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<title>我が来世への遺言</title>
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<description>我、輪廻からの解放を求め、いまだ達せず。老い重なるも煩悩多く寿命残り少なし。来世の我に我これを遺さん。</description>
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<title>[第三回] あなたは身心ではない！</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size: 14px;">それでは、<br>お釈迦様はこれらの疑問に対してどのように説いておられるのであろうか？<br>別のお経で説かれているものもあるが、残念ながら、疑問の多くは、説かれていないのである。<br><br>なぜか？理由として次のようなことがあげられている。<br><br><strong>①</strong> <strong>解脱</strong>に役立たないことは説かれなかった。<br>もし、解脱することに役立たないもの、あるいは解脱した者でないと分からないことを説いたならば、<br>それについて弟子たちはそれについて議論を始め、解脱への取り組みが<br>おろそかになる。<br>…から、という理由である。<br>（余談であるが、これは人間の本性として、誰もが「私」という「個」の喪失につながる解脱を<br>求めているわけではなく、無意識に解脱を先延ばしするため、解脱の追究よりも議論の中へ<br>逃亡を企てることが多いからと思われる。…詳しくはまた別の機会に）<br><br><strong>②</strong> <strong>「我」</strong>という決して知覚され得ない主体は、論ずる対象ではないという考え方からである。<br>つまり、知覚されるもの（対象・客体）は決して<u>「我」でも「私」でもない。</u>　<br>逆に、他を知覚する主体である「我」は<strong>知覚不能</strong>なものである。<br>それゆえ、誰もが客観的に知覚できない主体は論議の対象としてはならない。<br>…という考え方からである。<br><br>通常、私たちは、<strong>五蘊</strong>（<font color="#840084">色・受・想・行・識</font>）を自分であると思っている。<br>しかし、この<font color="#840084">色・受・想・行・識</font>は知覚できる対象であるがゆえに、これらは自己ではない。<br>そして、この<font color="#840084">色・受・想・行・識</font>を対象として知覚している<u>「自己」は観察できない</u>のである。<br><br>分かりにくい話であるが、例えるならば…<br>鏡のない世界で、一人ぼっちの「目の玉」が自分を探すようなものである。<br>自分以外のものを見ることはできるが、決して自分自身を見ることはできないのに似ている。<br>ただ、自分が存在することに「気づく」ことができるだけである。<br>このため、お釈迦様は、「“色”は我ではない」「“受”は我ではない」「“想”は我ではない」　　<br>「“行”は我ではない」「“識”は我ではない」と、五蘊は「我」でないことは説いたが、<br><u>観察主体の「我」については語らなかった</u>のである。<br><br><strong>③</strong> 上記の<strong>①②</strong>と関連するが…　我々はこの世界を理解しようとするが、その理解に必要なデーターは<br>限られた情報でしかないかもしれないという理由である。<br>別の阿含経のなかでお釈迦様は、<br><strong>「<font color="#0000ff">色・声・香・味・触・法</font>」／「<font color="#0000ff">眼・耳・鼻・舌・身・意</font>」が すべてであり一切である。</strong><br>それ以外の一切を説くことはありもしないことを語ることである。<br>という意味あいのことを説いておられる。<br><br>つまり、我々が、この世界を認識するには、<br><strong>この六種の知覚を構成する「知覚対象」と「知覚器官」がすべてであり、一切である。</strong><br>…というのである。<br>これは、別の角度から考えると、この世界や自分は何なのか？を知ろうとしたとき、<br>我々に与えられた情報は、たった六種類のデーターがすべて（一切）であり、<br>このわずかな情報から「世界」や「自分」を理解しようとしていることでもある。<br>つまり、見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、触れること、感じることである。<br><br>科学が進歩し、天体望遠鏡や電子顕微鏡があるとはいうものの、これらも人間の知覚の延長にすぎず、<br>いかなる情報もすべて六つの器官から入るのであって、それを超えるものではない。<br><br>もし、この世が仏陀や賢者達がいうようにリアルな「夢・幻」の世界であったとしたらどうだろう。<br>例えば、いまあなたは「夢の中」だったとしよう。<br>このとき、あなたは「夢を見ている自分」や、その自分が存在する「世界」を知らない。<br>いや、それ以前に自分が夢みて、夢の世界にいることすら知らないだろう。<br>かりに夢の中で天体望遠鏡や顕微鏡や解析装置を覗いて、「夢の中の自分」や「夢の世界」を<br>観察し分析したとしても、その本質なり真実を知ることはない。<br>まして、「夢みる自分」や「夢を見ている場所」が何であるかを知ることはないだろう。<br><br>そのような<strong>「目覚めたもの」</strong>でなければ知ることのできないことは説かなかったのである。<br><br>だが、解脱できなくとも、それらを知りたいのが凡夫の人情というものである。<br>それゆえ、説かれているものはそれなりに、<br>そして、説かれていないものもそれなりに一緒に考えてみよう。（笑）<br><br><br><strong><font color="#840084">[汝らのものにあらず</font><font color="#840084">]</font></strong><br>お釈迦様の説かれた別の阿含経をもう一つ紹介……増谷文雄先生訳<br><br>…世尊は、比丘たちに告げて仰せられた。<br>「比丘たちよ、汝らのものにあらざるものを捨てるがよろしい。<br>汝らもしそれを捨てれば、汝らの利益となり、安楽となるであろう。<br>比丘たちよ、では、汝らのものにあらざるものとはなんであろうか。<br>比丘たちよ、色（肉体）は汝らのものにあらざるがゆえに、これを捨てるがよろしい。<br>汝らもしこれを捨てれば、汝らの利益となり、安楽となろう。<br><strong>&nbsp;受</strong>（感受）は汝らのものにあらざるがゆえに、……（以下同文）<br><strong>&nbsp;想</strong>（表象）は汝らのものにあらざるがゆえに、……<br><strong>&nbsp;行</strong>（意志）は汝らのものにあらざるがゆえに、……<br><strong>&nbsp;識</strong>（意識）は汝らのものにあらざるがゆえに、これを捨てるがよろしい。<br>汝らもしこれを捨てれば、汝らの利益となり、安楽となろう。<br>比丘たちよ、それは、たとえばジェータ林の樹の幹や枝や葉のようなものであって、<br>もし人ありて、それらを伐ったり、焼いたり、あるいは、思うままに処分したとするならば、<br>汝らは、彼に、文句をいうであろうか」<br>（比丘）；「大徳よ、そういうわけにはまいりません」<br>（世尊）；「では、その理由はなぜであろうか」<br>（比丘）；「大徳よ、それらは私どもの我にあらず、また私どもの所有でもないからであります」<br>（世尊）；「比丘たちよ、それと同じように、<br>“色”は汝らのものにあらざるものであるがゆえに、これを捨てるがよろしい。<br>もし汝らがこれを捨てるならば、汝らの利益となり、安楽となるであろう。<br>&nbsp;“<strong>受</strong>”は……（以下同文）<br>&nbsp;“<strong>想</strong>”は……<br>&nbsp;“<strong>行</strong>”は……<br>&nbsp;“<strong>識</strong>”は汝らのものにあらざるものであるがゆえに、これを捨てるがよろしい。<br>もし汝らがこれを捨てるならば、汝らの利益となり、安楽となるであろう」<br><br>これを読まれてどうだろうか？<br>「あなたの<strong>五蘊</strong>（身心）は、あなたのものでないから、さっさと捨てなさい」<br>「<strong>五蘊</strong>（身心）は他人の林の木々のように、勝手に処分されても文句が言えないぐらいのものなのだ」<br>「だから、このような五蘊（身心）を捨てると、すごく楽になって、得するよ！」<br>…と、常識からいえばとんでもないことを言っておられるのである。<br><br>もちろん、これは自殺をほのめかしているわけではない。<br>これは、<strong>五蘊</strong>（身心）を自分、あるいは自分のものと思い込み、それに執着し、<br>その喪失と劣化を恐れて日々を送っている私たちに五蘊（身心）からの解放をすすめているのである。<br><br>ところで、このような教えを本やお寺や仏教教団で読んだり聞いたりしたことがあるだろうか？<br>たぶんそのような人はそう多くはないだろう。<br>なぜか？<br>それは、信者の利益になっても、お寺の“ご利益”にはならないからである。（冗談…!(^^)!）<br><br>では、また…<br><br><br><br><br><br><br><a title="人気ブログランキングへ" href="http://blog.with2.net/link.php?1712377"><img width="88" height="31" src="https://blog.with2.net/img/banner/banner_21.gif" border="0"></a><br><a style="font-size: 12px;" href="http://blog.with2.net/link.php?1712377">人気ブログランキングへ</a><br><br><a href="http://airw.net/newage/" target="_blank"><img title="精神世界" id="1428486802672" style="border: currentColor; width: 200px; height: 40px;" alt="精神世界" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20150115/15/tenkadojin/7a/99/g/t02000040_0200004013190139832.gif" ratio="5"></a>&nbsp;<br> <br><br><br></span></p>
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<link>https://ameblo.jp/tenkadojin/entry-12011850714.html</link>
<pubDate>Wed, 08 Apr 2015 17:54:53 +0900</pubDate>
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<title>[第二回]あなたは身心ではない。</title>
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<![CDATA[ <p><span style="font-size: 14px;">前回の続き…。<br></span><span style="font-size: 14px;"><br>先の経典の要点をもう一度まとめると…<br><br><strong>１</strong>、<font color="#111111">五蘊</font>（身心＝色・受・想・行・識）は無常で、苦で、無我である。（五蘊無我）<br><br><strong>２</strong>、<font color="rgb(17,17,17)">無我なる五蘊</font>（身心）は、私の所有物でも、私自身でも、私の本質でもない（五蘊非我）<br><br><strong>３</strong>、<font color="rgb(17,17,17)">五蘊</font>（身心）は“無我”であり、“私でない”と、正しい智慧をもって観て、（正観）<br><br><strong>４</strong>、五蘊（身心）を厭って離れるならば、貪欲（煩悩や執着）を離れることができる。（遠離）<br><br><strong>５</strong>、貪欲（煩悩や執着）を離れることができれば解脱する。（心解脱）<br><br><strong>６</strong>、解脱すれば、解脱したとの智が生じる。（解脱知見）<br><br><strong>７</strong>、以上の清浄行を為し終わったならば、迷いの生存状態は終わり、もはや輪廻転生することはない。<br><br>…である。<br><br>あなたは、これを見て解脱への意欲が湧き、解脱できそうな気分になっただろうか？ <br><br>これを良く読んでみると…<br>「人間を辞めたら解脱する！」と言っているように思われるのだが…<br>通常、私たちは「解脱することができる」と言われても、よほどの“ご利益”が提示されないかぎり、自分から「私、人間を辞めます」という人は多くはないだろう。<br>その証拠に、解脱したという話はあまり聞かないが、逆に「人間を続けて行くためにご利益を！」という人は山ほどいる。<br></span><span style="font-size: 14px;">しかし、お釈迦様がこのような教えを数多く残されていることを考えると、たぶん、我々には知るよしもないとんでもない“<strong>ご利益</strong>”があるのだろう。<br></span><span style="font-size: 14px;">そこで、もう少し突っ込んでこの経典を見ていくと、さまざまな疑問が湧いてくるのである。<br><br></span><span style="font-size: 14px;">たとえば…<br><br><strong>Ａ</strong>、通常、私たちが“<strong>私</strong>”と信じているこの身心（五蘊）が“私”でないというのなら、<br>　　ほかに<u>“私”はある</u>のか？　それとも<u>“私”はない</u>のか？<br><br><strong>Ｂ</strong>、もし“私”がどこにもなかったならば、<br>　　苦しんでいるのは誰なのか？解脱の必要性はあるのか？<br>　　輪廻転生を心配する必要はないのでは？<br><br><strong>Ｃ</strong>、逆に、この肉体以外に“私”というものがあるならば、<br>　　どこに、どのようなかたちで“私”は存在しているのか？<br>　　どうして私はそれを知らないのか？<br>　　そもそも<strong><u>“私”とは何か</u></strong>？<br>　　“私”が存在していても“身心”が私でなければ、苦しむ必要はないのになぜ苦しむのか？<br><br><strong>Ｄ</strong>、五蘊無我、五蘊非我…を、<br><font color="#840084"><strong>　　「かくのごとく、正しき智慧をもって観よ！」</strong></font>…とは、具体的どうすればよいのか？<br>　　理屈として納得するだけでよいのか？<br><br><strong>Ｅ</strong>、五蘊は無我であり非我であると観て、<br><strong><font color="#840084">　　「五蘊（身心）を厭い離れる。厭い離れれば貪欲を離れる。貪欲を離れれば解脱する。」<br></font></strong>　　…とあるが、身心は自己ではないと観て、厭い嫌って距離を置けば本当に貪欲や煩悩を離れられるのか？<br>　　そして、執着や渇愛から解放され解脱することができるのか？<br>　　いままでに、貪欲を離れて解脱に成功した求道者はどれだけいるのか？<br><br>&nbsp;<strong>Ｆ</strong>、運よく解脱したならば…&nbsp;“私”はどうなるのか？<br>　　“解脱する前の迷いの生”と、“迷いの生が尽きた状態”の違いは何か？<br>　　“<strong>ニルヴァーナ</strong>”と解脱の関係は？<br><br><strong>Ｇ</strong>、迷いの生を繰り返す輪廻とは何か？<br>　　輪廻はなぜ<strong>止めなければならない</strong>のか？<br>　　輪廻する<strong>主体</strong>は何か？<br>　　輪廻の<strong>原因</strong>とは？<br><br><strong>&nbsp;Ｉ</strong>、そもそも、どうして世界があり、五蘊があるのか？<br>　　そこに目的があるのか？<br>　　目的があるのならそれは何か？<br>　　“私”にとって“この世”とは何か？（“私”にとって世界は必要か？）<br>　　<u>世界の中に“私”が存在するのか？<br></u>　　<u>それとも“私”の中にこの世が存在するのか？</u><br></span><span style="font-size: 14px;"><br>…等々である。<br><br><br><br><br><br><a title="人気ブログランキングへ" href="http://blog.with2.net/link.php?1712377"><img width="88" height="31" src="https://blog.with2.net/img/banner/banner_21.gif" border="0"></a><br><a style="font-size: 12px;" href="http://blog.with2.net/link.php?1712377">人気ブログランキングへ</a><br><br><a href="http://airw.net/newage/" target="_blank"><img title="精神世界" id="1428486890498" style="border: currentColor; width: 200px; height: 40px;" alt="精神世界" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20150115/15/tenkadojin/7a/99/g/t02000040_0200004013190139832.gif" ratio="5"></a>&nbsp;<br> <br><br><br></span></p>
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<pubDate>Tue, 31 Mar 2015 16:27:18 +0900</pubDate>
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<title>[第一回] あなたは誰？…オリから脱走してもサルはサル？</title>
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<![CDATA[ <div>“来世の私”である“あなた”が仏教徒である保証はないのだが…</div><div>仏教の話からはじめてみよう。</div><div><br>仏教では解脱して仏に成る、いわゆる「成仏」を最終目標にしている。</div><div>「解脱」とは言葉を変えれば、「解放」あるいは「自由」を意味し、ある何らかの<span style="line-height: 1.5;">束縛から解かれ脱することを意味する。<br><br></span></div><div>では、仏教の解脱とは「何が」、「何から」解放されて「仏」になるのだろうか？</div><div>通常、私たちは「人間」が「何らかの束縛から」解放されて「仏」に成るのだと考<span style="line-height: 1.5;">えている。</span></div><div>つまり<u><b>「人間」が「解脱」して「仏」に成る</b></u>ことが仏教だと思っている。</div><div><br>だが、これは本当だろうか？</div><div><br>ちょっと簡単な（屁）理屈を考えてみよう。</div><div>例えば、</div><div>　「トリ」が「カゴ」から解放されても「トリ」。</div><div>　「サル」が「オリ」から解放されても「サル」。</div><div>　「イヌ」が「クサリ」から解放されても「イヌ」。</div><div>である。ところが…</div><div>　「人間」が「○○」から解放されて「仏」に成る。</div><div>では理屈の上で少しおかしいことになる。</div><div><br>つまり、<u>解放あるいは解き脱するということばを使うかぎり</u>、</div><div>解放される前と、解放後は同じでなければならないのに、人間⇒仏という別物にな<span style="line-height: 1.5;">ってしまっている。</span></div><div>これが<u>解脱ということばを使わず</u>、単に「人間が修行して仏に成る」、</div><div>あるいは「人間が○○から解脱してまともな人間に成る」というのならまだ筋が通<span style="line-height: 1.5;">っている。</span></div><div><br>だが仏教では通常…「凡夫」が「解脱」して「仏に成る」というのである。</div><div><br></div><div>しかし正しくは、解脱された後を「仏」と呼ぶのなら、解放（解脱）前も「仏」で<span style="line-height: 1.5;">あるはずである。</span></div><div><br>つまり…「仏」が「○○」から解放されても「仏」である…が、正しい。</div><div>そうすると、我々はもともと「仏」でなければならないことになる。</div><div><br>そう！実は「仏」なのである。</div><div><br>あなたは仏なのだ！</div><div>あぁ～よかった！よかった！</div><div>なに、その気がしないって！</div><div>それは私も同じ…！！！!(^^)!</div><div>たしかに、理屈の上で“私たちはもともと仏だ”とわかったからといって何がどう<span style="line-height: 1.5;">なるわけでもない。</span></div><div><br></div><div>私たちはたいてい、自分が仏であるという認識もなければ、何かに束縛されている<span style="line-height: 1.5;">という意識もなく、解脱の必要性も感じないまま、棺桶に足を突っ込むまで、ひた</span><span style="line-height: 1.5;">すら少しでも快適にこの人生を送りたいと願いつつ、つかの間の喜びと多くの苦し</span><span style="line-height: 1.5;">みのなかで一生を送っている。<br><br></span></div><div>そんな私たちにお釈迦様や解脱したマスター達は語りかける。</div><div><span style="line-height: 1.5;">あなた方は自分が何者であるのかを忘れ、外の世界も忘れたまま牢獄の中で永遠に</span><span style="line-height: 1.5;">生きていると…。</span><br></div><div><span style="line-height: 1.5;"><br>だが、自分を思い出し、そこから脱出する方法があると…。</span></div><div><br>ではこれから時々、人間とは何か、束縛とは何か、解脱とは何か、仏とは何かにつ<span style="line-height: 1.5;">いてについて一緒に考えてみよう！</span></div><div><br><br></div><span style="font-size: 14px;">[インド古代の12歳の覚者・アシュタヴァクラと、帝王ジャナクとの対話]</span><div>…OSHO「エンライトメント」より抜粋…<br><br></div><div><span style="color: rgb(148, 113, 222);">　あなたは大地ではなく、風でも、火でも、水でも、精気（エーテル）でもない</span></div><div><span style="color: rgb(148, 113, 222);">　解放に到るには、自分はこのすべてを観照する意識であると知りなさい。<br>　自らを肉<span style="line-height: 1.5;">体から切り離し、意識の中にくつろげるなら、まさにこの瞬間、<br>　あなたは幸せで、</span><span style="line-height: 1.5;">安らぎ、束縛から自由だろう。</span></span></div><div><br></div><span style="font-size: 14px;">[あなたは身心ではない！]</span><div>お釈迦様の説かれた阿含経典のなかに「蘊相応」という一群がある。</div><div>以下はその中から代表的な経を紹介…（増谷文雄先生訳）</div><div>　</div><div>　<span style="color: rgb(148, 113, 222);">…世尊は、このように説きたもうた。</span></div><div><span style="color: rgb(148, 113, 222);">　「比丘たちよ、</span><span style="color: rgb(132, 0, 132);">色（肉体）</span><span style="color: rgb(148, 113, 222);">は無常である。無常なるものは苦である。苦なるもの<span style="line-height: 1.5;">は無我である。</span></span></div><div><span style="color: rgb(148, 113, 222);">　無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にあらず。</span></div><div><span style="color: rgb(148, 113, 222);">　まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。</span></div><div><span style="color: rgb(148, 113, 222);">　</span><span style="color: rgb(132, 0, 132);">受（感覚）</span><span style="color: rgb(148, 113, 222);">は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。</span></div><div><span style="color: rgb(148, 113, 222);">　無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にあらず。</span></div><div><span style="color: rgb(148, 113, 222);">　まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。</span></div><div><span style="color: rgb(148, 113, 222);">　</span><span style="color: rgb(132, 0, 132);">想（表像）</span><span style="color: rgb(148, 113, 222);">は無常である。……（以下同文）</span></div><div><span style="color: rgb(148, 113, 222);">　</span><span style="color: rgb(132, 0, 132);">行（意志）</span><span style="color: rgb(148, 113, 222);">は無常である。……</span></div><div><span style="color: rgb(148, 113, 222);">　</span><span style="color: rgb(132, 0, 132);">識（意識）</span><span style="color: rgb(148, 113, 222);">は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。</span></div><div><span style="color: rgb(148, 113, 222);">　無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にあらず。</span></div><div><span style="color: rgb(148, 113, 222);">　まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。</span></div><div><span style="color: rgb(148, 113, 222);">　比丘たちよ、私の教えを聞いた聖なる弟子たちは、そのように観て、識を厭い離<span style="line-height: 1.5;">れる。</span></span></div><div><span style="color: rgb(148, 113, 222);">　厭い離るれば貪欲を離れる。貪欲を離るれば解脱する。<br>　解脱すれば、解脱したと<span style="line-height: 1.5;">の智を生　じ、</span><span style="line-height: 1.5;">〈わが迷いの生はすでに尽きた。<br>　清浄の行はすでに成った。作すべきことはすで</span><span style="line-height: 1.5;">に弁じた。</span></span></div><div><span style="color: rgb(148, 113, 222);">　このうえは、もはや迷いの生を繰り返すことはないであろう〉と知るのである」</span></div><div>　</div><div>かなり、同文部分を省いているので、読みづらく理解しにくいかもしれない。</div><div>すこし説明すると…<br><br></div><div>まず、色・受・想・行・識とは「五蘊」と呼ばれ、人間を構成する五つの要素を意<span style="line-height: 1.5;">味する。</span></div><div>　・<span style="color: rgb(132, 0, 132);"><span style="font-size: 14px;">色</span></span>は肉体、身体</div><div>　・<span style="color: rgb(132, 0, 132);"><span style="font-size: 14px;">受</span></span>は感受、知覚</div><div>　・<span style="color: rgb(132, 0, 132);"><span style="font-size: 14px;">想</span></span>は想念、思考</div><div>　・<span style="color: rgb(132, 0, 132);"><span style="font-size: 14px;">行</span></span>は意志、行為</div><div>　・<span style="color: rgb(132, 0, 132);"><span style="font-size: 14px;">識</span></span>は認識、識別、記憶</div><div>を表し、人間はこの五つの要素によって構成されていると考える。</div><div>この五つを大別すると、「色」は人間の身体を現わし、「受・想・行・識」は人間<span style="line-height: 1.5;">の心や精神のはたらきを表している。</span></div><div>よって「五蘊」とは「人間の身心」と捉えていただいてよいと思う。</div><div><br></div><div>次に、</div><div>　<span style="color: rgb(132, 0, 132);"><span style="font-size: 14px;">「わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にあらず」</span></span><br>とは、<span style="line-height: 1.5;">通常、漢文などで「非我所、非我・非我体」と表されている。</span></div><div>ここでは「色・受・想・行・識」の各々について、</div><div>　…これは私の所有物ではありません。<br>　…これは私ではありません。<br>　…これは私の本<span style="line-height: 1.5;">体ではありません。</span></div><div>という意味。</div><div>つまり、</div><div>　身心は私の所有物ではありません。<br>　身心は私ではありません。<br>　身心は私の本体でも<span style="line-height: 1.5;">ありません。</span></div><div>　五蘊は我ではなく、五蘊は非我なるものです。</div><div>と解釈していただければよいと思う。</div><div><br></div><div>そして、はじめの方の…</div><div>　<span style="color: rgb(132, 0, 132);"><span style="font-size: 14px;">「…は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である」</span></span>とは、</div><div>　①「色・受・想・行・識」（身心）は無常である。⇒（身心は常に変化します）</div><div>　②（自分の思いにかかわらず）常に変化する「色・受・想・行・識」（身心）は<span style="line-height: 1.5;">苦である。</span></div><div>　③（無常で）苦なる「色・受・想・行・識」（身心）は無我である。<br><br></div><div>➂は、別の機会に詳しく説明するが、</div><div>いまは、縁によって常に変化してしまう「色・受・想・行・識」（人間の身心）に<span style="line-height: 1.5;">は<br>「我」というものが無い、</span>あるいは「我」がないから縁によって変化する。<br><span style="line-height: 1.5;">というぐらいに思っていただければよいと思う。</span></div><div><span style="line-height: 1.5;"><br><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝', serif;">この経典を大雑把にまとめると、</span></span></div><span style="font-size: 12px;"><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝', serif;"></span></span><div><span style="line-height: 1.5;">　五蘊（身心）は「無常」で、「苦」で、「無我」である。</span><br></div><div>　我(が)の無い五蘊（身心）が、我(われ)であるはずはなく（非我）、</div><div>　我(わ)が所有物でも、我(わ)が本体でもない。</div><div>　このように</div><div>　智慧をもって正しく観てみなさい。<br>　このように観て、<span style="line-height: 1.5;">身心（色・受・想・行・識）から厭(いと)い離れなさい。（遠く離れなさい。）<br>　（つま</span><span style="line-height: 1.5;">り、肉体や感覚・思考・意志・識別作用は自分ではないのだから意識的に離れてみ</span><span style="line-height: 1.5;">なさい）<br>　そうすると、貪りや欲から離れることができる。<br>　（身心は我でないと分か</span><span style="line-height: 1.5;">ればそれへの執着などがなくなるので）<br>　貪りや欲から離れると解脱する。<br>　（貪りや</span><span style="line-height: 1.5;">欲から離れると五蘊人間であることから解放される）<br>　解脱したならば、自分は解脱</span><span style="line-height: 1.5;">したと智覚できる。<br>　……後略</span></div><div><br></div><div>以上、</div><div>この経典のなかには従来の仏教の解釈とは異なった重要なことが何点か書かれてい<span style="line-height: 1.5;">る。</span></div><div>それはまた、次の機会に。</div><div>では今日はこれまで！</div><div><br></div><div><br></div><div><br></div><div><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1712377" title="人気ブログランキングへ"><img src="https://blog.with2.net/img/banner/banner_21.gif" width="88" height="31" border="0"></a><br><a href="http://blog.with2.net/link.php?1712377" style="font-size:12px;">人気ブログランキングへ</a></div><div><p><br><a href="http://airw.net/newage/rank.cgi?id=TENKADOJ" target="_blank"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20150115/15/tenkadojin/7a/99/g/t02000040_0200004013190139832.gif" style="width:200px; height:40px; border:none;" alt="精神世界" ratio="5"></a></p></div><div><br></div><div><br></div><div><br></div>
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<pubDate>Thu, 15 Jan 2015 14:53:44 +0900</pubDate>
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