><p>合えば迫力が出るからと言う理由だったと聞いた</p><p>確かに仲代達矢さんの身長は１７８センチで私は</p><p>１７５センチ当時の東映京都ではあまり大きな人は</p><p>少なかっただけに監督の言われる理由も解るような</p><p>気がした、初対面の印象は画面でみる姿と真正面で</p><p>みる姿は違っていた仲代さんの作品は全て見ていた</p><p>が「用心棒」「椿三十郎」「天国と地獄」小林正樹</p><p>監督の「切腹」等でみるニヒルで冷たい感じの</p><p>役柄とは違って随分と気さくなお人だった</p><p>立ち回り等の撮影で緊張の連続だったが気さくに声を</p><p>かけて頂き初対面の我々、大部屋の役者にも気持ちを</p><p>和らげてくれる気遣いをされるお人だった</p><p>その折、仲代達矢さんから聞いた話が自分も少年の</p><p>頃は決して恵まれてはいなかったと言っていた</p><p>役者になる前生活のため色々な職業に就いたと</p><p>言っておられた、また暇と金があると映画館や</p><p>芝居見物に通った、そんな日々の中、俳優座の公演</p><p>を見たと言っていた、千田是也氏の芝居の演技に</p><p>感銘を受けた、それが本格的に役者になるきっかけ</p><p>で俳優養成所に第４期生として入所する</p><p>同期生には佐藤允、宇津井健、佐藤慶さん等が在籍</p><p>していた、此の養成所時代に黒澤明監督の「七人の</p><p>侍」にセリフなしの浪人役に採用される、宇津井健</p><p>さんも一緒だった、此の作品が仲代達矢さんの</p><p>映画デビューだった、仲代さん自身が言っていた</p><p>時代劇の歩き方と言う物があることを初めて知った</p><p>と言っていた、黒澤明監督はそれに苛立ち、</p><p>たかがエキストラの歩き方に一日時間をかけて</p><p>しまったと怒っていたと笑いながら言ってた仲代</p><p>さんの姿を思い出す。</p><p><br></p>
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<link>https://ameblo.jp/takesan151105/entry-12766592038.html</link>
<pubDate>Tue, 27 Sep 2022 20:03:31 +0900</pubDate>
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<title>短い東映時代劇役者だった沢村訥升。</title>
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<![CDATA[ 沢村訥升は昭和８年に歌舞伎役者八代目沢村宗十郎の<br>長男として誕生する、8才で歌舞伎の初舞台を踏み、以降<br>歌舞伎役者としての道を邁進する、昭和２８年に五代目<br>沢村訥升を襲名する、歌舞伎役者としての修行を積むなか<br>昭和３１年大映映画の「残菊物語」で映画、デビューする<br>それをきっかけにテレビで活躍する、彼が東映京都に<br>来たのが昭和３５年に剣劇俳優、沢村訥升と名乗り<br>入社してきた、私より１年後輩になるが、唯、違った<br>のは歌舞伎の家柄で当時東映京都撮影所で一番出世する<br>のは(主役、準主役）は家柄(歌舞伎出身）か血筋だった<br>血筋は(ベテラン俳優の息子が娘）だった<br>沢村訥升と言う芸名で入社早々「新諸国物語、黄金孔雀城」<br>４部作に「ふり袖小姓捕物帖」シリーズ<br>「新黄金孔雀城、七人の騎士」３部作等で主役を張る<br>此の作品の他に「怪談、お岩の亡霊」では敵を討つ誠実な<br>藩士役を熱演していた、驚く事に入社１年で１０本以上の<br>作品に出演するほどの人気ぶりを発揮していた<br>映画、テレビと活躍の場を広げて行った沢村訥升だったが<br>昭和３８年に松竹へ復帰していった、元の古巣に帰って<br>行ってしまった、スクリーンでは純情な青年役を多く<br>演じていた沢村訥升だが歌舞伎では女形を得意として<br>その美貌に魅入られた有名な作家谷崎潤一郎は<br>「瘋癲老人日記」の冒頭を沢村訥升賛美の文章で埋め<br>ている、東映京都は僅か３年か４年で退社している<br>その僅かな時間だったが私自身この人と縁があったのか<br>不思議と多くの作品に共演している、特に忘れられない<br>作品は「怪談、お岩の亡霊」と彼の東映京都の確か最後の<br>作品になった北の御大、市川右太衛門さん主演の<br>「旗本退屈男、謎の珊瑚屋敷」だった、此の作品で女形で<br>の立ち回りは絡んでいても凄い迫力のある殺陣で<br>気持ち良く斬られる現場だったのを思い出す<br>３０代をすぎた沢村訥升は其までの艶やかな女形だけでな<br>く女だてらにゆすりや殺人を犯す「鬼神のお松」や<br>「女河内山」と言った悪婆役を特に演じて幅広さを<br>見せ付けていた、その後昭和５１年に九代目沢村宗十郎<br>を襲名して歌舞伎役者として円熟期に入った彼は<br>平成元年から「宗十郎古典歌舞伎復活の会」を開催して<br>古典歌舞伎の魅力を現代に伝える取り組みにも力を<br>入れていたが残念ながら平成１３年にこの世を去って<br>行った、時代劇俳優として東映に在籍して僅か３年か<br>４年であったが女形を得意とした沢村訥升の舞台で見せる<br>豪快な大立ち回りは何度見ても見事であった<br>時代劇ファンのみならず多くの歌舞伎ファンを魅了した<br>私自身も役者を辞めてから歌舞伎の舞台を何度観たことか<br>今でも忘れずに思い出す、遥か昔の東映京都時代の事を<br>思い出している今日この頃である。
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<link>https://ameblo.jp/takesan151105/entry-12763317651.html</link>
<pubDate>Thu, 08 Sep 2022 20:43:30 +0900</pubDate>
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<title>やっと覚醒した我が阪神タイガース。</title>
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<![CDATA[ 自分自身阪神タイガースの絶大なファンに成って７０年<br>近くの歳月が流れた、その間色々な大勢の選手が現れ色々<br>な出来事があったが今年程精神的に神経をいらだたせた<br>年は無かった、2０2２年３月２５日プロ野球ペナント<br>レースが京セラドームで対ヤクルト戦で始まった<br>８対１で楽勝ムードで、ノンビリとビールを飲みながら<br>仲間内で先発の藤浪の調子が良いとか悪いとかワイワイ<br>言いながら見ていた、ところが、ところがである<br>あっと言う間に逆転されてしまった、其からが悪夢の<br>始まりである３月から４月の中頃まで負け続け開幕から<br>９試合の９連敗だオマケニ、セ、リーグのワースト記録を<br>作ってしまった、情けない過去に村山実監督の時代に<br>シーズンの序盤でなかなか勝てずに色々工夫をしながら<br>選手とスタッフが一丸となって勝てた試合で村山実監督は<br>涙を流して喜びを表して感動していた光景を思い出して<br>いる、だが阪神タイガースは何かやってくれると期待して<br>いる昨年ドラフト一位で獲得した佐藤輝が少しずつ調子が<br>上がってきている、４月後半から昨夜までの6連勝<br>何が嬉しいかと言えば巨人戦に３連勝だ、昨夜投げた<br>西純矢投手だ、自分自身は此からの阪神を背負って立っ<br>選手だと応援している、何故なら彼は２０2０年の<br>ドラフト会議で高校生の野球選手で「ビッグ４」と評され<br>た人材だった、例えば今季話題を呼んだ完全試合を達成<br>した佐々木朗希選手や、昨年ヤクルトの優勝の陰の力に<br>成った奥川泰伸選手はドラフト一位指名で獲得した選手達<br>だった、阪神の同僚に及川雅貴選手はドラフト３位だが<br>昨夜の西純矢の投球内容をテレビで見ていると相手を恐れ<br>ず堂々と投げていた、彼自身も同期の者達が此だけ活躍<br>していれば黙って見ている訳にはいかないはずだ<br>遅咲きの桜が此から満開に成ることを願っている<br>唯、一つ残念だったのは矢野燿大監督が今季限りで退団<br>すると言う発言だった、今一つ阪神が伸び悩んだ原因は<br>素人が見ても分かる若手の伸び悩み等、戦力の低下だろう<br>１２球団の中で一番エラーが多いのも一つの原因ですがね<br>何とか５割まで回復出来れば嬉しいのですが、まだまだ<br>１０勝、２０敗、１分です借金がまだ１０もある<br>オールスターまでに五割に成っていれば最高なんだが<br><br>さて皆様に色々過去の出来事や私自身の体験談を書いて<br>参りました、皆々様から暖かい励ましのコメントを頂戴して<br>本当に嬉しく思いました有難う御座いました<br>私自身ブログを書くのは此が最後だと思います<br>皆々様も充分お身体に気を付けられてお元気で過ごされる<br>事を念じております、本当に今まで有難う御座いました。
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<link>https://ameblo.jp/takesan151105/entry-12740588375.html</link>
<pubDate>Mon, 02 May 2022 12:44:25 +0900</pubDate>
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<title>芝居の神様的な存在だった杉狂児さん。</title>
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<![CDATA[ <a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20220429/13/takesan151105/b2/10/j/o1200160015109933382.jpg"><img width="400" height="533" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20220429/13/takesan151105/b2/10/j/o1200160015109933382.jpg"></a><br><a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20220429/13/takesan151105/10/3f/j/o1200160015109933617.jpg"><img width="400" height="533" border="0" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20220429/13/takesan151105/10/3f/j/o1200160015109933617.jpg"></a><br>この人杉狂児さんは喜劇人でコメディアンで有名だが<br>自分自身子供の頃何度もスクリーンで観ていた人だった<br>その人と自分の大部屋時代数えれば切りがないくらい<br>数多くの作品にお付き合いを指せて頂いた<br>初めてお会いしたのが昭和３４年の沢島忠監督、主演<br>若旦那中村錦之助さんの「一心太助、男の中の男一匹」<br>だった、東映京都撮影所の中で一番大きなステージの<br>中に魚河岸のセットが出来ていて一心太助の若旦那<br>中村錦之助さんや星十郎さん他我々大部屋の仲間達が<br>魚屋に扮して魚河岸の中を走り回る活気ある撮影現場で<br>あった共演は大河内伝次郎さん、山形勲さん阿部九州男<br>さん中原ひとみさん丘さとみさん我が師匠月形龍之介先生<br>に杉狂児さん、杉狂児さんの役は一心太助が住む長屋の<br>大家さんで名前が確か源兵衛さん、此の作品で組んで<br>いたセットが潰れるほど大暴れしたシーンがあった<br>それが錦之助さん扮する一心太助と月形龍之介先生扮する<br>大久保彦左衛門家の女中だった中原ひとみさん扮する<br>お仲と二人の結婚式が杉狂児さんの長屋で披露宴が予定<br>されていた、其処へ沢村宗之助さん扮するならず者達が<br>殴り込んで来るシーンが撮影された、源兵衛役の杉狂児<br>さん失礼ながら堺駿二さん同様体格的に小柄なお人で<br>もし怪我でもあったら大変だと気を使いながらの大喧嘩<br>の撮影風景だった、その後何本の作品に御一緒させて<br>頂いた事か、今でも忘れられない杉狂児さんの言葉が<br>ある「普通の仕事の職人でも、石の上にも三年と言う<br>諺があるが。役者は十年の我慢が必要ですよ」とセットの<br>片隅で言って下さった言葉が今でも思い出す<br>特に杉さんとの仕事で一番印象に残っている作品は<br>師匠の月形先生の「水戸黄門」「水戸黄門、天下の副将軍」<br>「家光と彦左と一心太助」等に色々と御指導をして戴き<br>ました、心に残る俳優さんであり役者さんでした<br><br>杉狂児さんの前身を申しますと九州は福岡県の出身である<br>中学校を中退して東京に出て新聞配達をしながら<br>東京音楽学校神田一ツ橋分教場声楽科にするが大正十年<br>に中退して、奇術の一座に入り地方まわりをしていた<br>その後、ある人の紹介で大正十二年にマキノ等持院撮影所<br>に入社する、俳優修行として、ある女優の付き人をして<br>大正十三年に杉京二と名乗り「血は躍る」で映画デビュー<br>する、その後期間をおいて続く作品「踊れ若者」で主役に<br>抜擢される大正十四年に杉狂児に改名して東亜から独立<br>したマキノ御室撮影所へ移籍して大男の中根龍太郎とチビ<br>の杉とのコンビを売り物にした「糸の切れた風船玉」等で<br>杉狂児さんはアメリカの喜劇王、ロイドさながらの<br>センスを持ったコメディアンとして注目を浴びる、以降<br>将来大監督となるマキノ雅弘さんが当時俳優として<br>マキノ正唯の芸名で活躍していた頃、杉狂児さんと<br>マキノ正唯のコンビ作品、「喧嘩日記」や異色の怪談<br>時代劇「どんどろ堀」等、主に喜劇映画で活躍を続けた<br>昭和に入り時代劇や現代劇ともに数多くの作品で張って<br>いた杉さんは昭和四年の「熱砂の舞」で監督を努めた他<br>昭和十年の歌謡映画「のぞかれた花嫁」では音楽学校<br>出身のキャリアを生かして主題歌を担当して多彩な才能<br>を発揮して人気スターとしての地位を不動のものと<br>していた人だった、私自身は俳優として一人の人間として<br>尊敬していた素晴らしいお人でした<br>私自身は今年の三月心筋梗塞で入院して無事に退院<br>出来たが、杉狂児さんは昭和五十年同じ心筋梗塞のため<br>享年七十二歳でこの世を去っていきました。
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<link>https://ameblo.jp/takesan151105/entry-12740091681.html</link>
<pubDate>Fri, 29 Apr 2022 13:31:23 +0900</pubDate>
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