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<title>tomo1443のブログ</title>
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<title>タスコ</title>
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<![CDATA[ <div>　　　</div><div>　唐突に、孤独と自由が欲しくなった。一人で遠くへ行くことにした。<br>　やって来たのは、メキシコ中部の小さな街タスコである。首都メキシコ・シティから南へ約百六十キロ。人口約二十万人。昔は銀山で栄えたという。<br>　バスを降りると、南国の五月の太陽は西に傾いて、山の彼方に沈もうとしている。銀鉱石の黒ずんだ石畳には、行き交う人びとの影法師がゆっくりと流れ、低い白壁は茜色に染まっていた。少年を乗せたロバの蹄がカツカツと響く。インディオの女性が豊かな乳房を赤ん坊に含ませながら、椰子の葉で編んだ手提袋を道端に並べて売っている。<br>　どことなく気だるく、まるで町のすべての時計が止まっているようだ。<br>　銀細工の店先には、ペチュニアの花が赤くかがり火のように燃えている。狭い通りが尽きると小さな広場に出た。中央には緑濃い木が数本、ベンチに長い影を投げかけている。腰を下ろし、空を見上げた。向かいの古びた教会から低い家並みを突き抜けるように、二本の鐘楼が高くたかく夕暮れの空に伸びている。<br>　すべては斜陽の中にあった。カンバスに絵筆を走らせる少女、袋を提げたもの乞い、手持ちぶさたな靴磨きの老夫。そしてベンチに座った男たちは、目の前を通る人びとを眺めながら、いつまでも動こうとしない。いつの間にか私もその風景のひとこまとなっていた。と突然、<br>「Are you Jpanese ?」<br>　隣に座っていた老人が話しかけてきた。ヤングコーンのような口ひげをはやし、白い背広に白い靴、ブルーのネクタイにブルーのズボン、どことなく粋で気さくな雰囲気が漂う。<br>「日本って、とても良いところだってね」<br>「まあね。ところで貴方はこの街の人でしょ」<br>「うん。でもシカゴで四十年暮らしていたよ」<br>　彼は長い外国生活の末、今は生まれ故郷のこの町に戻って静かに暮らしている。毎日昼間はこの広場で過ごし、夕食になるころ奥さんが迎えに来てむつまじく帰ると言う。<br>　六時、教会の鐘が鳴ると広場の光が急に弱よわしく色あせて、セピア色に移り変わった。美事なバロック建築で知られる教会が、夜のとばりに消えて行く。私は広場をあとに足をホテルへ向けた。<br>　こじんまりとしたホテルは、その昔スペイン貴族の屋敷だったとか。狭いロビーを抜けて庭に出ると、夕闇にハイビスカスの赤とブーゲンビリアの紫が仄かに浮かんでいた。<br>　その夜、ホテルの中庭のこじんまりとしたレストランで遅い食事をとった。ほかに客は一組だけ。白人の女性と、インディオの混血、メスチーソの若者が額を寄せ合っていた。小さなステージで、数人のバンドマンが「コンドルは飛んで行く」を演奏をしている。<br>　バンドマスターは偶然にも昼間広場で会った老人だった。薄暗いシャンデリアの灯なのに私を目敏く見つけて手を挙げた。ラテンの静かな調べにつれて、そこはかとない旅愁が蝋燭の灯とともにかすかに揺れる。やがてバンドの交代時間がくると、彼はそばにやって来て、<br>「今度は奥さんと一緒に来なさいよ」<br>　と別れの握手をして消えた。<br>　テキーラの酔いがほんのり身を包むころ、山の彼方に稲妻がひらめいた。雨期がもうそこまできているようだ。</div>
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<link>https://ameblo.jp/tomo1443/entry-12246446629.html</link>
<pubDate>Fri, 10 Feb 2017 14:44:42 +0900</pubDate>
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<title>終戦</title>
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<![CDATA[ <div>　　<br>　　　　　　　　　　　　　　<br>&nbsp; テレビでイラク戦争の空爆や略奪の場面をみて、思い出したことがある。</div><div>「キーィーィーン」<br>　妙に透き通ってカン高い音がする。見上げた夏の朝空に、こんもりした雲が浮かんでいた。と、突然黒い物体が襲いかかってきた。夢中で走った。さつま芋の畑に飛び込んでうつぶせになる。頭の上をすれすれにアメリカの艦載機がかすめていった。<br>　どれほど時間がたっただろうか。物音ひとつしなくなった。不思議な静けさが辺りを包んでいる。ゆっくりと起き上がって目の前の駅に向かった。田んぼの中の鄙びた駅には、二両連結の電車が止まっていた。狭い駅舎から溢れた乗客が立ちすくんでいる。二人の乗客が機銃掃射を受けて亡くなっていた。<br>　この日は昭和二十年八月十三日、所は疎開先の信州、信濃川沿いの片田舎である。<br>　私たち中学三年生は夏休みの登校日だった。動き出した電車に乗って、そのまま私は学校に行った。　新学期になってから授業はほとんどない。講堂が、にわか作りの軍需工場になっており、戦災で焼けただれた旋盤が、東京から何台も運び込まれてくる。これを分解してきれいに磨き、再び組み立てるのが生徒の仕事だった。作業を始めようとしたとき空襲警報が鳴った。<br>　屋上に上がってみる。学校は須坂町の高台にあり、善光寺平が一望のもとに見渡せた。何機もの飛行機が一列になり、彼方の長野市の上空をゆっくりと回っている。戸隠と飯綱の山々を背に時計回りに描かれる円は、目の高さと変わらない。かなりの低空飛行である。やがて一機が機首を下げて落ちいく。機体の下から閃光が走る。<br>「やった。高射砲だ、当たったぞ」<br>　みな、いっせいに手をたたいた。だが弾丸が命中したはずの飛行機が、機首を上げてまた旋回の仲間に入る。その後を追いかけるように、また一機が機首を下げ、閃光を放って機首を上げる。そしてまたまた次の飛行機が……。その都度私たちは顔を見合わせた。<br>「おかしいな、変だな」<br>　閃光が飛行機からのロケット弾と知ったのは、かなり後のことである。<br>　学校から帰ると、祖母は同じ話を何度も繰り返した。<br>「ずいぶん心配しただぞぃ。駅で誰かやられたって言うでねぇか。おめえは大事な預かり子だ。おらすぐに飛んでったら、電車が出た後だった」<br>　そのとき私は満洲に住む両親や弟妹と別れて、祖母のもとに疎開をしていた。戦争の成り行きを心配した父が、跡取りの私を内地に残したのである。信州ならば空襲に遭うことはない、絶対に安全だ、誰しもがそう信じていた。現にすぐ近くの松代では、山に横穴を掘って天皇陛下の御座所と大本営が建設中だった。<br>　夕方、祖母はお盆の迎え火を焚いた。<br>「おいらーい、おいらーい。<br>　ご先祖様があの世からお帰りだ。おじいちゃんもお帰りだぞ」<br>　祖父は日露戦争の傷痍軍人である。白樺の皮が身をよじるようにメラメラと燃え上がる。<br>　祖母は真剣な顔をして言った。<br>「智博、おじいちゃんがおめえを守ってくれたにちげえねぇ。ここまでアメリカの飛行機がくるとはなぁ……」<br>　翌日、村では多くの家がにわかに防空壕を造り始めた。私も畑をせっせと掘った。<br>　次の日、十五日も朝から掘った。暑い日で、真っ青な空が目にしみるようだった。昼近くなると大きな穴が堀り上がった。後は周りを囲い、屋根を造り、土で覆えば完成だ。その前に予告のあったラジオの重大放送を聞くことにした。半裸で汗を拭いながら耳を傾ける。ピーピーガーガーと鳴る雑音と共に、くぐもった声が聞こえてきた。初めて聞く天皇陛下のお声である。耳を澄ましたが聞き取れない。結局、何が何だかさっぱり分からずじまいだった。<br>　やがて、戦争は終わった、という話が伝わってきた。防空壕造りは中止である。<br>　そのころ、村の集会所には兵隊が何十人か駐屯していた。夜に入ると、村人が集会所から軍隊の毛布や米などを持ち出しているという。略奪だ。私も出かけて行った。薄暗い電灯の下で兵隊たちはぼんやりしている。何かめぼしい物がないかと辺りを探したが、すでにロクなものはない。やむなく、薄汚い革のスリッパを一足持ち帰った。<br>　翌日隣組を通じて、盗んだ物はすべて返すようにとの通達があった。私もささやかな略奪品を返還しに行った。<br>　飯綱山に赤い大きな日が沈むころ、あの世に戻る祖先と祖父の霊に送り火を焚いた。<br>「おかえりー、おかえりー」<br>　手を合わせていた祖母がつぶやいた。<br>「お盆も終わった。戦争も終わった」</div>
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<link>https://ameblo.jp/tomo1443/entry-12246445471.html</link>
<pubDate>Fri, 10 Feb 2017 14:39:43 +0900</pubDate>
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<title>ポアソン分布</title>
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<![CDATA[ <div>　　</div><div>　プロシャの兵士が軍馬に蹴られて死ぬ確率、もちろん、これは戦争で死ぬ危険よりははるかに小さい。このように滅多に起こらない偶然を、数学的に解析する手法にポアソン分布がある。十九世紀に、パリ大学のポアソン教授が研究した確率論である。<br>　庭先に菊が咲いた小春日和のある日、一枚のハガキが舞いこんだ。<br>「リニューアル、特別御奉仕・風呂場改造が工事費込みで一式九十五万円」<br>　これは安い、チャンスかもしれない、と思った。このハガキが、その後一連のバカバカしい災難を招く兆しだとは、そのとき知るよしもなかった。<br>　我が家は建ててから二十八年になる。浴槽も樹脂の塗膜が所々はげて地金が出てきた。いずれはそれが錆びて湯が漏れるに違いない。それに給湯は瞬間湯沸器を使ってはいるが、方式が古めかしくて追い炊きが利かない。この際思い切って新しいユニットバスに改造しよう、今からやれば新年に間にあう、と考えた。連絡すると業者は早速飛んできた。現場を見せて見積りを頼んだ。<br>　どういう訳か偶然にもその翌日、瞬間湯沸器の温度調節ができなくなった。レバーを最高温度に上げても熱い湯が出てこない。こんなことは初めてである。あいにく肌寒い日だったが、ぬるい風呂で我慢をした。次の日メーカーに見てもらうと、部品の交換に二万円近くもかかるという。ちかぢか取り替える湯沸器に金をかけるのももったいないと思い、しばらくはぬるい風呂で頑張ることにした。<br>　数日後の朝のこと、トイレの温水洗浄便座がおかしくなった。ボタンを押しても、肝心なときにお湯が出ない。あきらめて立ち上がると、ずり上げているズボンをめがけて、突然勢いよく生ぬるい湯を浴びせてくる。便座はこの種の製品が出始めた二十年近くも前に取り付けたものである。これもそろそろ取替えどきだと思い、量販店で特価品を買い、説明書を見ながら長いことかかって自分で取り付けた。<br>　その晩、風呂場の改造見積書を持って業者がやってきた。ユニットバスのグレードを上げたこともあって、見積り金額はダイレクトメールよりもかなり高い。だが瞬間湯沸器の調子も悪いことだし、工事を急ぐように頼んだ。業者が帰った後、風呂を沸かそうとしたら湯沸器が点火せず、ぬるい風呂すら入れない。まるで、長年にわたって懸命に働いてきた湯沸器が、近くお払い箱になるのを知って、抗議のストライキをしているようだった。その日からやむを得ず、近くに住む娘のところに風呂を貰いに行くことにした。<br>　風呂場の改造工事が始まった。タイルの壁と床を壊すと、壁を支えている土台の根太がすっかり朽ちている。もう少し放っておけば、重いタイルの壁はずり落ちて倒れたのに違いない。補強のついでに、風呂場と隣り合わせの洗面所も改造する破目になった。当然、工事費の上乗せは避けられない。<br>　そのころになると、見えない災難が行く手に待ち並んでいるような気がしてきた。<br>　二、三日すると、水道局からハガキが来た。口座預金が不足で引き落としができない、と書いてある。こんなうかつなことも初めてだったが、請求料金を見て驚いた。普段の三倍近い二万数千円になっている。そのころ私たち夫婦は、半月もフランスに出かけて留守にしており、使った水量は少ないはずである。家内が水道局に電話をすると、係がやってきて調べてくれたが、漏水もなく原因は不明だった。結局、分からないままに支払わざるを得なかった。長年水道で飯を食わせてもらいながら、自宅の水量管理ができないとは、みっともない話である。これも災難の一つだった。<br>　年の瀬も押しつまり正月もあと十日に迫った日曜日、年賀状をワープロで印刷していると、途中でプリンターが印字しなくなった。買って三年余りになるが、初めてのプリントカートリッジの目詰まりである。わざわざ電車に乗って部品を買いに行き、取り替えた。目詰まりは滅多に起こるものではないという。なぜこの年末の忙しいときに……、と腹が立った。<br>　いよいよ風呂場の改造が終わりに近づいて、プロパン会社の社員がガス工事の下見にやってきた。メーターを見て、<br>「僅かですが、ガスが漏れています」<br>　と物騒なことを言う。そして、<br>「どこから漏れているのか分かりませんから、既設の管は埋めたままにして新しく配管をし直します」<br>　とのこと。またまた、まかり間違えば命にかかわることが……、と、うんざりした。<br>　クリスマスイヴの日、ようやく風呂場の改造が終わった。これで次から次へと起こった災難とも、お別れに違いないと考えた。そんなことを日記につけようとワープロを開けると、画面に光の縦縞が走り文字が読めない。液晶の故障である。と言う訳で、この文章は大枚十数万円を投じて大晦日に買い替えたワープロで書いている。<br>　馬に蹴られて死ぬのに比べれば、私のアクシデントは小さなこと。だが偶然がこれほどいっときに集中するのは希だろう。希でも良い。新しい風呂に入り、さっぱりとして新しいワープロに向かう。と、偶然すばらしいエッセイが書ける。<br>「人間万事塞翁が馬」と言うけれど、こんなポアソン分布は存在しないのだろうか。</div>
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<link>https://ameblo.jp/tomo1443/entry-12246442973.html</link>
<pubDate>Fri, 10 Feb 2017 14:29:04 +0900</pubDate>
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<title>あじさい</title>
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<![CDATA[ <br><br>小学生のころ、母の婦人雑誌で恋愛小説をひそかに読んだことがある。<br>主人公の女性が恋人からの手紙をあけると、アジサイの花だけが入っている。彼女はそれを大事に押し花とし、恋しい人からの次の便りを待ち侘びる。しかし待てど暮らせど音沙汰はない。ある日、偶然なにかでアジサイの花言葉を知る。<br>「もう厭きたよ」と……。<br>そんな筋だった。<br>その時はじめて、私は花言葉なるものを知った。だが当時は緑の少ない東京の下町に住んでおり、アジサイの花は見たことがなかった。<br>アジサイを知ったのは、結婚をしてからである。<br>家を建てたとき、庭に一株のアジサイを植えた。そこは北向きの土手の中腹、しかもクヌギの木蔭でうす暗いところである。そのかたわらには枝垂れ櫻、花桃、山茶花、寒椿など、華やかな樹々が多く、アジサイは滅多に私の目をひくことはない。<br>だが、来る年も、くる年も梅雨どきになると、少しばかりの花を律義に咲かせる。クヌギの木からしたたり落ちる雨のしずくを受けながら、ひっそりと人待ち顔に咲き続けるのである。<br>アジサイには二種類の花言葉がある。一つは美しいけれど香りもなく実もならぬがゆえの「高慢、冷酷」。いま一つは、花の色が変わることからの「浮気、心変わり」など。子供心に刻まれた「もう厭きたよ」は後者の類なのだろう。<br>今年も、梅雨がすぐそこまで来ている。
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<pubDate>Fri, 10 Feb 2017 14:22:25 +0900</pubDate>
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<title>我が読書</title>
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<![CDATA[ <div>　　　</div><div>　年をとったせいか、根気がなくなり物忘れがひどくなった。本を読むたびにそう思う。もっとも、若いころから熱心な読書家ではなかった。現役時代にしても糊口をしのぐための技術書でさえ、あまり開くことなく過ごしてきた。まして文学書にはめったに手をふれたこともない。<br>　ところが、定年後は知的生活へのあこがれもあって、努めてこの種の本を買うようにしている。小説、文壇史、文章読本の類いである。しかし、本棚にならべて背表紙をながめ、いっぱしのインテリになったような気分にひたるだけで、ほとんど読んだことがない。<br>　これではならぬと、しばらく前に志賀直哉の『暗夜行路』にいどんでみた。ところが、ものの十ページも読まないうちに根気がなくなり、目がつかれ字がかすみ、頭がいたくなって本をとじなければならなかった。ふた月ほどもかけて読みあげたときは、一大事業をなしとげたような気がしたものである。<br>　それからというもの、読書はもっぱらエッセイに限っている。向田邦子のような有名作家の単行本もあれば、文芸春秋社の『ベストエッセイ集』などの叢書もある。一遍は短ければ二、三ページ、長くともせいぜい十ページ。この程度が私の読書の持続能力にみあった長さらしい。<br>　料理にたとえれば、文芸作品ののような長編は有名レストランの晩餐であり、エッセイは少しばかり気どった中華料理店のヤムチャのようなもの。おなかがすいている間は幾皿も手をだしつづけるし、満腹になれば「ハイそれまで」である。気にいった作品をそのつど気ままに読んで、かるい知的満足感をあじわっている。<br>　わが家の書斎はもちろん、通勤電車のなかで、あるいは旅先のホテルでと、気がるに読みながす。一応、目次にしたがって読んではゆくものの、ときには題名や作者の名にひきつけられて順序不同となる。数行読んでつまらないと思えば、その作品は読みとばす。ちかごろは手当たりしだいに、なん冊ものエッセイ集を平行して同時に読むようになった。<br>　というわけで根気のなさは解決したのだが、こんどは記憶力の減退が気になってきた。<br>　ごちそうを前にした子どもが勝手気ままにあちこちと食いちらかすように乱読するものだから、だれの作品を読んだのか、はたまたどの本を読み終えたのか、分からなくなってしまう。本屋の店先でひろい読みをし、よい本に出あったとばかりに買って帰ったら、おなじ本が書棚にならんでいた、という経験をなん度もしている。<br>　かって、出張のでがけに本棚から二冊ばかりスーツケースにほうりこみ、車中でひろげたら二冊とも、読み進むにつれて記憶の底に埋没していた記述に出くわし、がっかりしたことがある。それからは読み終わると題名のうえに、一編ごとに鉛筆で当日の日付を書きこむことにしている。<br>　いちども読んだことのない有名作家は、気にかかるものである。五木寛之もそのひとり。店頭で平積みにされた『大河の一滴』をなんどか手にしてみたものの「です。ます」調になじめず買う気にはならなかった。<br>　ところが昨日、会社でのこと。引き出しの奥から読みさしのエッセイ集がでてきた。パラパラとめくると五木寛之の名前があり、題名のうえに半年まえの日付が書いてある。それにしても全く、覚えがない。読んでみるとまことにハギレがよく、かなりの佳編である。こうした名文をわずかな月日で忘れてしまったことに愕然とした。<br>　そのとき思い出したのが、ながねん自宅の飾り棚に文字どおり飾りっぱなしになっている、五木寛之の分厚い著書である。買っただけで読まずに本棚にならべてある本はなん冊もあるが、これもその一冊。彼の著作なら長編でも読めるかもしれないと思った。<br>　著書は『戒厳令の夜・黄金時代』であった。「新潮現代文学」の立派なハードカバーである。ところが本をひらくと中はただの白い紙で文字は一切印刷されていない。ケースには「見本」と赤い文字が記されている。売り出しまえに宣伝用として書店にくばられたものらしい。どうしてこんな物を手にいれたのか分からない。デパートの家具売り場の書棚には、しばしば辞典など中身のない模型がおさめてある。私の知性はこの模型のように見せかけだったのかと、思わずわらいだしてしまった。<br>　さて、ここからは今朝の話。このエッセイを書くにあったって、念のため本棚をたしかめたところ五木寛之の『地図のない旅』を発見。文庫本で出版は昭和五十二年。なかには薄くなった蛍光ペンの跡もある。そのころすでに五木寛之を読んでいたのだろうか……。<br>　読み忘れがこのようにかさなると、いまの私にとって読書は、老いとボケの確認作業のような気さえしてくる。</div>
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<link>https://ameblo.jp/tomo1443/entry-12246439707.html</link>
<pubDate>Fri, 10 Feb 2017 14:15:01 +0900</pubDate>
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<title>夕日</title>
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<![CDATA[ <div>　　　米寿を迎えた父と、三つ下でここ数年めっきり足の弱った母は、銀座裏のマンションに二人で暮らしている。例年、横浜の私の家で正月を過ごす。今年は、子供、孫、曾孫、合計二十二人から新年のお祝いを受け、父は、謡曲の鶴亀を機嫌よく謡った。<br>　門松も取れて、帰ると言う二人を送ることにした。昼食がすむと父は着替えを始めた。<br>「年だな、瘠せちゃった」<br>　とひとりごとを言う父。かいま見た上半身は肉が落ち、皮膚のたるみが痛々しいほどだ。昨年の秋から父は体調を崩している。私が主治医にひそかに会い、不治の病だ、と告げられたことを二人は知らぬ。<br>　母は帰る時間を気にする様子もない。<br>「おスミさんもね、だらしがないから」<br>　茶の間の押し入れに、家内が放り込んでおいた寝巻きなどを取り出し、これ見よがしにたたみ始めた。<br>　父に促されて帰り支度が終わるまでには、かなりの時間がかかった。昨日まで母は、腰が痛いから自動車は嫌だ、と言っていたのに、急にタクシーで東京まで行くと言う。そのうちタクシーは横浜駅までにしてあとは電車がいい、と気がかわる。電話でタクシーを呼ぼうとすると、今度はバスにしたいと言う。時どきため息をつき、のろのろと支度を続けながら、次つぎに言うことを変えた。<br>　とっくにコートを着た父は聞いているのかいないのか、あぐらをかいて口を結び天井を見ている。結局バスになった。<br>　母は片手で杖をつき、もう一方の手で父のコートの袖を掴み、バスの停留場まで頼りなさそうによたよたと歩いた。病におかされ体力が日々衰えているはずの父が、母をかばいながら手をひいて行く。私は黙って後に従った。<br>　バスに乗ると父は母が座るまで付添い、そのあと自分はどこに空いた席があるかとうろうろする。見かねた運転手から、<br>「早く座ってください」<br>　と声が飛んできた。<br>　横浜駅に着く。地下街への階段を前にして、母に私は初めて声をかけた。<br>「おぶいましょうか」<br>「いいから、みっともない」<br>　声を荒げた母。右手で杖をつき左手は手すりに掴まって、一歩、一歩、そろそろと降て行く。少し前をゆく父が時々振り返る。この年寄り二人を大勢の人がいらだたしげに追い越していった。どうやら階段を降りきると、母はハアハアと息を切って父に掴まり、立ちつくした。こうした階段の昇り降りを横浜駅で四回、電車でたどり着いた新橋駅で三回繰り返した末、やっとタクシーに乗ることができた。<br>　家に近づくと母は口が軽くなった。<br>「運転手さん、景気はどうですか」<br>「ダメだね、不景気だよ」<br>　疲れたのか父は目を閉じて黙っていた。<br>　銀座のビルの谷間に黄金色の大きな太陽が沈もうとしている。車を追って見え隠れする夕日は、そのたびに、人生の旅路の果てに今なお寄り添うふたりを弱々しく照らした。</div>
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<pubDate>Fri, 10 Feb 2017 10:49:29 +0900</pubDate>
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<title>父の酒</title>
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<![CDATA[ &nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;<br>&nbsp; 今まで私が酒を共にした人は数知れない。しかし最も機会が多かったのは父である。そして最も楽しかったのも父だった。<br>父は、大正十年尋常高等小学校を卒業して村役場の給仕となった。神林の養子となったのもこの年である。<br>翌、大正十一年、父は勉強するには東京に出なければ駄目だと思って、父親、すなわち私の祖父に話をした。祖父は賛成しなかった。そして祖父の弟、つまり父の叔父に相談しろといった。二月の寒い日だった。父は、叔父の家に行って炬燵にあたりながら決心を話した。しかし叔父からも、東京での苦学は容易ではない、と聞かされる。父はあきらめきれず、役場を三日間休んで炬燵にあたったまま過ごしたが、承諾は得られなかった。<br>父は地元の長野電鉄に就職した。職場で藤沢という若者と親しくなった。ある日須坂駅の構内で彼と貨車の入れ替え作業をしていた。機関車から切り離された貨車がゴロゴロと引き込み線に入る。貨車にぶら下がった藤沢さんに、赤と緑の信号の旗を手にして父が貨車を止めるように合図を送った。藤沢さんはサイドブレーキをかけようとして貨車から飛び降りた。足元の石炭の山が崩れて彼は倒れ、レールの上に出ていた片足を貨車が轢いた。<br>&nbsp; 戦時中私は信州に疎開し、祖母の家から須坂中学に通った。通学の往き帰りに電車が井上駅に差し掛かると、恰幅の良い中年の駅員が足を引きずりながら改札口に出てくる。その人が藤沢さんだと父から聞いたのは、やはり酒の席である。<br>大正十二年三月、父は藤沢さんに対する自責の念に駆られて会社に辞表を提出した。そして、東京で勉強をしたいと再び祖父に願い出た。今度は祖父も反対しなかった。<br>父は商人になろうと思い、東京商工学校の夜間部商科に入学し、昼は逓信局で働いた。九月一日、関東大震災が東京を襲う。焼け跡の街を歩きながら、これからは復興の時代だと考えた父は、商人から土木屋への転換を決意する。芝浦工大の前身、東京高等商工学校土木科で学び、大震災の復興を目的とする復興局に就職した。昭和六年、復興局から内務省仙台土木出張所に転任となった。<br>当時、世の中は不況だった。祖父は商売に行き詰まって、自宅を他人に貸し、親戚の土蔵を借りて妻子六人と住んでいた。祖父は毎日酒を飲んで憂さをまぎらわし、ことあるごとに父に手紙を出して金を無心した。仕送りに苦労した父は内務省をやめて、給料の良い満州に渡る決心をする。建国したばかりの満州は匪賊が跳梁跋扈する危険な状況だった。<br>父が渡満の決意を告げると祖父は涙を流した。父が出立する日がきた。その日も祖父は朝から酒を飲んでいる。父は祖父に酒を慎むように諫めて満州に赴いた。その二ヶ月後に祖父はこの世を去った。人跡希な興安嶺の山中で測量に携わっていた父が、祖父の死を知ったのはかなり後のことである。<br>「今にして思えばあのとき、親父と一緒に酒を飲むべきだった」<br>と父が口にしたのを私は今でも覚えている。<br>昭和八年、ある人から父が相続した須坂の屋敷を買いたいとの手紙が、満州の父に届いた。養子の父にとって、養家先の財産を人手に渡すのは途方もないことだ。しかし祖父が残した借財のために、路頭に迷う継母と五人の腹違いの弟妹を見殺しには出来ない。帰郷した父は迷った末に継母に「須坂を処分して借金を返す」と話すと「よろしく頼む」と言った。<br>このような経過を、祖母は私には聞かせなかった。ただ、父が先祖代々の家屋敷を売って満州に行ってしまった、とだけ話していたのである。おそらく祖父の恥を孫の私に語る気にはなれなかったのに違いない。<br>父は須坂を手放したことを死ぬまで後悔していた。<br>父は六歳で実母と死別している。昭和三十八年、実母の五十回忌の法要を行った。御斎の席で父は親類縁者と盛んに献酬を重ねた。そのあと実母の墓にお参りをした。酒には強い父が珍しく酔いつぶれて、墓地の草むらに倒れ込むように寝転んでしまった。春まだ浅い日溜まりで、いつまでも起きあがろうとしない父。夫の姿をいたわるようにじっと見つめて立ちつくす母。この光景は今でも私の目に浮かぶ。<br>父の死後、私は父が書き残した半生の記に次の記述を見つけた。<br>「私は幼き日に若くして亡くなった母が人一倍恋しい。<br>酔心地たわむれならず墓地に寝て<br>亡き母偲び しばし甘えて」<br>&nbsp;
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<pubDate>Tue, 31 Jan 2017 19:22:30 +0900</pubDate>
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<title>新富町の音色</title>
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<![CDATA[ <div>&nbsp;</div><div>　新富町のランプを出た車は、続けざまに二度左折して止まった。目の前には若いころから見なれた大きな家が、夏の夕日をうけて建っていた。三階建ての木造で、がっしりした瓦屋根は肘掛窓を覆って、さらにその先へ庇を伸ばしている。白壁の上からは槙の木の太い幹が身を乗り出し、入り口の「割烹松志満」の文字も右書きで、昔から少しも変わっていない。<br>　所帯を持つまで私はこの街で育ち、実家は今もここから目と鼻の先にある。年に何回かは足を運んでいるから、街の激しい変わりようはこの目で見てきた。ことにバブル景気のころ、木造の低い家並みが次つぎにコンクリートの高いビルになった。そのなかにあって、松志満だけは頑固に昔の姿をとどめている。この界隈は戦災にもあわず、昭和三十年ころは下町の味わいにあふれていた。<br>&nbsp; 私の家は電車道から少しはいった突き当たりの仕舞屋で、夏は開け放した窓からいろいろな巷の音が飛び込んできた。<br>　昼さがりには<br>「タケヤーアー、竿ダケッ」<br>「キーンギョーや、金魚ッ」<br>　の呼び声が耳にはいる。家の一軒おいた隣は、小唄のお師匠さんが住んでいた。拭きこんだ格子窓には軒しのぶが吊るされ、忍ぶ恋路の恋歌などが三味線とともに流れてきた。<br>　夜の声はひと際あでやかだった。私の部屋からは通りをへだてた待合の幸楽がよく見えた。そこはかとない街のざわめきの中で、「ゴーン」と鐘が鳴ると<br>「エー声色屋でございッ」<br>　と聞こえてくる。幸楽の二階の窓が開いて、上から客が<br>「待ってましたッ」これを<br>「待っていたとはーア、ありがてエー」<br>　と下から受け返す。何やら節のついた台詞のやり取りが続くと、仲居さんがくぐり戸から出てきて、おひねりらしいものを渡すのであった。やがてお座敷が引けたのか、お妲さんたちの下駄の音、その間を漂って新内三味線の寂しい調べが寝床に伝わった。<br>　朝は<br>「シンジメ、アッサリに、ハマグリ、シンジミオ」&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; 　と街中にひびく大声で目を覚ます。「蜆、蜊に、蛤、蜆を」と言っているのだが、眠気のさめないもうろうとした頭には「死んじまえ、穴にはまって、死んじまえ」と聞こえた。続いて<br>「トップートップー」<br>　豆腐屋のラッパが鳴り<br>「納豆、ナットー」<br>　の売り声が行く。これを聞くときも煎餅布団の上で夢心地である。<br>　大学へは、幸楽と松志満を眺めて通った。窓も扉もまだ固く閉まり、そこには、夜遊びにうつつを抜かした女盛りの朝寝のように、けだるい艶かしさがゆらめいた。帰るときはそれらの店も、打ち水に濡れた敷き石と玄関の盛り塩で、清楚な装いをみせるのだった。<br>　実は、思い出につらなる松志満も上がるのは初めてである。ひょんなことから学生時代の友人たちと酒を飲むことになったのだが、まだ誰もきていない。案内された広い座敷に一人ぽつねんと座って、運ばれてきたお茶をすすりながら耳を澄ました。クーラーの低い響きだけが微かに聞こえる。立ち上がって窓越しに外を眺めた。閉めきった窓ガラスは頑なに外界の音を拒んでいる。窓を開けてみた。途端にむっとするような熱気と、けたたましい自動車の音がはいってくる。見下ろすと、青春時代にこの座敷から漏れる三味線や端唄を聞きながら通った道に、街灯がともりはじめていた。私は静かに窓を閉めた。<br>　その夜の宴席では、カラオケがヴォリュームをあげ雪見障子を震わせた。かっての学友は白髪まじりの頭をふり、小指を立ててマイクを握っている。彼の胴間声を聞くうちに、私のこころの奥底にひそむ新富町の音色は、波の打ち寄せる浜辺の砂文字のように儚く消えていった。</div>
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<pubDate>Tue, 31 Jan 2017 18:17:53 +0900</pubDate>
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