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<title>碧空の下で</title>
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<description>タイのチェンマイに移住した妄想老人?のブログにてご高覧はよしなに。gooblogより移転しました。</description>
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<title>チェンマイ在住１０年</title>
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<![CDATA[ <p>　　　　　　<a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260709/16/to2512/b7/e0/j/o0903060315800875802.jpg"><img alt="" height="280" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260709/16/to2512/b7/e0/j/o0903060315800875802.jpg" width="420"></a></p><p>チェンマイに移住して、早いもので１０年たった。チェンマイに来たころは昔の時代の残り香がかすかにあったような気がする。街中を象が歩いていたのは見てないが、手造りの工芸品が生きていた。つまりそれで生計を立てる人々が多くいたのです。人件費が安かったことも有って、手間暇をかけて作る工芸品がおおく生活に溶けこんでいたのです。しかしながら工業化された段階ですでに資本主義的競争に巻き込まれていくわけで１０年前ですら、売り上げが２割から３割も落ち込んでいた。ランパーンの陶磁器メーカーを回ったときにいい話は聞けなかった。見本市を見ても手作りの商品はほとんどない。まだ日本の方がその点は底堅い需要があると思いました。コロナの後のことはいわずもがなで、想像におまかせしますが、ハンドーンのバーンタワイの木工団地などは人がいない。大きいショウルームも閉まっているところが目立つのです。増えたのはカフェとマッサージ店と大麻ショップで快楽都市チェンマイへと変貌しつつあるのかも知れません。</p><p>&nbsp;</p><p>　　　　　<a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260709/16/to2512/d5/e7/j/o0903060315800876084.jpg"><img alt="" height="280" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260709/16/to2512/d5/e7/j/o0903060315800876084.jpg" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Wed, 05 Aug 2026 14:46:58 +0900</pubDate>
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<title>如月（きさらぎ）荘の夕焼け</title>
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<![CDATA[ <p>　　　　　　　<a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260301/22/to2512/eb/35/j/o2261382415756272676.jpg"><img alt="" height="710" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260301/22/to2512/eb/35/j/o2261382415756272676.jpg" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>東京の国立市と言えば駅から放射状に真っ直ぐのびた道路がちょいと近代的な雰囲気をかもす街なんですが、当時昭和４０年代頃はすこし歩けば畑があった時代に、中央線の国立駅のまわりに何軒かあった小さなスナックバーへ行ったのはなんのためかといまごろ思いだそうとしているのだけど、なんせ昔の話で記憶が定かではない。店の名前もおぼろでそこでお酒を飲んだ記憶もないのだけど、飴色に塗り上げた古い木製のドアの色が記憶にある。場末にある安っぽい棟割りの店だった。私はといえば、あのころ中央線の沿線のアパートを転々としていた学生だった。友人のKが国立市に住んでいて、音楽大学に通っていたが、たまに発表会と称して、どこかの場所を借りて演奏するのを聞きに行ったことがある。たいがい発表会よりもその後の打ち上げが目的みたいなていで、友人ずらして飲み会に混じっていたら、突然即興の演奏がはじまって、おまえもなにかやってくれというので、飲み物を運ぶ銀盆を叩いて、でこぼこにしてしまったような思い出がある。その会場を貸してくれた通称Mマダムという４０歳すぎぐらいの女性が印象的な口元に付けぼくろをして、まるで女優のようにふるまうので、若い学生には人気があった。会場は武蔵野の風情が残る林の中にあるレストラン兼クラブでもと男爵の別邸だった広い敷地にテラスもある大きな平屋建ての建物は洋風の煉瓦の壁に蔦が絡まっているのだった。客筋は近くの米軍のGIとかが多くここは治外法権的なあやしい雰囲気があってそんな雰囲気も学生には刺激的な場所だった。刺激的といえば、単に雰囲気だけではない、クラシックの曲を演奏をしているうちはお客もおとなしく聴いてくれるのだが、ポップミュージックやダンスっぽい曲の演奏が始まると決まって男女のペアが濃厚な接触でダンスを繰り広げるのが常で、そのうちベトナム帰りのGIが酒に酔った勢いで何が気にくわないのか怒鳴りはじめたりするのだ。学生がびびりながらも、それを無視して演奏を続けるとさらに大きな声で怒鳴ってくる、仲間のGIがなだめに入るが怒ったその男はついに立ち上がり学生の方に向かってくる。そのGIと学生の間に座っていた自分が立ち会あがると、明確な目標ができたその男はわたしにむかって、英語で罵詈雑言をまくしたてた。当時長髪のヒッピーのような風体で酒なんか飲んでいる日本の若者が癪に障ったのかおそらくヴェトナムから帰ってきたのかこれから飛ばされるのか分からないが、いずれにせよ酒の勢いだけではなく苦悩の眼の色をただよわせてやるせないはけ口を求めているように正確には悲しみを怒りにかえてどなっている感じだった。こっちは英語で怒鳴れてもいっこうに刺さらないので、冷静に酔っ払いを観察してみると、だんだん相手の気持ちが分かるような気になって、「あなたの気持ちは分かるような気がするけど、もっとおちついて」と英語で言うと相手は一瞬眼を見て驚いた表情をした。握手の手を差し出すと彼はその手に触れようともせず、仲間のGIに肩を抱かれて向きを変えた。仲間のGIがふりかえり片手を上げてすまなかったというふうに合図をした。「気にしないさ」そう言うとまた手を上げて店から出て行くのだった。咄嗟のことだったが、こんな態度をしたのは、以前にも似たような経験があって、同じアパートに住んでいた学生のS君と立川の居酒屋で飲んでいた時に、若い米軍のGIがS君との会話の途中からだんだん怒り始めて、罵詈雑言をどなってあわや暴力ざたになるようなことがあった。S君は普段はまじめな法学部の学生で、人に喧嘩を売るような人間ではないのだが、彼はESSクラブに入っていたので、よく電車の中や街で外国人を捕まえて、英会話の練習を実践するくせがあって、彼の父親が言うには、せっかく大学へ行くのなら、一生身に着く技術を一つだけでも獲得しておけと言われて、地方の田舎から東京の大学へきた以上、彼には英会話がその一つであったらしく、学び方にも根性が入っているのがはた目にも感じられた。そして当時接触しやすい外国人と言えば米軍の軍属で、特に立川や横田周辺の街によくでかけていたらしい。そのようなS君のご指導よろしく、米兵との付き合い方を教えてもらっていたわけで、その経験が生きたわけだが、当時はベトナム戦争反対の機運が盛り上がっていて、とくに学生においては、その運動が過激になっていたころなので、米軍に対する反感はS君も当然持っていたが、そのことと会話はべつのことだとするS君の行動が非常に大人っぽく思えたのが印象にある。その後米兵の脱走事件が表面化されて、日本の基地からロシア経由でヨーロッパへの脱走ルートがあると新聞記事になったりしたが、その時以来S君とは会う機会が無くなった。そんな話は、さておいて、武蔵野の林に囲まれたクラブ如月荘を仕切っていたMマダムがビールを片手に持って、私の席に来るなり「ありがとう、時々あんな風な人がいるのよ、気分悪くしないでね。どうぞこれはサービスよ」そう言ってテーブルにビールをおくと「お名前きいてもいい」と言うので「Yと言います」と言うと「同じ音大なの」と聞くので「ええ」とうそを言ったのだが、それを見抜いたように、「楽しんでね」と言ってニヤッと笑って奥の方へ別のお客の方へ向かって行った。その後演奏を終わって友人のKがこの店のホステスの見習いA子と一緒にやってきた。「おどろいた？ちょっと危ない感じがしたけど、うまくおさめたね。俺もいい経験になったよ。」そういうと横にいたホステス見習いのA子を紹介した。ちょっと面長の東北顔で美人とは言い難いのだが、胸のふくらみが目立っていた。学生の身分で来れるような場所ではないのでほんとうにまれな出会いになったのだが、その後顔をみることもなく、何年か後でA子が自分で小さなスナックの店を持つことになってそこにKに誘われて一緒に訪れた時にA子が、一度なつかしの如月荘へ行こうと言い出して客として一度だけ行ったのだけれど、A子はMマダムからお金のない学生と付き合うのはやめなさいと言われたらしい。きっとそれは若い女への嫉妬だけではない。水商売の先輩としての忠告だろうが、A子は時代が違うのよと言ってKの顔をのぞくのだった。二人の関係が深まっていたのは察しはついたが、あとで聞いたはなしだが、そのころ、Kはバンド演奏で稼いだバイト代をほとんどA子に貢いでいた。同居はしていないが夫婦のような間柄だったらしい。そのKがこともあろうにあの新宿騒乱事件の夜に新宿で逮捕された。ノンポリと言うよりむしろ学生運動に批判的なKがまさかデモに参加するはずはないし、もし参加しても逮捕されるようなことをするとは思っていなかったので、彼を担当した弁護士から連絡があった時は、なんでそんなことになったのか驚くとともに、彼がなぜ自分に連絡してきたのかその心情を考えるのだった。</p><p>翌日、小菅の刑務所に会いに行くと、面会室の透明な仕切りの向こうで照れたような微笑みを浮かべながら他人のような仰々しさで話し出した。監視官が横にいる中で告白めいた話をするわけではないのだが、逮捕された時の様子を話し出した。それによると、あの日の夕方にバイトの話で新宿の喫茶店へ行ったらしい。その話の後に外に出ると街はすでにデモ隊が行進していたが、駅の東口辺りにくるとジグザグデモになり道路はデモ隊で一杯になっていた。当然車やバスなどは通行できなくなり、歩道には多くの見物人と言うか、デモを見守る人々が集まりやがて歩道を越えてまるで歩行者天国のように車道にも溢れ出してデモに参加する人たちも多くいた。その時、Kのそばにいた背広にズック靴を履いた男たちが歩道にいる人々を煽ったのだ、デモに誘うように手を振って、みんな参加してくれと声を張り上げた。何人かの若い男たちが、その煽りを受けて、歩道から車道へ飛び出していった時、その煽った男たちは、歩道から飛び出す一人の若者の足を蹴りあげた。若者はたまらず車道でもんどり打って転がった、すると群衆の中にいた男たち、背広にズック靴の男たちが何人か一斉に転んだ若者を抑え込みにかかり、若者は必死に抵抗したのだが、後ろ手に抑えられて逮捕されたのだった。Kはその一部始終をみて、腹が立ったのだ、過激なデモをしている人間を逮捕するのではなくそれを見ている一般人を煽って、騙して逮捕する警察のやり方がまるで、自分は仕事をしましたという言い訳づくりと、そのためなら、捕まえやすい一般人を落とすのが彼らのやり方なのだということを、目の前で見てKは込み上げる怒りにまかせて、警察の男たちに向かって抗議したのだ。Kの抗議に歩道にいる人々の何人かは同じく抗議の声を上げた。一種の興奮状態の中で抗議の声が広がるのを恐れた警察はKを素早く取り囲みその場から引きずり出して逮捕したというわけだった。「そうかそりゃ災難だったな、誰かが言っていたけど小さな権力が積み重なって国家権力が出来上がっているって、右だ左だ言っても結局は上か下かその程度のものなんだ。」そう言うと、Kは「お前さんらしくもない、あの日は何処にいたんだい。」看守の様子を伺いながらそう言うと「ああ、俺はあの晩駅のホームにいたよ。あの夜はパーフェクトゲームだった、なにせ投げる石はいっぱいあるからね。機動隊がビビッて盾をかざして後退していくのをはじめて見たよ。ジュラルミンの盾はデコボコでヘルメットのフェースガードが吹き飛んだから、指揮官も焦ったろうね。ホームの階段へ避難した後二度と出てこなかったさ。その時誰かが騒乱罪が適応されたらしいと言っていたのを聞いて、それでその日のパーティはおしまいになった。そんな訳であの晩は駅から友人のアパートのある高円寺まで誰もいない中央線の線路の真ん中を歩いて帰ったさ、いい気分だった。電車のない東京がこんなに静かなのはちょっと不気味だったよ。」「ああ。やっぱり居たんだ新宿に。」そんな会話の後、KはA子にいまの自分の状況を伝えてほしいと頼む顔にはすでに照れくささは消えていた。</p><p>後日、Kに教えてもらった電話番号に何度か電話を掛けたが通じなくて、直接A子のスナックへ行ってみたのだが木のドアは鍵がかかって店は閉まっていた。もうスナックをやめたような雰囲気もあったので、隣の店の人に尋ねると、最近は休みが多く前に働いていた如月荘に行っているらしいとのことで、次の日の夕方に如月荘へ出向いた。その日は土砂降りの雨が降っていたがちょうど夕方には晴れて、涼しい風が吹いていた。武蔵野の風情を感じさせる大きな樹のある入口の駐車場には車が何台か雨粒を光らせていた。中に入って用件を中年の黒服に伝えると、A子は胸元を大きく開いたドレス姿で出てきた。少し驚いた様子で小声で「今日は、お久しぶりね。どうしてここがわかったの。」そう言うと、玄関から外へ誘って、「今日はお客さんが来ているのよ。よかったら明日来てくれない」と言うので、「遊びに来たわけじゃないよ、実はKのことだけど・・」そこまで言うと急に顔色を変えたA子は下を向いた。「すでに知ってるのかい、逮捕されたこと」そう尋ねると「ええ、バンドの人が知らせてくれたの。ここまでわざわざ知らせに来てくれてありがとう。・・ごめんね、ごめんね・・」その顔はみるみる泣き顔に変わっていった。その時店の方からMマダムが出てきた。彼女はA子の様子をちらっと見るとこちらに向かって「ここはね学生さんの来るところじゃないのよ、悪いけどまたにして。」と水商売の本音が出て、A子を店の中に急き立てるように二人の間に割って入った。A子は申し訳なさそうな顔をしながらも「もう来ないで、Kにも伝えて・・」と小さな声で店の中に入って行くのだった。赤い夕陽が彼女の白っぽいドレスに映って悲しそうなピンクに染まっていた・・</p>
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<pubDate>Thu, 19 Feb 2026 19:40:17 +0900</pubDate>
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<title>吉例初笑い2026</title>
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<![CDATA[ <p><br></p><div>&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp;<a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20260101/12/to2512/05/4b/j/o1080160815736300856.jpg"><img src="https://stat.ameba.jp/user_images/20260101/12/to2512/05/4b/j/o1080160815736300856.jpg" border="0" width="400" height="595" alt=""></a></div><div><br></div><div>八　　　明けやして、おめでとうさんです。本年も昨年以上にご厚意を賜りますれば　　　　　　　　　　　<br></div><p>　　　　ありがたき幸せで、なにとぞよろしく・・</p><p>ご隠居　どうしたんだい、やけに丁寧な挨拶じゃないかい　</p><p>八　　　ええ、あっしもね今年から親方になるんで、すこしは貫禄と言うか威厳と言　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; うか、かっこつけって言うか。・・おのうの方よろしいか、今日から親方と　　　　　　　　　　　　　　　&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; よんでくれまいか・・はっはっはっ・・いざ出陣じゃ～</p><p>ご隠居　古いね~忠臣蔵の大石内蔵助かい長谷川一夫だろ。もう歳は明けてんだよ</p><p>八　　　ならば切腹じゃ～</p><p>ご隠居　さっさとやっちまいな。包丁貸してやるよ。</p><p>八　　　その前に今生の別れにササを所望する。</p><p>ご隠居　そんなことだろうと思ったね。じゃなにか、お前さん弟子をとったのかい。</p><p>八　　　さよう、たとえ一人と言えど上に立つ身、以後親方の道をまっすぐに大工の　　　&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; 誉となりまする。</p><p>ご隠居　まだ、言ってるよ。それでその弟子ってのはまだ若いのかい。</p><p>八　　　ええ、歳は２７歳で、郷里は信濃の上田です。縁あって今年から弟子に</p><p>ご隠居　そうかい、じゃ住まいは、</p><p>八　　　それが、あっしの屋敷に・・</p><p>ご隠居　お前さんの屋敷たって四畳半2間じゃないか</p><p>八　　&nbsp; &nbsp;そうなんすけどね、隣の離れにとは考えたんですけど</p><p>ご隠居　物置かい。狭すぎるだろ</p><p>&nbsp;</p><p>そこへ熊さんがやってきます。</p><p>&nbsp;</p><p>熊　　　ご隠居さんおめでとさんで・・まだお達者でなにより</p><p>ご隠居　まだは余計なんだよ。じゃ二人とも中へ入ってお屠蘇でも</p><p>熊　　　待ってました。今年はすばやいね、ご隠居。いい事でも有りましたか。</p><p>ご隠居　今聞いたんだが、八っあんが親方になるてんで、正月早々おめでたいね</p><p>熊　　　ああ、それ聞いたよ。八っあん。なんでも女の弟子なんだって。</p><p>ご隠居　えっ　女の弟子だって、驚いたね八っあんそりゃ本当かい。</p><p>八　　　それがそのとうりで</p><p>ご隠居　女房と別れたって話は聞いていたが、女弟子とはねえ・・その手があったか</p><p>　　　　そうかい大家と言えば親も同然店子と言えば子も同然だ。わかった何にも訊&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; かない。八っあんもいい男だ、野暮なことは言わないよ、いろいろ訳があっ&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; てのことだろう。しかしそんならそれで形だけでもお披露目をして</p><p>八　　　ありがてえ言葉を言ってくれるね、涙が出るよ。かかあが死んでもう3月・・</p><p>熊　　　まだ死んじゃねえよ。昨日神田の髪結いで見かけたよ、あれは幽霊かい</p><p>八　　　うるさいんだよ、俺の中では死んでるだい。別れた日からカンナで削るよう&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; に思い出を削ったんだ。ご隠居さん、これには訳がありまして・・</p><p>熊　　　おっとっと、その前にお屠蘇に挨拶してからね。ゆっくり聞こうじゃないか　　　　　　　　　　&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; 八っあんの浮気ばなし</p><p>八　　　うるさいんだよ、最近でしゃばりすぎじゃねえか、さっさと山で冬眠してな　</p><p>　　　　さもないと鉄砲で駆除されるぞ</p><p>熊　　　あっと驚く熊五郎・・</p><p>八　　　古すぎだろ、それを言うなら　♫熊ちゃうな~・・</p><p>熊　　　八っあんなんだか楽しそう</p><p>ご隠居　二人ともそいじゃ座敷に上がって一献やりましょう</p><p>&nbsp;</p><p>というわけで三人が座敷に上がって酒を酌み交わします。</p><p>&nbsp;</p><p>八　　　・・そういうわけでな、長野の善光寺の大普請を手伝いに行ったわけよ、そ　　　&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; こで下働きをしていたのが棟梁の親戚の娘でね。大工仕事も手伝って・・</p><p>熊　　　ちょいと見初めた味噌屋のソメコ、三十路のまえの大年増</p><p>&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp;♫君にはきみの～ゆめがあり～　僕にはぼくの～ゆめがある～</p><p>熊、八　ハモリながら</p><p>　　　　♫ふたりの～ゆめ～をかさねれば～・・・</p><p>ご隠居　なんだい、どうしたんだい、もう酔ってるのかい</p><p>　　　　紅白歌合戦はもう終わってんだよ。</p><p>八　　　そうなんですよ、山本さん</p><p>　　　　今年はたっぷり人情噺を聞いてもらおうかと思っていたんですがね，</p><p>　　　　熊のじゃまが入ってどうにもならねぇ</p><p>熊　　　そうなのかい、じゃゆっくり聞きましょう、ただし落ちだけな</p><p>八　　　分かってねぇや、本筋があって落ちがあるんだよ。はねがあって蝶々だろ、</p><p>　　　　赤とんぼのはねがなければトウガラシだよ、それを干したら柿の種だ。</p><p>熊　　　柿の種が好きなんだ。</p><p>八　　　それでいつも柿の木にぶらさがっているのかい</p><p>熊　　　熊っちゃうな～♫</p><p>八　　　ひとのネタ盗るなよ、もう蹴っ飛ばしてやろうか</p><p>熊　　　八っあん今年は何年かな</p><p>八　　　うま年だ</p><p>熊　　　お後がよろしいようで</p><p>八　　　まだ何も言ってねえ、おい、おい、なんでこうなるんだよ</p><p>熊　　　また来年ね</p><p>八　　　ご隠居さん、なんか言ってくれよ</p><p>ご隠居　おのうの方切腹じゃ</p><p>八　　　もう歳だこりゃ</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>　　　　　　　</p>
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<link>https://ameblo.jp/to2512/entry-12950934805.html</link>
<pubDate>Thu, 01 Jan 2026 10:47:48 +0900</pubDate>
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<title>故郷の空に</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp;<a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20251201/12/to2512/44/9d/j/o0550044115725290671.jpg"><img alt="" height="337" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20251201/12/to2512/44/9d/j/o0550044115725290671.jpg" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p><p>&lt;ショートストーリー&gt;</p><p>写真や画像にヒントを得て短いストーリーを載せています。</p><p>&nbsp;</p><p>私の父親が、初めてタイの北部の山の中の村に来たのはいつの頃だったのかな。昔ばなしをするように、何度も同じ話を語って聞かせてくれたのは、１９５０年の６月にネパールのアンナプルナ１峰（８０９１ｍ）をフランス隊が初めて登頂したことを知った時の驚きと、その後に出版された登頂記を読んで、心が揺さぶられた父は当時ドイツの地方新聞社の駆け出しの記者だった。若いころはワンダーフォーゲルの仲間とイタリアのドロミテやスイスのアルプスを渡り歩くのが唯一の趣味で、高度な登山には畏怖すら感じていたから人類初の８０００ｍ以上の登頂は強く心に響いていたらしい。その頃からインド、ネパール、アジアへの関心が高まってきたことも有って、父は今ならアジアオタクと呼ばれるくらいの興味と知識をもっていたようで、それは社内でも有名なくらいだった。当時ドイツは戦後の贖罪意識の中で内省的な社会とのかかわりをもつ雰囲気があって・・若者にとってはそんな膿んだようなヨーロッパではなくその外の世界を見たかったらしいね、ヨーロッパから逃避したいという意識も生まれて、外国への旅が一つの憧れのようなものになっていたの。とくにヨーロッパの外、インド、東南アジア、日本などへの新しい何か求める嗅覚が若者をくすぐったって言ってた。ヨーロッパは新しい風を求めていたって。そんなおり勤め先の新聞社でアジアを取材するために、２年間の予定で東京に特派員を出すことになり、この時運命の女神は若いアジアオタクであった父にその微笑みとまなざしをむけたの。その時の父は初めて神が存在するのではないかと思ったと言うくらい、喜んだらしい。内定が出た後の約半年は父の人生で一番忙しい、幸福な時間だったのね。頭の中は日本語の習得でいっぱいになっていたけど東京が新しい世界の入り口のように輝いていた。時は１９６４年１０月にオリンピックがアジアで最初に開かれた年だったそうよ。父が２４歳の年だったわ。</p><p>母親といえば、当時大学四年生で外国語は英語とドイツ語を専攻していたので、オリンピックのプレスセンターでのボランティアをしていたことが父と知り合ったきっかけだった。その後いろいろあって、これを話すと母は話が止まらなくなるくらい記憶が鮮明で、一日中でも話は終わらないの。当時の国際結婚に対する不安や家族の反対や何より初めての経験ばかりで足が宙に浮いていたと言っていた。母の家系って昔の侍の子孫で厳しいところが残っていて、それの反発もあったらしい。私なら結婚はしないだろうと思うけど、若い時って足が宙に浮くほどのことでもやらかすのね。それで母は駆け落ちみたいにしてドイツへ行ったんだけど、むこうではあまり歓迎されてないことに気付いたんだって。それでもおめおめと日本に帰る気にはならなくて、この時は気持ちが侍の家系の影響だったって。５年近くミュンヘンとデュッセルドルフで生活が続きその間私が生まれたの。その後何故か父が壊れてね、新聞社を辞めて日本へ行くことにしたらしいけど、転地療法だって言ってたわ。それで一旦日本に帰ったんだけど、すぐに父はアジアの各地をまわりはじめたのよ。母はそれを停めるようなことはなかったんだけど、突然父はタイで一緒に生活しようと言い出してね、母はたぶん行きたくなかったのだと思うけど、父の思いを汲んだのね、それでここに来て生活を始めたわけです。御覧の通りタイの山奥で何にもないところ、父がこの場所を選んだ理由がね、ここに教会を建てるためだって言っていたわ。ほら見える、白い十字架が見えるでしょあの赤い屋根の建物よ。どこかのキリスト教の団体がお金を出すというの。母はそんな理由なんか全然信じていなかったけど私が成長するには父親が居てくれた方がいいという理由でここまで来たのよ。それで５年ほどいたけど私が大きくなって学校へいく歳になって日本に帰ったの、父はしばらく残っていたけど、病気になってドイツに帰ったわ、そうゆうわけで結婚も自然消滅みたいになって父は亡くなったの。それでわたしここの教会でお手伝いしたいと思って、見て風景は変わったけど空の色とあの山の稜線はおんなじね。</p><p>「あなた私とここで一緒に暮らしてくれますか。」</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/to2512/entry-12946481390.html</link>
<pubDate>Sun, 30 Nov 2025 15:51:09 +0900</pubDate>
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<title>幸運が落ちている</title>
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<![CDATA[ <p>　　　H　　　　　　<a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20251030/14/to2512/bc/47/j/o2334320915706022599.jpg"><img alt="" height="577" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20251030/14/to2512/bc/47/j/o2334320915706022599.jpg" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p><p>あのベーブルースとならぶ百年に一人と言われる野球の大谷選手が、バッターボックスに立ってふと見るとホームベースの上に小さなゴミが落ちているのを見つけた。そしてそれを拾ってポケットにしまいこんだ。それを見ていた同僚の選手がなぜそんなことをするのかと後から訊くと、「あれはゴミかも知れないが幸運だと思って拾っている」という答えをしたそうだ。野球にあまり興味がないワシがその言葉だけは覚えていたのですが、先日、チェンマイのマイイアムＭＡＩＩＡＭ現代美術館へ久々に出向いた時、いろんな作品がありまして特に映像を使ったものが、最近は多くなりました。テクノロジーの進歩で表現は新しくみえるのですが、いまいちつかみどころがないのが不満なんです。もちろんそれなりのコンセプトがあるわけですが、魂に突き刺さらないのです。もうそんなこと古い芸術観なのかもしれないがメディア　イズ マッサージ　と言われた時代からすでにうん十年です。アートがもはやメデュウムになって、希釈された認識の擦過音を聴き分けるにはすでに年寄りの難聴の耳では無理だと思いつつ、しかも無限につながる関係性の宇宙を前にすれば、ただただ下を向いてしまうのです。それならいっそ道に落ちているゴミを拾って侘び寂びをめでる方が幸運と言うかラジカルなプリミティブな現代アートだと、大谷選手に教えられたのです。</p><p>てなわけで、作ってみたのが上図の作品です。すっからかんとした無意味が美しいのだ。つまり人の美意識はなんでできているのか、どうしてそうなのか、という問いは、道端に落ちているゴミを拾うことでできるのであって、さらに言うなら自分自身がゴミなのであって、確固たる自己とか個性なんていうけれど、なにかの折りに空蝉のごとくそのぬけがらをのこしていくのがアートなのかもしれないと思ったりするのです。三島的な美意識？仏教的な観念性？日本という構造の奴隷なのかもね。</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/to2512/entry-12942136359.html</link>
<pubDate>Thu, 30 Oct 2025 18:05:06 +0900</pubDate>
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<title>夜に来る者</title>
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<![CDATA[ <p>　　　　　　<a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20251007/12/to2512/35/8c/j/o0988188315691470957.jpg"><img alt="" height="800" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20251007/12/to2512/35/8c/j/o0988188315691470957.jpg" width="420"></a></p><p>&nbsp;</p><p>&lt;ショートストーリー&gt;</p><p>写真や画像にヒントを得て短いストーリーを載せています。</p><p>&nbsp;</p><p>入り江の奥の小さな港町に続く古い温泉宿に、小学生の兄弟たちと祖母が一緒に宿泊した時のことをいまだに覚えているのはどうしてだろう。特別強烈な印象があったわけでもなく、夏休みの一日を過ごしただけで、その時に行った海辺の様子や、旅館のたたずまいやどのようにその日を過ごしたかと言うのは全然覚えていない。ただ一つはっきりと覚えているのは、夜に急にお腹が痛くなって目が覚めてガラス窓の方から射すぼんやりした明かりの中に誰かがいるのが見えたことが今でも頭に残っている、それが忘れたころにふと思い出すのだ。その影が怖かったとか、不思議だったとかそんな感情は無くて、ただ頭にそれがこびりついている。五十この齢になってもそれが、時々顔をだすのです。心理学者はこれをトラウマの一種だというかもしれませんが、最近頻繁にその影の人物が出てくるようになったのです。いつ出るのかというと夜です丑三つ頃です。それは冗談ですが、夢の中に出てくるようになったのです。それでその訳の分からない夢に頻繁に出てくるのにもだんだん慣れてきて、その影の人物に名前を付けてみたんです。せいぜいその手で客観的なものにしてみようと思ったわけです。名づけることで支配するという実に狡猾な、中国人の仙人並みの方法を考えて、「影太郎」いや「影吉」「影丸」しかし男性とはかぎらない。女性であったら「影子」・・・おお！なんてこった。奇跡だ！瓢箪から駒！自分でもこんな落ちになるとは分からなかったぞ！この瞬間トラウマの正体がわかった。</p><p>そうだったのか、納得した。うちの嫁さんの名前は「ケイコ」だった。</p><p>はっはっはぁ～あ～あ～・・・</p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Tue, 07 Oct 2025 12:50:36 +0900</pubDate>
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<title>航海の行先</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp;&nbsp;<a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/21/to2512/19/b3/j/o2340416015632230445.jpg"><img alt="" height="747" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/21/to2512/19/b3/j/o2340416015632230445.jpg" width="420"></a></p><p>&lt;ショートストーリー&gt;</p><p>写真や画像にヒントを得て短いストーリーを載せています。</p><p>&nbsp;</p><p>マダムマサコは若い時にイタリアでファッションデザインを学ぶために７年ほどローマとミラノにいたことがあった。40歳すぎた今はイタリア語は冗談を言えるくらい堪能だったので、このイタリアのクルーズ船の旅は彼女のお気に入りになっていて、すでに３回ほど乗船したことがあった。船長はじめこの船の乗組員は彼女のことをよく覚えていたが、みんな彼女のことをおしゃべりマーサとあだ名をつけていた。朝食のテーブルにつくやいなや給仕のニコラをつかまえて昨日の出来事を話始めると、止まらなくなり、話題はあっちこっち飛んでそのうち最初に戻ってまた話しだすので、ニコラが忙しい時間帯にいらだちを見せると、「あら、話がながくなってしまったわ、あとでね」と言って解放するので、彼はいつ言おうかとタイミングを見計らっていることわりの言葉をその時飲み込んでしまうのだった。それが若い乗組員にとっては手玉に取られているようで、かえってストレスをためることになるのだった。乗客のイタリア人などに会うと半日でも話を続けるので、一週間もすれば船内の人はおしゃべりマーサを知らない人はいないくらいで、一目置かれる存在になっていた。ファッション業界に関係のある人なら彼女の名声を聞いたことがある人々もいるが、ファッション！それはすでに昔の壊れたオルゴールほどの値しかない言葉に思える歳とった乗客たちにとっては、彼女は壊れたレコード盤みたいに不愉快に思われていたかもしれない。唯一彼女がしゃべらなくなるのは、図書室でファッション関係の雑誌を眺めているときぐらいだった。マッセラーニ船長はこのような船のムードに気付いていた。長い航海なので、乗客たちが対立する関係をつくらないようにはどのような手を打つか思案したが、妙手はなくとりあえず、彼女の関心をそらすには、ファッション関係の本とか映画とか情報を多く提供することにした。なるべく人と会話する機会を減らすことしかないという考えだった。</p><p>「セニョーラマーサ、今日は新しいファッション雑誌が届いております。興味があればご覧になってください。次の港のジョージタウンではパリコレの映像が入手できますので、それもお楽しみに・・」</p><p>「まあ、ご親切に、私のために？うれしいわ、船長さん、いつも見かけるたびにちょっと怖い人かと思っていたのに、人は見かけによらないわね。だってヨーロッパ人って何を考えているのか想像つかないのよ・・やっぱりこの船にしてよかったわ。こんな好意は久しぶりよ、・・船長さんはファッションに興味はありますか？」</p><p>「いえ、正直あまり関心はありません。つまり僧衣を着るだけで僧侶にはなれません。制服を着るだけでは船長にはなれません。」</p><p>「その通りよ、その人の内面が見えるようなファッションとそうでないファッションを見極めることが大事なのよね。それでどんな雑誌が入るの？名前は」</p><p>「ああ、マダムそれは営業秘密です。お楽しみにそれじゃ失礼します。」</p><p>船長は会話が長くなるのを嫌ってその場を去ったが、この作戦がうまくいくのではと微笑みながら操舵室へ登って行った。そしてこの作戦を航海士のアレッシオに話してみた。いつも話し相手は航海士なのだがアレッシオは</p><p>「さすが、海軍出の船長は作戦通ですね。うまくいくといいですが、でも女性のおしゃべりは簡単には直りませんよ。スエズ運河を渡るよりむつかしいですね。」</p><p>「そうかい、スエズ運河は初めての時は緊張するが、一度通れば楽なもんさ」</p><p>「そうですね、女性と同じです。」</p><p>「航海士が言うのなら間違いない。はっはっ・・」</p><p>それから三、四日して、カフェの様子を見に行った船長はやはりおしゃべりマーサが以前にもまして、おしゃべりに拍車がかかっているのことに気付いた。乗客は彼女を避けるようになったので、従業員を見つけるとファッションについて長々と話し出すのでした。この作戦はかえって話のタネを提供してしまったように思えた。逆効果だったかもしれない。少しがっかりしていると、紙コップのコーヒーを片手に航海士のアレッシオが</p><p>「船長、女のおしゃべりを防ぐ方法は簡単です。相手の口をふさぐのです。つまりキスをすることです。関心をその男だけに向けるのです。」</p><p>「どういうことだ。・・おお、そうかなるほどそういう手があったか。・・アレッシオ、君がその相手をやってくれないか。」</p><p>「残念ながら私はできません。私には妻もいますし子供もいます。航海中は女性禁止だと家内と約束をしています。これは結婚式の時に神の前で誓いましたので。・・」</p><p>「だれか適任はいないかな。」</p><p>「いますよ、苦情係のジェームスです。彼はまだ独身ですし、相手に話すのがうまいし、なにより・・」</p><p>「何よりなんだね。」</p><p>「年上の女性が好みなんです。」</p><p>「よし、ジェームスを呼んでくれ船長室にね」</p><p>「キャピトキャピターノ（了解しました船長）」</p><p>かくして苦情係のジェームスは船長室へ呼び出された。おもむろに船長は、彼の経歴書を眺めながら、その顔に眼を移すと話始めるのだが、いつものきびきびした物言いではなく、妙にひたしげな口調であった。</p><p>「ジェームス君、君にやってもらいことがある。君は苦情係としてお客様の扱いには慣れていると思うが、これまでお客様とキスをしたことはあるかね。もちろん女性のお客様とだ。」</p><p>「えっ。・・キスですか、女性のお客様と？なんのことを言われてるのか分かりませんが。・・誰かからそんな苦情でも言ってきたのですか？」</p><p>「いや、そうではない。もっと重要なことだ。これからの航海中の客室全体にかかわることだ。・・つまりこれは重要な業務命令だと思ってくれ。船長命令だ・・」</p><p>船長はジェームスの肩をたたきながら、くわしく業務内容をつたえた。そして付け加えた言葉は</p><p>「いいかね、この件はほっておけば必ず苦情がでるに決まっている。君の仕事がどんと増えることになる。だから先手を打って火種を消そうということだ。そしてこれはお客様のプライバシーにかかわることでもあるしお客様を傷つけるようなことはあってはならん。絶対外部に漏れないようにしなければならん。他人に話さないようにね。船員にもね、ここだけの秘密だ。わかっているねジェームス君。なにかあったら知らせてくれ。それじゃイタリア男の名誉にかけて・・あっ君はイギリス人だったね、女王様の名に懸けて・・いい結果を待ってるよ色男君。はっはっは・・」</p><p>「イエス・サー」</p><p>その晩マダムマサコの部屋の前に緊張気味にジェームスは立っていた。扉をノックすると中から返事があった。</p><p>「苦情処理係のジェームスですが、何か苦情は有りませんか」</p><p>「いいえ、苦情処理係なんて呼んでないわ、誰かの間違いじゃないかしらほかの部屋に当たってみてよ。」</p><p>勇気を奮ってノックしたわりには、簡単に追い返された。しかしこれで諦めるわけにはいかない。翌日の夜にまたマダムの部屋の前に立った。扉をノックしてみると中から返事があった。</p><p>「苦情処理係のジェームスです。お伝えしたい件が有りまして、よろしいでしょうか？」そう言うと中から声がして、</p><p>「なにか私に、苦情でも来ているのかしら？」</p><p>「いえ苦情と言うわけではないなのですが、お目にかかって話したいことがありますので、・・」</p><p>「いま、取り込み中で後にしてもらえる。明日ならいいけど」</p><p>マダムはドアを少し開けて化粧を落とした顔を半分見せてそう言ったかと思うとすぐドアを閉めてしまった。ジェームスは彼女の顔をちらっと見ただけだったが、初めて近くで彼女の顔を見たのでした。何か見ていけないものを見たような、一瞬の沈黙の間があってから、営業口調になって</p><p>「そうですか、じゃ明日またこの時間に伺いますので、よろしいでしょうか」</p><p>部屋のおくのほうから</p><p>「そうしてちょうだい。ジェームスさん」</p><p>ジェームスはまた追い返されたが、二度や三度断られても苦情処理係で鍛えられたメンタリティーはそんなことは馬耳東風ですぐに約束のとれた翌日の作戦を考えるのだった。翌朝彼は社員食堂で船長とばったり出会った。</p><p>「ジェームス君どうかね、その後の首尾は」</p><p>にやにやしながらそう尋ねると</p><p>「ええ、今日の夜にマダムの部屋へ行くことになりました。」</p><p>船長の耳に口を近づけてそう言うと船長は驚いたように眼を大きく開いて</p><p>「上出来だね。実は君を援護しようと思っていたんだ。それならいいプレゼントがある。マダムの好みを調べてみたんだがね、梅酒が好きらしい。彼女の夕食のオーダーを全て調べてみたんだよ。売店でもらってくれ、もちろん接待費で落とすから、君の祝杯の分もね。色男に乾杯だ」</p><p>「さすが船長ですね。詳しく調べてますね、ＭＩ６がスカウトに来るでしょうよ」</p><p>「ああ、健闘を祈るボンド君・・」</p><p>そう言ってニヤッと笑って親指を立てて見せた。ジェームスはこのような仕事はもちろん初めてなので、不安はあったし、ましてや年上の女性のお客のなれば扱いに苦労するは目に見えるのだが、それにしても船長のにやけた乗り気はすこし気に障るのだった。そしてその日の夜にジェームスはマダムの部屋を訪ねた。頭の中にはいろいろ妄想が渦巻いていたが、</p><p>「マダム、苦情処理係のジェームスです。会ってお伝えしたいことが有りますので、ご都合はいかがでしょうか。」</p><p>そう切り出すと、頭のスイッチが切り替わって作戦が決まった。</p><p>「ええ、こんばんは、お話ってなんでしょうか？」</p><p>インターフォン越しに返事があってそれと同時にドアが開いて、マダムが顔を出した。昨日とは違って整った顔と紺色の襟のついたドレスが肌を白く見せていた。</p><p>「ちょうど今、パーティーから帰ってきたところなの、どうぞ中へ」</p><p>「有難うございます、マダム。今日のパーティーは楽しまれましたか。」</p><p>「ええ、楽しかったわ、船でのクリスマスパーティーって初めてよ。」</p><p>「赤道祭りとクリスマスはこの船の二大イヴェントですからね。船員一同盛り上げることにしております。」</p><p>「そのようね、まさか船長さんがサンタクロースだったとは気が付かなかったわ。船長さんがね私のそばに来ていうのよ、『今日の夜にはきっといいプレゼントが届きますよ』って。それでわたしきっとまた新しいファション雑誌かなんかを船長さんが届けてくれるのかなと思って、待ってたのよ。」</p><p>「そうなんですか、それは好都合、・・マダム実は船長からプレゼントがあります。これをお持ちしました。あなたのお気に入りの梅酒です。」</p><p>「まあそうでしたの、・・驚いたわ、わたしの好きなお酒までご存じなんですね。」</p><p>「そうなんですよ、マダム、船長はあなたのことに大いに関心があるようです。いつもあなたのことを聞いてきます。これはここだけの話ですが、きっと特別な好意をもっているとしか思えません。」</p><p>「まあ！わたしのことをそんなふうに思っているのですか？」</p><p>「ええ、間違いないと思いますよ。船長は昔海軍にいた経歴がありまして、実直というか口数の少ないこわおもてに見えますが、心は優しいんです。船長がよく口にするんですが、昔の映画でカサブランカに出てくる男のようなタイプが好みなんです。」</p><p>「なるほど、そんな性格の方ですか、ハンフリー・ボガードみたいな男性なのね」</p><p>「マダム、私はよけいなことを言ってしまったかもしれません。内緒にしておいてください。じゃ失礼いたします。」</p><p>それから二、三日して船のデッキで風にタイトなスカートに金髪に染めた髪ををなびかせて、マダムマーサが微笑んでいた。船長は操舵室からその姿を双眼鏡で眺めるばかりだった。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Wed, 24 Sep 2025 16:38:12 +0900</pubDate>
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<title>人間富貴花間露２</title>
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<![CDATA[ <p>　　　　 &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp;&nbsp;<a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/21/to2512/0a/5b/j/o1091148615632230423.jpg"><img alt="" height="572" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250710/21/to2512/0a/5b/j/o1091148615632230423.jpg" width="420"></a></p><p>&lt;ショートストーリー&gt;</p><p>写真や画像にヒントを得て短いストーリーを載せています。</p><p>&nbsp;</p><p>劉敬福がもう50才になろうかというころ妻の父親である張鄭秦が自分の仕事を敬福に譲りたいと申し出た。張鄭秦には息子がいたが身体が弱く、息子自身も父親の仕事を継ぐ気はなく姉の主人である敬福が後を継ぐことには反対ではなかった。岳父の仕事はもとはマレー半島で採れる野菜や果物や様々な日用雑貨品を商っていたが、1923年にジョホールバルとシンガポール島が橋でつながると、それまで海上を渡って荷物を運んでいた船が要らなくなってしまった。そこでそんな船を何隻も安く買い取って海峡をめぐる遊覧船に仕立てて稼いでいたのだが、そろそろ自分の歳を考えると事業を譲って隠居したいと思うようになっていた。敬福も商人宿が繁盛して余裕もでてきたころで、新たな伸展を考えていたから、これが渡りに船で、岳父の仕事を継ぐことにした。宿の方は家内と子供に任せて自分は遊覧船の仕事をやり始めたのでした。しかし新しい仕事に慣れ始めた頃、1941年12月8日に日本軍はタイの南部パタニに上陸し戦争が一気にアジアの人々を巻き込んだ。マレー半島を南下する日本軍の勢いはすばやくマレー半島にあるイギリスの植民地はなすすべもなく日本の軍門に下った。イギリスの東洋における最大の植民地であったシンガポールは東洋一の要塞を築いていたが一発の砲撃も無く翌年2月15日に降服した。このとき最も抵抗したのはマレー人でも無くインド人でも無く華僑だった。それまで固唾を飲んで成り行きを見ていたシンガポールの住人達は、長年この島を統治してきたイギリス軍が抵抗らしい抵抗もせずあっさりとシンガポール島を開け渡すのを見て、大きな不安と恐怖が湧き起こるのを感じていた。何故なら、中国での日本軍に対する抵抗運動に資金援助していた者や、家族に送金していた者達は日本軍による悲惨な戦争の実態を聞いていたから、自分たちの身にこれから何が起こるのかは容易に想像することができた。日本軍はラッフルズホテルを接収してそこを司令部とすると、島内の華僑の弾圧が始まった。抵抗したり反抗を企てたものは容赦なく処刑された。船は全て接収されるときいた劉敬福は、船を海峡の反対側の入江に隠そうと思い夜中に島を離れて、対岸を目指したが、頼りの月明かりが雲間に隠れて、漆黒の闇の中で慣れない操船にプライ川の河口で迷っていた、すると船底に積んであったドンゴロスの袋が動いたかと思うと下から一人の男が突然現れて彼に話しかけてきた、敬福は驚いたが、乞食が船に入り込むのはよくあることだったので、てっきりそのての者だと思ったが、話を聞くとその男はマレー人でチャンギーから逃げてきたといい島からすぐ出たい一心で、船の内で機会を待っていたのだという。チャンギ―と言えば刑務所があるところで、イギリス政府により多くの犯罪者が収容されていた。日本軍が近ずくと、収容者たちは全て釈放されたが、多くの者がマラヤ共産党などの抵抗運動、反植民地闘争を行った政治犯であったのだが植民地政府も彼らの力をも必要とする状況になっていたのだった。その時海面にサーチライトの光が走った。いつの間にか暗闇に紛れて近づいていた日本軍の警備艇に二人は緊張した。「逃げろ、捕まったら殺される」</p><p>男はそう言って敬福を促したが、警備艇は船足の遅い遊覧船にものの10分も経たないうちに距離を詰めて来た。男はこのような事態を予想していたようにその行動は冷静だった、船にあった椰子の実を二つドンゴロスの袋に詰めて海に投げ入れると自分も海に飛び込んだ。袋につかまって船縁から離れると、手招きをしたが敬福は海には入らなかった。逃げるとかえって疑われると思ったのと船は自分のものであるから言い逃れができると考えていた。しかし二人の結果は同じだった。二人は捕まって一週間後には処刑された。日本軍の接収を妨害し、マラヤ共産党の党員と結託し船を盗もうとしたという理由で、見せしめに二人の生首が街頭に晒された。シンガポールの住民はこの処刑に震え上がった。これを知った敬福の妻の張燕麗は子供たちを連れて夫の生首を確認しに行った時、その惨い様子に子供たちは悲鳴を上げ泣きじゃくった。燕麗は声も出なかった。おろおろと近づくと柵を乗り越え夫の生首に手を触れようとしたが、警備の役人に突き飛ばされて、地面に倒された。その時ふと我に返ったように</p><p>「この首はわたしのものだよ、お前たちの物じゃない。わたしのものだよ・・」</p><p>そう怒鳴るように叫ぶと、あとは嗚咽しか出てこなかった。それ以来、張燕麗の苦難の人生は長く長く続いたのだった・・</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<link>https://ameblo.jp/to2512/entry-12915294954.html</link>
<pubDate>Sun, 17 Aug 2025 23:42:50 +0900</pubDate>
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<title>ミスターX氏のなげき</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp;</p><p><span style="font-size:1em;">　　　　　　<a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250707/14/to2512/c6/0b/j/o2278255115630143331.jpg"><img alt="" height="470" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250707/14/to2512/c6/0b/j/o2278255115630143331.jpg" width="420"></a></span></p><p>&lt;ショートストーリー&gt;</p><p>写真や画像にヒントを得て短いストーリーを載せています。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>「ふざけるな！」</p><p>ある朝起きたら浮気女の手のひらに握られて、部屋の窓から外の壁に追い出されてしまった。何が起きたのか？昨日酔っぱらって押しかけた女の部屋で酔いつぶれたのは記憶にあるけどどうしてこんなに小さくなったのか考える隙もなく、女は亭主が帰ってきたので、とっさに俺を隠したつもりなのは分からないでもないけど、隠す場所はほかにもあるだろう。箪笥の中とか、花瓶の後とかもっといいのはたくさん置いてある人形の中に置いてくれればそれなりにポーズをとって目立たたないようにできるさ、たとえばゴジラを見上げる街のおっさんとか、いやいやそんなことはどうでもいいんで、そもそも何でこんな小さくなったんだ？おかしいじゃないか？そりゃ世の中には分からないことがいっぱいあることは判っているし、むしろ分からないことの方が多いさ、この齢になればそれぐらいはわきまえている。だがしかしおかしいじゃないか？こんな身体であしたどうやって会社にいく？車をどうやって運転する？それより女房になんていう。ああ、もうそんな事考えてもしょうがない。ここは落ち着いてたしかカフカもこれで悩んだんだ、・・それより取り合えずおしっこをしてからと・・・そうか！わかったぞ誰かに身体をこすってもらおう。</p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Mon, 07 Jul 2025 15:19:37 +0900</pubDate>
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<title>人間富貴花間露・・</title>
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<![CDATA[ <p>&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp;</p><p>&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp;<a href="https://stat.ameba.jp/user_images/20250531/16/to2512/95/af/j/o1581282115607181313.jpg"><img alt="" contenteditable="inherit" height="749" src="https://stat.ameba.jp/user_images/20250531/16/to2512/95/af/j/o1581282115607181313.jpg" width="420"></a></p><p>&lt;ショートストーリー&gt;</p><p>写真や画像にヒントを得て短いストーリーを載せています。</p><p>&nbsp;</p><p>祖父の劉敬福が叔父を頼ってマレー半島のシンガポールに来たころは戦争が始まる前で、ヨーロッパや中国へむかう貨客船が時々見える港には喫水の浅いジャンク船がまだ多く見られた時代であった。劉敬福は叔父の商人宿を手伝うために中国の広東省からやって来たのだが、街とは名ばかりのようすで石畳の道だけがそれらしい雰囲気を残している通りの端に木造二階建ての建物がその商人宿であった。落胆はあったけど、五男の敬副にとって故郷の実家の農業を続けられるほど田畑があるわけではなく、いずれは出稼ぎに出るより道はないので頼れる叔父がいる事を思えば少は心強いのだが、と言っても小さい時に会ったことがあるだけの叔父とはほとんど知らない間柄で、やはり異国の港町にきてこれからの生活を考えると、不安があるのは仕方がないのだった。この叔父というのが奇人というか変人というか元はといえば地方の官吏だったが経理の不都合を問われて逮捕、投獄の寸前に故郷をはなれてマレー半島に逃げる憂き目にあいその間さまざまな変遷を重ねてシンガポールに落ち着いたのだが、落ち着いたというのは形ばかりで、裕福な華僑や西洋人相手に日本の春画（浮世絵）を売るやらそれをまねて金瓶梅の場面を絵にした大きな絹画を部屋中に並べてその間をいかがわしい姿の女たちと裸になって踊って見せたり、スペイン風邪が流行った時は、大きな水甕を横に寝かせてその中で横になって過ごせば疫病を避けることができると言って、水甕を買い集め、内側に樟脳を塗って売り出したら、最初は誰も意に介さない風だったが、疫病で死者が出るのを目の当たりにすると、その水甕が評判になりあっという間に売り切れてしまった。それが一年ほど続き周りの人間からは一目置かれる存在になって、先生と呼ばれ大人とうわさされたが、それでまとまったお金が入ると、ねんごろになった人妻と一緒にパリへ旅立ったのでした。それは、敬福がこの地に来て３年目の旧正月の事だった。叔父は半年ぐらいで戻ってくると言って出たのだが半年過ぎても帰ってこず、やがてマルセイユからの手紙が届いた。それは叔父が病気に倒れたという知らせで、たぶんスペイン風邪にかかったらしいということと、もし自分が亡くなったら子供のいない自分としては宿屋は敬福に譲るとそして葬儀などはしなくてもよいというまるで遺言のような手紙であった。果たしてその後何日かして電報が届き、彼がマルセイユから乗船した貨客船内で亡くなったのを知った。遺体は運ぶこともできず地中海へ水葬されたのこと、船に同乗した女性からの知らせであった。敬福にとってはまことに晴天の霹靂であった。仕事もろくに覚えられないうちに叔父が亡くなって途方に暮れただけでなく叔父が残した宿屋の借金や生前の付き合いの清算が一気にのしかかってきた。しかし、どこに逃げ道があろうか、この場所で生きていくほかないと覚悟を決めて、叔父のしりぬぐいは必ずするからと相手を説得してどうにか猶予をもらったのだった。彼が頼りとしたのは同じ郷から来た華僑仲間であった。とくにその華僑のなかの長老格の張鄭秦は若いころの自分とよく似た境遇の敬福に同情を寄せ、自分がたどってきた道を語りながら、いろんな忠告や知恵を教えてくれ、心が重く失望の淵に立ったような時には、常に大道を行けそうすれば道は続くそう言って何かにつけ励ましてくれた。敬福は21歳になっていたが、相貌はすでに30歳ぐらいには見えて痩せた頬が一層年上に見せていた。宿屋というのは客が居なければすることがない。ただ帳場で座っているだけでは収入がないので、日銭を稼ぐために飯店を開くことにした。けどその資金がないので、自分でできることは全て自分でやらなければならなかった。一階のフロアーを広げ椅子やテーブルは古道具屋から仕いれ塗りなおして使った。入口のドアはガラスにしたかったが、大きなガラスは高価なので、3寸四方の小さなガラスを買ってきてまず4枚はめ込んで余裕ができたらまた4枚はめ込むようなやりかたで食堂をつくったのだった。その頃になるとヨーロッパでの第一次世界大戦が終わり戦後の不景気がマレー半島にも及んで、ゴムや錫の交易で敬福の商人宿を利用するお客が少なくなり、収入はほとんどが飯店の売り上げになっていた。それでも飯店が軌道に乗り始め2年後には借金を完済するめどが付いて、華僑の間の信用を得ることができた。その後張鄭秦の勧めで、彼の次女の燕麗と結婚することになり夫婦の働きで商売を盛り立てていったのでした。塞翁が馬の例えのように、禍福は時の運でやがて二人の間に二人の息子と一人の娘が授かったころ華人の人口は30万人を超えて、苦力（クーリー）として錫鉱山やゴム園で稼ぐ中国人がマレー半島に多くやってきたが、その人々がその稼ぎを消費するのはシンガポールだった。からゆきさんと呼ばれた日本人の娼婦たちも流入するほどの大きな街になっていた。後から思えばこの時代が一番いい時代だったのかも知れない。劉敬福の商人宿と飯店は繁盛して子供たちもつつがなく育って長男が店を手伝うようになる頃、世界は二度目の大きな戦争に向かっていた。日本軍がタイの海岸に上陸したのは3年後であった。</p><p>&nbsp;</p><p>写真の壁面にある讃？漢詩？の意味</p><p>&nbsp;</p><p>人間富貴花間露　富貴なる人間は花の間の露</p><p>&nbsp;</p><p>張上功名水上逼　張上の功名は水上に迫る</p><p>&nbsp;</p><p>調べてみると張上とはたぶん人名で香港の民主化運動を推進し、オーストラリアのブリスベーンで行われたG20の会合に出席する習近平の滞在するホテルの前で「香港雨傘革命を支持する」というバナーを掲示したりそのほか様々な民主化運動を行っている</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p>
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<pubDate>Sun, 06 Jul 2025 17:47:16 +0900</pubDate>
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