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<title>apostleのブログ</title>
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<title>レッスン60  レッスン46～レッスン50</title>
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<![CDATA[ <br>今日は朝起きて、仕事に向かう途中にふと気が付いた事がある。<br><br>なぜだか身体に内側から湧いてくるような元気を発見した。<br><br>いつもなら、朝はけだるく、ガムやコーヒーやフリスクなどて、身体に刺激を与えないと動くのが辛い、頭が働かない、というのが当たり前のことなのに、それが必要ない感じ。<br><br><br>ひょっとしたら、元気なのが普通なのかもしれないけれど、朝のけだるさはあまりに長く当たり前のことだったので、ただ、不思議な感覚。<br><br>神は相変わらずわからないけど、私は身体ではなくスピリットなのだというのは何となくわかるような気がしてきた。<br><br><br>自分を身体だと考えたら身体は重い。<br><br>自分はたとえ身体が死んでも、スピリットとしては永遠に生き続ける存在として、身体じゃなくってスピリットとして感じたら軽い。<br><br> <br>上手く言えないけどそんな感覚かも。<br><br><br>電車の中で今日のレッスンをする。<br><br><br>レッスンをしてたら泣きたくなった。<br><br> <br>悲しいとかそんなんじゃなくて、ありがたいといのとも違う。<br><br>よくわからないし、確証もない、ただの勘違いかもしれないけど、ずっとキリストなのか聖霊なのかが呼んでくれてるような気がした。<br><br><br>｢何か足りないものを外に求める必要はない。すべてあるのだから。怖れたりする必要はない。いつもいかなる時も守られているのだから。｣<br><br><br><br>こういう言葉が直接的に言葉として降りてきたというわけじゃない。<br><br><br><br>けど、あえて言葉にするならこんなような感じ。<br>どこかから湧いたくるのかもよくわからない不思議な感覚。<br><br><br>それに心の奥が反応してるような感じ。<br><br><br>涙をこらえるのが大変だった。<br><br><br><br>レッスン50｢私は神の愛によって支えられています｣の言葉が、なにか深いところにグッとくる。<br><br>少しずつ、私は私という存在をゆるし始めているような気がする。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/the-disappearance/entry-11688250684.html</link>
<pubDate>Wed, 13 Nov 2013 05:44:00 +0900</pubDate>
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<title>レッスン59 レッスン41～レッスン45</title>
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<![CDATA[ 昨日は朝は曇り空、午後から晴れ。<br><br><br>目に見えるものはいつも変化しているように見える。<br><br>朝、カフェでモーニングをしながらレッスンをしていた。<br><br>奇跡のコースの特訓メールレッスンはレッスン59。<br><br>レッスン41～レッスン45のレッスンはひたすら神ばっかりだ。<br><br>レッスンをしていた気づいたことがある。<br><br>レッスンの言葉と文章を読み、目を閉じてその内容を染み込ませようとしていた時だ。<br><br>｢神が自分といつも共にいる｣ということを私自身が受け入れてない部分があるよねって。<br><br>奇跡のコースが伝えてることが真実かどうかは私にはわからない。<br><br>ただ、人間が考えたレベルのものでは到底ないなとは文章を読んでいて思う。<br><br><br>けれど、それがどうかではなく、私の心の中に神を受け入れるという部分がなかったと気づいたのだ。<br><br><br>もちろん、頭では、この世界というものを越えたなんらかの大いなる存在=神というようなものがあるんだと思ってきた。<br><br>でも、それは頭で考えるレベルの話。<br><br>心の奥底で神なんてって思ってる部分が確かにあった。<br><br><br>では、どうあれば、私は神を受け入れられるのだろう。<br><br><br>とても幸運な事がずっと続けば神を信用出来るだろうか？<br><br>神の声を聞けば信用出来るだろうか？<br><br><br>いや、そうじゃない。<br><br><br>多分、そういう事じゃない。<br><br><br><br>神と離れたという思いは、もっと奥にあるんだ。<br><br><br>うまく表現できないけれど、これに気づいた時はちょっと衝撃だった。<br><br>そして、聖霊に頼んだ。<br><br><br><br>私は神があるのかどうか、そして神がいつも私の側にいてくれるのかどうか、正直わかりませんし、レッスンの言葉の意味はわかるのだけと、心で深く受け入れることもできません。<br>けれど、この何か真実を受け入れることを拒否している無意識の私の部分があるのなら、その余計なものを取り消してください。<br><br><br><br>だって、レッスンを形式的にやることを聖霊も求めていないはずだ。<br><br><br>そのまま何も起こらないかのように一日は過ぎていった。<br>やっぱり頼む内容や頼み方がおかしかっただろうかと思ってた。<br><br>しかし、一日が終わる時、少し不思議な事が起こった。<br><br><br>ありえない事がありえない形で起こった。<br><br>具体的な事は書けないけれど、私の今の不安をかなり鎮めてくれることだったのだけと、ありえない展開だった。<br><br>もちろん、それですべて私の中の神への信頼がすべてクリアになったわけじゃない。<br><br><br>でも、奇跡みたいなことが展開されて、それを私は今、目の当たりにしているのかも知れない。<br><br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/the-disappearance/entry-11686072182.html</link>
<pubDate>Tue, 12 Nov 2013 06:49:00 +0900</pubDate>
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<title>レッスン58 レッスン35～レッスン40の復習</title>
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<![CDATA[ <br>今日は静かな一日だった。<br><br>今日の奇跡のコース特訓メールレッスンはレッスン58。<br><br>レッスン35からレッスン40までの復習。<br><br>レッスン35からは、ひたすら神聖性についてのレッスンが続く。<br><br>あなたは、自我が見て自我が考えるのようなあなたではなく、神から愛され、祝福された神聖性そのものの存在なんだよ、と繰り返しレッスンは伝えている。<br><br>雨が降っても、そこに攻撃を投影すれば、憂鬱な感情を呼び起こしたり、ツイてないと心に浮かばせることもできる。<br><br>感情を感じていると思っているのは、実はそう感じてると思ってる感情があるんじゃなくて、その奥にある無意識の罪悪感とか怖れや被害者だという思い込みの投影が、あたかも表明の感情はリアルで確かに自分は感じていると錯覚しているのだろうか・・・。<br><br><br>今日、人と会うことがあり、その人は人の話を聞いていないような態度をしているように見えた。<br><br>とっとと用事を済ませて早く帰りたいなぁとか、自分といるのはつまらないのではないかとか、何なのこの態度は失礼じゃないのとか、と最初の内は知覚していたのは確か。<br><br>つまり、その人の態度に対して、自分の側からの判断という<br>か、ジャジを下していた。<br><br>表面的には愛想よく振る舞いながら、他人といることはストレス以外のなにものでもないと心の中ではずっと思ってきた。<br><br>人と会ったあとはどっと疲れるて、チョコとかケーキとか、とにかく甘いものを食べたり、気分転換したくなる。<br><br>そういうことを私は自分の感情を感じているとずっと思ってきた。<br><br><br>今日の復習レッスンを思い出して、その人の中に神聖性を見て、自分の中に神聖性を見るようにした。(正確にいうと聖霊に神聖性を見せてくださいと赦しを頼んだ。)<br><br><br>それでもしばらくは何も変わらなかった。<br><br>けれど、ふとした瞬間、何か氷が溶けるような感覚があり、その人の中に｢愛を求める叫び｣のようなものを感じた。<br><br>脚を組んだり、話していてもスマホばかり弄っている態度が少し変わって、説明の付かないような親密さ！？というような時間が顕れてきた。<br><br><br><br>そう、本当はそこにあって隠れていたものが顕れてきたような感じ！？<br><br><br><br>私は人と会う時に、人が自分をどう思っているのかを気にし過ぎるという傾向がある。<br><br><br>だから、相手の反応を常に気にしている。<br>意識は、相手じゃなくって、自分がどう見られ、どう扱われるか、それだけに感心がある。<br><br><br>人と共にいない、心ここに在らずというのは自分であり、その人はただ自分の投影を映し出していたに過ぎなかったのだと思った。<br><br><br>それから、時間はあっという間に過ぎた。<br><br><br><br><br>私はこれまで何を見てきたのだろう、と思った。<br><br><br>誰からも、何からも、攻撃などされていない。<br>奇跡のコースは伝えてる。<br><br><br>私は、目の前の誰かを判断して、状況をジャジして、人の顔色をうかがって、攻撃の夢を見ていたに過ぎなかったのかも知れない。<br><br>その自我の夢を手放したなら、そこにはただ最初から神聖性があるだけなのかもしれない。<br><br><br>まだ、実感は正直伴ってない。<br><br>けと、今日の復習レッスンは、とっても深いなぁと思った。
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<link>https://ameblo.jp/the-disappearance/entry-11683670462.html</link>
<pubDate>Sun, 10 Nov 2013 21:58:00 +0900</pubDate>
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<title>レッスン57 レッスン31～レッスン35</title>
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<![CDATA[ <br><br>今日は一日のんびりと過ごした。<br><br>カフェに5時間もいて、神の使者をいっぱい読んだ。<br><br>読もうとしては眠くなり、うとうととうたた寝してはハッと起きて、また読んで、の繰り返し。<br><br><br>残り50ページくらいになった。<br><br>今日の奇跡のコース特訓メールレッスンはレッスン57。<br><br>レッスン31からレッスン35までの復習だったけど、今日はひとつのレッスンについて10分くらいかけて考えた。<br><br>街を歩きながらレッスンの言葉を何回も心の中で繰り返した。<br><br>ここ数日、毎日の生活の中で次々とリアルレッスンが来ているような気がする。<br><br><br>特に人間関係なんだけど、それ以外にも思わぬトラブルだったり、自分の悪い癖が出てしまうような状況だったり。<br><br>その度に私の心は動揺する。<br><br>そして、レッスンをやってみると、やはりリンクしている。<br><br>自我はたびたびに抵抗する。<br><br>それは、自我が一体全体何をやってきたのかが、レッスンによって明らかにされてしまうのと、その自我のやり方はもう手放して新しいやり方をしなさい、と示されているような気がする。<br><br><br>こんなにも、自我にしがみついているのだ、しがみついていたいのだ、とおもいしらされることもよくある。<br><br>でも、ふとした瞬間に、これまでにない安らいだ気持ちが理由なくふと訪れる時がたまに起こっているのも確かだ。<br><br>今日は神の使者を最後まで読了することにしよう。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/the-disappearance/entry-11680685824.html</link>
<pubDate>Sat, 09 Nov 2013 22:09:00 +0900</pubDate>
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<title>レッスン55 レッスン21～レッスン25の復習</title>
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<![CDATA[ 昨日の奇跡のコースの特訓メールレッスンは、レッスン55。<br><br>レッスン21からレッスン25までの復習レッスン。<br><br>考ええてみればレッスンを始めてもう２ヶ月も経っているのだとあらためて思った。<br><br>レッスン21～レッスン25の頃はレッスンが苦しいというより、何を言ってるんだかわからなかった。<br><br>もちろん、今でもわからないし、自我の抵抗はむしろ増えているような気がする。<br><br>けれど、｢神の使者｣を読んだり、レッスンブログを読んだりして、この奇跡のコースが伝えてることを少しずつ、理解しかけているようや気がする。<br><br>自我の抵抗がむしろ大きくなっているのは、得に神の使者を読んで、このコースを学ぶということは今まで信じてきた自我の世界が崩壊するということに自我が抵抗してるんだと思う。<br><br>今の復習レッスンにしてもそうだ。<br><br>自我の信じていることを意味のないものとして扱い、自分自身を本当に幸せにするものではないことを受け入れる。<br><br>自我の目から自分や他人や世界を見て、無意識に攻撃や攻撃されるという怖れから見たり判断しそうになるのを、赦していくこと。<br><br>そして、真実とは、自分の自我こ判断を頼りとせず、神の代理？である聖霊に委ねて、自分ではなく神や聖霊にお任せしていくこと。<br><br>昨日も一日葛藤が起こった。<br><br>赦したくないなという思いかいくつも出て来て自分を占領しそうになった。<br><br>けれど、ここで自我のパターンで相手を責めたり、自己防御のために言い訳や自分の正当性を訴えるということは、これまでのやり方だ。<br><br>それをやってきて幸せや安心感なんてなかった。<br><br>思わず聖霊に頼んでいた。<br><br>私は今、自我に囚われ、相手が悪いと相手を責め、そして、自分自身は悪くないと自己防御しています。けれど、今、私が見ているように思っているものは私の自我の投影であり、それは私と相手の真実を観ることを妨げています。私は真実を見たいので、この自我の投影を取り消し、私と相手に関しての真実を観ることを助けてください。<br><br><br>何度も何度も繰り返した。<br><br>状況はまだ何も変わっいるわけじゃない。<br><br>けれど、私は今、自我ではない見方で自分と世界を観たいと思っている。
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<link>https://ameblo.jp/the-disappearance/entry-11676473653.html</link>
<pubDate>Fri, 08 Nov 2013 05:46:00 +0900</pubDate>
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<title>レッスン54 レッスン16～レッスン20の復習</title>
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<![CDATA[ 今日の奇跡のコースの特訓メールレッスンは、レッスン54。<br><br>レッスン54はレッスン16から5つのレッスンを各2分間復習するというもので、レッスンを始めてレッスン16とレッスン17の復習をしていたら、中立はない、つまり、神の世界か自我の世界のどちらかを選択して見るしかないという内容で、やはり神の世界を選択していきたいと思った。<br><br>復習レッスンはめんどくさいと感じていたのだけと、少し楽しく感じてずっとやっていたいと思った。<br><br>しかし、急に出かけなければならなくなり、レッスンは中断。<br><br>自我が邪魔した？<br><br>用事を済ませて、家に戻ってレッスンを再開したのだけども、さっきのようには気持ちが乗れない。<br><br>なぜか、憂鬱てレッスンもやめたいと思った。<br><br>どうしちゃったの、自分？って感じだったのだけども、｢これは自我だ！自我がレッスンをしたくないと思わせている｣と思うようにして、なんとかレッスンを続けた。<br><br><br>神の意識と自分はひとつ、憂鬱な気持ちは自我がそう思わせたとしても、それを信用することはしないでおこう。<br><br><br>もし、自我ではない自分が、自我ではない視点で、真実を観ることができるなら、神とともに観ることができるなら、私はそれを観たいと思う。
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<link>https://ameblo.jp/the-disappearance/entry-11672014762.html</link>
<pubDate>Wed, 06 Nov 2013 00:14:00 +0900</pubDate>
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<title>レッスン53 レッスン10～レッスン15の復習</title>
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<![CDATA[ <br>今日の奇跡のコース特訓メールレッスンはレッスン５３。<br><br>レッスン１０～15までの復習だった。<br><br>3連休はゆっくりできるかと思いきや、いろんな予定が次々入り、ゆっくりレッスンをする時間がないように思えた。<br><br>というか、自我がそのように言い訳をしようとしていた。<br><br>忙しいといいつつ、ドラマを見たりしている時間はちゃんと作ってるのだから。<br><br>そういう風に自我がレッスンをしない方向に持ってきたがるのを、自我に任せないようにしようと思った。<br><br>そこでお風呂に入る時は必ずスマホを持って入り、レッスンメールを見ながらお風呂の中では必ずレッスンをやることにした。<br><br>お買い物してたら、たまたまスマホの防水ケースを見つけた。<br><br>そういうのって、全く興味なかったのだけど、なぜか立ち止まりたくなり、なぜかずっと見ていた。<br><br>なんでスマホの防水ケースをじっと見て立ち止まってるんだろ？私、という感じで、自分でも不思議だった。<br><br><br>普段なら、そこで、スルーするところなのだけど、どうしてもスルー出来ない。<br><br>そして気がついたらレジでスマホ防水ケースを買っていたのだ。こんなの買ってどうすんのと思いつつ。<br><br>家に帰った時に、ハッと気が付いた、というか、思いついた。<br><br>そうか、これはレッスンを風呂の中でもやれるようにするために、聖霊さんが肩をたたいてくれたんだ！<br><br>奇跡のコースのレッスンをやっていなかったら自分には有り得ない行動で、有り得ない思いつきだ。<br><br>お風呂の中でしたレッスン５３の復習は、自我の選択か、神の選択か、それを繰り返し伝えてくれてると感じた。<br> <br><br>
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<link>https://ameblo.jp/the-disappearance/entry-11669906974.html</link>
<pubDate>Tue, 05 Nov 2013 00:15:00 +0900</pubDate>
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<title>レッスン52 レッスン6～レッスン10</title>
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<![CDATA[ <br>今日の奇跡のコースの特訓メールレッスンはレッスン52。<br><br>レッスン6からレッスン10までの復習レッスンなのだけど、これがまた、最初のオリジナルのレッスンの文章が本当はこういう深い意味だったのね！ってグサグサ来る。<br><br>自我から見るっていうことは、過去の狭い体験から見るということで、見ているようで過去しか見ていないってこと。<br><br><br>神の実在という視点からでは全くなく、自我という怖れに満ちた狭い枠からすべて現実を見ているならば、それは見ていることでは全くなくて、怖れしか見ていないってこと。<br><br>いちいちグサグサ来る。<br><br>自我はレッスンやめたい、めんどくさい、と何度も何度も誘惑してくる。<br><br>真実を知りたいと思いながら、真実を見ないで自我のままにとどまりたいと自我が思わせる。<br><br>自我のやり方を続けても、そこに幸せなんてないってことはわかって来ているのに。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/the-disappearance/entry-11674326272.html</link>
<pubDate>Mon, 04 Nov 2013 03:08:00 +0900</pubDate>
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<title>レッスン51 レッスン1～レッスン5の復習</title>
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<![CDATA[ <br>今日の奇跡のコースの特訓メールレッスンは、レッスン51。<br><br><br>どんなレッスンが来るのかなと思っていたら、レッスン1からレッスン5の復習だったのね。<br><br>ここ数日、リアルレッスンが凄まじいく激しく来ていて、あ～も～嫌だ！と叫んでる。<br><br>叫んでいるのはもちろん自我だ。<br><br>そういうことも関係してか、レッスンやりたくない、レッスンやりたくない、レッスンやりたくない、って一日レッスンから逃げていた。<br><br>奇跡のコース的な赦しというのは、攻撃が来てもそれは無意識の自我の攻撃性の投影が現実と思える日常の中であたかも攻撃されているように思い込んでいることだと見抜いて、それは全く真実ではないので、聖霊に｢私はそこにないものをあたかもあるかのように自我の幻想を見ています。この自我の幻想を取り消し、真実を見せてください｣と頼むこと。(で、ちゃんと理解出来ているのか？)<br><br><br>レッスン5の復習レッスンはちょっと考えされられた。<br><br>自我というのは、自我の思いを正当化するために、相手を攻撃しようとする。<br><br>自分自身を防御するために、相手に自分の攻撃性を投影し、自分自身を傷つける。<br><br>そうかも、しれない。<br><br>けれど、受け入れたくないと自我の思いは騒いでる。
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<link>https://ameblo.jp/the-disappearance/entry-11674346206.html</link>
<pubDate>Sat, 02 Nov 2013 23:20:00 +0900</pubDate>
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<title>レッスン50 私は神の愛によって支えられています。</title>
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<![CDATA[ 今日の奇跡のコースの特訓メールレッスンはレッスン50｢私は神の愛によって支えられています｣というレッスンだった。<br><br>仕事上で困った事が起こった。<br><br>自分に非がないわけではないけど、それにしても理不尽だなっという事があり、心はかなり動揺している。<br><br>やけ食いとかしたい感じなのだ。<br><br>｢私は神の愛によって支えられています｣とひたすら心の中で唱え続けた。<br><br>人の攻撃を、攻撃だと思い、被害者だと思いたがる自我の誘惑がつねに来る。<br><br>自分が被害者であるなら、相手を非難して攻撃すればいい。<br><br>けれど、奇跡のコースでは、それは無意識の中の攻撃性が投影され、現実の中にスクリーンとして攻撃されるという登場人物や出来事、状況を映しだしているに過ぎない・・それが自我が見せる幻想というものだと教えてる。<br><br>そうこうしているうちに、立て続けに有り得ないトラブルなミスの連続。<br><br>確率論でいって有り得ないっしょってぐらい有り得ないトラブルが起こった。<br><br>自我の思いと奇跡のコースが伝えることの狭間で揺れながら、｢私は神の愛によって支えられています｣とひたすら唱え続けた。<br><br>もしこれが自我が投影したものであるなら、自我を超えたい。<br><br>いや、自分で超えるのではなかった。<br><br>聖霊とともに自我を越えて行きたい。<br><br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/the-disappearance/entry-11661420546.html</link>
<pubDate>Thu, 31 Oct 2013 20:41:00 +0900</pubDate>
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