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<title>翻引棒周柵のブログ　～石音の鳴る方へ～</title>
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<description>囲碁とベースが大好きなオッサンが拙い言葉でデタラメに書きなぐります。</description>
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<title>好きであること</title>
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<![CDATA[ 突然だが、僕は「黒子のバスケ」読者である。<br><br>コミック・ジャンプ連載時と全部読んだ。アニメも毎週定時、とまではいかないが大体観てると思う。<br><br><br>本来僕は感受性がそんなに高くなく、何かに感動することもほぼない。<br><br><br>そんな僕だが、「黒子のバスケ」で唯一胸に響いたシーンがあった。<br>何度見ても感動するし脳に焼き付いている。<br><br><br><br>WC（ウィンターカップ）クォーターファイナル<br><br>陽泉高校　VS　誠凛高校<br><br>のラストだ。<br><br><br><br>ざっくり要約するとこんな感じだ。<br><br><br><br>大してバスケに興味がないのに才能に溢れまくってて高校トップの実力を持ち、尚且つ中学では負けなしだった紫原という選手がいる。<br><br>黒子のバスケを知らない人はYoutubeか何かでバスケのシャキール･オニール選手の活躍動画を見ていただきたい。単刀直入に言うならば、そのオニール選手が日本の高校の大会にフル出場している状況だ。大げさではなく、ほんとにこんな感じだ。<br><br>負けるのは嫌だから練習はするが、特に興味が無いために試合でも本気になったとしてもやる気全開にはならないし、負けそうになったら「もう無理だからオレ交代して。」という始末。<br>しかし、友人の涙を見て超やる気モードに。<br>でも負けた。<br>そして彼は言う。「ただでさえ興味無いのに、負けたら面白くもなんとも無い。バスケ部辞める。」<br><br><br>紫原、部活辞めるってよ。　状態だ。<br><br><br>しかし、友人は言う。「また来年頑張ろうな！」<br><br>「はぁ？辞めるって言ってんじゃん。どうでもいいよ。」と紫原。<br><br>友人は返す。「そうか・・。オレにはそうは見えないけどな。」<br><br><br>そこには大粒の涙を流す紫原がいた。<br><br><br><br>このやりとり、滅茶苦茶感動した。<br><br>普通に読んでも観ても感動した。<br>そして、考えさせられることがあった。<br><br><br><br><br><br><br><br>何かを極めるには「好き」という必要条件がある。<br><br>故に、「好き」だからといって「達人」になれるとは限らない。<br>しかし「達人」になるためには「好き」は欠かせないのだ。<br><br><br>あらゆる面で僕より秀でている人は世の中に星の数ほどいる。<br><br>各分野の達人たちは、きっと僕よりもそれが「好き」なんだと思う。<br><br>好きで好きでしょうがないから、もっと深く調べる。<br>好きで好きでしょうがないから、もっと修行する。<br>好きで好きでしょうがないから、とにかく時間を割くのだ。<br><br><br>だからか、好きなことを仕事にするって物凄い難しいことだと知った。<br><br><br>仕事って響きが何となく僕は嫌いだ。<br>色々なしがらみがついてまわるから。<br><br>そんな中でずっと好きなことをやり続けるって難しい。<br><br>共にする時間が長いほど、好きから遠ざかっていくんです。<br><br>ずっとやっている内に「面倒くさい」とか「やりたくない」とか、およそ好きなものに向けるとは思えない感情が芽生える。<br><br>僕にもそんな経験がる。<br><br><br>そんな中で、達人の域に踏み入るまでやり続ける人。<br>すなわち好きであり続ける人。<br><br>とてつもない精神力だ。<br><br>本人は辛いと思っているのだろうか？<br>苦になっていないのだろうか？<br><br>その気持ちはその人のみぞ知るから僕には分からない。<br><br><br>繰り返しだが、「達人」なのに「好き」と思っていない奴なんかいない。<br><br><br>僕は思考と音楽が大好きだ。改めて思う。<br><br>初心を忘れないように、好きであることを忘れずに進もう。<br>（好きであろうと努力するのは何か違うかもしれないけど・・）<br><br><br><br>そしていつか、達人の作品、マスターピースを産み出したい。
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<link>https://ameblo.jp/title-b-w-bass/entry-12042306477.html</link>
<pubDate>Tue, 23 Jun 2015 17:01:30 +0900</pubDate>
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<title>苦境で踏み止まれる才能、絶好調でブレーキをかける才能</title>
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<![CDATA[ 誰しもそうだとは思いますが、悩みは尽きない。<br><br>「私は悩まない人間なんです。悩みがないのが悩みです。」<br><br>たまにこう仰る方もいる。<br>論理学を嗜む方からストップがかかりそうなコメントだが、共感した。<br><br>人間は悩み苦しみ、色々なストレスの中ようやく光明を見出して乗り越えていくものだと思う。その苦悩の過程で経験したあらゆる困難、その解決法、身につく忍耐力　etc.<br>その壁が高ければ高いほど多くの苦悩も味わうわけだ。その分だけ身につくことも多い。<br>なるほど大業を成す者の心技体が一流になるのはそういうわけか。<br><br><br>しかし、あらゆることに悩まなかったとしたら？<br><br>本来、悩み苦しみ手に入れるはずの何か新しい力や考え方など今までの自分にはない成長が一切シャットアウトされるのではないか。<br><br>そう思うと能天気な僕も少し怖くなる。<br><br><br>時は経って、挑戦をすることになる。<br><br>壁にぶち当たる。<br><br>なるほど苦しい。乗り越えられるか不安になる。何度やってもうまくいかない。あと何回修行すれば会得できるのだろうか？そもそも僕なんかじゃ無理なのか・・・<br><br><br>悩みができた。<br><br>自分が頑張ればいいだけの単純な話だが、それでも悩んだ。<br><br><br>実力は伴っているとは言い難いが、これがスランプなのか。<br><br>スランプになると、自分の中でのパフォーマンスレベルが一時的に著しく下がる。が、乗り越えたら急速な伸びを見せる。<br>筋肉の超回復の原理のようだ。<br>寸々に切れた筋繊維、一時的にパワーダウンするが、回復後その筋肉は膨れることになる。<br><br>理論は分かる。<br>でも心は悲鳴を上げている。<br><br>苦しい、苦しい、早くこの状況から脱出させてほしい！<br><br>そこで逃げるも耐えるも本人次第。<br>ぐっと足腰に力を入れて踏ん張る。<br><br><br>僕も作品を産み出そうとしていると、こういう場面に少なからず出会う。<br>悩む。悩む。悩む。<br><br>そうして出来上がった作品は愛おしい。<br>手のかかる子どもを育てる親のような心境だ。<br><br><br><br>逆に、自分でも分かるくらい調子がいいとき。<br>頭の中が発想で溢れ返っている。それらをまとめ上げることすら簡単にできそうだ！感じる。今自分は調子がいい。<br><br>ここでできた作品は整っていて、自分の中では合格点をあげる。<br><br>でもね、最高点じゃないんですよ。<br><br><br>芸術と名のつく領域に足を踏み入れた以上、意識はしなくともやっぱり常に最高を目指していきたい。マックスのアウトプットをしたい。<br><br>確かに波に乗っているとき・・・<br>何でも思い通りにできそうだ。<br>手数多く攻撃のできる姿勢だ。<br>視野も広がっている。<br><br>事務作業やデスクワークならミスをしないという必須事項を掲げ、ノリにノってどんどん仕事をすればいい。<br><br><br>ただ、芸術はそれだけではいけない気がする。<br>理由は分からないし、何に通じているか対応する例も思いつかない。<br><br>一つ言えるのは、経験上ノリにノったときの作品は「こなしている」感がにじみ出てしまうということだけだ。<br>僕はこれを敢えて「駄作」と呼ぶことにしている。<br><br><br><br>最近、イメージ通りに作品を練り上げられる。ぴったりはまる。清々しいほどスムーズにコンベアが流れていく。<br><br>僕は急制動をかけ、ペンを止めた。<br><br><br>そのとき僕は思った。<br>「少しは成長できたのかな」<br><br><br>また苦悩の世界に逆戻りする。が、今度は言える。<br><br><br>「待っていろよ、最高の景色を見に行くからな」<br><br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/title-b-w-bass/entry-12038058105.html</link>
<pubDate>Fri, 12 Jun 2015 16:44:22 +0900</pubDate>
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<title>深奥幽玄</title>
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<![CDATA[ ふと、最近考えた。<br><br>自分の短い人生、何かを究めたい。<br><br><br>簡単には真似できない何かを。<br><br><br>決して悲観するわけではない。だがそんなことを考えたとき、自分はあまりに無力だった。並外れたものがないと改めて知った。<br><br>「特技は何ですか？」<br><br>街頭アンケート・履歴書・面接・心理テスト・・・・<br>様々なところで耳にするこの質問。気軽ささえも感じるこの文句。<br><br>それでも僕の精神に身体に、この検索ワードがヒットしない。<br>僕の魂のセンサーに反応しない。<br><br><br>僕は思った。<br><br>嗚呼・・浅いな、と。<br><br>今までの人生で僕は何をしてきたのか。<br>軸はある。善悪はどうあれ芯も通してきたつもりだ。<br>しかし血肉にしてきたものがあまりにも浅く、薄いと知った。<br><br>この世には僕の上位互換となる存在がたくさんいる。<br><br><br>どんなに他人から見て下らないことでもいい。とにかく「短い一生だが、これは誰にも負けない。」といえる何かを習得したい。<br><br>おそらく僕にはまだまだ時間が残されているだろう。<br>未来もまだ霞むには早いだろう。<br><br><br>得るなら今しかない。<br>得ようと求めるなら今しかない。<br><br><br><br>この世のあらゆるものは遍く深い。<br>本当に深い。僕なんかが想像するよりも深い。<br><br>その深いものを究めるには、僕自身その景色を拝める領域まで達さなければならない。何かを究めた存在が居るであろう世界の住人にならなければいけない。<br>楽しむことも、苦しむことも一入だろう。<br>もしかしたら、物事を究めるなんて永遠に不可能かもしれない。<br>でも信じ続けたその先にあるものがたとえ望むものでなかったとしても、その道を歩んできたことで確実に新たな何かを得るはずだ。絶対。<br><br>それはきっと、自分にとって形のない宝になるだろう。<br><br><br>僕には、今後もお互いを高めあうであろうパートナーがいる。顔も知らない、喋ったこともないパートナーもいる。<br><br>このパートナー達と宝を産み出す。<br>大きな想いを思いっきり詰め込んだ宝を。<br><br>僕が足を引っ張るわけにはいかない。<br>その宝を強く象徴し、パートナー達を感動させる想いを乗せたい。<br><br><br>もっと深く、さらに奥に、幽かな幻の如き含蓄を有する<br><br><br><br>そんな世界の住人に。<br>そんな空気を吸収しに。<br><br>芸術に足を踏み入れます
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<link>https://ameblo.jp/title-b-w-bass/entry-12034113160.html</link>
<pubDate>Tue, 02 Jun 2015 15:28:22 +0900</pubDate>
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<title>進化の片鱗～嫉妬～</title>
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<![CDATA[ 人には様々な「力」が秘められている。<br>それは超能力で心を読み取るとかいう、現代科学では解明不能なものを含めなくてもかなりの数があるだろう。<br>資質や能力と言っても差し支えはない。<br><br>それを最大限、もしくはそれに近いパフォーマンスで発揮するために必要なものも様々だ。これもかなりの数があるだろう。<br><br>その中で今回は根拠もなく最も大切だと考えている「環境」をピックアァップ！<br><br>ここでの環境は、狭義の意味である取り巻く風景や場所ということではなく、他者との交わりなどあらゆるシチュエーションを加味したものだと定義する。<br><br>人間は孤独下での成長はまずない。<br>あったとしても、それは限りなく非効率で遅いだろう。<br>５０ｍ走や１００ｍ走なんかがいい例になる。<br><br>「走る」というのは言語としての側面から見ると自動詞である。<br>だからなのか「○○ｍ走」なんてのはチームワーク競技ではない。<br>自分がただただ前に進むシンプルな競技だ。<br>しかし不思議なんです。<br>１人で走るのと２人で走るのとでは結果が変わるんです。<br>２人で走った方がタイムがいい、なんてことがよくある。<br><br>理論上自分のパフォーマンス１００％依存競技のはずなのに、他者がモロに影響している。しかも記録という競技の根幹となる部分で。<br><br>では絶対に他人がいた方がいいのか？<br>Yesとは言い切れない。<br>綱引きなんかがいい例になる。<br><br>力学的に考察すると、多少のずれがあるにしろ全員が同じ方向に綱を引くから、人数とパワーは比例するはずなのだ。<br>仮に１人で４０ｋｇを引けるとしよう。<br>２人なら８０ｋｇ、３人なら１２０ｋｇと机上での計算ができる。<br><br>しかし実験結果はどうか。<br>２人で７４ｋｇ、３人で１０６ｋｇほどになる。<br>もちろん誰一人手を抜かずの結果だ。<br>実験は連続で行わず、体力はリセットした状態で行っていたそうだ。<br><br>考えられる原因として挙げられるのが、「依存」である。<br>仲間がいることで脳のどこかでリミッターがかかってしまうそうだ。<br><br>じゃあ仲間と協力する競技は足の引張り合いをどれだけ抑えるかの醜い競技かというと、それも違うでしょう。<br>現にテニスのダブルスなどは１＋１が３にも４にもなるプロが大勢いる。<br>野球においても、サインや連携などチームプレイ無しで勝てはしない。<br><br>細かい性質は異なるから一概には論ぜられないが、他者の存在が必要かどうかはこの結果だけでは結論できない。（実験を加えればできるそうだけど、割愛）<br>しかし、他者が個に与える影響は大きいということはわかる。<br><br>好敵手なる存在がより高いパフォーマンスをすることで、「負けるもんか」と自分もより高みへ近づいていく。<br>ただ、環境によっては自分のやりたいことがなかなかできにくい場合もある。<br>好敵手のレベルが絶対的に低いものだったら・・・「俺もこんなもんでいいいや」という具合に、最高ではなく及第点をクリアするだけの志しか持てなくなることもあり得る。<br><br>かといって良き仲間を得て、そいつが頑張るから自分はそこそこでもいいなんて考えもしたくはない。チームの和が毒になるくらいなら、僕はチームを抜けて１人で好きなことをする。<br>自己中でも不遜でもない。客観的にそうした方がいいと考える。<br><br>高い目標に向かって突き進むことはいい。<br>だがある程度の目標をたててあぐらをかく行為はしたくない。<br><br>人は今後も他者に影響を受けていくだろう。頼らざるを得ない場合も訪れる。<br><br>僕はそんな時、他者とはお互いベストな結果を目指す関係でありたい。<br><br>お互い依存症にはならぬように適量の満足をしながら。<br>
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<link>https://ameblo.jp/title-b-w-bass/entry-11576550063.html</link>
<pubDate>Sat, 20 Jul 2013 12:38:41 +0900</pubDate>
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<title>進化の片鱗～傲慢～</title>
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<![CDATA[ 突然ですが・・<br>皆さん、自分と他人ではどちらが好きですか？<br><br>僕は他人です。<br>もちろん自分で自分を好きな部分もあります。<br>でも、他人の方がいいと思ってしまう。<br>自己嫌悪などではなく、持ち物・性格・技術・能力などあらゆる面で自分と他人を比較したときに他人の勝るものが光って見えてしまうのだと自己分析している。<br><br>これは至極当たり前であるが、人間は皆独特である。<br>DNAが違うから独特なんて当たり前じゃねぇかｗｗｗそう考えた方、その通りです。<br>でも、それ言っちゃうと終わりなので、AGCTの塩基を誰もが持つから差異はほぼ無いってことで許していただきたい。<br>喋り方・考え方・外見・・・・他人から影響を受けることは必然的にある。<br>何しろ広く普及している学問ですらそうだし。（「まねぶ」→「まなぶ」のこと）<br>しかし、それがゆくゆくはオリジナルになっていくし、意図せずとも個人個人の特有のものが生まれてくるものだ。<br><br>様々な要素を人間は自分の中に持っている。<br>自分しか持っていない要素があるかもしれない。<br>そうでなくとも、全世界中に自分の持つ要素は全て誰かが持っているけれど、組合わせとして自分と全く同じ奴なんていない。<br><br>かつて、アンセルムスやデカルトは神は実在すると言った。<br>「神はあらゆる属性を持っている、最大の存在である。」<br>「あらゆる属性を持つ最大の者Aを考え、仮にそれと同じ属性を持つ者Bが実在したとする。するとBにはAより≪実在する≫という属性を多く持っていることになってしまう。よってAも≪実在する≫という属性を持つことになる。したがってあらゆる属性を持つ存在である神は実在する。」<br><br>今ではこの考え方は否定されているらしい。<br>かくいう僕も偉大なる先人たちに比べて浅知恵ではあるが、これは違うと考える。<br>背理法（帰謬法とも）の観点から否定することもできなくはないが、ここはあえて自分の第一感を信じて感覚的に論じてみる。<br><br>僕は、あらゆる属性を持っていたら神じゃないと考えるんです。<br>「あらゆる」ってことは悪しき思考、つまりマイナスな側面を有するということ。<br>どんな良い性質も度が過ぎたれば及ばざるもの。<br>そういった意味で「神」などと大仰な呼称ではやされる存在は適当な具合に性質を有していると考えられる。<br>すると、神はプラスマイナス０になってしまう。<br>仮に各人間の価値をざっくばらんに決定するなら皆０だ。<br>良いところも悪いところもある。<br>質こそ違えど、神が人間と等しくなってしまうのだ。<br>さすがに、「世間の言う神の価値＝どこにでもいる凡人の価値」の等式は成り立たないだろう・・。だからこそ、僕は神はいないと考える。神の如き所業をやってのける者がいたとしてもだ。<br><br>このように考えている僕にとって、たとえ長けている分野があろうと各人の総合点は皆０だ。点数の優劣で他人を好きになりはしない。その理論だと、僕は自己愛・自画自賛・自意識過剰になる可能性を秘めていることになる。<br>色々な性質の０があるからいい。それは「０」であり「零」であり「Zero」でもある。<br>そんな中で、自分の「零」より他人の「０」を格好いいと僕の脳が告げている。たったそれだけのことである。<br><br>もし神が０だとするならば。<br>僕の考えが間違いで神が存在するのなら。<br>僕を含め、究極を目指す全ての人間の行き着く究極は、とどのつまり０かもしれない。灯台下暗しというと間抜けに聞こえるが、「原点回帰」これが表現としては一番正しいかもしれない。<br><br>無神論者である僕はこう言いたい。<br>「存在こそしないと考えるが、もし存在するのならのなら神よ。人類はすでにあなたの領域にいる。歩みを止めず、人生という道を踏みしめている。僕は、あらゆる属性を持つ神以外の色を持つ他人が好きだ。」<br><br>こんな卑小な存在の僕だが、偉そうに大それた言葉を吐くことはできる。<br>そう神に誓う。<br>
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<link>https://ameblo.jp/title-b-w-bass/entry-11570205281.html</link>
<pubDate>Wed, 10 Jul 2013 20:22:02 +0900</pubDate>
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<title>進化の片鱗～憤怒～</title>
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<![CDATA[ 僕はもちろん全員ではないが、年上の人を尊敬しています。<br>「年の功」という長年の経験に裏打ちされた鋭い感性は偉大だ。<br>しかし、いわゆる「頑固おやじ」の言うこと。<br>これに対し僕は否定的な態度を隠せない。<br><br>以下、決して愚痴や文句じゃない。自分なりの分析です。<br><br>「最近の若いのは」と口ぐせのように呟き、現代人を何かと否定したがる年寄りよ。<br>お前はそんなに偉いのかなどとは僕は言わない。<br>ただし、著しく客観性に欠けたその意見を持っていて恥ずかしくないかと言いたい。<br><br>最たる例がある。<br>人はネットビジネスでバブルの如く金を得ている若い人達に憧れる。<br>もちろん全員ではないが、一発あてて大金持ちになる人をうらやむ気持ちは少なからず生じてしまうのは自然なことだと思う。<br><br>しかしお年の方々は、こうして大金を手にしている若者を否定する。<br>すごく理不尽な理由でだ。<br><br>「ワシらの若いころは公務員になっておさまり返る軟弱な生き方より、民間の企業でガシガシ稼ごうとしたもんだ。でも今の若いのは老後の安定を考えている。若いんだからくだらないこと考えんと頑張ればいい。」<br><br>これだけでもムカムカしてくるが、さらに意味不明なことを言う。<br><br>「今のネットなんぞで稼いでいる若者いるだろう。楽して稼いで何になる。もっと汗水たらして働け。金を多く稼いだからってそれがどうしたというんだ。」<br><br>しかも挙句の果てには、話がまとまらないと自分で分かっていながら「若いのは年上の言うことを聞いていればいいんだ」と言う。<br><br>こうした、論理性も欠如していれば客観性を失ったような意見を僕はひどく嫌う。<br><br>さっき金を多く稼ぐために民間でどうのこうのと言ったのはどこのどいつだ。<br>そして自分より何倍もの収入を得た者に対しては金より努力を語る。<br>最悪だ。都合僕はこうした考えを持った世代の方と話をする機会が多いが、その度に爆発するのをこらえている。<br><br>こうした世代の方は自分が正しいと思い込んでいる。<br>論理的根拠が少しでもあるならそれでもいい。<br>でもこの方達は、自分の思い通りでないと満足しないなどとエゴ全開な人間性を出しているだけなんだ。会話にならない。相手の不満を買うだけだ。<br><br>だからこそ、自分が勝てない土俵を避けて説教を始める。一本通すはずの芯をシャーペンの如く入れ替わり立ち替わり取り替えまくっている。軸も何もない。<br><br>確かに稼ぐ金の量と努力量は必ずしも比例しない。<br>だが、大金を手にする若者が何の努力もせず単に一発当てただけだと本当に思っているのか。そう信じ込むことでしか防衛機制を働かせられないほど愚かなのか。<br>苦労が無くて金が手に入るほど甘くはないですよ、この世の中。<br>自分より苦労が少なく稼ぐ金は多いのが気に入らないだけだろう。<br><br>こうして収拾のつかない空虚な会話になる。<br><br>人それぞれの人生。歩み方もペースも人それぞれでいいじゃないか。<br>ヒトとしての生きる意味は答えのない（というよりも何が正しいか難しい）難題だが、好きなことをできれば満足じゃないか。<br>政治経済でシステムを作るもよし、歯車になるもよし、最低限の給与で趣味に生きるもよし。十人十色だ。こうした僕の考えだって正解ではなく「一つの解答」なのだ。<br><br>色々な考えがあるから、世界が成立する。<br>全員が同じ考えだと世界は悪化はせずとも、停滞するのみ。当然、腐敗する。<br>能力を生かすも殺すも自由なんだ。<br><br>だからこそ、人の嫌がることをすべきではない。独裁で自分の客観性を欠いた考えを他人に押し付けるなんてもってのほかです。<br><br>しかし、こんな目に遭うことは生きる上で必要かもしれない。<br>ストレスに遭うことで脳は学習する。<br>大脳辺縁系がより高度に、状況に対する柔軟性を帯びる。<br>人間的に成長する。記憶というデータが蓄積される。<br>また、ストレスを感じることによって創造性も研ぎ澄まされていく。<br>恐怖の体験・喜びの瞬間・不快への敵意など様々な体験が自分を押し上げる。<br><br>ヒトとして生きる上で重要なことだ。<br><br>僕は今後もあらゆるストレスに対して敬意を払う。<br>たとえそれが辛く苦しくても。<br>自分に喝を入れる不快に喝采を送る。<br><br><br>
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<link>https://ameblo.jp/title-b-w-bass/entry-11567127336.html</link>
<pubDate>Fri, 05 Jul 2013 20:55:29 +0900</pubDate>
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<title>進化の片鱗～色欲～</title>
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<![CDATA[ 「色」という字にはプラス・マイナスの両方のイメージがある。<br>プラスとして「才色兼備」、マイナスとして「好色」などの例が挙げられる。<br>今回マイナスイメージの「色」に焦点を当てたい。<br><br>僕はこのマイナスイメージの「色」を必ずしもマイナスとは思えないんです。<br>「色」を性的欲求の意味として考えたとき、それは品のないもの・煩悩に位置されるもの・下世話なものと考える人が大多数だろう。もちろん僕もそう思う。<br><br>しかしこうも考える。<br>「色」こそ人間に内在する重要な要素の一つであると。<br><br>よく「人間は何のために生きるのか？」という問いを耳にする。<br>それに対し読書家や自己の考えを強く持つ人はこう言う。<br><br>「それは自分の遺伝子を残し、自分の考えを後世に伝えるためだ。」<br><br>すみません。そのある種の定説、否定します。<br><br>何故なら、問いに対する回答になっていないからです。<br>個人が生きる意味としてはギリギリ回答として成り立ってはいるけれど、ヒトという種が存続する理由になっていない。理由ではなく、手段になってしまうんです。<br>種として存続するために遺伝子を残すといった方がしっくりくる。<br><br>個人の単位で考えてしまうと生きる理由なんて様々だ。<br>自分の考えを後世に伝えるのが目的、という風に一まとめにしても「じゃあ何故自分の考えを伝えるのか？」とグルグル回しにされ、結局元の問題に回帰する。<br><br>ここで一つの答えが自然と生まれる。<br>「進化」です。<br>「じゃあなぜ進化するの？」と聞かれて議論は長引くばかりだが、少なくともグルグル回しになって未解決のまま回帰することはない。<br>別の質問にすり替わっていくだけだ。<br><br>単に遺伝子を残すことなら、人間でなくとも魚類だろうが昆虫だろうが爬虫類だろうが全生物がしている。大脳を持たず、高度な感情の無い生物までしているんだ。<br>しかし、全生物が自分たちの種を絶やさぬよう進化するよう生きていると考えれば一応の辻褄は合う。その中で、人間はヒトに許された高度な思考をもって進化のために生きていると結論できる。<br><br>ここで、種を残す本能行動のエンジンとなる性欲が重要になってくる。<br><br>人間の行動はあまねく欲求がエンジンになり起こるものだ。<br>「仕方なくやることもある」という考えもあるが、それは相反する欲求を天秤にかけてより大きな欲求をエンジンにして行動を起こしたに過ぎない。<br>つまり、性欲なしには種を残す行動は起こりえないことになる。<br><br>「色」のもつマイナスイメージは、人間の生きる意味にもつながるであろう重要な意味を含有している。<br><br>もう一度言いたい。<br>僕にはこのマイナスイメージの「色」を必ずしもマイナスとは思えない。<br>マイナスの中にこそプラスが潜んでいる。<br><br>プラスのイメージにもマイナスのイメージにも鮮やかな色彩を放つ。<br>そんな暖かくも冷たくもある人間でありたい。<br>
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<link>https://ameblo.jp/title-b-w-bass/entry-11562593211.html</link>
<pubDate>Fri, 28 Jun 2013 20:49:19 +0900</pubDate>
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<title>進化の片鱗～怠惰～</title>
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<![CDATA[ いきなりだが、僕は相当な面倒くさがりである。自他ともに認めています。<br>周りの人間、特に親からもそう思われている。<br>これは中学の時のことです。<br>僕「オレ心を入れ替えて明日から毎日１時間勉強するよ！」<br>母「今日からやらないんだ（笑）」<br>僕「ハハッ・・・」<br><br>こんな始末。明日から毎日４時間ゲームが始まったのは言うまでもない。<br>とにもかくにも、僕は忍耐が苦手で、嫌いなものであり尚且つ何か気合を入れてやる必要のあるものは続かない人間なのだ。好きなものは続く。僕にとっての「囲碁」「ベース」がそうだ。周りが引くくらいやった。<br>唯一人生で一番頑張ったのは大学受験のみ。しかしこれも途中から学ぶことが面白いと思い始めた。だから前の文の定義に当てはまらないかもしれない。ただ、あくまで最初は嫌だったので努力したカテゴリに入れています。<br><br>僕以外にもこんな人間はいるだろう。<br>怠け人間が跋扈する世の中。大多数の人間がそれを否定する社会。<br><br>しかし、それではこういう人間は人間として終わっているのか？<br>NOだ。<br>世間の成功者全てが粘り強い勤勉型なのか？あり得ない。<br>世間の失敗者全てが怠け人間なのか？いや、報われなかった努力家もいる。<br>成功や失敗は怠けるか勤勉かには依存しないだろう。<br>（もちろんある程度の勤勉さは必要だろうが。）<br><br>僕はむしろ「怠け」や「面倒くさがり」をある種の才能ではないかとさえ考える。<br><br>なぜなら究極の完璧人間こそ勤勉からかけ離れているからだ。<br><br>なぜヒトは頑張るのか？努力するのか？勤勉になるのか？<br>答えは簡単。不完全だからだ。<br><br>完全になるのはほぼ不可能。<br>でも限りなく完全を目指して精進する。<br>仕事でも、バリバリやって稼ぐ。<br>貢献する。<br>自分で仕事を見つけ、さらなる成果を求める。<br><br>こうした努力をする者は世間では評価される。結果が出れば更に評価される。<br>当然のことながら、努力せず仕事のできない者は使えない烙印を押される。<br>ダメ野郎と言われるだろう。<br><br>しかし本質がダメかというとそうではない。<br>なぜ怠けるのかにも理由がある。<br>それは最小限の努力で最大限の効果を出せないかを常に考えるからだ。<br>単に面倒くさくて逃げる時も及第点の成果を上げることで、困難から回避する。<br><br>つまり、この人間は他人より少ない又は全く努力せずにそこそこの結果を出せる。<br><br>いかがか？<br>これでもこの人間はダメ野郎なのか？<br>いやむしろ潜在能力は高い方ではないだろうか。<br>ただしそれを生かすも殺すも本人次第。現段階では無駄にしているかもしれない。<br><br>究極の完璧人間も高い潜在能力を持つが、同様に怠けてしまう。<br>それはこういうことだ。<br>度重なる進化の末、頂きに立つことのできた人間がいると仮定する。<br>しかしてその正体は頂に立ったがために努力を失ってしまった「完全」である。<br>当然だ。全てを極めて「目標」がなくなってしまったのだから。<br><br>皮肉なものに感じる。<br>「非努力」を目指して「努力」するなんて・・・。<br>人間が最高の存在に向かい進化すればする程、便利で、努力の要らない世界になっていく。いつかその時が来たらあらゆる努力が水泡に帰すようになるだろう。<br><br>しかし、何事も極めるためにはある程度の努力は必要。<br>何も極めておらずに成果も出ず、そして怠ける。これは才能を悪用している。<br>本人が苦に感じるかどうかは別として、何かを極めた人間は他人には真似できない努力をきっとしているに違いないんだ。<br><br>僕は色々な意味でまだまだ不完全。<br><br>究極の怠惰に向かい、努力を惜しまぬ人間になりたい。<br>
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<link>https://ameblo.jp/title-b-w-bass/entry-11554816265.html</link>
<pubDate>Tue, 18 Jun 2013 03:26:36 +0900</pubDate>
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<title>進化の片鱗～暴食～</title>
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<![CDATA[ 僕は食べることが好きだ。嫌いな食べ物がおそらく無いだろう。<br>世の中全員が同じように嫌いな食べ物が無いことはあり得ないが、「食事」そのものの行為を嫌う人間はいないだろうと考えている。精神的・身体的に事情のある方を除けば、この考えは正しいと思う。<br><br>そもそも「食事」という行為は何なのか。<br>間違いなく生命維持のための必要最低限な行為なんかじゃない。<br>いや、それが間違っているとは言わない。それだけでは解答として不完全なのだ。<br><br>生命維持のためだけの行為ならば、「食事」しなくていいのだ。<br>ビタミン・タンパク質・脂肪などの栄養を摂取すればいい。注射でいい。口からである必要はなく、とにかく必要な栄養があればそれだけでいい。（経口摂取に意味があるとも考えられるが、高齢者などの例を思い浮かべていただくとわかりやすいかもしれない。）<br><br>毎日が多忙な人は食事の時間さえ惜しいという。現に丸１日何も食べずに終わることがあり得る。そういう人には明らかにこの方法は有効だ。貴重な時間をさらに手に入れられる。<br>確かに栄養そのものを単体で手に入れるのは難しい。<br>コンビニに行って「すみません、ビタミンを１．０ｇとタンパク質を０．５ｇ下さい。」なんて言ってみたとしよう。最早コントだ。キングオブコントに応募して２回戦あたりで砕け散るビジョンが見えるでしょう。<br><br>では、単に入手困難だから栄養素を動植物から摂取しているのだろうか？<br><br>僕はそれだけではないと思う。<br><br>大昔はそうだったのかもしれない。<br>生命を維持するために、狩りを行って、植物を採取して、火の扱いを覚えて・・・<br><br>しかしその原始的な食事も変貌を遂げている。<br>今では、手軽にサンドイッチやおにぎりが手に入る。<br>レストランで豪華な食事を楽しめる。<br>日本にいながら中華・イタリアン・フレンチ・カレーなどのものを食べられる。<br><br>そう、最も進化しているのは「調理」という点だ。「料理」することとも言える。<br><br>大昔にソースをかけることが考えられただろうか。<br>大昔にマヨラーがいただろうか。<br>醤油につけて寿司をほおばることができたか。<br><br>科学の進歩により、これらの源である生の食材に加工し見事に仕上げるための器具や機器が生まれた。科学の発展がこんなところにも応用されているのだ！<br><br>調理によって単なる「経口摂取」が「食事」へと進化した。<br><br>食べることが一つの娯楽になっているのだ。「食べること」を楽しむ域に達した。<br>それは視覚で、嗅覚で、味覚で、触覚で、時に聴覚で僕達を魅了する。<br><br>この「食べること」の進化は人間が生き続けた結果だ。<br>生き続けて人間自身が進化したことによる産物だ。<br>「食事」は人間の進化の象徴の一つのように僕は思う。<br>人間の飽くなき進化への渇望は「食事」を生み出し、「食事」をして生き続けることで生まれる。生かし生かされ、精神の安らぎや感情の昂りをもたらす「食事」。<br><br>僕は「食事」が好きだ。<br><br>この人生、しっかりと噛みしめて生きていこう。<br>
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<link>https://ameblo.jp/title-b-w-bass/entry-11551894165.html</link>
<pubDate>Fri, 14 Jun 2013 08:16:48 +0900</pubDate>
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<title>進化の片鱗～強欲～</title>
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<![CDATA[ 疑いを持つこと。<br>僕はそれを素晴らしいことだと考えている。<br><br>ここだけを見ると、僕が相当変な奴かと思うかもしれないが、その通りだ。<br>続けて読んでくれるとありがたい。<br><br>「疑」という文字はそれだけでマイナスイメージがあるように見える。<br>「容疑者」「疑似」「疑心暗鬼」・・・様々な負の音が流れ込む。<br><br>しかし、疑うことは高度な脳を持つ人間という種が見せる賞賛すべきパフォーマンスである。僕はそう考える。<br>それについて、人間と疑いを知らないコンピューターの比較によって考えてみた。<br><br>人間にはコンピューターほどの膨大な容量を頭脳にインプットできはしない。<br>スーパーコンピューターを何台も用意すれば、人間にそれらの容量を超えることはできはしない。<br>計算スピードもはるかにスーパーコンピューターの方が上だろう。ある程度の単純な高等数学ならば人間の方が速いが、複雑な処理において人間の頭脳が電脳に勝つのは不可能だ。<br><br>だが人間には電脳が持たない「感情」 「個性」 「直観」といった武器がある。<br><br>これらの武器は強力だ。何故なら思考することなく結論を導き出してしまうからだ。<br>時に誤った結論に到達してしまうこともあるけれど。<br><br>人間とコンピューターの違い、さらに言うならコンピューターが人間に勝ちえない点はこれらの「心」にあるのだと考えられる。（「心」なんて漠然とした言葉を選んでしまい、すみません。）<br><br>所詮コンピューターは、その作った当時の人間の最大のパフォーマンスを出力できるだけだ。確かにそれはすごいことだ。<br>ただしその代償なのか、コンピューターは自力でそれ以上の進化を望めない。<br>自律思考のプログラムが現存するが、究極じゃない。<br>だってあらゆるコンピューターは人間が作ったものなのだから。<br><br>そう、「自力での進化」。これこそが人間のすごいところだ。<br>では、数ある感情の中で何が人間をここまで押し上げたのか。<br>「疑い」だ。（多分これが唯一の解答じゃないけれど、一つの答えだろう。）<br><br>人間が疑わない種だとどうなるか。<br>それはそれはヌルい世の中になる。<br>あらゆる「不完全」を「完全」と見なしていることと同義だからだ。<br><br>常に「現状が最善か」「これ以上は本当にないか」と疑い、結果進化している。<br>「今以上がほしい」<br>「更に上に行きたい」<br>「もう一段階積み上げられる」<br>こうした渇望の正体こそが疑念なのだ。<br><br>だからなのか。僕はすぐ物事を信用してしまう人間をあまり信用できない。思考というプロセスをすっ飛ばしている。人間の持つ「感情」「個性」「直観」を悪用している。<br>これらの武器は研ぎ澄まして勝負所で発揮するべきものであって、あらゆる場面で、死活問題となる決断の場で乱用するものではない。<br><br>物事を熟考し、次の段階へ一歩を踏み出すべく自分の「感情」「個性」「直観」を思考にブレンドして至高へ近づく。<br><br>何事も疑ってかかる人間こそ進化の可能性を秘めている。<br><br>僕はそう信じて疑わない。<br><br>
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<link>https://ameblo.jp/title-b-w-bass/entry-11551045952.html</link>
<pubDate>Thu, 13 Jun 2013 04:08:49 +0900</pubDate>
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