<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom">
<channel>
<title>「非」公認心理師の部屋</title>
<link>https://ameblo.jp/team-azyll/</link>
<atom:link href="https://rssblog.ameba.jp/team-azyll/rss20.xml" rel="self" type="application/rss+xml" />
<atom:link rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com" />
<description>臨床心理士です。公認心理師制度をめぐる諸々のよしなしごとについて綴っていきたいと思っています。</description>
<language>ja</language>
<item>
<title>公認心理師試験と「不適切問題」</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　第１回の公認心理師試験では「不適切問題」が指摘され、厚生労働省が「お詫び」の声明を出したが、今回はどうだったのだろう？</p><p>&nbsp;</p><p>　そもそも心理の臨床に関わる職に就く人を選抜するのに◯✖️式の試験で採点するというのは、そもそも意味があるのだろうか？言葉を変えると◯✖︎式問題で心理臨床の専門家を選抜することが、そもそも適切なことなのだろうか？</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>公認心理士制度を推進してきた丹野義彦は、</p><p>「試験問題のうち、ケース問題を可能な限り多く出題する」と規定。 医師の事例問題なら正解が決められる。 しかし、心理師の事例問題は、正解がひとつに定まらない。 これまでの臨床心理士資格試験の事例問題をみても、&nbsp;結局は国語力で解ける問題となり、技能の試験ではなくなる」と述べている。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　これは、まさに「科学主義」的な見解だといえる。自然科学の領域であれば、「真理」はただ一つしか存在せず、それ以外はすべて誤りだということになる。その方法を人間の心に関わる領域にそのまま持ち込むことが可能だといえるだろうか？　また、単純な科学主義を持ち込むことで、これまで心理臨床の現場でコツコツと培われてきた努力や営みが毀損されかねないという危惧がある。</p><p>&nbsp;</p><p>丹野は「対策」として、以下のようなことを述べている。</p><p>&nbsp;</p><p>対策</p><p>⇒事例問題を作るときは、臨床心理学だけでなく、5領域関係者( とくに医療関係者)、基礎心理学者を交えて、慎重に検討すべき ⇒事例問題の割合は少なくするべき。(試験後に不適切問題が発覚することは、国家試験として恥ずべき こと。これだけは避けるべき)</p><p>&nbsp;</p><p>　要するに、公認心理師試験の問題には、医学・生理学的問題やら、心理学科の基礎科目やら「正答」が一つしか存在しないような問題を出せ、というわけだ。こうなるとこの試験に出題されるのは、医学・医療分野の初歩的知識や、入門的心理学の知識を中心に出題しようというわけだ。これなら単純に◯✖︎式採点が容易になる。</p><p>&nbsp;</p><p>　しかし長年、心理臨床に関わってきて、学部で学んだような実験心理学や認知心理学などのいわゆる「科学的」な心理学の知識が臨床場面で実際に余り役に立ったという実感はほとんどない。それよりも心理学以外の哲学や文学、人類学など人文科学的な知識や、映画や小説や童話に触れて得た示唆の方がよほど臨床の役に立った、というのが実感である。臨床心理学というのはそういったもので、科学的な心理学とは軌を異にする学問であると言って差し支えないだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>　そして、人間の心は人によって異なるものであるし、同じ個人でも置かれた環境や対人関係などをめぐる状況や関係性の文脈によっても異なるので、唯一絶対の「正答」が存在するという前提にすること自体が不合理であるし、「不適切」と言うべきだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>　だから、問われるべきは公認心理師試験をマークシートの◯✖︎式問題で行う、あるいは◯✖︎式問題で選抜が可能であるとする見解が、心理臨床の従事者を選抜する場面において、果たして「適切」なのか「不適切」なのかということではなかろうか？</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/team-azyll/entry-12519501152.html</link>
<pubDate>Tue, 03 Sep 2019 14:59:45 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>アジール(無縁)について</title>
<description>
<![CDATA[ <p>「アジール(azyl)」とは、聖域ないしは避難所を意味するドイツ語の言葉で、そこに逃げ込めば世俗の社会で負った様々な債務や罪過から逃れることが許される場所のことである。そのようなアジールが中世ヨーロッパにはいたるところに存在した。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp; 我が国でこのアジールに意味的に近いのが、歴史学者の網野善彦が指摘した「無縁」とか「苦界」と呼ばれる場所である。鎌倉から室町時代にかけて日本中の随所にこのような場所が存在した。「無縁」となったのは、河原や港（津）、道路などの公共性のある場所で多種雑多な多くの人々が往来するような場所や、特定の神社仏閣などであった。無縁の場として今でもよく知られているのが「無縁寺」すなわち駆け込み寺である。</p><p>&nbsp;</p><p>　江戸時代、夫婦は妻の方から離縁を申し出ることは許されなかった。唯一の例外が、女性自身が駆け込み寺に逃げ込むことであった。追っ手に追われて逃げ込むことができなくとも、片方の履物が寺の門内に投げ込まれれば「駆け込み」の訴えは受理されたと聞く。</p><p>&nbsp;</p><p>　私が注目しているのは、アジールも「無縁」も自然と強く結びついているということである。網野によれば無縁の場に逃げ込むことを「山に入る」という言い方をすることが多かったという。網野の見解によると、「山（自然）」が無縁の機能を果たすようになったというよりは、もともと自然の中には「アジール性」が潜在していて、それゆえに昔から人をして、「山（自然）に入る」という言い方をさせたのだということである。そういえば、自然の森の中に入ったときの爽快感、薄暗さ、不気味な感じなどがないまぜになった『異界』感」は「無縁（アジール）」と深く繋がっているいると思う。</p><p>&nbsp;</p><p>　私は心理臨床の場は本来アジールであるべきであり、アジール性を持っていることが大切だと考えてきた。心理臨床の場を訪れるクライエントは、「俗なる」外の世界で様々な重荷を背負い込んだり傷ついたりして、心理療法の面接室という場にいわば「逃げ込んで」来た人たち、避難してきた人たちである。だから、面接室はクライエントにとって「俗」なる日常や対人関係など外の世界と一線を引くことのできる「聖」なる場所であることが大事である。心理臨床の面接室が俗なる外の世界とは隔絶された空間となることによって、クライエントはそれまで抱えさせられてきたしがらみや重荷、不安から解放され自由になることが許される。</p><p>&nbsp;</p><p>　いわゆる「治療構造」を守ることの意義の少なくともひとつはこの点にあると言ってもいい。治療の場がクライエントにとって十分にアジール、無縁の場であることができないときは、クライエントが背負ったり引きずっている世俗（日常）のしがらみや、人間関係、価値観や倫理観に縛られてしまっているとみなされる。</p><p>&nbsp;</p><p>　筆者が非常勤で臨床実習を担当している大学院では、「治療構造」というと、時間を守るとか、礼儀作法とか、どちらかというと表面的な構造の側面にやや力点が置かれ過ぎているように感じる。当然それらは必要なものではあるのだが、臨床心理学の専門大学院で2年で数百万円という学費を納めて身につけるのが、そういったことでは余りにもったいないように思う。マナーとが常識的な立ち居振る舞いといったようなことは、気の利いたアルバイト先なら仕込んでもらい、働きながら身につけることができることだ。しかも、バイト代がもらえて「授業料」を払う必要もない。大学院の教員はそれ以外がことも担う必要があるだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>　私は、いわゆる「治療構造」を守る責任を負う心理臨床家は、このアジール性、無縁ということの意味を自覚し大切に守る必要があると考える。そのためには治療者自身が、アジール性、無縁性を普段から大切にしている必要があり、それについて常に考え、自分なりのとりあえずの知見を持つ必要があると思う。</p><p>&nbsp;</p><p>　すぐれた臨床家の事例を読んだりしていると、「アジール」とか「無縁」という概念には少しも言及していなくても、治療の場のアジール性、無縁性を大切にしていることを感じることができるし、クライエントと治療者にとってのアジール性を守ることがいかに重要かということを考えさせられる。</p><p>&nbsp;</p><p>　さらに言うと、臨床心理学以外の哲学や社会学などの他の学問領域、あるいは芸術家の営みの中にも「アジール性」の大切さを教えられることが多い。むしろ最近の臨床心理学や心理療法の文献よりも、そういった領域で考えたり創造の営みを実践している人から教えられ、気づかされることの方が多いように思う。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/team-azyll/entry-12508385391.html</link>
<pubDate>Sun, 18 Aug 2019 13:08:04 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>「東大話法」について</title>
<description>
<![CDATA[ <p>安富　歩「原発危機と東大話法～傍観者の論理・欺瞞の言語～」を再び読んでいる。</p><p>この「東大話法」、別に東大だけでなく他の大学や役所でもよく用いられる話し方なのだが、やはり東大には多そうな気がする。</p><p>　大学を問わず、大学に限らず、心理臨床の界隈でも最近、耳にしたり目にしたりすることが多くなって来ているように思う。</p><p>&nbsp;</p><p>（１）『自分の信念』ではなく、『自分の立場』に合わせた思考を採用する。</p><p>（２）自らの立場の都合のよいように、(自分勝手に）相手の話を解釈する。</p><p>（３）(自説にとって）都合の悪いことは無視し、(自分にとって）都合の良いことだけに返事する。</p><p>（４）都合の良いことがない場合には、関係ない話をしてお茶を濁す。</p><p>（５）どんなにいいかげんでつじつまが合わないことでも(タレント政治家橋下徹のように）自信満々で話す。</p><p>（６）自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。</p><p>（７）その場で自分が立派な人だと思われることを言う。</p><p>（８）自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。</p><p>（９）『誤解を恐れずに言えば』と言って、うそをつく。</p><p>（１０）スケープゴートを侮辱することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。</p><p>（１１）相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。</p><p>（１２）自分の議論を『公平』だと無根拠に断言する。</p><p>（１３）自分の立場に沿って、都合の良い話を集める。</p><p>（１４）羊頭狗肉。</p><p>（１５）わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。</p><p>（１６）わけのわからない理屈を使って相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。</p><p>（１７）ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。</p><p>（１８）ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。</p><p>（１９）全体のバランスを常に考えて発言せよ。</p><p>（２０）『もし○○○であるとしたら、おわびします』と言って、謝罪したフリで切り抜ける。</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/team-azyll/entry-12503453276.html</link>
<pubDate>Fri, 09 Aug 2019 17:38:34 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>「結局は国語力で」と国語で言ってのけることについて</title>
<description>
<![CDATA[ <p>公認心理資格を推進してきた丹野慶彦氏の日本心理学会シンポジウムでの発言</p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-weight:bold;">「試験問題のうち、ケース問題を可能な限り多く出題する」と規定。 医師の事例問題なら正解が決められる。 しかし、心理師の事例問題は、正解がひとつに定まらない。 これまでの臨床心理士資格試験の事例問題をみても、 <span style="color:#ff0000;">結局は国語力で解ける問題となり</span>、技能の試験ではなくなる</span></p><p>&nbsp;</p><p><span style="font-weight:bold;">対策</span></p><p><span style="font-weight:bold;">⇒事例問題を作るときは、臨床心理学だけでなく、5領域関係者( とくに医療関係者)、基礎心理学者を交えて、慎重に検討すべき ⇒事例問題の割合は少なくするべき。(試験後に不適切問題が発覚することは、国家試験として恥ずべき こと。これだけは避けるべき)</span></p><p>&nbsp;</p><p>（丹野慶彦　日本心理学会シンポジウム　2017年）</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>「結局は国語力で解ける問題」ということを日本語（国語）で言っているところが面白い。確かに、心理臨床は言葉、すなわち国語を使わないとできない。言葉を使って行なうものだし、それについて研究するときも国語力を用いてするしかない。</p><p>&nbsp;</p><p>「誰もが納得できる事例問題を作るのは困難。」</p><p>この点については、「そりゃ、そうだろう」、と言うしかない。そもそも心理療法・カウンセリングの事例について論じるのに、「誰にでも納得できる」回答が存在することを前提するこができるのだろうか？　あったとして、そんなものが心理療法とは呼べるものなのだろうか？</p><p>&nbsp;</p><p>　また「国語力」を要しない「技能」だけを持っている人に心理臨床ができるのかは甚だ疑問としか言いようがない。◯✖️式（マークシート）の試験だけで選抜されるは、結局は◯✖️式問題解答能力の高い者だけになるだろう。まあ、これからは教育産業が開発した受験テクニックのヘビーユーザーたちが公認心理師試験の合格者の多数を占めるようになることは予想される。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>丹野氏の言説に触れて、神田橋條治先生の次の言葉が想起された。</p><p>&nbsp;</p><p>---<span style="font-weight:bold;">あの◯✖️式試験で育てられる心理士も、その心理士との面談が終わった後、家路をたどる来談者も、内なる優しさや自尊心や未来への夢を失って、「保育器のようなレタス工場で育ったレタス」や「生簀で養殖されたブリ」と同じ「いのち」になるはずだと直感したのでしょう。</span>---</p><p>&nbsp;</p><p>増井武士、「来談者のための治療的面接とは」ー心理臨床の「質」と公認資格を考えるー</p><p>の序文</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>真に「国家試験として恥ずべこと」は、あの◯✖️式問題の点数だけで心理臨床に携わる者を選別できると思い込むことではないだろうか？</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/team-azyll/entry-12500707117.html</link>
<pubDate>Fri, 02 Aug 2019 21:36:04 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>「開業臨床心理士の仕事場」より</title>
<description>
<![CDATA[ <p>「開業臨床心理士の仕事場」（金剛出版）という本を読んでいる。</p><p>2012年に出版された本で、渡辺雄三氏の書かれた序章の一部をここで引用させていただく。</p><p>&nbsp;</p><p>---現在の日本臨床心理士会の理事の一部には、「開業」という言葉に対する強い批判や抵抗があるらしい。筆者は2003年度より2009年まで日本臨床心理士会「開業領域委員会」委員を務めたが、2006年度からはこの会を「私設心理相談委員会」に改称するようにと、上層部よりの指示があった。「開業」という言葉に思い入れのある筆者は、この指示に誰よりも強く反対したが、しかし、当時の河合隼雄日本臨床心理士会会長の政治的決断により理事会で決定され、結局、改称されれることになった。筆者の知る限りでは、この背後には、「開業」という用語使用に対して強い不快感を持つ精神科医・精神医療サイドを代弁するグループがあり、そして、現在も続いている臨床心理職の国家資格化を推進するためには精神科医・精神医療サイドと対立するのは好ましくなく、妥協もやむを得ないという政治的判断があったと聞いている。（中略）筆者が拘るのは、「開業」という個人開業臨床心理士のアイデンティティを成す言葉を、しかも決して医学・医療の独占物でない言葉を、精神科医・精神医療サイドからの強い反対によって変更せざるを得なかった経緯に対してである。----（18頁）</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>---また臨床心理士の世界で「開業」という言葉が市民権を持つことに対して、精神医学・精神医療サイド、ことに精神科クリニックや病院の経営者が、ひどく抵抗し、強い不快感を持ったのは、まずは何よりも経済的に脅かされるという不安だったらしい。筆者には、被害妄想と言いたくなるような危機感、恐怖感に思われるが、逆に、それまでは社会的に一人前の職業と認められていなかった臨床心理士の仕事が、ようやく独立した職業として名乗りを上げて精神医療を（一匹の小さな蟻に大きな像が動転するするが如きのことだが）脅かすところまで成長してきた証とも言える（精神医学・精神医療サイドが経営的な面から怖れているのは、個人開業よりも、大勢の臨床心理士を雇用したもっと大規模な開業形態が拡大することに対してかもしれないが、だからといって「開業」という言葉を制限しようとするのは全く不当なことである）。また、本章の文脈に沿って深読みすれば、これは単に経営的な危機意識や被害感にとどまらず、臨床心理士が、「こころ・からだ」について苦しみ悩む人々を手助けする根源的モデルを、医療制度や教育機関、社会的組織などに頼らずに「開業」という形で独立して実践することに対する苛立ち、不快感、もっと立ち入れば、現在の精神医療がそれを果たしていないことへの後ろめたさが、潜在しているのではないかという気もする。いずれにしろ、われわれは、精神医学・精神医療サイドからの圧力に抗して、「自分の店を持つ・自分の店を開く」の原義的な意味で、開業という言葉にアイデンティティと誇りを持って使用していきたい。---(19頁）</p><p>&nbsp;</p><p>--臨床心理士が個人開業することの第一の意義として、公共機関や医療機関、学校、企業などの上部組織の管理、支配、権限、政治的動向に左右されず、独立して安定した心理面接・心理療法をクライエントに提供できることを、まず挙げておく、筆者も経験したことだが、医療内部では、主治医の意向や主治医の交代によって心理療法が継続できなくなったり、病院での管理体制や物理的構造によって面接時間や面接場所などの治療構造もクライエントに安心して提供できないことがある。---(21頁）</p><p>&nbsp;</p><p>　これを読んで、開業心理療法が、今日の精神医療や学校組織とは独立して存在することには、アジールとしての役割を果たしているのだと思った。「アジール」とは「聖域」とか「避難所」を意味するドイツ語で、中世ヨーロッパ世界にはいたるところに社会の窪みのようなアジールが存在した。日本の歴史の中には「無縁」とか「公界（くがい）」とか呼ばれる場所があって、そこに逃げ込めばこの世の罪過の追求や経済的負債から逃れることができる場所が特に鎌倉・室町時代を中心とした日本の中世社会には存在した。私は開業心理臨床の場がアジールであるばかりではなく、心理療法の場そのものがアジールとしての役割を果たす使命を帯びていると考える。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/team-azyll/entry-12500640142.html</link>
<pubDate>Fri, 02 Aug 2019 17:34:24 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>「社会の医療化」が問題視される中での発言「精神科医にも拳銃持たせて」という声が</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　</p><p>社会の医療化が問題視されている。</p><p>　経済的な「生きづらさ」や「ブラック」な働かされ方によって心を病み、抑うつ的になり、うつ病を発症して自殺企図に至るーーーというような問題も医療的処遇によって解決しようとする方向性（いわゆる精神医学の生物主義化）は考え直した方がいい。</p><p>　</p><p>「うつ病」を脳神経系伝達物質の作用というレベルでのみ考える医者が出現するようになったのは、新たな抗うつ薬が開発され、それが一定の「効果」を生んでいることを背景にしているのだろう。こうして、今やうつ病治療の中心は薬物治療ということになっている。向精神薬の処方箋を書けるのは医師だけになので、人口減少の中での患者の増加は、医師、特に精神科医にとっては大きな収入増になるだろう。それだけなく、精神科医の社会的な存在感を増すことにもなっている。</p><p>&nbsp;</p><p>　しかし、ブラックな労働条件でうつ病に罹っても、抗うつ剤を服用しながら働かざるをえない社会ってどれほど「ブラック」</p><p>な社会なんだろうか、とも思わないではいられない。</p><p>&nbsp;</p><p>　病んだ患者にとって医師というのは、いわば生殺与奪の実験を握られた対象となる。とりわけ、精神を病んだ患者にとって医師の存在、その存在の放つ言葉というのは実に強大かつ絶対的な力を振るうものであろうか。それだけに精神科医の社会的な立ち位置、人間社会に対してとっている精神科病院のスタンスというようなことに対しては、常に重大な関心を注いで見守っていく必要がある。</p><p>&nbsp;</p><p>　そういう中での朝日新聞の報道。</p><p>　</p><p>（朝日新聞デジタルからの引用）</p><p>「全国の<a href="http://www.asahi.com/topics/word/%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%A7%91%E7%97%85%E9%99%A2.html" title="精神科病院のトピックスを開く">精神科病院</a>でつくる「日本<a href="http://www.asahi.com/topics/word/%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%A7%91%E7%97%85%E9%99%A2.html" title="精神科病院のトピックスを開く">精神科病院</a>協会」の山崎学会長が、協会の機関誌に寄せた文章で「<a href="http://www.asahi.com/topics/word/%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%A7%91%E5%8C%BB.html" title="精神科医のトピックスを開く">精神科医</a>にも拳銃を持たせてくれ」という部下の医師の意見を引用していたことが分かった。意見は医療現場での患者の暴力について言及したもので、患者や支援者からは「患者を危険な存在と決めつけている」などと批判の声が上がっている。</p><p>　患者を支援する「<a href="http://www.asahi.com/topics/word/%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%A7%91%E5%8C%BB.html" title="精神科医のトピックスを開く">精神科医</a>療の身体拘束を考える会」代表の長谷川利夫・杏林大教授らは２２日、<a href="http://www.asahi.com/topics/word/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%B8%AF%E5%8C%BA.html" title="東京都港区のトピックスを開く">東京都港区</a>の協会事務局を訪ね、公開での意見交換会の実施などを求めた。担当者は「役員に伝えます」と答えたという。</p><p>　文章は協会機関誌の「協会雑誌」５月号（同月５日発行）の巻頭言。山崎会長は、自身が理事長を務める<a href="http://www.asahi.com/area/gunma/" title="群馬県のトピックスを開く">群馬県</a>内の病院の医師が朝礼で話した内容を「興味深かった」として引用した。</p><p>　医師は、精神疾患の患者への行動制限を減らす試みが世界の医療現場で進む一方、米国では患者の暴力に対応するため武装した警備員が病院におり、暴れる患者を拘束したり拳銃を発砲したりした事例もあると説明。「もはや患者の暴力は治療の問題ではなく治安問題」などとし、「僕の意見は『<a href="http://www.asahi.com/topics/word/%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%A7%91%E5%8C%BB.html" title="精神科医のトピックスを開く">精神科医</a>にも拳銃を持たせてくれ』ということです」と述べたという。</p><p>　山崎会長の見解は直接書かれていないが、巻頭言の文末では患者の暴力に対応するため、協会として「<a href="http://www.asahi.com/topics/word/%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%A7%91%E5%8C%BB.html" title="精神科医のトピックスを開く">精神科医</a>療安全士」の認定制度を検討していることも紹介している。</p><p>」<a href="https://www.asahi.com/articles/ASL6Q5KH0L6QUCLV00Y.html" target="_blank">https://www.asahi.com/articles/ASL6Q5KH0L6QUCLV00Y.html</a></p><p>&nbsp;</p><p>　ちなみに、この山本學会長は安倍総理の親しいゴルフ友達であり、津久井やまゆり園で虐殺事件が起きた直後に安倍総理が真っ先に相談した相手だと聞いている。相談の内容は精神医療を受けた患者への処遇についてであったという。気にかかるのは、その時期であり、相談をしたのが事件直後であり、その当時は海外の首脳たちががこの痛ましい虐殺事件に心を痛めて次々と見舞いのメッセージを寄せてきていた、まさにそのタイミングにしていたことがそれだということである。</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/team-azyll/entry-12499122035.html</link>
<pubDate>Mon, 29 Jul 2019 19:08:41 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>「合理的な神秘主義」と「神秘的な合理主義」</title>
<description>
<![CDATA[ <p>　今回の参議院選挙で一番の驚きだったのは、あの安冨歩が「れいわ新選組」の比例区候補として立候補したことだった。そして、安冨を担ぎ出した山本太郎の人を見る目の確かさにも思わず膝を叩いたものだった。</p><p>&nbsp;</p><p>　話題は選挙のことではなくて、安冨歩著の「合理的な神秘主義」（青灯社）という著作について。</p><p>この本の中で安冨は次のように述べている。</p><p>&nbsp;</p><p>「世界を支える神秘の力を前提とし、その発揮を阻害し抑圧するものを、合理的・科学的方法によって排除する。</p><p>このような戦略が『合理的な神秘主義』に他ならない。</p><p>　この概念は、それと対照的な「神秘的な合理主義』と比べて考えるとわかりやすいと思う。学問的知識と称するものの客観性あるいは確実性をアプリオリに前提し、それを身につけた「専門家」が正しく、専門用語を駆使できない「素人」は、そもそも発言権がない、というような思考方法が、私の言う『神秘的な合理主義』である。いわゆる合理的科学的方法に絶対的な価値を与えるなら、それ自体が『神秘的』な態度である。合理主義に神秘的なまでの価値を与えるような迷信が『神秘的な合理主義』である。</p><p>&nbsp;</p><p>　これを読んで、心理臨床の周辺でも最近やたらと跳梁跋扈している、『エビデンス』信仰や、物質（モノ）の世界でしか通用しそうにない『科学主義』を心の世界に安易に持ち込めると信じる迷信的な思考を想起した。もっとも数量化されたデータや人間の認知プロセスは『モノ』であるから科学主義とは矛盾しない。しかし、人の心は決してそういったような『モノ』ではない。</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/team-azyll/entry-12498901134.html</link>
<pubDate>Mon, 29 Jul 2019 01:20:50 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>「尊王攘夷」って!!???</title>
<description>
<![CDATA[ <p>公認心理師資格推進の中心メンバー（と見受けられる）人物による文章の中で意味不明で気になる文章があった。</p><p>&nbsp;</p><p>「この期に及んで従来のモデルに固執し、新たな展開に棹さすことがあるとするならば、それは、江戸時代の末期に尊王攘夷の御旗の下、諸外国の要求を無視して旧態を保持しようとして頓挫した時代錯誤の行動にもなりかねない。時代は社会も大きく変化している。残念ながら、過去の遺産で食べていけるような甘い時代ではな苦なっているのである。」</p><p>&nbsp;</p><p>まずは、日本語の初歩的な間違いから、</p><p>「棹さす」という言葉を間違って使っておられる。このままだと「従来のモデルに固執し、新たな展開にうまいこと乗っかっていく」という意味になってしまう。著者は「逆らう」と言いたかったのだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>問題の「尊王攘夷」だが、そもそも「尊王」と「攘夷」とは別々のことである。</p><p>この文章の文脈だと歴史上で、「尊王攘夷」が誰で、「棹さす」のが誰なのかよく分からない。どちらが公儀徳川家（「幕府」という名称は明治政府による造語である）なのか、薩摩、長州を喩えてのことなのか、理解し難い。</p><p>&nbsp;</p><p>　19世紀後半、西欧列強諸国は東アジアに覇権の手を伸ばそうとしていることを、公儀徳川家は十分に認識していた。そもそも江戸時代の日本が「鎖国」状態であったというのは、薩長中心の明治政府が捏造したプロパガンダであった。当時の日本は長崎だけでなく対馬、松前、薩摩（琉球）のいわゆる「四口」を通して公益を続けていたし、公儀は西欧諸国の情報にも通じていた。公儀の役人は今日の官僚と比べても決して遜色ない優秀なテクノクラートであった。例えば、「黒船来航」当時のアメリカが南北戦争後で経済的疲弊していることや、ペリーの米国内での評価がそれほど高くないという情報も掴んでいたし、そういう情報を背景として米国使節団と渡り合い、ギリギリの交渉を行って５％の関税という最恵国並の条件で米国と通商条約を結ぶことができた。</p><p>&nbsp;</p><p>　一方、薩長、特に長州の吉田松蔭、桂太郎などは、当初は攘夷派、すなわち排外主義的であった。もっとも藩主毛利公は「関ヶ原以来の徳川への恨み」は代々抱いていたらしいが。攘夷派の中心は桂や吉田らの、当時二十代の「跳ね返り」分子であった。毛利家の殿様でさえ命が惜しくて「見て見ぬ振り」をしなければならなかった過激ぶりであったと聞く。他方の薩摩藩主島・津久光は佐幕派の重鎮で、その娘を徳川家に嫁がせるほどであった。一方「長州の不逞浪人」は京の都で殺人、強盗、強姦など、乱暴狼藉の限りを尽くした、いわゆるテロリスト＝ならず者集団であり、終いには天皇を長州に拉致しようとして「蛤御門の変」を引き起こすに至る。長州や土佐、後には薩摩の脱藩藩士の乱暴狼藉を憂えた公儀に京都警護に乗り出し、その任に当てられたのが親藩である会津の松平容保であった。孝明天皇の親任の厚かった会津藩主松平容保は開明的な藩主であり、諸外国の事情にも通じていた。長州は「攘夷」をとなえて天皇に迫り「蛤御門の変」を起こして史上初めて御所に大砲を打ち込んだが、薩摩、会津、桑名藩らによって撃退されてしまい、結局「朝敵」となってしまう。これが後の「長州征伐」につながる。だから、長州は「攘夷」ではあっても「尊王」とは言い難い。孝明天皇の急死も長州の仕業、すなわち暗殺ではないかという噂が未だに消えない所以もそこにある。</p><p>&nbsp;</p><p>　だいたい、その後の長州の天皇に対する態度は、「尊王」とは程遠く、単なる「玉」として利用したがり、実際に利用しただけだといえる。その態度は、長州出身の現在のこの国の総理大臣にも受け継がれており、いわゆる「長州レジーム」として脈々と今日まで続いている。</p><p>&nbsp;</p><p>　ところがその後長州は下関沖を航行する英仏の外国船を一方的に砲撃して、いわゆる「下関戦争」を引き起こすが、英国に圧倒されて負けてしまう。それだけでなく、外国人を暗殺したり、横浜の在外公館に放火をしようとしたりしたため、結局は英国につけ込まれる隙を与えてしまうが、あろうことか英国はそのツケを公儀に回したのだった。そのため、公儀徳川の官僚が苦労して取り結んだ関税条約をご破算にして、英米仏にその改訂を迫る口実を与えてしまい、結局は20％という不平等な関税率を相手国に許してしまうことになり、そのことが、その後数十年にわたって、日本の財政を脅かすこととなる。</p><p>&nbsp;</p><p>　その上、英国に「弱み」を握られた長州はそれまでの「攘夷」を一挙に翻して「開国」主義への豹変する。そして徳川憎しと「倒幕」へと勢いづき、英国から高額の武器を輸入させられることになる。その資金は、実は　馬関（下関）での密貿易で得た多額の資金であった。（公儀徳川の開国を避難し攘夷を唱えながらである。）</p><p>&nbsp;</p><p>　薩摩も長州と同じように、薩英戦争を仕掛けてコテンパンに負けてしまい、開国へと舵を切り替えたところまでは長州と似た経過を辿るが、明治に入ってから「西南の役」で賊国へと追いやられることになり、結局、明治維新は長州の一人勝ちとなってしまう。</p><p>&nbsp;</p><p>　結局は、江戸幕府の開国、それから江戸の無血開城ということがなければ、江戸は火の海となり、日本中が戦火に巻き込まれていた。英国はそれによって薩長に武器の爆買いをさせる目論見であったが、残念ながらその計画は頓挫することになる。しかし、その後も英国は明治政府の背後で糸を引き、日清、日露の戦争で英国は莫大な利益を得ることになる。第二次大戦後は、その英国がアメリカに変わっただけ、ともいえる。</p><p>&nbsp;</p><p>　というような歴史的な経過を見てみると、下山氏の言う「諸外国の要求を無視して旧態を保持しようとして頓挫した時代錯誤の行動」というのは、公儀徳川家の方なのか？それとも薩摩、長州の方なのか、さっぱりわかりかねるのである。また、「諸外国の要求」とは、帝国主義的な覇権を拡大し日本の植民地化を狙っていた英国などの西欧列強の要求のことであろうか？今日でいえば、「アメリカファースト」を喚き続けるトランプのアメリカがそれに当たるだろう。</p><p>&nbsp;</p><p>　「旧態を保持」の「旧態」とは何のことか？　</p><p>　薩長、特に長州は明治に入って様々な「革新的」な破壊を行なった。その最たるものが「廃仏毀釈」である。日本人が1500年にも渡って心のよりどころとしてきた神仏習合の仏教に対して熾烈な破壊行為を行なった。それによって国家神道と天皇制国家主義が生まれ、後の軍国主義化、世界大戦へと繋がっていった。</p><p>&nbsp;</p><p>　臨床心理学は若い学問で未だに確立されたとは言い難い。一方、下山氏のいう「生物ー心理ー社会」モデルは1960年代に始まる精神医学の生物主義化とどこが違うのだろうか？少なくとも臨床心理学よりもこちらの方がずっと古いと言えるのではないだろうか？</p><p>　もっとも個人の心に対して支援の手を差し出すのは、従来はシャーマンや呪術師、教会の牧師や神父、お寺の僧侶が担ってきた。「内観療法」のように仏教にルーツを持つ心理療法もある。だから、こちらは古いと言えば相当古い伝統を我々は引き継いているとも言える。一方、「エビデンス」「客観性」を強調する（自然）科学主義は、長く見積もってもデカルト以来なので、たかだか400年ほどの歴史しかないことになる。科学も人間が世界を探求し、研究するときに用いる「作法」の一つでしかないと言うべきであろう。</p><p>&nbsp;</p><p>　原発事故などの環境問題や戦争、人を育て、癒すはずの教育、医療の現場においても、科学主義に基づく操作の弊害は眼に余るほどになっている。科学とその所産であるテクノロジーの進歩が必ずしも人間を幸福にするものではないということは、今日では世界を見渡せば、もはや自明な認識であろう。同様な過ちを心理臨床家の養成の領域にも持ち込もうというのなら、そこに見えるのはディストピアの世界と言わざるを得ない。</p><p>&nbsp;</p><p>　私の記憶では、下山氏は彼が修士の学生であった頃、東大の先輩の先生が主催されていた「箱庭療法」の研究会で何度か顔を見たことがある。個人の内面にアプローチできない臨床家がコミュニティー・アプローチを推進して、社会の中でクライエントのために働けるのだろうか？</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>（「特集にあたって」下山晴彦、臨床心理学11巻１号,３頁〜　2011）</p><p>&nbsp;</p>
]]>
</description>
<link>https://ameblo.jp/team-azyll/entry-12498773854.html</link>
<pubDate>Sun, 28 Jul 2019 18:58:04 +0900</pubDate>
</item>
</channel>
</rss>
