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<title>現代文化研究所</title>
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<title>源泉について　三島由紀夫</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p id="7084a742-c4b8-4a50-b4cd-5cb8ec1684b6" name="7084a742-c4b8-4a50-b4cd-5cb8ec1684b6">三好　そうすると、三島さんの文学で、やはりひとつのモチーフになってるものに、選択と自由意志の問題がありますね。そこに、可能性の問題などがからんでくるのですが、――人間は、自由意志によって選択しますね、いろんなことを。それで三島さんの場合は、その選択が、源泉とどこかで出会いうるとお考えなんですね。</p><p id="7084a742-c4b8-4a50-b4cd-5cb8ec1684b6" name="7084a742-c4b8-4a50-b4cd-5cb8ec1684b6">&nbsp;</p><p id="0be33acf-5abc-414e-a95c-660914082c83" name="0be33acf-5abc-414e-a95c-660914082c83">三島　ええ、ぼくは、自由意志が最高度に発揮されたとき、選択するものは、決まっていると思う。それが源泉ですね。その時、自由意志が、ほんとに正当なものを発見したと思うのです。ですから自由意志には、無限定な自由はないですね。自由意志は、さまざまな試行錯誤を繰り返しますけれども、自由意志が源泉を発見したときに初めて、自由意志が、自由になるのだ、と思います。それまで自由意志は、なにものかにとらわれていて、もっと自由な何か、もっと広い世界を期待しているわけです。それがぼくは源泉だと思う。ヘルダーリンの「帰郷」のいう、一種の恐ろしさですね。最もなつかしいもので、最も恐ろしいものです。</p><p id="c5b7f2de-9d37-4a10-a80d-c31cf37fc706" name="c5b7f2de-9d37-4a10-a80d-c31cf37fc706">&nbsp;</p><p id="c5b7f2de-9d37-4a10-a80d-c31cf37fc706" name="c5b7f2de-9d37-4a10-a80d-c31cf37fc706">三好　「剣」のモチーフも、それでしたね。</p><p id="0088aec2-d42d-470c-8e3e-36517d4251dc" name="0088aec2-d42d-470c-8e3e-36517d4251dc">&nbsp;</p><p id="0088aec2-d42d-470c-8e3e-36517d4251dc" name="0088aec2-d42d-470c-8e3e-36517d4251dc">三島　そうです。<br>　現代社会は、そういう、源泉に帰ることを妨げるように、社会全体の力が働いている。人間は源泉から絶えず遠ざかって前へ、前へ、 上すべりしてゆくように社会の構造ができている。例えばテレビ、初め、映りの悪いテレビ、それがまた映りのいいテレビ、カラーテレビになる。現代社会はその機械と同じこと、次々と、改良されたものは与えられますけれども、改良された果てに何があるか、それは何も与えないで、僕らを先へ先へ進めるでしょ。<br>でもぼくらはテレビよりももっと遠くみえるものがあるはずです。いちばん前に。ぼくはほんとに、それが自分の夢ではないと思ったのは、インドに行ってからですよ。おととし（昭和四十二年）でしょうか。インドに行って人間、ほんとの能力というのはあったんだ、という感じを強くもった。テレビより、もっと遠くがみえるはずです。それから、人の心も、もっとよくみえるはずですし、つまり、みたいと思うものは、百万里先だろうが、みなければならない。みえなくしてしまったのは、“文明”ですよね。ぼくはそう思います。インド人はまだ、みている。インド人はまだ、”絶対”というものの近くにいるのです。ジャン・グルニエというエッセイストがいっています。「インドでいちばん恐ろしいことは、インド人がいつも、絶対と顔をつきあわせていること」だと。ほかの文明国の国民には、それは全然わからない。文明国民は完全に相対的な世界に住んでいる、政治組織も。政治体制が相対的。それから、経済も相対的。自由競争でしょ。それから、芸術も相対的。何もかも相対的。そのなかでは絶対には直面できないですよ。インド人だけは常住座臥に絶対とむきあっている。絶対のふろにはいって、絶対の飯を食っている。あれは恐ろしい国民だと思いますがね。</p><p id="7ef747a4-d19a-4f6c-b792-42d9254063a8" name="7ef747a4-d19a-4f6c-b792-42d9254063a8">&nbsp;</p><p id="7ef747a4-d19a-4f6c-b792-42d9254063a8" name="7ef747a4-d19a-4f6c-b792-42d9254063a8">三好　”みえるもの”を見るのは、人間の目ですね。</p><p id="a5bbc670-7e2d-4914-b07f-c772a78c29fe" name="a5bbc670-7e2d-4914-b07f-c772a78c29fe">&nbsp;</p><p id="a5bbc670-7e2d-4914-b07f-c772a78c29fe" name="a5bbc670-7e2d-4914-b07f-c772a78c29fe">三島　目ですね。</p><p id="8b45edfb-fe81-434f-9a4c-fc374e6df6d7" name="8b45edfb-fe81-434f-9a4c-fc374e6df6d7">&nbsp;</p><p id="8b45edfb-fe81-434f-9a4c-fc374e6df6d7" name="8b45edfb-fe81-434f-9a4c-fc374e6df6d7">三好　それを三島さんは信じていらっしゃる‥‥。</p><p id="144d9718-7169-416f-82c2-b9c9be043d5e" name="144d9718-7169-416f-82c2-b9c9be043d5e">&nbsp;</p><p id="144d9718-7169-416f-82c2-b9c9be043d5e" name="144d9718-7169-416f-82c2-b9c9be043d5e">三島　ぼくは源泉にはそれがあったと思うのです。ぼくにだって。失っただけですね。<br>　剣道なんかやっていますと、（そんなこというほどの資格はぼくにありませんが）”観世音の目”ということ、いいますね。全体をみなければならない。相手の目を見たら、負けてしまう。まして、相手の剣尖を見たら負けてしまう。そうではなくて、”観世音の目”は相手を上から下まで、完全に見てしまう目です。そういう目を鍛錬し、養成することが、剣道の極意と言われているのですが、ぼくはそれ、源泉に帰ることだと思います。<br>　それから、ネコ。ネコが寝たあと、クッションならクッションの跡みますと、ネコの寝た形が、ちゃんとできている。あれが、寝るということ、休むということの本当の形なのですね。人間の寝た跡はそんな形になっていませんよ。しゃっちょこばってますわね。寝てもまだ、からだがこわばっている。ネコは寝れば、完全に、ぐにゃあっと、液体のようになってしまう。あれが、源泉なのですね。それから、運動でもそうです。運動で、巧緻性とか、迅速性、いろいろ申しますけれども、運動能力というのは本来、人間にはすべてあるはずなのが、なくなってしまった。そして、からだをこうやって曲げても、手の指先が足につかないようになってしまう。これはもう、源泉から遠ざかってしまっているわけですね。</p><p id="0980856b-a28c-4218-aade-3bb0b8d8bacd" name="0980856b-a28c-4218-aade-3bb0b8d8bacd">&nbsp;</p><p id="0980856b-a28c-4218-aade-3bb0b8d8bacd" name="0980856b-a28c-4218-aade-3bb0b8d8bacd">三好　つまりそれは、ある意味で、近代文明というものの人間をむしばんでゆく、ひとつの姿なんでしょうが、そういうものに対して三島さんが、作家として抵抗する拠点というものは、やはり、美ということになりますか。</p><p id="9fd01dc7-7db3-411e-b49e-67205bb47ed0" name="9fd01dc7-7db3-411e-b49e-67205bb47ed0">&nbsp;</p><p id="9fd01dc7-7db3-411e-b49e-67205bb47ed0" name="9fd01dc7-7db3-411e-b49e-67205bb47ed0">三島　ええ。ぼくは、自由なものは美だと思うし、自由は源泉のなかにしかないと思うのです。プラトンと同じで、動くものが、美しい。ぼくは静止したものはきらいですから、美術品なんて、あまり好きではないですね。動くものが、美しい。”動くもの”というのは、自由ですし、自由は、それは未来ではなくて、源泉のなかにあるのだ、という感じがする。</p><p id="12d27257-4a3b-409f-8222-48d621a7301a" name="12d27257-4a3b-409f-8222-48d621a7301a">&nbsp;</p><p id="12d27257-4a3b-409f-8222-48d621a7301a" name="12d27257-4a3b-409f-8222-48d621a7301a">　引用：「三島文学の背景　決定版三島由紀夫全集　第４０巻」</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/tiraba-dwi/entry-12914361023.html</link>
<pubDate>Thu, 03 Jul 2025 22:59:28 +0900</pubDate>
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<title>現代文化研究所です。</title>
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<![CDATA[ <p>現代文化研究所です。文化、思想、哲学の面から現代を考えようというブログです。現代文化について考えがある方コメント書き込んで下さい。</p>
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<link>https://ameblo.jp/tiraba-dwi/entry-12901535253.html</link>
<pubDate>Fri, 09 May 2025 07:34:00 +0900</pubDate>
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<title>「葉隠」の魅力　対談より</title>
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<![CDATA[ <p>─三島　私は、現代民主社会が全部嫌いなのです。現代は間違った世の中で、本当に間違った世の中に生きているのですが、たとえば、私は人間関係は、みんな委員会になっちゃったというのです。そしてうそですね。うそでかためれば安全、謙譲の美徳を発揮すれば安全、安全第一。そして人間関係も、とにかく世論というものをいつも顧慮しながら、不特定多数の人間の平均的な好みに自分を合わせれば成功だし、合わせることができなきゃ失敗。これが現代社会ですよ。武士というものはいつも失敗し、コンフォーミティに反抗するのが武士ですから、その中の成功者を武士とはいえないと思うのですけど、そこの中で、なんとかして、現代的コミュニケーション、現代的対人態度というものの中にある毒を清めたいときに、「葉隠」を読めばいいと思う。「葉隠」をサラリーマンの心得みたいに思うことは、ずいぶん間違いだと思うのです。</p><p>&nbsp;</p><p>─相良　偽の委員会的な対人関係は、それはおっしゃるととおりだと思いますけれど、私がお聞きしたいのは、もう少し基本的な生き方というものを求めた場合ですけれどね。</p><p>&nbsp;</p><p>─三島　ぼくは、もうちょっと人間関係はががたぴししたらいいと思うのです。人間関係全部ががたぴししないから、集団の衝突になっちゃうのがいまの世の中だと思いますし、いまの近代社会というものの宿命だと思います。どうも人間関係ががたぴししないで、あまり円滑にすべりすぎるから、一方では激突が起こるのだろうと思います。</p><p>　　</p><p>　　　　引用：「『葉隠』の魅力　決定版三島由紀夫全集　第４０巻」</p>
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<link>https://ameblo.jp/tiraba-dwi/entry-12893623548.html</link>
<pubDate>Sat, 12 Apr 2025 20:23:21 +0900</pubDate>
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<title>三島由紀夫「太陽と鉄　異稿」から　時間と空間について</title>
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<![CDATA[ <p>　──遠い昔、交通機関も通信手段も未発達であつた時代には、地球の一大陸一国一地方の空間的世界像は、あたかも現在我々が考へる宇宙のやうに、その周辺、その外れ、その端のはうは時間に融け込んでゐた。遠い存在はかならず時間を<ruby>孕<rp>(</rp><rt>はら</rt><rp>)</rp></ruby> んでゐたので、死も<ruby>亦<rp>(</rp><rt>また</rt><rp>)</rp></ruby>&nbsp;、インドそのもののやうに空間上の一つの領域と考へることができた。死者の記憶は、遠国の想念とまざり合つてゐたからである。天頂はなほ青い夕空が、裾のはうはすでに夜に犯されてゐるやうに、われわれの見る空間世界の外れは時間を含み、同時的把握による世界像はきはめて小さかつた。</p><p>　しかし徐々に、われわれの視野の外れに顔を出してゐた時間は蝕まれ、テレヴィジョンが同時的世界像を提供し、人工衛星から撮られた写真が地球の丸いことの感覚的承認を促し、航空機の発達が短時間に幾多の空間世界を結合させ、情報の過剰が時間的営為を疑はしくしてしまった。それでも人間の肉体が、同時に地上の二点を占めることはできないが、われわれがインドに不在のあひだも、インドの存在を擬制上信じつづけなければならぬことは、あたかもVTRで撮られた影の肖像が、われわれがここにゐる間も、別の時点にゐたわれわれの実在を以て人々に影響を与へつづけてゐるのに似てゐる。影像が存在に打ち克ち、影像の信仰が存在の信仰に打ち克ち、代理概念が物の本質に打ち克つたのである。われわれは言葉を喪ひつつ、実は、言葉のもつとも病的な作用の<ruby>裡<rp>(</rp><rt>うち</rt><rp>)</rp></ruby> に生きてゐるとは云へぬだろうか。</p><p>　しかしそれぞれの場所、それぞれの時点においてわれわれ一人一人の抱く同時的な世界像には微妙な<ruby>ずれ<rp>(</rp><rt>・・</rt><rp>)</rp></ruby>があり、それがこの世界を多次元的な汎神論的なものに<ruby>止<rp>(</rp><rt>とど</rt><rp>)</rp></ruby> めてをり、おのおのの願望に従つて、もつとも望ましい未来の世界像を、時間の<ruby>彼方<rp>(</rp><rt>かなた</rt><rp>)</rp></ruby> へ思ひ描く。時間はわれわれの放恣な願望を描くだけの場所になり、空間の端のはうからかすかに犯してゐた時間の影は、もはや未来の空間にだけ関はるものになつた。同時に死は、まつたく現在の空間へ転移されないところの時間の苛酷な本質をあらはした。願望に充たされたきらめく多次元の未来の時間は、かくて死とシノニムになり、われわれの持ちうる唯一の「遠国」になつた。すなわち唯一の希望になつたのである。</p><p>　歴史は、つねに、ある人々の願望にこたへつつ、別のある人々の願望にそむきつつ、進行する。いかなる悲惨な未来といへども、万人の願ひを裏切るわけではない。　　　　</p><p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　───をはり───。</p><p>　　　　　　　　　</p><p>　引用：「太陽と鉄」異稿　決定版三島由紀夫全集　第36巻」</p>
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<link>https://ameblo.jp/tiraba-dwi/entry-12893607691.html</link>
<pubDate>Sat, 12 Apr 2025 17:54:42 +0900</pubDate>
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<title>三島由紀夫　師・清水文雄への最後の手紙</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;　拝復</p><p>　松尾先生と御寄せ書のお葉書ありがたく頂戴いたしました。しばらく御無沙汰申上げつつ、お<ruby>渝<rp>(</rp><rt>かは</rt><rp>)</rp></ruby>りなきことと信じてをりましたが、御文面を拝見、安堵いたしました。展覧会は一日一万人といふ大入りで今日閉会いたしましたが、小生は一度も会場へは出ず、（飾りつけを監督したのみ）、もちろん先生に御しらせするなど、みっともないことに思ってをりました。お客は若い人が圧倒的に多く、男九割、女一割の割合で、小生全く女に人気がありません。</p><p>　「作家論」のはうは、自分で大切に書いた仕事なので、お読みいただいて嬉しく思ひました。特に谷崎論が得意で、このごろますます谷崎氏の偉大さを感じてをります。</p><p>　「豊穣の海」は終わりつつありますが、「これが終わったら……」といふ言葉を、家族にも出版社にも、禁句にさせてゐます。小生にとっては、これが終ることが世界の終りに他ならないからです。カンボジアのバイヨン大寺院のことを、かつて「<ruby>癩王<rp>(</rp><rt>らいおう</rt><rp>)</rp></ruby>のテラス」といふ芝居に書きましたが、この小説こそ私にとってのバイヨンでした。書いたあとで、一知半解の連中から、とやかく批評されることに小生は耐へられません。又、他の連中の好加減な小説と、一ㇳ並べにされることにも耐へられません。いはば増上慢の限りでありませうが……。</p><p>　それはさうと、昨今の政治情勢は、小生がもし二十五歳であつて、政治的関心があつたら、気が狂ふだらう、と思はれます。偽善、欺瞞の甚だしきもの。そしてこの見かけの平和の<ruby>裡<rp>(</rp><rt>うち</rt><rp>)</rp></ruby>に、癌症状は着々進行し、失ったら二度と取り返しのつかぬ「日本」は無視され軽んぜられ、<ruby>蹂躙<rp>(</rp><rt>じゅうりん</rt><rp>)</rp></ruby>され、一日一日影が薄くなってゆきます。戦後の「日本」が、小生には、可哀想な若い未亡人のやうに思はれてきました。<ruby>良人<rp>(</rp><rt>おっと</rt><rp>)</rp></ruby>という権威に去られ、よるべなく身をひそめて生きてゐる未亡人のやうに、下品な比喩ですが、彼女がまだ若かったから、日本の男が誰か一人立上れば、彼女をもう一度女にしてやることができたのでした。しかし、口さきばかり巧い、彼女の財産を狙ふ男ばかり周囲にあらはれ、つひに誰一人、彼女を再び女にしてやる男が現はれることなく、彼女は年を取ってゆきます。彼女が老いてゆく、衰えてゆく、皺だらけになつてゆく、私にはとてもそれが見てゐられません。　</p><p>　このごろ外人に会ふたびに、すぐ「日本はどうなつていくのだ？日本はなくなつてしまふではないか」と心配さうに訊かれます。日本人から同じことを訊かれたことはたえてありません。「これでいいぢやないか、結構ぢやないか、角を立てずに、まあまあ」さういうのが利口な大人のやることで、日本中が利口な大人になってしまひました。</p><p>　スウェーデンはロシヤに敗れて百五十年、つひに国民精神を回復することなく、いやらしい、富んだ、文化的創造力の皆無な、偽善の国になりました。この間もベトナム残虐行為査問会（ストックホルム）で繃帯をした汚ないベトナム農民が証言台に立ち、犬をつれた、いい洋服の中年のスェーデン人たちがこれを傾聴してゐるのに、違和感を感じる、と書いてある人がゐましたが、日本が歩みつつある道は、正に、「犬を連れた、いい洋服の中年男で、外国の反戦運動に手を貸す『良心的』な男」の道です。</p><p>　どの社会分野にも責任観念旺盛な男はなくなり、デレッとし、ダラッとしてゐます。烈しい精神は時代おくれになり、このごろのサラリーマンはライスカレーさへ辛くて喰べられず「お子様用ライスカレー」と注文するさうです。</p><p>　こんな愚痴を、よく伊沢氏と語り合つては呑んでゐます。文壇に一人も友人がなくなり、今では信ずべき友は伊沢氏一人になりました。氏ほど小生の心情を直感的に把握する人はない、と<ruby>愕<rp>(</rp><rt>おどろ</rt><rp>)</rp></ruby>いてゐます。</p><p>　春まで御上京にならぬ由、洵に残念に存じます。お話したいことが山ほどある昨今であります。「山ほど」と云つたつて、悲憤慷慨だけですが。</p><p>向寒の折柄、くれぐれも御身御大切に。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p><p>　　　　怱々</p><p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　三島由紀夫　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p><p>　　　　十一月十七日</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/tiraba-dwi/entry-12893358170.html</link>
<pubDate>Thu, 10 Apr 2025 18:25:53 +0900</pubDate>
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